グレゴリオ聖歌の歴史(出典: ウィキペディア) グレゴリオ聖歌は、西方教会の単旋律聖歌(プレインチャント)の基軸をなす聖歌で、ロ ーマ・カトリック教会で用いられる、単旋律、無伴奏の宗教音楽。 概要 グレゴリオ聖歌は、主に 9 世紀から 10 世紀にかけて、西欧から中欧のフランク人の居住地 域で発展し、後に改変を受けながら伝承した。教皇グレゴリウス 1 世が編纂したと広く信 じられたが、現在ではカロリング朝にローマとガリアの聖歌を統合したものと考えられて いる。 グレゴリオ聖歌の発展とともに教会旋法が成立し、グレゴ リオ聖歌は 8 つの旋法で体系づけられることとなった。旋 律の特徴としては、特徴的なインキピット(冒頭句)や終 止(カデンツ)、メロディの中心となる朗誦音(リサイテ ィング・トーン)の使用、またセントニゼイションと呼ば れる既存のメロディを転用する技法によって発展した音 楽語法があげられる。音階は十二音音階ではなく、ヘクサ コルドと呼ばれる六音音階が使用され、現代の全音階に含 まれる音と、現在の変ロにあたる音を使用する。グレゴリ オ聖歌の旋律はネウマ譜を用いて記譜され、このネウマ譜 が 16 世紀に現代でも用いられる五線譜に発展した[1]。ま たグレゴリオ聖歌はポリフォニーの発展に決定的な役割を果たした。 歴史的には、教会では男性および少年合唱によって、また修道会では修道僧、修道女によ ってグレゴリオ聖歌は歌われてきた。グレゴリオ聖歌は、西方教会の各地固有の聖歌を駆 逐し、ローマカトリック教会の公式な聖歌として、ローマ典礼に基づくミサや修道院の聖 務日課で歌われるようになった。しかし、1960 年代の第 2 バチカン公会議以降は現地語に よる典礼が奨められるようになったことを受けて、グレゴリオ聖歌の歌唱は義務ではなく なり、典礼音楽としてのグレゴリオ聖歌は次第に各国語の聖歌にとってかわられている。 ただし、ローマ教皇庁の見解としては、依然としてグレゴリオ聖歌が典礼にもっともふさ わしい音楽形態である[2]。20 世紀には、音楽学の対象としてグレゴリオ聖歌の研究が進み、 典礼を離れた音楽としても人気を得た。 歴史 初期聖歌の展開 無伴奏歌唱は、教会の最初期からキリスト教の典礼に組み込まれていた。1990 年代半ばま では、古代イスラエルの詩篇歌唱が原始キリスト教の典礼および聖歌に強く影響を与えた と考えられていたが、今日では、最初期のキリスト教の聖歌には詩篇をテキストとするも 1 のがなく、また紀元 70 年のイスラエル包囲以後数世紀にわたってシナゴーグで詩篇が歌わ れていなかったことから、この見解は研究者の間では否定されている。ただし、初期キリ スト教の典礼がユダヤ教の伝統を受け継ぎ、それが後まで聖歌のなかに痕跡を留めている ことは事実である。例えば聖務日課はユダヤ教の祈りの時間に起源をもつものである。ま た、アーメンやアレルヤはヘブライ語であり、 「サンクト ゥス」の三唱はアミダー(立祷)でおこなわれるケドゥ ーシャ(三聖唱・ 「神は聖なるかな」と 3 度唱える)を受 け継ぐものである。 新約聖書には、最後の晩餐で賛美歌を歌ったことが言及 されている。すなわち「賛美の歌を歌ってから、彼らは オリーブ山へと出て行った」とある。また教皇クレメン ス 1 世やテルトゥリアヌス、アレクサンドリアのアタナ シオス、エゲリアなどの記録にも、初期キリスト教で賛 美歌が歌われていたことがみえるが[6]、その言及は詩的 もしくはあいまいなもので、この時代の音楽が実際にど のようなものだったかはほとんどわからない [7]。3 世紀 成立のギリシア語のパピルス写本オクシュリンコス賛美 歌には、音楽的な記譜があるが、この賛美歌とキリスト教の聖歌の伝統との関係は明らか でない。 一方、後にローマ典礼で用いられることになる音楽的要素は、3 世紀には出現している。対 立教皇ヒッポリュトスに著者が比定される『使徒伝承』では、アレルヤを繰返し唱えるハ レル(詩篇に基づくユダヤ教の朗誦)を、初期キリスト教の愛餐(アガペー餐)と結びつ けている。定時課に歌われる聖務日課の聖歌は、4 世紀初頭、聖アントニウスに従って砂漠 で修業を行った修道僧たちが始めた、毎週 150 の詩篇を一巡して歌う連誦に起源を持つ。 375 年頃には、東方のキリスト教ではアンティフォナ的な賛美歌が流行し、386 年にアンブ ロジウスによってこれが西方にもたらされた。 5 世紀から 9 世紀の間に聖歌がどのように展開したかについては、史料が乏しく、学説は定 まっていない。410 年頃には、アウグスティヌスがミサで昇階曲をレスポンソリウムで歌っ ていることを記している。678 年ごろには、ヨークにてローマ聖歌が教えられていた[10]。 この頃の西方教会の地域では、ブリテン諸島(ケルト聖歌) 、イベリア半島(モザラベ聖歌) 、 ガリア(ガリア聖歌) 、イタリア半島(ローマ聖歌、古ローマ聖歌、アンブロジオ聖歌、ベ ネヴェント聖歌) などで各地に固有の聖歌が発展した。これらの伝統は、西ローマ帝国崩 壊後に、5 世紀にあったと考えられている通年の聖歌集から発展したものかもしれない。 新しい聖歌の成立 グレゴリオ聖歌のレパートリーは、ローマ典礼でつかうために編成されたものである。音 楽学者ジェームス・マッキノンによれば、ローマ式ミサの典礼次第の基礎は 7 世紀末の短 2 い期間にまとめられたものである。一方、Andreas Pfisterer や Peter Jeffery などの他の 研究者は、レパートリーの最古の部分はより古い時期に起源を持つものだと主張している。 研究者の論点は、聖歌旋律の主要部分が 7 世紀以前のローマに起源を持つものなのか、あ るいは 8 世紀から 9 世紀初頭のフランク王国に起源を持つものなのかという点である。伝 統的な通説を支持する人々は、590 年から 604 年に在位した教皇グレゴリウス 1 世の果た した役割の大きさを指摘している[11]。しかし、ウィリー・アーペルや Robert Snow によ って支持されている、現在の研究者たちの見解では、グレゴリオ聖歌は 750 年頃以降にカ ロリング朝フランスにおいて、ローマ聖歌とガリア聖歌を統合、発展させたものと考えら れている。教皇ステファヌス 3 世は 752 年から 3 年にかけてガリアを訪れた際に、ローマ 聖歌を用いてミサをたてた。カール大帝によれば、その父ピピン 3 世は、ローマとの関係 を強化するために、ガリア典礼を廃止してローマ式に換えたという[12]。785 年から 6 年に は、カール大帝の要望に応え、教皇ハドリアヌス 1 世が、ローマ聖歌を含んだ聖礼典式書 をカロリング朝宮廷へ送っている。その後、このローマ聖歌は現地のガリア聖歌の影響を 受けて改変されつつ記譜され、さらに 8 つの教会旋法へと整えられていく。このフランク・ ローマ折衷のカロリング聖歌は、教会暦上不足していたものを新しい聖歌で補いながら 、 「グレゴリオ聖歌」として完成することになる。グレゴリウスの名を冠した理由としては、 当時フランク王国に多く招聘されていたイングランドの聖職者がアングロ=サクソン教会 の創立者であるグレゴリウス 1 世をたたえたものであるという説や、当時の教皇グレゴリ ウス 2 世(715-731 在位)を讃えてこのように名付けられたものが、後に、彼よりはるか に有名な大聖グレゴリウスに作を帰する伝説が生まれたとする説[13]がある。この伝説では、 グレゴリウスは聖霊の象徴である鳩に霊感をうけて聖歌を書き取ったとされ、グレゴリオ 聖歌に聖性と権威を与えることとなった。グレゴリオ聖歌がグレゴリウス 1 世の手になる という言説は、今日に到るまで広く信じられている[14]。 普及と覇権 グレゴリオ聖歌は、瞬く間にヨーロッパ全土に驚くほど均質な様式を保ちながら普及した。 カール大帝は神聖ローマ皇帝となると、聖職者にグレゴリオ聖歌を用いなければ死罪とす ると脅迫し、積極的に帝国内にグレゴリオ聖歌を広めて、聖権力および世俗権力の強化を 図った。英語やドイツ語の史料からは、グレゴリオ聖歌は北はスカンディナヴィア、アイ スランド、フィンランドまで広まったことが窺える。885 年には、教皇ステファヌス 2 世が 教会スラヴ語を用いた典礼を禁止し、これによりポーランド、モラヴィア、スロヴァキア、 オーストリアなどを含む、東方のカトリック教会支配域でもグレゴリオ聖歌が優勢となっ た。 西方キリスト教世界の他の聖歌は、新しいグレゴリオ聖歌の強い圧迫をうけることとなっ た。カール大帝は父の方針を受け継ぎ、現地のガリア式の伝統を捨て、ローマ式の典礼を 好んだ。9 世紀には、ガリア典礼およびガリア聖歌は実質的には廃止されたが、これには地 元の抵抗がないわけではなかった[17]。イングランドではソールズベリー式典礼(サルム典 3 礼)においてグレゴリオ聖歌がケルト聖歌を駆逐した。ベネヴェント聖歌については、1058 年の教皇教令によって禁止されるまで、1 世紀以上、グレゴリオ聖歌と共存した。モザラベ 聖歌は、西ゴート族とムーア人の流入のなか生き残ったが、レコンキスタによりスペイン にローマの支持を受けた高位聖職者が配置されるに至り、廃されることとなった。一握り の限られた教会でのみ歌うことが許されたために、現代のモザラベ聖歌はグレゴリオ聖歌 との同化が進み、もとの音楽的形態をほとんど留めていない。アンブロジオ聖歌のみが、 アンブロジウスの音楽家および宗教者としての権威のために、今日までミラノにて残存し ている。 グレゴリオ聖歌は、やがて、ローマの固有の聖歌(今日では古ローマ聖歌と呼ばれる)に もとって代わるようになる。10 世紀には、イタリアでは実質上、音楽の記譜はまったく行 われておらず、ローマ教皇たちは、10 世紀から 11 世紀にかけて、神聖ローマ皇帝からグレ ゴリオ聖歌を移入し続けた。 例えば、クレドは神聖ローマ皇帝ハインリヒ 2 世の要望で 1014 年にローマ典礼に追加されたものである[18]。大聖グレゴリウスの伝説によって権威が高め られたグレゴリオ聖歌は、ローマ固有の真正な聖歌とみなされるようになり、今日にまで 至る。12 世紀、13 世紀には、グレゴリオ聖歌は西方キリスト教世界の他の聖歌を完全に凌 ぎ、駆逐した。 他の聖歌に関する後代の史料からは、聖歌をグレゴリオ聖歌的な教会旋法に組織する試み など、グレゴリオ聖歌の影響が強まる様子を見ることができる。一方で、これらの失われ た聖歌の伝統はグレゴリオ聖歌の中に取り込まれていったことが、様式の分析や歴史的分 析によって明らかになってきている。例えば、聖金曜日のインプロペリアは、ガリア聖歌 の伝統を残していると考えられている。 初期の史料と後代の改訂 [編集]現存する最古の楽譜史料は、9 世紀後半のものである。それ 以前は、聖歌は口頭で伝承されていた。多くの研究者が、記譜法の発達がヨーロッパ全土 へ共通の聖歌が普及する要因となったと考えている。最初期の楽譜は、主にドイツのレー ゲンスブルク、スイスのザンクト・ガレン修道院、フランスのランおよびリモージュのサ ン・マルシャル修道院に残されている。 グレゴリオ聖歌は、 「堕落した」歌を「元の形」に糺すという名目で、しばしば改訂を加え られた。初期のグレゴリオ聖歌は、教会旋法の理論的構造に合致するように改変されてい る。1562 年から 3 年にかけて、トリエント公会議によりセクエンツィアのほとんどが禁止 された。ギデット(Guidette)の 1582 年発行の Directorium chori および 1614 年発行の Editio medicaea は、当時の美学的基準にあわせて、堕落し、問題があるとみなされた「粗 野な部分」を徹底的に改変している[20]。1811 年には、フランスの音楽学者アレクサンド ル=エティエンヌ・ショロン(Alexandre-Étienne Choron)が、フランス革命中のカトリ ック教会の無力への過激な保守反動の一貫として、フランス的堕落を廃し、 「純粋な」ロー マのグレゴリオ聖歌へ回帰することを唱えた。 4
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