「卒論要旨」 平成21年度 学士・卒業論文 ヴェンダース作品における「物語」を形成する要素 ―「移動」と「メディア」の表現を中心に― 北海道教育大学函館校 教育学部 人間地域科学課程 情報科学専攻 社会情報分野 学生番号 6253 平野 光一郎 「映画を観ること」を、人はどのように捉えているのだろうか。観る人それぞれに理由が あり、それぞれが好む映画の種類は違うと思われるし、観る映画の選び方も様々なはずだ。 その中でも、私は今回1人の「監督」の作品に絞って論じた。 今回扱った「ヴィム・ヴェンダース」という人物は、ドイツの映画監督であり、彼の作品 を観ると、俗に「ロード・ムービー」と呼べるような要素を含んだ作品が多い。私はその ようなところに惹かれて本論文の題材に選んだのだが、作品を観たり、彼に関する文献な どを読んでいった結果、彼の作品には「移動」と「メディア」という2つの特に注目すべ き観点があることがわかった。ヴェンダースの作品の中で、「移動」に関する描写には、 目的のない「さすらい」や彼自身の「アイデンティティ」が表出し、「メディア」に関す る表現に関しては、彼自身の考え・メッセージを媒介するものとして、それぞれの機器が 象徴的に使われ、「映画内映画」と言える、映画を撮る様子を映画にする事によって、「物 語」を語ろうとしている。本論では、このような考え方に則って、順に述べていった。 第Ⅰ章では、Ⅰ-1.で、ヴィム・ヴェンダースという人物について知らない方の為に、 彼が1967年頃に映画を撮り始めてから現在までの、簡単な流れを追った。Ⅰ-2.で、 彼の作品の特徴を大まかにではあるが取り上げた。その中で「移動」と「メディア」の2 点について取り上げることを確認し、Ⅰ-3.にて「移動」と「メディア」という言葉を 本論で使う際の定義を行った。 第Ⅱ章では、「移動」に関する表現を取り上げ、Ⅱ-1.では、ヴェンダースの初期の代 表作であり「ロード・ムービー3部作」と呼ばれている、『都会のアリス』、『まわり道』、 『さすらい』の3作品をそれぞれ取り上げた。Ⅱ-2.では、ヴェンダースの「移動」の 表現に大きな変化が現れた作品『パリ、テキサス』を取り上げた。この作品を境に、次第 に「移動」することに明確な目的が表れ始めていた。Ⅱ-3.において、前節までを踏ま えた上で、作品に表れる「移動」と彼自身の「アイデンティティ」との関係を探った。ヴ ェンダースにとって、国や地域、家庭など何らかの<場所>に縛られる事で得るものが「ア イデンティティ」ではなく、それは考え続ける事、つまり歩みを止めず「移動」し続ける ことで得られるものだった。その「1つのところにはいられない」という考えが、彼の作 品の様々な「移動」の描写に繋がっており、「様々な経験を経て到達すべき」創造性のた めに、特に初期の頃は無目的な「移動」が描写された。そして、その後上記のような考え にたどり着いたと思われるヴェンダースは、無目的にさすらう「移動」への興味を失って はいないのだろうが、『パリ、テキサス』以降の作品に表れる「移動」は、より目的を伴 うものとなっていったことがわかる。 第Ⅲ章では、ヴェンダースと、作品に表れる「メディア」との関係が論じられた。劇中に 「メディア」が頻出する事は、ヴェンダースが「メディア」を媒体として、観客に向けて のメッセージを送っているものと考えられ、映画というものが「映像」と「音声」の2つ から構成されていることからも、この2つに分けて論じていった。そしてⅢ-3.におい て、前節までを踏まえた上で、「映画の中で映画を語る映画」、つまり「メタ映画」につ いて触れ、それらに該当するヴェンダースの作品を取り上げていった中で、ヴェンダース は「映像を撮ること」、「物語を語ること」についての葛藤を行ってきたことがわかった。 最後、第Ⅳ章で、ヴェンダースが上記の2つのことに対するこだわりを持ち続けているこ とは、「監督」というよりも「作家」と呼ぶべきであり、映画を撮り始めた頃は、「映像 によって、自分が見ている世界を再現できるか」「なぜ映像をカットしなければならない のか」といったことを問題にし、「撮った映像に操作を加え、物語を語る」という前提に 疑問に持ち、映画を撮っていくことでそのことに対する葛藤を続けた。特にそれは「映画 内映画」である『ハメット』や『ニックス・ムービー』や『ことの次第』に表れている。 それらの映画を経て撮られた『パリ、テキサス』は、初めて「物語」、それも「家族の再 生」という一種のメロドラマであり、そのことにより「移動」の描写が目的を伴って行わ れはじめた。これ以降、映画という「メディア」を通して、『パリ、テキサス』以前では 見られなかったような物語の作品が作られてきていることに触れた。 上記のことから「移動」と「メディア」の2つがやはりヴェンダースの作品の重要な要 素であることが確認された。本論では、その確認までで終わっており、彼が「何故映画を 撮るのか」、また「どうして物語を語るのか」といった疑問に対して深く踏み込むまでに は至らなかった。今後、それらを追求した論者があらわれることを期待したい。
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