芸術作品によるコミュニケーションの特性について 現代絵画系 C03F003 古川勝也 はじめに 現代社会において「作品」という言葉は、きわめて安直に用いられている。それは従来 芸 術 作 品 と 呼 ば れ て い た も の に 留 ま ら ず 、例 え ば TV 番 組 で タ レ ン ト が 作 っ た 料 理 に も「 ○ ○さ ん の 作 品 」 と い う 説 明 が 付 く 。 し か し タ レ ン ト が 作 っ た 料 理 が 芸 術 作 品 ( 以 下 作 品 と いう)であるとは、作った本人も含めて誰も思わないであろう。 しかしメディア技術を用いて生成された媒体はどうであろうか。美術館にはメディア技 術を用いて制作された作品も展示されている。媒体と作品を見た目で見分けることは難し い。しかし安直に生成される一般的な媒体が作品として広く認知されることは、単なる媒 体を超えた存在である作品の存在意義を希薄化させ、消滅させてしまう危険性を孕んでい ると私は考える。 そこで写真やメディア・アートにおける作品の定義と、その作者の存在意義について疑 問を抱いたことが、この研究の出発点となった。そして一般的な媒体と作品との違いにつ いて考察していくためには、作者と受け手との関係から論じていく必要があると考えた。 本報告書においてコミュニケーション論を取り上げていくには、このような理由がある。 本報告書の目的は、作品を介した人間の活動の総体をコミュニケーションと位置付け、一 般的な媒体と作品の相違点を浮き彫りにした上で、作者の存在意義について言及すること にある。さらにそれを前提に、私が取り組んでいる写真を用いた作品について、作品とし てのあり方を考察していく。 第1章 コミュニケーション論の意義 作品は人間によって制作され、人間によって享受される。つまり作品に関わる人間の活 動は、制作という生産的側面と、享受という受容的側面からなる。ところが、多くの美学 説においては享受の問題に重点が置かれ、制作については従属的に扱われてきた。しかも 制作と享受のそれぞれについて、個別に論じてきた。そのため、享受における作者の存在 意義を考察するためには、作品の制作から享受までを行為の流れとしてとらえるコミュニ ケーション論の考え方が必要なのである。 第2章 作品が伝達する情報 作品を介したコミュニケーションにおいて、作品は媒体として位置付けられる。そして 媒体としての作品は作者によって生成されている。このことから、何らかの情報が作品を 通 じ て 作 者 か ら 受 け 手 に 伝 達 さ れ て い る と 推 測 さ れ る 。 そ こ で 作 者 →作 品 →受 け 手 に お け る情報の流れを、情報理論から見ていった。古典的なシャノンの情報理論は下のとおりで ある。 送り手 → 符号化 (コード化) → 媒体 → 復号化 ( 脱 コード 化 ) → 受け手 またロマーン・ヤーコブソンはそこに美的情報の要素を取り入れたモデルを提唱した。 そこに共通するのは作品制作がコード化であり、作品鑑賞が脱コード化であるという図式 である。そこで問題になるのは、作者によって作品という形にコード化される情報とは、 いかなるものかということである。そこに作者の存在意義を見出すためのヒントがあると 考えられた。 第3章 作者の存在意義 作品は作者の精神的活動の所産ではあるが、精神的活動の成果をコード化するものでは ない。精神的活動の成果である、作者の知識や思想などそのものをコード化したものは、 作品ではなく文章や図などと呼ばれるものである。私は作品とは作者の精神的体験そのも のの記録であると考える。 ヴィルヘルム・ディルタイによると、表現(表出された人間の営み)はある人間の体験 の所産であるから、受け手がそれを理解(了解)するためには、その体験を自身のものと して追体験する必要があるという。しかしこれを作品を介したコミュニケーションの図式 に当てはめると、完全な追体験は理論上不可能であるから、情報理論におけるコード化・ 脱コード化のように、作者の体験がそのまま受け手に理解されるというものではないこと がわかる。コード化と脱コード化の相互の非対称性こそが作品を介したコミュニケーショ ンの特質である。 こうなると作品が伝える情報の内容ではなく、作品が受け手に及ぼす効果から論じてい く必要があるのではないだろうか。マーシャル・マクルーハンは「メディア(人間のあら ゆ る 拡 張 )」 は そ の 内 容 で は な く 受 け 手 に 与 え る 効 果 か ら 論 じ な け れ ば 、 そ の 本 質 を 見 失 うと述べている。またマクルーハンは「メディア」とは受け手に「気づかせる」ものでは なく、受け手の変容を促すものであると述べている。作品は受け手の精神的体験を促すと いう点において、マクルーハンのいう「メディア」に近いものではないだろうか。 最後に以下のような結論に至った。作品は作者の精神的活動そのものの記録であり、そ れが結果的に鑑賞者の精神的体験を促すのではないか。つまり作者は鑑賞者の変容を促す 存在である作品の送り手であることに、その存在意義を有するのである。 第4章 自作について 前章までの内容を、私が作品制作に用いている写真について具体的に検証していく。物 質としての写真が、作品であるか否かの判断はきわめて難しい。写真が包含する情報量が 豊富なため、どの部分が作者の精神的活動の記録であり、どの部分が偶然写り込んでしま っ た 余 分 な 部 分 で あ る か が 明 確 で は な い か ら で あ る 。写 真 が 持 つ 情 報 量 の 多 さ に つ い て は 、 マクルーハンや名取洋之助によって指摘されている。 それを克服するため私が用いた方法は複数の写真を並べることと、写真を加工すること である。複数の写真を並べることによって、精神的体験の記録の部分を強調することがで きたと考えられる。加工についてであるが、当初は一つの弁当をそこに用いられている食 材ごとに色分けすることを検討していた。しかし過度の加工はかえって作者による受け手 のコントロールにつながると考えた。そこで方針を変更し、鶏を用いている弁当の写真を 18 枚 並 べ 、 受 け 手 に 考 え て い た だ く こ と に し た 。 写 真 の 加 工 は ト リ ミ ン グ や 色 調 の 補 正 のみにとどめた。 最後に 受け手が作品に示されている作者の精神的体験を完全に追体験することは不可能である。 作者がコード化した情報がそのまま受け手に伝わらないところに、作品制作のもどかしさ がある。まずそこを意識することが、作者の資質として求められるのではないか。 私は本報告書を通じて、受け手の精神的体験を意識した作品作りが必要であることを痛感 した。今後はメッセージの伝達という目的意識にとらわれない作品づくりを目指していき たいと考えている。
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