18W-03(3頁) 岩垣守彦: メディア・テクノロジーと「勝手読み」

18W-03
090718LCCII「勝手読み」ワークショップ総括原稿
メディア・テクノロジーと「勝手読み」―これからが始まり
岩垣
守彦
「勝手読み」は昔からであるが,目に見える形で現わすには「表現手段」が必要である.
たとえば,世阿弥作の能『鵺』を基にした芝居が先日新国立劇場で上演されたが,この作
品もいろいろな形で上演されている.芝居の台本に対する勝手読みは,演じるという形で
示すことができる.音楽もそうである.楽譜の対する勝手読みは,楽器で演奏したり歌っ
たりすることで示すことができる.どちらの「勝手読み」にも,「表現手段」がある.そこ
ろが,「文字の読者」は「勝手読み」を編集者によって選別された専門家が「鑑賞・解説・
批評という間接的な言い換え」で示すことでしかできなかった.しかし,現代の読者はテ
クノロジーのおかげで個人が直接的な「表現手段」を手に入れることができたのではない
かと思われる.
インターネットを利用したパソコンや携帯電話のメールなど「文字」が情報伝達の主役
の座を取り戻した.しかも,グーテンベルグ以来の編集者を介する活字の間接伝達から,
書き手と読み手がダイレクトに結ばれる大昔の直接伝達の時代になった.昔と異なるとこ
ろはメディアとテクノロジーが変わって,特定の人との交信だけでなく,言葉の壁を越え
れば,世界中の不特定多数とも「文字」で直接交信できるようになったことである.
「メディア・テクノロジー」の意識への影響を最初に感じたのは「ファックス」を使っ
たときであった.それまでは自分の書いた原稿が印刷所で使われ,手元にはコピーが残っ
た.ところが,ファックスを使うと,自分の書いた原稿が手元に残るのである.受け取る
原稿料は変わらない.妙な気分であった.
次に意識の変化を感じたのは「ウオークマン」であった.音楽は以前は特定の仲間と共
に楽しむ共有物であったが,ウオークマン以降は個別に楽しむものとなった.音楽に纏わ
る共同体意識(家族,仲間,部落などの絆)が薄れ,個人の嗜好となった.
その次に意識への影響を感じたのは,コンビニエンスストアに「本」(活字)が「書籍」
としてではなく「商品」として並んだときであった.やがて,文選,植字という活版印刷
が消えて,電子写植となり,出稿もフロッピーになって行った.今では,インターネット
でも出稿できるようになった.
メディアやテクノロジーの変化に伴って,言葉も個人あるいは同好者の「符牒」に変化
したように思われる.と同時に,KYとかJKとか,昔の悪ガキの「やさぐれ」とか「ア
ンペラ噛ませろ」と変わらない特定少数の「符牒」が,市民権を得たように感じられる.
このメディア・テクノロジーに関して興味ある論文を発表していたのは,カナダのヒュ
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ー・ケナー(Hugh Kenner) であった.1987 年に書かれた The Mechanic Muse が,最近
になってやっと日本語に翻訳された.(松本朗訳『機械という名の詩神』(上智大学出版,
2009/01/30))この中で,彼はエリオット,パウンド,ジョイス,ベケットという現代作家
の内的な世界に対する同時代の外的なメディア・テクノロジーとの関連を論じている.こ
のケナーの経歴がおもしろい.トロント大学の学部と大学院修士課程で英文学を学んでい
るが,その師はメディア論で有名なマクルーハン (H. M. McLuhan) であった.さらに,
博士課程はマクルーハンの勧めによって新批評で有名なイェール大学のクリアンス・ブル
ックス(Cleanth Brooks) に指導を受けて学位を取っている.しかし,彼の論文は,かつて
サント=ヴーブが文字を精密に読むこと実践的に「文学批評も文学の内」を示したように,
実践的で個人の感性と技量の中にとどまっていた.メディア・テクノロジーとの関係は発
信者との関係にとどまり,言葉そのものとテクノロジーの関連には触れられていなかった.
「言葉」は,情報伝達の手段として,いつの時代にも「共通基盤」と「個別性」の組み
合わせで用いられる.
「集団を超えた共通する深層の集合イメージ+集団に共通する表層の
符牒+集団によって集積された感覚情報」+「集団に共通する符牒の運用規則」がその「共
通基盤」である.しかし,表層に現れるのは「符牒」(文字・音)の部分だけである.実際
に使用するときには,それに発信者(符牒列の作者)や受信者(符牒列の読者)の「個別
性」(感性・知識・想像力)が加わる.しかし,メディア・テクノロジーによって情報の交
信が地球規模になっても,「文字」を使う限り,「目でとらえた符牒を脳で処理をして理解
する」というプロセスは昔と変わらない.しかも,無意識に行っているこの脳の読解は受
信者の知識と感性と想像力による勝手な理解であることも昔と変わらない.
ただ,現代のように,表層の部分がメディアやテクノロジーの変化に影響を受け,それ
が意識にも及ぶとなれば,それは当然「創る」と「読む」に変化をもたらすと考えられる.
殊に,自分以外の誰のチェックもなく世界規模の不特定多数と交信できるようになったと
いう点において,現代の「文字」に係わる変化は大きいと思われる.
もはや,ある符牒に触れる受信者が,その符牒を共有する仲間とは限らないのである.
たとえば,ある英語の発信者が通信の最後に I love you forever. と書いたとする.ある人
は「僕はあなたをいつまでも愛します」と変換してうれしく思うかもしれない.ある人は
「さようなら」と変換して悲しむかもしれない.コンピュータは「私は/愛します/あな
たを/永遠に/」と言い換えて理解したことを提示するかもしれない.
このように「発信」と「受信」
(理解)が多様になり,中国人やイラン人の日本語文が「作
品」として受け入れられる時代になった時に,符牒に対する受信者の理解・共感・感動が
その存在を左右する「文学」において,発信者が人間であろうとコンピュータであろうと,
その符牒に触れる受信者が,自分(人間・コンピュータ)の感覚情報で作品を読んで認め
たときに「文学となる」(価値が生じる)とすれば,「作品」は発信者の意図を探ることか
ら生まれるのではなく,受信者の「読む」作業から生まれることになる.簡単に言うと,
作る側の権利は読む側から生まれることになる.
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このワークショップでは,このような「読む側」の観点から,言葉,文字だけでなく映
像も含めて,感知,表現,認識にまつわる「創造と受容のメカニズム」がさまざまな面で
再検討され,新しいメディア・テクノロジーによる物語の生成,さらには文学への変容,
作品評価の可能性などを話題にすることができたと思われる.
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