太田和夫先生の死を悼む

●追悼
太田和夫先生の死を悼む
高橋 公太
日本臨床腎移植学会理事長/新潟大学大学院医歯学総合研究科腎泌尿器科病態学分野
ロロジー研究会代表世話人,小児腎不全学会世話人,急性血
液浄化研究会代表世話人,腎不全外科研究会代表世話人,ヘ
パリン研究会代表世話人
主な業績:
人工腎臓ならびに臓器移植の研究・開発・普及,体外外科手
術の創案,等
専門分野:
人工腎臓・人工肝臓・人工膵臓,腎臓・肝臓・膵臓等の移植,
腎不全患者に対する一般外科,アクセス外科,等
主な著書:
人工腎臓の実際,An Atlas of Vascular Access,腎移植の実際,
CAPD の臨床,図説ブラッドアクセス ̶ 作り方と使い方 ̶ ,
透析患者の診かた考え方,透析療法とその周辺知識,腎不全
治療学,等
受賞歴:
腎研究会学術奨励賞受賞,日本医師会優功賞受賞,厚生大臣
表彰(腎不全対策の貢献)
太田和夫先生
1931 年(昭和 6 年)7 月 18 日∼ 2010 年(平成 22 年)7 月 20 日
東京女子医科大学名誉教授,元日本移植学会理事長,元
太田和夫先生 略歴
1957 年 3 月
1958 年 6 月
1970 年 1 月
1970 年 10 月
1972 年 2 月
1973 年 1 月
1979 年 4 月
東京大学医学部医学科卒業
東京大学第 2 外科入局
東京女子医科大学理論外科助手
東京女子医科大学理論外科講師
同大学理論外科助教授
同大学人工腎臓センター教授
同大学腎臓病総合医療センター外科教授,
同センター副所長
1980 年 4 月 同大学外科学第 3 講座開講,主任教授
1983 年 4 月 同大学腎臓病総合医療センター所長
所属学会・委員会・団体等:(1997 年 3 月現在)
日本人工臓器学会元理事長,日本移植学会元理事長,日本透
析医学会元理事長,アジア移植学会元理事長,日本外科学会
評議員
透析療法合同専門委員会委員長,臨床工学関連問題検討委員
会委員長,財団法人医療機器センター理事,中央薬事審議会
委員,公衆衛生審議会委員,等
第 7 回国際人工臓器世界会議会長,第 15 回国際移植世界会議
会長,第 5 回国際腹膜濯流学会会長,第 20 回日本人工臓器学
会会長,第 38 回日本透析療法学会会長,第 25 回日本移植学
会会長,第 22 回日本腎臓学会東部部会会長,第 8 回腎移植臨
床検討会当番世話人,第 5 回肝移植研究会会長
ハイパフォーマンス・メンブレン / 次世代人工腎研究会会
長,HDF 研究会会長,腹膜透析研究会会長,サイコ・ネフ
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日本透析医学会理事長であられた太田和夫先生は,2010
年 7 月 20 日にご逝去され,79 歳の生涯を閉じられました。
謹んでここにご逝去を悼み,哀悼の意を捧げます。
消化器の癌で数年にわたる闘病生活の末の死は,ある
種の安らぎではなかったかと思われます。亡くなられる
2 週間前に生前にこよなく愛した上高地に旅立たれたこ
とをご遺族から聞かされたとき,不肖の愛弟子の一人と
して,先生が死を静かに受け入れる覚悟であったのでは
ないかと思いました。
先生の追悼文を『人工臓器』の編集委員会から依頼され
たとき,なかなか筆を起こすことができませんでした。
その理由は,先生の生前なされたお仕事の業績があまり
にも大きく幅広かったからです。なかでも最も大きな業
績は,わが国における腎不全医療の創成期を築かれたこ
とです。主な業績を挙げてみますと,腎不全医療(腎移植,
血液透析,腹膜透析(CAPD),バスキュラー・アクセス,
サイコネフロロジー),肝不全医療(肝移植),人工臓器(血
液浄化療法,人工肝臓),および糖尿病に対する膵臓移植
人工臓器 39 巻 3 号 2010 年
など,多岐にわたっております。本稿では,主に先生の移
大学名誉教授),岩崎洋治先生(筑波大学名誉教授),およ
植医療に対する情熱とその業績に触れたいと思います。
び四方統男先生(京都府立医科大学)が集まり,稲生綱政
先 生 は 1963 年,東 京 大 学 医 学 部 第 2 外 科 教 室 で 木 本
先生(東京大学名誉教授)を代表世話人として検討会を発
誠二教授,稲生綱政先生の下,末期腎不全患者にわが国で
足させました。現在,本学術集会は発展的に解消し,学会
初めて生体腎移植を実施しました。1969 年,慢性腎不全
として「腎移植認定医」を輩出するまでに大きく発展しま
の 治 療 を 目 指 し て,先 生 が 最 も 尊 敬 し て い た 先 輩 の
したが,その方針は発足当時の精神を貫いており,わが国
榊原仟教授が主宰されていた東京女子医科大学附属心臓
における腎移植の質の向上と普及に貢献しています。
血圧研究所の門戸をたたきました。榊原先生から「研究
1974 年に第 8 回臨床腎移植検討会,1988 年に第 25 回日
部の助手しかないが,それでよいなら総合的な腎不全医
本移植学会の総会長をなされ,さらにアジアの臓器移植
療を目指してください」と言われ,翌年の 1970 年,堀原一
を推進させるためアジア移植学会を立ち上げ,1989 年に
教授(筑波大学名誉教授)が主宰していた東京女子医科大
は第 1 回アジア移植学会総会をインドネシアのバリ島で
学理論外科の助手として入局なさいました。楽天的な
主催されました。バリ島で開いた大きな理由は,会費を
太田先生とはいえ,当時,東京大学の助手から同じ助手に
安くすることによりアジアの発展途上国の会員が参加し
甘ずることは,いかに志が高かったかを示しています。
やすくするための配慮でした。1991 年には日本移植学会
後にわれわれ門下生に「名よりも実をとれ」と口癖のよう
理 事 長 に 就 任 し,1994 年,日 本 移 植 学 会 会 員 の 祈 願 で
に言われ,諭していたことを私は昨日のことのように覚
あった国際移植学会総会をアジアで最初に京都の地で開
えており,今日でもわれわれ門下生はその精神を活かし
催されました。この第 15 回国際会議には全世界から多く
ております。
の会員が集まり,盛会のうちに閉会しました。
また,当時,この理論外科の構想はわが国で初めての試
1992 年には東京女子医科大学総合医療センターで,わ
みであり,地下の実験室では私が入局した当時,堀先生を
が国で初めて腎移植 1 ,000 例を達成しました。その記念
筆頭に,太田先生,出月康夫先生(東京大学外科教授),
式典は東京女子医科大学弥生記念講堂で開催され,ケン
小 柳 仁 先 生( 東 京 女 子 医 科 大 学 附 属 心 臓 血 管 研 究 所 教
ブリッジ大学のカーン教授,ハイデルベルグ大学のオペ
授),北村信夫先生(京都府立医科大学心臓血管外科初代
ルツ教授,およびカリフォルニア大学のサルバティーラ
教授),阿岸哲三先生(東京女子医科大学外科教授),およ
教授をお招きし,招請講演をお願いしました。その際,小
び東間紘先生(東京女子医科大学泌尿器科教授)などのそ
生は東京女子医科大学で実施した腎移植 1,000 例の成績
うそうたるメンバーの先生方が,忙しい臨床のかたわら
を報告させていただく栄誉を授かりました。また,この
日夜実験に勤しんでいました。後にわが国の人工臓器,
機会に記念誌「本流」を発刊しました。先生は,その冒頭
および移植の分野の礎を築いた先生方が多く輩出されま
に次のような文章を残されております。
した。当時,若輩の小生もその先生方の指導を受け,後ろ
雪から溶け出た一雫でも
姿を見ながら徹夜の実験に励み,その成果を学会に発表
谷の仲間を集めれば
しました。私の学位論文「腎保存の研究」もこの地下の実
本流となる この流れを
験室から生まれました。
だれも止めることが出来ない
その後,太田先生は,教育,研究,さらに経営的にも頭
平成五年 太田和夫 角を発揮され,講師,助教授を経て 1978 年には教授に就
任なさいました。そして,わが国で初めて腎不全医療を
総合的に治療する腎臓病総合センターを設立され,1983
年にはその所長に就任なさいました。
この文章は先生の並々ならぬ臓器移植の普及,推進に
向けた強い意志を表しております。
また,一方では,1997 年,それまで施行されてきた「角
先生は,現在私が理事長を務めている日本臨床腎移植
膜と腎臓の移植に関する法律」に代わり,念願の「臓器の
学会の発足にも大きな足跡を残されました。1960 年代当
移植に関する法律」が施行されましたが,この法律の公布
時,症例の少なかった腎移植の臨床経験をなるべく早く
に至るまで,先生はご多忙のなか何度も国会や厚生省に
普及させるために,臨床的に問題の多い症例や,学会で発
陳情に奔走し,その努力が実って,今日の「改正臓器移植
表しにくい症例を出しあって積極的に討論することを趣
法」が施行されるに至っています。
旨として,1969 年,発足当時の 4 人の先生はすべて故人と
2010 年 4 月に,盟友の園田孝夫先生がご逝去なされた
なられましたが,太田先生をはじめ,園田孝夫先生(大阪
ことをお伝えした折には,無二の親友をなくされ,深い悲
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しみにうちひしがれておりました。
進せよ」とのメッセージかもしれません。
お 2 人の巨星が亡くなられたことは,ある意味では残さ
最後に,私の最大の誇りは,私だけがこの世で唯一,
れたわれわれ後輩に対して「しっかりせよ。われわれは
太田先生が尊敬していらっしゃった榊原仟先生の最後の
天国で見守っているから,もっとわが国の臓器移植を推
研修生であり,太田先生の最初の研修生あったことです。
故太田和夫先生を偲んで
稲生 綱政
医療法人社団大坪会東和病院 名誉院長
1963 年 3 月 27 日,本邦においてイムランとステロイド
コルフ博士や能勢之彦博士達のお話を聴くことができた。
を主体とする抗免疫療法の下で,生体腎臓移植の臨床第 1
4 月 9 日∼ 10 日の登録会議に出席し持参した症例報告も
例が行われた。その症例のドナー(姉)の腎摘は小生が施
無事終了し,5 月 19 日にはワシントン空港からロンドン
行したが,レシピエントヘの腎移植手術は当時の教室主
ヘ。欧州中部を漫遊後,スウェーデン・デンマーク・ノ
任木本誠二教授の執刀の下に,その第一助手の務めを果
ルウェイなど北欧の旅を終えて,6 月 4 日に羽田国際空港
たしたのが,この度の故太田和夫先生であり,本邦におけ
ヘ太田先生と共に無事帰国した。人工透析と腎移植に関
る臨床的腎移植手術への先鋒の一役を果された。
する国際的な研究会や学会への参加と共に,欧米におい
そこで,太田先生と小生との医学的な関連性について
て 3ヶ月にわたりこれらの研究施設などを見学してま
簡単にご紹介しておきたい。小生が東京大学第二外科へ
わった太田先生との同伴旅行は,小生にとって忘れられ
人局したのは 1946 年で,当時第二外科では心臓外科を主
ない思い出である。
体としていたが,心臓の手術は成功しても急性腎不全で
1968 年には東京大学紛争が勃発し,東大病院における
の死亡例が多かった。その改善が一つのテーマとなり,
臨床的診療は保持されたが,いずれの診療科も研究室は
まず人工腎臓の臨床治療(その臨床的治療は 1954 年開
閉鎖されるに至った。小生は 1970 年から東京大学医科学
始 )か ら 我 々 は 第 二 外 科 の 中 に AK 会( 人 工 腎 臓 研 究 グ
研究所病院に招聘され,外科および人工臓器診療科を担
ループ会)を造り,その他各種の人工臓器の研究開発が行
任することになったが,太田先生も東京女子医科大学へ
われるようになって,日本人工臓器学会が創設されるこ
転職され,間もなく同大学人工臓器センター教授に就任
とになった。
された。
太田和夫先生は 1957 年に医学部を卒業されて第二外科
その後も腎不全に対する外科的治療に関する研究を常
へ人局され,2 年後から各研究グループヘ配属される際に
に継続され,学会や研究会,例えば人工透析医学会・人工
AK 会を希望され,それ以来 AK グループの一員として大
内臓学会・腎移植学会・臓器移植学会・臨床免疫学会な
いに期待されてきた。偶々1965 年にアメリカで国際腎移
ど,日本国の内外を問わず主要役員としてその発展に努
植臨床登録会議(ASAIO)が開催されるので,本邦におけ
力された。そして,東京女子医大定年退職後にも太田医
る前記の臨床例を報告することになり,小生と 2 人で同年
学研究所を設立され,一連の研究活動を支援されておら
3 月末,羽田国際空港から機上の人となった。2 人とも初
れたことに心から敬意を表する次第である。
めての海外旅行なので,国際登録会議ばかりでなく,アメ
太田和夫先生の 50 年にわたる一貫した腎不全の治療研
リカではハワイ・サンフランシスコをはじめ,デンバー
究開発への熱意,並びにその業績に心から感謝しつつ,追
ではコロラド大学で移植の大御所,トーマス・E・スター
悼の意を捧げます。
ズル教授のお話を聴き,ニューヨークではウィレム・J・
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故太田和夫先生を偲んで ̶無手勝流(むてかつりゅう)のすすめ̶
鈴木 利昭
医療法人社団昇陽会阿佐谷すずき診療所 院長
2010 年 7 月 20 日午後,シャント手術中に突然,東京女
多くの患者さんに当たりながら,一つ一つ工夫しながら
子医科大学腎臓病総合医療センター血液浄化部より太田
一つの形を作ったもので,言わば無手勝流(むてかつりゅ
和夫先生の訃報を知らせる FAX が到来致しました。小生
う)ですよ」
を初め,日本全国で多くの医療従事者,患者さんが巨星逝
くの感慨を抱かれたことでしょう。
この答えを聞いて一挙に長年の疑問が氷解しました。
先生は,伝統のある東京大学第 2 外科学教室のご出身であ
大腸癌の肝臓転移が偶然発見され,御子息の執刀の下,
治療を受けましたが,2 年間の闘病生活の末,天寿を全う
るという先入観から,先生にとってのシャント手術の指
導医の存在を,うかつにも連想していたからです。
されました。先生は 1931 年 7 月 18 日のお生まれで,皮肉
この「無手勝流」について興味を抱き,翌日『広辞苑(第
なことに,亡くなるほんの 2 日前に 79 歳になられたばか
4 版)』で確かめたところ,次のような説明が載っていま
りでした。先生はご自分の体力に自信があったため,生
した。
前私ども門下生に,太田家では 90 歳より前に亡くなった
「塚原卜伝が渡し船の中で武者修行の侍から真剣勝負を
人がいないと笑いながらおっしゃっていたことが思い出
挑まれた時に,策略を巡らせて戦わずして相手に勝った
されます。
との逸話に由来し,それから派生して『師伝によらず,自
小生が太田先生の教室に入局し大学で 17 年,開業して
分で独自に編み出した流儀』の意味を持つようになった」
から 18 年,のべ 35 年間お世話になり,この間門下生の一
とのことでした。これは,現代の言葉で表現すれば「パイ
人として先生から太田語録とでも呼ぶべき多くの薫陶を
オニア精神」と言えます。突然脳裏に,アメリカ留学中に
受ける機会を得られましたので,その一部をご披露し追
クリーブランドクリニックで,能勢之彦教授がいつも口
悼の文と致します。
癖のようにおっしゃっていた「研究は言うに及ばず,さら
太 田 先 生 の 執 筆 さ れ た 数 多 く の 著 作 の 中 に『 図 説 ブ
に人生では,自分独自のフィロソフィーを持つことが一
ラッドアクセス ̶ 作り方と使い方 ̶ 』
(南江堂,1982 年)
番大切で,他人のまねをしても仕方がない」との言葉が
があります。この本は 300 ページにわたる大作であり,
甦ってまいりました。
Churchill-Livingstone 社より英文でも出版されています。
ところで,振り返って考えてみますと,わが国での透析
ブラッドアクセスに関してこの本ほど詳細に,かつ具体
療法の確立,臨床工学技士の誕生,腎臓移植の普及など,
的に多くの経験が盛り込まれた著作は,世界中を探して
太田先生が今日まで残された多岐にわたる多くの業績の
も見つかりません。この点は不思議で,以前から先生に
全てが,この「無手勝流」の精神から生み出されたもので
直接お伺いしなければならないと思いながらも,そのま
あると思われました。われわれ太田先生から薫陶を受け
まになっておりました。数年後たまたま機会があり,こ
た者の責任として,是非ともこの精神を継承し,われわれ
の長年の疑問についておうかがいしたところ,次の答え
独自の「無手勝流」の免許皆伝の巻物を作りたいものであ
が返ってまいりました。
ります。
「鈴木君ね,文献など探しても無駄ですよ。私のシャン
ト手術のやり方は,誰かに教えてもらったのではなくて,
太田和夫先生,長い間お疲れさまでした。安らかに,お
休み下さい。
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故太田和夫先生を偲んで
須田 昭夫
医療法人社団白水会須田クリニック 院長
2010 年 7 月 11 日 ∼ 12 日,記 録 的 な 猛 暑 を 離 れ て 太 田
に座ってまとまった時間ができるとすぐに,原稿用紙を
和夫先生は上高地を訪れた。そこには全国各地から,透
取り出して著作に没頭するのが常であった。書き始める
析と移植のリーダーたちが集まっていた。太田先生の深
と消しゴムは殆ど使わず,まるで暗誦した文章を紙の上
くお疲れのご様子は,先生の義理堅さを物語っていた。
に並べてゆくような調子であった。人の往来や話し声を
発せられた「上高地はいいね」の一言には,集まった医師
全く意に介さない集中力は,常人にはとてもまねのでき
たちへの心遣いがこもっていた。大の山好きの太田先生
ないことに思われた。
は日本百名山をほぼ踏破し,世界各地の山々を見ていた。
太田先生は東南アジア各国で腎移植手術を指導して普
翌朝,太田先生は鶯の声の中,山道を楽しんだ。上高地に
及に努めた後,アジア移植学会を立ち上げた。第 1 回目の
は穂高岳,梓川,馴染みのホテルの心からのもてなし,そ
総会はインドネシア主催でバリ島において開かれた。イ
して積み重ねた思い出があった。
ンドネシア初の腎移植は太田先生の手によるものであっ
太田先生の業績は,
『人工臓器』33 巻 3 号の「私の歩んだ
た。インドネシアの腎移植の発展を喜んでいた太田先生
道」で,概略を知ることができる 1) 。人工臓器の分野では,
は,
「日本がリーダーになって牽引するという形にしては
臨床工学技士制度誕生への貢献を忘れられない。人工腎
だめだ。アジア全体がお互いに学びあう形にしないと発
臓に関係する 5 つの学会・医会に図って透析療法合同専
展しない。総会はアジアのドクターたちが集まりやすい
門委員会を設置させるや,教科書『血液浄化療法ハンド
ところで開くのが良い」と語っていた。この学会の理事
ブック』
(協同医書出版社)の出版,講習会,試験を先導し,
長には推されて就いたが,生涯のテーマとした腎不全治
1980 年に透析技術認定士制度を発足させた。その後も国
療の普及が第一であり,自分の地位を求める気持ちは全
家資格化の努力を続けていたが,1986 年,透析技術認定
くなかった。腎移植に関して後日,新聞社が訂正して詫
士の業務に関する宇都宮裁判の参考人となった。これを
びた 1995 年の誤報により,愚かな論争 3) が生じたときも,
絶好の機会と捉えた太田先生は,東京女子医科大学でも
移植のイメージを壊してはならないと,速やかな沈静化
透析技師が血管穿刺行為を行っていることを,臆するこ
を願って公職を辞した。
となく述べて聴衆を驚かせた。しかし続けて,透析技師
上高地から熱暑の東京に戻った太田先生は自宅で時を
の存在が不可欠なこと,5 学会が認定試験を実施してきた
過ごしていたが,9 日後の 7 月 20 日早朝,自宅にて静かに
こと,国家資格化に努力してきたが政府が動かないこと,
長の旅路に就かれた。得がたい巨人が去った。しかし,
医療の進歩に伴って法律も変化してゆくべきであること,
太田先生の心はすでに多くの人に移植された。今後は多
などを諄々と説いた。自院の透析技師たちに日ごろ,
「君
くの人の心の中で生き続けるだろう。
たちが仕事をしている責任はすべて私にある。安心して
仕事をしなさい」と語っていた太田先生は,真っ向から正
当性を主張して透析技師を守ろうとした。その 2 年後,臨
床工学技士法が成立した 2) 。
太田先生には国内外の学会にしばしば同行させていた
だいた。底抜けの笑顔を見せる太田先生のジョークを雨
文 献
1) 太田和夫:私の歩んだ道.人工臓器 33: 260-71, 2004
2) 太 田 和 夫: 透 析 医 療 の 歴 史 ̶ 先 人 達 の 軌 跡 を た ど っ
て ̶ .メディカ出版,大阪,2008, 229-37
3) 木村良一:移植医療を築いた二人の男 ̶ その光と影 ̶ ,
産経新聞社,東京,2002, 264-79
霰と浴びたように思うが,空港のロビーや飛行機の座席
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