主の新しい戒め

主の新しい戒め
(ヨハネの福音書 13:31~35)
2014年 5月 25日 ソウル聖楽教会 主日礼拝 説教録取
キムソンヒョン
説教 : 監督 金 聖 顯 牧師
神は
公義の神でおられる
その方が
この世に御言葉を遣わされたが、
その御言葉に義があるので、これが
神の公義である
その御言葉は変わることがない
イスラエルには律法を与え、
キリスト者には恵みと真理を与えられた(ヨハネ1:17)
イスラエルに与えられた御言葉は初めの契約と戒めであり、
キリスト者に与えられた真理は新しい契約と戒めである
イスラエルに与えられた戒めは奥まった部屋で伝えられる、
消極的な戒めであるが、
キリスト者に与えられた戒めは屋上で伝えられる、
積極的な新しい戒めである(ルカ12:3)
消極的な戒めは自分の民にだけ伝えられた戒めであり、
積極的な戒めは全人類に伝えられた戒めである(マタイ18:14)
祝福はまことの兄弟愛をもって伝えられる新しい戒めである
主は新しい戒めを守る者を主の弟子といわれた(ヨハネ15:14)
新しい戒めはすなわち主の愛である
聖霊によって新しい戒めに従ってこそ、その方の弟子である
◎主の命令に従って互いに愛し合おう
ただ言葉による愛ではなく、
積極的に救霊をしよう
◎神が
イエスに新しい戒めを与えられたので、
イエスは自分の体をこの世に与えられたのである
◎このように
主の弟子となるためには
その方の新しい戒めを守って霊魂を愛さなければならない
※霊魂を愛する者が主の弟子であり、
霊魂を愛する者がまことの牧羊師である
新しい戒めを守ろう
信仰良心
アダムは神を裏切り、神の戒めを破って罪を犯しました。エデンから追い出されたアダ
ムは神と断絶されました。アダムの子孫は神なしに生きながら次第に堕落し、神と彼らと
の距離はさらに遠ざかっていきました。その後、数千年間、天は静かであり、人間が神の
御言葉通りに生きていた状態に回復するようには見えませんでした。アダムの罪は代々に
わたって遺伝され、指で数えるぐらいであった人の数はこの地を満たすほどに増えていき
ました。彼らは自分たちに罪があるという事実を知ることができませんでしたし、それに
よって永遠な刑罰を受けなければならないという点も悟ることができませんでした。
公義の神は人間に神の御言葉を遣わして救いの働きをはじめられました。初めにモーセ
を通して律法を与え、のちには真理であるイエス・キリストを新しい戒めとして与えられま
した。律法は神が与えられた戒めです。神の戒めは「神がそれに従う者を義とされ、従わ
ない者を不義とされる。」という義の基準です。神が律法を与えられたのは人間に救いの
道を開かれたのです。人間は律法を受けることによって神を学び、神に会い、神に仕える
ことができる道に入ったのです。律法は人間が神に会うために必ず熟知して守らなければ
ならない関門です。
戒めは人の行動が正しいのか、正しくないのかを判断する基準となって私たちの人生に
根を下ろします。神に会って仕える者にとって戒めは良心の役割を果たします。それゆえ、
戒めがすなわち良心ともいうことができます。
この世には多様な良心が存在します。アメリカでは目下の人が目上の人の前で足を組ん
で座っていたとしても失礼になりません。かえってそれは相手を警戒しないという意味と
して受け入れられます。しかし、韓国でそのようにするのであれば、得てして災いがもた
らされます。イギリスのオックスフォード大学に留学に来たアメリカの新入生が学長の姓
ではなく、名前を呼んだのを見たことがあります。当時はそれがどんなに無礼であるのか
と考えましたが、のちにそれが親しみの表現であるということを知りました。部下が上司
の名前を呼んだり、学生が先生の名前を呼んだり、ホワイトハウスの職員が大統領の名前
を呼んだりするのはアメリカでは通用することです。しかし、韓国でそのようにするので
あれば、無礼で横柄であるという非難を受けるようになります。
イギリスでは 18 歳になると、親から離れて独立しなければなりません。18 歳を過ぎて
も家を離れないというのは親不孝として扱われます。しかし、韓国ではその歳に家を離れ
るというのはむしろ親不孝として扱われます。日本では他人の家に招かれて食事をすると
きにおいしいという表現として音を大きく出しながら食べるのが礼儀正しい行動です。し
かし、韓国でそのようにするのであれば、品がない者として烙印を押されるでしょう。南
太平洋のある地域では大事な客が訪問したときに虫で作った料理をもてなします。そこで
は他人の家に行ったときに虫の料理でもてなしを受けることができないというのは残念な
ことです。しかし、韓国で客に虫の料理でもてなしをするのであれば、雰囲気が気まずく
なるでしょう。
このように良心の基準は地域や文化によって千差万別です。このような実例を調べるの
は興味深いですが、当事者にとってこのようなことは非常に深刻な問題です。自分が住ん
でいる地域で通用する道徳を守らなければ、その社会から取り除かれることもありますが、
ときにはそれ自体が死を意味することもあります。一部のイスラム地域では女性がヒジャ
ブをかぶらなければ、殺されることもあります。私たちにとっては何の問題にもならない
ことがそこでは生と死を分けることもあるのです。良心というものは人間にとって生存に
関わる問題です。このような良心を指して一般良心といいます。
人間の生存にとって良心や道徳はこのように重要ですが、それによって神を満足させる
ことはできません。誰もそれによって神に会うことができませんし、神の関心を引くこと
もできません。これを知っておられる神は人が神に会うことができるようにモーセを通し
て良心を与えられましたが、それが律法です。律法は一般良心と比べて信仰良心といいま
す。人間が滅びに向かっていたとしても彼らに信仰良心がないのであれば、神は彼らと関
係をもたれません。
イエスが語られた金持ちとラザロの話がそのひとつの例です。金持ちはこの地でぜいた
くに暮らしていましたが、死後にはよみで苦労しました。彼はアブラハムに「ラザロを私の
父の家に送ってください。私には兄弟が5人いますが、彼らまでこのような苦しみの場所
に来ることがないように、よく言い聞かせてください。」と切に願いました。すると、アブ
ラハムは「彼らにはモーセと預言者がいます。彼らの言うことを聞くべきです。」といいま
した。金持ちは「いいえ、父アブラハム。もし死んだ者の中から誰かが彼らのところに行け
ば、彼らは悔い改めるに違いありません。」と切に願いましたが、アブラハムは「もしモー
セと預言者との教えに耳を傾けないのであれば、たとえ誰かが死んだ者の中から生き返っ
たとしても彼らは聞き入れはしない。」といいました(ルカ 16:19~31)。これは「モーセを
通してでなければ、どちらにしても救いの道に入って行くことができない。」という意味
です。人々はそれぞれ自分の人生の基準に従って他人を判断しますが、そのような良心に
よっては神に会うことができません。ただシナイ山から下りて来たその良心によって人は
神に会う道に入って行くことができます。人がその良心を所有するときに、神はその人を
見られます。
律法の弱点
律法がこのように立派なのに、どうして神はのちに新しい戒めを与えられたのでしょう
か? 律法が十分ではなかったのでしょうか? そうです。律法には弱点があります。神が
私たちに新しい戒めを与えられたのは律法ができないことを補うため、すなわち良心の法
を完全にするためでした。
律法の基礎として十戒があります。その中で4つの戒めは神に向けられた態度に関する
良心の法であり、残りの戒めは人との関係に関する良心の法です。最初の4つの戒めは「あ
なたには私のほかにほかの神々があってはいけない。偶像を造ってはいけないし、それら
に仕えてはいけない。主の御名をみだりに唱えてはいけない。安息日を覚えて、これを聖
なる日にせよ。」という内容であり(出 20:3~11)、人々を神に仕えさせる法です。律法は
それを守らなかった者に報いを与えることによって人々に罪を犯させないようにします。
律法は人々に罪を犯させないための卓越した力をもっています。
しかし、律法はすでに犯した罪をなくす力をもっていません。律法はこの世に紹介され
たのちに人々に罪を犯させないようにしましたが、律法が入って来る前に人々が犯した罪
を解決することはできませんでした。人間はエデンの園ですでに堕落しました。律法は人
間がすでに犯した罪を解決することはできませんでしたし、すでに罪人になった人間を直
すことはできませんでした。
律法にはさらに弱点があります。人は弱いために、いつでも失敗することがあります。
一度、そのように罪を犯すと、律法によってはそれをなくすことができません。律法は人
を救うことができず、ただ罪に定めるだけです。
律法の弱点はさらにあります。神が喜ばれる心の姿勢をもたなかったとしても律法を守
ることができ、また、実際にそのようなことが起こるという点です。人々は律法を守りま
すが、利己的な動機をもって守ります。律法の下にいる者は「罪を犯すのであれば、呪い
を受ける。」という事実のために、仕方なく律法を守るという習性をもつようになります。
「ほかの神々があってはいけない!」という御言葉を聞いたときに、神を愛する心によっ
て他の神々を遠ざけるのではなく、呪いを受けないようにするためにそのようにします。
偶像を排斥したり、主の御名をみだりに唱えないようにしたり、安息日を覚えたりするの
も神を愛するためではなく、自分が混乱に遭わないようにするためです。
人間に対する良心においても同じ問題が発生します。律法の下にいる者は呪いを受けな
いようにするために殺人は犯しませんが、心の中では一日に 12 回も人を殺します。その
人が人を殺さないのは呪いを受けるのを恐れるためであって、人の命を尊重するためでは
ありません。その人は行動に移しはしませんでしたが、心ではすでに人を殺しました。
このようにある人が一生涯、律法を守ったとしても、それは自分を愛したのであって、
神を愛したわけではありません。このように神に対する愛がなかったとしても自分を愛す
るという動機によって守ることができるのが律法です。イエスはユダヤ人、特にパリサイ
人に「わざわいだ。偽善のパリサイ人。」と警告されました。また、「あなたがたは十分
の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。」といわれ(ルカ 11:42)、
「あなたがたは聖書の中に永遠のいのちがあると信じて聖書を調べているが、その聖書が
証ししている私に来ようとはしない。あなたがたが神に遣わされた私を信じないのを見て、
あなたがたの問題を知った。それはあなたがたの中に神に対する愛がないということであ
る。私はあなたがたを訴えない。あなたがたを訴える者に行きなさい。それはあなたがた
が望みを置いているモーセである。」といわれました(ヨハネ 5:39~46)。
新しい戒め
イエスはこの地に来て「律法があなたがたに求めたのは互いに愛しなさいということで
ある。」といい、律法の性格を再確認されました。ある律法学者がイエスに「律法の中で
大切な戒めはどれですか?」と尋ねました。イエスは意外にも「『心を尽くし、思いを尽
くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めで
す。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じよう
にたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタ
イ 22:37~40)と答えられました。これは律法の性格に再び照明を当てたのであり、律法
を消極的に無理やりに守るべき法としてではなく、愛を要求する積極的な法として一段階
引き上げて提示したのです。
さらに、イエスは直接、愛する法を教えられました。戒めを守る者としての模範を見せ
られたのです。イエスは「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。
また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わ
たしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てま
す。」(ヨハネ 10:14~15)といわれました。父が御子を愛されたのは御子が命を捨てるま
で戒めに従ったためです。イエスはこのような原理について「だれでもわたしを愛する人
は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちは
その人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのこと
ばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣
わした父のことばなのです。」(ヨハネ 14:23~24)といわれました。
イエスはこのように原理を提示したのちに、実際に「父が私を愛されたように私もあな
たがたを愛しました。私の愛の中にとどまりなさい。私も父の戒めを守って命を捨てるま
で父の愛の中にとどまりました。もしあなたがたが私の戒めを守るのであれば、あなたが
たは私の愛にとどまるのです。これからは戒めを守るために命まで捨てなければなりませ
ん。」と命じられました(ヨハネ 15:9~14)。イエスは父と自分の関係を見せながら、私た
ちにもそのようにすることを求められました。イエスは私たちがイエスの中にいることを
願い、また、イエスが私たちの中にいることを願われます。このような主の御心をなすた
めに私たちはイエスの戒めを守り、命まで捨てることができなければなりません。
イエスはこれらすべての御言葉を「私を愛する者は私の言葉を守ります。」と要約され
ました(ヨハネ 14:15)。成績がよい子には「勉強しなさい。」と強要する必要がありませ
んし、親を愛する子には「親孝行しなさい。」と強要する必要がありません。そのように
神を愛する者は誰かに言われなかったとしても神によく仕えます。それゆえ、そのような
者には「神に仕えなさい!」という律法が必要ではありません。
イエスは新しい戒めを与えながら、このように教えられました。「私が父を愛し、父も
私を愛するように、あなたがたもそのようになりなさい。初めの約束の下で律法を守った
者は命を守るためにそのようにしたが、『愛しなさい』という新しい戒めを守る者は神に
対する愛によってそのようにしなさい。今までのあなたがたの方法は正しくない。私が新
しい戒めを与える。今までは呪いを免れるために法を守ったが、これからはそのようにし
ないで、まず神を愛しなさい。神を愛するのであれば、呪いに対する脅威がなかったとし
ても、ほかの神々に仕えたり、偶像を造ったり、神の御名ををみだりに唱えたり、安息日
を犯したりすることはない。神を愛するのであれば、神の法を完ぺきに守ることができ
る。」
新しい戒めは律法よりも強力であり、威力があります。律法は人間が神に対する態度を
正しくもっていない中で何とかして人間をつかむために最後の命令として与えられたもの
ですが、新しい戒めを守る者は律法が要求することよりも大きなことを行うことができま
す。それゆえ、新しい戒めは律法よりもはるかに大きいということができますし、また、
律法の完成ということができます。
養育係はイスラエルの家庭で「あれはしてはいけない。これはしなさい。」と子どもた
ちを教えました。たとえば、 養育係が子どもに「親に仕えなさい。」と教えるのであれば、
子どもは懲戒を恐れて無理やりにそれに従います。しかし、そのような訓練を受けながら
成長したのちには、親に仕えることが身について、誰かが指示をしなかったとしても自然
と親に仕えます。このように神に対する愛がない者も神の御前で守らなければならない最
小限の法が必要です。それがすなわち律法です。
しかし、イエスは新しい戒めを提示しながら、「あなたがたに神に向けられた愛がある
のならば、律法を十分に消化するであろう。これからは戒めを守ろうとするあなたがたの
努力が『あなたがたが私を愛して、父を愛する。』という事実についての証しとなるであ
ろう。」といわれました。主が語られたのはここまででしたが、将来、聖霊が臨んで人々
を導かれることを知っておられた主の心の中には「これから私の戒めを守る者がいるので
あれば、その人はすでに私の愛を受けた者であり、律法が与えなかった赦しと恵みを受け
た者であり、律法の重荷を克服した者であり、律法のまことの要求を満たした者である。
私がその人を天国に連れて行く。」という考えが満ちていました。
主の戒めを守る者はただ戒めを守る者ではなく、主を愛する者です。神の国は主を愛す
る者が入って行くところです。その人がどの民族であれ、どの文化圏の者であれ、関係が
ありません。山奥の農夫であれ、都市の冷たい地下室で飢えている労働者であれ、関係が
ありません。神を愛する者であれば誰でも天国に行くことができます。神を愛さない者が
そこに行くというのは夢にも思うことができないことです。
サタンをサタンと呼ぶのはサタンが神を愛さなかった天使であるためであり、悪魔を悪
魔と呼ぶのは悪魔が人間に神を愛させないように妨げる者であるためであり、悪霊を悪霊
と呼ぶのは悪霊が神を愛さなかった者であるためです。これとは異なる私たちは「神の
子」と呼ばれます(Ⅰヨハネ 3:1)。子どもが親を愛さないのであれば、誰が親を愛するの
でしょうか? これと同じように、私たちを生んでくださった神を愛さないのであれば、誰
がこの地で神を愛するのでしょうか?
私たちが教会に通いはじめたのは何としても呪いを免れて天国に入って行くためでした。
しかし、今は呪いに対する恐れではなく、主に対する愛によって教会生活をする者となら
なければなりません。悔い改めたり、献身したり、奉仕したり、牧羊師になったりするの
がすべて主を愛するためでなければなりません。主を愛する者はこの世を超越することが
できますし、命までも捨てることができます。使徒パウロが「生きるにしても、死ぬにし
ても私の身によってキリストがあがめられることが私の切なる祈りと願いです。私にとっ
ては生きることはキリスト、死ぬことも益です。」と告白することができたのも(ピリピ
1:20~21)、彼が主を愛していたためです。これ以上、律法に縛られていないで、神を愛
さなければなりません。神が願われることを自分のこととしなければなりません。愛する
神に喜びをささげようとしなければなりません。
神を愛さない者は主日を守ることをつまらなく考え、十分の一を惜しみ、惜しむ心で献
金をします。教会員が献金をしなければ、教会の運営はむずかしくなり、結局は主の働き
が制限を受けます。自分に対する愛を生涯の中心に置いている者は主を愛することがむず
かしいです。私たちが十字架を負って苦しみの道を行きながらも喜ぶことができるのは愛
する主がすでにその道を行かれたためです。
愛の対象
イエスは最後の晩餐のときに弟子たちに「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互
いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合い
なさい。」(ヨハネ 13:34)といわれました。これは律法の代わりに新しい戒めを与えられ
たのです。「あなたがたは私の愛を受けたのか? これからは互いに愛し合いなさい。あな
たがたは私を愛するのか? 互いに愛し合いなさい。あなたがたは神の愛を受けたいのか?
互いに愛し合いなさい。」兄弟を愛さないというのは神を愛さないという証拠です。ヨハ
ネの手紙第一4章 20~21 節は「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人
は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはでき
ません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受け
ています。」といいました。
律法が強調する「隣人を愛しなさい!」という御言葉の意味を誤解する者は自分を除い
たすべての人を隣人と考え、全世界のすべての人を無条件に愛さなければならないと漠然
と考えます。もし旧約時代のイスラエルがそのような考えをもっていたのであれば、異邦
人を殺したり呪ったりはしなかったでしょう。隣人を愛しなさいという言葉は兄弟、すな
わち神が救われた者を愛しなさいという意味です。ヨハネの手紙第一5章1節は「イエス
がキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった
方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」といいました。キ
リストを信じる者は神によって生まれた者です。ところが、神はそのひとりだけでなく、
別の人も生みました。私たちが神を愛するのであれば、神によって生まれたその人も愛す
るのが当然です。2節は「私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、
私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。 」といいました。私たちが愛さ
なければならない対象は他でもない神の子です。
ヨハネの手紙第一3章 23 節は「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名
を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」といまし
た。「キリストが命じられたとおりに私たちが」という言葉からわかるように、互いを愛
し合いなさいという命令は信じる者が共通して受けた命令です。信者はこの命令を受けま
したが、信じない者はこの命令を受けませんでした。それゆえ、信者と不信者の間には互
いに愛さなければならない条件が成立しないのです。互いに愛し合わなければならないの
は主からの命令を受けた者です。その戒めを守る者は主の中にとどまり、主もその中にと
どまられます(Ⅰヨハネ 3:24)。
また、もうひとつ私たちが注意しなければならないのは教会を超越する考えです。ある
人は神を愛するといいながらも、「教会はどの教会に通ってもいい。神との関係を維持し
ているのであれば、人との関係においては秩序を無視してもかまわない。」と考えます。
神との関係は良さそうに見えたとしても、神の教会を見下す者、神の教会を個人的な成功
の機会にしようとする者は情欲の罠に捕らえられて信仰生活に失敗します。完全なキリス
ト者であるのならば、自分が身を置いている教会に対する愛がなければなりません。
ある人は兄弟を愛しなさいという言葉を聞くと、全世界のすべての人々を思い浮かべな
がら、自ら負担を感じます。「兄弟」は私たちのそばにいます。多くの人々が「私がこの
教会を選択した。」と考えますが、私たちが身を置いている教会に私たちを導いてくださ
ったのは神でおられます。この世に多くの教会がありますが、神は私たちをここに召して、
体の器官を互いに愛し合うようにされました。コリント人への手紙第一7章 20 節は「お
のおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。」といいました。神の子であれ
ば誰でも避けることができない戒めがありますが、それは兄弟を愛しなさいということ、
すなわちイエス・キリストの体である教会を愛しなさいということです。目に見える教会
を愛さないのに目に見えない神を愛するというのは理屈に合いません。教会に霊的な知識
が豊富であったとしても兄弟愛がないのであれば、どのようにして霊魂が神に導かれるで
しょうか?
祈りの応答を受けることができない大きな理由のひとつも兄弟を愛さないということで
す。ヨハネの手紙第一3章 22~23 節は「また求めるものは何でも神からいただくことが
できます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。
神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとお
りに、私たちが互いに愛し合うことです。」といいました。主の戒めを守る者が祈りの応
答を受けることができます。その命令とは互いに愛し合いなさいということです。
ある人は兄弟を愛すると決めて実行に移しますが、人々の反応がないと、落胆します。
しかし、心配する必要はありません。コリント人への手紙第一8章3節は「しかし、人が
神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」といいました。兄弟を愛すること
に何の反応がなかったとしても私たちが神を愛し、また、それによって兄弟を愛するので
あれば、神は私たちを覚えてくださいます。
教会を超越した理想を語る前に、私たちはまず自分が身を置いている教会を愛さなけれ
ばなりません。ある人は「子どもが立派な主の働き手となることを願います。」といいま
す。果たしてどのような人が立派な主の働き手でしょうか? 豊富な霊的な知識を備えるこ
とよりも優先しなければならないのは教会に対する愛と忠誠心です。私たちは教会が倒れ
ていっているときに傍観する者とならないで、自分の命を捨ててでも教会を守る者となら
なければなりません。その人がたとえ命を失ったとしても神はその人の名を永遠に高めら
れます。
神を愛するのであれば、教会を愛さなければなりません。これは私たち自身の力によっ
てだけ可能なことではありません。それゆえ、神の助けを求めなければなりません。私た
ちの救いだけでなく、永遠のいのちに至らせる神の計画が私たちの霊魂になされなければ
なりません。主が与えられた新しい戒めに従って神を愛することができるように力を求め
なければなりません。すべての聖徒がひとつとなって聖霊に頼り、それによって主の愛に
満たされた教会、この世の情欲と風潮が勝利することができない教会、主の性格に満たさ
れた教会を作らなければなりません。
翻訳:ソウル聖楽教会 視無言著書翻訳宣教センター 日本語翻訳室