第3講話 デカルトはどうように本を読んだか

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第3講話 デカルトはどのように本を読んだか
もう一昔前になるでしょうか,二昔前になるでしょうか,わたしは東京のある大学の大
学院生でした.古い,まるではやらない病院のような校舎で,ときおりヤモリが窓枠のと
ころをはっていました.院生室にはやはり古い木製の机と椅子が院生用に用意されており,
そのほこりだらけの机でわたし達は勉強していました.ある日,学年は違いましたが,わ
たしと同年代の友人がその机の上に論文を広げて読んでいました.それはその頃出たばか
りの論文でしたが,難解な論文でわたしにはほとんど歯がたたずあきらめかけていた論文
です.それで彼にどうだ分かるかというようなことを聞いてみました.そのとき彼はこう
答えたのです.
「まだ1回目だからおそるおそる読んでいる」と.この友人の数学の力量に
は一目置いていたのですが,その言葉を聞いてなるほどとわたしは思いました.その論文
が画期的なものであればあるほど当初の間は内容は理解しにくくなります.わたしは一ヶ
所でも分からないところがあると,そこで止まってしまって先に進めないのです.時間を
かけて分かる場合もありますが,このような読み方をしていますと,いつまでたっても最
後まで読みきれないで途中で挫折してしまうということが多いものです.それは自分の能
力のなさということもありますが,自分よりはるかに力の上の人の論文に対しては,最初
からすべてを理解しようというような読み方は傲慢なのだとそのとき初めて気がついたの
でした.それが本当にすぐれた論文であればあるほど,最初はまずおずおずとした読み方
でいかなければならないのです.分からないところがあっても,それはそれとしてともか
く読んでみることなのです.そして何度か繰り返し読みながら,読みを深めていく,その
ような論文の読み方を彼はしてきたということが彼の言葉から察せられました.後年,彼
はこの論文の各章から1篇ずつの論文を発表していきます.’ おそるおそる’ 読んでいたも
のが,徹底的に内容を書き改めてしまったのです.
わたしは第1章で英語の本を読むときには,分かろうが分かるまいがともかく読み通して
みるという読み方をすると書きました.これはわたしの友人から学んだ数学の論文の読み
方の一つの応用なのですが,それとは別にデカルトの本の中でつぎのような一節に出くわ
したことも,その理由にあります.デカルトは,その「哲学の原理」という著書の最初の
方につぎのようなことが書かれています.
「最初はこの書物全体を,いわば小説を読むように.ざっと通読していただきたい.あ
まり心を張りつめたりせず,むずかしい個所にぶつかるようなことがあっても,たいして
気にかけたりせず,私の扱っている問題がどのようなものであるかを大づかみに知ってい
ただくだけでけっこうです.そしてそのうえで,これらの問題は検討する値うちがあると
思い,その原因を知りたいという気が起これば,再読して,私の理由のつながりに注目し
てくださるとよいのです.しかし,そのつながりをあますところなく十分に知ることがで
きなかったり,すべての理由を理解するわけにゆかなかったりしても,まだあきらめては
なりません.難解と思われる個所にペンで線を引いておき,中断せずに最後まで読みつづ
けさえすればよいのです.それから,三たびこの書物をとりあげてみるなら,さきに印を
つけておいた難解な個所の大部分が解決されるでしょうし,それでもなおわからぬ個所が
いくらか残るにしても,もう一度読みかえしてみるなら,ついにはその解決が見いだされ
るであろうと,私はあえて信じております」(’ デカルト,責任編集野田又夫,中公バック
ス世界の名著,中央公論社,(1978),p.323.)
哲学の本を最初は小説を読むように読めというわけです.哲学だけではありません,数
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学の本も英語の原書もこのように最初は細かいことにはとらわれず,筋だけを追うように
読みなさいというわけです.私の友人はこの読み方を身につけていました.
ところで,皆さんはデカルトを知っていますか.17世紀前半のフランスの哲学者とい
うか数学者というか,その頃は物理,数学,哲学の境目みたいなものがはっきりしていま
せんでしたから,それぞれの分野の専門家のような人はいなかったらしいのでどのように
言ってもいいみたいですが.座標というものを考え,今の解析幾何学と呼ばれる手法の最
初の実践者として数学の教科書には紹介されていることが多いです.私の場合は,小学校
でおそわった’ つるかめ算’ のようなかなりの難問を, x や y という文字で表される未知数
の間の等式をたてることにより,味も素っ気もなく解いてしまうということを考え出した
人ということで,中学生の頃に強く印象づけられました.実際,未知数に x, y, z ,既知数
に a, b, c という文字を用い,x3 というようなベキの記号の表記を作ったのはデカルトで
あると言われています1 .’ つるかめ算’ については後で述べることにします.その後,高
校の1年生のときだったと思いますが,担任の国語の先生がデカルトの名前を挙げて,’ ど
のような問題でも必ず解くことのできる方法を二十歳そこそこで見出した哲学者’ というよ
うなことを授業中に話していたのを聞いて,すごいなと思ってあらためてデカルトという
人間に興味を感じたのです.
わたしの高校時代の一時期にあの’ 札幌の時計台’ が図書館になっていたことがありまし
た.その2階の閲覧室に通って,わたしは参考書にのっている順列・組合せの問題などを
解いたりしていたのですが,いまでもその頃に解いた問題と同様のものに出くわしますと,
初夏の札幌の昼下がり,時計台の閲覧室の臭いが突然よみがえったりします.もちろん今
は図書館ではなく,時計台は’ 日本の三大がっかり’ の1つなどと言われますが,札幌の歴
史を紹介する展示室としての役割をはたしています.図書館の閲覧室だった部屋はホール
として使われていて,何十年か経った現在でも,わたしはそこに行ってクラシックのミニ
コンサートを聴いているのです.そこで高校生だったわたしはデカルトのことが書かれて
いる本を探して,手にしたりしたものです.しかし,実際に私がデカルトの最もよく読ま
れている本’ 方法序説’ を読んだのは大学に入ってからです.
この’ 方法序説’ という本は,哲学の本だからと敬遠する人もいるかもしれませんが,岩
波文庫でも100ページそこそこで,また実に読みやすく書かれています.パリのルーヴ
ル美術館に行くと,オランダの画家フランス・ハルスによるデカルトの肖像画が見られま
す.これは教科書などにもよく取り上げられる絵で,ルーヴルにあるのはどうやら摸写ら
しいのですが,それはともかくわたしはこの絵に描かれているデカルトが好きです.その
理由の一つはデカルトが’ 由緒も正しい武士(騎士)2 ’ だからであり,その雰囲気がこの肖
像画に出ているからです.騎士は女性や弱者につくします.デカルトは女性からの要請に
忠実に従った結果,スウェーデンの女王のためにストックホルムにおもむき,厳冬の最中,
肺炎で亡くなっています.デカルトは騎士ですから,剣を使います.それもふつうの剣で
はありません.’ 論理’ という剣です.実際の剣を使った武勇伝も残されているようですが,
デカルトは’ 論理’ という剣の’ 正しい’ 使い方を女性にも分かる形で示しています.そして
デカルトが好きな理由がもう1つあります.それは彼が,後に述べるモンテーニュととも
に,フランス流の個人主義の体現者だからです.
1
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[T] 谷川多佳子,デカルト『方法序説』を読む,岩波セミナーブックス,岩波書店,(2002), p.85.
デカルト,方法序説,落合太郎訳,岩波文庫,(1967),p.169.
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むかし,わたしの知り合いのある女性は「私,個人主義だから.
.
.
」とよく言っていたも
のです.これは,
‘ あなたのことなどどうでもいいわ ’という意味でして,フランス流の個
人主義はそれとは違います.最近わたしはポール・ヴァレリーの’ デカルト’ という文章を
読みました.ヴァレリーはその文章の中でつぎのように述べています.
「なすべきことは何であり,目標は何でしょうか?なすべきことは,一個の『わたし』に
何ができるか,それを示し証明することです.デカルトのこの『わたし』は何をしようと
しているのでしょうか3 」
自分の非力さを認めたうえで,あらためて’ 一個の「わたし」に何ができるか’ と自分に
誠実に問うているわけです.自分のまわりをよく見てください.様々の人たちがいて,様々
なことをやっています.ある場合には,うらやましく思い,ある場合には非難めいた気持
ちになります.それはそれでよい,自由におやりなさい.ではわたしには何ができるのだ
ろう,わたしには飛びぬけた能力があるわけではないからあの人たちのようにはできない,
わたしの力には限界がある.ではどうしたらよいのでしょうか.そこで彼は1つの格率を
わたし達に教えてくれます.
「わたしの第三の格率は,運命よりもむしろ自分に打ち克つように,世界の秩序よりも
自分の欲望を変えるように,つねに努めることだった.そして一般に,完全にわれわれの力
の範囲内にあるものはわれわれの思想しかないと信じるように自分を習慣づけることだっ
た4 .
」
いやこんなことは言われなくても知っています,たとえば東洋には『知足(ちそく)』と
いう言葉があるではないですかと誰かが言いそうです.確かにその通りです.しかしフラ
ンス流の個人主義にはそれにもう1つ要素が加わります.それはそのような限界をわきま
えた自分を社会の中において,その状態の「わたし」を’ 享受’ することです.そしてそれ
を’ かっこよい nice’ と見るのがフランス流なのではないのかとわたしは思うのです.
’ 方法序説’ の最後はつぎのような文章です.
「これについて今ここで宣言しても,自分を世の中で偉く見せる役には立たないのはよ
く知っているが,しかしまたわたしは偉くはなりたいとは少しも思ってはいない.そして,
この世のもっとも名誉ある職務を与えてくれる人びとよりも,その好意によってわたしに
何の支障もなく自分の自由な時間を享受させてくれる人びとに,つねにいっそう深い感謝
の気持ちをもつことだろう5 」
デカルトのことを知りたい人は,既に脚注などにあげた本を読んでみてください.それ
以外に
「野田又夫,デカルト,岩波新書,(1966)」 古い本ですが,いまでも増刷されているはず
です.後の章でも引用しますが,とても示唆に富む本です.
「デカルト,方法序説,落合太
郎訳,岩波文庫,(1967)」は岩波文庫の’ 方法序説’ の古い翻訳で今は古本屋ででもないと
手に入らないと思います.わたしが最初に読んだ’ 方法序説’ であり,訳注が本文のよりも
はるかに長いというある意味では読みにくい本ですが,その訳注には読み応えがあり,’ 方
法序説’ の解説として重要な文献の1つになっているのではなかろうかわたしは思います.
これ以外にもデカルトについて書かれた本はたくさんあり,何か読んでみることをおすす
3
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5
ポール・ヴァレリー,ヴァレリー・セレクション下,平凡社ライブラリー,平凡社,(2005)p.224.
[D] デカルト,方法序説,谷川多佳子,岩波文庫,(1997),pp.37-38]
[D, pp.102-103.]
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めします.
さて,最後に宿題を出しておきます.次回までに考えてきてみてください.
君はいま岩山を登っています.崩れやすい1本道をおそるおそる通っています.先をを
見ますと,上から大きな岩がときおり道の上に転がり落ちてきています.それにぶつかっ
たらまちがいなく大けがをするか,悪くすると死んでしまいます.うまく岩の転がり落ち
てくる間隙を縫って,この危険な場所を早く通過しなければなりません.ところが君は突
然,靴のひもがほどけていることに気がつきました.そこで止まって,靴のひもを結んで
いると,転がってくる岩の直撃を受けるかもしれません.でも,ひもをほどけたままにし
て,急いで通過すると非常に危険です.また,ひもを結ぶために留まっていたおかげで,逆
に岩の直撃を避けることができるかもしれません.このようなとき,君ならどのような行
動をとりますか?