蹴毘のJTA精神ー上杉謙信の旗「毘」の道標ー

蹴毘のJTA精神ー上杉謙信の旗「毘」の道標ー
2013(平成25)年2月3日
日本テコンドー協会
河
明生
著
序
新たに創始した「蹴毘(シュウビ)」とは、大義名分無き私闘を禁ずる日本跆拳道家の正義の戒律をいう。
蹴毘の「蹴」は、蹴士(シュウシ)=日本跆拳道家を表している。
他方、「毘」とは、戦国の英雄・上杉謙信が高々と掲げた「毘」の旗印を表している。
では、日本テコンドー協会(以下、JTA)は、何故、上杉謙信ゆかりの蹴毘という戒律を定めたのであろうか。
現代の我々が模範とし、学ぶべき道しるべこそが、上杉謙信の完結した人生にある、と考えるからである。
時代が英雄像を求めると言われているが、殺伐とした現代日本に求められる英雄像こそが上杉謙信なのだ。
以下において私は、上杉謙信の完結した人生から何を学ぶべきなのかを明らかにする。
なお、上杉謙信は、長尾姓から上杉姓へ改姓、虎千代→景虎→政虎→輝虎と三度改名、宗心等の法号を持つが、
本稿では、上杉謙信または謙信で統一する。
本論目次
序
一、上杉謙信の略年譜
二、大義名分なき戦をしなかった上杉謙信
三、筋目=義に生きた上杉謙信
四、上杉謙信の美意識
五、上杉謙信の「毘」の旗の意義
結
参考文献
補足論文目次
JTA門人は上杉謙信の完結した人生から何を学ぶべきか
1,時代が求める英雄像の変遷
2,上杉謙信から何を学ぶべきか
3,蹴毘の平常心と防御技術の強化
一、上杉謙信の略年譜
上杉謙信は 15 歳の初陣以来、49 歳で逝去する迄、70 回合戦し 43 勝 2 敗 25 引分けという驚異的な強さを誇っ
た。ゆえに、後世の人々は謙信を評して「戦国最強の武将 」、「戦の天才 」、「軍神 」、「越後の龍」と崇め、江戸
時代から現代に至るまで一定の人気を誇っている。謙信によれば「戦場で生きようと思えば死に、死を覚悟で臨
めば生きて帰れる」のだ。彼は、後述するとおり、戦場では勇敢に戦う勇気の権化だった。
日本跆拳道は、武道であり、格闘技である以上、肉体的強さと精神的勇気を求めるのは当然のことである。
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JTA の門人・会員の誰しもが、自分を高めるという動機に基づき、強くなろうと決意して入門し、日々の研鑽に
励んでいるからである。誰しも、「弱い自分」との決別を欲しているといえよう。
また、正々堂々の競争は、国家社会の健全な進歩をもたらす。この正当な競争に勝とうとする心性は絶対必要で
あり、そうであるとするならば、歴史上の強者に憧れることは当然と言えよう。
謙信の生涯を略年譜にまとめると次の通りとなる。
享禄三年(1530)
越後守護代・長尾為景の子として春日山城(現新潟県上越市)にて出生。
寅歳生まれのため幼名・虎千代と名付けられる。
天文五年(1536)7 歳
生涯の師となる林泉寺の名僧・天室光育(てんしつこういく)に師事。禅と教養を学ぶ。
父・長尾為景病死。兄・長尾晴景が家督を継ぎ越後守護代となる。
天文十三年(1544)15 歳
長尾晴景の病弱および力量不足により越後争乱の兆し。
謙信、謀反を鎮圧し初陣を飾る。
天文十六年(1547)18 歳
再度謀反を起こした黒田秀忠一族等を討伐し越後を平定し武名を高める。
天文十七年(1548)19 歳
長尾晴景の妬みと疑心により一触即発状態となり、越後は再び争乱の兆し。
守護・上杉定美による調停で和議。
兄の養子となり守護代・長尾家を継ぎ春日山城に入城。
天文十九年(1550)21 歳
守護・上杉定美死亡により上杉家断絶。
将軍・足利義輝、謙信に対し守護のみが使用できた白傘袋と鞍覆の使用を許す。
天文二十年( 1551) 22 歳
天文二一年(1552)23 歳
一族の長尾政景(姉の夫。上杉景勝の実父)謀反。誓詞を送り降伏。越後を平定。
関東管領・上杉憲政、北条氏康に敗れて越後に逃れ、謙信に救援を請う。
天皇・後奈良、謙信を従五位下・弾正少輔に叙任す。
天文二二年( 1553) 24 歳
信濃の村上義清、島津規久等が武田信玄に領土を奪われ、謙信に救援を請う。
信濃に出陣し、布勢・八幡・荒戸城等で武田軍を破る。
兵2千を率いて京へ初上洛。 将軍・足利義輝に拝謁。
天皇・後奈良にも拝謁し、天杯と御剣、戦乱鎮定の綸旨を受ける。
天文二三年(1554)25 歳
重臣・北条高広、武田信玄の誘いに応じて謀反。
弘治元年年(1555)26 歳
北条高広、武田信玄が約定を反古し援軍を出さないことを悟り降伏
信濃川中島へ出陣し武田軍と対陣。駿河・今川義元の斡旋により武田信玄と和議。
弘治二年(1556)27 歳
領土紛争や武田信玄の謀略で裏切る家臣の強欲に嫌気がさして出奔、出家を希望。
武田信玄の誘いに応じた重臣・大熊朝秀の謀反等により越後の危機。
謙信以外に越後の豪族を束ね、守ることができないことを悟った長尾政景等の家臣団
謙信を探して説得。謙信は家臣団の懇願を入れて復帰し大熊を鎮圧。
弘治三年(1557)28 歳
信濃に出陣し、武田軍と対決。
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永禄元年(1558)29 歳
関東管領・上杉憲政、再び謙信に救援を請う。
将軍・足利義輝、謙信と武田信玄に和睦を命じ、これを受諾。
永禄二年(1559)30 歳
兵3千を率いて二度目の上洛。新天皇・正親町にも拝謁し、天杯と御剣を受ける。
将軍・足利義輝に拝謁し、「公的な精神(後述)」を公表。
義輝は、謙信が上杉憲政の養子となり関東管領職を譲り受けることを薦める。
永禄三年(1560)31 歳
武田信玄に呼応した越中富山城の神保長職を破る。
関東管領・上杉憲政と共に関東へ初出陣。北条勢を破りながら、豪族らに出兵要請。
永禄四年(1561)32 歳
11 万 5 千の大軍で小田原城を包囲。
武田信玄、謙信の留守を狙い信濃に侵攻したため撤退。
謙信、上杉憲政の養子となり、名門・山内上杉家を相続し、
鎌倉鶴岡八幡宮において武門最高の栄誉・関東管領職の就任儀式を行う。
越後に戻って信濃川中島に出陣し、史上名高い武田軍との死闘(第四次川中島合戦)。
永禄十年(1567)38 歳
武田信玄、甲・相・駿三国同盟破棄し、駿河へ侵攻。今川氏真、謙信に救援を請う。
今川と北条は報復措置として武田領への塩を留めるが、謙信は武田領へ塩を送った。
武田信玄、深く感謝し、謙信に太刀を贈る(塩留の太刀。東京国立博物館蔵)
永禄十一年(1568)39 歳
永禄十二年(1569)40 歳
武田信玄の誘いに応じた重臣・本庄繁長謀反
本庄繁長、伊達輝宗(伊達政宗の父)らを通じて謙信に助命嘆願し、降伏
謙信、北条氏康からの越後相模同盟提案を受諾。
元亀元年(1570)41 歳
謙信、人質として預かった北条氏康の子を養子とする。
徳川家康と対武田同盟を結ぶ
上杉謙信と称す(蹴武の型・謙信41動作の由来)
元亀二年(1573)42 歳
北条4代目・氏政、越後との同盟破棄
元亀三年(1572)43 歳
武田信玄との同盟を破棄した織田信長と同盟
天正元年(1573)44 歳
武田信玄病死の報に接し好敵手の死を惜しむ
越中平定。
天正二年(1574)45 歳
徳川家康と共に武田勝頼を討伐せんとす。
北条と敵対する安房・里見を救援すべく関東に出陣。
織田信長、謙信を恐れ「狩野永徳筆・洛中洛外図屏風(米沢博物館蔵・国宝)」を贈る
天正四年( 1576) 47 歳
室町幕府最後の将軍・足利義昭、謙信に対し、甲斐・武田と相模・北条と和睦し、
中国の毛利と同盟して織田信長を討伐し、足利幕府再興を要請する。
天正五年(1577)48 歳
加賀手取川において約5万の織田信長軍(総大将・柴田勝家)を破る
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天正六年(1578)49 歳
脳溢血で逝去。
辞世「四十九年一睡夢
一期栄華一杯酒」
(49年の生涯は一睡の夢に過ぎなかった。人生の栄華は、一杯の美酒に等しい)
謙信の遺言により、遺骸に甲冑を着せて保存(後述)
しかしながら、筆者が、謙信ゆかりの蹴毘という戒律を定めたのは、彼が最強の武将だったからだけではない。
では、その理由とは何であろうか。
二、大義名分なき戦をしなかった上杉謙信
戦国時代の著名な名将、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが、何故、戦に明け暮れたのか?
天下統一や領土拡張という私的な野心のためである。権力者側が後世に流布した「天下万民のため戦をなくすた
めに戦った」わけではない。
他方、上杉謙信のみは異端であった。
戦国時代に「義」の心を生涯全うした「美しくもさわやかな英雄」は謙信のみである。
加来耕三によれば、偉大な英雄でありながら、清冽な道義の心をもった英雄となると、日本では上杉謙信と西郷
隆盛以外に存在しない。筆者も同じ考えであり、創始した蹴武の型に「謙信(青帯の型 )」および「南洲(黄帯
の型)」と命名した所以でもある。
多くの論者が指摘するとおり、乱世に生きた著名な戦国武将は、戦に勝つためには手段を選ばなかった。
他方、謙信は、生涯を通じて筋目を重んじ、大義名分なき戦をしなかった。不義・裏切り・騙し討ち等が当たり
前の弱肉強食の時代に、不義を忌避して正義を貫き通し、手段を選びながらも、その大部分に勝利したのだ。
競争社会の渦中にある現代の我々が模範とすべきは、まさに謙信が生涯を通じて貫き通した正義を堅持せんと
する信念を基底とした手段を選ぶという美意識である、と考える。その偉大な足跡を述べる。
謙信は越後守護代の子として生を受けたが、家督を継ぐ歳の離れた兄がおり、7 歳で禅の高僧に弟子入りし、
厳しい修行を課せられた。
しかし、父の急死により事情が変わった。
守護代となった兄が病弱であり、不甲斐なかったため越後の豪族・家臣団の統制がとれず離反・謀反が相次いだ。
謙信は兄を助けるため武将の道を歩むことを欲し、 15 歳の初陣以来、天性の軍事的才能を発揮し、豪族家臣団
の信望を得ることになる。
やがて謙信は、越後守護・上杉家(後、養子となる関東管領上杉家とは別)の仲立ちによって兄の養子となり
長尾家の家督を継ぎ越後守護代となった。彼は私利私欲から謀反ばかりおこしていた豪族らを討伐し、寛大な態
度で彼らを許して服従させながら越後を完全に平定した。
他方、他国へは関東 14 回、越中 12 回、信濃 6 回等、30 有余も出陣し、その大部分に勝利した。生涯 70 回も
戦い敗れたのは僅か二度だけだったのだから広範な領土を有する大大名になっても何ら不思議ではなかった。
しかし、謙信の領土は増えることはなかった。それは何故か。関東および信濃への出陣の理由から検証する。
(1)関東の覇者・相模北条氏康との戦いの経緯
下克上の戦国時代の嚆矢は、相模(現神奈川)を拠点とした後北条の祖・北条早雲であると言われている。
新興の後北条家は、小田原を拠点としながら関東を席巻し、関東統治を室町幕府から委ねられていた関東管領・
山内上杉家らと対峙した。
『北条記』によれば、三代目の北条氏康は、文武に優れ、関東八州を平定した古今の名将であるとする。
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彼は、内政も充実させた。祖父早雲以来の四公六民の善政をしき民の支持を得ていた。
武勇知略にも傑出していた。天文一五(1546)年の「日本三大奇襲」と名高い河越城(現埼玉川越)の戦いは、
氏康の武勇を天下に轟かせた。彼は 1 万 1 千人の軍勢を率い関東管領の山内上杉家・上杉憲政(1523 ~ 1579)、
扇谷上杉家の上杉朝定、古河公方の足利晴氏等の連合軍約 8 万人の大軍を撃破したのだ。しかも武芸にも秀でて
おり、刀傷は顔に 3 カ所、体に 7 カ所もあったため臣下は戦による向傷のことを「氏康傷」と呼んでいたという。
関東の名家・扇谷上杉家を滅亡させた氏康は、天文二十一(1552)年、関東管領・上杉憲政を居城から追い出
し、室町幕府守護大名勢力をほぼ駆逐し、名実共に関東の覇者となった。
他方、上杉憲政は、旧家臣筋であった長尾景虎(後の謙信)を頼って越後に落ち延びた。
その経緯につき『関八州古戦緑』は、次のように記している。上杉憲政の近臣達が相談したところ
「越後の長尾景虎は、知勇が傑出していると言われている。信州更科の村上義清に頼まれ、義戦を事とし武田晴
信(後の信玄)に挑んでいると聞いている(略)元来、御当家譜代の者であるから、義に基づき頼めば必ず二の
足を踏むことはあるまい。かくして本意を遂げ、再び関東に武威をかかげられるよう強諫した(略 )」とある。
筋目を重んじた謙信は、上杉憲政を関東管領として尊重し、御館を造営し、主筋として丁重に迎え入れた。
永禄元(1558)年、上杉憲政は、謙信に大略次のような申し出を行った。
「関東の安寧と秩序回復のためには、そなたの力が必要である。長尾家には上杉家から養子をいれたこともある
ので遠戚である。そちを上杉家の養子に迎え、関東管領職を継いでもらいたい」
関東管領は室町幕府の要職であった。関東十州(現東京・神奈川・千葉・埼玉・茨城・群馬・栃木等)の秩序
維持を責務とし、天下の半分の兵権を握るものとされた。たとえば、私的な領土的野心にもとづき隣国を侵略す
る者があらわれた場合、関東の武将達に対し出兵命令を出せる権限を有し、秩序を乱した者を撃退する責務を有
していたのだ。
だが、謙信は「恐れ多くも、武家として最高の名誉なことではあるが、筋目からすれば京の公儀・足利将軍家
の承認がなければお受けできない」と丁重に断った。
永禄二(1559)年、謙信は、兵を率いて二度目の上洛を果たした。織田信長や武田信玄が、将来、天下統一を
果たした暁に「織田幕府」や「武田幕府」を創始するという私的野心を満たすため、衰退していた足利将軍家の
威光を便宜的かつ過度的に利用しようとしたのに対し、謙信の上洛目的はまったく異なるものであった。
謙信は、室町幕府将軍・足利義輝(1536 ~ 1565)に拝謁し、「公的な精神」を公表している。
「たとえ守護職を委ねられている越後を失ったとしても、室末幕府に対し忠節を尽くす覚悟です」
かねてより謙信の室町幕府に対する私心無き忠義の言動に感じ入っていた将軍・義輝は、
この決意を受け、謙信が上杉憲政の養子となって山内上杉家を継ぎ、関東管領職を譲り受けることを薦めた。
『上杉古文書』によれば、謙信は「おう弱の身として争かこの重職を拝受せんや」と固辞し、関東管領・上杉憲
政を立てながら北条氏康を征伐することを将軍に誓ったと記されている。
永禄三(1560)年、北条氏康と対峙していた常陸の佐竹義重は、謙信に書簡を送り、関東出兵を求めた。
その際、謙信は次のように返答している。
「依こによって弓せんはとらぬ(私利私欲で戦はしない)。
筋目をもって何方へも合力いたす(筋目が正しいならば誰でも味方しよう)」
同年八月、謙信は、関東管領・上杉憲政を奉じて関東へ出陣し、北条方の上野・厩橋城(群馬前橋)を落とし、
拠点とした。彼は関東諸将同士の領地紛争の調停をしながら豪族らに北条討伐参戦を促す檄文をだした。
謙信の私心無き態度を確認した下野、常陸、武蔵、安房、上総、下総の諸将 252 人が謙信の下にはせ参じて面会
し、書状をもって北条討伐参戦を約束した。
『鎌倉九代記』や『関八州古戦録』によれば、謙信軍は 11 万 3 千人の大軍に膨れあがったという。
北条氏康は野戦での不利を悟り、小田原城に迎え撃つ籠城戦を決断した。
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永禄四(1561)年二月、謙信は、小田原城を 10 万超の大軍で包囲し、1ヶ月に渡り城攻めをした。
しかし、謙信の留守を狙った武田信玄が、信濃川中島に海津城を完成させ北信濃に出兵するという情報が入った。
越後等からの遠征による兵士の疲労や飢饉による食料調達の難しさもあった。
謙信は、佐竹義重らによる「北条に対し、武威を十分示したのですから籠城をとくべきである」とする意見に従
い撤兵を決断した。
謙信軍は、関東管領軍の権威を保ちつつ悠然と鎌倉を目指した。鎌倉幕府開祖・源頼朝ゆかりの鶴ヶ岡八幡宮
において関東管領職就任の儀式を行うためである。
三月十六日、謙信は、関白・近衛前嗣と上杉憲政立ち会いの下、古式に則り関東管領職に就任した。
鎌倉には武家として最高の栄誉を授かった謙信を一目見ようと数万の群衆が駆けつけたとされる。
名門・上杉家を相続し、関東管領となった謙信は、上杉政虎と改名した。
だが、謙信が越後に戻るや否や北条氏康は、兵を挙げ失地回復をはかった。
他方、謙信は武田信玄との川中島での戦いを終えると、関東へ再出兵し、北条勢力を駆逐する。
しかし、その隙をついて武田が動き、またそれに備えなければならなかった。
武田と北条という戦国を代表する二大勢力との戦いが果てしなく続いた。
武田信玄は、桶狭間において今川義元が織田信長に討ち取られて以来、衰退した駿河・今川家の領土を虎視眈
々と狙った。永禄十一(1568)年、満を持した信玄は、甲・駿・相の三国同盟を破棄し、駿河に侵攻し、氏康の領
地をも脅かした。
他方、北条氏康は、今川家の当主・氏真に娘を嫁がせているため反武田を鮮明にし、三河の徳川家康と秘密裏
に同盟することで武田軍を東西から挟撃する体制を整えた。北からも武田軍を牽制するため謙信との同盟を決意
し、交渉を開始した。
永禄十二(1569)年、越後と相模の越相同盟が締結された。氏康は実子・三郎氏秀を人質として春日山城に送り
届けた。だが、謙信は三郎を人質として扱わなかった。上杉家の養子とし、かつての自分の名であった「景虎」
と改名させて姪を娶らせた。それを知った氏康は、謙信に深く感謝した。
元亀元(1570)年、氏康は病で倒れた。
死期を悟った氏康は、自分亡き後の北条家の望ましいありかたを遺言し、この世を去った(享年 57)。
「武田信玄や織田信長は表裏反復にして頼むに足らず。
独り上杉謙信のみは、請け合いたる上は骨になるまでも義理を違えざるものなれば、
謙信の肌着を分けて若き武将の守り袋にさせたく思うなり。
我明日にも果てなば後に頼むべきは謙信なり」
このように謙信は、長年、死闘を演じた好敵手・北条氏康からも、信義に厚い頼りがいのある名将として評価さ
れていたのである。
(2)戦国最強軍団・甲斐の武田信玄との戦い
天下を狙う戦国最強軍団と言われ、織田信長が最も恐れたのが武田信玄である。
海に面する領土を欲した信玄は、甲斐・駿河・相模の三国同盟のため北へ侵攻するしかなかった。
信玄に領土を奪われた信濃の守護や豪族が続々と謙信を頼って越後に落ち延びた。
たとえば、信濃守護・小笠原長時、北信濃の豪族・村上義清、高梨政頼等である。
謙信は、彼らに深く同情し、義憤にかられ、助けることを決意し、時期を待った。
天文二十二(1552)年四月、朝廷から従五位下弾正少弼の位階・官職を与えられていた謙信は、大略次のよう
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な綸旨を受けた。越後隣国において乱を起こしている輩を「治罰し、威名を子孫に伝え、勇徳を万代に施し、い
よいよ勝ちを千里に決し、よろしく忠義を一朝に尽くすべし」。
謙信は受諾し、川中島に出陣した。これが第一次川中島合戦となる。
つまり史上有名な武田信玄との11年にもおよぶ川中島での戦いは、武田に領地を簒奪された信濃の大名や武将
らの助けるための義戦だったのだ。
『謙信公記』によれば、謙信は義の決意を語ったという。
「武田晴信、故なく人の国を奪う。信濃の名族たる者、その下風に立つべきにあらず。
来たりてわれに縁を乞う。身不詳といえども、己を知る者のために敢えて力を尽くさざらん」
永禄七年(1564)六月、弥彦神社に捧げた願文にも、何故、川中島や関東へ出陣するのかを明らかにしている。
「一、関東へ出陣するのは、上杉憲政に関東管領職を譲られたからである
一、信州へ出陣するのは、小笠原長時、村上義清、高梨政頼らに援助を請われたためである」
安西篤子によれば、謙信は武田信玄に対し、敵だから憎むのではなく、近隣の豪族達の父祖伝来の領地を掠め
取ろうとする信玄の生き方そのものが気に入らなかったのであり、越後守護職、関東管領として京都の公方を助
け、天下を平穏にしたいという理想を追い求めていた、とする。ゆえに謙信は、武田信玄、織田信長、徳川家康
とは異なり野望や権力欲とは無縁であった、と指摘している。
このように下克上・弱肉強食の戦国時代、謙信は他国を侵略する目的で戦ったことはなく、筋目=義のために
戦ったのだ。ゆえに戦に勝利しても旧主に返還したため、自己の領土は増えなかった。
三、筋目=義に生きた上杉謙信
下等な動物と高等だと信じたい人間の決定的な差異の一つは、「崇高な精神の有無」にあると考える。
動物には精神というものは存在しないからである。
上杉謙信は、後世 、「義の武将」と讃えられている。彼は前述したとおり、己の利のためには闘わなかった。
戦国という乱世においても、筋目、つまり義のために闘ったのだ。
謙信には、領土拡大のために戦に明け暮れる武田信玄や北条氏康らが、私欲にまみれた浅ましい者に見えたの
だろう。彼は義を行動規範とし、義にもとる者を世の秩序を乱す敵として憎んだと考えられる。その正義の怒り
こそが、彼の心理的機動力になったのだ。
林泉寺には、上杉謙信自筆の大額が保存されている。
「義一第」
義こそが第一である、という精神をあらわしたものである。
「余は義のために生きる」
「義のためなら死ねる」
それが謙信の口癖だった。
永禄七年(1564)六月、弥彦神社に捧げた願文にも、義の精神が表徴されている。
「輝虎守筋目不到非分事(私・謙信は、筋目を守り、道理に背く行動は行いません)」
謙信の凄さは、有史以来、古今東西の英雄・豪傑の大部分が、功なり名をあげると悪逆非道を犯し、言動が一致
しなくなる中、終生、言動が一致した英雄であった点にある。
次に謙信が義を重んじた事例を述べる。
(1)唐沢山城への決死の入城
-7-
北条氏康の子・氏政が、3 万 5 千人の大軍をもって下野の唐沢山城(城主・佐野昌綱)を攻めた。
謙信は、8千の兵で救援にかけつけたが、敵軍が4倍以上だったため援軍の到着を待ちながら敵軍と対峙するこ
とを家臣が勧めた。
しかし、謙信は断固たる決意を述べた。
「これだけの人数で斬り込み、たとえ勝ちをおさめたとしても、その間に城が落ちてしまえば、
わしが後詰めにきたかいもなく、世間の物笑いになるだけだ。
義のために命を落としたとしても、なんの悔やむことがあろうか。
わしは城にはいり、佐野昌綱とともに戦う。おぬしらは味方が集まるのをまって戦え」
謙信は援軍が来援することを待たずに、僅か23名の兵を引き連れ、敵軍のまっただ中を突破しようとした。
彼は甲冑をつけなかった。白い綾で頭をつつみ、黒い木綿の道服を着たという。
北条軍は、怪訝な顔つきで謙信一行を傍観したという。
まさか敵軍の大将が、大軍に包囲されている唐沢山城に命を賭して入城するとは思いもしなかったのだ。
途中、遮ろうとする兵士もいたが、
「無礼者!
ひかえろ!
下がりおれ!」
の一喝で道を空けるしかなかったという。
城を取り囲んでいた北条軍兵士は、「北条家の身分高き方ではないか」と理解するしかなかったのだ。
『関八州古戦録』によれば、謙信の「勢い活発毅然として肌をたゆまず、目まじろがず、あたかも毘沙門天、
韋駄天などの荒ぶりたもう気色なれば、腕をさすり、歯がねをならす南方の鋭士ども眼前に眺めていながら、あ
れこそ越後の輝虎よ、といいののしるばかりにて誰ありて一人も手さしすべき風情なく」と記してある。
謙信は敵軍の意表をついて入城を果たし、城主・佐野昌綱は涙を流してこれを迎えた。
敵味方問わず謙信を絶賛したと伝承されている。
籠城軍の志気は高まったため、北条氏政の大軍は撤退を余儀なくされた。
(2)義を軽んじた武田信玄との異同
義を重んじた上杉謙信と義を軽んじた武田信玄との異動をあらわす故事がある。
①
家臣に利を説いた武田信玄と義を説いた上杉謙信
天文二四(弘治元年・1555)年、武田信玄は信濃へ侵攻し川中島を占領した。
旧領主から助けを求められた謙信は、川中島に出陣した(第2次川中島の戦い)。
善光寺付近で両軍が対陣したが、4ヶ月の長期に及び両軍いずれも志気が衰え、軍規が乱れつつあった。
そこで両者は次のような対照的な対策を行った。
信玄は、「上杉との戦いで武功を立てれば恩賞を与える」と利を強調することで志気を高めようとした。
他方、謙信は、
「武田軍との戦いは信濃の領主を助けるための義戦である。長引いても対陣するという誓詞をだすこと」
と義という精神を武将達に説くことで志気を高めようとした。
②義を反古する武田信玄
第2次川中島の戦いは、上杉軍と武田軍とのにらみ合いが続いた。
長期対陣は不利とみなした武田信玄は、駿河領主・今川義元を仲立ちとし、
-8-
ー奪った川中島を旧領主に返還する、
という条件で謙信に和睦をもちかけた。
謙信に異論はなく、和睦に応じて撤退し、旧領主の領地を取り返した。
しかし、信玄は、自分が持ち出した和睦条件=約束を守る気はない。
弘治三(1557)年冬、信玄は豪雪により謙信軍が動けないことを奇貨とし、信濃に侵攻した。
謙信は和睦条件を破った信玄に激怒し、雪が解ける時期を見計らって三度、川中島へ進軍した。
その際、謙信は、信濃更級八幡宮に次のような願文を捧げた。
「武田晴信(信玄)が信濃に侵入し、国人衆が滅亡に追いやられています。
神社仏閣は破壊され、信濃の民は嘆き苦しんでいます。
国人衆からの要請もあり、隣国の主として見過ごすことはできません。
武田を討ちますので、ご加護を祈願いたします」
このように第3次川中島合戦も、義を反古した信玄の信濃侵略阻止のための出陣だった。
③利によって謀反を起こさせた武田信玄
謙信は前述したとおり、生涯70もの戦をしたが、敗れたのは僅かに二度だけであった。
だが、戦勝の都度、領土を拡大した武田信玄や織田信長とは異なり、謙信の領土は増えることはなかった。
北条氏康や武田信玄等に領土を取られて追われた豪族に返してあげたからである。
これは弱肉強食の戦国時代ではあり得なかった戦後処置だった。
この義挙は、謙信の戦の目的が領土拡張という私的野心に基づくものではなかったことをあらわしている。
しかし、越後の家臣団は不満だった。私利私欲・弱肉強食の戦国時代で命をかけて闘い勝利したにもかかわら
ず恩賞がなかったからである。
家臣らの不満をついたのが武田信玄だった。
信玄は家臣等に賄賂を贈り、領土を約束して謙信に謀反を起こさせた。これは織田信長や豊臣秀吉が得意とした
戦術でもある。たとえば、刈羽郡北条城主・北条高広を高禄で誘い謙信に対して謀反を起こさせた。
謙信は迅速に対処し、北条城を包囲したが、信玄は援軍を寄越さなかった。
北条高広は降伏したが謙信はこれを許した。以来、武田による謙信の家臣に対する裏切り工作は後を絶たなかっ
た。大熊朝秀や本庄繁長等である。
利で裏切る家臣や豪族が表れる都度、義を重んじる謙信は人間不信に陥いり、一度は出奔するが、それでも義
の旗印=「毘」の旗を終生降ろすことはなかった。
四、上杉謙信の美意識
上杉謙信に対する後世の憧れに似た称賛があるのは、敵に対しても義の精神を真摯な態度で守ろうとしたから
である。不義・不正・卑怯が蔓延した戦国という乱世においても、唯一、卑怯な態度を忌避し、正々堂々と戦う
ことで雌雄を決せんと欲した偉大かつさわやかな武人としての強烈な美意識が後世の人々の心を濡らすのだ。
(1)敵に塩を送る
『小田原北条記』および『上杉年譜』によれば、敵といえども義を重んじた上杉謙信の故事を記している。
海に面してない山国・甲斐と信濃を領国とする武田信玄は、生存のための重要な塩を自給自足できなかった。
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太平洋側の海を領地にもつ駿河(現静岡)の今川家か相模(現神奈川)の北条家から調達するしかなかった。
しかし、信玄は、前述したとおり領土的野心にもとづき駿河・今川との同盟を破棄し、駿河へ侵攻した。
永禄十(1567)年、怒った今川氏真は、同盟者の北条氏康とはかり、甲斐・信濃への塩の供給を停止させた。
塩留めである。 現代で言えば、経済封鎖と言えよう。
2年に及ぶ塩留めにより武田家家臣のみならず甲斐・信濃の領民は苦境に陥った。
信玄は、謙信の領土・勢力圏内であった日本海側から塩を確保しなければならなくなった。
戦国という乱世で隣国の強敵の苦況、とりわけ何度も戦っている宿敵の苦境を喜ばない武将はいない。
今川・北条と共に塩留めに荷担すれば、武田家に壊滅的な打撃を与えることも可能だった。
しかし、義を尊ぶ謙信は異端だった。
彼は武田信玄の苦境を知り、次のように語ったと伝承されている。
「我は兵を以て戦ひを決せん。塩を以て敵を屈せしむる事をせじ」
(河意訳・私は戦で正々堂々と勝敗をつけたい。塩で敵を負かすような卑怯なことはしたくはない)
謙信は、北陸の西浜(糸魚川)から仁科山を経て信州深志(松本)へ荷駄に積んだ塩を廉価で送らせた。
永禄十二(1569)年正月、深志の泥町の市に塩が取引された(以来、長野県松本市では毎年正月 11 日を塩市と
定め祭典を実施している)。
甲斐・信濃の民は、深志から塩を調達し蘇生した。彼らは謙信の義挙に感謝したという。
信玄も深く感謝し、「返礼の太刀(別名塩留めの太刀)」を謙信に贈っている。
これが「敵が苦況に陥っている際、それにつけこむのではなく、むしろ救いの手をさしのべる」という意味の
「敵に塩を送る」の語源となった。
信玄は、戦国時代には稀な謙信の義の精神に驚くとともに、宿敵ながら好感をもっていたと思われる。
元亀四(1573)年、武田信玄は、宿願だった天下に号令するための京への上洛を果たすため、
織田・徳川連合軍を三方原で破ったが、病に倒れてしまった。
死期を悟った信玄は、息子・武田勝頼に対し、自分亡き後の武田家の方針を遺言したと伝承されている。
「勝頼、そなたはまだ若い。経験も不足している。
もし何か困ったことがあれば上杉謙信は頼るがよい。
あの男はけっして非道はせぬ。頼めば断らぬ男だ。
わしは大人げもなく、彼を頼らなかったため、一生戦うことになった。
わしの死後の武田家は、謙信にすがるほかない」
謙信は生涯の宿敵からも、人格的な尊敬を受けていたと考えられる。
(2)敵の不幸に乗じない
元亀四(1573)年、謙信は越中(富山)の戦の陣で湯漬けを食べていた。
そこへ武田信玄の死が知らされた。
謙信は箸を落とし
「惜しい将を失った・・・」
と嘆き、落涙したという。
謙信は3日間、戦を中止させ喪に服したと伝承されている。
信玄を宿敵ながらも手強い稀代の名将として認めていたのだろう。
だが、信玄の死を知った家臣が、
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「今こそ好機!
信濃に攻めましょうぞ!」
と武田領への出兵をうながしたが、謙信は首をふった。
「いま出陣すれば信濃はもとより甲斐まで占領することができるだろう。
しかし、他人の落ち目をみて攻めとるは我が本意ではない」
と答え、出兵を許さなかった。
現代日本は、出世や金を得るために不義・不正・偽装・詐欺等が蔓延している。
つまり手段を選んでいないのだ。
我々は現代よりも厳しい大競争時代、とりわけ命のやりとりが日常茶飯事だった戦国時代においても、手段を選
んだ謙信の美意識を模範とすべきである。
五、上杉謙信の「毘」の旗の意義
『名将言行録』によれば 、「謙信は勇敢、無欲、清浄、廉潔、明敏、器量広く、慈悲深く、少しも隠すところ
がない。戦国の世にはありがたき名将である 」。後世の歴史家は、上杉謙信の特性として、神仏を敬う敬虔な精
神、領土欲や権勢欲をほとんどもたなかったこと、朝廷や幕府への恩慕が強かったことをあげている。敬虔な仏
教徒だったため、不犯を誓い妻を娶らないどころか、女人を一切近づけなかった。
しかも日常は質素倹約を旨とした。食事は一汁一菜であり、粗末な綿服をまとい、臣下や領民にもこれを奨めた。
だが、吝嗇家だったわけではない。使うべき時には使う。それこそが「正義の戦い」の軍費なのだ。
この質素倹約に基づく潤沢な軍費と謙信の天賦の軍事的才能および常勝将軍というカリスマ性が敵軍を圧倒した
ことは疑いもない。
だが、天性の才能は、才能を生かすために不可欠な強靱な精神力なくして発揮することはできない。
その実現のために古今東西の偉人が己に課したのが厳しい修行と戒律であった。謙信も例外ではない。
彼は幼い頃から一流の僧の下で修行した仏教を深く信仰し、克己の精神で己を鍛え、質したのである。
その信仰的確信の表徴こそが、上杉軍の先陣に高々と掲げた「毘」の旗であった。
大義名分は戦国時代といえども必要であった。
多くの場合、戦国武将達は、他国との外交や家臣への命令上、重要だった手紙等にしたためる印章や自己の戦う
旗印に、今に言うスローガンをかかげ、配下の武将達を鼓舞し、敵に対しては不倶戴天の決意を表徴した。
たとえば、武田信玄の「風林火山」は、著名な孫子の兵法をかかげている。この旗は、刃向かう者は、風のごと
くすばやく侵攻し、林のごとく静かに布陣し、火のごとく激しく侵略し、いかなる反撃に合おうとも山のごとく
動じない等、敵は容赦なく徹底的に滅ぼす、と暗に威嚇しているのだ。
北条氏康は「武栄」の印章を使った。これは、武をもって栄える、という意味である。
織田信長の印章「天下布武」も、足利幕府が存在しているにもかかわらず、武力をもって天下を平定する、と
私的な政治的領土的野心をあらわにしている。
他方、謙信は、出陣の際、三つの旗を高々と掲げた。「紺地の朱の丸」、「龍」、「毘」である。
「紺地の朱の丸」は、父・長尾為景が天文四( 1535)年に朝廷から下賜された旗である 。「天賜の御旗」あるい
は
「日の御旗」と呼ばれ、長尾家の家宝とされた。この旗を掲げるのは、自軍が室町幕府の承認を受けた「官
軍」であることを表徴している。
「龍」の旗は、「懸り乱れ龍」と言われ、決戦の際、上杉軍の怒濤の総攻撃の先頭におしたてた旗であった。
「毘」の旗は、「最強の武神 」、「降魔の武神」と畏敬された毘沙門天を意味し、謙信軍の先陣の大将が高々と掲
げたシンボルであった。「蹴毘」の概念は、この「毘」に由来する。
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謙信は、仏教に深く帰依する仏門の求道者だった。
不犯(異性との性交渉を行わない)の戒律を守り、生涯妻を娶らなかったのも、その強い信仰の証であった。
彼が最も尊信したのが、最強の武神・毘沙門天であり、春日山城内に祭っていた。
彼は、ひたすら祈ることで、ありとあらゆる私欲や迷いを払拭せんとした。とりわけ出陣の前には数日間、毘沙
門天堂に籠もり祈りを捧げた。彼は天道にしたがい、法にもとづき、悪を誅する責務が自分にはあると確信した。
やがて謙信は、自己が毘沙門天の化身である、と信じるようになった。
彼は毘沙門天堂から出てくると出陣の命令を待つ臣下に対し
「我を毘沙門天と思え」
と言うようになった。
謙信には、天にかわって悪を誅するという破邪顕正(はじゃけんしょう)の正義の精神が燃えたぎった。
その高揚した精神を表徴したのが、上杉軍の先陣が掲げた「毘」の旗であった。
毘沙門天の「毘」を高々と掲げる自軍を不義を討つ降魔の軍とみなしたのだ。そのことが揺るぎない信念と自信
の源泉となり、彼が持つ天性の軍事的才能、とりわけ戦場での冴えた決断を可能にしたと考える。
やがて謙信が祈った毘沙門天像は、臣下から泥足毘沙門天像と呼ばれるようになった。
毘沙門天堂に泥の付いた毘沙門天の足跡が残っていたからだという。臣下は、謙信が戦場で戦っている最中、毘
沙門天も戦場に出て彼を守った、と信じたのが、その名の由来となった(現物・八海山法音寺蔵)。
上杉謙信神話は家臣らに浸透した。彼らの多くは、謙信を畏敬し、軍神カリスマとして彼をあがめた。
この名将のもとで戦うなら負けるはずはない、という必勝のエートスがみなぎったと思われる。
このエートスこそが、戦国最強にして勇猛と恐れられた越後軍の強さの秘密だったと筆者は考えている。
結
このように「毘」の旗を掲げた上杉謙信は、下克上・不義不正・弱肉強食の殺戮等が蔓延していた戦国時代と
いう乱世においても、自身が幕府を開くための天下統一や領土拡張等の私利私欲ではなく、もっぱら「筋目」=
「義」のために戦った。
我々は、謙信には遠く及ばないが、大義名分無き戦いをしなかった謙信の義の精神を模範にすべきである。
それこそが大義名分無き私闘を禁ずる日本跆拳道家の正義の戒律=蹴毘の精神なのだ。
また、熾烈な競争社会の渦中におかれようとも、謙信同様、美意識を堅持し、手段を選ばなければならない。
後世の我々はひとつの史実を知っている。
利で家臣等を束ねた武田信玄、北条氏康、織田信長、豊臣秀吉の一族は、彼らの死後、あっけなく滅んだという
史実である。合理主義・功利主義・能力主義・成果主義の権化のような織田信長に至っては墓すら残っていない。
武田家も、北条家も、織田家も、豊臣家も、利に親しみ、利のみが急激な発展を可能とする集団的エネルギー
の源泉になっていた。
しかし、かかる利という「絆」で結ばれた集団は、確実に利を保障してくれる英雄が死にいなくなると、羅針
盤を失いパニックとなった。そのため新たに利を保障してくれる人物を求めることになった。
武田信玄亡き後は織田信長に、織田信長や北条氏康亡き後は豊臣秀吉に、豊臣秀吉亡き後は徳川家康にと、
「お家のため」と称し、旧主を裏切り、恩を仇で返す者が大部分であった。
これは現代でも顕著に表れる現象である。
他方、上杉家のみは、上杉謙信の実子がいなかったのにもかかわらず
「義を重んじた武門の名家」
として尊敬された。
外様大名取りつぶしを政策とした徳川幕府からも、
「上杉謙信公を藩祖とする名門」として尊重されたからこそ、
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関ヶ原・忠臣蔵・上杉騒動等、三度の危機を乗り越えて幕末迄存続し、明治維新を迎えることができたのだ。
現代でも上杉家の正統は存続し、旧領地・米沢の人々に義の心は伝承されている。
それを可能としたのも死後の謙信だった。
謙信は亡くなる1ヶ月程前に京から絵師を呼び寄せ法衣をまとった自身の肖像画を描かせた(模写現存)。
彼は「余の遺骸を保存せよ」という遺言を残し、亡くなった。
養子の甥・上杉景勝らは、遺言を守り、謙信の遺骸に甲冑を着せて大きな甕棺に納め漆をいれて密封した。
謙信の遺骸を入れた甕棺は、上杉家が越後→会津→米沢に国替えされる都度、新領地に丁重に移送された。
そして上杉米沢藩の居城・米沢城の最も良い方角とされた東南の角に安置され、御堂として奉られた。
かくて米沢城そのものが謙信の墓となり、上杉家子孫および米沢藩士にとって最も神聖なる場所になったのだ。
この御堂は、米沢城正面入口から近い位置にあり、米沢藩士は登下城する都度、御堂を拝謁し、我が身を正した。
この儀式は江戸時代から明治九年迄、約 270 年間も継承されたという。
つまり謙信の「義の精神」こそが、米沢藩士の精神的支柱となったのである
(明治九年、甕棺は御廟・上杉家廟所に移された。米沢城の同跡地は鉄柵で囲まれ石碑が建てられている)。
この史実は、上杉謙信が掲げた「義」こそが、普遍性を帯びた不滅の美しい精神であり、
後世の人々にさわやかな模範を示したことを表している。
管見の限り、上杉謙信のような「さわやかな戦国武将」を筆者は他には知らない。
参考文献(発表年度順)
八尋舜右『上杉謙信
物語と史蹟をたずねて』昭和51年、成美堂出版
井上鋭夫『上杉謙信』昭和58年、新人物往来社
花ケ咲盛明『上杉謙信と春日山城』昭和59年、新人物往来社
土橋治重「天に代わりて氏康を攻める
『上杉謙信
管領謙信、関東制覇に乗り出す」
戦国最強武将破竹の戦略』1988年、学研所収。
安西篤子「謙信の行動哲学
願文が証す信と義の戦いの論理」同上所所収。
加来耕三「越相同盟から義なる天下へ」同上書所収。
安西篤子「一期栄華一盃酒
『上杉謙信
人間謙信の魅力」
信と義に生き孤高を貫いた戦の天才』1990年、プレジデント社所収。
新田次郎「信長を戦慄させた信玄と謙信の死闘」同上書所収。
浜野卓也「管領・上杉謙信の関東攻略戦」同上書所収。
花ケ咲盛明「年表
上杉謙信
花ケ咲盛明『上杉謙信
四十九年一睡夢」同上書所収。
ゆかりの地を訪ねて』2002年、新潟日報事業社
花ケ咲盛明『新編
上杉謙信のすべて』平成20年、新人物往来社
『名将の決断21
勝者
上杉謙信
歴史街道編集部『上杉謙信
花ケ咲盛明『新潟県人物小伝
敗者
榎本武揚』2009年、朝日新聞出版
最強軍団を率いた越後の龍』2010年、PHP研究所
上杉謙信』2010年、新潟日報事業社
堂門冬二「軍神を奉じ信義に生きた時、悩める男は最強武将となった」
『歴史街道
梓澤
毘沙門天の化身
上杉謙信生涯無敗の強さを生んだもの』2011年、PHP所収
要「われは毘沙門天の化身なり
時代に選ばれた大器、越後統一へ」同上書所収。
江宮隆之「義のみでは人は動かぬ・・・家臣の離反と葛藤の中でつかんだもの」同上書所収。
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補足論文
JTA 門人が上杉謙信の完結した人生から何を学ぶべきか
1,時代が求める英雄像の変遷ー何故、上杉謙信なのか
時代が求める英雄像は絶えず変遷する。たとえば、筆者・河が創始した蹴武の型・龍馬は、坂本龍馬の名を冠
した型である。それは坂本龍馬が「志を象徴する人物」として現代日本に定着しているからに他ならない。
一般的にイメージされている「幕末維新の英雄・坂本龍馬像」は、司馬遼太郎著『竜馬がゆく』で創作されたも
のである。同小説以降、坂本龍馬は不動の人気を誇る英雄となり今日に至っているが、それ以前は出身地の土佐
(現高知県)以外では著名ではなかった。
もともと幕末維新の英雄として人気が高かったのは坂本の師・勝海舟だった。勝は当時の政府・徳川幕府高官
であったため朝廷への徹底恭順や江戸城無血開城等の政治的業績に関する史料が明らかである。
他方、坂本は、無位無冠の浪人であるがゆえ、その業績の史料的根拠が乏しい(後日論評)。
にもかかわらず同小説以降 、「坂本龍馬が犬猿の仲だった薩摩と長州を日本国の未来のために仲介した。坂本が
有利な立場にあった薩摩の西郷隆盛を説得し、不利な立場にあった長州の桂小五郎(木戸孝充)に頭を下げさせ
ることで薩長同盟が実現し、明治維新を成就させる一大転機となった」とする説が流布されて「通説化」し、
一躍、無名だった土佐の浪人・坂本龍馬が脚光を浴びた。その人気に迎合するかのように歴史評論家や作家らに
よる坂本龍馬賛美の言動が増加し、人気俳優・北大路欣也や萬屋錦之介等に演じさせたNHK大河ドラマ等のT
Vドラマ化、そして漫画にもなり、不動の人気を得るに至った。
仮にそうであったとしても、何故、坂本が幕末の英雄として勝に取って代わることが可能だったのであろうか。
司馬の小説が、時代が求めていた英雄像を的確に描写したからだと考えられる。
『竜馬がゆく』の産経新聞夕刊連載は、1962 年に始まり(1966 年迄連載)、翌年から単行本化された。
当時は、日米安保やベトナム戦争等に反対する市民・労働組合・学生運動等の全盛時代であった。その運動の主
力は、戦時中に子供時代を過ごしたか、あるいは戦後のベビーブームに生まれ育った青年層だった。
彼らは超
大国の米国政府やそれに従う日本政府という巨大な国家権力に対し、日本国の未来を憂い戦った「昭和の志士」
であったと言えるかも知れない。その象徴的人物が、ベ平連のリーダー・小田実であり、彼こそが司馬遼太郎に
とって「小説・竜馬」のモデルになったと言われている。
反政府運動が盛んな時代、無名の若者達が、国の将来を憂い権力に立ち向かうという志のモデルが幕末にも多
数存在した。それこそが尊皇攘夷等を主張し、脱藩した幕末の志士達であった。その中、最も私心がなく、かつ
さわやかであり、しかも偉大な業績を残しながらも、政府高官の地位を望まず、維新後は世界を相手にする大商
人にならんと欲したが、非業の死にさらされたと、司馬に劇的に描かれたのが坂本龍馬だった。
期を同じくして学生運動・労働運動に高じた若者達が憧れたのが、キューバ革命の英雄チェ・ゲバラであった。
チェは、アルゼンチン人でありながら、キューバ革命に命をかけ、そして奇跡の勝利に貢献した。坂本同様、革
命による恩恵を拒絶し 、「革命の輸出」をはかろうとした 。『竜馬がゆく』の最終回、すなわち坂本暗殺の描写
が掲載された翌年、ボリビア革命に失敗したチェが捕らえられ、処刑された後、死体がTV公開された衝撃も、
若者達に司馬が描いた坂本竜馬の一生をオーバーラップさせたものと思われる。
ゆえに司馬が描いた坂本竜馬像は、多くの青年層の心をとらえたと考えられる。
しかしながら、現代日本においては「志」の意味が錯綜している観が否めない。
日本ほど政治的宗教的に安定している国はない。
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平和的に民主的な選挙を通じて政権が交代し、諸外国では内乱の最大の原因といえる宗教的対立もない。
治安上、脅威となる敵対的なマイノリティーも存在しない。
世界最強の米軍が日米安保条約に基づき駐留しているため軍事的脅威と言える国難に直面しているとは客観的に
は言い難い。人間のいない島の領有権をめぐる攻防が関の山なのだ。
ゆえに現代日本では、若者が「志があります」と主張することは 、「起業して経済的に成功する」とか「プロ野
球選手になって稼ぎたい」という個人利己主義の言い換え程度にしか理解されなくなった。
同様に、敗戦以降、戦国時代の英雄として脚光を浴びたのが織田信長であった。
江戸時代、信長の人気はまったくなく、明治維新後もさほど注目されていなかった。
むしろ帝国主義時代のシンボルとして明国(現中国)を狙った朝鮮出兵の豊臣秀吉や加藤清正等が国策として脚
光を浴びたのである。戦争最中の 1941 年に吉川英治著『新書太閤記』が刊行されたのも、偶然ではなかったと
筆者は考えている。
しかし、日本帝国敗戦により軍事面での主体性が剥奪された結果、経済活動のみが、当時の日本人、とりわけ
戦争・戦場を体験した働き盛りの男子にとって唯一の「国際的な自己実現」を可能とする道になったと考えられ
る。幼少期より愛国的滅私奉公等の軍国主義的価値観を叩き込まれた彼らは、徴兵に応じて戦場に赴き戦った。
奇跡的に助かったが、敗戦後、精神的彷徨を体験した。この戦場体験こそが、司馬の描いた坂本竜馬に憧れ、労
働運動・学生運動に身を投じた年下の層との決定的な差異だったと思われる。
軍隊で地獄を体験した彼らは、敗戦ショックを払拭するための大義名分を欲した。
それこそが平和な時代にふさわしい経済大国化への道だった。
経済界に身を投じた日本人エリート層は、欧米人に「エコノミック・アニマル」と嘲笑されながらも、戦争で亡
くなった肉親・友人等に対する後ろめたさや
「彼らの分まで生きることが使命だ。戦争では負けたが経済では勝ちたい!」
とする使命観のようなものを持ったか、あるいは、持たなければ精神の安定を担保できなかったに相違ない。
筆者は、戦友との絆を大事にしながら経済活動に邁進した多くの人々を知っている。
彼らのうち大企業、とりわけ輸出入産業に身を投じた人々は、家庭を顧みず欧米にはない単身赴任等により仕事
に邁進したとみなせる。さしずめ仕事に熱中する以外に、生きる意義が見いだせなかったのかも知れない。
欧米先進国との経済競争の際、求められたのが、研究や小説等で描かれ、経済評論家等によつて流布された
織田信長の合理主義であり、功利主義であり、能力主義であり、成果主義だった。
これらは日本の最大の輸出国・米国では当たり前の価値観であった。
高度成長期という時代背景も織田信長賛美に拍車をかけた。そして信長の合理主義に花をそえたのが、
やはり司馬遼太郎著『国盗り物語』(1963 ~ 1966 年迄、『サンデー毎日』連載)であり、
同小説を原作とする高橋英樹を主役・信長役に抜擢したNHK大河ドラマ(1973 年)であった。
高度成長時期における日本の政界や財界において指導的立場にいた人々の大部分が戦場体験者だった。
たとえば 、「日本列島改造論」を唱えた総理大臣の田中角栄や流通革命の旗手だったダイエーを創業した中内功
は徴兵され戦場で戦い奇跡的な生還を果たしている。
彼らの多くは経済・経営活動およびそれを推進する政策実施に邁進した。
政府や政治家・官僚は、経済活動を優先させる法制度を整備した。
大学等の教育機関も、その流れに賛同し、企業社会に適合した「人材」を供給したのであった。
その結果、日本は経済大国となり、経済的には豊かになった。
しかし、自然環境は恐ろしく破壊された。公害病が全国各地で蔓延し、多くの人々の命および健康を奪った。
社会主義でありながら経済活動を優先した結果、恐るべき環境破壊をおこしている中国は、まさに筆者の子供頃
の日本を彷彿させるものがある。
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さらに問題なのは、現代日本人は、多くの論者が指摘しているとおり「精神的には貧しくなった」ことにある。
経済合理主義の当然の帰結と言える仕事中心主義は、教育や家庭を通じた後身の指導を疎かにした。
敗戦以前の多くの日本人の美風だった強い公共心や礼儀礼節等の社会性の涵養教育が失われ、それに取って代わ
るかのように、欧米流の個人主義、とりわけ自分や家族だけが得をすればよい、という自己中心主義が蔓延した。
欧米には国家社会に深く根を下ろしているキリスト教という宗教的モラルが存するため一定の抑止力がある。
しかし、日本にはそれがない。ゆえに我欲が青天井となり、暴走するのだ。
現代日本では、金の多寡で人間の価値や行動原則を決める拝金主義が金のない人々を圧迫している。
富者が自分の一族の繁栄のみに汲々とし、社会還元を考慮せず貧者を苦しめだけの成金強欲主義が根強い。
先進国・民主主義国では極めて稀な公務員の世襲の横行も我欲を表徴している。国・都・道・府・県・市・町の
議員・職員・教員等の世襲が当たり前のようになり、江戸時代同様、殿様の子は殿様、家老の子は家老、足軽の
子は足軽という身分的格差社会が深刻化しているのだ。
これは封建的身分制度への逆行とみなせる。
絶えず発覚している官公庁・企業による非常識な不正不義はもとより、
世界でも類をみない「頻繁におこる家族間の殺人」、
親が亡くなっても弔いもせず遺体を放置したまま年金を搾取する等のモラル低下を招いたのも
行きすぎた合理主義であり、功利主義であり、能力主義であり、成果主義ではあるまいか。
前述したとおり、合理主義・功利主義・能力主義・成果主義の権化のような織田信長に至っては墓すら残ってい
ない。これは織田信長が、その歴史的に評価されている特性の結果、反対勢力を容赦なく殺戮し、当時の多くの
人々から大いなる恨みを買ったことと無関係ではない。
謀反を起こした明智光秀だけに責任を転嫁すべきことではないのだ。
かかる冷酷無比な非道な者をあたかも偉人であるかのように称賛する人々は、一を知って二を知らないといえる。
弱肉強食の権化のような「織田信長を尊敬する」と公言する政治家や経営者が多いが、
果たして平和な現代日本、中流が主人公となるべき現代日本において、
こういう人々に指導的地位を担わせてもよいのだろうか?
きっと中流は、織田信長を尊敬し、その非道をまねようとする輩によって激減するであろう。
現代日本の経済情勢は、まさにその兆しを見せている。
果たしてこのままで良いのであろうか?
良心的な日本人なら誰もが危機感をもっているはずである。
時代が英雄像を求めるとするならば、
不義不正が蔓延する殺伐とした現代日本に求められる英雄像は誰なのであろうか?
筆者は高らかに主張したい。それこそが、義を重んじた上杉謙信である、と。
ゆえに、本論において義を重んじ、手段を選びながらも、戦国という大競争時代を最強で通した上杉謙信の偉大
足跡を論述したのだ。
2,上杉謙信から何を学ぶべきか
確かに、我々は後世に偉大な足跡を残した偉人には遠く及ばない。
だが、偉人の足跡を人生の道しるべとし、遠く及ばないと知りながらも、一歩でも近づかんとする人間だけが有
する知性を先天的に持ち合わせている。
逆に言うと、健常者でありながら、かかる知性を持ち合わせていない輩は人間ではないとみなすことも可能で
ある。有史以来、かかる輩を「野蛮人 」「けだもの 」「人非人 」「犬畜生」等と罵ってきたわけであり、法治国家
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が登場すると「犯罪者」「前科者」「やくざ・暴力団」「半グレ」等と言い換えてきたのが日本の歴史である。
かかる悪行の輩に自分自身はもとより、子孫もならないよう正しい道を歩ませるには、
偉人の完結した人生を道しるべとして学ばせることが大切だと思う。
その偉人の一人が蹴武の型・謙信に名を冠した上杉謙信なのだ。
(1)無限なる心の美しさ
英国の哲学者ジェームス・アレンは、人の心を庭にたとえて次のように示唆している。
「あなたが自分の庭に、美しい草花の種を蒔かなかったなら、そこには雑草のみが生い茂ることになります。
もしすばらしい人生を歩みたいのなら、自分の心という庭を掘り起こしなさい。
そこから不純で過った心を一掃した後、
美しく清らかで正しい心を植え付け、それを育み続けなければなりません」
また、公益を説いている起業家・稲盛和夫(京セラとKDDIの創業者、JAL再建)によれば、
「社会に出ると多くの人が、立身出世することを人生の目的だと考えます。
競争に勝ち抜いて、時には人を押しのけ、蹴落としてでも、金、名声、名誉、権力をつかむ、いわゆる成功者
になることが良い人生なのだと考えるようになるのです。果たしてそうでしょうか(略)。
人生を終え、死を迎える時には、肉体をはじめ形あるものは何一つとして持っていくことはできません(略)
私は人間が心の最も奥底に持っている、その「魂」だけは、人生の結果として残り、
さらには来世まで持ちこすことができると信じています。
死ぬときにどういう魂になっているのか、ということが、人の一生の価値を決めるのではないでしょうか。
つまり人生の目的とは、お金儲けや立身出世などいわゆる成功を収めることではなくて
美しい魂をつくることであり、
人生とはそのように、魂を磨くために与えられた、ある一定の時間と場所なのだと私は思うのです」
(稲盛和夫『人生の王道ー西郷南洲の教えに学ぶ』日経PB、2007 年、224-225 頁、248 頁)
まったく同感である。
稲盛の言うところの「美しい魂」の伝承の見本こそが、前述した謙信を藩祖とする米沢藩のエピソードである。
不信感のみが蔓延する現代日本で必要なのは、上杉謙信が生涯を通じて貫き通した「義」の心である。
「義」という漢字を分解すると「羊」と「我」を意味している。
古代中国では、羊は美しさをあらわす代名詞であった。
つまり「義」とは「我を美しくする」という意味である。
まさに謙信は、我を美しくする模範を示したのだ。
人は誰しも美しさを希求する。
他者から美しいと称賛されることを望んでいる。
だが、容姿の美しさは遺伝的差異があり、
履歴書に胸を張って書き込みたがる学歴・職歴等の「美しさ」の追求には限界がある。
しかしながら、心の美しさを高めることは天の高さ同様、無限である。
そして心の美しさを高めることは、決意すれば誰にでも可能であり、天寿を全うするまで目指すことができる。
筆者は思う。われわれ愚かな人間は、常日頃から、心の美しさを自問自答しなければならない、と。
日本以外の諸外国では、心の美しさを高めるのは宗教であり、教会等の宗教施設および宗教家である。
遺憾ながら現代日本では、優れた宗教家の社会的影響力が弱い。
お世話になるのは、家族の葬式の時だけというのが日本の現実である。
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逆に、「神仏の教え」を都合よく歪曲し、迷える人々の利と欲に訴えて刺激し、
宗教を隠れ蓑として税法上の優遇を受け儲けている悪徳新興宗教団体の発信力が強いため、
洗脳されにくい人々の宗教に対する不信感をまねいている。
彼ら彼女らがもつ潜在的な「美しい心」が、道しるべをなくしたまま彷徨し、病みつつあるのが現実である。
現代武道の意義は、堕落した宗教界がなし得ない「美しい心」の覚醒効果を補完することなのかも知れない。
もともと達磨が、インドから中国大陸へ仏教を伝承した際は、宗教と武術はワンテンセットだった。
それが中国・朝鮮から日本へ伝承されるに至り、仏教は仏教、武術は武術として分離し伝承されてしまったとい
うのが私の認識である(後日論文に記す)。
可能ならば、JTAは、門人・会員達の「美しい心」を覚醒させて呼び起こし、担保・強化する役割を担える
有意な団体に発展したいと考えている。
だが、「美しい心」は抽象的である。
「完結した偉大な人生」から具体的に学ぶことが精神的な豊かさを担保するに相違ない。
再三再四繰り返すが、われわれは、偉人には遠く及ばないにしろ、
一歩でも偉人に近づかんとする自覚と努力こそが肝要である。
また、偉人の足跡と現実の自分の所行を照らし合わし、人知れず恥じることが大切だと私は思う。
「義の精神」は、「美しい心」と同義である。
私は、上杉謙信の義の足跡こそが、不義不信が蔓延する日本の精神的衰退の防波堤になりうると信じており、
日本跆拳道創始者として門人に「美しい心」の涵養を奨励しているのだ。
(2)上杉謙信とJTA七大精神
日本跆拳道家とは、日本テコンドー協会七大精神を精神的支柱とし、日本跆拳道を通じた修行を通じて己を高
めようとする求道的武道家をいう。
とすれば、いかなる偉人・英雄・豪傑といえども、JTA七大精神と乖離する足跡を是認することはできない。
他方、JTA七大精神と整合する偉大な足跡については大いに模範とすべきである。
そこで上杉謙信の足跡をJTA七大精神と照らし合わすものとする。
JTA七大精神の第三条は「我々は、礼儀と信義を重んじること」とある。
本論で述べたとおり、上杉謙信の一生は、この精神そのものであるといえる。
次に、JTA七大精神の第一条は「我々は、克己の精神を涵養すること」とあり、
第五条は「我々は、社会に感謝し、公益を心がけること」とし、
第六条には「我々は、神仏を尊び、奉仕の精神を忘れざること」とある。
後世の歴史家は、上杉謙信の特性として、神仏を敬う敬虔な精神、領土欲や権勢欲をほとんどもたなかったこ
と、朝廷や幕府への恩慕が強かったことをあげている。
本論で述べたとおり、上杉謙信は、仏教を深く信仰し、克己の精神で己を鍛え、常に己を質した。
天才的な軍事的才能を生かすために不可欠な強靱な精神力を厳しい修行と戒律を守ることで涵養したのだ。
彼は「自己は最強の武神・毘沙門天である」と家臣に公言したが、彼の一途な性格からすれば、それ相応の覚悟
があったはずである。己に対して厳しく、自己の能力を極限まで高めることを責務としたに相違ない。
彼は領土拡大等の私利私欲を捨て去り、崇高な精神美を希求しながら、日夜祈り、そして戦ったと考えられる。
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この神仏を尊びながら、克己の精神を鍛え、しかも筋目のために戦う精神=公益のために戦う精神を終生、実践
した上杉謙信を模範としなければなるまい。
さらに、JTA七大精神の第二条は「我々は、文武両道の志すこと」とある。
上杉謙信は、7 歳で当代一流の高僧に弟子入りし、禅と共に学問と書道の研鑽に励んだ。
長じて彼は、京の公家からも認められた和歌に通じた教養人でもあった。
当時の文に秀でるというのは、京の朝廷・公家風の礼儀作法にも通じていることを意味している。
たとえば、織田信長が流浪の武将だった明智光秀を破格の待遇で家臣としたのも、光秀が京の朝廷・公家風の礼
儀作法に通じていたからに他ならない。
謙信は二度も兵を率いて上洛を果たしているが、明智光秀同様の家臣を召し抱えたという形跡はない。
それは謙信またはその家臣が、京の朝廷・公家風の礼儀作法に通じていたからに相違ない。
そうでなければ、上洛の都度、天皇や将軍家への拝謁は不可能であったと考えられる。
とすれば、謙信は、戦国最強であるばかりか、戦国武将の中でも有数の知性派だったと考えられる。
われわれは、戦国最強でありながらも、文にも秀でていた謙信を模範とすべきであろう。
問題となるのが、JTA七大精神の第四条の「我々は、家族に感謝し、孝を心がけること」である。
上杉謙信は、生涯不犯を誓い、それを守ったため、妻を娶らなかったからである。
孝の対象となる祖父母や母は幼くして亡くしており、父も初陣前に他界している。
だが、一所懸命の語源にも明らかなように、武士たる者は先祖代々の領地を死守することで先祖の苦労に報い、
子孫に相続させることを使命とした。上杉謙信は、長尾家や上杉家の名声を高めている。しかも幕末・明治まで
米沢藩上杉家を存続させた礎を築いたのは謙信その人であるから第四条をもクリアしているとみなせる。
3,蹴毘の平常心と防御技術の強化
筆者・河は、常日頃から「哲学なき武道は虚しい」、「武道は哲学強化が必要」と主張している。
ただ単に強さを求めるのは虚しいと言わねばならない。
諸外国との比較において平和な現代日本ではその存在価値が疑われると考えられる。
近年の武道・格闘技関係者による不祥事は、
ただ強くなれば地位と報酬を得られるという合理主義・功利主義・能力主義・成果主義が行き着いた
当然の精神的堕落の所産とみなせる。
我々は、諸外国との比較上、明らかに平和な日本において
日本跆拳道という格闘技性を帯びた武道を修行しているが、
その目的は、強さを希求しながらも、自己の人格、とりわけ崇高な精神を高めるためのものである。
けっして他の一部の武道団体・格闘技団体に見受けられる礼儀礼節を忘却した傲慢不遜な態度をひけらかし、
暴力事件や破廉恥事件を惹起すためのものではない。
私は、現代日本における武道修行の意義、とりわけ正義の武道団体を標榜する日本跆拳道を修行する意義を高め
たいと希望している。
我がJTAの会員、とりわけ生涯武道として日本跆拳道を極めんと欲する門人諸氏は、
もっぱら正義のために戦った上杉謙信の生涯を自己の人生の道しるべとし、いつ、いかなる時においても、
各自の心の中に「蹴毘」の旗を掲げ、自制心をもって不測の事態に対処して頂きたい。
可能ならば、自分が生きる上で何が最も大切なのか?
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何を守るために生きるべきなのか?
と真摯に人生を哲学して頂きたい。
信念のよりどころとなる価値観を見いだすことができるならば、心の迷いが減り、地に足をつけて強く生きてい
くことが可能となるからである。
蹴武の型は、蹴りの美しさを競うことに異論はないが、踊りではない。
有事の際に戦う手法を防御と蹴りに特化して体系化している蹴りの武術の基礎なのである。
そしてその名に冠したのは、我を美しくせんと欲した偉人達なのだ。
蹴武の型を演武する際、偉人の名を号するのは、彼らの完結した人生から学ぼうとする号令なのである。
人生哲学をうながす号令でもある。
ゆえに、我が日本跆拳道は「哲学的な武道」と自負するのだ。
だが、蹴武の型は踊りではない、とするなら、実践性が問われることになる。
しかし、日本跆拳道は、ケンカをして強さを競う野蛮な武道・武術では断じてない。
強さは、試合という正当なルールに基づき競うのが鉄則だ。
ところが、現代日本は、理不尽かつ不条理なことが多く、恥知らずかつ無礼で卑怯な輩が増殖している。
社会正義の観念上、偶然、目撃しあるいは遭遇してしまった不義不正の言動を質すため注意すると、
突然、「逆ギレ」して襲ってくることもある。
しかし、法制度上、正当防衛や緊急避難の構成要件は限定され、ほぼ過剰防衛となる。
目撃者はもとより助けてあげたはずの者ですら、かかわることを畏れてその場から逃げてしまうのが現実である。
空手のチャンピオンに対し、自分からひつこくケンカを売っておきながら、負けると警察沙汰にし、
当たり屋のごとく暇な弁護士を見つけて民事訴訟で多額な慰謝料を請求する輩もいる。
下手をすると、警察に逮捕され、刑事被告人となり、社会的地位や資格、職業を失うことにもなりかねない。
この不条理な現実を考えるとき、
現代日本では、社会正義の実現や正当防衛のために武道を修行することは、果たして無意味なのか?
という根元的な問題につきあたってしまう。
そこで私は、時代にそった提案をしたい。
武道・格闘技の玄人と素人との決定的な差異は、防御能力にある。
ゆえに、日本跆拳道家は、防衛能力を高めるべきなのだ。
西郷隆盛の遺訓は示唆に富む。
「かねて道義をふみ行わない人は、ある事柄に出会うと、あわてふためき、どうして良いかわからぬものである。
たとえば、近所に火事があった場合、かねてそういう時の心構えのできている人は、
少しも心を動揺させることなく、てきぱきとこれに対処することができる。
しかし、かねてそういう心構えのできていない人は、
ただあわてふためき、とてもこれに対処するどころの騒ぎではない。
それと同じ事で、かねて道義をふみ行っている人でなければ、ある事柄に出会った時、立派な対策はできない」
(『西郷南洲先生遺訓』南洲神社社務所、38 頁)
不義不正な輩が「逆ギレ」し、いきなり殴りかかってきた場合、
適切な間合いをとり、あたかも約束組手を行うがごとく、あるいは後輩の攻撃を受けてあげる組手稽古を行うが
ごとく防御に徹するべきだ。
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それが可能であるなら、刑事事件にはならず、慰謝料等の民事事件にもなりにくい。
平常心を忘れず冷静になれば訓練していない輩の暴力を防御することは、さほど難しいものではない。
下劣な輩は、基本的に試合時間の2分も経てば息切れし、負け犬の遠吠えのように怒鳴り散らすのがおちとなる。
弱いスピッツ犬が吠えても怒る人がいないように、
下劣な輩が吠えたとしても同じ土俵に上るのは武道家の恥と心得れば、感情は十分に殺すことが可能だ。
完璧に防御に徹した上で、警察等に通報して事情を説明し、法制度上の解釈は第三者に委ねるべきである。
それこそが法治国家における武道家の分別ある対応だと考える。
しかし、それは日常の組手稽古等で鍛錬していればこそ可能となる防御技術なのだ。
いかなる不測の事態に遭おうとも、平常心で臨機応変に対処しなければならいのだが、
それは学問や理屈で涵養できるものではない。
強い精神=心をコントロールするためにも、正しい精神に裏付けられた肉体的鍛錬が不可欠なのだ。
日本テコンドー協会が、組織的に、
JTA七大精神と大義名分無き私闘を禁じる「蹴毘」という正しい精神の涵養と、
日々の道場における日本跆拳道の鍛錬を奨励する意義がここにあるのだ。
「蹴毘」とは、まさに現代的な武道家のあり方を規定する戒律であるとも言える。
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