神仏が加護して種々の厄難から逃れさせるという札。紙に真言密呪や 1 護符 神仏の名、像などを書いたもので、肌身につけ、また、飲んだり、壁 と軍事的な目的のもの。 護は、注意深く守護する意に用いる。蒦は鳥を手にとる形であり、も に貼りつけたりしておく。まもりふだ。護身符。護摩札。おふだ。 一つ、人が『神』に触れると、 『神の影』が動き出してしまう。 二つ、 『影』を持たないと、『神』の力は働かない。 三つ、 『神』を呼んだ時には、 『影よけ』の文を唱えなさい。 それが、女先祖が子孫に遺した三つの教えだ。 額の下には黒々と錆びた武具が掛かっていた。口伝だった霧 田津比女のことばを文字に書いて掲げたのと同じくらいの時代 のものだということで、古臭くいかめしく、闇の中で凝ってい るように見えた。 遍は壁面から視線をそらし、また寝返りを打って縁側のほう を向いた。窓辺は改築されてアルミサッシのガラス戸が嵌って 目に映る光景はそれまでの夜と同じような静けさに満ちていた い た。 そ の 向 こ う で、 月 が 庭 木 と 庭 石 を 静 か に 照 ら し て い た。 思われる。江戸時代から建て替えられたことのない家の黒ずん が、何かが間違っているのに世界が続いているような違和感が 月明かりに照らされた座敷は、どこまでも続いていくように だ天井を、先代の庄屋の娘たちも眠りに就く前に見上げて溜息 あった。 あまね 月夜のガラス戸の向こうから、呼ばれている気がする。坂の 〈来い〉 その声が、今も耳に響いている気がする。 〈おまえを百年間愛そう〉 なぜならあの時、あれは云った。 ついたのだろうか。遍は何度も寝返りを打ち、打つたびに違う 自分へ転げ込む気がした。 どうしてわたしは、わたしなんだろう。どうして、神を ―― おおふるや 祀る大古屋家の娘として、生まれたんだろう。 隣で祖母が深い寝息をたてていた。祖母は眠り込む前に、大 下から。盆地の底から。集落の一番低くを流れる川の中から。 十一歳にして涌いたその疑問には、答が見つからなかった。 古屋の女たちに伝わる古いことばを教えてくれた。遍は再び寝 〈さあ、来い〉 転んだまま見上げた。遍には読めないその崩し文字を、祖母は 皆で川へ遊びに行った時も、そうして強く、何かが呼んでい あの眩しい午後。 きりたつひめ 返りを打ち、暗い座敷の鴨居に掛かった霧田津比女の額を、寝 平易なことばで語り聞かせてくれた。 ら代々、巫女やった。だけどもう、『影よけ』の文を、大古屋 もそもが神さんとは会うたらあかんのや。大古屋家は、大昔か か条を読んでくれて、こう云った。なあ霧田津比女さんは、こ 白いワンピースをひらめかせて川へ滑り落ちて。 は忘れてしもた。神さんに会うたって、 『影よけ』できんのや。 う子孫たちに教えてはる。だけどな、今の世のわたしらは、そ 川の流れが引き込むまま、淵へ潜って。 遍が神さんに会うたら、この世には災いが起きる。それが、 『神 た。濡れた岩はサンダルの下でつるつる滑った。夏の太陽が輝 水底に、巨きなものを見た。 いていた。遍は都会から遊びに来た、何も知らない少女だった。 たしかに、いた。 の影』が動き出す、ということや。人間なんて、神さんやその 『影』と比べたら、ほんに弱い、儚いもんや。簡単に ―― 死ぬ。遍があれと会い、 『神の影』が動いて、その場にいた 触れた。一瞬だけ。 抱きしめられる、と思った。 しかしその時、助け出されてしまった。 者の中で最も弱い弟が死んだ。 そういうことだと思う。 だけどあの時、もし。 あのまま連れ戻されなかったら? それなのにまだ、自分は生きている。生き続けている。あん のが悪いことだとも思っていなかった。 なに呼ばれたのに。川に落ちて溺れそうだったのに。呼ばれる 百年、ずっと…… けれど、水の中にあと数分長くいたら、現実には溺れ死んで しまったはずだとも思う。 遍は自分を怖いと思った。 生きているのは、わたし。 死んだのは、弟。 の救出のため、 皆が大騒ぎしている間に、 赤ん坊の呼吸は止まっ ところが、その時死んだのは、幼い弟だった。川に落ちた遍 た。母、父、そして叔父、叔母、いとこ。田舎へ夏休みを過ご し に 来 た 二 家 族 と、 祖 父 母 が そ こ に い て、 遍 の こ と を 気 遣 い、 「遍、おはよう。いつもの玉子御飯でいいかな。 ―― ほらあん た、白い御飯だけ食べとらんと、こっちにきゅうりの糠漬けも あるんやで、食べてよ。ジイチャンは全く、すぐ目の前に置か その皆の輪の外、ベビーカーの幌の陰で、弟が亡くなっていた。 どうして、死んだのはわたしでなかったの? ―― その裏返った円環が、遍には一番の謎と感じられた。 祖母はいつものようにかいがいしく立ち働き、祖父は黙々と んと、食べへんで」 だけどバアチャンはわたしに、 『神』と『神の影』の三 ―― 乳幼児突然死症候群。表向きにはそんな説明がなされた。 龍愛づる姫君 食べていた。 遍も朝の食卓についた。この家で過ごす夏休みの、これまで の朝と同じように、軽くよそった御飯に玉子を割り入れ、醤油 とゆかりを振りかけた。そうしながら、また悩んだ。 川底の岩に引っかかって破れた白いワンピースは捨てられた。 遍は真新しい黒い服を着て、黒い靴を履き、玄関を出た。 作られた門に至る。緑椀と呼ばれる盆地の斜面のてっぺんにあ りょくわん 花々の咲き乱れる庭をゆっくりと歩き抜けると、槙の生垣で きるだろう。 地の底を突っ切っている。 明な午後の光の中で、川は並木に両岸を囲われ、西から東へ盆 ら集落と田畑と川を、盆地の全てを見下ろすことができた。平 る家なので、門を出ると、坂の上に立つことになった。そこか どうして。 夜通し考えてわからなかったこと、どう云えば二人に相談で どうしてわたし? 〈来い〉 瞬で過ぎ、明るい閃光となって燕が空を切り裂き、草が揺れた。 空を雲が移り、その影が田を斑に暗くした。しかしそれも一 まだ、呼ばれ続けている気がする。 それにはやっぱり答がないのだろうか。 祖父が立ち上がって畑仕事に出かけ、祖母は洗濯を始めてしま 軒端にすずめのさえずりを聞いた。そうこうしているうちに、 う。 草はさまざまな小さい実を結んでいた。道の脇の段丘で、稲 穂は昨日よりもいっそう熟れ、にぎにぎしくはちきれそうな行 列を葉の横から現し、焦げた頭を垂れた。 風がスカートを揺らす。 に広がる田ははっきりと黄色味を帯び始めた。宿題のページは 朝顔のしぼむ時刻は遅くなり、電線には燕が集結し、坂の下 あらかた埋まり、網戸を抜ける風は涼しさを増している。ひま 出る。村の道にも、よく手入れされた庭先にも、人の姿はない。 空を雲が移っていく。軒や壁が影に浸され、また明るく現れ 家の奥で柱時計は止まっているのかもしれない。 ―― そんな思いがふと起きるほど、気だるい午後。ずっと三時五 を地に向けた。日陰では午後から早々と虫がすだく。夏休みの わりの花びらは縮れて、もはや太陽を追わず、実の詰まった顔 分前のまま、太陽は軌道の半ばで止まり、風だけが吹いている 終わりが近づいていた。 祖 父 も 祖 母 も、 い な く な っ た 赤 ん 坊 の 話 を し な か っ た。 今、 かのような倦怠。 わ た し の せ い で 弟 が 死 ん だ な ん て こ と、 全 部 そ っ く り、 ―― い家は静かだった。軒先に干された洗濯物が光を吸って揺れて 赤ん坊もいず、先に都会へ戻った父母たちの姿もない田舎の古 いるばかり。 夢だったらいいのに。 今朝起きたら、 何もかもが元どおりになっ 再び隠された。 隠されてから、平たい田を横切り、国道を横断し、坂下の杉に がっちりした体躯に隙なく緑青色の着物をまとい、下駄を履 へ左へ向きを変え、坂を上ってくる。 逸れたのではなかった。棚田の間を折れ曲がる道に従って、右 現れた時には、こちらにいっそう近づいていた。別の方角へ ていたら、よかったのに。 〈来い〉 川は流れている。千年万年の時を貫いて、銀色の躯をしなや かに平野に伸ばし、急がず、常に新しい鱗を光らせて、風の下を。 その川がざわめいたような気がして、遍は大きくまばたきし 半分は黒い帽子のようなものに隠され、艶のない黒髪がその頭 寄り掛かるでもなく、ただ手に握って持っている。男の顔の上 き、杖を手にした男だ。杖は木で、それを突くでもなくそれに 橋を、人が渡っている。 た。 川の対岸は今日、一帯が青い濃淡になっている。明るい光の 巾の下から溢れている。 四角い顎と、引き結ばれた唇が見える距離になった。 下であっても、晴れすぎて沸き上がる水蒸気のせいで、細部を 明確に見ることができない。その青く煙る川の南から、盆地の り込まれていた。上体を飾る帯のようなものには、様式化され 複雑に重ねられた緑青色の衣には、流水のような白い線が織 黒い影をまといつかせ、ひとりきりで歩いている。 中央に掛かる石橋を渡って、人がこちらに向っている。足元に て、 坂 の 上 の 遍 も 身 を 震 わ せ た。 思 わ ず 左 手 を 強 く 握 り 締 め のぼる。遍にはそれが感じ取られる。尖った気配が空を伝わっ 川の怒りと恐れが、さざ波の頂点から水蒸気に混じって立ち 行く道に立ちはだかって挑むような心でいる自分を愚かに感じ らない自負が遍の顎をもたげさせ、その一方で、おとなの男の 動にかられたが、男から目をそらすのも厭だった。わけのわか 遍は坂の上から、その男を見下ろしていた。駆け去りたい衝 た何かの形が、組み合わされたパターンとして並んでいた。 た。手の包帯は既に取れている。少し固い感触の皮膚が指先に た。 腕いっぱいの風景の中、他に動いている人影はない。 当たった。赤かった三つの三角形の内側は今や白っぽく変わり、 この男は、通り過ぎて行くだけなのだから。おとなの男 ―― が、ひとりのこどもに用があるわけはないのだから。 縁が固く盛り上がって周囲の皮膚を引っ張っていた。川の中で 傷ついた手。遍は、触れ合った時にあれの鱗が三枚、己の手の 男は遍の少し下の、坂の半ばで足を止め、頭巾に手をかけた。 節の高い太い指は、遍の身辺にいるどのおとなの手とも似てい ひらに貼りついたと信じている。 見守るうちに、その歩行者はいったん川沿いの並木の樹冠に 龍愛づる姫君 なかった。黒い頭巾がわずかに動き、光る目が現れた。短く早 かった。既に奥座敷に通されていた。 遍は靴を脱ぎながら、男が玄関のたたきに残した下駄を見た。 鼻緒の太い、履き古され、縁が土に汚れたものだった。それを い一瞥が遍の上に加えられた。 遍の左手が激しくひりついた。男は遍をまっすぐに見ていた。 てきたのだと思うと、素直な尊敬のきもちも湧いて、遍は自分 遍は軽蔑した。しかし、それを履いてはるばる川の南からやっ 男は、遍に用があって来たのだ。 ―― 見合っていたのは、ほんの一瞬のことだったに違いない。男 の心の矛盾を持て余した。 のか一見して角の多い磨いた木の肌に、草を模したような文字 長い杖も、壁に立て掛けて置かれていた。五角なのか八角な は遍のまとっているこだわりも誇りも、ほんの一瞥ではいでし まい、ただ遍そのものを現した。ただ見られることが、こんな が巻き付いていた。遍には読めない字だった。見るほどに、左 に自分を危うくすることだと、遍は思ったこともなかった。握 り締めた左の手のひらは、遍の拳が作る小さな闇の中で、傷つ 手の内側が熱さを痛みに変えてうずいた。杖の下部を眺めてい るうちに、この棒の形や色に見覚えがあると感じた。どうして いた時の熱さをぶり返させた。 だか、遠い昔から、この杖が己に向かって振るわれている光景 遍は、男に見て取られた。男の手が下がり、頭巾に目が隠さ れた。男の顎がかすかに引かれ、それは会釈とも防御とも取れ ばかりがよぎった。 がった。 遍は感電したかのように手を引っ込め、逃げる勢いで家に上 最後の最後の瞬間に憚られた。 息を止めた。触れてしまう。しかし自分の指をつけることが、 どん。どん。どん。脈打ち、手が自ずと杖に近づく。 いや、三角形は遍の心臓の動きを正確に拡大している。どん。 物であるかのように脈打ち始めた。 左手のひらの三つの三角形が赤く充血し、そこだけ別の生き ければいけないことは、この杖を折り捨てることだ。機会は今。 これを盗み出してしまえと、何かが胸に囁いた。自分がしな た。男は遍の横を通り過ぎ、槇の門を抜けた。 を遍は見た。男は四方の花の絢爛に惑わされず、飛び石の上を 振り返って、見慣れた庭の景色を男の黒い影が乱していくの まっすぐに歩き、大古屋家の玄関の戸を開けた。男の真黒な影 も、いっしょに敷居を越えていった。 遍が、男の踏んでいった飛び石をたどり、逃げ出したい一方 で、男のどんな一挙一動も見のがしてはいけないような気分に なって家に入っていくと、奥の方に人の気配がして、茶の香も 立っていた。 上がり框の堅い板に、男はおざなりに腰かけているのではな 「お伺いするのが遅くなりました。若姫の護符を作るのに、時 「あ、戻ってきよりましたわ。さあ遍、ここへ座りな。御山の した、分厚い立派な座布団が並べられていた。 祖母に見つかった。 たことばの羅列に、遍は自分との距離を感じた。 赤ん坊への悔やみを丁重に述べた。おとなとしての礼にかなっ の土地の訛りに染まっていなかった。男は続いて、亡くなった 流れているうちに全ての角が取れたような柔らかな声は、こ 間をかけていたものですから」 上から、龍王堂のえらいお人が、遍のために、わざわざ来てく いの木綿の座布団ではなく、黄金地に大古屋の女家紋が浮き出 一つ深呼吸して、奥の座敷へ忍んで行ってみると、ふだん使 れはったんやで」 庄屋をしてたやろ。その頃に龍王堂さんがこの緑椀へ来はって、 「あれ、遍にまだ話してなかったかな。大古屋は江戸時代には、 気を活かして豊かに暮らそうというのが、我らが一千二百年間 いるのが龍です。この世界に乗っているのが人間で、それらの 「麒麟、亀、鳳凰の三つの生き物と共に、世界の四端を支えて 祖母に説明しながらも、男がふと遍を向いた。 御堂を建てて、神さんを見張り始めたんや。ともかく、神さん していることです。龍王堂がこの山に建立されてからは、まだ 「龍王堂?」 の こ と に め っ ぽ う 強 い 龍 王 堂 さ ん や。 う ち の 台 所 の 柱 に か て、 たったの三百年ですが」 を掴んだ。男が応えることばはゆったりと広がり、この世界の 遍は聞いてしまってから、自分の素直な問いに自ら驚いて膝 「あれが、龍なの」 いつも厄除け札貼ってあるやんか。さあ、そこ座り」 遍 は 左 手 を 固 く 握 り 締 め た ま ま、 お そ る お そ る 祖 母 の 隣 に 座った。祖母が男に足労の礼を述べている間、男の膝の上に置 かれた大きな手を見ていた。 「川が盆地を作った西高東低のこの地では、青龍が最も優って 独特の絵図を描いた。 飲み干し、茶托に碗を戻した。節が出て爪が平たい手で、碗に 龍王堂から来た男は、客用のこぶりの青磁の茶碗から玉露を います。別の所にいる仲間たちは、鳳の気、麟の気、亀の気を、 の気を滅却することではなく、それを活かす方法です。そのた それぞれ研究しています。この土地に必要なのは、あり余る龍 小さな蓋を被せた。その動きに、無駄がなかった。 て目を上げて男の顔を見た。 拍子抜けするほど、 ふつうの男だっ 黒い頭巾は、畳まれて傍らに置かれていた。遍は、思いきっ 男は着衣の前で手を動かし、どこからか布包みを取り出した。 めの力の調整です」 と思えた。美しくなく、 醜くなかった。しかし造作はそうであっ そのふくさを男は自身の膝の上で開いた。読めない字が書き た。日焼けしたいかつい顔は、若くはないが年とってもいない ても、凡庸には見えなかった。 龍愛づる姫君 付けられた、薄い金属片のようなものが出てきた。全体は淡い 「ありがとうございます」 「些少ですが」 く額に押し付けて拝み、謝意を現した。お金だ、と遍は思った。 男はわるびれるそぶりもなく封筒を取り上げ、それをしばら 緑青色で、鈍く光っている。朱印が幾つも押されていて、それ た。 らは結袈裟の帯を埋める模様を少しずつ取り出したように見え 俗なものを拝受しながらも、男は毅然としていた。 男はお金を仕舞い、傍らの頭巾を持って立ち上がった。 「龍に魅入られた娘さんが、常に身につけておいて下さるよう に。『龍返し』の護り札です」 祖母も立ち上がって、長い廊下を共に歩いて男を玄関まで送 りながら、用が済んだ後の軽さで云った。 「『龍返し』?」 「来てもらえてよかったですわ。わたしの若い頃は、御山の上 祖母が説明した。 「うちら大古屋の女は、神さんと近しい。だけど『影よけ』で や、思てた孫が、こんなに大古屋の血を引いてたとはな。こう までよう行ったもんでしたけどな、咽元過ぎればというかんじ して新たな若姫もできたことやし、また拝ませてもらいますさ で、最近足が遠のいて、都合ようてすんませんけど、都会の子 祖母がそう云っている間に、ちらりと男の視線が遍に走った。 かい、どうぞよろしうに」 きんでな、間違いが起きんように、もうそもそも神さんと会わ 遍 の 揃 え た 膝 頭 か ら、 腰 と 胸 と を 通 り 抜 け て 遍 の 目 に 上 っ た。 「今回のことで、我々もにわかに忙しくなりました。毎日のよ へんように、龍王堂さんが『龍返し』してくれはるんや」 い。遍は戦慄した。男が遍の膝の前に護符を置いた。 その瞬間の目の強さは、それを向けられた遍ひとりしか知らな す」 うに、村内の各家に呼ばれて、家の柱に厄除け札を貼っていま 「商売繁盛ですか。皆、苦しい時のなんとやらですな」 遍 は 受 け 取 る こ と が で き な か っ た。 遍 の 左 手 は 熱 く た ぎ り、 か た や 右 手 は 恐 ろ し く 冷 え き っ て い た。 両 手 の 温 度 は 乖 離 し、 「こちらからも足を運びますし、御山にも、いつでもおいで下 左はしだいに熱さを通り越して痛みと感じられ、ただ鈍く重い。 これに触れてはいけないと思った。龍と同じように弾き飛ば さい。門の入口で、呼び鈴を鳴らしてくだされば、誰かが案内 から見える美十狛の森は、いつでも変わらんように見えるけど。 みとこま 「呼び鈴を鳴らして待つんか今でも、懐かしいなあ。こっち側 に参ります」 されて消えてしまう。 ―― あの淵に入った自分は、あちら側の 水を呼吸し、その鱗を受けてしまったのだから。 替わりに祖母が護符を畳から取り上げ、それに代えて封筒を 滑り出させた。 御堂はどんなふうに変わらしゃったんやろ、以前はずいぶんと られよ」 助けがいつでも間に合うわけではない。そのことを、気をつけ 「わたしは、龍だから」 遍は燃える左手を開いて、男に向けた。 「なぜ」 男は立ち止まり、振り返った。 「わたしは、御札は持たないから。あれは、要らない」 事を返していた。 は踵を返した。遍はその背に自分自身も驚くような、正直な返 声は穏やかでも目つきはどことなく冷淡に云い終えると、男 人がいてはったもんやったけど」 「今は、堂主と私のほかに、数人でいっさいを切り盛りしてい ます」 杖を手にした。丁寧に辞儀をなし、男は出ていった。 答 え て、 男 は 下 駄 の 太 い 鼻 緒 に 足 指 を 通 し、 頭 巾 を か ぶ り、 遍は祖母について奥の座敷に戻り、男が座っていた座布団を ま じ ま じ と 眺 め た。 祖 母 が 片 付 け る、 男 が 口 を つ け た 茶 碗 も、 恐れながら眺めた。あの男のかすかな汗の匂いや衣擦れの気配 が、まだ場に残っている気がした。 「それこそが、龍に魅入られているということだ。龍に取り隠 男は、ひきつれて充血した鱗の形の傷痕を見た。 されることは、この世での死を意味する。自身の躯に惑わされ それから遍は外に飛び出した。あの男がいないこと、自分の 目の前にいないこと、あの姿をもう見られないことが、急にひ るな。同情するな。護符に護られ、危険な年頃をやり過ごすべ どい損失として、単純な焦りを生んでいた。走らずにはいられ な か っ た。 追 う 形 に な っ て い る こ と に は 気 づ い て い な か っ た。 らを向いていた。遍は立ち止まった。男は口を開いた。 「姫の直観って、意味がわからない」 をむしろ見上げていた。遍は左手を胸に引き寄せた。 男はやや目を細めて遍を注視した。道の傾斜のために、少女 「……それが龍の姫の直観か」 ない」 「こんなになって、龍とわたしが、簡単に離れられるとは思わ 遍は首を横に振った。 きだ」 会ってどうすることもあ ―― むろん、もっとあの姿を見たくて、その存在感を求めてはいた が、現実に相手はおとなの男だ。 りはしない。 午後の光が田を照らしていた。下り坂の路面を、長く伸びた 草の影がぎざぎざに縁取って、静かに日は暮れ始めていた。 「もう一度だけ、云っておきたい。今後、御札を常に身につけ 「では、自分が何をしているか、その意味がわかるまで、護ら ずいぶん先に行ってしまったはずの人が、坂の曲り角でこち て い る よ う に と。 そ う し な か っ た 場 合、 加 護 を 保 証 で き な い。 龍愛づる姫君 れていなさい。我が堂の護り札があれば、龍と接触しない。龍 と触れ合わなければ、 『影』を暴れさせることもない。護符を 使いなさい。そのうちに分別もつくだろう」 遍はこども扱いされることに反発を感じた。 「わたしは、そのうち、ひとりで何もかもできるようにする」 男はわずかに笑った。 「意気込みだけでは物事は解決しない。愚かさは、時間が解決 してくれることも、そうではないこともある」 男は背を向け、坂を下っていった。杖を片手に、来た時と同 じように急がない足取りで、川南までの道程を一歩ずつ経てい く。 遍は坂の半ばに立ち、男が歩いていくのをどこまでも見送っ た。 坂 の 下 に 小 さ く な り、 樹 に 隠 さ れ、 田 を 越 え、 橋 を 渡 り、 川南の夕霞の中に溶けてしまうまで。 2 友 常に親しく交わるなかま。また、志を同じくする人。友人。ともだち。 同じ集団に属する者。同行の者。道連れ。 字体は二又に従う。各々手をもって助ける意。友とは同族の間におけ る友誼の情をいう語。 と、黒い服が熱気を吸い込んだ。 よく晴れた真昼、遍は祖父母と共に坂を下りた。日向を歩く 国道の脇で、轟音と排気ガスを頭から被り、バスを待った。 黒い服の下で、そこだけひやりと胸の間に貼り付いている護 符の感触があった。祖母は華やかな古い着物の切れ端で、かわ いらしい御守袋を縫い、中に龍王堂の御札を折り畳んで納めて くれた。袋の口は固く紐でくくられた。紐で首に掛けることも できるし、ピンを取り付ければ髪に留めることもできる。 男から渡されたときには手を出さなかったが、祖母がそうし て厚くくるんでくれたものは、受け取って首に掛けていた。御 守袋は祖母の匂いがする。 祖父は路上に残って、にこにこと手を振った。 やってきたバスに、遍は祖母ともども乗り込んだ。作業着の 「全くジイチャンは毎日働きづめで、今日ぐらい休めばいいの 10 に。することをせん、というのも大事やのに。今日は遍が帰っ なぜ礼を云われるのかよくわからないまま、そうされていた。 クリームを食べた。駅の売店で、クーラーボックスの中のアイ まだ時間があったので、二人は構内のベンチに座り、アイス 首と腕が痛くなっても、遍は後ろを向いたまま、祖父に手を スはどれも霜にまみれて固く凍っていた。かちかちのバニラを てしまうんやで」 振り返した。やがてカーブの膨らみに祖父の痩せた長身は隠さ 少しずつ口に運ぶ間、二人は黙っていた。 ガムと鳥の糞で黒白に汚れた床を見ながら、残してきた銀の川 埃っぽい駅舎の片隅で、遍は冷たいクリームで頬を痺れさせ、 れた。遍は座席に座り直した。 「夏休みが、終わらなかったら、いいのに」 「バアチャンも、そう思うわ」 揺れる稲穂を、四方を囲む山垣を、盆地のみずみずしい暗闇を を、 庭 で 実 っ た ひ ま わ り の 種 を、 朝 顔 の 薄 く 重 な る 花 び ら を、 の向こうには平野が広がっていた。盆地を抜け出しても川はし バスは田圃の中の一本道を東へ走り、切り通しを抜けた。崖 思った。 ようやく、祖母は心配そうに、喪服の遍に云った。 「お母さんお父さんに、よろしゅうに」 一方、祖母が思っているのは、それとは違う事のようだった。 ばらく傍らを流れていた。走る窓ガラスごしに銀色の平らな面 のきらめきは遠く見えた。やがて国道と川は離れていき、両側 に 商 店 が ぽ つ ぽ つ と 立 ち 始 め た。 バ ス の 車 内 に 乗 客 が 増 え て いった。 「うん」 「また来てな」 終点の駅前で降りた。ロータリーも駅舎も夏の陽射しに焼け ていた。きつい照り返しの駅前の商店街を、買い物袋を提げた 「うん」 「また今度来るって、約束して」 人たちがぞろぞろと歩いていた。 祖母は窓口に向かい、切符を一枚買って遍に渡した。 「うん。約束する。また来る」 二人は立ち上がった。 回転し、大都市のものに変わった。アイスをなんとか片付けて、 電車が入ってきて、乗客がいっせいに降りた。行き先表示が うに感じられた。 その、また今度、というのは、あまりにも遠すぎる約束のよ 云われるまま仕舞い、ポケットから出した遍の手を、祖母は 「よう来てくれたな。長い間ずっとおってくれて、ありがとう 握り続けた。 な」 祖 母 は 遍 に 繰 り 返 し そ う 云 い、 長 い 間、 手 を 離 さ な か っ た。 ふっくらとしたその手は、柔らかく遍の手を包んでいた。遍は、 11 龍愛づる姫君 わされた。祖母はこどもに繰り返しさよならと云い、さよなら もう一度、いや一度だけではなく何度でも、別れの挨拶が交 く横切る。 車両は河を渡る。 あの龍のいた川が支流の一本となっ 車輪の下から大きな音が響き、窓の外を斜めの影が規則正し いた。小舟が幾つも出て、何かを捕っている。水平線には巨大 海近くの広い水面は一面にさざ波で覆われ、黒と金に光って て注ぎ込み、さらに近隣の河と合流し、大きな河となる。 を返した。 と云った後でも握った手を離さなかった。遍も何度もさよなら ついに祖母の手の感触が離れ、遍はひとりで改札を通り、客 な丸い柱が一本、立ち上がっていた。その建設中の河口堰の周 乗り手が膝の上に立てた建設反対のプラカードの文字が読めた。 りには、幾艘もの色鮮やかなカヌーが泳ぎ回り、角度によって、 車の窓際に座った。 に恥ずかしく感じながら、手を振り返し続けた。やがて車両は 雲は秋めいていた。 ていく少年たちの姿があった。気の早い薄の穂が伸び、空の筋 わった。堤防の上を、揃いのユニフォームで一団となって走っ 水が風に押し戻され、下流からいっせいに波の影の向きが変 それから発車の瞬間まで、祖母は手を振り続け、遍はしだい 滑り出し、動き始めたらあっというまに駅舎もプラットフォー ムも後ろに置き去りにした。 電車はしばらく川に添って走った。山の圧迫が背後の空に遠 ざかり、下流の平野が開けてくる。 が迫り、壁面が近すぎて一つ一つの建物を見ることはできない。 河を越えると、一気に大都市が広がった。線路の両側にビル どれもが一瞬の灰色の影と、車体に軽い衝撃をもたらす空気圧 遍は窓枠に肘をつき、再び傍らに近づいてきた流れを眺めた。 川幅が広がってきても、あの龍の棲む川には違いなかった。 となって過ぎた。その圧してくる影の中を延々と走り、駅に着 しかし線路はすぐに流れとは違う方向にそれていき、何度も ひなびた駅に停まりながら、しだいに大都会へ近づいた。 昼でも電気が煌々とついている。幾重にも鳴り響く発車ベル い。 く頃にはより高く伸びたビルの影で、線路は日暮れのように暗 固まった飲み屋街。そうしたものが緑の丘の合間からちらちら とアナウンスと話声の層をかいくぐり、遍は荷物を抱えて駅か 所、パチンコ屋、小学校や中学校のグラウンド、駅前に小さく 工場の煙突、ガスタンク、下水処理場、生け簀、自動車教習 と現れて背後に追いやられる。緑はしだいに少なくなり、山は ら出た。 りだけ別の時空を生きていたような不慣れな心地で、人と色と 何度か、急ぎ足のおとなに突き飛ばされそうになった。ひと 遠くなり、駅舎は大きくなる。乗り降りの足音も増えて、遍の 隣には雑誌を広げたおとなが座り、向かいには入念な化粧の女 性が足を組んで座った。 12 が密集し混雑した商店街を通り抜け、地下鉄に乗り継いだ。 いても洗濯物を畳んでいても死の謎にふけってるおとなの横で、 りぴりとした悲しみは、怒りと相似形をしている。食事をして 遍は、赤ん坊がいたとき以上に、この場にいない、目に映らず 地下鉄の車内で、 人の視線が、 たびたび遍の上を掠めていった。 「あの子、見て」 耳に聞こえない透明な存在になっていた。 て、カーテンごしの薄明かりで、紙が鈍く光るのが見えた。そ 遍は袋の口を開けて、薄い紙片を取り出した。闇に目が慣れ たった。 あ の ふ っ く ら し た 手 と 同 じ 柔 ら か さ に 思 え た。 指 先 に 紐 が 当 のくぼみの中で小さな袋は、祖母が別れに際して握ってくれた、 遍は右手で首元を探って、御守を手のひらに包み込んだ。手 この傷は、だいじょうぶ、心配ない。おとなになるまで ―― に、消えますよ。そう医者は云った。 手に右手を添わせ、傷痕の盛り上がりをなぞった。 闇の中に左手を伸ばすと、指先から暗がりに溶け込んだ。左 自分には、親に愛される資格なんてない、と遍には思えた。 てしまった。 『影』があの子の命を奪った。もしかそうではなくても、 ―― 自分が川に落ちるごたごたがあったから、赤ん坊から目を離し して、個室のベッドに横になった。 夜は、誰ともおやすみを云い合わなかった。自分で電気を消 「何だか雰囲気が。厭だ」 「怖いよね。魔女の子みたい」 反射的に、遍は左手を握り締めた。腕の中で、鞄が次第に持 ち重りしてきた。 尽くされ、新しい店もできていた。前にそこが何の店だったか、 降車駅から、十五分歩いた。道の両脇は鮮やかな看板に埋め 遍は思い出すことができなかった。 昔は城下町の外れだったという、ごちゃごちゃとした下町の 屋根の上に、十五階建ての白けたマンションの先端がのぞいた。 遍が魔女の子 ―― マンションの最上階の玄関を開けて、黒服の母に迎えられた。 同じ喪の黒で対面する遍は、緊張を感じた。 なら、母は魔女そのものだ。 鞄を開けると田舎の空気が拡散し、草いきれと日向の感触が あっというまに消えていった。向こうではあたりまえにあった ものが、ここでは稀少品になる。朝採りのきゅうり。白い桔梗 の紙は何でできているのか、指で掴んでもよくわからなかった。 の花束。梅のシロップ漬け小瓶。 母は顔を遍のほうに向け、しかし目は虚ろに宙を見ていた。 開いて見ても、やっぱり字は読めない。 枕の上に遍は紙片を置き、 おそるおそる、左手を近づけていっ 夕方、帰ってきた父も活力がなかった。そのくせ二人のおと なの内側には、何かが溜まり、膨らみつつあるらしかった。ぴ 13 龍愛づる姫君 た。御札に触れて、龍のように自分が今夜、このまま左手から 消えてしまってもかまわないと思った。しかし左手は紙に突き 当たり、ただ滑らかな感触を受け止めた。 だけど、収穫間際の田圃に水が来ると、稲が全部だめになっ てしまう」 と祖母は云った。大古屋は、龍とそうした取引をする術を知っ ろいろお供えし祀り上げて、うんといい思いをさせてやるのだ そこで龍に、田圃に入ってこないよう、よくお願いして、い その瞬間、文字の幾つかが、かすれて消えかけた。 ていたから、村一番の長者になった。大古屋は龍と対話するこ すべすべした紙の表面を、左手のひらでなでた。 暗がりの中で、遍は、字が薄くなったことに気づかなかった。 それでも、 『神』は『神』の時間の中で生きている。それが とができた。龍の望むものを供えることができた。 祖母の匂いがする。 遍はまた護符を畳んで巾着袋に入れた。きゅっと握り締める。 になる。 人の論理からは、気まぐれに映る。時に稲を流され、嘆くこと 「だけどある時から、川の氾濫はなくなった。 なんでかわかる? クーラーの静かな機械音が続いている。鉄筋コンクリートの 柱と梁に囲まれた個室で、遍は夜ごとに隣で語ってくれた祖母 国道渡ってまっすぐ行って、橋の手前で右に曲がってずうっ 十元岩というものが、置かれたからなんや。 の声が、今も隣にあってほしい、と願った。 「 川 は、 一 番 低 い と こ ろ を 流 れ と る と 思 う や ろ。 と こ ろ が な、 と行くと、その岩があるよ。 その岩が、どうしてできたかというとな。 上流から岩だの流木だの流れ落ちてきて、水路が混雑してくる と、水は、ばあと別の方へ行ってしまうのよ。隣の田圃を浸し ある大雨の時な、龍王堂の十元さんて人が、山から降りて来 人で、修験者になる前は何やっとったんか知らんけど、えらく たんや。十元さんはなあ、何年か前にふらっと龍王堂に入った て流れて、今はこっちのほうが流れやすいんです、と涼しい顔 をしとるんや。 それで、あちこちをだらだらと水が流れるうちに、この盆地 せに大酒呑みって噂があって、皆、十元さんのことを怖がっとっ いした大男やったんやて。いつも赤ら顔で、山門に入っとるく 躯の大きい、背が高いだけじゃなくって横幅もすごいある、た よう稲が実るんや。なにしろ、川の水には龍神さんが棲んで た。 はますます平らに、肥沃になっていってな。 はるでな、水が、さあと流れたところには、龍の鱗が溶けとる その荒くれ十元さんがな、折しも山から流れ落ちてきた岩を、 のや。残された龍の鱗を、田圃にいっしょに鍬き込むと、土が 豊かになるんや。 14 川の中にざぶざぶ入って持ち上げてな、 『はあああーっ』 気 合 も ろ と も、 川 の 根 元 の ほ う に 投 げ つ け た ん や。 ど ば あ、 ごろんって、岩は川の端に落ちた。そしたら、そこで川の流れ がすうーと曲がってな、田圃のほうには入ってこんくなったん や。 見える人には、龍の鬚の片方が、岩の下敷きになっとるのが 見えたわな ―― 」 遍はひとりベッドに横たわり、目を閉じた闇の中に、龍の透 明 な 鬚 を 見 た。 細 い 長 い 筋 の 一 本 が、 大 岩 の 下 敷 き に な っ て、 ているのだと思った。 遍は考えることなく、 そっと左手を出していた。 既に夢に入っ 遍の手のひらに、魚は小さな鰭を打ち付けた。透明な躯が当 たっても、 手に感触はなかった。尾をひるがえす仕草がかわいい。 笑っていた。 自 分 が 笑 っ て い る こ と を 意 識 し な い ま ま、 遍 は 声 を た て て 新学期はすぐに始まった。 長雨がしっとりと町を覆い、季節は一気に秋に傾いた。 母と父の二人とも、祖父母と同じように、赤ん坊を話題には 鮮やかなモビールが空のベッドの上で回転し続けていた。小さ しなかった。しかし、ベビーベッドは片付いていなかった。色 な服の一枚も捨てられていなかった。それどころか母は、毎日 龍が苛立たしげに流身をくねらせようとするのを見た。 と、龍の鱗が数枚、龍の躯から離れた。 一枚ずつそれを洗濯し続けた。 光る三枚の鱗だけが分離して、闇をこちらへ、すう、と流れ てきた。残された龍の躯の、欠けた鱗の間には、細い髪が幾筋 港に近い下町の一角に、十五階建てのマンションは塔のよう 女は、エレベーターで下に降りるたび、重なり合い混乱した他 か絡まっている。自分の髪だ、と遍は思った。遍と龍は、髪と 人の欲のただなかに放り込まれた。泳ぎきらねば帰れない。 にそびえ建っている。白亜の塔の足下はごちゃごちゃした繁華 遍 の 髪 を 絡 ま せ た 龍 の 躯 は 闇 に 溶 け 消 え、 三 枚 の 鱗 だ け が、 路地にはズボンの前を開けた男が自転車に乗っていて、人通 街で、極彩色の欲望が渦を巻いて押し寄せている。塔に住む少 まっすぐに遍の方へ流れ続けている。鱗の下に小さな躯が生ま とを意味するのだろう。 れたのか、それとも鱗が膨らんで変化していったのか、いつの りのある所まで執拗に追いかけられた。公園の電話ボックスを 鱗を交換してしまっていた。それは、互いに強くつながったこ まにか、こちらに向かって宙を泳いでくるのは、鯉に似た形を 内側から開けて、新鮮な血をください、と頭を下げた痩せた若 者は、少女が首を横に振ると、踵から巻き戻されるようにする した魚になっていた。 そのものは遍の枕元に近づいた。 15 龍愛づる姫君 が林立し、夕方には呼び込みの黒服が立つ通りを、クラスメイ くを見たまま、ガラスのドアを内側から閉めた。クラブの看板 すると元のボックスの中に引きこもり、人形めいた無表情で遠 「あの、ううん、何でもない」 「目だけ、きょろきょろしてる」 「……え?」 「遍ちゃん、どうしたの?」 きた像なのかどうかも掴めなかった。 をじっと見つめた後に、景色の上に載る赤のような、錯覚でで る。遍はあちらとこちらの間を泳いでいるような生き物が、緑 目で魚の動きを追うのは、ほかのこどもからは変な動作に映 ト達が妙にはしゃぎながら、遍には気づかず歩いていった。 他人の幻想に追い回される以外の大半の時間は、静寂の中に 過ぎていた。 文法と計算方法。それはまるで自分とは関係のない所からもた 時間割どおりの授業と決められたとおりの知識、科学法則と らされた、死んで乾ききった花束のように思えた。一つずつ花 朝礼で貧血を起こして保健室に担ぎ込まれ、目を開けた時も、 先生のかけている眼鏡の反射と同時に、その魚が見えた。 びらを数え、枚数を覚え、解体のしかたを教わる。生活には直 接関係がないが、それを覚えなければ生徒として生活できない 「吉谷遍、またおまえか。だいじょうぶか?」 に食べなさいよ。まあいろいろ事情はあるんだろうけど」 「また、たったそれだけ? 玉子とかサラダとかも、いっしょ けられ、パン一枚とミルク、とゆっくり答えると、 朝ごはんを食べたか、何を食べたか、と恒例の質問が投げか 若い女の先生が、魚の向こうにいた。 気さくな声が響いた。ぼさぼさ髪をゴムで一つにひっつめた よしたに から、テストまで頭に入れておく必要がある技術だ。しかし覚 えたつもりが、いつしか零れて消えていく。 透明な魚だ。ノートに伏せた視野の上側の境界から、丸い頭が 零れて消えるものの替わりに現れるのは、いつも同じ、あの 覗く。慌てて目を上げると、左右に振れた尾の残像を見る。 の明るい風に、肩の高さで遍の髪がなびいている。髪の向こう また別の時、並木道を歩いていると、それはやってくる。秋 あ。何かあったのなら、云ってごらん。どんなことでも、何で 「吉谷、いつも以上にぼうっとしてるかんじだね。目が泳ぐな じろじろと顔を見られた。 ウインドウの反射の間に、ガラスの魚が見え隠れする。振り向 もいいから。これまでと変わったことがあったら、云ってみな 側を、歩く速さでショウウインドウが流れる。その髪とショウ いたり、立ち止まったりすると、街の猥雑な照り返しの中に消 よ」 えてしまう。 その透明な魚は、ほかの人の目には見えない存在だ。 16 「わたしにだけ、見えるものがあって」 促されて、遍は思い切って話した。 いな事から勃発する両親の口論があった。 夕食のおかずのことでも、二人は簡単に喧嘩できた。父の云 うとおり、母は一日じゅう家にいるのに、部屋には埃が積もり、 夕食には目玉焼きが一つ準備されるだけだ。その前の日はツナ 今、 先 生 の 肩 の 上 で 向 き を 変 え た、 と ま で は 云 わ な か っ た。 先生は先を促すようにじっと遍を見た。遍は続けた。 缶、その前の日は冷ややっこ。 と母は反論する。 だ っ て 食 欲 な ん て な い し、 こ れ で も が ん ば っ て る ん だ か ら、 「何だか最近、時々、見えるようになって」 「何が見えるの?」 「空を泳ぐ魚……」 るだけでも、途中に一回休憩を挟む。外出はほとんどできない。 母は五分と集中力がなくなっていた。おかずを皿に盛り付け しじゅう襲われている躯の痛みは、精神的な原因によるものだ 「きっとただの気のせいで、わたしの想像にきまってるよね」 云っている最中に、警戒心が強まった。 早口で付け加えた。 と診断されていた。 えて、静かに自分の部屋に退き、嵐が過ぎ去るのを待った。 夫婦喧嘩が始まると、遍は厭なかんじにどくどく打つ胸を抱 悲しみは、二人で共有できないことであるらしかった。 赤ん坊の死を、父も悲しんでいるには違いない。しかしその さい、と追い払われる。 すると、これはお母さんの仕事なんだから、あんたは勉強しな そのくせ主婦としての責任感は強く、遍が家事を手伝おうと 保健の先生は、いやいや、ふうん、とひとしきり感心してか 「 そ り ゃ、 イ マ ジ ナ リ ー・ コ ン パ ニ オ ン …… て や つ だ ろ う ね。 ら、半ば独り言のように呟いた。 ませてるじゃない、やっぱあるんだね」 「そういう、病気、ですか?」 「ううん、これだけなら病気じゃないよ。あんたぐらいのお年 病気になる。バランスの問題でね。吉谷、友だちとでも家族と れてしまう。遍は膝を抱えて、ドアのこちら側で、ドアのあち 口を挟もうとすると、こどもは向こうに行ってろ、と怒鳴ら 頃には、時々あること。だけどそっちの方にばっかり行ったら、 でも、誰とでもいい。その空中のお魚さんはお魚さんで、そこ 「あなたこそ……こんな時に……あのことのあてつけ……優し 「君も、君の家族も……まさかあれほど……君も……」 ら側の感情のぶつけ合いを、断片的に拾い上げる。 そこのつきあいでほっといて、吉谷は、誰でもいい、誰か人と、 人間と、楽しく過ごしなね」 家に帰ると、ちりちりとした沈黙と、母の突然の涙と、ささ 17 龍愛づる姫君 「行ってしまうのなら、龍を連れて戻って来て。そうしたらわ は、うっすらとした三つの三角形の陰影になっている。 遍は窓に頭を押し付ける。暗い窓に映った左手のひらの傷痕 厭な想像ばかりが膨らむ。 たしは、こんな所から出て行って、自由になれるはずなんだ」 さがあだ……」 どうして、二人は結婚して、わたしを産んだんだろう、と遍 ともあるから。おとなを許してやりなよ」 「吉谷、元気とやる気を出しな。おとなになったら、わかるこ 保健の先生と、少しずつ話した。 は考えた。 ―― 後で愛情をなくしてもめるぐらいなら、愛なん て最初から、ないほうがいいと思う。 心は冷えてくると痛くなる。友だちに電話して、明るい声で どうでもいいことを話す気分にはなれない。 ラジオをつけて、二人の話し声が聞こえないようにして、白 聞くんじゃないよ。お魚さんはまだしゃべってない? じゃあ、 「 吉 谷、 自 分 に し か 見 え な い コ ン パ ニ オ ン の 云 う こ と ば か り、 そう慰められた。 遍 の 近 く に い て く れ る の は、 空 を 泳 い で や っ て く る 魚 だ け だ。 く四角い壁の間で、遍は目で魚を探した。こういう時、本当に 遍は手を伸ばし、魚が手のひらに寄ってくるのを待った。 しゃべらせないよう、気をつけな。それは自分の頭が作るもの だから、自分のほうがお魚さんより優位に立たなくちゃだめだ 「あなたは、どこから来たの?」 魚は答えない。 ら び て 死 ん で し ま う の、 こ れ は ア ン デ ル セ ン の『 影 』 の お 話。 よ。 『影』の云いなりになったら、自分を乗っ取られて、干か 「バアチャンがいろいろ話してくれたけど、 ―― あなたは、龍 の何かではないよね。だってわたしは、御札を持っているもの。 吉谷、向こう側へはいつでも行ける。だけど向こうからこちら とうに遊びなよ。友だちを大事にしなよ」 がわからなくても、 こちらに留まってな。人間の友だちと、まっ へ戻ってくることはできない。だから今は、まだ待ちな。理由 御札を持っていたら、龍は来られない」 「ずっと、いっしょにいてくれる?」 魚の返事は聞こえない。 魚は身を翻し、窓ガラスを抜ける。十五階の高さにある、ぼ それなのに、夏からの遍は、それまでの友だちに気安く話せ 然死だの、手のひらの傷痕の意味だの、両親の不仲だの、空を ない秘密を持ちすぎていた。よその土地の龍だの、赤ん坊の突 んやり霧にかすんだ初冬の夜空を、尾を振って泳いでいく。 「待って。そんなふうに、わたしは飛んでついて行けない。飛 泳ぐ魚だの。 ぼうとしたら、落ちて、死ぬ。……それともわたしは、飛べる の? 飛べると信じたら、飛べる?」 18 3 血 血液。血筋。血統。比喩的に、人間らしい感情や血気・活力。血の道。 字形は、皿の中に血のある形。卜辞に血宮の名があり、そこで牲を用 いる礼が行われている。盟誓のとき「牛耳を執る」というのは、その 牲血をすすって誓うこと、いわゆる血盟を司会することである。 た。 遍は不得意な運動のせいで、さっそく四肢に疲れを覚えてい 「吉谷さんたら。あの子たち、生理だよ」 口早に教えられた。遍は顔を赤くした。 後ろを光ってついて行った。 葉桜の手前を、透明な魚がつうっと横切った。風がその鰭の 「あ、 男子がこっち見てる。吉谷さんのことを、見てるのかな」 「何、それ」 「あいつ、吉谷さんのことを、好きだって云ってたよ」 「嘘」 「へえ、嬉しくないんだ。じゃ、吉谷さんはべつに、好きじゃ はかなげに桜花が散った後で、樹が夏に向けて発する生命力 は、見ているほうが恥ずかしくなるくらい旺盛だ。緑の葉の間 遍は、どうあがいても、期待されているような答を返せそう 「答えなさいよ。好きな人は誰なの?」 相手はそれを、恥ずかしがっていると取って、なお攻めた。 「えっ、ええと」 ごもった。 男子の誰かを好きなはずだ、という思い込みの前で、遍は口 「岩永? 佐藤? 三木? 誰?」 「え」 「じゃあ、誰のことが好きなの」 「……うん」 遍はためらったあげく、正直に答えた。 ないんだ」 は一日一日大きくなり垂れていく。樹の下には、放たれた赤い から、赤い星型の鍔がつくつくと突き立ち、その間も平たい葉 鍔が散らばる。 その赤い短線の散り敷いた地面に座って、女の子たちが体育 の授業を見学している。 遍は校庭の真ん中で、太陽を反射する白い体操服で、同じ半 袖の子たちとボールを投げたり受け止めたりしている。陽射し は強く透明で、目にきつすぎるぐらい既に明るい。 遍 の 不 如 意 な 手 か ら ボ ー ル が こ ぼ れ た。 追 い か け て い っ て、 拾い上げた。息をつきながら遍は、校庭の隅の木陰へうらやま しそうな視線をやった。 「春なのに、風邪がはやってるんだね。三人も休んでる」 19 龍愛づる姫君 にないと感じた。不器用な正直さで、相手を失望させる。 ほどけたリボンのように夜が香る。 の入り混じった匂いがする。遍は魚の冷たい肌が発する媚薬を その香りの筋に遍は重なり浸され、またずれる。水と生き物 甘く受け止める。 「今は、いない」 「 い な い は ず な い で し ょ。 じ ゃ あ、 前、 好 き だ っ た 人 の 名 前。 魚と遍は空を泳いでいく。梢をかすめ、家々の屋根の上を過 云いなさいよ」 「……お父さん、だったんだけど」 「 変 だ よ、 吉 谷 さ ん。 同 じ ク ラ ス の 男 子 で っ て 聞 い て る の に。 嘩ばっかりするから」 「うん、だった、だけ。もう好きじゃないんだ、お母さんと喧 魚は孔の中に飛び込んでいく。水の飛沫がはねる。 うがたれた空間の入口がある。 で彫刻のように静止した森。 ―― ここはいったいどこだろう? 知っているような、知らないような場所だ。 銀色の草が揺れる野原と、埋もれた線路のレール。月光の中 ぎる。 お父さんだなんて。そんなの、ぜんぜんだめじゃない。話にな 「やだあ、お父さんなんて」 らないよ」 ここに入ってはいけない。 ―― 「ごめん」 遍も魚に続いて川に飛び込む。 ―― 川? いや、空のてっぺ んへつながるトンネルであるようにも思える。 光 る 魚 が 闇 の 中 を 泳 い で い く。 そ れ を 追 い か け て 遍 は 走 る。 くなる。トンネルのこちら側と、あちら側とがあるだけだ。 光る暗い洞穴でもある。中に入ると、すぐに上も下もわからな りったけの緑色を溶かしたトンネルであり、ほのかに紫だけが 曲面の内側は、ありったけの青色を溶かした洞窟であり、あ マンションの窓から飛び出し、魚と同じように空にふわりと浮 は同じ夢を見た。いつからかいつも見る夢だ。 今、遍の好きな人といえば、夢で見るあの姿だ。その夜も遍 ぶ。眼下に広がる街の灯。その上空を一気に越えていく。頬に あちら側へ、行ってはいけない。 ―― 闇に伸ばした左手が、躯を先へ引っ張っていく。 当たる夜風が湿り気を帯びたものに変わる。ひどくもどかしく 性急な気分で、何かがたりないと感じている。その一方で、こ じる。回転しながら目に映じる、盛り上がる純白の雲の柱、藍 されたそのままの向きで手足を広げて、八方に開けた空間を感 やがて、ふい、と遍は空間の広がりに放り出される。投げ出 ことをしている自覚がある。 んなふうに魚について行ってはいけない、と感じる。いけない 遍のすぐ前を、夜に染まった魚が泳いでいる。 20 いる天井。 色の闇がわだかまる逆側、濃い影に区画された床、水の流れて たぎる飛瀑と広がりゆく閑寂が同時に存在し、全能感と孤独 感が一時に胸を占める。 を飛ぶ。泡が時々視界を横切る。二人は出会う。 月を反射した雲と水のほの明るさの下で、遍は唐突に涙を流 す。悔し涙のような嬉し涙のような、意味のわからない透明な 涙だ。 ようやく出会えた。運命の彼。 運命の彼は遍の肩を抱き、遍をどこかへ連れて行こうとする。 そのとたんもうひとりの遍が、彼と遍の間に入ってくる。彼が あるいは細かな川床の砂の上に。 遍は宮殿の床に、静かに着地する。柔らかな雲のクッション、 月光を浴びて銀色に輝く魚が空を泳いでいき、柱の影に入る。 連れて行くのはもうひとりの遍だ。遍はまだこちら側に立って、 なすすべもなくそれを見送っている。 入れ替わりに、 柱の影から、 黒い影そのもののような姿が現れる。 そしてある深夜、遍は、諍いの声で目覚めた。 彼は遍を招く。 呼ばれて、ついて行ってはいけない。 ―― 遍は立ち上がり、夢見るように近づく。 影はラピスラズリやブルーサファイア、ペリドット、翡翠の集 は真珠の光沢とムーンストーンと水晶の複雑な反射に、一方の 壁に囲まれ、広間が現われ、月光が射し入ると共に、雲の表面 白い雲が夜空を流れ、雲でできた宮殿の形は次々に変わった。 中でもまだ、それを握っていた。 冷たい涙を頬に伝わせたまま、そのまま再び眠り込み、夢の した温かい手だと信じた。 平らに潰れている。それでも遍はそれを握り、これがふっくら 遍は手で御守をさぐった。袋は何夜も握られ続け、すっかり 今夜こそ全ての終わりの夜。 闇の中で聞く怒鳴り声は恐ろしい。 れられても感触はない。遍の左手も心も、もどかしさを増して、 長い腕が、せせらぎに似て優しく、遍の躯の外側を囲う。触 違う、こんなはずじゃない、何かが違う、と叫ぶ。 同じ姿が、夢の中で両腕を開いて立ち上がっていた。 いつからか、その一つの夢路が踏み固められていた。いつも それは遍を呼んだ。 で、すぐに陰惨な結果に転じることを予感している。 いや、呼んでいるのは遍のほうだ。甘美なのは今この時だけ 風景に多くの色はなく、ただ光だけが揺れていることもあっ た。 何度でも、夢は出会いを繰り返した。躯は重力を無くして空 21 龍愛づる姫君 まりになった。 「……連れていって。わたしはもうこれ以上、こちら側にいた くない」 立っていた。右手を開くと、御札は紐で首にぶら下がった。薄 自分の腕の輪の中にも彼がいた。腕に腕が接し、胸に胸が接し、 遍は腕を伸ばして一歩進み、彼の腕がつくる輪の中に立った。 〈来い〉 い下着の外で護符は夜風に吹かれ、膨らみ始めた胸のきっさき 脚に脚が接していた。鱗を載せた遍の左手のひらは、龍の胸に 龍宮の入り口。 ―― 絢 爛 と し た 天 然 の 宝 玉 に 足 首 ま で を 埋 め て、 遍 は は だ し で をかすめた。 いた。 吸い付いて一体化していた。遍の髪が、龍の肩に引っ掛かって 護符を肌身から離したこの時、龍に触れた感触は、せせらぎ もう、戻りたくない。 ―― 遍は、ゆっくりと紐を頭から外した。 袋から紙片を取り出し、指先で粉々に破いてゆく。 の優しさではなかった。雷電のもたらす痺れだった。間に入っ 空を背景に、隅々まで遍の理想にかたどられた彼が姿を明らか 遍は顔を上げた。柱の間の薄靄は払われていた。澄んだ濃い な猛々しい熱がなだれ込んでくる。その膨らみに押されて、遍 けた。睫が震える間にも、接している龍の躯から、強く鮮やか ていた。龍は待たなかった。口で口を喰われた。血が一時に弾 か、会いながらも触れられないでいたか、遍はその時、理解し ていた紙一枚のせいで、それまで龍とどんなに隔てられていた にし、目の前にいた。遍が現したものなら、それが遍の理想の 〈百年愛される覚悟ができたか〉 遍の足元に、護り札がばらばらになって散り敷いた。 姿をしているのは当然なのだろう。 恐ろしく熱い稲妻が流れ入る。 自身の血は辺縁に押し広げられ、全身が痛いほど脈打った。 龍の力を迎え入れるために、遍の内部が空と地に向けて急速 遍の足元の紙片が、風で吹き払われた。 〈龍の姫がかくもたやすく、人間の男に管理されたとはな。誇 そうして拡張するのと同じ速度で、龍の強さの一片が遍の内 を抱えて、ずきずきとなおも外へ外へ走っていった。 界が去っていく。龍は巨大だ。遍の境界は広漠な宇宙との交歓 めまいがした。とどまるところを知らない。無限遠に己の境 に広がる。 りを忘れたか〉 人型の龍は酷薄に笑んだ。同時にちかりと月も光った。遍の とまどいを吹き流してしまうような、ここちよい声が響いた。 〈卑怯を手引きする紙切れなぞ要らぬ。おまえが龍を操れ〉 遍は護符を越え、一歩進んだ。足首までが、柔らかな雲に埋 もれた。 22 に立ち上がっていた。遍の後頭部を押し広げているのは龍であ り、龍を包み込んでいるのは遍だった。三千丈の雲も久方の月 も星団も、下方の谷も森も、全てが遍の外側にあり、同時に内 こんなにも満たされるほど、 ―― 側にあった。遍は宇宙とつながる龍そのものだった。遍は幸福 と寂寥に一粒の涙をこぼした。 空っぽだったとは。 次の瞬間、 ―― いや、それは一瞬後などではなく、人という 人が死に絶え、建物という建物が朽ち果てるほどの長い時の後 だったのかもしれない。遍には、ただ肉体の痛みだけが残され ていた。どきどきと打つ脈といっしょに、躯の深部がひどく痛 んだ。これまで意識したこともない躯の部分が、存在を発して いた。遠い宇宙が躯の内にある。足の間から鮮血が流れ出した。 遍の何かが、龍との交感によって押し出されたようだった。血 は遍の白いシュミーズに染み、接した彼の脚をも伝った。 遍と彼がその上に立っている雲も、漆黒の夜空も、その下に 広 が る 暗 い 大 地 も、 遍 の 流 し た 血 に 濡 れ て い く。 黒 に 広 が る、 生身の赤。 遍の口をふさいでいた熱い流体が、ふと唇から退いた。彼の 口元で先の割れた舌が踊り、ちらりと引っ込められた。 く。 目の前で龍は笑みながら、本来の巨体に滑らかに変化してい 遍の頭部の血の最後の一滴が、痛みに吸われて肩の下へ落ち ていき、景色がモノトーンに転じる。すぐ黒一色になる。 満足げな。 空 の 奥 に 龍 の 咆 哮 を、 遠 く 聞 い た。 何 か を 予 言 す る よ う な、 〈夢を現になせ。現でこの龍を呼べ。おまえが現で呼べば、龍 はくびきから抜け出す〉 黒の中に、まだ赤が流れている。闇に一筋、流れている深紅。 全身が脈打ち、遍は掛け布団をはねのけた。そのとたん腹を 抱えた。 芯のほうから鈍く重たく、 厭な痛みがにじんで広がった。 何かが濡れていた。腰をずらすと、真白いシーツの上で血が こすれ、梵字の一つと似ている尖った模様になった。シュミー ズに血は濃く染みていた。夢の中で処女をなくした。 き当たってくるものがあった。夢の中と同じ鮮やかな銀色の魚 御守はベッドの下に落ちていた。拾おうとすると、左腕に突 が、遍の腕を突いていた。遍はその魚がもはや透明ではないこ とに目を見張り、その口先の感触がくすぐったくて笑った。 このうえなく優しく、彼の両手が遍の頬を包んだ。その優し あった。押し付けられた鱗はざらりと尖っていた。赤い目は遠 は っ と 胸 を 突 か れ た。 間 近 で 見 る 魚 の 開 い た 口 の 中 に は 牙 が そ れ か ら、 魚 の 触 感 が 感 じ 取 れ る よ う に な っ て い る こ と に、 さの下で、躯の全ての部分は、今や重たい痛みの巣となり、痛 く冷たく見えた。遍は腕を払いのけた。慌てて護符を探した。 〈我は、与え、奪う〉 みのあまり、急激に感覚をなくしつつあった。 23 龍愛づる姫君 それはベッドの下に粉々の破片となって散り敷いていた。夢 の中で、遍の指が本当に破ってしまったらしい。 見透かされている気がして、耳が熱くなった。 謝ろうとした時、母がここしばらくなかったような、平静な 「どうして?」 「今日は、デパートでお赤飯買ってくるわ」 声で云った。 を袋に入れた。そんなものにすら縋り付きたいほど、急に沸い 「女性の印が来るのは、めでたいことだってされているから」 んど読めないことに気づいた。薄れて、ばらばらになった文字 遍はそれを丁寧にかき集め、その最中に、護符の文字がほと てきた魚への嫌悪感は強かった。夢の中で味わったあまりの深 「そんなの、まさか」 母は何を勘違いしているのだろうと思った。 「あんたはちょっと遅かったけど、遅いほうがいいよ、生理な 淵に遍は圧倒されていた。 ―― あんな宇宙に平気で棲むものは、 きっと冷たい生き物に違いない。自分は幻影を愛していた、と 遍は思った。はっきりと現された魚は、かわいくはない。魚は、 んて、これからずっと何十年もつきあわなきゃいけないんだか しているんだから。お母さんも、がんばらなくちゃね」 「遍には、いろいろ辛い思いさせてるけど、遍はちゃんと成長 肉は笑い方を忘れていた。母は歪んだ口元になった。 遍は、驚いて母を見返した。母は笑おうとしていた。その筋 ら。今日は学校、休む?」 きもち悪い。 遍は御札をゆっくりと首に掛けた。擦り付けられていた魚の 冷たい肌の触感が消えた。しかし、触れられなくなっても、魚 は透明にはならず、まだ銀色をしている。 汚れた下着を洗面台で洗っていると、黒い服が目の端で揺れた。 とりかえしのつかない何かが変わってしまった思いで、遍が 体育を見学して、あいつは今日生理だと男子に指差されるぐら 立っていると下腹部から太股までが痛んだ。今日は体育もある。 遍 は 学 校 を 休 ん だ。 躯 全 体 が 泥 を 詰 め 込 ま れ た よ う に 重 く、 「来たのね」 母が覗き込んでいた。 「お母さん」 いなら、学校ごと休む。 「お母さんには見えるの、この魚?」 「何?」 「ねえ、お母さん」 台所で、二人で久しぶりにプリンを作った。 「こんな時にね、あんたは」 喪の黒に頑なに身を固めている母は、水に流れる赤を隠しき れずにとまどっている娘をじっと見た。 遍は、弟が死んでもまだ生き続け、龍の夢を見てしまう自分 を、非難されていると感じた。喪の黒に広がる赤。夢の内容を 24 「魚ですって」 「やっぱり見えないのか……」 「魚? 大変だわ」 れとも祖母づてで伝わったのか。新しい護符が届いた。 護符がだめになった、と、母が龍王堂に連絡したらしい。そ 母はその時、また元のぼんやりした母に戻っていた。抗欝剤 を無造作に投げ出して、黙って部屋から出ていった。 が効いている母は、物事にあまり構わなくなる。遍の机に封筒 遍は龍王堂からの、何重にもくるまれた分厚い紙や布を剥い 書いた。 新しい護符は、一見して、行数が多いと感じた。護符を検分 する遍の視界を、魚が邪魔するように横切る。 はならない。 さっさと水に流して捨ててしまえ。母親はまた元に戻っ ―― てしまったし、いったいどうして、こちら側の世界にいなくて 自分がそう思ったのか、魚にそう囁かれたのか、遍にはわか らなかった。 この新たな護符は、強い呪句だ。姫の身を損なう。姫は ―― 龍の鱗を持ち、既に一部が龍であるのだから。その文字を身に 遍は二枚の御札を並べた机に両肘をつき、頬を包んで考えた。 つければ、姫の肉体を犠牲にすることになる。 今、遍は、誰にも気づかれずに、この護符を捨ててしまえる。 でいき、ようやく緑青色の薄い紙片にたどり着いた。護符に対 面すると、自分の一部を無理やりに忘れさせられるような、変 遍は長い間、考えた。どうして、ここで生きるんだろう。こ 人だ。宇暁には隙がある。遍が護符を、好きにできる。 いる。しかし親は遍に関心がなく、護符を受け取ったのは遍本 龍王堂の男はうかつにも、母親が遍に護符を与えると思って な気がした。 同封されていた手紙は、時間をかけて判読した。おとな向け の文章なので、よくわからないことばもあった。 本来は直参すべきところだが、土地の抗争が発生してい ―― て、 手 が 開 か な い。 龍 に 魅 入 ら れ た 娘 さ ん を、 よ く 監 視 し て、 ちら側にいなくてはいけないんだろう。あちら側に行けば、きっ 一刻も早く、必ずこの護符を持つようにさせてほしい。龍と娘 祖母のことばが浮んだ。 と新しい生活が待っている。 た こ と で、 予 測 で き な か っ た と は い え、 こ ち ら の 失 態 で あ る。 さんの結びつきがこれほど強いとは、このところかつてなかっ 龍王堂の総力を挙げて、より強力な護符を作り直した。古い護 力で、大嫌いになってしまった父を殺せるだろう。そのままあ することをせん、というのも大事なんや。 ―― 遍は、護符を捨てることができる。そして龍を呼べば、その 符は、書留で送り返してほしい。龍王堂、宇暁。 うぎょう。遍はあの男の名を知った。あの大きな手がこれを 25 龍愛づる姫君 ちら側へついて行って、戻ってこなくていい。きっと、できる。 遍 は 苦 し げ に の た 打 ち 回 る 鰭 の 横 で、 新 し い 御 札 を 祖 母 が そのとたん、魚の姿はかき消えた。 縫ってくれた袋に納め、首に掛けた。 遍の躯の奥にあった何かの感覚も消え、遍の肩は、重荷を載 でも、しないことも、できる。 祖母に、また遊びに行く、と約束したことを思い出した。 せられたように重くなった。 祖 母 が ど ん な に 遍 を 待 っ て い る か を 遍 は 考 え た。 そ れ か ら、 祖父が約束を求めもせずに、黙って待っていることを考えた。 護符を持つことは、龍を捨てることになる。誰が悪か、と遍 は 考 え た。 龍 が 悪 だ と し た ら、 龍 の 元 へ 赴 こ う と す る 自 分 は、 そうさせまいとしてきた先祖や龍王堂からすれば悪だ。龍を捨 てるのは、龍からすれば悪だ。 だからあの二人が悪だ。弟が死んだのは遍のせいで、遍を育て 遍が龍の所へ行きたいのは、両親が遍をかえりみないからで、 たのはその両親、諍いする母を産み育てたのは祖父母。祖父母 が悪の権化だ。そして、遍を一番に愛してくれているのは祖父 母だ。悪の元締に愛される遍。 どうしようもない、と遍は思った。今すぐ、この世からいな くなって、祖父母を悲しませるわけにはいかない。悪い自分は、 ここで、悪い人間のまま生き続けるしかない。生き続けて、い つかこの悪から自由になりたい。 母 と 父 の 間 に あ っ た 愛 は、 今、 お 互 い を 苦 し め 合 っ て い る。 祖 父 母 と 自 分 の 間 に あ る 愛 は、 ま だ そ う は な ら な い。 け し て、 そうならない愛だけが欲しい。誰かの温かい手を握りたい。 新しい護符に触れると、魚が暴れ始めた。 26 てがみ。書状。文字を書くこと。筆跡。 4 書簡 龍王堂様 飲んでしまってもいいですか。 おふだをいつも持っていると、からかわれます。このおふだ、 ないので。母はまだ薬をずっと飲んでいます。そのかわり、畑 の合間をみて祖母がうちへ来てくれました。盆地に行って、龍 の剣を探したかったんだけど。龍の剣の物語を聞きました。祖 先 が 緑 椀 盆 地 の 龍 の 尾 を 割 い て、 そ こ か ら 剣 を 取 り 出 し た ん てしまっているらしいです。その剣があったら、おふだがなく だって? でも今は、その剣が、どこにあるのかわからなくなっ ても、龍と戦えるんじゃないかと思うんだけど。 古いおふだ、同封します。 新しいおふだは、残念だけど、首にかけて、持っていること にします。 たしには、原因がわかりません。だから、自分が悪いといわれ クラスの皆の気にさわることを、してしまったみたいです。わ 吉谷遍 吉谷遍様 二学期が始まって、わたしは、いじめにあっています。何か、 絶対に、飲んではいけません。また、必ず持っていてください。 ると、まっくらです。わたしが電気をつけて、ごはんを作りま 父は、単身赴任で、遠くに行ってしまいました。学校から帰 ても、自分を、直しようがありません。 きました。新しい御札を同封します。家の人にお願いして、古 す。まだ、うまくできません。祖母が作ってくれた、いんげん この夏は、いらっしゃらないそうですね。おばあさんから聞 さい。よろしくお願いします。このところは、いかがお過ごし い御札を元の布でよくくるみ、書留で送り返すようにしてくだ なら 吉谷遍 盆地がなつかしいです。今はどんなふうなんだろう。さよう ものになりました。 のごまあえを作ったら、ぐちゃぐちゃになって、ぜんぜん違う 宇暁 ですか。 宇暁様 残念だけど、今年の夏は、祖父母の家へ、遊びに行けません でした。母が行きたがらなくて、母を一人で家に残してはいけ 27 龍愛づる姫君 お体にお気をつけて。気をお強くお持ちください。 吉谷遍様 たんでしょ? たんでしょう? 黄金も。 だからうちは昔、すごいお金持ちだっ 友だちだと思っていたし、わたしのことを、好きだという男の 話変わって学校のこと。みんな、ふしぎです。少し前までは、 子もいました。それなのに、みんな、手のひらを返したみたい と、 深 い 山 に 入 り ま す。 川 は、 山 の あ ち こ ち を 流 れ て い ま す。 こちらは、秋が深まりつつあります。堂の裏手を登っていく 岩の隙間で、落ち葉の間で、湧き出し、流れ落ち、苔を湿して に、そろって、わたしのことを、きもち悪い、といいます。わ 誘惑は一時のものであり、その一時の感情に従ってはなりま どうぞお気を強くお持ちください。 吉谷遍様 吉谷遍 さようなら とか。 いけど、別の場所に行きたいと思います。山の中とか。雲の上 にたいと思ったことがありますか? わたしは、死にたくはな こんな話、されても困るかもしれないけど、宇暁さんは、死 が、長く感じます。 思います。でも、おふだは、約束どおり、持っています。一日 龍を呼んだら、みんなに仕返しできてしまうんだろうな、と たしにはわかりません。 います。水の中の苔も紅葉するのですよ。 ち葉。 水にはいろいろなものが溶けています。空の色、土の色、落 森を分け入り、ぶなの群落の中で、瞑想します。ぶなの、色 とりどりの葉が散り敷いた上に座ると、美しさのあまり、シン とした不思議なきもちになります。 瞑想したまま夜になり、遠く祭囃子を聞きました。村では祭 をしていました。 お元気で。 追伸 盆地で龍の剣を探したかったということですが、古代 に 龍 の 尾 か ら 出 た 剣 は 持 ち 去 ら れ て、 盆 地 内 に は あ り ま せ ん。 宇暁 龍のために剣を探すのはおやめなさい。 宇暁様 私は妻と子を、交通事故で亡くしています。それは、事故だっ せん。 てっきり龍の剣は、黄金といっしょに、盆地内のどこかに埋 たのか、妻の自殺だったのか、今でもわかりません。私は自分 お返事、ありがとうございました。 められていると思っていました。 うちの先祖が、龍から剣を盗っ 28 も死にたいと思い、死ぬかわりに、山門を叩きました。 今、山の上では、初雪がさらさら積もっています。山の奥の、 人の入らない所は、とても高くて寒いです。風が、息ができな いぐらい強く吹いています。そこに立つと、人間はちっぽけだ 宇暁 と感じます。それでも、山を降りて飲んだ水は、美味かった。 お元気で 宇暁様 心配かけて、すみません。 学校は、ちょっとは、だいじょうぶになりました。わたしと われなんだろうけど。その子たちといっしょに、教室移動した いっしょにいてくれる子たちが、できました。きっと、なかま り、おひるを食べたり、体育で組みます。 おくさんと、お子さんのこと、胸が痛いです。 ます。これがこのパワーアップした御札の力? 前はよく見たのに、龍の夢を、最近、まるで見なくなってい 龍の剣のこと、まだ探しています。だいぶ調べました。実は わたしが住んでいる町にありますね。熱田神宮の剣がそれです か。でも、もしそれがそうでも、とうてい盗れなさそう。熱田 神宮の草薙剣は、七世紀に一度、盗まれたことがあるんですね。 犯人が逃げる途中で掴まって、無事に戻されたんだって。盗ま れた時に使われた門は、今開かずの門にしているって。いった いどうやって盗んだんだろう。本当にちゃんと戻されたのかな。 さようなら 吉谷遍 吉谷遍様 つくつくぼうしが鳴くと、夏は終わりに近づきます。その声 さえ聞こえなくなると、本当に夏が終わります。新しい御札を 送ります。古い御札を送り返してください。 追伸 名古屋の熱田神宮から盗まれた剣は、ヤマタノオロチ 宇暁 の尾から出た天叢雲剣、またの名を草薙剣ですね。 宇暁様 御札、受け取りました。古い御札を同封します。 わたしは、中学で、部活に入りました。友だちになった子に、 すすめられたので、入りました。合唱部です。練習がけっこう 厳しくて、合宿もあります。母は、資格をとる勉強を始めてい て、二人とも忙しいです。祖父母は、さみしくなった、と嘆い ています。でも、友情がかかっていますので。 盆 地 が ど ん な よ う す か、 想 像 し て い ま す。 行 か な い け れ ど、 緑椀盆地を思っています。 もしかして宇暁さんは、緑椀の龍の剣がどこにあるか、答を 知っている? 29 龍愛づる姫君 私が十四歳ということは、弟が死んで三年になります。世間 た。お墓に行くと、あの子が死んでしまったことを認めるよう が一度も墓参りに行っていないことに、ようやく気がつきまし 吉谷遍 吉谷遍様 ではいろいろと行事があるらしいこと、けれどこの三年間、母 今朝の緑椀は、しっとりした霧に包まれています。今、朝の で、いやなのかもしれません。 忘れるには、どれぐらい時間がかかるでしょう? 四時です。朝日が射すと、とたんに霧は晴れてしまいます。盆 地に住んではいても、この霧を見ている人間は、多くないでしょ いつまでも、忘れちゃいけないのかな? 神 秘 的 な さ ざ な み を 立 て て い ま し た。 こ の 風 が 吹 く と 秋 で す。 知 ら れ て い な い 湖 が あ り、 そ の 存 在 を う ま く 隠 す 尾 根 の間 で、 日目でした。本当に、死ぬかと思うくらい痛かった。どうして、 くれました。聞きたくないかもしれないけど、じつは、生理一 なりました。通りかかったおばさんが、日陰のベンチに運んで この前、外で、気分が悪くなって、しゃがみこんで動けなく う。 湖はぶなの森に囲まれていて、ところどころに突き立った倒木 痛いこととか、苦しいこととか、死ぬこととか、あるんだろう? 山の奥から、そろそろ紅葉が始まっています。山中に、人に が、不思議な形の影を落としています。私は、そこに何かを読 と思いました。行彦が、自分を思い出してよって言ったのか 目の前で、自分の手首を切ったそうです。大事には至らなかっ 痛いことといえば、わたしのいとこのお母さんが、いとこの な。あの子が生きていたら、幼稚園なんだと気づきました。 み解けそうに思うのですが、なかなか、神秘は明らかにされま せん。この湖も、川の源泉の一つです。 また一年が過ぎました。新しい御札を送ります。古い御札を 送り返してください。 うだ、という話が伝わってきました。二人とも、あの夏に会っ たようです。一年たって、ようやく、そういうことがあったそ て埋められているでしょう。埋められたものは、時代によって、 追伸 お尋ねの、持ち去られた剣は、どこかで、国の柱とし あいかわらず、部活の毎日です。予選通過してしまったので、 んは、どうしてそんなことをしたんだろう? 人間が謎です。 い年のいとこの男の子は、どんなきもちだったろう? 叔母さ しょっちゅう会っている子も、世間にはいるみたいだけど。同 た き り で、 よ く 知 ら な い ん だ け ど、 気 に な り ま す。 い と こ と 宇暁 埋め直されることもあります。 宇暁様 御札、これで四枚目かな? 同封します。 30 大会に向けて、練習は、秋になっても、まだまだ続きます。 緑椀は、どうなっていますか。今も、とってもきれいなんだ ろうなあ。 そうだ。もしかして龍の剣を売って、大古屋家は、ばくだい 遍 な黄金を得たの? 吉谷遍様 宇暁様 今年の夏は、きっと行けると思います。そのつもりです。 中三で、受験生ですけど、夏期講習ばっかりなんて、そんな の、夏休みじゃないですよね。 風がきもちよかったこと、思い出しています。 ふと見ると、左手の傷痕、薄れています。 遍 吉谷遍様 忘れられないということは、まだ忘れなくてもよいのでしょ う。逆に、忘れたということは、忘れてもよいのでしょう。私 傷痕が薄れたのは、御札の力と時の力が、よい方向に作用し 宇暁 緑椀の南東より 新しい御札を送ります。古い御札を送り返してください。 た結果です。 はそう考えています。 龍王堂が建っている土地を返すよう、求めてきています。この こ ち ら で は、 あ な た の 叔 父 さ ん が、 大 古 屋 家 の 長 男 と し て、 森を過去に寄進したのは間違いだった、と。 森の水源地を切り拓いて工場を建てたいのでしょう。きれい 宇暁様 な水を使う産業が計画されているようです。しかし、こちらと しても三百年の歴史は築いてきた土地ですから、権利はありま 昨日のお水は、おいしかったです。ありがとうございました。 しかったです。いろいろ話せて、よかったです。ありがとうご 金色の田が、きれいでした。くんでいただいたお水も、おい 行けそうだったから。 自 分 で 持 っ て 行 き た か っ た か ら、 ご め ん な さ い。 秋 の 連 休 に、 御札が、ぜんぜん送り返されてこないと思っていたでしょう。 す。 の 売 買 が あ っ た か ど う か は、 龍 王 堂 が 来 る 前 の こ と で す の で、 ところで、豪族であった大古屋家と大和のミコトの間に、剣 お家の方にお尋ねください。 秋の谷風吹き上がる中 宇暁 31 龍愛づる姫君 ざいました。宇暁さんが、わたしのお父さんだったらよかった のに。 高校受験の勉強が、また始まりました。勉強勉強、勉強ばっ かり で す。 わたしは、髪を長く伸ばし始めました。 吉谷遍 吉谷遍様 緑椀の南端の堂から、朝から夜まで、太陽の運行を眺めてい ます。太陽が沈むと、星々が輝きます。川は背後の山腹から流 れ出し、椀の底を流れ過ぎています。 あなたと飲んだ水は美味かった。 どうぞ健やかに。 宇暁 5 椀 汁・飯などを盛る木製の食器。椀に盛った飲食物を数える語。 声符はエンで、人が座して、ひざのまるくゆたかな形。そのまるくふ くよかな形状の器を椀・碗という。 川に落ちたあの夏から、四回の夏休みが、学校の定める補助 授業や部活動などで、都市で慌しく消えていった。 しかし十六歳の夏休みが始まると、遍はひとりで田舎にやら れた。 父が単身赴任から帰ってくる。 ―― 両親は二人きりでぞんぶ ん に 話 し 合 い、 離 婚 す る か ど う か を 最 終 的 に 決 め る つ も り だ。 四年前、弟の死から顕在化した不仲は、ついに最終局面を迎え ていた。 自 ―― 分が何でもできるような気がしていても、現実は違う。成長し 遍は着替えを詰めた大きな鞄を持ち、田舎に赴いた。 ていても、両親にとって、遍はあくまでもこどもだ。おとなの 問題にこどもは口を出させてもらえなくて、たとえ口を挟んだ としても、人のきもちは動かせないことがある。戻る時、誰が マンションの部屋で待っているかは、わからない。 電車は都会を離れてひた走り、巨大な柱が二本建ち上がって 32 いる建設中の河口堰の横を通り過ぎた。やがて一駅ごとにひな 銀の川が隣を流れ始めた。記憶よりも白い川原、記憶よりも 抱えていたいろいろなものが剥がれ落ちて、透明になって日の 遍は何度も驚きの声をあげ、何度も笑った。そのたびに、胸に の何もかもが透明な光を透かした。風が草の香りに満ちていた。 三人で坂を上った。つづら折を曲がるたび、遍の目に映るも 厚みのあるとうとうとした流水、記憶よりも姿形よく岸を囲む になびいた。遍は坂を駆け上がって振り返った。盆地が両腕の 光に透けた。そのたびに躯は軽くなった。長く艶のある髪が風 び、乗客が少なくなり、濃い緑に包まれていった。 緑。遍はうっとりと川を見つめた。川の水は正真正銘の銀色を 夕 食 の 匂 い の 残 る テ ー ブ ル に、 遍 は 宿 題 を 広 げ た。 数 学 は、 香りがあった。 の味噌汁。どの野菜にも、太陽をたっぷりと浴びた、濃い味と げんのごまあえ、玉子豆腐、えびと野菜の天ぷら、具だくさん 夕食の食卓には、心づくしの手料理がずらりと並んだ。いん しく広がっていた。 遍が変わってしまっても、盆地は何も変わらず、遍の前に美 中に横たわっていた。 している。 遍 は 窓 に 寄 り 掛 か り、 長 く 伸 ば し て い る 髪 に 左 手 で 触 れ た。 がつかなくなっていた。 手のひらの傷痕は、いつしか薄くなって、ほかの箇所と見分け 川 は 変 わ っ て い な い。 し か し 川 を 眺 め る 遍 は、 自 分 自 身 を、 四年前とずいぶん変わってしまったように感じた。 いる。 首に掛けた護符は服の下で、いつものように肌に吸い付いて バスに乗り換え、懐かしい角度から山に囲まれる所で降りた。 りにすっぽりと包み込まれて、遍は、人とはこんなにも温かい ステップから降りると、祖母に抱きしめられた。人のぬくも 「ジイチャンは、これがわかるの?」 読み始めたからだ。遍は首をかしげた。 が取り上げた。ページを繰る祖父の手が止まったのは、中身を らに置き、他の教科から始めた。遍が置いた数学の本を、祖父 まるきり授業についていけなくなっていた。新品同様の本を傍 も の だ っ た か と 驚 嘆 し た。 祖 母 は 遍 よ り 頭 一 つ ぶ ん 背 が 低 く 「よう来たな、よう来てくれた」 なっていた。遍の身長がそれだけ伸びたのだった。 「 あ れ 遍 は そ ん な こ と も 知 ら ん だ か。 ジ イ チ ャ ン は な に し ろ、 食器を拭いていた祖母が、笑い声をたてた。 じゅうで笑うだけで何も云わなかった。祖父の長身はまだ追い 帝大を出て、殺人光線を研究しとったくらいやもの。わからん 祖 父 も 農 作 業 を 休 ん で 迎 え に 来 て い た。 祖 父 は 声 も な く 顔 越せない。 33 龍愛づる姫君 とこがあったら、ジイチャンに教えてもらい。借金の計算はで きんけどなあ」 「戦闘機迎撃用集光照射装置の開発や。今で云えば、レーザー 祖父が修正した。 学校で教えられる知識は、死んで乾ききった花束に思えたが、 それが息を吹き返す場所、コンピュータ。遍は髪をかき上げた。 「コンピュータって、ジイチャンの時代からあったの? 行列 の解き方が、わからなくって」 に電波障害を起こさせ、飛行機を墜落させる、という方法が考 このB29を迎撃するため、強い光を上空に照射し、エンジン 第二次世界大戦中、日本上空にアメリカの爆撃機が飛来した。 にややこころもとなかった。一文字一文字、数字と記号が丁寧 ン先が近づいた。祖父の手はかすかに震えていて、字を記すの らつく蛍光灯の下、特価の赤い数字が透けた広告紙の裏に、ペ いのかと危ぶんだ。おもむろに祖父はボールペンを取った。ち は、ジイチャンは公式を全部忘れてしまっていて、思い出せな 祖父は練習問題に目を通し、時間を費やして考え込んだ。遍 えられた。しかし当時の技術で光束集中装置を動かすためには、 に書き現された。祖父の字は案外と丸っこかった。改行されて、 砲というところかな」 のたびに飛行機の下へ持っていくことは、現実的には不可能だ。 また文字列が並んだ。 数十トン級の発電機が必要だった。そんな巨大な装置を、空襲 この装置を小型化する方法を祖父は研究し、ほぼできあがろう くれた。しまいには、込み入っていたことがあっけないほど明 祖父は怒らずにまたじっくり考え、別の一行を書いて説明して 祖 父 の 問 い か け に、 遍 が 間 違 っ た 答 え を 返 し て し ま っ て も、 器と機密書類を積んで、湾に漕ぎ出した。戦争協力した証であ 終戦の午後、祖父は一そうの漁船を借り、完成間近の秘密兵 快な形に解きほぐされた。 とした頃、終戦をみた。 る 研 究 成 果 を 全 て 海 中 に 沈 め、 以 来、 妻 の 実 家 に 引 き こ も り、 「なんだ、そういうことだったんだ。どうして授業では、こん 遍には、魔法のように思えた。 なふうにやってくれないんだろう。ジイチャン、すごい」 今に至るまで、草深い田舎暮らしをひっそりと貫いている。 「行列式が、ちっともわからない。ジイチャン、行列ってわか 祖父は声をたてずに、口だけで大きく笑った。孫の反応に満 遍は身を乗り出した。 る?」 「今晩はここまで。続きはまた明日」 足げだった。 「行列は、コンピュータの中身なんや。だからとっても大事で、 「ジイチャン、……ありがとう」 祖父は答える。 生活に必要なことなんや」 34 お話をせがんだ。神隠し、そして霧田津比女の頓知話。 蒲団を敷いたら、祖母と並んで寝て、十一の時と同じように、 闇をひらひらと降ってくることばに目をこらした。天井に溜 まっている闇は、 こどもの時に感じたほど、 もはや暗くはなかっ た。 座敷に掛かっている古い武具の話にもなった。それは鉄の槍 だということだった。 「ほら左側が穂先や、見てごらん」 「うーん、そう云われれば、左が尖ってるみたい」 「今度、昼間によく見てごらん。なかなか見事な細工やに」 「もっと、何かお話して」 「何の話が聞きたい?」 祖父の詳しい経歴。祖父と祖母が結婚した経緯。娘時代の祖 母が、女学校の寄宿舎で、お転婆な友達と築いた武勇伝の数々。 結婚、出産、都会の空襲。姉の死と終戦、そして若い二人はこ どもを連れて田舎に戻って母方の家督を相続した。やがて長男 てな。二人きりのきょうだいやのにな、はあ」 祖父母の幸せと不幸の荒波が、現在につながっている。 「でもええわ、こうやって遍だけでも来てくれた」 湿った夜気が畳の上を流れ、遍は隣に健康な寝息を聞いた。 よく晴れた昼過ぎ、遍は川南へ向かった。 坂下の国道には、真新しい歩道橋がついていた。バス停のそ ばのよろず屋は、改装されていた。 踏切とその先の道は、変わらなかった。遍は明るい田圃の中 の一本道を歩き、なんなく川べりに至った。 古い石橋を渡った。橋を渡り始める時、両側は桜並木にこん もりと覆われていた。その枝が切れると、下の川原に白い石と 柔らかな草の輪郭が見え始めた。やがて石の縁を水が嘗めた。 銀の川は、盛り上がり踊り、光を跳ねかし、一本のよく曲が る幹として低みを貫く、土地の大黒柱だ。 の面は夏の陽光にきらめいているだけで、ただ一心に流れ続け、 ていた御守袋が、吹き上がってくる風の中で揺れた。しかし川 遍は慌てて退いた。垂れ下がった長い髪と、服の外にはみ出し 欄 干 の 隙 間 か ら 大 き く 身 を 乗 り 出 し て い た こ と に 気 づ い て、 「遍も何年か前に会うたな、あのおじさん、豊彦おじさんはさ、 遍に関心を寄せるそぶりはなかった。 は出奔した。 お父さんつまりジイチャンと喧嘩して、家を飛び出してな。し の 歳 月 の 間 に、 現 実 の 出 来 事 だ っ た と は 信 じ な く な っ て い た。 遍は、自分が川底で龍と会ったことを、都市で過ごした四年 ばあらく、行方知れずやったんやけど、戻ってきたら利子さん たら奥さん連れてきて、鉄彦産まれて、まあぼちぼち仲直りし た。だけどジイチャンとはやっぱり折り合い悪いし、稼あんた サンタクロースだって、本当にはいない。でも、皆で、い ―― みのり のお母さんな、豊彦と稼は、こどもの頃からそりゃもう仲悪う 35 龍愛づる姫君 かにもそれが存在するかのようにふるまうのだ。 がれ、共有されてきた。共有された幻想は、きっと個人の無意 の幻想を信じる必要があるのかもしれない。祖父は科学を信奉 識、個人の夢にも入り込むのだ。人が世界に関るには、何らか 川底での龍との出会い。あれは臨死体験中に見た夢だっ ―― たと思う。夢は頭の中だけにある、 自分の想像の産物に違いない。 わりない。 する。でもその科学だって、魔法のように不思議なことには変 左手に三枚の鱗を受けたと思ったのは、川の中で岩にぶ ―― つかってできた傷だった。今では、医者が予測したよりも早く でもきらきらしく、陽光を溶かし跳ねかし、水の生命は走り続 そう考えて、十六歳の遍は理性に満ちた目をあげた。どこま 空中を泳いできた魚は、保健室で教えてもらったとおり、 ―― 孤独なこどもの幻覚だった。幻覚を現すのは、幻覚を見る人の 橋をくぐって魚影が動く。一つ見えると、ほかも見える。気 順調に薄くなって、痕はすっかり消えてしまった。 はずだ。それは外部ではなく、内部に起因するものだ。たとえ 羽の小さな鳥が飛び、その軌跡をまた別の鳥が交差する。川は づくと、岩陰に魚の群れは幾つもあった。水面近くを鮮やかな 多くの小さな鼓動を擁していた。見つめる遍の心臓も、川の流 けていた。橋は川の上空をまっすぐに渡っていた。 自分を恐れることがあるとしても、龍という架空の生き物を恐 ンだったとも云えるのかも知れない。祖母から聞いた土地の伝 れと共に打っていた。 れる必要はない。龍自体が、自分のイマジナリー・コンパニオ 承を利用して、自分の頭が作ったのだろう。 乙 女 岩 と 龍 神 淵 は、 湾 曲 し て い く 川 べ り の 向 こ う に 臨 め た。 騒音と振動が暗く唸る高速道路の高架をくぐり、林の縁を歩 り坂になった。 田圃の中の道は、等高線に沿って蛇行しながら、しだいに上 た御札を胸の谷間に提げて、龍王堂に向かっていた。 遍は橋を渡りきり、川南の地面に足を置いた。遍は一年間使っ 川岸の大岩と、赤い筋が稲妻のように入った滑らかな岩壁の淵。 初潮が来た時は、たまたま夢を見たのと重なって、龍に ―― 襲われたと勘違いした。強い護符をもらってから、龍の夢さえ それらは恐ろしさではなく、懐かしさをかき立てるものになっ 見ない。この護符は、呪力なんてないはずだけれど、精神的な ていた。 感による効果だと思う。 安堵をもたらすから効く。護符をつけて魚が消えたのは、安心 夢は現実ではない。夢に苦しめられたとしても、それは ―― 全 部、 自 分 の き も ち の 中 だ け の 問 題 だ。 醒 め れ ば 苦 し く な い。 魔法は、たとえ夢の中で働くことがあっても、現実を侵せない。 ただ、龍の幻想は、この土地で共有されてきた。この美 ―― しい場所で、人の想像力が働く。何百年も一つの幻想が語り継 36 鱗の連なりのように、 石の面はどこまでも並んでいる。 遍はしっ 不揃いな石が斜め上空へ伸び上がっていく。天に向う細かな の方にも聞こえる音を出すのか不思議だった。静寂に再び襲わ み入る。遍はもう一度、鐘を叩いた。こんなに小さな鐘が、奥 た。音が消えた後は静けさが頭上の枝から滴り落ち、石段に沁 薄い音の輪が広がり、波紋がさざなみだって森に吸い込まれ り上げ、小さな鐘を叩くと、風鈴に似た涼やかな音がした。 とりとした木々の影に骨の髄まで浸されながら、細い脚で一段 れないように、続けて再度鳴らした。それは繰り返しその音を いた。道なりに石段が始まった。 ずつを踏みしめていった。川から遠ざかっているのに、川の気 聞 き た か っ た か ら で も あ る。 遍 の 手 元 か ら 生 じ た 音 は 重 な り 配はいっそう濃くなっている。 水が流れる音が近づく。上るにつれ、水音は大きくなる。 ながるようだった。 合って殷々と互いを打ち合い、輪と輪の端を引っ掛けあってつ の筋として溶かし込み、水際に生えた草を揺さぶっていた。奔 現れた木陰の清流は勢いよく白波を立て、樹木や道を黒い影 流に、小さな木の橋が掛かっている。あの川に注ぎ込む支流の もし誰も来てくれなかったら、門の横を通り抜けてよい ―― か、誘惑と戦わなければいけないだろう。 てる堅い足音が突き破った。石段をひとりの男が駆け下りてき 幅広くなる一方で薄くなっていく透明な音の輪を、下駄がた 一本だ。 と静かに、落ち葉の中を流れている。さっき渡った沢の、さら 「はい」 「龍の若姫さんですね?」 髪も短い。 あの男ではなかった。装いはそっくり同じだが、もっと若く、 向こう側の桟を外して扉を開けた。 た。着物の裾を慣れたしぐさでさばき、すぐに門に到達すると、 さらに石段を上ると、再びせせらぎが現れた。細くさらさら に上流にあたる。掛け渡された石柱を遍は渡った。 三度小さな沢を横切ると、前方に質素な門が建っていた。桧 皮拭きの屋根が木の柱に支えられていて、柱の間の板戸は閉じ 左右の柱と森の間には広い空間が開いていて、門の横をすり抜 「御札の交換ですね。どうぞ、お入りください」 られていた。しかし、門は道を完全に塞いでいるわけではなく、 けて通ろうと思ったら、簡単にそうできてしまう。門のあちら 「暑かったでしょう、今日はほんとに」 を踏み入れた。 招じ入れられて、遍は高い敷居をまたぎこし、門の内側に足 側にもまた同じような石段が続き、こちら側と同じように覆い 被さる樹木でほの暗かった。 遍はしばらく道の先を見上げてから、門柱にかかっている青 銅の呼び鈴に目を止めた。その脇にぶらさげられた木の棒を取 37 龍愛づる姫君 若 者 は 愛 想 よ く 話 し な が ら 遍 を 伴 い、 山 門 の 内 側 の 石 段 を 上った。 い た 樹 が 不 意 に 途 切 れ、 黒 砂 利 が 敷 き 詰 め ら れ た 広 場 に つ な 少し上ると、道は下りに変わった。周囲をみっしりと塞いで がった。 高床に屋根だけを架けた、壁が全くない建物があった。 壁は森だった。少し高い位置に貼られた板間に上り、円座を 敷いて座ると、四方はしんしんとした緑に囲まれる。 正面の植え込みの向こうに、黒砂利の反射が透けていた。そ の手前で、黒っぽい石組みを濡らして水が溢れていた。この湧 もを浸して、両手に一杯ずつの水を汲むと、濡れた二つの椀を 宇暁は石の縁に伏せてあった木の椀を二つ取り、泉に両方と き水が、参道につかず離れず下る沢になる。 も、何か暗く感じられた。足を置くと、無数の歯で岩をはんで 黒い石ばかりを集め砕いた楕円形の広場は、光を浴びていて いるようにぎりぎり響いた。 その足音が、 山に小さくこだました。 向かいに正座した。遍はつられて居ずまいを正した。 板間に並べて置いた。宇暁は下駄を脱いで床に上がり、遍の真 「どうぞ」 音に呼び出されたかのように、森の中からあの男が出てきた。 広場を囲む森の一端に、また板戸があった。その扉を開け閉め この世界の小さな相似形だった。赤い筋を水が覆い、水面に木 遍は一口飲んで、再度、椀の中を覗き込んだ。それはやはり ような感覚に襲われた。 模様を思い出させた。遍は、川をこの両手のひらに載せている 底に揺れていた。水の中にある赤い筋は、龍神淵の岩石に走る た。覗き込むと、ろくろで削り出された飴色の木目が深い水の 遍の両手の中にある椀は使い古され、細かな疵に覆われてい 運び、水を飲んだ。 垂れるのもかまわず、大きな片手で無造作に椀を掴んで口元へ 宇暁は残されたもう一つを取る。そのまま、着物の表に水が た。 遍が椀の一つを取ると、両手は濡れ、膝に水がぽたぽたと滴っ して、懐かしい姿形が現れ、懐かしい大股の歩き方で近づいて きた。 「ようこそ、いらっしゃいました」 慇懃でも、媚びは微塵もない。 そう声をかけ、男はそれまでの案内者と交替した。ことばは 遍は幅広い胸の上を見上げ、この男がけして近づきやすい人 それなのにどうして、会 ―― いたいと思っていたのだろう。さっきの若い人のほうが、かん 物ではなかったのを思い出した。 じがよかった。 宇暁は、ほつれた髪を顔の両側に垂らし、無骨な手の指先を 「日陰でひといき入れますか」 躯の横で丸めている。杖は持っていなかった。 広 場 か ら 数 歩、 森 に 入 っ た と こ ろ へ い ざ な わ れ た。 そ こ に、 38 水を少し揺らすと、湧き水は周囲の緑を溶かし込み、澄んだ と銀を混ぜた渦巻になるのに見入った。単に椀を回しているだ 遍は椀を静かに揺らして、半分ほど残った水が、エメラルド 込まれていた。長い髪が肩の前に滑り落ちた。 抹茶の色になった。泡もなく溶いた粉もなく、しかし口に含む けなのに、万華鏡のような変化が絶えず、次の瞬間に新たな驚 の枝先と自分の顔が映っていた。 と、透明な抹茶のようにほろりと甘かった。 きがある。二つとして同じ模様は現れない。 「どうして、どんどん変わっていくんだろう。いつまでも」 「この泉は、川の源泉の一つです」 「自然とは、そうしたものです」 川、と云うだけで、それは唯一無二の川を指した。 「水が、甘い」 「きれい」 「いい水です」 「いい水です」 「どうして、こんなにきれいなんだろう」 遍が空になった椀を床に置くと、宇暁はそれを取り上げて腰 を浮かせた。宇暁は地面に降り、両手に再度、水を汲み上げて 「生きているからです」 る遍を座敷に残して、広場を横切り、門の向こうへ消えた。 宇暁は水を飲み干して立ち上がった。椀を抱えて見入ってい 戻った。 んだ。飲むにつれ、時間の流れも緩やかになっていくような心 開いた。古い紙片を取り出して床に置き、新しい護符を取り上 遍は首に提げた御守袋の紐をたぐりよせ、胸の前で袋の口を が入っていた。 幾重にもなった蓋を順番に開けていくと、中には新しい護符 手にしていた。 黒砂利を下駄で鳴らして戻ってきた時には、重そうな木箱を 二人はさらに一杯ずつ、今度はもっとゆっくりと味わって飲 地が遍にはした。 水の粒子が内側から躯に広がり、銀の音を響かせている気が する。 葉はここに座っているこの間に、葉脈一本ぶん膨らんだ。樹 げた。 躯の外側には暑い空気が満ち、刻々と緑が盛り上がっている。 はひび割れ一つぶん伸びて夏の成長を果たしつつ、思うさま緑 四方を囲まれた板の底から、清浄な緑の呼気とは違う、甘い られ、皺を伸ばされ、広くて深い平面にぽつんと入った。 宇暁の手によって、遍が一年間身につけていた御札が、広げ の息を吐いている。その膨れ上がる緑の壁の中で、古い木の柱 に囲まれて、宇暁と遍は向い合って座っていた。二人とも、手 にした木椀に視線を落とした。 椀の中を覗き込むうち、遍はいつしか陶然とした心地に包み 39 龍愛づる姫君 同じ匂いだ。箱の中に、もうひとりの自分がいる、と遍は感じ ような匂いが立ち昇った。よく知っている匂い、自分の布団と 宇暁は鏡として前に立ちはだかり、同時に門として遍を通す。 に 映 っ て い る 自 分 の 像 に、 次 々 と 新 た な 自 分 を 発 見 し て い た。 は長い。まだ辿り着かない。凝視は続いた。遍は宇暁の目の中 ない試練のように感じた。 ことばはなく、仕草もなかった。遍はこの状態を、思いがけ た。この一年間の自分が一枚の紙片となって分離し、そこに存 在している。 過去を預けてしまっているような、 変な気がした。 自分が時々 に 太 く な り、 や が て 二 人 の 躯 を 結 び つ け 始 め る。 す っ ぽ り と、 二人の目の間に綱が編まれ、時間の経過によってそれが次第 二人だけの別の空間に落ち込んでいく気がした。 に、勝手な夢想を抱いて手のひらに固く握り締めたり、胸で押 しつぶしたりしていた物が、今や親指ほどの厚い板に囲まれ保 宇暁は動こうとせず、遍の口は乾いた。宇暁の目は強い明る 管されている、という眺めが、遍の腰を落ち着かなくさせた。 箱を持っているのは、宇暁の大きな手だ。遍の頬から耳にか さと暗さが入り交じり、初めて会った時と同じように冷ややか で、ただ正面を動かない。 ―― 自分から目をそらせばいいのだ ろうが、今、目の前に広がるその人ひとりぶんの宇宙を、まだ けて、強く朱が差した。うつむいた顔を、宇暁に見られている。 かった。だから遍は平気なそぶりで顎を上げた。そこに陥穽が 見ていたいと遍は思った。これを欲望と云うのなら、それは目 自分が恥ずかしがっていることを知られることも恥ずかし あった。 さで、その目は遍の前にあり、遍を見ていた。たちまちに遍は 枝は垂れ下がり、葉は茂り重なり合い、空間を埋め尽くす。め 枝 を 伸 ば し、 遍 の 躯 を 覆 っ て い た。 こ れ が 欲 望 な の だ ろ う か。 が合った瞬間に芽吹き、見つめ合ううちにみるみる幹を立てて 裸に剥かれ、心を露出して、人の目の宇宙に吸い込まれていた。 間の先に何があるのか、怖れがふと湧いた。 りめりと空間を埋め、夏の大気を押し伸ばした。このような時 目を上げた先に、男の目があった。初めて会った時と同じ強 ある。宇暁は目をそらさず、遍も目をそらさなかった。 どこまでも深く、遠く、ほんのすぐ前にあるのに永遠の距離が ぱしゃん、と鋭い音を立て、水が泉で跳ねた。 宇暁の顔は一瞬で緊張し、その視線は泉に向かった。 視 線 が 真 正 面 か ら 重 な り 合 っ て、 無 限 遠 の 合 わ せ 鏡 に な る。 自分が感じているものを宇暁も感じているのだろうかと、遍は 視線を外されて、遍はひっそりと息をついた。 ていた。水はさっきの一瞬、高まり盛り上がった。今、木漏れ 何ごともなかった。湧き水は石組みの間で、溢れこぼれ続け 吸い込まれながらいぶかった。 落ちていくのか自分が吹き寄せていくのか、その風が返 ―― すまで相手に向かって進んでいく鏡面の広さ、渡っていく時間 40 午後の影が水の下側を彩り、 共に踊っていた。 何ごともなかった。 日を浴びた水は、元の穏やかな膨らみに落ち着いていた。夏の 宇暁は、もう遍の目を見なかった。宇暁の視線は泉水から木 箱へ移った。 かしここに書かれている字は、英語を習った後でも、まだ読め なかった。 「このことばの、意味がわかりません」 「そのことばの作用は、龍があなたに寄せる気の流れを、吸着 するようにしています」 暁に、遍はとまどった。遍が混乱の中で黙っていると、宇暁は 科学では解けないことを、平然と自明のことのように云う宇 わずにはいられなかった。 追いたくなった。 静かに箱を閉じようとした。遍は、自分の過去一年のゆくえを 眺めに映った。遍はつとめて平静を装った声で云った。何か云 遍も箱の中を見た。ぽつんとある御札は、遍の目には寂しい 「この御札は、一枚きりで、こんな大きな箱に入っている」 ど。じゃあ、それを、どうするんですか?」 「密教には御札を燃やす行事があるって、テレビで見たんだけ 「いいえ。この御札は、焚き上げません」 宇暁はためらった。それから、否定した。 「あとで、それ一つだけで、焼くんですか?」 「人は本来、天涯孤独です」 「あとで、ほかのたくさんの御札といっしょにするの?」 「いいえ。この御札は我が堂にとって特別なものですから、一 つだけ分けておきます」 遍はとっさに反発していた。 「特別だなんてそんなのは、変」 ないのだから。あなたは、龍に身を捧げた大古屋霧田津比女の 錯覚にすぎない。人は自分自身であり、ほかの誰とも同じでは 「 な ら ば、 個 性 と 云 え ば よ い か。 …… 皆 が 平 等 だ と い う の は、 浄化された炎の塊です。 『影』は持たず、力はあります。雷電 ればいけないのは、不浄のものです。しかしこれはこのままで、 強大な力を持っている。焚き上げることはしません。焚かなけ 枚に、龍の一年分の精気が溜められていると云えます。これは 「この御札は、龍の精気を集め、封じ込めたものです。この一 宇暁は考えてから、答えた。 八十八番目の娘で、あなたの個性はその血に由来し、あなた自 宇暁は静かにことばを連ねた。 身で、新たな一回きりの個性を作りつつある。あなたが今、手 が眠っているとも云えます。これを焚く必要はありません」 「この堂で、我々は、これを人の役に立てます」 「つまり、ずっと取っておくということ?」 にしているのは、道筋を惑わないようにする護符です」 遍は手の中の真新しい御札を見た。祖父が広告紙の裏に書く 不思議な記号の意味は、ずいぶんとわかるようになったが、し 41 龍愛づる姫君 そう簡単に答え、宇暁は箱の蓋を閉めてしまった。 なめにあわされるんだろう」 きだと思います。我々は龍の気を集め、たわめ、利用する。し 「二度と会わなければいいのです。人の側からだけ、考えるべ かし、角を結ばれることも、胴を締められることも、尾を割か 遍は、宇暁のしていることをもっと知りたいと思った。 「どんなふうにして? あの門の中でやっているんですね? は気づいた。宇暁の視線は、見上げる遍の視線とは交わらず離 宇暁が顎を上げた。顎にまばらな無精鬚が生えているのに遍 深い」 れることも、龍にとっては束縛と恥辱でしかない。龍神は執念 見に行ってもいいですか?」 遍は広場の向こう側を遮る板戸へ目を向けた。 「あの門の向こうは、女人禁制です」 宇暁は、すまながるそぶりも優越感もなく、事実を告げた。 れて、再び泉に注がれた。 遍は髪を肩の後ろへ払った。 「ずるい。……そうやって、隠してきたんだ。龍王堂は向こう 「龍に流れている時間は、人間に流れている時間とは違う。こ はるかに辛抱強く、待つことが苦にならない生き物だ」 ちらが押さえ込めたと安心した頃、龍は再び台頭する。人より 側で、何か秘密のことをしているんだ」 宇暁は箱に両手を置き、説明する。 「 あ の 中 に は、 我 々 の 寝 起 き す る 場 と、 修 行 の 場 が あ り ま す。 遍 も、 顔 に 髪 に、 緑 の 風 を 受 け た。 濃 密 な 生 が 匂 っ て い た。 宇暁が目を細めた。 森の幾千枚もの葉を順に揺らしてきた、甘い風だ。遍の艶のあ 我々は、力を求めています。力を求めるのは、男のすることで 男には、人工的な子宮が必要です。あなたたち女が直観で到達 る長い髪が、ふわりと風に広がった。 「龍神は、執念深い」 するところに、我々男は修行して到達する。地を一歩ずつ歩く 「この風、水みたいな味がする」 す。女性はもともと、力を内に秘めている、丹田の奥に。弱い んな説明で、納得していただけるか?」 どんなに年を重ねても、宇暁と自分の間にある歳の差が ―― 縮まっていくことはない。親からこども扱いされるのと同じよ 風はまだ、四方のあちこちの枝を揺らしていた。 宇 暁 は し ば ら く、 建 物 を 囲 む 梢 に 視 線 を さ ま よ わ せ て い た。 「森の風です。森が川を育てる」 者たちの場所に、羽で飛べる者に入ってきて欲しくはない。こ 宇暁は、やや自嘲ぎみに微笑んだ。 遍は、まだ不満だった。宇暁につられて、超自然的なことを 「 向 こ う 側 で、 龍 が 怒 る こ と を し て い る ん だ。 そ の 龍 の 敵 に、 口にしてもかまわない気になった。 わたしは協力している。もし龍と会ったら、わたしは龍にどん 42 向こうへ消えた。遍は建物の端に座り、足をぶらぶらさせて白 云い置いて宇暁は古い御札を納めた木箱を抱え、大股で門の は思った。常に自分より先を生きるおとなの男の目には、自分 うに、自分は宇暁にとってもいつまでもこどもだろうか、と遍 い葉裏を見上げた。その時、ふと思った。 しは強烈だが、地を水のような爽やかさが這っていた。その水 夏季が始まったばかりの暑さは、まだ底が浅い。午後の日射 厚な調和を作り出していた。 緑が織り成す光は、一色からつくられた風景とは思えない、重 加わっていなかった。緑の畦道を蛙が跳ねていった。幾層もの 若い稲田には真緑の葉ばかりが立ち並び、そこに穂の曲線は 路肩の左右をそれぞれに踏んで下っていく。 待 し た こ と も な か っ た。 細 い 幅 の 田 舎 道 を、 歩 調 を 合 わ せ て、 足感を味わった。おとなと、男と、何か分かちあえるなど、期 高さを違えて同じ物を見る。遍は二人で歩くことに不思議な満 並んで歩いた。隣を歩く人と同じ速度で風景は展開し、視線の 二人は並んで山を下った。里に向かって、平らな稲葉の間を 黒い頭巾を被り、杖を持っていた。 遍 は 風 に 乱 さ れ た 髪 を 手 で す い た。 再 び 戻 っ て き た 宇 暁 は、 もし、自分が十一の時、呼ばれるままあちら側の世界へ ―― 行ってしまっていたら、今日の日は来なかった。 とは違うものが見えているだろうか。何が見えているのか、遍 は知りたかった。 「油断しないように。龍はずるがしこい生き物です。龍は近づ 宇暁が遍を向いた。 いたら、姫に取引を持ちかけるでしょう。何でも願いを叶える 思 え て、 い つ も 龍 に 有 利 に 働 き ま す。 龍 を 手 玉 に 取 っ た 姫 は、 代わりに、何かをよこせと要求する。その取引は対等のように 古代の話です。護符をけして離さないように」 けれど、宇暁が親切そうに提供するこの御札は、自分の ―― 身 を 損 な う も の だ、 と 遍 は 知 っ て い る。 い つ か こ れ を 手 放 し、 自分の力を試してみたい、と遍は思った。そうすれば、宇暁も 自分を認めてくれるだろうか。今だって、なすすべもなく川に 落ちた十一歳の自分とは、もうまるで違うはずだ。 にある使い古した御守袋が、色褪せ歪んでいることに気がつき、 しかし宇暁が見守る前で、遍は素直に護符を畳んだ。手の中 また恥ずかしくなった。急いで御守袋に護符を入れ、服の内側 「水をもう一杯、いかがですか?」 に落とし込んだ。 は、龍の血管が縦横に走っている。その恩恵を受けて稲が実り、 めいた薄い風の流れを、龍の気脈だと宇暁は教えた。この地に 「それでは、橋の向こうまで、お送りしましょう。支度をして 香り立つ茶の葉が茂る。気を一番に溶かし込むのは水で、その 遍は首を横に振った。体内は森と水の気で、既に満杯だった。 まいりますので、しばらくお待ち下さい」 43 龍愛づる姫君 水を通じて人間の体内にも龍の気が入ってくる。 高速道路の高架は、無言でくぐった。幾千もの怪物が軋みを 立ててうごめいているような騒音の下では、何を云っても自分 にすら聞こえない。高架を過ぎると勾配は緩やかになり、なだ らかに川岸に続いた。 車一台がようやく通れる橋を、二人で並んで渡った。橋を渡 る間も、現実の水は二人を襲わなかった。川は、ただひたすら に流れ続けていた。水面からとんぼが飛翔した。鳥が川岸の薮 で鳴き立てた。 物質と夢は、どのように結びついているのだろう。人が ―― 何百年も思い続けると、人は『神』や『影』を、実在させてし まうことができるのだろうか。それともそれはどこか別の世界 に棲んでいて、こちら側へ訪れるものか。 ほかはどうであれ、今ここに龍がいる証があると思った。 きもちのよい風を感じるだけで、答は充分のようにも思った。 理詰めで魔法の理由は探せる。現状を解釈できる。しか ―― し、今起きているこの現象を感じている自分の感覚。 これは割っ 普通の酸に侵されず、王水に溶ける。立派な、固い、美しい、貴重な、 ある金属。重く柔らかで、延性および展性に富み、空気中で錆びず、 の砂中に単体として産し、銅鉱・鉛鉱などにも含まれる。黄色の光輝 元素の一。元素記号 原子番号 。原子量 。石英鉱脈の中または川 金・銀・銅などの金属の総称。かね。また、金属で作った器具。金属 6 金 などの意を表すことば。お金。貨幣。 字形は銅塊を鋳込んだ形。古代の金とは青銅のことであり、また赤金 ともいう。 観で。自分には龍はいる。宇暁にも龍はいる。けれど龍を現せ ていて、表面に文様がくまなく彫り刻まれ、下部は長年の苔に 御盆には、庭の亀石にろうそくを立てた。全体が亀の形をし 大古屋では云い伝えられてきた。だから、自分たちの先祖を祀 ない人にとって、龍はいない。幻想は、どこまで共有できるの 考え込む間に、遍たちは橋を渡りきった。 るのとは別に、地を這う名を知らぬ霊たちの供養のため、盂蘭 しっとりと覆われた石だ。亀石には名のない死者が集まる、と を一緒に見た。 台風が来たら、祖父母の真剣さにつられてテレビの気象情報 を出したのかとびくりとした。 夜は祖父と数学の勉強をした。電話が鳴ると、親が離婚に結論 夏は続いた。遍は祖父母の農作業を手伝い、祖母と料理をし、 197.0 だろう。そしてたとえ共有したとしても、宇暁は龍の敵だ。 ても割り切れなくて、きっと一番それをよく推し量れるのは直 79 それでは、と、簡単なことばで宇暁は川南へ引き返した。 44 Au 盆には亀石にもろうそくを立てる。 近隣の人々はみな、村の共同墓地に墓を持っている。 しかし大古屋は、庭の花とほおずきをありたけ切って、川の 上流へ行く。 りもさらに上に上っていくと、蝉時雨の中、思いがけず小さな 旧街道に出て、ワンカップ酒をたくさん載せられた十元岩よ 真白い滝が現れる。その『魂送りの滝』に花を投げ込んで、そ れが先祖と弟の墓参りだった。 ままなのか。 赤ん坊をみすみす死なせてしまったのは、自分のせいだ、と いう思いが、再び遍に沸いた。それは久しぶりの苦い思いだっ た。夏の日々のきらめきの中で、弟のことを忘れそうになって いたことに、ひどく後ろめたさを感じた。同じ場にいた自分に は何かができたはずだ、という自責の念がよみがえった。 しかし流れていく水の向きは、いつも一方向に決まっている。 どんなに後で思っても、過ぎた時間は戻せない。 がさりと滝の向こう側の薮が動いて、日焼けした老人の顔が 突き出した。 ここに弟の行彦を納骨したわけではない。今の法律でそれは 許されない。しかし、ここに魂送りをしたので、ここに先祖た 「大古屋さん、この場所は、今はあんたのもんやない。役所の 薮が動いて、何人もの男が顔を現した。皆、一様に似たような そう口を開いた老人のまわりで、がさ、がさ、とまた周囲の の田圃の上流やで、水汚れたら田圃が汚れる」 もんや。ここで何かしたら法律違反やで。困るわ、うちとこら ちと共にいることになっている。 い 透 明 さ を た た え て い た。 水 の 勢 い に は 牙 の よ う な 力 が あ る。 滝壷は木々に囲まれ、緑色のガラスが流体になったような深 岩をうがった窪みはいかにも深そうだった。 飛瀑は空気と混じって白濁し、水蒸気をあたりに漂わせてい 顔つきの、皺の奥まで日焼けした人々だった。 祖母は威勢よくことばを返した。 「はいはい、もう去ぬところですわな。自治会の偉いさんたち どでもないが流量の豊かな流身は、ずっと見ていると、落ちる て、座っていると服も髪もしっとり濡れてきた。落差はそれほ というよりも、天に昇ろうとしてうごめいているように見えた。 自分らから進んで水守用心とは、全くもって、ご苦労さまでご が、揃って、何ですかな、見まわりですかな、そらお疲れ様な、 常に動いている水を見ていると、四年前の夏に、赤ん坊が静 ざいますわ、水を護る龍の古姫に意見しようなんざ、時代もえ 一方で、滝壷に投げ込んだ花は、いっこうに浮んでこなかった。 止していたその姿が遍の脳裏によみがえった。それがひどく不 今の世の中ですからなあ」 ら い 変 わ っ た も ん や。 か び 臭 い 迷 信 な ん て も う 古 い、 現 代 の、 なぜ、人間はああして、ぴたりと動かなくなって、その ―― 自然で、あり得ないはずの光景に思えた。 45 龍愛づる姫君 丁寧さに隠れて揶揄しながら、祖母は遍を引き寄せて立ち上 がり、しゃべりながら人々に背を向けて歩き出した。祖母の腕 の力は思いのほか強かった。肩の高さにある祖母の顔を見下ろ して、バアチャンは緊張している、と遍は思い、ふと背後を振 り返った。 二人を見送る村人たちのほうが、祖母よりももっと緊張した とこでは使うて、はったり利かせとるくせに」 叱られて叔父は気持ちよさそうに笑った。 叔父は台所のテーブルにつき、お金の話を始めた。 ―― 今度 の選挙戦で、またお金がいる。再選して議員になったら、いろ んな情報をいちはやく知ることができる。絶対に損はしない方 法で、お金を増やして、返すことができる。だから。 祖母が返す。 ―― うちには農協さんに借金があるの知っとる やろ、貸すお金なんかないで。 顔をして、それぞれの手にぎらりと光る鎌を握り締めていた。 午後、車のタイヤが砂利を踏む音がした。 とでもええ、 へそくりでもなんかないんか、わしに預けてみんか。 違う違う、お金を借りに来たんやない、お ―― 金を増やしてやりに来たんや。ええ方法知っとるんや。ちょっ 叔父が笑う。 が止まっていた。ドアが開き、降りてきたのは、ずいぶん太っ 庭に出ると、曲線が光をやけに反射する、見慣れない高級車 た豊彦叔父、四年前とまるで変わらない髪形の利子叔母、ほっ そんなこと云うたかて、ないもんはどっからも出んわな。 ―― そりとしたおとなしそうな色白の青年になったいとこの鉄彦 あるやろ、いくらなんでも、へそくりの十万や二十万。 ―― 熱心にやりとりしている大人たちを置いて、鉄彦が廊下に出 「あれ、まあ、珍しい」 鉄彦はきれいになってしまっている遍の手をすぐに離し、口 きれいに癒えている。 りとしていた。遍の左手のひらの、かつての傷は、痕も残さず 鉄彦は遍の左手を取った。鉄彦の手は真夏のさなかにもひや 「カインの印?」 「遍。カインの印は、もう消えた?」 廊下の半ばで、くるりと鉄彦が振り返った。 た。遍はふとその後を追った。 だった。 割烹着姿の祖母は、庭石を二つ踏んで立ち止まった。 「忙しいけど来たったんや。町会議員さんが、わざわざ、こん な村八分の嫌われ者の家へ、お忍びで」 お金のかかっていそうな、派手な身なりの豊彦叔父がいばっ た。 「よう云うわ。そう遠くもない所に住んどりながら、親のこと、 祖母がきっぱりと返した。 ずうっとほったらかしにして。大古屋の名前を都合よう使える 46 合っていた。 二人は南面した奥座敷へ入った。障子は開け放たれ、庭の緑 銀の蛇が絡みついた青い石の十字のペンダントが、厭味なく似 カインの印 ―― 創世記の中の、きょうだい殺しの話だ。弟の アベルを殺したカインは、神に罰されたのではなかった。逆に、 が反射して、鴨居の上の霧田津比女の額も、壁に掛けられた鉄 早に説明した。 誰からも撃たれないように、神から印をつけられて護られた。 「龍金。 仏教説話に、使ってもなくならない金塊を龍からもらっ の槍も、穂先の錆の細かな凹凸が見えるほど明るかった。 イ ン の 息 子 は エ ノ ク、 エ ノ ク は 予 言 者 で 錬 金 術 師 の 祖 で あ り、 そして創世記には、さらに金と水にまつわる続きがある。カ た、 という話があるんだよ。 そこに龍金ということばが出てくる。 「 だ け ど も 呪 符 を 破 っ て、 魚 が 来 た ん だ っ て? 知 っ て る よ。 「呪われた金、だなんて」 る呪われた金」 だ。有名なニーベルンゲンの腕輪の話もその一つ。川にまつわ 西洋でも、龍は黄金や川と結びついて語られることが多いん るかな。 解釈すれば、川で砂金をたくさん見つけた、ということにな くは思うね。 ら、きっと比喩的に、莫大な金、とでもいう意味だろうと、ぼ 使ってもなくならない金、というのは現実にはありえないか ノアの曽祖父。エノクの息子はメトシェラ、メトシェラが死ん 「遍、凡人になったんだ」 だ直後、ノアの大洪水が起きた。 鉄彦は見下すように云った。 「……御札を持ってるから」 答えながら遍は、自分が卑怯者であるような気がした。 遍は本当は、龍王堂のがちがちの奴らなんかより、ずっと高い 「なんで遍がむっとするの?」 鉄彦は首を振り、逆に勇気づけようとしてくれるようだった。 能力がある。もったいないな。自分に気づけよ。魚は、錬金術 えーと金の値段はね、遍、相場の変動はあるけど、だいたい 命令で、目隠しされて重い物を運ばされたとか。 があってね。その作業に村人が従事させられたとかね。庄屋の 大古屋には、畳一畳の金の延べ板があった、という言い伝え 「そうだよね、金は金だよね。 「だって、大古屋を、悪く云われているみたい」 ではこの世の王にして救い主の象徴」 遍がけげんそうに鉄彦を見ると、鉄彦は爽やかな笑顔になっ 「自由研究はもう決まった? 遍もいっしょに、我が家の、郷 た。 土の歴史を勉強してみない?」 成 長 し た い と こ は、 黒 い シ ャ ツ と ベ ス ト を 細 身 に 着 こ な し、 四 年 前 に 会 っ た 存 在 感 の 薄 い こ ど も と は ま る で 別 人 に 見 え た。 47 龍愛づる姫君 一キロで百五十万円だよ」 「一キロって……」 遍 は 砂 糖 袋 を 思 い 浮 か べ た。 あ れ が 一 キ ロ だ。 あ れ が 百五十万円。 祖母は、借金がなかなか返せない、とこぼす。 はよ借金 ―― をきれいに清算して、 旅行にでもゆっくり行きたいわ、 ジイチャ ンはいつまで仕事を続けるつもりやろ。でも借金があるかぎり、 仕事はやめられん。大古屋が昔からの名家で、村一番の金持ち ないかなあ、とか」 鉄彦が遍の表情を伺った。鉄彦がつけているらしいライム系 のコロンがかすかに香った。 遍は周囲を見回し、網戸を越えて、庭の中央にある石に目を 止めた。視線の先を、鉄彦がすぐに察した。 「亀石灯籠か。あれは古いものだよな」 金の話が続いていた。 三人は南座敷を後にした。玄関脇の台所では、まだ真剣なお ほどへ進んだ。生い茂った庭木と苔の発する、水気を含んだ濃 外に出て、直射日光で焼けている車の横を通り抜け、庭の中 密な匂い。光線は若干傾き、夕方を準備していた。 やったんは、こんなに落ちぶれちゃあ、皮肉な昔話や。 「ただし、昔の金には不純物も多いんだよね。延べ棒の厚さも 「この亀石の顔、 奈良県の明日香村の亀石と、よく似てる。あっ 鉄彦が口を開いた。 た模様も鮮やかに、黒っぽい艶を木陰に投げかけていた。 なぞった。長年、灯籠で覆われていた上部の方は、彫り刻まれ 遍はしゃがみ込み、風雨に晒されて磨耗した石の表面を指で 収めた。 鉄彦は携行したバッグからカメラを取り出し、亀石を写真に まちまちで、一概には云えないんだけど、たとえば江戸時代に 造られた金の延べ棒には、三百キロっていうのがあって、長さ が肩幅ぐらいで、それは時価二億三千万円。畳一畳の延べ板っ 二十億ぐらいかな」 て い う と、 だ い た い そ の 十 倍 ぐ ら い だ と 仮 定 す れ ば、 ざ っ と 話が大きくなりすぎて、遍はかえってきょとんとした。 「すごいよね遍、なにしろ、一キロあれば百五十万円なんだか ちはもっと何倍も大きいけど。その亀石は、顔を向ける方角を ら」 遍は再び砂糖袋を想像し直した。 水に没する、という伝承があるんだよね。この大古屋の小亀石 遍は亀の顔についた苔を剥がした。亀の顔は笑っているよう はどうかな。この顔は、今、南向きだね」 時代によって変えてきて、今度顔を西へ向けたら、大和盆地が そこまですごくなくても、石ころ程度の金塊を掘り出す ―― だけでも、祖父母の借金の返済のたしになるだろう。純度が高 ければ、仕事を畳んだ後の旅行費用まであるかもしれない。 「ねえ遍、何か感じる? あのへんに、金が埋まってるんじゃ 48 ングしてよ。ぼやぼやしてるなよ」 には、ポケットがずらりとついていた。そのポケットの一つず 鉄彦は着ていた黒いベストの内側に手を入れた。ベストの裏 「ダウンジング? どうやるの?」 に見えた。亀甲の一つ一つには、様式化された何かのパターン 「こんな文字は明日香石にはないな。亀甲文字、いやまるで北 つにいろいろな道具が入っているようだった。鉄彦は紐のつい が彫り込まれていた。鉄彦はその模様にいたく興味を惹かれた 欧のルーンみたいな。待てよ、この模様の入り方、遠目に見る 「そんなことも知らないのか」 と、蛇が亀の甲に巻きついてるみたいだな。亀といえば中国で た重い円錐を取り出し、遍に手渡した。云われるままに遍はそ ようだった。 は卜、亀は予知能力に優れていて、冬の季節には宇宙的な聖婚 れを手に提げた。 る?」 「変わった揺れ方だな、と思ったら云ってよ。どう、何か感じ を蛇と行なって、世界の復活をもたらすと云われている……」 表面はプラスチックの、四角い棒を取り出した。それで亀石を 「特別なことはないみたい」 独り言に入っていきながら、鉄彦はバックの底のほうを探り、 なでるようにすると、ピーピーと電子音が鳴った。 「ちゃんとやれよ」 鉄彦は失望したようだった。 「へえ。亀石を割ったら、中から黄金が現れるかも。いや、こ の岩石に金属の含有量が多いのか」 「どっちみち、これじゃ深い所にある金属は探知できないから、 しなかった。 隠 さ な い ん じ ゃ な い か な。 も し わ た し が 金 を 埋 め る と し た ら ぽ く 見 え る け ど、 庭 の 真 ん 中 に あ る し。 こ ん な 目 立 つ 所 に は、 「 黄 金 は た ぶ ん、 亀 石 の 下 に は な い と 思 う。 い か に も そ れ っ 遍は立ち上がった。 何もわからないのと同じだな。やっぱり、かさばってもかまわ ……」 鉄彦は周囲の地面にもその棒を水平に当てた。今度は、音は ないから、一番高いのを買ってもらうべきだった」 知機を持ち、遍はダウンジングもどきをあちこちで試みた。 二人は広い庭を歩き始めた。鉄彦はハンディタイプの金属探 何も見つからないので、遍は飽き始めた。 らりと振り返った。 いとこのしていることを珍しそうに見ている遍を、鉄彦がち 「遍、何か感じる?」 と、家から利子叔母が出てきた。そのとたん鉄彦は遍の手か ら器具をひったくるように取り、母親のそばに駆け寄った。 「何が?」 「この金属探知機程度じゃ、たかが知れてる。遍は、ダウンジ 49 龍愛づる姫君 「ママ」 「何してたの、ここで」 「庭を見てたよ」 「そう、楽しかった? 鉄彦ちゃん、もう少しいる?」 「ママが帰るんだったら、帰るよ」 「それじゃ、パパが帰るときに、いっしょに帰りましょう。こ 「きれいだね」 のお庭、お花がたくさんあって、きれいねえ」 利子は鉄彦を伴い、庭をそぞろ歩いた。その後ろに鉄彦はひ どく従順な顔で従った。利子の指にはよく光る指輪が嵌められ ていた。利子は遍の視線を意識した。 「あら、これね? ダイヤモンド、一カラットあるのよ。今頃 になって、あの人が買ってくれてね、年甲斐もなく感激してし まったわ。遍ちゃんのパパとママは、元気なの? 仲良くして る? ふふ困るわよね、 『龍の女』は男と衝突するらしいから、 いくらきれいな人でもそれではね、どうかしらと思うわね」 形で思い出させられて、眉を寄せた。 遍は心の奥底に常に引っかかっていた両親の諍いを、こんな 「帰るぞ」 玄関の戸が勢いよく開き、満足そうな表情の豊彦叔父が太っ スの蕾を踏みつけ、走り去った。 た躯を揺らして出てきた。車は三人を乗せ、バックしてコスモ その三十分後、祖父が仕事から帰ってきた。祖母は祖父には お金の話はしなかった。 50 7 夢 睡眠中にもつ幻覚。はかない、頼みがたいもののたとえ。夢幻。空想 的な願望。心のまよい。迷夢。将来実現したい願い。理想。 字形は、呪術を行う巫女の形と、夕とに従う。 祖父は遍から大古屋家の隠した黄金の話を聞くと、一笑した。 そんな金の延べ板など、畑にも庭にもどこにも埋っていな ―― いのは、この土地をくまなく耕している自分がよく知っている。 土を掘ったら種を蒔くのが、確かでまっとうな方法だ。 一方、祖母の意見はこうだ。 ―― 自分から黄金を探しても無 駄だ。そういう類の富は、時節が来るまで隠され、自ずと現れ 出るものだ。 それでも、この夏休みが終わるまでに、先祖が残したは ―― ずの金塊を見つけよう、とその夜、遍は心を決めた。 もし見つけられたらすごい。がんばる前から諦めることはな い。 いた。 遍は額のかかった座敷に寝ていた。隣で祖母はもう寝入って 遍は思った。 ―― 鉄彦が期待したように、わたしには、黄金 の気配を感じられるのだろうか。 けれど、何も感じない。 それは自分の能力が、御札で封じられているからだ、と ―― いう答がふと沸いた。胸に提げた護符が龍の精気を吸収するか ら、黄金のことも感じ取ることができないのだろう。龍金とい うからには、何か龍に関係した金塊に違いない。 もしかして、龍金というのだから、龍なら、龍金の由来 ―― や行方を知っているかもしれない。 たとえ手放しても、水に流したり燃やしたりせず、まだ近くに 遍 は 起 き 上 が り、 お そ る お そ る 御 札 を 外 し、 傍 ら に 置 い た。 あるなら、完全に護符の力が消えたことにはならないはずだ。 「そういや豊彦叔父さんが、若い頃、龍金を探すんやというて、 祖母は思い出したように膝を叩き、付け加えた。 はりきって何やらごそごそしとったわ。ちょうど今の遍ぐらい 宇暁は、自分がこんなことをしていると知ったら、怒る ―― だろう。けれど自分はもう十六歳、充分に護られ、充分に待っ ま亀石の方へ進んだ。 遍は蒲団を抜け出し、網戸を開けて庭石に降り、はだしのま 込んで、呪いや予言や何やと耳に吹き込まれて、怖うなったん の年頃やったな。だけど調べとるうちに、村人たちの間へ入り か、ある時を境に、ぱたっと探すのをやめてもうた。大古屋の 埋蔵金探しは、大古屋特有の、思春期の熱病の一種やな」 た。護られすぎて、龍の実在を信じなくなるほどだった。そろ 51 龍愛づる姫君 そろ、自分の力を試してよい頃だと思う。 龍を呼び、龍に喰らわれることなく、古代の姫がしてい ―― たように、龍を使役する。龍にさせる最初の仕事が、 龍金探しだ。 もしこれをうまく成し遂げたら、宇暁に少しでも認めて ―― もらえるようになるだろうか。 凹凸のない滑らかな皮膚になっている。それでも、できるのだ 充分気をつけて事を行うから、と遍は思った。 ―― 遍は、暗がりで自分の左手に触れた。傷痕はすっかり消えて、 い枝の隙を縫って落ちる光が、庭石の間の苔を、ぼうっと浮か び上がらせる。 青を帯びて、水の中を思わせる深い色になった。そのままたゆ 月は順々に庭石を伝っていく。しっとりした緑の苔は月光の たっていきそうな、不確かな色を持った。 三日目の晩、眠っている最中だった。 龍とつながる感覚を思い出したのは、同じことを繰り返して 遍は夜空を仰いで、息を深く吸い込んだ。空を仰ぐと、長い 信じるしかない。 その一筋の赤は、暁の色ではない。闇に流れている血だ。 ―― 闇を焼く炎だ。 しかし夜はまだ深い。 夢の夜に、一条の暁の赤が差し染めていた。 髪が背中の下の方にまで垂れた。焦ってはうまくいかない気が 雷。ばしんと生木の幹が踊り弾ける音がして、雨が遍の躯に ろうか。 したので、目を閉じ、時間をかけて龍を思い描き、その像にすっ 降 り 注 ぎ、 心 臓 の 鼓 動 を 冷 や し て い く。 空 は ひ ど く 遠 く 近 く、 上から降り続ける雨はいつしか川の流れとなって坂を下り、盆 白く黒く、雲と地とが互いを侵食しあってうごめいていた。頭 そんなことばが、自然と口をついて出た。 む山並がぐるりと椀の縁のように突き出すだけになった。 地を一面の水で埋めた。見慣れた田畑は水中に没し、盆地を囲 「龍よ、来れ」 遍は待った。 かり満たされた時、目を開けた。 変化の兆しはない。それは何の結果ももたらさない、単なる 「昔な、台風で盆地が水浸しになって、そこらじゅう大きな湖 みたいになって、何もかも水の底に沈んでしまったんや。その 音節のつながりだった。 遍は再び呼びかけ、待った。長い間、待った。 浸水もなく助かったんや。大古屋家は村で一番古い家やで、一 番いいとこに建っとんのや」 ときな、大古屋家は一番高いところに建っとるで、うちだけが 何が、違うの。声が、届かない。 ―― 暗い庭では虫が鳴き乱れる。しかしそれも深夜になればふっ つりやんで、ただ月が空を渡っていくだけの静けさになる。黒 52 ては行き得ない所に来ているという気がした。遅い夕立の後で、 いうものなのか、判然としないけれど、己の心が、肉体を伴っ に寝付いてしまったのかもしれない。 地上にあるものはどれもくまなく水滴に飾られていた。その重 祖母の寝物語の続きは思い出せない。その夜は遍のほうが先 「それよりももっともっと大昔、ここは湖やったんやて。水が 厚な装飾の上に、遍の心はむきだしで放たれていた。 ころころと露を弾き落とし、闇に白珠を巻き散らす夜風となっ 足は地面についていない。田の上にいる。稲葉を順に傾けて 切通しから流れ出して、今の盆地ができた。だからここの守護 神が龍神さんなんは、当然やろ」 盆地は水をたたえた大きな椀だった。遍は椀の縁に立ってい て遍は進んだ。 少し先の空中を魚が泳いでいる。遍はそれを追っている。黄 た。椀の水は甘かった。龍の水を飲んでしまったのだから、龍 は体内にいた。 ―― 人が龍から逃げないのは、当然だ。龍を殺 せないのは、当然だ。龍は体内に既にいるのだから。 魚の色はめまぐるしく変化した。金と銀のまだらに染まったか 遍は闇に左手を差し伸べた。手のひらから、龍に吸い寄せら が待っていた。 遠い火星のように二つ並べて光らせ、理想の人の形を取った龍 田が終わる所は、段丘の崖際だ。赤い目をさそり座の尾星と と思うと、ばしんと大きく跳ねて、棚田の縁へ遍を導いた。 金 色 だ っ た り 緑 色 に 染 ま っ た り、 地 面 の 気 脈 の 濃 さ を 映 し て、 血中を流れる冷たい鱗の感触を自覚すると、龍はさらに力を 得て、内側から遍の夢を喰い破った。左手のひらへ突き抜けた。 すっかり心の鎧を弾けさせて、飛ばされた鳳仙花の種のよう に、夜のただなかに遍は浮かんでいた。 闇は湿気を含んで重々しく、いたるところに生命の気配を充 遍の手は彼の胸に近づいた。その胸に欠けている三枚の鱗は、 れていく。 る葉脈、草の中を這っていく小動物、水路を泳ぐ幼虫、浮いて 遍の手のひらに埋もれている。遍の髪は、彼の肩に引き寄せら 満させていた。内側から膨らんでいく稲穂、水を吸い通してい は途切れる蛍の軌跡、そうした幾つもの小さな呼吸は闇に包ま れている。 しかし遍の手は空を掴んだ。一瞬のうちに彼の躯を突き抜け れ、全体として一つの呼吸を始めているかのような一体感を成 ていた。手にも髪にも、何かに触れている触感はない。 していた。雨上がりの湿った土の匂いを遍は感じた。 四方は暗く沈んだまま、時折、蛍の短い曲線が明滅した。 「あ」 遍の顔が悲しみに歪んだ。 夜の中を漂いながら、遍は村のどこかを、今まさに自分の魂 がさまよっていると感じた。夢といえばいいのか、幽体離脱と 53 龍愛づる姫君 〈 し か し 姫 よ、 こ の よ う に 空 し い 夢 で 龍 を 伺 い 見 て 何 と す る。 それ、その胸のことばのせいで、 我らは触れ合えぬではないか〉 持ち上げているのか。 頭皮に鋭い痛みが感じられた。苛烈な赤い目に間近から覗き とがった形の字が白く載っていた。それは遍の皮膚の下に入り して、姫が龍の元に来ることになるまで。しかし、姫が龍の元 〈呼ばれたら龍は、願いを叶えてやろう。願いを叶える代償と 込まれ、ぞくりと恐怖が沸いた。 込み、肌を透かしてぼうっと光っていた。四年間御札を持つう に自らやってきたのなら、なぜ龍が願いを叶えてやらねばなら 遍は自分の胸を見下ろした。ゆるやかな膨らみを持った胸に、 ちに、その強力な呪句は、いつしか遍の内部に埋め込まれてい ぬことがあろう。愚かな姫よ〉 龍はその手に掴んだ髪をふと緩め、向こう側の山並を見やっ た。この呪句は、龍の精気を吸着するものだろう。御札を完全 に捨てなければ、たとえ夢で会えても、龍の気は全てこの胸の 〈堂は卑怯よ。我は与え、奪うもの。『坂ノ上』は贄を差し出 た。 遍は慄然とした。 の精だけを横からかすめ取る。奴らは、この龍の鬚に石を載せ、 呪句に吸い取られてしまい、互いに直には触れられない。 これを完全に除去するには、己の胸をえぐり取らなけれ ―― ばならない。そんなことをしたら、死んでしまう。 胴を箍で締め、わたしを飼い続ける。そんな輩に、おまえは組 「でも、龍王堂がしているのは、人の役に立つことだから」 するな〉 す代わりに、わたしからの恵みを受けてきた。しかし堂は、龍 赤い目が、文字の記された遍の胸に据えられた。 自身であることを偽る。おまえは、今のおまえを本当の自分だ 〈おまえは堕した。龍の一部を与えたにも関わらず、姫は自ら 〈 い っ た い 誰 の 役 に 立 つ こ と だ。 お ま え は 薄 情 な 輩 に 操 ら れ、 たしが早々と喰らってやろうか、おまえの白い胚乳を〉 己を封じられているのに気づかぬのか。ならば我が半身よ、わ と、本気で信じているのか〉 「だからわたしは、龍を使役しに来た」 遍は気圧された。しかし思うことを云った。 呪句が胸に乗っている。だから龍は、手出しができない ―― はずだ。 龍は静かに笑った。その時、遍は、自分が龍を召喚するはず だったのに、自分のほうが龍に呼びつけられていることに気づ しかし遍は、掴まれている髪の痛みを再び感じ始めた。 じることはある。 ―― もしや、痛みも幻覚なのだろうか。夢の中でも、匂いや音を感 いた。龍は遍の髪を束ねて掴んだ。遍は自分の髪が龍の手に束 ねられているのを見た。遍の側からは触れられないが、 『神』 の側からは触れられるというのか。いや、単に風を操って髪を 54 ことができなかった。 そう理性で考えても、恐怖がじわりと拡張するのを、抑える もし龍が、この数年の間に、龍王堂が作る護符以上の力 ―― を ひ そ か に つ け て い た ら。 こ の 夢 が、 醒 め な か っ た ら。 夢 が、 夢でなかったら。 風が乱れた。遍の長い髪が揺れ、龍と遍の胸の間でよじれた。 蛍が風に混じってふわふわと漂い、髪を飾った。よじれた長い 髪が遍の首を巻き絞め始めた。首を巻いた黒い輪が徐々に小さ くなる。息が苦しい。遍は水に落ちていくように、ひどく浅い 呼吸を繰り返した。その呼吸すら閉ざされて 団の中で目覚めるのだろうか。それとも、夢の中で死んで、龍 その時、自分は田の畦に立っているのだろうか、それとも蒲 の爪先で新たに目覚めるのだろうか。 れない。しょせんは夢だから。 それ以上の絶望が遍を襲う。 ―― 何を感じても、どこで起き ても、夢から覚めたら、今の鮮烈な思いを忘れてしまうかもし 曲 げ て い た。 明 け 方 の 白 さ の 中 で、 亀 石 は 夜 露 を つ け て い た。 庭で目覚めた。遍は亀石に覆いかぶさって首を不自然な形に 身を起こすと、広げた腕の形に乾いた石面が現れた。地にめり 遍の本能が恐怖した。死が夢の中で、遍のすぐ前にいる。 ていても空は既に明るく、雲はまぶしい橙に染まっていた。赤 天頂には、一筋の茜色の雲が縦に走っていた。地は闇に満ち 躯が冷え切っている。夜雨が降ったのかもしれない。服がしっ こ ん で い る 黒 々 と し た 闇 の 塊 に 手 を つ き、 遍 は 立 ち 上 が っ た。 弟は一歳を待たずに死んだ。誰もがいつか死ぬ。自分も ―― いつか死ぬ。人の命を持たない『神』と、人とが何かを分かち い雲は、龍が空に駆け上っているような形をしていた。遍は庭 幻影だ。夢に ―― あえるはずがない。 『神』に命は理解できない。人は『神』を 木の影から出てそれを仰いだ。 過ぎない。 自分に引き寄せてしか理解できない。そして『神』は人に死を の凝集した物に見えた。全ての影と禍が亀石に吸い寄せられる。 手のすぐ横にある大きな石の塊が、名もなく地を這う霊たち 亀石は死者の霊を集める。だから盆に、ろうそくで供養 ―― した。 遍は慌てて手を引いた。 身動きした拍子に、右手が亀石に触わり、ざらりとこすれた。 とり濡れそぼっている。首が痛い。 引き寄せる。 髪がいっそう強く首を絞める。遍の首がのけぞる。闇夜に蛍 が流れる。湿った土の匂い。伸びていく稲葉。こぼれる露。 一面に散り敷いた、貫かれていないばらばらの珠。 一つずつが揺れ、こぼれ、水面に吸い込まれる。大きな水と こんなにも苦しければ、そのうち目が覚めるはず。 ―― いっしょになる。 55 龍愛づる姫君 こんな石に覆い被さって眠っていたなんて、自分は闇の中で 神経がおかしくなっていたに違いない。 両腕を開いた躯の跡が、亀の背にくっきりとついている。 急いで遍は向きを変え、家の中に戻った。 薄暗い室内で、祖母は安らかに眠っている。夜じゅう遍が寝 床を抜け出していたことには気づいていない。 祖母の蒲団は既に空だ。遍は自分の匂いのする白い洞穴を抜け 出し、顔を洗う。台所には温められた味噌と醤油の香りが漂っ ている。朝食は玉子御飯にゆかりをふりかけて。 庭はまだ家や木々の薄い影に浸され、その中に幾つもの朝顔 がぷかぷかと浮かび上がっている。 夜半の甘美な悪夢は薄く引き延ばされ、暗さを失い、風に四 散していく。 幻想は、自分の頭が作るものだと思っていた。けれどあ ―― れが、全部自分の中にあったものだろうか? 昨夜の夢は、自 台所の方で、祖父が起き出したような物音がしている。 分の頭が作り出したものではなかったのではないか。どこから 龍とは夢で会っただけだから、 『影』は動き出さない。 遍は露で湿った服を脱ぎ、裸で蒲団にもぐりこんだ。シーツ か、来たものだ。 ?「あちら側」から。 ―― が肌の表にひやりと擦れて吸い付いた。枕元の護符に守られた どこから 安心感で、遍はふっと力をゆるめて目を閉じ、すぐにまたぱっ ちりと目を開いた。 御札を手に握って仰向けに寝返りを打つと、霧田津比女の額 が自ずと目に入る。朝の白々とした光が文字を浮かび上がらせ ている。 そのことばの中にある。 「三、龍呼ぶ時、影よけの文、唱えるべし」 『影よけ』の文で、『影』をどこへ「よける」のだろう。いっ ―― たいどこへ? 御札を握った腕を遍は横にぱたりと倒した。むきだしの腕に、 冷えた髪が触れた。 少し寝直してしまった蒲団の中に、二度目の朝が来る。隣の 56 8 謀 はかり設けた方法。もくろみ。計略。 声符は某。某の初形は曰と木とに従い、木の枝に祝禱をつけて神意を とう形の字で、謀の初文。 「これ、鉄彦くんの?」 「ああ、バイク? 見た目には原付に見えないだろ。免許取っ たんだ。来る時、誰にも見られなかっただろうね?」 「うん。どこへ行くの?」 「すぐそこ」 「すぐそこって、どこ?」 鉄彦はうつむいて、遍の手からヘルメットを取り上げた。そ れを遍の頭に被せながら云った。 「……美十狛の古墳だよ」 鉄彦は自分ももう一つのヘルメットを被ると、サドルにまた がってエンジンをかけた。 昼間に電話が鳴った。祖父母は日のあるうちは農作業に出る ので、家の電話はたいてい夜に鳴る。昼間に掛かってくる電話 「乗って。ここに、足を置いて」 どくどくと響くエンジン音の中で、口早に指示された。遍は は珍しい。昼食後の片付けに手間取って、遍はひとりで台所に いた。 慣れないことに思わずぼうっとなって、云われるとおりにした。 鉄彦の腰につかまると、二人のヘルメットがぶつかった。 電話は、いとこからだった。 「 す ご い こ と が わ か っ た ん だ。 誰 に も 秘 密 に し て、 出 て き て。 「本当に誰にも見つからずに、秘密にして出て来られた?」 すぐに遍が知っている領域を抜け出してしまった。何度か躯を 流にあるらしい橋を渡り、国道を離れた。バイクのスピードで、 道なりにしばらく走って、十元岩や魂送りの滝よりさらに上 り、これまでとまるで違って見えた。 た。バイクから見る集落の風景は、めまぐるしく後ろへ飛び去 風が周りで巻き起こった。鉄彦のシャツはライムの香りがし 「うん」 国道で待ってる」 弾んだ声に、遍も興奮した。ミュールを突っかけて、外へ走 り出た。 なかった。 坂を降りきると国道だ。バス停のあたりには、しかし誰もい 「こっち、こっち」 鉄彦は、目立たない樹陰にバイクを止めていた。当然のそぶ りで、ヘルメットを遍に渡す。 57 龍愛づる姫君 傾けてカーブを曲がり、やがて舗装されていない細い道を上っ く勉強になるよ。 この森は、元豪族だった大古屋の墓所なんだ」 若姫が美十狛の森に来たことがないなんて、間違ってる。すご ない。きつい上りは終わり、傾斜はゆるやかな下りに変わった。 崖のてっぺんに着いたが、木々に邪魔されてまだ景色は開け ルの距離を置いたまま、もう少しだけ斜面を登った。 土地への好奇心のほうが優り、遍は鉄彦から慎重に数メート たところで、鉄彦はバイクを止めた。 「ダートは走りにくいな。でもパパがもうすぐ、もっと立派な 道を造ってくれるはず」 二人は降り、鉄彦はバイクを薮の間に押し込んだ。 鉄彦は林道に面した崖を、先に立って登り始めた。ぽろぽろ た天皇陵とは格段に小さな規模の、土饅頭に近いような塚だっ の地面と同じように、草や落ち葉で覆われている。授業で習っ た。それでも、歳月の侵食に耐えてこれだけ残ったのなら、元 歩くうちに、木々の間に土の盛り上がりを幾つか見た。周囲 気を遣って、足を掛ける場所を教え、遍の腕を引っ張り上げた。 はもっと大きな山だったのだろう。 とした崩れやすい土の斜面を、生えている木の幹を手がかりに 崖を少し登ると、すぐに下の林道は見えなくなった。 登った。遍のミュールでは、特に登りにくかった。鉄彦はよく 「ここは大古屋氏の、代々の古墳があった場所なんだよ。この もし、ここで何か手がかりを見つけても、鉄彦には教えない ようにしよう。その後、ひとりで来て金を掘り出そう、と遍は 土地を龍王堂に譲ったなんて、龍の女はばかだ。黄金を隠した のが坂ノ上の地所内じゃないとしたら、きっとここだよ」 考えた。鉄彦は信用できないと思う。 国各地の豪族きょうだいや集団巫女を滅ぼしたこと。ヤマトタ 下流の町での国分寺建設より数百年前の景行天皇の時代、 ―― 大和を出発した幾人ものミコトが、土蜘蛛というくくりで、全 その間、鉄彦はしゃべり続けていた。 「ここが、美十狛なの? それだったら、龍王堂の森の裏側あ たりに今いるのかな? ここは龍王堂の森の中だよね?」 鉄彦が振り返った。 「龍王堂なんて関係ないよ。金を見つけたら、それは見つけた 人のものだ」 「どこを探すつもり?」 見えた。遍の足元で土が崩れ、遍は一歩下がっていた。 と似た行状があること。姉のアマテラスと弟のスサノオは諍い ること。ヤマトタケルノミコトには、先祖のスサノオノミコト るのに、この頃は日本史に年表がない欠史で、謎に包まれてい ケルノミコトはそのひとりであること。重要な変化の時代であ 「もう少し先だよ。見て、 遍。これもそれも、 古墳なんだってさ。 したこと。 遍より数歩高いところにいる鉄彦は、空を背景に、黒い影に 遍はここに来るの、初めてだろう? 見ておくべきだよ。龍の 58 めて月に一度ここに忌みごもりし、地面に直に座って気を受け 認められたこと。中世から近世、大古屋の女たちは、傍系も含 もかくその時代を切り抜けた後、盆地を統べる大古屋の存続が ここの地方の豪族は、古墳時代には既にシャーマンだっ ―― たこと。中央からの派兵とどう戦ったのか受け容れたのか、と 「人間って、びっくりすると、とっさに声が出ないものなんだ ま、背後の手首の束縛を、両方の指先で懸命に探った。 彦の足が倒れた遍の顔の前に来ていた。遍は横向きに倒れたま て起き上がり、焦りすぎてバランスを崩し、肩から転んだ。鉄 た。鉄彦が落ち葉を蹴散らして駆け下りてくる。遍は膝を使っ が後ろで、きつくはないが、縛られてしまっていることを知っ ていたこと。そして『夢見』と呼ばれる、予知でもあり遠見で よね。でも、叫んでも、このへん、誰もいない場所だから」 もあるような技が試みられていたこと。 いる。鉄彦はポケットの一つから折り畳まれた布を取り出すと、 鉄彦はベストを広げた。内側に、ずらりとポケットが並んで 両手の間で広げた。十センチくらいの幅の、細長い布だった。 た。どこも、似たような斜面だった。鉄彦についてこんな所に しばらく案内されて歩くうちに、遍は方角が分からなくなっ まで来たことを、軽率だったと反省し始めていた。 「古典的だけどね、やっぱ昔から人に使われてるのは、よく考 飛ばした。 遍の自由になるのは脚だ。遍は肩を軸に脚を回し、鉄彦を蹴 えられた道具だよね」 「もう、帰る」 「じゃあ、もう一つだけ見て、今日のところは帰ろう。この古 そう遍は云ったが、ひとりでは既に帰れなくなっていた。 墳群の一番中心にあるやつ。ほら、それだよ。見える?」 どこに当たったのかわからない。それでも鉄彦が視界から消 だ解けていないが、それがゆるいことはわかっていた。遍は躯 えた。遍は膝を引き寄せて上体を起こした。後ろ手の縛めはま 木が立ち並んで狭くなっている所で、鉄彦と遍は既にかなり 「その先だよ。見てごらん」 のバランスを取って立とうとした。横から衝撃があった。横に 近づいて立っていた。 鉄彦が遍に場所を譲った。遍は鉄彦の前に立った。前方は開 を掴まれた。同時に、細い感触が手首を巻いた。遍は振り返り、 はこれまで見たものとあまり変わりなかった。背後から、手首 のを逃れた。視野の端で、鉄彦が拳を大きく振りかざしていた。 がいて、肘で上体の向きを変え、鉄彦の体重をまともに受ける 猛然と怒った顔の鉄彦が遍の肩を押さえ込んでいた。遍はも 倒された。髪が地面に広がった。 ふりほどこうとし、目のあたりを拳で殴られた。遍は下りのゆ 遍は脚を回して再び鉄彦を蹴った。自分に人を蹴ることができ けた窪地で、窪地の中に塚らしい盛り上がりが一つあった。塚 るやかな斜面を転げ落ちた。傾斜のままに転がりながら、手首 59 龍愛づる姫君 んで、空が地面になって、遍は、うまく膝をついて起き上がっ ると思っていなかった。必死だった。迎え打つ躯と遍の脚が絡 ケットを探りつつ、鉄彦は遍の目をまっすぐに見た。鉄彦の頬 なった鉄彦の胸から、蛇の絡んだ十字のペンダントが離れ、空 もう片方の手で、鉄彦はベストの内側を探っていた。斜めに が積もっているとはいえ、その下の地面は固かった。引き倒さ が滑った。肩に衝撃を感じた。遍はまた押し倒された。落ち葉 たりされると思った。振り向いて避けようとして、腐葉土で足 た。くぐもった唸り声と共に、鉄彦の気配が迫ってきた。体当 してるんだ。云ったらママは喜ぶかもしれないけど、ぼくはマ に悲しませちゃいけない。あの子のことだって、ぼくは秘密に 死刑なんだ。ママは泣いて、自分の手首切っちゃうから、絶対 「だいじょうぶだよ、ママは知らないから。ママを泣かせたら が紅潮している。 中で揺れた。片手で遍の口を押さえたまま、もう片方の手でポ ていた。すぐ前に木の幹が並んでいた。 ―― あの中に逃げ込む。 遍はバランスを取りながら、 すばやく立ち上がった。 数歩走っ れ、土の塚に頭をぶつけた。横に転がった。縛られた腕が背中 マから独立してるから、自分だけの秘密も欲しいし」 「 …… 大 古 屋 は 女 系 だ か ら、 本 当 は 最 初 か ら、 遍 を 殺 さ な い 鉄彦は真剣な目で遍を見た。 の下敷きになった。押さえられた。長い髪が遍の顔に覆い被さ 顔を覆う髪のあちこちに、たくさんの落ち葉が引っ掛かって と い け な か っ た ん だ。 だ け ど ぼ く も マ マ も、 よ く わ か っ て な り、目の前を隠した。 いるのが見えた。腰から脚を、温かいもので、塚のなだらかな 八十八代目が黄金を見つけるって予言があるんだよ。遍にはこ か っ た か ら、 行 彦 が 八 十 八 代 目 だ、 っ て 勘 違 い し ち ゃ っ て さ。 視野を覆う髪がするりと肩へ落ちると、躯の上に鉄彦がいた。 のこと教えてなかったけど。あの子が黄金を独り占めするなん 斜面にぴったりと押し付けられている感触があった。 「抵抗するなんて、かわいくないなあ。遍はもっと、素直な女 て不公平だ、ってママは泣いてたよ。だからあの子が金を見つ だ け ど、 ヘ ロ デ 王 の 幼 児 殺 し み た い で、 あ れ は あ れ で い い さ。 けられないよう殺してやったよ。……いろいろ間違いだったん の子だと思ってた」 は吐きそうになった。 月と太陽が、幼児の血に浸る。この世の中に、無駄なことなん 口を手のひらでふさがれた。肌に吸い付く人間の体温に、遍 「ぼく、考えたんだよ。遍が埋蔵金を見つけることに決められ られていた。躯の重みが掛かって動かない指もあったが、いと 遍の両腕は不自然な角度で躯の下敷きになり、塚に押し付け て、一つもない」 はずだからね。だから、今すぐ、黄金が出てくるはずだね。マ ているんなら、遍を殺せばいい。遍が死ぬ前に、黄金が現れる マが云うとおり、ぼくは頭がいいよ」 60 こがしゃべっている最中も、遍は休んでいなかった。懸命に指 が模られているのが見えた。 になり、手のひらが石に当たった。埋もれた古墳の入口なのか、 こでこうして死ぬのだと思った。信じがたいけれど現実だ。こ た土の匂いに、ライムのコロンが混じっている。自分は今、こ 遍の目の前の景色が薄暗くなり遠のいた。 貧血の前触れだ。湿っ 金 属 の 堅 い 冷 た さ が 遍 の 顎 に 触 れ、 首 筋 へ 下 が っ て い っ た。 それとも握って武器にできる石片なのか、指先で探ったが、そ のまま気を失えば何も知らずに終われるかもしれない。 先を動かしていた。手首の紐をねじっているうちに、左手が下 れは動かなかった。紐はほどけそうでほどけない。口を押さえ じた。 う目の前が暗くなる。静かに感覚が遠のいていく。遍は目を閉 上を、刃先が小さな点になってぴちぴちとなでていく。いっそ 骨が露出される。汗ばんだ胸の谷間に外気が触れる。レースの ナイフの先が、ブラウスのボタンを一つずつ弾いていく。鎖 つける手のひらの温かさと、下半身を覆う生ぬるさがきもち悪 くて、その体温に理性が侵食されそうになるのを必死でこらえ ていた。 ベ ス ト に 隠 れ て い た 鉄 彦 の 手 が、 ゆ っ く り と 外 に 出 て 来 た。 細く光を弾く鋭利な金属だ。 回転するアーミーナイフの刃が、パチッ、と小さな音を立て ブラウスの両端が、腕の両側へするりと落ちた。そのとたん、 「おっとこの護符の紐は、切らないようにしなくちゃ。龍を呼 胸を乱暴に掴み上げられた。痛みのあまり、反射的に遍は目を ばれたら困る」 「怖がらないで。声を出さなければ刺さないよ。ちゃんと、き 見開き、全身を跳ね上げていた。鉄彦の目は、とたんに虚ろに いう気力が一気に萎えていく。残った感情は恐怖だけだ。 れいに死ねる苦しまない方法を考えてあるから、心配しないで。 なった。むきだしの刃の冷たさが、遍の頬に触れ、震えた。 て止まったその瞬間、遍の全ての思考が停止した。逃れようと 人 じ ゃ な い の が 残 念 だ け ど、 ぼ く が 妥 協 し て や る。 …… 遍 は、 優しくしてあげる。遍、処女だろ? 遍んちのおばさんほど美 「柔らかい!……」 熱が走った。 左手のひらが、石の角に押し付けられた。手のひらに焼けた 激痛に、遍は小さな悲鳴を咽で鳴らした。 たまま停止していた遍の手首に、二人分の重みがのしかかった。 鉄彦の上体が、遍の胸に崩れ折れた。紐を解こうとしてねじっ 自分ひとりが特別だって思ってるだろ。もうひとつ、秘密を教 えてやるよ。ばかどもは知らない。ここにいるのは龍だ。おま えなんかただの女だ。……遍、結婚しろ。死ぬまでずっといっ しょだ」 鉄 彦 の 手 が、 遍 の 口 か ら 離 れ た。 そ の 時、 そ の 手 の ひ ら に、 自傷したような細い筋が何本もつけられ、薄赤く一つの三角形 61 龍愛づる姫君 機会を伺いすぎた。もはや抵抗は手遅れになったかもしれな い、と急激に痺れる痛みの中で遍は再び絶望した。遍は懸命に、 それは懐かしい熱さだった。手首を引っ張る細い力が消えた。 紐が解けた。けれど体重がかかっているので、腕を引き出すこ 体重を肩の方へかけて、躯の下敷きになっている腕を引き抜こ 胸にかかっている護符さえ、外せば。 ―― すぐ反撃に移るつもりだった。 うとした。 とができなかった。 ナイフが、差し伸ばされた鉄彦の片手の中で、今にも遍の頬 を傷つけそうな位置で震えていた。鉄彦の頭は胸に埋もれてい た。 胸 に 小 さ な 痛 み が 次 々 に 走 っ た。 そ の た び に、 遍 の 躯 は、 鋭い誰何の声が響いた。鉄彦は遍の胸を地面に押し付けたま 「そこで、何をしている!」 遍の目は遠くを見た。胸の上で動いている黒い頭の向こうに、 ま、 全身をびくりと固まらせた。遍には、 聞き覚えのある声だっ びく、びく、と律儀な反射反応を返していた。 輪になって周囲を取り巻く梢と、梢の中の青空と、立ち昇って た。 「わかった。云わない」 た。不思議なほど透明な目だった。 ナイフの先が、遍の耳の下に当たった。遍はいとこの目を見 てもいいから本当に殺す」 「云わないと誓え。誓わなかったら、今、殺す。ぼくがどうなっ 鉄彦が遍に囁いた。 ででも、追いかけていって、殺す」 「これまでのこと、人に云ったら、殺す。何年後でも、どこま り、それから少し困ったように遍を見た。 鉄彦はいたずらの途中で見つかったこどものような表情にな 「ちぇ」 宇暁は激怒して、 杖を躯の前にかざし、 窪地へ駆け降りてくる。 「今すぐ、そこを降りろ! この場所から出ろ!」 いく一筋の雲を見た。 痛みの余韻の中で、左手の感覚が戻ってきた。この土地の力 が、体に入ってきたと遍は感じた。首の護符さえ外せば、今こ 殺 す。 ―― そ現実に龍を呼べると信じた。腰から胸までを覆う生ぬるい人 肌 を、 ど ん な 生 き 物 よ り も そ の 時、 遍 は 嫌 悪 し た。 殺すのは自分のほうだ。 遍 は 鉄 彦 の 隙 を う か が っ た。 胸 の 柔 ら か く 敏 感 な 肌 の 上 に、 次々と新たな痛みがつけられていく。しかしもはや恐怖はなく 怒りだけだ。 「この中はどうなってるの?」 鉄彦は柔らかな乳房に鋭く爪を立てて苛立った。ナイフが胸 の方へ移る。胸が温かくなった、と思うと、細く血が伝ってい るのだった。遅れてこれまでとは違う、鋭く深い熱さが奥の方 を刺していた。血の流れはすぐに太くなる。 62 「ちくしょう偉そうに天狗男たちめ、いつかやっつけてやる」 鉄彦の躯の重みが離れた。 鉄彦は落ち葉を蹴散らし、走っていった。がさがさと足音が 斜面を遠ざかっていった。 とうとするが、手も脚も痺れたようになって、ずいぶんと落ち 葉の上を無駄に滑る。 宇暁は憤然とした雰囲気で、黙って背を向けたまま、それで も待っていた。 きた。遍が寝ていたのは、塚の入口だった。地面に突き出した 石の角は、入口を囲う枠の一部で、地中奥深くにつながってい ずいぶんとあがいて、遍はようやく二本の脚で立つことがで るようだった。入口は土で完全に塞がれていた。あたりの落ち 手のひらの感触が残っていた。ナイフの傷から流れた血が腰へ 伝っているが、まだ生きていた。手首だけでなく、脚や背や後 葉は剥がれ、地面に幾筋もの引っかき傷が広がっていた。 遍は痺れた腕で、ゆっくりと躯を起こした。胸にまだ他人の ぼんやりと伝わってきた。 たとたん、涙がこぼれ落ちて、咽をふさいでしまった。 遍は、答えることができなかった。男なんて皆嫌い、と思っ 所を侵しているのだ」 「早くしなさい。あなたは、わかっているのか。女人禁制の場 頭 部 や、 ま た ほ か の あ ち こ ち の 箇 所 が 鈍 痛 を 発 し て い る の が、 宇暁は、遍に背を向けていた。 「早くこの場所から出なさい」 「待って」 怒りを含んだ声で云い置いて、足早に歩き去ろうとした。 宇暁が振り返りかけて、慌ててまた首を戻した。 「着衣の乱れを直してください。わたしはあなたを見ることが 宇 暁 は 背 を 向 け た ま ま、 立 ち 止 ま っ た。 黙 っ て い る 宇 暁 は、 怖かった。遍の声は、震えて咽を通った。 できない」 のが縦横に赤くつき、歯型が散っていた。ボタンはなくなって はだけられた胸の前を合わせた。胸には引っかき傷のようなも 遍は目を見開いたまま、睫の先から丸い涙を弾きこぼしつつ、 「帰り道が、わからない」 先を傾けて方角を示した。 いたが、皮肉にも落ち葉の間に落ちていた紐をボタンホールに 宇暁の怒りは、膨らんだようだった。杖の根元で地面を打ち、 「あちらへ、降りていきなさい」 限り払い落とし、両腕で胸を抱いた。 なくっつきかたをする新素材だった。服についた土を、可能な 引っ掛けて、なんとか体裁を整えることができた。紐は不思議 「待って。ひとりでは、行けない」 もし、鉄彦が戻ってきたら、今度こそやられてしまう。 ―― さっきは夢中で、感じる暇さえなかった。今になって、先ほ どの恐怖はようやく遍の躯にじわじわと伝わってきていた。立 63 龍愛づる姫君 「あの町会議員の息子は、以前、無免許で事故を起こしました が、それでも免許を取得できた。バイクが最近、頻繁に山道に 遍が身動きしている間、宇暁はずっと背を向けていた。背を 向けたまま、ゆっくりと云い始めた。 止まっているので、見回りを強化していたところです」 ませた。 遍は前へ進み、ややふらつきながら、足をミュールに滑り込 「わたしは、女性に触れることができない」 それを地面に置いて立ち上がった。宇暁は数歩後ろに下がった。 な 靴 を そ っ と 両 手 で 抱 え て 戻 っ て く る と、 遍 の 前 に 膝 を つ き、 宇暁は、まるで壊れ物の靴を扱うかのように、土に汚れた小さ その間に宇暁がもう片方のミュールを探し出してくれていた。 いた。遍はそちらへ歩いて行って、それを履いた。 見て立ち止まった。少し離れた所に、ミュールの片方が落ちて 遍は歩き始め、自分がはだしであることに気づいた。足元を 「だいじょうぶです。まだ、ほとんど何も、なかったから」 た。 宇暁は、 痛ましそうに遍を見た。 遍は宇暁をなだめようと云っ 「どんな事情であれ、この場所に入って来てはいけません。あ なたを置いてひとりで逃げた恋人にも、そう伝えておいてくだ さい」 宇暁の声は、いつもの穏やかさを取り戻していた。 「違います。あいつは……あれは……」 遍は、その誤解だけは厭だった。 ことばが詰まってしまって、出てこなかった。 るので、遍は怯えて一歩下がった。 宇暁が、憤然と振り返った。さっき以上に怒った顔をしてい 「何だと! 屑め!」 宇暁がののしりのことばを吐き散らし、足で地面を踏みしめ 「あのまま返すのではなかった! 殴りつけて、殴りつけても るのを、遍はあっけに取られて見つめた。驚いて涙は乾いた。 たりない!……」 宇暁が目を細めて遍の髪を見た。遍は、 自分の手で髪を払った。 「落ち葉が、……ついている」 に怒っている人がいることに、救われた気分になっていた。そ 宇暁は拳を固め、空を切った。遍は、自分以上にその出来事 宇暁はさらに数歩離れてまた背を向け、先に立って歩き出し 「ここを、降りましょう。お送りします」 た。 れと同時に、宇暁の拳を生理的に恐怖していた。 しばらくして息を整えた宇暁は、顔を上げた。 「……警察に届けますか?」 遍は、考えて、首を横に振った。 宇暁は黙り込み、やがて悔しそうに云った。 64 9 遍に龍がする物語 はわからない。意味がわからなくても感覚はある。左手のひら は今や、こどもの頃と同じように、生々しい血の色を三枚の鱗 の形に透かしている。 それはずっとそこにあった。どこかに消えてまた現れたわけ もし宇暁が来なかったら、美十狛で自分は殺人者になっ ―― ていただろう。 ではなく、ずっと同じ位置にあった。遍が忘れていただけだ。 深夜、遍は護符を捨てた。 はいない。見物人に向けて、おどろおどろしいパフォーマンス 遍の腕は空中を、緩慢な舞のように動いた。誰も見ている人 自分が悪人だということは、こどもの時から自覚している。 いつも助けが間に合うわけではない。だから自分は龍を ―― 使役し、ひとりでやっていく。 で煮えたぎる。 しかしその危険を回避できた後も、感情は理屈とは離れた所 に護符を落とした。御札は銀の水流にさらわれ、闇に向かって 寝静まった屋敷を抜け出し、坂の上で、棚田の縁を流れる溝 流れていった。 遍は坂の上に立つ。護りの札は暗がりを遠ざかって、川へと 運ばれていきつつある。 しぐさをした。国道を走る車の音も絶えている夜半過ぎ、向か を 見 せ つ け る 必 要 は 全 く な い。 自 分 が、 自 分 の し た い よ う に、 遍は両腕を挙げ、いまだ流血している胸に盆地の風景を抱く いの山腹に明かりはない。こちら側には、常夜灯が軒先にぽつ すればいい。 て、闇を龍の気が流れている。土地を縦横無尽に走る血管の中 鋭く感性を尖らせた遍の指先は、風を掴んだ。細い糸となっ ぽつと光っている。 頭の後ろ側に、亀石の存在を感じる。向こう側には、美十狛 の石積がある。こちらとあちらの間を、川が横切り隔てている。 遍は順番にそれらに触れていった。最初は自分がしているこ と向こうに、龍がいる。 何の訓練もない自分ではある。昔は美十狛に忌みごもり ―― などして、少女は龍とつながる感覚を得ていた。けれど大古屋 とを意識し、驚くと同時にそれを覚えておきたいと思った。し は、美十狛を龍王堂に渡すことで、水の祭事を手放す意思を表 かしすぐに夢中になり、己への感覚は消えた。頭ではない所が 考え、行動に指令を発していた。 明した。 美十狛の岩の端を掴んだ左手が、まだ焼けている。岩の意味 65 龍愛づる姫君 何度も見たのと同じ、懐かしい青を溶かした孔が頭上に開いた。 左手から雷鳴が走った。突き上げた手が風を切り裂き、夢で いく。トンネルをこの空間に開けるための。向こうとの境に近 高く掲げた左手で魚を受け止めた。突然、遍の体内がいっぱい そこから銀の魚が泳ぎ出て、遍にまっすぐ向かってきた。遍は 一つずつの動作が、我慢強く繰り返され、準備を組み立てて 動かす。触れる。その順番に意味がある。 に満ちた。魚は一瞬で龍に変化し、遍は頭上に伸ばした左手に づ く た め の。 深 夜 の 緑 椀 に 満 ち た 闇 と 静 寂。 そ の 変 質。 編 む。 緻密な展開が、しだいに大気を変えていく。 龍の胸を載せて立っていた。龍の巨躯の先は、空のはるか高み このうえない空白から一瞬でまんまんと満ちた躯に、遍は倒 に垂らしていた。 に達し、折れ曲がって盆地を一巡りし、余った二又の尾を空中 も し こ の 闇 を つ い て 見 て い る 目 が あ っ た な ら、 少 女 は 坂 の てっぺんで静かに舞っているとだけ、見えただろう。 れそうになりつつ、踏みこらえた。真っ白な滝が手の上にあっ どれほどの時間がたったのか遍は把握していない。盆地はい つしか、ぐるりと雲に取り巻かれていた。山並の上に龍がとぐ た。一時ごとに全てが圧倒的に流れ落ち、流れ込み、同時に天 上へ昇ろうとうごめいていた。左手も、子宮も、熱い命の塊と 作った雲は、しかし、そのままではまだ雲でしかない。 込み入った道筋は、ずいぶんと整理された。細い脈は編まれ 化している。突き抜けた快楽の重さが一瞬ごとに積まれ、遍は ろを描き、盆地を巻き締めているようだった。闇夜に白い輪を て大きな管となる。その主要な線に繰り返し触れる。遍は原始 しだいに膝を折りそうになり、息を弾ませ奥歯を噛み、再び踏 遍は見上げた。 みこらえた。心臓がどくどく打っていた。 の舞踏を続けていた。遍の中が、どんどん空っぽになっていく。 風が近づいてくる。稲穂が順に揺れる。遍は風をやりすごし、 振り返って、風の裏側を見送った。何ごともなかった。 す巨大な快楽の中で、手のひらに龍の鱗の尖りが突き刺さる小 星だけの空に、龍の銀の鱗が溶け込んでいる。遍は躯を満た さな痛みを感じた。遍が体内に持っている鱗が立ち上り、龍と の裏側の裏側は、龍の鱗の予感できらめいていた。 遍はすぐに風の裏側から風を潜り抜け、再び振り返った。風 ここが扉だ。 一体化している。頭上の鱗には長い髪を引かれている。 龍呼ぶ時、影よけの文、唱えるべし。 下にあった。 直上に出現した龍のために、周囲一体も遍の躯も、深い影の 遍は両腕を挙げた。自分の口から何かことばが出ていくのは は命じていた。 わかったが、何と云っているのかは自分でも知らなかった。遍 「龍よ。来れ」 66 「影よ、去れ。去ね」 まだくらくらとしたまま命じると、 『影』はいっせいに飛び 上がり、遍の躯と龍の躯を迂回したらせんを描き、どこかへ吸 い込まれるように消えていった。 〈しくじったな。願う前に影をよけて、何とする。影がなけれ 龍の頭がゆらりと動き、遍の顔を赤い光が横切った。 のいとこは姫にごく近しい血の持ち主。あれがおまえであった かも知れぬくらい、二人は似ている。……だが今夜はどのみち、 龍に影がない。姫との交換は、話と話だ。よいな〉 遍は、ぐっと息を飲み込んだ。 ―― 鉄彦を贄にして、龍に黄 金を出させようと思っていたのだが、『影』の災禍を恐れるあ まりに、焦りすぎた。それでも情報だけでも役立つだろう。 「龍に聞きたいことがある。わたしの祖先が、龍金をどこへ隠 遍は云った。 したか、教えてほしい」 ば、龍の力は働かぬ。それでなくとも奴らにがんじがらめに縛 呼び出されても、影がなければ何もできぬぞ。話くらいしかで 龍は熱い息を細く吐いた。笑っているのかも知れない。 られて、龍がこの場でできることは少ないというに。こうして きぬ〉 龍への願い事は、全て何かと交換だ。我は、与え、奪う。では 〈 お ま え の 家 内 の そ ん な つ ま ら ぬ こ と で、 こ の 龍 を 頼 る の か。 わたしがおまえに、龍金の在り処を話そう。その代わり、おま 遍の顔に走った動揺を、龍は機敏に読んだ。 のだからな。……なるほど姫は復讐を望むか。復讐は龍の望み 遍は了承した。龍はちかりと笑った。 「わかった」 話を聞くぐらいなら、たいした負担ではない、と遍は考えた。 えはわたしの話を聞くのだぞ〉 〈まあ、よい。それでも龍は、夢から現に現され、ここにいる と同じ。喜んで叶えてやれるぞ。ここでは話しかできぬが、龍 の国へ来ればよい。姫が来れば、龍はひととき完全な躯になる。 姫が復讐の卵を産めば、盆地を湖に戻し、下流の町までも溢れ させるなどたやすいことだ〉 〈ではそれで、取引としよう。 べ板は、じきにおまえの目の前に出てくるぞ、そう先のことで ……姫が探している龍金は、坂ノ上の屋敷内にある。金の延 「……断る。おまえに連れて行かれることは、わたしが贄にな をやろう。男だから美味くはないだろうが、肉でも魂でも、好 その者を愛していたことに気づくだろう。 初めて、おまえはその者がおまえを愛していたこと、おまえが はない。だがその時、おまえを愛する者が死ぬだろう。その時 ることを意味するのだろう。わたしの代わりに、いとこの鉄彦 きなところを喰らえ」 龍が再びゆらりとかしいだ。水の匂いがした。 〈ほう、姫には龍を使役する方法がわかってきたようだな。あ 67 龍愛づる姫君 では、わたしの話を聞け〉 龍は魚形に変化し、すいと泳ぎ始めた。遍も空を泳いで、そ の後を追った。風に乗って坂を飛び降りる。 いる。 柔らかな髪ときつい瞳の持ち主よ。なぜ、龍は娘を欲しがる か、とおまえは聞くか。 己に充足し得ているなら、人の娘よ、おまえのように小さな ものは、 わたしの巨きなものを映す目を、掠めもしなかったろう。 龍のことを語ろう。聞け。 茂った枝は、くろぐろと夜空を覆っていた。垣間見る空に星 は な く、 月 は な く、 た だ 太 古 の 始 め の ま ま に 黒 か っ た。 遍 は、 かつて龍は、完全な生き物だった。 両性具有であり、なにも己のほかに求めるものがなかった。 河原の木陰に座っている。 を持つものとして描いたりしている。女体、男体、どちらも正 まえたちは古代の物語や絵に、龍を女体として伝えたり、男体 銀の魚は川に飛び込み、川となった。せせらぎが語る。 見よ。夜の川は美しい。 そのことをおまえたち人間は、うすうす気づいているな。お 人の灯は消え、蛍の明滅も途絶えた。 しいのだ。かつて全ての龍は、女と男の両方であったのだから。 錬金術の元となる賢者の石、そう人間は云っている。わたしを 龍 の 珠 は、 宇 宙 と 人 の 力 の 凝 集 し た も の。 龍 の 珠 は マ ニ 宝 石、 分かたれたわたしの女の部分は、珠にされ、地に降ろされた。 たしは男になった。 力を有するようになると同時に、わたしの躯は分かたれて、わ なかった。二千二百年前のことだった。成体の龍として完全な 龍の力は、この国においても、手付かずで放って置かれはし 滅ぼされた。 と、そしてイルルヤンカシュの龍は、女神と人間の男の共謀で 蛇がトールと相討ちで葬れること、摩護羅伽は仏教に帰依した おまえたちは世界のあちこちで伝えている。ミッドガルドの この緑椀の底で、限りある命のものたちは、静かに眠りに導 かれ、暗闇に身を委ねている。魚はひっそりと岩陰に身を寄せ、 鳥は樹間で胸に頭を埋めている。 水 だ け が 青 白 く、 生 き 生 き と、 い つ ま で も 飛 び 跳 ね、 流 れ、 変わり続け、同じであることをやめない。 紫紺と銀の糸を交互に編んでいる。 あ の 岩 の 上 を 流 れ て ゆ く 水 を 見 よ。 青 紫 の 闇 を 吸 い 込 ん で、 その岩の横を見よ。永遠に回転する渦が、黒と藍とを溶かし 込み、全ての時間を同じように回している。 んでまた水底に集まる。 十三夜の月が淵から流し出されて砕け、細かく散り散りに沈 川は巨大な一個の宝石だ。その宝石が、今、人の娘を欲して 68 に持っている。 監視する天狗どもの首領も、元来わたしの子宮だった一つを手 かぐや姫という名でおまえたちの伝えるものが、龍の珠の一 つを求婚者に求めさせたのは知っていよう。あれは地上の宝を かき集めると、月に帰ると称して姿をくらませたらしいな。お や、何も手に入れなかったと伝承しているのか。それならそう 信じていろ。 た。残された半分の男の躯ですら、人には脅威だ。 珠はそうして奪い去られ用いられ、一方のわたしは、零落し 再度、わたしは謀られた。わたしは尾を二つに割かれて中の 剣を取り出され、男としての力も減じられた。 影を盗まれるようになった。神より分かたれた影は、神に返ら ぬのなら、人に災禍をもたらすというに、それよりも人は、龍 が怖いか。 わたしは珠を奪われ、尾の髄を奪われ、そして二つに割かれ た尾を再生させる道すらも閉じられた。 それでも、坂ノ上の姫たちが祭事を取り持っている間は、ま だよかった。姫はもてなしを知っている。わたしは贄の甘い血 に酔い、束の間の柔らかな肉をむさぼって憂さを忘れた。龍は 一回の交尾に百年をかける。龍の愛に姫の寿命はついてこられ ない。しかし美しい女たちは人生に匹敵する快楽を求め、身を 捧げるものよ。 譲ってしまうと、わたしは呪文で縛られ監視され、自由に出歩 ところが天帝につながる天狗どもがやって来て、姫が祭事を くことも、 人の血の熱さを感じることも、 容易には叶わなくなっ る、不完全な存在にすぎない。わたしに残されたのは、矮小化 された躯、ほかのものたちに使役され、弓矢と幾たりもの謀で た。 おまえが接している今のわたしは、龍本来の半分の半分であ もって追われ隠れるだけの、それでも巨大な体躯だ。 わたしは呼び出されて人の願いを叶えるようになった。想わ し恋した姫の前で、切り刻まれ殺され、尾の中の男を奪われる り、桧や杉が生い茂っていたとおまえたちは伝えている。しか 誅殺した大蛇は、頭が八つあり、躯は八つの谷と八つの峰に渡 受けていた。すぐそこの出雲で、姫を喰らうからとスサノオが 見渡せばどこの龍も、似たような、いやもっとひどい迫害を れて神は息づき、崇められて神は強くなる。わたしの尾が再び 盆地で水と結びつき、独自に祀られた。 この盆地にわたしはしつこい追っ手から逃れて潜んだ。この 一つに閉じる日が来るだろう。龍は何度でも再生する。それが とは。そして、それほどの大きさのものを、龍とは呼ばず、蛇 おまえはわたしに、殺人者を手引きせずにいてくれるだろう と呼んで、貶めるとは。 また、わたしが呼び出しに答え、人と関る理由でもあった。 その危険に気づく者がいた。霧田津比女と云ったかな。賢し く、美しい女だった。三度め、謀と小細工が弄され、わたしは 69 龍愛づる姫君 な。 龍の姫よ、おまえは下界において、わたしの珠の近くにあり、 わたしの珠の息吹をよく受け、わたしの女そのものだ。百年愛 される覚悟はよいか。 おまえの心の形を感じていると、忘れていたわたしを思い出 まえの指先から甘い香りが広がって、おまえは有明の霜のかけ らに包まれる。 広がっている。深い淵の底にいる。太陽と月と星が回り、その おまえは風の裏側にいる。森の闇の中にいる。空いちめんに 裏側に闇が広がる。闇に落ち、闇をのぼり、水が、おまえの汚 れを洗い流していく。 やろう。何でも望みを云うがいい。卵はそのものとして孵るだ 来い。わたしはおまえを百年間愛そう。来たら、返礼に卵を す。かつてあったわたしを取り戻すことができるのではないか と、慣れ親しんだ諦念から脱してゆく。 ながる。 薄明は眠りの薄布と化して遍の躯に被さり、現は再び夢につ 遍と龍だけがいる。 何もかもが消え、同時に何もかもが自分になる。ただ空間に、 を閉じた。 遍は意識しないまま、自ら川に身を投げていた。水の中で目 来い。 ない。この龍と交わって龍の卵を産め。 ろう。おまえは世俗の男と、みすぼらしい現実を味わうことは 奴らに邪魔されることは予見している。 だから今夜、龍は姫に、露頭の道をつけるぞ。いや、龍の計 画の詳細は教えぬ。姫は半ば奴らの手先だ。だが龍と姫はこう して会い、復活を準備する。 この小さな土地に縛られた個の限定を脱ぎ捨てて、かつての ように完全な存在として、自由に天を駆けり、地を巡るものと して。 見よ。川が流れている。明け方が近づき、 霧が川面を薄く覆っ ている。朧にかすむ瀬は踊り、淵は息をひそめ待っている。ひ とりの花嫁が来るのを。 おまえが属するみすぼらしい現実を抜ぎ捨てよ。 もう目覚めなくともよい。 半睡の中で、心の障壁が消え、遠くの星が動き、地がずれる。 風がある、と思った。 風が上空でとぐろを巻き、少しずつほどけては遍の躯の上を 流れが岩を叩く音に、全ての現と夢が吸い込まれる。時間が ぽ つ ん と 停 ま る。 薄 れ て い く 星 明 か り も、 お ま え の 白 い 魂 も、 滑る。 何もかも川面に映っている。 指先を伸ばし、風を掴むがいい。きらめく龍の鱗は固く、お 70 遍の髪が頬から静かに離され、平らに広がる。 久しぶりに感じる水と風の快さに、遍はあおむけに腕をのば 低く垂れこめた帯状の雲は、ぐるりと平野を囲む、とぐろを巻 ……遠くで山々を囲んで、雲がたまっている。山脈に沿って いた龍になる。龍は、尾を自らの口にくわえようとして果たせ ない。尾が二つに割かれている。完全な円輪にはなれない。龍 していた。 遍はあおむけに川面を流されていく。 やがて月が昇る。満月の下にかかる雲は、秋のすばやさで通り 雲は夕方の茜色に染まっていき、しだいに沈んだ青に変化し、 の悲しげな咆哮。 げ た 腕 の 内 を 降 り、 胸 へ 移 る。 痛 み を 予 感 し、 遍 は 身 構 え た。 通り過ぎていったかに思えた風は、次に腕へ戻ってきた。挙 しかし、ただきもちよく通り過ぎただけだった。 ……岩陰に雪が溜まり、その対岸に、真夏の淵がある。 過ぎていく。 たさと熱は、人間の肌の生暖かさとは異質なものだ。遍は接触 同時に四季が偏在し、同時にさまざまな時間が過ぎる。 唾棄すべきことが起きているはずだった。しかし龍の鱗の冷 をここちよく受け容れた。 遍と龍は空中に浮んでいる。遍の長い髪は既に鱗の間に巻き ちらちらと下界の時は移り、空の色は、龍にも遍にも映る。 昼であり同時に夜である、二つの光が混じり合う。 く吸って、その中に水の匂いを感じた。露に湿った深い森のよ 風は眠りと遍の肌の間に入り込み、息を底まで吐かせる。深 うな、暗く熱い匂い。眼を開けると、水の面を流されつつ、木 込まれ、頭は縫い留められたように動かない。腕の内側から胸 に龍の躯を感じた。それが龍の尾なのか頭なのか、遍にはわか 陰にわだかまる闇を見た。 鱗の端が動くと、ほのかな光が揺れる。 風は夏の森の湿りと熱を含んでいて、しかし少し流れるだけ ほどに静かに穏やかに、神は遍の肌を撫でていた。 を凝らしさえしなければ、明け方に訪れた風と思われる。それ それはこの世にないのにそこにあるものの鱗で、闇の奥に眼 に思われる。 眼を瞑ると、躯の周囲にあるのは、やはり風でしかないよう と湿りが、 遍の腰の血を静かに脈うたせる。 心の芯が熱を帯びる。 らない。龍の舌先が腹を嘗めた。二つに分かれた舌の柔らかさ よりもずっと弱い、森の葉影からこぼれるような、薄い白みだ 龍の巻いたとぐろの中は暗く、細かな隙間には、星の明かり けがある。その白い点がかすかに灯された空を横ぎり、遍の躯 に真の闇を落として、龍がゆっくりと勃起していた。 遍は目を閉じる。景色が瞼の裏をちらちら映る。 ……春の雨上がりの早朝、濡れて鏡と化した路面に空と雲が 映っている。浅い水面を揺らす何ものもなく、あたりはひんや りとした清冽な空気で満たされている。そのような情景。 71 龍愛づる姫君 いで、溶ける感覚に落ち込む。撫でられる、接した面が移って で、肌にふしぎな涼しさを呼び起こした。遍はその涼しさのせ しだいに鱗は隙なく遍の肌の上に降りてきて、どこもかしこ 何かが準備される。龍の露頭、龍の復活。 た波がちらちらと立ち上がる。ちらちらと移り、時に遍の肌の ……遍は裸で山中の湖に浮んでいる。 無風。 四方で意思を持っ 再び景色が瞼の中を映る。 遍は小さな声を漏らしてのけぞった。空に逆さに突き出してく の先が食い込んで、そして一斉に小さな多くの角が肌からずれ、 暑くなり、耐えがたい。熱の巣になった肌に、きし、きし、鱗 えいだ。風の涼しさはうわべだけで、飲むほどにいっそう乾き、 が来てしまった。全ての肌の表を風に焼かれる苦しみに遍はあ も接し、きつく巻いてゆく。龍神に締められ喰われる、その時 曲面に添って三角形の尖りが這い上がり嘗めていく。限りなく いくのがもどかしくもあり、満たされるきもちでもある。 遠い空の下の、限りなく深い静かな湖だ。躯の下に広がる湖は、 る山の稜線。 くのにぐったりと身を任せる。脚の付け根を押さえられ、腰の 叫びたい声を咽で殺し、巨きな龍の胴が、柔肌を幾重にも巻 躯の上にある空と同じ深さがある。あちらとこちらの境に、ひ とり浮んでいる。己の全てを水に預けて湖面に浮かんでいる。 くぼみから胸の膨らみのすぐ下をきつく締められ、首を、髪を、 こどもの頃に感じた全能感が戻ってくる。 遍が両腕を広げると、両腕に世界を掴めた。 捉えられている。左手のひらに鱗の角が食い込み、牙でさらに る。 りとむきだしの肩を打つ。髪の一筋が濡れた唇の端に引っ掛か 強く押し付けられる。髪が引かれ、その一束が落ちてきてばさ 腕 の 中 に 世 界 の 曲 面 は 大 魚 の 腹 と し て 収 ま り、 尖 っ た 鱗 が、 静かに胸と腕の内側を擦っていく。 頬がいっそう湿った柔らかい流れの下になっても、なおさら 遍は、眼を開けることができなかった。 る。動き回る透明な異物の感触に、遍は浅い息を繰り返し、そ 熱くなった快楽の分泌を脚の間に滑り込んできた鬚で探られ れでも取れない胸苦しさに、口を半ば開き、眉を寄せる。心臓 移り、しゅう、とためいきの風を残して耳の下を突つく。埋も れた感覚が、脈のどこに隠されているか、掘り出そうとするよ の鼓動。限定の中で渇望が沸き起こる。濡れ溶けた感触が広が 濡れた冷たさは、森の空き地に届く月光のように睫から頬を うに。 心の痛みに似て、しかし全く異なる類の、浅いのか深いのかよ り、そこをゆっくりと擦られるたび、遍の苦しみは深くなった。 も熱く、空の陽よりも煮えたものが、龍の息を移され、たぎり く判らない、発している所も定かでない痛みに息を乱し、その 遍の内部で、流れがしだいに沸き立ってくる。夏の大気より 始める。 72 て、遍の脚から噛んでくるくると丸め、口中の珠となし、一つ を小さな両手で近づけ、一つに合わせる。龍の頭が近づいてき 光の中で、心は誰も見た事のない山の奥の湖にも劣らず澄み渡 の輪になった。 変な震えによって、どんどん哀しくなっていき、揺れうごめく り、龍の鱗の一つ一つを、まるでたいせつな物であるかのよう ……そうした愛撫に始まる交わりは百年間続く。 産み落とされた卵は光りながら下界に放たれていく。龍は白骨 龍のとぐろの間で女は年を取り、やがて老いた肌は腐り落ち、 に、透き通った面に映した。 しさと静けさは、躯の外と内とで、それぞれ堪え難い所にまで 「目覚めよ」 を抱いたまま、じっと動かないでいる。…… 龍がもう少し力を込めたら、遍の骨は砕けるだろう。もどか 達している。全てが鋭敏になって待つ。どく、どく、心臓が大 きく動いている。高まった熱い血が巡る。その脈動が躯全体を 同じリズムで打たせる。その脈が蜜を押し出し、流れ出した香 杖で打たれて、遍は飛び起きた。 同じような薄明だった。 は低い方へと肌の上を伝っていく。 もう少し風が強くなったら、遍の心が自ずと弾けて死ぬ。 遍は夜露にしとどに濡れ、木立の間に座っていた。 近くで川の流れる音がする。 河原にいた。 い匂いは、龍の息からだけでなく、龍の鱗を受け止めた遍の肌 ひどく長い、そのもう少しの時、森の苔を煮つめたような強 からも発している。指も肩も、意のままにできない、不思議に そばに立っているのは、萎びた小柄な老人だった。頭巾に隠 が光っているのはわかった。 のものよりずいぶんと立派な飾り物でごわごわと膨らみ、銀糸 された顔は半ば影になっていて、よく見えなかった。衣が宇暁 粘る躯で、溶けた眠りのただなかに腰を支点にぶらさがってい る。 自 分 が こ れ ほ ど ま で に 満 た さ れ る ほ ど、 空 っ ぽ だ っ た と は。 遍の中に静かに世界が入ってくる。 夢は現に、現は夢に。 ―― 自然はいつも繰り返す。 「この盆地で、かようなことをして、龍王堂が気づかぬとでも に、遍の中に降り続ける。水晶の雨、影の翡翠、春の慈雨、凝 数百年数千年分の時間は、きらきらと輝く水晶と翡翠のよう 縮された時。影のある雨は、遍の滑らかな肌の内部を滑り落ち、 お思いか。立ちなされ。帰りなされ。龍はああして娘をかどわ かし、己の国へ連れて行くつもりなのじゃ。龍との取引などと 世界中に流れ落ちていく。 遍は、目の前に垂れている龍の尾を、両手で掴んだ。その尾 73 龍愛づる姫君 んでもない。昔の姫は、龍と対等に渡り合ったという。じゃが きっと、龍の今の敗北は、計算されている」 「 …… で も 龍 は、 あ な た が 思 う ほ ど、 愚 か な 生 き 物 じ ゃ な い。 千 年 先 に 龍 が 勝 と う と、 今、 我 々 が 龍 に 勝 つ こ と の ほ う が、 と は、 今 の こ の 時 を 切 り 抜 け る、 と い う こ と で は な い か な? 「 そ れ が 龍 の 姫 の 直 観 か。 …… だ が、 我 々 に と っ て 大 事 な こ 老人は、遍をまっすぐに見た。 あんたの前の数代は力がなく、あんたを知識と経験で導ける姫 はおらぬ。取引をするつもりで、あんたは龍に魅入られて己の 全 て を 捧 げ て し ま い、 帰 っ て こ ら れ な く な る と こ ろ じ ゃ っ た。 しかし、あんたに寄せられた龍の精気は、全てこの呪符が、横 から吸い取った」 我々にとっては意味があるのではないかな? であるからして、 我々は今、龍の牧人じゃ」 「護符をあっさりと捨ててしもうて。さあ、これがあんたの新 「龍は非情で愚かよ。執念深くはあるが、今となっては、この 老人は、手元の大きな札を見せた。 しい護符じゃ。人死にを見たくなくば、護符をちゃんと持って 老人はことばを続ける。 た。これだけあれば我らが目的には叶う」 程度しか使い道がない。それにしても今夜はよく精気が集まっ 老人は護符を着物の合わせにしまった。 おれ。 あんたは今宵、自分の力で『影』をよけられた、 とお思いか? 「あなたが、龍王堂主。宇暁……さんの先生?」 「そうじゃ」 我が呪句が、横からひそかに入ったのよ。龍雲が出た時から たの地所にある亀石、あれにあんたがたは、龍から出る『影』 我らに龍を譲るに至ったか、知らぬわけではあるまいな。あん しかし、とうに姫の時代ではない。あんたは、なぜ坂ノ上が 在に龍を使役させられる力の持ち主と見た。 の封印を自ら解いたとは、恐ろしい資質よ。訓練を積めば、自 「じゃが惜しいの。あんたは、自力でここまでやってきた。あ 老人は遍を置いて行きかけ、立ち止まって、振り向いた。 は、ひとりで龍を呼んではならん」 姫の動きは監視しておった。わしらがおらぬところで、あんた 「……ずっと、見ていたのですか?」 「さあ、立ちなされ。待っていても宇暁は来んぞ。修行の足り ぬ者には到底見ていられん光景じゃった」 遍はこの老人を、好きにはなれない気がした。 感覚の痺れた両脚を前に投げ出して座ったまま、遍は聞いた。 「その御札を、どうするのですか? 何に使うのですか?」 老人はあっさりと明かした。 「 杖 に 貼 り 付 け て 使 う。 雷 電 が 出 る の じ ゃ。 見 世 物 に は せ ん。 悪いようにはせん、心配するな。我らは神通力を獲得し、その 力で衆生済度を憧憬しておる」 74 を寄せていた。坂ノ上で龍を呼び出せば、 『影』は亀石に自ず と吸い寄せられるようになっておる。しかしあの亀石は、もう 満杯じゃ。あれに換わる石を造る技術を古代から近世に至る間 に失っていたために、あんたがたは、龍から手を引いた。 割れたら、千四百年間溜められた『影』が、いっせいに溢れ出 今 度 あ れ に『 影 』 を 寄 せ た ら、 あ の 石 は 満 ち す ぎ て 割 れ る。 す。それほど大量の『影』は、我々の手にも余る。ひとりでは、 龍をいっさい呼ばぬことじゃ」 老人は去った。 朝はしらじらと梢のほうから訪れる。 青 味 を 増 し た 闇 は、 夜 の 深 ま り の 一 部 の よ う で あ り な が ら、 次第に色を変換する影響力を拡大し、夜を内側からすっかり喰 い尽くしてしまう。しかし、朝は夜を駆逐してしまったわけで はない。朝は夜の内側から出てきたものであり、明るくても夜 そのものだ。蛇は抜殻を残して、何度でも繰り返し生まれ出る。 現は夢に。 ―― 遍はまだ痺れた躯で、その場に座り続けていて気づく。朝が 来 て も し か し 朝 は 夜 で あ る こ と、 目 覚 め て も こ の 一 日 の 中 に、 この自分の中に、過ぎた夜が形を変えて在りつづけること。 左手のひらを開くと、鮮やかな銀の三角形が三枚、肌に張り 付いている。剥がそうとしても剥がれない。皮膚の表面に、未 知の力でインプラントされたかのようだ。 これが龍の秘密裏の計画の一端なのかはわからない。こども の時に受け取った鱗は、今、また新たな意味を獲得し、いっそ うはっきりとした形を取って、現の中にあった。 自分と龍はつながれている。それを、もう否定はしない。 ―― けれど再び、龍の誘惑に負けたことも否定しない。もっと訓練 を積みたい、と遍は思う。 75 龍愛づる姫君 姿・形を変えること。姿・形が変わること。 変容 ぶなの森に上りました。ところどころが墓標のごとくに真っ 黒に立ち枯れていました。山頂の湖に、豊かに水はたたえられ ていましたが、何かが違っていました。 都市からか、それとも高速道路からか、酸性雨が山奥にも届 樹が変わり、この土地は千年ぶり、二千年ぶりの変化の下にあ いたのやもしれません。数百年、千年、この土地に生え育った 宇暁様 ります。 森は水をたくわえ、水は森を育てる。 川べりのさくらも咲いていますか。 両親が離婚して、わたしは、大古屋遍になりました。今まで、 オ ー ン、 ド ォ ー ン、 と 鼓 動 し て い ま す。 森 に 変 化 が 起 き て も、 今、梅雨で増水した沢は、至るところで太い滝を作って、ド しかしまだ、豊かな水はあります。 そう呼ばれたことはなかったので、妙な気分です。父とは、ずっ と会っていません。あまり、考えないようにしています。母は 宇暁 大事な時に情けないですけど。こちらでもまた考えたり、調べ わたしは、いとこに近づく可能性のあることを避けておきます。 いろいろ考えたのですが、今年の夏は、そちらに行きません。 宇暁様 夏の気配の中で 仕事をがんばっています。利子おばさんはどこか悪いところが 見つかって手術するそうなので、いとこはしばらく出歩けない と思います。二人はいつもいっしょなので。 るような気がして、何だかとても気になります。 そちらを思い出します。そちらがどうなっているか、何かあ 図書館で、こんな歌を見つけました。 大古屋遍 拝 真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり 子規 組んで練習することができなくて。手首を掴まれ、人の体温を たりしました。護身用に、合気道を習おうとしましたが、人と 大古屋遍様 大古屋遍 感じたのがだめでした。二日でやめました。 この世から見送っている感があります。かつて在ったものは失 龍の力は衰えつつあります。急速に遠のいていく龍の気配を、 われ、もはや記憶の中だけで存在感を発揮しています。 76 10 大古屋遍様 新しい御札を同封します。古い御札を送り返してください。 どうぞお大事に。 秋の川南より ました。師には、私よりもっと大局が見えている。私は、この 一つ所の森と山を愛しすぎている。 大 き な 動 き が、 四 端 の 仲 間 た ち の間 で 起 こ り つ つ あ り ま す。 我々の流派は、龍、麟、鳳、亀の四端に分かれて、この千二百 年間行動してきましたが、今や各地に十数人の精鋭を残すのみ の た め に、 四 端 の 力 を 使 う。 そ の 時 が 準 備 さ れ つ つ あ り ま す。 にそぐわなくなりました。しかしその代わり、もっとよいこと となっています。千二百年前に立てられた目標も、今では時代 宇暁様 私は師の決定を支持します。 宇暁 御札を送ります。 宇暁 美十狛を掘り返すだなんて……! 宇暁様 何か変わったことがあったら、教えてください。わたしには どうしようもない事だろうけど、とても気になります。 大古屋遍 大古屋遍様 ……もしかして、わたしが勝手に御札を捨てて龍を呼んだの で、龍王堂は、こうすることに決めたのですか。それならこれ あなたが去年一年身につけていた護符に、龍の精気は溜まっ て い ま せ ん で し た。 堂 主 は、 龍 が あ な た に 一 夜 を も て な さ れ、 は、わたし自身の行動が招いた結果だということ? ね。本当に発掘する意味はあったの? 新聞を気をつけて見て 古墳は、副葬品はあまりたくさんは出てきていないようです その饗応の後、ついに二千二百年間いたこの川を離れ、地中に 潜ったと考えています。堂としては、この三百年の間に充分な 精気を集められました。 ところで、いとこが、バイクで転んで大怪我をしたそうです。 いるけれど、一回ニュースになったきりでした。 龍王堂は、美十狛を町に売りました。町が費用を出し、古墳を さて、川の上流である美十狛で、古墳の発掘が始まりました。 人が変わったようになったとか。そんなことって、ありえるん 深 夜 に 単 独 の 自 損 事 故 で す。 ず い ぶ ん 怖 い 思 い を し た ら し く、 露頭を閉じ、美十狛を売るのは師の決定ですから、私は異議 でしょうか。本当にいとこが安全な人間になったのなら、緑椀 掘り返しています。 現場に、頻繁にあなたのいとこが来ています。 を挟む立場にありません。それでも、破門を覚悟で師と対話し 77 龍愛づる姫君 へ行ってもだいじょうぶかな。 大古屋遍 大古屋遍様 こどものとき、夏休みは、もっと長かった気がします。 今、わたしはあっというまに、元の都会の生活に戻ってきて しまいました。 御山で、最後の護符を手渡しで返して、そしてもう、新しい いつも御札を提げていたところに、今、何もない。 龍がいないのなら、御札はもう必要ない。 護符は準備されていなくて。今年の御札を、もらわなくて。 に、ひどく人が変わったということです。それまで、未成年な 最後の護符を返した、夏休みの最後のあの日。いろいろ話そ あなたのいとこの事故の話は、こちらでも評判です。たしか のに道路で泥酔しているのを補導されたり、それを叔父さんが うと思っていたのに、宇暁さんに会うと、頭が真っ白になって、 記録に残らないよう揉み消したり、と行状はかんばしくありま せんでした。しかし、一夜にして死の淵を見て改心した、とい 話そうと思ったことを全部忘れてしまいました。黙ってばかり いろいろ話してもらったことも、あまり頭に入らなくて、た いて、すみませんでした。ちょっと緊張してしまっていました。 うことです。田舎では、よい噂はなかなか立たないものですが。 ました。翡翠の勾玉を、深夜に保存現場から盗み出し、そこで いした返事が出来なくて、すみませんでした。その時、うまく あのいとこが、発掘品を自分の物にしようとしたことを聞き 例の自損事故を起こしたのですが、勾玉は傷一つなく、無事に ない、という、そういうことを言いたかったです。宇暁さんは、 言えませんでしたが、神は命をはぐくむけれど神は命を理解し 村人はむろん、古墳を暴いた祟りだ、とも囁き合っています。 龍がいなくなった理由として、人心も龍から離れた、とおっしゃ 検証室に戻りました。 そんな発掘ももうすぐ、終わるでしょう。 せん。 いましたね。でも、龍から心が離れたのは、わたしかもしれま 向かい合って水を飲んだとき、おいしいのかおいしくないの れた」と言われましたね。ああいう言われ方は、腹が立ちます。 久しぶりに会って、開口一番、「すばらしく、きれいになら た。あなたの手を握りたいと思っていました。 正直に書きます。わたしは、一つの考えで頭がいっぱいでし 上流で土が露出されているので、川の水は濁っています。 宇暁 半月の夜に 宇暁様 ビ ル の 間 に、 ぼ ん や り に じ ん だ 月 が 出 て い ま す。 こ の 月 を、 宇暁さんも見ているでしょうか。 78 たので、ばかだと思われたでしょうね。 か、味はまるでわかりませんでした。わかるふりもできなかっ いっしょに山を降りて、送ってくれた道。もっと長いといい のにと思いました。あなたの手を握りたいと思いました。 大古屋遍 龍の姫 大古屋遍様 と 澄 み 切 っ て い ま す。 あ な た も も し こ の 月 を 見 て い る な ら ば、 けれど今宵の月は、漆黒の雲に隠れてはまた現れ、冴え冴え あなたと今の時間を分かち合える。今宵の月はきれいです。あ まりに澄みすぎて、目が痛くなる。 二伸 龍王堂主が永眠しました。私が龍王堂を継ぐことになりまし た。 べて新しい知見がなかったので、潰されます。 美十狛に工場の建設が始まりました。全国のほかの古墳と比 きっと私には、大きな出来事でした。今、それが起こらなかっ 龍王堂主 宇暁 私も正直に書きます。もしあなたに触れられていたとしたら、 たのは、幸いであると思います。 分 に 都 合 の い い 願 望 と、 意 の ま ま に な ら な い 肉 の 身 体 を ひ き 私は、醜い獣の尾をひきずった中年の男です。もろもろの自 ず っ て 山 の 上 を め ざ す、 こ の 年 に し て い ま だ 修 行 中 の 身 で す。 きれいごとの目標に、生身の身体をひきずって行かざるを得な に期待しているとして、それには応えられそうにない。 い身です。こんな私はあなたの期待に、もしあなたが何かを私 私はあなたに比べて、残り時間が少ない。それは、対等では ないことです。あなたは若く、私はあなたが思うほどおとなで もない。そして私は、あなたを龍の姫として理解している。 人 の 心 の こ と は、 一 時 の 気 の 迷 い で、 数 年 後、 十 年 後 に は、 消えてなくなってしまうものかもしれません。私はそれよりも 確かなことのために生きたいと願っています。 79 龍愛づる姫君 離別 若さゆえの鈍感さだ。髪は思い切ったショートカットにした。 今、二十歳の遍は母と二人で田舎に向かっていて、そうして 遍が一番に会いたいのは祖父母ではなかった。 電車が巨大な駅舎を滑り出し、車輪がレールの継ぎ目を越え 抱き寄せると一つがまた穴から覗く。遍は次々に引っ張り出し 人に別れること。別離。夫婦の関係を断つこと。離婚。 た。指先で触れただけでは、それはほんの小さな断片にすぎな る規則正しい音を響かせ始めると、穴から覗く小動物のように、 返した。遍は、お母さんと二人で泊まるから、と、聞かれたの 電話口の祖母は何度も、本当に来てくれるんかいな、と繰り い。しかし引き出してみると、膨らみながら次々に模様がつな 懐かしい思い出がはみ出した。遍はそれを差し招いた。一つを と同じ回数だけ繰り返し、祖母は耳が遠くなったのかと危ぶん がって、抱えきれないほど大きな思いが現れる。 橋げたの影が順々に車内に落ち、海近い河口を渡っていく時、 だ。 完成し稼動していた。もはやカヌーは一艘も浮いていなかった。 増 え、 横 一 列 に 並 ん で い た。 海 へ の 出 入 口 を ふ さ ぐ 河 口 堰 は、 風景の変化に気づいた。水面の向こうに建つ巨大な柱の本数が そ の 手 が、 大 古 屋 遍 様、 と 書 く よ う す を 何 度 想 像 し た だ ろ う。 昔ながらの漁船がひとつきり、陽光を浴びて河を横切っていた。 懐かしい筆跡の手紙を遍は受け取っていた。 ―― その手跡な ら、住所の最初の一文字を見ただけで、誰からの手紙かわかる。 何度、むなしく郵便受けを覗いただろう。電話帳を調べて龍王 車場を備えたショッピングモール。走っても走っても同じ所に の小さな駅前。田圃の真ん中に突如として出現する、巨大な駐 再開発されてビルとペデストリアンデッキができた、かつて 堂の番号をあっさり見つけ、しかし実際に電話する勇気は出な かった。人のきもちは、働きかけたからといって、動かせない ことがある。 しか行き着いていないように、同じコンビニ店鋪が繰り返し現 こども時代の日々はあんなに鮮やかだったのに、長じるに従 い、忙しさを理由に、思い出として畳んで箱に片づけてしまう。 れた。 りが一列に庭先に並んだ農家があり、畦道にむくげが開き、切 しかし、そうした変容は風景の一部分だった。まだ、ひまわ 車両変更やダイヤ改正で田舎までの時間距離は短くなり、格段 レポート制作、実習課題、サークル活動、アルバイト。忙しい り通しの崖一面に笹百合が咲いていた。稲田の緑は水平に広が に 便 利 に な っ た の に、 専 門 学 校 生 に な っ た 遍 の 足 は 遠 の い た。 という断り文句を祖父母に対して残酷だとは思っていなかった。 80 11 目鼻立ちの濃い男女があちこちで腰に腕を回し合っていた。露 改札の内外には外国語が溢れ、肌に隙なく貼り付く服を着た、 フォームに落ちる夏の日射しは明るい。 出された臍が視界のそこここから目に入った。ベビーカーから り、山は竹林や雑木でこんもりと覆われ、止まるたびプラット やがて、川に沿って電車は走り始めた。 赤ん坊の泣き声がして、真っ赤なサマードレスのこどもたちが、 その間を、くすんだ色味の服装の日本人たちが伏目がちにす 親たちのおしゃべりのそばではしゃぎまわっていた。 川の水は、茶色かった。底の土や石の色を透かした自然の色 だと思えた。 り抜けて行った。 も日本人も並んで乗り込んで行くのは、宅地と工場に向う新し バス停の位置は変っていた。路線は編成しなおされ、外国人 遍は思った。 ―― こどもの時には、きっと何もかもを新鮮な 目で見たから、川は銀を溶かした色をしているなんて、ファン タジーを思ったのだろう。今、冷静な二十歳の目で見ると、川 にいる駅員のほかは誰ひとりいなくなった。沈黙がエンタシス 十分ほどの喧噪ののち、駅舎は閑散とし、ガラス戸の向こう いく。 滑り込んできてドアが開き、ひとりずつ家族を拾って発進して ロータリーには軽自動車が列をなしていた。順々に車寄せへ い路線だ。 の水はその底の石の色と同じ、何ということもない、凡庸な茶 色だった。 ―― これがおとなになる、ということの結果なのか。 魅惑が失せてしまった後の風景は、ただそこにあるだけだ。 察した。 川は心に働きかけてこず、遍は電車の中からその形と色を観 幾度も頭の中でその名を繰り返していた、親しい響きの駅に ギ リ シ ャ 建 築 風 だ。 売 店 も 錆 び た ア イ ス ボ ッ ク ス も な く な り、 があちこちに建てられて様変わりしていた。柱だけを見るなら、 立ち尽くしていた。ひなびた古い駅舎は、白いはりぼての丸柱 荷物を持って降り立った遍と稼は、驚きのあまり、しばらく た。スーパーのビニール袋がのぞいたキャリー付きの荷物を抱 ているさびれた駅前商店街から、ゆっくりと老婆ひとりが現れ 稼だけだった。 発車時刻が近づくと、 軒並みシャッターが閉まっ 三十分待ってようやくミニバスが現れた。乗り込んだ客は遍と 国 道 を 走 っ て 盆 地 に 入 る 路 線 は、 乗 り 継 ぎ の 便 が 悪 か っ た。 の柱の間を漂い、デジタル時計がぱらぱら移る。 観葉植物を飾ったコーヒーショップとベーカリーに変わってい え、苦労してステップを上がり、回数券をちぎった。 到着した。 た。 切符は自動改札機に通した。 81 龍愛づる姫君 ミニバスから降車しても、丸い椀の底にいるのではなかった。 川南の山の一角が大きく削り取られ、のっぺりとした巨大な箱 「バス停に、来てくれてると思ってた」 遍はこどもっぽい、甘えた口ぶりになった。祖母はあっさり 「この歳になると、坂の上り下りは、めったにようせんと。下 と返した。 緑椀の縁が欠けている。 りると、上るのが、かなんで」 がそこに着地し、スカイラインに食い込んでいた。 北側の坂のてっぺんに大小一対の人の姿が現れ、遍たちに手 「えらいまあ、ちょっと来んうちに、変ってしもて」 母の稼が、それに被せるように失望を口にした。 「ちょっとって、あんたら何年も来んかったやんか」 を振った。遍は手を振り返した。祖父母は、なぜかこれまでの よ う に、 坂 を 下 り て 迎 え に は 来 な か っ た。 そ こ に 立 っ た ま ま、 「そんなん云われたかて、仕事があったもん」 遍たちがじぐざくの坂を上るのをじっと見下ろしていた。 石垣の隙間に筋張った夏草が生えている眺めが、懐かしかっ 「ふん。うちらも、いまだに仕事はやめとらへん」 振り返ると、盆地が見渡せた。 た。しかし石垣の内側に、稲穂の列はなかった。そこは水田で はなく、ただのしらけた空き地だった。平らな乾いた土に、雑 坂の上に立って、両腕いっぱいの世界を見渡す。 やけに巨大に見えた。 乾 い た 地 肌 を 暴 露 し て い た。 新 し く 山 肌 に つ け ら れ た 道 路 が、 今や青垣は、工場のために円形の囲みを崩され、南西一帯に 草がぱらぱらと生えているだけだ。 石垣を外側からコンクリートで一面に固めた、表情のない斜 面もできていた。 角を曲がるたび、より近づいた祖父母を見上げて手を振った。 た。しかし工場の壁の下にあると、その屋根は豆腐に対する鷹 その斜め下に、龍王堂の屋根の曲線が昔と変らずに覗いてい の爪ほどに慎ましく見えた。 二人が笑顔でいるのがわかって、遍は安心した。 ようやく坂を上りきった。 稼は呆れたように云った。 長身の祖父は以前と同じように黙ってにこにこしていて、白 髪がアインシュタインに似て絡まり合って逆立っていた。 「それが、水源地のきれいな水が、要るんやてさ」 「なにもわざわざ、あんな所に造らんでもよかったやろうに」 「それにあれは、何なの。田圃の真ん中の、変な建物」 祖母は縮んでしまっていた。その腰は曲がり、遍は身長が伸 びたわけでもないのに、祖母より頭一つ半、高くなっていた。 「けったいやろ。ラブホテルやて。めだつのは商売やでって」 「よう来たな、よう来てくれた」 いつもの歓迎のせりふに、 82 い塀をめぐらし、細部に西洋の城の意匠を取り込んだ建物が出 踏切を越えた先に、マゼンダと紫で外壁を横縞に塗り、黄色 現していた。 平野部にも、稲穂のないがらんとした区画が目立った。盆地 遍はひとりで家の奥へ行った。 どの部屋も狭くなり、天井が低くなっていた。 ―― 自分が成 長した証拠だとしたら、これはつまらない結果だと思った。畳 の数を数えてみる。とほうもなく広い庄屋屋敷だと思っていた 網 戸 か ら、 庭 を 渡 っ た 風 が 吹 き 込 ん で き た。 深 い 軒 の 下 で、 けれど、いつも寝ていた南東の部屋はただの六畳、床の間のあ 畳はひんやりとしていた。以前と同じ位置にきれいに刈り込ま る南座敷は八畳間だった。 「高齢化でな、田圃をやめる人が多いんや。ああ、そっちは枝 れた同じ庭木があり、よく手入れされた庭の苔は、記憶と一致 はもはや、一面の緑のじゅうたんではなかった。 豆や。枝豆のほうが、今はお米よりお金になるんや。さあ家に 「バアチャン、こんなにあちこち、休耕ってこと?」 入って、何か飲もう」 奥の土壁を飾る古い武具を、遍は懐かしく眺めた。物心つく する深い緑色だ。 成長した桜並木ですっかり覆い尽くされていた。遍が左手を開 が黒光りしていた。久しぶりに見ると、ほかでは目にしたこと 前からずっとそこにあった。架けられた槍の右側では、大黒柱 遍はもう一度、世界に視線をさまよわせた。盆地中央の川は、 くと、銀色の鱗は今も鮮やかに、十六の夏と同じように手の上 がないような太さの大黒柱だった。大黒柱だけでなく、床の間 で輝いていた。あの川底に、もう龍はいない。それでも、まだ、 こちら側に残っているものはあると思えた。 を 囲 む 四 本 の 柱 も、 異 常 な く ら い に 太 く て 立 派 な 丸 木 だ っ た。 遍は畳にねころんだ。 大古屋は、昔は本当に名家だったのだろう。 台所には電子レンジが置かれ、冷蔵庫がひとまわり大きくなっ 肩口から風に浸された。 ごちゃごちゃした台所で、梅のシロップの水割りをもらった。 ていた。そうした電化製品は、母の稼が両親の生活の便をおも 天井の木目模様も、 霧田津比女の横長の額も、 変わりなかった。 風と共に、何かが心に戻ってくるのをひたすら待った。 降ってこなかった。 けれどその空間にいても、遍の心は乾いたまま、もはや夢は んぱかってプレゼントしたものだった。 あれこれの消息を語り合う母と祖母の傍らで、遍は台所の天 井を見上げた。太い柱にはまだ龍王堂の厄除け札が貼ってあっ た。長らく取り替えられていないらしく、すっかりくすんで柱 に溶け込んでいた。 83 龍愛づる姫君 夕食には、祖母の心尽くしの手料理が並んだ。いんげんのご まあえ、玉子豆腐、茗荷の吸い物。 「遍は、これが好きやったやろ?」 「そうだっけ。そうだった。おいしい」 られた。 舗装し直され、 道幅が拡張されたところもあった。新しいカー ブミラーやガードレールがついていたりした。 ところどころの家も建て替わっていた。庇が黒い影を落とす の横板を貼り、出窓にキャラクターグッズを並べた住宅があっ うな家が出現していた。尖った三角屋根の下に、 レモンイエロー 日本家屋の合間に、別世界から竜巻きに飛ばされて着地したよ は恥じた。 た。また、丸太を横組にし、ピンクの花を軒下に飾ったログハ しかし、玉子豆腐は塩がきつかった。母が指摘すると、祖母 「 年 を 取 る と 舌 が 鈍 く な っ て あ か ん わ、 口 に 合 わ ん だ ら 残 し に近づく。その塀に沿って歩くのは気がひけたが、そこがいつ けったい、と祖母が評した、マゼンダと紫と黄のラブホテル 国道を渡り、線路を越えると、陽射しが強くなってきた。 だった。 遍は南に向かって坂を下った。このまま川を見てみるつもり れていた。 小さな納屋ほどに整った、立派なゴミの分別ボックスが設置さ か つ て 大 木 が あ っ た 道 の 曲 が り 角 に は、 切 り 株 だ け が 残 り、 り、と農家の庭は手狭になっていた。 れていたり、二台の車が玄関先に頭を並べて突っ込まれていた 家族の洗濯物が、夏の朝日を浴びていた。車庫が庭先に建てら 浴衣とTシャツと小さなこども服、といった三世代にわたる れていた若い世代が戻ってきたのだろう。 祖母が云うとおり、工場ができて村に雇用ができ、田舎を離 ウスがあった。 て」 夜は蒲団を敷き並べて一つ部屋に寝た。この家に母が泊まる のは、乳児だった行彦がいなくなってから、これが初めてだと 遍はようやく気づいた。 それでは、もう、ここに来てもよいことになったんだ。 ―― 遍は祖母にお話をせがみたかったが、疲れているのか祖母は すぐに盛大ないびきをかいて寝入ってしまった。 目が覚めると母の蒲団は、隣の座敷の、閉められた襖の向こ うに移っていた。 「歳を取ると呼吸気管も悪くなるのかなあ」 と母は朝食の玉子御飯を混ぜながら云い、祖母は、 「夜通しやかましゅうてすまんこって」 とちょっとむくれた。 朝の薄い影が路上に斜めにあるうちに、遍は外に出た。 大古屋の部屋と同じように、村内のどの道も、狭く短く感じ 84 みを帯びていた。その周囲の地面には荒い砂利が敷き詰められ ている。かつて水はここを嘗めていた。この岩から、十一歳だっ もの通り道だった。楔石の意匠で飾られた縦長の窓は閉ざされ そ の 上 を 進 む と、 ざ く ざ く と 砂 の 緊 密 な 模 様 は 踏 み 壊 さ れ、 て黒く、小さな尖塔からは赤い文字で価格やサービスが垂れ幕 ところどころに混じった大ぶりの石が足首を曲げてくた。寨の た遍は水に落ちたのだった。 気詰まりな気分で建物の横を通り過ぎてしまうと、懐かしい 川原を歩くほどの永遠を感じたが、ほんの数歩の距離だった。 に記されて垂れていた。 景色が見えた。稲はさらさらと風になびく。しかし緑の波頭が がようやく水に満たされる程度の浅さで、かろうじて流れてい 少ない流量が薄く平たく広がって、上流も下流も、石の隙間 れた。 水はようやく足元にあった。水の舌先が、石の影のように現 順に伝わっても、休耕田が行く手に待ち受けている。風の波は すぐに途切れて見えなくなる。 川にはすぐ着いた。こどもの時には世界を横断する心地がし たが、おとなになった今の足で、 盆地はほんのひとまたぎだった。 た。 細長く広がる池だった。水はかすかに臭っていた。底の石を透 いや流れているというほどの動きもない。うっすらと左右に 桜の幹の間に、川岸に降りる立派な階段ができていた。コン ことに気がついた。 降りた下には、 パステルピンクのコンクリー か す の か、 汚 れ て い る の か、 こ れ が 今 日 の 光 線 の 加 減 な の か、 クリートで固められた段を降りる時、以前は水音が聞こえない トタイルが数メートルの幅に敷き詰められていた。丸太を模し 濁った茶色をしていた。 けた石の間で魚が茹だり死ぬ。遍は足を早めた。 晒して、幾匹も浮んでいた。浅い水の温度は簡単に上昇し、焼 悪臭が高まる。岩と岩がつくる水溜りの角に、魚が白い腹を しめた。 炎天下、靴底を押してくる石は焼けている。両手を固く握り 下側をも埋めていた。 いた。短い影は真黒に石の裏側に貼り付き、向こう岸の樹木の 夏の昇っていく日射しは樹の枝を縫い、まぶしく降り注いで た、これもコンクリートのテーブルとベンチが置かれていた。 遍はまっすぐ前へ進んだ。 平らな親水護岸は直線の縁となって終わり、その先には懐か しい川原石が転がっていた。 人の頭ほどの黒ずんだ石が折り重なり、流木や砂利が隙間に詰 川 原 石 の 間 に 入 っ て も、 し か し、 水 が 近 づ い て こ な か っ た。 まっていた。 大きな岩の横で立ち止まった。位置や頂上部の形からすると、 乙女岩に違いない。乾いた基部は巨大な踵のような、意外な丸 85 龍愛づる姫君 その下流にあったのは、川ではなく水路だった。両岸と川底 の三面を、ぴったりと全てコンクリートで固めた巨大な溝。あ たりを見回し、地形を見定めると、川幅はここで狭まり、カー たからなのか、それともこの物質自体が龍がいなくなってすっ かり魅力をなくしたからか。 の銀の鱗が現れた。しかしその手のひらは奇形に見えた。美し かった。河原に石を滑り落とした。手のひらに埋められた三枚 遍は石を手のひらに乗せた。そこはもはや盆地の中心ではな け れ ど も う、 龍 神 淵 で あ っ た 赤 い 筋 の 入 っ た 滑 ら か な 岩 壁 は、 いとは思えなかった。この手がこの世界の中心だとはとうてい ブ し て い る。 龍 神 淵 は、 た し か に こ の 場 所 だ っ た に 違 い な い。 どこにもなかった。 道路に引き返す道は遠くて、本当に寨の川原にまぎれこんだ 思えなかった。 人間の力をもってすれば、神が行う以上に、どんなこと ―― でもできてしまう。 てきた。疲労と無力感が重くのしかかって、夢想の翼は広がら ない。龍王堂がこれに加担したとは考えたくない。宇暁は反対 気がした。 頭の芯から太陽に晒され、 目の奥にまで黒い影が入っ に残されたわずかな薮だのに、過去へのつながりを求めた。 せんというのも、大事やのに。 ―― 遍はしばらく周囲を見回して、遠くの山の形だの、護岸の上 物事から、龍から、置いていかれたという気がした。 したはずだ。堂主に、進退をかけて。しかしあの狡猾そうな老 うまく仕組まれた予定調和だ。 しかしそれらの印は、思い出のきっかけとして働き始めるこ ずきにも真夏の照り返しを浴びて無駄に立ち尽くしている、過 人は宇暁を納得させて既に逝き、今は宇暁が堂を継いでいる。 去を伴わないひとりぼっちの二十歳だった。過去は自分の記憶 となく、遍はいつまでたっても、臭い巨きな水路の脇に、もの の中にしかない。 こうした状況だから、遍は宇暁からの手紙を受け取ることに 雇用がある。古臭い迷信はすたれた。皆、幸せになった、のか。 工場が水を大量に使い、川が干上がっても、水を必要と ―― する田はちょうど減っている。農業から文句は出ない。工場に るように思われた。 なにもかもが、散文的にばらばらと、脈絡もなく存在してい 魅 惑 が す っ か り 消 え 失 せ た 場 所 は、 つ ま ら な い 場 所 の ま ま、 はいなかった。上流の方の国道を皆は車で通るので、幅の細い なったのだ。 ―― 最後にお会いしましょう、という。 遍は橋を渡った。石橋は古いまま、いまだに架け替えられて どんなに見つめても変化の兆しもなかった。 ぽく乾いた石だ。龍神淵のかけらだろうか。夢中になるほどの この橋はほとんど使われなくなっている。石の隙間のセメント 遍はかがんで足元の石を拾った。 赤紫の筋が走り、 全体に白っ ものは、何も感じ取れなかった。 ―― それは自分がおとなになっ 86 がこぼれ、その下から、鉄筋と荒い砂利が覗いていた。 五分も歩けば道は上りになり、川南の山の端に到着した。遍 は 石 段 を 一 つ ず つ 踏 ん で い っ た。 ち ょ ろ ち ょ ろ と 細 い 水 路 を、 三度、またいで渡った。 遍は横にぶらさげられたばちを取り、そっと叩いた。門が崩れ 苔 む し 傾 き か け た 門 の 柱 に、 小 さ な 呼 び 鈴 が 下 が っ て い た。 落ちそうな気がしたので、静かに鳴らした。 も若く、今の遍より歳下に思えた。 以前のように、若者が下駄を鳴らして駆け下りてきた。とて どうぞ、と小さな山門は開けられ、遍は首を屈めて、朽ちか けた木の敷居をまたいだ。 い存在であるように思えた。 道の両側の古い緑の木々はみっしりと茂り、以前と変わらな れていた。結袈裟は豪華に飾られ、腰のあたりにも、何か謂れ ていた。衣は緑青色のままだったが、流水文様は銀糸で表現さ があるのだろう物がぶらさがっている。 穏やかに、宇暁は遍の足労に礼を云い、前と同じ広場の一隅 へいざなった。 遍は、自分がふつうに振る舞えているのが不思議だった。あ れ ほ ど 恋 し た 人 が、 す ぐ 目 の 前 に い る。 緑 の 木 々 に 囲 ま れ た、 柱と床と屋根だけの建物に遍と宇暁は上がり、草を編んだ円座 を敷いて向い合った。 面と向かうと、表層の形に遍は緊張した。相手は堂々とした 中年半ばの男で、今や龍王堂の最高位の衣をまとっている。宇 暁の目ではなく、宇暁の両膝に置かれた両手を遍は見た。指は 太く、爪は短く、関節には皺が盛り上がり、見慣れない新たな 染みを幾つも載せていた。その手は、遍の手とは全く異なって いる。 黒砂利を敷き詰められた楕円形の広場に出た。広場は鬱蒼と した濃い緑に囲まれ、箒の掃き目が広がり始めた水紋の同心円 「また、すばらしく、きれいになられた」 かつてのように、その目に吸い込まれることはなかった。遍 ちはだかっていた。 思い切って目を上げて宇暁を見返すと、壁のような賞賛が立 そう宇暁は云った。遍は瞬発的な怒りで頬を染めた。 のまま静止していた。足を置くと、ぎりぎりと足音がした。し かし山の方から、なぜか足音のこだまは帰ってこなかった。 けれど、その小さな足音が響くか響かないかのうちに、板戸 を開けて、宇暁が広場に現れた。同じように足元だけで小さく 砂利を鳴らして近づき、 てしまった。 の視線は、邪念のない心からの賞賛の前で、あっさりと弾かれ と案内を交替した。 「今の水は、さしあげるほどでもないが」 「ようこそ、いらっしゃいました」 宇暁の髪は白くなっていた。顎を覆う短い鬚にも白が混じっ 87 龍愛づる姫君 くりとくぐらせ、湧きこぼれる水を受けた。大きな手のひらは た木の椀を二つ、石の上から取り上げた。それを岩の間にゆっ 宇暁は立ち上がり、 泉を囲んだ黒い石組に寄った。 伏せてあっ 「 こ れ が 私 た ち の 世 代 が 作 っ て い る 時 代 で す。 蟻 の 巣 の 中 で、 「ここまで変わるなんて、想像できなかった……」 にもなくなってしまった。それはたしかに、H2Oだった。 りついていた、ありえないどこにもない世界は、本当に、どこ 一人ずつが砂を一粒持って右往左往している。自分の望みでは 片手に椀を一つずつ包み込み、座敷に運んだ。 床 板 の 上 に 椀 を 置 い て 退 い て い く 手 を 遍 は 見 て、 椀 を 見 て、 いふりを続けるのも、私の望む方法ではない。関らずに済ます す。プラカードを掲げて行進することも、不愉快なものは見な ない巣ができつつあるとき、社会とどう関り続けるかが問題で が移り込んだ部分は、影の黒色をしていた。遍はおそるおそる 覗き込むと、透明な水に木目が透けていた。周囲の緑の枝々 こ と も で き な い。 も と よ り、 美 十 狛 を 売 っ た の は 龍 王 堂 で す。 それから両手で、濡れた椀を持ち上げた。 一口飲み、二口飲み、緊張のあまり少し噎せた。 「これは、水です。H2Oです。それに他ならない。それ以外 んでいた。立派な衣に、手や椀から水滴が滴り落ちていた。 多くの村人にとって、龍は金とつながった幻想として価値があ 「かつて龍は、この土地の人々に、米を、金をもたらしました。 「……どうしてこんなに、変わってしまったんだろう」 いた」 龍王堂は既に選択し、加担した。それ以上に、地域の大勢も動 の物事は消えてしまった。この水に、もはや『神』は棲んでい りました。そして人々は、今の時代、自分たちにより多くの金 宇暁は憮然とした表情で、片手で椀を傾け、水を咽に流し込 ない。森は溶けていない。歴史も消えて、地域の固有性も消え 工場が誘致され、幻想は現実に現された。 て、これはただの水になった。……山門を上って来て水を飲む 金が動けば、さらにその金を追って、飛んできて生える種が をもたらすと思える別の幻想を追った。 い。……いや、飲んでも気づかぬ人は気づかぬままなのだ。味 人は、減っています。だから自分たちが何を失ったかを知らな わう舌を既に無くしているから。見えないものを形にするため ある。……この地域で、金が動きました。自然に人間が手を加 える意味は、その成りゆきを自分の望む方向へ導く、というこ に、この堂があり、祭があったのですが。 見えないものは、無くなった」 遍はまた、光も影もないただの水をひとくち飲み、椀を回し が決める」 とにあるでしょう。望む方向とその価値観は、その時代の人間 た木の影が崩れ、浅い灰色が椀の半分を覆った。 遍は半分ほど水の残った椀を両手で回し、 水を揺らした。 映っ 水は平坦になっていた。かつて、物質の裏側にぴったりとは 88 た。椀の中が揺れても、それはただ、液体が粘性を示している だけだった。 聞くのは変だろう。そしてそれに許しが下りるとも考えられな い。龍王堂は女性に触れることができない決まりだ。 「多数決で意思決定はなされる、という建前です。……異なる を自分の場所で待ち受けています」 と思います。それがいつになるかはわからないけれど、その時 「龍はいなくなったけれど、今の状況は、またいつか変化する だからそうではないことばを、遍は押し出した。 価値観、異なる幻想が、一つの椀の内で互いに相接しています。 宇暁はことばを継いだ。 異文化が衝突する時のことは、歴史書が書いているように、戦 いです。その後、大勢でないものは追いやられます、植物と同 迷いではない、と遍は思った。誰かの温かい手を握りたい。誰 その日が来た後も、きっと今と同じように、その大きな ―― 手を握りたいと思うだろう。今のきもちは、けして一時の気の かの手とは、これまでもこの先も、その手にほかならない。い じように。この時、少数派にとって逃避は、正当な保全であり、 いました。喪失の後には、移動です。我々の放浪の時代が、ま つもすぐ近くにありながら、龍以上にけして触れ得ないでいる、 義務であり、再生となります。龍王堂は移動します。準備は整 た 始 ま る の で す。 四 端 の 仲 間 た ち は、 既 に 先 に 行 っ て い ま す。 ひとりの人の手だ。 「最後に、これをあなたに。これは、これまでの護符とは違い 宇暁の手が動いた。宇暁は、着物の合わせから御札を出した。 ……ところで、あなたはどうしますか?」 宇暁は遍を見ていた。 ます。龍王堂からではなく、私からの護符です。今の私の、持 遍は目を上げた。 目の前の宇暁の顔には、見慣れない皺が増えていた。 宇暁がそう云うのなら、きっと意味のあるものだろうと遍は 「……はい」 てる力を込めて作りました。受け取ってもらえますか?」 な り、 銀 の 川 に 龍 を 幻 視 す る 魔 法 を 使 え な く な っ た 若 い 女 は、 遍を特権に位置づける龍は消えた。かつての少女はおとなに 単に修行の妨げでしかない。 思った。宇暁は、床面を伝って御札を滑り出させ、紙片を置い 遍は自分の手と、かたわらの宇暁の手とを見比べた。 触れ合わなかった。最後の受け渡しは終わった。 も、これまでもいつもそうだったのと同じように、二人の手は て手を引いた。それを遍は両手で取り上げた。受け渡しをして 宇暁は遍のうつむいた顔を見て、遍は宇暁の手を見ていた。 「これは、身代わり札です。大古屋家の玄関柱の、目につかな 三枚の三角形はまだあった。 遍は視線を落とし、膝の上で左手を広げた。そこに、銀色の その手に触れたいと遍は思った。手を握ってもいいですかと 89 龍愛づる姫君 書いてあります。もしもの時に、もはやこの地を離れていても、 い所へ貼ってください。いかなる者からも、遍さんを護る、と がほとんどない川に高く掛けられた古い石橋を渡ってしまうと、 互いの声が聞こえる静けさになっても、口をきかなかった。水 二人は黙って光の中に出て、怪物たちの歯の軋みが遠のいて、 宇暁は会釈した。 「私には、まだすることが残っています。七世紀より我らが管 理している剣を、今の時代の、より適切な場所に埋め直して来 いの道を歩みながらも、声を掛け合うくらいの慰めは得られま 私の道があなたの道の近くを通りますように。その時には、互 遍さん。名を呼 ―― 私はあなたを護ります」 遍は丁寧にそれをしまい、目を上げた。 ばれたのは初めてだと思った。 「ありがとう」 「何が正しいとか、何が間違っているとかは、人には、わから すように」 ま す。 …… 私 が 私 の 道 を 行 き、 あ な た が あ な た の 道 を 行 く 時、 ないことかもしれません。人にわかることは、今この局面で何 「……お元気で」 宇暁は云った。 をするのが適切か、ということだけかもしれないと、最近とみ 宇暁は遍の前で腰をかがめ、腕を動かした。自分の手に、宇 「あなたも」 に思うようになっています」 森を揺らして、 風が吹きぬけた。風は、 かすかに薬品臭かった。 「水をもう一杯、いかがですか?」 暁が手を近づけてくるように遍には思えた。しかし宇暁はその を与えるものではなかった。遍は無数の怪物が群れているかの 橋まで送ってくれるその道中は、以前のようにやさしい心地 の姫を切り捨て、この盆地よりも大きな別の目的を見る。そし た。宇暁はずるい、と遍は思った。老練な龍王堂の堂主は、龍 別れには、厳粛な悲しみだけでなく、滑稽さと失望をも感じ 手を己の胸に当て、さらに頭を下げた。 ような高架の下の、騒音のただなかで立ち止まった。隣で宇暁 て龍は消え、魔法は解けた。龍王堂の神秘も消えた。いない龍 宇暁の肩は、遍の肩の十数センチ上に並んでいた。 断 る と 別 れ だ っ た。 以 前 の よ う に、 並 ん で 共 に 山 を 下 っ た。 がいぶかしげに足を止めた。隣で揺れている手を握りたい、と を監視する最高位の男を、遍の側からも求める理由はなくなっ 遍はひとりでラブホテルの横を通って坂の上に帰った。 龍王堂の男は引き返した。 た。そのはずだ。 遍は望んだ。しかしその望みのままに動くことができなかった。 もし今、触れたら、宇暁の目的を、どれほど邪魔すること ―― になるだろう。 宇暁は、遍が動き出すまで、隣で静かに待っていた。 90 雨 大気中の水蒸気が高所で凝結し、水滴となって地上に落ちるもの。雨 天。絶え間なく降りそそぐもののたとえ。 雨の古音は、もと魚部の韻であった。 りを爆発させる寸前の気配だった。 遍は強引な休暇届を突っ込み、道路マップを調べ、バッグを 軽自動車の後部座席にほうりこんで、早朝から高速道路を走っ た。 くは並行して走った。河口堰が稼動して数年後の晴れた川面に 昼ごろ、道路はようやく母の住む都市に入り、鉄道としばら は、カヌーも漁船も出ていなかった。 た。そこは、これまで車窓の外を飛び過ぎていった多くの山々 紅葉の山中を走り抜け、インターを降りると、盆地の手前だっ とたいして変わり映えしない土地だった。盆地を囲む山は、そ 田圃の真上を通った。田圃が売れ、祖父母の生活の心配はなく なった。しかし振込は、役所のすることだ。いつに幾ら入るの の手前にある山と同じような、大きな土の盛り上がりの一つに バイパスが通ることになった。計画線は、大古屋のわずかな か、 売 れ て か ら も よ く わ か ら な か っ た。 そ れ が 入 っ て く れ ば、 過ぎなかった。 は慌しく車で乗りつけた。 鉄道駅から少し離れた、町中の小さな病院へ、二十四歳の遍 一千万にも二千万にもなるだろうとは思われた。 そんな話を母から電話で聞いた。別の都市で働いている遍に は、ますます田舎が変わってしまうと感じられたが、祖父母の ためには喜んだ。 その声を、もうす ―― よく晴れた晩秋の午後だ。よう来たな、よう来てくれた、と いつも祖母は云って遍を迎えてくれた。 し ば ら く し て、 祖 父 母 が 病 気 に な り、 あ い つ い で 入 院 し た、 と母から再び電話で聞き、仕事が忙しい折でも、すぐに見舞い ぐ聞ける。 びろとしたロビーの天窓から自然光が差し込み、フロアや壁は 遍は病院の中に入った。町に新しくできたこの病院は、ひろ の丁寧なファックスを書き送った。それから二週間たって、い いかげんそろそろ見舞に行ってちょうだい、小さい時ずいぶん 見つけて入った。 大古屋環。祖母の名前が一つだけ掛けられた、個室の戸口を たまき 明るい白とパステルグリーンで統一されていた。 かわいがってもらったでしょう、と、なぜか怒っている母から 電話をもらった時は、毎日のファックスでは充分ではなかった のかと、とまどった。一週間先の連休を使って見舞いに行くの がなぜだめか、理解できなかったけれど、母の電話の声は、怒 91 龍愛づる姫君 12 祖母は苦しそうな表情になった。 「遍。あかんあかん。わからへんのか。お茶を飲まずに帰るん 恐 ろ し く 静 か な 中 で、 パ イ プ に 囲 ま れ た ベ ッ ド に 横 た わ る、 小さな祖母の躯を見た。祖母は左脇を下にして、ひとりきりで や」 今のは寝言だったのだろうか。 び閉じられていた。祖母はまた眠り込んだようだった。 遍がそう答えた時には、祖母の手は力なく滑り落ち、目は再 しくないの?」 「え、……今、来たところだよ。バアチャン、わたしが来て嬉 寝ていた。 贈り主として、豊彦叔父の名前が突き立てられた派手な花籠 が、棚の上に載っていた。タオルや着替えや紙おむつや、何か が入ったビニール袋が、幅の狭いロッカーに、ぎちぎちに押し 込められていた。 「バアチャン。バアチャン」 遍は悲しいきもちで祖母のふとんを直し、寝顔を見守った。 「バアチャン」 祖母が再び、かっと目を見開いた。 祖母はぴくりとも動かなかった。眠りを妨げないよう、遍は 「バアチャン。わたし。来たよ」 そばに座った。 だった。 「バアチャン?」 いん。あんたは……」 がみんな溢れる。それでもええんか? あんたは何をどうした 「遍。そうなったらもう、龍を呼ぶしかないわ。だけど『影』 「遍。遍かいな」 そっと呼びかけるうち、祖母が目をかっと開いた。濁った目 「バアチャン。遅くなってごめん。そう、遍が来たよ。わたし、 遍が聞き返した時には、祖母は寝息をたてていた。 遍 に は 主 治 医 の 所 へ 行 く よ う 指 示 し た。 遍 は 云 わ れ た 部 屋 へ しばらくたつと看護婦が来て、眠っている祖母に点滴を始め、 遍だよ」 れができないのだ、とようやくわかった。遍が祖母の視線の前 行った。 祖母は懸命に頭の向きを変えようとし、見ている遍には、そ に顔を持っていくと、祖母の手が突然、遍の顎をたがねのよう 「遍。ずっと云うておきたくて、待ってたんや。 『三本松』を の後の経過がどうといったところで、その前の経緯を知らない を向け、残りの半身を遍に向け、いろいろな説明をした。手術 主治医はごく若い男性だった。医者は書類を広げた机に半身 右に曲がって帰りな」 遍には、さっぱりわからないことばかりだった。しかし誰かに に掴んだ。思いがけず強く、容赦のない力だった。 「え? 『三本松』ってどこにあるの?」 92 「 今 日 は 午 前 中 に 病 院 へ 行 っ て、 診 察 受 け て、 帰 っ て 来 た ら、 「ジイチャン、まだ調子悪いの? だいじょうぶ?」 じた。それでも覚えきれない。 疲れが出てな。バスは一日たった二本やで、不便でなあ。この 伝えるまで、ちゃんと覚えておかなくてはいけないと責任を感 「それで、いつ外出されますか」 遍は台所に立ってお茶を淹れ、祖母と食べるつもりで買った 時間なら、遍はタクシーで来たんかな」 苺大福の箱を開けた。祖母と苺大福が食べられると思っていた 「外出、とは何ですか」 上げて来ました。そう、おじいさんと二人暮しだから、体制が 自分の楽観が笑止だった。祖父は、入れ歯で食べにくそうにつ 「自分の車で来たよ。ジイチャン、お茶淹れようか」 整わないんでしたよね。おじいさんも、この病院に入院してい きあってくれた。 「ずっと前から、家に帰るのなら今のうちです、と何度も申し 「家へ帰ったほうがいいなんて。初耳です。入院してなくてい らっしゃるから。……ああ、先週、退院されましたか」 「じゃあ、今日はこれで」 祖母がここにいないのに、楽しかったこども時代の話をする 話すことがなかった。 大根の煮物。 ジイチャンは、目の前に置かんと食べへんで。 ―― 祖父の正面に並べた。高野豆腐。わかめと麩の味噌汁。切干 が響いた。 つも同じテーブルについた。黙々とした食卓に、咀嚼の音だけ もので手早く食事をつくり、祖父に乞われて、時間を気にしつ 遍は慌てて冷蔵庫をのぞき、乾物入れの戸棚をのぞき、ある 「明日、仕事なの。あれ、ジイチャンは晩御飯、どうするの」 祖父はさみしそうにした。 「なんや、泊まっていってくれんのかな」 遍が立ち上がると、 いんですか?」 「帰るのなら、今ですよ。何度も何度も、伝えてあります。御 長男さんに」 そんな話に時間を費やしていて、外は柑橘類の汁をにじませ たような、ぼんやりした夕暮れになっていた。 休暇は一日きりだった。遍は眠り続けている祖母に別れの挨 拶をし、車に乗り込み、セルを回した。 国道から緑椀盆地に入った。いつも歩いて上った道を、ギヤ をローにしてそろそろ上る。道は車の立場からはぎりぎりの幅 で、突出している石垣や草木で車体をこすりそうになった。 坂ノ上の家では、祖父がはやばやと床に就いていた。 遍が部屋に入っていくと、 「来てくれたんか」 と起き上がった。 93 龍愛づる姫君 のが厭だった。遍は祖母がいつも座っていた椅子を避けて、祖 父と斜め向かいの位置にいた。 びやかされている時に、ほかを考える余裕はないのかもしれな 祖父は黙ってけんめいに箸を動かしていた。本人の健康がお い。 屋根が、一瞬流れた。けれどあの御山には、もう誰もいない。 く滑り込んだ。 数時間走り、母の住む都市の、マンションの駐車場にようや これがよくあると聞く共倒れなの ―― エレベーターで塔の最上階へ昇り、こちらも久しぶりの、実 家のドアを開けた。 母もベッドで寝ていた。 余り物を、明日も食べられるように冷蔵庫にしまい、急須の 茶葉を換え、ポットも湯で満たし、じゃあ帰る、元気で、と云 会う誰もが寝ている。 母は横になったまま、小さい声で話した。 「遍、ようやく来たんか」 か。 うと祖父は、ありがとう、と云ってうつむいた。もう帰ってし まうんか、と涙を落とした。ありがとう。 「また来るね」 遍は見なかったふりをした。 「……今夜、泊まっていかんか」 に参列した。その帰り道、坂の上の家に寄った。人間いつどう 秋口のことだった。稼は田舎へ赴き、環と共に、恩師の葬式 なるかわからんな、と環は葬式帰りにしきりと繰り返した。環 「お母さんも、待ってるはずだから、あっちにも寄っていかな 「来てくれて、ありがとうな。遍、ありがとう。本当にありが くちゃならないから。夜通し走って帰って、明日は仕事」 と畳み、旅行すること。バイパスのお金が入るまで、あと何年 の望みは、農協への借金をいいかげん精算し、仕事をきっぱり かかるかわからない。それを待ってはいられない。台所で稼と とう」 も立っていた。 遍は真っ暗闇の中、 こわごわと運転して坂を下っ 遍は車に乗り込んだ。バックミラーの中に、祖父はいつまで 算を始めた。ここ数年の有機野菜が思いのほか好調だった。豊 話しているうちにさらにその気になって、環は帳簿を出して計 国道の向こうのラブホテルは閉業し、薄暗い廃墟になってい とがわかった。 彦に託したお金が戻ってきたら、借金をきれいに精算できるこ た。 た。そのそばにコンビニができていた。工場の下の新しい道は あの頃から景気が悪くなったことは承知しているから、約束 高速道路のインターに直結した。カーブの途中で、山腹の龍王 堂がちらりと見えた。木々の鬱蒼とした影にほとんど隠された 94 どおり二倍三倍で戻ってくるとは思わない。元本だけでも返し てもらおう、と環は、稼が見ている前で、さっそく電話をかけた。 やがて環は受話器を置き、 年期障害も重なっている。薬を飲むと、全てがぼうっと霞んで、 稼は、頻脈が出るようになり薬を処方してもらっている。更 きちんと考えることができなくなってしまう。それでも感情は は、情けなく物事に流されてしまう。 れど面と向かうと、ことばが一つも出てこない。そして表面上 はっきりしていて、豊彦と利子のことをすごく怒っている。け と一声叫ぶと、テーブルにつっぷして泣きじゃくった。 「だまされた!」 豊彦からは、一円も戻ってこない。稼は、こどもの前で常に 稼は横になったまま、躯の向きを少し変え、天井を仰いだ。 「遍、病室に、叔父さんの名前のついた花籠、あった?」 毅然としていた母親が、その時に感情をあらわにしたことにも、 「うん」 「見たら、捨てといて。あれ、厭味なの。自分がちゃんと見舞 実のきょうだいが親のお金をだまし取ったことにも、胸を衝か それまでの間、お金はなんとか立て替えるから、借金をとも に来た、っていうことを云いたいだけ。親子の間柄で、なんで れた。 かく返してしまおう、と稼は奔走した。その頃、祖父が腹がは 花籠に、名前入りの札や」 当 は な る べ く 開 腹 し な い ほ う が い い、 開 け て 空 気 に 触 れ た ら、 き、その日のうちにほかの家族とは相談なく手術を受けた。本 へ駆けつけた。利子に付き添われて祖父は病院に連れられて行 駆け回り、掃除と洗濯をし、食事の支度をし、あれこれと気を すうち、遍は戻れなくなった。退職して病院と二つの家の間を 数日おいてまた母から電話が鳴り、駆けつけることを繰り返 遍は徹夜で走って職場に戻った。 「今度見たら、そうする」 ると云い出した。 きっとその後に具合が悪い箇所が出てきて、手術を重ねること 配り、もうこれ以上はできないと何度も思い、忙しさの中で何 盆にも正月にも来ないくせに、利子が真っ先に祖父のところ になるという腸の内部を、空気に触れさせた。 家事に追われるよりも、祖父母のそばに座って、ゆっくりと が大切なのかを見失った。 たのか、他の手段は取れなかったのかを、稼は疑問に思った。 稼は、手術を事後に知らされた。 ほんとうに手術の必要があっ 話でもすればよかったのだ。相手が眠っているのなら、ただ手 そんな落ち着いた時間を持たないまま、祖母がまず逝った。 を握って、さすってやればよかったのだ。 祖父が手術してほどなく、環は癌を発症した。膵臓は、スト レ ス が あ る と 癌 が で き る と い う 箇 所 だ。 こ れ ま で 健 康 で 元 気 だったぶん進行が早くて、見つかった時には既に手後れだった。 95 龍愛づる姫君 「ああ、おれが頼んだんや。近所から苦情が来てな。庭木が茂 は意外なことを云った。 母の弟家族は、新車で坂を上って来た。 「木蓮も椿も、掘り起こされてました。それも叔父さんの指示 入れしてくれるっていうで、自治会に一万円で頼んだ」 りすぎて日陰になるし、虫が行って困るそうやから。庭木を手 車を止めた。手入れを欠いた庭に、花は咲いていず、土の凹凸 ですか?」 の苔も、高級車の幅広のタイヤで踏みつけ、庭のどまんなかに 叔父は生い茂った庭木に文句を云いながら、飛び石もその間 や石ばかりが目についていた。 埋蔵金探しや。 なんにも古墳から出て来んだで、あの庭に埋まっ 「ああ、村の連中、剪定にかこつけて、勝手やりおって。そら と こ の 鉄 彦 は、 飾 り の な い ベ ー ジ ュ 系 の シ ャ ツ と チ ノ パ ン で、 以前よりいっそう太った豊彦叔父と利子叔母の後ろから、い あるまいに。しかも、それは昔、自分らの祖先から大古屋が騙 とることになっとる。いまだに伝説を信じとんのや、こどもじゃ し取った金やで、自分らのもんやと思い込んどる。年寄りはほ 眼鏡をかけ、本を小脇に抱え、うつむいて車を降りてきた。 埋蔵金を探していて、美十狛で襲われたあの夏から、鉄彦とは 台 所 に 皆 が 座 り、 遍 は 人 数 分 の 湯 飲 み を 並 べ て 茶 を つ い だ。 んと、しょうがないな」 叔父は本気で怒っているようだった。 初めて顔を合わせる。しかしいとこは一言も口を開かなかった。 鉄彦は、誰の目も見ずにおとなしく頭を下げると、さっさとイ 遍たちは車で移動するので、やってきた物音を聞きつけて姿 不在のうちに、亀石の周囲が、日々掘られていった。 を隠すのはたやすい。 ヤホンを嵌め、本を広げて英語の勉強を始めた。東大をめざし 葬式の段取りを決め、そのとおりに進行した。 があるのは亀石の下かもしれない、とは誰しも考えることらし 亀石は庭の中央にあり、いかにも意味ありげに目に映る。金 て二浪中、と叔母が解説した。 何も見聞きせず、横になっている間に祖母は骨になってしまっ 堀り手たちは、ますます亀石はただならぬ石だと思ったらし 円柱状の石があり、石にはくまなく文様が刻まれていた。 表に出ていた部分はほんの一角で、亀の下にはひとまわり太い 実際に土がどけられてみると、亀石は地中に続いていた。地 い。 遍は焼香が始まる直前で、貧血を起こした。だからほとんど た。 の周りを誰かが掘り返し始めたのだ。庭木も、枝を払われたり、 祖母が亡くなってから、坂の上の庭はいっそう荒れた。亀石 根ごと掘り起こされたりしている。遍は叔父に電話した。叔父 96 を見た。 「疲れが出た? 今まで遍、がんばってくれてたから。お葬式 い。穴はしだいに深くなった。石も深く続いていく。とてもひ とりの力では掘れる深さではない穴がいつしか亀石の周囲を取 の後で、張りつめていた気が切れて、どっと寝込む、ってよく 聞くよ」 り巻いていた。 亀石の全体は、 地面に刺さった、 巨大な石柱であるらしかった。 「きもちが悪い」 ようだ。 ていく。まるで体内を流れる血が全て、砂にでも変わっていく 遍は、 両手で両肩を抱いた。その腕も、 感覚が急速になくなっ は闇をため、奥底までは見えない。光から離れていく向こうに、 「貧血? 吐く?」 さになり、やがて放棄された。昼間にのぞきこんでも、深い穴 穴はなおも深くなり、高い梯子を使ってしか降りられない深 どりつけなかった。黄金ではなく、黄泉の国にまで続いている 刻まれた文様が溶け込んで消えていた。石の底部には、まだた 「それとは、ちょっと違うかんじ。初めてのかんじ」 けど、待たせておけばいいよ。遅れて到着すればいいから」 「遍、ゆっくり休みなよ。家に着いたら話があるって云ってた 遍は少しシートを倒し、胸郭を広げた。 叔父たちの車は、とうに見えなくなっている。 ような闇に穴は浸されていた。 夫婦が熱心に祖父の面倒をみていた。それで遍も稼も気を緩め そんな家から、祖父はあいかわらず入退院を繰り返し、叔父 てしまったのだ。 るんだね。今日こそ、叔父さんに云いたいことがあったんじゃ 「……お母さんは、わたしになら、そうしてふつうにしゃべれ 遍は窓を開けて、深く呼吸した。 のマンションで休んでいた遍と稼は到着できた。鉄彦は特別講 叔父夫婦が祖父を送る準備を整えたところへようやく、都会 なかったの。云ってやりなよ。すっきりしなよ」 祖父の容態は急変した。 習があるからという理由で来なかった。 る。春にはまだ遠い、枯れ果てたうらさびしい田舎道を、車を ない事は、いくらでもあると遍は知っていた。特にそれが、法 人が亡くなった後、片付ける仕事、話して決めなければいけ 「云いたくても、云えんの。胸がどきどきしすぎて」 母は辛そうな顔をした。 連ねて走った。遍は走るにつれてまたもや気分が悪くなり、と 律上の一家の長である男の死、遺された一人の死なら、なおさ 焼き場から『三本松』を左に曲がって、車二台は坂ノ上に戻 うとう車を路肩に寄せて止めた。助手席の母が、心配そうに遍 97 龍愛づる姫君 らだ。 気分はまだすぐれなかったが、遍はシートに背をもたせかけ たまま、静かに車を発進させた。 稼が呟いた。 豊彦と利子の表情が変わった。 き崩れた。 一瞬の間を置いて、利子がテーブルの上に爆発するように泣 「お葬式してきたばっかりの時に、何てこと云うの……この遺 言状は、お父さんの意思なのに。人の心を踏みにじるこんな醜 喪服で台所のテーブルを囲んで座った。遍は習慣としてガス 台の前に立ち、湯を沸かし始めた。 い争い、お父さんは望まれないわ」 「なんやと。もういっぺん云うてみろ」 稼の声は、さらによく通った。 「どろぼう」 むはずの時に、こんな争い、お父さんが嘆かれるわ」 血も涙もない人たちだわ、長男の嫁いじめだわ。お父さんを悼 「あんなに献身的に看病したのに、こんなこと云われるなんて、 利子は泣きじゃくり続けた。 け病のくせに、偉そうに!」 「稼おまえ、父親の死に目に、いったいどんな世話をした。怠 豊彦が椅子から立ち上がった。 態をついた。 遍の視界の中で、二人の姿がぶれた。叔母は泣き、叔父は悪 顔を真っ赤にして豊彦が怒鳴り、テーブルを叩いた。 「なんやおまえ、俺の家から出ていけ!」 「真実や。人殺し。親殺し」 稼はよく通る声で云った。 「見せたいものがあるんや」 豊彦叔父が礼服の内ポケットから、大事そうに一枚の紙片を 取り出した。 のだ、と遍にはようやくわかった。 この紙切れのために、二人は常に祖父の病室にべったりいた 豊彦に全てを譲るという文面で、日付と判と署名がある。立 会人の名は婦長と主治医だった。 「入院中に、父さんと心が通じ合って、それで書いてくれたん や」 弟は得意げに姉に遺言状を示した。震える字のサインだった。 「どうや、わかったか。皆、法律的にきちんと、わしのもんや 病床の腕を動かした字だ。日付は祖父の亡くなった日だ。 でな。……さてと」 豊 彦 は 黙 り こ く っ て い る 稼 の 返 事 を 期 待 し て い な さ そ う に、 祖父のものだった椅子に背をもたせかけ、家内をぐるりと見回 した。 「……人殺し」 98 「そっちが手を出したら、わたしは『影』を呼ぶ」 恰幅のよい豊彦の躯が、椅子に座ったままの稼に迫った。 四つに割き、粉々に割いた。 その時、稼がテーブルの上の遺言状を取り上げ、二つに割き、 利子が狂ったように泣き叫びながら、台所を飛び出していっ た。稼をにらみつけていた豊彦も、ふっと視線を外し、利子を 稼は厳しい声で云った。豊彦は一瞬意表をつかれたように身 を引いたが、 追った。 今や家は、二人だけのものになった。ちょうどそのとき、先 表情をしていた。 遍は母の顔を見た。母は、青ざめてはいても、しっかりした は静まり返った。 玄関でばたばたと足音がして、それが遠ざかっていくと、家 「『影』? いまさら、 『神の影』か? いや久しぶりに聞いた わ、そんな古臭いこと。そんなん、すっかり忘れとったわ。も うちょっとましなこと云うたらどうや」 とあざ笑った。 痩せた稼は、青ざめた顔で、豊彦を見上げていた。 「わたしは今でも、れっきとした大古屋の女よ。わたしは、あ ん た を、 呪 え る。 こ ど も の 頃 か ら、 そ れ が 怖 か っ た ん や な あ、 した。 に火に掛けておいた湯が沸き出し、盛大に湯気を噴いた。稼は 「 云 い た か っ た こ と が、 よ う や く 云 え た わ。 こ ど も の 時 に は、 息を吐いて立ち上がると、ゆるゆるとした動作で、茶葉を準備 草の陰から見とったんやなあ。わたしが人を呪ったら何が起き きょうだい喧嘩で弟に負けたことはなかったんよ。……だけど、 豊彦。わたしを怖がっとったやろ。わたしには力がある。わた たか、あんたは知っとった。だけど怖うて誰にも云えんだ。だ 破ってもたぶん、遺言状は有効かもな。形見だけ、今日じゅう しが川原で苛めっ子に取り巻かれて『影』を呼んだん、豊彦は からわたしが嫌いやったんや」 「お母さん。すぐ、この家を出よう」 遍は不安な心持で母の傍らに寄った。 にもらっていこう」 「……そら、まあ、稼は……」 豊彦はためらった。利子が鋭く叫んだ。 「嘘よ、嘘。この家には、御札があるから、影なんて呼べない わ。ただのはったり、脅しに決まってるわ」 「 う ん。 今 す ぐ。 …… そ う し て こ の 家 を 出 た ら、 二 度 と 再 び、 「何もせずに帰るの?」 が貼ってあった柱を見上げた。そこに龍王堂の護符はなかった。 敷居をまたげないと思う」 豊彦の視線が、上に上がった。利子も遍も、いつも厄除け札 黒光りする柱に、貼り跡だけが白く残っていた。 99 龍愛づる姫君 「そんな、厭や。ここが生まれ育った家やのに。形見も欲しい」 げたものや。これはうちのものやで、うちが持ってく。その権 子レンジ。これはわたしが、ジイチャンバアチャンに買ってあ 「……それなら後で、便利屋でも頼もう」 利はあるやろ」 「……何だかすごく、よくないかんじがする」 ばらくじっと見て、 遍の口調に何を聞き取ったのか、稼は遍の顔を真正面からし と素直な答えを返した。 ようだ。 ―― 何かを忘れている気がする。電子レンジ、紙おむ つの残り枚数、古い着物のマーケット、当面のお金に困って叔 また見舞われ、遍も椅子に座り込んだ。血が砂にでも変わった そう云って、さっき車を運転していた時と同じ気分の悪さに 「え、お母さん、お茶を飲むような暇は」 母は湯を急須に注いだ。 父たちに内緒で売ってしまった掛け軸。そうではない何か。 「わかった」 「待ってよ、たった今すぐじゃないやろ。お母さんに、お茶を 「お母さん。一刻も早く、この家を出よう」 稼は名残惜しそうに台所を見回した。 一杯だけ飲ませてよ。でないと、 心臓がどきどきして、 動けん」 茶が注がれてゆく、湯のみが割れた。 「もう来れんのか。ここで育ったのに。この太い梁に思い出が あるんや。これは持って行けんな」 「厭やわ、ひびでも入っとったのかな、何もせんのに割れて」 遍は、替わりになる新しい湯のみを急いで戸棚から出した。 「……覚えておけばいい」 「あそこに、遍の絵がある」 見上げて母は、微笑んだ。 「血」 稼は割れた陶器を片付けようとして、指先を切った。 どくん、と遍の心臓が打った。 遍が座っているジイチャンの椅子からも、母が座っているバ アチャンの椅子からも、顔を上げると、それぞれ額がちょうど 鮮血の匂いがする。 見 え る よ う に な っ て い た。 遍 が 夏 休 み に 描 き 散 ら し て 置 い て 日は高いのに、夜が迫ってくるような沈んだ心地に胸をふさ がれて、遍は急いでティッシュを抜いた。椅子に座り込んだ母 いった絵が、立派な額に入って鴨居の上に並んでいた。 台所で籠に山盛りになっているつやつやの夏野菜。茄子にト スケッチ。 農作業をしている祖父母。畦道に座って画板を立てて描いた の指にそれを当てながら、内心苛立って、時間がない、と思っ ていた。傍らで茶が湯気をたてている。 稼は湯のみに口をつけた。それから、部屋を見回して云った。 「このテーブルと椅子のセット、それからテレビ、冷蔵庫、電 10 0 咲き乱れる夏の庭。ひまわり、朝顔、とりどりの色の点描。 マトにししとう、最前列に茗荷。着色に失敗して濁っている。 ような音だ。あっというまに玄関に到着し、引き戸が開き、こ 騒乱が近づいてくる。百人もの人間が一気に押し寄せてきた 大騒音と共に着いたのは、三人きりだった。 とばになっていないおめき声が突進してきた。 を手早く外し始めた。懐かしさと嬉しさで泣き出しそうだった。 が、 むちゃくちゃにあたりのものを大きくなぎ倒し、暴風となっ 狂気を暴発させた狂犬。おとなの男の躯を持った鉄彦の手足 遍は椅子を動かしてその上に立ち、埃を舞い上げながら、絵 れた。もう二度と来られないのなら、遍は今、この絵を持って 「ママを泣かせた」 ている。 おめき続ける声の塊の中から、ことばの切れ端が立ち上がっ て進んで来た。 祖父母はここでの思い出を、こんなにも大事に取っておいてく 行きたかった。 「これはわたしのものだから、わたしが持って行く」 額のガラスは油で黒ずみ、汚れていた。数枚を重ねていくと、 ずしりと重かった。 犬の飼い主が、その片腕にしがみついて思うまま振り回され 「やめてやめて、わたしの辛さをわかってくれるのは、ぼくちゃ ていた。 母も立ち上がった。 「あと、連れて行かなあかん、大事なもの。お骨を向こうに渡 んだけなの」 すわけにはいかん。お金はいい。だけどジイチャンバアチャン を、死んだ後まで向こうの手の内に置いていくのは厭や。持ち で、 犬に乗ってけしかけている。その後ろから、倒れた傘立てや、 利子は矛盾することをせっせと云い募り、犬を止めるそぶり 散った花輪を踏み越え踏み越え、一家の長である赤鬼が、にた 去ったら、向こうは怒るやろうな、長男のもんやと云うて。な にが長男や、この坂ノ上で。分けてもらっていこう」 えて立ちすくんでいる遍を見なかった。 龍の ―― て誰も、一メートル離れた所で、埃っぽい額を腕いっぱいに抱 まっすぐ廊下へ進んで行った。誰も横へ視線をやらず、したがっ その一団は、遍がいる台所の横をわきめもふらずに通り過ぎ、 にたと笑みをこぼして歩いている。 「分けなくても、全部、連れて行こうよ」 遍は椅子の上から答えた。 引き出しから取り出そうとした。 母は奥の座敷へ行った。遍は椅子から下り、額を束ねる紐を しかし、遅かった。時間はもう、気づいた時には無くなって いた。 龍。 突 然 そ れ し か 遍 の 頭 に は 浮 か ば な く な っ た。 101 龍愛づる姫君 炎で三人に対抗する。けれど既に咽がからからに干上がってい て、一言も声が出ない。何と云って龍を呼ぶのだったか、混乱 の中で、ことばがまるで思い浮かばない。ことばということば が、闇に落ちていく。 三人は土足で上がりこんで来ていた。古い畳の上についた足 跡が、青く赤くぼうっと光って、すぐ消えるのが遍の目には見 えた。 畳も、襖も、倒れたちゃぶ台の脚も、骨も、なにもかもごっ ちゃに、おかまいなしに、同じもので濡れていた。 黒から離れて赤の上を転がっていく。 喪服の上で真珠のネックレスの糸が切れる。弾け、散り乱れ、 「ママを泣かせたら死刑、ママを泣かせたら死刑」 犬は何度でも興奮した跳躍を繰り返し、リプレイを止められ す。その下の腹の中には、宝石のように数々の臓器が、どこも ない。背の真ん中は、背骨と肋骨が、アーミーナイフを弾き返 かしこも詰まっている。ナイフの刺さった瞬間だけ、腸や腎臓 襖や廊下を隔てて離れた部屋にいるのに、遍には、骨壷を一 つずつ左右の腕に抱いて座敷に正座している母の、黒い喪服の や肝臓の断面がちらりと刃の際に覗き、すぐに溢れる血で隠さ れる。それを見ていようと思ったら、何度でも、突き刺してい 後ろ姿が目の中に見えた。 母の指先から、血が流れている。 なければならない。 日が射して、座敷の色がいっそう鮮やかに艶めいた。けして まるで夢中で、興奮しすぎて雑だった。 鉄彦は何度でも、同じ動きを繰り返し、息を荒く乱していく。 血の匂いが、犬を引き寄せる。 玄関の戸が開いた瞬間、母は頻脈の発作を起こしたに違 ―― いない、と遍は思った。それほどに不自然に動かないその背に、 茶色の暴風はまっすぐ進み、一瞬で血煙を立てた。 感触が、その手に直に掴まれていた。水の音は、畳にこぼれ広 生々しい匂いを、鉄彦はむさぼり嗅いでいた。生暖かい生の 光に触れるはずのない内臓の中の闇が、冬の午後の直射日光に 細い女の躯は横様に倒れ、狂犬は新たな血の匂いにいっそう躍 がり続ける。鉄彦の頬はほの赤く染まっていた。 なんのためらいもなかったから、早かった。 り上がった。薄い痩せた躯から、一瞬でそんなにたくさんの赤 「この躯はぼくのだ。ぼくんだ。ぼくの躯。この中はどうなっ 照らされる。ありえない光景が現されていた。 が流れるなんて、思ってもいなかった。水をこぼしているよう てるの……ずっとずっと、ずっと想ってたんだよ……」 日 焼 け し た 古 畳 に、 首 筋 か ら 熱 い 飛 沫 を 噴 き 出 さ せ な が ら、 な音が続き、銅の匂いが立ち昇る中、二つの骨壷から転がり出 鉄彦は深い息を吐いた。 した骨が、交差し混じり合いながら、温かい真紅のベルベット の上に散らばった。 102 止め、一つとして余さずにまめに拾い集めながら、 も、手を伸ばし、畳のあちこちへ転がっていく本真珠を指先で その間じゅう、利子は身も世もないようすで叫び続けながら も の が 立 ち こ め て い る の に、 そ ば に い る 三 人 は 気 が つ か な い。 ねいている隙に、細い女は動いた。ゆらゆらと水蒸気のような みあげてくる突破の間隔に背を丸め、豊彦がにやけて手をこま しかし、喪服の下の躯は、ずるりと動いた。犬が内側からこ のような大音響と共に、土壁から古い槍を取り上げた。鉄に螺 稼は背を向けたまま壁に数歩進み、家の土台が崩れていくか 上がった。三人が驚いて顔を上げた。 態で、それでも稼は、ずん、と似合わない地響きを伴い、立ち 切れている筋肉の手前に血管や神経の細い筋が垂れ揺れた状 稼の中が、何か別のもので満たされていく。 「これは夢よ」 「これは夢よ。これは夢」 と繰り返し云った。云えばそれが真実になるかのように。 骨壷からこぼれた骨はきれいに避けて、同じ白でも真珠の球 だ け を 拾 っ て い く。 片 手 の 窪 み が、 真 珠 の 輝 き で 満 ち て い く。 その手の下側から、血が滴り落ちる。指に嵌めた一カラットの ダイヤモンドに、血の滴がぶら下がる。 と離した。 度も見たことがないその槍を、稼は壁の太い金具からやすやす 鈿が巻かれ、埃にまみれ、ひどく重そうな、動かすところを一 「今の田舎は物騒なんや。これも外国人強盗団のしわざになる 家族を見つめる豊彦が、 わ。後は火をかけて、全部燃したる」 武具の重みが躯に掛かり、背や腹の切れ目が膨らんだ。青と 赤の筋で覆われた臓器を、半ば切り口からはみ出させ、こぼし とにやけふやけた声で云った。 遍には、その声に耳元で囁かれたかのように、毛を逆立てた。 背をぶつけた。 鉄彦が蒼白な顔で、一言もなく部屋の隅へ飛び下がり、襖に 切れた神経で、下腹部はてらてらと装飾されていた。 薄い雲が湧き出している。はみ出し互いにくっつきあった腸や 振り返った稼の顔は、影に同化した黒い空洞だった。頭上に 「化け物!」 ひいっ、と利子が息を呑んだ。 ながら、稼は振り返った。 家族を愛しそうに見る、ぎゅいんとした目玉の動きを、遍は感 遍の視覚も聴覚も、己の常の躯の範囲を越えていた。豊彦が じた。一家は一つの物事を共有し、団結していた。秘密によっ る檻だ。 ていっそうこれからも強化されていくだろう、互いを結びつけ 母 の 心 臓 は、 最 初 の 暴 力 の 鋭 さ で 止 ま っ て い る べ き だ、 ―― と遍は願った。手足を震わせ、まばたきを忘れた目を見開いた まま、そう願った。 103 龍愛づる姫君 いるナイフも、血に濡れ固まって、もはや指から離せないよう に一体化している。その右手を突き立てたまま、鉄彦はゆらり 豊彦が稼を指差して叫ぶ。 「化け物や、化け物! 俺は昔から、知っとった! こいつは と利子のほうを向いた。目は透明すぎるぐらい透明に、小春日 利子をまっすぐ指した。鉄彦はナイフに操られるかのように前 虚ろな目のまま、鉄彦は腕を水平に倒した。ナイフの先端が 和の午後の光を弾いていた。 『龍』なんて呼べへん。 『影』 だけ呼ぶんや、 できそこないが!」 豊彦に向かって、槍の先がぐるりと回転して近づく。稼と同 じように雲気に包まれた穂先が、弟の胸を柔らかく刺した。豊 彦はひどく意外そうな表情で、太った胸を丸めた。 へ進み始めた。 腰が抜けたままの利子が金切り声で叫んだ。 「もうひとり! もうひとりいるのよ、ママを泣かせた化け物、 いた。利子は廊下に頭を突き出すと、ようやく息をついた。利 腰を抜かした利子は、手を使って四つんばいで転がり逃げて 子の膝頭には血の赤の上に踏み砕いた骨の粉が白くつき、手の 龍にとりつかれた化け物」 遍の腰がふっと軽くなって、足は湯に浸されたスポンジより 差した。 廊下に半分躯をはみ出させた利子は、廊下の先から、遍を指 窪みに拾い集めていた真珠は、 また全部、 転がし落としてしまっ ていた。 豊 彦 が 一 歩 退 い た。 し か し 胸 を 押 さ え て、 に や り と 笑 っ た。 豊彦は手を礼服の胸の合わせに差し入れ、小さな紙片を取り出 も急速に、くにゃくにゃになっていく。 三秒もあればそこから逃げ出せるはずなのに、今、立っている 玄関はほんの数メートル先だ。外の白い光が漏れて来ている。 に 来 る 前 に、 何 か の 役 に 立 つ か も し れ ん と 思 て な。 や っ ぱ り、 のがやっとだ。そのくせ、額縁ごと古い絵をしっかりと胸に抱 「家の柱の厄除け札はな、俺が取っといたんや。龍王堂が回収 した。 役に立った。おまえはこれでやっつけられる。なんや痛くない これは夢で ―― えていて、その腕をゆるめることもできない。 座敷で母が、遍をかばおうとするように、一歩進んだ。 「逃げなさい、遍」 の顔の上を通り過ぎ、直角に曲がって廊下に現れた。 水平に掲げられた鉄彦のナイフの切っ先は、ひきつった利子 はない。 で。この化け物は、俺に任せろ」 姉は槍を手に、弟は札を手に、二人はにらみあった。 その二人が対面する座敷の隅で、鉄彦が、躯の前側を稼の血 で固め、呆然と立っていた。 稼に憑いた『影』に驚いて飛び退ってから、鉄彦は父に目標 を奪われていた。掲げた手も、その手に握られて刃こぼれして 10 4 動く。逃げる。 ―― 遍はまだ脇に大事な絵を抱えている。力が抜けた足を無理に この刃先にさらされていた。 遍がいた所には、家の柱から落ちた古い御札があって、いと 私は、あなたを護る。 ―― 遍はしばらく呆けていた。 ひきずる。夢のふわふわした地面を歩くよりも困難だ。ようや く台所から次の間への敷居を越えた。その時、鉄彦は、既に横 ずっと前の夏の日に、別れに際して宇暁がくれた身代わり札 額縁はいっそう曲がり、描かれた川の青も月の銀も、ナイフ で飛び上がるのが見えた。 遍の目には、犬が噛みつくたび、白い梵字が、開いた口の影 酔っていた。 いとこは血の美しさと、人を殺すことの簡単さに、懐かしく 遍は外に立ち、空手で、家の中を振り返っている。 今、遍の躯が本来あるはずだったところに、その御札はあった。 は、この日まで玄関柱と同化して、ひっそりと貼り付いていた。 に立っていた。 けれど、自分はけしてこの部屋か ―― 遍の目に、玄関の扉は見えている。外は昨日とほとんど変わ りない穏やかな一日だ。 ら出られない。襲われる。 身構えた時には、激しくぶつかる力が遍の腕の中に既にあっ た。半端でない力で遍は押し流された。部屋の隅に向かって飛 ばされていった。その過程で、絵を覆うガラスがこなごなに砕 け、 巻 き 上 が り 放 射 状 に 広 が っ た。 飛 沫 の 先 の 天 井 近 い 柱 に、 宇暁の護符が見えた。 の下で護りのことばは、ひとがたを形成していた。身代わり札 とこの汗と、汗に溶けた稼の返り血を次々に染ませていく。そ でこなごなに砕かれた。朝に採ったきゅうりも、トマトも、い いで、その一撃の衝撃が伝わった古い紙が遍の側に丸く膨らみ、 が鉄彦に、それを遍だと思わせている。 遍は、護符と逆方向に、まだ押し流されていた。ガラスに次 金属の縁は曲がり、木製の枠は折れた。 真 ん 中 か ら 四 方 に 破 れ て い っ た。 た わ ん だ 額 縁 の 枠 が 砕 け た。 に、切っ先は吸い込まれる。 鉄彦の右手が上がり、下がるたび、梵字の尖った曲がりの間 「行きなさい、遍」 木とガラスの鋭い切っ先があちこちの方向に突き立っている というのに、血に濡れた狂犬の鼻面は、構わずにさらに飛び込 その声で、動作のスイッチが入った。遍は両腕を広げた。激 座敷の奥で、母が膝をつきながらくぐもった声で叫んだ。 んできた。二撃目。衝撃で吹き飛ばされる。 振り返ると、遍は玄関の外に立っていて、玄関の中では、い とこが真夏の風景をめちゃめちゃに砕いていた。 105 龍愛づる姫君 に混乱しすぎている。渦巻くばかりで混沌は形にならず、外へ しい怒りが一挙に体内に満ちてくる。渦巻き、しかし、あまり 網が揺れていた。 の白漆喰も、その下の黄土色の土も崩れ落ちて、たわんだ竹の と天井が低くなっていた。それでもまだ、大黒柱とほかの柱と 床の間を囲む柱が周囲の部材を引きずって傾いたので、ぐん 梁 は、 傾 き 歪 ん で も 剛 性 を 保 っ て、 屋 根 の 残 り を 支 え て い た。 のつながりを見出せず、また猛烈に渦巻く。ことばが一つも思 舎が変わってしまっても、今でもあちら側を呼び出せることは、 破壊されたのは床の間の周辺で、それ以外の部屋はまだ家とし い浮かばない。遍の内面は真っ暗な闇として広がっていた。田 母が見せてくれたのだが。 騒乱が収まった。利子が、頭を抱えていた両腕を離し、周囲 ての形を半分ほどは保っていた。 の暗い額を札で封じようとした。 座敷で稼は、豊彦がかざす札の前で膝をついていた。弟が姉 を見渡した。舞い上がる埃の中でも、黄金の輝きは利子の目を 豊彦の両腕が、助けを求めて振り回されていた。豊彦は、落 射た。 「姉さん、最後は俺が勝ったな」 「そんな古い、ただの厄除け札なんか!」 しかし稼はうずくまった姿勢から、弾かれたように飛んだ。 ちてきた金の延べ板に足首から下を挟み潰されていた。 「予言されてた呪いや、助けてご先祖様! こんな死に方だけ 槍が天井を打ち壊した。勢いで稼の躯も柱にぶつかり、割れ た部材と切れた内臓がばらばらと降った。稼は雲気のたちこめ 口から泡を吹きながら、必死に逃れようとするが、豊彦の両 は厭や! 痛い痛い痛い!」 た柱が簡単に傾き、家全体がみしみしと揺れた。床柱としては 手で押しやる程度では、一トンの金の延べ板は動かない。金の る槍を振り回した。 槍には巨大な力が備わっていた。 槍の当たっ 異常に太い四本の柱と、それにつながる梁が傾き、乾いた割れ 表面には亀石と同じ模様が、細い薄墨でびっしりと描かれてい れに気づかず、延べ板を持ち上げようとする仕草を続けて、な た。既に豊彦の足先はちぎれて躯から離れていたが、豊彦はそ た音を立てた。 ンの重量が床の間を押しつぶした。三百年分の埃がもうもうと い足先を黄金の下から引き抜こうとしていた。額には汗が一列 稼の躯はふわりと落ちた。それと同時に、大音響と共に一ト たちこめ、破れた屋根から瓦が続々と降ってくる。血濡れた畳 に並んでいた。 「 黄 金 や、 黄 金! ほ ん と に あ っ た! 畳一畳は嘘やなかっ 利子が立ち上がって手を打った。 は衝撃で外れ、床板は割れ砕け、三百年ぶりに日の光を浴びる 床 下 か ら、 黴 臭 さ が む っ と 上 が っ た。 歪 ん だ 枠 か ら 襖 が 外 れ、 庭に面した窓ガラスが窓枠の内外へいっせいに砕け落ちた。壁 106 十億、百億!」 た! 龍 憑 き の 化 け 物 屋 敷 に、 嫁 に 来 た か い が あ っ た! なくなっている。 だ襖の向こうは、箪笥の背で押さえられていて、容易には開か 真っ白になった利子の頭は何かに打たれたらしい大きな瘤でい 隣で豊彦は真っ青な顔で、冷汗を滴らせ、目を泳がせていた。 うっとりと両手で滑らかな表面をなでさすり、頬ずりしていた。 利子は息子に返事をしなかった。利子はいまだ金の上に寝て、 「ママ、どこー」 びつになり、背中から血が流れていたが、利子は何も感じてい 利 子 は 笑 い 始 め、 笑 い が 止 ま ら な く な っ た。 埃 を か ぶ っ て ないようだった。勢いよく利子は割れた瓦を蹴散らし駆け寄る 家は半ば壊れ、壁だったところを空気が通っていた。遍は腰 「お母さん!」 が消えたと思われるあたりへ進んだ。 をかがめ、外れた戸を抜け、散乱した家具を回り込み、母の姿 と、金の上に全身を投げ出した。夫がうめいている横で、利子 は平たい金の表面を両手両足できもちよさそうに泳いだ。 黄金板が載っているのは水平面の上ではなかった。金属面が やや傾き、豊彦の脚をさらに一センチずつ押し潰し始めた。豊 「お母さん……」 間に入り込んでいた。 ぼろぼろになった躯の稼は、ひどく小さくなって、廃墟の隙 かった。しかし利子は薄墨の模様の下の、暗い金の輝きだけを 彦 の 悲 鳴 が 高 ま り、 そ れ は 人 間 が 咽 か ら 出 す 声 に は 聞 こ え な 見つめ、手足を押し付けて息を荒くしていた。 遍は母がどんなに自分を想ってくれていたのか、自分が本当 は母を好きだったことを、この時になって初めて悟っていた。 「ママー」 傾いた廊下を、半身が赤い生き物になった鉄彦が、まだ右手 何 か 云 い た そ う に 稼 が 口 を 開 く と、 口 の 中 は 血 で い っ ぱ い 相から元の痩せた見慣れた顔に変わっていく。力を失って落ち 口の形だけで伝え、稼の表情が変わった。『影』に浸された 「……あまね。しあわせに」 だった。 にナイフをかざしたまま戻っていく。障害物にぶつかり、弾き 返され、不思議そうに何度も突き当たる動作を繰り返した。傾 いて閉ざされた襖を開けられずに、鉄彦はその手前をうろうろ する。 「ママー」 れていた。 た稼の手が、遍の左手に触れた。稼の躯から、既に『影』は離 側を塞いでしまった戸棚の背にぶつかり、正面を向いて閉じた 「お母さん?」 右を向いて傾いた柱にぶつかり、百八十度向きを変えて、左 襖にぶつかる。その動作を機械人形のように繰り返した。歪ん 107 龍愛づる姫君 は荒れ果てた庭の中を滑った。その方角には、亀石がある。坂 あちらへ、障害物を一つずつ上り下りし、 壊れた家を出た。『影』 『影』は瓦礫の間をゆっくりと這い進んでいた。こちらから の粒子の中央に、鱗が三本の釘のように突き立っている。遍は は痛みのあまり鋭く叫んだ。ばらばらに拡散していく手のひら は、遍の左手そのものだった。腕の付け根までが孔と化し、遍 遍の左半身が燃え立ち、銀色の孔に消えた。今や龍の通り道 遍の頭上の屋根が抜け、木材と瓦が空中に弾け飛んだ。ぽっ 叫び、膝をつき、痛みに耐え切れずに叫び続けた。 ノ上に落ちた『影』は、全て亀石に吸い寄せられる。 乾いた音と共に、石柱の頂にある亀の形状が割れた。亀の頭 は甲羅から離れて地響きをたてて転がり、西を向いて止まった。 みる太くなる龍雲は、 遍の躯から湧き上がる水蒸気だ。遍はしゅ かりと丸く開いた屋根の上に、一筋の雲が立ちのぼった。みる う動かなかった。遍は母の手を握った。左手がなお血に濡れた。 遍は母の血に濡れた自分の左手を見た。その横で母の手はも うしゅうと音をたてる雲気に包まれ、歯を食いしばっていた。 「鉄彦なんやおまえ、あれ、まだやってなかったんか……」 るく、ありったけの血の赤と銀を溶かしてあちら側へ続いてい れる。嘔吐がこみあげる。左手の孔はほの暗く、同時にほの明 て懐かしい。それが動くたびに手の骨も筋肉もばらばらに割か 手の中で何かがうごめいている。強くて違和感のある、そし 「……ああ……」 「お母さん!」 遍は大声で叫んでいた。 鉄彦はまだ、迷路を抜けられないでいた。青ざめた豊彦も死 る。手の中で龍の質量がうごめく。 豊彦が、傾いた柱の向こうに、遍の姿を見つけた。 力をふりしぼった。叔父が喪服の外ポケットから拳銃を出すの の柱と梁だけが、ぐらぐら揺れながら残っていた。 銀の魚が飛び出し、家の屋根は全て弾き飛ばされた。端の方 「出でよ、龍!」 を、遍は目を丸くして見つめた。 い と こ が 箪 笥 を 押 し 倒 し て そ の 上 へ 乗 り、 遍 の 目 の 前 へ ひょっこり顔を突き出した。 叔父が引き金を引く。 豊彦は、取り落とした拳銃を拾おうとして、利子の肩を必死 に叩いた。 ようやく遍の中で回路がつながった。十一の夏から、今日ま での日が、一直線に見えた。左手の三枚の銀の鱗は、龍の女の 利子が真剣な顔で引き金に指をかけた。 「あいつをやっつけるんや、大元を!」 鋭く叫んだ。 龍が完全に現れるより早く、横から稲妻が走った。 血に濡れていた。母の血は温かかった。澄んだ怒りの中で遍は 「龍よ、来れ!」 108 焼け焦げた肉と毛髪が半ば埋もれていた。突き出した一本の手 雷電の光と熱の轟音の後、溶けた金塊の表面に、人間の骨と は、一カラットのダイヤモンドの指輪の代わりに、小さな炭の 塊をつけていた。 い出した。 鉄彦は横倒しになった箪笥を越えて滑り降り、くすくすと笑 「あなたに触れられると、術は消える。出よう」 「でも」 遍は鉄彦がいるはずの瓦礫の小山へ向き直った。そこは既に 燃え出した火に包まれていた。 「それよりも『影』だ。見ろ!」 宇暁、いや宇暁の形を取った身代わりの護符は、杖で庭を指 割れた亀石の周囲は、すっかり黒く染まっていた。もげた亀 破れた壁から庭に走り出た。 した。 だよ。ぼくより愛してた黄金と、 ようやく一つになれて、 よかっ 「ママ、きれいだよ。大好きな黄金と溶け合って、ママきれい たね。おめでとう!」 出 し、 地 面 に 掘 ら れ た 深 い 縦 穴 を 埋 め、 穴 か ら 溢 れ 出 て い た。 さらに、彫刻された文様をなぞって黒く透明な『影』がにじみ の 首 の 断 面 か ら、 奔 流 と な っ て 黒 い『 影 』 が 流 れ 出 し て い た。 ナイフが手から落ちた。激しく笑い出した鉄彦は、背中から仰 闇の洪水。じくじくとして半ば透明で、何の本体もないままに 鉄彦の右手が、 固まった血糊を破って開いた。 小さなアーミー 向けに倒れ、瓦礫に埋もれた。 背後で、家が一気に大きな炎に包まれた。遍と宇暁は、炎の 動いていた。 「ぼくは自由だ、自由だ、自由だ!」 落雷は炎を生み、小さくぱちぱちとはぜる音が瓦礫の間から 聞こえ始めた。 塊がその後ろから庭に走り出て、亀石の手前で穴に足を取られ、 照 り 返 し の 中 で、 『影』の流れを追って走り出した。叫ぶ火の 立ち上がった。 一瞬で『影』に満ちた深い地中に吸いまれた。 遍は左腕を天に高く突き上げ、完全に現された巨龍をかざし、 「あなたは、力を汚すな」 遍と宇暁は、庭を抜け、門を抜け、坂の上で立ち止まった。 盆地は湖になっていた。たぷたぷとした 『影』に満ちた湖だっ た。緑椀の内部は、既に夜よりひとまわり暗い闇にすっかり埋 火炎が杖をかざした宇暁の前面を焦がした。遍は右手を伸ばし、 遍の横で、柔らかな声がした。遍が振り向くと、龍の息吹の 宇暁に触れようとした。 められていた。その闇を透かして近くの風景は見え、底のほう はとっぷりと暮れている。宇暁は杖を握った手で印を結び、 「これは夢?」 宇暁は身を引いた。 109 龍愛づる姫君 「ナウマク サマンダボダナン オン ダリタラシタラ ララ ハラマダナ ソワカ!」 叫ぶと同時に杖を地面に突き立てた。 工場内で堰き止められていた水が、いっせいに沢を下り始め た。 し、その身じろぎによって、むしろいっそう冷たい棘にその頬 遍の頬に、龍の冷たい鱗が触れた。遍はその感触に頭を動か を埋めてしまっていた。 『影』の一滴が空に舞い上がり、細かく四散した。それらの 粒 は 天 蓋 を 駆 け 上 り、 天 頂 を め ぐ り、 や が て 落 下 を 始 め る と、 〈龍と人が触れ合い、さらにもう一つの『影』も加わる〉 龍に望んで『影』の問題を解決してもらうのなら、龍を ―― 呼び出す価値がない。古代の龍の姫は、かつては龍の『影』を 遍は必死で考えた。 遍 は 云 い か け て や め た。 そ の 望 み が 要 求 す る 代 償 を 思 っ た。 「 『影』を……」 奪う。姫が龍に全てを捧げることになるまで〉 〈さて龍の姫よ、龍を呼び出し、おまえは何を望む。我は与え、 本体を離れ、坂を滑り落ちていった。 頭上で龍が云った。遍と宇暁の躯に落ちていた『影』は、龍 盆地を浸した闇の水面に、再び混じった。 「この土地に、もはや向こうの世界への通り道はない」 宇暁は印契を解いた。 四方の山が不気味な地鳴りを始めた。屋敷の背後の斜面から、 ぱらぱらと土くれが落ちた。 宇暁は杖を構え直した。 『影』の湖は、見慣れた家や道を透かし見させている。全て が 暗 く 揺 れ る 中、 家 々 か ら ゆ っ く り と 老 人 た ち の 姿 が 現 れ た。 皆、稼と同じような『影』に喰われた暗い空洞の顔をして、よ どうしていたのだろう。亀石が建てられる前、『影』は人の間 く研がれた鍬や鋤を躯の前に構えていた。 「千四百年ぶんの影が解き放たれた。千四百年ぶんの禍が起き に禍をもたらしていたのか。神を呼び、願いを叶えてもらう代 鎌を持った老人たちは、老人特有の急がない足取りで、暗い 償に加えて、 『影』のなす災禍をも受ける? いや。 る」 ぽりとゆるんだ地盤から外れ、もうもうと土埃を舞い上げなが 夜の中を歩いていた。しかし遅くとも確実な歩みだ。それぞれ 不気味な地鳴りの中で、向かいの山の工場が、基礎ごとすっ ら、剥き出しの山腹を転落していった。転がりながら自重でコ の庭を通り抜け、一人一人、道路に出てきた。 い る。 ま ん ま ん と 満 ち た『 影 』 は 川 筋 に 添 っ て 切 通 し を 通 り、 盆地を満たす闇の水位が下がり始めた。水が『影』を運んで ンクリート板が割れ、内部の鉄筋が露出され、それが折れ曲が り、さらにその周囲のコンクリートが細かく砕けた。中から金 属の機械がこぼれ、岩に当たって弾け飛んだ。 110 しかしざわめきつつ龍の下にいっせいに集まったのは、あま 龍は満足げにその体躯を盆地の上でゆるりと回転させた。 龍に触れる前にその自重によって崩れ落ち、そのとたん盆地の 下流の平野に溢れ出しているらしい。同時に川の水が流量を増 椀の縁をせり上がった。宇暁が遍の前に立ち、杖を構えた。 しつつある。 亀石はなぜ建てられた? 霧田津比売の三カ条。龍呼ぶ ―― 時、影よけの文唱えるべし。 遍は、気づくと、杖を中心にした球状の空間に宇暁と共に包 りに大量の『影』だった。黒い湖面から高く伸び上がった波は、 どこへ影をよければいい。亀石は割れて、もはや『影』 ―― を容れられない。 『影』が寄ると人は死ぬ。 巨大になる。強い流れは河口堰を打ち破り、暗い水は海へ踊り 下る。駆けるにつれて龍の躯は、大量の『影』に匹敵するほど 上空を走る龍と共に、全ての水と『影』は海を目指して駆け を水面で揉みながら、勢いよく流れてゆく。 水流は、堤防と家々の屋根を越え、遍と宇暁の乗った小さな泡 『影』たちが、緑椀の切通しを抜け、下流の町を浸す。暗い 豊かに流れ始めた川水と共に、下流の平野へ一気に溢れ出した。 龍を追って動いた。その二つの動きにより、闇の湖水は、再び の湖水は、川筋に沿ってその一部を盆地の下流へこぼしながら、 龍は散った『影』を集めようとするように空を駆けた。『影』 湖上へ運び出された。 再び湖の中央へ戻ろうとする暗い水にその球は持ち上げられ、 まれていた。球の外側は『影』の水流と飛沫で暗かった。 地鳴りが四方の山々から続いている。 始めた。先頭のひとりの頭が、闇の水面から突き出した。ぎら 老人たちは右に左に曲がりながら、つづら折れの坂道を上り りと光る鎌を持って、ゆっくりと坂を上ってくる。 龍王堂が来たのは三百年前。亀石が造られたのは千四百 ―― 年前。それ以前は、姫はひとりで龍を呼び、ひとりで『影』を ―― 龍呼ぶ時、影よけの文唱えるべし。 『影』を ―― 遍は両腕を開いた。同族の血に濡れた黒い服の姫は命じた。 「『影』よ、龍の元へ寄れ! 龍の中へ入れ!」 わめき、龍は哄笑して『影』の湖の上に踊り出た。 出た。遍と宇暁の乗った泡も、壊れた堰の間から海へ放り出さ その声は鋭く盆地の波の上を渡った。 『影』はいっせいにざ だ!〉 〈そうだ、龍の姫よ、それこそが正しい、かつてあった古い文 海上で、龍は咆哮した。 れた。 追った。すぐに全ての波は龍の下に集結して一つの高い波とな 『影』は龍の下に円盤状に集結した。円の中心から一本の波 『影』は幾つもの三角形の盛り上がりの波となり、龍の後を り、竜巻に引かれる海面のように引き上げられた。 111 龍愛づる姫君 帯を埋め尽くしていた『影』は、またたくまに一本の剣となり、 が持ち上がった。それは高くなると同時に緻密になる。海面一 暁は浜辺に立ち、いまだ目を閉じ、杖を持った手で印契を結ん 遍を護ってきた泡の中の護符は使い果たされてしまったが、宇 顔を上げると、目の前に本物の宇暁がいた。緑椀から海まで、 でいた。 龍の二つに垂れた尾の間に入った。 遍は波打ち際に腰までつかったまま、空を仰いだ。 尾は剣を埋め、両側からぴたりとついて、一本の尾になった。 龍が再び咆哮すると、激しく雲気が立ち昇り、上空に雲が沸き に孔が開いた。龍は自力で自在に開けた露頭の周りを、満足げ 雲に満ちた上空で、龍が髄の入った尾を一振りすると、天頂 に一回りした。それからゆうゆうと、青みを帯びた天頂の孔を 広がっていく。 〈この龍は、失われていた部分を、取り戻したぞ! もはやこ 大きな片目で、龍は宇暁を見据えた。 は耐え切れずに小さく叫び、躯を横に倒し、熱い左手を砂浜に 首を押さえつけた。ありったけの赤と銀が瞼の中で弾ける。遍 遍の左手の鱗も燃え立った。遍は苦痛に躯を折り、右手で左手 こちら側からあちら側へ行く龍の動きに感応し、浜辺にいる 抜けていく。 しゃくな堂の呪句ごときでは、二度と縛られぬ!〉 龍は雲を沸き立たせながら、尾を自らの口で噛み、ぐるりと 洋上に浮かんだ。その巨大な輪の内側には、遍と宇暁の入った 宇暁は杖を龍に向かってかざした。 の縁にぷつぷつと弾けているが、遍はそんな海であっても冷た 押し付けた。寄せてきた波が手を洗うに任せる。洗剤の泡が波 泡が浮んでいた。 龍の巨体がゆらりとかしいだ。 空に広がった雲が、雨を降らせ始めた。 空間が裏返り、光彩は消える。 さを心地よく感じて、目を細めて、波に手のひらを預けた。 宇暁はなおも杖をかざす。 龍はちかりと笑って空に飛び上がる。 出た。 風圧で半球は波を越え、岸に打ち上げられ、遍は浜に転がり 宇暁は天頂をにらみつけて立ち、顔に雨を受けている。 遍は堅い砂とごみの上に横たわり、まだ肩で息をしていた。 肌を傷つける荒い砂と、砂のところどころに半ば埋まったプ ラスチック容器、波で丸くなったガラス瓶のかけら、海草の切 何かを砕く音がした。 宇暁が膝の上で、 自らの杖を折っていた。 宇暁は二つの木片を、打ち寄せる波に投げ捨てた。 「わたしは人を殺めた」 れ端。潮の匂いがきついそのごつごつとした浜。泡から出てき たのは遍ひとりで、一緒にいた宇暁は消えてしまっていた。 「まさか、龍……」 112 「どうして、わたしが、生きているんだろう」 遍は雨に濡れた上体を起こした。 立ち上がろうとして、遍の足が滑った。遍は湿った砂に手を ついた。 い、大きな手だ。 宇暁が遍に近づき、腰をかがめて、手を差し出した。指の太 遍はその手に向かって、ほっそりした左手を挙げた。手のひ らには、燃える鱗がまだ突き立っている。 宇 暁 の 指 先 が そ っ と 遍 の 手 に 触 れ る と、 鱗 は 金 色 に 変 わ り、 黄金の板となって遍の手のひらから剥がれ落ちた。 宇暁は遍の手を取り、遍を助け起こした。 人の手の温もりは、驚嘆するほど温かく、ここちよかった。 (了) 113 龍愛づる姫君
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