第5回(5/28) 地下のパリの歴史 Ⅱ:メトロ — 遅れ馳せの優等生 — Ⅰ

横浜市立大学エクステンション講座
エピソードで綴るパリとフランスの歴史
第5回(5/28) 地下のパリの歴史 Ⅱ:メトロ — 遅れ馳せの優等生 —
Ⅰ 合理主義を尊ぶフランス人は、なぜ地下街をつくらないか?
1 なんでも一番のフランス人
フランス人は合理主義を建前とする。便利なものは何でも利用し、必要なものは独創
的な発想でもって創りだす。彼らは初物好きといってもけっしていいすぎではない。フ
ランス人の発明した物を列挙すると限りがない。ここでちょっとだけ紹介してみよう。
空を飛びたいという人間の願望を初めて実現したのは熱気球であり、これは 1783 年 6
月、フランス人のモンゴルフィエという人が紙製の気球を高度 2 千メートルまで上昇さ
せた。つづいて同じ年の 8 月にシャルルが水素ガスを詰めた気球を上げた。飛行船をつ
くったのもフランス人アンリ・ジファールである(1852 年)
。動力飛行機こそアメリカ
人のライト兄弟に先を超されたが、実用的な飛行機を創始したのは仏人サントス・デュ
モンである(1906 年)であり、英仏海峡の横断に最初に成功したのもブレリオというフ
ランス人である(1909 年)
。金属製のプロペラをもつ単葉機もフランス人の手で作られ
た(1909 年)
。
写真(ニエプスとダゲール、1824 年と 1839 年)もそうだし、マイクロフィルムもフ
ランスがいちばん最初に始めた(1870 年)ものである。映画の発明はエジソンとされて
いるが(1891 年)
、彼が発明したのはキネトスコープという一種の覗き箱であり、現在
のスクリーンに映像を投射する方式のシネマを作ったのはフランス人リュミエール兄弟
である(1895 年)
。録音機は 1877 年エジソンの発明となっているが、実際にはその発
明の 4 ヶ月前にフランス人シャルル・クロスによって設計されている。自動車は 1880
年代にダイムラーとベンツの内燃機関を使った自動車が嚆矢とされているが、実際には
それより 1 世紀以上も遡る 1769 年に、フランス人のニコラ=ジョゼフ=キュニョーが作
った蒸気自動車が最初だ。時速3kmで轟音を上げて走る試運転のとき壁に衝突して壊
れてしまった。それは史上初の自動車事故ともなった。
フランス人はこのように発明の才に長けているが、一旦発明してしまうと、それ以上
の工夫改善をしない。旧套墨守の態度は、フランス人が今なおありがたがって使用して
いる年代物のエレベーターに代表される。みなさんのなかにも、パリのプティホテルで
稼動しているエレベーターにお目にかかった方は多数いるだろう。それはあまり機能的
な動きをしないが、彼らの古物嗜好を如実に示している。古きものに価値を見出すのは
国民性といってよい。
技術改良の才についてはむしろ日本人の独断場だ。自動車、鉄道、カメラやビデオな
ど光学器械、コピー機械などもそうだ。余談になるが、独創的発想をするフランス人と
改良努力を天性とする日本人がタッグを組めば「鬼に金棒」となるのではないか。
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2 なぜパリに地下街がないか?
話をパリの地下に戻そう。合理主義を堅持し、極限までの自然利用を尊ぶフランス人
は地下の利用にも抜かりはない。じっさい、これ以外はないのではないかと思われるほ
どの多様に利用している。パリの地下に何が埋設されているか、一覧表にして示そう。
地下室、上・下水道管、電線、各種電信線、通路、高速道路、駐車場、地下鉄 METRO、高速郊外鉄道
RER、国鉄 SNCF、掘抜井戸、地域暖房管、倉庫、運河、河川、湧水源、温泉、貯水池、防空壕、核シ
ェルター、墓地、慰霊碑、礼拝堂、
(石切場)
、
(牢獄)
、
(気送管!)
、
(ビール工場)
、
(茸栽培場)
、
(水
族館)
、
(要塞) etc.
[注、
(
)内は現在使用されていないもの]
地下と聞いてすぐに地下街を思い浮かべる人は多いだろう。しかし、この一覧表のな
かに地下街が抜けている。じっさい、パリに地下街はないのである。以下、そのわけを
説明したい。
人間の地下利用は居住地または商店街としての二つのタイプがある。第一のタイプ、
つまり、居住地としての地下利用というのは世界的にみて少ない。すなわち、居住地と
しては気候上や土質上の例外的なケース(自然的要因)に限られる。つまり、極寒の地
とか、灼熱の地とかで、外気の温度が極端に低かったり高かったりする場合に、気温が
年中一定に保たれる地下での居住が選ばれる。シベリア、華北、モロッコ、スペインな
どがその例である。
第二のタイプ、地下街はどうなのか。それは、商店街が発展して地上が場所塞ぎにな
ったときに始まる。大都会の過密状態が極端に突き進み、行き場を失った街は地下に向
かって発展する。これはわが日本でも身近に見る例である。
ところで、世の大都市の宿命かというと、必ずしもそうではない。ニューヨークでも、
ロンドンでも、パリでも地下街が皆無というわけではないが、あるとしても極々例外的
である。つまり、地下に対する日・欧米の国民間に感覚の違いがあるのだ。
西洋人は古代ギリシャ時代からずっと ― キリスト教の布教の拡大後もそうだが ―
天上、地上、地下を截然と分けて考える傾向がある。地上は植物・動物の棲息する場所
であり、天上は天国つまり神の所在地であり、磔刑に遭ったキリストが昇天したように、
善き行ないをした者が神と出会う場所である。一方、地下は死者を葬る場所であるとと
もに、人間の観念においては「地獄」を意味する場所である。地上で罪を犯した者が刑
罰を受け、その苦しみゆえにのたうちまわる処だ。こういうわけで西洋人は生活の場と
しての利用は極力避けてきた。それゆえに、地下街が発達しなかった。
東洋人も死体の安置所となる地下を忌み嫌うところは西洋人に似ているが、東洋人に
とって地下は、死者が刑罰を受ける場所ではない。よって、地下に住むことを受刑地と
して受けとめ忌み嫌うことはない。それどころか逆に、都会人は地下街をもつことを大
都会の象徴として誇りにするほどだ。日本人が地下に住むのを好まないのは、そこの通
気が悪く湿度が高すぎるからである。日本のふつうの民間住宅に、西洋の建築物につき
ものの地下室がないのも同じ理由からだ。もし湿気の問題さえ解決すれば、地下利用に
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対する心理的抵抗感はないはずだ。
一方、西洋人は地下での居住こそタブー視したが、キリスト教の教義は自然界を人間
のために利用することを野放し状態にしたため、地下を利用することにもなんら厭わな
かった。鉱物資源や水資源の活用はもとより、倉庫および保冷庫(地下室)
、通路、駐車
場として使うのはむしろ当然であった。駐車場はむしろ地下に置くのがふつうのケース
で、パリには地下 8 階! の駐車場さえある。
これらの場所に人間は目的を限って赴くのであって、人の住む場所ではない。かくて、
日本の都市にふつうに見られる地下街はパリに存在しない。そこで問題になるのは地下
鉄である。
地下鉄を利用する人は 30 分ないしは 1 時間ぐらい、
そこに居つづけるわけで、
じっさい、後述するように、そうした長居が地下鉄導入の際に論議の的となった。
Ⅱ メトロ
1 メトロの登場はなぜ遅れたか?
(1)構想は一番最初だったが、ロンドンに先を越される!
なんでも世界で一番をモットーとするフランス人は地下鉄建設の点ではずいぶん遅れ
てしまう。世界初の地下鉄をつくったのはロンドン(1863 年)であり、つづいてニュー
ヨーク(1867 年)
、ベルリン(1881 年)
、シカゴ(1892 年)
、ブタペスト(1896 年)
、
グラスゴー(1896 年)の順で、その次にやっとパリが来る。1900 年のことだ。因みに、
日本の地下鉄は、早川徳次によって興された東京地下鉄道が 1927 年 12 月、上野~浅草
間で電車を走らせた(後の銀座線)のが最初である。
しかし、地下鉄は着工こそ遅れたが、構想そのものはパリが世界最初だった。さまざ
まな事情があって遅れに遅れたのだ。だが、じっさい運行してみると、19 世紀中に開業
した地下鉄 5 都市のなかで乗客数の点で第1位をキープしている。すなわち、年間利用
者数をみると、①パリ 11 億 6 千万人、②ニューヨーク 10 億人、③ロンドン 9 億人、④
ブタペスト 3 億 8 千万人、⑤グラスゴー1300 万人である。現在、世界でパリより利用客
の多いのは①モスクワ(1935 年開業)25 億人、②東京の 19 億 3 千万、③メキシコ(1969
年開業)の 15 億人の順になる。
「メトロ」は‘métropolitain’の略語でもともとの意味は「大都市の」という形容詞
であり、当初構想されていたのは単に「大都市鉄道」ということだったが、パリ・メト
ロの大部分が地下に潜ったことから意味が変わり、
「メトロポリタン」は「地下鉄」を指
すようになる。
「東京メトロ」はこの名を引いている。パリ・メトロは総距離のうち、地
上部分は5%であるのに対し、地下部分は 95%である。一方、ロンドン地下鉄(
「テュ
ーブ」という)は全区間の約半分が地上に露出しているが、地下に潜っている部分は非
常に深く利用しにくいのだ。パリを模したモスクワのメトロは地表スレスレのところを
走っている。だから、世界一の利用度を誇るのだ。
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パリ・メトロが遅れた理由の一つは迷信、二つめは鉄道会社の妨害、三つめはパリ市、
セーヌ県、国家の三つ巴の主導権争いである。以下、最初の夢想や構想段階から実現に
いたるまでのパリ・メトロの足取りを考察するなかで、これらについてふれてみたい。
(2)最初の構想
パリ・メトロの前史は七月王政ルイ=フィリップ時代(1830-1848 年)にまで遡る。ド・
クリズエ De Kerizouet という人物が 1845 年に最初の構想をぶち上げた。パリ・メトロ
が実現する半世紀以上も前のことだ。彼の関心は、パリ都心部とその周縁部を地下鉄で
結ぶことによって中央市場近辺の混雑を緩和することだった。たしかに、当時、人口約
百万のパリの中心部に中央市場があるため、朝夕のラッシュ時は大変な交通難を惹き起
こしていた。彼が考えていたのは果実・野菜・肉類の輸送に便宜を与えることだった。
だが、こうした斬新な発想はあまりに早く世に出すぎたため、世論はこれを一笑にふし
てしまった。
ド・クリズエ構想を引き継ぎ、具体的な計画にまで進めた人がいる。ブラーム Brame
とフラッシャーFlachat がそうだ。時に 1855 年、ロンドン地下鉄の開業より 8 年前のこ
とだ。この時期はナポレオン三世とオスマン男爵によってパリ大改造が大々的に進行し
ている最中で、かなり機運は熟していた。というのは、著名なサン=シモン主義者で銀行
家ペレールがサン=ラザール駅からオートゥイユ駅間7kmに鉄道を引き大成功をおさ
めていたからだ。人を輸送して収益をあげ、同時に沿線地の分譲によって大儲けをした
のだ。この市内鉄道は延伸されてやがて全長 38kmのパリ市内環状鉄道になる。当時、
鉄道を引けば儲かるというのはほぼ社会的通念となっていた。
ブラームとフラッシャーの共同企画は、中央市場の貨物輸送を確保するため地下鉄を
走らすとした。これにより、①パリ都心部での夜間の喧騒をなくし、②荷物引渡しを容
易化し、③現存する不動産の価格上昇をもたらす、というのだ。この地下鉄が実現すれ
ば、都心部は市内環状鉄道および主要鉄道駅と結ばれる。こうすればフランス国内四方
八方から到着する荷物を都心部に引き寄せることができる。この計画が発表されると、
中央市場の仲買人たちの間に熱狂を巻き起こした。しかし、ペレールをはじめ銀行家た
ちは食指を動かさなかった。ペレール曰く。
「街路からトマト籠とミルク缶を取り除くの
に何百万フランという費用では、実現は望み薄だ」というのだ。
二人は助成金を得る目的で市議会にこの計画を持ち込んだ。①半官半民の事業とする
こと、②旅客と貨物の両方を運ぶことの案まで漕ぎ着けた。しかし、資金をどう調達す
るかの難問題にぶつかる。時すでにパリ大改造の推進によりパリ市の台所は火の車にな
っていた。そうこうするうちに、頼みの綱のナポレオン三世が失脚してしまう。こうし
てせっかくのチャンスは失われてしまった。
(3)メトロへの危惧
第三共和政(1870-1940 年)に入ると再びパリ・メトロの構想がもちあがるが、実現
までになお 30 年の時日を要した。議会の論議で問題となった点を取りあげてみよう。
・ 「メトロポリタンという形容詞に取り替えて、パリ市民はやがてネクロポリタン[地下墓地]と言う
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だろう。
」
・ 「地下を旅行するとはどういうことか?——トローヌの柵[現ナシオン門]のところから地下へ降り
ていくもっとも屈強な男でさえ、肺病になった身でモンマルトルに昇ってくるだろう。
」
・ 「もし動く砂の中で蝕解が生じたら、沿道の人々に多額の弁償をしなければならないだろう!」
・ 「諸君がメトロなるものに賛成すると、大通りや幹線道路脇のあらゆる生活が消滅するであろう。卸
売商、製造業者、労働者らはその事務所や仕事場から出ると、たった一つの目的をもつことになろう。
すなわち、急いで鉄道に乗ろうという目的がそれだ。
」
・ 「そうだ! 彼らは家路を急ぐため電車に乗ろうとして、もはや知性を失うであろう。奴らは動物だ。
一言でいえば、パリの日常生活が破壊されるのだ。店は破産し、小売店は店を閉じ、知的生活は消え
うせるだろう。もはやパリはパリではなくなるのだ!」
・ 「暗闇の中で、死刑判決を受けた者やならず者の前で座っている女性は、瞬時のうちに何が起こるか
を知っている。
」
・ 「公道を汚す馬糞を著しく減らすことになろう。
」
(4)鉄道会社の妨害
つづいて提起された鉄道構想はそれぞれいろいろな論議を呼び、世論の危惧を招く。
メトロ構想には、地下か地上かのどちらを走らせるという論議と並んで、どのように
線路を引くかも問題となった。特に後者に対して既存の鉄道会社が神経を尖らせていた。
パリには 5 つの鉄道会社が乗り入れていた。各社は自社ターミナル駅を出発点とする経
路を望んでいた。もしメトロがパリのすべてのターミナル駅を結んでしまうと、旅客が
パリを素通りするだけで滞在せず、各社の株主たちは、それぞれが出資しているホテル
や乗合馬車業の仕事が奪われてしまうことを懸念したのだ。こうした彼らは陰日なたに
メトロの実現を妨害した。
また、投下すべき金額の大きさも問題だった。いかなる企業家も銀行家の支えなしに
このような事業に手出しすることはできなかったし、銀行家自体が運輸・ホテル・百貨
店に出資していたため、いかなる者もこの利害関係に縛られた。外国の事業家を捜すと
いう考え方もあったが、時代を支配していたナショナリズム思潮のもとでは、それはほ
ぼ見込み薄であった。
2 タブー視されていた地下へ
(1)市・県・国の三つ巴の争い
民間会社に期待がかけられないとなると、頼りは国と自治体のみとなる。まずセーヌ
県がイニシアティブを取り、5 つのターミナル駅を結ぶ構想をぶち上げた。パレ=ロワイ
ヤルの庭園の地下に中央駅をつくり、そこから 5 駅に向かって地下鉄道が走り出る構想
がそれだ。それは、幹線鉄道の利害にも適い、自治体からも補助金が出るはずだった。1
億 6 千万フランの総費用のうち民間が半額 8 千万を負担し、セーヌ県とパリ市が各 4 千
万ずつを負担するというのだ。ところが、パリ市は「旅行者のために公的資金が使われ
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るのは遺憾」との態度に出たため、この案も結局のところ頓挫。
パリ市議会は計画を振り出しに戻し、いかなるセクショナリズムにも偏しない構想の
もとに、一般公開のコンクールを実行することにした。このときユートピア的な構想が
多数世に出た。ウーゼ Heuzé なる者は、2 つの鉄塔の上に橋桁を置き鉄道を走らせると
いう、いわゆる高架鉄道の構想を提案(1877 年)
。橋桁に夜間照明施設を施し、同時に
歩行者の雨天歩行に便宜を与えることが売り物だった。また、クレティアン Chrétien は、
通りの中心に立てられた鉄塔を繋いで橋桁をつくり、そこに往復の鉄路を走らせるとい
う案を提起した(1881 年)
。この案には支柱が脆い危うさがあったが、創意的な面もあ
った。他案がすべて蒸気機関車を想定していたのに対し、彼の計画だけは電車を前提に
していたのだ。さらに、アンジェリ Angély なる者はモノレール案を提出し(1884 年)
、
テリエ Tellier は、セーヌ川の中心を走る鉄道案を出した(1885 年)
。
ここで注意すべきは、これらの構想が必ずしも地下鉄でないことだ。モデルのロンド
ンがそうであった(メトロポリタン鉄道)し、当時、地下鉄は建造費が嵩むと見なされ
ていたのだ。市内鉄道が経営的に見合うものかどうかを調査するために、ロンドンに視
察団が派遣された。その結果、建設費や経営の面ではまったく問題ないという結論に達
し、パリ市は具体的ルート案の検討に移った。
ここでまた別の問題が出てきた。法律上では、ルート確定についてパリ市とセーヌ県
の一致が条件づけられていたが、両者がつねづね折り合わなかったのだ。国がそこに介
入する(1883 年)
。すなわち、法律を改正し、県の承認がなくても市町村の独自判断で
路線決定ができるようにした。代わりに、国の関係当局(国家参事会と建設省)の了承
を義務づけた。国は、5 つのターミナル駅の上を走る高架鉄道という独自のルート案を
提起した。だが、今度はパリ市が納得しない。かつてパリ市が幹線鉄道 5 駅を繋ぐ案を
提出したとき妨害された思い出があり、このルートでは必ずしもパリ市民の利害に沿わ
ないとみたのである。かくて、パリ市と国とのあいだに暗闘が始まる。1889 年の万博が
近づく。しかし、もはやだれも言い出さない。風刺が出まわる。
「フランスは 1870 年に
戦争で遅れをとり、今やメトロで遅れをとった」
、と。
1889 年万博が終わると、すぐに 1900 年のそれの準備が始まる。それでも市と国のあ
いだの神経戦はつづく。1895 年 11 月、ついにこの面子争いに終止符が打たれた。国が
譲歩し、パリ市側の発意でルートを決め、着工してよいということになった。パリ市が
最終的に勝ったのだ。
1896 年 4 月に模型がつくられ、アンケートに付された。同年 11 月、実行計画が市の
技師に付託された。その 1 年半後に計画案が完成。主任技監はフュルジャンス・ビアン
ヴニュ Fulgence Bienvenüe (1852-1936)である。1898 年 3 月 30 日にすべての準備
が完了した。①6 つのルートの同時承認、②電気駆動モーターの推進力、③地下鉄 ― と
いう 3 原則が打ち立てられた。その地下鉄だが、騒音・美観・道路交通の観点からみて
高架鉄道は難点が多すぎた。すでに掘削技術の発達からみて以前のような難工事ではな
くなっていた。遅れに遅れて着工したことがプラスに作用したのだ。
パリ市は根強い怨恨をいだいており、ターミナル駅間を接合しないよう調整した。た
とえ軌道幅が幹線鉄道と同じであっても、いかなる幹線鉄道の列車も地下に入れぬよう
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工夫が凝らされた。
(2)現在のメトロ
現在のパリ・メトロは 14 線ある。
名称
距離(m)
開通年
区間
1 号線
16,600
1900
シャトー・ドゥ・ヴァンセンヌ~ラ・デファンス
2 号線
12,316
1900
ナシオン~ポルト・ドフィーヌ
3 号線
11,665
1904
ガリエニ~ポン・ドゥ・ルヴァロワ=べコン
1,289
1905
ガンベッタ~ポルト・デ・リラ
4 号線
10,599
1908
ポルト・ドゥ・クリニャンクール~ポルト・ドルレアン
5 号線
14,634
1906
プラス・ディタリー~ボビニー=パブロ・ピカソ
6 号線
13,665
1909
ナシオン~シャルル・ドゥ・ゴール=エトワール
7 号線
18,594
1910
ラ・クールヌーヴ~ヴィルジュイフ/ イヴリー
3,066
1911
ルイ・ブラン~プレ=サン=ジェルヴェ
8 号線
22,057
1911
バラール~クレテイユ
9 号線
19,562
1922
ポン・ドゥ・セーヴル~メイリー・ドゥ・モンルイユ
10 号線
11,712
1913
ブーローニュ~ガル・ドーステルリッツ
11 号線
6,286
1935
シャトレ~メイリー・デ・リラ
12 号線
13,888
1910
ポルト・ドゥ・ラ・シャペル~メイリー・ディシー
13 号線
22,500
1911
シャティヨン=モンルージュ~アニエール=ジュヌヴィリエ/ サ
3 号線 bis
7 号線 bis
ン=ドニ
14 号線
7,022
1998
マドゥレーヌ~ビブリオテーク・フランソワ=ミッテラン
これを見てすぐに気づくことは、11 号線と 14 号線を除き、そのすべてが第一次世界
大戦前にできあがっていることだ。構想段階でたいへん手間取ったのとは対照的に、1
号線が成ると矢継ぎ早につくられたのだ。もちろん、最初からこれらの区間が今のよう
であったわけでなく、第二次大戦前のメトロはほとんどパリ市の境界のところで終わっ
ていた。戦後になって郊外に少しばかり延伸されて現在の区間となったのだ。
全部を細かく述べることはたいへんなので、ここでは 1 号線となった 4 号線について
のみふれたい。4号線は、セーヌ川を渡るという難工事だった。
第一次計画の 6 路線のインフラ造成(トンネル掘削、溝、高架構造物、鉄路敷設)は
パリ市の責任とされた。総額 3 億 3500 万フランの建設費用は 2 度の借入金で賄うこと
になった。1899 年に 1 億 6500 万を年利 2%で、1904 年に 1 億 7000 万を 3.5%で借り
入れ、償還期間は 75 年とされた。この期間はあまりに長く、ほぼ無期限と考えてかまわ
ないだろう。
鉄道と車両の整備は市の直接管理から外され、パリ鉄道会社 Compagnie du chemin
de fer に契約期間 35 年で付託された。同社は鉄路敷設、電気供給、駅へのアクセス、修
理工場、車両管理に責任をもつことになった。
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(3)わずか 1 年半で竣工した理由
最初に開業したのはヴァンセンヌ~ドフィーネ間 13kmの 1 号線で、
運行開始は 1900
年 7 月 19 日である。パリの両端に位置するヴァンセンヌとブーローニュ二つの森を繋
ぐこの路線は現在のものより幾分短い。この 1 号線は僅か 1 年半で完成した。地下鉄工
事としては当時の常識を破る速さといえよう。速いについてはわけがある。第一に、メ
トロはけっして民家の下を掘られたのではない。トンネルは公道の下のさほど深くない
―最深でも 8 メートルを超えない―ところを掘られたのだ。その意味で、下水道を敷設
するのと基本は同じだ。穹窿アーチの頂上部は地表から 1 メートル以内にとどまる。だ
が、掘る前に、妨げとなるあらゆる管渠を移設しなければならなかった。
第二に、アメとムチの策である。トンネル工事は原則1キロメートルごとに実行され
た。工事の進行を速めるために、請負会社が予定期日より早く完成した場合は奨励金が
与えられ、それより遅れた場合は罰金が科された。実行速度の平均は月あたり 100 メー
トルだった。工事がもたらす周辺住民の不便宜をできるだけ最小限にするために、穹窿
で仮工事を施して人目にふれないかたちで工事がなされ、作業員はできるだけ地下で働
くよう促された。
第三に、掘削法の工夫である。まず、予定駅の位置に垂直坑(縦坑)が掘られ、ここ
が攻略の拠点となった。そこから鉱山の回廊の作り方と同じく横坑が掘り進められた。
木材を下に敷いた上に鉄路が引かれ、土砂を積んだトロッコが往復する。この回廊は未
来の穹窿にあたる屋根をもっていた。回廊ができあがると、その両側が掘られ、十分な
広さが保てるようにされる。その後、円天井がつくられ、石レンガを詰めて防水工事が
施される。これらの工事が終わると、支えとなるあらゆる木材が撤去され、レールの敷
設される深さにまで垂直に掘り進められる。穹窿の幅が大きく、10 メートルを超えるよ
うな場合には 2 つの平行した非常に深い溝が穿たれ、その間に側壁がつくられる。それ
が完了すると穹窿工事が始まる。深度が足りなくて穹窿をつくれないときは、水平な金
属天井によってトンネル上に蓋を置くだけにおわった。トンネルの蓋の上は直接に街路
になった。地下鉄リヨン駅がその例である。
(4)未来につながる新工法 - 構楯とケ-ソン -
このとき未来につながる二つの新工法が試みられた。その一つはあまり成功したとは
いえず、途中で打ち切られてしまったが、それでも、将来への活用への道を開くものと
なった。もう一つは、川を横切って地下鉄を通す際のモデルとなった。
前者は構楯(こうじゅん)方式といわれるもので、穹窿の形をしたシリンダー状の半
チューブを使う。この構楯は回廊の天井の深さにまで降ろされる。労働者たちはこの金
属製の屋根の下で作業をする。彼らは中空を掘り、楯甲の下に穹窿を建設する。この作
業が終わると、非常に強力なジャッキを使って道具を土壁に押しつけ、そこを穹窿の形
に切り取る。構楯の先頭部分に鋭利な刃をもつ穿孔機がつけられ、大地を削り取るのだ。
この方式の利点は、金属の楯甲が確保する保護のうちにある。それは完全に土地を支え、
あらゆる落盤事故を防ぐ。欠点は、土質が異なっている処では作業が遅れることだった。
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抵抗の異なる硬い土と柔らかい土を刃は同じ動きでは切れないのだ。このやり方が利用
されたのは 1 号線においてだった。
その意味で構楯方式は成功したとはいえないのかもしれない。しかし、よくよく考え
てみると、構楯の先に鋭利なプロペラ状の刃をいくつもつけ、それを強力な馬力で回せ
ば、どんな土でも削り取ることができるのだ。これこそ、現代でもトンネル掘りに使わ
れる掘削法である。掘削したあと直ちにトンネルの天井部分をつくれば、それでトンネ
ルはどんどん前に延びていく。津軽海峡とドーヴァー海峡のトンネル掘りのために使わ
れた方法がこれだ。構楯方式はこうした現代的掘削システムの草分け的な技術だったと
いえよう。
次に登場するのがケーソン(潜箱)である。これは 4 号線で使われた。4 号線はセー
ヌ川の中洲シテ島を挟んで二手に分岐したセーヌ川を渡る。鉄橋で両岸をつなぐのは単
純だが、都心部の、しかもノートルダム寺院の直前を高架で突っ切るのではあまりにも
無粋だった。川床の下を掘る方法も考えられたが、途方もない時間がかかるのと、水漏
れに備え、川床より何十メートルもの下を掘らねばならなかった。さらに、深い深度の
地下鉄ではあまりの急勾配になってしまうし、左岸のカルティエ=ラタン地区が高い丘地
になっていることを考えると、地下から地表に出るのが厄介なことになる。こうした難
問題を解決する方法として考案されたのがケーソンである。これによって川床スレスレ
の所に地下鉄を通すことができるようになったのだ。
ケーソンは、両端の閉じられた大きな管に似ていた。それが川床に投じられ、垂直の
煙突によって中に圧搾空気が注入される。かくて空気の圧力が水圧を上まわり、水の浸
入が防がれる。労働者たちはまるで釣鐘型潜水器の中で働くようだった。彼らが到達す
べき深度まで大地を掘るのだが、この掘削が進むにつれケーソンはそれ自身の重さによ
って沈降していく。沈降を容易にするため、釣鐘の先は予め尖らされていた。予定の深
度にまで達すると、釣鐘の全体が固定され、中にコンクリートが流し込まれ、各ケーソ
ンが相互に連結された。最後に、煙突は潜水夫によって解体された。
こうしたセーヌ川の渡河工事と並行して、今度はシテ島でのシテ駅とセーヌ左岸での
サン=ミシェル駅の建設が始まる。駅を設置するために大口径の垂直な井戸が掘られた。
しかし、予定地はもともと水気を多く含む軟弱な地盤だったため、地盤を固める必要が
生じた。土地に滲みこんだ水は氷に変えられ、これによって堅い大地での掘削が可能と
なった。さらに、駅が造られる深さ 17 メートルの処に 73 個の穴が同心円状に穿たれ、
そこに凝固剤が注ぎ込まれ、地盤が固められた。
工事の始まったのが 1904 年、完成したのが 1908 年であり、ここの工事現場は数年も
のあいだ巨大な機械装置が空地を占め、太陽の光を遮った。あらゆる金属製の資材が現
場で組み立てられる。ボイラーがフル回転する一方で、別の作業班はボルトを締め、け
たたましい音響とともにリベットを打ちつけた。陸上で完成した駅はゆっくりと円筒形
の底に降ろされる。この作業はハンマー音、水撃作用、圧搾空気が醸し出す激しい騒音
の中で行なわれた。その界隈は朝から晩まで野次馬の人だかりができ、近隣住民は騒音
と雑踏で半ばノイローゼ状態になった。
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(5)残土処理
残土処理の問題は現代の工事でも大きな問題である。トンネル掘削で出てきた土はど
うなったか。残土を仮にコンコルド広場に積み上げたと仮定すると、1 号線の工事だけ
で 70 メートルの高さに達したといわれる。大量の残土を荷車で運び出すのではたいへん
な交通渋滞をもたらす。かくて、セーヌ川に通じる地下回廊が掘られ、そこに線路を引
いてトロッコで土砂を川淵まで運び出し、そこから川船の乗せて遠い場所に運ばれた。
セーヌ河から遠い処での工事では、トラムウェイの鉄路と鉄道の一時的な連結が用いら
れた。鉄道というのは市内環状鉄道と幹線鉄道のターミナル駅を結ぶ線のことである。
これでもって土砂を市外に運び出すのである。
また、メトロ工事は地下の工作物の撤去を必須とした。2 千年の長いパリの歴史は地
下に様々なものを埋設していた。リヴォリ通りの下水管を移設しなければならなかった
ことについてはすでに述べた。よく出くわすのは石切場跡地である。そこに補強工事を
施さねばならなかった。かくて何キロメートルにわたって支柱の設置工事がなされた。
そして、空所部分をできるだけ埋め戻す必要があった。しかし、石切場跡地の処理はさ
ほど困難ではなかった。というのは、トンネル掘削工事から出た残土をそこに詰めれば、
それで済んだからである。
3 パリ・メトロの特徴
(1)マクロ的視点からみたパリ・メトロの特徴
メトロの開通は 1900 年 7 月 19 日。開通したその日はどんな状態だったか? パリ市民
の生活習慣を一変させるはずの地下鉄開通は意外とそっけなく扱われた。翌 7 月 20 の日
刊新聞では、北京の義和団事件のほうが遥かに大きな扱いを受けていた。ヴァンセンヌ
~マイヨー間の乗車体験記を乗せた記者は読者に2つの助言を与えた。これは感動に乏
しい証となる。
・本物の地下室メトロポリタンのプラットホームに降り立つ前に背広またはジャケットのボタンをはめ
ること!?
・絶対に軌道を渡らぬこと
誕生当初の感動は乏しかったかもしれないが、パリ・メトロは他国のそれと較べいく
つかの特徴をもっている。それを以下、簡単にみていこう。
第一に、敷設距離に比して利用度が非常に高いことである。最初の電車はヴァンセン
ヌ~マイヨー間 13 キロメートルをメトロは 25 分で走り抜けた。時速 31.2 キロメートル
になる。当時としては大変な速さであった。それまでトラムを使うとゆうに 1 時間はか
かった。メトロが開通したため、約 1 万 1 千台の辻馬車がお払い箱になった。現在、パ
リ市民の 4 人に 1 人が毎日メトロに乗る。うち、3 人に 1 人がきわめて頻繁に利用する。
週に 1 度しか利用しない人は 15 人に 1 人しかいない。この利用率は、比較すべき他の都
市の数値がわからないのでハッキリしたことはいえないが、きわめて高いということだ
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けはいえそうだ。
現在、パリ市内に張り巡らされた巨大な蜘蛛の巣の中で 14 個の糸が絡みあっているの
だ。最長の路線は 13 号線の 22.5 キロメートルである。ニューヨークでの最長路線は 30
キロメートルであるから、パリの路線がけっして長いわけではない。総延長距離で比較
してみても、ロンドンとニューヨークはパリの 2 倍の長さをもっている。
第二に、パリ・メトロが地表のすぐ下を走っており、アプローチで段差が少なく、利
用に便利であることは既に述べた。つまり、ロンドンやニューヨークの地下鉄を利用す
るのに比べ、少ない歩数で行けるのだ。そして、急傾斜地を走らない(まったくないわ
けではないが)し、ほとんど急カーブを描かない。急カーブは 1 号線バスティーユ駅の
近辺と、4 号線のサンジェルマン=デ=プレ駅近辺、5 号線の高架鉄道でオーステルリッツ
駅を出てセーヌ川を渡ってラペ駅に到達する直前でしかない。
このようなわけで、メトロは当初より現在に至るまで利用率がきわめて高い。以下は
誕生以来の利用客数の変遷である。
* 利用客数(単位百万人)と総延長距離(単位km)の変遷
1901
1910
1920 1930
利用客
56
318
688
総延長
13
70
95
1938
1945 1946
1947 1948
1949 1962
2000
888
760
1508 1598
1453 1390
1246 1130
1190
116
158
165
165
167
167
169
169
211
これをみてわかるように、誕生後 10 年でメトロの利用客数は 6 倍に、20 年で 13 倍に
なり、第二次世界大戦終結直後に最大値に達し、それ以後は、総延長距離が延びている
にもかかわらず漸減傾向にある。オートバイ、自家用車、郊外急行電車など代替交通機
関が発達したからだ。
第二に、季節、曜日、時間、天気、街区の地理により利用客数は変動する。幾つかの
路線はつねに混んでおり、また別の線はいつもヴァカンスのような空き方である。利用
度の高い線は最古の歴史をもつ 1 号線である。つづいて 4 番線、12 番線となる。一般に
右岸のほうが混み、左岸のほうが混まない。混雑駅の筆頭はサン=ラザール駅で、2 番目
が北駅、3 番目がシャトー・ド・ヴァンセンヌ駅であり、この 3 駅は幹線鉄道の出発駅
である。4 番目がレピュブリク駅であり、ここで 5 つの地下鉄路線が交差しているから
だ。しかし、ごった返すといっても、東京と比べると少ない。3 路線交差のサン=ラザー
ル駅で乗る客の数は年間で 3200 万人、1 日当たり換算で 9 万人にしかならないのだ。
第三に、パリ・メトロはすべて複線である。ロンドンは単線チューブ、ニューヨーク
は複々線(一対は各駅停車用、もう一対は急行用)であるという点でも異なる。
第四に、パリ・メトロは駅間が短いという特徴ももっている。駅間の平均距離は約 500
メートルである(因みに、郊外に延伸された今、平均駅間距離は延びて 710 メートルに
なる)が、最長は 1028 メートル、最短は 235 メートルである。このように駅間が短いこ
とは必然的に電車の速度を制限する。じっさい、こうした短距離のため運行速度が時速
24 キロメートルを上回ることはない。モスクワの駅間はパリの 3 倍、時速は 60 キロメ
ートルである。
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第五に、毎日の始発電車は 5 時半に出発し、終電が終着駅に到達する午前 1 時 15 分ま
で間断なく運行する。乗客数は老若男女合わせて毎日 400 万人に達し、冬季は 450 万に
達する。客の1行程あたりの移動距離は平均して 5~6 キロメートルである。ラッシュア
ワーは東京メトロと変わりない。朝は 7 時 30 分~8 時 30 分の間、夕方は 18 時から 20
時までの間である。同じ時間に 500 もの列車がパリの地下いたるところを蠢いているの
だ。その間隔は 1 分 45 秒~2 分 50 秒おきである。ラッシュ時には 30 万の乗客が1平方
メートル当り 4 人の割合で肘と肘、腹と腹、背と脊を突きあわせる。この点でも東京と
変わりないだろう。混雑緩和のため時間差通勤が奨励されているが、あまり捗捗しい結
果をみていない。
(2)メトロ駅
地下鉄駅の総数は 297 駅であり、世界第 2 位の多さである。因みに、世界一の数を誇
るのはニューヨークで断トツの 498 駅である。第 3 位がロンドンの 290 駅、第 4 位に東
京の 201 駅とつづく。第 5 位はベルリン 150 駅、第 6 位シカゴ 143 駅となる。
地下鉄駅には名前がついている。わが国と違うのは、名称を地名からとることが少な
く、戦争(戦場)
、聖人、偉人から取っている場合が多いことだ。この呼称法は街路や広
場の場合と変わらない。偉人の中に含まれるのは芸術家、作家、学者、政治家、軍人、
レジスタンス戦士、というように、社会的カテゴリーの範囲が広いのが特徴だ。
Eg. (芸術家)ピガール Pigalle, ミケランジェロ Michel-Ange, パブロ・ピカソ Pablo-Picasso
(作 家)ゴンクール Goncourt, ヴォルテール Voltaire, ヴィクトル・ユゴーVictor Hugo
(学 者)パストゥール Pasteur, マビヨン Mabillon, ディドロ Didrot
(政治家)ダントン Danton, クレマンソーClemenseau, ガンベッタ Gambetta,ブランキ Blanqui
(軍 人)デュゴミエ Dugommier, カンブロンヌ Cambronne, ガリエニ Gallieni
(レジスタンス戦士)Guy-Moquet, Colonel-Fabian
パリ・メトロは、間に 1 対の線路を挟んでその両側にプラットホームをもつのがふつ
うである。プラットホームの両側に線路のあるパターンは、始発駅と終着駅のほかはほ
とんど見かけない。乗客がプラットホームに出てまず眼にするのは白壁である。白いタ
イルの貼られた壁が半円状に広がっているのだ。このタイルは水洗いに適している。こ
の白壁には 5 メートル四方の大きな広告板が取りつけてある。ここに、紙製のカラフル
な絵や写真を掲げる広告が貼り付けられるのだ。これは 1 週間または 2 週間単位で別の
ものに変えられていく。
プラットホームの幅についていうと、東京メトロのそれよりも最低でも 1 メートルぐ
らいは広くとってある。しかし、プラットホームの長さは 75 メートルまたは 105 メート
ルであり、東京メトロと比べるとずいぶん短い。75 メートルはその後(1963 年)延伸さ
れて 90 メートルとなった。それは客車の長さと1編成の電車の連結車両数とに関連して
いる。つまり、パリ・メトロは連結車両数が 4 両~6 両と少なく、その代わり各電車の
運行間隔が短いのだ。客車の長さは時代によって異なる。初期は短く、現代に近づくに
つれ長くなっていく。1900 年の車両は長さ 7.44 メートルから 8.88 メートルしかなかっ
50
た。馬力は 125 馬力、文字どおりトラムと同じものであった。その後徐々に長くなりは
じめ、現在の車両は 15 メートル、600 馬力を超える。
プラットホームの混雑と、それに起因する電車の出発の遅れを防止するために、客は
プラットホームからの出口通路を通ってホームに行くことはできない。すなわち、プラ
ットホームに通じる入口 ENTREE と出口 SORTIE(青色)は別々だ。これは乗車客と降車
客を別々に導くという点で理に適っている。客が別の路線に行くためには連絡口
CORRESPONDANCE というオレンジ色のマークに従って行けばよい。とにかく客の流れを合
理的に捌くための措置である。
パリにあって東京やロンドンにないものを挙げるとすれば、Portillon という名の自
動開閉扉であろう。これはプラットホームに通じる入口付近に設置されている。安全装
置の一種だ。電車が近づくと、この扉が自動的に閉まり、人はもはやプラットホームに
出ることができない。電車が発車すると、なんのことはない! 扉は自動的に開き、次の
客の群れをプラットホームに迎え入れるのだ。
(3)メンテナンス
メトロへの偏見で未だに消え失せているものがある。メトロの空気は汚れているため
長居は禁物、というのがそれだ。この懸念は建設前から問題になった。市議会議員ジョ
リボワ Jolibois は議会で次のように発言した。
「なんとも言いがたい匂い、汗とタール、炭酸、金属の埃、嵐の日のそれにも似た、重い、生ぬるさ
の入り混じった空気によって喉をやられる」
実際はどうか。電気で動くという利点はまさに有毒ガスや煙とは無関係である。1 号
線だけで 300 箇所以上も、穹窿の上に設けられた空気口と換気扇によって排気がなされ
ているし、空気清浄機も作動しているのだ。1930 年の古い数字だが、空気中に含まれて
いる炭酸ガスの量を場所ごとに比較したものがある。以下の単位は 1 立方メートル当り
のリットルである。
エッフェル塔の頂上:0.37、 パリ第 4 区街路:0.44、 メトロ:0.69、 高等裁判所:1.36、
市立学校:1.69、 裁縫場:4.58、 集会場:5.23
各車両は空気清浄機を備えており、電車が駅を通り過ぎるたびごとに、バクテリア殺
菌薬を含むエアゾールを噴出する。そのほか、プラットホームの床面は日に 3 度水撒き
なされ、月に 2 度のわりで徹夜作業によりプラットホームはもちろん、白タイルの水洗
いで駅全体の清掃が行なわれる。
そのほか、メトロはいたるところに排水ポンプを備え、下水や湧水からトンネルを守
っている。200 箇所を超える地点に排水拠点が設けられている。
メトロは年中気温が一定という利点がある。そのためホームレスの地下への侵入が絶
えなかったし、街路の排気口のところでホームレスの人々は寝泊りしている風景は今な
およく見かける。メトロの迷路はいまだかつて一度も冷めることはなかったが、温める
のには多少時間がかかった。新しい路線が所定の温度に達するのに約 2 年間はかかると
51
いう。だが、一旦温まると、モーターの摩擦熱や利用者の体温によって熱が維持される
という。
4 事件
百年の歴史をもつとなると、メトロとはいえいろいろ事件を刻むのは当然だ。だが、
大惨事というのは少ない。飛び込み自殺は宿命的に避けられない。毎年 60 件~70 件ほ
ど起こる。これは世界中の鉄道に共通することだろう。飛び込んだ人は轢死する前に、
高電圧で感電死しているはずだ。
最大の惨事は、開通してまもない 1903 年 8 月に 2 号線メニルモンタン駅で起きた電車
火災事故である。モーターが加熱して客車部分に着火したのが原因。大多数の乗客は出
口を通って逃げのびたが、出口付近の混雑のため最後尾車両の乗客だけは逃げることが
できずパニック状態に陥り、500 メートルほど離れた隣駅クーロンヌをめざし暗闇のト
ンネルの中を走った。そこを煙が追いかけてくる。クーロンヌ駅のプラットホームに辿
り着いたところで、炭素中毒で 84 名が折り重なるようにして斃れた。客車が木製でなく
耐火材でできていれば、そして、乗客の誘導がうまくなされていれば、大惨事は防げた
はずだ。以後は安全確保のための様々な措置が取られ、事故はほとんどない。
非常に稀有な事件として殺人や駅長襲撃などもあるが、これはパリに限られたもので
はなかろう。スリが多い点も、パリに限らないだろう。
珍しい事件としては、1910 年の 1 月に起きた大雨とセーヌ川の氾濫により、メトロが
水没したことだろう。サン=ラザール駅界隈とセーヌ河畔が酷かった。この洪水で 3 ヶ月
もの間、パリ・メトロのほぼ全線にわたって不通となった。
メトロ自体が惹き起こした事故ではないが、社会的大異変によりメトロが被害に遭う
ことがあった。すなわち、空襲と防空壕がそれである。パリ・メトロは 2 度の大戦に遭
った。1916 年 1 月にはドイツのツェッペリン飛行船による空襲を受け、2 号線ベルヴィ
ル大通りの穹窿に穴が開いた。1918 年 3 月の空襲で 7 号線 bis のボリヴァール駅でパニ
ックが生じ、71 人の死傷者を出した。
1939 年~1940 年の「奇妙な戦争」のとき、メトロ駅が戦災時の避難所になるのではな
いかという調査がなされ、市内 50 駅で 20 万人を収容できることがわかった。トンネル
100 キロメートルに亘って毒ガスに備える装置が取りつけられた。
1939 年 9 月、メトロ従業員の半数が動員されたが、それでもメトロは昼夜の別なく営
業をつづけた。また、民間人を疎開させ、動員兵を出征させるためにもフル回転した。
1940 年 6 月、フランスは降伏し、パリはドイツ軍の占領下に入る。バスとタクシーは営
業を停止したが、メトロは休みなく営業をつづけた。ほとんど唯一の都市交通となった
ため、その利用者数はうなぎ昇りに増え、1938 年と 1943 年を比べると倍増した。混雑
状態は常軌を逸していた。反面、駅の半分が閉鎖された。
メトロは、英米軍によるパリ南西部の空襲時に被災した。近くにルノー工場(ドイツ
軍のために軍用トラックを製造していた)があったからだ。時は 1943 年 4 月、9 号線ポ
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ルト・ド・サン=クルー駅が被災し、使用不能になった。この空襲で 403 人が死に、446
人が負傷した。
パリ・メトロは抵抗運動の拠点ともなった。ドイツ兵は切符なしで乗車できたが、ユ
ダヤ人はつねに黄色の星形徽章の着用と、最後尾の車両に乗ることを義務づけられた。
ドイツ兵はしばしば自動開閉器に挟まれたり、電車のドアに挟まれたりした。明らかに、
鉄道員によって嫌がらせを受けたのだ。プラットホームではレジスタンスのチラシが置
き忘れられ、
反ドイツの場内アナウンスが流れる。
1944 年 8 月のパリの一斉蜂起時には、
パリ・メトロは 1 か月間操業を停止した。
5 郊外快速電車 RER (Réseau Express Régional)
最後に、郊外快速電車にふれておこう。これも市内を縦貫する地下鉄の一種だからだ。
第一次世界大戦が始まるまでに、パリの全街区は地下鉄網にカバーされることになっ
た。しかし、パリ郊外はそうではなかった。1965 年の時点でもメトロは市域を抜け出て
僅か1~3 キロメートルで終点だった。ネットワーク全体の 1 割ぐらいしか食み出てい
ない計算になる。
「メトロポリタン」は最初からパリ要塞の囲いの中の「閉じられた街
ville fermée」だけを想定していたのだ。
この間、パリ人口はどんどん郊外に向かっていた。居住地は面積と人口の両面におい
て成長を止めなかった。1965 年頃すでに、パリ市内よりもセーヌ県のほうが多い住民を
かかえていた。郊外住民はたいていパリで仕事していたから、通うのにバスと電車を乗
り継がなくてはならなかった。
「郊外砂漠 desert de la banlieue」という言葉が頻繁に
出てくる。この「砂漠」はとてつもなく大きい。都心部と郊外を通常の交通機関で繋い
だのではとうてい用をなさない。
郊外快速電車の計画が最初に出たのは 1950 年代だが、着工されたのは 1961 年 7 月で
ある。そして、開業は 1967 年、デファンスからエトワール広場の間だった。細かい経過
話は抜きにして、出来上がったものの概要を示しておこう。RERはニューヨークの郊
外電車から着想を得ている。全長 220 メートルの長い列車は 800 人の乗客を乗せ、フラ
ンス国鉄 SNCF と同じゲージ軌道幅を時速 70~90 キロメートルで走るのだ。
最初に考えられた経路は地下鉄 1 号線とほぼ重なり、デファンスからナシオンまでの
間である。現在、A線といわれる路線がこれで、以後、徐々に両端を延ばし、西はサン=
ジェルマン=アン=レイ、東はマルヌ=ラ=ヴァレ(新団地)まで繋がることになる。この
列車はパリ市内の主要駅 5 駅でのみ停車するのだ。駅間距離は最短でも 1 キロメートル
を超える。その 5 駅とは①エトワール、②オーベル、③シャトレ、④ガル・ドゥ・リヨ
ン、⑤ナシオンである。駅間を 2 分半で繋ぐのだから、パリの西端から東端に行くのに
僅か 10 分しかかからない。
郊外快速電車はパリの人口密集地区を深さ 30~50 メートルの大深度地下を突っ切る。
メトロは深いところでも深度 18 メートルだったが、それより 20 メートルも下を掘ると
なると、従来の掘削法ではとうてい間に合わない。石切場、下水道、運河、回廊、そし
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て既設の地下鉄にぶつかることなしに掘り進むには、溝を掘るやり方では無理で、モグ
ラのように地下に潜ったまま水平に掘り進まねばならない。かつての構楯の改良型が用
いられた、この掘削機械の愛称を「野菜ミキサー」という。これはハイレベルの機械装
置で性能がよかった。これこそ、やがてドーヴァー海峡横断鉄道の掘削に用いられる機
械の原型になったのだ。
それでも硬軟の大地を掘り進むのは難こうじであったことに変わりなく、デファンス
からエトワールまでの 8 キロメートルの区間を掘るのに、1961 年から 67 年まで 6 年間
を要した。費用は国が 4 分の3、自治体が 4 分の 1 を負担した。
このRERの開通により、それまで毎日 30 万人の昇降客で混雑したサン=ラザール駅
の負担は大幅に緩和されることになった。
6 要約
(1)自然利用に関して祟りや恐れを感じない西洋キリスト教的自然観
西洋人は、神が創造した自然についてこれを利用することを何らタブー視しなかっ
た。そのために地下利用についても躊躇しなかった。
(2)地上と地下を截然と区分して考える傾向
しかし、西欧人にとって地下は「地獄」に通じ、死者が刑罰を受ける場所であり、
ここを人間の居住地化することを嫌ってきた。よって、欧米には地下街がない。
(3)後進性ゆえに最新技術の恩恵を享受
遅れて地下鉄に乗り出したため、最新の技術つまり電車を利用できたことである。
それゆえ、排気ガスの問題が少なかったため、ほぼ全路線を地下で通すことができた。
(4)フランス人の創意性
浅い地下掘り、構楯方式、ケーソン方式、野菜ミキサー、ゴムタイヤ。
(5)軌道幅を在来鉄道と同じ幅にするという先見性
既存鉄道会社との対立はあったが、軌道幅は標準軌道を採用し、将来的な相互乗り
入れに道を開くことになった。ロンドンではこれが不可能であった。
(6)インフラ整備に関して社会的抵抗が皆無
西欧の都市インフラ整備についていつも思うことだが、社会的抵抗がほとんどない
点に特徴がある。これは都市自治、住民自治と同じ地平で論じるべき問題だが、公益
を私益に優先させる原則が社会的ルールとして確立していることを示す。
(7)市・県・国の主導権争い
とはいえ、国家と自治体の争いは避けられなかった。メトロはそれが錯綜して遅れ
てしまった最たる例である。さらに、郊外高速鉄道の出現が遅れたのもそのためであ
る。中央集権体制の政府でのみインフラ大事業を推進したという経緯。
(8)放射線路はあるが、環状鉄道がないという難点
西欧のどの大都市に共通する問題だが、都心から郊外に延びる交通路はあっても、
周辺部分をつなぐものがない。パリもその例外ではなかった。(c)Michiaki Matsui 2015
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