第2回(10/1) 「19 世紀軍事史」

横浜市立大学エクステンション講座
ヨーロッパ史における戦争と平和
第2回(10/1) 「19 世紀軍事史」
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
はじめに
19 世紀(固有の意味の 19 世紀:1815~1914 年)はヨーロッパ史上で例外的に戦争
の少ない時期にあたる。ヨーロッパでの大戦争といえば、クリミア戦争、デンマーク戦
争、普墺戦争、普仏戦争、露土戦争ぐらいしかない。アメリカ大陸(米墨戦争、南北戦
争、米西戦争)と南アフリカ(ボーア戦争)で起きたが、それらはヨーロッパと直接的
に関連しない。
そうなったのは、直前のフランス革命からナポレオン戦争まで対仏戦争が四半世紀
も続いて多大な惨禍をもたらし、その反省にもとづいて、戦争が拡大しないうちに列強
会議でもって紛争の種を断ち切ることに諸国が合意したからである。これをウィーン体
制という。もうひとつには、列強の中の有力国イギリスが、飽和市場となったヨーロッ
パに興味をもたなくなり、海外進出に余念がなかったこともある。
しかし、ヨーロッパ列強はそれでもって満足していたわけではない。ウィーン体制
は「不満同盟」と揶揄されるように、軍事・外交面で諸国政府の手足を縛った状態にお
いたからだである。また、同時的に進行したナショナリズムと産業革命が諸国の社会に
さまざまな問題を生じさせ、それが外交面にも少しずつあらわれていた。とはいえ、軍
事でもって事態の打開が図れない。そうした鬱屈状態が 20 世紀を迎えるとともに一挙
に吹きだしていくのである。
第1章
旧制度下の軍制
【軍事学】……未来戦争に備えるための軍事的教訓論
(1) 目標:政治、軍事、経済、社会、心理
(2) 軍隊:編成、動員、行軍、陣地、兵站、給養、士気、病院
(3) 兵器:兵器、活用法、修理、民生技術
(4) 人材:軍人養成、訓練、動員順序、徴用、各級学校教育
(5) 物材:糧秣、徴発、輸入、運搬
(6) 指揮:参謀本部、参謀部、前線指揮、指揮系統、作戦研究、測量・記録
(7) 銃後:情報統制、戦時経済、士気宣揚、防御、軍民関係、労役、治安
【戦争史】……通史の一部
(1) 戦争を社会から分離せず、因果関係を中心に総合的に把握
(2) 戦争の起源
1
(3) 社会への影響
(4) 類型化をはかり、広い意味での普遍法則を導出
第1節
傭兵から常備軍へ
戦争は文明と共に成長する。戦争は文明の一つのあらわれであり、何らかのかたち
で文明を生む。戦争を分類すると、部族戦争、封建戦争、傭兵戦争、国民戦争、帝国戦
争に分けられる。人間の死の排出度を基準に序列をつければ、右から左への順になる。
集団の戦争への参画の度合いを基準にして序列をつければ、部族戦争と帝国戦争が極端
に大きく、封建戦争と傭兵戦争が小さい。
ここで扱う 19 世紀は国民戦争の段階に当たる。しかし、この時代をとりあげるに
は前段階の傭兵戦争(近世絶対主義戦争)を考察しなければならない。
1700 年までに国家に属する常備軍という骨格はできていた。平時、戦時を問わず専
門兵士から成る軍隊を維持することはどの国でもとられていた制度である。つまり、彼
らは軍人意識、外観(習慣・衣服・人間関係・特権)
、機能(戦士)
、責任(戦線離脱禁
止)の面で社会一般から截然と区別されていた。
軍隊の成長と国家のそれは軌を一にしている。すなわち、国家の中央集権化が軍隊
の成長を促し、対外戦争で自国を有利に導き、国内的には国民統治の暴力装置ともなっ
た。効率的な軍制をもてなかった国家は民主国家であろうが、王制国家であろうが、亡
国の悲哀を嘗めるにいたった(ポーランド、ハンガリー、チェコ)
。
第2節
オランダの軍事改革
オランダは隆盛と没落を短期間のうちに味わった。この国は最初に軍事改革に成功
した国家である。その常備軍の財政的基礎は海外貿易から得た富である。この国は兵士
に気前よく俸給を支払うことができたので、それまでの傭兵がやりたがらなかった2つ
の事柄を実行できた。つまり、塹壕掘りと厳しい訓練がそれだ。オランダは地形的に見
て低平の国で、水路と塹壕と機能的要塞(クーロン式)だけが防衛に役立った。
包囲軍に対抗できるのは火力である。オランウェ公マウリッツは 16 世紀末にそれ
までの槍とマスケット銃の役割を逆転させ、火力の充実をはかる。つまり、10 列ローテ
ーションシステムの導入により銃手は連続した斉射をおこなうことができた。槍手はそ
れまでの騎兵突撃からマスケット銃手を守る役にまわった。
戦闘行為の発展は戦闘員における高度の統制(運動の統制、火力の統制、兵士の絶
対服従)を必須とする。そのために特別の訓練が必要だった。
オランダの弱点は連邦共和制のゆえに権力集中が不十分であり、つねに財政的困難
をかかえ、陸戦と海戦の備えを同時にできなかった。大陸ではブルボン朝フランスとハ
プスブルク朝のスペインが、海上からはイギリスがオランダの前に立ちはだかった。
第3節
グスタフ・アードルフの軍事改革
マウリッツの弟子がスウェーデン王グスタフ・-アードルフにオランダの兵制を紹
介した。これによりスウェーデンはすぐにバルト海両岸を制圧する軍事大国となる。
2
(1) 国民皆兵の原則 … 人口僅少(150 万)を補うため国民中から 10 人に 1 人の割合
で徴用して 20 年兵役に就かせ、残りの国民は租税を払う方式に従った(兵器廠
と鉱山の労働者は除外)
。
(2) 規律の強化 … 軍規違反者は軍法会議にかけられた。グスタフ軍は一騎当千の力
を誇り、歩兵の縦深は 10~6 列にとどまる。つまり、軍は機動性を維持した。
(3) 騎兵と砲兵の役割の変化 … 長槍を脇にかかえる騎兵は集中と統制によって初
戦の恐るべき衝撃の道具となった。また、大砲の改良により機動性に優れる野戦
砲が出現。つまり、砲身を半分に短縮し重量を軽くし、発射速度がマスケット銃
並みになった。騎兵、砲兵、歩兵は有機的に結合し、戦場で単一行動がとれるよ
うになる。すなわち、騎兵は攻撃の衝撃を、歩兵は銃を、砲兵は大砲をもって他
兵種の弱点を補った。
(4) 兵站部の独立 … 装備や軍服、食糧や弾薬の安定供給のため兵站部を設置。
大量発注は軍事産業の成長を促し、製鉄・衣料・製靴・食品の需要を支えた。
(5) 軍学校の創設 … 作戦の複雑化と将校団養成のための軍事専門学校。
(6) 海軍の創設 … 商船の軍艦への転用から、海戦のみを目的とする戦艦が出現。こ
れを真っ先に取り入れたのがイギリスである。イギリスは船舶税を基礎に艦隊を
育成し、クロムウェル時代に 207 隻を数えた。
第4節
18 世紀の軍隊
グスタフ改革は全ヨーロッパに影響し、どの国も似たような体制を整えた。すなわ
ち、①国家が支える常備軍、②歩兵・騎兵・砲兵の3兵種、③兵站部の独立、④傭兵と
徴兵の併用、⑤貴族のみから成る将校団、⑥軍学校創設 ― これらである。かつて傭兵
制が引きずっていた諸身分入り混じった軍人間の友情は消え失せ、軍の機動性と人間の
ロボット化が進むことになった。
戦闘が破壊的になり、専門兵士を補充するのが難しくなったため、18 世紀の将師は
2世紀前の傭兵と同じく決戦を避けるようになる。
「有能な将軍とは戦わない将軍なり」
という格言さえ生まれた。戦わないで勝つとは敵を飢えさせ(包囲戦)
、戦意を奪うこ
とだった。よって、攻める際は長期戦に耐えうるよう糧秣・弾薬の準備が十分に整えな
ければならなかった。よって、戦闘の開始は晩春、終わりは晩秋となった。
通信線(祖国 → 基地 → 倉庫 → 前線へと続く補給ライン)が重要となり、
「基
地」
「策源地」
「倉庫」
「内線」
「外線」
「先遣隊」
「分遣隊」
「翼側」なる軍事用語が誕生。
指揮官は目前の戦闘が釘づけ戦か、決戦か、持久防衛戦かを速やかに判別し、それ
に沿った戦法を強いられる。相手に精神的重圧を加えることや物質的な消耗のゆえに降
伏してくるのを待つやり方(避決戦主義)が賢明な戦法であり、大量出血を伴う「一か
八か」の冒険的な戦法は避けられた。
18 世紀後半までのヨーロッパ列強の軍隊は築城、攻城、行軍、補給のすべての問題
に関わり、国家内におけるひとつの国家のような存在になる。独特の慣例、儀式、軍楽、
制服をもつサブ・カルチャーの世界 ― それはひとつの宗教団体であった。
だが、戦争は王の問題であって国民は無関係である。国民の義務はひたすら税を払
3
うことだった。そのころに始まった政治経済学(重商主義)の目的は、税を払うための
金を国民が効率よく貯め、気前よく税を払える仕組みをつくりだすことだった。
国民は戦争を引き起こすことや戦争に参加することは要求されず、戦時においてさ
え通商、旅行、文化、学問の交流は(敵対国家の壁をものともせず)ふだんと同じよう
に営まれた。また、中世ヨーロッパで民衆の脅威となった、傭兵崩れの群盗はいなくな
り、平時の軍隊は国家監理下の兵舎内に押し込まれた。これは殺人行為に一定の秩序を
もたらしたヨーロッパ文明の偉大な成果の実例ともいえよう。
「啓蒙の世紀」の 18 世紀は「理性」支配の時代でもある。スミス、ヴォルテール、
ルソーらは戦争に対して楽観的な態度を保持した。彼らは軍隊を必要悪として黙認した
が、好戦的であったわけではない。彼らは貴族将校と獣の兵卒から成る軍に共感などま
ったく懐かず、前者には特権階級に対する敵愾心を、後者には、命令されれば人殺しを
厭わない道徳欠如を見ていた。彼らにとって戦争とは、エゴイズムに染まる特権階級が
起こすものであり、もし人間の平等と経済社会の合理性に根ざした組織がつくられ、そ
れが明察をもつ人々によって運営されるならば、戦争は起こらないと考えた。軍隊は憎
むべき未開社会の残滓であり、人類の啓蒙とともに消滅させるべき対象と見なされた。
第2章
ナポレオン戦略
第1節
フランス革命
将校団 … 実戦経験のもたない素人貴族 … ヤル気なし
絶対王政下の常備軍 下士官 … 兵卒上がりで実戦経験豊富、軍の頭脳と骨格をなす
兵 卒 … 傭兵で給金のために従軍
フランス革命の軍隊(国民の軍隊) … 自由・平等・民主主義・国家防衛…ヤル気満々
将校団 … 旧常備軍時代の下士官 … 階級売買不可、昇進可能
下士官 … 兵卒から昇進の昇進者
兵 卒 … 志願兵と徴兵 … 祖国愛に燃える市民=兵士
かくて、軍隊は国家の中の独立の存在ではなく、国民の軍隊であることを要求され、
国民・国家の運命と不利一体のものとなった。軍職が万人に開放され、軍職に就くこと
が愛国主義と共和主義の証明となり、軍隊は民主主義の学校ともなった。
法の前の平等は必然的に兵役義務の平等となり、国民皆兵が平等と民主主義と結合
することにより軍隊は無敵の力をもった。
1793 年 8 月 23 日の総動員令:
「本日から、敵がわが共和国領土から放逐されるまで、すべてのフランス
人は恒久的に兵役に使われる」
Lazard Carnot の宣言:
「機動も軍事技術も不要だ、火力・鉄・愛国心だけでよい」
「戦争は暴力状態であり、無制限にそれを為せ、さもなければ家に帰れ」
4
「我々は徹底的に皆殺しをしなければならない」
軍隊はあからさまな凶暴性を回復し、恐怖政治が国内秩序維持の保証となった。民
主主義と平等原則に貫かれた軍隊は最強の軍隊となり、敵を完膚なきまでに叩きのめし、
革命の思想を受け入れない敵手からは財産も生命も奪ってよいことになった。
「平等パン」
「配給カード」
「最高価格制」… 戦時統制経済が出現し、流通も商売
も“犯罪の一種”扱いされ、買いだめや闇取引は死刑をもって禁止された。
国民皆兵、死の前の平等、戦場の凶暴性、敵軍民の無差別の殺傷と略奪、戦時統制
経済、銃後生活の全面的統制、科学と文化の軍用転換 ― これらはフランス革命の所産
である。
民主主義を標榜しながら、その実態は全体主義で貫かれた軍隊は向かうところ敵な
しとなる。列強全部を敵にまわして戦っても勝ち、祖国の危機は 2 年足らずで解消され
た。万々歳か!と思えば、そうではなく、統制経済が重荷となった。危機が去っても全
体主義を止めないロベスピエール独裁に対し全方面から抗議の声が挙がる。しかも、肥
大化した国有軍事産業の私有化が進められるとともに腐敗・汚職の温床となる。
軍事的脅威が去っても、巨大な軍隊をすぐに解体するわけにはいかない。兵士の急
激な復員は大量失業と社会不安をもたらす。そのため、軍隊はしばらく外国に駐留させ
“自存自立”させる方策がとられた。かくて、最初、革命の防衛として始まった戦争と
軍隊は征服と略奪の装置となる。それを象徴的に体現したのがナポレオンである。祖国
で危険視された彼は帰国を許されず、遠征先のイタリアに長くとどめおかれた。
第2節
ナポレオン
ナポレオンはフランス革命の「落とし子」といわれてきた。
「軍神」とまで崇め奉
られた彼ではあるが、ジャコバン主義革命家としての面を見落としてはならない。彼の
才能を最初に見出したのはオーギュスタン・ロベスピエール(恐怖政治家マクシミリア
ン・ロベスピエールの実弟)である。ナポレオンはフランス革命の諸原理を占領地で実
行した。彼の永遠のライバルの英人ウェリントンは言う。
「ナポレオンは軍隊の最高指揮官であったばかりでなく、この傀儡国家の主権者で
もあった。この国家は軍事的基礎の上につくられた。その制度はすべて、征服を意
図した軍隊の形成と維持の目的のためにつくられた。国家のすべての官職と報酬は
専ら軍隊のためにとってあった。将校はその私兵でさえも、その勤務に対する報酬
として王国の主権を維持した。
」
第3節
政略家ナポレオン
パリのアンヴァリード(廃兵院)は戦史博物館だが、そこにひと際大きいコーナー
が設置されている。同博物館東側3階の「大ナポレオン軍 Grand’Armée」がそれである。
ナポレオン戦争は本質的に征服戦争であり、列強にとって苦々しい思い出でしかないが、
このコーナーはまったく無遠慮に天才ナポレオンを褒めたたえる。
軍略については後述にまわし、政略家のナポレオンについて述べておこう。彼はい
わば後述のビスマルクとモルトケの長所をもち合わせたような存在だった。ナポレオン
5
は会戦を個別の攻城と戦闘の連続としてではなく、全体として捉える能力において卓越
している。つまり、目的と手段の峻別である。
1796 年春、イタリアのピエモンテをオーストリア軍から孤立させて叩くと同時に、
撃滅はせず手心を加えて懐柔しておき後に備えた。一方、1806 年の対プロイセン会戦で
は敵を容赦なく全面的に破滅に追い込んだ。すなわち、フランスにとってオーストリア
には利用価値が残されており、プロイセンには戦略的に見通しが立たなかったのである。
このように政治的目的が戦略計画を指図したのである。
第4節
ナポレオン戦略
しばしば「ナポレオン戦略に目新しいものはない」と言われる。たしかに、彼は新
しい戦法を編み出したのではなく、従前のものを改善し改良したのである。だからとい
って創造性がない、と結論づけるのは早計だ。総合こそ、立派な創造性の結晶である。
(1)会戦主義 … 戦闘は避けるものではなく、求めておこなうものである。これは 18
世紀の避決戦主義の逆を行く。避決戦主義は自軍の士気を削ぎ消耗を増す。それよ
りも攻撃を重視し、敵を巧みに原野に誘いだして一挙に包囲殲滅する。
(2)敵主力の撃滅 … 砲兵出身の彼は火力の集中利用の粋を会得していた。
「戦略とは時間と空間の利用技術である」
「戦争の原則は攻城戦における原理と同じだ。火力は一点に集中すべきである。突
破口が開かれ均衡状態が破れれば、他のことはもはや問題ではない」… 領土や敵
地占領は二の次にし、相手の攻撃力を奪うことが先決である。→ モルトケ戦略へ
(3)軍の機動性を重視 … 軍団・師団体制に。号令一下、一糸乱れぬ連携で動くには、
兵数にある程度の限度を設ける必要がある。ここで編み出されたのが師団
(division)であり、その師団を2~3個集めて軍団(corps d’armée)とし、独
立的な行動をとらせる。こうなると、形式的にはバラバラな行動(敵から狙いを隠
す)をとっても、統一された戦略目標で動いているのだから、戦場でそれを発揮す
ればよいことになる。師団はそれぞれ内部に砲兵・騎兵・歩兵・工兵・輜重兵を備
えており、接敵した際に、攻撃にせよ防御にせよ単独で行動がとれる。何よりの利
点は分進できるところにある。
(4)包囲殲滅 … ナポレオンはいかなる場合にも戦場での主導権を握るため果敢な攻
撃を重視した。しかし、味方の損傷を顧みない猪突盲進ではない。彼は主戦場の選
別や自軍の布陣を重視し、そのために地形研究と敵情査察を怠りなくおこなった。
かくて、敵を目標地に誘い込むために「おとり」作戦と追い込みを重視し、軍の機
動性を何よりも重視した。この機動性を活かし、敵の度肝を抜く速度で目標地点へ
の兵力集中をおこなう。ナポレオンは自軍の迂回行動を隠すために“釘づけ”戦法
を多用した。すなわち、自軍の前衛または側翼の一部を敵主力の正面に露出させて
注意力をここに引きつけ、場合によっては戦闘に引きずりこみ、その間に自軍主力
を敵の側翼または背後に向けるのである。腹背に攻撃を食らった敵は驚愕し、たち
まち浮足立ってしまう。
6
第5節
混合隊形
ナポレオン戦法は進軍速度や「おとり」作戦だけでなく、戦術上のアヤも重視した。
つまり、縦列行軍から散開(戦闘態勢)への隊形変化を迅速におこなう。この転換が緩
慢か迅速かは戦闘の主導権に直接に影響する。機先を制した側が優位に立つのはいうま
でもない。最初に砲撃を食らった場合、即潰走ということにもなりかねない。ナポレオ
ン戦術の要は散兵の活用であり、これはアメリカ独立戦争から学んだものである。
【攻撃の順序】
(1) 砲撃 ………… 最後尾に控えた擲弾兵(砲兵)が砲撃し、敵陣形を壊乱させる
(2) 散兵突撃 …… 先頭を行く散兵が敵に斉射を浴びせ敵の突進力を弱め、味方の陣
形転換を容易にする。散兵は射撃力に優れた狙撃兵から成る
(3) 騎兵突撃 …… 敵の翼側に殺到し陣形を壊乱する。同時に砲撃で裂け目を拡大
(4) 歩兵突撃 …… 歩兵が騎兵の援護を受けつつ銃剣で突撃する
(5) 軽騎兵突撃 … 敵の陣形が崩れて裂け目ができると、軽騎兵と竜騎兵が突撃し、
敵の陣形立て直しを妨害するとともに、退却路を塞ぐ
【戦術の要諦】
(A)翼側包囲 … ナポレオンが頻繁に使った戦術である。味方の「おとり」部隊に引
き寄せられた敵兵が戦いに熱中している間に味方の分遣隊が敵の翼側に回りこみ、
敵の通信線を遮断して陣形を乱し、士気阻喪を誘う。敵主力が「おとり」部隊に決
戦を挑み苦戦しているところに味方主力と予備軍を投入し、形勢を逆転させるのだ。
(B)各個撃破 … 優勢な戦力をもつ敵と遭遇した味方軍が包囲されたとき、あるいは
戦場の地形から見て「これしかない」と判断したときに使われた。敵は数こそ優勢
であっても2つに分断されては、味方軍に対する包囲は完成できない。これは味方
軍が 24 時間単独でも戦える利点を活用した戦術である。
(C)正面攻撃 … 翼側包囲や各個撃破の戦術は時間、地形、敵の布陣の具合によって
しか挑めない戦法である。これができないとき、ナポレオンは正面攻撃をしかける。
これはまさに翼側包囲の逆を行く戦術である。すなわち、敵の翼側を突くと見せか
けて、実は正面を突くのである。翼側を突かれた敵主力は翼側の支援にまわる。そ
れによって敵の正面が薄くなったところで、味方はそれまで隠していた予備軍を投
入し、正面を突破するのだ。
第6節
ナポレオンの兵站方式=現地調達主義
「兵站 Logistics」の原義はギリシャ語の「計算的手腕」である。それが 18・19 世
紀に軍事用語となった。それを使ったのは軍事思想家ジョミニの『戦争論』
(1836 年)
である。彼は戦略、大戦術、兵站、工学、小戦術の 5 つに分類し、兵站に重要な位置づ
けを与えた。すなわち、軍を移動させる技術すべてが兵站であり、これを上手くおこな
えば必勝すると主張した。ジョミニの理論については後述に譲る。
ナポレオンが機動性と持続性をもちえたのは兵站のおかげである。兵站の成否は戦
場の勝敗に直結する。この同じ人物がこれを軽視したため、モスクワ遠征で墓穴を掘る。
彼は 18 世紀の軍事思想家ブールセやギベールの成果を取り入れ、兵站部の編成、
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輸送態勢の効率化、巨大な倉庫建設、効率的な補給制度を確立したが、その一方で現地
調達主義も並行的に用いた。ナポレオン戦略の中心は、前に述べたように野戦会戦主義
であり、軍隊が特定地域に長期滞在するのは稀であり、必然的に軍隊は行動しながら補
給しなければならなかった。
簡単に言うと、ナポレオン式兵站の要諦は①軍移動前の集積、②後方からの輸送隊
による補給、③行軍中の現地調達の組み合わせである。
現地調達といっても無差別の略奪ではない。これをおこなうと、住民の反発を買う
からだ。略奪は罰則を設けて禁止した。個別の兵士に調達を任せると略奪の恐れがある
ゆえに、行軍中には兵站専門の将校を置き、彼が物資調達の全責任を帯びた。徴発とは
いえ購入が原則である。徴発物資は糧秣と軍馬が中心であり、徴発した物資の支払いは
その場ではせず請求書を渡し、後でフランス政府が支払うものとした。
だが、沿線の住民にとって現地調達は迷惑千万な話で抵抗したが、むやみやたらに
抗うと生命や財産を失う懼れがあり、物資の隠匿に専念したが、それとて徴発のプロの
お見通しで徒労に終わる。だが、これが反ナポレオンの機運を生む土壌となった。
大軍が一本の道路上を長い縦列で行軍すると、沿線で徴発できる分量に限度がある
ため、複数の路線に分かれて行軍するのが原則(分進し戦場で集中する)となった。こ
れは敵の目をくらます意味もあったが、現地徴発を容易にするためでもあった。
第7節
兵站の成功と失敗
【成功例】
アウステルリッツの戦い(1805 年 12 月)… ストラスブールとアウステルリッツ間
を 17 区間に分け、60 台の四頭立て馬車で1日1往復させるリレー制度を樹立して 300
万食を用意できた。その前哨戦のウルムの戦い(同年 10 月)に際してもハイルブロン
に巨大な弾薬貯蔵所を建設し、1 日当たり 7,500~10,000 発の補給を可能にした。
【失敗例】
スペインではゲリラ戦(1808 年)に翻弄された。ここではナポレオンが得意とする
決戦主義が通用せず、しかも遠隔地ということもあって軍の補給体制が組めず、ナポレ
オン軍自体(総勢 60 万)が籠城戦に追い込まれる。ウェリントン率いる英軍は極力決
戦を避け、
‘hit and away’のゲリラ戦に出てナポレオン軍を苦しめた。
ロシア戦役(1812 年)で決定的敗北を喫してしまう。というより、徹底的な持久戦
と消耗戦を強いられ、ナポレオン軍が自滅してしまったとみるほうが正しい。
ロシア戦役はナポレオンの思いつきではなく、入念に準備され、人と物を大量に集
めた作戦であり、ある意味でナポレオン式兵站の集大成でもあった。現地調達がうまく
いかないことを見越したナポレオンは早くから物資を集積し、遠征開始時には 40 万兵
士と 5 万頭の馬が 50 日間維持できる糧秣を確保し、オーデル河畔に備蓄していた。輜
重隊は 26 個大隊に拡大され、大量の弾薬と装備品が東プロイセンに集積された。
それでも失敗したのはなぜか? ― ①泥濘化した悪路、②ヴィルナ渡河の困難、
③外国人傭兵の軍紀の乱れ、④住民逃亡による現地調達の困難、⑤ロシア軍の焦土作戦、
⑥コサック兵によるゲリラ作戦である。
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ナポレオン軍は多段式ロケットの打ち上げにも似て、巨大なエネルギーを次々に消
耗しながら最後に小さな司令船だけがやっとモスクワに到達。兵員数の減少がそれを物
語る。6 月(ニエーメン)47.5 万 → 7 月(ヴィテブスク)25 万 → 8 月(スモレンス
ク)15.6 万 → 9 月(モスクワ)11 万。つまり、3 か月で 36 万余の軍隊が消えたのだ。
やっとたどり着いたモスクワは“もぬけのから”状態で、何ら手ごたえを感じなかっ
たナポレオン軍は仕方なく退却を開始し、ヴィルナに戻ったとき3万に痩せ細っていた。
つまり、軍隊そのものが巨大なあまり補給が追いつかなかったのだ。
第3章
プロイセン軍参謀本部
第1節
ジョミニとクラウゼヴィッツ
ワーテルロー以後およそ 50 年間は列強間に戦争はなかった。
武装蜂起はあったが、
それは内乱であり、ウィーン体制の抑圧的性格と産業革命初期の社会的影響の反映であ
った。戦争がなかったとはいえ、列強はいずれも次機戦争を睨み軍事研究を怠らなかっ
た。ナポレオン戦争の災禍から立ちあがった諸国は軍事的弱体が何をもたらすかを嫌と
いうほど味わっており、他国に負けない軍備をもつことに必死だった。
過去を研究して教訓を導きだすのはよいが、それが未来予測にまったく役立たない
ことはしばしばある。一国家の盛衰のカギを握る軍事においてそれが顕著に見られる。
過去の扱い方に問題があるのだ。
実際、ナポレオン戦争でフランスは最終的に敗北したが、軍事思想の点ではヨーロ
ッパを長くリードした。一方、プロイセンは最終的に勝利したが、この国だけは例外的
にナポレオンを反面教師扱いにし、徹底分析することによって未来の戦争に備えた。
スイス人のジョミニ男爵(A.H.Jomini,1779~1869)はネイ将軍ももとでナポレオ
ン戦法を身をもって実戦した人物である。ジョミニは 1812 年のロシア戦役で寝返り、
ロシア軍の幕僚として 10 年間仕える。かくて、1836 年に『戦争論』を出版し、ナポレ
オン戦法を理論化した。これはヨーロッパで無比の軍事教科書としてもてはやされた。
(1) 戦法には普遍的法則があり、これをマスターすれば必勝できる
(2) その法則の基本は敵の兵站通信線を断ち切ることにある
(3) 数値モデルや幾何学的運動を用いて戦場での軍の展開の仕方を説く
このように極度に抽象化された普遍主義の原則は社会的・政治的土台から技術論や
組織論を切り離しがちで、しかも、作戦要素に影響を及ぼす攪乱的要素を無視すること
になり、結果として実戦に役立たない教訓をむやみに残すことになった[注]
。ジョミ
ニ理論の愛弟子の代表格が普仏戦争時のフランスであったのはいうまでもない。これは、
今日の計量経済学が数式やモデル分析だけを基礎に経済政策を打ち出すのに似ている。
[注]晩年のジョミニはロシア皇帝の軍事顧問としてクリミア戦争を指導したが、皮肉
なことに、ロシア軍は通信線を断ち切られ消耗戦を強いられ、敗北するにいたった。
ナポレオン戦争を反面教師的な立場において徹底分析することによって理論化に
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成功した人物はクラウゼヴィッツ(K.v. Crausewits,1780~1831)である。彼はプロイ
セン軍参謀総長シャルンホルストの愛弟子であり、この師匠およびグナイゼナウと協力
してイエーナの大敗北から立ち上がり、プロイセンの軍制改革を断行した。彼が著わし
た書物が『戦争論』
(1832 年)である。その要諦を以下に示しておく。
【戦争の本質】
(1)
「戦争は他の手段をもってする政治の継続である」
(2)
「戦争は抑制されざる暴力である」… フランス革命戦争とナポレオン戦争から得
た教訓の一つで、時代は変わって制限戦争はもはや過去のものとなったとの認識
(3)戦争の普遍法則を説かず、それが社会を巻き込む程度に応じて固有の法則性もつ
【クラウゼヴィッツ必勝3原則】
(1)敵の軍隊を滅ぼすか武装解除を強制し、手心を加えてはならない
(2)敵の防備の要衝を衝く
(3)敵の抵抗の意志を挫く
第2節
常設参謀部 — マッセンバッハ、シャルンホルスト、グナイゼナウ
プロイセンには戦時において組織される軍最高会議という臨時の機関があった。
1802 年に計画されたのがこれの常設機関化である。主唱者はマッセンバッハ。
第一部 人事部(部長グロルマン)
一般事務局 第二部 参謀部(部長ボイエン)
陸軍省
第三部 兵器・工兵部(部長グナイゼナウ)
軍事経済局(経営・管理)
(1) 参謀部の常設化 … 戦時の備えは平時からなされるべきである。理由は、兵器や
兵隊訓練、作戦行動全般にわたる総合的な研究が必須となる。対墺戦、対露戦、
対仏戦を念頭に担当班を決めて不断の研究をおこなう。
(2) 参謀将校の教育プランとして平時における旅行(Reisen)の必須科目化 … 地形
と慣習を徹底的に考究する。
(3) 参謀将校と隊付将校の定期的入替制度…ラインとスタッフ…実戦と理論の並立
(4) 参謀本部構想(シャルンホルスト) … ① 戦略・戦術担当、② 組織担当、③ 予
備役担当、④ 兵器担当
シャルンホルストを継ぎ、グナイゼナウが二代目参謀総長に就任。
【戦略・戦術論】
(1) 現場の司令官と参謀部の一体感を保証するため、両者の共同責任体制
(2) 進撃は分散、戦場で集結する原則(ナポレオン戦法と同じ)
(3) 参謀部からの指示は概略にとどめ、現場の司令官に自由裁量を与える
(4) 退却戦を重視し、確実な勝機が訪れるまで決戦は回避する
第3節
参謀本部の独立
1821 年、それまで陸軍省管轄下の一般軍事局の第二部として存在した参謀部は独立
し、陸軍省と並ぶ機関となった。同じころ、陸軍人事を司る軍事内局も陸軍省から独立
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したため、プロイセン軍は陸軍省、参謀本部、軍事内局の3つの機関が並立することに
なった。陸軍省だけが公表された制度であり、あとの2つは国王個人との関係が大きく
ものをいう機関であった。これは第一次大戦まで続き、普仏戦争でプロイセンが勝利し
た結果、この3機関は列強のモデルとなり、日本もこれに倣うことになった。
陸軍省
軍事内局
第一部
人事
参謀本部- 第二部
組織、訓練、用兵、展開、動員
第三部
技術と兵器の研究
付置機関 測量部と地誌部
「人事を握る者が組織全体を握る」と言われるが、軍事内局と参謀本部の関係はつ
ねにギクシャクした。昇進・降格に意を注ぐ軍人は平時でも軍事内局への注視をやめな
かった。特にマントイフェル(Edwin von Manteuffel, 1809-85)が軍事内局長官にな
ってから、陸軍省と参謀本部の人事および組織を左右するだけの力をもつにいたる。皮
肉なことに、参謀本部そのものの廃止まで考えていたマントイフェルが参謀総長に据え
たのがモルトケその人である。
第4章
モルトケ
第1節
来 歴
モルトケ(Helmuth von Moltke, 1800-91)父親はドイツ人だが、デンマーク軍の将
校を務め、母親の父もプロイセン将校としてロシア戦役に参戦して戦死。モルトケ自身
もデンマークの幼年学校で教育を受け、1819 年にデンマークの少尉として任官。22 年
に同軍を見限ってベルリンに行き、プロイセン軍に士官する。頗る優秀なため 1832 年
に参謀本部勤務を命じられ、中尉をへて 35 年に大尉に進級する。その身分でトルコに
派遣され、トルコやその周辺地域をつぶさに研究し、スルタン(ムハンマッド二世)の
お供としてブルガリアやルーマニアを訪れ、対エジプト戦では軍事顧問の格でアルメニ
アに出征し、トルコ内の内乱の鎮圧に成功し、スルタンの信任を得る。
1840 年、プロイセン軍第四軍団の参謀に補せられ、42 年に少佐に進み、45 年にハ
インリヒ親王付きの武官となる。1851 年に大佐に昇進し、55 年に王太子フリードリヒ・
ヴィルヘルム付きの武官に転じ、ペテルスブルク、ロンドン、パリを旅行し、かくて彼
の見聞域はヨーロッパ全体に及ぶことになった。58 年にマントイフェルの推挙を得て参
謀総長に補せられる。翌年、中将に昇進。
モルトケの昇進に特徴的なことは、プロイセン軍に入隊以後、一度として部隊を指
揮したことがないまま、つまり、ラインの経験を欠きながらスタッフの頂点に達したこ
とである。それは反面、スタッフの地位が低いところを証明するのだが、彼はその後の
戦争で功績を挙げることによって、スタッフを軍の中心の地位に高めたのだ。
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第2節
モルトケ戦略
(1) モルトケは参謀本部の匿名性を堅持した。敵を欺く前に味方を欺く必要からこう
したのだ。
(2) 参謀本部員の入替制を堅持し、理論と実践の緊密化をはかった。
(3) 軍規模の極大化に対応し、現場の司令官に裁量権を付与。参謀本部は戦略的訓令
(Direktive)にとどめた。それはナポレオン戦略の失敗(現場司令官を“将棋
の駒”扱いにした)から学んだ。
「絶対命令」=「隷従」は古臭いものになる。
(4) 参謀本部の匿名性は反面において軍人の名誉性を排除することになる。それを是
正するため、モルトケは参謀本部自体の権威の増進につとめた。
第3節
軍 制
プロイセン軍の軍制の基本は国民皆兵制である。前出のボイエンは、20 歳に達した
身体壮健な男子を徴兵し、現役3年、その後の予備役2年、それより後は「後備軍
Landwehr」としたが、基本構造は長く変わらなかった。1859 年にローン陸相のもとで改
革され、これが波紋をひろげることになる。
現役正規軍3年、予備役4年、後備兵を老兵から成る第2予備軍とした。兵役期間
は 30 年とされた。人口増著しいプロイセンは兵役を完全実施すると、兵員増となって
軍事費の増大に結果する。これの是正のために後備兵の地位の引き下げが当然視された
が、これをきっかけとして軍部を中心に反対論が続出する。一方、議会内における自由
主義勢力の伸長に伴い、彼らは職業的軍人(ユンカー出身者が多い)の国政への影響力
を訝ったのだ。これは単に軍制問題の枠を超した一大政争となり、議会は軍予算を承認
しないというかたちで激しい抵抗の姿勢を示した。
ここで登場したのがビスマルクである。彼は激しい性格ゆえに国王はもとより王妃
アウグスタの不興を買っていたため、有能でありながら外交官として左遷に次ぐ左遷を
味わっていたが、ついに 1861 年、政府と議会の対立で行き詰った状態を脱却するには
彼しかいないと見た国王により宰相に抜擢された。彼は予想されたとおり、正面突破作
戦を打ち出し、議会不承認のまま軍事予算を実行に移した。
しかし、1864 年のデンマーク戦争と 66 年の普墺戦争でプロイセンが大勝利を収め
ると議会のほうが譲歩し、ビスマルクの予算措置を遡及的に承認したばかりか、軍事予
算の増大を認めてしまう。
軍制問題は結局のところ、常備軍(正規軍と予備役軍)と後備軍は分離独立すると
いうかたちで決着がついた。
第4節
兵 站
モルトケが創出した新機軸は鉄道である。モルトケは科学の粋を戦争に活用したの
である。彼はヨーロッパにおける人口増大、技術進歩、交通発達を考察し、作戦計画と
軍の統帥法を時代にマッチさせようとした。それが鉄道である。
1859 年の北イタリアでの仏墺戦争(別名イタリア戦争)において、総勢 12 万のフ
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ランス軍が鉄道を利用して僅か 11 日間で戦場に到達した事実を見逃さなかった。馬と
徒歩ならばゆうに2か月かかるところを、である。この時は軍馬と兵士の輸送だけに利
用され、補給は二の次になったが(それで緒戦で大勝利した仏軍は追撃ができなかった)
、
モルトケは兵器や補給までも鉄道に任せようと計画し、次の仮想敵国フランスを意識し
て国内における鉄道網の充実をはかった。66 年の普墺戦争で鉄道を実験的に使い大勝利
を収める(七週間戦争)と、つづいて普仏戦争に備えた。
モルトケは緻密な鉄道ダイヤグラムをつくり、それに沿って動員体制を組み立てる。
鉄道は行軍と補給の速度をそれまでのものの 15 倍にも高めた。また、ピストン輸送に
より戦場での死傷者を回収できたし、前線兵に休暇を与えることさえできた。それまで
ひとたび戦場に出た兵士は死者または傷病者となって帰るか、凱旋して帰るしかなかっ
たが、暫時は戦場から離れて休養することができるようになった。
モルトケの編み出した新機軸の第二は鉄道沿線に敷設した電信線の利用である。電
信はそれまで騎馬兵を通じての指令を瞬時のうちにやり遂げることができた。
その一方で、電信は戦場の実際を報道記者たちが母国に伝えるのに貢献した。勝っ
ているうちはよいが、負け戦の事実が銃後に知らされることにもなり、国民の士気に悪
影響をもたらした。これは当時から気づかれていたが、報道管制を敷いたら敷いたで、
また別の問題を生じ、この弊は第一次世界大戦まで引きずることになった。
第5節
兵 器
兵器の発達は戦略・戦術に直結する要素である。兵器はむろん火器が主役だ。それ
までの火器(銃・砲)は発射速度と射程距離に問題があった。1848 年にフランス陸軍の
クロード・ミニエ大尉がそれまでの球弾に代わって円錐形の銃弾を発明した。これは装
填時間の短縮に貢献し、ジョシュア・ショウの撃発雷管ライフルと組み合わされて射程
距離と命中度を 5 倍に高めた(ミニエ銃)
。撃発雷管は不発弾を激減させ、土盛りの陰
に隠れての伏射を可能にした。これは伝統的な集団隊形による斉射を時代後れのものと
し、守備側に戦術上の優位を与えた。ライフル銃はアメリカ南北戦争で威力を実証して
いた。フランスは 1860 年代初頭に発明されたシャスポー銃を実戦に配備していた。そ
の射程は 800~1000mに及び、しかも無煙火薬のせいで発射地点を隠せた。
もっと大きな革新は大砲である。これはドイツが傑出している。クルップ社が発明
した新型砲は軽量化、射程距離、装填時間を革命的に変えた。かくて、野戦で運搬に便
利で全方向の駆動性をもち、照準が容易なため連射できた。
以下は普仏戦争におけるフランス軍とプロイセン軍の激突の実際である。
フランス軍はシャスポ―銃をもつ接近戦で有利となり、対するプロイセン軍は距離
をおいたクルップ砲の砲撃で優位となったが、実際の戦場では後者のほうが有利になる
のは自明である。フランス軍は接敵する前に遠隔砲撃でやられるからだ。
フランス軍は機関銃を用意していたが、極度の秘密扱いにされていて操作に習熟し
た者がいなく、戦線に出されても使い方がわからないというお粗末を演じた。新戦法や
新兵器はとかく旧套墨守に染まりがちな老練幹部は使いたがらないものである。そうし
た弊は 40 年以上も前の銃「三八銃」を崇める日本帝国陸軍や、情報機器を不得手とす
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る最近のベテラン職員に見られる。
第6節
戦 術
クラウゼヴィッツによって体系化され、プロイセン軍の伝統ともなっていた退却戦
の効用をモルトケは攻撃に活用した。彼はデンマーク戦のデュッペル要塞攻防戦で正面
攻撃の弱点を学んでいた。以後、プロイセン軍は可能なかぎり正面攻撃を避け、全軍が
分かれて敵翼側の攻撃に集中する。モルトケは野戦会戦主義の立場こそ維持したが、ナ
ポレオン戦法と異なって外線主義の作戦を好んだ。そのあらましは次のとおり。
事前計画にもとづき各軍団は鉄道による分進で戦場に到着する。事前査察で地形を
把握して自軍に有利な場所を選んで敵に先んじて布陣する。騎馬兵は斥候として使い敵
の動静を把握。連携プレイにより敵主力を予定された場所に導き、
「時至れり!」と判
断したとき、全軍に出動を命じて敵を包囲する。つまり、以後は間断なく攻撃し、敵の
殲滅に全力を投入する。
用意周到な準備、防御態勢を抜かりなく敷いたうえでの果敢にして容赦ない攻撃、
危機に陥った際の臨機応変の対処により、戦う前においてモルトケ作戦の勝利は約束さ
れたのも同然だった。
普仏戦争後のドイツに戦争はなかった。ビスマルクはドイツの統一は完成したとい
う認識をもち、以後の領土拡大を考えていなかった。一方、モルトケは将来的にロシア
との対決は不可避という判断のもとに二正面作戦の考究に晩年を過ごした。戦争の永続
化および残虐化の危険性も予知していた。これらに対する対処法の骨格こそできたもの
の、それを後継者に十分なかたちで伝えないまま老齢ゆえに引退してしまう。
おわりに
19 世紀の 60 年代までフランスに限らず、ヨーロッパのどの国 ― プロイセン軍を
除き ― の軍人もナポレオンの威光のもとにあった。ライフル銃の発達により横隊の攻
撃にせよ混合隊形の攻撃にせよ、集団密集の作戦行動は時代後れとなっていたが、プロ
イセン流の作戦の威光を見るまでは依然としてナポレオン時代の作戦に忠実でありつ
づけた。19 世紀に戦争そのものが少なくなっており、戦闘から教訓を引き出す機会に恵
まれなかったことに起因する。
また、プロイセンを除くどの国も過去の戦争体験から学んだ教訓の研究と応用を考
究する組織をもたなかった。クリミア戦争とアメリカ南北戦争は攻撃側も守備側もとも
に決定打を欠き、ダラダラと戦闘が数年も続き犠牲者だけを増やした。それはライフル
銃の発達が守備側を有利に導いたため、当時の軍人に籠城戦や白兵戦というものには多
大な犠牲はつきものだという教訓しか残さなかったせいもある。それとは対照的に 1864
年から 1871 年までのプロイセンの劇的勝利は驚くばかりの時間と労力の節約を伴って
実現された。3度の戦争はいずれも半年も続かなかった。それが後の第一次大戦の流血
の大惨事の伏線となっていくのである。
(c)Michiaki Matsui 2015
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