成熟のための補佐 は、もし漢字に訳すと - えりにか・織田 昭・聖書講解

成熟のための補佐
エフェソ書の福音 10
成熟のための補佐
4:11-16
「大丈夫」(だいじょうふ)という熟語があります。ダイジョウブと読ん
でもいいのですけれど、「だいじょうぶだった」という場合のダイジョウブ
と区別してダイジョウフと読むのが本当らしいのですが……。丈は身の丈、
夫は男、特に成年に達した男子を指す字で、合わせて「丈夫」は成人した男
子、マスラオとも読みます。大丈夫は身の丈優れた堂々たる大人のことです。
13 節の「全き人」というギリシャ語は、もし漢字に訳すと
すれば、この「丈夫」または「大丈夫」という字が一番ピッタリすると私は
思います。しかも、ここではキリストの身の丈に達し……と原文にあって、
ますますこの「大丈夫」のイメージが強まります。
もっとも、これは比喩でありますし、決して cm で測れる次元の話ではな
いのですから、私どもの中で平均より低い人や甚だしく痩せて軽い人もひが
まないで読むことにしましょう。
パウロがここで教えているのは、信仰者としての生き方における成熟です。
ここでは「高さ」と訳してある語は、今も申しましたように背丈、身の丈を
表わすですが、この言葉は元々年齢、それも成人といえるような年
齢を指す言葉でした。
ちょっと脱線しますが、「身の丈一尺を加え得んや!」と昔訳してあった
マタイ伝の箇所が、今は「寿命を一刻でものばせようか!」と直っておりま
すけれども、これは両方に訳せる言葉なんです。
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とすると、ここには大丈夫の身の丈と並んで、成熟した大人の年の功から
来る判断や熟練も含まれているかも知れません。「熟年」という字は漢和辞
典にはなくて、専らテレビ会社がこしらえたものらしいのですが、そういう
熟年という感じも、パウロの言う窮極的な目標に入っているのでしょう。新
しい共同訳は 13 節を次のように訳しておりますが、今日の箇所の主題提示部
のつもりで、耳を傾けて下さい。
13.ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つの
ものとなり、成熟した人間になり、あふれんばかりのキリストの大きさにな
るまで成長するのです。
さて使徒パウロは、この成熟した大人、たのもしい大丈夫というイメージ
を何と対比して言っているかですが、そこの所から入って行くために、私た
ちは後半 14 節以下を先に読むことにします。
1.未熟からの脱出 :14-16.
14.こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略に
より、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあ
そばれたりすることがなく、 15.愛にあって真理を語り、―これは語るだ
けではなくて、真実だけで生きてみる、全て真実で勝負してみることを含む
言葉ですが―あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するの
である。
ここに言う子供の未熟というのは、ハッキリしたものを摑んでいないため
の不安定さです。風に吹きまわされ、もてあそばれる……という所は、舵の
壊れた船が風のまにまに流されて行く様にたとえたものでしょうが、ちょう
ど使徒言行録の 27 章を終った私達にはまことにリアルに感じられます。
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この訳文で、感じの出ていない所は、英文で言うと every wind of doctorine
という every で、何か変わった教えの風向きが変わるたびに、風が吹いてく
ると一回一回、必ず流される……という頼りない船です。
聖霊を本当に受けたのなら、異言を語って無我夢中にならなきゃならない
と言われれば、たちまち不安になる。本当に生きた信仰なら新左翼の運動に
加わるはずだ、いや勝共運動に力を貸すはずであるとか、現代人の本当に目
ざめた信仰は、もう罪の贖いだとかキリストの救いの絶対性なんかにこだわ
らないのだ―君のは中世の古い古い宗教だよ……と言われれば、
「待てよ、
考え直さなければならないかな……」と思ったりする。そういう新しい風は、
ここ 20 年間をとってみても、西に東に吹きまくったし、その風向きは刻々変
わってきました。
そういう中で、余程しっかりとキリストにいかりをおろしていないと、私
どもの小さな船は、たちまち波と風に持って行かれてしまいます。特に日本
では、キリスト信仰で最後まで続く人は少なくて、若き日のグループ活動の
思い出みたいに、「済んでしまう」人が多いのですが、その主な理由はやは
り、キリストを信じている正味の理由がハッキリする所まで行かないことだ
と思います。
これが西洋ですと、キリストを信じる正味の理由や確信が少しくらいあや
しくても、まわりで「そうだ、そうだ」と言ってくれますから、惰性で連れ
て行ってもらうということもありますが、日本の社会ではそうはまいりませ
ん。まわりがみんな笑っても、「お前、馬鹿じゃないか」と言われても、「そ
れでもキリストだ」というのは、単なる強情やへそ曲がりでは続きません。
結局、これは後で出てくることでもありますが、キリストを本当に正しく
知って信じているか、その人の信仰の基盤が健全な聖書の学びの中に根を下
ろしているか、一つの信仰の交わりの中に絶えず身を置いているかで決まり
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ます。多くの場合そういうことは、早く離乳したような気になって、差し当
たり自分が今感激して燃えるような活動とか、或いは、こんなに苦労して戦
っているから生きた信仰が身に付く筈だとか、そういう所に期待をかけすぎ
てしまします。
根気よく続ける御言葉の正しい学びと、同じ聖霊に与る友とのつながり
―パウロはこれを、ちょうど一つの体の手や足や臓器や筋肉が生きてつな
がっていて、頭に当たるキリストから命を等分に受けるんだと言いましたが、
そういうシメージは 16 節の言葉の中によく現れています。
16.また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっか
りと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだ
を成長させ、愛のうちに育てられていくのである。
でもまあ、これに気づくまでに、人間、正直時間がかかります。お互いに
無理に縛らないで、時の篩に委ねることも大切です。
2.成熟のための補助物…( aids というよい言葉が英語にはありますが、
最初の表題では補佐と言ってみました。)
キリストが教会に与えて下さった補佐 :11-13.
11.そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者
とし、ある人を羊飼い、教える人として与えたのである。
ここは「立てた」とか「任命した」というより、キリストが教会に与えて
下さった、教会はこれをキリストから頂いたのだという所に重点があります。
ここの趣旨をよく出しているのは、昨年 11 月に出たフランシスコ会訳で
『主は、使徒、預言者、福音宣教者、教師としての牧者を与えて下さいまし
た。』としています。
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前回学んだ所にありました「天に上った勝利者のおすそ分け」という考え
ですが、豊かな戦利品と捕虜を率いて入城するキリストが、その持ちきれな
い富の中から、分け与えて下さる―という比喩は 7 節、8 節に使ってあっ
て、7 節では私たち一人ひとりが、夫々貴重な賜物をそこからおすそ分けし
て頂いているんだ、ということでした。
実はこの「戦利品」とか「捕虜を率いて……」というシメージ、正直言っ
て私は少しく抵抗を感じるものですから、どうしてそんなたとえを引いたの
か、敵の捕虜というような概念がここのポイントとどう繋がるのだろう―
と色々調べてみました。大抵の本には『捕虜をひきい』は、勝利者を浮き彫
りにしているだけで、そんなにこだわる必要はないとか、昔のエフェソ人は
捕虜を数珠つなぎにして来る将軍とか、キリストが豊かな戦利品の中から…
…というようなイメージに別に抵抗を感じなかったのだから、お前もこだわ
るな、という書き方がしてあります。
その中で Simpson という英国の学者だけが、次のような説明をしているの
が印象に残りました。創世記 14 章の故事なんですけれど……
アブラハムは身内の者が捕虜になったのを聞き、家の子 380 人を率いて夜
彼らを攻め、身内の者ロトとその財産および女たちと民とを取り返した―
という、あの場面を考えてよいのではないか……
つまり、ここの「とりこをとりこにした」という二重の不思議な言い方は、
“”捕虜の奪還を言うのだと説明するわけで
す。つまり、捕虜として縛られていた者を解放して連れて帰られた……と。
そして、その中からピックアップして、ある人を使徒として、別な人を預言
者として教会にお与えになる。
11 節のリストの中で、「使徒」は原則としてキリスト直選の
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十二人とそれにパウロですね。ほかに何故かバルナバやシルワノがパウロと
並べて、使徒たちと言っている箇所がありますが、この人たちは私たちが手
にしているような新約聖書が完成する前の、いわば芽生えの教会を導いた恩
人です。
「預言者」というのは、シラスやアガボの例から想像するだけですが、恐
らく時々キリストからの直接のインスピレーションで神の言葉を奇跡的に伝
達する能力を与えられた人たちのようです。これまた、芽生えの教会が自分
の足で立って、パウロやヨハネの言葉も巻物でまとめられ始めると、一代限
りで消えて行った人たちです。この使徒と預言者は、第一世紀の教会の生き
た基準というか、Living Bible の役割をしたものです。
「伝道者」は、そういう生きたカノンみたいな使徒、預言者を助けた人た
ちで、マルコやフィリポに見るように、随分広い範囲を渡り歩いて教会の指
導に当たった人たちのようです。
「牧師・教師」これは一つの定冠詞を共有していることから、ここでは同
じものを指し、群れの羊飼いとして教えた人たち、各教会の霊的長老にあた
る人々を言ったものです。使徒や預言者のような超自然的能力や導きを持つ
人に比べれば、いわば平凡な普通の人……と言いますか、聖書についてもキ
リストについても、パーッと上から啓示を受けるというのではなく、コツコ
ツとイザヤ書や創世記の巻物を読んで、パウロやペテロの教えを一所懸命メ
モもして、長い時間をかけて考えて祈って、それでやっと教えることのでき
た人たちが、この牧者・教師だと思います。
大事なことは、その何れもが自分の才能や決断で牧者や伝道者になったの
ではないことはもちろん、アンテオケやエルサレムの教会が育てて作り上げ
たものでもない。ただただキリストがその無限の資産の中から教会に恵んで
与えたもの、キリストの所有、キリストの恵みの賜物だというのです。
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私達の記憶に新鮮な所から例を取るならば、札幌の木村哲明さん、あの人
は決して 4 年間の大東の交わりが育てて送り出したものではないのです。田
辺の上山耕司さん……あれは星田の集会が励まして、大阪聖書学院で訓練し
て出来上がったものじゃないのです。もちろん、この人たちが主の憐みによ
って、生涯、福音の使者として続くならばですが。あれはやはりキリストご
自身が呼び出して、日本の教会に恵みとして与えたものです。
「もろもろの天の上にまで」上った方が「すべてのものに力を充填するた
め」に、彼の体である教会が、いつの日か大丈夫の身の丈に成長し、成熟す
るために、その補助物として補佐として、キリスト自らが我々の仲間たち、
兄弟たちに与えたおすそ分けと考えよ……とパウロは教えます。
12.それは、聖徒たちを調整して、人に仕える仕事ができるようなものに仕
上げ、キリストのからだを建てさせ、 13.わたしたちすべての者が、神の子
を信じる信仰でも、彼を知る知識でも一つになり、成熟した大人としてキリ
ストが満たすもので充填された立派な身の丈になるための、キリストの取り
はからいである。
《まとめと勧め》
先年世を去られた山本泰次郎氏のエペソ書注解を見ますと、ここの箇所に
「天職の福音」という題がついています。趣旨がお分かりになりますか。
確かにここには使徒や羊飼いのことしか出て来ません。天が滅びの手から
奪い返した捕虜の中から、天職を与えて、教会を大丈夫の熟年に育てるため
にお与えになった補佐はこの人たちだけのようにも見えます。
でも、このエフェソ書を書いた同じ人が、もう少し西のコリントの教会に
送った第一コリント書には、「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師を置
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かれた」という言葉の後に、人を助けて世話をする賜物だとか、みんなの針
路の舵取りができる人、などが出てきます。プリスカとアキラ、ステファノ
の家、フィレモン……色々な人を想像させますが、神はこうして体に調和を
与えて、体の各パートが互いにいたわり合って、一つの体の機能を果たすた
めだ……とあります。とすると、教会の成熟に仕える天職ということについ
ては、パウロはここに書いてあるよりも、もっと広い視野で見ていたことが
分かります。もちろん、差し当たり人にぶら下がって寄りかかって行かねば
ならぬ時期もありますし、その程度、長短もまちまちです。
しかしローマ書の 12 章や第一コリント書の 12 章でパウロが補足している
ことを合わせて考えてみると、やはりクリスチャン一人ひとりに、各人の人
柄に応じ、また時期に応じて、教会全体の成長と完成に仕える天職をお与え
になると考えてよいでしょう。それは神が教会に与えたものだと。
話が抽象的にならぬよう、自分のことを考えてみると、私はいつの頃から
か、とにかく一週に少なくとも 24 時間は続けて聖書に集中できる日を作りた
いということと、そこから自分が学んだことをできるだけ分かりやすい形で
発表できるかどうか、自分で努力して挑戦してみたいと思うようになって、
今のような生き方に整理されてきました。
こういうやり方も必要だということを分かってくれる方もあるし、他方そ
んなのは伝道じゃない、一人よがりの道楽だという人もいます。私もこれが
最上だとは思わないしみんなが私の真似をして欲しいとは思わないのです。
もっとキリスト教国の規格版みたいに、朝拝と夕拝をして、日曜学校を分
級してやって、婦人会と青年会を教えて、水曜日には祈祷会をして、木曜日
に聖書研究をやって、訪問伝道して人を引っ張り出して、他の教派の人たち
との牧師会にも出席をして交わりを持って、週報刷って、幼稚園で幼児教育
する人もいていいと思うのです。そういう人もいなければならないし、また
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映画のプロジェクター持ってギターかかえて飛びまわる人とか、本や雑誌を
書く人、韓国の学生のためにチューリッヒでも何処へでも出かけて行く桑原
さんのような人……伝道講演に日本国中駆けめぐって、遂に旅行中に亡くな
ったという榎本さんのような方、山崎さんのように、いわゆる幼児伝道のテ
クニックの開発に一生をかける人もいなければならないのでしょう。
「もし、体全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、体全体が耳だと
すれば、どこで嗅ぐのか」(2コリント 12:17)という有名な言葉がありま
すが、本当にそうだと思います。
でも考えてみると、私の場合でも、決してこういう形の務めをやったら教
会の成長のために役立つから、「よし、やってやろう」と大それた決心をし
たわけではないのです。色々と頭を打ったり、自分の弱さも手伝ったり……
やむなくこういう形に……と言うと、これも言い過ぎですが、この織田 昭
という捕虜を解放してどう生かすか……キリストの手でだんだん狭い所へ指
定されて、「お前が兄弟たちのために、全体の調和のために果たす仕事はこ
れだ」と命じてしまわれたのです。
考えてみると、都島で失敗して紀州の田舎に籠った頃には、中学校の先生
になったかもしれない機会が開けかけましたし、12 年前に田中美智太郎さん
と松平さんが直接声を掛けて励まして下さった時には、本気で大学の仕事に
入ろうかと考えたこともありました。何故入らなかったか……多分、それを
すると聖書をする時間とエネルギーが無くなるというのが人間的な理由です
けれど、本当は与えられた天職でもないものには、人はどうしても成れない
ものです。反対に他の仕事に召された人が、福音の教師になろうとしても実
現しないこともある。私のやっていることは、キリストの体の中で言えば、
目だとか耳だとかいう目立ったものではなくて、もっと隅っこの方の足の小
指の爪か鼻毛位のものかも知れないのですけれど、それでもキリストが召し
て与えた天職は彼の意志で動かないものです。
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世間の人はそういうことは分かりませんから、時々「織田さんのお仕事は、
子供さんの内の誰が継ぐんですか」などと尋ねる人がいます。たまにクリス
チャンの中にもそう仰る方がいます。でも、こういう天職は一代限りです。
人間の適性や意志で「ヤッ」と成ったものでしたら、オヤジを見習って「ヤ
ッ」と成ればなれますが、神の聖なる召しはそうは行かない。私の子供の中
から福音をもって仕える者が絶対出ないとは言えないが、もしそんなことが
起こるとすれば、これはまたキリストがもう一度初めから、誰かを一から召
し直さなければならないものです。神が人を召すということは、言葉のあや
としてはよく言うが、本気でそう受け止めている人は案外少ないように思い
ます。
最後に、私が本当に申し上げたいことは、自分の天職のことではなくて、
あなたもまたご自分一代限りの神聖な天職を教会の中で持つということです。
それは、或いは目立たない平凡な天職かも知れないけれども、あなたにしか
果たせない天職です。従って、他の人を見て羨んだり恥じたりする必要はな
い大事なものです。お互いそれを少しずつ、ハッキリ見えるようになりたい
ものですね。キリストの体を熟年の大丈夫に成熟させるための補助の役目が
あなたにもある……というのがパウロの趣旨ですから。
(1981/05/17)
《研究者のための注》
1.アブラハムがロトとその一族を救出した話は、創世記第 14 章にあります。メルキゼデ
クの登場する件ですね。尚、「とりこをとりこにした」を捕虜奪還という角度から理
解したわけですが、必ずしもそう取らなくても、同族目的語による強調表現とみて協
会口語訳 8 節のように訳すこともできます。
2.勝利者のおすそ分けという考えは前講でも述べましたが、11 節冒頭の「そしてその方
が与えて下さった」のつまり He gave に重点があるとい
う受け取り方からです。
3.牧者と教師をこの文脈で同じものと見た理由は、使徒・預言者・伝道者にはそれぞれ
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冠詞が付いているのに、牧者また教師というところには一つにまとめて冠詞が一つだ
け付いているからです。
4.14 節の悪巧みあるいは策略、どちらの訳語をあてたものか明瞭ではありませんが、
はサイコロ遊び、ここでは鉛などを流し込んで仕込んだインチキサイコロ等を
意味したものでしょう。人間の案出する新しい宗教思想が、インチキなサイコロと大
して変りないこと、霊的幼児は騙されても、大丈夫がかつがれるべきものではないこ
とわ示します。
5.「真理を語り」と訳してあるは、語るだけではなく、真理を生きる、真
理で行動する、あるいは、全て真実で勝負して偽りの力を借りる必要がないことをい
います。
6.使徒の呼称を十三人以外に適用した例は、バルナバに関する言及は使徒言行録 14:14、
シラス別名シルワノについては、第一テサロニケ書 2:7 です。他にガラテヤ書 1:19
も取り方によっては、主の兄弟ヤコブが使徒とみられないこともないですし、ローマ
書 16:7 も、共同訳とフランシスコ会訳ののような読み方をすれば、ユニアスとアン
ドロニコスは使徒と呼ばれていたことになります。
7.キリストの体の肢体 member という比喩と結び付けて、使徒や預言者たち以外の務めを
列挙している箇所は、ローマ書 12 章と第一コリント書 12 章です。
8.16 節の全ての「節々の助けにより」という所は、
で、この属格形は分詞のような形容詞的意味だと思う
のですが、そうすると補給してくれるつなぎ目を通してとなります。私が教室で作っ
た訳文では、「この頭のお蔭で体全体は、つなぎ目から補給されながら、しっかり組
み合わされ、結び合わされて……」と訳してあります。パウロは多分このをつ
なぎ目位のゆるやかな意味に取ったのではないか想像するのですが、これを純然たる
生理学用語として「関節」と訳しますと、関節は養分や生命の伝達、補給には与らな
いという問題が出てまいります。パウロは確かに体のたとえを使っているのですが、
この比喩をあまり厳密に一つひとつ生物学的な機能と並行させて解釈するのは無理か
と思います。
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