フィリピン系エスニック教会における若者グループの

「フィリピン系エスニック教会における若者グループの機能と変容̶1.5 世と 2 世の差異に
注目して̶」 三浦綾希子
一橋大学大学院社会学研究科
キーワード:フィリピン系ニューカマー、エスニック教会、世代間の差異、エスニックル
ーツの確認、規範遵守
1 . は じ め に —問 題 意 識 と 課 題 の 設 定
本稿は、フィリピン系ニューカマー1.5 世と 2 世の若者たちによって作られる教会の若
者グループ(ユースグループ)の持つ機能とその変容を描き出すことを目的とする。
1990 年の入国管理及び難民認定法(以下、入管法)の施行から 20 年経った現在、ニュ
ーカマーの定住化傾向はますます顕著となっており、それに伴い彼・彼女らやその子ども
たちが抱える問題も多岐に渡ってきている。日本国籍を持つニューカマーの増加やニュー
カマー内部の階層化、多様な教育機関へのニューカマーの子どもの進出など、定住化に伴
う問題は多様化しており、ニューカマーの教育問題は新たな局面に入ったともいわれる(佐
久間 2006)。カースルズとミラー(1996)の移民過程論によれば、移民は定住が進むにつれ、
ネットワークや独自の組織を形成し、ホスト社会でのハンディキャップを乗り越え、自分
たちの生活をより安定したものにしようとする i 。この独自の組織のうち、最も重要なもの
の 一 つ と さ れ る の が 宗 教 組 織 で あ る ( Breton 1964)。 移 民 の 社 会 適 応 に 於 い て 宗 教 組 織 の
果たす役割の重要性は海外の移民研究では繰り返し指摘されていることである。類似の背
景を持つ者同士が集う宗教施設は、アイデンティティを確認する場となり、社会適応を促
す場になるため、移民の子どもの育ちに影響を与えるとも言われる(例えば Alumkal 2003)。
しかし、日本においては、ニューカマーの宗教組織に関する研究は、滞日ムスリムに関す
る研究(樋口他 2007, 福田 2007, 工藤 2008)や在日ベトナム系住民の宗教実践に注目し
た研究(川上 2001)がいくつかある程度であり、他のエスニックグループに関しては実践
報告などに留まっている。これは福田(2007)が指摘するように、移民の自律的、主体的
な活動に目を向けて来なかったニューカマー研究の視点の欠如を示している。
一方、定住化に伴うもう一つの変化として指摘できるのが世代の移行である。近年では、
日本生まれ日本育ちの子どもの増加や入管法の施行前後に来日した子どもたちの成人期へ
の移行が指摘されている。世代の移行は今後ますます進むであろう。Rumbaut(2002)は、
移民時における年齢によって、言語適応、アイデンティティ形成やホスト社会への適応の
仕方が異なってくるとし、移民を世代に分けて考える必要性を説く。特に、学齢期に物理
的な国際移動を経験した 1.5 世とホスト国生まれの 2 世では差異がでることが指摘されて
おり、子ども世代を一括りにするのではなく、その育ちの過程によって区別する必要性が
指摘されている(Zhou 1997)。しかし、これまでの日本における研究は、この世代差をほ
とんど考慮してこず、学齢期に来日した子どもをニューカマーの子どもとして一括りに扱
ってきた。2 世の子どもの絶対数が少なかったことを鑑みれば当然ともいえるが、日本生
まれの子どもが増加している現在に於いては、この世代の差を区別して論じる必要がある
1
のではないかと考える。
よって、本稿では、定住に伴う変化を読み解くために、当事者による独自の宗教組織の
形成と世代の移行という点に着目する。社会構造的に不利な状況に置かれているニューカ
マーにとって、独自の宗教組織は、生活基盤の安定化するための資源となり得るが、世代
が進むにつれ、その組織の有り様も変化する。親と共に来日したニューカマーの若者が成
人期に入り、宗教組織を作り出す主体となったとき、当事者独自のエスニックな宗教組織
はどのような機能を持ち、どのように変容していくのであろうか。本稿では、ニューカマ
ーの若者の世代差を考慮に入れつつ、この点に注目したい。
ニューカマーを対象とした研究に於いては、宗教組織と世代の移行を取り扱った先行研
究は管見の限り見当たらない。しかし、海外の移民研究に於いてはエスニックな宗教組織
の世代による変化はよく取り扱われるテーマである(Chai 1998, Warner 1998, Herting
2001)。Goette(2001)はエスニック教会の担い手が 1 世から 2 世へと移行するにつれ、
教会内言語や価値観が変化し、その運営が出身国志向のものからホスト国志向へ段階的に
移ることを指摘した。1 世は子どもがホスト社会に同化しないよう出身国の伝統を守ろう
とするが、ホスト国の言語が第一言語となる子世代は教会で使用される親の母語や伝統を
重んじる価値観を理解できず、成長するにつれ教会を離れ、他の教会に移動したり、新た
に別の教会を立ち上げることもあると言われる(Ibid 2001)。このように、親世代と子世
代のニーズの違いによる対立や葛藤は、エスニック教会の存立を危うくする。
同様のことは、在日朝鮮人研究においても指摘されている。野入(2002)はキリスト教
信仰と民族性の継承、断絶の有り様を世代の移行に注目しながら明らかにしている。そこ
では教会が「民族の言葉」を学ぶ場となることや同胞意識を育む場となることが指摘され
ている。だが同時に、教会に通うことの意味が親世代と子世代とでは異なり、そこに葛藤
や対立が起こることも描かれている。キリスト教の信仰は不変のものとして、親世代から
子世代に継承されるが、民族性に対する考え方は世代によって異なり、若い世代は民族意
識を育む場として教会を捉えなくなる。社会的文脈は異なるが、いずれの事例に於いても、
世代の移行と共に教会に求める機能が変化することが分かる。しかし、これらの研究は、
子世代を一枚岩として捉えているがゆえに、エスニックなルーツにこだわる第一世代とそ
れに違和感を感じる第二世代という多くの先行研究で既に指摘されてきた構図を繰り返す
に留まっている。前述したように、同じ子世代であっても、その育ちの過程によって子ど
もの人間形成に差異が出ることを鑑みれば、子世代内部でも教会の果たす機能は異なって
くるはずである。よって、本稿では野入らの枠組みを継承しつつも、子世代を 1.5 世と 2
世に分けることによってこれまでの世代間関係とは異なる知見を導き出したい。フィリピ
ン系エスニック教会のユースグループを対象に据え、ユースグループの持つ機能を世代に
よる差異に注目しながら明らかにしていく。
以下では、対象となるフィリピン系ニューカマーの特徴と研究動向を精査した後(第 2
節)、調査を行ったT教会の概要について述べる(第 3 節)。そして、ユースグループの持
つ機能のうち、世代によってその意味合いが異なるエスニックルーツの確認という機能に
着目し、1.5 世と 2 世にとってユースグループがどのような場として位置付いているのか
を明らかにする(第 4 節)。次に、ユースグループが持つもう一つの機能である規範の遵守
ということに注目し、それが世代を超えてどのように継承されているのかを描き出す(第
2
5 節)。ユースグループの持つ機能のうち、世代によって変容するものとそうでないものを
描き出していきたい。
2 . 調 査 対 象 と 方 法 本稿で主な対象となるのは、フィリピン系ニューカマー1.5世と2世の若者たちである。
フィリピン人は、外国人登録者数の国籍別統計で四番目に多いエスニックグループである
が、①女性の多さ、②日本人との結婚の多さ、③日比国際結婚の間に生まれる子どもの多
さ、④定住性、⑤分散居住で集住地を作りにくいことが人口的な特徴とされる(高畑 2011)。
在日フィリピン人女性を対象とした研究は、ジェンダーや国際移動の視点から分厚い蓄積
があるが、
(伊藤 1992、バレスカス1994、他)、フィリピン系の子どもや若者に関しての先
行研究は実態報告や問題点の指摘などに留まってしまっているものが多い。 しかし、近年、フィリピン系ニューカマーの子どもの学校適応への関心を背景に、親の
教育意識と教育資源について論じた研究が出てきている。額賀(2012)は、子どもをフィ
リピンに残し、親が単身で出稼ぎにでる場合、日比二国間に跨って親子関係が形成される
ことから、このような家族を「トランスナショナル家族」と呼んだ。その上で、子どもを
日本に呼び寄せるとき、
「トランスナショナル家族の再構築」が行われることを指摘してい
る。呼び寄せられた子どもは日本にいる親からだけではなく、フィリピンにいる親戚から
も高い教育期待が投げかけられるが、社会的、経済的、文化的要因から親に子どもの教育
をサポートする十分な資源がないため、トランスナショナル家族の中で焦燥感や疎外感を
深めていくことが示されている。また、角替ら(2011)は、国際結婚によって配偶者ビザ
を得、日本での滞在が許可されるフィリピン人女性は夫への依存傾向を強め、日本社会や
他のフィリピン人女性との接点を持たず、社会的に孤立傾向に有ること、またそれ故に非
常に限られた教育資源しか持たないことを指摘している。これらの知見は社会構造的に不
利な立場に置かれやすいフィリピン人の親、特にその実態に即して言えば母親が教育資源
を調達することがいかに困難かということを示している。
しかし一方で、フィリピン系ニューカマーは社会構造的に不利な状況を打破するために
相互扶助ネットワークを構築し、そこから日本社会で生きていくための情報などの資源を
獲得するともいわれる(永田 2007)。その相互扶助ネットワークの拠点となりやすいのが
教会である。フィリピン系ニューカマーは分散居住であるが故に、同国出身者と集える教
会活動に熱心なエスニックグループであるとも言われる(マテオ 2003, 永田 2011)。日常
的に日本人に囲まれて暮らしているからこそ、フィリピン人同士で集うことができる教会
は同国出身者と関われる唯一の場となり、そこで形成される相互扶助ネットワークが生活
基盤を安定させる資源となり得る。つまり、フィリピン系ニューカマーは、国際結婚の結
果生じる夫との非対称的な権力関係や非集住性などから資源に乏しく、社会的に孤立しが
ちな存在としても捉えられるが、一方で非集住性を前提としてエスニックコミュニティを
形成し、資源を調達しようとする存在としても捉えられる。本稿ではこのようなフィリピ
ン系ニューカマーの特徴のうち、後者に注目し、彼・彼女らにとっての宗教組織の持つ意味
について検討していく。
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教会を中心としたネットワークがフィリピン人女性にとって、日本社会で生きていくた
めの資源となっていることは、既述の通り先行研究でも指摘されているが、フィリピン系
ニューカマーの子どもや若者に着目した研究が少ないことに起因して、その教会を育ちの
場として捉えている研究や教育資源獲得の場として捉えている研究は管見の限り見当たら
ない。よって、フィリピン系ニューカマーの若者グループを対象とする本研究は蓄積の少
ない在日フィリピン人の第二世代研究へ寄与することにもなる。
調査は、大都市中心部に位置するT教会で行った。筆者は、2010 年 4 月より 2011 年 12
月まで週に 1 回の礼拝に継続的に参加している。本稿では、このフィールドワークで得ら
れたインタビューデータと参与観察のデータを用いる。インタビューは、ユースグループ
の若者 7 名(1.5 世 5 名、2 世 2 名)に対して、2010 年 8
12 月にかけて行っている。い
ずれも半構造化形式インタビューで、実施場所は喫茶店や対象者の自宅などで、一回につ
き二時間ほど行った。いずれも対象者の許可をとり、録音している。インタビューやフィ
ールドノーツの引用箇所はゴシック体で表記し、引用者による補足は()で、省略箇所は・・・
で表記した。AさんとBさんは双子であり、T教会の牧師の娘である。なお、本稿で主な
対象となるのは 1.5 世、2 世の若者たちであるが、補足的に親(15 名)に対するインタビ
ューデータも用いる。
3.T教会の概要
T教会は、元々日本人によって設立されたプロテスタント教会である。現在でも毎週日
曜に行われる 4 つの礼拝のうち、第 1
第 3 礼拝は日本人によって行われ、第 4 礼拝がフ
ィリピン人によって行われている。この教会は都市部に位置するが、この自治体には全部
で 60 程度の教会が存在する。この付近には比較的多くの外国籍住民が生活しているため、
T教会と同様に外国語で礼拝を行う教会も少なくない。隣接する 6 つの教会では、日曜に
数回行われる礼拝のうち、少なくとも 1 つは外国語で行われている。T教会でフィリピン
人向けの礼拝が行われるようになったのは、今から 13 年ほど前のことである。当時、在日
フィリピン人の増加を受け、フィリピン人向け礼拝の必要性を感じたT教会の日本人牧師
が牧師を探しにフィリピンを訪れ、現在フィリピン人礼拝を行っているY牧師と出会った
のがそもそものきっかけであった。1998 年冬にYさんとその家族が来日したことで、フィ
リピン人向けの第四礼拝が行われるようになり、現在、50~60 人ほどの信徒が礼拝に参加
している。その多くはフィリピン人女性であるが、日本人の配偶者やその子どもも参加し
ている。礼拝は英語で行われ、日本語の通訳がつく。フィリピンはカトリック教徒が多い
国であるため、T教会の信徒たちの中にも元カトリック教徒は多く存在する。しかし、彼
女たちは来日後、この教会に通うようになり、プロテスタントに改宗している。
T教会では、大人がミサを受けている間、小学生の子どもは別の部屋で開かれている日
曜学校に行き、中学生以上の子どもの一部はユースグループとして、ミサでバンド演奏を
する。また、月に何回かダンスや劇の発表も行う。ミサで歌われる歌の歌詞は信仰に関す
ることだが、リズムはポップミュージックのようであり、大人も若者も皆、バンド演奏に
合わせ、リズムを取りながら身振りをつけて歌う。プロジェクターによって歌詞がスクリ
ーンに映し出され、信徒はそれを見ながら身振りを付けて歌う。ユースグループは中学生
4
グループと高校生グループに分かれているが、かれらはバンドやダンスの練習、バイブル
スタディーなども含めると週に 2、3 回顔を合わせており、それ以外にも皆でどこかに出か
けたり、パーティーをすることが多いという。
4.教会におけるユースグループの機能とその変容
4−1.世代によって異なるユースグループの機能—エスニックルーツの確認
(1)ユースグループの成立経緯—1.5 世のための「居場所」
ユースグループのリーダーとなるのは、牧師の双子の娘であるAさん、Bさんである。
彼女たちは小学校 5 年生の時に両親と共に家族四人で来日し、日本の公立小学校に入って
いる。日本語の難しさから、学校への適応は大変だったと自らの学校経験を振り返るが、
いじめなどはなく、良好な学校生活を送ったという。しかし、学力的に高校受験は難しい
と判断し、高校進学を機に 2 人だけでフィリピンに戻っている。高校、大学とフィリピン
で過ごした後、フィリピンでは就職が難しいとの判断から、再び両親のいる日本に戻り、
日本で専門学校を出た後、就職をしている。
ユースグループの成立において、この 2 人の存在は欠かせないものである。ユースグル
ープが作られたのは 2005 年のことであるというが、そのきっかけとなったのは、Aさん、
Bさんの自発的な提案であった。日本の教会ではあまり一般的ではないが、彼女たちが通
っていたフィリピンの教会では、若者中心のユースグループがあり、バンドの演奏や劇を
したり、ユースだけのイベントをするのは当たり前であったという。だが、彼女たちが小、
中学生だった頃は、T教会のフィリピン礼拝は始まったばかりであったため、子どもや若
者はほとんどおらず、ユースグループはなかった。しかし、信徒の数が増えるにつれ、若
者の数も多くなり、彼女たちがフィリピンの学校を終えて日本に戻ってきたときには、10
代の子たちが多く教会に通うようになっていた。久しぶりにT教会に戻ってきた彼女たち
は、こうした状況を見て、
「ユース作んなきゃ」と思い、自分たちがリーダーとなって、ユ
ースグループを作っていった。牧師である父やその他の信徒に言われたわけではなく、自
分たちで必要性を感じ、作っていったという。こうしたユースグループ成立の背景には、
単に「フィリピンの教会でもそうだったから」ということ、牧師の娘としての責任、だけ
に留まらない理由が 2 人の中にあった。
(自分も)同じ外国人で、日本に来たときは、見慣れないことがいっぱいあるじゃないで
すか。自分で adjust しないといけないっていうのが多いわけだから。それだけでみんなも
大変だから。学校とか。・・・やっぱこっちで、日本に合わせなきゃいけない。こっちに住む
分には、日本人と合わせなきゃいけない。日本の生活に慣れなきゃいけない。やっぱり大
変じゃないですか。でも、そういう楽しいことがあると、やっぱりがんばれる。みんな自
分を思ってくれる、分かってくれる人がいれば、この分からない日本人のことをなんとな
く理解できるようになるわけだから。・・・フィリピンで育ってて、こっちにくるようになっ
たのは、家族の事情があってとかだから。みんなそれぞれ家庭で色んな問題抱えてるわけ
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だから、それを見てくれる人いなかったら、そこで暴れてるかもしれないし。だから、そ
こにいっちゃうよりも教会に来てもらったほうがいいと思ってるから。いい大人にもなる
と思うしって思って。【Aさん 2010.10.31】 2 人がフィリピンで育ち、日本に来ることになった 1.5 世の子たちの居場所としてユー
スグループを作り上げていったことが以上の発言から看取できる。そして、こうした考え
の 裏 側 に は 、 ニ ュ ー カ マ ー 1.5 世 と し て の 自 ら の 経 験 が あ っ た の で あ る 。 学 齢 期 の 途 中 で
国際移動を経験し、日本の学校、日本社会に適応する大変さを経験した彼女たちは、かつ
ての自分たちと同じような状況にある子どもたちが「暴れないように」と、ユースグルー
プを居場所として機能させようとしている。
「 日本に合わせなきゃいけない」という一言は、
日本の学校や社会の同化圧力がいかに強力だったかを物語る。こうした同化圧力の下、
「日
本に合わせるため」には、自分のことを分かってくれる人、認めてくれる人がいる場を確
保することが重要だと彼女たちは考えているのであろう。フィリピン系に限らず、文化間
移動をした子どもが移動先の社会に適応する際の困難さは先行研究で繰り返し指摘されて
いることである(志水・清水 2001、他)。そして、こうした子どもたちが不適応を起こさ
ないために、居場所の確保が重要であることが指摘され、様々な対策が講じられつつある。
Aさん、Bさんの「居場所作り」もこうした対策の延長上に位置づけられるが、彼女たち
の場合は自分たち自身がニューカマーとして経験した困難さを基にしているという点で、
より当事者のニーズに合ったものであると捉えることも可能だろう。彼女たちは日本社会
の同化圧力の下で生き抜いていくために、常に自分を確認する居場所が必要であることを
身をもって感じているのであろう。
そして、その居場所作りのためには、みんなが「楽しい」と思える空間作りが必要であ
ると 2 人は述べる。小学校、中学校と日本の学校を経験してきた彼女たちは、フィリピン
では毎週教会に行っていた子どもでも、日本の学校に入ると、部活や勉強で忙しくなり、
教会から離れていく可能性があることを理解している。そのため、そうした子どもでも継
続的に教会に通えるような工夫を行っている。例えば、ピクニックや誕生日会など教会以
外の場で楽しめるイベントを月に何度か催し、初めての人でも気軽に参加できる雰囲気作
りを心がけている。
どうやったら(みんなが)教会に毎週くるようになるのかなって。楽しいことしないとっ
て思って。・・・友達と遊んでたりするのと同じように、こっちでもじゃあ、ピクニックでも
しよっかーとか。どっかいこっかー。聖書だけじゃなくて、教会のこともあるんだけど、
みんなで楽しむ。【Aさん 2010.10.31】 このようなAさん、Bさんの手によって作られたユースグループは、徐々にメンバーを
増やす中で、友人関係を密なものとしていく。小学校 5 年生の時に来日し、叔母の紹介で
中学 3 年からT教会に通うようになったCさんは、最初に教会と聞いたときは「重い感じ。
やっぱ静かにしなきゃいけないのかなって。ちょっときまずい」と思っていたという。彼
女はそれまで母親と一緒に月に何回か近所にある別の教会に行っていたというが、さほど
熱心には通っていなかった。さらに、その教会は信徒の数が多かったため、信徒同士のつ
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ながりもそれほど密ではなかったようである。そうした経験が「教会=重い感じ」という
彼女の認識を形作っていたのであろう。しかし、ピクニックなど教会以外の場におけるイ
ベントを通じて、Aさん、Bさんとのつながりが深くなり、友だちが増えることによって、
T教会に対するイメージ、ユースグループに対するイメージが彼女の中で変わっていく。
そして、今では、
「自分的にその時間(=日曜の礼拝の時間)にそこに入ってないと物足り
ない感じ」というまでになっている。この発言には、後述するように様々な意味が含意さ
れているが、さしあたり、AさんとBさんが 1.5 世のための居場所として作ったユースグ
ループがCさんのような 1.5 世にとって重要な場となっていったことを指し示すものだろ
う。
(2)1.5 世にとってのユースグループ—フィリピンを思い出せる場—
で は 、 こ う し て 出 来 た ユ ー ス グ ル ー プ は 、 1.5 世 の 若 者 に と っ て 具 体 的 に ど の よ う な 意
味を持つ場となっているのだろうか。学齢期の途中で来日した 1.5 世は、来日後、日本で
過ごす時間のほうがどんどん多くなり、フィリピンでの生活の記憶は徐々に薄れていくこ
とになる。インタビューに応じてくれた 1.5 世のうち、来日後フィリピンに長期間滞在し
た経験を持つ者はおらず、日本語中心の生活を送っている者がほとんどである。
インタビュー当時 19 歳のCさんは、既述の通り小学校 5 年生の時に来日している。彼女
は母親の再婚に伴い、フィリピンから呼び寄せられ来日しているが、継父は日本人であっ
たため、フィリピン人との関わりは母親以外では教会しかなかった。母親とは母語である
タガログ語で会話していたというが、学校の友人はほとんど日本人であり、生活の中心を
占めていたのは日本語だった。そのため、教会はタガログ語を話す数少ない場であり、教
会がなければ、タガログ語を話す機会はほとんどない状態となる。実際、高校 1 年生のと
き、部活や勉強で忙しく、1 年間教会に行かなかったことがあったというが、その際にタ
ガログ語を忘れそうになったことがあったようである。だが、高校 2 年から再び、教会に
行くようになると、母語であるタガログ語が一番得意となる。つまり、日本語中心の社会
で生きていかなければならなかった彼女にとって、教会は母語を維持するための場となっ
ていたのである。Cさんは、タガログ語に強いこだわりを持ち、特にフィリピン育ちのフ
ィリピン人と話すときは、タガログ語で話してくれないと嫌だと述べる。
小・中・高は、日本人の友達だったから、日本語の生活だった。中 3 で教会に行き始めて、
フィリピン人との関わりがあるっていったら、教会しかない。・・・教会の友達は、(フィリ
ピ ン 語 と 日 本 語 ) 両 方 使 え る け ど 、 フ ィ リ ピ ン 語 ii で 話 す 。 日 本 語 で 話 す と 「 な ん で ? フ
ィリピン語で話していいのに」って感じ。フィリピン語、そのちゃんとした言葉で話して
くれないと。自分の言葉で。中途半端に見える。
【中略】教会にいると、フィリピン人の世
界って感じ。外にでても、教会の友達といると、もう日本って感じない。不思議。
【Cさん
2010.8.25】 彼女にとって、日本に居ながらフィリピンを感じることの出来る場が教会なのであり、
教会の友だちは彼女がこだわりを持つタガログ語、母語を自由に使うことの出来る相手な
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のである。そしてまた、
「自分の言葉」で話すことのできる教会の友だちは「中途半端」で
ない自分を見せることの出来る相手であるとも言えるだろう。
同様に、DさんとEさんも、学齢期の途中で日本に来日し、家と教会以外では日本語中
心の生活を送っているが、教会はタガログ語や英語を話すことのできる一番楽な場所であ
り、教会の友だちと一緒にいるときが一番楽しいと語る。学校のことや進路のこと、何か
困ったことがあったときに相談するのは教会の友達であると 2 人は述べる。また、ユース
グループではダンスやバンドの練習が頻繁に行われるが、彼らにとってそれはフィリピン
での生活を思い出すことにもなっていた。フィリピンでもダンスやバンドの演奏に勤しん
でいた彼らは、「日本人よりはリズム感あるから」といい、熱心に練習を重ねている。
つまり、学齢期の途中で移動し、タガログ語を第一言語とする 1.5 世の彼・彼女らにとっ
て、教会は唯一「自分の言葉」で話せる場所であり、フィリピンを思い出せる場として位
置 付 い て い た の で あ る 。 1.5 世 の 若 者 達 は 、 来 日 後 、 日 本 語 中 心 の 生 活 に 染 ま り 、 幼 少 期
に身につけたフィリピン文化の衣(箕浦 2003)が徐々にはぎ取られるという経験をする。
その中で、タガログ語が話せ、同じフィリピン系の友だちと劇やダンスができる教会は、
その文化の衣を再び確認する場となっていた。在米フィリピン系移民の研究を行った
Espiritu(2003)は、移民には物理的な「ホーム」だけでなく、想像上の「ホーム」が必要
であると述べる。実際に訪問することはできなくても、移民たちは想像を通してホームに
帰ることができるが、その想像上のホームを確保するためには、移民先での文化実践が重
要になる。それがたとえ、シンボリックなものであったとしても、移民にとってはアイデ
ンティティを確認するための資源となるという。つまり、今回対象となった 1.5 世の若者
たちにとって、この「想像上のホーム」を作る拠点となっていたのがユースグループであ
った。
(3)ユースグループの変容—「日本語しか話せない子」の増加
このように、学齢期に来日した 1.5 世がその多くを占めていたユースグループであった
が、近年その状況に変化が生じてきている。日本生まれで、日本語しか話せない子が増え
てきたのである。「日本育ちとフィリピン育ちで、やっぱり性格も違う。・・・文化なのか、
どうなのか。結構違うんですよね」とAさんは述べるが、性格の違いとして彼女が具体的
に挙げるのは、フィリピン生まれの子のほうがストレートに物が言え、時には相手を傷つ
けるようなことも言うのに対し、日本生まれの子の場合は、気を遣い、遠慮する子が多い
ということである。もちろん、それは最初のうちだけで、慣れてくると、日本生まれの子
も遠慮をしなくなるというが、それでも違いは残ると彼女は強調する。その違いが最も顕
著に表れるのが言語である。 最初は、ユースはタガログ語がメインだったんですよね。・・・みんなフィリピン育ちで、こ
っち(=日本)に来て、で、
(教会に)来てるわけだから、日本語まったくわかんないから、
みんなでタガログ語。フィリピン人の集まりみたいな感じ。けど、日本語話す人も増えて
きた。だから、そのときは、バイリンガルで。ただ、タガログ語しかわかんない人もまだ
いるから、日本語だけで話すとついていけないし、タガログ語だけだと日本語しか話せな
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い子がわかんないから。【Aさん 2010.10.31】
フィリピン育ちでタガログ語を母語とする「フィリピン人の集まり」のようだったユー
スグループが日本語しか話せない 2 世の登場で変化する。ユースグループ内部での共通言
語がタガログ語オンリーから、英語、タガログ語、日本語のミックスに変わっていくので
ある。そして、それはユースグループだけでなく、礼拝の際の言語にも波及する。T教会
は、元々礼拝時の使用言語は英語だけであったというが、日本語しか話せない 2 世の増加
によって、最近では日本語の通訳が付くようになった。通訳となるのは、信徒のうち日本
語が得意なフィリピン人や英語が分かる日本人、Aさん、Bさんのような 1.5 世たちであ
る。通訳を担当するグループが信徒の中にあり、現在は約 5 名が週替わりで通訳をしてい
る。通訳は牧師と一緒にステージに立つ。牧師が英語で一言ずつ話をし、その後に続いて
一言ずつ日本語に訳す iii 。 礼拝における言語の問題は、アメリカの事例でも指摘されている。親の母語を解さない
2 世の登場により、礼拝時の使用言語がホスト国の言葉、アメリカの場合、英語になって
いく(Chai 1998, Herting 2001)。それによって、母語を重要視し、子どもにも自分の母語
を話して欲しいと思う親とホスト国の言葉が母語となる子の溝が深まることもあるという。
しかし、T教会の場合は定住化志向の親が多く̶これは前述したフィリピン人の特徴の一つ
でもある̶、日本生まれの子どもにタガログ語を教えている親は少ない。むしろ日本人とし
て 育 っ て 欲 し い と 願 い 、 日 本 で の 成 功 を 望 ん で い る 親 も 多 い iv 。 そ の た め 、 礼 拝 時 の 言 語
に日本語が入ることを問題視している親はほとんどいない。こうした親の意向が影響して
いるのかは不確かではあるが、最近では、礼拝の言葉だけでなく、礼拝前にユースグルー
プのバンド演奏で歌をうたうときも歌詞の一部が日本語になるということも出てきている
v
。これに対し、親世代から何か異議申し立てが行われることはない。このように、T教会
の場合は、母語にこだわる親とホスト国の言葉を好む子どもという構図は見られない。し
かし、こうした日本語化の流れは一気に加速していくかといえばそうではない。その流れ
を押しとどめているのが 1.5 世である。せっかく親がフィリピン人であるのだから、やは
りタガログ語や英語はできたほうがいいとAさん、Bさんを始めとする 1.5 世の若者は述
べ て お り 、 1.5 世 は 日 本 語 し か 話 せ な い 子 ど も に も 積 極 的 に タ ガ ロ グ 語 で 話 し か け る と い
う。 日本語しか話せない子達に、タガログ語で話しかけたりして。どっちかというとこっちに
染まって、教えようって。どっちかっていうと、今強いのがそのフィリピン育ちだから、
みんなそれに染まっちゃうんですね。【Aさん 2010.10.31】 「せっかくお母さんがフィリピン人なんだから、その文化とか言葉を知らないのは、もっ
たいない」とBさんも述べる。2 世の子どもたちに対しても積極的にフィリピン文化や言
語を教えようとする 1.5 世の姿がそこにはある。なぜなら、前述した通り、1.5 世にとって、
ユースグループは「自分の言葉」、つまり母語であるタガログ語で話せる数少ない場である
た め 、 そ の 主 流 言 語 は タ ガ ロ グ 語 で あ っ た ほ う が 良 い か ら で あ る 。 1.5 世 が ユ ー ス グ ル ー
プを「自分の言葉」で言いたいことが言える「居場所」として形成、機能させる過程にお
9
い て 、 そ の 使 用 言 語 は 必 然 的 に タ ガ ロ グ 語 と な る 。 そ し て 、 1.5 世 が ユ ー ス グ ル ー プ を 積
極的にタガログ語を話す場、フィリピンルーツを確認する場として位置づけることで、そ
こに参加する 2 世の子どもたちにもタガログ語やフィリピン文化を知る機会が提供される
ことになる。このように、2 世の登場によって、T教会に日本語化の流れが押し寄せるわ
け だ が 、 1.5 世 の 存 在 が そ れ を 一 定 程 度 押 し と ど め て お り 、 そ こ に 言 語 使 用 に 関 す る せ め
ぎあいが見て取れる。 (4)2 世にとってのユースグループ—新たにフィリピンを感じる場—
このように 1.5 世がフィリピンルーツを確認する場として積極的に作り上げるユースグ
ループは、越境移動を経験していない 2 世にとってはどのような場となっているのだろう
か。教会が 1.5 世にとって「想像上のホーム」を築く拠点となっていることは既述したと
おりだが、前述した Espiritu(2003)は、「想像上のホーム」は特に 2 世にとって重要で
あると述べている。親の出身国での生活経験がない 2 世は自分自身のルーツを確認する場
がない場合、
「ホームレス」な状態になるため、親がいかに想像上のホームを作れる環境に
子どもを置くかが重要になるという。では、具体的に 2 世にとって、教会がどのような場
となっていたのかをインタビュー時高校 1 年生で母親がフィリピン人、父親が日本人のF
さんを事例に見てみよう。
日本生まれ日本育ちのFさんは、生活の中でフィリピンを感じることはほとんどないと
いう。日本語しか話せず、フィリピンでの生活経験がまったくないFさんにとって、フィ
リピンは旅行で訪れる場所である。彼女は、父親が日本人であるため、自らを「ハーフ」
と定義するが、家では日本語しか話さず、母親の作る料理も日本料理である。母親からタ
ガログ語を教わったことはないという。このような生活を送る彼女にとってフィリピンを
感じる唯一の場が教会であった。
「教会は、もうフィリピン!って感じ」と彼女は言う。彼
女は母親が教会に通っていたため幼少期から教会に参加している。だが、日本語しか話せ
ない彼女は、中学 2 年生のときにはフィリピン礼拝で話されていることの意味が分からず、
日本語礼拝に参加したこともあったという。言語の問題がここでも浮上する。彼女が中学
生のときは日本語の通訳はまだついておらず、英語のみの礼拝であったため、理解できな
い言葉を唯々聞いているだけの礼拝に意味を見いだせなかったと彼女は述べる。 このように、一度はフィリピン礼拝から離れていたFさんだが、中学 3 年の時に再びフ
ィリピン礼拝に参加するようになる。その背景には、日本語通訳が付くようになったとい
うこともあるが、一番大きかったのは 1.5 世の友だちや年長者たちの存在であった。家が
近いこともあり、幼い頃からAさんたちとは親交があり、あこがれの存在であったという。
そのAさんたちにフィリピン礼拝でピアノを弾いてくれないかと言われたことが再びフィ
リピン礼拝に戻るきっかけとなった。そして、ステージに立ち、ダンスやバンドの演奏を
するAさんたちを見て、彼女はああいう風になりたいと思い、ダンスを習い始める。
あの人たち(=1.5 世たち)は、
(ダンス)習ってなくても出来るんですよ。リズム感いい
から。・・・ああいう風になりたいと思って習い始めました。【Fさん 2010.12.26】 10
さらに、ピアノの演奏などでステージに立つ機会が増えることで、教会での責任が増し、
より積極的に礼拝に参加するようになる。そして、彼女は教会での活動を通し、教会の友
だちとの関わりの中で、フィリピンを感じる機会を得るようになり、フィリピンをより深
く知るようになっていく。小、中学校のときには、名前が日本名であることから、
「ハーフ」
であることは自ら主張しなかったというが、高校になるとフィリピンとの「ハーフ」であ
る自分を積極的にアピールするようになったという。モデルを目指しているという彼女は、
「フィリピン人のほうが日本人よりシンプルなおしゃれが上手だから、たまに真似したり
して」と言い、フィリピンの雑誌をよく見ていると言う。また、フィリピンでは 18 歳のお
祝いに盛大なパーティーを開く習慣があるというが、彼女は来年それを行う予定でとても
楽しみにしていると嬉しそうに語ってくれた。
このように、日本生まれの 2 世の彼女は、あくまでシンボリックな文化実践を通してで
しかフィリピンを感じることはできない。2 世はパーティーやイベントを通して、フィリ
ピン文化を感じるため、2 世にとってフィリピン人であることはある種のイベントである
と Espiritu(2003)は指摘するが、彼女の場合もまさにそうである。だが、ダンスや劇な
ど、シンボリックな文化実践を行える場こそがフィリピンでの生活経験がなく、家庭でも
フィリピンを感じることのできない 2 世にとっては必要なのであり、Fさんにとってはそ
れがT教会のユースグループであった。そして、そのシンボリックな文化実践を 1.5 世の
友だちや年長者と行うことにより、フィリピンをより知るようになる。前述の言語使用の
例 に も 端 的 に 示 さ れ て い る が 、 1.5 世 は 積 極 的 に エ ス ニ ッ ク ル ー ツ の 確 認 と い う 機 能 を ユ
ースグループに付与する。繰り返すが、それは日本語中心の生活の中で忘れそうになるタ
ガログ語やフィリピン文化の衣を確認するための手段であった。そして、こうした機能を
持つユースグループ内部で、1.5 世と 2 世の関わりは促進されていくのであるが、このユ
ースグループ内の 1.5 世と 2 世の関わりによって、ユースグループは 2 世にとっても間接
的にフィリピンを感じることの出来る場となるのである。つまり、親世代より年が近く、
身近な存在である 1.5 世との関わりによって、フィリピンでの生活経験がない 2 世も「想
像上のホーム」を形成する機会を得ることができていたのである。
4−2.世代を超えて受け継がれるもの—ロールモデルの獲得と規範の継承
(1)上の世代からの期待と監視
以上のように、ユースグループのエスニックルーツの確認という機能は、世代によって、
その意味合いが異なっている。しかし一方で、世代が進行しても変わらずに維持されてい
る機能もある。それは規範の遵守ということである。 ユースグループは若者たちが主体的に運営しているわけだが、親世代からの監視の目が
まったくないわけではない。親たちは、子どもを教会に連れて行く理由を「変な道」に行
か せ な い よ う に す る た め で あ る と 語 る vi 。 成 長 す る に つ れ 、 子 ど も は 親 よ り も 友 達 の ほ う
が大事となり、親のいうことを聞かなくなる。しかし、教会の友達と一緒にいれば、神に
背く道にはいかないので、教会に子どもを連れてくるのだと親たちは言う。ここでいう「変
な道」とは非行など社会的規範から逸脱するような行為のことであろう。つまり、しつけ
11
の機能を教会に期待している側面がある。そして、そのことは、ユースグループのリーダ
ーであるAさん、Bさんもよく理解している。 (小学校)卒業すると一番中途半端。自分が子どもか大人か、迷っている時期じゃない?
13 とかって。
【中略】卒業すると、・・・お母さんから離れて違うことするから。あんまり良
く な い ほ う に い っ ち ゃ う と 、 お 母 さ ん も 困 る し 。 そ う い う の だ と 寂 し い 。【 B さ ん
2010.8.29】 Bさんも思春期、反抗期に入る中学生が親離れに伴って、
「良くない方向」に行くことを懸
念している。そして、ユースグループが子どもの居場所となることで子どもを「良くない
方向」へ行かせないための歯止めとなればと考えていると語る。だが、その居場所は何で
も許される場ではない。ユースの活動が若者たちの自主性に任せられているのは、自分た
ちで規範を守りつつ活動が行える限りに於いてである。そのため、AさんとBさんは、ユ
ースの子どもたちにけじめを付け、規範を守るように常に言っているという。
例えば、礼拝中に、メッセージ聞かないでずっとおしゃべりしたり。
(そういうときは)み
んなに「前に立ってる人見えてるんだからね」って。
「結局怒られてるのはこっちだよ!み
んなにどんなこといわれてるかわかんないでしょ」って言って。こっちが恥かいている。
みんなは多分、分かってない。他の大人たちが「ユース迷惑」っていうの。色んなクレー
ム聞くじゃないですか。こっちが。それをこっちは謝って、説明してるのはこっち。その
気持ち分かってほしいっていう風に話して。【Aさん 2010.10.31】 ユースグループのリーダーである 2 人は、大人たちからのクレーム受け、それを子世代
に伝える親世代と子世代のつなぎ役となっていた。大人たちから見れば、ユースグループ
のリーダーであり、しっかりしている 2 人に任せれば、安心であるので、ある程度子ども
の自主性に任せようと考える。子どもの立場からすれば、親から言われたら反発すること
でも歳が近く身近な存在であるAさん、Bさんから言われるのであれば、と規範を守るよ
うになる。こうして親の監視の目はユースグループのリーダーである 2 人を通して子ども
たちに届くことになる。こうした年長者を媒介にした規範遵守の機能は、AさんとBさん
が牧師の娘であるから機能していたわけではない。2010 年にAさんとBさんからユースグ
ループのリーダーを引き継いだGさんも大人たちの目があるから、きちんとするように下
の世代の子たちに言っていると述べており、
「しっかりした年長者」がいる限り、この機能
は維持していくものと考えられる。
つまり、親世代の監視の目を背中に感じつつも、規範が遵守される限りで、主体性が付
与されているのがユースグループであるといえる。そこでは、1.5 世か 2 世かという区分
はなく、親世代に対峙する子世代として規範を遵守しなければならないが、年長者の存在
がそれをより強固にしていた。
(2)下の世代からのまなざし 12
一方、こうした規範を遵守させようとする圧力は親世代から、つまり上の世代からのみ
かかるのではなく、下の世代からも非意図的にかかることとなる。対象者となった若者た
ちは皆口々に教会のメンバーを家族やきょうだいみたいなものだと語る。
「もうみんな、き
ょうだいって感じ。いないと足りない」、
「やっぱ教会の子と一番仲良い。友達っていうか、
家族。きょうだい」という言葉が多くの若者から出てきている。Bさんも「教会は、もう
第二の家。もうみんな家族。大きな家族ですね」と述べるが、そこでの自分の役割が年下
の若い子たちの面倒を見る「お姉ちゃん」であることを自覚している。同様にAさんもユ
ースグループの最年長として、年下の子たちのことを考えて活動しているという。
結局やっぱりね、お姉さんとしてっていうのがあって。
(だから)たまに「学校どう?」と
か聞いてるんですよね。【Aさん 2010.10.31】 そして、それは自分自身も同じニューカマーとして、日本の学校、生活を経験したからこ
そ分かることでもあるという。同じような経験をした者として親世代とは異なる見方がで
き、だからこそ、ユースグループの存在が少しでも年下の子たちのためになればと考えて
いるという。ニューカマーの場合、ロールモデルの不在がよく指摘され、それが彼・彼女ら
の進路選択を狭め、肯定的アイデンティティ形成を難しくすると言われる(田房 2005)。
だが、この教会のユースグループにおいては、ニューカマーとして類似の経験をしている
年長者が多く存在し、身近に目指すべき像が存在するため、ロールモデル獲得のための資
源が提供されていた。特に、Aさん、Bさんを中心に年上の子を模範とし、自分の将来像
を描く子どもたちが多いという。 やっぱり、
「アテ vii・Aとアテ・Bみたいになりたい」っていうのは(下の子から)聞きま
すね。夢、っていうかゴール、目指すとこになってる。【Aさん 2010.10.31】 タガログ語、英語、日本語の三カ国語を操れ、楽器の演奏やダンスができる彼女たちはユ
ースグループの子どもたちの憧れとなっている。Cさんは高校進学、大学進学いずれの際
もAさん、Bさんに相談したという。また、そういうCさんも同じ高校に進んだDさんに
進学の際のアドバイスをし、年下の子たちを「お姉ちゃんとして面倒見るって感じ」だと
述べている。このように、
「年下の面倒をみる」という認識がユースグループ内で継承され
ているのである。 だが一方で、それはモデルとされる年長者にとっては「ちゃんとしなきゃ」というプレ
ッシャーにもなる。
「やっぱり次の世代の子もみんな見てるから、ちゃんといいモデルにな
んないとって(他のユースの子たちにも)言ってる。どんどんそれは、下に続くから」と
Aさんは語る。そして、この「ちゃんとしなきゃ」というプレッシャーは、下の世代にも
引き継がれていく。幼い頃から「アテ・A、アテ・Bみたいになりたい」といって、2 人
に憧れて育ってきたFさんは、最近、自分が見本となる番であることを自覚し始め、
「下の
子たちが見ているからちゃんとしなきゃ」と思うようになっているという。ステージ上に
立って歌ったり、ピアノを弾く機会が増えてきたことにより、下の子たちの目を気にする
ようになったとFさんは言う。Fさんは、Aさん、Bさんを見て育ったからこそ、年下の
13
子たちにとって、ロールモデルの持つ役割の重要さを認識しおり、そのことが「ちゃんと
しなきゃ」というプレッシャーを強めていた。また、Aさん、Bさんの後を引き継いでユ
ースグループのリーダーとなったGさんは、
「自分もしっかりしないとなって。すっごいあ
ります。プレッシャーは。・・・ほんと、一つ一つの行動に気をつけないとなって。見られて
るって思って」と述べており、そのプレッシャーはリーダーになった後、ますます増した
という。 これはある価値規範が世代を経て、若者たちの間で継承されていることを示す。ユース
グループが主体性を付与されつつも、第一世代の大人たちの監視を間接的に受けているこ
とは指摘したとおりだが、ロールモデルとして下の世代からも常に規範を遵守すべき存在
として見なされている様子が見て取れる。このような相互監視が規範を作り出し、その規
範が子どもや若者たちを「良い」方向へと導く。これはまさに親たちが教会に期待する教
育的機能である。つまり、ニューカマーの若者が組織の形成、運営主体となることにより、
教育的機能が強化され、より効果的に規範の継承が行われているといえるだろう。 5.まとめ
今回、T教会を中心として形成されたユースグループは、フィリピンの教会の影響を受
けた 1.5 世のAさん、Bさんが主体的に作り上げたものである。牧師の娘としての責任も
もちろんあっただろうが、自分自身がニューカマーとして日本で経験した困難さから、下
の世代の子が少しでも「良い方向に行くように」という思いが強い。そこには、一方的に
支援されるだけではなく、自ら主体的に資源を作っていくニューカマーの若者の姿がある。
そして、こうして作られたユースグループは、エスニックなルーツの確認と規範の遵守と
いう二つの機能を持つ場となっていた。
教会がエスニックマイノリティにとってエスニックなルーツを確認する場となることは、
冒頭で述べた先行研究においても指摘されていることである。しかし、今回の場合、エス
ニックルーツの確認という点で言えば、先行研究とは異なる諸相が見いだされている。つ
まり、エスニックなルーツにこだわる親世代とそれに反発する子世代というこれまでの構
図が今回の事例からは見て取れないのである。今回の対象となったフィリピン系ニューカ
マーの場合、親たちはエスニックなルーツを子どもに積極的には教えようとはせず、教会
にもそうした期待は抱いていない。しかし、学齢期の途中で来日し、日本での生活の中で
フィリピンの記憶が薄れていく 1.5 世は、教会にエスニックルーツ確認の場としての機能
を求め、自ら積極的にユースグループを作り上げていく。その結果、そのユースグループ
に参加するフィリピンでの生活経験がない 2 世もエスニックルーツの重要性を認識するよ
うになっていたのである。1.5 世と 2 世にとってのユースグループの持つ意味合いは異な
るが、日本語中心の生活の中で、家族以外のフィリピン人と関わるのは教会だけであり、
唯一教会だけが自分のエスニックルーツを確認する場、もしくは新たに知ることの出来る
場となることは共通している。フィリピンでの記憶が薄れている、もしくはまったくない
彼・彼女らにとって、教会は「想像上のホーム」を築く拠点となり、教会に行くことで精神
的にフィリピンと日本を往還することが可能となっているのではないだろうか。つまり、
1.5 世 と い う 「 古 い 世 界 と 新 し い 世 界 に 跨 る 完 全 に は ど ち ら の 側 で も な い 」( Rumbaut
14
2002)存在によって、これまでとは違う宗教組織に於ける世代間の関係性が浮かび上がる
こととなった。
エスニックルーツの確認という機能は、1.5 世と 2 世によってその意味合いが異なって
いたが、ユースグループの持つもう一つの機能である規範の遵守は、世代に関係なく継承
されていた。親世代が子どもに身につけて欲しいと考えている道徳的価値規範は、直接的
ではなく子どもをユースグループに入れるという方法によって効果的に継承される。つま
り、年長者に面倒をみてもらうことで、規範を遵守させやすくなっていたのである。また、
ユースグループのメンバー同士は非常に仲が良く、皆きょうだいみたいであるというが、
そうしたメンバー同士のつながりは年長者をモデルにし、将来像を形成するための資源と
もなっていた。そしてそれは、モデルとされる年長者にとっては規範を遵守しなければな
らないというプレッシャーにもなる。年長者をモデルにして成長してきた下の世代は自分
たちもより下の世代のモデルにならねばと思い、規範がどんどん継承されていく。つまり、
上からも下からも見つめられることによって、相互監視が強められ、規範の継承がより効
果的に行われていたのである。
日本生まれの 2 世の増加によって、ユースグループが変容していることは前述した通り
だが、このインタビューの後、また新たな変化が生じている。2011 年 1 月と 5 月にAさん
とBさんはそれぞれカナダとオーストラリアに 1 年間、留学をするため、ユースグループ
を離れている。その間、ユースグループもまたさらに変化し始めているのである。2 人が
い な く な っ た 後 、 ユ ー ス グ ル ー プ の リ ー ダ ー を 務 め て い る G さ ん は 、 1.5 世 が 少 し ず つ フ
ィリピンに帰っていることから、現在のユースグループは日本育ちとフィリピン育ちが半
分半分であるという。日本での就職や進学の難しさから、高校卒業後はフィリピンに帰る
1.5 世 が 多 い よ う で あ る 。 そ し て 、 現 在 の ユ ー ス 内 の 主 流 言 語 は 日 本 語 で あ る と G さ ん は
述べる。AさんとBさんが留学から戻ってきた後、ユースグループがどのように変化する
のかは未知数であるが、日本語話者の割合が増えるに従って、徐々にではあるが、確実に
日本語が主流言語となってきている。この日本語化の流れがアメリカの移民研究に示され
るような、親世代と子世代の分裂、ないしは、出身国生まれの 1.5 世とホスト国生まれの
2 世の対立というような様相を示すことになるのか、今後、継続的に観察していく必要が
ある。 以上のような知見が本稿からは得られたが、本稿はT教会という一つの教会に注目した
ものであり、その点で限界がある。他のフィリピン系のエスニック教会との差異やフィリ
ピン系以外のエスニックグループにおける宗教組織における世代間の差異との比較検討に
より、本稿で得られた知見がより精緻化されると思われるが、それについては今後の課題
としたい。
【注】
これに対しては、樋口(2005)が①移住過程の規定要因が論理的に説明されていない、
②移民政策などの時代的制約が反映されない、③トランスナショナリズム論で提起されて
いるような定住/帰国という二項対立では説明できない移住過程が捉えきれないという批
判をしている。
ii
ここでいうフィリピン語とはタガログ語のことを指す。
iii
礼拝で話すことは大体事前に牧師が紙に書いて渡すため、事前に日本語に訳したものに
沿って通訳をするのであるが、たまに紙に書いていないことも牧師が話すことがあるため、
i
15
ある程度の英語力と日本語力がないと、通訳は出来ない。
2010 年春に帰化し、2 世の子どもを持つ母親は、「ルーツを忘れることはいけないこと
ですか?」と述べ、両親ともフィリピン人であっても、日本で生まれ育った子どもたちに
は日本人として生きてほしいと語る(2010 年 5 月 29 日インタビュー)。その理由は、第
一に子どもたちは日本で生まれ育っているので、日本に帰属意識があるからだと言い、第
二に日本のほうがフィリピンよりも経済的に豊かなので、日本人でいたほうがよいと思う
からだと言う。また、別の母親も子どもには「もちろん日本人として育ってほしい。日本
のほうが安全だし、仕事もあるから」と述べる 2010 年 4 月 14 日インタビュー)。
v
月に一度、「ユースサンデー」と呼ばれる日がある。その他の日は、大人が前で歌い、
ユースグループはバンド演奏をするだけだが、ユースサンデーの日はユースグループが前
に出て歌う。2011 年 2 月のユースサンデーの際には、いつもは英語の歌詞でうたう歌を一
部日本語にするという場面が見られた(2011 年 2 月 27 日フィールドノーツ)。筆者がフ
ィールドワークを開始してからそうした場面を見たことは一度もなく、牧師も「初めての
試みだった」と述べている。
vi
2010 年 7 月 18 日フィールドノーツ。
vii
タガログ語でお姉さんという意味。
iv
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表者:角替弘規)によるものです。
17