湖友会会報 - 鳥取大学工学部 機械工学科

http://www.mech.tottori-u.ac.jp/koyukai
学
湖
博
光
自己アピールの
中庸なる必要性
添
動についてお知らせします。
ました。それを4つの学科に
まず、計測制御研究室の西村
統合する計画です。機械工学
正治教授がご退職し特任教授
科は応用数理工学科と一緒に
としてご在籍、精密生産研究
なり、
「機械物理工学系学科」
室の田中久隆教授がご退職し
となる予定です(以降の説明
本学理事にご就任されました。 では、この予定を省略)。余談
新たに制御・ロボティクス研
ですが、機械工学科と応用数
究室に
(調布)から西
理工学科としては、機械宇宙
JAXA
田信一郎先生が教授として、
工学科(現状、大学院では機
機械力学・メカトロニクス研
械宇宙工学専攻となっていま
究室に豊田中央研究所から田
す )、さ ら に 機 械 航 空 工 学 科
村篤敬先生が准教授としてご
という名称で強く要望したの
就任されました。一方、学科
ですが、残念ながら受け入れ
事務室では森美加さんと吉岡
て頂くことができませんでし
直子さんがご退職され、中村
た。この機械物理工学系学科
千春さんが新たに事務員に就
には新たにプログラムが設置
かれました。さらに現在、精
され、機械工学プログラム、
密生産研究室の教授および信
航空宇宙工学プログラム、ロ
頼性・設計研究室の助教人事
ボティクスプログラム、物理
が進行しております。なお、
工学プログラムの4つがあり
学科ではなく大学全体に関連
ます。これらも、例えば機械
することですが、能勢隆之学
工学コースといった名称では
長がご退職され、豊島良太先
なく、授業体系に基づく教育
生(医学部教授)が新学長に
プログラムの名称になってい
ご就任されました。
ます。どのような人物(学生)
を世に送り出すかという点を
意識したコース名ではなく、
これも学科の希望が却下され
た残念な結果となりました。
他の3学科については、電気
電子工学科と知能情報工学科
による電気情報系学科(3コ
ー ス )、 物 質 工 学 科 と 生 物 応
用工学科によるバイオ化学系
学 科 ( 5 コ ー ス )、 土 木 工 学
最近の動向として、工学部
の組織改編について現時点の
情報をお知らせします。ただ
し、今後、これも変化する可
能性があります。ご卒業され
た皆さんの学科で、今、何が
起きようとしているのか、情
報として受け止めて下さい。
工学部には従来8学科があり
科と社会開発システム工学科
による社会システム土木系学
科(2コース)です。平成
年度からの実施を目指し、目
下、文部科学省との折衝が進
んでいます。この学部改組に
伴い、大学院の組織改編も進
むことになるでしょう。
次に、機械工学科が関連す
る2013年度の出来事につ
いてお知らせします。全国レ
ベルの内容として、機械工学
科の学生がラフティングとい
うスポーツの世界大会に日本
代表として出場しました。以
前にも本学科の学生がこの大
会に出場していますが、今回
は2つの部門で3位入賞とい
う快挙につながりました。ま
た学生室内飛行ロボットコン
テストにおいて、機械工学科
の学生を主体とするカルマン
プロジェクトの3チームが出
場し、6位入賞とユニーク賞
受賞という結果を得ました。
何れも、ものごとを継続する
こと、そして改善・改良する
ことの重要性を改めて認識さ
せてくれた嬉しい出来事でし
た。
27
今年度の特徴的な出来事を
情報として述べましたが、次
に、個人的な思いを書きたい
湖友会の会報は以下のWEBページからもご覧いただけます。
会員限定のページになっていますので、パスワード「koyukai1965」を入力して下さい。
http://www.mech.tottori-u.ac.jp/koyukai
機械工学科 学科長
川
湖友会の皆さん、お元気に
お過ごしのことと拝察申し上
げます。私は2013年度の
機械工学科長を努めておりま
す流体工学研究室(以降、研
究室名に付く工学の名称は省
略)川添です。1996年4
月に機械工学科へ赴任し、早
いもので 年が経過します。
この間、本学科の教員(旧教
官)と技術・事務職員の顔ぶ
れも随分と変わりました。
1995年度末メンバーで現
在残っておられるのは、古い
順に小出隆夫教授、宮近幸逸
教授、音田哲彦准教授の3名
のみです。この間の人事異動
については、これまでの学科
長による湖友会会報への寄稿
で説明されておりますので、
2013年3月以降の人事異
18
大
鳥
●ホームページアドレス●
平成26年3月1日
〒680-8552 鳥取市湖山町南4丁目101番地
鳥取大学工学部機械工学科
鳥取大学湖友会事務局
湖友会会報
電 話 ( 0857 ) 31-5209
振 替 01480-8-21010
第18号
会
所
友
行
取
発
鳥 取 大 学
平成26年3月1日
鳥 取 大 学 湖 友 会 会 報
(1)第 18 号
と思います。幾つかあります
が、その中の一つ「自己アピ
ールの中庸なる必要性」につ
いてです。最近、米国の NSA
( National Security Agency :
国家安全保障局)による盗聴
問題はご存じのことと思いま
すが、科学技術が進歩したお
陰でいとも簡単に世界の情報
を良くも悪しくも入手できま
す。到底、私たちには NSA
の
ようなことはできませんが、
個人ブログやフェースブック
な ど SNS
( Social Network
)が発達した現在、誰
System
でも容易に情報を発信(自己
アピール)できます。逆に、
その使い方を誤ると大きな負
債となって戻ってくる危険性
も併せ持っています。アルバ
イト店員による食料冷凍庫で
の悪ふざけなど、とても社会
的に容認できない事件も報道
されました。鳥取大学におい
ても学生の認識不足から、未
成年による飲酒や、場合によ
ってはその将来にまで影響を
及ぼすような状況が懸念され
る現状です。これらの多くは
自己主張の一つの表現ですが、
いわゆる極端な悪しき表現で
す。問題は行動の出発点(動
機)にあります。一方、自分
の将来を心配する余り、自ら
の発信を差し控えることは非
と申します。
平成 年8月1日付けで大
学院工学研究科機械宇宙工学
専攻に教授として着任致しま
した。鳥取に来る前は、
(独)宇宙航空研究開発機構
( J A X)
A で宇宙機システ
ム・宇宙ロボットの研究開発
に従事しつつ、客員教授とし
て東京都調布市にある国立の
電気通信大学の大学院生の指
導を行っておりました。これ
まで、大阪、京都、東京、横
浜などの人口の多い都市ばか
りで暮らしてきましたので、
常にもったいのないことです。
「人口の最も少ない鳥取県に
自分が属する社会環境におい
紙面の関係上、少し言葉足
住むのは不便だろう」と、よ
て、先輩に睨まれるとか、上
らずでしたが、云わんとして
く訊かれるのですが、とくに
司に嫌われるとか、その将来
いることをそれぞれの立場で
不自由を感じることなく、と
を恐れる余り行動を自制する
お考え頂ければ幸いです。鳥
ても居心地がいいというのが、
のも問題かと思います。適度
取大学の機械工学科が今後ど
半年間暮らしての正直な感想
な行動(中庸なる自己表現)
のような変遷を歩むのかよく
です。鳥取では、東京では無
が必要と感じています。もち
分かりませんが、私たちが1
意識のうちに感じる無用なピ
ろん、その程度は、表現する
~2mの大きさをして、空気
リピリ感のようなストレスか
環境、集団、社会における個
と水を必要とする地球上にい
ら解放されていると実感して
人の立場や年齢などによって
る限り、形はどうであれ無く
おります。鳥取大学のキャン
変わります。若い人はその許
すことはできない分野です。
パスも広々として綺麗であり、
容度も大きいことでしょう。
鳥取大学工学部の第一学科と
教員の方々も良い方ばかりで、
逆に、実力を伴わない見栄は
して胸を張って歩んでいきた
学生も真面目で、これが教員
悲しいものがあります。押さ
いものであり、またそのため
や卒業生が長年培ってこられ
え過ぎずに自己をアピールす
にも湖友会の皆さんのご理解
た学風なのだろうと、つくづ
ることが必要な現代社会を私
とご協力を必要としています。 く感心させられる次第です。
たちは生きているように感じ
今後ともどうぞよろしくお願
さて、経歴および研究につ
ます。
い致します。
いてですが、まず、京都大学
の工学部および大学院工学研
究科にて日本のロボット工学
着任のご挨拶
隆盛の立役者かつ大御所であ
大学院工学研究科
る花房秀郎先生および吉川恒
機械宇宙工学専攻
夫先生のご指導を受け、ロボ
ット工学の分野に足を踏み入
西 田 信 一 郎
れました。当時は、ソフトウ
エアだけでなく、ロボットの
構造、アクチュエータ、モー
タドライバ、インタフェース
ボード、画像メモリボード、
計測系などの大半のハードウ
エアも自分で作らねばならず、
もの作りの実践面でも鍛えら
れました。これは今後の学生
指導の参考になると考えてお
はじめまして、西田信一郎
ります。
大学院修士課程修了後は、
(株)東芝に 年間勤務し、
宇宙開発に従事しました。複
合材料を用いた構造の構造解
析手法の開発や振動解析をス
タートに国際宇宙ステーショ
ン日本実験モジュールのロボ
ットアーム( JEMRMS
)や技
術試験衛星 VII
( ETS-VII
)の
ロボットシステムなどの宇宙
ロボットのシステム設計、制
御系設計、取り纏め等を担当
しました。 年間の勤務の後、
定年扱いで(株)東芝を早期
退職し、(独)航空宇宙技術
研究所(
)に入所致し
NAL
ま し た 。 そ の 後 は 、 NAL
の
宇宙航空研究開発機構
( JAXA
)への統合・改組を
経ても、一環して宇宙ロボッ
トや人工衛星・探査機システ
ムなどの宇宙機システムの研
究開発に従事し、日本の宇宙
ロボットの大半をリーダとし
て担当致して参りました。こ
の間、宇宙ロボットによる軌
道上構造物組立や月惑星探査
ロボット・探査機システム、
宇宙デブリ除去システムなど
の研究を行ってきました。当
初、計画されていた走行ロボ
ットによる月探査や拠点構築
が米国の有人月探査計画見直
しの影響を受けて先送りとな
22
22
第 18 号(2)
鳥 取 大 学 湖 友 会 会 報
平成26年3月1日
25
り、探査ロボットの研究対象
を月探査から火星探査に切り
替えざるを得なくなり、今は
火星ロボットをターゲットと
しております。火星探査ロボ
ットの方が小型化や高度な遠
隔操作システム、自律化が強
く求められるため、大学での
研究に向いているという考え
で取り組んでおります。地球
周回軌道上を飛翔する過去に
打ち上げた人工衛星やロケッ
ト上段および、それらの残骸
である宇宙ゴミは宇宙デブリ
( Space Debris
)と呼ばれて
おりますが、 年以上に亘る
宇宙機の打ち上げにより、そ
の数が増え、稼働中の人工衛
星や有人宇宙船との衝突の危
険性が年々高まっております。
地上からのレーダ観測により
㎝以上の大きさの宇宙デブ
リは、把握・リスト化されて
おりますが、その数は
1万6千個を上回っておりま
す。それより小さな宇宙デブ
リは指数関数的に数が多いと
考えられており、しかも、1
㎝以上の大きさの宇宙デブリ
は、衝突によって人工衛星に
致命的なダメージを与え、宇
宙ステーションの隔壁を貫通
することができます。そして、
宇宙デブリ同士の衝突によっ
て宇宙デブリの数が勝手に増
えていくケスラー・シンドロ
ーム( Kessler Syndrome
)の
状態に既に入っていると各国
の宇宙機関のシミュレーショ
ン結果が示しており、「おカ
ネを貯めて、将来は宇宙旅行
を」という夢を抱いている方
がいらっしゃっても、おちお
ち宇宙旅行などしていられな
い環境となっているのが現実
です。こうした状況を打開す
るには、相互衝突によって数
を増やす元になる大型宇宙デ
ブリを軌道上から除去するこ
とが効率的かつ現状で唯一可
能な手段です。特に混み合っ
た軌道高度帯から大型の宇宙
デブリを約100個ほど取り
除けば、ケスラー・シンドロ
大型宇宙デブリのロボット衛星
による捕獲の概念
篤
敬
ームの状態を解消することが
できると解析されております
ので、国際協働で大型ゴミ掃
除をやる、そのための技術開
発を急いで行う、という事が
今の宇宙デブリ除去システム
研究の目標です。
これらの宇宙ロボットに加
えて、技術面で共通性の高い
海中ロボットや介護・医療ロ
ボット、災害対策ロボットな
どの研究を立ち上げて、世の
着任のご挨拶
大学院工学研究科
村
機械宇宙工学専攻
田
湖友会の皆様、はじめまし
て。2013年8月1日付で、
鳥取大学大学院工学研究科機
械宇宙工学専攻に准教授とし
て着任致しました。緊張の初
日は「こんなことは滅多にな
い」という大嵐に見舞われて
全身ずぶ濡れとなり、天候
中を鳥取から制御・ロボット
工学で牽引してやろうと意気
込んでおります。また、学生
には、国を支える産業に最も
有用な機械工学を基礎学力と
してしっかり学習させ、併せ
て制御工学によるシステム思
考とバランス感覚、もの作り
のセンスを習得させるべく、
微力ながら努力したいと考え
る次第です。宜しくお願い致
します。
(鳥取の夏)には手荒い歓迎
を受けたのですが、現在所属
する機械力学・メカトロニク
ス研究室の小出隆夫教授をは
じめ、同研究室の学生諸兄な
らびに学科の皆様から温かく
迎え入れていただき、「なん
とかやっていけるかも」とい
う前向きな気持ちに切り替え
られたのを覚えています。
簡単に自己紹介させていた
だきますと、私は1998年
4月に、㈱豊田中央研究所に
入社し、自動車の乗員や歩行
者にみられる交通外傷の受傷
メカニズム解明やその低減に
関する安全の研究に取り組ん
できました。具体的には、人
体の数値モデル化、モデル化
に必要となる生体材料の力学
実験、人体モデルを活用した
衝突解析などを得意としてい
ます。私自身は機械系学科の
出身でありながら、一見する
と全くメカらしくもない、バ
イオメカニクス(生体医工
学)という分野で、特に傷害
バイオメカニクスをテーマに
活動してきたわけですが、今
後は、これまでに身に付けた
知識と培った技術を交通外傷
や安全以外の分野へも適用し、
世の中で役に立つ研究成果を
大学から発信していくことが
できれば・・・と考えている
ところです。
さて、振り返ってみますと、
私が大学教員への転身を強く
意識し始めたのは、今からお
よそ五年前のことです。学生
時代から、いずれは大学に戻
ってくるのではないか、と自
分でも予感しておりましたが、
このタイミングで大学教員に
なることは、少なくとも 年
前の私は、予想もしておりま
せんでした。転機になったの
は、社会人学生として大学院
へ入学し、それまでの自分が
『ぬるま湯』に浸かっていた
という現実を、身を以て痛感
させられたことだと思ってい
ます。2008年3月に、名
古屋工業大学大学院の博士後
期課程を修了した時点では、
恥ずかしながら自らのキャリ
アや人生設計を見つめ直すだ
10
平成26年3月1日
鳥 取 大 学 湖 友 会 会 報
(3)第 18 号
10
50
けの余裕はありませんでした
が、その後2~3年の間、
「この先、大学に戻ったとし
て、本当に自分は独立した研
究者としてやっていけるのだ
ろうか?」と自問し続けてい
ました。そもそも、これまで、
まともに教育活動に携わった
経験もなく、学部~修士(大
学院博士前期課程)の学生時
代に至っては、決して真面目
な学生ではなかった自分が、
教育者になる資格はあるのだ
ろうか、とも悩みました。心
許ないと思われるかもしれま
せんが、率直に申し上げると、
その答えは今も出ておりませ
ん。ただ、 年後、 年後に
自分はどうありたいのか、自
分が世の中に対してどのよう
に貢献できるのか、と考えた
時に、大学に戻るタイミング
は「今を逃してない!」とい
う結論に辿り着いた次第です。
実際に大学へ来てからは、
初めての本格的な講義に、卒
業研究の指導、学内外におけ
る活動運営の手伝いなど、慣
れないことばかりで、未だに
戸惑うことの多い日々です。
ただ、それと同時に、若い人
の放つエネルギーや前向きな
姿勢を目のあたりにすると、
自分が忘れかけていた大切な
ものを、ふと想い出すことが
あります。会社員時代には、
グループ会社への出向をはじ
め、大学との共同研究、海外
研究機関への出向など、数々
の大きなチャンスを与えても
らい、貴重な体験を積むこと
ができました。その全てを大
学という環境で還元しつつ、
新しいことに挑戦することを
怖れずに、諸先輩方や若い学
生の皆さんと、お互いに切磋
琢磨しながら成長していきた
いと思っています。前述のよ
うに、学生時代は決して褒め
られるような生活を送ってい
なかった私ですが、信じてい
ることがあります。それは若
い人の秘めた可能性です。中
学、高校、大学、そして社会
に出てからも、その時々で、
私は良い恩師と上司に恵まれ
ました。よく言われることな
のですが、そもそも人は育つ
ものなのか?育てられるもの
なのか?育つ資質のある人が
勝手に育つものではないの
か?という議論があります。
正直に告白すると、その点に
関しては、着任当初から多少
の迷いもありましたが、今ま
で私自身が多くの方々に支え
られ、導いてもらったように、
これからの私は、迷うことな
く若い人の可能性を信じ、周
囲に自分の『熱』を伝え続け
二
取の冬の厳しさを知るのはこ
れからなのかも知れません。
未熟者ではありますが、微力
ながら本学の発展に貢献でき
るよう全力を尽くす所存です。
今後ともOBの皆様からのご
指導・ご鞭撻を賜りますよう、
よろしくお願い申し上げます。
輩方をご紹介いたします。
(1)学生として
平成 年3月 日は、私が
鳥取大学に別れを告げる日と
なりました。
年
)
昭和 年4月に鳥取大学工
学部機械工学科の3期生とし
て入学して以来、ここ鳥取大
学で 年間を過ごしました。
入学当時の思い出は、筆舌に
尽くし難い程ありますが、改
めて振り返ってみると、校舎
や運動施設、学生の福利厚生
施設など、国立大学としての
機能や設備は、決して十分な
ものではありませんでした。
しかしながら、人材育成を使
命とする大学にとって最も大
切な学生や教授陣、そして職
員は間違いなく、皆、元気で、
前向きで、そして生き生きと
輝いていました。
私は家が貧しかった上、兄
昭(和
お得意のポーズの小島公平先生
31
ていくつもりです。
私も家族も、山陰の地に住
むのは初めてなのですが、自
然環境が豊かで交通渋滞も殆
どなく、食べ物も美味しい鳥
取での生活を気に入っていま
す。まだ、本格的な雪の洗礼
は受けておりませんので、鳥
良
は、必ずしも多くはないので
はないでしょうか。
人生での出会いの多くは、
鴨長明が「方丈記」で述べて
いる「うたかた(泡沫)」のよ
う に 、「 会 っ て は 消 え 」、「 消
えては会う」の繰り返しで、
その思い出や影響が末永く心
に留まり、自身の人生を決定
付けるようになることは、稀
なことかもしれません。しか
しながら、人が自分の人生を
振り返る時、自分の意思で決
めたと思っていた場合でも、
その実、知らず知らずの内に
影響を受けていた出会いがあ
ったことに気づくこともある
でしょう。
ここでは、私が学生時代か
ら退職するまでの 年間、大
学の教員として生きていく上
で強く影響を受けた3名の先
忘れ得ぬ三人との出会い!
~人間と機械の狭間で~
工学部専攻科機械工学
専攻(昭和 年卒)
放送大学鳥取学習セン
ター所長
若
人の一生は出会いの連続で
す。家族や親類、友人や恩師
など、それぞれの人生の中で
実に多くの人と出会います。
しかしながら、年齢を重ね、
自分の過去を振り返ってみる
とき、今の自分に決定的な影
響を与えたと思われる出会い
46
25
45
42
46
47
第 18 号(4)
鳥 取 大 学 湖 友 会 会 報
平成26年3月1日
10
20
が既に大阪の大学に進学して
いましたので、浪人は許され
ず、家計のこと、さらに日本
育英会の予約特別奨学生に採
用されていたこともあり、地
元の鳥取大学に進学しました。
また、当時、X線による非破
壊検査の第一人者である小島
公平先生が、鳥取大学工学部
機械工学科の教授として赴任
されていたことも、私にとっ
てとても魅力的でした。小島
公平先生は、ノーベル物理学
賞を受賞された湯川秀樹博士、
朝永振一郎博士と並び、「京
大三羽ガラス」と称された著
名な研究者であり、昭和 年
~昭和 年まで、鳥取大学第
5代学長を勤められました。
私は鳥取大学に入学する前
から小島公平先生のお名前は
知っていましたので、鳥取大
学に進学するのであれば、小
島公平先生の指導を受けたい
と、迷うことなく工学部機械
工学科に入学しました。そし
て、4年生となった昭和 年、
入学時の想いを果たすべく当
時、小島公平先生が教授をし
ておられた機械工作学研究室
で卒業研究を行うことにしま
した。しかしながら、時期を
同じくして、小島公平先生は、
工学部長、学長の要職を歴任
された為、私の想いはが実現
46
45
することはありませんでした。
しかしながら、小島公平先生
の授業や時々研究室にお出で
になった時は、先生のお話を
一言も聞き洩らさないよう、
できるだけ先生に近付き、体
温の温もりを感じながら指導
を受けたものでした。
豊かな知識と経験に裏付け
られた高い見識と常に我々学
生の目線に立って物事を見つ
めようとされる小島公平先生
の姿に、世界に通用する教育
者として、研究者として、そ
して一人の人間として、「最
も大切なものは何か?」を学
んだような気が致します。と
にかく、小島公平先生の傍ら
いるだけで、誇らしく、幸せ
な気持ちでした。国立大学の
古き、良き時代の話だよ!と
言ってしまえばそれまでかも
しれませんが、どのような時
代であっても、前途ある若者
を指導し、導いて行く役割を
担っている大学では、常に若
い学生と共に苦楽を共にし、
価値観を共有して行く心が教
員には求められているのでは
ないでしょうか。
私が 年間の長きにわたり、
教育、研究生活を続けられて
きたのは、自ら求めたとは言
え、鳥取大学で出会うことの
できた小島公平先生の教えが
あったからこそ、と信じてい
ます。
(2)教員として
機械工作学研究室での学生
生活を昭和 年に終えた私は、
同年の4月より、柏田幸男教
授が担当されていた水力機械
学研究室に助手として勤務す
ることになりました。その後、
水力機械学研究室は、流体工
学研究室と名称が変更になり
ました。私を大学での教育・
研究の道に誘って頂いた柏田
幸男教授は残念ながら平成
年5月に亡くなられました。
その後、平成2年に流体工学
研究室から鈴木豊彦教授が担
当されていた熱機関学研究室
に助教授として配置替えの後、
平成7年には、工学部から当
時の教育学部技術教育専攻に
教授として転出致しました。
大学の教員、特に工学系の
教員にとって、博士の学位を
取得することは今では、当り
前のようになっていますが、
昭和 年当時、学位審査権の
ある大学は限られており、学
位取得のためには、これら学
位審査権のある大学の博士課
程に進むか、これらの大学に
学位論文を提出し、論文審査
と学科試験に合格しなければ
なりませんでした。私は一年
間の内地留学を経て、昭和
25
62
平成26年3月1日
鳥 取 大 学 湖 友 会 会 報
(5)第 18 号
50
41
47
47
年、名古屋大学から工学博士
の学位を取得しました。これ
はこれで、実に苦しいけれど
も、しかし何事にも代え難い
経験であり、大学教員として
の大きな節目となり、その後
の人生に大きな影響がありま
した。
一方、この時期、日本経済
は高度成長期から低迷期に移
って行きましたが、世界的な
学生のモビリティの高まりと
共に、鳥取大学でも次第に留
学生が増加しつつありました。
留学生を受け入れることの重
要性は今では誰でも異論のな
い所ですが、昭和 年当時、
教職員にその様な認識はほと
んどなく、研究指導はするが、
日常生活は留学生自身が自ら
の力で切り開いて行かねばな
らない状況でした。 留学生の苦労を身近に見て
いた私は、このままではいけ
ない、何とか留学生の生活支
援をしなければ……との想い
で、彼らの宿舎探しや引っ越
しの手伝いの他、廃品回収に
よる衣類や自転車、そして電
化製品の手配などを研究の合
間を使い、地域の方々の助け
を借りながら行いました。
この様な留学生の状況に目
を向け、留学生支援の必要性
に気付き、それを実践しよう
50
としていたもう一人の教員が
工学部におられました。それ
は、当時、電気工学科助教授
の斎藤皓彦先生でした。
斎藤皓彦先生は、YMCA
の活動として、既に鳥取市内
で民間のボランティアとして、
市民と一緒に国際交流活動を
実践しておられました。これ
に、鳥取大学のキップ・ケイ
ツ先生ご夫妻なども加わり、
留学生の生活支援活動が次第
に広がり、本格化して行きま
した。
これが、現在の「とっとり
国際交流連絡会(タイム:
TIM)
E 」: Tottori
International Multicultural
)となりました。
Exchange
斎藤皓彦先生はYMCAの
ケニアの元留学生とくつろぐ斎
藤先生(左端)(ナイロビ近郊
のホテルブルーポスト於)
第 18 号(6)
鳥 取 大 学 湖 友 会 会 報
平成26年3月1日
活動の中で、ケニアとの交流
に力を尽くされ、ケニアから
の研修生や留学生の受け入れ、
科学技術の発展のために、ケ
ニアでの電気学会の立ち上げ
にも尽力されました。さらに、
毎年、ケニア訪問団を組織し、
ケニアとの交流を 年以上に
渡り、継続されています。
斎藤皓彦先生の留学生に対
する支援の心は、私利私欲を
捨て、社会的弱者や困った人
と同じ目線で支援に当たると
いうキリスト教の教えに育ま
れたものと思います。斎藤皓
彦先生には、平成8年に教授
として教育学部技術専攻にお
出で頂き、共に信頼し合いな
がら留学生支援制度の構築や
大学院教育学研究科技術教育
専修の設置に努めました。斎
藤皓彦先生の夢は、将来、牧
師となり、迷える人々に救い
の手を差し伸べたいとの事で
したが、この夢は、福岡女学
院大学の学長を退任後、見事
に叶えられ、現在、福岡で充
実した人生を送っておられま
す。
斎藤皓彦先生とは、お互い
に工学部の助手時代からの交
流があり、共に、信頼できる
友として鳥取大学の留学生の
為に心血を注いできました。
大学の教員である前に、人と
30
して生きることの意味やその
ました。この為、我々、3人
大切さ、留学生のように社会
の兄弟は毎週3回厳しい稽古
から隔絶され、困窮している
を強いられました。しかしな
弱者の支援のあり方など、そ
がら、その甲斐あって、小学
の後、私が鳥取大学の国際交
校、中学校、高等学校時代に
流を担う役割を果たすときは、 は、県内の剣道愛好家で我々
いつも斎藤皓彦先生への想い
兄弟の名前を知らない者はい
と感謝の気持ちが込み上げて
ないほどの実績をあげて来ま
いました。
した。大学でも中四国代表と
(3)剣道門下生として
して全国大会に出場するほか、
鳥取県倉吉市に生まれた私
国体や都道府県対抗など、全
は、物心ついた頃から、父に
国規模の大会に数多く出場し
剣道の指導を受けていました。 ました。
倉吉市では、鳥取池田藩の家
当時の鳥取大学剣道部の師
老荒尾家に鳥取藩の剣道流派
範は、湖山神社宮司で、昭和
「雖井蛙流」の流れを汲む
年から昭和 年まで高草中
「剣道神刀流」が伝承されて
学の初代校長をされていた湯
いました。父は、剣道神刀流
村哲明先生でした。湯村哲明
の皆伝6代目であり、剣道場
師範は、京都の大日本武徳会
「神刀館」の館長を務めてい
武道専門学校のご卒業で、今
では想像もつかないほど厳し
く稽古をつけて頂きました。
特に、私にはことのほか厳し
く、「学生との稽古は、自分
の思う通り自由にしなさい。
ただし、学生との稽古が終っ
た後、 分間、必ず私と稽古
をしなさい。」と言われてい
ました。いわゆる「特訓」で
す。丸太のような腕で太い竹
刀を構えた姿は、本当に鬼の
ようで、目を開けていられな
いほどすさまじい形相でした。
この為、面越しに師範の顔を
凝視することができず、目を
湯村師範の指導で出場した全国
大会
39
30
42
つぶったまま打ち掛っていっ
たことが何度もありました。
その時は、必ず喉部に師範の
竹刀が突き刺さり、吐き気と
痣で息もできないほどでした。
「しっかり眼を開けて打ち込
んで来なさい。」と稽古の後
で、いつも言われていました。
その時の顔は、稽古の時とは
まるで別人と思われるほどで、
穏やかな優しいまなざしでし
た。同じ道を志し、全身全霊
で切磋琢磨している若い学生
を心から認め、励まそうとす
る湯村哲明師範の心根の優し
さに、厳しい稽古は、期待と
愛情の裏返しであり、身をも
って真摯に向き合うことの大
切さを教えて頂きました。
湯村哲明師範からは、他者
に厳しく接することは、自分
自身にも厳しさを求めること
であり、その裏には他者への
期待と愛情が隠されているこ
とを教えて頂きました。期待
と愛情を持って、時には厳し
く他者に接することの大切さ
は、その後の大学教員として
の生活にとって多くの信頼で
きる学生や友人、そして留学
生を得、互いに信頼し合いな
がら交流を深めることに本当
に役立ちました。
湯村哲明師範は、奇しくも
私が剣道部の主将をしていた
昭和 年、鉄道事故で亡くな
りましたが、葬儀では弔問客
の受付を学生服姿で我々、剣
道部員が行ったという悲しい
思い出もあります。
以上、鳥取大学で過ごした
年間の中で、忘れ得ぬ三人
との出会いを紹介しましたが、
今の自分は、それ以外の多く
の方々の出会いに教えられ、
育まれてきたことに間違いは
ありません。
機械工学科の学問分野では、
理論的に正しいとか正しくな
いとの議論がなされます。ま
た、合理的や効率的との言葉
もしばしば耳にします。機械
工学を学ぶ者にとって、これ
はこれでとても重要なことで
すが、理論を学ぶのは人であ
り、理論を教えるのも人です。
合理的でないことが誤りなの
か?効率的でなければ全てが
悪いのか?コンピュータの急
速な進歩により、人間と機械
の関わりが大きな社会問題と
なっています。
人間と機械の狭間で生きる
道を選んだ学生の皆様には、
人間が生きる現実社会と機械
工学との融合を常に念頭に置
きながら、人間らしい心を持
った「エンジニア」として社
会に貢献されることを心より
期待しています。
46
44
賢
年卒業)
藤
治
ヨーロッパに赴任して思うこと
(昭和
後
51
されました。
そこで、3年間、ヨーロッ
パで仕事をした経験からこれ
からの企業人に必要なものに
ついて思いつくことを述べて
みたいと思います。
1.コミュニケーション能力
(英語)
ポーランド工場はドイツと
の国境に近いポーランドの南
西部に位置する Zarow
という
小さな町にあり、私はそこか
ら車で 分ほど離れたところ
にある Swidnica
という町に住
んでいました。私の使命はポ
ーランド工場とイギリス工場
の収益を改善して黒字化する
ことでした。収益改善には拡
販が一番有効な方法だったの
で、工場のマネジメント以外
に、製品の売り込みを行うた
めに営業のスタッフと一緒に
時々、ヨーロッパの客先を訪
問しました。ヨーロッパには
大小多くの国々があり、それ
ぞれの言語を持っています。
しかし、ビジネスでの共通の
言語は英語です。ヨーロッパ
赴任中に、ポーランド訛り、
ドイツ訛り、フランス訛り、
イタリア訛り、トルコ訛り
e t色
c. 々な英語をしゃべる
20
49
湖友会会員の皆様、お元気
でお過ごしのこととお慶び申
し上げます。
私は、昭和 年に鳥取大学
大学院工学研究科を修了し、
ベアリング用鋼球をメインに
製造・販売する㈱天辻鋼球製
作所に就職しました。
入社後、技術開発、製造技
術 、 滋 賀 工 場 、 品 質 保 証 etc.
の仕事を経験した後に
2008年7月から3年間、
ポーランド工場、イギリス工
場の社長としてヨーロッパに
赴任しました。
昨年 月に非常勤講師とし
て鳥取大学を訪問した際、私
の講義を受講した学生さんか
ら、企業に入ってからの仕事
では何が求められるか、また
海外赴任した時のエピソード
や英語の必要性について質問
12
平成26年3月1日
鳥 取 大 学 湖 友 会 会 報
(7)第 18 号
人々に出会いました。 また、 問してくれました。
本家のイギリスですら皆が
我々の製品がヨーロッパの
イングリッシュをしゃべ
客先に受け入れられて拡販に
BBC
っているわけではなく、地域
成功したのも高い品質とそれ
毎の田舎訛りの英語を話して
を生む技術開発力があったか
います。このように巷には
らであって、価格だけの競争
色々な英語がありますが、そ
であれば既存のコンペティタ
れでコミュニケーションが行
ーや中国企業の商品に負けて
われています。私の日本語訛
いたと思います。
りの英語(
)でも理
個人に当てはめると確かに
Janglish
解してもらえたようで日常会
英語での会話力も必要ですが、
話や技術関係の話はなんとか
その人に何ができるか、何を
なりましたが、価格交渉のよ
知っているかが重要です。相
うな複雑な議論になると思っ
手に興味を持ってもらうには
たことをうまく英語で言うこ
相手より優れた技術力、専門
とができず、ずいぶんストレ
知識を持っていることが大切
スが溜まりました。もっぱら
です。仮に英語が流暢に話せ
技術の話は私、商談は営業の
たとしてもそれのみではダメ
スタッフと役割分担していま
だったと思います。
したが出張から帰ると英語で
会話するという緊張感から解
3.日本の文化・歴史
放されてホットしていました。
我々日本人もそうですが、
ビジネスには、相手の言う
外国人は自分達にないもの、
ことを正確に理解し、自分の
知らないものに興味を持って
意見をしっかり主張し、議論、 います。彼らは特に日本の伝
交渉できるコミュニケーショ
統文化に興味があるようです。
ン能力が必要だとつくづく感
私は時々、イギリス工場を
じました。
訪問していましたが、現地の
スタッフと夕食を一緒にした
時、技術担当マネジャーから
“ワビ”と“サビ”の違いに
ついて質問されたことがあり
ました。
日本の伝統文化にはとんと
疎い私なので彼にうまく説明
2.専門分野の知識
我々の商品を拡販するため
に客先を訪問して繰り返し商
品と技術力のプレゼンを行い
ました。彼らは私のつたない
英語の説明を熱心に聞いて質
することができず。“うん、
なかなか良い質問だ。しかし、
それは根底の哲学から説明し
なければならない難解な質問
なのでここで簡単に説明でき
ない。後日、メールで詳細な
説明を送ってあげるよ。”と
言ってその場を切り抜けまし
た。
また、海外赴任を終えて日
本に帰ってからも、日本に興
味を持っているベトナムの大
学生に“日本人の集団意識”
(日本人はなぜ集団で行動す
るのか?また、会議で自分の
意見を言わずに誰かの意見に
迎合しがちなのか?)や日本
が太陽暦(グレゴリオ暦)を
採用している理由(日本もベ
トナムも昔、中国文化の影響
を強く受けて太陰暦を採用し
ていたのに何故日本は太陽暦
に変わったのか?)について
質問を受けたことがあります。
この時も即答はできず、文献
で調べた後にメールで教えて
あげました。
我々日本人が日本の文化や
歴史についてどれだけ知って
いるか振り返ってみると、知
らないことが多くあります。
私自身、あまりにも日本につ
いて無知なことに恥じ入りま
した。
外国人とコミュニケーショ
ンを行うには、自分のルーツ
休んで家族で教会に行く日と
気で離職していきます。
である日本のことをもっと勉
されています。
この状況についてある知人
強しなければならないとつく
商店街も土曜日は午後から
のポーランド人に話したとこ
づく思います。
閉店、日曜日は終日、閉店さ
ろ、“それが当たり前ですよ。
れます。旺盛な需要に対応す
誰でも条件の良いところに移
4.異なる国の文化・習慣・
るためには日曜日も工場を稼
りたいと思うのは当然でしょ
歴史など相手のバックグ
働する必要があることを説明
う。それを嘆く貴方のほうが
ラウンド
し、休日出勤手当を支給する
変ですよ。”と言われてしま
我々の地道な努力が実って
ことなどを条件に日曜出勤を
いました。
少しずつヨーロッパでの拡販
要請しましたが、“昔から日
これまで長い間、終身雇用
が進み、月々の販売高が工場
曜日は安息日と決まっている。 制が浸透している日本ではよ
の生産能力を上回るようにな
安息日に出勤するなんてとん
ほどのことがなければ転職は
りました。旺盛な需要に対応
でもない”と“けんもほろ
行われませんが、欧米ではこ
するため土曜出勤をしていま
ろ”に拒否されました。我々
れが当たり前になっています。
したが、それでも生産が需要
日本人にはなかなか理解する
海外でマネジメントしてい
に追い付かず注残が続きまし
のが困難な宗教の戒律です。
こうとするとその国の文化、
た。この状況を解消するため
また、ヨーロッパでは転職
習慣、歴史などバックグラン
に日曜出勤を計画しましたが、 が当たり前で、罪悪感も全く
ドを熟知して効果的な手をう
従業員が反対してなかなか実
なく条件の良い会社に移りま
つ必要があります。海外の相
現できませんでした。
す。その企業の生産技術につ
手とうまくやっていくには、
ポーランドはヨーロッパの
いて全く経験も知識もない状
相手の立場で考えることが大
中でも特に敬虔なカトリック
態で就職し、数年かかってや
事であり、専門知識だけでは
の国です。キリスト教では日
っと独り立ちできるスキルに
なく、歴史、社会風土、文化、
曜日は“安息日”で、仕事を
まで育ったにも関わらず、平
宗教など幅広い教養を学ぶこ
とがますます重要になってく
ると思います。
大学に外国人、異文化と直
接接触できるプログラムを追
加して学生の時からそのよう
な環境に慣れ親しむ体制があ
ればこれからのグローバル化
時代に適用できる人材が育ち
やすいのではないでしょうか?
また、民間の企業では技術
系の社員であろうともコスト
14
82
います。
以上、3年間の海外赴任を
終えてこれからのグローバル
化に必要な資質について思い
ついたことをまとめてみまし
た。現在、鳥取大学に在学中
の学生の皆さん及び企業の第
一線で活躍されている卒業生
の皆さんが今後グローバル化
に対応できる人材になるため
の一助となれば幸いです。
編 集 後 記
昭和 年に開設された
機械工学科は、来年、創
立 周年を迎えることに
なります。このような節
目の年に、機械工学科は
応用数理工学科と統合し、
新たな学科に生まれ変わ
る予定で進んでいます。
生まれ変わるといえば、
最近、「リケジョ」の小
保方晴子さんが発見した
STAP細胞が注目され
ました。「酸性の液に漬
けたい永田町」と詠んだ
方もいますが、私も酸性
の液に浸かれば・・・な
どと考えながら、弱酸性
の麦酒を今宵も飲んでい
ます。 (O)
40
意識を持つことが必要です。
現在の日本の大学の技術系の
学部にはコストに関する授業
科目がないと思います。その
原因は“金を儲けるという行
為は浅ましい”という旧来の
倫理観が災いしているものと
考えられますが、現実の企業
活動ではコスト意識をもつこ
とは大事なことです。基本的
な会計(管理会計)の勉強も
早期に始めておくと良いと思
本学科ゆかりの先生がご逝
去されました。ここに謹んで
哀悼の意を表します。
25
名誉教授
柏田 幸男 先生
2013年 月 日にご逝去
されました。享年 歳
5
50
お知らせ
25
本学科事務室で勤務されて
いました森美加さんが平成
年 月で退職されました.ま
た,就職担当事務をされてい
ました吉岡直子さんが平成
年 月から附属図書館のほう
に移動しました.これに伴っ
て中村千春さんが新しく事務
室に勤務されています.
2
9
第 18 号(8)
鳥 取 大 学 湖 友 会 会 報
平成26年3月1日
Swidnicaの平和教会
(ユネスコ世界遺産)