蘇:中 国人の 日本観 一 郭 沫若 郭沫若 中国人 の 日本観 徳 蘇 1 昌* 中 国人的 日本 現 一郭沫若 亦徳 昌 旨 要 郭 沫 若 は 果 た して 百 獣 の 王 で あ る獅 子 な の か 、 そ れ と も寺 院 の 塔 の 上 の 風 見 鶏 なの か 。 殿 誉 褒 既 、賛 否 両論 、 未 だ に決 着 が 付 か ない 。 と りわ け彼 の 中 国 プ ロ文 革 中 の 豹 変 ぶ り、 始 め は四 人 組 万 歳 、最 後 は 四 人 組打 倒 は 、 国 民 は 言 う に及 ばず 、 知 識 人 で さ え こ の よ うな振 る 舞 い は し ない の に と い う のが 万 人 の 認 め る と ころ で あ る。 彼 の 人 々 に与 え た印 象 は最 悪 で あ る 。 本稿 で は中 国 の 近 代 化 に貢 献 した の か 、 そ れ と も妨 害 した の か を基 準 に彼 の 功 罪 を分 析 した。 五 四運 動 時期 ・北 伐 ・日 中戦 争 か ら 中華 人 民 共 和 国 の 成 立 ・農 地 改 革 まで は、 彼 は基 本 的 に手 柄 を建 て た と言 え る け れ ど も、 そ れ 以 降 、 亡 くな る ま で は完 全 に ナ ンセ ンス 或 い は逆 効 果 で あ った 。 全 体 か ら言 う と、魯 迅 の 言 う通 り、 彼 は才 子 プ ラ ス ご ろ つ きで あ っ た 。 然 し、 彼 の 中 国 の 文 化 界 ・学 界 に与 え た影 響 は看 過 で きな い し、 特 に、 中 国共 産 党 の知 識 人 政 策 ・対 日政 策 の 制 定 及 び 実 施 に、 彼 の 果 た した策 士 ・代 弁 者 的 な 役 割 は小 さ くな い。 彼 は2回 日本 に渡 って い るが 、1回 は留 学 、1回 は 亡 命 で 、 合 わせ て20年 も滞 在 した 。彼 の 人 間 形 成 は 日本 で 完 成 した 。彼 は 日本 の有 利 な条 件 を フ ル に利 用 し、又 ア ンナ夫 人 の献 身 的 な 努 力 と支 持 もあ っ て、 創 造 社 前 後 の ロマ ンチ シズ ム の 詩 作 、 革 命 と戦 争 の 一側 面 を描 い た 自叙 伝 、 歴 史 ・考 古 学 ・文 字 学 の研 究 等 の 仕 事 が 出 来 た 訳 で ある 。 郭 沫 若 は 、 日本 は 中 国 よ り経 済 的 な土 台 か ら政 治 ・文 化 ・社 会 の 上 部 構造 に至 る まで 、 全 面 的 に 中 国 の 文 化 を導 入 し、 原 始 社 会 か ら奴 隷 制 社 会 を飛 び越 え て 直接 封 建 制 社 会 に突 入 した。 又 ヨ ー ロ ッパ 文 明 に倣 って 、 所 謂 東 洋 の 奇 跡 た る もの を実 現 し、 資 本 主 義 社 会 に 進 み 、 列 強 の 仲 間 入 りをす る こ とが 出 来 た 。 そ の 原 因 は と言 う と、 日本 の 植 民 地 的 な価 値 は 中 国 よ りは る か に低 く、 中国 は帝 国 主 義 各 列 強 の 目 を逸 らす とい う言 わ ば 盾 の 役 割 を果 た した。 そ して 、 中 国 は 又 日本 に と って 、 最 高 の 原 料 供 給 地 と最 大 の 市 場 で あ った 。 と ころ が 、 日本 は恩 知 らず で、 恩 を仇 で 以 て 返 した 。 何 十 年 この 方 中 国 を侵 犯 し、最 後 は全 面 的 な侵 略 戦 争 まで 起 こ した 。 とい う のが 、 彼 の 日本 観 で あ る 。 戦 争 とい う時代 背 景 並 び に彼 と 日本 人 の 付 き合 い は そ れ ほ ど広 く も深 くも ない とい う こ とが あ っ て 、 彼 の 日本 人 に対 す る 見 方 は、 全 体 か ら言 う と、 消 極 的 、批 判 的 で 、 冷 た く、 時 に は偏 見 も あ っ た。 1.獅 子 か風 見 鶏 か 1.豹 変 ぶ り 中 国語 に 「蓋 棺 論 定 」(人 は死 後 に な っ て は じめ て評 価 で きる) とい う言 葉 が あ るが 、 郭 沫 若 平 成12年7月11日 受 理*教 養部 2 奈 良 大 学 紀 要 第29号 の場 合 は 生 前 は勿 論 の こ と、 亡 くな っ て か ら も評価 は 決 ま らず 、 未 だ に肯 定 的 と否 定 的 、 正 と負 の二 つ に分 か れ て い る 。 た だ 郭 沫 若 の 環 境 変 化 へ の 対 応 の迅 速 或 い は変 身 の 速 さ、 豹 変 ぶ りに彼 の右 に出 る者 は い ない とい う こ とに は誰 もが異 論 の ない と こ ろで あ る。 馬 彬1)は 郭 沫 若 の 一 生 を3段 階 に分 け 、 第1段 階 は少 年 時代 か ら創 造 社 時代 まで と し、 正 統 的 な観 念 を具 え持 ち なが ら も、 才 子 ・無 頼 漢 で あ っ た とい うの に対 し、 第2段 階 は 北 伐 か ら 日中 戦 争 終 了 ま で で 、 政 治 的 な欲 望 に支 配 さ れ、 そ れ と 日和 見 主義 の 総 合 体 で あ っ た し、第3段 階は国 共 内戦 で の共 産 党 軍 の 勝 利 か ら逝 去 直 前 まで で 、 そ れ は弄 臣 と重 臣 の 間 を彷 径 い 歩 く存 在 で あ っ た と評 して い る 。 金 達 凱 もそ の著2)の 冒頭 で 、 「 近 代 中 国 知 識 人 の 中で 、 郭 沫 若 は頗 る特 別 な 人 物 で あ る。 彼 は文 学 上 そ う大 した 業 績 も ない の に、 『文 学 者 』 の 名 声 を享 有 して 、 文 壇 左 翼 の偶 像 に な っ て い る し、 科 学 の 上 で も、 これ とい う専 門 もな い の に、 中 共 の 『科 学 院』 に30年 もの 長期 に亘 っ て君 臨 した 。彼 の 歴 史研 究 とい う も の は 、歴 史 の真 実 を研 究 す る ので は な く、如 イ 可に して 現 実 の 政 治 に役 立 たせ られ る か とい う と こ ろ に あ っ た 。彼 は封 建 制 反 対 、 自 由熱 愛 を標 榜 しな が ら も、 そ の 作 品 の多 くは 自由 を掩 殺 す る 専 制 政治 へ の謳 歌 で あ っ た し、新 封 建 主 義 に対 す る讃 美 歌 で あ っ た 。彼 は早 くか ら共 産 党 員 で あ り、 そ れ も 『特 別 党 員 』 で あ っ た に もか か わ らず 、 長 い 間無 党 派 無 所 属 『民 主 人 士 』 の仮 面 を被 り、 世 論 や 人 々 を騙 し続 けて き た。 彼 は一 生 権 勢 に迎 合 し、 反復 常 な き背 信 行 為 を繰 り返 し、 悪 人 を 助 け 、悪 事 を働 い た」 、 と批 判 し、 郭 沫若 を典 型 的 な風 見 鶏 及 び 起 き上 が り小 法 師 と決 め付 け て い る 。 郭 沫 若 の次 男 郭博 は 「父 はい く ど も、 間一 髪 とい う と ころ を、 う ま く切 りぬ け る名 人 で した」3) と話 した こ とが あ る そ うで あ るが 、1928年2月23日 夕 刻 友 人 の鄭 伯 奇 が 郭 沫 若 の と こ ろ に来 て 、 中 共党 員 李 一 眠 か らの 情 報 を知 らせ て くれ た 。 そ れ は 上 海 竜 華 衛 戊 司 令 部 が既 に彼 の 住 所 を探 り あ て 、深 夜 に=逮捕 に来 る とい う情 報 で あ っ た 。 郭 沫 若 は 急 い で 内 山完 造 に頼 み 、 日本 人 の 経 営 す る八 代 旅 館 に 隠 して も らっ た 。そ して 、翌 日又 内 山 完 造 只 一 人 に見 送 られ て 日本 の郵 船 「戸 山丸 」 に て 日本 に脱 出 した 。 そ の10日 前 の13日 に 、周 恩 来等 が彼 の 住 所 を訪 れ 、党 組 織 は彼 が 先 ず 日本 に行 き、 そ れ か ら何 とか して ソ連 に行 くよ う決 定 した と伝 えて い る4)と こ ろ か ら見 て も、 この 情 報 は 党 の 地 下 組 織 が 手 に入 れ た もの か も知 れ な い が 、彼 が 頭 の 回転 が 速 い 、行 動 が敏 捷 で あ る こ と には違 い な い 。1937年7月25日 、銭 痩 鉄 、 金 祖 同 の協 力 で 、 千 葉 県 市 川市 の住 所 か ら一 人 で 抜 け 出 し、 横 浜 経 由 で神 戸 に行 き、 カ ナ ダ の 郵 船 「日本 皇 后 丸 」 に乗 り、 帰 国 した が 、 そ の た め に 、8月 、 ア ンナ と長 男 郭和 夫 は一 ヵ 月以 上 拘 束 され 、 酷 い 目 に あ っ た 。5)よ く も厳 しい 憲 兵 や 刑 事 の監 視 の 目か ら逃 れ られ た もの で あ る。 中華 人 民 共和 国 成 立 後 、 共 産 党 は知 識 人 を ブ ル ジ ョア 階 級 に属 す る者 と見 、 階級 闘 争 の対 象 に し、所 謂 思 想 改 造 ・労働 改 造 を強 要 した。1950年 の思 想 改 造 運 動 ・胡 適 思 想 批 判 、1951年 の 映 画 「武 訓 伝 」 批 判 、1954年 のC<平 伯 「紅 楼 夢 研 究 」 批 判 ・胡 適 思 想 再 批 判 と連 年 の よ う に政 治 運 動 を展 開 し、知 識 人 を苦 しめ た 。1954年 の胡 風 反 革 命 集 団 反対 闘 争 に至 っ て は 、胡 風 は 監獄 に入 れ られ 、多 くの著 名 な作 家 が 弾 圧 され た 。そ して 、次 が1957年 の彼 の 悪 名 高 い 右 派 反 対 闘 争 で あ る。 蘇:中 国人の 日本観 一 郭沫若 3 ほ と ん どの 知 識 人 が 槍 玉 に挙 げ られ 、 塗 炭 の 苦 しみ を嘗 め尽 く した 。 と こ ろが 、 郭 沫 若 だ け は何 事 も ない ど こ ろか 、 共 産 党 のお 先 棒 を担 ぎ、 知識 人 をや っつ け る の に手 を貸 した 。1957年9月17 日、 彼 は 中 国作 家 協 会 党 組 織 拡 大 会 議 で 、 「努 力 して 自分 自身 を プ ロ レ タ リ ア 階級 の 文 化 的労 働 者 に改 造 しよ う」 とい う題 で 発 言 し、 次 の よ うに ま で言 い切 っ て い る 。6) 「個 人 の 努 力 とい う もの は怠 り易 くな る もの で あ り、 最 も必 要 とす る もの は党 の 指 導 ・党 の監 督 ・党 の 教 育 で あ る。 … … わ れ わ れ は党 が 文 化 ・芸 術 界 、 知 識 人全 体 に対 し、 指 導 を強 化 し、監 督 を厳 し く し、 党 員 作 家 も非 党 員 作 家 も姑 息 しな い よ う切 に お願 い す る次 第 で あ る。」 更 に始 末 が 悪 い の は こ れ ら全 てが み な無 党 派 無 所 属 「民 主 人 士 」 の 身分 で 行 な わ れ た こ とで あ る。 共 産 党 で も ない の に、 共 産 党 よ り も左 寄 りの こ とを言 う とい うの で 、 欺 購 度 が 高 くな り、共 産 党 は なお 一 層 彼 を利 用 す る訳 で あ る。 事 実 、 郭 沫 若 は 早 く も1927年8月 紹 介 で 入 党 して い るの に、1946年1月 の 政 治協 商 会 議iも、1949年9月 に、 周 恩 来 ・李 一 眠 の の 中国 人 民 政 治 協 商 会 議iも み な 無 党 派 無 所 属 「民 主 人 士 」 の 身分 で参 加 し、 同 年10月 、 中央 人民 政府 委 員 ・政 務 院 副 総 理 ・ 文 化教 育 委 員 会 委 員 長 ・科 学 院 院長 に就 任 した の もそ の 身分 で あ る 。 世論 や 国 民 に共 産 党 一 党 独 裁 で は な く、 民 主 的 な連 合 政 権 の イ メ ー ジ を与 え よ う と して 、長 年 に 亘 り身 分 を隠 した の は 明 ら か で あ り、 これ は共 産 党 が よ く使 う常 套 手 段 で あ る。1958年 に な り、 共 産 党 はそ の 政 権 の基 盤 が 絶対 強 固 不 動 な もの に な り、 も う隠す 必 要 が な くな っ た と判 断 し、12月 に機 関 紙 「人 民 日報 」 で 郭 沫 若 の 入 党 を報 じた の で あ る 。 1966年 か ら11年 続 い た プ ロ レタ リア文 化 大 革命 は彼 に とっ て も一 番 の試 金 石 に な っ た。1966年 4月14日 、彼 は全 国 人 民 代 表 大 会 常 務 委 員 会 第30回 総 会 の席 上 、 「労 農 兵 に 学 び 、 労 農 兵 に奉 仕 す る」 と題 して 自己批 判 を し、 次 の よ う な発 言 を した。7) 「普 通 の 人 の 目か ら見 た ら、私 は作 家 で あ り、詩 人 で もあ る。 そ して又 何 か歴 史学 者 で もあ り、 何 十 年 この 方 ず っ とペ ン を手 に持 ち、 書 き続 け て きた 。 字 数 で言 え ば 、恐 ら く何 百 万 字 に も上 る で あ ろ う。 しか し、 今 日の 基 準 か ら言 え ば 、私 が これ まで 書 い て きた もの は 、 正確 に言 っ て、 み な 意 味 や値 打 ち の な い もの ば か りで 、全 部 焼 き捨 て るべ きで あ る。そ の主 な原 因 は何 か とい う と、 毛 沢 東 思 想 を き ちん と学 び、 そ れで 以 て 自分 自身 の 力 と しな か っ た か らで あ る。 私 の 階 級 観 は時 には は っ き りしな か っ た 。… … 私 は労 農 兵 に学 ぶ決 意 で あ る。私 は 田舎 に行 っ て泥 まみ れ にな り、 工 場 に 入 っ て 油 まみ れ に な りた い!」 1967年6月5日 、 彼 は ア ジ ア ・ア フ リカ作 家 常 設 局 主 催 の シ ン ポ ジ ウ ム の 閉 会 式 で 、 「一 生 毛 主席 の 良 い 学 生 に な ろ う」 とい う題 で挨 拶 し、 四 人 組 の ボス 江 青 に対 して 、次 の よ う にお べ っ か を使 っ て い る 。8) 「 親 愛 な る 同志 江 青 、 あなたはわれわれの学ぶ良いお手本、 あ な た は 向 か う と ころ敵 な しの 毛 沢 東 思 想 の 活 用 に長 じて い る 。 あ な た は 文 芸 戦線 で 勇猛 突 進 し、 中 国 の舞 台 を労 農 兵 の 英 雄像 で 飾 った 。 わ れ わ れ は奮 闘努 力 して 世 界 の 舞 台 を も英 雄 像 で 飾 ろ う!」 彼 は左 傾 病 を患 い 、 左 へ 左 へ と突 っ走 る 毛 沢 東 だ け で な く、 四 人 組 に も追 随 した 甲斐 あ っ て 、 奈 4 1969年4月 良 大 学 紀 要 第29号 に は 中 国共 産 党 第9回 全 国 代 表 大 会 に 出席 す る こ とが 出 来 、 そ れ まで に な れ な か っ た 共 産 党 の 中 央 委 員 会 委 員 に選 ばれ た。1973年8月 に、 中 国共 産 党 第10回 全 国 代 表 大 会 に続 け て 出 席 し、 再 度 中 央 委 員 会 委 員 に選 ばれ た。 因 み に 、劉 少 奇 ・郡 小 平 は じめ 多 くの共 産 党 ・政 府 ・軍 の トッ プ ク ラス の 高 官 ・将 軍 ・上 級 幹 部 さ え粛 清 され 、 失 脚 した 時 に で あ る。1976年10月 、 四人 組 が 打 倒 粉 砕 され るや 否 や 、 彼 は豹 変 して、 「人 心 晴 れ 晴 れ 、 四 人 組 打 倒 。 … … 華 主 席 支 持 、 党 中央 支 持 。」 と歌 い 上 げ た。9)そ れ で 、 彼 は1977年8月 に又 中 国 共 産 党 第11回 全 国代 表 大 会 に出 席 す る こ とが 出 来 、 中 央 委 員 会 委 員 に選 ば れ た の で あ る 。 も し も彼 が1978年6月 に この 世 を去 らな け れ ば、 今 度 は 華 国 鋒 を批 判 し、 郡 小 平 に付 くの は想 像 に難 くな い 。 彼 の 遺 言 に よ り、 骨 灰 は 山西 省 昔 陽県 大 塞 に埋 葬 され た。 大 塞 は 文 革 中農 村 人 民 公 社 の手 本 ・ 鑑 と され た と ころ で あ る。 2.魯 迅 と の関 係 に於 い て 20年 代 に創 造 社 と魯 迅 の 問 で激 烈 極 ま りない 論 争 が 展 開 され た の は有 名 な話 で あ るが 、 郭 沫 若 は 「文 芸 戦 線 の 封 建 的 残 党 」10)とい う文 章 で 魯 迅 を次 の よ うに 罵 っ て い る 。 「彼 は過 渡 期 を彷 裡 い歩 い て い る者 か も知 れ ない 。 彼 は古 い ブ ル ジ ョア階 級 的 イ デ オ ロ ギ ー に は 既 に疑 問 を抱 き は じめ て い る が 、新 しい プ ロ レ タ リ ア 階級 の イ デ オ ロギ ー に対 す る認 識 に は こ れ 又確 固 た る 自信 が な い。 そ れ故 に 、彼 の 態 度 は 中 間的 で、 不 革 命 的 で あ る。 更 に も う少 しは っ き り言 う な らば 、 彼 は反 革 命 ま で は行 っ て い ない で あ ろ う。 … …彼 は 資 本 主 義 以 前 の封 建 的残 党 で あ る 。 資 本 主 義 は社 会 主 義 に対 す る 反 革命 で あ り、 封 建 的残 党 は社 会 主 義 に対 して は二 重 の 反 革命 と な る訳 で あ る。 で あ る か ら、魯 迅 は 二 重 的 な反 革 命 の人 物 で あ る と言 え る。 前 に魯 迅 は新 旧 の 過 渡 期 を彷 径 い 歩 く者 で あ り、 ヒュ ー マ ニ ス ト ・人 道 主 義 者 で あ る と言 っ たが 、 こ れ は完 全 に間 違 い で あ る。彼 は 失 意 のFascist・ フ ァ シス トで あ る。」 この よ う に ます ます エ ス カ レー トす る攻 撃 に対 して 、魯 迅 は 「上 海 文 芸 の 一 瞥 」11)の中 で 、創 造 社 を新 才 子 派 と し、 そ の手 口 は 「才 子+ゴ ロ ツ キ式 」 で あ り、 「古 今 を問 わず 、 一 定 の 理 論 を 持 た ず 、 あ るい は主 張 の 変 化 に そ れ な りの つ なが りが 見 出せ ず 、 そ の 時 々 に各 種 各 派 の理 論 を も って き て武 器 に す る よ うな 人 間 は、 す べ て これ 、 ゴ ロ ツキ と称 すべ きで す 。」 と言 って い る 。 こ の 指摘 は 若 か り し頃 の 郭 沫 若 だ け で な く、彼 の 一 生 ・彼 とい う人 間 を言 い 当 て た もの と言 え な く もな い 。 これ を受 け て 、 郭 沫 若 は 「ご ろつ きの 自叙 伝 の一 部 」 と して 、 「創 造 十 年 」 を書 き は じめ る訳 で あ るが 、 そ れ よ り4年 後 、魯 迅 が 亡 くな っ た そ の 日の 晩 に 、彼 は魯 迅 を ゴ ー リ キ ー と並 べ 、 二 人 を光 り輝 く大 き な星 に讐 えて 、 悲 しみ 惜 しん で い る。12)そして 、 「中 国 文 学 は先 生 に よ っ て新 紀 元 が切 り開 か れ 、 先 生 は 中 国 の近 代 文 芸 の 真 の 開 山 で あ る こ と は 億 万 の 人 々 の 共 通 した認 識 で あ る 。 … … 先 生 の 健 闘 精 神 は年 を追 う につ れ て 強 ま り、 死 に至 っ て も衰 え を見 せ なか っ た。 こ れ こ そ わ れ わ れ に残 して くれ た非 常 に 素 晴 ら しい 手 本 で あ り、教 え で もあ る 。 … …魯 迅 先 生 は わ れ わ れ 中国 民 族 の近 代 に於 け る一 つ の傑 作 で あ る。」 と、 最 高 の 讃 辞 を送 って い る。 一 一周 忌 の記 念 行 事 で の挨 拶 を依 頼 した 時 も、 す ぐそ の 場 で 引 き受 け 、 「私 は又 魯 迅 を褒 め称 え 蘇:中 国人の 日本 観一 郭 沫若 5 な けれ ば な ら な い」 と話 した そ うで あ る し、13)四周 忌 の 記 念 会 開会 の前 に 、彼 は 友 人 に 「魯 迅 は 生 前 私 を一 生 罵 っ た。 惜 しい こ と に彼 は も う亡 くな り、二 度 と彼 か らの 適 切 な 関心 を得 られ な く な って しま った 。 そ れ に対 し、私 は魯 迅 の 亡 くな った 後 、一 生 彼 を敬 な け れ ば な ら ない 。 しか し、 惜 しい こ とに 私 は も う年 を取 り、 意 を尽 く して崇 め る こ とが 出 来 な くな っ て しま っ た 。」 と言 っ て い る。14) 敬 服 ・称 賛 す る と同時 に どこ か仕 方 が な く、 そ うせ ざ る を得 な い とい う気 持 ち もあ る よ う に見 え る。 そ の 証 拠 に、 彼 の魯 迅 の十 二周 忌 の 記 念 行 事 で の講 演 は党 組織 の 指 示 と寸 分 も違 わ な か っ た し、 そ れ も傍 に い た党 の 幹 部 に再 三 確 認 しな が らや っ た と当該 幹 部 は追 憶 して い る 。15)郭沫 若 が そ の 大分 前 の1936年 に 「党 が 決 め た こ とは 、 私 はそ の 通 りに実 行 す る」、 「私 は喜 ん で党 の声 に な る」 と言 っ た こ とが あ る16)のと合 わ せ 考 え てみ れ ば、 な お分 か る 。 3.周 恩 来 の 引 き立 て と共 産 党 の評 価 1926年4、5月 頃 、 広 東 大 学 文 学 部 長 で あ っ た郭 沫 若 は 大 学 に講i演に来 た周 恩 来 と は じめ て 出 会 っ て以 来 、周 恩 来 が 亡 くな る1976年1月 まで 、 な ん と50年 も付 き合 った 。 そ の 間、 郭 沫 若 が 日 本 に亡 命 した10年 を除 き、 北 伐 ・南 昌峰 起 は 共 に 闘 い 、 日中戦 争 ・第二 次 国 共 内 戦 時 もよ く顔 を 合 わせ て い た し、 中 華 人 民 共 和 国 成 立 後 もず っ と一 緒 で あ っ た。 郭 沫 若 の 二度 目の 入 党 も紹 介 者 は周 恩 来 で あ っ た 。 1938年 夏 、 中 国 共 産 党 は周 恩 来 の 提 案 に よ り、 郭 沫 若 を魯 迅 の継 承 者 と し、 中 国 革 命 的 文 化 界 の リー ダー にす る とい う決 定 を下 し、 そ れ を全 国 党 内 外 に広 く通 達 した。17)要す る に 、 共 産 党 は 郭 沫 若 を 中 国 の知 識 人 のNQ1に 仕 立 て上 げ た の で あ る。 これ に よ り、共 産 党 は彼 を支 配 下 に置 く だ け で な く、彼 の影 響 力 を フル に利 用 して、 対 知 識 人 工作 を有 利 にす る こ とが 出 来 る し、 郭 沫 若 の方 か ら言 っ て も、 そ の名 声 ・社 会 的 地 位 が 益 々上 が る 可 能 性 が 強 くな っ た訳 で あ る 。 この こ と の意 義 は 国民 党 政 権 下 で は さほ ど大 き くな か っ た に して も、 共 産 党 が 政 権 の座 に就 い て か ら、 そ れ も一 党 独 裁 に な っ て か らは量 り知 れ な い0 1941年11月16日 、 周 恩 来 は 郭 沫 若50歳 誕 生 祝 い の 祝 賀 会 で 、 「私 の 言 い た い こ と」 と題 して 、 講 演 を した。18)彼は 郭 沫 若 を魯 迅 と比 較 し、 次 の よ う に述 べ た。 「魯 迅 が 新 文 化 運 動 の指 導 者 で あ る な ら ば、 郭 沫 若 は新 文 化 運 動 の 新 主 将 で あ る 。魯 迅 が 率 先 して今 まで な か っ た道 を切 り開 い て くれ た と言 う の で あ れ ば 、 郭 沫 若 は我 々一 同 を率 い て そ の 道 を進 む 道 案 内 人 で あ る。」 郭 沫 若 の 素 晴 ら しい とこ ろ と言 え ば と言 っ て 、次 の 三 つ を挙 げ た 。 「第 一 に、 燃 え る よ うな革 命 的情 熱 で あ る。 … … 五 四運 動 時期 ・創 造 社 草 創 期 に於 い て 、彼 の 奔 放 た る革 命 的 情 熱 は 自ず と未 だ濃 厚 な ロマ ンチ シズ ム の色 合 を帯 び て い たが 、 そ れ こそ正 に当 時 の 若 い 知 識 人 を代 表 す る典 型 的 な もの で あ った 。」 日 中戦 争 は じま っ て4年 経 った 現 在 、彼 は 「革 命 的 な リア リズ ム で以 て革 命 的 な ロ マ ンチ シズ ム に取 っ て代 っ た」。 「第 二 に、 深 遠 で 精 しい研 究 心 で あ る 。 … … 我 々 の郭 先 生 は 正 し く彼 の 歩 むべ き唯 物 論 的 な研 究 の 道 を歩 ん だ の で あ る。」 「第 三 に、 勇 敢 な闘 い の 生 活 で あ る 。 そ れ 故 に、 彼 は は じめ て今 日の 革 命 的 な文 化 の旗 頭 に な れ た の で あ る 。」 奈 6 1978年6月18日 良 大 学 紀 要 第29号 開か れ た 郭 沫 若 の追 悼 会 で 、 都 小 平 は共 産 党 ・政 府 を代 表 して弔 辞 を述べ た 。19) 郭 沫 若 に対 して 、 「共 産 主 義 事 業 の た め に終 生 奮 闘 努 力 した 忠 実 な革 命 家 で あ り、卓 越 した プ ロ レ タ リア文 化 の 戦 士 で あ っ た 」 と評 した 。 「わ が 国 の 傑 出 した 作 家 ・詩 人 ・劇 作 家 で あ り、 又 マ ル クス 主 義 の 歴 史 家 ・古 文 字 学 者 」 の彼 は 「魯 迅 に次 ぎ、 中 国 共 産 党 の 指 導 の 下 で 、 毛 沢 東 思 想 に導 か れ た、 わが 国文 化 戦 線 に於 け る も う一 つ の 光 り輝 く旗 印 で あ った 」 と して、 国民 、 特 に知 識 人 に、 彼 に学 ぶ よ う呼 び掛 け た。 4.近 代 化 に 果 た した 役 割 中 国 の近 代 化 の本 格 的 な幕 開 け は1911年 の 辛 亥 革 命 で あ り、1919年 の 五 四 運 動 及 び1926年 の北 伐 はそ の 延 長 戦 上 に あ る 。 第 一次 国 共 合 作 が 実 現 し、共 産 党 も積 極 的 に北 伐 に参 加 した。 帝 国主 義 諸 列 強 の侵 略 、 特 に 日中 戦 争 に よ り、 近 代 化 の進 展 は停 滞 す る ど こ ろか 、 後 退 した。 第二 次 国 共 合 作 に よ り、 紆 余 曲折 しな が ら も、 日 中戦 争 は勝 利 を迎 え る こ とが 出 来 た。 国民 党 政 権 は近 代 化 に とっ て欠 かす こ との 出 来 な い 農 地 改 革 を実 施 し、 人 口 の8割 を 占 め る農 民 の解 放 を怠 っ た或 い は体 質 的 に 出来 な か った た め か 、 共 産 党 との 内戦 に破 れ 、 中 国 大 陸 を共 産 党 に取 られ 、 台 湾 に 蟄 居 した。 大 陸 で の農 地 改 革 は共 産 党 政 権 の手 に よっ て行 な わ れ た 。 近 代 化 途 上 の非 常 に重 要 な 一 歩 で あ る。 毛 沢 東 の共 産 党 が 中 国 近代 化 に果 た した 役 割 は そ こ ま で で あ り、 そ れ か ら郵 小 平 が 最 終 的 に実 権 を握 る まで の 約30年 間、 近 代 化 は大 々 的 に 遅 れ た 。 とい う よ り も相 当 の 面 で 逆 行 し た。 そ れ に対 し、逆 に台 湾 は近代 化 を実 現 した 。 そ の手 本 的 な影 響 もあ っ て か 、大 陸 も急 速 に近 代 化 に 向 け て進 み つ つ あ る。 とい う のが20世 紀 に於 け る 中 国 の 歩 み で あ ろ うが 、 郭 沫 若 が 果 た し て そ の 中 で どの よ うな役 を演 じた の で あ ろ うか 。獅 子 なの か 、 風 見 鶏 な の か 。 結 論 か ら先 に 言 う と、 一 概 に は言 えず 、獅 子 的 な 時期 や 側 面 もあ っ た し、風 見 鶏 的 な時 期 や 側 面 もあ っ た と見 るべ きで あ ろ う。 五 四運 動 後 に発 表 した 「 女 神 」等 の 詩 集 は個 性 の発 展 ・解 放 を要 求 し、 自 由 を要 求 す る もの で 、 当 時若 者 た ち の 共感 を呼 び、 帝 国主 義 列 強 反 対 ・封 建 制 反 対 闘 争 へ の奮 起 を促 し、彼 らの 前 進 を 大 い に励 ま した 。 詩 人 で あ りな が ら、 詩 作 だ け に満 足 せ ず 、 妻 子 を後 方 に残 して 北 伐 に参 加 し、 そ れ こそ 実 際 の行 動 で 以 て、 革 命 的 な戦 争 に 身 を投 じた こ と も、 日中戦 争 が勃 発 す るや 、 中 国古 代 社 会 ・考 古 学 ・古 文 字 の研 究 等 をや め 、妻 と別 れ 、5人 の子 供 を置 い て、 亡 命 先 の 日本 か ら帰 国 し、 国 家 ・民 族 の 滅 亡 を救 う とい う、所 謂 「救 亡 運 動 」 の 最 前 線 に立 っ て 闘 った こ と も知 識 人 や 国 民 に少 なか らぬ 好 影 響 を与 え た。1937年7月24日 を よ く表 して い る。20) 又 当 に筆 を投 じて 縷 を請 うべ きの 時 、 婦 に別 れ 雛 を1/lamっ て 繭 糸 を断 つ 。 国 を去 って 十 年 、 涙 血 を余 し、 舟 に登 って 三 宿 、 施 旗 を見 る。 欣 んで 残 骨 を将 て 諸 夏 に埋 め ん、 実 い て 精 誠 を吐 い て此 詩 を賦 す 。 四 万 万 人 斉 し く属 を躇 み 、 心 を 同 じ く し徳 を 同 じ く し戎 衣 を一 にせ ん。 、 横 浜 出 帆 の 時 吟 じた 詩 が 当 時 の 彼 の 決 意 蘇:中 国人の 日本観 一 郭沫若 7 正 に勇 猛 突 進 の 獅 子 の 役 割 を演 じた と評 価 で き よ う。 共 産 党 政 権 の成 立 に協 力 した と言 って も、 一 概 に悪 い とは 言 え ない 。 何 故 か と言 う と、 中華 人 民 共 和 国 の 成 立 は 中 国 が帝 国 主義 諸 列 強 の 覇 絆 、 半 植 民 地 状 態 か ら脱 し、 独 立 国家 と して立 ち 上 が っ た訳 で 、 国民 に誇 り と勇 気 を与 え、 国 造 りへ の意 欲 と決 意 を昂 揚 させ た。 成 立 前 後 に実 施 さ れ た農 地 改 革 も強 制 的 で 、一 部 の 人 た ち を恐 怖 の ど ん底 に 陥 れ は した もの の 、 圧 倒 的多 数 の農 民 か ら 自分 の 田 圃 や 畑 を持 つ とい う夢 が 叶 え ら れ た と言 って 、 歓 迎 さ れ 、 支 持 され た 。 知 識 人 も 「裏 切 られ る」 とは 露 知 らず 、手 放 しで 喜 び 、 光 明 ・春 の 到 来 を感 じ、 連 帯 結 束 し、 仕 事 や 研 究 に精 を出 しは じめ た 。 郭 沫 若 の 名 声 が う な ぎ登 りに上 が っ た の は 言 う まで も ない 。 然 し、 喜 び も束 の 間 に終 わ り、 暗黒 ・冬 の 時 代 へ と一一変 した 。 農 民 は 暖 ま る暇 もな く、 そ の農 地 は取 り上 げ られ て しま い 、貧 困状 態 に逆戻 り し、 知 識 人 は苦 難 の 道 程 へ と足 を踏 み 出 し、鋭 気 も力 も失 っ て しま うの で あ る 。 郭 沫 若 は この 辺 りか ら約30年 間 、 民 主 ・自 由の 抱 殺 、 知 識 人 の弾 圧 に先 頭 に立 っ て助 勢 す る訳 で あ る 。 正 に ゴ ロ ツ キ、 風 見 鶏 と しか 言 い よ うが な い。 彼 は プ ロ レ タ リ ア文 化 大 革 命 中 に二 人 の息 子 が迫 害 を加 え られ 、 失 っ て い る 。 周 恩 来 に会 う機 会 もあ り、 一 言 言 え ば助 か る はず で あ っ たの に、 自分 の 地位 を失 い た くない が た め に、遂 に死 なせ て しま っ た。 悪 い が 、 言 わ ば 自業 自得 で あ る。 この ゴ ロ ツ キ或 い は風 見 鶏 の側 面 は マ ル クス ・レ ー ニ ン主義 や 社 会 主 義 理 論 を生 噛 り した 若 い 時 か ら既 に現 れ て い る の は前 述 した 通 りで あ り、 そ れ と性 格 が原 因 して そ う な っ た と も考 え られ る。 い ず れ に しろ、 郭 沫 若 の影 響 力 は小 さ くな く、 そ の言 論 や行 動 は 国 民 、 と りわ け知 識 人 に多 大 の 好 か 悪 か の 影 響 を与 え た し、 共 産 党 の 情 勢 判 断 ・政 策 決 定 に も何 らか の 影 響 を与 え た の は確 か で あ る。 後 者 の 場 合 、 主 に知 識 人 政 策 と対 日政 策 で あ る こ とは 容 易 に想 像 で き る とこ ろ で あ る。 H.日 本 との係 わ り 1.日 本 滞 在 歴20年 郭 沫 若 は1914年1月 か ら1923年3月 九 州 帝 大 医 学 部 で 勉 強 し、1928年2月 ま で 日本 に留 学L.相 か ら1937年7月 前 後 して東 京 一 高 予 科 ・岡 山六 高 ・ まで 亡 命 し、 千 葉 県 市 川 市 に居 を構1えて い る。 そ の 間何 回 も 日中 の 間 を行 っ た り来 た り して い る が 、 とに か く合 計20年 ぐ らい は 日本 に 滞在 した。 日本 ・日本 人 に詳 しい だ けで な く、 そ の影 響 を相 当 受 け た 。 そ の 頃 の 「青 少 年 は殆 どみ な 一 人 一 人 が 国 家 主 義 者 で あ っ た とい って よか っ た。 当 時 の標 語 は い わ ゆ る 『富 国強 兵 』 で 、少 しで も志 の あ る も の は 、誰 で も何 か 実 際 の 学 問 を勉 強 して 国家 を強 盛 に しよ う と考 え て お り」21)、 彼 も 「現 状 に不 満 な ば か りに、 毎 日四川 を離 れ た い と思 っ て い た。 そ の こ ろ最 高 の理 想 と した 目標 は 、 ヨー ロ ッパ 、 ア メ リカ に 留 学 す る こ とで あ り、 そ の つ ぎが 日 本 、 さ らに そ の つ ぎが 北 京 、 天 津 、 上 海 だ っ た」22)。 彼 は小 さ い 時 か ら詩 が 好 きで 、 文 学 的傾 向 に あ っ た。 留 学 して か らは この傾 向 を克 服 しよ う と努 力 した が 、 イ ン ドの 詩 人 タ ゴ ー ル の作 品 に 接 し、 ゲ ー テ やハ イ ネ に接 近 し、 そ こか らス ピ ノ ーザ の著 書 を読 み 漁 っ た。 そ の汎 神 論 的思 想 に 共 鳴 し、子 供 の 時 か ら好 きだ っ た 「荘 子 」 を再 発 見 し た。 「又 ホ イ ッ トマ ン の 『草 の 葉 』 と接 近 奈 8 良 大 学 紀 要 第29号 しは じめ、 彼 の豪 放 な詩 の調 子 が僕 の 間 を きっ た詩 作 欲 に暴 風 の よ う な扇 動 を受 け させ た 。 … … 1919年 か ら1920年 に か け て の何 ヵ月 間、 僕 は殆 ど毎 日、 詩 的 陶 酔 の 中 に在 り、詩 の発 作 が襲 来 す る とま る で熱 病 に か か っ た よ う に、 寒 気 が して来 て 、僕 は筆 を取 り上 げ て頭 え な が ら、 時 に は 字 を書 くこ とさ え 出 来 な か っ た 。」23)「 女 神 」 の 主 な 詩 はみ な この 時 に書 か れ た もの で あ り、 「フ ァ ウ ス ト」 の翻 訳 も同 じ時 で 、 ゲ ーテ 及 び 当時 流 行 して い た新 ロマ ンチ シズ ム ・表 現 派 の 影 響 を強 く受 け た。 大 正 デ モ ク ラ シ ー も第3期 に入 り、民 衆 の 政 治 的 自覚 や 社 会 的 平 等 へ の 要 求 が 高 ま り、社 会 主 義 の 影 響 力 が 増 大 す る 中 で 、 郭 沫 若 の 「以 前 の汎 神 論 的 思想 、 い わ ゆ る個 性 の発 展 、 い わ ゆ る 自 由、 い わ ゆ る表 現 な どは 、 い つ の ま にか ぼ くの脳 裏 で す で に清 算 され て い た 。 これ まで 意 識 の 辺 縁 に在 っ た マ ル ク ス ・レー ニ ンが い つ しか ス ピノ ー ザ や ゲ ー テ を押 しの け て 、意 識 の 中 心 を占 拠 して い た。1924年 の初 頭 、 レー ニ ンが 死 ん だ 時 、僕 は心 か ら悲 しみ を感 じ、太 陽 を失 った よ う な 気 が した。 だ が 、 マ ル クス レー ニ ン主 義 に対 して僕 は 決 して 明 確 な認 識 を持 っ て い た わ け で は な く、 そ う した思 想 の 内容 を検 討 して み た い とい うの は 、僕 の 当 時 抱 い て い た一 種 の憧 憬 で あ った の だ。」24) 遂 に1924年5月 に河 上 肇 の 「社 会 組 織 と社 会 革命 」 を翻 訳 す る に至 る の で あ る が 、 そ れ に よ っ て、 「社 会 経 済 に関 す る僕 の認 識 を深 め る こ とが 出 来 た ばか りで な く、 同 時 に生 まれ た副 作 用 は 、 僕 が 文 芸 に対 して の 別 の見 解 を懐 くよ う に な った こ とで あ る。」25)そして 、 そ の後 彼 自信 が 言 う よ うに 「マ ル クス 主 義 者 に な った 」26)訳で は決 して な い が 、 マ ル ク ス主 義 の 方 に転 じて行 った の は事 実 で 、 彼 の思 想 の形 成 ・転 化 は全 て 日本 留 学 中 に な され た の で あ る。 亡 命 の10年 の 間 に 、彼 は精 力 的 に 中国 古 代 社 会 、 甲骨 文 、股 周 青 銅 器 銘 文 、両 周 金 文 、 古代 銘 刻 の 研 究 に取 り組 み 、多 くの論 文 を発 表 し、 著 書 を刊 行 した 。 そ の 他 に又 「わ が幼 年 」、 「反 正 前 後 」、 「黒 猫 」、 「創 造 十 年 」、 「北 伐 」、 「亡 命 十 年 」 等 の 自伝 的 な小 説 、 創 作 も出版 した 。 シ ン ク レ アの 「石 灰 王 」、 「石 油 」、 「 屠 殺 場 」、 トル ス トイ の 「戦 争 と平 和 」、 ミカエ リス の 「 美術 考古学発 見 史」、 マ ル ク ス の 「経 済 学 批 判 」、 「ドイ ッ チ ェ ・イ デ オ ロ ギ ー 」 やHerbertGeorgeWellsの 「生 命 の 科 学 」、 「人 類 展 望 」 等 の 翻 訳 も刊 行 す るが 、 そ の 大 半 が 発 禁 と な る 。周 恩 来 は彼 の この 10年 を評 して 、 「彼 は又 革 命 の 退 潮 期 に も如何 に して 自分 自身 の活 力 を保 つ べ きか と い う こ と を 知 っ てお り、 研 究 に没 頭 し、 自己 充 電 を図 っ た。 … … そ の翻 訳 ・創 作 の 豊 富 な こ と と言 っ た ら な か なか 、 人 の及 ぶ と ころ で は ない 」 と語 っ て い る。 海 外 に 身 を置 き なが ら も常 に 国 内 の 文壇 に関 心 を持 っ た の は 言 う まで もな い が 、 猛 烈 な魯 迅 批 判 の 文 章 を 書 い た の も こ の 間 で あ る。 友 人 の 「 魯 迅 の 最 近 の 作 品 を読 んで い る か 。」 とい う質 問 に対 して 、 「読 ん で い な い」、 「読 み たい か 。」 の 質 問 に、 「読 み た くない 。」 と答 え て い る し、27)魯迅 が 亡 くな っ た時 も弔 電 を打 た な か っ た 。 2.ア ンナ 1916年 夏 、郭 沫 若 は東 京 の ア メ リカ人 が 経 営 す る病 院 で看 護 婦 を して い た ア ン ナ と知 り合 っ た。 そ して、12月 に 岡 山 で 同居 す る よ う に な る。 ア ン ナ の本 名 は佐 藤 富 子 と言 い 、 仙 台 の 出 身 で 、 実 家 は仙 台 藩 の士 族 で 、祖 父 の代 には剣 道 指 南 番 の 職 に就 い て い た 。 父 は若 い 時 は下 級 の士 官 で あ っ たが 、 後 に キ リス ト教 の牧 師 を勤 め 、子 供6人 で 、 ア ンナ は 第 一 子 で あ っ た。 郭 沫 若 との こ と を父 は もの す ご く反 対 した が 、 ア ンナ はそ れ を押 し切 り、家 族 と縁 を切 っ て一 緒 に な っ た 。 そ れ 蘇:中 国人 の 日本観 一 か ら、1937年7月 郭沫若 9 、 郭 沫 若 が 日本 か ら帰 国 す る まで21年 間生 活 を共 に し、 そ の 間5人 の子 を設 け た。 留 学 時代 は 郭 沫 若 の 官 費 で 生 活 し、卒 業 して か ら は創 造 社 か ら毎 月 も ら う金 や ら原 稿 料 で生 計 を立 て た 。郭 沫 若 は 日記 や 文 章 に次 の よ う に書 い て い る。 「ア ンナ 、生 活 費 の こ とで 彷 吾 とい い 争 い をす る。 ア ンナ は創 造社 に毎 月 百 五 十 元 出 す よ う に い うが 、 彷 吾 は 百元 しか 出 せ ぬ とい う。 私 は生 活 して い け さえ す れ ば 、 百 元 で も充 分 で 、 社 をか らっ ぽ に して は い け な い とい った 。 ア ン ナ は 、社 中 の仕 事 をす る人 は た だ働 き を し、 飯 を食 う人 は た だ飯 を食 っ て い る とい う。 帰 宅 後 も この こ とで 半 日不 愉 快 だ っ た。」28) 「僕 の 日本 人 の妻 は 、 上 海 に来 て 以 後 、 殆 ど朗 らか な 日 は なか っ た。 生 活 は む ろ ん彼 女 が 想 像 してい た よ うな 『 幸 福 』 とは全 然 背 馳 してい た。 三 番 目の 幼 児 の 消 化 系 統 の疾 患 は 、 実 際 最 も大 き な負 担 で あ っ た。… … 中国 人 の 医 者 も外 国人 の 医者 も一 人 と して 信 頼 で き る者 は い な か っ た し、 医 療 費 も目が とび 出 る ほ ど高 か っ た 。 金 の あ る人 な ら何 で もあ る まい が 、 奴 隷 プ ラ ス乞 食 の 生 活 を して い る人 間 に とっ て は 、電 車 賃 に さ えい つ も不 自由 して い た 。 妻 はそ の た め し じ ゅ う 日本 に 帰 りた い とや か ま し く言 っ た。」29) 1927年2月 、創 造 社 が 当局 に よっ て 閉 鎖 され て か らは 、 百 元 も途 絶 え て し ま っ た。 「ア ンナ の 生 活 の や り く りは 極 端 な まで き りつ め た もの で 、来 日以 来 ず っ と家 政 は彼 女 ひ と りで き りま わ し、 煮 炊 き、 掃 除 、 洗 濯 、 縫 い か え し、 さて は他 人 との つ き合 い に至 る まで 、 一 切 合 財 彼 女 に た よっ て い た 。 当 時 子 供 た ち は ま だ幼 く、 費 用 もそ れ ほ どか か らな か っ た の で 、 毎 月 の 百 元 の うち か ら い くつ か ず つ余 っ て い た が 、これ が私 た ち が 間 接 に受 け た不 意 の打 撃 を解 決 して くれ た の で あ る。 しか し、私 の 古代 史研 究 は、 もはや つ づ け られ な くな っ た。 研 究 以 外 に 、私 は生 活 の こ とを考 え な け れ ば な らな か っ た 。 こ う して私 は 、 私 の 力 を著 作 と翻 訳 に移 した 。」30) 郭 沫若 が 職 に就 け た 場 合 で も、 ア ン ナ は 中 国 で の 生 活 に慣 れ な い だ け で な く、 又 移 動 が 激 しい の で 、落 ち着 か な い 。1926年3月 、 郭 沫 若 が 広 東 大 学 に就 任 した時 、 ア ンナ と子 供4人 は上 海 に 残 り、2ヵ 月 遅 れ て広 東 に行 っ た 。彼 が 北 伐 に参 加 した 後 、 ア ンナ た ち は子 供 を連 れ て 上 海 経 由 へ で武 漢 ま で逃 げ た 。 そ こ も危 な くな り、 又 して も上 海 に逃 げ 戻 る とい う よ うな子 連 れ の 流 浪 の 旅 を続 け な け れ ば な らな か っ た。 ア ンナ は よ く耐 え た もの で あ る。 「彼 女 の性 格 は僕 よ り強 く、一 旦 決 心 した と な る と、 テ コで も動 か ず 、僕 が 動 揺 して い る時 に 、 反 っ て彼 女 は既 定 の 計 画 を実 行 す る よ う僕 を激 励 す る の で あ った 。」31) そ れ は子 供 の こ とで 、 い らい らす る こ と も あ っ た で あ ろ う。 「ア ンナ の ヒ ス テ リ ー もあ ま りひ ど く、 と もす る と打 っ た りど な っ た り して 、 は な は だ お も しろ くな い」32)と思 う夫 の方 が 身勝 手 で あ る。.人との付 き合 い もそ う しっ く り行 か な い場 合 もあ っ た で あ ろ う。 「も と も と社 中 の 同 人 はみ な文 学 ず きの 青 年 男 女 で 、 ロ マ ンチ ッ ク な人 間 ば か りだ が 、 ア ンナ は何 事 に も干 渉 し よ う と し、 言 語 が ちが う と こ ろ か ら、意 見 も疎 通 を欠 き、 そ の結 果 ど う して も しっ く り行 か な くな る の で あ る。」33)夫婦 喧 嘩 等 決 して珍 しい もの で は な い 。 「小 さ な肩 掛 の こ とで ア ンナ と私 と大 喧 嘩 す る。」34)と、 郭 沫 若 は 日記 に記 して い る 。 「湖 心 亭 」 とい う小 説 を読 む と、 ひ どい 時 な ど、 「も う 手 を着 る!別 れ る!お ま え、 日本 に帰 れ!」 と まで 言 っ て い る よ うに見 え る。 郭 沫 若 は 南 昌 蜂 起 が 失 敗 して逃 走 す る途 中 赤痢 にか か るが 、 そ れ を心 か ら世 話 を して くれ た安 奈 10 良 大 学 紀 要 第29号 琳 とい う教 え子 と親 しい 間柄 に な る 。 そ れ に就 い て 、 夫婦 の 間 で 交 わ した会 話 が あ る。35) 「あ な た は彼 女 を愛 して い る の?」 「む ろ ん愛 して い る 。私 た ち は 同志 だ し、 そ れ に患 難 を共 に して来 た の だ か ら。」 「 愛 して い る な ら、 なぜ 結 婚 しな い の?」 「 愛 して い る か ら こそ結 婚 しな い の だ 。」 「わ た しが あ なた が た を邪 魔 して い る か らで し ょ。 … … か りに こ ん な に た くさん の 子 供 さ えい なけ れ ば 、 わ た しは い つ で もあ なた を 自 由 に させ られ る の だ け れ ど。」 1937年7月24日 の 晩 、 郭 沫 若 は 帰 国 す る意 志 を ア ン ナ に話 す 。 そ の 時 、彼 女 は、 「脱 出 す るの は 結 構 だ 、 た だ私 が ぐ らつ き易 い性 格 で あ る こ と だ けが 、 一 番 心 配 だ 。 私 さ え真 剣 に りっ ぱ な生 き方 を して くれ れ ば、 た と え少 し面 倒 な こ とが あ っ て も、 じっ と耐 え よ う。」 と答 え た。36) ア ン ナが 言 っ た郭 沫 若 の 「ぐ らつ き易 い 性 格 」 とは、 詩 人 の よ うな 、 ロマ ンチ ックで 、 感 情 豊 か な男 は女 色 に溺 れ易 い 、或 い は 「英 雄 色 を好 む」 を指 して言 っ た の か れ 知 れ な いが 、 も しか し た らそ れ は政 治 ・思 想 ・学 術 に も現 れ て い る の か も知 れ な い 。 案 の定 、 郭 沫 若 は帰 国後 半 年 も経 た ない1938年1月 か ら子 立 群 と同 居 しは じめ る。1939年 晩春 初 夏 の 頃 、二 人 は 重慶 にて 所 謂 結 婚 式 ・披 露 宴 を兼 ね た祝 賀 会 をや る訳 で あ るが 、 そ の 会 を司 会 した のが 周 恩 来 で あ る。1978年 郭 沫 若 が亡 くな る まで40年 間 暮 ら しを共 にす る。 郭 沫若 に とっ て 、 これ は重 婚 に な る。 彼 は1912年 の 旧 正 月 に既 に両 親 に言 わ れ て張 環 華 とい う 女 性 と正 式 に結 婚 して い る 。彼 は 「黒 猫 」とい う作 品 に初 夜 の シ ー ンを次 の よ うに書 い て い る 。37) 「『だ め だ 、 こ りゃ い か ん!』 私 は 心 中 ま た して も声 を あ げ た 。 私 に は何 も見 え な か っ た 。 た だ 空 を向 い た し ょ う じ ょう鼻 だ けが 目 の前 に あ っ た 。 ま こ と に俗 諺 は い み じ くもい った もの で あ る 。 『袋 の 中 に入 れ た猫 、 白 い と聞 い て買 っ た の に 、帰 っ て あ け れ ば黒 い 猫 。』」 郭 沫 若 は張 環 華 と合 計 百 日余 り しか 一緒 にい な か った 。 彼 の 両 親 が 亡 くな って 、 遺 産 相 続 の彼 の 分 の 田 畑 は当 然 の こ となが ら彼 女 の もの にな った 。 と こ ろが 、 農 地 改 革 で そ れ らの 田畑 は全 部 没 収 され 、 彼 女 は衣 服 や 家 具 ・食 器 の類 を質 に入 れ なが ら暮 らす しか な か った 。 到 頭 そ れ も底 を 突 き、 彼 女 は 自分 で ち ょっ と したお 菓 子 や 子 供 の履 く靴 ・帽 子 を作 っ て売 っ て は 糊 口 を凌 い だ 。 親 戚 が 見 る に見 兼 ね て 、北 京 で 高 官 に な って い る郭 沫 若 に そ の事 情 を知 らせ た。 そ れ で よ うや く 生 活 費 と して 毎 月15元 送 って も らえ る よ う に な っ た 。 物 価 が 上 が る につ れ 、徐 々 に20元 、25元 、 30元 と増 や して も らっ た 。38)因み に、 そ の 頃 、 筆 者 は 北 京 大 学 の 学 生 で あ っ た が 、 毎 月 家 か ら30 元 送 金 して も らっ て い た 。 父 は そ れ こそ 郭 沫 若 が 院長 を勤 め る 中 国 科 学 院 の 学 部 委 員(日 本 の 学 士 院 会 員 に相 当)及 び復 旦 大 学 の教 授 で あ っ た が 、 月 収 は両 方 合 わ せ て720元 で あ っ た。 国家 公 務 員 最 上 級 の 毛 沢 東 が560元 で あ る。 郭 沫 若 は給 料 の他 に印 税 収 入 も随 分 あ っ た は ず で あ る 。彼 は水 害 罹 災 者 た ち に2万 元 、 大 学 に1万 元 と寄付 も して い れ ば、 共 産 党 員 が毎 月 党 組織 に収 め る 党 費 と して0度15万 1939年7月 前 後 して4ヵ 元 渡 した こ とが あ る 。 、郭 沫 若 の父 が 亡 くな っ た 時 、彼 は 干 立群 と生 まれ た ばか りの 子 供 を連 れ て帰 省 し、 月程 滞 在 した。39)その 際 、 結 婚 以 来 ず っ と舅 姑 の と ころ に住 んで い た張 環 華 は 自分 か ら進 ん で 結 婚 当 時 よ り使 っ て い た寝 室 を郭 ・干 の 二 人 に譲 っ た。 風 俗 慣 習 に よ り、 忌 中 は精 進 料 理 しか 食 べ られ ない 。 と こ ろが 、 干 は産 後3ヵ 月 の 体 、 是 非 と も栄 養 を取 る必 要 が あ る とい う 蘇:中 国人 の 日本観 一 郭沫若 11 の で 、 張 環 華 は特 別 に小 さ な竈 を作 らせ 、又 鶏 とか 魚 を買 い に行 か せ 、 裏 口か ら持 っ て入 らせ て は 自 ら料 理 して 、 子 に食 べ させ た。 干 は若 奥 様 然 と して ま る で女 中 の よ う に して 働 く彼 女 が 作 っ て くれ た御 馳 走 を食 べ た 。 そ の 間 、 張 環 華 は 田舎 者 な の で 、 子 守 歌 な ど歌 え な い 。 た だ 「お お お!お お お!」 と言 い なが ら、 赤 ち ゃ ん を抱 っ こ して あ や した。 筆 者 は資 料 の この 件 を読 む た び に 目頭 が熱 くな る と同 時 に憤 りを感 じる! 3.寛 大 な 日本 人 と東 洋 文 庫 郭 沫 若 自身 が 述 懐 す る よ うに 、40)1928年は じめ の 日本 へ の 亡 命 は何 もか も非 常 に順 調 に、 自分 で も不 思 議 だ と思 うほ ど順 調 に進 ん だ 。 1927年12月7日 、 郭 沫 若 は突 然 発 疹 チ フス に か か る 。 翌 年 の2月 頃 に な っ て 、快 復 す る訳 で あ るが 、 彼 と同 じ時期 に 同 じ病気 にか か った 友 人 の桂 銃 泰 博 士 の 夫 人 斎 藤 花 子 は死 ん で し ま う。桂 博 士 は彼 と同期 で 、京 都 帝 大 医 学 部 を卒 業 して い た。 又 、 郭 沫 若 が 広 東 の 大 学 で文 学 部 長 を して い た頃 、 桂 博 士 も同大 医学 部 に勤 め て い た の で 、 ア ンナ は花 子 夫 人 と付 き合 い、 同 国人 の 誼 み も あ っ て、 特 別 に親 密 で、 姉 妹 同様 に して い た 。 郭 沫 若 は そ の病 気 で 、 結 局 当 初 予 定 して い た ソ連 行 き は出 来 な くな り、 日本 へ と向 か う。 日本 と言 っ て も、 ア ンナ は 親 か ら勘 当 さ れ て い る し、 郭 沫 若 も これ とい っ た親 しい友 人 は い な い 。 そ れ で 、 ア ンナ の 咄 嵯 の思 付 で 、 亡 命 一 家 は花 子 夫 人 の 実 家 を頼 って行 く。 齋 藤 家 は中 流 以 下 の 家 で 、 父 は大 工 の棟 梁 で 、 貸 間 を兼 営 して い て 、 中 国 人 留 学 生 が 何 人 か住 ん で い た 。 二 人 の 老 人 は非 常 に親 切 に して くれ 、 母 な ど ア ン ナ を見 て 、 自分 の娘 が 生 き返 っ た と 思 っ て い る か の よ うで あ っ た 。 と にか く郭 沫 若 一 家 は路 頭 に迷 わず に 済 ん だ 。 次 は居 留 で き るか ど うか の 問 題 で あ る。 郭 沫 若 は 大 衆 文 学 作 家 の村 松 梢 風 に頼 み 込 む 。 村 松 梢 風 は懇 ろ に彼 と ア ンナ を迎 え入 れ 、 親 身 に な っ て彼 の 書 き物 生 活 や 子 供 の こ と を考 えて くれ 、 東 京 に 隣接 す る市 川 に住 む よ う提 案 し、 そ こ の剣 道 の 達 人 で あ る横 田兵 左 衛 門 とい う人 を紹 介 して くれ た 。 そ の 人 も又 義侠 性 に富 ん だ人 で 、 快 く世 話 を見 る こ と を承 知 し、 同 窓生 で 、 東 京 の 思 想 検 事 の首 席 を して い る平 田 薫 に頼 んで くれ た。 平 田検 事 は 市 川 の 樋 口検 事 を紹 介 して くれ た 。 そ の樋 口検 事 の案 内 で警 察 署 長 に面 会 に行 き、 万事 解 決 した 訳 で あ る。 8月 に東 京 警 視 庁 に拘 留 され るが 、3日 後 に無 事 帰 宅 す る。 横 田 兵左 衛 門 は 「私 の翼 が あ ん ま り小 さす ぎた の で 、 『駝 鳥 の卵 』 で あ る あ な た を覆 い きれ ませ ん で した 」 と謝 っ た が 、 彼 は彼 な りに最 善 を尽 く した 。 そ れ 以 降 、 憲 兵 ・刑 事 の監 視 は続 く し、 周 りの 日本 人 の ア ンナ を見 る 目、 「な ん て 、 あ ん た は 馬 鹿 な こ と を した の。 日本 の 女 の くせ に、 支 那 人 の 女 房 に な る な ん て 、 しか もあ ん な で きそ こ ない の さ!」41)と い う警 戒 と軽 蔑 の 目 は ア ンナ に と っ て耐 え 難 い もの で あ っ た ろ うが 、 そ れ 以外 は大 した 事 もな く、10年 過 ごす の で あ る 。 上 海 で 日本 と関 係 が あ り、 日本 の 学 問 を研 究 して い る人 は み な 内 山 書 店 に出 入 り し、 内 山完 造 を知 って い る し、 彼 は心 か ら魯 迅 や 郭 沫 若 を助 け て くれ た 。 そ れ と ま った く同 じで は な いが 、東 京 で 中 国 の学 問 を研 究 す る 人 で 、 文 求 堂 とそ の 主 人 田 中 慶 太 郎 を知 ら な い人 は い な い。 「彼 は小 学校 さ え出 て い なか っ たが 、 中 国 の版 本 につ い て の 異 常 に豊 富 な 知 識 とい う点 で は、 な み た い て い の 大 学 教 授 や 専 門家 をは る か に しの い で い た 。」42)郭沫 若 は彼 を訪 ね て行 き、 懇 意 に な る。 そ して 、彼 に教 えて も らい 、 東 洋 文 庫 を利 用 す る こ とが 出来 る よ うに な る 。 東 洋 文 庫 は当 時 日本 の 奈 12 良 大 学 紀 要 第29号 支 那 学 の 東 京 学 派 の 大 本 営 で あ っ たが 、京 都 学 派 と違 い 、 中 国人 は 固有 の 文化 を持 っ てい ない と 見 、 郭 沫 若 が 興 味 あ る 甲骨 文 や 金 文 は無 価 値 の もの と判 断 し、 蔑 視 して い た 。 そ れ で そ こ に収 蔵 され て い た 豊 富 な資 料 を思 う存 分 利 用 す る こ とが 出 来 た。 例 え ば 、王 国 維 の もの だ けで な く、 ア ン ダー ソ ンの 甘 粛 ・河 南 な どの彩 陶遺 蹟 の 報 告 とか 北 平 地 質 研 究 所 の 北 京 人 に 関す る報 告 等 、 お よそ 中国 国 内 の考 古 学 上 の発 見 報 告 は 殆 ど読 み 尽 く した。 一 部 の論 拠 ・論 点 に は な お検 討 す る余 地 が あ る に して も、 そ れ らを基 に彼 は研 究 を成 就 させ た の で あ る。 要 す る に、 日本 は郭 沫若 の 人 間 形 成 に決 定 的 な影 響 を与 え た だ け で な く、 学 者 と して の名 声 ・ 地 位 を不 動 な もの に した と言 え る。 皿.日 1.日 本 人 の ル0ツ 本 とい う国 と 日本 の 開 化 郭 沫 若 は 「日本 民 族 発 展 概 観 」43)で、題 名 通 り 日本 民 族 の 由来 ・発 展 を概 観 して い る 。 新 しい 考 古 学 の発 見 に よ り一 部 の 論 点 は修 正 す る必 要 が あ る が 、1942年 当時 と して は 大 まか な と こ ろ は 合 っ て い よ う。 日本 には 旧 石 器 時代 が な く、 新 石 器 時代 にな って は じめ て人 間が 現 わ れ た 。 恐 ら くシベ リア あ た りか ら来 た ア イヌ 民 族 で あ る。 そ の後 、 主 に南 洋 の 方 か ら渡 っ て きた 。 衣 食 住 の 生 活 様 式 を見 れ ば分 か る。 衣 生 活 で 一 番 本 質 的 な 習慣 は 男 女 と もパ ン ツ を穿 か ず 、 女性 は 腰 巻 、 男 性 は そ れ に 又 揮 も着 けて い た。 食 生 活 で は 、豚 肉 や マ トン を食 べ ず 、 多 く魚 介 類 を食 べ て い た。 住 居 は周 り に壁 が な く、 カ ー テ ン み た い な もの を垂 ら して い る だ け で 、 防寒 の こ とは 考 え なか っ た。 そ の他 に、例 え ば、 既 婚 の女 性 の お歯 黒 の 習慣 や 便 所 の こ とを測 と呼 ぶ 、 つ ま り川 に沿 っ て建 て る建 物 「河 屋 」 とい う よ うな と こ ろ等 み な南 洋 と同 じで あ る 。 朝 鮮 や 中 国 か ら も渡 っ て行 った で あ ろ う。 紀 伊 に徐 福 の墓 が あ る と聞 くが 、彼 はぺ て ん師 で 、 必 ず し も 日本 に行 った とは 限 らな い 。 日本 人 は昔 非 常 に 中 国人 の末 喬 子 孫 に な りた が っ て い た。 但 し、渡 っ て 行 った 朝 鮮 人 や 中 国 人 の 人 数 は 少 な く、 下 層 階級 の 人 た ち が 多 く、 日本 の 開化 を促 す に は 至 らず 、 三 国 や 階 の時 代 に な って も 日 本 民 族 は まだ ま だ原 始 的 な民 族 で あ った 。 「魏 志 倭 人 伝 」 に女 性 は 貫 頭 衣 を着 て い る と記 され て い る が 、 どの 民 族 、 どの 時 代 に於 い て も女 性 の服 装 は そ の 時 の 文 化 の最 高 レベ ル を表 す も の で 、 当時 日本 の遅 れ ぶ りが推 測 で き よ う。 そ れ ま で頭 に は何 も被 らず 、 裸 足 の ま まで あ った の が よ う や く冠 や履 物 を使 用 す る よ う にな った と も書 か れ て い る。 階 や唐 の 時代 に入 り、 日本 は大 勢 の僧 侶 や学 生 を中 国 に派 遣 し、 中 国 の文 化 を何 か ら何 まで 学 ん で行 くよ う に な る。 漢 字 が そ う で あ る 。 そ して 、 片 仮 名 や 平 仮 名 を作 る 。俳 譜 ・和 歌 の 五 音 句 七 音 句 も明 らか に 中国 の 五 言 七 律 の影 響 を受 け て作 られ た もの で あ る。 とに か く、 社 会 の 土 台 で あ る 生 産 方 式 ・生 産 関 係 、 農 工 商 の経 営 か ら上 部構 造 の 政 治 ・思 想 ・文 芸 、何 一 つ 取 っ て も中 国 の 影 響 を受 けて い ない もの は な い。 日本 は 青銅 器 の 時 代 を飛 び越 え て 、石 器 時代 か ら直 接 鉄 器 時 代 に入 った とい う こ と も、 殆 ど白紙 の状 態 か ら中 国 の 高 度 な文 明 に接 し、 開 化 した 、 言 わ ば 日本 は全 体 が 中国 文 化 の 分 れ枝 と言 え る 。 多 くの 日本 在 来 の もの と言 わ れ て い る もの も、 突 き詰 め れ ば 、 そ の 起 源 は 中国 にあ る。 揮 も刺 身 もみ な そ う で あ る 。 蘇:中 国人の 日本観 一 郭沫若 13 但 し、 そ れ と同 時 に 、 日本 は又 中 国文 化 の い い もの を相 当保 存 し、 そ れ に磨 き を か け て き た。 中国 文 化 が 大 自然 の景 勝 の地 で あ る な らば 、 日本 は人 工 的 な花 園 で あ る。 ス ケ ー ル の大 小 、 迫 力 の 強 弱 、 美 意 識 の雄 大 と優 美 、全 体 の粗 雑 と精 巧 の 違 いが あ る 。例 えば 、 唐 の 時 代 の宮 廷 音 楽 や 舞 踊 は 中 国 で の伝 承 は途 絶 え た が 、 日本 は 保 存 して きた 。 「 魏 志 倭 人 伝 」 に 書 い て あ る よ う に、 古代 に於 い て 、 日本 人 は綺 麗 好 き ・入 浴 好 きで なか っ たが 、 開化 以 降 は 綺 麗 好 きに な り、風 呂 に 入 るの が好 き に な った 。 と こ ろが 、 日本 も中 国 と同 じ よ うに 、 自分 自身 で 封 建 制 か ら脱 皮 す る 力 が な く、 半 植 民 地 に な って し ま った 。16世 紀 半 ば、 キ リス ト教 が伝 わ って き、 ポ ル トガ ル 人 ・オ ラ ン ダ人 が 貿 易 通 商 に 来 た 。 続 け て 、 英 米 の 武 力 威 嚇 に よる通 商 ・租 界 の 割 譲 ・不 平 等 条約 の締 結 及 び ヨ ー ロ ッパ 文 明 に対 して 、 は じめ は無 視 、 次 は敵 視 、 し まい には 崇 拝 と考 えや 対 応 が変 って 行 く、 こ れ も中 国 と 同 じで あ る 。 日本 が 西 洋 文 明 を導 入 す る は じめ の 頃 に は 、 中 国 の 協 力 を受 け た 。文 明 の伝 搬 は往 々 に して宣 教 師 が先 導 す る もの で あ るが 、 日本 の ク リス チ ャ ンが 最 初 に使 っ た聖 書 は 中 国 語 か ら翻 訳 した も の で あ った 。事 実 、 明 末 に は西 洋 の暦 法 を使 い は じめ て い た し、 宰 相 で あ る徐 光 啓 は 自 らユ ー ク リ ッ ドの 「ス トイ ケ イ ア」 を 中 国語 に翻 訳 し、 西 洋 の 天 文 学 や 数 学 との接 触 は 日本 よ り早 か っ た。 2.東 洋 の 奇 跡 郭 沫 若 は続 け て 、文 明 開化 ・明 治 維新 に就 い て 、 概 略 次 の よ うに述 べ て い る 。 日本 は異 教 を敵 視 した 結 果 、 何 回か ひ どい 目に 遇 い 、 封 建 的 な文 明 で は科 学 的 な文 明 に対 抗 で きな い 。維 新 を図 る道 しか ない と悟 り、 敵 視 か ら歓 迎 ・崇 拝 と方 針 転 換 す る 。 そ して 、 不 平 等 条 約 の束 縛 か ら抜 け 出 し、 半 植 民 地 状 態 か ら脱 出 し、 国 家 社 会 主 義 に対 して言 う個 人 資 本 主 義 を採 用 して 、何 十 年 か の 問 に近代 国 家 へ と変 身す る訳 で あ る。 そ の ス ピ ー ドか ら言 って 、 これ は正 に 奇 跡 で あ る。 「日本 の 明 治維 新 が 成 功 を収 め た 所 以 は、 治 人 治 法 の 両 方 と も宜 し きを得 た こ とが 、 ま こ とに 否 認 す べ か らざ る 因 数 で あ っ た 。」44)日本 の 明 治 維 新 時 代 は 立 派 な 人 が 多 か っ た し、 法 律 も厳 明 で、 憲 法 な ど早 くか ら頒 布 され 、 人 々 は そ う い っ た 法 を守 った ため に、 国事 が容 易 に軌 道 に乗 っ た。 とい うの も、 もち ろ ん 間 違 い で は な い。 但 し、 そ れ は 内 因 で あ っ て、 外 因 も必 要 で あ る。 そ して、 郭 沫 若 は そ れ らを ま とめ て 、奇 跡 ・成 功 の 原 因 を 中国 と比 較 しなが ら分 析 す る の で あ る 。 第 一 に、 日本 は 国土 が狭 く、 植 民 地 の 価 値 が割 合 低 い の に対 して、 す ぐそ の 傍 に 国 土 が 広 く、 資 源 ・物 産 が 豊 富 で 、広 大 な 市 場 を有 す る、 植 民 地 的価 値 の 高 い 中国 が あ っ た 。 そ の 結 果 、 世 界 の資 本 主 義 国 は 日本 に そ れ ほ ど注 意 せ ず 、 専 ら目 を 中 国 に向 けた 。 中 国 は 日本 の盾 、 目 を逸 ら さ せ る役 割 を果 た した の で あ る。 そ れ だ け で な く、 日本 自身 に と って も 中 国 は最 大 の市 場 で あ っ た し、 無 尽 蔵 に近 い ほ どあ る原 材 料 ・労 働 力 の供 給 地 で もあ っ た。 第 二 に、 日本 の 国 内 に は 障 害 物 が 比 較 的 に少 な く、 反対 勢 力 が 弱 い の に対 して 、 中 国 は そ れ が 非 常 に多 くて 強 い 、 清 朝260年 の 支 配 は 国 の 発 展 の上 で の 極 め て 大 き な障 害 で あ っ た。 特 に 清 末 に は益 々保 守 的 な方 向 に 向 か い 、 帝 国 主 義 列 強 と結 託 して 革 新 勢 力 を反 乱 者 の一 党 と見 て 弾 圧 し 奈 14 良 大 学 紀 要 第29号 た 。 日本 は ち ょ う ど逆 で 、 封 建 的 な保 守 勢 力 は徳 川 幕 府 で 、 人 臣 の地 位 に あ り、 革 新 勢 力 は皇 室 を護 持 し、 言 わ ば 天 子 を擁 して諸 侯 に令 す る 立場 にあ っ たの で 、 逆 臣 を討 伐 す る とい う こ と に な る。 第 三 に、 日本 人 は確 か に努 力 した 。 日本 人 は 努 力 して苦 労 に耐 え 、 一 意専 心 に 目標 を 目指 して 頑 張 った 。 この 点 を認 め な い訳 に は行 か ない 。 この よ う に して 、 ア ジ アで は た だ 一 つ 近代 化 に成 功 し、 先 進 国入 りす る よ う に な るが 、 順 調 に 行 った 分 だ け、 上 り坂 を速 く登 っ た分 だ け 、 下 り坂 か ら滑 り落 ち る の も速 か った 。 日本 が 封 建 制 の社 会 か ら資 本 主 義 社 会 に脱 皮 した ば か りの 時 は、 そ の全 て の努 力 は積 極 的 で 前 向 きで 進 歩 的 で あ った 。 そ の 対 外 の 戦 争 もそ うで あ っ た 。 日本 の 新 興 文 化 は大 々 的 に 進 歩発 展 し、 世 界 の 人 類 に も貢 献 した 。 日本 人 の科 学 の発 明 ・発 見 に於 け る業 績 も大 した もの で あ った 。 医 学 だ けで も世 界 的 な研 究 を した 。 とこ ろが 、 日露 戦争 以 降 、 日本 は徐 々 に侵 略 的 な 帝 国 主 義 国 へ と変 わ っ て行 っ た。 3.恩 知 らず 日 中戦 争 勃発 後 間 も な くの1937年8月 、郭 沫若 は 』「我 々 は なぜ 抗 戦 す るの か 」46)とい う文 章 で 、 怒 りを込 め て 、 「 東 洋 にそ の数 少 な くな い一 群 れ の 狂 犬 が現 れ た。 そ れ はつ ま り横 暴 極 ま りな い 日本 の 軍 人 で あ る。」 とい うそ の 軍 人 及 び 日本 人 を 「恩 知 らず 」 と批 判 した。 「我 々 中華 民 族 は平 素 か ら平 和 を愛 す る 民 族 で あ る。 我 々 の先 祖 は我 々 の た め に4千 年 の文 化 を築 き上 げ て くれ た。 そ れ は仁 義 を大 本 とす る文 化 で あ る 。我 々 は この 文 化 を贈 り物 と して 日本 に プ レゼ ン トした。 そ の お か げ で 、 日本 は千 年 も前 か ら原 始 的 な状 態 か ら脱 出で き、 我 々 と同 じ レベ ル に達 す る こ とが 出来 た の で あ る。 … … こ の文 明 を 欧米 民 族 は 又 贈 り物 と して 日本 に プ レゼ ン トした。 そ の お か げ で 、 日本 は50年 前 に封 建 的 な状 態 か ら脱 出 し、 欧 米 人 と同 じ レベ ル に達 す る こ とが 出来 た。 然 し、 日本 人 、狂 暴 な軍 部 統 制 下 に あ る 日本 人 が 我 々 に返 して きた贈 り物 は何 で あ ろ うか 。 文 明 を破 壊 し、 人 類 の福 祉 を無 残 にす る飛 行 機 や 大 砲 、 毒 ガス や 細 菌 で あ る!」 4日 後 、 「世 界 の 友 人 に告 げ る書 」47)で、 再 び次 の よ うに批 判 して い る。 「我 々 は只 我 々 が歴 代 に亘 って 創 り出 した文 化 を贈 り物 と して 近 隣 の 兄 弟 民 族 に プ レゼ ン ト し た だ け で あ る。 日本 民 族 は 我 々 の贈 与 す る主 な相 手 で あ っ た 。彼 ら は我 々 の 文 化 の洗 礼 を受 け 、 千 年 前 に原 始 的 な状 態 か ら脱 出 し、 我 々 と同一 レベ ル に 達 した の で あ る。 とこ ろ が 、 口 を開 け て は 『東 ア ジ ア の平 和 を守 ろ う』 と言 う そ の 日本 軍 部 が我 々 に返 して き た もの は どん な もの で あ ろ うか。 誠 に感 謝 す べ き もの で は な い か?飛 行 機 ・大砲 の 爆 撃 、 毒 ガス ・細 菌 の毒 殺!」 そ して又 そ の4日 後 、 「理 性 と野 性 との 戦 い」48)で、続 け て 、 次 の よ う に批 判 した。 「彼 らの文 字 ・思想 ・芸術 ・社 会 組 織 の仕 組 み ・生 産 方 式 な どそ の 源 は み な我 々 で あ る。何 千 年 以 来 日本 は ほ しい ま ま に我 々の 恵 沢 に浴 して きた は ず で あ る。 … … しか し、 日本 は我 々 の この 何 千 年 と続 け て贈 って きた 贈 り物 に対 して何 を返 して きた で あ ろ うか 。 日清 戦 争 か ら今 まで 次 か ら次 へ とわ が 国 を侵 略 し、 此 の 程 横 暴 極 ま りな き絶頂 に達 した の で あ る。 … … 日本 人 は彼 らの 野 性 を余 す と ころ て く露 に し、 世界 文化 を踏 み躍 って い る。」 「 昔 の 日本 が 我 々 に感 謝 す べ きで あ る こ とは 言 う まで も な く、 今 の 日本 も多 か れ 少 なか れ 我 々 に 感 謝 す べ きで あ る。」49)と述 べ て、 日本 は解 決 で き る はず が な い土 地 の 問 題 を抱 え、 イ ギ リ ス 蘇:中 国人 の 日本観 一 郭沫若 15 の よ う に、 農 業 をあ き らめ、 専 ら工 業 や貿 易 で 行 く しか な い 。 と ころ が 、 日本 は資 源 に欠 乏 して い る。 特 に、 産 業 の 主 な原 料 で あ る石 炭 と鉄 が 足 りな い。 大 量 生 産 す る に は大 量 消 費 を有 す る大 市 場 が 必 要 で あ る。 そ れ も 日本 に は な い 。 要 す る に 、 「我 々 中 国 との 間 の 平 和 及 び 親 善 は 日本 が 資 本 主 義 を維 持 す る主 な一 環 で あ る。」 彼 らは我 々 に協 力 を求 め て きた し、 我 々 も この 何 年 か黙 って彼 らの 数 々の 問 題 を解 決 して や っ て きた 。 そ れ な の に 、彼 らは貧 欲 この 上 な く、 な ん と我 々 民 族 の 生 存 まで 脅 か そ う と して い る の で あ る。 い くら我 々 が寛 大 で あ ろ う と、 この 残 忍 さに は も う堪 忍 袋 の 緒 が 切 れ た 。 1931年 の 満 州 事 変 で 日本 は 中 国 の東 北 地 方 を侵 略 し、1932年 の 上 海 事 変 で 上 海 を踏 み 躍 り、続 け て そ の 魔 の 手 を熱 河 ・河 北 へ と伸 ば し、1937年7月7日 には 支 那 事 変 を起 こ し、 日中戦 争 に突 入 した 。 華 北 へ の 爆 撃 だ けで な く、 華 南 へ の爆 撃 も続 行 され て い る 中 に書 か れ た書50)で 、郭 沫若 は次 の よ う に指 摘 して い る。 「日本 軍 部 の 野 心 は止 ま る こ と を知 らな い 。 彼 ら の所 謂 『 大 陸 政 策 』 は 完 全 に 中 国全 土 を 占領 しな けれ ば な らな い と、 公 然 と大 胆 に表 明 して い る。 彼 らの 中 国 を併 呑 す る とい う企 み は既 に 四 五 十 年 前 か ら温 め て きた 。」 彼 ら は彼 らの 陸 海 空 軍 は 世 界 で 無 敵 と判 断 し、 又 ス ペ イ ン 内 戦 で 、 文 明 諸 国 が そ ち らに気 を取 られ 、極 東 に まで 出 す 力 も余 裕 もな い の を幸 い に、 そ れ こ そ千 載 一遇 の 好 機 会 と と ら え、 全 武 力 で 以 て 中国 に攻 め寄 せ て きた の で あ る。 こ れ は本 性 を丸 出 しに し、 「生 命 線 」 とか 「皇 軍 の威 力 」 を叫 び な が ら飛 行 機 ・大 砲 で 攻 撃 し て きた 武 士 の 顔 と姿 で あ る 。 日本 は この 地 に も う一 つ の顔 と姿 を持 って い る。 芸 者 の顔 と姿 で あ る。51)「同文 同種 」 とか 「共 存 共 栄 」 とか 「日中 親 善 ・共 同 防 共 ・経 済 合 作 」 の 三原 則 で 「東 亜 新 秩 序 」 を構 築 す る とか の 美 辞 麗 句 を 口 に した 日本 で あ る。 日本 の 政 治 家 の 中 で硬 骨 の 人 、例 えば 浜 口幸 雄 ・犬 養 毅 ・井 上 準 之 助 ・団 琢 磨 ・斎 藤 実 ・高橋 是 清 等 は み な軍 部 に殺 害 され た。 只 一 人 の 元 老 で あ る西 園寺 公 望 公 爵 も政 党 が 機 能 しな くな り、 軍 部 の 勢 力 が 膨 張 す る よ うに な って か ら どれ く らい頭 を痛 め 、 苦 労 したか 分 か らな い 。 は じめ は 海 軍 で 以 て 陸軍 を牽 制 し よ う と した 。斎 藤 実 ・岡 田啓 介 の 組 閣 が そ の 表 れ で あ る 。 二 ・二 六 事 件 後 は陸 軍 内部 を分 裂 させ よ う と して い た 。 宇 垣 内 閣 の流 産 、 林 内 閣 の よ う な奇 形 児 の 誕 生 が そ の 表 れで あ る。 そ れ も失 敗 に 終 わ り、 最 後 の 手 と して 、彼 の 秘 蔵 っ子 と言 わ れ る近 衛 文 磨 を担 ぎ出 した訳 で あ るが 、 意 に反 して、 近 衛 文 磨 は軍 部 の ロボ ッ ト ・代 弁 者 に な っ て しま っ た 。52) 軍 部 は最 初 中 国 で以 て 中 国 を制 し、 中国 人 で 中 国 人 をや っつ け よ う と したが 、失 敗 し、 自 ら出 動 せ ざ る を得 な くな っ た し、 日本 の 諸 条 件 か ら して速 戦即 決 の 方 針 を採 らざ る を得 ず 、 そ れ で 臨 ん だが 、 泥 沼 に 陥 り、 持 久 戦 に な っ て し まっ た 。53) 日本 は この 戦 争 に絶 対 に負 け る 。何 故 か とい う と、 「日本 軍 部 の 凶 暴 は そ の 経 済 を土 台 に して い るが 、 日本 経 済 は 中 国 に頼 り切 っ てい る の で あ る 。 中 国 は 日本 経 済 の息 の根 を止 め る こ とが 出 来 る 。従 って 、 日本 軍 部 の 息 の 根 を止 め る こ とが 出来 る の で あ る 。」54)「 彼 らの 経 済 の基 礎 の 大 半 は我 々 中 国 とい う この 世 界 的 な市 場 に あ る。 彼 らが我 々 を搾 取 す る に は ど う して も平和 的 な環 境 が必 要であ る 。 戦争 は彼 ら 自身 の 産 業 を破 壊 した だ け で な く、 彼 らの市 場 を もだ め に して しま っ た 。 つ ま り、 これ は 日本 の 自殺 的 な行 為 と言 え る 。 … … 日本 経 済 の死 活 を握 って い るの は我 々で あ る 。従 っ て 、 日本 軍 部 の 死 活 を握 っ て い る の は我 々 とい う こ とに な る 。 … … 我 々 が 長 期 的 抗 戦 16 奈 良 大 学 紀 要 第29号 す る こ とに よっ て 、 日本 経 済全 体 を崩 壊 させ れ ば、 日本 軍 部 を滅 ぼ す こ とが 出来 る とい うこ とで あ る。」55)次に、 「日本 人 が と りわ け馬 鹿 で あ るの は、 わ が 軍 の 力 しか 知 らず 、 わ が 民 衆 の力 を知 らない とい う こ とで あ る。… … 民 衆 の協 力 の な い武 力 だ け で は 断 じて勝 利 に導 くこ と は出 来 ない 。 … … 愚 か な 日本 人 は 全 世 界 の 平 和 を 守 る力 も知 ら な い 。」56)とい うふ う に 、 郭 沫 若 は 日 中戦 争 中 時 局 に も大 変 な 関心 を持 ち 、 そ れ を検 討 ・分 析 ・判 断 し、書 き続 け、 国 民 や 世 論 に訴 え た の で あ る。 4.日 本 社 会 の 階 層 郭 沫 若 はマ ル ク ス ・レー ニ ン主 義 者 に は なれ な か っ た もの の 、 そ の 理 論 を少 しは蓄 っ て い る の で 、 階 級 的 な 分 析 方 法 で 物 事 を見 る こ と はあ る程 度 出 来 る。 彼 は 日本 社 会 の 階 層 に就 い て 、 「海 濤 集 」 の 「東 海 を越 え て」57)で、 次 の よ うに紹 介 して い る 。 「明 治 維 新 以 後 、 封 建 的 藩 主 制 を改 革 したが 、 氏 族 の上 で は依 然 と して皇 族 ・華 族 ・貴 族 ・士 族 の 分 を保 持 して い る。 皇 族 は 天 皇 の 族 系 で あ り、 華 族 は皇 族 の 近 親 で あ り、 貴 族 は 旧 時 の 藩主 の 後 商 お よ び新 封 建 の公 侯 伯 子 男 な どで あ り、 士 族 は 旧 時 の武 士 の 子 孫 で あ る。 名 義 上 四族 平 等 で はあ るが 、 同 族 で ない 者 の 間で は、 普 通 結 婚 を通 じな い 。 この 四 族 の ほか に平 民 が あ り、平 民 の ほか に なお 新 平 民 が あ る 。 この 新 平 民 は一 般 人 か らは犬 や 豚 と同 じに視 られ て い る。 俗 間 の 悪 語 で これ を 『ヨツ』 と称 して い る。 つ ま り 『四つ 足 』 とい う意 味 で あ る。 日本 の 社 会 に い わ ゆ る水 平 運 動 な る もの が あ るが 、 こ れ は これ らの新 平 民 の 組 織 す る 人権 運 動 なのである。 日本 人 の 新 平 民 に対 す る蔑 視 は 、 お そ ら くア メ リ カ人 の黒 人 に対 す る蔑 視 と だい た い 同 じで あ る。新 平 民 は事 実 上 選 挙 権 も被 選 挙 権 もな い。向 か い合 っ て住 ん で い て も、た が い に挨 拶 し ない 。 は な はだ しい の は新 平 民 の坐 っ た腰 掛 には 坐 りた が らず 、 新 平 民 の使 った碗 を使 うの を嫌 う。 こ れ らの 忌 避 は、 わ れ わ れ 中国 人 か ら見 れ ば、 い さ さ か不 可 思 議 の よ うだ 。 で は新 平 民 はい っ た い どん な 人種 な の か?実 は通 常 の 日本 人 と少 し も区 別 は ない 。 あ る の は た だ この 社 会 階層 の 属 性 だ け で あ る。 だ が 士 族 と平 民 の 間の 境 界 線 は そ れ ほ ど厳 し くな く、 たが い に通 婚 で き る。 これ は あ る い は 明 治 維新 の 唯 一 の 社 会 変 革 な の か も しれ な い 。 士族 と平 民 か ら昇 っ て貴 族 に な る こ とが で きる。 だ が 平 民 か ら昇 って 士 族 に な る こ とは永 遠 に不 可 能 で あ る。 とい うの は爵 位 の 上 で は も はや 武 士 と い う段 階 は な い か らで あ る。」 日本 人 で は ない 在 留 外 国 人 で あ る朝 鮮 人 に就 い て も、 郭 沫 若 は 「帰 去 来 」 の 「鶏 の 帰 去 来 」58) で 観 察 して い る 。 1923年 の 関 東 大 震 災 で 、東 京 は壊 滅 した が 、10年 間の 再 建 で 、一 躍 世 界 第 二 の大 都 市 に な った 。 そ の 東 京 を建 て 直 した 、 とい う よ り も生 み 出 した の は、 大 震 災 当時 日本 人 に大 々 的 に虐 殺 さ れ た 朝 鮮 人 で あ る 。彼 らが や らせ られ る仕 事 と言 え ば 、 土 木 建 築 の よ うな重 労 働 で 、待 遇 は非 常 に悪 い 。 そ して 、 い つ何 時 で も失 業 が 待 ち構 え て い る 。 正 に牛 馬 の 如 く、 否 牛 馬 に も及 ば ない 奴 隷 で あ る 。家 族 を養 う こ と も出 来 な い の に、 況 して 教 育 を受 け る機 会 な ど勿 論 な い 。 5.日 本 語 の 敬 語 蘇:中 国人 の 日本観 一 郭沫若 17 郭 沫 若 は 、 大 人 に な っ て か ら、 た とえ外 国 に何 年 い て も そ の 国 の 言 葉 に精 通 す る の は無 理 で 、 日本 語 で 文 章 を書 くの は苦 手 だ と言 っ て い るが 、 会 話 は相 当 出 来 る み た い で あ る。 日本 の刑 事 か ら、 あ な たの 「日本 語 が 実 に達 者 だ、 まるで 日本 人 と変 わ りはな い」 と賞 め られた こ とが あ る。59)事 実 、彼 は 日本 語 の敬 語 に も注 目 して い る。 郭 沫 若 は 東 京 の 警視 庁 に3日 間留 置 され た こ とが あ る が 、 訊 問 に当 た った 外 事 課 長 の 日本 語 に 就 い て 、彼 は次 の よ う に述懐 して い る。60) 「 彼 は 第 二 人称 の 『キ ミ』 とい う称 呼 で私 を呼 ん だ 彼 が 『オ マ イ 』 とい う称 呼 を用 い な か っ た こ と を感 謝 す る。 日本 語 の第 二 人 称 に は等 級 が あ る。 人 を尊 敬 す る と き に は 『ア ナ タ』 と称 し、軽 蔑 する と き に ば 『オマ イ』 とい う(と き には 愛 称 に もな る)。 平 等 視 す る と きに は 『キ ミ』 とい う(学 生 は お 互 い に よ く これ を用 い る)。 だ が 私 た ち は初 対 面 で 、彼 が 敬 称 を用 い ず に こ の 平 等 の称 呼 を用 い た の は、 実 は軽 視 して い る の だ 。 だ か ら私 の方 で も彼 を 『キ ミ』 とい う こ とに した。」 「日本 人 の 日常 用 語 と人 称 に は、 尊 卑 の 間 に 著 しい 隔 りが あ る。 同一 の 意 味 を もつ 言 葉 で あ っ て も、長 くい え ば い う ほ ど、 ま た費 や す 言 葉 が複 雑 に なれ ば な る ほ ど、相 手 に対 す る尊 敬 と自己 卑 下 と を現 わ す こ と に な るの で あ る。 人 称 は とい う と、 同 じ 『弥 』 とい う言 葉 に も、 何 種 類 もあ る。 官位 を も って い る人 に対 して は、文 官 な ら勅 任 官 以 上 、武 官 な ら少 将 以 上 は 、一 律 に 『閣 下 』 と呼 ぶ 。 私 は 、 政 治 部 にい た こ ろ、 中将 待 遇 を受 け て い た の で 、 彼 らは私 を本 当 の 武 官 と思 い 込 み、 習慣 どお りに 『閣下 』 と呼 ん だ 。私 に は そ れが い や で た ま ら なか った が 、彼 らに して み れ ば 、 そ れが 当然 の習 慣 で あ っ た の で あ る 。」61) こ こ で言 う 「彼 ら」 とは 当 時郭 沫若 の監 視 に当 た って い た刑 事 の こ とで あ る 。 郭 沫 若 は 日本 の高 等 学 校 の外 国語 教 育 に就 い て も書 い てい る。62) 「日本 の高 等 学 校 の授 業 は 、 半 分 乃 至 半 分 以 上 は外 国 語 を学 ぶ こ とで あ っ て 、 第 一外 国 語 と第 二 外 国語 が あ る。 こ と に僕 た ち の よ う に医 学 志 望 の 者 は 、 第 一 の ドイ ツ 語 、 第 二 の 英 語 の 外 に 、 第 三 と して ラ テ ン語 が あ っ た。 一 週 間 の外 国語 の 時 間 は二 十 二s三 時 間以 上 だ っ た 。」 外 国 語 教 育 の教 員 ・教 材 ・教 授 法 に就 い て も、 日本 は 中国 と全 然 違 う。 「非 常 に変 っ て い て 、彼 等 は特 に訳 読 に重 きを お く。外 国 語 を教 え る先 生 は大 抵 み な 帝 大 出 身 の 文 学 士 で 、 も と も と決 して 語 学 の 専 門家 で はな い 。又 学 生 の 志 望 して い る科 学 に つ い て 素 養 が あ る わ けで もな く、 彼 等 は よ く文 学 上 の 名 著 を選 ん で読 本 とす る こ と に して い た 。授 業 の 時 の 様 子 も特 別 変 っ て い て 、先 生 が解 釈 して くれ る の で な くて 、 学 生 が 解 釈 す る の だ 。先 生 は た だ 某 々 の 学 生 を指 名 して起 立 して原 書 の 一 節 を読 ませ 、 っ つ い て 日本 語 で 翻 訳 させ る 。訳 が 間 違 って い る時 に は、 外 の学 生 に訂 正 させ る か 、 或 い は先 生 自身 で訂 正 す る。 つ づ い て又 次 の 学 生 を指 名 し て 読 ませ 、 訳 させ る。 当 て る方 法 は 、 あ る先 生 は席 順 に 当 て るが … … 。 あ る先 生 は全 然順 序 も何 もな く、 手 当 た り次 第 に 当 て る 。 だ か ら学 生 の 自習 時 間 は 殆 ど辞 書 を め くる 時 間 だ とい って もい い 。」 この 時 か ら既 に1世 紀 近 く経 っ て い る が 、 日本 の 外 国 語 教 育 は 旧態 依 然 で あ る 。 6.日 本 の 文化 侵 略 1940年7月 、郭 沫若 は 「3年 来 の文 化 戦 争 」 とい う文 章 を発 表 し、 日本 の対 中文 化 侵 略 に就 い 奈 18 良 大 学 紀 要 第29号 て 詳 し く述 べ て い る。63) 日本 の 中国 に対 す る文 化 侵 略 は 日中戦 争 が 勃 発 す る何 十 年 も前 か ら既 に始 ま って い る。1905年 、 上 海 に東 亜 同文 書 院 を設 立 し、 多 くの 中 国 侵 略 の 人 材 を養 成 す る と同 時 に、 中 国 の奥 地 に ま で浸 入 し、 数 々 の調 査 を実 施 し、 ス パ イ の ネ ッ トワ ー ク を張 り巡 ら した 。 日本 の 外 務 省 に あ る対 支 文 化 局 とい うセ ク シ ョ ン或 い は そ の 後 拡 大 して 出来 た興 亜 院 の文 化 部 は 対 中文 化 侵 略 の大 本 営 で あ る。 更 に、1900年 の義 和 団事 件 の賠 償 金 で 、 上 海 に 自然 科 学研 究 所 を作 り、 北 京 に文 化 研 究 所 を 作 っ て、 中 国 の貴 重 な資 料 や値 打 ちの あ る文 化 財 を掠 奪 した 。 そ の他 の 中国 に設 け た公 私 両 方 の 各 種 機 関 や そ の 特 派 員 を使 っ て の文 化 の窃 盗 は計 り知 れ な い 。 何 十 年 こ の方 、 日本 は 中 国侵 略 を重 要 な 国策 と して きた 。 日本 の 教 育 体 系 全 体 が 中 国 に対 す る 文 化 侵 略 の体 系 で あ る 。 そ の よ う な教 育 の 下 で 養 成 され た 日本 人 は殆 どみ な 中 国 を侮 辱 し、 中 国 を侵 略 す る こ と をそ の 天 職 と思 って い る。 中 国が 派 遣 した留 学 生 もそ の よ うな教 育 を受 け 、 一部 の留 学 生 に は 中 国侮 辱 ・中 国 破 壊 の 傾 向 が 見 られ る し、満 州事 変 が 起 こ っ て か らは 自分 の 国 を裏 切 る よ うな こ とをや る者 さえ 出 て きて い る 。 日中戦 争 勃 発 直後 、 日本 は軍 事 侵 攻 と同時 に 、文 化 に対 して も空 前 絶 後 の破 壊 と掠 奪 を しで か した 。 大 学 を 除 く各 種 学 校 の 損 害 だ け で も1億8千379万6千864元 に 達 して い る 。 図 書 の損 害 も絶 大 で あ る 。北 京 か ら20万 冊 、 上 海 か ら40万 冊 、 天津 ・済 南 ・杭 州 か ら10万 冊 掠 奪 され 、 例 え ば海 塩 ・鎮 江 ・蘇 州 等 地 の私 蔵 の珍 本 も大 半 強奪 の 目 に遭 っ てい る。 徐 州 の 戦没 以 降 、 戦 争 が 長 期 化 す る よ うに な っ て か ら、 日本 は従 来 の文 化 侵 略 の 手 口 を又 使 う よ うに な り、 日本 の 浪 人 や 中国 の漢 好 を 出動 させ て は 世論 を翻 弄 した り、御 用 宗 教 団 体 を林 立 さ せ た り、 日本 語 の 習 得 を強 制 した り、 文 化 人 ・知 識 人 を買 収 した り、 売 国 的 ・迷 信 的 な出 発 物 や 淫 書 を乱 発 した りして 、 中 国 は 百鬼 夜 行 、魑 魅 魍 魎 の 世 界 に化 して い る。 日本 の文 化 侵 略 の 目的 は 一 貫 して 中 国 人 の 民 族 意 識 を消 滅 し、抗 戦 の意 志 を挫 くと こ ろ にあ る。 概 して 言 えば 、 郭 沫 若 の 日本 観 ・日本 論 は 、 近代 日本 は 中国 に対 して 政 治侵 攻 ・軍 事 侵 攻 ・経 済侵 攻 ・文 化 侵 攻 を実施 し、 中 国 を滅 ぼ そ う とす る国 で あ る、 とい う もの で あ る 。 IV.日 本 人 の性 格 郭 沫 若 は 前 述 の 通 り、2回 に分 け て で は あ るが 、 合 わ せ て20年 も 日本 に 滞 在 した 。 しか し、1 回 目 は留 学 で、 関心 事 は 欧 米 文 学 、 詩 作 で あ っ た し、2回 目は 亡命 で 、 そ れ ま で の 人 生 を振 り返 り、 自伝 を書 い た り、 中 国 の歴 史 や 甲骨 文 ・金 文 を調 べ た りで 、 日本 ・日本 人 の研 究 をや っ た訳 で は ない ど こ ろか 、 日本 の文 芸 界 ・作 家 ・学 界 ・学 者 或 い は普 通 の 日本 人 との付 き合 い も少 な い 方 で あ っ た。 自ず と 日本 人 の民 族 性 ・国 民性 に対 す る観 察 は表 面 的 に な りが ち で あ る し、 認 識 も 浅 い 、 時 に は偏 見 と言 わ れ る の も免 れ な い 。 時代 、 特 に 日中戦 争 とい う背 景 もあ っ て、 日本 人 に 対 す る尊 敬 の 念 や 愛 情 な どの感 情 が 生 じ る はず が な く、 どち らか とい う と、 そ の 評 価 は消 極 的 ・ マ イ ナス ・批 判 的 で あ る と言 え よ う。 後 日、 と言 っ て も、 何 十 年 後 に な り、 郭 沫 若 が 中 日友 好 協 会 の 名 誉 会 長 の ポ ス トに就 き、 日中 両 国 の 友 好 親 善 交 流 協 力 の仕 事 をや る よ う に な り、 又 日中 国 蘇:中 国人の 日本観 一 郭沫若 19 交 正 常 化 し、 日本 の 友 人 と接 触 す る機 会 が 随分 増 え た に もか か わ らず 、 そ の 日本 人 観 は熱 くな ら ず 、冷 め切 っ た ま まで あ った 。 中国 の 文 化 人 ・知 識 人 は 総 じて、 ア メ リカ を 崇拝 し、 ア メ リ カ に 恐 怖 を感 じる と同 時 にア メ リ カ に親 近 感 も感 じて い る 。 そ れ に対 して、 日本 は軽 視 し、 日本 人 を 馬 鹿 にす る傾 向が あ る。 中 国共 産 党 ・政府 も 日本 には 常 に強 硬 で 、柔 軟 性 に欠 け 、冷 静 ど ころ か 、 冷 た い。 郭 沫 若 の与 え た影 響 と大 な り小 な り関係 が あ る。 1937年7月 、 日本 か ら一 人 で 帰 国 さぜ る を得 な くな る訳 で あ るが 、 郭 沫 若 は ア ンナ の こ とが 心 配 で 堪 らな い。 そ れ を察 して書 い た もの が あ る 。64) 「か れ とそ の近 所 は 、平 素 とて も仲 が よ い。 何 軒 か ら、行 き来 して、 大 変 親 密 で あ る が 、 しか し、 日本 人 は結 局 は 日本 人 で あ って 、 われ わ れ は か れ ら を、 ほ ん と うの 友 人 とみ る こ とは で き な い 。 か れ らの 目 は 、 と くに勢 力 や利 益 に聡 い よ うだ 。 か れ の 帰 っ た こ と をか れ らが 発 見 す る と、 か れ の 家 族 に対 して 、 急 に冷 淡 と な り軽 蔑 し、 あ る い は 安 梛 夫 人 を 笑 い もの にす る に ちが い な いo 『郭 さ ん は帰 っ てい っ て しま っ た ん だ っ て ね え 。』 『あ なた は後 家 さ ん に な りま した ね え。』 『あ な たの 生 活 問題 は将 来 お もい や られ るね え。 中 国 人 と結 婚 す る と、 い ろ い ろ 、頼 りに な ら ぬ こ とが あ るで し ょう。 も し もあ の 人 が 心 変 りで も した ら、 は っは っ は!』 『… … 』 ま た、 か れ らは た が い に ひ そ ひそ と囁 きあ っ して 、 ひ との 不 幸 を喜 び、 彼 女 の悪 口 を 言 うだ ろ う。 そ れ は安 郷 夫 人 か らい って 、 ほ ん とう に、 た え が た い 、 つ らい こ とで あ る 。鼎 堂 先 生 は ど う して そ の よ う な こ と を知 りなが ら、 彼 女 を放 っ て帰 って い け よ う。」 皮 肉 に もそ の 話 は的 中 し、 彼 は心 変 わ りす る の で あ る が 。 郭 沫 若 は 「日本 の子 供 」65)で、 ど う して も忘 れ ら れ な い 逸 話 と して 、 市 川 にい た 頃 、8、9歳 に な る娘 淑 子 を連 れ て村 に あ る八 百 屋 へ 買 物 に行 っ た時 の ち ょっ と した 出 来 事 を書 い て い る 。 そ の 日は 生 憎 雨 で 、 道 は泥 沼 に な っ て い た 。八 百屋 の 前 ま で来 た 時 、 同 じ年 ご ろの 男 の子 が よろ よ う よ ろめ き なが らや っ て来 た。 道 路 は狭 くな い の に、 自分 か らは避 け よ う とせ ず に、 淑 子 の足 を 踏 み つ けた 。 足 は痛 い し、 靴 下 も汚 れ た 。 そ の 子 は謝 る どこ ろ か 拳骨 で 淑 子 の 背 中 を殴 り、 睨 み 付 け なが ら、 「こ ら!こ の 野 郎!邪 魔 だ、 退 か な い か!」 と怒 鳴 っ た。 「 本 当 に質 の 悪 い子 だ と思 った が 、 私 は 淑 子 を連 れ て そ の 場 を離 れ た 。Jそ して 、 こ う書 くの で あ る。 「子 供 は 可 愛 い もの で 、 私 自 身人 一一 倍 子 供 が 好 きで あ る。 と ころ が 、 日本 の 殆 どの 子 供 は そ の 可 愛 ら しさ を失 っ て し まっ て い る。 日本 の子 供 は や や もす れ ば 直 ぐ戦 争 ご っ こ を した が り、3人 5人 で 泥 棒 の 真 似 で な け れ ば 兵 隊 の 真 似 を す る 。 新 聞 紙 で兜 を作 った り、 竹 や木 の枝 で 刀 ・槍 を 作 っ て 遊 ぶ 。 … … これ は 日本 の 教 育 が そ うな ら しめ た の で あ る の は言 う まで も ない 。 戦 争 好 きな 日本 人 は そ の侵 略根 性 を幼 児 の 時 か ら骨 髄 に徹 す る まで 植 え付 け る の で あ る 。」 彼 の 親 友 で あ る郁 達 夫 が 恐 ら く 日本 の憲 兵 に暗殺 され たで あ ろ う と聞 き、彼 はそ の 責 任 は佐 藤 春 夫 にあ る と推 測 す る。66)支那 事 変 が 起 こっ て 間 も な く彼 の 日本 脱 出 、 帰 国 は そ の 半 年 前 に来 日 した 郁 達 夫 と密 接 な 関 係 が あ る と佐 藤 春 夫 は 思 い込 み 、 「中央 公 論 」 に発 表 した 「ア ジ ア の子 」 とい う小 説 で 、郁 達 夫 をス パ イ に仕 立 て上 げ 、描 くの で あ る。 佐 藤 春 夫 は魯 迅 を 日本 に紹 介 した とい うの で 、中国 の 一 部 の 作 家 か らは好 感 を持 た れ て い た が 、実 際 彼 は 日本 軍 閥 の代 弁 者 で あ り、 奈 20 良 大 学 紀 要 第29号 大 日本 主 義 の 積 極 的 な鼓 吹 者 で あ る。 そ して又 「日本 人 は心 が 狭 くて小 さい 上 に、 仇 討 ち ・報復 の気 持 ち が とて も強 い 」 と来 て い る 。 日本 の 憲 兵 は郁 達 夫 の そ の こ と を覚 え て い て 、 悔 しい が 故 に、彼 を殺 した の で あ る。 と郭 沫 若 は 断言 し、 日本 の 昭 和 天 皇 を 断頭 台 に送 るべ き、 日本 の フ ァ シス トの 頭 目全 体 の命 で 償 うべ き と主 張 す る。 日本 人 は 「平 時 我 々 を 中華 民 国或 い は 中 国 と呼 ぶ の を 潔 ぎ よ し と し な く、必 ず 『 支 那 』 と呼 ぶ 。 日本 人 の 口 か ら吐 き出 す 『支 那 人 』 は本 当 に人 間で は な い。彼 等 はず っ と前 か ら我 が 国 を滅 ぼ し、 我 が 民族 を消 滅 し よ う と企 ん で 来 て い るの で 、 我 々 を劣 等 な人 種 と見 る の で あ る。」67) 「『支 那 』 とい う言 葉 は 、鼎 堂 が 平 素 一一番 い や が る 言 葉 で あ る 。 『支 那 』 は英 語 のChinaに 等 しい け れ ど も、 日本 人 の 口か ら言 われ る と、 ばか に した語 調 が あ る の で あ る。」68) 声 が枯 れ る まで 絶 叫 して い るの が 次 の 件 で あ る。69) 「あ あ 、 こ こ は昔 遣 唐 使 が 西 の方 にあ る我 が 国 に渡 航 す る港 で あ った 。 そ の 時 、 日本 の使 臣及 び 唐 に行 く留 学 生 は我 が 国 で我 々 が今 受 け て い る よ う な虐 待 に遇 っ た で あ ろ うか 。 私 は阿 部 仲 麻 呂 が 我 が 中国 に来 てか ら、 そ の名 を晃 文卿 と変 え たの を覚 え て い る 。彼 が 日本 に帰 る時 、 そ の船 が 難 破 した とい う デマ が 飛 び 、李 白は 又 詩 まで 吟 じ、 弔 っ た で は な い か 。 銭 起 に和 上 の帰 国 を見 送 る詩 が あ っ た よ うに思 う。 そ の 時 の 日本 の 留 学 生 は決 して我 々 の よ う に風 雨 を凌 ぐ場 所 さえ な い とい う こ とは なか っ た で あ ろ う。我 々 は こ こ に住 ん で い て 、何 時 も何 人 か の 刑 事に 監 視 され て い る。 我 々 は只 『支 那 人 』 と一 言 耳 にす るだ けで 、 シ ョ ック を受 け る。 あ あ 、 こ れ は何 た る扱 い で あ ろ うか 。」 「日本 人 よ 日本 人!君 た ち 日本 人 は 本 当 に恩 知 らず の人 種 で あ る。 我 々 中 国が 君 た ち に何 を し た と言 うの だ、 こ こ ま で我 々 を蔑 視 し よ う と は?君 た ち は単 に 『支 那 人 』 とい う3文 字 を口 か ら 吐 き出 す だ け で、 既 に我 々 に対 す る最 大 の 悪 意 を曝 け 出 して い る の で あ る。 君 た ち は 『 支 』の字 を発 音 す る 時 は わ ざ と鼻 に嫉 を寄 せ 、 『那 』 を発 音 す る 時 は 鼻 音 を長 く延 ばす 。 あ あ 、 君 た ち は 果 た して こ の 『支 那 』 とい う言 葉 が ど こか ら来 て い る の か を知 って い るの で あ ろ うか 。 あ あ 、 恐 れ 多 く も、 あ の秦 の始 皇 帝 の秦 の 時代 、 君 た ち は ま だ野 蛮 な 人種 で 、 南 洋 で 椰 子 で も食 っ て い た の か も知 れ ない の に!」 「あ あ、恩 知 らず の 日本 人 よ!君 た ち に知 っ て欲 しい 、私 が何 故 に 日本 人 の 偽 名 を使 う の か を。 そ れ は何 も君 た ち の文 化 ・文 明 が 羨 ま し くて で は な い 。 そ れ は 君 た ちの だ ま し討 ち か ら身 を守 る た め な の で あ る 。君 た ち の 帝 国 主 義 は成 功 を収 め た が 、君 た ち の 良 心 は地 に落 ち て し まっ た 。 君 た ち は や や もす る と直 ぐ我 々 は 君 た ち を誤 解 して い る と言 う し、 君 た ち の侵 略 に対 し正 当 防衛 を す る我 々 を不 逞 の や か ら と言 う。 あ あ 、 恩 知 らず の 日本 人 よ。 君 た ちの 心 は どこ まで深 い の か 知 らな いが 、我 々 が誤 解 す るほ どの 深 さが あ る の で あ ろ うか 。 司 馬 昭 の 心 人 皆 知 る と言 わ れ て い る よ うに君 た ち の 下心 は 火 を見 る よ り も明 らか で あ る 。 人 を愚 か 者 扱 い す る の は よ した まえ!君 た ち悔 い改 め た まえ!悔 い 改 め た ま え!よ しん ば私 が嬰 っ た の が 君 た ち 日本 の女 子 に して も、 君 た ちが 悔 い改 め な け れ ば 、私 は何 時 まで も君 た ち を敵 と見 倣 す し、 私 の 女 房 も君 た ち を敵 と見倣 す で あ ろ う!… …」 郭 沫 若 は 日本 の民 族 性 に就 い て 、 中 国 と比 較 し なが ら、 次 の よ う に見 て い る。70) 「鼎 堂 は わ た し に言 った:中 国 人 は好 ん で柳 を植 え 、,日本 人 は好 ん で松 を植 え る 。 そ れ は は っ 蘇:中 国人の 日本観 一 郭沫若 21 き り と二 つ の 民族 性 の 違 い をあ らわ して い る 。儒 弱 と剛 復 との違 い だ 。 か れ は また わ た しに訊 い た:『 君 は初 め て 日本 人 の 下 駄 の 音 を 聞 い た 時 、 異様 にか ん じた か ね?』 か れ は 言 っ た:か れが 初 め て 白本 に来 た 時 、 停 車 場 で 下 駄 の 音 を 聞 い て 、 『こ れ は 馬 蹄 の 音 が 入 り混 じっ て 聞 こ え る の だ ろ う。』 と思 っ た。 この た とえ は、 適 切 で もあ り、 幽妙 で もあ る。」 彼 は 日本 人 の友 達 の 口 を借 りて 、 こ う言 って い る。71) 「彼 は又 日本 人 の 悪 口 を言 うの が 好 きで 、 口 を開 け る とす ぐ 日本 人 は よ く人 をだ ます とか 、 付 き合 っ て はい け な い とか 言 っ た 。私 が 返 事 に 困 っ て い る の を見 て 、彼 は何 時 も弁 解 気 味 に 、 『私 は 日本 人 で す が 、 ど う も 自国 人 の悪 口 を言 うの が 好 きで 、 … …Japaneseisfox,fox!』 と言 う の で あ っ た 。」 「日本 人 で 、 我 々 中 国 人 に対 して ま だ多 少 な りと も敬 意 を抱 い て い る 人 は次 の 二 種 類 の 人 しか い な い 。60歳 以 上 の老 人 と漢 文 の研 究 を専 門 とす る学 者 で あ る。」72)そし て、 岡 山 留 学 時代 、 隣i に住 ん で い た 中 学校 の 漢 文 の 先 生 の 例 を挙 げ 、 そ の 先 生 は 「人 が 古 風 で 、変 って い る。 彼 が 最 も 崇 拝 して い る の は孔 子 で あ る 。」 と書 い て い る。 1937年 の 春 、 東 京 にい る一 部 の 中 国人 留 学 生 が 曹 禺 の 「日の 出」 を上 演 し、 日本 人 か ら大 変 な 好 評 を博 した。 そ れ を2回 目 に見 に来 た秋 田 雨 雀 が 郭 沫 若 に こ う話 した。73)「中 国 人 は 誠 に天 才 で あ る 。 『日の 出 』 の よ うな ス ケ ー ル の 大 き な劇 ・台 本 は 日本 で は稀 に しか 見 れ ず 、非 常 に少 な い 。 と りわ け封 さん の よ う な女 優 は 日本 で新 劇 運 動 が 始 ま っ て以 来 育 っ た こ とが ない 。 『日の 出 』 で ヒロ イ ンに扮 した の は復 旦 大 学 卒 業 生 の封 禾 子 さん で あ っ た。 そ れ を受 け て 、 郭 沫 若 は書 くの である。 「 秋 田 雨 雀 の よ う に中 国 人 の長 所 ・美 点 を 自分 の 国 の 人 ・内 輪 の 人 ・身 内 の長 所 ・美 点 と して喜 ん で くれ る 人 は 日本 に は彼 しか い ない 。… … 封 さ ん は 日本 に留 学 す る つ も りで あ った が 、 日本 人 の迫 害 に耐 え られ ず 、 芦 溝 橋 事 変 が 起 こる 前 に も う帰 国 して し まっ た 。 … … 彼 女 が 熱 海 の 温 泉 へ 行 っ た 時 な ど、 トイ レや 風 呂場 ま で尾 行 が つ い た 。 … …普 通 中 国 人 を よ く思 わ な い 日本 人 は我 々 を嫉 み 、我 々 の成 長 ・発 展 を妨 げ よ う とす るの で あ る。」 彼 は今 か ら60年 も前 の1939年 に書 い た 「 文 化 と戦 争 」 とい う文 章 で 、既 に 日本 人 の 創 造 性 に就 い て 、次 の よ うに述 べ て い る 。74) 日本 は 「ヨー ロ ッパ 文 化 の 洗礼 を受 けて か ら僅 か6、70年 しか 経 っ て い な い 。 そ の6、70年 前 まで は 完全 に中 国 文 化 の 影 響 下 に あ っ た。 この 文化 の 二 重 性 は は っ き り と 日本 人 の 服 装 に現 れ て い る 。 日本 人 は外 出 す る時 に洋 服 を着 、家 で は和 服 を着 る。 こ の和 服 とい うの は実 は我 々 中 国 の 昔 の服 な の で あ る 。或 い は この よ うな歴 史 か ら来 て い る一 種 の相 当特 異 な民 族 性 か も知 れ ない が 、 彼 等 は導 入 に は長 け て い る が 、 創 造 性 に は 欠 け て い る。」 そ れ に対 し、 中 国 人 は創 造 力 が 強 く、 絶 え 間 な く文化 をハ イ レベ ル 、 ハ イ レベ ル へ と発 展 させ る こ とが 出 来 る の で あ る。 「日本 人 は 一 般 的 に言 っ て 自 国 の昔 の作 家 及 び価 値 の あ る作 品 は殆 ど知 ら ない の に、 西 洋 の ソ 連 と欧 米 の作 家 及 び作 品 に は非 常 に詳 しい 。」75)翻訳 に も紹 介 に も力 を入 れ て い る し、 早 い 、 そ れ に対 し、 中 国 は 遅 れ て い る 。価 値 の あ る 、 特 に世 界 的 な価 値 の あ る作 品 も少 な い 。 「日本 人 は 中 国 人 よ り利 口 とは 言 え な い 。」 や は り、 中 国 の作 家 は努 力 が 足 りず 、 い い 加 減 で あ るか ら で あ る。 傅 抱 石 は東 京 で個 展 を 開 い た こ とが あ る が 、 あ る 日横 山 大 観 も見 に来 た 。 「何 人 か の 供 が 群 が 奈 22 良 大 学 紀 要 第29号 り、彼 を取 り囲 ん で い たが 、 彼 の超 然 と した傲 慢 な態 度 は ま る で王 侯 貴 族 の風 貌 とそ っ く りで あ っ た 。 こ うい った と こ ろ は、 日本 人 の風 俗 慣 習 と我 々 の と は少 し違 う。横 山 大 観 もた か が 一 人 の 画家 に過 ぎな い の に。 … … 画 家 の社 会 的 地 位 は少 し高 い。」76) 郭 沫 若 が 北 伐 に参 加 し、 「武 昌 を占 領 した と き、 日本 の 各 新 聞 社 、 各 通 信 社 は いず れ も専 門 の 記 者 を派 遣 して 勤 勉 に 四 面 の消 息 を探 訪 調 査 せ しめ た 。」77)「日本 人 の 中 国 の 事 件 に対 す る関 心 、 中 国 の事 情 に対 す る偵 察 は 、真 に微 至 ら ざ る な しで あ る。」 日中戦 争 で 、彼 が 漢 口か ら船 で撤 退 す る 時 の こ とで あ る が 、 日本 軍 の飛 行 機 の空 襲 が多 い の に 、 彼 が 乗 っ た船 は爆 撃 を受 け な か った 。 「日本 人 の情 報 は異 常 に敏 感 だ っ た か ら、 きっ と要 人 連 の 乗 船 して い な い の を早 く も悟 っ て、 あ との船 客 には 一 発 見 舞 う値 打 ち す らな い と考 えた か も しれ な い 。」78) 広 州 が 陥 落 した こ と は、 武 漢 を攻 め る 日本 軍 に刺 激 と激 励 を与 え 、攻 撃 が 更 に激 化 した 。 そ れ を見 て 、 彼 は こ う言 う の で あ る。79)「 派 手 な手 柄 を好 む貧 禁 な敵 が 、広 州 占領 の 報 で 火 に油 が 注 が れ 、競 争 心 に狂 った と して もむ りは な い 。最 後 の 数 日 間、 撤 退 中 の わ が 方 の 車 や 船 に対 す る空 襲 が こ とに激 し く、 そ れ は気 狂 い じみ た競 争 心 の て きめ ん な現 わ れ と見 え た 。」 と同 時 に、 「日本 人 の習 性 と して は、 負 け ず 嫌 い で あ る 。 戦 に1回 で も負 け た ら、必 ず 必 死 に な っ て報 復 し、名 誉 挽 回 し よ う とす るの で あ る。」80) 日本 人 の 目か ら我 々 中 国 人 は死 を恐 が っ て い る か に見 え、 彼 等 は そ れ を 一番 軽 蔑 して い る。 そ れ に対 し、彼 等 は死 を恐 が らな い と 自負 して い る 。81)ところ が 、1932年1月 、上 海事 変 の 時 、 中 国 第十 九 路 軍 は勇 敢 に戦 った 。 日本 人 に若 し も中 国 の 軍 が み な第 十 九 路 軍 の よ うで あ った ら、 中 国 は征 服 で きな い と思 わせ た く らい で あ る。 「日本 人 は 英 雄 崇 拝 で 、 結 果 的 に第 十 九 路 軍 が 悲 劇 に終 わ っ た こ とは 、彼 等 を して 第 十 九路 軍 を更 に感 心 ・褒 め た た え させ た。」82) 「日本 人 は 器 が小 さ く、度 量 も視 野 も狭 い。事 を起 こす 前 に は相 手 を軽 蔑 し、軽 挙 妄 動 に 出 る 。 事 が起 こ っ て か らは 又 局 部 しか見 ず 、 全 体 が見 え な い。 事 が 終 わ っ て か ら は直 ぐ忘 れ て しま い 、 又 轍 を踏 む の で あ る。」83) そ して 又 「日本 人 は一 貫 して 過 ち を知 りな が ら、 そ の 過 ち を押 し通 す の が好 き な民 族 」84)でも あ る と断 じて い る。 筆 者 は郭 博 氏 の御 夫 人 の華 江 さ ん と復 旦 大 学 で 研 究 室 を共 に して10年 以 上 も一一緒 に仕 事 を し た 。色 々 と御 教 示 い た だ い た の は 言 う まで もな い が 、 そ の 関係 で 郭 博 氏 に も何 度 もお 会 い した 。 中 国 プ ロ レ タ リア 文化 大 革 命 中、 当 時 学 長 を して い た 父 が槍 玉 に挙 げ られ 、何 千 枚 とい う壁 新 聞 で批 判 され 、 筆 者 が 情 気 込 ん で い る の を御 覧 に な られ 、 「そ れ は あ な た の お 父 さ ん を批 判 して い る とい う よ りもむ しろ そ れ を書 い た奴 の顔 を映 し出 して い るの だ 。 『照妖 鏡 』(妖 魔 の 正体 を照 ら し出す 魔 法 の鏡)だ!」 と仰 っ て筆 者 を励 ま して 下 さ った こ と を ま る で昨 日の事 の よ う に覚 えて い る。 こ の場 所 を借 りて謝 意 を記 して お きた い 。 註 1)馬 彬 著 、 郭 沫 若 批 判 、 瞭 原 出 版 社 、1975年9月 重 印1版 、179ペ ー ジ。 蘇 2)金 達凱著 、郭沫若総論 一 中国 人 の 日本 観 ・ 23 ・ 郭沫若 三十至八 十年代 中共文化活動 的縮影、台 湾商務印書館 、民国七 十七年九 月、 1ペ ー ジ 。 3)股 塵 著 、 さ ね と う け い し ゅ う 訳 、 郭 沫 若 日本 脱 出 記 、 第 一 書 房 、1979年11月 、6ペ 4)王 訓詔等編、郭沫若研究資料 ージ。 5)同4)54ペ ・7)同2)351ペ 。 ージ。 ージ。 8)同2)355ペ ージ。 9)同2)356ペ ージ。 10)同4)243ぺ0ジ 11)魯 迅 全 集6、 。 学 習 研 究 社 、 昭 和60年4月 12)同4)287ぺ0ジ 。 13)同4)521ぺ0ジ 。 14)郭 、39ペ ージ。 同3)250ぺ0ジ 6)同2)307ペ 上 、 中 国 社 会 科 学 出 版 社 、1986年8月 ージ。 、123ペ ー ジ 、125ペ 沫 若 全 集 、 文 学 編 第 十 八 巻 、 人 民 文 学 出 版 社 、1992年1月 ー ジ。 、371ペ ー ジ。 15)同13)。 塞 16)同4)51ペ 17)同4)59ぺ0ジ ージ。 。 18)同4)447ペ ージ。 19)同4)1ぺ0ジ 。' 20)岡 崎 俊 夫 ・松 枝 茂 夫 訳 、 現 代 中 国 文 学3、 21)松 枝 茂 夫 等 訳 、 現 代 中 国文 学 全 集 22)小 野 忍 、 丸 山 昇 訳 、 黒 猫 ・創 造 十 年 他 、 郭 沫 若 自伝2、 23)同21)130ぺ0ジ 。 24)同21)204ぺ0ジ 。 25)同21)218ぺ0ジ 。 26)同4)448ぺ0ジ 。 27)同4)469ペ ージ。 28)同20)142ペ ー ジ。 29)'同21)204ペ ー ジ。 30)同20)196ペ ー ジ。 31)同21)141ペ ー ジ。 32)同20)139ペ ー ジ。 33)同20)143ペ ー ジ。 34)同20)150ペ ージ。 35)同20)148ペ ー ジ 。, 36)小 第 二 巻 、 郭 沫 若 、 河 出 書 房 、 昭 和29年6月 野 忍 ・丸 山 昇 訳 、 続 海 濤 集 ・帰 去 来 、 郭 沫 若 自 伝5、 37)同22)21ペ 38)桑 郭 沫 若 、 河 出 書 房 新 社 、 昭 和46年3月 39)同38)239ぺ0ジ 。 40)同20)156ぺ0ジ 。 41)同20)184ぺ0ジ 。 、128ペ 平 凡 社 、 昭 和48年7月 、57ペ 平 凡 社 、 昭 和46年11月 、169ペ ー ジg 逢 康 、 郭 沫 若 和 他 的 三 位 夫 人 、 海 南 出 版 社 、1994年4月 、243ペ 、266ペ ージ。 ー ジ。 ー ジ0 ー ジ。 ー ジ。 24 奈 42)伺20)191ペ 43)郭 良 大 学 紀 要 可 第29号 ー ジ。 沫 若 全 集 、 文 学 編 第 十 九 巻 、 人 民 文 学 出 版 社 、1992年1月 44)同21)264ペ ージ。 45)同14)139ペ ー ジ。 46)同14)128ペ ージ。 47)同14)143ペ ージ。 48)同14)153ペ ージ。 49)同14)202ぺ0ジ ・"・ 、158ペ ー ジ。 。 50)同47)。 51)同14)171ペ ージ。 52)同14)158ペ ージ。 53)同14)233ペ ー ジ 。1, 54)同14)130ペ ージ。 55)同14)148ペ ージ。 56)同14)290ペ ージ。 57)同20)165ぺ0ジ 、 。 58)同20)208ペ ージ。 59)同20)172ペ ージ。 60)同58)。 61)同20)186ペ ージ。 62)同21)119ペ ージ。 63)同14)352ペ ー ジ 。・ 64)同3)104ぺ0ジ 65)同14)173ペ 66)郭 。 ージ。 沫 若 全 集 、 文 学 編 第 二 十 巻 、 人 民 文 学 出 版 社 、1992年8月 67)同14)243ペ 71)同69)355ペ 72)同69)51ペ 73)同14)306ペ 74)同43)10ペ 75)同43)200ぺ0ジ 76)郭 。 沫 若 全 集 、 文 学 編 第 九 巻 、 人 民 文 学 出 版 社 、1985年6月 70)同3)55ペ ージ。 ー ジ。 ー ジ。 ー ジ0 。 。 ー ジ 。 ピ ・'幽 79)同20)369ペ ー ジ。 80)同14)244ペ ー ジ 。' 82)同66)31ペ 83)同14)295ペ ージ。 ー ジ。 78)同20)377ペ 81)同14)259ぺ0ジ 、308ペ 』 沫 若 全 集 、 文 学 編 第 十 巻 、 人 民 文 学 出 版 社 、1985年9月 77)同20)75ぺ0ジ ージ。 ージ。 68)同3)182ぺ0ジ 69)郭 、290ペ 。 ー ジ。 ー ジ。 、303ぺ0ジ 。 蘇:中 国人の 日本観 一 25 郭沫若 提要 郭 沫 若 究 寛 是 率 領 知 狽 分 子 沖鋒 陥 陣 的 主 将 迩 是 児風 使 舵 的 机 会 主 又 分 子,至 今 尚 未 定 槍.尤 其 是 他 在 文 革 中 出圷 反 ホ,起 初 紫 銀 四 人 幕,事 后 城 叫 打 倒 四人 幕,不 人 以 板 杯 的 印象.本 文 杁 是 対 促 透 中 国 現代 化 倣 出 了 貢 献 迩 是 阻碍 了 中 国 現 代 化 的実 現 的 現 点 来 分 析 郭 沫 若 的 功 逆.杁 五 四這 劫 吋 期,北 伐,抗 后 到 逝 世,完 全 是 逆.恵 的 来 悦,正 有`-f定 要 悦 人 民 群 余,就 是 一 般 知 現 分 子 也 不 至 干 如 此,給 日哉 争 到 中隼 人 民 共和 国 的 建 立,土 如 魯 迅所 悦,他 是 オ 子 加 流 眠.可 地 改 革 光 止,基 本 上 是 立 了 功.但,其 是,不 能 忽 初 他 対 中 国 文 化 界 、学 木 界 的影 ロ 向,特 別 対 中国 共 序 党 知 現 分 子 政 策 以 及 対 日政 策 的制 汀 及 扶 行,他 是 起 道 出 謀 刎 策 和 吹 鼓 手 的 作 用 的. 郭 沫 若 曽丙 次 奈渡 日本,一 次 是 留 学,一 次 是 流 亡,恵 共 述 二 十 年.他 的思想和性格 的形成以及成熟都是 在 日本 実 現 的.他 充 分 地 利 用 了 日本 的有 利 条 件,又 罪 了安 梛 夫 人 的 献 身般 地 支 持 和%J'助,オ 得 以 完 成 創 造 社 前 后 的 浪 漫 主 又 的 侍 篇,氾 叙 革 命 和 哉 争 的 一/↑'側 面 的 自侍 体 小 悦,/JJ史,考 郭 沫 若 汰 力,日 本 杁 中 国 全 面 地 引 送 文 化,包 宜接 跳 到 封 建 社 会;又 的行 列,是 括 軽 済 基 拙,上Jz筑 学 刃欧 洲 文 明,創 造 了";」:方 的奇 迩".日 古 学,文 字 学 的 研 究等 達 些 工 作. 各 全 方 面,由 原 始 社 会 越 這 奴 求 制 社 会 本 之 所 以 能笈 展 到 資 本 主 又 社 会,違 入 列 強 因力 宣 的殖 民 地 紛値 比 中 国低 得 多,中 国 吸 引住 了 帝 国 主 又 列 強 的 注 意 力,起 国 又 成 了 宮 最 好 的原 料 供 給 地 和 市 場.当 然 迩 有 内 部 的 因 素.可 是,日 本 忘 恩 負 又,恩 了f箭 牌 的 作 用;中 将仇 振,几 十 年 来 一 宜 侵 犯 中 国,宜 到笈 劫全 面 侵 隼 的 哉 争. 由 子 一'r祥 的 吋 代 背 景,加 上 他 和 日本 人 的接 触 井 不 涜,深 入,所 以 対 日本 人 的 看 法,恵 地 悦 是 消 板,冷 淡、 片 面,帯 有 批 判性. 中 隼 人 民 共 和 国建 立,特 別 是 日 中邦 交 正 常化 以 后,他 人 的著 作 文 章根 少,元 法 知 道有 了 什 ム 変 化. 墨 然 担 任 中 日友 好%J'会名 誉 会 長,但 他 佗 日本 和 日本 \
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