読書雑纂

読書雑纂
以下に載せる①から⑬までの文章は,新潟大学生活協同組合が学生のための読書案内と
して,毎年春と秋の 2 回発行し続けている『ほんのこべや』に,学生を挑発することを目
論んで投稿したものである。効果の程は確認していない。若干の学生から読んでみようと
思ったとの反応を得たのは,しかし,嬉しかった。
① トマス・マロリー『アーサー王の死』(ちくま文庫)
ベディエ編『トリスタン・イズー物語』(岩波文庫)
アーサー王と円卓の騎士の物語,あるいは円卓の騎士たちの聖杯探索の冒険譚は,断片
的にでも,一度や二度聞いたり読んだりしたことのある人は多いと思う。アーサー王物語
群が,いつどのようにして生まれたのかについては,諸説があるが,ケルト起源であると
する説が有力なようである。ケルトとは,古代ヨーロッパ大陸に広く分布し,各地に独特
な文化遺跡を残しながら,ゲルマンの西進に圧されて,ついにウエールズ・スコットラン
ド・コーンウオール・アイルランドそしてフランス西部のブリュターニュといった,ヨー
ロッパ世界の西隅に追い遣られた民族である。もっとも,C.S.リトルトン『アーサー王伝説
の起源』(青土社)はこの説話群の起源をスキタイと論じているから,愈々出でて愈々奇
なりというべきかもしれない。
原説話群の起源は兎も角として,物語の流布には,もっと生々しい政治的動機が絡んで
いたという説もある。12 世紀後半,西南フランス一帯に急速に勢力を拡大してきたノルマ
ンディー公・メイン=アンジュー伯にしてイングランド王ヘンリー(Henri)二世のプランタジ
ュネット家が,シャルルマーニュ大帝の後継者としての正統性を主張するフランス国王カ
ペー家に対抗する自己の王権的正統性の根拠として,アーサー王の後継者としてのイング
ランド王権を誇示しようとしたというのである。ジェフリ・オブ・モンマス『ブリテン列
王紀』は,イングランド王アーサーが大陸の諸侯を糾合して腐敗したローマに遠征し,教
皇を改悛させるという痛快な物語を含んでいる 12 世紀中葉の著作であるが,ヘンリー・プ
ランタジュネットは,この物語を彼の目的のために大いに利用した。ヘンリーの妃エリア
ノールのポワトウの宮廷と彼女の娘マリーのシャンパーニュ伯の宮廷を中心とするジョン
グルールの活躍によって,アーサー王説話群が洗練された形に整えられていくのを見れば,
アンジュー伯プランタジュネット家とアーサー王物語の結び付きに関する研究者の推測は
さらに強められるであろう。
上記の理解のために,プランタジュネット家に焦点を絞って,その歴史的背景を簡単に
整理しておこう。フランス西部,ロワール河の両岸に跨る富裕な所領を経営するアンジュ
ー(Anjou)伯フルク(Fulk)は北に隣接するメイン(Maine)伯領の女相続人との結婚によって,所
1
領を北に拡大した。その息美麗伯ジェフリー(Geoffroy le Bel)はイングランド王ヘンリー
(Henri)一世の娘であるマチルダ(Matilda)との婚姻により,両人の息であるヘンリーに,イン
グランドのノルマン王朝発祥の地であるノルマンディー公領(1152)とイングランド王位へ
の相続権を齎らした。伝承によれば,ジェフリーは,兜飾りとしてエニシダの枝を挿した
ことから,プランタジュネ(Plantagenet)と綽名され,プランタジュネット家の呼称はこれに
由来する。
さて,ヘンリー・プランタジュネットは,イングランド王位を征服王の孫ブロア(Blois)
伯ステファン(Stephen)と争った後,1154 年にイングランド王位に即いた。是より先,1152
年,フランス王ルイ(Louis)七世の王妃エレアノール(Alienor d'Aquitaine, comtesse de Poitou)
は,ルイと離婚して 3 ヶ月後にヘンリーと再婚した。かくしてヘンリーは,王領としての
イングランドの他に,エレアノールの所領である広大なポワトー伯領とアキテーヌ公領を
加えて,北はブリュターニュ公領を含むノルマンディーから南はピレネー山脈北麓まで連
なる厖大な土地を直接・間接に己の所領としたのである。歴史家はこれをアンジュー帝国
と呼ぶ。その大陸における所領は,パリとその周辺のイール・ド・フランス(Ile de France)
に跼蹐するカペー家のフランス王領を遙かに凌駕する。イングランド王位に即いたヘンリ
ー二世・プランタジュネットは,中央及び地方制度の整備に力を注いで,イングランドの
統治機構の集権化を図り,後代のイングランドの政治的行政的発展に大きく寄与した中世
イングランドの名君として高く評価されている。
付け加えれば,マルクブロックは,所領をめぐる争いに血で血を洗ったアンジュー家を,
「中世における真のアトレウス家」①と呼んでいる(『封建社会 上』p.123-4)が,その一
端は,映画の名作アンソニー・ハーベー監督『冬のライオン』に見ることができる。そし
て,プランタジネット家の骨肉の争いは,その分家であるランカスター家とヨーク家が王
冠を巡って争ったバラ戦争の末期,ヨーク家のリチャード三世によって仕上げを施される
ことになる。尤も,リチャード三世の悪行説話については,彼をボズワースの戦場に破っ
て王朝を開いたチューダー家の王朝的正当性を粉飾する為にするものであるとの説もあり,
一筋縄ではいかないところもある。ジョセフィン・テイ『時の娘』(ハヤカワ文庫)は,
リチャード三世惡王伝説を素材にした,興味深い推理小説である。
①
ミュケナイ王アトレウスは,妻と密通して国を遁れていた弟のチュエステスを,和睦と偽って宴に招き,チュエス
テスの子供たちを殺害してその肉を饗宴に供した後,抱腹した弟に血に塗れた子供たちの首と手足を皿に盛って示し,
いま宴に供したのはこれらの肉だと教えた。チュエステスは後退りして口にしたものを嘔吐し,遁れることの出来な
い呪いをアトレウスの子孫にかけた。
アトレウスの息であるアガメムノンの妻クリュタイムネーストラは夫に対して幾つかの深い怨みを抱いて,夫がト
ロイ戦役のギリシャ軍総帥として出征中チュエステスの遺児アイギストスと密通し,帰還した夫を浴室に導いて脱衣
中に姦夫と共謀してこれを殺害した。
アガメムノンの息オレステスは,姉エレクトラの強い使嗾に促されて,母親と姦夫を殺害して父親のために復讐を
果たした。この後,オレステスは母親殺しを責める復讐の女神エリュニスによって狂気の発作に苦しめられ,ギリシ
ャ世界を放浪した。一年後オレステスはアテネのアレイオパゴスの法廷で,女神アテネの裁断により無罪放免となり,
三代続いた一族の流血沙汰は終わった。
以上は,神話の極く粗い梗概である。事の次第の詳細は,ロバート・グレーブス(高杉一郎訳)『ギリシャ神話 下』
(紀伊國屋書店 1973),特に p.30-55 を参照されたい。また周知のように,ギリシャの詩人たちはこの神話を素材
にして幾つかの悲劇を書いている。
2
噺が大きく逸脱してしまったようである。アーサー王物語群の中でもっともポピュラー
な説話の一つは,トリスタンとイゾルデ(イズー)の物語である。これがケルト起源の説
話であることは,物語の舞台がコーンウォール・アイルランド・ブルターニュであること
からも推測できる。
アーサー王の世界は,王の庶子(ある異本によれば,甥;これがアーサー王とその異父
姉モーガン・ル・フェとの間の近親相姦による子とする写本もある由だが,そうとすれば
彼はアーサーの庶子でありかつ甥であることにもなる)モルドレッドの反逆と,円卓の最
高の騎士ランスロットと王妃ギネヴァーの不義とによって崩壊する。その物語展開におい
て,これとパラレルな関係にあるのが,トリスタンとイゾルデの物語である。ここでは,
コーンウォールのマルク王の甥トリスタンとアイルランド王女でありマルク王の妃である
イゾルデとの不義の愛がテーマである。
この物語の前半を端折って後半の粗筋を記せば,伯父であるマルク王の求婚の使いとし
てアイルランドへ赴いたトリスタンとアイルランドの王女イズーが,運命のいたずらで,
コーンウォールへの帰途「愛の妙薬」を飲んで宿命的な恋に陥り,悲劇的な結末に至ると
いうものである。『フランス中世文学集
1』(白水社)には幾つかの異本説話が収録さ
れている。それらは,標記のベディエ編『トリスタン・イズー物語』よりも素朴で荒々し
く,美しい。
かれこれ半世紀前,教養課程でドイツ語のリーダーの教師が語った言葉を今でも覚えて
いる。恋愛小説の精髄は,結婚した男女間の,愛欲と罪悪感に引き裂かれる恋愛の心理的
機微の複雑さを観察し描写することにある。恋愛文学は姦通文学に,そして,姦通文学は
フランス文学に,止めを刺す。未熟な男女の結婚によって成就される愛をひたすらに描く,
ドイツ文学は青臭くて話にならない云々(ここで先生は『若きウェルテルの悩み』を挙げ
られて,ドイツの未成熟な恋愛小説の例としたように憶えている),と。
むべなるかな。トリスタンとイズーの世界には,男女の愛と憎悪,誠実と欺瞞,いたわ
りと傷つけ合いなど,人間の性(サガ)の根元的な多義性とアンビヴァレンツが殆ど余す
ところなく開示されている。イズーがマルク王の面前で身の潔白を誓言する場面。ベルー
ル本によれば次のようである。浅瀬に足を取られたイズーは,癩病みの乞食に身をやつし
たトリスタンの背に負われて王の前に運ばれる。イズーはアーサー王とマルク王の面前で
誓言する。「浅瀬の向こうに運んでくれた癩病み,それに我が夫のマルク王以外に,いか
なる男も我が股の間に入ったことなし」
(「トリスタン物語」 『フランス中世文学集 1』
p.248-258)と。
一層烈しい写本は次の通り。「今でも覚えています,あなたの言葉を,一緒に倒れるの
よ,そうおっしゃった。愛しいイズー,これが事実でないとでも?あなたは上手に倒れる
と,わたしのために両股を開く,こちらはその間に倒れ込む,これを皆が見ていました。
わたしの考えでは,これがあるために,イズー,あなたは神明の裁きを切り抜けた,王様
の宮廷一同を前にして
あなたの立てた誓いに背くことなく」(「トリスタン佯狂」
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同
上 p.377)。素晴らしい狡知と言うべきである。
アーサー王物語は西欧文化に深い影響を与えている。そしてそれだけに,アーサー王物
語に関する著作は,一般書・専門書共に極めて多い。素人の私が贅言を加える余地はない。
本文で触れたものを含めて,関連する読みものを無作為に紹介しておく。
Sir Thomas Malory,“Le Morte d'Arthur”(Penguin Classics)は,標記トマス・マロリー『アー
サー王の死』の現代英語訳である。
Gottfried von Strassburg,“Tristan”(Penguin Classics)
Geoffrey of Monmouth,“The History of the Kings of Britain”(Penguin Classics)
新倉俊一外編訳『フランス中世文学集 全 4 巻』(白水社)
リチャード・バーバー『アーサー王 その歴史と伝説』(高宮利行訳 東京書籍)
高宮利行『アーサー王伝説万華鏡』(中央公論社)
“Lancelot of the Lake”(Oxford Paperbacks)は,円卓の騎士ランスロットと王妃ギネヴァー
との不倫の恋の物語である。騎士物語(あるいは,騎士道)へのキリスト教の侵入という
観点からも,興味深い読み物だと思う。同じ視点に立てば,天沢退二郎訳『聖杯の探索』
(人文書院)も興味を一段と増すように思う。
新潟大学生活協同組合『ほんのこべや』(第 17 号 1999 年秋)(大幅に改稿 2008/10)
② ペール・ラーゲルクヴィスト『バラバ』(岩波文庫)
ペール・ラーゲルクヴィスト『巫女』(岩波文庫)
バラバとは,磔刑されるキリストに代わって放免された盗賊の名である。その日,何事
も起こらなければ,彼はゴルゴタの丘で十字架に架けられることになっていた。しかし,
神の子キリストは,人類の苦難を引き受けんが為に磔刑を欲し,神の意思によって,イエ
スの身代わりとしてバラバが放免されたのである。
キリストの磔刑とバラバの赦免は神の摂理,即ち必然であった。しかし,バラバ自身は
神の意思を知るべくもない。ここにバラバの懐疑が始まる。如何なる意思,あるいは,い
かなる偶然,いかなる運命の戯れ,によって己は放免されたのか。己を放免したものは,
神の善意であったのか,悪意であったのか,あるいは単なる気紛れであったのか,それと
も,神はそもそも己に何の関心をも抱かなかったのだろうか。
バラバ放免の経緯は,マルコ傳福音書第 15 章第 6~15 節などにある。マルコ傳によれば
こうである。「さて祭の時には,ピラト民の願に任せて,囚人ひとりを赦す例なるが,こ
こに一揆を起し,人を殺して繋がれをる者の中に,バラバといふ者あり。群衆すすみ來り
て,例の如くせんことを願ひ出でたれば,ピラト答へて言ふ『ユダヤ人の王を赦さんこと
を願ふか』。これピラト,祭司長らのイエスを付ししは,嫉みに因ると知る故なり。され
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ど祭司長ら群衆を唆かし,反つてバラバを赦さんことを願はしむ。ピラトまた答へて言ふ
『さらば汝らがユダヤ人の王と稱ふる者をわれ如何にすべきか』。人々また叫びて言ふ『十
字架につけよ』。ピラト言ふ『そも彼は何の惡事を爲したるか』。かれら烈しく叫びて『十
字架につけよ』と言ふ。ピラト群衆の望を満さんとて,バラバを釋し,イエスを鞭うちた
るのち,十字架につく爲にわたせり」。
この小説は,神の意図に対する懐疑に取り憑かれたその日以後のバラバの生涯を描いて
いる。キリストは罪深き人類に代わって十字架上に赴いたのであるから,救世主に代わっ
て放免されたバラバは,神によって救済さるべき人類のメタファーである。キリストの十
字架上の死は,人類の魂の救済のためであったのか,それとも,神のタワムレであったの
か。キリストは自ら十字架上で,「わが神,わが神,なんぞ我を見棄て給ひし」(マルコ
傳福音書第 15 章 34 節)と,呟いていた。さすれば「神の子」キリストすら,神の意思に
確信を抱いていた訳ではなかったのかもしれない。バラバは,その日以後,救世主キリス
トにではなく,大工ヨゼフとその妻マリアの子イエスその人自体に魅入られて行くことに
なる。ニーチェは「深淵を覗き込むな。そうすれば深淵が汝を覗き込むことになろう」と,
そのアフォリズムの一つに書いている。そしてバラバは,深淵に覗き込まれてしまったの
である。
鉱山の坑内奴隷としてあるいはキプロス総督の家内奴隷として苦役を経る中で,信仰告
白と懐疑と裏切りを重ねた後,ローマにたどり着いたバラバは,ある日キリスト者たちの
まこと
まこと
集会の噂を耳にする。彼はそこで 真 のキリスト,あるいは 真 の教え,に出会うことを希求
してローマ郊外のカタコンベに赴く。しかしキリスト者たちは現れない。その帰途,家々
に燃え移る炎の中で,放火者たちの《キリスト信者の奴らだ》とののしる叫び声を聞いて,
この劫火を新しい世界の到来のためにこの世を滅ぼすキリスト者達の仕業と信じたバラバ
は,殆ど衝動的に炎をあげる棒きれを取って家々に放火してまわる。信徒の仲間に加わり
彼らの事業に参画せんがために。だが,ローマの街を焼き尽くすこの劫火はキリスト教徒
弾圧を謀った皇帝ネロ治下の当局の謀略であった。
キリスト者と共に捕らえられたバラバは,キリスト者の現世破壊の陰謀の動かぬ証人と
して,彼らと共に十字架に架けられることになる。つまり彼の信仰は,事毎に,神の意に
反することになったかのように見える。十字架上で息絶える間際に,彼が暗闇に向って「お
前さんに委せるよ,俺の魂を」とつぶやく終幕は,人の世の善と悪とに対する神の完璧な
無関心と,それにも拘わらず神を希求する人間の魂の有り様を冷酷に暴き出していると思
う。と言うのも,バラバが最後に呼びかける相手は,神の子イエスではなくて「暗黒」の
闇だからである。
『巫女』は,『バラバ』で示された神の人事に対する無関心を,神を生み育てた巫女の
独白を通して語った作品である。神に最も愛でられたと信じられたデルフォイの巫女が,
自然の情念の迸りの裡に人間の男を愛した。そして,そのことによって神に憎まれ,神の
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復讐としてその化身たる牡山羊の胤を宿して,人界を離れた山中で神の子を出産する。
産まれた子供は,白髪がはえる老年まで童顔を保ちながら,白痴の如く意味のない子供
っぽい笑いを浮かべるだけで,如何なるコトバも発しない。老婆は独白する,「神っても
のは,人間じゃない。まったく違ったもんじゃ。そして,それは,わしらがえてして思い
がちな,高貴でも崇高でも霊的でもない。それは余所者で冷淡かつ時として狂気じゃ。性
悪で危険で不運をもたらすものじゃ」,と。
このような神観念は,無神論に限りなく近付いていると同時に,全能の神に対する絶対
的な帰依の信仰告白でもあると思う。
新潟大学生活協同組合『ほんのこべや』(第 24 号 2003 年春)(一部改稿)
③ アレクサンドル・デュマ・ペール『王妃マルゴ』(全二巻 河出文庫)
アレクサンドル・デュマ・ペール『三銃士』(全二巻 岩波文庫)
デュマ・ペールの歴史小説を二冊取り上げる。関連する文献も取り上げるが,中には絶
版のものもあり,それはそれで,附属図書館で探したり,古本屋巡りの楽しみも味わえる
というものである。アレクサンドル・デュマは父子二人いる。両者を区別して,父をデュ
マ・ペール,『椿姫』の作者である息子をデュマ・フィスと呼んで区別する。
『王妃マルゴ』は,近年映画化された。十六世紀後半,カトリックと新教徒ユグノーが
血みどろの争いを展開する内乱の時代のフランスが舞台である。ヴァロア王家は王権簒奪
をもくろむ旧教のリーダー,ギーズ家の圧力をかわすために,新教徒(ユグノーと呼ばれ
る)のリーダーである,ナヴァル王にしてブルボン家の長子アンリと末娘マルグリット(マ
ルゴ公妃)の婚姻を策する。そしてサン・バルテルミーの祝日に当たるこの結婚式の当日
(1572 年 8 月 23 日),旧教徒は式典を祝うためにパリに集まったユグノー貴族を一斉に殺戮
する。新郎(アンリ・ド・ナヴァル)はルーブル宮殿に幽閉され,旧教への改宗を強要さ
れる。この小説は,サン・バルテルミーの大虐殺として知られるこの事件を背景にして,
アンリ幽閉中の,アンリ二世の寡婦にして國王シャルル九世の摂政カトリーヌ・ド・メデ
ィシスの陰謀と公妃マルゴの恋とアンリ・ド・ブルボンの冒険のいささか血腥い物語であ
る。國王シャルル九世は母后カトリーヌの酷薄に心を痛め早世した(1550~74)との説もある
由。弟のアンリ三世が跡を継いだ。
「三アンリの争い」と呼ばれる,フランス国王アンリ三世,アンリ・ド・ギーズ,アン
リ・ド・ナヴァルの訌争は,国王が三部会召集を口実としてブロア城に招いたギーズ公を
城内で暗殺し(1588),国王はギーズ家の刺客の復讐の刃に倒れ(1589),ナヴァル王アンリ・
ド・ブルボンがブルボン王朝初代の国王として即位することになる。しかるに,「名君」
アンリ四世のナントの勅令(1598)による宗教的宥和政策が功を奏して,王国が漸く平和に赴
こうとするとき,アンリはラヴァイヤックの狂気の刃に倒れる(1610)。次の小説は「三アン
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リ」の争いを最終的に制して国王として戴冠したアンリ四世の息子の時代を取り扱ってい
る。内乱が終息し,ブルボン絶対王制が形を整えつつある時代である。
ブルボン王朝二代目の国王ルイ十三世は,宰相リシュリュー枢機卿の国王を凌ぐ権勢に
嫉妬し,宰相は王妃アンヌ・ドートリッシュに横恋慕して,事毎に反目している(と,デ
ュマは主張している)。もっとも国王ルイは男色趣味があったと噂され,王妃との間は必
ずしもしっくりとはいかず,長い間別居生活を続けていたから,リシュリューの横恋慕な
ぞ国王には痛くも痒くもなかったかもしれない。しかし,それではお話は面白くない。ま
た,この別居中の奇跡的事件によってルイ十三世の長子,後の太陽王ルイ十四世が懐妊さ
れ誕生するのであるが,これはまた別のお話である。
歴史的に見れば,母后マリ・ド・メディシスの政治的策謀を抑え込んで以後,国王のリ
シュリュー枢機卿に対する絶大な信頼は殆ど揺るがなかったのである。しかし,デュマ流
「張り扇」の冴えを響かせる上からは,国王と枢機卿との王妃をめぐる鞘当ては物語展開
の中心軸として缺かすことはできない。とはいえ,『三銃士』の続編では,ダルタニャン
と嘗ての三銃士の面々は,少年王ルイ十四世の母后・摂政アンヌ・ドートリッシュ寵愛の
臣である宰相マザラン枢機卿と引き較べて,リシュリューの大宰相振りを追憶することに
なる。しかしながら,それぞれの個性の違いはあるとはいえ,リシュリューとマザランの
両宰相は,ルイ十四世によって絶頂期に入るブルボン絶対王制の基礎を築いた政治家とし
て歷史家の斉しく認めるところであろう。
大望に胸膨らませたダルタニャンが瘠せ馬に騎って,スペインとの国境に近いガスコー
ニュの片田舎からパリに乗り込んだのは 1625 年の春である。首都に到着早々ダルタニァン
は国王と枢機卿との対立に巻き込まれ,近衛銃士アトス・ポルトス・アラミスと共に敢然
として国王・王妃方についてリシュリューに楯突き,宰相が次々に放つ刺客を倒し,噺が
少しややこしいのであるが思い切って省略して,王妃アンヌ・ドートリッシュとイングラ
ンドの宰相バッキンガム公爵との間の秘められた恋を護る。国王の側に付きながら,どう
して王妃の恋の仲立ちをするの,などと訊いてはいけない。それが冒険活劇お定まりの咄
の運びなのである。恋人ボナシュー夫人と妖婦ミレディの悲劇的死,それに続くリシュリ
ューとの和睦によるダルタニァンの近衛銃士隊副隊長への昇進で『三銃士』の幕が閉じら
れるのが 1628 年,ダルタニャン 21 歳の春であった。
リシュリューは 1642 年 12 月に薨去し,翌日マザランが宰相の地位を襲う。国王は枢機
卿の後を追うように 1643 年 5 月に崩御して,ルイ十四世が 5 歳で即位する。マザラン枢機
卿が死去して,国王が親政を開始するのが 1661 年,王はその 6 月後には王国の財務を総裁
して富力で王室を遙かに凌駕する財務卿フーケを逮捕し,親政を実質化する。
『三銃士』は,『モンテクリスト伯爵』(全七巻
山内義雄訳
岩波文庫)と並ぶ,デ
ュマの代表作である。続編の『二十年後』,『ブラジュロンヌ子爵』は,『三銃士』と合
せて,『ダルタニヤン物語』(全十一巻 鈴木力衛訳 講談社文庫)で読むことができる。
バルザック『カトリーヌ・ド・メディシス』(『バルザック全集 23』東京創元社)とメ
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リメ『シャルル九世年代記』(岩波文庫)は,宗教戦争時代のフランスを舞台とする優れ
た歴史小説である。ラファイエット夫人『クレーブの奥方』(岩波文庫)は,アンリ二世
横死(1559)前後の宮廷貴族社会をテーマにしているが,あるいはこの小説が書かれた 17 世
紀後半の宮廷生活が描かれているのかも知れない。いづれにしろ,ヴァロア朝末期からブ
ルボン朝初期の宮廷貴族たちの生態に関する好個の史料の一つとなるかも知れない。ブラ
ントーム『好色女傑伝』(全二冊
講談社文庫)は,同時代のモラリスト(人間研究家)
による,ヴァロア朝末期の宮廷人を題材にした‘性的人間’の記録である。
この時代をもっと詳しく知りたい人には,渡辺一夫『戦国明暗二人妃』,『世間噺・戦
国の公妃』(『渡辺一夫著作集 13』筑摩書房),および金沢誠『生活の世界歴史 王権と
貴族の宴』(河出文庫)<最後に挙げた本は,読み慣れない表現や語彙が散見されて興趣
を殺ぐ憾みがないではない>が,さしあたり手懸かりになる。フランソワ・バイルー『ア
ンリ四世』(新評社)も興味をそそる読み物である。
また,ヴォルテール『ルイ十四世の世紀』(全四巻
丸山熊雄訳
岩波文庫)が参考文
献として役立つはずである。この時代を題材にして,政治と宗教というかなり厄介な問題
を考えようとする人には,A.ハックスリ『灰色の宰相 政治における信仰の破産』(福島
正光訳 フジ出版社)<“GREY EMINENCE A study in religion and politics”>が恰好のテ
キストの一つであると思う。宰相リシュリュー枢機卿の外交政策を担い,「灰色の猊下」
と呼ばれた,カプチン会修道僧ジョゼフ神父の評伝である。
新潟大学生活協同組合『ほんのこべや』(第 13 号 1997 年秋)(一部改稿)
④ 山田風太郎『エドの舞踏会』(ちくま文庫)
山田風太郎『ラスプーチンが来た』(ちくま文庫)
山田風太郎は,史料をキッチリと押さえながら,その欠落の部分に幻妖で奇怪な幻想を
滑り込ませて,波瀾万丈の物語を展開してみせるという,読者サービスに徹した歴史小説
を提供してくれる,得難い作家である。
『エドの舞踏会』は,若き日の海軍少佐山本権兵衛を狂言回しにして,山本少佐が海軍
卿西郷從道の下命によって,明治政府お歴々の高官ご夫妻を鹿鳴館の舞踏会へ勧誘すると
いう趣向の小説である。なお,山本は花柳界などで「ヤマモトゴンベイ」閣下などと呼ば
れると機嫌が悪く,「ゴンノヒョウエ」と呼ばせて嬉しがっていたという逸話があるが,
正式の呼び方は「ゴンベイ」である。
日露戦後,薩派・海軍の山本と長派・陸軍の桂太郎は必ずしも折り合いが善くはなかっ
たようであるが,新聞は「権兵衛が種まきゃ,桂がほじくる」と冷やかした。しかし権兵
衛閣下のために一言弁じておけば,疑いなく山本は近代日本海軍の傑出した創始者である。
高官たちが舞踏会への出席を渋るのは,西洋人に立ち交じる鬱陶しさや,侍の子孫たる
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彼らがご婦人の背に腕を回してホールを踊り回る屈辱(?)だけが理由ではない。幕末の
風雲を「酔いては枕す美人の膝,醒めては握る天下の権」と悲憤慷慨して,死と隣り合わ
せで送った青春の中で,嘗ての尊王攘夷の志士たちが選んだ生涯の伴侶が芸者や港町の女
郎あがりというケースも少なくはなかった。鹿鳴館時代までは生き延びなかったけれども,
桂小五郎(後に改名して,木戸孝允)の松子令夫人は,蛤御門の変直後に地下に潜った桂
小五郎を匿い通した京都先斗町の名妓幾松姐さんであった。それ故,彼らが舞踏会を敬遠
したのは,令夫人の出自を恥じたからでもない。その点では,道徳的にお上品に取り澄ま
した現代の紳士諸氏よりも,おおむねは,この時代の男の方が,共に白刃の下を潜った戦
友意識の故ででもあろうか,夫人との心の結び付きは強かったように思われる。伊藤博文
は,この世で最も尊敬する人物はと問われて,襟を正して「天子様ぢゃ」と答えた。重ね
て臣下ではどなたでありましょうかとの問に,「おかか位のものぢゃ」と言い放った(こ
の辺りが,明治人の端倪すべからざる所なのだが)。しかしそうは言っても,このような
心の絆は,殿方たちのご乱行を遮る障害にはならなかったように見える。尤も,伊藤博文
の嗣子への遺言は,梅子夫人に対する周到な思い遣りに満ちているようにも思われるのだ
が。ご婦人達のそうした出自が問題だったのではない。青い目の子供を産んだり,酒乱の
亭主に蹴り殺されたり,されそうになったりという,今現在の家庭の事情が,鹿鳴館の敷
居を高くしているのである。舞踏会への勧誘に高官の家庭を訪ね歩くことによって,山本
海軍少佐は政府高官たちの裏面の人間模様をつぶさに観ることになる。これは,虚実取り
混ぜた,山田風太郎の人物明治政治史である。
ラスプーチンとは,ロマノフ王朝末期のロシア宮廷に現れ,皇帝ニコライ二世と皇后の
絶大な帰依を背景として宮廷政治に辣腕を振るった怪僧である。皇后アレクサンドラは,
皇太子の血友病の発作を沈静化させるのに異能を発揮したラスプーチンに,身も心も捧げ
ていた。こういう怪僧には俗説がついて回る。
右翼貴族たちは彼を除こうとして,さる公爵の邸宅で饗応して大量の毒物を与えた。し
かしそれでも死なず,彼は不穏を察知して逃げ出した。恐れ戦いた暗殺者たちは,逃げる
ラスプーチンを庭園に追って,折り重なって引きずり倒し,拳銃を撃ち込んでようや仕留
め,死体をネヴァ河に投げ込んだ<やれやれ,ご苦労な噺である>。殺されたのは,ロシ
アにおける政治的危機が深刻化した 1916 年 12 月,ロシア革命の起こる 3 月前である。
山田風太郎によれば,そのラスプーチンが 1890 年に密かに来日して,翌年シベリア鉄道
の起工式に臨席するためにウラジオストックに向かう途中日本を訪れることになっている
皇太子時代のニコライを,日本人を使嗾して暗殺させようと画策していたというのである。
この怪僧を迎え撃つのは,参謀本部付きの怪物明石元二郎陸軍中尉である。
明石は,日露戦争時代にロシアの革命勢力と接触して,ロシア国内の政治的攪乱を謀っ
たことで知られている。かくして怪僧と怪物との,当然歴史の表面には現れない(現れる
筈のない),暗闘が繰り広げられる。そして背後の事情を何も知らない純朴な国民は,1891
9
年 5 月 11 日に人力車のロシア皇太子に警護中の津田三蔵巡査が斬りつけたという事件の報
道を読んで,アッと驚くことになる。このロシア皇太子暗殺未遂事件は世に大津事件とし
て知られている。この小説も虚実取り混ぜた(と言うよりは,虚の方が格段に多い)山田
風太郎流の歴史小説の傑作の一つである。
なお,ちくま文庫には『山田風太郎明治小説全集』(全 14 巻)が収められており,いづ
れも楽しい読み物である。上に紹介した 2 点はその中の 2 冊である。
新潟大学生活協同組合『ほんのこべや』(第 18 巻 2000 年春)
⑤ 山田風太郎『人間臨終図鑑』(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ) 徳間文庫
山田風太郎『半身棺桶』 徳間文庫
山田風太郎『風眼抄』 中公文庫
「本のこべや」第 18 号で,山田風太郎を取り上げた。今回再び取り上げるのは,山田風
太郎が本年 7 月 28 日に物故したからである。享年 79 歳,1922 年の生まれである。山田風
太郎は,多くの評論家が言うように,「死」に対して一種独特の感覚を持っていた様に思
われる。そしてその理由の一部は,二〇歳代前半までの彼の苛烈な体験に起因するようで
ある。体験の具体相は『半身棺桶』と『風眼抄』に断片的に語られている。
『人間臨終図鑑』は,15 歳で死んだ八百屋お七と大石主税から 114 歳で死んだ泉重千代
まで,古今東西(しかし,日本人が圧倒的に多い)の著名人 923 人の死に際を,死亡年齢
順に,殆ど感情を交えずに淡々と記録した作品である。著者五〇代半ば頃の仕事である。
著述の動機や目的について,著者は何も説明していない。
私はいま元版(上下二巻 1986-7 初版)を参照しているのだが,上巻の扉に「この門に入
る者一切の望みを捨てよ」という『神曲・地獄篇』の一節が,下巻の扉に「一たび生を受
け滅せぬもののあるべきか」という幸若舞『敦盛』の高名な一節が記されているだけであ
る。もっとも,各節ごとに著者の感懐やら他者のアフォリズムなどがさり気なく記されて
いる。例えば,「七十五歳で死んだ人々」の節に「自分が消滅したあと,空も地上もまっ
たく同じ世界とは,実に何たる怪事―山田風太郎」,あるいは「六十七歳で死んだ人々」
の節に「死んで不倖せになった人を,ひとりでも見たことがあるかね?―モンテスキュー」
と言った具合である。著述の動機を著者自身が解説したような文章は残っている。『風眼
抄』と『半身棺桶』にそれらは収められている。
「感情を交えずに淡々と記録した」と書いたが,それは,著者の感懐を排除して,事実
と証言のみを記述しているということであって,人事(人間の事象に関する事柄)につい
ての著者の鋭い洞察は,随所に披瀝されている。事象の取捨選択に先ずそれが的確に現れ
ている。そしてそれが本書の魅力の一つになっている。
もう一つの魅力は,その史眼である。例えば,1942 年に死去した萩原朔太郎に関連して,
10
「彼は自分の一生を『敗亡の歴史』と思っていた。しかし,同じころ,みずからは有用有
能と信じる一大集団であった帝国海軍の将官や参謀たちは,やがて日本に運命の敗亡を呼
ぶミッドウェー作戦を準備しつつあった」と書いている。
生まれてくる cause は誰でも同じであって,その事情は本人の与り知らぬ事柄である。本
人は只ひたすら生まれ出づるのみである。その後の人生は,多かれ少なかれ,「忍耐が肝
腎だぞ,人は皆,泣きながらこの世にやって来たのだ。・・・・生まれ落ちるや,誰も大声挙
げて泣叫ぶ,阿呆ばかりの大きな舞台に突出されたのが悲しゅうてな」(『リヤ王』第四
幕第六場― 福田恆存訳),という次第なのである。そしてまた,「生」は「死」への短い
「前奏曲」に過ぎないなどと,作曲家フランツ・リストは,神信心に転じた後,悟り澄ま
したようなことを言っている<正確に言えば,そんなことを語った詩人の作品に曲をつけ
ている>。しかしながら,人が「生」と「死」をどのように言い繕おうと,人々の「生」
にんにん
にんにん
が人々様々のように,人々の「死」も人々様々であり,人それぞれの人生そのものである
ように思われる。つまり,それによって周囲に惹き起こされる悲喜劇を含めて,「死」は
彼/彼女の「生」の凝縮された形態であると言い換えることもできる。「ねがはくは花の
したにて春死なむ,そのきさらぎの望月の頃」(『山家集』)と詠った西行法師は,よく
知られているように,願いの通り建久元年二月十六日,十五日の月が今や西の空に没しよ
うとする頃おいに(と,誰やらが書いていたように思う),七十三歳の生を閉じた。天授
の幸せと言うより外にない。もちろん,このような幸せに恵まれる人はごく稀である。
特殊な事例を除いて,人は自らの死に方を選ぶことはできない。特殊な事例の一つは,
不幸な人生の自らの手による終焉である。しかし,ここでも,「忍耐が肝腎だぞ,人は皆,
泣きながらこの世にやって来たのだ。・・・・生まれ落ちるや,誰も大声挙げて泣叫ぶ,阿呆
ばかりの大きな舞台に突出されたのが悲しゅうてな」,という次第であって,あの世に賢
者が充満している筈がないことは知れたことである。あの世の亡者はこの世から引っ越し
ていった阿呆なのだから。
次にもう一つの事例は,大義に殉ずることである。我々は数多くの殉教者の事例を知っ
ている。泰西名画に典型的に見られるように,彼等の多くは恍惚とした(あるいは,決然
たる)表情を浮かべて「死」へと赴く。しかしまた,性急な殉節は,「己を潔くする」(木
戸孝允書簡)ものとして,嘲罵の対象にもなる。この木戸の嘲罵の対極にいるのが山本常
朝である。彼は,武士の生き方を説いて,「武士道と云うは,死ぬ事と見付たり」(『葉
隠』)と言っている。そしてここで常朝は,ゆくりなく,「生」と「死」の両義性につい
て語ったことになる。
勇ましい「舌の戦」に明け暮れた孟子は「志士は溝壑にあるを忘れず」(『孟子 滕文公
下』)と説いた。志のためには野垂れ死にする覚悟を持て,ということらしい。その裏面
には,日常をのうのうと無為に生き延びているのは死んでいるに等しい,という含意があ
るようである。ハムレットの「生きるべきか,死すべきか」は,生きることと死すること
との,この両義性を前にした躊躇いである。
11
また,先に引いた『敦盛』の一節は,強大な今川軍団の侵攻に乾坤一擲の勝負を賭けた
織田信長が,出陣を前に謡い舞った一節である。「人間五十年,化天(原:下天)の内を
くらぶれば,夢幻の如くなり。一度生を得て,滅せぬ者のあるべきか」。この一節は信長
愛好の一節であった(『信長公記』)。そして信長は,四十九の歳に明智光秀の叛逆によ
って,本能寺において自害した。まことに「人生五十年」を生き尽くしたと言うべきであ
ろうか。西行法師とは全く違う意味であるにしろ,天授の幸せと言うべきかもしれない。
織田信長について,珍しく山田風太郎はコメントを付している。「死は大半の人にとっ
て挫折である。しかし,奇妙なことに,それが挫折の死であればあるほどその人生は完成
型をなしてみえる」と。
新潟大学生活協同組合『ほんのこべや』(第 21 号 2001 年秋)(一部改稿 2008/10)
⑥ W.スコット『アイヴァンホー』(岩波文庫)
R.ペルヌー『王妃アリエノール・ダキテーヌ』(パピルス)
R.ペルヌー『リチャード 獅子心王』(白水社)
時は 12 世紀末。イングランド王獅子心王リチャード一世は十字軍からの帰途オーストリ
ー大公の捕虜となり,その間に王弟ジョンが謀反を企てる。イングランドの政治は乱れ,
シャーウッドの森には無法者ロビン・フッドの一味が跋扈する。ノルマンの征服(1066)後
1 世紀半経ったにもかかわらず,征服者と先住民サクソンとの対立は克服されていない。
パレスチナで勇名を馳せたサクソンの騎士にしてリチャードの寵臣アイヴァンホーとそ
の相愛のサクソンの姫君ロウィーナ,主人公を慕う美しく聡明なユダヤの娘レベッカ,こ
かたき
の乙女に横恋慕する主人公の不倶戴天の 敵 である聖堂の騎士ブリアン・ド・ボア=ギルベー
ル,アシュビー・ド・ラ・ズーシュの槍試合に目覚しい活躍をしながら姿を晦ます謎の黒
い騎士,などなど。これらが織りなす冒険活劇が『アイヴァンホー』の世界である。
歴史の教えるところでは,リチャードは,母親の奔走で莫大な身代金を支払って釈放さ
れたが,フランス南部の小城を包囲攻撃中に流れ矢に当たって戦死した(1199)。その跡を襲
ったジョンは,父祖伝来の大陸の広大な領地を殆ど喪失し,イングランド国民を苛烈に収
奪した揚げ句,史上有名なマグナ・カルタに署名し,間もなく,出来たてのシェリー酒と
採れたての桃の過飲・過食で死んでしまった。
リチャードとジョンの父母の時代,国王ヘンリー2 世・プランタジネットと王妃アリエノ
ール・ダキテーヌおよび王子リチャード,ジェフリー,ジョンの,所領相続をめぐる葛藤
を描いた映画『冬のライオン』は,上映当時評判となった。ペルヌー『王妃アリエノール・
ダキテーヌ』も,西欧中世に傑出したこの女性の生涯を描いて,大変に興味深い読み物で
ある。
彼女は,西南フランスの広大な公爵領であるアキテーヌの女相続人であり,政治的・文
12
学的才能と人間的魅力に恵まれていた。フランス王ルイ 7 世と離婚して,11 歳年下のヘン
リーと再婚することによって,彼女はイングランド王にしてノルマンディー公・アンジュ
ー及びメインの伯爵ヘンリーにポワトー伯領及びアキテーヌ公領と 8 人の子供とをもたら
した。ヘンリーの晩年,しばしば夫に対する反逆を企て,イングランド南部のソールズベ
リーのお城に幽閉された。
『アイヴァンホー』に戻ろう。この小説の主人公は,疑いもなく,アイヴァンホーの騎
士ウィルフレッドであり,ヒロインはサクソン王家の血筋を引き,今はアイヴァンホーの
父親セドリックの庇護のもとにあるロウィーナ姫であるが,この二人を取り巻く脇役がま
ことに個性溢れる顔触れなので,ヒロー・ヒロインの影が薄くなるほどである。
サクソン人の郷士セドリックは,ロウィーナ姫に献身的に仕えて,サクソン王家の復活
を夢見ている。最愛の一人息子ウィルフレッドが,ノルマン人の王リチャードに臣従した
ためにこれを勘当した,頑固一徹な昔気質である。彼の奴隷である,道化(fool)のウォン
バと豚飼いのガースは,主人への忠義立に,我が身の危険をも顧みずに健気に活躍する。
ガースとシャーウッドの無法者ミラーとの月の光の下で行われる棒術の秘技を尽くした応
酬は名場面の一つだと思う。
もちろん,森の無法者の首領ロックスリー(ロビン・フッド)が弓の妙技を見せる場面
も忘れがたい。また,遍歴の騎士に身をやつした国王リチャードが,森の生臭坊主タック
の草庵に迷い込んで,お互いの腹の探り合いの揚げ句に,肚を割った愉快な酒宴に到る場
面も読み処の一つである。
かたき
かたきやく
この小説では,アイヴァンホーの不倶戴天の 敵 として敵 役 となっている,テンプル騎士
団の誉れ高い騎士ブリアン・ド・ボア=ギルベールも,魅力的な個性を持って描かれている。
神に仕える身として,しかもあろうことかユダヤの娘美しく聡明なレベッカに烈しく恋慕
して,森の中でセドリック一行を襲って,彼女を略奪する。
レベッカを救うために駆け付けたアイヴァンホーとの一騎打ちで,双方の鑓が烈しく激
突して落馬したとき,ド・ボア=ギルベールは神への奉仕とレベッカへの愛の「胸のうち
の相戦う感情の犠牲となって」(中野好夫訳),かすり傷一つ負わずに死んでしまうので
ある。
しかし,このロマンスに登場する最も魅力的なキャラクターは,ヨークの金貸しユダヤ
人アイザックの娘レベッカである。アイザックは計算高く欲深の,しかし情に脆い一面の
ある,愛すべき金貸しとして,この小説のいわば道化役であり,狂言回しを勤めてもいる
のであるが,その娘は,美しく理知的で気高く思い遣り深い。心の裡深くアイヴァンホー
を恋い慕い,アシュビーの鑓試合で重傷を負ったアイヴァンホーを東方の医術の粋を尽く
して看護する。
物語の終末では,父に従ってイングランドを去り,回教国グラナダへ旅立つ。旅立ちを
前にして,はじめてロウィーナと会見するのであるが,この場面でも,理知と勇気と気品
においてロウィーナに優っていると感じるのは,私の僻目であろうか。
13
内乱と流血とそして自らの民族に対する蔑みの土地イングランドを去り,生涯を神と病
める者貧しき者に捧げるレベッカの決意を聞いて,ロウィーナはこの国に留まることを親
身に勧める。<「どうかここいらっしゃいませ―聖職者会議が,謬った掟から解放いたし
てくれましょうし,わたくしも姉妹のつもりでお味方をいたします」(‘O, remain with us; the
counsel of holy men will wean you from your erring law, and I will be a sister to you.’)>。
レベッカは応えて云う,<「いいえ,奥さま」相変わらずおだやかな彼女の言葉,美し
い容貌の中には,静かな哀愁がただよっていた。「それはいけませぬ。住みます風土に合
わないからと申しまして,着物のように,祖先以来の信仰を棄てるわけにはまいりませぬ。
奥さまわたくしは決して不幸ではございませぬ。これからの一生を捧げます神様が,思召
しに沿いますかぎり,きっとお慰めくださることと信じております」
(中野好夫訳)(‛No, lady,’
answered Rebbeca, the same calm melancholy reigning in her soft voice and beautiful features; ‛that
may not be. I may not change the faith of my fathers like a garment unsuited to the climate in which
I seek to dwell; and unhappy, lady, I will not be. He to whom I dedicate my future life will be my
comforter, if I do His will.’>。こうした読者の胸を打つ矜恃と心の奥底に秘められた情熱は
美しく気高い。レベッカへのオマージュとして最後の 4 ページほど全てを引用したいくら
いだ。
トロイの遺跡を発掘したシュリーマンは,この本を丸暗記して英語を吾がものにしたと,
確か自伝『古代への情熱』(岩波文庫)で読んだ記憶がある。『アイヴァンホー』の翻訳
は,管見の限りでは三種類あるが,小学生の頃読んだ新潮社版世界文学全集が最も印象深
い。カヴァーに,火が罹って落城寸前のお城から,ド・ボア=ギルベールが囚われのユダヤ
の娘レベッカを小脇に抱えて落ち延びる,おどろおどろしい挿し絵が描かれていた。他に
中野好夫訳の河出書房版があるが,絶版である。せめて文庫本でなりと,復刊して欲しい
ものである。
新潟大学生活協同組合『ほんのこべや』(第 16 号
1999 春)(大幅に改稿 2008/10)
⑦ ダシール・ハメット『マルタの鷹』(小鷹信光訳 ハヤカワ・ミステリ文庫)
ダシール・ハメット『ガラスの鍵』(小鷹信光訳 ハヤカワ・ミステリ文庫)
陸井三郎『ハリウッドとマッカーシズム』(教養文庫)
諏訪部浩一「『マルタの鷹』講義」(研究社 2012)
文學書を精読するとは如何なることかを実地に開示してくれた著書である。こうし
た精緻な読みを見せられてしまったからには,チャンドラーを貶すことも,ましてハ
メットを持ち上げることも,蟷螂が斧を振るうに等しくなった。ここでは沈黙せざる
を得ぬ。以前書いた駄文は削除する。(2013/06/02)
14
⑧ 山藤章二『似顔絵』(岩波新書)
山藤章二は特異な文字付き似顔絵でよく知られている。このスタイルは,本人が認めて
いるように,江戸時代の浮世絵などに源流が求められる。しかしもちろん,それは単なる
模倣ではない。
著者は随所で「似顔絵は批評である」と書いているが,彼の作品には,対象の真相を瞬
時に見透かしてしまう作者の眼力と自己主張(これあるが故に,真相が見えるのである)
がある。著者はそれを「毒」と呼んでいる。そして何よりもそこには,描かれた本人が,
思わず微苦笑せざるを得ぬような,俺にはこんな一面があったのかと気付かざるを得ぬよ
うなエスプリがある。
このエスプリを解せぬ者は,山藤描くところの己の似顔絵に激怒することになる。歴史
的に見れば,山藤の作品は,明治の風刺漫画で一時期を風靡した『團團珍聞』(復刻版が,
本学の附属図書館に所蔵されている)を連想させる,誠に痛烈にして痛快な作品群である。
『珍聞』で茶化された明治の元勲たちは,激怒して,しばしばこの雑誌を発禁処分にした。
そして,似顔絵に付けられた文章がいい。「寸鉄」の言とはこういうものをいうのであ
ろう。一読唸らざるを得ない傑作が多い。原稿をそのまま写真版で写した「あとがき」も
いい。文章を一定のリズムに乗せて,一行 29 字で,しかも日本語流の脚韻(?)も踏んで
いる。著者の「毒」を楽しみながら,愉快になれる一冊である。
新潟大学生活協同組合『ほんのこべや』(第 19 号 2000 年秋)
⑨ 山本夏彦『完本 文語文』(文藝春秋)
小学校卒業後直ちに商家に奉公に出て,徴兵満期後直ちにシベリアへ出征した兵士の家
郷へ宛てた厖大な書簡集が出版されたことがあった(松尾勝蔵『シベリア出征日記』高橋
治解説 風媒社 1978)。それらは口語体で書かれた,軍隊生活と軍事行動の客観的で的確
な報告書であった。
その表現力に富んだ日本語は構成の整った見事なものであり,とても小学校しか出てい
ない人が書いた文章とはにわかに信じられなかったのであるが,しかし,旧制中学進学率
13.4%,旧制高等学校進学率 0.86%(1925 年)という数字の背後に,このような優れた知性
が数多く埋もれて,日本の文化を下支えしていたのだという当たり前のことに,更めて思
い当って納得したことがあった。
このコーナーの限られたスペースでこれを紹介できないのは残念である。そして彼の文
章力の背後に,これを支える文語文文化があったと考えてよいように思う。彼は 1897 年生
まれで,1918-9 年の出征であるから,使用した教科書は文語文であり,当時の新聞雑誌な
どもそれが中心だったはずである。
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現代の学生諸君は,文語文は高校の国語の教科書でお目に掛かったけれども,もうあら
かた忘れてしまったし,読むのに難儀すると言う人が多いかもしれない。かく言う私も,
「今こそ別れめ」を「今こそ別れ目」とばかり思いこんで,「蛍の光」に金切り声を張り
上げていた一時期があった。
著者の山本は,日本文化の基層をなす文語文文化が,大正期を境にして衰退し,昭和戦
後期に決定的に壊滅したと言う。しかし,文語文に反えれと唱えているわけではない。そ
れはもはや不可能である。著者は,文語文の美や豊饒や勁直やそしてリズムなどを様々な
角度から縦横に論じて,そのことを通して,我々が口語文に移ることによって喪ったもの
を鮮明に浮き上がらせる。その中で我が意を得たことの二三を紹介する。
文語文には,長い年月の中で彫琢された型(スタイル),敢えて言えば,紋切り型があ
ったこと。然り,その代表は候文の手紙である。書き手はこの型に従いながら過不足無く
用件を認め,その間に書き手の少しばかりの創意と,もしあるならば少しばかりの人間味
を付け加えることができるのである。
もちろん,候文で書き手の真情をみごとに表現し尽くした手紙はたくさんある。しかし,
我々は書簡で常に自己の真情を吐露する必要はない。口語文の席巻によって型を喪った
我々が,書簡は常に友情や人間味の吐露でなければならぬと信じたとき,あるいは口語体
の紋切り型の完成(これは,後述の理由から困難である)を怠ったとき,我々の手紙文化
は衰退したのである。その悪しき遺産として,用件だけをぶっきらぼうに記した E メール
が横行しているようである。このことはこの国の人々の文化度の低落を示しているように
思う。
紋切り型に関連して,次に,文語文は書き手の内面と密接していないこと。然り。だか
ら,書き手は一定の距離を保ちながら自己の内面を叙述し,また,外界の事態を,感情移
入せずに描写できる。もちろん,読み手も余分な心理的負担なしに文章を味わうことが出
来る。他方,口語体は,文章と書き手の内面とは密着せねばならぬと言う,一種の強迫観
念を一つの有力な動機として生まれてきたように思われる。
以上,紹介者の感想を長々と書き散らしたが,本書は,文体を素材にして,現代日本文
化を解析した好著である。
次に蛇足をもう一つ。文語文文化が言文一致運動を境として衰退に向かったという著者
の見立てを証拠立てる史料がある。二人の一級の漢学者,元田永孚と井上毅(両名とも熊
本時習館出身の俊才である)が起草した「教育勅語」(1890)の一節に,「一旦緩急アレバ義
勇公ニ奉ジ」とある。しかし,文語体の文脈に照らしてみれば,正しくは「一旦緩急アラ
バ」とあるべき筈である。
尤もこれに対しては異説もあるかもしれない。この一節は仮定を述べたのではなく,未
来の事件を既定のこととして述べる予言的文法に従ったまでだ,だから間違いではないと
いうのである。事実,近代日本は,日清戦争(1894-5)以来ほぼ 10 年間隔で対外戦争を繰り
返してきたではないか。日露戦争(1904-5),第一次世界大戦参戦(1914),シベリア出兵
16
(1918-22),十五年戦争(1931-45)を,と。
新潟大学生活協同組合『ほんのこべや』(第 19 号 2000 年秋)(一部改稿 2008/10)
⑩ 萩原延壽『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』(全 14 巻)(朝日新聞社)
アーネスト・サトウ(Ernest Satow)は,1862(文久 2)年に 19 歳で英国公使館の通訳生と
して来日して以来,1882(明治 15)年 39 歳で離日するまで,数回の賜暇を挟んで足掛け
20 年を日本で過ごし,とりわけ幕末・明治初期には英国の対日政策に大きな影響を与えた
外交官である。幕末維新期の日本政治家たちとの交友範囲も広く,勝海舟・西郷隆盛・木
戸孝允・伊藤博文などとは,政治家としてだけではなく,人間的な情感を交えて交際して
いたように見える。
サトウは離日後,各国の領事や公使を勤めたあと,1895 年から 1900 年まで駐日公使,そ
の後 1906 年まで駐清公使を勤めて外交官を引退し,枢密顧問官・ハーグ国際仲裁裁判所の
英国代表に任命されている。サトウの名は夙に『一外交官の見た明治維新』(全 3 巻 岩波
文庫)の著者として知られている。
ここに紹介する,萩原延壽のこの大部の著書は,1976 年から 1990 年まで朝日新聞に断続
的に連載された作品に入念な改訂の筆を入れて完成したものである。取り扱う時期は,英
国における少年時代からはじまり,明治 15 年の離日までのサトウの在日中の全体を覆って
いる。著者は,サトウの日記や書簡などを丹念に読み解きながら,幕末維新期の政局の動
きや交友関係あるいは家族との情愛などからサトウ自身の内面にまで渉って,サトウが関
わったあらゆる事柄に目配りして,事象の細やかなヒダをも表現しつくす達意の文章で綴
っている。この作品は,いわば,サトウの動きを経とし,時々の状況でサトウに関わって
くる人物たちを緯として,著者が織りなした幕末・明治史である。また,著者の平明で配
慮の行き届いた気品のある文章は既に定評のあるところであり,本書は,歴史叙述の領域
においてだけではなく,現代日本語の最高の達成の一つに数えられるべきものである
歴史叙述は,畢竟するに,深い人間洞察に基づいた人物描写に帰着する,というのが私
の考えである。そして,この点で範とすべきはイギリスの歴史家である。オックスフォー
ド大学で永く研究生活を送った萩原延壽は,この歴史観を彼の作品の中で遺憾なく実践し
ている。だがこれを可能とするのは,深くかつ繊細なシンパシーに裏付けられた人間理解
とそれを的確に表現する文章力である。
この両面における萩原の優れた感性は,初期の作品『馬場辰猪』(中央公論社 1967)に
おいて已でに示されている。本書は萩原のこうした才能の集大成である。萩原延壽は 2001
年 10 月 24 日に死去した。最終巻の発行から 4 日しか経っていなかった。文字通り,本書
は著者畢生の作品である。
本書は全 14 巻の大作である。また学生が気軽に手に入れられる価格でもない。そこで,
17
本年度の学生用図書として購入した。附属図書館で 1 册なりとも読まれることをお薦めす
る。
私の好みを言えば,最後の将軍徳川慶喜が颯爽と外交団の前に姿を顕わす『慶喜登場 第
4 巻』,幕末政局の大詰めを描いた『大政奉還 第 6 巻』と『江戸開城第 7 巻』,維新以後
の国家形成に明確なヴィジョンを失って懊悩する西郷隆盛を描いた『大分裂 第 10 巻』,
台湾出兵の事後処理に北京に乗り込んで清国政府高官や駐清英国公使などと不退転の外交
交渉を展開する大久保利通を描いた『北京交渉 第 11 巻』などが面白く,いづれもこの大
著に挑むための最初の一冊として推薦する。
(附記)本書は,朝日文庫に収められて,手軽に入手できることとなった。(2008/10)
新潟大学生協『ほんのこべや』(第 23 号
2002 年秋)(一部改稿)
⑪ 勝小吉『夢酔独言』(平凡社ライブラリー)
勝海舟『新訂 海舟座談』(岩波文庫)
勝海舟『氷川清話』(講談社学術文庫)
旗本男谷平蔵の妾腹の 3 男として生まれた小吉は,禄高 41 石の御家人勝家の養子となっ
た。生まれ育ちは本所の深川後に同じく亀沢町,いづれも江戸の下町である。青年時代,
一たび役職への就任運動をしたが果たさず,以後市井で無頼の生活を送った。剣術は滅法
強かった。幕府講武所頭取を勤めた剣客男谷精一郎は彼の甥である。
ついでに付け加えれば,平蔵の父は,越後国小谷郷(小千谷市近郊)から江戸に流れて
きた盲目の乞食と伝えられている。所伝によれば,彼は旗本屋敷の中間部屋などの賭場で
金貸しを始めて財をなし,検校の位を得て男谷検校と名乗り,死後 9 人の子供に 30 万両の
金を残した。平蔵はそのうち 3 万両で旗本株を買い男谷と称した,とされる。
30 万両とか 3 万両の値打ちを具体的に実感するために,余談を付け加えれば,天保時代
の薩摩藩表高 72 万石の年間歳入額は 12 万両から 18 万両の間と見積もられている。見積り
推計額が人により異なるのである。然るに,この時期(天保年代)までに薩摩藩の抱えた
借金の利息が,複利計算で利息が利息を呼び,年額 60 万両に達したと言うから恐れ入る。
薩摩藩はこの借財を,調所笑左衛門の藩政改革,具体的に言えば,消極的には歳出削減,
積極的には,大島などでの砂糖専売の収益と借金の事実上の踏み倒しと,恐らくは琉球貿
易を介した密貿易と,などによる歳入増によって帳簿上清算され,誰でも知っている薩摩
藩の幕末の政治活動の財政的基礎が出来たと言うから,再び恐れ入るのである。
その男谷検校の孫勝小吉が,晩年に自分の半生を回顧して,下町の江戸弁で書きつづっ
たのが『夢酔独言』である。夢酔とは,小吉の隠居号である。本書の末尾に,「男たるも
の決而おれが真似おばしなゐがいゝ。孫やひこが出来たらば,よくよくこの書物を見せて,
身のいましめにするがいゝ。今は書くにも気がはづかしい」(仮名遣いはもとの儘)と書
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いている。しかし,この半生記は,優れた才能を生かすことが出来ず,志を果たせぬまま
市井に埋もれてしまった男の苦渋の自己表現といってよい。
勝小吉の一人息子が,海舟勝麟太郎義邦(後に改め,安房あるいは安芳)である。幕末
政局における海舟の活躍は色々なところで論じられているから,改めて紹介する必要はな
いであろう。貧乏御家人の倅として,海舟は貧窮の中で刻苦して剣術の修行に励むかたわ
ら,蘭学を学んだ。彼が世に出るのは,幕府が長崎に開いた海軍伝習所の伝習生幹部とな
って,幕府海軍の創建に関わってからである。
『海舟座談』と『氷川清話』(氷川は,彼が幕末以来居住した赤坂氷川町に由来する)
は,明治になってから,彼の前半生を回顧し,或いは深く関わった人物(例えば,西郷南
洲,横井小楠,徳川慶喜など)のエピソードや人物を評論し,また同時代の政治や世相を
論評するなど,折に触れて歯切れの良い江戸弁で語った談話を筆録したものである。古人
に対しても同時代人,ないしは同時代に対しても,舌鋒は峻烈で歯切れが良い。
鳥羽伏見の戦いで敗れて江戸に逃げ帰った慶喜を出迎えた時の模様を,『海舟座談』で
海舟はこう語っている。
「スルト,皆なは,海軍局の所へ集って,火を焚いて居た。慶喜公は,洋服で,刀を肩
からカウかけて居られた。己はお辞儀も何もしない。頭から,皆なに左様言ふた。アナタ
方,何んと云ふ事だ。此れだから,私が言はない事じあない,もう斯うなってから,どう
なさる積りだとひどく言った。上様の前だからと,人が注意したが,聞かぬ風をして,十
分言った。刀をコウ,ワキにかゝへて大相罵しった。己を切つてでも仕舞ふかと思ったら,
誰も誰も,青菜の様で,少しも勇気はない。かく迄で弱って居るかと,己は涙のこぼれる
ほど嘆息したよ」。
人によっては,旧主の失意の有様を曝露することに不快を感ずる向きもあろう。しかし,
肚の裡を他に気兼ねなく吐露するところが勝の本領の一つである。海舟の江戸弁の語り口
や啖呵は小気味いい。当代の政治や政治家たちを月旦した談話に,この魅力がよく顕れて
いる。
勝のために弁じておけば,1902 年 6 月 3 日明治天皇は嘗ての「朝敵」徳川慶喜に従一位・
公爵を親授するのであるが,この陰には維新以来慶喜の復権に尽瘁した勝の 35 年に亘る努
力があったのである。律儀な己を語らずに韜晦するところも,江戸児勝の魅力の一つであ
る。
勝小吉・麟太郎父子は子母沢寛『おとこ鷹』(新潮文庫),『父子鷹』(講談社現代文
庫)に情感をこめて描かれている。また,明治維新後の勝海舟の姿は,半藤一利『それか
らの海舟』(ちくま文庫)に詳しい。
新潟大学生活協同組合『ほんのこべや』(第 28 号 2005 年春)(一部改稿 2008/10)
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⑫ 須賀敦子『ミラノ 霧の風景』(白水社)
須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』(文芸春秋)
著者は 1929 年生まれ。東京のミッション系の大学院を修了した後,文学研究のためにフ
ランスに留学し,後に留学先をイタリアに変更し,そこで,パルチザンのリーダーであっ
た左翼系の文筆家と結婚した。親しい富豪の友人が,この夫婦を,「お金もないのに,家
具も満足に揃っていないのに,本ばかり読んで,本の話ばかりしている」と評した。「幸
せな」という言葉が空しく響くような,充実した夫婦であったことが実感できる。
イタリアに渡る以前から,イタリアの左翼系出版物に時折寄稿する文筆家の文章に心引
かれて,結婚後その書き手が夫であったことを知るという,さりげなく記されたエピソー
ドは,感動的である。夫の急死後しばらくして帰国し,上智大学の教授を勤めていたが,
今年(1998)3月に急逝した。
その著作家としての文筆生活は,最晩年の 10 年余りである。標記の二册は,彼女の文業
の初期に属するものであり,ミラノにおける夫とその一族・友人,および夫とその仲間が
経営する左翼系の出版社「コルシア書店」に関係する人々との交友を回憶した文章を収め
ている。
私がこの著書に初めて巡り逢ったのは 5 年ほど前である。生協書籍部で何気なく『ミラ
ノ
霧の風景』を手に取って立ち読みをして,たちまちこの文章の魅力にとりつかれ,以
後最近の遺稿に至るまで,すべてを愛読している。著書の他に,ナタリア・ギンスブルグ
とアントニオ・タブッキの小説の翻訳が幾編かある。ただし,翻訳は未だ読んでいない。
この回憶には,夫の一族を含めて,貧困や不幸な出来事によって心に癒しがたい傷を負
い,それゆえに社会に適応できずに底辺で不器用に暮らす人々が多く登場する。著者は,
彼等の心の陰影を平静に,しかし,しっとりした潤いのある共感を込めて描いている。そ
こに私は,著者の豊かな情感と強靱な精神のバランスの取れた共存を感ずる。そのことは
人々の哀しみや喜びの襞を描写する,感情を抑制した文体にも現れている。
回憶には,書店のパトロンである富豪の貴族夫人たちや成功した実業家・医者・学者な
どの人々との親密な交友関係も語られている。貴族や富豪の晩餐やヴァカンスの別荘に対
等の客として招かれ心のこもる接待を受ける著者夫妻,左翼系の書店経営を支援する富豪
の貴族未亡人,しかし彼女は,自然ににじみ出る貴族としての威厳によって,左翼運動の
猛者に愛されながら畏怖される,夫の急死後の著者を我が家に引き取り親身に慰める婦人,
などなど。
このような関係は,伝統によって練り上げられた成熟した社会的,人間的関係としか云
いようがないのであるが,ここに語られているエピソードは,イタリア社会の,外からは
覗くことの出来ない,複雑さと奥深さとを垣間見させても呉れる。
須賀敦子の著作は,その後,白水ブックスに収められた。
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新潟大学生活協同組合『ほんのひろば』(第 15 号 1998 年秋)(一部改稿)
⑬ 松下緑『「サヨナラ」ダケガ人生カ』(集英社)
井伏鱒二『厄除け詩集』(講談社文芸文庫)
井伏鱒二が晩唐の詩人于武陵の「勧酒」と題する「君に勧む
須いず/花発けば風雨多く/人生
金屈巵/満酌
別離足し」(前野直彬注解『唐詩選
辞するを
下』岩波文庫)
を訳して,「コノサカヅキヲ受ケテクレ/ドウゾナミナミツガシテオクレ/ハナニアラシ
ノタトヘモアルゾ/「サヨナラ」ダケガ人生ダ」(『厄除け詩集』)と詠ったことは良く
知られている。前野が「人生別離足し」と読んでいる部分を,井伏は「人生別離足る」あ
るいは「人生別離足つ」と読み,「人生は別離に満ちている」と解していると思われる。
詩はそれぞれの言語の特性に応じた固有の韻律を持つので,詩情と韻律とを忠実に他の
言語に翻訳することは,ほとんど不可能な作業である。江戸時代に漢詩を日本語訳する試
みはなかったわけではないが,冒頭に引いたような読み下しによって漢詩を鑑賞すること
が大勢であった。そしてまた,漢詩を中国音で読む学者も少なかった。もちろん第一級の
文人達は,このようなハンディキャップにも拘わらず,漢詩漢文の神髄を会得してもいた
のであるが。
明治時代以降,西洋詩が紹介されると共に,その翻訳が様々に試みられたが,訳者の情
熱は専ら詩情と韻律とを如何にして日本語に移し換えるか,取り分け日本語固有の韻律に
よって如何に詩情を表現するか,に注がれたであろう。
上田敏の「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し。/
鐘の音に 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ 過し日の おもひでや。/げにわれは うらぶれて こ
こかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな。」(「落葉」『海潮音』新潮文庫)や堀口大
学の「巷に雨の降るごとく/わが心にも涙ふる。/かくも心ににじみいる/このかなしみ
は何やらん?」(「巷に雨の降るごとく」(第一聯)『ヴェルレーヌ詩集』新潮文庫)な
ど,人々が口ずさむ多くの名訳もこのような苦心を通して生み出されたのである。
漢詩の和訳についても何人かの詩人が試みている。冒頭に紹介した井伏鱒二の訳詩はそ
の中でも最も人口に膾炙したものの一つである。ここに紹介するのは,その井伏鱒二を「漢
詩戯訳の師」と呼び私淑した松下緑が試みた訳詩を編集した詩集である。
それぞれの詩には,原文と読み下し,及び懇切で鋭い個性的な解説が附けられ,またい
くつかの詩には井伏鱒二や佐藤春夫あるいは江戸時代の俳人潜魚庵などの訳詩が添えられ
ている。取りつきにくい漢詩を,身近な五七調の日本語で楽しむための恰好の詩集である。
本書の表題の由来は,井伏が「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」と,人生を別離と断定した
ことに,松下が疑問を抱いたところにある。表面的には,先に書いた様に,「足」を「多
い」と読むか「満ちている」と読むかの違いであり,極めて些細な事柄のように思われる。
そして,井伏の訳には戦争という時代状況が反映しているのかも知れない。
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しかしこの違いは,その様な時代状況の違いをも越えた,大きな問題を孕んでいるよう
でもある。松下は「人は生まれて誰と会うか,その出会いこそが人生を決定する。サヨナ
ラダケが人生ではない」と思うにつけて,井伏の訳に飽き足らなくなったのである。そこ
で松下は次のように訳した。「金ノサカズキヒトイキニ/ホシテ返シテクレタマエ/花ガ
ヒラケバアメニカゼ/人ハワカレテユクモノヲ」。
井伏訳と松下訳との相違点は,「足」一字の読みである。そしてこの読みの違いは,も
ちろん,どちらが正解かという問題ではない。この違いは,翻訳の問題を越えて,作品理
解の領域に関わり,それは取りも直さず,己自身の人生に対するスタンスに関わる。だか
ら両者の隔たりは決定的で架橋し難いように見える。
人がどちら側に立つかは人々(にんにん)異なり,人々にとって運命的な事態ですらあ
る。一字の読みにその人の人生観の深奥が顕わになるのである。
「勸君金屈巵 滿酌不須辭 花發多風雨 人生足別離」。
新潟大学生活協同組合『ほんのこべや』(第 26 号
2004 年春)(一部改稿 2008/10)
以下の 2 編は,実施年度は定かではないが,1980 年代後半から 1990 年代前半の演習で使
用したテキストを私なりに要約して,参考として学生に配布したものである。添削による
作文指導を目的として,学生に毎週 1 冊の新書を要約紹介させたのであるが,学生諸君に
どれほど役立ったかはよく判らない。使用テキストの手控えが手許にないから,学生に何
を読ませたのか定かではない。
わたくし自身について言えば,この経験が,定年前 4 年間に行った,丸山真男『日本政
治思想史研究』・「開国」・「幕末における視座の変革」,信夫清三郎『近代日本外交史』,
陸奥宗光『蹇蹇録』,日本国際政治学会編『太平洋戦争への道(第 7 巻 日米開戦)』な
どの購読に役立ったようにおもう。
テキストを要約させ,添削し,添削部分を説明し,内容理解へと進む可成り手間の掛か
る作業だった。学生の読解力と作文力は 1 年間の修練で随分進歩したと思う。最後のテキ
スト(『太平洋戦争への道(第 7 巻 日米開戦)』)の購読は私の定年の年に行われた。
つき合ってくれた 3 名の学生諸君には感謝している。
⑭ 河合隼雄『影の現象学』(講談社学術文庫)
本書は,心理療法家河合隼雄が,ユング心理学の基本概念の一つである「影」が,個人
心理と社会や文化の中で,どのような働きをしているかについて,被治療者の夢や文学作
品や民族誌などを分析して,解説した著作である。
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「影」が人間の人格の一部であり,「影」に加えられた危害が本人に深刻な危険を及ぼ
すという観念は,世界各地の民族の間に広く分布している。スイスの分析心理学者ユング
は,このような観念に着目して,「影」という概念を分析心理学と心理療法に取り入れた。
ユングによれば,「影」は,その人の生きられなかった半面であり,夢と同じように,
「無意識」の「意識」に対する働き掛けである。それは,「投影」,「反逆」,「肩代り」
などの形を取って現われる。自分の「影」を自覚せず,その影を両親や社会に「投影」し
て,自らはひたすら正しく幸福に生きている「永遠の少年」は,「肩代り」の事例の一つ
である。
「影」の異常によって引き起こされる心の病には,「二重身」や「二重人格」などがあ
る。「二重身」とは,自分が重複する存在として体験され,もう一人の自分が見えたり,
感じられる現象である。「二重身」としての自分は,「自我」の潜在的な面や可能性であ
ったり,自分の過去の姿であったり,また,自分の行為の観察者であったりする。ホフマ
ンやドストエフスキーあるいはエドガー・アラン・ポーなどが,「二重身」体験をテーマ
とする小説を書いている。「二重人格」は,「影」が第二の人格を持つに至り,「自我」
と「影」が時に入れ替わる現象である。
「影」の世界は,夜や闇あるいは黒の世界として現われ,また地下の世界や秘密の世界
としても現われる。それは多義的な世界であり,「無意識」と「自我」との統合を実現す
る場あるいは機会を提供すると同時に,「自己」を破壊する危険をも胎んでいる。とりわ
け「普遍的無意識」の世界が「影」の世界に侵入する場合には,「自我」との統合は極め
て困難で,「自我」を破壊する危険がある。
主に個人心理の領域における「影」の現象の種々相を説いてきた著者は,次に社会や文
化の領域における「影」の作用を,「王と道化」や「トリックスター」などを取り上げて
説いている。一定の諸価値を正当な秩序として受け入れて統一性を維持している社会や文
化は,統一性を作り出す過程で反秩序として排除された多様な諸価値を抑圧することによ
って存立している。
しかし,過度に正当な秩序の維持に固執するならば,社会や文化が多様性を失い,構成
員は心理的な抑圧状態に陥り,ついには秩序それ自体を破壊してしまうであろう。世界の
秩序を一身に体現する「王」はその「影」として「道化」を伴っている。
「道化」は,秩序と反秩序との間を自由に行き来する両義的な存在であり,「王」の体
現する秩序の中に反秩序を侵犯させることによって,秩序を再生させる「トリックスター」
である。このような秩序と反秩序との生き生きとした相互関係と,それによる秩序の再生
は,西欧中世の「愚者の祭り」にも見ることが出来る。
このような社会的あるいは文化的現象は,個人心理の領域においても生じる。我々は,
「自我」と「影」との対話を通して,創造的「自己」(これを著者は「第三の道」と呼ん
でいる)の発見と個性の開発を図ることが必要である。
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⑮ 河野健二『フランス革命小史』(岩波新書)
本書は,フランス革命の経緯を,諸階級の利害と政治的動向とを軸にして叙述した,フ
ランス革命史の入門書である。1959 年の初版という時代的制約のためもあろうが,マルク
ス主義的視点が強く前面に出されており,最近の研究動向から見れば若干の「古さ」を感
じさせないではないが,諸階級の政治行動を明晰に分析することによって,革命の政治的
推移を俯瞰するのに手頃な見取り図を提供するものとして,いまなお読むに値する好著で
ある。
著者は最初の二章で,革命前夜のフランスにおける諸階級の状況と革命を準備し,かつ
革命をリードした思想の潮流を概説し,続く六章で革命の推移を概観している。
一八世紀のフランスでは,絶対王政は,宮廷貴族として王権に依存する封建領主と特権
的な都市のギルドや大商人の上に,両者の調停権力として君臨した。封建領主の領主権の
下に,平民的大土地所有者である地主層と自小作農および零細農民と農業労働者が位置す
る。商工業の分野では,法服貴族を含む特権的な上層ブルジョアジーと,彼らの特権を桎
梏と感ずる問屋資本や工場制手工業資本などの中産ブルジョワジーがおり,その下に都市
の賃金労働者や貧民層が位置した。
このような階級配置の下で革命を準備した代表的な啓蒙と革命の思想を,著者は五つ挙
げる。一は,人間主義の倫理を掲げて狂信と独断と社会的不正と戦ったヴォルテールであ
り,二は,人間現象を客観的で現実的な存在と捉え,そこから宗教的および政治的判断を
遮断して,自由主義的国家論への道を開いたモンテスキューであり,三は,経済活動にお
ける農業生産の客観的な機能を理論的に明らかにして「重農主義」の理論と政策を基礎付
けたケネーであり,
四は,度重なる弾圧にもかかわらず浩瀚な『百科全書』の発行を主宰し,絶対王政の形
而上学的全体性の観念体系を解体して,理念や制度の相対性を明らかにしたディドロであ
り,五は,人民が「一般意思」に導かれて「自由と平等」をこの地上において実現するこ
とを説いたルソーである。これらの思想は革命の過程において,それぞれの勢力に担われ
て革命をリードしたのである。
革命の発端は,絶対王政の栄光のために挙行された,度び重なる対外戦争とその敗北に
よる国家財政の破綻である。財政の再建のために,王権は,ブルジョワ勢力の要求を入れ
て,宮廷貴族と上層ブルジョワの特権を攻撃し,独占・特権・統制の廃止,通商と営業の
自由を断行しようと試み,併せてこれによって一般民衆の人気を回復しようとした。
しかしこの措置は,旧勢力と高等法院の激しい反発を引き起こすと共に,取引の自由化
に乗じて生じた買い占めによる物価騰貴などによって,一般民衆や農民の食料暴動,スト
ライキなどを発生させた。高等法院の強硬な反対に屈した王権は 1789 年 5 月 1 日に全国三
部会を召集することを決定した。
24
召集された三部会で,第三身分は,従来の各身分別個の部会構成を拒絶し,自らを「国
民議会」('89/6/17)と称することを決定した。国王は止むなく全員が国民議会に合流すること
を認めた(6/27)。
しかしこの過程で国王が議会を威圧するために外国人部隊を召集すると,ブルジョワは
民兵を組織し,パリの民衆は議会に請願すると共に,武器を求めて廃兵院を襲い,続いて
バスティーユ城塞を攻撃してこれを制圧した(7/14)。
パリの革命は地方都市と農村に波及し,農民は領主権を拒否すると共に,一般市民の土
地や財産権を侵害する勢いを示した。革命の急進化を危惧したブルジョワは,貴族層に有
利な方式による封建制の有償廃止と国民の法律上の平等と官職就任の平等を保証する法令
を採択した(8/11)。
この改革に敵対的な国王に憤激したパリの民衆は,国王の居城であるヴェルサイユに行
進し,国王一家をパリに連行し,市民の監視下においた(10/5-6)。この間議会(解散される
まで「立憲議会」('89/6/17-'91/9/30)と呼ばれる)は,「人間と市民の権利宣言」(8/26)を確定
し,憲法条項の審議を行なった。
新しいフランス国家の構成を廻って,議会は 三つの勢力に分かれる。少数派の右翼と左
翼および多数派の中央派である。右翼は絶対王政の存続を主張する。「王党派」と呼ばれ
る中央派の右派は二院制議会と国王権力の優位を主張し,「立憲派」と呼ばれる左派は国
王権力の優位を認めず,議会の優越を主張する。左翼は人民主権と立法権の最高と財産制
限のない選挙権を主張する。
ところで,革命前の国家の財政破綻は革命によっても克服されなかった。議会は教会財
産の国有化を決定し('89/11),これを担保としてアッシニャを発行し,紙幣として通用させ
た。しかしアッシニャ紙幣はたちまち下落して,国民の経済生活を混乱させることになる。
議会はさらに僧侶基本法('90/7)によって国家が教会を完全に掌握することを明らかにし
た。また農村では,議会の封建制廃止政策が不徹底で,農民の利益を実現していないこと
が認識され,農民の反抗が強まった。
議会と教会や農民とのこうした軋轢の拡大に乗じて,国王一家はフランス逃亡を企てて
失敗した('91/6/20-25)。しかし,国王のこの挙は,民衆の国王に対する信頼感を破壊し,王
政廃止,共和制樹立の呼び掛けが公然となされた。議会は民衆のこうした動きを弾圧した。
「立憲議会」は憲法条文の整備・確定を終了して解散した('91/9/30)。ここでは,国王の権
限は最初の決定より強められていた。ブルジョワの政治的立場を定式化した憲法条文の確
定によって,革命は一段落したように見えた。
新しく召集された「立法議会」は,国王と妥協して彼を議会に取り込んで革命を終焉さ
せることを目論むフイヤン派 264 名,ジャコバン派(ジロンド派)136 名,去就不明 350 名
で構成されていた。ジロンド派は,民主主義的傾向と同時に資本家的傾向を併せ持ってい
た。
他方,国王は表面的には議会の意を迎える姿勢を示しながら,裏面では諸国の王朝に依
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頼して,革命に対する軍事干渉を組織化しようと謀った。干渉戦争は避けられない形勢と
なった。ジロンド派もまた交戦論を鼓吹した。
ロベスピエールがただ一人,国内における革命の敵との闘争を説いて,戦争に反対した。
フランス軍は緒戦に破れ,外国軍が国内に侵入した('92/4-5)。貴族出身の将軍達は王室と気
脈を通じて,敗戦による革命の転覆を図ったのである。祖国の危機に決起した連盟兵がパ
リに結集した。
この時,革命の中核は,ジャコバン・クラブとパリの 48 のセクションとパリに結集した
連盟兵であった。連盟兵はセクションと緊密に連携した。47 のセクションが,国王の失権
と新しい行政機関の設置を要求した。
ロベスピエールは,立法権の改選を,普通選挙による憲法制定議会の設立を主張する。
しかし,議会は民衆の要求を無視した。セクションは委員を出して「蜂起のコンミューン」
を組織し,連盟兵は国王の衛兵との戦闘に勝利しチュイルリー宮殿を制圧した。議会は国
王の権利停止を決定した。かくして「第二次革命」は成功した(8/10)。
この成功の結果は二つある。一は,封建制が一掃されたことであり。二は,民衆の精神
的昂揚が持続したことである。この昂揚の中で,反革命勢力の粛正が行なわれ,パリに迫
った侵略軍に対する義勇兵の勝利,ヴァルミーの勝利(9/20)がもたらされた。そしてその翌
日,立法議会に代わって,新しい憲法制定議会(「国民公会」)が成立した。革命はより
急進的な段階へ前進した。
革命の進行と共に,貴族の特権が否定され,教会財産が没収され,王政が廃止されて,
絶対王政の根幹を形作っていた勢力が没落した。その跡にはブルジョアと民衆が残った。
彼らがいかなる理念に従って新しい国家組織を作り上げるかが,残された課題である。
間もなく議会におけるジロンド派とモンターニュ派の対立が表面化した。両者はブルジ
ョワ派内の二つの分派であり,共に私有財産制とその経済関係を基本的に是認している点
で,同一の基盤に立っていた。両者を区別するものは,現実に対応する仕方であった。
思想的には,ジロンド派は経済的自由主義の立場を取り,モンターニュ派はルソーの使
徒として人民の政治的解放を課題とした。政治行動と政策については,前者は,現存の財
産関係や社会階層制を全体として維持し,革命をこれ以上前進させないという立場を取る。
後者は,危機や非常手段のなかに革命の前進を見る。大財産を削減ないしは抑制し,自立
的に勤労する農民や手工業者を中核とする平等で自由な共和国を作ることを理想とする。
両者の違いは,国王裁判問題への対応に現われ,また,アッシニャ紙幣の下落による物
価騰貴と食料暴動を契機として出現した過激派への対応の違いとしても現われる。ジロン
ド派の主導によって拡大された対外戦争('93/2-3)は,イギリスを盟主とする第一次対仏同盟
(Spr.-Sum.)を成立させた。
国内政策と対外戦争の両方で失敗したジロンド派に対して,パリのモンターニュ派を支
持するセクションの代表者が蜂起委員会を組織し,コンミューンと協力して蜂起した(5/31)。
ジロンド派の議員は,国民衛兵と武装した労働者によって逮捕された(6/2)。
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モンターニュ派の勝利は内外の危機の深刻化に起因する。彼らは小農民・小市民などの
小ブルジョワ層に基礎を求めた。パリ市外に逃れたジロンド派の指導者たちは,地方に働
き掛け,84 中の 60 県がフェデラリストに掌握され反モンターニュ派となった。
モンターニュ派は農村における封建制の完全な破壊を断行したが,都市における物価騰
貴と食料危機を克服できなかった。このような状況を背景とする過激派の攻撃に対抗して,
公安委員会の独裁と恐怖政治が開始された。
公安委員会の独裁は,二つの法令によって強化された。一つは,委員会に戦時非常措置
を行なう権限を授与し('93/10/10),他の一つは,国家機構における委員会の優越を規定し,
法律を迅速に執行する機関を設置した(12/4)。公安委員会への権力の集中によって,国内外
の軍事的危機は克服された。
しかし,危機が遠退くと,モンターニュ派の内部対立が生じて,先鋭化した。ロベスピ
エールを中心とする公安委員会は,ついに左派のエベール派を逮捕処刑し('94/3/24),返す刀
で右派のダントン派も逮捕処刑した(3/30)。ここに開始したロベスピエール独裁の四ヵ月は
「勝利・恐怖・美徳」の三語に要約できる。軍隊は国土を回復し,反対派は大量に処刑さ
れ,恐怖政治は道徳的に粉飾されたのである。
しかし,戦争の危機によって始まったモンターニュ派の独裁は,戦争の勝利と過度の統
制とテルールへの反感とから,テルミドール九日の反動(7/27)によって終焉した。
農奴の解放によって広汎な農民層が新たな財産所有者となり都市のブルジョアと共通の
利害を持つに至ったとき,ジャコバン独裁は終わった。しかし,ロベスピエールの独裁は
旧制度の一切を粉砕した。その跡にブルジョワ国家が築き挙げられた。
テルミドール派=ブルジョワ派は,王党派とジャコバン派との間の均衡点に立脚地を求
めなければならなかったが,ブルジョワジーは幼弱で,貴族層や民衆運動からの脅威に曝
されている。かくして彼らは政治的均衡を武力行使によって達成しようとした。
反動と物価騰貴と食料危機から民衆運動が再燃し,王党派の権力欲を予め封殺しようと
する九五年憲法に王党派は結束し暴動を以て応えた。左右からの攻撃を武力で鎮圧して,
国民公会は九五年憲法の成立と共に解散し,テルミドール派が依然として主導権を握る総
統政府が成立した。
それ故この政府も絶えず左右からの攻撃に曝され,それに伴って軍事力の重要性がます
ます増大した。こうした中で,徐々に経済の再建が進み,インフレからの脱却,均衡予算
の成立,農工業生産の回復と民衆生活の安定がもたらされた('97-'98)。
しかし,第二次対仏同盟の成立と外征軍の敗北苦戦による戦争の危機とジャコバン派の
台頭の中で,政府はテルミドール派から共和派に入れ替わり,シエースがジャコバン派勢
力によって総裁の一人に押し上げられた。
然るに,ジャコバン派の復活を恐怖した彼は,外征の成功で名声を得ていたナポレオン・
ボナパルトを政治の中枢に呼び入れた。ブリューメール一八日('99/11/9)のクーデターと共に
革命は終わった。
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