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『旦那様の三つ目の願い事』
6月に入って最初の週末、宗像は凛と旅行に出かけた。
窓際部署とはいえ、警視庁の刑事だからそれなりに忙しい。
何ヶ月も前から申告していた休暇だ。
3泊4日の旅行先は、長野県東部にある避暑地・別荘地として有名な軽井沢。
関西出身のヤクザの組長で、やり手の実業家でもある情報屋兼友人、緒方の別荘に昨日
から滞在している。
日本各所にいくつか所有する別荘の中で、ここは毎年夏になると必ず避暑に訪れるとい
う彼のお気に入りの場所らしい。
――気持ちの区切りとして、結婚式でもあげたら?
さすがに桜田門の同僚を招待して
盛大に、というのは無理だろうから、二人だけでどこかで。
今年の春、凛と共に花見に誘われたとき、緒方からそう提案された。
宗像に失恋した痛手はあるものの、勝ち目がないとわかった以上男らしく身を引いて、
よき友人として二人にかかわっていこうと決めたらしい。
緒方は宗像の希望を聞くと、豊かな人脈を活用し、さっさと軽井沢の自分の別荘近くに
ある教会に挙式の手配をしてくれた。
凛のウエディングドレス姿をどうしても見たいという理由で、宗像が初めて教会という
単語を口にしたときの、緒方のキョトンとした顔が忘れられない。
至極当然の反応だが……。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔、とはまさにああいうことをいうのだろう。
――凛くん、神主でしょ。神社じゃなくて教会って……なにそれ。本気?
宗像から今回の話を打ち明けられた凛が、困惑したのち渋々承諾してくれたことを話す
と、緒方は腹を抱えて笑った。
――そりゃね……男なのにウエディングドレス着せられて、神主なのにイエス様に誓い
を立てなきゃいけないんだから。神社でクリスマスパーティー開く何十倍もの勇気がいる
よ。ま、本人が納得したんならいいけど。
そして、すっと笑いを引っ込めて毒づいた。
――信心している神様に背いても、宗像さんと結婚できるだけで幸せじゃない。凛くん
も素直に喜んだらいいんだよ。不満なら旦那様は俺が貰う、って言っといて。
とはいえ、自分たちを祝福してくれた緒方だ。
彼の部下の江島も、興味なさげな顔の下で主以上に喜んでいるに違いない。
ジューンブライド――6月に結婚した花嫁は幸せになるという。
天の祝福か、初夏の澄み切った青空の下、二人だけの結婚式が執り行われた。
「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧
しいときも、これを敬い、慰め、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
厳かな空気を湛えた御堂に、婚礼の儀を司る白人の若い神父の流暢な日本語が響く。
軽井沢の静かな木立の中に佇む白亜のチャペル。
典型的な聖堂建築のクラシカルな外観で、小さいが由緒ある教会らしい。
バージンロードや祭壇を飾るカサブランカが甘い匂いを放つ。
「誓います」
宗像に続いて凛も揺らぎのない声で誓約する。
証として、互いの薬指に揃いのプラチナリングがはめられた。
恥じらいながら纏う凛のウエディングドレス姿は、宗像の想像よりはるかに美しい。
白薔薇のキャスケードブーケに合う、ふんわりとした純白のタフタ地。
大きい襟ぐりの美しいライン。
繊細な襞の取り具合。
凛の清楚なイメージにぴったりのシンプルなデザインだ。
だからこそ却って仕立てのよさが目立つ。
可愛く膨らんだ袖から覗く華奢な腕を肘の上まで覆う、白絹の長手袋。
上品な光沢の真珠のネックレスとイヤリング――どれも高級品なのは、ファッションに
は疎い宗像にもわかる。
宗像が身につけているシルバーグレーの洒落たネクタイつきのモーニングコートも含め、
婚礼衣装もすべて緒方が用意してくれたのだった。
なんでも近いうちにレストランウエディングのビジネスにも乗り出すそうで、そのため
に準備した品らしい。
「おまえを幸せにする」
「圭兄ちゃん……」
「これからも、悪いやつから守ってやる。今よりうんと幸せにする。二つとも、約束はき
っと守る」
宗像はやや緊張した手つきで凛の顔を覆うベールを上げ、唇を寄せていく。
凛の撫でつけた艶やかな黒髪を飾る、ブーケと同じ可憐な白薔薇が馨しい。
凛を花にたとえるなら、まさにこの白薔薇だ。
そっと触れた唇が、一瞬だけ情熱を孕む。
一生に一度の大事な誓いのキスは、優美な香りに包まれた。
式が終わると、宗像は凛と腕を組み、ゆっくりとバージンロードを辿り扉の外に出た。
「すげえ……綺麗な景色だな」
「うん。晴れてよかったね」
見つめ合うと笑みがこぼれる。
教会の敷地内でさえずる鳥が、凛に懐いて二人のそばに集まりはじめた。
東京では見られない珍しい野鳥ばかりだ。
青や赤の鮮やかな色の羽が、新緑に映えて美しい。
そのうちの何羽かが、凛と寄り添う宗像の肩に留まった。
チチチ、と澄んだ高いさえずりが、豊かな自然の中に響き渡る。
まるで二人を祝福しているようだ。
宗像は得意げに唇の片端を持ち上げた。
「おめでとう、って言ってんだろ」
「圭兄ちゃん、すごい!
よくわかったね」
「そりゃま、俺も幽霊が見えるくらい霊感あんからな。これくらい簡単さ」
他人の目には冗談を言い合って楽しんでいるように見えるかもしれないが、これが自分
たちのありふれた日常会話である。
宗像が鳥の言葉がわかるというのは冗談だが……。
すぐれた霊能力を持つ陰陽師の凛。
彼は本当に鳥や動物と意思の疎通ができる。
その影響で、二匹の飼い猫も自動ドアのように難なくふすまが開けられるようになった
り、宗像も霊が見えるようになり、日常生活に支障がでないようにキスで封印してもらっ
ている――というのはれっきとした事実だ。
世界で一番凛を愛しているのは、自分だというのも――。
始終、触れたい。
抱きしめたい。
「わ、ぁ……っ!」
宗像が唐突に純白のドレスに包まれた小柄な体の膝裏を掬い上げ、横抱きにすると、凛
は可愛い驚き声を上げ、ブーケを持ったまま宗像の首にしがみついた。
「圭兄ちゃん……っ」
頬を真っ赤に染めた凛は、ますます愛らしい。
宗像から慌てて飛び立った鳥のうちの一羽が凛の肩に留まり、首を傾げて宗像と一緒に
その顔を覗き込む。
相変わらずそのほかの鳥たちも二人を取り巻き、美しいさえずりで祝福してくれている。
「みんな、ありがとう」
凛の心のこもった声に、鳥たちはみな一斉に鳴くのをやめ、羽をパタパタさせた。
凛の感謝に応えているように見える。
試しに宗像も真似をしてみたが、鳥たちの反応はさっぱりだった。
凛の影響を受け霊感が鋭くなっても、授かる神秘の力には限度があるらしい。
宗像は新妻を軽々と大切に抱き上げながら、チャペルの白い階段を下りていく。
幸せをしみじみと噛みしめるように、ゆっくりと一段ずつ。
「俺の可愛い嫁さん。愛してるぜ」
風薫る大地に下り立つと、凛の白い頬にキスをした。
愛しいというありきたりな言葉では物足りないほどの、この上ない想いを込めて。
「僕も――」
唇を離すなり、宗像の頬にも凛の嬉しいお返しのキスが来る。
見交わして微笑み合うと、花嫁のぽってりした小さな唇が「旦那様」と恥ずかしそうに
動いた。
ハネムーンの滞在先になった緒方の別荘にも、ブーケと同じ凛の好きな白薔薇がふんだ
んに飾られていた。
凛に好みの花を尋ねてくれた緒方の心遣いだろう。
とてもヤクザには見えない赤薔薇のように華やかな美貌の主は、宗像に失恋しても、以
前と変わらず彼に接してくるらしい。
凛が神主をやっている兎石神社にも、寡黙な黒服の部下を連れてときどき参拝に訪れる。
中性的な外見を裏切って、緒方は男らしくさっぱりした性格だ。
けれど威風堂々としながらもデリケートな部分があって、必死にそれを覆い隠している
――。
オーラから人間の性格や感情がある程度視える凛にとって、彼はなかなかに興味深い人
物である。
二階の寝室から、手入れの行き届いた庭が見渡せる。
緒方が好きだと聞く赤薔薇のほかにも、さまざまな季節の花が咲き誇っていた。
深々とした夜の庭の真上には、やや欠けた丸い月が浮かんでいる。
眠気を呼ぶような心地いい虫の声。
近くの森で、ふくろうがホー、ホー、と鳴いている。
広く静かな洋間の窓際に置かれたダブルベッドの上、凛は宗像と一糸纏わぬ姿で愛おし
く抱きしめ合った。
大きなガラスの外に覗く月が、蒼く冴えた光で初夜の床を照らし出す。
あたりをかろうじて見渡せる程度まで照明を落としたほの暗い室内に、白い肌が浮かび
上がる。
恥ずかしい――けれども、飽きもせず口づけを重ねている。
相手の体温もわからなくなるほどに、分かち難くひとつになって。
今のが幾度目の口づけか、もはやわからない。
「ん……っ」
離れるや互いの名を呼んで、恋にうつつを抜かす幸せな時間を存分に楽しんでいる。
今夜、世界で最も幸せなカップルは自分たちに違いない。
――凛、俺の嫁さんになってくれ。
昨年の美作教の一件のすぐあとで、凛は宗像からプロポーズされた。
籍を入れたつもりで一緒に暮らしてほしい、と。
兎石神社の境内にある凛の家で共に暮らしはじめ、今年の春に今度は「ウエディングド
レスを着てほしい」と目が丸くなるような願い事をされ、逡巡の上、受け入れた。
そして。
半月前に 31 歳の誕生日を迎えた宗像から、三つ目の願い事をされ――それはまだ叶えて
いない。
世間の人から見ればなんでもないことなのだが、凛にとってはウエディングドレスを着
るより恥ずかしいからだ。
結婚指輪をはめて初めての夜に叶えようと、以前から決めていた。
「凛……可愛いな」
覆い被さる宗像はやさしく呼びかけたあと、声音に負けないやさしい手つきで凛の髪を
梳く。
今だ、と決意した凛は心の中で噛みしめた唇を開いた。
「……圭吾、さん」
すぐに視線が泳いでしまった。
はにかみながら口にしたせいで、ようやく聞き取れるくらいの大きさだ。
「ん?
よく聞こえねえ。もう一度」
宗像はわざとらしく耳に手を添えた。
聞き取れていることは、ニヤニヤと満足そうに意地悪く口端が吊り上っている彼の表情
からわかる。
凛はドキドキ波打つ心臓を落ち着けようと、吸った息をゆっくり吐き出す。
「圭吾さん」
頬を染めながらも相手の顔をまっすぐに見つめ、再び名を呼んだ。
夜の営みのときには「さん」づけでいいから、名前を呼んでほしい――。
それが、幼いころから宗像を「圭兄ちゃん」と呼んでいた凛には勇気がいる三つ目の願
い事。
「何度も呼んでくれ」
ようやく願いが叶った喜びからか、旦那様は凛にめまいがするような情熱的なキスをく
れた。
Fin.