能勢之彦,人工臓器の歴史を語る 世界の巨人たち 第五話 日本人工臓器

●連載エッセイ
能勢之彦,人工臓器の歴史を語る 世界の巨人たち
第五話 ─ 日本人工臓器学会を設立した渡辺茂先生と
木本誠二先生 ─
ベイラー医科大学・マイケルドベイキー外科学教室・人工臓器開発センター
能勢 之彦,高場 準二
Yukihiko NOSÉ, Junji TAKABA
1.
の ABC を知ってからにしたい。2 年間待ってもらうことは
序 説
可能でしょうか?」と要求したところ,
「そうだな,それも
日本人工臓器学会(設立当初:人工臓器研究会)は 1957
一理ある。まず木本外科の連中と自信を持って話ができる
年,東京大学(以下,東大)木本外科で入局 3 年生の同期で
ように,外科の ABC を 2 年間で勉強したまえ」と承諾して
ある堀原一先生(筑波大学副学長で退官,名誉教授)
,渥美
くれた。そして,腹部内臓外科の ABC を三上先生と葛西
和彦先生(東大医学部名誉教授),および異色の石井威望先
洋一先生から,生物学的人工肝臓の実験を水戸先生から勉
生(東大工学部名誉教授:堀,渥美両先生と医学部で同期,
強した。そのお陰で,東大工学部に当時異例の大学院学生
卒業後,工学部大学院に入学)の 3 人が中心になり設立し
留学をした時には,北海道代表として東大の人工臓器のパ
たものである。もちろん,渡辺茂東大工学部機械工学教授
イオニア達にチャレンジするつもりで行くことができた。
(図 1)
,木本誠二東大医学部外科学教授(図 2),そして荒井
東京に着いてすぐ,木本外科の堀原一先生(図 3)のとこ
渓吉東大工学部高分子工学教授の 3 人のサポートを得たも
ろに,水戸先生の手紙を持って挨拶に行った。堀先生はす
のである。つまり,当時,東大では工学,外科,高分子の 3
ぐ,能勢と同期の人工肝臓チームメンバーである山崎善弥,
分野における日本のリーダーが,人工臓器の将来に夢をか
小島靖の両先生に能勢の下宿を決める手伝いを命じた。2
けて 3 人の若い医師の後押しをしたのが,日本の人工臓器
人は生協の黒板の上に張ってある「下宿あり」の札を 1 枚
の幕開けであったと言っても過言ではない。この 3 人の呼
とった。
「ここだと電車に乗らずに,歩いて通勤できるから」
び掛けに対し,日本の主な大学から約 100 名が参集した。
というのが理由である。本郷駒込曙町である。能勢は心配
そして毎年温泉に集まり,人工臓器の将来および夢を語り
になり,
「あと 2,3ヶ所,他の下宿の候補は必要ないでしょ
合ったのである。
うか?」と聞くと,
「我々が行けば断られるはずがない」と
北海道大学(以下,北大)第一外科の三上二郎教授はいち
言って 1 枚しか持って行かなかった。下宿に行って「部屋
早くこの動きに賛同し,自分の名代として水戸迪郎先生
(図 3)をこの研究会の委員会に参加させたのであった。
2.
東大工学部渡辺研究室へ国内留学
1) 月曜会
1958 年 4 月 1 日,能勢は北大第一外科に大学院学生とし
て入局した。入局にあたって三上教授に挨拶に参上したと
ころ,びっくりするようなことを言われた。「君には将来,
私の教室の人工臓器研究室のチーフになってもらう。した
がって,これからすぐ! 東大機械工学の渡辺茂教授のとこ
ろに,6 ヶ月間国内留学をしてもらう」とのことであった。
その時能勢は,
「もし東大に行くのであれば,外科医として
図 1 渡辺茂教授
人工臓器 41 巻 1 号 2012 年
図 2 木本誠二教授
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レーンに触れられたことは幸せであった。色々なディス
カッションを通してわかったことは,当時誰もこの分野の
正しい方向性をよくわかっていなかった,という事実で
あった。しかし堀,石井両先生の発想の豊かさや広さは,
すでにこの分野の日本のリーダーとしての資質を十分に
持っていた。北海道から来た,まだ半人前の外科医だった
能勢を大いに啓発してくれた。バックグラウンドや経験が
異なるにもかかわらず,この月曜会は出席者が遠慮なくお
互いに自分の意見をぶつけ合い,批判し合うというスタイ
図 3 左から,水戸迪郎先生,堀原一先生,能勢
ルであった。何も知らないにもかかわらず,出席者と対等
に自分の未熟な意見を闘わせることができた幸せは,かけ
がえのないものである。その後,色々なミーティングの機
はありますか?」と聞くと,
「ある」とのこと。「すぐ北海道
会があったが,現在に至るまで,能勢にとってこのように
より布団を送ってもらいます」と言うと,
「私達の客用布団
楽しく,意義のあるミーティングの経験はない。また堀,
をお貸ししますので,今日にも来ていただいて結構です」
石井両先生との理論闘争には,残念ながら勝つことはでき
との親切な返事であった。後で下宿の女主人に聞いたのだ
なかった。
が,実は能勢ではなく小島先生が入室するものと思ったと
このような若造同士のディスカッションを,ニコニコ笑
のことである。小島先生は名実ともに木本外科切ってのハ
いながら適切にリードしてくれた渡辺先生の心の広さは,
ンサムなレディ・キラーだったので,特別サービスをした
測り知れないものであった。渡辺先生こそが,日本人工臓
のだそうだ。能勢がホテルを引き払って訪ねたとき,彼女
器学会の本当の創始者であったと言っても過言ではないと
ががっかりしていたことは否めない。しかし,この事実を
能勢は信じている。渡辺先生は弟子を育てる名人であった。
見ても,札幌の北大生よりも本郷の東大生に対する信頼が,
一方,木本先生はこの学会のプロモーターと考えるとわか
いかに高いものであったかがわかる。
りやすい。
堀先生を中心とする人工肝臓グループは,東京医科大学
2) 渡辺茂教授
(以下,東京医大)教授として木本外科を転出したばかりの
渡辺先生は機械工学の教授であり,ポンプ工学の授業を
杉江三郎教授を,引き続きチーフとしていた。このグルー
持っていた。また,日本高分子学会を立ち上げた荒井渓吉
プは週に 1 回渡辺研究室に集まり,ミーティングを行って
先生とともに編纂した「機械工学のための繊維・高分子材
いた。いわゆる「月曜会」である。このグループは主とし
料」という教科書も持っていた。当時,荒井先生は慶應義
て東大木本外科の門脈血管外科のグループであったが,
塾大学教授であったが,東大工学部で「織機工学」という講
杉江先生は東京医大で心臓外科を始めると同時に,人工肝
義を行っていた。まだ「高分子工学」という表現がなかっ
臓や人工腎臓にも興味を持っていた。ゆえに,東京医大よ
たからかもしれない。あるいは東大に昔からあった「トヨ
り工藤武彦先生(心臓外科)と江本俊秀先生(人工腎臓)も
タ織機工学」という授業に,高分子工学を潜り込ませたか
参加していた。特に渥美先生を中心として研究が行われて
らかもしれない。能勢は,渡辺研究室に 1960 年 4 月 1 日か
いた人工心臓は,ポンプ工学を専門とするグループの人々
ら出席した。当時,博士課程の学生は 3 人,修士課程の学
にとって最も興味のある臓器の一つであった。また,人工
生が 6 人で,計 9 人が一つの部屋に机を並べて勉強するこ
臓器研究会の発案者の 1 人である石井先生は,ユニークな
とになった。博士課程の石井先生は,空気駆動型の人工心
意見の持ち主であった。つまりこのグループは,当時考え
臓(図 4a)の設計を行っていた。能勢は,三島型小型モー
られていた人工臓器に対する夢を持っていたすべての狂信
ターを使用した機械駆動型人工心臓(図 4b)の設計を命じ
者の集まり,と言った方が良いだろう。幸いこのミーティ
られた。もう一人の平子良先生には,代用血管を作るよう
ングは,渡辺先生と杉江先生が,機械工学および高分子の
にとのテーマが与えられていた。当時,渥美先生の液体駆
専門家として,また血管心臓外科および門脈外科の専門家
動型人工心臓(図 4c)埋め込みは,工学部地下の実験室で
として,若い跳ね返りの私達を適切にリードしてくれたお
行われていた。
陰で,暴走をかろうじて止めてくれた。医学部卒業 3 年目
渡辺研究室に参加させてもらって間もない頃であった。
の若造が,このような日本の人工臓器のトップレベルのブ
渡辺先生が大学院室で雑談していた時,秘書が入ってきて,
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(b)
(a)
(c)
図 4 1960 年当時の渡辺研究室に
おける研究テーマ
(a)石井威望先生(左)の空気駆動型人工
心臓(右)
(b)能勢(左)の機械駆動型人工心臓(右)
(c)渥美和彦先生(左)の液体駆動型人工
心臓(右)
「渡辺先生,訪問客です。自衛隊のジェネラルが先生にお
やはり東大は違う。何も知らなくても,1 週間の勉強で日
願いしたいことがあると,部下 2 人を連れて来ております。
本一になることができる。だとしたら,能勢も 1 週間勉強
教授室にお戻りいただけますか?」と尋ねた。すると先生
したら世界一になることも夢ではないと思った次第であ
は「ここにお客様をお連れして下さい」と答え,秘書は自衛
る。その翌日,大学院室に行くと,会議テーブルの上に 5
隊の 3 人を大学院室に案内した。彼らは先生に「日本の自
∼ 6 個のコマをまわして「あぁ,倒れない! これがジャイ
衛隊でも,ミサイルの開発ができるようになりました。ミ
ロか?」と,修士課程の学生が,まるで子供のように夢中
サイルにとって一番大切なのは,間違いなく目標に命中さ
になってコマ遊びにふけっている姿があった。
せることです。そのためには,良いジャイロスコープが必
1 週間後に行われた三浦君の講義は,ジャイロスコープ
要です。先生は日本一のジャイロスコープの専門家と伺っ
の発展の歴史,原理,すでに応用されている色々な装置,
ております。自衛隊のミサイル開発グループに色々教えて
有効なジャイロスコープの設計の要点などを含めて,日本
いただきたいので,よろしくお願い致します」
,というのが
一にふさわしい立派なものであった。後年,この三浦君は
訪問の目的であった。
渡辺先生の跡継ぎの教授になっている。渡辺先生の人を見
先生は少し考えて,
「ジャイロスコープの専門家は実は
る目およびその教育方針を知り,驚くと同時に感激した次
私ではなく,ここにいる三浦宏文君です。改めて 1 週間後
第である。
「一流の学者を育成するためには,最初から日
にここに来て,彼から教えてもらって下さい」と答えた。
本一として教育すべきである」
。考えてみたら当然な教育
自衛隊の技術将校は「よろしくお願いします」と言って
方針であったが,北海道からボサッとした感じで東京に出
帰った。ちなみに三浦君は,東大工学部を優秀な成績で卒
てきた能勢にとっては,人生観を根本から変えるような
業したばかりの修士課程 1 年生であった。その訪問者が
ショッキングな経験であった。渡辺先生は能勢に「君も高
去った後,三浦君の言った言葉にはびっくりした。
「ジャ
分子の医療応用の日本一になってもらう」ということで,
イロって何ですか?」
。すると先生は,
「あれはベーゴマと
織機工学の講義を聞くようにと,荒井先生に頼んでくれた。
同じだ。浅草に行って,ベーゴマを買ってこい。お前はこ
3) 荒井渓吉教授
れから,そのベーゴマの日本一の専門家になるのだ。1 週
荒井先生は東大 6 年留年を自称し,それを大いに誇りに
間,勉強したまえ!
!」と言う。これには,さすがに驚いた。
していた。彼は剣道部を日本一にするために,そして大学
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トーナメントで勝つために 6 年間留年し,学問をそっちの
けにして剣道一途に東大生活を送ったと自慢していた。そ
れとともに,彼の自慢は「俺は普通の東大生と違って,6 倍
の数の同級生がいる。皆それぞれ偉くなっているので,何
か困ったことがあれば,この 6 倍の同級生に助けを求めれ
ばいい。こんな幸せな男はいない」が口癖であった。荒井
先生が高分子学会を設立し,日本のプラスチック業界や繊
維業界に睨みをきかすことができたのは,日本の高分子を
扱っている会社のリーダーのほとんどが自称同級生だった
からとの自慢であった。彼の織機工学の講義は面白かった。
ところが数回目の講義の時に,能勢がクラスにいるのを目
に止めて,
「お前は何者だ」と質問を受けた。「北大卒の医
図 5 稲生綱政先生
師です。大学院の国内留学で,高分子の人工臓器に対する
応用の可能性の勉強をしています」と答えると,
「お前には
俺の講義は難しすぎる。俺の同級生の会社に行って,高分
に間違いであると信じている。木本先生も三上先生も,自
子のサンプルをもらってこい。サンプルの膜,管,板を手
分のクレジットを得ようとは思わず,教室の若い研究員に
で持って調べて,この高分子は人工臓器に使えそうだ,と
人工臓器開発の成果をすべて与えていたからである。
いう報告書を書けば単位はやる」と言って,名刺を 10 枚以
1957 年初秋に,木本外科に全国から研究者が集まり,人
上くれた。荒井先生の自称同級生は,ほとんどが会社の役
工臓器研究会が発足した。その時,木本外科で開発を行っ
員かトップであった。また前述の教科書「機械工業のため
ていた合成代用血管(和田達雄先生),人工肺(三枝正裕先
の繊維・高分子材料」の分担執筆者でもあった。一つ一つ
生)
,人工腎臓(稲生綱政先生,図 5)
,人工肝臓(杉浦光雄
の会社を訪ねて様々な高分子のサンプルをもらうことは,
先生),および代用血管(堀原一先生)の各分野について,
本当に楽しかった。荒井先生の弟子であるということで,
それぞれの概念と当時の現況を説明した。これにより,日
正式訪問の後,それまで足も踏み入れることのできなかっ
本中の外科教室の代表のみならず,それ以外の分野から出
た高級レストランや高級酒場に連れて行ってくれたからで
席していた人工臓器に興味のある医学関係者,工学者,高
ある。ちなみに荒井先生は「一流の飲んべえ」であり,その
分子科学者などに,研究目標の要点を理解させた。このリー
弟子の能勢もまた然り,という先入観が幸いしたと言えよ
ダーは木本先生であった。その後,初春と夏の年 2 回,研
う。このように,日本の高分子メーカーのトップと知り合
究会を開催した。特に夏は,夏期大学式に 2 ∼ 3 日温泉に
いになれたことが,6 ヶ月間の国内留学を終えた後,どれ
宿泊し,浴衣がけでお互いに寛いで話し合いをした。
ほど北大の人工臓器研究室にとって役に立ったかは計り知
能勢が参加したのは,2 回目から 9 回目の会合である。
れない。自他ともに東大木本外科と肩を並べるようになっ
最後に出席した 9 回目は,三上先生が研究会会長で,北海
たことを認められるまで,多くの時間は必要としなかった。
道定山渓の章月旅館において,1961 年 7 月 1 ∼ 3 日の 3 日間
やはり,日本の様々な高分子工学の隆盛は,荒井先生の統
行われた。この会は,原則として 40 歳以上の参加者は正式
率力なしには達成できなかったはずである。北大の人工胆
発表ができないという決まりになっていた。そこで,三上
管,人工食道,人工肛門,人工腎臓などは,ほとんどすべて
先生は研究会 2 日目に,木本先生,荒井先生など 5 人のリー
これらのサンプルから作製したものである。したがって,
ダーに,北海道医師会会員を対象とする公開講演会を行う
荒井先生の日本の人工臓器の開発に対する貢献は,忘れる
よう命じた。そのことによって,40 歳以上の長老がこの研
究会に出席することを正当化できた。当時,木本外科の
べきではないと信じている。
4) 木本誠二教授
稲生先生以下のみに研究会での発言権があり,40 歳以上の
日本人工臓器学会を設立したのは,東大の木本先生であ
教授の発言は座長の許可なしには認められなかった。学会
ると言っても過言ではない。しかし,東大の連中によると,
の記録は,第 8 回研究会までは医学書院発行の「総合医学」
木本先生は二流の教授であり,自分でこれといった業績を
に残され,第 9 回からは「日本医療機械学雑誌」に記されて
残していないというのが一般の評価だという。北大の三上
いる。
教授にも同じようなことが言える。能勢はこの評価は完全
110
今,研究会の記録を見てみると,木本教室の正式発表に
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図 6 泉工医科工業株式会社社長 青木利三郎氏
図 7 DL 型人工腎臓
木本先生の名前はない。それ以外の論文でも,先生の名前
のついたものがほとんどない。そのため,前述のごとく間
違った評価が定着したのだと思う。考えるまでもなく,木
ある透析膜であったが,ゲル状であったため,セットアッ
本先生が育てた弟子が,その後の日本の外科学会および人
プに難があった。ドイツ製のベンベルグセロファン膜にも
工臓器のすべての分野でリーダーシップをとっているとい
色々な問題があった。そこで,より機能的で有効な装置を
う事実から,木本先生の偉大さがわかるはずである。
作ろうとしたのが,DL 型人工腎臓である。DL 型とは“Dog
木本先生は色々な人工臓器で,すでに欧米で開発された
Lung”
,つまり犬の肺を透析装置として使用したものであ
もののうち,日本に最も適切なものを導入し,日本で新た
る。10 kg 以上の犬の肺を摘出し,肺動脈,肺静脈にカニュ
に作り上げていた。例えば代用血管,人工肺,人工腎臓な
レーションした後,4 ∼ 6 l の殺菌剤を加えた生理食塩水で
どがそうである。この時,ビジネスを離れて木本先生とそ
洗浄する。そして,ここに患者の血液を還流させる。一方,
の教室員を助けたのが,本郷にある泉工医科工業株式会社
気管内には透析液を還流させる。この肺をチャンバー内に
社長の青木利三郎氏(図 6)である。青木氏は,2 回にわた
置き,肺の内部および外部に透析液を出し入れすることに
り会社が破産に近い状況になったにもかかわらず,木本教
より,呼吸運動と同じような肺の拡張と収縮を行う。つま
室の医局員のために,ひいては日本の新しい人工臓器のた
り,患者の血液と透析液が肺胞膜を介して触れ合うことに
めに,色々な装置の試作を無料で行っていた。北大の三上
より,透析を行うもので,肺胞膜の大きな表面積を利用す
外科が数年の間に木本外科に 追いつくことができたのも,
ることにより,有効な透析が可能であった。その表面積は
青木氏の利益を度外視したサポートによるものであったと
約 20 ∼ 30 m 2 であるので,少なくともセロファン膜による
言っても過言ではない。能勢も東京に在住した 6 ヶ月間,
透析装置の 10 倍以上の効率を持つ装置であった。したがっ
青木社長より家族の一員のように扱ってもらった。その後
て 2 時間以内の透析で,当時は 6 時間必要とされたコルフ
50 年を経た今もって青木ファミリーの世話になっている
型人工腎臓による透析よりも,腎不全代謝物質の有効な除
のが,能勢の誇りの一つであり,感謝の気持ちで一杯であ
去を達成できた。この装置を 50 例以上の患者に使用して,
る。
他の人工臓器と変わらない臨床効果を上げている。
能勢が木本先生を尊敬するもう一つの理由は,スタン
また,堀グループが作り上げた木本式生理学的人工肝臓
ダードな装置のほかに,非常にユニークな人工臓器を多く
(図 8)も,世界に先駆けたユニークな人工肝臓であった。
作ったことである。その一つが,DL 型人工腎臓(図 7)で
セロファン膜を介して患者の血液と正常犬の血液を循環さ
ある。第四話で述べたように,能勢が北大で人工肝臓研究
せることにより,患者の肝機能を正常犬の肝機能によって
班の一員として実験していた時,前述の青木利三郎氏が開
維持しようというものである。ただ,患者と犬 4 匹を手術
発したゲル状セロファン膜を使っていた。これは,現在使
場で人工肝臓に連結することに,手術場の看護婦達が反対
用されているハイパフォーマンス膜と同じくらいの効果が
したことでストップがかかり,数例しか臨床例が施行され
人工臓器 41 巻 1 号 2012 年
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ての成功は例えようのない喜びであった。特に渡辺先生の
喜びは大きく,当時の科学技術長官の中曽根康弘氏にすぐ
電話をした。
「現在,人工心臓を埋め込んだ犬が生きている。
すごいことだから,すべての仕事をストップして見に来て
ほしい」と強引に彼を呼びつけた。たしか,彼は渡辺先生
と東大同期の仲であったと思う。中曽根氏は,何がすごい
のかよくわからないようであったが,渡辺先生はその場で
科学技術庁のグラントを約束させてしまった。その時能勢
は,渡辺,石井両先生を助けて,このプロジェクトのため
に科学技術庁に提出する研究費の申請書を書いた。このこ
図 8 堀グループが作り上げた木本式生理学的人工肝臓の
概要図
とが後に,能勢がアメリカ人工心臓計画の青写真を書かざ
るを得ない立場に立たされた際の有益な経験になったこと
は,当時知る由もなかった。さらに,能勢自身がこの経験
の後,50 年を人工心臓の開発のために捧げるとは思っても
なかったことは残念であった。
いなかった。
2) 人工心臓開発のフィロソフィー
その後の人工臓器の開発と渡辺先生
3.
当時,渡辺先生から学んだことは沢山ある。その中でそ
1) 日本人工心臓計画
の後の能勢の人生にとってかけがえのない教えを振り返っ
渡辺先生は,その専門の一つとしてポンプ工学に造詣が
てみたい。
深かったので,人工心臓に対して一番興味を持っていた。
渡辺先生は,
「信頼性が十分であり,長期的に間違いなく
これは前述のごとく,石井先生と能勢に各々別のタイプの
機能する機械は,簡単な機械である。人工心臓も簡単なポ
ポンプの設計(図 4a,b)を研究テーマとして与えたのが一
ンプを使用すべきである」と能勢を指導した。その後,能
例である。当時,渥美先生は日機装株式会社の音桂二郎社
勢はアメリカのクリーブランド・クリニックで米航空宇宙
長が作ってくれた液体駆動型体外両心ポンプ(図 4a)をす
局(NASA)の宇宙工学のエンジニアと知り合い,同じこと
でに持っており,能勢がチームに参加する約 5 ヶ月前の
を学んだ。彼らによると,スペースプログラムが始まった
1959 年 12 月 3 日よりその埋め込み実験を行っていた。し
当初,彼らはアメリカにおける航空機開発の技術は世界一
かし残念ながら,人工心臓埋め込み後,生存した犬は存在
であり,最新の技術でスペースシップを作ることが可能で
しなかった。
あると,ほぼ全員が信じていた。しかし,残念ながら最新
一方アメリカでは,1957 年 12 月,クリーブランド・クリ
技術で作ったミサイルは飛ばなかった。そのために,ダブ
ニックで名古屋大学出身の阿久津哲造先生が,有名なウィ
ル,トリプルの制御装置を付け加えたが,その結果はより
レム・コルフ教授の下で人工心臓を埋め込んだ犬を世界で
無残であった。そこで,ドイツの V-2 号を作ったフォン・
初めて生存させた。人工心臓を埋め込まれた犬は,自発呼
ブラウン博士に助けを請うた。彼は,
「自分は最新技術を
吸,瞳孔反射を 90 分間維持した。この時阿久津先生が作っ
信じない。間違いなくミサイルを月に飛ばそうと思うなら,
た人工心臓は,渥美人工心臓と同じような液体駆動型で
現在まで数百年使われており,壊れずに間違いなく動いて
あった。日本の渥美グループの試みは,その 2 年後にあた
いる装置しか信じない。それは,簡単で安心して長期間,
る。
日常的に使われている信頼性の高い技術である。もし,そ
能勢がこのチームに参加して初めての,東大における人
のようなシステムでスペースシップを作ることに反対でな
工心臓の埋め込み実験は 1960 年 6 月であった。渥美グルー
ければ,私は参加してもよい。しかし,私の方針に反対す
プによる 6 頭目の犬であり,その実験が初めての生存犬と
る研究者はチームメンバーに入れないが,それでよいか?」
なった。ポンプ埋め込みの手術は,堀,渥美の両先生が行い,
というが条件で,アメリカのスペースプログラムに参加し
その麻酔は能勢が受け持った。埋め込み後,自発呼吸を維
たとのことである。そして,彼の参加以来,スペースシッ
持し,血圧,脳波,瞳孔反射,腱反射があり,明確に生存し
プの失敗はない。渡辺先生の言わんとしていたことと,
フォ
ていることが確認された。生存還流時間は 4 時間 19 分と記
ン・ブラウン博士の言わんとしていたことが同じであった
録されている。当然ながらチーム全員にとって,この初め
事実を,非常に重要な原則と能勢は考えた。
112
人工臓器 41 巻 1 号 2012 年
幸いにも「アメリカ人工心臓計画」は,ケネディ大統領
現在,人工心臓の主流となっている,連続流を吐出する
の「スペースプログラム」の後のアメリカ国家プロジェク
軸流ポンプや遠心ポンプは,能勢が約 20 年前に作り始めた
トとなった。能勢は人工心臓計画の一員として「渡辺 –
ポンプである。これはアルキメデス・スクリューとして,
フォン・ブラウンの原則」を忠実に守り,50 年間にわたり
数千年前より信頼性の高いポンプであることは言及するま
人工心臓開発を行ってきた。したがって,能勢の開発した
でもない。ただ,生体心臓の拍動流ポンプと違い連続流ポ
プッシャープレート型拍動流人工心臓にしても,一連の連
ンプであるので,世界の心臓外科医が受け入れて広く利用
続流人工心臓にしても,新しい技術を使ったものではな
されるまでには約 20 年(1980 年∼ 2000 年)という時間が
い。渡辺先生が 50 年前に教えてくれたように,信頼性のあ
かかったことは否めない。
る最も簡単な工業用ポンプを,人工心臓として転用しただ
3) 人工臓器開発のフィロソフィー
けである。渡辺先生が能勢に作れと言った連続流ローラー
能勢が生理学を学んだ北大医学部の林沢進教授は,臓器
型人工心臓ポンプは,マイケル・ドベイキー教授が 1932
機能の説明にいつでもどこでもドイツ語で“Das Einfachste
年,医学部学生の時に開発したポンプである。当時の目標
ist sowie Das Vollkommene”と繰り返し教えてくれた。そ
は輸血用のポンプであった。1950 年代,世界のあらゆる研
の意味は,
「完全に臓器の生理現象がわかった場合,それは
究グループが,人工心肺のポンプとして様々なタイプのポ
簡単な言葉で表現できる」と能勢は理解していた。驚いた
ンプを使ってきたが,主としてポンプの信頼性がなく,失
ことに,工学者である渡辺先生も同じことを能勢に言って
敗の連続に終わっている。能勢のアメリカでの最初の先生
くれた。「人工臓器を作る場合,難しいことは考えるな。
であるエイドリアン・カントロヴィッツ先生のさらにボス
難しく複雑な生体臓器機能など,すべて人工的に作ること
であったニューヨーク州立ダウンステート医科大学のク
など不可能である。つまり,臓器の持っている一番重要な,
ラーレンス・デニス教授もその一人であった。
一番簡単な機能を一つに要約し,その点で一番信頼性のあ
デニス教授は 1951 年,世界で初めて人工心肺を患者に
る,再現性のある壊れない機能を機械で再現すればよい。
使用したが,ポンプがうまく動かなかったこともあり,失
人工心臓は,組織に血液を与えるだけのポンプである。組
敗している。その後 1953 年,臨床で初の人工心肺成功例
織が必要としているガス代謝に十分な流量を与えるだけで
を作ったジョン・ギボン教授は,ドベイキー先生のロー
よい。それが拍動流であろうが,連続流であろうが,関係
ラーポンプを使ったために成功したと言っても過言ではな
はないはずである。したがって,生体に埋め込める小型の,
い。それから 50 年以上にわたって,世界で使用されている
単純な,信頼性のある,壊れないポンプを,工業用ポンプ
ほとんどすべての人工心肺に,このローラー型ポンプが使
から借用するだけでよい。新しいタイプのポンプを人工心
用されてきた。その理由は,これが簡単な構造のポンプで
臓のために開発する,などということは愚の骨頂である」
。
あり,信頼性の高いポンプだからである。つまり,モーター
その後 50 年,人工心臓開発のために全力投球してきた能
が一定数で回転すれば,その速度により,はっきりとした
勢は,渡辺先生の言葉が正解であることがやっとわかった
流量が得られるからである。
次第である。現在ある有効かつ安全な人工心臓は,まさし
当時,渡辺先生の所に日本マイクロモーター社の三島
く渡辺先生が予言した通りの人工心臓である。
松夫氏が,間違いなく 7,000 時間動く超小型の DC モーター
4) 信頼できる人との繋がりの必要性
を開発したが,その利用方法を考えて欲しいと訪ねて来た。
能勢の東大留学は前述のごとく,色々な意味で将来の役
このモーターは約 20 g の重さで,トルクが 2 kg であった。
に立ち,また,学ぶことのできた機会であった。しかし最
したがって,犬の実験用の人工心臓として十分使用可能で
も重要なことは,この時に一生助け合える沢山の友人達が
あった。このモーターをドベイキー先生のローラー型ポン
できたことである。その一つの例を挙げて,本稿を終わり
プと組み合わせることにより,1 分間に 2 l の流量を出すポ
にしたい。
ンプを簡単に作ることができた。また,胸壁に埋め込む左
能勢は 1977 年,クリーブランド・クリニックで血漿分
心と右心の代わりとなる人工心臓を作ることが可能なはず
離膜フィルター(図 9a)を開発し,アフェレーシス学会の
であった。
基礎を築いた。これは 1972 年の失敗作のマイクロポーラ
渡辺先生のアドバイスで能勢が作ったこの人工心臓はそ
の後,渥美グループの手で犬に埋め込まれている。能勢は
その後,このポンプを使って在宅透析の人工腎臓用ポンプ
を作り,その後北大で広く用いられている。
ス人工肺を,別の目的,つまり血漿分離膜フィルターとし
て新たに開発したものである。
これは,当時の旭化成メディカル株式会社の片岡金吾副
社長(図 9b)の努力の賜物である。たまたま東大木本外科
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(a)
(b)
図 9 血漿分離膜フィルターの開発(1977 年)
図 10 山崎善也先生(左)と井上昇先生(右)
の同期生である山崎善弥先生と織田内科の井上昇先生(図
し能勢は,第一世代の人工臓器の開発は終わったが,これ
10)が,東大留学中の 1960 年より友人であったので,この
からは治療用人工臓器の時代であると信じている。なぜな
2 人に日本での臨床例をやってもらったらどうかと,能勢
ら,第二世代の治療用人工心臓,悪性腫瘍治療用人工臓器
が片岡氏にアドバイスした。血漿分離フィルターによる腹
(人工免疫活性化臓器)
,末期心筋症治療装置,糖尿病合併
(a)プラズマセパレーター(左)とプラズマフラクショネーター(右)
(b)旭化成メディカル株式会社 片岡金吾副社長
水浄化療法や,膜型血漿分離フィルターによる人工肝臓と
症予防治療装置などの開発が広く望まれているからであ
しての臨床使用である。その後,1980 年に日本アフェレー
る。
シス学会を立ち上げたのも,我々3 人がそのリーダーシッ
第一世代の人工臓器開発 50 年の歴史は,失われた生体機
プをとって,片岡氏のイニシアチブによるものである。
能を人工的に再現しようというものであった。この 50 年
2010 年の設立 30 周年に井上昇君が生きてこの学会に出席
間で私達はこの目標を達成している。したがって,これか
で き な か っ た の が 残 念 で あ る。 言 う ま で も な く,WAA
らの 50 年は,第二世代の人工臓器,つまり,治療用人工臓
(World Apheresis Association)学会,ISFA(International
器の開発にその主目的を変えるべきである。治療用人工臓
Society for Apheresis)も,この 3 人が中心となり多くの世
器とは,病気になった生体臓器を置換する人工臓器ではな
界の同志と語らって,設立したのである。
く,治療用人工臓器によって不治の病気を治療し,患者の
持つ正常臓器により,正常で楽しめる生活を維持すること
おわりに
4.
を目標にしている。能勢は,21 世紀の治療用人工臓器の開
人工臓器開発の始まりは,アメリカ人工臓器学会ができ
発は,新しい Cellular Molecular Surgery の開発であり,こ
た 1955 年 か ら で あ る。 一 方,日 本 の 人 工 臓 器 研 究 会 は
れにより現在治療不可能な病気も治療可能になると信じて
1957 年に設立されている。幸い,能勢は 1962 年より 50 年
いる。さらに,この分野で貢献できるのは,日本の人工臓
間にわたってアメリカのみならず,ヨーロッパや日本の人
器研究開発者しか世界にいないと,能勢は信じている。そ
工臓器開発の進歩を,しっかり見ることのできる立場に
れは,第二世代の血液浄化装置の開発が,治療用人工臓器
あった。率直に言って,人工臓器開発の熱気は現在のアメ
の主流になるからである。
リカやヨーロッパにおいては冷め始めているように思え
る。これは,人工腎,人工心肺に始まって人工心臓が広く
一般に広く使われる装置として完成したので,人工臓器開
※編集委員会注:著者の意思を尊重してほぼ原文のまま掲載さ
せていただきました。
発の時代は終わったと多くが考えているからである。しか
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