特集:喫茶店 物語はここから始まった。 私たち取材班の四人は、一番奥の大き なテーブル席に座りました。奥の窓はツ タでぎっしり覆われて、緑色の綺麗な光 が射し込んでいます。私は〝苺のレアチー ズケーキ〟とブレンドコーヒーを注文し ました。ケーキは、苺本来の甘さがいい 感じに生地と調和していて、コーヒーに よく合います。私はとても幸せな気分に なりました。 字「珈琲屋」の「珈琲」の部分が完全に 半分をツタが覆っていて、大きな看板文 のような存在だと感じました。店の正面 な存在感を持っている、まるで秘密基地 した。一見目立たないようだが、不思議 「珈琲屋 吹野」は「こんなところにあ るのか……」という意外な場所にありま チもある、どっしりとしたカウンターと でも、店内の落ち着いた雰囲気を作り 出している一番のものは、厚さが八セン とても美しいものでした。 の は 和 紙 を 使 っ た 手 作 り の ラ ン プ で す。 洒落なものがたくさんあります。驚いた な形をした本棚や、レトロなレジなどお 珈琲屋 吹野 (米子市) 隠れています。でも、このツタがとても テーブルです。カウンターは長さが八~ コーヒーを飲みながら店内を眺めてい ると、様々な発見がありました。不思議 いい雰囲気を出しているのです。 くださいました。お話をしてくださって しい店主、吹野弥生さんがお出迎えして 落ち着きのある空間でした。笑顔の愛ら 独特の雰囲気を醸し出している、そんな ん で い ま す。 ほ っ と 一 息 つ け る よ う な、 ヒーカップやティーカップがずらっと並 かはあまり覚えていませんが、とにかく 猛反対されました。どのように説得した 茶店の修行をするために上京するときも 不安に思わない親はいないでしょう。喫 半 ば の 娘 が 店 を 持 つ と い う の で す か ら、 ました。商売の経験がない、まだ二十代 吹野さんが喫茶店を始めたのは二十六 歳の時です。最初は両親から大反対され 九メートルありますが、一枚の板ででき ています。 い る と き も ず っ と 笑 顔 の 吹 野 さ ん。「 い 「大丈夫だから」と説得したそうです。 だと笑顔で語ってくれました。 ことをやっていたら自然に笑顔になるの 「 珈 琲 屋 吹 野 」 は 一 九 八 一 年 八 月 に オープン! 届かない椅子 れるそうですが、自分の本当にやりたい ふきのやよい つも笑顔ですね」とお客さんによく言わ 店内の左側は全て棚になっていて、コー 店に入った瞬間、濃い珈琲の香りがふ わっと拡がってきました。奥行きのある 吉田衣里 14 て、近くの会社からパイプ椅子を借りる 子が開店時間になっても届いていなく ました。東京から送られてくるはずの椅 その日のハプニングもお話してください 人 な ど 多 く の 人 々 で 賑 わ っ た そ う で す。 日は興味本位で来たお客さん、親戚、知 人々に注目されていました。オープン初 ス 街 で、 オ ー プ ン す る 前 か ら 街 を 歩 く ようになります。そんな小さな憧れから る う ち に、「 喫 茶 店、 楽 し そ う 」 と 思 う なりました。何か始めたいなと考えてい やりたかった仕事なのかと考えるように て四年目ぐらいに、これは本当に自分が 証券会社に勤めていましたが、勤め始め なかったそうです。喫茶店を始める前は ヒーは好きではなかったし、むしろ飲め コーヒーが好きで始めたのかなと思い ま し た が、 そ う で は あ り ま せ ん。 コ ー と 背 中 を 押 し て も ら っ て 決 心 し ま し た。 タ ー に「 吹 野 さ ん な ら 絶 対 大 丈 夫 だ よ 」 安 を 感 じ て い た 吹 野 さ ん で す が、 マ ス と言います。店を始めることにとても不 えがあったからこそ今の吹野があるのだ うです。吹野さんは東京のマスターの教 行ですから、厳しく指導してもらったそ アルバイトではなく、店をやるための修 吹野さんは東京の「珈琲屋」という喫 茶 店 で 二 年 間、 一 生 懸 命 勉 強 し ま し た。 修行を積み重ね…… ことに。やっとの思いで運び終わったと 始まったものでした。 オープンしました。当時、周辺はオフィ き、椅子が届いたそうです(笑)。 マスターは「吹野さんが一生懸命だった から、一生懸命教えたんだよ」と言って くれたそうです。 カップ五客をプレゼントしてくれたそう に 行 き、 自 分 で 選 ん だ 高 価 な コ ー ヒ ー えました。マスターは自分の足で伊勢丹 は手に入らないコーヒーカップを」と答 と 言 わ れ る の で、「 そ れ な ら ば、 米 子 で 訳ないからと断りましたが、どうしても しかし、マスターは十五年前から闘病 生活が続いていました。吹野さんは申し ました。 な、何かお祝いがしたい」と言ってくれ 東 京 の マ ス タ ー に 伝 え る と、「 頑 張 っ た 吹野が三十周年を迎えることを年賀状で す。 深 い 絆 で 結 ば れ て い る 二 人。 昨 年、 良さも大事だが、普通のものをいかに美 塗り、再び焼きます。吹野さんは素材の トーストは一回焼いてからキャラメルを 吹野さんは ひ「と手間かける 」ことを 大 切 に し て い ま す。 例 え ば キ ャ ラ メ ル ことが美味しさの秘訣だそうです。 最後に生クリームを入れて完成。煮込む く冷やし、そのココアにミルクを混ぜて を作ってくださいました。砂糖とココア そう言いながら、私たちにアイスココア す。隠れ人気はアイスココアです」︱︱ キャラメルバナナトーストは評価高いで 「おすすめは全部です(笑)。中でもシ ナ モ ン ト ー ス ト、 キ ャ ラ メ ル ト ー ス ト、 ひと手間かける です。 語ってくれました。ジャムは季節によっ 開店の日、東京のマスターはわざわざ 米子まで応援にかけつけてくれたそうで そのコーヒーカップは大切に使ってい て、自分にとってのエールになっている て違った手作りのジャムを作るのだそう 味しく仕上げるかが勝負どころであると を三十分煮込み、出来上がった原液をよ と話してくださいました。 ■東京のマスターからプレ ゼントされたコーヒーカッ プを手にする吹野さん。 15 のんびり雲|第 6 号| 2012 してくださいました。遠く てくれると嬉しそうにお話 とが元気の秘訣だ」と言っ て く れ て、「 こ こ に 来 る こ 日どんな天気でも吹野に来 仲良くなったそうです。毎 この二人は吹野で出会って 松 江 出 身 で 琉 球 大 学 医 学 部 を 卒 業 し、 越冬隊で南極に行ったことのあるお医者 吹野さんはその時、涙が出たそうです。 が子どもの名前を聞くと「蕗乃です」と。 どもの手をひいて現れました。吹野さん な っ て 三、四 年 経 っ た あ る 日、 二 人 は 子 そ し て お 腹 も 大 き く な り、 見 か け な く ん は 結 婚 の 報 告 を 聞 く こ と に な り ま す。 くれていましたが、しばらくして吹野さ と堂々と答えてくださいました。 う に 思 い ま し た。 で も、「 ん ~ … あ り き 「この店を一言で表すとなんですか?」 という質問には少し困った顔をされたよ かった」と話してくださいました。 が三十歳になり、無事に育ってくれてよ よ う だ そ う で す。「 手 塩 に か け た 子 ど も 「珈琲屋 吹野」はまるで自分の子どもの ら、次のようなことが書かれていました。 「珈琲屋 吹野 物 取材から数日が経ち、 語」という吹野さんのブログを見ていた ふきの 多いそうで、常連さんもた さんも忘れられないお客さんです。初め 」 と い う 印 象 を 持 っ た と 言 い ま す。 て会った時、なぜだかわからないが、 「何 たりだけど、いろんな意味で〝愛〟かな」 くさんいるそうです。 者 が始まるのだと言います。コーヒーを作 を受けたそのときから吹野のセレモニー ヒーは注文を受けてから挽きます。注文 吹野では炭火焙煎のコーヒーを提供し ています。香りを逃がさないため、コー ントだと言います。 ます。それぞれ旬のものを使うのがポイ してトマトといった珍しいジャムもあり です。イチゴやモモ、ブルーベリー、そ しました。 がしっかり今に活きているのだなと感心 怠りません。私はそういった裏での努力 スで話題になりそうなことのチェックも うにするためだそうです。日々のニュー 客さんに聞かれたときに説明ができるよ アジア、アフリカの三つの地図です。お 地図が置いてありました。中南米、東南 ました。店にはコーヒーの産地がわかる と、音楽のこと、たくさんのことを覚え め、コーヒーや紅茶のこと、カップのこ いつも二人で来るお客さんが一人で来 たりすると「どうしたんだろう」と心配 そうです。 カヌーに乗って初めて川下りを体験した て話してくださいました。翌日、一緒に 「 は い、 行 き ま す 」 と 答 え て い た と 笑 っ らと言われ、魔法にかかったかのように 手だからと断ったそうですが、教えるか しないかという話になり、吹野さんは苦 に来たそうです。そして川下りを一緒に 江の川をカヌーで下っている途中で吹野 い愛を戴いているような気がします』 うことのできないたくさんの素晴らし 『 私 は こ こ 珈 琲 屋 吹 野 で、 お 金 で は 購 それは…こんな想い…でした。 かった事が心残りとなりました… じ る 想 い が 湧 き、 そ れ を お 伝 え し な お帰りになった後、ひとりしみじみ感 から来てくれるお客さんが 吹野さんは、お客さんと のコミュニケーションのた るところをお客さんに見てもらうことを 毎朝自転車で来る八十三歳と八十四歳の そのカップルは二人でよく吹野に通って はじめに、以前松江から来ていた一組 の カ ッ プ ル の 話 を し て く だ さ い ま し た。 が一番の喜びです。三十年間続けてきた た来ます」と言ってもらえたとき。これ (よしだ・えり/文化資源学系二年生) 大切にしているのだそうです。 になるそうです。しかし、この仕事をやっ ていなかったら出会うことのなかった人 に出会えるのが素晴らしいことなのだと んに「心に残るお客さんはいますか」と 本当の愛とは お湯は一気に入れ、膨らんだ豆が沈むと フッと た「め息 を 」 つくので、二度目の お湯をまた一気に注ぐのだと説明してく 尋 ね る と、「 た く さ ん い ま す よ 」 と い う 思います。 ださいました。 答え。 二 人 組 の お じ い ち ゃ ん が お ら れ ま す が、 「珈琲屋 吹野」には十代から八十代ま で、幅広い世代のお客さんが来られます。 喫茶店をやってきてよかったと思うと き は、 お 客 さ ん に「 美 味 し か っ た 」「 ま 吹野さんはお客さん一人一人をすごく よく覚えているそうです。そんな吹野さ 普通は一杯十三グラム程度の豆を使い ま す が、 吹 野 で は 二 十 グ ラ ム 使 い ま す。 「ふきのちゃん」との出会い !? ■手作りのランプが置いてあるボックス席。とて も落ち着きます。 16 特集:喫茶店 コクがあって、とてもおいしかったです。 レーを食べたのですが、辛さが控えめで (鳥取市) ながらも「馬の背」に登り、楽しい観光 よく煮込まれたルーが印象的でした。家 になりました。 永井みさ カレーの国、鳥取に愛された 喫茶ベニ屋 カレー大好きの私、永井が、鳥取市に あるカレーで有名な喫茶店「ベニ屋」に 行ってまいりました。ベニ屋は鳥取駅か ところにあります。創業六十年近い、長 た ど り 着 き ま し た。 ま ず は み ん な で カ たが、予定通り午後一時過ぎにベニ屋に 夏の鳥取砂丘に少々体力を奪われまし わるとお腹がいっぱいになりました。「デ せん。割とよく食べる私ですが、食べ終 て、ゴロゴロした大きな具は入っていま 庭で作るような一般的なカレーと違っ い歴史を持った喫茶店です。少し変わっ チョコレートのようなカレー? たカレーが有名になり、今までテレビや ん て 思 い つ つ も、「 今 度 は カ ツ カ レ ー を ら県庁に向かう大きな通りを少し行った 新聞に何度も取り上げられた経歴のある レーを試食! カレーライス、チキンカ レー、カツカレー、コロッケカレーの四 食べに来よう!」と考えていました。 普通のカレーじゃん」と思いました。と カレーが出てきた瞬間、私は正直「えっ、 にお客さんが。なかなかお店にお客さん をお願いしようか」と考えていたところ 午後二時くらいになり、「さぁ、取材 ザートはちょっと食べられないなー」な お店です。俳優やお笑い芸人の方が来ら 種類から思い思いの品を注文しました。 い う の も、 前 々 か ら 編 集 長 に「 ベ ニ 屋 時間帯を避けなければならないため、昼 のも、飲食店の取材はお店が混んでいる かり観光させていただきました。という 鳥取砂丘に到着! 「えっ、鳥取砂丘?」 と思いましたよね。すみません、ちゃっ かけたような黒っぽい不思議なカレーで しかし、見た目がご飯にチョコレートを メ ー ジ が 膨 ら み 過 ぎ て い た の で し ょ う。 言われていた私は、ベニ屋のカレーのイ ……、とにかく楽しみにしてなさい」と 今回取材に答えてくださったのは、店 主 の 平 田 瑩 壹 さ ん( )。 そ れ に、 奥 さ います。 いました。お忙しい中、ありがとうござ が気を遣って私たちの席まで来てくださ 順也さん( んの弘恵さん(年齢は内緒 と ) 長男の )にも少しお話を伺いまし 64 !! 27 !! ■「砂の美術館」 の砂像の前で。 17 のんびり雲|第 6 号| 2012 れたこともあるそうです。 七月七日、朝九時、短大を出発。二年 生編集部員七人、プラス編集長の計八名 食時が過ぎるまで鳥取砂丘ではしゃぐこ あることは間違いありません。 」と思っていたところに、店主 が 途 切 れ ま せ ん。「 こ れ は ま さ か の 取 材 失敗か とにしました。鳥取砂丘は初めて訪れる 肝心の味はと言うと、私はコロッケカ を 乗 せ た ジ ャ ン ボ タ ク シ ー は 十 一 時 半、 の カ レ ー は 面 白 い 変 わ っ て い る ぞ。 ご飯にチョコレートをかけたみたいで という者が多く、みんな砂まみれになり !! と こ ろ で、「 ベ ニ 屋 」 っ て な ん だ か 喫 茶 店 ら し く な い 名 前 だ と 思 い ま せ ん か。 しました。 部を独立させ、今の喫茶店ベニ屋が誕生 を任されます。そして一九五四年、喫茶 が店の隣にでき、お父さんはその喫茶部 品店のお客さんが休憩するための喫茶部 めたそうです。やがて一九四八年、化粧 粧品屋を営んでいたお兄さんに助けを求 が、職がなく行くところもないため、化 終戦で中国から日本に帰ってきました ベニ屋はもともと平田瑩壹さんのお父 さんが始められたお店です。お父さんは ます。 い、弘恵さんと順也さんが接客をしてい の瑩壹さんが主に仕込みなどの調理を行 た。現在は家族三人で営んでおり、店主 んは反物の外商のような仕事で生 さんは反物を扱っており、平田さ 拠点に関西で生活をします。おば が、その後もおばさんの家がある京都を ます。その会社は十三カ月で退職します し、大阪でサラリーマンとして働き始め ませんでした。一九六六年に高校を卒業 継ぐ予定ではあり 平田瑩壹さん は、最初はお店を されています。 いとこの方が経営 現在は平田さんの 品 店 の ベ ニ 屋 で、 す。それが、化粧 のお店がありま ニ屋」という名前 ろにもう一軒「ベ 喫茶店のベニ屋 を少し行ったとこ そうです。 のまま引き継いだ ですが、名前はそ 茶店が独立したの で働いていました。平田さんはお店を経 平田さんと奥さんの弘恵さんとの出会 いにもどうやらベニ屋が関係しているみ インを考えられたそうです。 の建て直しの時は平田さんがお店のデザ ことを活かし、三十年前の店舗入居ビル 二十一歳でした。デザイン学校で学んだ 継 ぐ た め 鳥 取 に 帰 っ て き ま し た。 ま だ なったようです。一九六八年にベニ屋を いように感じます。 カレーを看板メニューにした飲食店も多 も見つけました。また、ベニ屋のように 鳥取県の個性をふんだんに生かしたお店 レー屋を見かけ、中には梨カレーという 陰にはカレー屋が多いという意見で一致 陰以外の出身者が三人いるのですが、山 班 の 中 に は 岡 山( 私 )、 徳 島、 愛 媛 と 山 全国で上位と言われている鳥取市。取材 たいです。弘恵さんはかつて銀行の窓口 く、平田さんはせっせと弘恵さんのいる 少しずつ削ろうということになりまし がお店を継いでから売れないメニューを ハンやラーメンもありました。平田さん で洋食屋のようでした。さらに、チャー カツ、ステーキ……と、メニューはまる 喫茶店といっても、オムライス、ビーフ ベニ屋は最初からカレーにこだわって いたわけではありません。昔のベニ屋は しました。ベニ屋に行くまでにも数軒カ 実はベニ屋のベニは化粧品の「紅」(頰紅、 計を立てていたそうです。 営している関係で、銀行に行くことが多 「喫茶店らしくない名前でしょ」 口紅)を指しています。化粧品店から喫 困 り 」、 次 第 に 実 家 に 帰 る こ と を しかし、ご本人の言葉によると 「 遊 び の 度 が 過 ぎ、 食 べ る こ と に 考えるようになったそうです。も 窓口に通ったそうです。 鳥取市民はカレー好き 一世帯当たりのカレールーの購入量が ■カレーを食べる取材班。「うーん、これが噂に聞いたベ ニ屋のカレーか……」。 ■ご主人の平田瑩壹さん。 ちろん遊んでばかりいたわけでは なく、実際は喫茶店の専門学校や デザイン学校で学んだりしてい ます。関西時代は良い社会勉強に !? 18 全国一位という統 レールー購入量が このカレー倶楽 部は鳥取市のカ す。 さんだったそうで 好きなだけの花屋 く、ただカレーが 合うように作り替えていった結果が今の ました。そして、少しずつ鳥取人の口に の料理を作り、料理の感覚を磨いていき すが、ベニ屋を開くにあたってたくさん て料理が上手なわけではなかったそうで す。もともと平田さんのお父さんは決し このカレーの初代レシピは軍隊でコッ クをしていた人に教わったものだそうで を使っているそうです。 です。七月末か とって行くそう 旅行は毎年お 盆明けに連休を けています。 家族旅行に出か いお店を休んで 年、一週間ぐら が、子供が生ま れてからは毎 計調査結果を受 カレーだそうです。 らお盆にかけて は、鳥取を離れ に来店された方はもちろんのこと、二時 ですが、編集長のメモによると、昼食時 れるそうです。私は気がつかなかったの れる方はほとんどがカレーを食べていか ベニ屋にはカレー以外に、パン類の軽 い食事メニューもあるのですが、来店さ たそうです。さすが鳥取県。 た。そこで最後に残ったのがカレーだっ 期待したいと思います。 ようです。今後のカレー倶楽部の活躍に 上位をキープしよう、という目的がある る日を決めることでカレーの消費量全国 0 ( レ ー)な ん で す。 毎 月 カ レ ー を 食 べ なの?」と思いますよね。0はカレーの 鳥取県では毎月0のつく日はカレーの 日 に な っ て い ま す。「 な ん で 0 の つ く 日 たものです。 ド氷はココア味のかき氷。初めて味わう 全種類を注文することにしました。イン 取材班はインド氷、インドミルク、イ ンド金時、インドミルク金時のインド氷 のようです。 オシかき氷はインド氷だね、ということ カレー=インド、だからカレー屋のイチ ち な み に こ の イ ン ド 氷 の 名 前 の 由 来 は、 「インド氷」。何味だか想像できますか? のです。その変わったかき氷というのが さて、ベニ屋の特徴はカレーだけでは ありません。かき氷も一風変わっている 設からタクシーに乗ってカレーを食べに 常連さんの中には週に三回も来てくれ る方もおられるそうです。また、介護施 にくるお客さんで喫茶店が忙しくなると ね。それにしても、盛夏にカレーを食べ ての家族旅行は良い休息になりそうです 年で最も忙しい時期です。繁忙期を過ぎ 訪れるため、一 求めてベニ屋を に懐かしい味を た方が帰省の際 半に来店された方も、三時に来店された 見た目も一風変わっていて、鳥取を代 表するほどカレーで有名なベニ屋。隠し 来る人もいるとか。ベニ屋のカレーがよ インド氷 け、鳥取商工会議 所青年部の方が町 おこしのために五 方 も、 三 時 半 に 来 店 さ れ た 方 も、 み な ココア味のカキ氷に、取材班一同「おい 年ほど前につくっ さ ん カ レ ー を 食 べ て い か れ た そ う で す。 味とか、何か特別な工夫があるのでしょ そ ん な カ レ ー 大 好 き の 鳥 取 に は「 カ レー倶楽部」というものがあります。現 とっとりカレー倶楽部 ベースの出汁 クなチキン 製です。出汁 ■インド氷 昔からお客さんの絶えないベニ屋です ことができます。 さい。ベニ屋では一年中かき氷を食べる 非デザートにインド氷を食べてみてくだ 皆さん、ベニ屋でカレーを食べた際は是 かき氷はたくさん種類があるのです が、そのシロップにもこだわっています。 しい!」。 (ながい・みさ/文化資源学系二年生) るようです(笑)。 やはり鳥取市民は何時でもカレーを食べ お客さんが……。もちろん注文はカレー。 になりしました。が、ここでまたしても 四時を過ぎ、最後にベニ屋の皆さんと 取材班がお店の前で記念写真を撮ること ほど好きなんですね。 いうのは驚きです。 きっと鳥取市民にとってカレーはおやつ うか。ルーは ?? 同然の食べ物なのでしょう(笑)。 在 七 店 舗 が 加 盟 し て い る の で す が、 カ ではなく、ト もちろん自家 レー好きな人ならだれでも入ることがで ンコツスープ はオーソドッ きます。初代会長はカレー屋さんではな 19 のんびり雲|第 6 号| 2012 ■(上段) 「いらっしゃいませ」。奥さんの弘恵さん。 (下段)椅子を拭く息子の順也さん。 六十年目を迎える老舗喫茶店 上垣ほのか (益田市) ヨシタケ 特集:喫茶店 ビールがぶら下がっていて、それにアイ テーブルも置いてあり、かぼちゃが乗っ ス の メ ニ ュ ー が と め て あ っ た。 小 さ な 八月四日、私達「のんびり雲」編集部 員五人は取材のため益田市にある喫茶 け て あ る。 ま た、「 お い し い ご は ん と や ティ&キッチン ヨシタケ 店「ヨシタケ」に向かった。ヨシタケは さ し い ス ィ ー ツ だった。遠かった。 私 達 が 松 江 を 出 発 し た の は 午 前 十 時、 ヨシタケに着いたのは午後一時半ごろ 年に開業した。 んのお父さん、豊田寿忠さんが一九五三 なる。店主は大竹千寿子さん。千寿子さ たが、中には英字新聞が丸めて入れられ 瓶が掛っているのを発見。テーブルの上 たり、ドライフラワーが入った平たい花 お店の中に入ると、内装もまた変わっ ていて独特の雰囲気だった。壁は薄いピ い雰囲気のお店だと思った。 」と書かれ Shall We? た看板もあった。こぢんまりした、明る 益田で最も古くからある喫茶店のひとつ 最初にお店を見たときの印象は、まず 外装がカラフル。一階のレンガの壁から ており、お洒落を演出していた。 で、今年は創業六十年目を迎えることに 二階のコンクリートの壁にかけて、木や 「 不 思 議 だ な 」 と 思 っ た の は、 テ ー ブ には透明なグラスの箸立てが置いてあっ ンク色。干したトウガラシが掛けてあっ 鳥の絵が大きく描いてある。外灯にはモ ルに手のひら ければすぐメニューから取り下げるとい 店のメニューとして出している。売れな ヒ ー を 発 売 し た 人 物 で あ る。( 三 浦 義 武 う こ と だ。 時 々 お 客 さ ん か ら「 あ の メ に つ い て は、 本 誌 の「 缶 コ ー ヒ ー 誕 生 」 に入るくらい さんは大竹さんが六歳の頃に亡くなった に詳しいので、そちらもあわせて読んで の大きさの石 う に、 い ろ い ろ な 工 夫 が 施 さ れ て い る。 ので当時のことはあまり詳しくは分から ニューはもうないの」とさみしがられる ティーカップが電球のような形をしてい ないが、お父さんは美濃郡種村(現在の いただきたい)。 が置いてあっ あるわけでは たり、マドラーに魚や星がくっついてい 益 田 市 種 村 町 ) の 出 身 だ っ た。 地 主 で、 豊田寿忠さんはその三浦義武と旧制中 学で同級生だったらしい。そして、三浦 ことがあるという。でも復活させること なく、これも たり。さらに、カップにストロー用の穴 造り酒屋をしていたが、戦後、一九四七 義武に影響されて喫茶店を始めたのでは たことだ。大 お洒落の演 年から一九五〇年にかけて実施された農 ないか。そうでなかったら喫茶店を始め はないそうだ。 出。他のもの があって、そこにストローをさして飲む 地改革で土地を失い、益田に出てきたら 言っておられた。店名も開店した時から 竹さんが浜辺 も、大竹さん ようになっているものもあった。 しい。 今 と 同 じ で カ タ カ ナ の「 ヨ シ タ ケ 」 で、 ランチの後、大竹さんは私達にドリン クをサービスしてくださった。それがま がさまざまな 問題はなぜ喫茶店を始めるに至ったか だ。実は、豊田寿忠さんが益田にヨシタ 浜田の三浦義武の店と同じだ。また、大 で拾ってきた 場所で見つけ これらのおもしろ小道具も、大竹さん が さ ま ざ ま な 所 か ら 取 り 入 れ た も の だ。 ケ を 開 店 し た と き、「 ヨ シ タ ケ 」 と い う 竹さんのお母さんの豊田静恵さんは三浦 のだとか。特 て、気に入っ 初めて見る変わったものばかりだったの 名前の喫茶店がもうひとつ存在してい 義武にコーヒーを習ったという話だ。 た か わ い ら し か っ た。 写 真 に も あ る よ て、お店に少しずつ取り入れていったも で、とても楽しい食事だった。 た。三浦義武という人物が一九五一年に に何か用途が のだそうだ。 ヨシタケの歴史 浜田市紺屋町に開いた店だ。三浦義武と 豊田寿忠さんが亡くなった後は、静恵 だ。メニューにはオムライス、オムそば、 つけめんなどがあり、私はつけめんをい る な ん て 考 え ら れ な い、 と 大 竹 さ ん は 私達がお店に到着した時には、もうお 昼時をとっくに過ぎていたので、インタ 食事の後は、いよいよ大竹さんへのイ ンタビューである。 は、 一 九 六 五 年 に 世 界 で 初 め て 缶 コ ー ビューは後にして、まずはランチを頼ん ヨシタケは、大竹さんのお父さん豊田 寿忠さんが一九五三年に開業した。お父 た だ い た。「 き い ろ い ご は ん 」 と い う 聞 きなれない料理もあった。カレーには必 需品の香辛料、ターメリックが使われて お り、 そ れ で ラ イ ス( シ ー フ ー ド 入 り ) が黄色くなっているのだ。さらに、その 上に黄色いたまご焼きが乗っている。 これらの多くは大竹さんが工夫したオ リジナルメニューだ。料理好きの大竹さ んはいろいろと自作の料理をつくり、お ■(上段)紅茶。 (2 段目)グリー ンティ。 (3 段目)グリーンティ を飲む編集部員。(下段)ア イスコーヒー。 ■大竹さんのオリジナルメニュー 「きいろいごはん」。 21 のんびり雲|第 6 号| 2012 ■ ( 上段)アイスのメニューが吊して あるモビール。(下段)箸立ての横に は石が……。 ライブスポット だったヨシタケ ヨシタケにはライ ブスポットとして活 躍していた時期が あった。十年ほど前 になるが、音楽活動 をする常連客が店内 でライブを行ったの た事情もあるようだ。ヨシタケは五年く らい前からお弁当のデリバリーサービス も始めた。ランチとは別メニューになっ ているので、店内でのメニューとはまた 違った味が楽しめる。 現在、ヨシタケのスタッフは大竹さん の ほ か に 三 人。 午 前 中 は 忙 し い よ う だ。 大竹さんはお客さんの意見やリクエスト をたくさん取り入れて、地域の人々との そして四十二歳のとき、益田に戻ってき たが、その後は東京に出たため中断する。 三十歳ぐらいの時までお店を手伝ってい 継 い だ。 大 竹 さ ん は 大 学 生 の こ ろ か ら さんと大竹さんの兄姉が店の経営を引き 益田市の音楽の発展に貢献した。その名 う だ。 ヨ シ タ ケ は 喫 茶 店 で あ り な が ら、 コミで広がり、県外からも若者が来たそ ポットとして店を提供していたことは口 言 っ て お ら れ た。 ヨ シ タ ケ が ラ イ ブ ス 閉 じ た。「 も う 年 な の で 」 と 大 竹 さ ん は ライブスポットとしてのヨシタケの歴 史は、開店五十五周年記念ライブで幕を ライブは五~六年続いた。 十 一 時 ま で 音 楽 で 盛 り 上 が っ た と い う。 内に四十~五十の椅子を並べ、夜の十時、 奏会場として提供した。営業終了後、店 困っている市内のアマチュアバンドに演 約二回、店を開放し、発表の場がなくて 喫茶店でゆったりコー ど、 工 夫 を し て い た。 水を汲んできて使うな は大竹さんも山のわき ヒーを淹れるため、昔 た。よりおいしいコー さんも少なくなかっ そのため、初めてコーヒーを飲んだの がヨシタケというお客 だ。 その大半が喫茶店で消費されていた時代 のものだった。輸入されたコーヒー豆は 飲めるが、昔はコーヒーといえば喫茶店 なくても家で簡単においしいコーヒーが めたころだ。今でこそ喫茶店に足を運ば (うえがき・ほのか/英語文化系一年生) もらうとき」と答えてくださった。 メニューをお客さんにおいしいと言って た。大竹さんは笑顔で「自分の作った新 約一時間のインタビューの最後に、大 竹さんに喫茶店のやりがいを聞いてみ た。 交流を大切にしておられる印象を受け て店を継いだ。お兄さんもお姉さんも亡 残として今も店内には大きなスピーカー がきっかけで、月に くなったので、と話しておられた。 ヒーを飲みながらお 客さんが駐車違反で罰金を取られること んいわく、前のお店は駐車場がなく、お 移転した。移転の理由のひとつは大竹さ い え ば、 コ ー ヒ ー 豆 の 輸 入 が 再 開 さ れ、 お客さんが出入りしてきた。六十年前と 開店から六十年近くが経つこのお店に は、時代が移り変わる中で、いろいろな ヨシタケと時代の移り変わり ているのには、そうし ニュー開発に力を入れ インだ。大竹さんがメ べにくるお客さんがメ もいたそうだ。それが 今では昼にランチを食 があったからだとか。現在の店舗はもと 貴重品だったコーヒーが一般に広がり始 それを大竹さんが今の形に改装した。 も と 喫 茶 店 と し て 使 わ れ て い た も の で、 見合いデートする男女 とスポットライトが設置されている。 ■(上段)スポットライトとスピー カー。ライブスポットだった時の名残 りだ。(下段)ランチの配達に使うバ イク。 ヨシタケは初め益田駅の近くにあった が、二十二年前に今の益田市役所近くに ■インタビューに答える大竹さん。 ■最後に大竹さんと記念写真。みんなでパチリ。 22 特集:喫茶店 喫茶店めぐりは続くよどこまでも ソファに座り、美味しいコーヒーを飲み おしりがすっぽりはまって立てなくなる ながら、友人たちとたわいもない話をし 尾崎智子 いた。コーヒーにクリームをたらし、ぐ で、いつのまにかコーヒー好きになって と挽き立てのこうばしい香りのおかげ となかったが、自分で淹れたときの感動 頃、コーヒーなんて美味しいと思ったこ も淹れさせてもらえた。バイトを始めた くてどうしようもないときは、コーヒー うな、お洒落とは程遠い喫茶店だ。忙し 大学時代、喫茶店で接客のバイトをし ていた。おじさんがスポーツ紙を読むよ ( お ざ き・ さ と こ / お は な し レ ス ト ラ ン ラ イ ようかな。 今度、私も喫茶店で息子とデートしてみ クを飲んだ」と嬉しそうに教えてくれた。 茶 店 デ ビ ュ ー を し た 息 子。「 ア イ ス ミ ル 子どもが産まれてから、喫茶店には行 かなくなった。先日、おばあちゃんと喫 笑顔がないのは寂しかった。 復活をしたときに行ったが、マスターの 「 ウ ェ ザ ー リ ポ ー ト 」 は も う な い。 限 定 学生さんがほとんどで、勉強を教えても いました。常連のお兄さんは教育学部の るなどの簡単なお手伝いをして過ごして 漫画を読んだり、ペーパーナプキンを折 ではなく店に向かい、店で宿題をしたり、 私と姉は小学生の頃、学校が終わると家 た。 マ ス タ ー の 笑 顔 も 素 敵 だ っ た な あ。 るぐる螺旋を描くのを見るのもひそかな ブラリー司書) もう一つの「我が家」 おばさんにも接客のまねごとをし、喜ば てくれました。また、常連のおじさんや れたりからかわれたり。そんな会話も楽 飯島久美子 を描いてくれたりと、本当に優しく接し らったり、私が大好きだったバイクの絵 楽しみだった。今ではコーヒーを飲まな い日はない。 コーヒーにはまってしまった私は、「ハ ナ コ カ フ ェ( 関 西 版 )」 と い う 雑 誌 を 片 手に、神戸や京都の喫茶店めぐりをして いたときがある。今思うと、ミーハーで ザ ー リ ポ ー ト 」 の 居 心 地 は 最 高 だ っ た。 のだ。勇気をふりしぼって入った「ウェ ない。常連さんのなかに入る勇気がない 県外の喫茶店には、一人でも入れるが、 地元の古くからある喫茶店はあまり行か た足と疲れた心を癒してくれた。 やソファは、歩き過ぎてぱんぱんになっ 選んでいた。薄暗くて、年季の入った机 なんだか落ち着かなくて、古い喫茶店を た。 ど、実に個性豊かな方々が訪れていまし ぐ裏に住んでいたスナックのママさんな かにも、近くで働いている方や、店のす く。常連客は大学生のお兄さんたちのほ 場所は島根大学松江キャンパスのすぐ近 年 生 頃 ま で、 喫 茶 店 を 営 ん で い ま し た。 です。両親は、私が幼稚園頃から高校三 ぐに頭に浮かんだのは、私の両親のこと 「 の ん び り 雲 」 編 集 部 か ら「 喫 茶 店 の 想い出ってある?」と聞かれたとき、す 地域が好きになると思いますよ。 でも扉を開ければ、より一層住んでいる う に オ シ ャ レ で は な い か も し れ ま せ ん。 入りにくいかもしれません。カフェのよ を運んでみてください。常連さんがいて のみなさんも、古くからある喫茶店に足 食事をすることができますが、ぜひ学生 ビニやファミレスもたくさんあり、安く 私の「喫茶店の想い出」は、そこに集 う人たちとのふれあいでした。今はコン しい想い出です。 「 ウ ェ ザ ー リ ポ ー ト 」 は ジ ャ ズ 喫 茶 で、 ( い い じ ま・ く み こ / 出 雲 キ ャ ン パ ス 教 務 学 ちょっと恥ずかしい。近代的なカフェは ジャズを聴かない人が行くと怒られそう 生課) 両親は、朝のモーニングから夜の宴会 まで、ほとんど休みなく働いていました。 なお店だ。行った日は、貸し切りだった。 23 のんびり雲|第 6 号| 2012 私と喫茶店 れが実に有効で一週間もすると人が変 このチャイ屋方式をさかんに奨めた。こ 河原修一 クラシック喫茶の思い出 わった様に颯爽とダージリンなんかに旅 一階の座席は二人掛けで全て前を向 き、正面左右に一階席から二階席までに 渋谷の道玄坂にライオンというクラ シック喫茶があった。 匿名希望 トリートでチャイを啜り続けていました 立ったりする。でも私はさらにサダルス 今から二十数年前、私は神戸の喫茶店 でウエイトレスをしていました。 (いしだ・まさひろ/陶芸家) 及ぶスピーカがあった。珈琲一杯七十円 がね。 シ ョ ッ ピ ン グ モ ー ル の 隅 っ こ に あ り、 常連客しか来ないような隠れた店でし た。仲良くなったお客様と会話をしたり、 傍 ら に 積 み 上 げ た 浪 人 生 で 占 め ら れ た。 で、半日居られた。一階席は、参考書を カフェのうた 沢山の笑顔に触れることのできる職場で した。そのお客様の一人と出会い、結婚 二階席は相向いで、たまにカップルが来 い出の場所です。 私にとって喫茶店は、仕事をする喜び と大切な家庭の両方を与えてくれた、思 会い、楽しく働いています。 ヤギの皮袋に水を入れにくる。これを毎 んやおじいさんの水売り屋たちが次々に 例えば通りを挟んで反対側にある井戸 ポンプ(もちろん手動)に少年やおじさ のはなんとも楽しく乙なもの。 ティーを飲みながら通りの景色を眺める 日 本 語? で ペ チ ャ ク チ ャ。 甘 い ミ ル ク 決 め、 そ こ の 親 父 と 英 語、 ベ ン ガ ル 語、 ティーを出してくれる。行きつけの店を に 何 軒 も あ り、 ど こ で も 格 安 で ミ ル ク このストリート、これ以上ない程うす 汚れてはいるが美味しいチャイ屋が路上 る。 時々おいてきぼりの心が乗っかったまま 脚のすり減った椅子 さまざまな客のおもいを乗せて カフェは椅子 やり場に困った心を映すその窓 行き交う人々と見つからないひとりの人 ガラスをつたう雨のしずく カフェは窓 ふいに席を立ったその人の残り香 何本目かのセブンスターの煙 それは一杯の淹れたての珈琲 カフェは香り 本とノートを持って、一人でよくライ オンに通った。リクエスト曲がかかるの リクエストでレコードがかけられた。 ライオンでは、午後三時から一時間ほ ど或る作曲家の特集を組むほかは、客の ジョ』をリクエストして聴かせてくれた。 ニ の『 弦 楽 と オ ル ガ ン の た め の ア ダ ー た。バロック音楽が好きで、アルビノー リーヌを読み、孤独の影を引きずってい ス ト で 女 た ら し だ っ た が )、 新 潟 県 か ら 君は伊達眼鏡をかけたイケメンで(元ホ ライオンを紹介してくれたのは、アル バイト仲間で年上の佐藤君だった。佐藤 てひそやかに語り合った。 岩田英作 インドの喫茶店は路上に有り 日見続けていると、そのうちおたがい顔 カフェは時 常連客には、ほかに大学の同級生の山 下君やアルバイト仲間で年下の古瀬君が タ入り。安宿の集まるサダルストリート 石田公宏 も憶えてニコリと顎をしゃくり上げるイ しばらく忘れていたあの人を いた。山下君はモーツァルト、古瀬君は には世界中の貧乏旅行者が吸い寄せられ 最近インドの世界遺産タジマハールの 写真の写ったパックツアーの広告がやた ンド的挨拶をする様になる。もちろん当 ひとりしずかにおもう時 ベートーヴェンが好きだった。 をして、今島根で、子供達にかこまれて、 ら新聞に載ったりしている。老若男女を 方同様にインド式。 珈琲一杯に時を忘れる時 三人からクラシックの薀蓄を聴かされ た。私は紹介された曲をリクエストして 幸せに暮らしています。 問わず簡単にインドに行ける時代になっ さて、当時インドにせっかく来たもの の強烈なカルチャーショックで宿から一 本近代文学) ( い わ た・ え い さ く / 総 合 文 化 学 科 教 員 * 日 店は変わりましたが、今でも仕事はウ エイトレスをし、毎日お客様の笑顔に出 た訳だ。 歩も出る事もなくそのまま帰国という日 は、だいたい三、四曲目だった。 工 場 を 辞 め て 上 京 し て、 ニ ー チ ェ や セ アーなどほとんど無い時代、当然個人旅 本の若者も多かった。そんな日本人には おつ 行 が 主 流。 ま ず 格 安 の 一 年 オ ー プ ン チ 私が初めてインドへ行ったのはもう 三 十 年 以 上 前。 当 時 は イ ン ド パ ッ ク ツ ケットを手に入れ、とりあえずカルカッ 24 自分で確かめ、音楽の魂に触れた。 た、あのまあるいバニラアイスだった。 赤色をした缶詰のさくらんぼ一つを添え られ、ウェハース一枚とピンクがかった 三年ぶりの一日に、お留に来いとの状が て も 状 が 来 ぬ、 二 年 待 っ て も 状 が 来 ぬ、 りで、金を掘るやら死んだやら、一年待っ ていたのである。 だった。現実でも既に彼女は故人になっ 彼 女 は 病 魔 に 冒 さ れ、 亡 く な る 筋 書 き ついたち *日本語学) ( か わ は ら・ し ゅ う い ち / 総 合 文 化 学 科 教 員 出かけたついでに、せっかくだからと何 それからどれくらい日にちが経ったか 記憶はおぼろであるが、私は津和野町へ とを述べておいた。 みたいとしきりに思うこのごろなのであ かふらりとその店を訪ねて、昔を偲んで すっかり無沙汰をしてしまったが、いつ 来た…」と続く。私はとっさに思ったこ 人かの連れと一緒にその店に立ち寄っ る。 (まゆー・あき/総合文化学科教員*英語学) た。女将の河津さんとはもちろん初対面 ( さ か い・ た だ よ し / 総 合 文 化 学 科 非 常 勤 講 あれから半世紀。今も津和野町にこの 店はある。名前は「蕗の茶屋」と変わり、 である。彼女はそのような私たちを歓迎 師*「山陰の民話とわらべ歌」担当) 作りな店構えのこの店は、まるで津和野 半世紀あまり前「おとづれ」という喫 茶店がJR津和野駅前付近にあった。小 将は決して受け取ろうとはされな 何に支払いをしようとしても、女 それから私は何回その喫茶店を 訪れたことだろうか。しかし、如 てか、この店の経営者であった河津匂子 なっている)へ転勤し、津和野町 19 66 19 69 19 72 19 75 19 78 19 81 19 86 19 91 19 96 19 99 20 01 20 04 20 06 20 09 かった。彼女は知性溢れ、ある意 惑的なスイーツ類が数段に渡って並べら かった。彼女としては電話で歌の さ ん か ら、 あ る 夜 電 話 が か か っ て き た。 へ出かける機会もなくなった。 600 400 200 0 経営者は俵悦子さんとなっている。私は 時は昭和。私がまだ小学二年生のころ だったと思う。父に連れられ、当時、松 してくださった。おいしいコーヒーを出 魅惑のスイーツ模型 江温泉駅近くにあった喫茶店に何度か し て い た だ き、 代 金 は 取 ら れ な 津和野町の「おとづれ」のこと れ、目移りすることこの上なし。しかも、 町を象徴するかのような清楚な気品に溢 ちを表そうという心意気だったの の だ。 あ る 日 は「 私、 チ ョ コ レ ー ト パ 各 家 庭 に 電 話 な ど な か っ た 時 代 で あ る。 800 マユーあき 行ったことを思い出す。店の名は「南海」。 たのは、横長のガラスのショーケースに 味で町を代表する文化人だと知っ 蠟で作られたそれらのサンプルは、十分 れていた。 かと思うばかりである。 」、また別の日は「プリン・ア・ラ・ 私は電話のある家からの使いにせかされ 山陰の喫茶店 おかみ そこでいつも私を圧倒し、うっとりさせ 陳列された飲み物やスイーツの模型だっ すぎるほどのリアリティーを持って子ど 昭 和 三 十 七 年 の 秋 の こ と。 私 は 当 時、 隣 村 に あ る 柿 木 中 学 校 に 勤 務 し て い た。 たのである。 酒井董美 た。店の名前どおりのトロピカルな色を もの私の目に飛びこんできた。 た ま た ま 朝 日 新 聞 に「 石 見 の わ ら べ う モードにする!」と、先にテーブルにつ それからどのくらい経ったこと だろうか。彼女を主人公とした民 資料:事業所・企業統計調査,経済センサス。 鳥取県 1000 したパフェやフラッペ、フロートなど魅 そんな中から一つに絞り込むことはい つも至難の業で、胸をわくわくさせなが た」を毎週二回連載していたこともあっ いていた父に小走りで駆け寄り、自分の て、慌てて駆けつけ受話器を握った。用 放テレビドラマが池内淳子主演で 由来を教えてもらった感謝の気持 と悩みに悩んだも 決 め た 注 文 を は り き っ て 伝 え る。 し か 件は手まり歌の「千松口説き」に関する 全 国 ネ ッ ト を 通 し て 放 映 さ れ た。 ら、 ど れ に し よ う そのうち私は仁多郡の鳥上中学 校(現在は統合して横田中学校と し、しばらくしてウエイターが私に持っ ものだった。江戸時代からあるこの歌は 私はびっくりした。そして劇中で かずこ て来てくれるのは、なぜか決まって、ス 「…わしの弟の千松が七つ八つから金掘 フェ テンレス製の足つき小皿にちょこんと盛 !? 島根県 1200 ──店舗数の推移── (店) !! 町の電車通りの横丁に移った。当初は他 所から豆を仕入れていたが、後に四谷の 牛屋「三河屋」裏に自家焙煎所をつくり、 日本橋の白木屋デパートでコーヒー豆を 挽き売りするようになった。 当 時、 ブ ル ー マ ウ ン テ ン・ マ ン デ リ ン・ボゴタなどは高価で入手が難しかっ た。そこで、義武はブレンドを工夫して が浜田で誕生した。創った 世界初の本格的缶コーヒー 可否茶館の開業から 七十七年後の一九六五年に た。 否茶館は四年で幕をおろし りしすぎたこともあり、可 の広場だった。時代を先取 社交場であり、知識の共通 ヤードまであった。そこは 小 説 が あ り、 浴 場 や ビ リ ていた。文房室には硯・筆・ 国内外の新聞・雑誌も揃っ 究をするようになっ かけにコーヒーの研 文を読んだのをきっ ところが一九二四年にフオンハルムの 「コーヒーにヴイタミンあり」という論 もち、独自に研究を始めるようになった。 学に進んだが、学業よりもお茶に興味を 手として大活躍した。卒業後は早稲田大 球・ランニング・漕艇・柔道・相撲の選 一九〇一年にこの家に生まれた義武 は、やがて浜田中学校に進み、野球・庭 で財をなした豪農だった。 浦家は、周辺の山々から採取される砂鉄 跡を水田にしたことを起源に持つが、三 このことから、後に「ネルドリップコー つ か な い 独 創 的 な 淹 れ 方 を 編 み 出 し た。 抽出し、その後お湯で抽出する誰も考え 縫い合わせた袋にいれ、はじめに冷水で 研究の結果、彼は、独自にブレンドし たコーヒーを大きな綾織のネルを重ねて たことも度々だった。 歩き、終いには中毒のようになって倒れ の内の有名コーヒー店を片っ端から飲み 理想の味を創りだそうとした。銀座・丸 のは、那賀郡井野村(現浜 た。その後、東京郊 との出来る高台に三浦義武の生家跡が残 我が国最大規模を誇る棚田が広がる浜 田市三隅町井野諸谷。谷全体を眺めるこ 合に移り、さらに麹 一九三三年、三浦 は東京市淀橋区西落 ■室谷棚田。1970 年代には 4520 枚を数えたが、 現在は 1300 枚程度に減ってしまった。それでも 国内最大規模を誇る。 一 九 三 五 年 十 二 月、 三 浦 は 白 木 屋 デ ヒーを極めた男」と賞された。 田市三隅町井野)出身の三 外でお茶の販売を始 めたが、コーヒーへ の思いが増し、店は 家人に任せて、ひた すらコーヒー研究に ( 一 八 五 八 ︱ 一 八 九 四 ) だ っ た。 可 否 茶 る。当地の棚田は、かつての鉄穴流しの 没頭した。 館ではコーヒーを出すだけでなく、トラ 1 ネルドリップコーヒーを極 める コーヒーマニアだった。 浦義武という途方もない 神 英 雄 缶コーヒー誕生 はじめに 一八八八)年、我が国初 明治二十一か( ひー の喫茶店「可否茶館」が東京市下谷西黒 門 町 二 番 地( 現 在 の 台 東 区 上 野 一 ︱ 一 ) ていえいけい 特集:喫茶店 ン プ・ ク リ ケ ッ ト・ 碁・ 将 棋 が 置 か れ、 に開店した。経営者は長崎出身の鄭永慶 ■昭和 30 年代の三浦義武。 26 らくして甘味が広がり、まるで酒に酔う 撃が喉を通り、頭がクラクラする。しば スに入ったラールを煽るように飲むと衝 コーヒーが大評判となった。小さなグラ ヒ ー を 出 す こ と も あ っ た が、 こ の 濃 厚 ル」と名付けられた独自の濃厚なコー を客に提供した。時には、「カフェ・ラー イッチ食べ放題とし、吟味したコーヒー そのうえ、農地改革によって広大な土地 公 職 追 放 令 に よ り 井 野 村 長 職 を 辞 し た。 したが落選。さらに翌年三月には第二次 一九四六年四月の戦後初の総選挙で は、島根県選挙区に日本協同党から出馬 えた。 村長に就任した。その五カ月後終戦を迎 た。彼は、一九四五年三月十二日に井野 帰って来た義武親子を温かく迎えてくれ 一九四二年、義武は妻の村と子どもを 連れて帰郷した。村人は二十数年振りに 浩は司馬の人間と文学を深く理解し、司 上 司 が 福 田 定 一( 司 馬 遼 太 郎 ) だ っ た。 新聞社に入社した。配属された文化部の 一九六二年秋、長男浩が結婚した。彼 は京都大学を卒業後、一九五三年に産経 入れ、一週間に二回のペースで焙煎した。 導入した。生豆を神戸の上島珈琲から仕 退院後の一九五八年十二月に有限会社ヨ 的なコーヒーの配合を研究した。そして、 その間、病室にポットを持ちこみ、理想 間、松江の病院で入退院を繰り返したが、 そんな彼が胃潰瘍になった。同時に肺 結核にも罹った。一九五二年から約七年 と考えたが、周囲の人々は三年かけて万 研究に没頭した。 ようだったという。 の大部分を失ってしまった。さて、これ 馬も浩を信頼した。二人は終生厚い友情 全の準備をしてから発売するようにと説 2 ふるさとでの再起 「三浦義武のコーヒーを楽しむ会」は、 毎週土曜日に開催され、一九三七年春ま からどうしたものか、彼はしばらく思案 と信頼で結ばれた。浩と由美子夫人の結 得した。 パートの七階食堂において「三浦義武の で続いた。会は大盛況だったが、ある日 した。 婚式は諸谷の三浦家で行われ、司馬遼太 コーヒーを楽しむ会」を始めた。サンド 役 人 に 呼 び 出 さ れ、「 敵 国 の 飲 み 物 を 普 一九五〇年、コーヒー豆の輸入が再開 された。自分にはコーヒーしかない、そ 郎夫妻が仲人を務めた。これが縁となり、 シタケ珈琲商会を設立して大型焙煎機を 及させるのは国賊だ」と叱責されて中止 う考えた義武は奮起 させられた。 して、翌年に浜田市 一九六五年七月、缶コーヒー販売の準 備が整った。商品名は、「ミウラ」(三浦) コーヒー」とした。宣伝用ちらしには司 と「ミラクル(奇跡)」にかけて「ミラ・ 義武と司馬遼太郎の交流が生まれた。 コーヒー店を開店し た。しかし、かつて な い。 ど う す れ ば、 の品質は決して良く 入されるコーヒー豆 クがある。しかも輸 から七年ものブラン たとはいえ、やめて 方、東洋製罐の技術者に依頼して、特殊 かけていくつもの試作品をつくった。一 せて濁りが出ないものにしようと、半年 一 九 六 三 年、 浜 田 缶 詰 に 協 力 を 仰 ぎ、 店で淹れるのと同じような味や香りが出 りコーヒーにすることを思い立った。 義武は、多くの人に美味いコーヒーの 醍醐味を味わって貰いたいと願い、缶入 覚 の 化 学 的 把 握 の ふ か さ と い う 点 で、 その研究歴の長さ、味覚の精妙さ、味 にそそいだ。 かれ、歳月と精力をその研究ひとすじ その後、このふしぎな味覚の世界に憑 三 浦 義 武 氏 は、 す で に 昭 和 十 年 代 に 馬遼太郎による紹介文が載る。 戦前のような最高の 加工した腐食しにくい缶の開発を急い どの国にもこれほどの人物はあるま 3 缶コーヒー誕生 コーヒーを淹れるこ だ。こうして、苦心の末についに商品見 い。 東京で一世を風靡し とが出来るか、彼は 本が完成した。三浦はすぐに販売したい コーヒー通として巨名を得ている。 ひたすらブレンドの 27 のんびり雲|第 6 号| 2012 ■ヨシタケコーヒーの店内。中央が三浦義武。右は長男の浩。 紺屋町にヨシタケ ■ヨシタケコーヒーの外観。店は浜田市紺屋町の山陰合同銀 行浜田支店の裏にあった。 ■ミラ・コーヒーのポスター(1966 年のもの)。 誇っていいであろう。 く、 コ ー ヒ ー に お い て か れ を 世 界 に 陶芸において柿右衛門を誇るがごと わ れ わ れ は、 絵 画 に お い て 富 岡 鉄 斎、 トル離れた浜田市栄町にあった作業場で 製造は十八才の女性従業員が担当し た。夏の間は週の三日間、店から数百メー どで本格的に販売された。 大型のネルを使ってコーヒーを淹れ、そ メニア」という記事が掲載され、新たに さらに、七月二十五日の『日本経済新 聞』には、小島政二郎による「コーヒー れないことだが、店で提供しているのと いだ。現在の缶コーヒー製造では考えら 工場に運んだ。そして、一つ一つ缶に注 れを牛乳樽に詰めて軽トラで浜田缶詰の 発売される缶コーヒーが紹介された。 は本物の香と、甘味と、酸味と、苦味 イ ン ス タ ン ト( 筆 者 註 = 缶 コ ー ヒ ー) どのインスタントに比べても、三浦の ヒーは敵ではない。しかし、世界中の コーヒーと比べれば、カン入りのコー いる。彼が私の目の前で入れてくれる 浦コーヒーを最近売り出すと言って 点 見 事 で あ る。( 中 略 ) カ ン 入 り の 三 も、事実濁らない。沈殿しない。その ヒーは、一ト月立っても、半年立って 三浦君の送って来たカン入りのコー を巡って訴訟も起きた。 れ、トラブルが発生した。また、販売権 ようになった。それが二重価格と批判さ 売価格より安く卸して資金の調達をする 金払いしてくれる一部業者に、本来の卸 りが苦しくなっていった。やむなく、現 現金が要った。そのため、次第に資金繰 ないこともあった。一方、仕入れ時には しかし、掛け売りのため、代金の入金 は数カ月後になった。時には代金を貰え 到して製造が追いつかない状態だった。 味くない筈はない。そのため、注文が殺 全く同じコーヒーを詰めていたのだ。美 と、そうして美とを持っている。 こ の よ う に、 小 島 は 三 浦 の つ く る 缶 コーヒーを絶賛し、新製品の魅力を読者 を中止した。こうしてミラ・コーヒーは はいかないと決断し、缶コーヒーの製造 一九六八年頃、いよいよ資金が不足し た。これ以上出資者に迷惑をかける訳に に強くアピールした。 た。 オリジナル」を発売し、翌年の大阪万博 ミラ・コーヒーが販売を中止した翌年 四月、義武が長年取り引きしていた上島 販売開始から三年で市場から姿を消し 一 九 六 五 年 九 月 十 四 日、「 ミ ラ・ コ ー ヒー」が日本橋三越デパートで販売され 八十円。砂糖が入った缶コーヒーだった。 で 爆 発 的 に 売 れ た。 義 武 は ど ん な 気 持 た。 二 〇 〇 グ ラ ム 入 り 缶 の 販 売 価 格 は 売 れ 行 き は 上 々 で、 評 判 も 良 か っ た。 これを受けて、翌年三月からは、関西を 珈琲がミルク入り缶コーヒー「コーヒー 中心に百貨店や国鉄の鉄道弘済会売店な 28 コ ー ヒ ー」 と 紹 介 さ れ る こ と が あ る が、 「 コ ー ヒ ー オ リ ジ ナ ル 」 は「 世 界 初 の 缶 ち で こ れ を 見 て い た の だ ろ う か。 な お、 た。そこで、改めて一九五八年十二月の のでそのように書いたと教えてくださっ では外山食品のものが一番最初になった がつくったハムと玉子のサンドイッチを 招待されたのは常連客。彼らは、従業員 義 武 の コ ー ヒ ー を 楽 し む 会 」 を 開 い た。 食品がダイヤモンド缶入りコーヒーを発 インターネットで「缶コーヒー」をと検 やま 索 す る と、「 昭 和 三 十 三 年 十 二 月、 外 山 ではない。 ヒードリンクス」があり、決して世界初 菓 が 一 九 五 九 年 八 月 に 発 売 し た「 コ ー しかも、同じジャンルの商品には明治製 ひたすら美味いコーヒーづくりを探求 した義武。彼の最大の理解者であり、彼 本格的缶コーヒーと結論する。 そが資料によって裏付けられる世界初の なかった。それゆえ、ミラ・コーヒーこ に販売された形跡を見つけることは出来 十五日から発売予定」とあったが、実際 界初のストレートコーヒーを翌年一月 そ の 記 事 は 二 十 日 の 紙 面 に あ っ た。「 業 満ちた八十年の生涯を閉じた。 退院して東京の浩の元へ移ったが、僅か 一九七八年に閉店した。翌年十月、一時 そ の 後、 肺 気 腫 の た め に 長 期 入 院 す る こ と に な り、 ヨ シ タ ケ コ ー ヒ ー は ない。 デパートでの光景が浮かんでいたに違い だ。義武の脳裏には、四十年前の白木屋 頰張りながら義武のコーヒーを楽しん 売した」とする記述を見つけることが出 こ の 商 品 は コ ー ヒ ー 入 り 乳 飲 料 で あ る。 『 日 本 食 糧 新 聞 』 の 紙 面 を 調 べ て み た。 来る。これは、串間努氏が『ザ・飲みモ を 支 え 続 け た の は 妻 だ っ た。 そ の 妻 が 四カ月後の一九八〇年二月八日、波乱に ノ大百科』に記したものが元となってい 一九七二年五月三十一日に逝去した。 ます。そしてその情熱の底を流れるも 私の一切の活動はコーヒーに発してゐ □珈琲文化研究会『日本最初の珈琲店― 村出版、一九七六年)。 □服部之総『服部之総全集』二四巻(福 新社、一九五四年)。 参考文献 る。串間氏に尋ねると、『日本食糧新聞』 のは、愛であります。ことに智識は止 ■世界初の缶コーヒー「ミラ・コーヒー」(複製品)。 日本テレビ「午後は○○おもいっきりテレビ」提供。 □ 小 島 政 二 郎『 食 い し ん 坊 』( 文 藝 春 秋 の「新製品紹介」に書かれているものを 義武は、独り暮らしを続けながらコー ヒーを淹れ続けた。一九七六年から翌年 むときあれど、愛は然らずです。 最後に義武の言葉を紹介したい。 片っ端からデータベースに入れ、それを 頃のことと思われるが、彼は店で「三浦 私 は 限 り な く、 コ ー ヒ ー を 愛 し ま す。 「 可 否 茶 館 」 と 鄭 永 慶 ―』( い な ほ 書 房、 そしてこの「愛するもの」について宣 □ 三 浦 浩『 司 馬 遼 太 郎 と そ の ヒ ー ロ ー』 一九八三年)。 の べ伝へずして止むことが出来ません。 墓は室谷棚田を望む生家跡裏の竹林に あり、彼は親・兄弟・妻とともに眠って □森光宗男「ネル・ドリップ珈琲を極め 百科』(扶桑社、一九九八年) □串間努・久須美雅士『ザ・飲みモノ大 (大村書店、一九九八年)。 いる。東京の都営八王子霊園には、浩夫 妻がつくった墓がある。そこには、ガラ た男 三浦義武」(『モンタン』二〇〇二 年 十 月 号 )。 同 ネ 「 ル・ ド リ ッ プ 珈 琲 の スの壺に入れたコーヒー豆が納められ 魁 三浦義武を追って (」『コーヒー文化 研究』第九号、二〇〇二年)。 た。こよなくコーヒーを愛し、コーヒー に人生を捧げた途方もないコーヒーマニ 』(新 1968.8 □司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと (3)エッセイ 1964.10 ~ 潮文庫、二〇〇四年)。 ア、それが三浦義武だった。 ( じ ん・ ひ で お / 浜 田 市 世 界 こ ど も 美 術 館 学 芸課長) 29 のんびり雲|第 6 号| 2012 ■ヨシタケコーヒーで使用したコーヒーカッ プ。閉店時に顧客にプレゼントしたものの一 つという。カップは愛知県のノリタケ社製。 年代別に並べ替えたところ、缶コーヒー ■ミラ・コーヒーの試作品を詰めたダンボール箱。日 本製缶協会によれば、1965 年 5 月 25 日に東罐興業川 崎工場が製造したダンボール箱に 5 月 31 日に浜田缶 詰が製品を詰めたものではないかとのことである。
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