英語の「 」 。日本語では「分節法」などと言われることもあるが、うまい訳がされていない、 少しわかりにくい語。言葉や音楽のような「意味を持つ音声」の切り方・続け方、歯切れの付け方、持続 の仕方、息継ぎなど、音相互間の微細な時間調整やその表現を表す。スラーによるフレージング(フレー ズの範囲を決めること) 、スタッカートによるアクセント、トレモロやチョーキングなどもアーティキュ レーションの一種。しかし、もっとわかりやすい実例は、「金太、マカオに着く」のような言葉のお遊び。 アーティキュレーションの付け方によっては、通常は絶対にあり得ないような、えらく汚らしいことに なってしまう。もちろん抑揚やテンポと同様、音楽演奏の制御になくてはならない要素。実際の演奏では、 抑揚、アーティキュレーション、テンポの各要素は同時に絡み合うので、演奏記号のような抽象的な指示 (「寂しげに」 「快活に」など)は総合的に判断される。アーティキュレーションを演奏の最も重要な要素 に挙げる人がいるが、ほとんど一晩中息継ぎなしで弾き続けるアイリッシュ・ダンス音楽などの分野、ま た一般的な構造ではフレーズ間をミュートで区切ることが困難なハンマーダルシマーのような楽器もある ので、必ずしもそうとは言い切れない。クラシック音楽では、すでに故人となっている作曲者が気ままに 付けたスラーの解釈を巡って、アーティキュレーションの議論に花が咲く。息が続かないと音を出せなく なる管楽器奏者、弓の残りが足りなくなると区切りが悪く感じる擦弦楽器奏者、そして歌手はこれに敏感 だが、いつまでも弾き続けることができるその他の演奏家は、しばしばこれを意識しないで演奏してしま う。特にギター奏者は悪名が高い。問題は息継ぎだけでない。演奏の都合で必要になっただけの、音楽的 に意味のないハンマリングやプリング、ポジション変更による音のとぎれやフレットのこすれ音、主旋律 と副旋律の未区分などが多すぎるのだ。私を含めて反省すべし。 英語「 」の日本語訳。日本には、キリスト教伝来と共に導入されたと思われる。「愛でる」という語 は対象を「趣ある物体」として鑑賞するという印象があるが、この漢字が翻訳の際に間違って使われたの ではないか。まあ、ある種の愛情にとってはまさにピッタリかも知れない。その対象範囲はほぼ無限で、 たとえ悪魔でもゲジゲジ虫でも、さらにブ男すらも、一応は対象となり得る。本来の日本語では、異性の ことを「愛する」 「恋する」などとは言わず「慕う」「恋う」と言ったらしい。例:「お慕い申し上げます」。 この慎ましやかな言葉すら、口にするのは大変な勇気が必要だったはずだ。それほど、昔の人の言葉には 強力な意味と責任が宿っていた。今では、 「愛」はメディアの影響で氾濫し、英語「 」の意味領域に沿 う形で、異性間の感情のみならずあらゆる思慕の念に軽々しく適用された。まさに愛の大盤振る舞い。特 にドラマやアニメ、流行歌などにその使用例が著しく、もはや3才の子供から年寄りまでが口にする。現 代詩にまでその例が多数見受けられる。これを日本語の乱れと言わずして何と言おう。日本語は、頻繁に 使われる動詞を名詞にすり替える悪い癖があり、その言葉は「する」を付けられて動詞化する。いわゆる 「するする言葉」の代表格。だから本当は「ラブする」でもいい。こんな状況にも関わらず、愛という言 葉が頭に定着していない不届き者もいる。そこで、今日もどこかのベタベタな歌が、手を変え品を変え、 愛を忘れた人のことを非難している。まるで宣教師。愛こそは(ミュージシャンの)全て。それ以外の納 得できる動機は、彼らの小さな脳味噌では思いつかない。全ての良識ある行為は、みんな愛のなせる技に なってしまうのである。世界はすでに愛に支配されているのだ。あくまで歌の文句においてのみ。→恋。 何かの機会に、互いに交わすサインの一種。これをするとお互いに(または一方的に)気分がよくなる し、その後の人間関係がスムーズに進行しやすくなる。エルガー作曲「愛の挨拶」という名曲があるが、 この題名はちょっと微妙でエッチな解釈もできる。挨拶をしないと何となく心が苦しくなるし、ジャンル によっては最終的に殺されてしまうこともある。挨拶は人間だけがするものではないし、いろんな形があ るので言葉とも限らないが、やはり人間が交わす形式的な言葉の挨拶は格別。音楽業界もとりあえず一般 社会と同じく、時間厳守と挨拶は必須のはず。挨拶をすることで、自分が人間として問題がないことをと りあえず確認してもらえる。まあ今の時代はロボットやポストペットだって挨拶するし、逆に全く挨拶で きない未熟な人間もわんさといるから、人間の証明としては少し弱いかも知れないが。→おはよう、こん にちは。 英語の「 アイルランドの」 。例:「アイリッシュ・ウイスキー」 「アイリッシュ・ビール」 。音楽で は、特に伝統的なアイルランド音楽を指す。例:「あの曲、アイリッシュだよ」 「浜田君、アイリッシュ好 きかい?」。アイリッシュの多くは、ヨーロッパの先住民族の一つ・ケルト民族( )の伝統に根ざして いるので、特にケルティック( )と呼ばれることもある。その音楽は、多くは舞曲の形式を持ち、メ ロディーの音階に旋法を用い、旋律楽器は一斉にユニゾンでメロディーを奏でるというのが主な特徴。美 しい叙情的な曲から楽しいダンス・チューンまで、曲想も様々である。アイリッシュは当然ながら長い歴 史を持ち、この日本にもずいぶん前から紹介されている。愛好者も多い。その長い歴史の故に、多くの近 代・現代音楽のルーツ論にもたびたび登場する。もちろんブルーグラスやカントリー、ヒルビリーなど多 くのアメリカ音楽において、アイリッシュの影響は無視できない。しかし、私には疑問もある。アイリッ シュの熱心な愛好家は、要するにジャズもラグタイムもフォークソングもロックンロールも、ルーツがア イリッシュという結論にならないと気が済まないらしい。この「ルーツのアイリッシュ集約論」は、欧米 人のケルト民族に対する憧憬または贖罪の意識も感じるのだが、一方でアメリカ音楽のルーツ論における 重要な要素である「黒人の役割」を過小評価に導く危険性があるから、心ある人は注意した方がよい。現 世の私たちは数多くの祖先たちに支えられているし、その文化も数多くの関連文化に支えられているから、 ルーツ探しは並大抵ではできない。 ①もとは野球用語で、一死のこと。転じて、何かに及ばなかったり間に合わなかったときに、冗談混じ りで友人からこう宣告されることもある。対語:「セーフ」。 ②新しい語で、新作CDが発売開始されることを言う。 「 」のような感じで使う らしいが、一般の人には耳慣れないし、もちろん目にも馴染まない。アウト(①)のような感覚で言えば、 その日に発売が間に合わなかったことを声高に宣言しているかのように見える。この語をこの用法で使う 人は、きっと「発売」という漢字が書けないのだろう。 イタリア語の「 」 。 『大辞林 第二版』によると、「〔「礼拝堂風に」の意〕器楽の伴奏のない合唱 曲や重唱曲の様式。無伴奏体」 。カペラは、つまりチャペル( 礼拝堂)に通じる。この言葉でわか る通り、アカペラは本来、宗教音楽の形式。毎週教会に通うようなキリスト教徒の音楽である。一人でい い気になって唄うのはこの定義から大きく外れているが(正式には「 独唱」) 、しかし流行歌の 世界では、無伴奏でありさえすれば歌の内容・宗教・形態に関わらず全てアカペラの範疇らしい。それは 百歩譲って認めるとして、ちょっと前に流行った「ボイパ」をアカペラにカウントするのは絶対反対であ る。ボイパは口で作った「伴奏」であり、しかも彼らの音楽はロックやドラムンベースの口まねで、礼拝 堂風とはお世辞にも言えないからだ。 「あきらめる」という動詞の否定形。励まし系が多用する無責任な言葉の代表格。例:「夢をあきらめな いで」。おかげで世の中は、見切りをつけて出直すのが下手くそな、頭の固い奴らでいっぱいになった。自 らの崇高な信念による場合もあれば、薄汚い欲望への執着や、保身を意図したもの、何か深刻な事情があ るものもある。もちろんストーカーもよく使う語。「あきらめない」人が、では実際何をしているかという と、ただボーっとしたり、どう考えても無茶な行為を繰り返したりして、まわりから優しい言葉が掛かる のを待っていることが多い。男はあきらめが肝心という格言は、良識ある女のダメ出しだ。 英語の「 生ギター」 。音を出すのにまったく電気を使わないギターのことで、日本では フォーク・ギターという言い方が恥ずかしくなったために後から定着した語。いわゆるフォーク・ギターは、 正式には「フラット・トップ・スチール・ストリング・ギター 平らな表面板の 鉄弦ギター」というが、この名は日本で普及するにはちょっと長すぎた。もちろんクラシック・ギターな どいろんな種類の生ギターも含むが、この語の適用に関してはあまり主流派ではない。やはり比較的長い 言葉なので略して「アコギ」ということもあるが、 (あこぎな商売みたいに)語感が悪い上に、この言葉が 大嫌いな大御所もいるため、一部マニアの隠語にとどまっている。近年のピックアップというこざかしい 道具の性能向上と爆発的な普及のせいで、ステージ上でのアコースティック・ギターは、本義的には驚く ほど少なくなった。ほとんどの生ギターに何と電池が入っているのだ。なお、ピックアップの使用を最初 から前提にしている、生ギターのふりをした電気楽器を「エレクトリック・アコースティック・ギター」 という。この名も長すぎるので「エレアコ」という略語の方が多く使われる。つまり、名前の点でもエレ キとあんまり変わらない。 ギターなどの演奏時に片足を乗せる台。普通は折り畳み式。クラシックでは、右利きならば左足を足台 に乗せるのが原則だが、フォークミュージシャンなどは、なぜか右足を足台に乗せる人が多い。何て愚か な。古来より、ギターは女性の体を形取っていると言われているのだから、誰が何と言っても左足を足台 に乗せ、足を開いてムギュッと抱きしめるのが正しいやり方だ。立って弾くなど論外である。→ギターレ スト。 第一人称単数「私」を表す、女の子の古い幼児語。→おいら ラテン語の「 」の略語で、 「自由に」の意。自由に何をするのかは、行為者の裁量にゆだねら れる。別にズッコケたってタバコをふかしたってスカートめくりしたってホームランをかっ飛ばしたって 構わないはずだが、音楽においてはもっぱらインプロ(即興演奏)と同義とみなされる。私は小さい頃、 この語はドリフターズの即興ギャグの事を指すのかと思っていた。名詞としてのアドリブを受ける動詞は 「取る」の他に「利かせる」 「かます」などがあり、とんちや屁などと共通点がある。 要するに、キミはそのまんまでよろしい、という意味。主に歌詞の世界で使われている「キミはキミら しく」 「ボクはボクらしく」などの似た用例が多数あり。極端な個人主義がはびこっている現代を象徴して いる。仮にあなたがあなたであり続けることを止めれば、あなたは一体どんなおもしろい生き物になって しまうのか、少し興味がある。 語源は和製英語( の略)。映像を先に撮り、後からそれに合わせて音声を入れることを言う。 声をアテるという意味から、声優さん用に「アテレコ」という言葉もある。多重録音の音楽では、オケ (伴奏)を先に録っておいて、後から歌を入れることが多い。本来これはアフレコの定義から外れるのだ が(普通「オーバーダビング」という) 、声の調子や滑舌が悪くて何回も何回もやり直すようになると、ま さに「アフレコでよかった!」と言う感じがピッタリである。ちなみに昔は、ライブ盤にアフレコのギター ソロや歓声が堂々と入っていたりしたものだ。私も、オフレコで嵐のような拍手をアフレコ録音してみた い。→オーバーダビング。 英語の「 アメリカの原始的なギター」。アメリカの名ギタリスト、ジョン・フェ イ( )が確立した、無伴奏ギター・ソロによるアーティスティック(芸術的)な表現 スタイルをこう呼ぶことがある。このスタイルは、その後多くのギタリストに影響を与えている。ルーツ 音楽であるブルースに根ざした、木訥で何の飾り気もない、構造の単純な楽曲がある一方で、突然の狂気 を感じたり、むき出しの不協和音を含む曲も多く、原始的といっても実は一筋縄ではいかない。私の印象 では、テレビで流すと支障をきたすくらいに奇妙で変態的な表現がなければならない。このスタイルを好 きになれるかどうかは、私とよい友達になれるかどうかという選択とだいたい同義。ギター生活における 運命の分かれ道である。 存在することを希望する。 「AはAでありたい」となると、AがAとして存在することを希望するという 意味になる。例: 「ボクはボクでありたい」 (=ボクはボクとして存在することを希望する)。近年の流行歌 に判で押したように出てくる人気のフレーズだが、実はこの論理は非常に難しい。少なくとも既存の学問 の論理式では解けない。Aが現に存在する以上、差し迫った生命の危険でもない限り、改めて存在するこ とを希望する必要はないからだ。これは、「我思う故に我あり」( )というデカルトの格言 と似ているが、惜しいことに語順が逆である。そこで、これに従ってわかりやすく修正すると、 「ボクであ りたいと思う故にボクがある」となる。一見正しいように見えるが、この手の哲学の論理は間違っている。 例えば、私は男でありたいと思わなくても男だし、女とキスしたいと思わなくても女は存在する。ボクの 思考と関係なくボクが存在するという至極当たり前の結論に達しない限り、この手の矛盾はいつまでも続 くだろう。 →編曲。 無事にライブが終わった後、一定間隔の手拍子で表す、観客からの追加演奏要請。ミュージシャン側か ら言えば、これをいただくことは大変な栄誉のはずだが、ずいぶん前から半ばセレモニー化していて、ラ イブハウスに提出するスケジュール表には、アンコールの時間や曲名が、いけしゃあしゃあと書いてあっ たりする。アンコール曲には楽しい曲を選ぶのが普通だが、今は亡き名ギタリスト、ナルシソ・イエペス のコンサートでは、一番最後に「禁じられた遊び」を弾くまで何度もアンコールが繰り返された。本人は 迷惑そうだったが、おそらくあれもセレモニーの一種だったのだろう。出演者は、一度ステージ裏に引っ 込んでから再び出ていくのが通例だが、ステージ裏がないお店も多い。そんなお店に馴れてしまったため か、たとえステージ裏があっても引っ込まずにいきなりアンコールに応えようとする貧乏性のミュージ シャンもいる。一方観客の方はというと、この長ったらしいライブを早く終わって欲しい一心で手を叩い ている場合が多い。単に形骸化しているならば、いっそのことない方がいいか、と言えばそうでもない。 実際私は、過去何度かアンコールのない悲哀を味わったことがある。ステージの裏も表もない。これはど んな毒舌攻撃よりも効き、もともとプライドの高いミュージシャンを完膚無きまでにやっつけ、自己嫌悪 に追いやり、その寿命を一気に縮める。そんなのはつまらんと、拍手がないのに強引にアンコール曲を遂 行する強者もいる。私はそこまで強くなれない。ああ、今日のライブに、ウソでもかりそめでも何でも良 いからアンコールがありますように。 性格のいい人、顔のいい人、気前のいい人、気配りのある人、キップのいい人、ひたむきな人など、世 の中にはいろんな「いい人」がいる。しかし、より正確には「よさそうな人」というべきで、彼の人間と しての最終的な評価は、彼が天寿を全うするまでは決定できないと心得るべし。特に昨今は、 「いい人」に 限って実は悪い人だったりする。また、彼がいい人かどうかは、彼の音楽の質とはまるで関係がないとい うことも覚えておこう。試しにある曲を聴いても、歌詞のような手がかりがあるにしても、その作者がど んな性格の持ち主であるか、どんな性癖や前科を持つかなど、まずわからない。せわしない曲だからその 作曲者がせわしない人かと言えば、予想に反してヒドイ呑気者だったりする。演奏者の誠実そうな性格や 愛想、容姿のよさ、1日の驚異的な練習時間数、美談、私的な友情、さらにはタレントとしての人気など によって、彼の音楽の受け取られ方が左右するのであれば、それは正しい音楽評論とはかけ離れている。 我々は過去、人のよさそうなミュージシャンたちに数限りなくだまされてきたし、その状況は今後も続く だろう。 「いい人」にこそ、公正なる厳しい視線を向けるべきだ。 いわば「外来間投詞」で、英語の「 」 。この語は「 はい」と同義らしいから、本来の日本語な ら囃子の「ハイ!」とか「ハー!」に当たる言葉と思われる。ライブ会場がイマイチ盛り上がっていない とき、このかけ声を掛けることで局面を打破しようと意図される事が多い。アメリカナイズされた先人た ちの献身的努力の甲斐あって、イェーは老若男女に至るまですっかり日本人に定着してしまった。一体ど うしてくれるのか、私までついつい使ってしまっている。日本人のイェーの使用頻度たるや、実は欧米人 以上、あのビートルズがたじろぐほどである。最初にこの語がビートルズの「シー・ラヴズ・ユー」と共 に紹介されたときは、あのイェーイェーイェーという歌詞の発音が当時の日本人には難しかったのでヤー ヤーヤーと訛り、これが映画の邦題( 『ビートルズがやって来る ヤーヤーヤー』 )にまでなったことも、 今となっては微笑ましい。 区切りの良いところで息をすること。流行歌の世界では、区切りの悪いところ(都合のいいところ)で 勝手に息をする人が多いが、本来は、こういうところで息をしてはいけない。つまらないことをだらだら と区切り無くまくし立てる作詞家は、将来有望な若手歌手を窒息死させようとしている。→アーティキュ レーション。 本来は「ゆく」と言う。 ①(普通動詞として) [どこかに]移動する。向かう。例: 「浜田隆史のライブを毎回見に行く」。その他 にもいろいろな意味があるので、詳しくは国語辞典を参照のこと。 ②(補助動詞として)動詞の連用形などに付いて、主に動作の継続を表す。例: 「浜田隆史のCDがどん どん売れて行く」 。さて、この用法での「いく」は、口語や歌詞の世界では正しく発音してもらえず、 「い」 が省略される場合が多い。例: 「歩いていく」→「歩いてく」。 「夕日が沈んでいく」→「夕日が沈んでく」。 なお過去形「いった」は、口語ならともかく歌詞では語呂が悪いのか「い」の省略が現在形よりは起こり にくい。つまり「歩いてった」という形だが、やはり歌詞でもそうなることがままある。この省略、アイ ヌ語にも確かに同じような例があり、母音「 」が、他の母音の直後では「 」と子音(二重母音)化して、 ひいては落とされることがある。しかし、こと日本語に限って言えば、どうも舌っ足らずな印象は拭えな い。こういう「てくてく」 「てったてった」言葉に出会うと、私の心は理由もなくむずがゆくなり、作詞者 をその都度はり倒したくなる。 同性愛、SM、児童への性的虐待、フェティシズムなど、普通でない種類の倒錯した性欲。異常性欲者は、 いわゆる「変態」の一種である。変態、タイヘン。ちなみに私の「ヘンタイ・チューニング」とは直接関 係がないことを急いでお断りしておく。ああ異常性欲、変態性欲、性的倒錯! 口にするのも筆で書くの もパソコン入力するのも恥ずかしい言葉だ。この中には、人に迷惑を与えない種類のユルい倒錯もある。 例えば同性愛者は、昔白い目で見られていたが、今や多くのコミュニティーで市民権を得ている。全ての 人の深層心理には倒錯願望がある、という何だかいやらしい心理学者の説も聞いたことがある。しかし、 特に児童買春や虐待は、子供が被害に遭うという点で、他の倒錯行為と区別すべき大きな社会問題。主な 逮捕者は、何と学校の先生や市役所の職員など、国家公務員がやけに多い。彼らが今まで得てきた給料は、 問答無用で国庫に返納してほしい。残念なことに芸術家、もちろんミュージシャンにも、この手の輩はい るようだ。ビッグ・ネームも例外ではない。実は最近も、世界的ビッグ・ネーム逮捕のニュースが流れた。 そういう話は「おいおいやっぱりか」なんて思うくらい、すでに噂になっていたりする。この期に及んで 何とか彼を理解しようとする熱狂的なファンがかわいそうだ。大衆音楽のようなサブカルチャーの担い手 は、社会的抑圧からの解放を歌い上げることも多い。しかし、最低限の社会規範とか、人間としてのささ やかな理性からも解放されるヤツは、どんなに名声があろうと莫大な資産家だろうと、犯罪者であること に変わりはない。 英語の「 」で、名詞や形容詞に接尾して「〜を使う人」「〜主義者」のような意味の合成名詞を作る。 楽器の奏者を指す言葉にもなる。例: 「ギタリスト ギター奏者」「リベラリスト 自 由主義者」 。名詞によっては、直前の母音を落としてから接尾するものもある。例:「ピアニスト ピアノ奏者」 「サイクリスト 自転車に乗る人」 。イストは、どことなく英国風の響きのあ る語で、同じく米国風の「 」と対比される。ただし、どんな言葉にもホイホイ付くわけではなく、慣用 的に限定されるらしい。例えば三味線奏者のことをシャミセニストとか、ムックリ奏者のことをムックリ ストとか、何にでもマヨネーズをかける人のことをマヨニストとは普通言わない。微妙な意味の差にも注 意すべきで、例えば「 」と言えば自然を大切にする人のことだが、 「 」と言えば裸体主義者 (ヌーディスト)のことになってしまうらしい。いっそ、全て日本語を使えないものか。しかし、ギタリ ストとかギター・プレイヤーとは気軽に言いやすいのに、少なくとも私には「ギター奏者」とはなかなか 言いづらいのだ。何か、ちょっと高尚でもったいぶった感じがして、言葉にした後で本当に自分がギター 奏者なのか不安にかられてしまう。 不特定の将来。そのうち。若者向け歌詞の世界では未来の希望を象徴するキーワードとして使われるが、 実社会ではむしろ相手の提案をやんわりとお断りするときによく使われる。一種の婉曲表現。例: 「またい つかお会いしましょう」 (=もう二度と会えないかも)、「いつかそのうち」(=悪いけど当分やりません)。 これに対して、遠慮会釈なく思い切りお断りする時は、実現不可能な将来を表す副詞「おととい」を使う ことがある。例: 「おととい来い」 。 生命、またはその生命を維持する力。 「魂」と場合によっては似た意味になる(例:「この歌に命を捧げ る」 )が、死んだり殺されたりすれば無くなるのが相違点。ひょっとしたら魂以上に重たい言葉なので、 軽々しくは口にできない。例:「君こそ我が命」 「命で笑え」 「歌は私の命です」 。生きるか死ぬかの立場ま で追いつめられないと、なかなかこの語を使う心境には到達できないはずだから、ちょっと「?」と思う 表現に出会っても皮肉屋はチャチを入れにくい。→魂。 取り立てて人様に訴えたい主張や個性がない、もしくはそういうとんがったものを排除したい人たちが 作った、心地よい睡眠のための文化を表す言葉。または、そういう雰囲気を持った、話しているだけで眠 たくなる人を指す言葉。癒し系には、文字通り人の疲れを癒す効果があるとされているが、実際はこれに よってかえって疲れてしまう場合もある。なお、特に音楽であれば、一定以上の音量を出してはいけない。 私が思うに、全く聞こえないくらいがちょうど良いかも知れない。 ①(普通動詞として) [人間や動物が]存在する。例: 「浜田隆史には兄弟がいる」。その他にもいろいろ な意味があるので、詳しくは国語辞典を参照のこと。 ②(補助動詞として)動詞の連用形などに付いて、主に状態の持続を表す。例: 「浜田隆史は結婚してい る」 (ウソ) 。さて、この用法での「いる」も、 「いく」と同じく、口語や歌詞の世界では正しく発音しても らえず、 「い」が省略される場合が多い。例: 「輝いている」→「輝いてる」 。過去形「いた」も頻繁に「い」 が省略される。例: 「愛していた」→「愛してた」。 「て」をメロディーの都合により伸ばして「あいしてぇ たぁ」とも歌われるが、 「ぇ」に当たるメロディーに省略されていた「い」がなぜか当たらないという、文 法上奇妙なことになっている。しかしどういうわけか、 「いく」の「い」の省略ほどは、私の心はむずがゆ くならない。ホント、言葉とは不思議なものだ。 欲や色情など、即物または俗物的ないやらしさを感じさせる度合い。例:「色気のないヤツだな」 (欲が ない、または胸がないなど)。私の人生の先輩は、「色気のない音楽は人に支持されない」と意味深長な格 言を教えてくれたことがある。なるほどとは思うが、では色気のある音楽とは一体どういう音楽かという と、どうも判然としない。ギターを弾きながらアッハンと吐息を発することではあるまい。では色気の本 しき 質とは何かだが、これが実に難しい。仏教によると、色 とはこの世のあらゆる存在(形あるもの)であり、 くう しきそく ぜ くう くうそく ぜ しき それは 空 である(常なる実体がない)と捉えられる。般若心経では、 色 即 是 空 空 即 是 色( あらゆる存在は くう 空 であり、空であることが存在である)と説かれる。もうちょっとわかりやすく解説すると、どんなに強 こ じわ むな 烈な色気も 小 皺 と共にあっという間に消え去るので、男は老女を見ながら「色気は 空 しい」 「空しいものが 色気である」という悟りの境地に達する。確かに色気は空しい。空しいものを求めず、人が見向きもしな いような色気のない音楽にこだわって、ガンコにのたれ死ぬことが、真の音楽家が希求する運命だと我は くう 覚えたり。. ..これも何かちょっと変だな。そういう心のこだわりこそが 空 なのではないか。失礼、もう ちょっと経典を勉強します。 一対の詩句について、その一部の音節(よく知られているのは最後の音節)の響きを似せることでリズ ムや風情を醸し出す詩作の技術。日本語は、語尾に来る言い回しがだいたい決まっているので、本来はわ ざわざ韻を踏む必要があまりない。例: 「おっと子供はビールはいけません/喰わえタバコもやってはいけ ません」 (拙作「プハプハ」より) 。これでは風情もヘッタクレもないので、韻を踏みたい人は、主に倒置 と省略を使ってわざわざ語順を変更した上で、その技を競うこともある。例:「兎追いし かの山」「小鮒 釣りし かの川」 (高野辰之作詞「故郷」より) 。別に山が獲物を追うわけではないし、川が釣りをするわ けでもないことに注意されたい。欧米・中国などの言葉は語尾が全く決まっていないため、韻を踏むのは 特に意味のある作業。 「韻を踏まない詩」というのは、気が利かなかったり、ルール無用であることを形容 する悪口の一つですらある。ボブ・ディランの韻の踏み方は革新的、というかある時期ではアバンギャル ドであった。私も、小粋な韻の踏める男になりたいものだ。 一部の仲間内だけで通用する語。類語: 「業界用語」。隠語は、様々なジャンルの中でも、特にミュージ シャンや政治家に深く愛されている。この人たちには浮き世離れしているという共通点がある。音楽界に おける隠語で最も有名なのは日本のジャズメン用語で、彼らはどういう訳だか、言葉を逆さにして使った。 今は亡き私の父も、思えば必要以上に多用していた。例: 「ジャズ→ズージャー」 「ポーカー→カーポ」 「ベー ス→スーベ」「コーヒー→ヒーコー」。この場合、抑揚は平坦になり、あまり下降しないという特徴がある らしいが、どこにアクセントがあっても聞き苦しいことに変わりはない。まあ、微笑ましいというかアホ らしいというかオヤジくさいというか、いわば狂気の沙汰である。ジャズメンには詩を作ってもらいたく ない。これ以外にも、解説されないと全く理解できない隠語は多く(例えば涙のことを「ガンスイ(顔水)」 などと言うらしい) 、深入りすると業界人に洗脳されてしまう。こんなものを覚えるのは貴重な脳細胞が もったいない。 新作CDがすでに店頭に並んでいることを英語で「 もうお店にあるよ」と表現するらし い。日本では、 「発売中」という漢字が書けない人が使う。いうまでもなく英語が苦手な人はこの語を読め ないので、一般商品の宣伝効果としてはデメリットがある。そのため、しぶしぶ地味な「発売中」という 表記に戻すアーティストも増えている。無理しなくていいのに。この語は、全国展開しているメジャーな レコード会社の作品に適用される。自主制作盤の場合は、通信販売か、ライブ会場か、ごく一部の慈悲深 くありがたいストア(お店の単数形)にしか置いていないため、この語は使えないはずである。 レコード店や楽器店、デパートなどのお店で行う無料ライブのこと。と言ってもあんまり長い時間やる のはまれで、実際は軽いイベント程度という場合が多い。英語では「 」と言うより「 」 とか「 」などと言うらしい。アーティスト側には良い宣伝効果が得られるが、やりすぎ るとわざわざチケット代を払ってライブを見に来るお客さんが激減する。痛しかゆし。 英語の「 器楽曲」 。略してインストとも言う。歌無しで、楽器だけで演奏される音楽のこと。 この語に馴れない人は「インストロメンタル」と発音したりするが笑ってはいけない。あやしげな英語を 使っている点では我々も五十歩百歩だ。奇妙なことに、オーケストラやビッグ・バンド・ジャズのことを 改めてインストとはあまり言わない。インストという音楽の主な目的は、高価なもしくは珍しい楽器をそ の楽器の愛好者に見せびらかすことだからである。→楽器。 英語の「 刺激」。平たく言えば売上報奨金のこと。金に関する言葉は生々しいので、ストレー トに言わずに外来語を使って、見かけ上の欲望を軽減する。この多種多様なメディアが存在する時代、音 楽業界のこれからの経営に、なくてはならないものになりそうだ。この語を場合によって「モチベーショ ン 動機」と似た意味で使う人もいるみたいだが、それは間違いだ。多少の刺激を与えても全 然動いてくれないニブチンはいくらでもいる。 どのメジャー会社にも属さない自営音楽家たち、または彼らのCDの販売方法(自主製作)を指す。つ まり自分勝手な奴らである。インディーズはなぜかCD販売店に憎まれていて、店がクレームをつける担 当者を一本化するために、特定の問屋を通すことを要求される。話もしたくないのだ。運良くCDが取り 扱われても、まるで不吉な暗黒物質のようにアルファベット順の棚から専用の棚に隔離され、販売依頼者 が失意のうちに引き取りに来るのを待っている。インディーズ・アーティストの多くはアマチュアまたは パッとしないプロで、たいてい箸にも棒にも引っかからない貧乏人だが、ごくたまに金になる者が現れる と、そのCDの驚くべき利益率(1万枚も売れたら田舎のマンションが一戸買えるほど)をねたんだレコー ド会社が名刺を持ってやってくる。なお、つい最近までメジャーだったライブ活動主体のアーティストが、 自らの高潔な信念のために、反旗を翻してインディーズを選択する場合もある。今まで掛かっていた莫大 な宣伝費は、知名度の点ではもはや要らないので、上手い商売と思われがちだが、墜ちたイメージは拭え ないので軒並み苦戦を強いられている。自分勝手な奴になるのも楽じゃない。 英語の「 序」の略語。音楽で言えば序奏部分に当たる。いきなり歌い出しということにな ると、歌手が戸惑って出だしを外してしまうので、イントロには本編開始の秒読みとしての役目もある。 名曲には名高いイントロが付くことも多い。しかし、イントロ当てクイズが流行った80年代あたりから、 すでにポピュラー音楽没落の兆候は始まっていた。そんなくだらない事でもしないと退屈が収まらないく らい、新しい曲がつまらなくなってきたのである。 英語の「 即興」の略語。即興と作曲の違いは、クロッキーと油絵の違いと言えばわかりや すいが、本質的には同じ作業のアプローチの差、または時間的な差だけを指す。例えばジャズの即興演奏 に必要なスケール、コード進行、モード奏法などの知識と練習法は、実はインスタントな作曲法の一種に 他ならない。メロディーを作る際、偶発的な要素に安易に頼るのは、作者としての責任または債権の放棄 と見ることもできる。作曲はできないという即興演奏家は、一時間の間に弾いたフレーズを20 0個ほどに 分けてじっくり考えれば、良い結果が得られよう。逆に即興のできない作曲家は、一時間の間に200曲ぐ らいサクサク作るつもりでやればよい。 仕事を「受ける」とか、ボールを「受ける」とか、いろいろな意味を持つ動詞だが、カタカナにすると なぜか、人に受け入れられるとか、共感を得るとか、笑いが取れるというような意味で使われる。音楽の 場合は、その芸術性に共感したり、よく理解してもらえたという意味よりは、刹那的な(失笑を含む)笑 いが取れることを意味する場合が多い。だから、肝心の音楽演奏の方はサッパリでも、寄席より面白い トークを披露したり、チャップリン顔負けの軽業を決めたり、逆に決めるべき所で盛大な失敗をしたりす ると、嵐のように大ウケだったりする。つまり、大衆音楽家に求められているものは、音楽の才能ではな くネタの面白さなのである。 肉声を発して詩や旋律を吟じること。動詞は「歌う/唄う/詠う」。もともとは純音楽というより、自分 の言いたい言葉を抑揚に工夫を凝らして世に訴えたものだった。「節のある語り物」や「詩吟」などの口承 文芸も、広い意味では歌の一種である。だから、歌にとって一番大事なのは抑揚やメロディーではなく、 訴えの内容、つまり詩、歌詞である。しかるに、美しい詩情に満ちあふれていた日本の流行歌の歌詞は、 今は軒並み腐れ切ってしまい、説得力がないし、内容がわからないし、早口すぎて聞き取れないし、抑揚 が変だし、心に伝わらないし、だいたい伝えようともしていないし、あまっさえ日本語でもないし、言葉 ですらなかったりする。たまに伝わったとしても、どこかで聞いた耳にタコができるような言葉だったり、 異様に恥ずかしくて真顔では聞いていられなかったり、今日のご飯がうまかったことよりも意味のない戯 言だったり、今挙げた項目の全てを兼ね備えていたりする。自分の言いたい言葉を世に訴える前に、そも そも自分が何を考えているのかすらわからない人が多い。こうして、昔なら審査員に没にされていたよう な薄っぺらい歌詞の歌が、今では世の中の趨勢となっている。また、歌のメロディーのアクセントやイン トネーションが、歌詞に全く合わないのも大いに気になることだ。これは、実はすでに戦後の「リンゴの 唄」にも見られる現象で、とても良い歌なのに、サビで「リンゴ」の「ン」という音にアクセントのピー クが来てしまうことが、どうにも不思議に思える。現代のJ−POPには、それと比較するのも恥ずかし いようなひどい例がたくさんある。彼らの多くは、メロディーの自己主張が強すぎて、歌詞をわかりやす く伝えようとしていない。欧米の歌の影響で、フレーズの最後の音程が急に上がる流行歌も多いが、日本 語は基本的に文の最後の音程が尻下がりになりやすい言葉で、そこでもミスマッチが起こる。つまり、歌 のメロディーを歌詞に合わせるというのは、詩の醸し出す雰囲気の問題だけではなく、単純に文法的な問 題でもあるのだ。歌詞についてそこまで考えている人は、不思議なことに驚くほど少ない。この類のミス マッチは主に作曲家の責任だが、作詞作曲が同一人物の場合は論外。何とかならないものだろうか。 歌手のこと。改まって「歌手」とまで言うのが気恥ずかしいような、中途半端な存在をこう称する。ピ アニストを「ピアノ弾き」と呼ぶが如し。 流行歌はその時々の社会の雰囲気を反映し、逆に社会の方も流行歌の雰囲気を反映する、という非常に 美しい格言。換言すれば、歌がつまらないと世の中もつまらなくなるから、歌手の社会的責任は重大であ る。しかし、仮に歌だけが急に面白くなっても、当面はつまらない世の中が続いていくだろう。 流行歌手をゲストに迎え、歌ってもらうテレビ番組。レコード会社の宣伝媒体的な役割がうかがえる。 それをきちんと意識しながら見るとなかなか面白い。歌詞に字幕が付いているのも大変ありがたい。しか し現在は、字幕を目で追っていてすらわかりにくい歌詞が多い。流行歌が嫌いな人は思わずチャンネルを 変えたくなるのだが、そこを何とか我慢してがんばるのが、ものわかりのよい大人への第一歩である。昔 はヒット・チャート形式で1 0位から1位の順に歌ってもらう番組が一時代を築いたが、現在はそれをやっ てもほとんど毎回同じ歌手しか登場できないので、形の上では順不同となっている。あくまで形の上だけ れども。 シーケンサー(自動演奏のための機械)に演奏情報を入力すること。昔で言えば、ピアノ・ロールのキー パンチにあたるが、今ではMIDIという規格が一般的。一心不乱にひたすら打ち込む人のことをマニ ピュレーターといい、そのたゆまぬ努力にも関わらず一般の音楽家とは区別される。 ①表の反対側。表や正面から見たときには見えない部分を指す。 ②悪い意味での比喩に使われる接頭語。うしろめたいとか、やましい気持ちとか、犯罪の匂いを彷彿と させる。例: 「裏ビデオ」 「裏街道」 「裏帳簿」。 ③裏話、または話における裏付けを表す。例:「裏を取る」。高度情報化社会の欠点は、裏を取らない無 責任な発言に人が左右されてしまうことだ。表と裏があって、初めて話は正しく読みとれるのである。し かし、その裏情報にも全く裏のとれていない話が多いので、たいていの話は信用できない。 ④音楽で言えば裏拍のこと。西洋の近代大衆音楽は、黒人音楽ジャズの影響で裏拍リズムが台頭して久 しいが、基本的にはあらゆる音楽の拍は正々堂々「表」だった。裏を取るのは、それがバカ正直な表拍に よって生ずる弱拍の空白感を充足するからであり、またそれは黒人的なポリリズムやカウンター・リズム の最も単純な表現なのである。もっと躍動的で複雑な拍の取り方は、同じ黒人音楽を含めていくらでもあ る。裏を取らないといけないというビート強迫観念は、バカ正直な表と同じく、かえってリズムをつまら なくする。おじいさんやおばあさんの合いの手が表だからといって「やれやれ」などと苦笑するのは、 ちょっと軽率だ。 声帯の状態を変えて、地声では出せない甲高い声を出す特殊唱法。イタリア語で「ファルセット 」といい、オペラでよく耳にする。昔の日本では、裏声は「女みたいな情けない声」として、男は あまりするものではないという風潮があった。しかし今の音楽業界では、できるだけ高い声が歌手に求め られるため、男女とも裏声は大盛況。イマドキの流行歌には、地声で歌えないほど高いメロディーが頻繁 に出てくる。そこまで高くする意味があるのかどうかはともかく、あっちこっちで声が裏がえっては戻る 様を聴くにつれ、ある種の絶望感や厭世観を感じるのは私だけではあるまい。彼らがあの聞き苦しい裏声 で歌うのを金輪際止めてくれるならば、この世界の居心地はぐっとよくなるだろう。 ①(音が大きすぎたり好みに合わなかったりして)迷惑である。気に入らない言葉を吐いた相手に対す る罵倒の間投詞としても使われる。類語:やかましい。音が大きすぎて迷惑な音楽はいっぱいある。ほと んどのライブハウスは、お年寄りが入ると生命の危険を感じるほどの大音量を出す。しかし、どこまでが 騒音かという感覚は人によってよほど異なるらしい。もの凄い音もまるでうるさく感じない人がいて、正 常な聴覚を持つ人が彼をとがめると「ウルセーなあ!」と非難されたりする。これじゃ逆だ。うるさいと 感じられた音楽は、鑑賞や評価の対象から外れるのだが、そうかといって迷惑にならない適正な音量の音 楽は、その控えめなレベルに応じて低い評価に甘んじる。困ったものだが、何事も押しの強さは必要。い くら試聴してもらってもイマイチの評価しか得られないような音楽は、 (耳や脳が元の健全な状態に戻ら なくなるまで)デカイ音で聴かせることによって、ひょっとしたら人の記憶に残るかも知れない。 ②聴覚に限らず、例えば絵や文字や模様など、視覚的に込み入っていると感じられた場合にも、この語 が使われることがある。例: 「ちょっと背景がうるさいな」。つまり、「うるさいヤツだな」と言われたら、 あなたの口ではなく実は顔の方がうるさかったのかも知れない。この場合、残念ながら静かにすることは 一生できない。 配偶者または本命がいるのに、別の異性にうつつを抜かすこと。ただし世の中は広く、たいした本命が いないのに次々と浮気をすることができるラテン系の人もいる。諸外国では歌のテーマとして古来から取 り上げられてきたものだが、日本においては例外を除いて比較的近年に発達したジャンル。しかも少し前 までは、歌の世界で浮気をするのは女と決まっていた。一途で従順な女性が尊ばれていた一方、尻の軽い 男は自分の浮気を甲斐性と称していて、女が歌で糾弾するような異常事態ではなかったらしい。これでは 男尊女卑と言われても仕方がない。今ではその反動か、もしくは実態に合ってきたのか、男の浮気が歌で も目立つようになってきた。どっちにしても、された方の悲しみは止まりそうにない。 数奇ななりゆき。手があるらしく、扉を叩くこともある。世の中には、承伏できかねる残酷なものから、 ちょっと一ひねりを加えた軽めのものまで、様々なレベルの運命がある。本来は、全てが起こってしまっ た後、回想で使う言葉なので、承伏するしないの問題ではない。運命(と思っているもの)に逆らうこと もまた運命(と思っているもの)なのだ。男女にとっては、出会い、結婚、不義、別れ、再燃、本当の別 れなど、何かの死やあきらめを表す。これを口説き文句に使おうとするのは止めた方がいい。ちなみに、 若いソングライターは日本語が不得手なので、 「デスティニー 」という英語をわざわざ使いたがる。 こいつらとはどうも話が通じない。 外来語の[ ]の発音を表すという奇妙なカナ文字。「う」に濁点を付けるという反則技を使っているの で「う」の次の項目としたが、普通の日本語の発音には[ ]と[ ]の区別がないので、元々無理がある。 パソコン入力では、ひらがなの「う」を濁音化することができないことからも、これが外来語専用のカナ 文字であることがわかる。 「ヴ」に拗音(ねじれる音)の表現を加えて、 「ヴァ」 「ヴィ」 「ヴ」 「ヴェ」 「ヴォ」 と表すが、本来は「バ」行がこれに当たる。この本では、意味に支障がない限りは「ヴァ」行を「バ」行 の表記にしている(凡例を参照のこと) 。私は子供の頃、スペクトルマンの故郷であるネヴュラ星の読み方 がわからなくて困ったものだ。洋楽の曲名を「サヴァイヴァー」とか、「ラヴィング・ユー」とか書いても、 普通の人にはやかましく思われることが多い。発音に正確を期すつもりで、リビングのことをリヴィング、 ボーカルのことをヴォーカルなどと言ったりするのなら、コンピューターのことはカンピュートゥと言っ た方が元の発音に近くなるし、テレビのことはテレヴィ、じゃないティーヴィー、ワゴンのことはウェガ ン、チョコボールのことはチョコバゥゥゥルなどと言わねばならない。和製英語のミシンとかホームラン を、ヴの使用者はいちいち本場の正式な語に置き換えるだろうか。否。そもそも発音の違う外来語の完全 なる表記は、カナではほとんど無理なのだ。いくら字体に凝ってもそれなりに近くなると言うだけで、元 の発音とは当然ながら乖離があるし、日本語にない外来語の発音はヴの他にもいっぱいある。しかも、本 当はバ行の語をついヴァ行にしてしまうという、困った誤植も多い。中途半端な西洋かぶれたちが通ぶっ て「ヴ」を乱用するのを、私は文字通りヴァカじゃないかと思って見ている。
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