能勢之彦,人工臓器の歴史を語る 世界の巨人たち 第二話 アメリカ人工

●連載エッセイ
∼編集委員会より断り書き∼
能勢先生から,人工臓器のビッグネームであるコルフ先生,ドベイキー先生,カントロヴィッツ先生について,能勢先生ご自身との関係
も含めてご紹介されている投稿原稿が,3 編をセットとして編集部に届いたのが 2010 年 9 月だった。その頃は,ご投稿頂いた文章に適する
カテゴリーが本誌には存在せず,編集委員会で議論を重ねた末に「連載エッセイ」という範疇を新たに設けて掲載することを決めた。その
後,能勢先生からさらに 2 編の追加投稿を頂いて合計 5 編となり,40 巻 1 号から「能勢之彦,人工臓器の歴史を語る 世界の巨人たち 第○
話」として連載を開始した。編集委員会が監修するのは,毎年大会抄録集を除く 1 号および 3 号の 2 冊なので,その当時の予定では 42 巻 1
号(2013 年 6 月刊行)まで連載が続くことになっていた。しかし,本号である 40 巻 3 号に第二話を掲載する予定で準備を進めていた矢先に,
能勢先生ご逝去の訃報が届いた。すなわち,この連載エッセイは能勢先生のご遺稿となったのである。そこで,編集委員会としては,でき
るだけ早く全話を掲載すべく,当初の掲載計画を繰り上げて本号に第二・三話を,そして 41 巻 1 号に第四・五話を掲載することとした。
能勢先生直筆のこれら 5 編の連載エッセイの掲載を通じて,能勢先生が深く長く経験されてきた人工臓器の歴史と発展,さらに能勢先生の
さまざまな物事に対する造詣の深さや人との遣り取りにみられる温かいお人柄も含めて,読者の皆さまにお伝えすることができることを,
編集委員会として大変誇りに思う。
日本人工臓器学会編集委員会
能勢之彦,人工臓器の歴史を語る 世界の巨人たち
第 二 話 ─アメリカ人工心臓計画の礎を築いた
マイケル・ドベイキー先生 ─
ベイラー医科大学・マイケルドベイキー外科学教室・人工臓器開発センター
能勢 之彦,高場 準二,宮本 弘志
Yukihiko NOSÉ, Junji TAKABA, Hiroshi MIYAMOTO
血管外科において一流の大学にしたのはドベイキー先生の
序 説
1.
努力の賜物と言っても過言ではない。ドベイキー先生は,
世界最大のメディカルセンターであるテキサスメディカ
ルセンター(TMC)を作ったのは,マイケル・E・ドベイ
キー教授である。
1993 年に主任教授を辞めた後も,病気で倒れた 2007 年の
春まで,現役の外科学教授として毎日手術場に入っていた。
98 歳まで手術を行っていたと言っても誰も信じないかも
心臓血管外科医であれば誰でも知っているドベイキー教
しれない。その 50 年間にベイラー医科大学の周りに世界
授は 1908 年 9 月 7 日に生まれ,2008 年 7 月 11 日,100 歳に
一大きなメディカルセンターコンプレックスを作り上げた
なる 8 週間前に亡くなった。彼なしには現在の人工心臓も
のも,彼の努力の賜物と言えよう。彼が着任した 1948 年
存在しなかったし,現在の心臓血管外科も存在していな
には,ベイラー医科大学は何もない林の中に(図 1)ポツン
かったと言っても過言ではない 1) ∼ 5)
。したがって,この
偉業を成し遂げたドベイキー教授の人となりについて,以
と建っていただけの場所であった。
図 2 および表 1 に示す如く,TMC は現在,世界一大きな,
下に述べることにする。彼のプロフェッショナルな偉業に
そして有名なメディカルセンターである。現在,政府およ
ついてはすでに沢山書かれているので,本稿では主として
び個人の医療・教育・研究センターとして 49 の施設を擁
彼の個人的な面について言及することとする。
し,140 以上の建物が約 4,000 km2 の敷地の中にひしめき
合っている。これはアメリカにおいて 12 番目に大きなビ
テキサスメディカルセンター(TMC)
2.
ジネスディストリクトに相当する建物群である。さらにそ
ドベイキー教授は,TMC の中にあるベイラー医科大学
の敷地はシカゴの“ループ”内(高架鉄道が囲むように走る
の外科の主任教授として,1948 年に着任した。その後,ベ
シカゴのダウンタウンの中心部)の広さである。2012 年完
イラー医科大学の学長を併任していたが,学長職は 1996
成を目指し,さらに 70 億ドルをかけて現在新しい建物を建
年に正式にリタイアした。その間の約 50 年で,第二次世界
設している。このセンター内には約 9 万人以上の人々が働
大戦後は三流の医学校であったベイラー医科大学を,心臓
いている。病院の総ベッド数は 13 の病院で約 6,500 床ある。
240
人工臓器 40 巻 3 号 2011 年
図 1 1947 年当時のベイラー医科大学(中央やや上)
そのすぐ左下にあるのは,メモリアルハーマン病院。
図 2 現在のテキサスメディカルセンター(TMC)
表 1 テキサスメディカルセンター(TMC)の 概 要(2009 年)
施設数
高等教育機関
病院
サポートサービス
職員数
ボランティア
医者および専門職
学生
病院総ベッド数
49
21
13
15
93,500 人
12,000 人
20,000 人
72,000 人
6,500 床
敷地面積
4,000 km2
建物数
140 +
年間訪問患者数
6,000,000 人
海外からの患者数
20,000 人
一日あたりの訪問客数
160,000 人
年間経済効果
$140 億
年間研究費
$12 億
建物面積
500 万 m2
(現在,$70 億の施設建築中) このセンターを訪れる患者数は年間約 600 万人であり,こ
心臓,人工血管,心臓弁のみならず,心臓カテーテルを含
のうち外国からの患者は年間約 2 万人である。特にドベイ
む心臓血管病の診断機器,手術場に必要な全ての機器,器
キー心臓血管センターのあるメソジスト病院では,その
具を作る会社をこの TMC に参入させることを忘れていた」
10%以上が外国からの患者である。その結果,市に与える
ドベイキー先生は,いつも現在の自分の達成したことは
経済効果は年間約 140 億ドルに上る(表 1)
。したがって,
十分でなく,まだまだ大きな目標を持つべきだ,というこ
ドベイキー先生は,この TMC を大いに誇りにして良いは
とを信じている先生であった。
ずである。
能勢が TMC の一員として参加した 20 年前,ドベイキー
しかし,1989 年に能勢がドベイキー先生より引き継いで
先生は 80 歳をすでに越していた。普通であれば,全てをス
ドベイキー外科学研究所に着任したとき,彼の言った言葉
トップしてリタイアしても当然な歳であったが,ドベイ
は意外なものだった。
キー先生はこれから新しいことを始め,そして作ろうとし
「実はこの TMC は私にとって失敗作である。私は TMC
ておられた(図 3,図 4)
。
を作って以来この 40 年間,間違った目標を持っていた。世
ドベイキー先生が能勢をテキサスに呼んだのは,連続流
界で一番良い病院,大学および研究所のコンプレックス
型軸流補助人工心臓ポンプを第二世代の補助心臓として作
(総合センター)を作ろうとしたからだ。忘れていたのは
ろうとしたからである。当時,ヒューストンにある NASA
ここに医療産業を持って来なかったことだ。例えばシリコ
のエンジニアと開発を始めたが,ドベイキー先生はポンプ
ンバレーのように,ここに医療産業を持って来ることを考
を作るために新しくマイクロメッド社という会社を作り,
えていれば,現在の約 140 億ドル規模のメディカルセン
そこにユタ大学のドン・オルセ博士をパートタイムの副社
ターではなく,多分その 10 倍規模の大きなメディカルセン
長に任命したのである。オルセ博士はユタでコルフ教授と
ターを作ることも夢ではなかった。つまり,自分が作った
完全人工心臓を作る会社であるコルフアソシエイト会社
いろいろな心臓血管手術用機器,人工肺,人工心肺,人工
を,そしてその後,カルディオウエスト社を作った男でも
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図 3 メソジスト病院ロビーにあるドベイキー教授の胸像
1978 年に彼の患者の一人であるベルギーのロオポルド王およびリリアン皇后
より贈られたものである。作者は,パリに住むジョージ・ニウゲット。
(a)
図 4 ベイラー医科大学ドベイキー・ビルディングのロビーに
ある肖像画
約 2 倍の大きさのドベイキー像は,ジェイソン・シックラーにより 1980 年に
描かれたものである。
(b)
図 5 マイクロメッド・ドベイキー軸流ポンプ
アルキメディススクリューのような軸を使った連続流ポンプ。1 分間に約 1 万回軸を回転させること
により,10 l の流量を維持する。大きさが数 cc と小さなポンプである。
夢を達成するためのフルタイムの仕事があれば,肉体も頭
ある。
当時,人工心臓研究開発の第二世代は,アメリカでは能
脳も年をとらない。しかし,近年,特に日本では 65 歳を過
勢,オルセ博士であり,ヨーロッパではホースト・クリン
ぎると定年退職で全てリタイアするのが普通である。多く
クマン,
そして日本の渥美博士の 4 人であった。ドベイキー
の優秀な医者や研究者が夢達成のためにまだまだ仕事がで
先生は,自らの夢の達成のためにアメリカにいる 2 人を集
きるにもかかわらず退任し,テレビとゲートボールの人生
めたのである。現在,臨床に広く使われているマイクロメッ
に入るのは,日本のタカラモノを無駄に捨て去っているの
ド・ドベイキー軸流ポンプ(図 5)はこうして開発されたも
と変わらない。日本でも,リタイアするのは年齢には関係
のである。
なく,仕事のできる体力と知力を失ったとき,と変えるべ
このように,ドベイキー先生は 80 歳を過ぎてから自分の
きであると信じているのは我々だけではないはずである。
夢を達成させるためのプロジェクトを始め,100 歳近くま
能勢も現在 78 歳であるが,ドベイキー先生を見習ってあ
で生きて沢山の重職をこなしていたことになる。夢とその
と 20 年現職に留まるつもりである。そのために 2010 年に
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人工臓器 40 巻 3 号 2011 年
は新たな研究目標を掲げ,第二世代のアフェレーシス装置
た。本当にビックリしたのは能勢であった。この青写真は
の開発と心臓病治療用補助心臓の開発を始めたところであ
コルフ教授に承認を受けたものであったが,彼は中身をよ
る。
く読んでいない計画書であったからである。
3.
同時に沢山の仕事を達成するための秘密
その時,能勢は,なぜドベイキー先生が外科学主任教授,
ベイラー医科大学学長,TMC 理事,メソジスト病院院長で
1) アメリカ人工心臓計画
あると共に,心臓外科医として沢山の手術(現在までに 6
1964 年 5 月,当時ジョン・F・ケネディ大統領の後継ぎ
万例)を行うことができたかを初めて理解できた。一つの
のリンドン・ジョンソン大統領に,スペースプログラムの
仕事だけでも大変な仕事を 5 つ同時に,しかもその全てに
次のナショナルプログラムとして,ドベイキー先生のプロ
おいて誰よりも成果をあげることができた秘密である。
ポーザルが認められた。これが第一話で紹介したアメリカ
つまりドベイキー先生は,それぞれの部門で 100%信頼
人工心臓計画である。この青写真を描くことをドベイキー
できる弟子を選んで任せることによって,人の 5 倍以上の
先生は外科学研究所主任のビル・ホール教授に命じた。ク
仕事を達成することができたのである。これはドベイキー
リーブランドクリニックのコルフ教授と共にである。
先生の次の言葉によって理解することができる。1989 年
ホール教授は直ちにクリーブランドに赴き,コルフ教授
のサポートを求めた。コルフ教授は,当時クリーブランド
11 月,ドベイキー外科研究所を引き受けてヒューストンに
呼ばれたときである。彼が TMC を案内してくれたときに,
クリニック人工臓器研究所の人工心臓開発チームの主任に
「このような TMC を計画したのは,先生がヒューストンに
なったばかりの能勢に,ホール博士を助けるように命じた
着いていつ頃からですか?」という能勢の質問に,こう答
のである 3)
。当時,能勢は 31 歳,北海道大学医学部卒業 7
年目の外科医であった。
えた。「自分は何も計画していない。ただ自分が教えた弟
子の中に,人の上に立って立派に仕事ができると思われる
能勢は直ちに,その青写真を描いた。これは 6 つのタス
男がいたら,また別の表現をすれば一国一城の主になれる
クをクリアする 10 年計画で,予算は約 3 億ドルであった。
素質を持っている男がいたら,年齢は関係ない,出身も関
その間,ホール教授とは電話で何回か打ち合わせた。幸い
係ない,ただ彼に城(病院か研究所)を作って与えただけ
能勢は,1960 年に東京大学工学部の渡辺茂教授の下で日本
だ !!」
の人工心臓開発計画のグラント 3) を書いていたのみなら
考えてみると,ドベイキー先生は多くの出色の弟子に恵
ず,当時クリーブランドにあった NASA のエンジニアの
まれていた。誰でもすぐ分かるのは,これらの弟子を実は
カービー・ヒラー博士,マイケル・クロスビー博士の助け
彼が育てたことである。別の表現をすれば,これらの素晴
を借りることができた。ホール教授は,我々のプロポーザ
らしい弟子によって,今日のドベイキー先生があったのか
ルはコルフ教授が作ったものと信じていたので,あまり意
もしれない。数多くの中からその代表的な名を以下に挙げ
見を加えてくれなかった。
たい。例えば,心臓外科のデントン・クーリー教授,血管
1 週間後,この計画のドラフトを持ってヒューストンの
外科のスタンリー・クロフォード教授,人工心臓のジョー
メソジスト病院 11 階のドベイキー教授の部屋を訪ねた。
ジ・ヌーン教授,外傷外科のケン・マドックス教授である。
そこにはビル・ホール教授のみならず,当時ヒューストン
彼らによって,それぞれの近代外科学ができたと言っても
の人工心臓プロジェクトのチーフであったドミンゴ・リオ
過言ではない。
タ博士もいた。ドベイキー教授は能勢の持っていったコ
その他にも沢山の弟子を育て,彼らにそれぞれを任せた
ピーを読まずに,まず「総予算額は?」という質問に「年間
ために,1 人で 5 人以上の仕事ができたわけである。また
3,000 万ドル,10 年計画で 3 億ドル」と答えた。ドベイキー
ドベイキー先生のオフィスには 5 人の秘書がいた。それぞ
教授はホール教授に「君はどう思う?」と尋ねた。ホール
れ外科主任教授,ベイラー医科大学総長,メソジスト病院
教授は「2 週間以内に National Institutes of Health(NIH)に
院長,TMC 関係,そして個人秘書である。この 5 つのポジ
返事をすると約束したので,このまま出しましょう。私は
ションそれぞれで,彼が信頼する弟子が立派に仕事をして
すでにその概略は知っております。多分予算は削られると
いたので,それ以上のサポーターが不要だったのである。
思いますが,NIH に予算を削る仕事を与えてやるのも悪く
2) US-USSR 合同人工心臓計画
ないと思います」と答えた。一応,準備した内容を約 1 時
1972 年,アメリカのリチャード・ニクソン大統領は旧ソ
間スライドで説明したが,ドベイキー先生からの質問はな
ビエト(USSR)と手をつないで平和的な新技術の共同開発
く,
「OK,ビル,そのまま提出しよう!」ということであっ
を 行 お う と 提 案 し た。 そ の ま ず 手 始 め の 計 画 と し て,
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ク・アルテリー博士が責任を感じて文句を言っても,相手
は急に英語が分からないふりをするだけである。いつもア
メリカ外務省より通訳が同伴していたが,彼女の言葉も通
じなくなるのが不思議であった。アルテリー博士がドベイ
キー先生に「アメリカ代表の先生が文句を言ってくれると
効果があるのでお願いします」と頼んでも,
「これが USSR
です。私達は USSR のお客様なのだから黙って待っていま
しょう」と返事をするばかりであった。普通,外科医であ
れば短気なのが当然であるが,ドベイキー先生は皆が文句
を言ったり,あたりをウロウロしていても,泰然自若とし
て静かに座っているだけである。やっとお茶が出てくると
図 6 USSR の人工心臓計画代表のバレリー・シマコフ博士
(右)と共に
ドベイキー先生は「本当にありがとう」と心よりお礼を
言って,うまくないお茶を静かに飲んだのだった。普通ド
ベイキー先生のように偉くなると威張って当然である。し
かし彼は悠々と落ち着いて静かに待っていたのである。
US-USSR 合同人工心臓計画が始まった。
私達は手術の途中,サポートスタッフが器具を忘れたり,
これはただでさえ少ない(年間 3,000 万ドルではなく,
または急に別な器具が必要になることがあるが,その時は
1,000 万ドル以下となっていた)アメリカ人工心臓計画予
静かに文句を言わずに黙って待つことが非常に重要であ
算より年間約 200 万ドルをロシアの国立人工臓器移植セン
る。手術のチームに精神的な動揺を与えてはいけないから
ターに渡すことによって,ロシアの進んでいた宇宙産業技
である。術者が怒りだすと,術者のみでなく助手も間違い
術を引き出そうという計画であった。したがって,急に予
を犯す傾向がある。手術の成功のためには,術者が精神的
算が減らされたため,アメリカ人工心臓計画に携わってい
に平静であることが必須である。この時に能勢は,一流の
た,何ヵ所かの研究所の予算がストップしたのは残念な結
外科医はいかにあるべきかをドベイキー先生より学んだの
果であった。阿久津哲造先生のミシシッピーの研究所も,
である。
この被害にあった一つである。
その後知ったことだが,ドベイキー先生は立派な家の出
こ の 計 画 の ア メ リ カ 代 表 は ド ベ イ キ ー 先 生 で あ り,
身であった。立派な家は,お金持ちの家とは必ずしも一致
USSR の代表はバレリー・シマコフ博士であった。シマコ
しない。レバノンの移民でありながらも一流のアメリカ
フ博士はモスクワの国立人工臓器及び移植研究所長を務め
ン・シティズンになろうと努力をしていた家庭である。別
ていた(図 6)。幸い能勢はこの計画の委員の一人となり,
の表現を用いれば,日本の「武士道」に近いプリンシプル
1972 年にヒューストンでその第 1 回会議が行われた。能勢
(信条)を大切にする家庭である。一流のアメリカ人であ
がドベイキー先生と会ったのは,この時が 2 度目であった。
るために必要な ABC を子供のときからしっかり教える家
この US-USSR 合同人工心臓計画は毎年,ヒューストンとモ
庭環境下に育ったということである。
スクワで交互に両国代表委員がミーティングを開くことに
3) ドベイキー外科学研究所(1990 年)
なっていたため,能勢は毎年ドベイキー先生と会うことに
能勢は,クリーブランドクリニック(CCF)に 25 年間勤
なったのである。特に,モスクワでのミーティングの時は
務した。CCF の定めにより,デパートメントの主任教授は
数日間行動を共にするので,お互いをよく知り合うことが
一応 2 5 年で退住することになっていた。ちょうど能勢は,
できた。
国際人工臓器学会の会長を 1989 年 4 月より 2 年間引き受け
当時 USSR はアメリカと異なって共産主義の国であった
ていたので,いろいろな地方会や特別な人工臓器の学会に
ので,サービス業であるホテルは長時間待っても部屋が準
出席せざるを得なかった。したがって,1989 年 4 月より 1
備できないのが当たり前であった。ある日,レストランで
年間,CCF のサバティカル(有給休暇)を有効に使わせて
お茶を注文してもなかなか出てこないことがあった。アメ
もらった。CCF より 4 人の研究者(助教授 2 名,講師 2 名)
リカ代表の医者,エンジニアは皆いろいろ文句を言って当
と共にベイラー医科大学のドベイキー外科学研究所に移っ
然であった。しかし,ドベイキー先生だけは忍耐強く一言
たのは 1989 年 11 月であったが,能勢のみは同大学の正式
も文句を言わずにじっと待っていた。NIH 代表のフラン
な有給教授に就いたのは 1990 年 3 月だった。
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人工臓器 40 巻 3 号 2011 年
ベイラー医科大学に能勢が正式採用となった時,ドベイ
キー教授がタイプライターで打った 2 頁の古い手紙のコ
ピーを能勢に渡して,次のように言ったことを忘れること
ができない。
「これは私がベイラー医科大学に雇われた時の契約書の
コピーだ。君には私と同じ条件でベイラー医科大学に来て
もらう。給料は,君の言った通りの額を払う。また,
研究員,
研究費,設備費および機材は,君が必要と思うなら何でも
3 年間は無条件で出す。しかし,3 年後に自立していなかっ
たら,または何も成果を上げていないと私が判断した場合
は,辞めてもらいたい」
今にして思うと,彼が能勢に言った「沢山作った一国一
城の主」は皆,このような条件によって彼にリクルートさ
れた連中だったのである。これは一見,非常に良い条件の
図 7 第 4 回世界ロータリー型血液ポンプ学会
第 4 回大会長である小柳仁教授(左)が第 3 回大会長であった能勢(右)より引
き継いたカウボーイハットをかぶって挨拶をしている。
ように見えるが,実はこれ以上厳しい条件はないと言って
も過言でない。
さらに彼は,
「助教授までは君の一存で決めて良い。し
ろ,先生は『能勢が横浜まで連れて行ってくれることに
かし,准教授の場合は私に報告をしてから決めてほしい。
なっている。彼が来るのを待つ』と言って空港の出口を動
それ以外は思い切り何をしても良いし,どのようなことを
かない。したがって『能勢君より連絡があり,どうしても
しても私は君をサポートする。ただし,それは 3 年間が限
必要なアポが北海道にあり,遅い便で東京に行くので,私
度である。グッドラック !!」と言って終わりであった。
が先生のエスコートを頼まれました』と答えた。しかし,
ドベイキー先生が同時にこのように沢山の仕事を間違い
『能勢と約束をした。彼は来るはずだ』と言って,30 分ぐら
なく成功させた秘訣は,このような簡単な原則に基づいて
いその場を動こうとしなかった」とのことである。その夜
いたということを知ったのは,能勢にとって大いに役に立
のパーティーでドベイキー先生に会ったところ,
「私との
つマネジメントの秘密であった。
約束を守らないとは何事だ !!」と,強い言葉でお叱りを受け
そこまで信頼された以上,ドベイキー先生の期待に応え
なければと感激し,全力で努力をしたのは能勢だけではな
た。
ドベイキー先生は,一度約束をしたらそれは守るべきと
いう信条を持っていた。能勢は,彼のような大きな仕事を
かったはずである。
4) 第 8 回マイケル・ドベイキー国際外科学会(横浜)
(1990 年 9 月 11 日∼ 15 日)
するためには,このような信条が重大であることを痛感し
た。その後,約 20 年,彼との約束を破ったことはない。幸
横浜で行われた第 8 回マイケル・ドベイキー国際外科学
会でのことである。ドベイキー先生は「成田で会おう。そ
して君に横浜に連れて行ってほしい」という約束をして,
い弟は岩見沢市長に当選し,その後 12 年間市長を務めるこ
とができた。
5) 第 4 回国際ロータリーブラッドポンプ学会(ISRBP)
(1997 年 7 月 29 日)
能勢とヒューストンで別れた。
能勢は弟が故郷の北海道岩見沢市長に立候補したので,
第 4 回 ISRBP 学会は,大会長である東京女子医科大学の
彼を助けるために学会の 10 日程前に岩見沢に居た。たま
小柳仁教授の下,約 500 名を集めて東京で行われた。この
たま 9 月 10 日の夕方に,岩見沢の医師会の連中が集って
学会は 1992 年に能勢がヒューストンで研究会として始め,
“能勢邦之をサポートする会”を開いてくれることになっ
1994 年に正式の学会となったものである。その後,1996
た。したがって学会本部に連絡して,
「能勢は空港に行く
年 に 能 勢 が ヒ ュ ー ス ト ン で 第 3 回 の 学 会 を 開 催 し た。
ことができない。誰かドベイキー先生を迎えに行ってほし
小柳教授が能勢より受け継いだ学会大会長のシンボルとし
い」と連絡した。その夜遅く,成田でなく羽田に到着し,
てのカウボーイハットをかぶり,会員の皆を歓迎した雄姿
その足で学会大会長の松本昭彦横浜市立大学心臓外科教授
は,今も皆の記憶に残っているはずである(図 7)。
に会った。彼は,
「能勢君,我々は本当に困ったよ。空港に
この学会を作ったのは,ドベイキー先生のリクエストに
能勢君の先生であるドベイキー先生を迎えに行ったとこ
よるものと言っても過言ではない。つまり,ドベイキー先
人工臓器 40 巻 3 号 2011 年
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リードする政治家のアドバイザーを長年にわたって行って
いたのも,上述の例により十分に理解することができる。
「プリンシプルを守り,人を裏切らない」「目標をはっきり
決めた以上はそれに向かって全力投球する」「人間として
必要な,医者として必要なモラルは,一番大切な原則とし
て守る」という新渡戸稲造が「武士道」に書いたものと同じ
プリンシプルをドベイキー先生は持っていた。したがって,
「武士道」のプリンシプルを守ろうと努力していた能勢を,
ドベイキー先生はよく理解してくれた。そのとき能勢は,
我々が父母から教えられた「武士道」は,世界共通の正しい
図 8 世界ロータリー型血液ポンプ学会名誉会長のドベイキー
教授(右)と能勢夫妻(左,中)
(東京パレスホテルにて)
原則であると改めて信じ直した次第であった。
4.
ドベイキー先生の人となり
1) ドベイキーシスターズ
生は 1934 年にロータリー型連続流ポンプを世界で初めて
前述の如く 5 つの要職を十分にこなしながら,ドベイ
作って以来,ノンパルスの人工心臓を信じて一生研究を続
キー先生は 60,000 例以上の手術を自ら行い,1,000 人以上
けた先生である。1980 年に能勢らが,ノンパルスのポンプ
の心臓血管外科医をトレーニングしてきた。しかも,1,600
でも生体埋め込みによって何ら非生理的な現象は起きない
以上の論文と,数え切れないほどの心臓血管外科関係の単
という発表を行ったとき,能勢らの発表を信じてくれる研
行本を 50 年の現役生活中に出版している。その他に,一般
究者は世界にほとんどいなかった。こうした中でドベイ
人に向けての沢山の本,特に“心臓病にならないための食
キー先生は,数少ない能勢グループの連続流ポンプの理論
事療法”などというベストセラーの本も出版している。
的なサポーターであった。それのみならず,第二世代の非
能勢は,何時このようにたくさんの本や論文を書く時間
拍動流ポンプ開発を 1988 年より開始し,1989 年に能勢を
があったのか不思議でたまらなかった。能勢にとっては,
ベイラー医科大学に呼んだのも,自らの夢達成の一助にな
論文を書くのがメインの仕事であるにもかかわらず,50 年
ると考えたからに他ならない。したがって,ドベイキー先
の研究生活で約 1,300 の論文と 20 冊の単行本の出版しか達
生は非拍動流ポンプこそ人工心臓の主流をなすものと信じ
成することができなかったからである。
て,1992 年より能勢の ISRBP 学会をサポートしてくれて
ドベイキー先生の 5 人の秘書はそれぞれの仕事をこなす
いたのである。彼は,亡くなるまで同学会の名誉会長職に
だけでも大変であり,論文をタイプする時間などあるはず
あった(図 8)
。
もなかった。しかし,ドベイキー先生の書いたいずれの論
この東京の学会場近くにあったパレスホテルに能勢とド
文もしっかりした内容であるのみならず,立派な英語であ
ベイキー先生は滞在していた。小柳教授は慶應義塾大学の
る。また,ディスカッションの部分も言い過ぎず,言わな
四津良平先生を 2 人の案内役として決め,東京名所旧跡見
過ぎずという適切な科学論文である。いつか彼に論文を書
学の計画を立てていた。しかし,ドベイキー先生は誰より
く秘密を教えてもらおうと思っているうちに,その秘密兵
も早く会場に出かけ,最後の発表まで前の席に座って,全
器を発見した次第である。
ての発表を聞いていた。特にエンジニアリングセッション
ドベイキー先生はメソジスト病院の 11 階にオフィスを
などは理解できないだろうと,いくら誘っても彼は「私は
置いており,ここに先生のカンファレンスルームと 5 人の
学会に呼ばれてきたので,全てのセッションに出席する義
秘書のオフィスがあった。したがって先生とミーティング
務がある。心配するな」と言って席を立とうとしなかった。
をするときは,ここを訪れるのが通例であった。ある時,
彼はゲストとして呼ばれた以上,プライマリーの目的以外
上品な年配の 2 人の女性がたまたまこのオフィスコンプ
のプログラムを全て拒否されたわけである。
レックスに居たので,誰かと聞いたところ,ドベイキー先
その時能勢は,ドベイキー先生を改めて尊敬し直したの
生の妹であることが分かった。だが,この両人ともただド
である。この時も彼の「ノーブルオブリージュ」,つまり生
ベイキー先生のサポーターだというだけで,無口で何時も
まれの良さから来る彼の人格に圧倒された次第であった。
隣のオフィスに引きこもっており,ほとんどフロントオ
ドベイキー先生が医学の分野だけでなく,アメリカを
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フィスに現れたことがなかった。
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先生であった。現在このポジションは,テキサスハートイ
ンスティテュートを作ったデントン・クーリー教授が引き
継いでいる。
この ICMT を通じて,またベイラー医科大学にできた
マイケル・ドベイキー医学博物館を通じて得た,ドベイ
キー先生の 2 人の妹の印象は,やはりドベイキー先生は生
まれが良かったからあのような人格ができ上がったのだ,
ということであった。前述の如く,ここでいう「生まれが
良かった」という意味は,金持ちを意味するものではない。
日本における「武士道」を教えてくれるような環境にいた
ということである。
図 9 ドベイキー教授(中)と,セルマ(左),ルイーズ(右)
この 2 人のシスターはどちらも,サイエンティフィック・コミュニケーショ
ンの現職のベイラー医科大学の教授である。ドベイキー先生の約 1,600 の論
文は彼女らの努力によるものと言っても過言ではない。
5.
ドベイキー先生の両親
ドベイキー先生の父親はシェーカー・モリス,母親はラ
ヒヤ・ゾルバである。2 人ともレバノンからの移民で,ア
メリカで出会って結婚した。ドベイキー先生はこの 2 人の
実は,この 2 人の妹,セルマとルイーズがドベイキー先
5 人(男 2 人女 3 人)の子供の長男として生まれ,そして人
生の秘密兵器であり,2 人ともベイラー医科大学のサイエ
口約 13,000 人の小さな町であるルイジアナ州のレーク
ンティフィック・コミュニケーション学の教授である(図
チャールズで育った。
9)。両人とも 1968 年にドベイキー先生の強い誘いの下に,
両親ともに大学を出ていないが,薬局を経営し,数ヵ所
ニューオリンズのチューレン大学の教授よりベイラー医科
に支店を作るほどに成功していた。したがって,この小さ
大学に移っている。チューレン大学では 2 人とも医学論文
な町の名士として扱われており,収入の一部を教会その他
のエディターとして広く活躍されていた先生方で,すでに
に寄付をしていたので,母親はチューレン大学の学長より
“メディカルコミュニケーション”という新しい分野で広
「セイント(聖者)」と呼ばれたこともあった。
く認められていた彼女たちは,医学英語のエキスパートで
この両親は教育熱心で,5 人の子供が大きくなるときに
あった。したがって,ドベイキー先生の沢山の論文は,彼
「いろいろな本に囲まれて成長した」とのことである。ド
女らの厳しい目を通して発表されていたことになる。The
ベイキー先生は,父親の薬局にあった本を大学に入学する
Journal of the American Medical Association(AMA)誌の前
前に読破していた。つまり,大学に入る前に,既に大学で
編集長ボブ・モーザー博士によると,
「私の知る限り,一般
教える本を読んでいたことになる。したがって,彼がチュー
的に文盲である医者に対し,いかにして正確な論文を書く
レン大学の医学部を 2 年スキップして卒業できたことも,
べきかを教えてくれた,アメリカで一番の功労者である」
また医学部の学生の時にローラーポンプの特許を申請する
と称賛している。アメリカ外科学会での彼女達のレク
ことができたことも自明である。つまりドベイキー先生は,
チャールームはいつも,聴衆が入りきらないほどの盛況を
このレバノンからの移民の父母に教育を受け,その後,誰
呈していたとのことである。彼女達は「論文を書くときは,
からも尊敬される医者,研究者,教育者,経営者そしてメ
はっきりと分かる簡単な表現が第一で,文法はその次であ
ディカルステートスマンとなったわけである。
る」
「難しい表現を使ってはいけない」などといつも言っ
ていた。彼女らもドベイキー先生と同じように,
「私達に
6.
結 語
とって 5 時以降はセカンドシフトです」と言って,仕事に
ドベイキー先生の個人的な面から本稿を書いた。読み返
熱中していた。したがって 2 人ともまだシングルである。
してみたところ,前回のコルフ先生とは全く異なった人格,
正確な年齢は言わないが 90 歳を越えた今でも毎日勤務を
生い立ち,性格およびフィロソフィを持っていると思って
している。
いたが,何か共通のものがあるように思われる。それが何
その後,能勢はヒューストンに国際医療技術センター
かははっきりしないが,両人共に共通して持っているもの
(ICMT)の人工臓器博物館を作った時に,この 2 人とよく
を強いて挙げると,以下に要約されるのではないかと思う。
知り合う幸運を得た。ちなみに,ICMT の総長はドベイキー
① 2 人とも,自分に非常に高い到達目標(夢?)を持ち,
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その達成のためにまっしぐらに走る人生を送ってい
能勢も知らないうちに,多くのことをこの 2 人から学ん
た。そのために周りがどのように思おうが全く相手に
でいたはずである。読者の皆様も,この 2 人の生きざまを
しなかった。
見て,何か感じるものがあれば幸甚である。
② 2 人 と も,1 人 で 全 て を や ろ う と は 全 然 考 え て い な
かった。まず自分が信頼できる同志を見つけ,その人
に全責任を持たせて不可能を達成していた(コルフ先
※編集委員会注:著者の意思を尊重してほぼ原文のまま掲載さ
せていただきました。
生はなかなか人を信頼しないが,一度信頼するとオー
ルオアナッシングで 100%信頼する。ドベイキー先生
も同じである)
。
③ 2 人とも,誰よりも自分に厳しく,そして夢達成のた
めに誰よりも努力した。
その他にも沢山共通のものを持っていたはずである。本
稿を読んでくださった皆様は,能勢のようにこの 2 人と直
接付き合ってはいない。したがって案外,能勢よりもこの
2 人の持つ共通点が,よりはっきり分かるかもしれない。
スタイルは非常に異なっていたが,この 2 人の達成したこ
とは,共に同じく素晴らしい。
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文 献
1) Cooley DA. In Memoriam Michael E. DeBakey 1908-2008.
Tex Heart Inst J 35: 233-4, 2008
2) Nosé Y. Dr. Michael E. DeBakey and his contributions in
the field of ar tificial organs. September 7, 1908-July 11,
2008. Artif Organs 32: 661-6, 2008
3) Nosé Y. The birth of the artificial heart programs in the
world: a special tribute to Tetsuo Akutsu and Valer ÿ
Shumakov. Artif Organs 32: 667-83, 2008
4) Noon GP. Michael Ellis DeBakey, M.D. September 7, 1908
to July 11, 2008. ASAIO J 54: 559-62, 2008
5) Sezai Y. In honor of the late Dr. Michael E. DeBakey. Ann
Thorac Cardiovasc Surg 14: 201-2, 2008
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