心が貧しい者 (マタイの福音書 5:1~12) 2014年 3月 23日 ソウル聖楽教会 主日礼拝 説教録取 キムソンヒョン 説教 : 監督 金 聖 顯 牧師 人々が慕い求めるお金の特性 神は自分を慕い求める者を探されます。神は自分を慕い求める者を探し出して憐れみ、 まことを尽くして愛されます。これはこの世を創造していつかは整理する神がこの世を運 営される原則です。 人々がこの地にいる間に最も慕い求めるものはおそらくお金でしょう。ほとんどの人が お金の潤沢を享受するために労苦を払って努力します。しかし、お金を稼ぐことのように 大変なこともありません。大金を稼ぐことには変数がとても多いために、「このようにし てこそお金を稼ぐことができる。」という原則を示すのもむずかしいですし、お金を稼ぐ 道を予測するのもやさしくありません。「お金は熱心に努力する者についてくる。」とい う格言もありますが、それは現実とは乖離しています。また、「熱心に努力したので、お 金持ちになりました。」という事例もありますが、「死ぬほど働きましたが、お金を稼ぐ ことができませんでした。」という事例のほうが実際にははるかに多いです。 物質が回っているこの世には正義があるだけでなく、悪い心や行動も満ちているために、 すべてが善良な者の計算通りに動くわけではありません。お金を追い求める人間の人生は いつも不安であり、慌しいです。不安があるほど欲も大きくなり、慌しいほど悔しさも伴 います。聖書もこのような人間の人生を通して見ることができるこのような特徴について 言及しています。伝道者の書2章21節は「どんなに人が知恵と知識と才能をもって苦労し ても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、 むなしく、非常に悪いことだ。」といい、ヤコブの手紙1章10~11節は「富んでいる人は、 自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように 過ぎ去って行くからです。太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。 すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中 に消えて行くのです。」といいました。物質には主人がいません。それは非常に流動的で あるために、誰の手にもほとんどとどまらないで、どじょうのように脱け出して行きます。 物質の代わりに祝福を求めたヤコブ ヤコブは母の兄ラバンの家で20年間、苦労してお金を稼ぎました。ある日、彼は家族を 連れて、ラバンの家を離れました。20年もつかまれていたラバンのもとを離れるというの はやさしいことではなかったために、ヤコブはとても喜びました。彼は喜んで将来の幸せ な日々を夢見ました。しかし、そのとき、兄が軍隊を引き連れて迫って来ているという知 らせが聞こえてきました。ヤコブに対して恨みを抱いていた兄でした。下手をすると、ヤ コブの夢は水の泡となる状況でした。 ヤコブは「20年間、死ぬほど苦労したのに、兄が恨みを抱いて迫って来ている。すべて の財産を失うのか!」と考えて絶望しました。20年間、苦労してひとつひとつ集めた財物 が一時に他の人の手に渡るようになるのです。自分が苦労して稼いだ財物であるために、 当然、自分のものになるべきなのに、強い者が来てむさぼり、考えたこともない時間に、 考えたこともない方法によってすべてが奪われる可能性がありました。ヤコブの肉体には それをふせぐ力がありませんでした。 兄が来るという知らせを聞いて、ヤコブはそれまで自分が考えたこともなかった行動を 取るようになりました。ヤボクの渡しで天使をつかんで、すなわち神をつかんで絶体絶命 の格闘に臨んだのです。夜通しで格闘した天使が離れようとしたときに、ヤコブは「私は あなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創32:26)といって祝福を求め ました。 ヤコブは物質を失う危機に立たされていました。それならば、「私に物質をくださ い。」、あるいは「私のお金が奪われないように助けてください!」というのが自然な祈 りの内容だったでしょう。しかし、ヤコブは祝福を求めました。彼は物質を求めるのが無 意味であるという事実を知りました。「所有する権利がなければ、何も自分のものにはな らない。」という事実を悟ったためでした。20年の努力が水の泡になる直前に、彼は霊的 な豊かさの奥義を悟って物質よりも祝福を求めました。 ヤコブのこのような大きな発見は彼の子孫たちに徹底的に引き継がれました。イスラエ ルの人々はヤコブを考えるたびに、ヤコブが祝福を求めたという事実を覚えました。神は イスラエルに「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げた のだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなた に富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに 果たされるためである。」(申8:17~18)といわれました。所有することができる権利を天 から与えられた者こそ物質の主人となることができます。人々は自分が労苦を払ったとい う理由によって「物質が自分のものになるのが当然である。」と考えます。しかし、これ は性急すぎる結論です。 物質を手にしていたとしても安心することができません。所有する権利がなければ、物 質をもっていたとしても食べることも使うこともできません。申命記28章30~31節は 「あなたが女の人と婚約しても、他の男が彼女と寝る。家を建てても、その中に住むこと ができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない。あなたの牛が目の前 でほふられても、あなたはそれを食べることができない。あなたのろばが目の前から略奪 されても、それはあなたに返されない。あなたの羊が敵の手に渡されても、あなたを救う 者はいない。」といい、34節は「あなたは目に見ることで気を狂わされる。」といいまし た。このようなシナリオが人間の世にいくらでも存在するということを悟ったために、ヤ コブは祝福を選んだのです。 所有することができる権利 神はこの世のすべての国と民に土地を与えられました。それゆえ、人々は都市を計画し、 工場を建て、居住地を造成し、農地を開墾するなどして土地を活用します。しかし、イス ラエルには土地がありませんでした。その代わりに、彼らには神から与えられた霊的な豊 かさ、すなわち所有することができる権利がありました。彼らは自分が所有する土地を一 坪ももっていませんでしたが、どこに行ってもそこの住民たちが自分の土地を差し出しま した。これまでの60年余りパレスチナ地域で起こった葛藤は実際には最近起こったことで はなく、3500年前、イスラエルがヨシュアの指揮下にカナンを占領したときからはじまっ たことです。 その当時、パレスチナの原住民はネフィリムの子孫に並ぶほど体が大きかったです(民 13:33)。イスラエルにとって彼らは力によって勝利することができる相手ではありません でした。しかし、イスラエルが神から与えられた所有権をもって入って行ったときに、パ レスチナの強大な国々はイスラエルに勝利することができず、土地を差し出さなければな りませんでした。今もそこでは衝突が続いていますが、覇権は依然としてイスラエルがも っています。これは過去に神がヨシュアに「強くあれ。雄雄しくあれ。わたしが彼らに与 えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないから だ。」(ヨシュア1:6)と約束された御言葉がその通りになされているのです。 このようなことはヤコブの経験からも同じように発見することができます。エサウが武 力によってヤコブを崩壊させて財産を奪おうとしたときに、外形的にはエサウの力がヤコ ブを圧倒していました。しかし、エサウは所有する権利をもっていなかったために、所有 する権利をもっていたヤコブの財物を奪うことができませんでした。 イスラエルはエジプトから出て来た日、エジプト人の家に行って金銀を求めました。不 思議なことに、エジプト人はイスラエルの要求を聞き入れました。その当時、エジプト人 はすべての初子を失ったために余裕がありませんでした。彼らが恐怖に包まれて驚いてい たときに、イスラエル人が戸を叩きながら金銀を求めました。エジプト人はためらうこと なく金銀と衣服を差し出しました。このようなことが可能であったのは神がエジプト人を 通してイスラエルに恵みを施されたためです(出12:36)。イスラエル人が金銀を求めながら 町を歩いたときには、見知らぬ者を見て吠えなければならない犬さえも静かでした。イス ラエルがこのようなことをすることができたのは彼らに所有権があったためです。 神は「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、私の家の食物とせよ。こうして私 をためしてみよ。-万軍の主は仰せられる- わたしがあなたがたのために、天の窓を開 き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3:10) といって十分の一を命じられました。この御言葉を聞いて、ほとんどの人は「十分の一を よくささげれるのであれば、いつかは倉庫に物があふれるだろう!」といって物質の富裕 を考えるでしょう。しかし、これは「完全な十分の一をささげる者に、神が所有する権利 が与えられる。」という約束です。所有する権利をもっている者は倉庫があふれる日だけ を早急に待っているわけではありません。所有する権利をもっている者は物質に対して早 急な心をもちませんし、物質に向かっていく足どりも軽いです。なぜならば、自分が最後 の勝利者であり、主人であるということを知っているためです。十分の一をささげるとい うイスラエルの伝統はユダヤ人を通して今日まで続いています。彼らは長い間、国土がな い生涯を送りながらもどこに行っても所有することができる権利を享受してきました。 悪魔の国に向かって進撃した天国 アダムがエデンの園から追い出されたのちに、人間は呪いによって激しい労働を通した だけ生計を維持することができるようになりました。悪魔はちりを食べることができる権 利を得たために、ちりから出て来た人間を思い通りにたぶらかすことができます。物質に 弱いという人間の弱点を突けば、いくらでも人間に苦痛を与えることができます。人々は 「苦労してこそ暮らしていくことができる。」といいますが、この世ではどんなに熱心に 働いたとしても状況がよくならないことが多いです。このようにこの地で正義や原則のよ うなものを探し出すのは難しいですし、何かを確信したり予測したりするのが難しいです。 それはこの地で悪魔が活動しているためです。 マタイの福音書5章3節は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから です。」といいました。これは天国までも所有することができる者がいるという意味です。 これは旧約時代の預言者を通して伝えられた御言葉ではなく、悪魔を滅ぼすためにこの地 に来られたイエス・キリストが語られた御言葉です。その方はこの地におられたときに巡 り歩いて良いわざをなし、悪魔に制せられているすべての者を癒されました(使10:38)。 その方は心を騒がせながら、「『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おう か。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現して ください。」(ヨハネ 12:27~28)といわれました。すると、天から「わたしは栄光をすで に現したし、またもう一度栄光を現そう。」(ヨハネ12:28)という声が聞こえてきました。 そのとき、イエスは人々に「この声が聞こえたのは、わたしのためではなくて、あなたが たのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるので す。」(ヨハネ12:30~31)といわれました。 また、その方は「私が天に行ったのちに助け主が来てこの世に誤りを認めさせる。裁き についてとはこの世を支配する者がさばかれたからである。」といわれました (ヨハネ 16:11)。天下の悪魔にも恐れるものがありますが、それは天国の力です。この世の権勢者 であっても天国の力に勝利することはできません。このように「天国」とは悪魔の国に対 する神の国の進撃を意味します。 心が貧しい者 「天の御国はその人のものだからです。」という御言葉は天国の権勢がその人のものに なるという意味です。そうかと思えば、天国の権勢を所有する「その人」とは誰でしょう か? 心が貧しい者です。神の国の権勢が心の貧しい者に臨んで、悪魔の権威とこの世の横 暴に勝利を得させるのです。 「心が貧しい者」とはお金がない者をいうのではなくて、心に常に足りなさと渇きを感 じる者です。これを説明するためにはまず「心が貧しくない者」について考えてみる必要 があります。心が貧しくない者は自分の足りない状態を受け入れることができません。た とえば、経済的にとても苦しい者は貧しさの苦しみを受け入れることができず、心に憤り を抱きます。早く貧しさから脱け出さなければならないという考えに追われながら、その 心は混乱に陥り、空いているところを満たす方法を探すのに忙しいです。そのような過程 でその態度は攻撃的になり、荒くなります。このときに自制しなければ、他の人をだまし たり他の人のものを盗んだりする考えまで抱くようになります。もしこの世に接する姿勢 がさらに過激になれば、苦痛に耐えることができなくなり、自殺という極端な選択をする こともあります。このような人は天国を所有することができない者です。 物質のために戦ううちに無理が生じれば、そのときからはお金の問題が自尊心の問題に 変わります。ストレスが極度に達して爆発するようになれば、そのときからは理性をもっ て自制する力が消え、腕力を使うようになり、そのようにしながらも自分には誤りがない と感じるようになります。彼らは貧しさから早く脱け出そうとするあまりに変則的で乱暴 な解決方法を探そうとします。彼らは心の貧しさをあきらめた者であり、苦痛が来るとき にこの世に向かって手を差し出して解決策を探そうとする者です。 その反面、「心が貧しい者」は物質的に貧しい状態を絶望や激昂に変えません。彼らは 苦痛を自ら解決しようとしないで神の助けを求めます。彼らの貧しい心には霊的に空いて いる空間がありますが、彼らはそれを神の恵みによって満たそうとします。「恵み」とは 王が民に施すように極めて高い方が低い者に施す愛をいいます。心が貧しい者の心には豊 かな恵み 、霊的な豊かさを受け入れることができる空間があります。 物質的に苦しいときに彼らは物質に執着しないで神の恵みと愛を切に求めます。苦痛に 苦しめられているときに彼らは神の豊かな愛に対する渇きや慕い求めによって胸を痛めま す。依然として貧しさに苦しめられていたとしても、問題が解決されなかったとしても、 彼らの心は神の愛に対する渇きに満ちています。彼らは神の愛に対して貧しい者、すなわ ち神の愛がさらに必要であると切に感じる者です。 コリント人への手紙第一1章26~28節は「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えて ごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くは ありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、 強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに 足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のよ うにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」といいました。この世で影響力があ り、豊かであり、知恵がある者は神の助けを切実に求めないかしれません。しかし、もつ ものがない者、蔑視を受ける者、疎外されている者は神の助けを求める可能性が高いです。 神はそのような者を選んで助け、それによって神の助けを無視する者を恥ずかしくします。 私たちは空の財布に入れる物質を求めるよりも空いている心霊に神自身が注がれるよう に求めなければなりません。私たちに必要なものは霊的な豊かさです。貧しさから脱け出 そうとしてすぐにこの世に向かって手を広げて心を預ける者は神がとどまられるのに不都 合な者です。心が貧しい者は神に対する貧しさにあえぎます。彼らは神に対して常に渇い ています。彼らが願うのは神から認められることであり、神の恵みに満たされることです。 彼らは物質が貧しいときに神の恵みを求め、病気に苦しむときに神のいのちを求め、この 世で疎外されているときに常に勝利をもたらす神の助けを求めます。神は心が貧しい者が 苦痛を味わうときにその痛みを分かち合うことを願われますし、涙を流すときにともに泣 くことを願われます。人々の心が貧しいほど神はさらに助ようとされるのです。 神のものによって 満たしなさい ヤコブの手紙1章14~15節は「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑 されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」といいました。何 かが足りないと感じるときに人々の心の中には欲が生じます。欲が生じると、混乱が起き ます。物質をもっている者もさらに得ようとして結局、罪と堕落の道を歩むようになりま す。それゆえ、欲を警戒しなければなりません。 現在、経済的な状況がよかったとしても、安心することはできません。悪魔が神と私た ちの間に入って来る隙は依然として存在しているためです。職場の同僚、親、配偶者、子 どもとの間に隙が存在しています。この世のどこにでも悪魔が隙を突く機会はあります。 悪魔が投げた餌にかかって欲を出して追いかけていくのであれば、ある瞬間、驚いて目を 覚まし、敗亡の残骸の中に横たわっている自分を発見することになるでしょう。 心が貧しい者は祈ります。彼らは物質が窮するときにも、また、病気に苦しむときにも 神を慕い求めます。彼らは「困難な生活を克服するためにはまず所有する権利がなければ ならない。」ということを知っています。彼らは神に満たされなければならない自分の心 霊の空白に常に心を痛めます。彼らは神を慕い求めて神に渇きます。私たちはこのように 心が貧しい者となって自分の霊魂を神の豊かさによって満たし、神から与えられる天の権 利を使用しなければなりません。 イエスは「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあ って平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢で ありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)といわれました。イエス がこの世に勝利されたという事実は私たちと密接な関連があります。私たちがイエス・キ リストの中にいるためです。イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。 ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)といわれました。その方は「あな たがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、 あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者は ありません。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、ま ことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの 名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名 によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなた がたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:22~24)といわれました。こ のように語られた方が私たちに「天国は心が貧しい者のものである。」といわれるのです。 祈るときにも自分のためにではなく、神の国のために求めなければなりません。自分の 利益を求める祈りは情欲から出て来た祈りであることもあります。不思議にも応答が来な い状況が続くのであれば、その理由について深く悩まなければなりません。イエスを信じ たのであれば、それからは他の人のために、特に教会のために祈らなければなりません。 イエス・キリストの体である教会に霊的な豊かさがあるように求めなければなりません。 自分よりも神の国を愛して大事に考えるときに、神もその人を喜ばれるのです。 心が貧しい者となって、神に渇かなければなりません。神だけが満たすことができる心 霊の空白のために悲しんで心を痛めなければなりません。渇いた心霊によって神を探さな ければなりません。渇いた胸によって神を慕い求めなければなりません。切実な心によっ て神を慕い求めなければなりません。神はそのような者を探して、自分が快適にとどまる ところと考えます。私たちは自分を慕い求める者を探される神に発見されなければなりま せん。 翻訳:ソウル聖楽教会 視無言著書翻訳宣教センター 日本語翻訳室
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