九大日文 07 - 大学院比較社会文化研究院

九大日文 07
尾崎紅葉「恋の病」論
目 次
酒井
美紀 002
「小僧の神様」の小僧は、なぜ「はかり屋の小僧」か
松本
常彦 020
巌谷小波が朝鮮に「読ませた」童話
金
―モリエール「いやいやながら医者にされ」の翻案としての―
成妍
036
―朝鮮児童文学と巌谷小波 その四―
石井充「白痴」論
河内
重雄 049
石川
巧
073
相珉
098
―「白痴」という戦略―
読むことの「客観」幻想
―入試現代文のマークシート化をめぐって―
特権的肉体論Ⅰ
林
―股裂きの主体を生きる李礼仙・「二都物語」を跨ぎつつ―
書
評
書評『広島
記憶のポリティクス』
畑中
佳恵 120
中野
和典 124
―なぜ、いま、それ、なのか―
蘇明仙著『大江健三郎論―〈神話形成〉の文学世界と歴史認識』
明治の翻訳・翻案
S A K A I
酒 井
M
i
k
i
美 紀
―モリエール「いやいやながら医者にされ」
の翻案としての―
尾崎紅葉「恋の病」論
1
明治日本の近代文学は、翻訳や翻案を通して外国の文学や思
想を摂取・模倣しながら、古典や江戸の文学の系譜と拮抗、あ
るいは融合することによって、新たな日本文学のかたちを確立
しようと模索した。こうしたことから、近代日本文学創造の過
程の一端は、外国作品の翻案・翻訳が担っていたと言いうるだ
ろう。
明治期における西洋文学移入は、
正宗白鳥・宮島新三郎・
柳田泉の手に成る『岩波講座 世界文学 西洋文学翻訳年表』
にくわしく挙げられているところだが、その歴史は古く江戸時
代に遡る。明治の文明開化による欧化主義によってその動きが
がそれぞれの方法でそれらを受容し、その作品や思想に影響を
(明治三十六年・Dumas Fils
明治の翻訳・翻案においては、
「椿姫」
受けた。
"La Dame aux came'lias"の訳)などをフランス語から直訳した長田秋
濤が、原文に忠実な稠密訳と称されたのに対して、ジュール・
ヴェルヌの冒険小説の翻訳を始めとして、ユゴー、ディケンズ、
アーヴィング、ポー等の小説を英書から翻訳 (重訳)した森田
思軒や、バーサ・クレーの翻訳・翻案をさかんに行った黒岩涙
香は豪傑訳と呼ばれた。彼らの翻訳からは、その性質上、外国
文学の空気を日本の文化や読者に融合させるための苦心が、そ
のアレンジの方法に窺える。すなわち、原作を換骨奪胎したり、
舞台や人名を日本のものにしたりして、原作を日本の風土にな
じませようと試行錯誤した苦心の跡が見られるのである。紅葉
も多くの外国作品の翻案を書いた一人であるが、
彼においても、
例えば「デカメロン」の翻案である「鷹料理」「三箇条」「手引
きの絲」「冷熱」において、西洋文学作品内に漂うキリスト教
の問題を、当時まだキリスト教になじみのない日本の文学風土
にいかに適応させるかということに腐心したさまが、原作から
の改変部分によって窺える 。
平岡敏夫は 、『日本近代文学の出発』 の中で、明治日本の
や、西洋小説の翻訳・翻案を検討し、その重要性を説いている。
つ、政治小説と人情世態小説の双方に大きく影響した西洋思想
人情世態小説となって明治の新文学に融合するさまを論じつ
開化期において、江戸時代の実用的な武士の文学が、戯作的な
3
活発となり、まず科学書や思想の翻訳がおこなわれ、続いて矢
野竜渓の「経国美談」などの政治小説や、バイロン・ワーズワ
ースなどの詩、或いはリットン・ボッカチオなどの小説の翻
訳・翻案も次第に盛んとなり、数多くの西洋文学作品が翻訳や
翻案の形をとって日本に移入されるにつれて、多くの作家たち
2
1
新聞」の「つづきもの」の流行などにより、徐々に小説の受容
学習意欲が女性や一般大衆にも高まり、識字能力の向上や、
「小
また、小説を受容する読者側の事情としても、開化後、民衆の
の研究対象として顧みられることが比較的少なく、紅葉の生涯
前時代的なものであるとの印象が強いためか、西洋文学的要素
のかたちを模索したさまが窺い知れる。しかし、紅葉の小説は
日本における西洋受容の様相、ひいては明治日本における文学
学 』・福田清人『尾崎紅葉』 などにおいても個々の作品全て
を比較的詳細に検討している岡保生の『尾崎紅葉の生涯と文
意識が高まりつつあったという前田愛の指摘もある 。
以上のような当時の背景を考慮しながら、原作と翻案・翻訳
との比較検討を行っていく。
紅葉の翻訳・翻案
たとえば明治三十年代末頃から書かれる漱石の文学は、西洋
に関して網羅してはいない。
文学の本格的な移入の開始からすでに二十年あまり過ぎた頃の
んになり始める時期に執筆活動を開始した。それゆえ、紅葉の
早い時期に文壇に登場し、まさしく西洋文学の本格的移入が盛
ものであるために、西洋文学の思想や方法を十分に咀嚼し、西
(ユゴー「ノートル・ダム・ド・パリ」の翻訳) まで、
まり「鐘楼守」
翻案からも看取され得るように、彼の西洋文学摂取の方法は、
洋的要素の摂取の生硬さを感じさせない作品となっている。し
作家生活の全体を通して数多くの翻案・翻訳作品が書かれてい
原作をただ換骨奪胎したものでありながら、いかにして日本の
紅葉の著作には、共訳も含めると実に二十作以上の翻案・翻
るのである。翻案の対象となった作品はフランスのものが最も
従来の文学と調和させるかに苦心している。そのさまは、その
かし、紅葉は漱石と同時代の人間ではあるものの、漱石よりも
多く、次いでロシア、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリア、
発表された「やまと昭君 」(「アラビアン・ナイト」の翻案) にはじ
中国等さまざまで、作品も「アラビアン・ナイト」や「デカメ
当時の新文学の模索のさまを端的に表しており、彼の翻案や翻
また紅葉には、一方では「心の闇」や「多情多恨」など、
「源
に衝突したかを明らかにする点で極めて重要なことであろう。
文学にどのように組み入れられ、日本の古典の要素とどのよう
訳を網羅的に詳細に検討することは、西洋的要素が当時の日本
氏物語」や謡曲、西鶴や式亭三馬などの日本古典文学の影響を
る「恋の病」に焦点を当て、比較考察を行う。
紅葉とモリエールの関係に関しては、『比較文学』十三号に
こうしたことを受けて、本稿では、モリエール作品の翻案であ
フが混在したものなどがあり、その材源の混在ぶりには当時の
指摘し得る作品も多数存在する。さらに、
「鷹料理」のように、
いる。
ロン」からドストエフスキーやゾラのものまで多岐にわたって
訳作品が存在する。彼が文壇に登場した当初(明治二十二年)に
2
6
4
「デカメロン」の翻案でありながら、謡曲「鉢の木」のモチー
5
おける、斉藤広信「モリエールの翻案家としての紅葉」 に論
掲載し、次のような序文を添えている。
一拙著今般一時の出来心より不文をも省みず貴著ラヷール
事守銭奴を我儘に添削仕り森盈流なる貴姓に紛はしき変名
も申訳無之剰へ指名投票を懸賞仕り世人を惑はし候条重々
にて夏小袖と題する新板発行致候段高作の體面を汚し何と
して所持の英訳モリエル集三巻焚捨可申万一文盲の輩夏小
翻案「恋の病」の原典
袖を一覧候のみにて貴殿の技倆を彼此申出候に於ては拙者
の不埒恐入候向後は相搆へて右様の不都合仕間敷無偽証と
さてここで、紅葉とモリエールの関わりに視点を定める。紅
尾崎紅葉
葉の行なったモリエール作品の翻案は二作品で 、「守銭奴」
モリエル殿
明治壬辰十一月
引受け玉石辯明可仕詫証仍て如件
もに明治二十五年に発表している 。「守銭奴」に関しては、そ
快な中に深みのある会話」を「江戸風な茶番式」に転じたもの
福田清人は、紅葉の翻案活動について、フランスの笑劇の「軽
品もこの全集によって読んでいたと推測される。
いた、ということがわかる。ゆえに、紅葉は他のモリエール作
ル集三巻」に拠って、「守銭奴」の翻案である「夏小袖」を書
この序文によると、紅葉は自身で所持していた「英訳モリエ
であると指摘している 。確かに紅葉の翻案・翻訳には、その
れまで数多く論じられている。
の内容が後の「金色夜叉」にも影響を与えたということも、こ
にされ」("Le Médecin malgré lui") の翻案である「恋の病」を、と
( "L'Avare") の翻案である「夏小袖」と 、
「いやいやながら医者
3
するつもりである。
病」のみに限定し、具体例を明示しながら少し掘り下げて詳述
じられているが、本稿ではそれを踏まえつつも、対象を「恋の
7
ほとんどに江戸趣味的な様相が窺えるが、逆に言えば、外国作
リエル集」についてだが、当時紅葉が手にしうる英訳本は数種
では、紅葉が翻訳の原典としたテキスト、すなわち「英訳モ
存在していたと見られるが、
テキストの特定についての考察は、
可能性のある英訳本は二、三ある」ものの、氏の推定によれば、
「The dramatic Works of Moliére, translated into English prose with
前掲の斉藤広信の論に詳しい。斉藤曰く、「紅葉が入手しうる
のかを当てさせた。作者紅葉の名は、再版発行後に春陽堂の広
short introductions and explanatory notes, by Charles Heron Wall.
「夏小袖」の発表の際、紅葉は「森盈流」という名を用い、
告にて発表されたが、予想的中者三百十四人の氏名を第三版に
「作者氏名投票」の形式で、読者にこの作品の著者が誰である
が紅葉の翻案の読みどころであるともいえるだろう。
品をいかに日本の文化の中になじませようとしたか、という点
8
3vol., 1883-1887. London: George Bell and Sons, York Street,
4
モリエールとその受容
ここで少し、原作者であるモリエールについて触れておく。
第三巻の出版年代が「夏小袖」出版の五年前であり、
①
Covent Garden, Bohn's Standard Library.」である可能性が高いと
し、その推定の根拠として以下の四点を提示している。
モリエールは、一六二二年にパリの富裕な家庭の長男として
訳"The Miser" と一致すること。
以上の理由を引き受けて、筆者もその見解に同意し、氏の意見
訳の『マイザル』」と示しており、これが原作の題名の英
④
③
②
坪内逍遙が「夏小袖」の批評の中で、その原作を「英
同時代人である、夏目漱石も所持した版であること。
「守銭奴」が第三巻に含まれていること。
た後も、モリエールが座長となって、当時流行していた作品や
行うなどして活動を再開する。エペルノン公の保護がなくなっ
のの、その後数年間はエペルノン公の保護を受けて地方巡業を
ジャールらと「盛名劇団」を設立した。しかし、二年後に一座
の相続権を放棄し、宿命的な恋に落ちた女優のマドレーヌ・ペ
名校に入れるなどするが、二十二歳のときにモリエールは家業
権利を持つような人物であった。父はモリエールを貴族的な有
生まれ、その父親は、王室室内装飾権と、それを子孫に伝える
同じ版が米国でも出版されているらしい点から、当時最も
を尊重することとする。また、今回取り扱う「恋の病」 の原
彼の自作を上演しつつ活動を続け、一六五八年には、パリのル
入手しやすい版と考えられること。
作「いやいやながら医者にされ」が、同全集の第二巻に所収さ
OF MOLIÉRE, TRANSLATED INTO ENGLISH PROSE WITH
現在、筆者の手元にある英訳本は、THE DRAMATIC WORKS
演じるようになるが、彼の笑劇や本格喜劇には、観客に訴えか
てその主題とする悲劇を書くことをやめ、笑劇や喜劇ばかりを
下にパリで活躍することとなる。途中、彼は主人公の死をもっ
ーヴル宮で悲劇と笑劇を上演し、笑劇が認められて王の保護の
は破産し、モリエールはその負債のために投獄されてしまうも
れていることも、右の根拠を補強する材料となるだろう。
SHORT INTRODUCTIONS AND EXPLANATORY NOTES, BY
ける真実な苦悩の表現がある上に、それを笑劇的手法でひっく
Ⅱ
り返すという巧みさがあり、それが彼の作品の特質とされるよ
CHARLES HERON WALL, AUTHOR OF 'THE STUDENT'S
VOL.
,
VOLUMES
うになる。その後、喜劇論争などを経て、王の愛顧が薄れたこ
THREE
FRENCH
ろ、五十一歳の彼は「気で病む男」の上演中に倒れ、そのまま
IN
LONDON, G.BELL AND SONS, LTD.1919. で あり、斉藤氏の指
摘する英訳本が再版されたものと考えられるため、今回はこれ
GRAMMER'
を底本として本文の比較検討をおこなうこととする。
帰らぬ人となる。彼の死後、彼の劇団は王命により他の劇団を
合併吸収し、「モリエールの家」と呼ばれるコメディ・フラン
ここで、作品のあらすじを示しておく。暴力的な木樵の夫ス
脚本家モリエールは、喜劇のあらゆるジャンル(大道芸人の笑
の助言通りに行動した二人によって、スガナレルは医者に仕立
わり者なので棒で殴らないと診察をしてくれないと教える。妻
探しに来たヴァレールとリュカに、スガナレルは名医だが、変
ガナレルに仕返しを考えていた妻のマルチーヌが、偶然医者を
劇・スペインの冒険劇・イタリアの即興劇など) の要素を包含し、と
て上げられ、彼らの主人ジェロントの家に連れて行かれ、言葉
セーズとなり、今日に至っている。
きには古今の作品から素材を借用しながら社会や人間を諷刺す
て駆け落ちの手助けをするが、にせ医者であることがばれてし
ると同時に、当時の教養人の鑑賞に耐える喜劇を作り上げた。
ばり首寸前となる。ところが、駆け落ちしたはずのリュサンド
の出なくなった娘の診察を無理にさせられる。その後、娘の病
そのスタンスは、奇しくも紅葉の目指した作家自身の思想や
とレアンドルが戻ってきて、レアンドルが伯父の莫大な遺産を
因がレアンドルへの恋わずらいだと知ると、恋人たちに協力し
苦悩を描くよりも、当時の読者に歓迎されるような、「よみも
相続することとなったのを理由に結婚を許されたため、スガナ
演劇上の規則よりも、観客に喜ばれる作品を目指すという彼の
の」として面白い作品づくりを目指した作家スタイルと類似し
演劇観が色濃く反映された傑作を数多く残している。
ている。このようなモリエールのスタイルは、多くの観客の共
レルも無罪放免となる。
以上がこの作品の大筋であるが、この作はフランス中世のフ
鳴を誘った。その産物として、後代の読者をも共鳴させるタル
ァブリオーに材をとった笑話、「百姓医者」
「ブレーの医者」の
チュフ、ドン・ジュアン、アルパゴンなどの強い個性を持つ印
象的な人物造型があり、ここにモリエールの作家としての才が
一部を主筋とし、その内容を深く掘り下げて書いたものとされ
ている。その材とした物語の筋とは、①普段、主人公の夫が女
窺えるのである。
っており、姫の病気も魚の骨がのどに刺さったというもので、
作とみられる笑話は、冒頭の語り出しが夫婦の日常の説明にな
ために、棒で殴られて医者にさせられる点、の二点である。原
房を殴っている点、②その夫が、女房の企てで姫の病気を治す
「いやいやながら医者にされ」は一六六六年八月六日に初演
姫の病気を治した後に男は王宮で暮らすこととなり、もう一波
「いやいやながら医者にされ」の受容
された(スガナレル役はモリエールが演じた)。上演時間は一時間ほ
乱起こる展開となっている。
5
どの芝居だったが、初演以来好評で、作者の生前だけで五十九
この笑話の他にも、当時、これに類似した作品は数多く存在
回も上演されている。だが、当初は他の主要作品と同時上演の
ために作った笑劇(Farce)であった。
スガナレル
七兵衛
昔、医者の弟子だった
木樵の男
しており、また、医者や医術を諷刺する題材はしばしば利用さ
木樵の男・医者の家で六年勤め
蔵
七兵衛の妻
木樵仲間
作
おかま
れてもいたため、モリエールはそうしたモチーフを総合してこ
マルチーヌ
た経験を持つ
この作品は、世界各国で翻案・翻訳され、数多く上演された。
の作品をつくり上げたとも言えよう。
スガナレルの妻
木樵・夫婦の隣人
ロベール
も一七三二年に上演された。また、 デンマーク・スウェーデ
助
七
亀右衛門の召使い
亀右衛門の召使い
独身
代脈に扮する
おるゐの恋人
弥三郎
病人・富家の娘
おるゐ
器量よし
おるゐの乳母・独身
おむら
おるゐの父
鶴屋亀右衛門
多
源
喧嘩の仲裁に入る
チボー・ペラン
薬剤師に扮する
リュサンドの恋人
レアンドル
病人・富家の娘
リュサンド
器量よし
リュカの妻・田舎訛り
ジャックリーヌ
リュサンドの父
ジェロント
ジャックリーヌの夫
ジェロントの召使い
リュカ
ジェロントの召使い
ヴァレール
喧嘩の仲裁に入る
「恋の病」と「いやいやながら医者にされ」との比較
「恋の病」
まずは、各作品に登場する人物設定を比較する。
「いやいやながら医者にされ」
6
れ」(一九三四・昭和九年)が最初であったようである。
原典から直接訳されたものは川島順平の「心ならずも医者にさ
いる。これらは共に、英訳本からの重訳であった。ちなみに、
ル全集』に「押付医者」という題名で草野柴二により訳されて
年)が最も古く、後には一九○八(明治四十一) 年の『モリエー
日本での受容は、尾崎紅葉の「恋の病」(一九○三・明治三十七
ある。また、オペラでもたびたび上演されている。
が出され、他にも古代ギリシア語・近代ギリシア語による訳が
ルメニア・トルコ・ハンガリー(マジャール語)にて翻訳・翻案
ン・ロシア・ポーランド・チェコスロヴァキア・オランダ・ア
かけひき」として上演・出版され、翻訳である「いんちき医者」
鈴木力衛によると 、イギリスでは、一七〇三年に翻案「恋の
9
やいやながら医者にされ」(鈴木力衛訳、英訳は"The doctor in spite of
ので、ここでは指摘するにとどめておく。また、作品の舞台は、
ラン親子である。この二点については後に述べるつもりである
するおむらとの立場の違いと、原作のみに登場するチボー・ペ
きは召使いであるリュカの妻・ジャックリーヌと、それに対応
人物を設定している。人物設定のみに関して言えば、注目すべ
各作品の登場人物は右の通りであり、紅葉はほぼ原作通りに
いう点に焦点が当てられている。このテーマのずれは、当然な
声を失うという仮病を使って恋人との駆け落ちに成功する》と
《無理に別の男性と結婚させられようとしている富家の娘が、
う原作の主題を重視せず、ほぼ同内容の作品を描きながらも、
げられ、なんとかごまかしながらも治療を施そうとする》とい
いた翻案は、《木こりが思いもかけずむりやり医者に仕立て上
題が付けられている。このことからも分かるように、紅葉の描
路上でスガナレルに診察を請う
原作では、森からそう遠くない田舎と設定されているが、「恋
がら翻案方法にも深く関わっており、原作と翻案との相違点に
himself") であるのに対して、紅葉の翻案には「恋の病」という
の病」においては何も触れられておらず、共に特定されていな
原作の「いやいやながら医者にされ」は三幕・計二十六景を作
メロン」の翻案「鷹料理」においては、原作では《男らしくも
れを作品の題名に表現する方法をとっている。例えば、「デカ
実は紅葉は、他の翻案でも同様に、巧みに主題をずらし、そ
述べる。
その影響が色濃く表れているが、詳細な具体例については後に
品に費やす一方、翻案である「恋の病」は一幕・計十四景にと
作品の構成も見ておこう。
二作の構成は大きく異なっており、
いことをここで確認しておく。
どまっており、特に結末の部分に省略が見られる。この省略部
("a gentleman without riches, than
ない財産よりも財産のない男を》
この作品では《愛する人に大切な鷹を食べさせたこと》がテー
riches without a gentleman") ということがテーマであるのに対し、
分についても、詳しくは後述することとする。
原作との相違
ある「むき玉子」も、原作において主題とされる、画家の制作
家と恋に落ちる話が中心となっている 。このことからも分か
看取されるように、女性が裸体モデルになったことによって画
7
マとなっている 。また同様に、ゾラの作品「制作」の翻案で
さて、内容の相違点に注目していくこととする。まず、誰も
主題の相違
が最初に気づくのは、タイトルの相違である。原作のタイトル
るように、原作のテーマを踏襲せず、紅葉独自の原作に対する
に関する苦悩に満ちた生涯を描くのではなく、タイトルからも
がフランス語で"Le Médecin malgré lui"であり、邦訳では「い
a
10
11
ではない。「恋の病」ではむしろ、娘が唖となった原因自体が
の「恋の病」における主題設定下では、この部分はさして重要
かしながら娘の仮病の原因を探り、もっともらしく治療したよ
また、作品の筋において顕著であるのは、診察までの経緯の
重要であり、それをいかに解決するかが注目点となっているた
興味を翻案の題名に象徴的に示す方法は、紅葉の翻案における
違いである。原作では、原因不明の唖である娘を診察してほし
め、原作のように勿体ぶらずに簡潔に病因を明かす形の方が、
うにみせかける様子が重要な部分の一つであるのに対し、紅葉
い、という依頼であったため、もちろんスガナレルにもその原
一つのスタイルだったのであろう
因は分からず、彼はでたらめなラテン語を並べ立てることによ
物語のテンポを保つ上でも有効だと言えるのである。
(第二幕第九景)
かな
結末の単純化
②娘を逃がしたにせ医者を、父親が法で裁こうとする場面
①娘の主張
に次の三つにまとめられる。
原作の結末にあって翻案では描かれなかった部分は、大まか
b
味深い。以下、人物設定や構成、描写について比較してゆく。
細に比較すると、様々な点で両者には相違が見られ、非常に興
案には、作者の執筆スタンスの相違が看取される。同様に、詳
このように、題名から読み取れる主題のみを見ても原作と翻
って医師としての体裁を保つ。スガナレルがその原因を知るの
は、最初の診察の後、恋人であるレアンドルの打ち明け話によ
ってである。
LEA. I must tell you, sur, that this illness which you want to
このねがひ
love, that Lucinde has found out this way of putting off a
cure is a sham. (中略)...the truth is that it only proceeds from
marriage which is hateful to her.
あのひと
一方 、「恋の病」では、医者だと勘違いされた七兵衛に対し
て、
「是非彼人と夫婦になりたい。もし此 願が愜はなければ私
③駆け落ち後の二人が戻り、父親に結婚の許しを乞う場面
しん
は死でしまふと、此様にお嬢様はおつしやるのでございまする
まず、①についてであるが、原作で描かれる娘の父への自己
つり
が、何分にも身分が釣合ひません所から、旦那様は御承引がご
おしこ
ざいませんで、もしもの事があつてはと、一間へお嬢様を推籠
ター設定の相違によるものと考えられるが、詳しくは後節(c)
主張は 、「恋の病」では描かれない。これは、両者のキャラク
こ
めておゝきあそばしますと、その恋ひしいくが高じて、此頃
この経緯の相違は、
実はそのまま主題の相違と直結している。
原作においては、にせ医者であるスガナレルが、なんとかごま
次に、②について。原作において、ジェロントが娘を逃がし
に述べる。
(六) と、召使いが事情を話す。
では唖におなんなさいました」
12
葉の翻案では、おるゐを逃がした七兵衛をみんなで殴る場面で
たスガナレルを裁判にかけて縛り首にしようとするのだが、紅
は書かれなかった。紅葉は、前編で試みて十分成功している事
の最後に後編を書き継ぐ旨が示唆されているものの、結局後編
実を効果的に劇化することによって描いたものであるが、前編
共に、作中漂う弟子瀕死の緊迫感を損なわない為にも、後編を
実劇化の描写法を、再び後編で繰り返すことに抵抗を感じると
「蛇足」(『青葡萄』序)として書き継がなかったのである。
には医師への諷刺心があったが、紅葉にはその諷刺心がなかっ
たため、「にせ医者」を裁くことに執着する必要はなく、娘の
終わっている。これは、後節(e)に詳述するが、モリエール
駆け落ちの一助となった七兵衛への忌々しさを晴らす亀右衛門
ければ、もちろんにせ医者である七兵衛の成り行きでもなく、
していた。加えて、「恋の病」の主題は、二人の行く末でもな
このように、紅葉は小説の結末が読者に与える印象を重要視
加えて③に関して、原作の結末部分で、二人の駆け落ち後、
の様子を描くだけで十分だったのである。
莫大な財産を得て戻ってきたレアンドルが、改めてリュサンド
わち「駆け落ち」が、紅葉の描くこの物語の大団円であったと
あくまで「恋の病」である。ゆえに、「恋の病」の完治、すな
づけに大きな差異を認めることができる。リュサンドは、二度
原作のリュサンドと「恋の病」におけるおるゐは、その性格
リュサンドとおるゐ
結末は避けられている。なぜなら、紅葉がこの翻案を書いた時、
c
言っても過言ではなかろう。
との結婚の許しを父に乞い、許される場面が描かれている一方
「恋の病」における父親の結婚への反対の理由は、原作と同
で、
「恋の病」では駆け落ちした二人は戻って来ない。
様に身分が釣り合わないためだとしているのだが、だからとい
って原作のレアンドルのように、弥三郎が父親の提示する条件
このような結末を書くことは、興ざめだと考えたからである。
自分の意志を発言している。
目の診察で薬剤師に扮した恋人レアンドルと会った後、父親に
を満たす状況になって戻り、二人の恋は大団円を迎えるという
確かに、娘に逃げられ、思い通りにならなかったことに対して
兵衛を殴りつける場面で終わった方が、話の落ちとしてはおも
地団駄を踏む父親の様子と、その怒りにまかせて騙していた七
LUCI. Yes, father, I have recovered my speech, but only to
that it is quite useless for you to try and marry me to Horace.
tell you that I will have no other husband than Léandre, and
と同様である 。「青葡萄」は、紅葉の弟子が瀕死の重症に陥
GER. But ....
実はこの手法は「青葡萄 」(明治二十八年) の前編完結の手法
しろく効果的である。
り、避病院へ送られるまでの緊迫した本人と周囲の様子を、事
13
time lost! You waste your breath. I will do nothing of the kind,
LUCI. (speaking in a shrieking tone). No! It is of no use! It's
GER. But ....
whom I have no love.
LUCI. And I had rather become a nun than marry a man for
GER. The ....
(中略)
taken.
LUCI. Nothing can make me change the resolution I have
えに、原作の結末部分は省略せざるを得なかったのである。い
とで、父親に認めて貰おうという感情は起こらない。かかるゆ
うとする際も、原作のリュサンドのように自己の主張を示すこ
ということしかできず、駆け落ちという形で己の意思を遂げよ
むらと弥三郎の手助けがなければ、無言でもって父親に逆らう
や理論に逆らうという態度が見て取れる。おるゐも同様で、お
あり、味方(恋人)である男性の意思にまかせて理不尽な権力
の女主人公は、自分の意思を遂げるものの、どこか受け身的で
思を明確に他に示し、行動する女であるのに対して、この両作
料理」「むき玉子」の女主人公と似ている。原作が、自分の意
このようにリュサンドは、矢継ぎ早に自己の思いを父親に告
時代が早すぎたのかもしれない。
のであろう。原作の女主人公が、日本で一般的となるにはまだ
れが、当時の日本人の感情に最もマッチする話の運び方だった
や、むしろ省略した方がよかったのかもしれない。おそらくこ
(第三幕第七景)
げ、父親の権力によって好きでもない人と結婚させるのは間違
I am determined!
っており、それならば修道院に入った方がましだときっぱりと
主張している。しかし、その主張を聞き入れて貰えなかったが
紅葉はおむらを据えているが、両者とも同様に乳母ではあるも
原作における召使いの妻ジャクリーヌにあたる人物として、
おむらとジャクリーヌ
ってレアンドルとの結婚を認めさせるのである)。一方で 、
「恋の病」
のの、ジャクリーヌよりもおむらの方が娘に近い存在として描
d
のおるゐは父親には何も告げずに弥三郎と駆け落ちする。紅葉
(だからこそ、後に父親の反対要因が幸運にも解消された後に、父の許へ戻
ために、最終手段として駆け落ちすることを自ら選ぶのである
は、おるゐに自らの主張を述べる場を与えていない、すなわち、
かれている。作中のおむらの発言を次に挙げる。
おも
治りつこは無いと申しましたつて、お嬢様の御病気の
治らないやうにと念つてをります訳ではございません。ま
む
紅葉の描く明治日本に生きるおるゐは、弥三郎との駆け落ちが
達成出来れば良いわけで、父親に発言する必要はなかったので
この点は 、「恋の病」と同様に紅葉の書いた翻案である「鷹
ある。
た何で私がそんな事を念ひませう。旦那様 余 りな事をお
ズレが認められる。
婚させるべきだと主張するが、二人の意見は詳細に比較すると
さて、作中において両者はともに、娘が心から望む相手と結
あんま
つしやいます。昨日や今日御奉公にあがりました私ではご
おも
ざいません。慾や徳で乳母なんぞが勤まるものではござい
一向お暇を取らないものでございますから、(中略)私は勘
して、来年は来年はと、一寸逃れの返事ばかりいたして、
一 時は懊悩申して参りましたが、お嬢様にお牽かされ申
嫁の口があるから、余り老けない内にお暇を戴いて帰れと、
Thomas, jast because he'd got a little bit of ground more than
Didn't he go and marry his girl Simonette to the great rough
"What's he got?" "What's she got?" There was neighbour Peter.
Fathers and mothers, all alike, have the cursed way of asking,
as about everything else; a contented mind's better than riches.
JAC. Well, I've always heard it said the same about marriage
ません。私は今年で十五年御奉公いたしまして、在所から
当されてしまひました。何だか恩にお被せ申すやうではご
the young Robin that she was in love with. Look at the poor
うるさく
ざいますが、私の両親に捨てられましたのも、お嬢様のお
ひとしきり
側が離れられませんばつかりでございます。其節此事をお
thing; she's come so yellow's a guinea, and hasn't never been
まをしあ
それ
嬢様に申上げましたら、村やお前は其ほどまでに私を思つ
right ever since. Here's a proper warning for you, master.
はや
the riches of India.
いで
(第二幕第二景)
my maid have a young fellow that she really fancied, than all
What's all the world if you can't be happy! and I'd sooner let
御診察)
ておくれかい。私も蚤く御母様を亡くして、お前のお蔭で
(七
こんなに大きくなつたのだから、私はお前を実の御母様と
なきだ
尤 だく。 と亀右衛門も泣出す。
もつとも
思つてゐる。
亀
ママ
(前略) 大層上手なお医者様がお出になりましたさう
で、まことに結搆なことでございますが、お嬢様の御病気
む
は到底お薬剤で御本復なさることではございませんと存じ
このくだりは原作では見出せず、翻案される際に付加された
部分である。彼女は、娘おるゐに小さい頃から母親代わりとし
まするから、此 間から冗くお願ひ申しまするやうでござ
くすり
て仕えている人物として設定されており、おるゐの幸せを心か
いますが、お嬢様もあんなに思召してゐらつしやるもので
とても
ら望み、幸せな結婚の手助けをする役割を与えられている。ジ
ございますから、弥三郎様をお婿様に……
おぼしめ
ャクリーヌとリュサンドの関係と比較すると、おむらとおるゐ
成りませんよ。それを承知するくらいなら、始めから
くど
の関係の方が、より実の親子に近いものとして描かれているの
亀
このあひだ
は明白であろう。
何でこんなに騒ぐものか。
(七
御診察)
先にも触れたが、父親が娘とその恋人の結婚に反対する理由
について確認しておく。それは、原作では「お金・財産」の有
治当時の風潮に西洋的近代的思想を迎合させるための、手段の
うちの一つであると言える。
愛を重視すべきであることを主張する。それは、忠告的であり
重視の結婚によって不幸になった女性を例に挙げ、お金よりも
ジャクリーヌは「財産」を重視するジェロントに対して、財産
品「気で病む男」に至るまで、医者を愚弄し揶揄する立場をし
モリエールも同様に、初期の笑劇「飛び医者」から、最後の作
時、ヨーロッパでは医者や医術を諷刺する風潮が広がっていた。
前述したように、モリエールが「いやいや医者」を書いた当
原作における医師への諷刺
一般論的立場において自己の考えを主張をしているといえよ
品において医師を諷刺するのは、①中世のファブリオー・コン
ばしば示している。鈴木力衛によると 、モリエールがその作
e
う。一方で、おむらはおるゐを娘のように大切に思い、心から
無であり、
「恋の病」では「身分の釣り合い」である。ゆえに、
愛する人と添わせて幸せにしてやりたいとのみ主張する。ゆえ
意思にかかわらず、様々なしがらみや思惑の中で、家と家のつ
当時、家柄や職業を重視した結婚は一般的であった。当人の
という。確かに、この作品にはそのような意識が色濃くあらわ
の呼吸器疾患を治せなかった医者に対する個人的不満であった
した権威主義に対する批判であり、また晩年においては③持病
などの古代の学者や賢人をたてにとり、愚民をたぶらかそうと
ト・ファルスにおいてよく行われていたしきたりに乗じたため
ながりを重視した結婚は多々行われていたが、紅葉はフランス
れており、お金に汚く女好きで嘘つきな上に適当な診察を行う
に、おむらにはおるゐと弥三郎のかけおちを促すという、原作
の一小説を材に取ることによって、そのような結婚を否定する
下品な医師像を、にせ医者という形で執拗に描き、医師の不実
であり、②医者が病気治療をないがしろにし、アリストテレス
考えを描いた作品とした。おるゐの親身になって心から個人の
しかし一方で、紅葉の作品世界においては、こういった不実
さを指摘し、諷刺している。
な医師像は、作品に滑稽さを残す程度の踏襲となっており、
「恋
愛を貫くことを応援するおむらの発言を加えることよって、そ
親身になれる立場でも、母親ではなく、父親の考えや家柄重視
の病」
の文脈において不要と考えられる部分は削除されている。
例えば、第三幕第一景においてスガナレルがレアンドルに医者
による結婚の影響を受けない乳母という立場で発言させること
おむらとジャクリーヌにおけるキャクラクターの相違は、明
によって、ストーリーをうまく展開させている。
ういった前近代的行為を否定する思想を強調する一方で、同じ
にはない役割がを与えられているのである。
14
でないことを打ち明ける場面を見てみよう。
また、原作の第二幕第二景において、スガナレルが自分がさ
つけ、無理に医者に仕立て上げようとする場面も「恋の病」に
れたのと同じ様にジェロントを医者だと白状しろと言って殴り
LEA. What? Are you not really .....
はない。もう一例スガナレルによる診療シーンを挙げよう。
fault is always that of the dead man. In short, the best part of
the stuff we work on. ( 中略)The blunders are not ours, and the
responsible for the bad work, and we cut away as we please in
are right or wrong, we are paid equally well. We are never
GER. Ah that I had studied Latin!
numerum et casus.
Why? Quia substantivo, et adjectivum,concordat in generi
bonum. Deus sanctus, est-ne oratio latinas? Etiam,Yes. Quare?
singulariter, nominativo, hœc musa, the muse, bonus, bona,
GER. No.
SGAN. (with enthusiasm) .Cabricias, arci, thuram,catalamalus,
SGAN. (rising abruptly) . You don't understand Latin ?
SGAN. No, I tell you ; they made a doctor of me in spite of
and if things go on in that fashion, I think I had better stick to
myself. (中略)They come to fetch me from right and left;
this profession is, that there exists among the dead an honesty,
JAC. See what a clever man he is!
physic all my life. I find it the best of trades; for, whether we
a discretion that nothing can surpass; and never as yet has one
(第二幕第六景)
been known to complain of the doctor who had killed him.
bit of it.
LUC. Sure enough, that's so fine that I can't make out never a
(第三幕第一景)
LEA. It is true that the dead are very excellent people in that
respect.
診察の際、周りがラテン語を理解出来ないのをいいことに、
面である。ここにも、医者のいんちきぶりと患者側の無条件な
ここでは、モリエールの医者という職業に対する認識が顕著
崇拝ぶりが色濃く描かれている。しかし、「恋の病」の七兵衛
て、患者の周囲を取り囲む人間たちが無条件に感心している場
崇拝される存在であると明言されているのである。一方で、こ
は病因を先に知っているということも手伝って、すんなりと診
でたらめなラテン語をもっともらしく話すスガナレルに対し
のような発言は「恋の病」には存在しない。それだけでなく、
察をおこなう。父親の亀右衛門が、おるゐの病因を尋ねたのに
にあらわれている。医者は失敗しても文句を言われたり、報酬
スガナレルにあたる人物、七兵衛は最後までにせ医者であるこ
を貰い損ねたりすることもなく、成功や失敗に関わらずいつも
とすら誰にも明かさずに物語を終える。
対して、
それは畢竟口中に邪気が停滞して、舌の筋が釣れると
ころからな。(中略)
七
さて
している。このように、医師を痛烈に諷刺する態度は、翻案の
「恋の病」にはあまり描かれない。紅葉は、にわか医者のスガ
ナレルが自身を医者だと認めるだけで立派な医者として崇拝さ
れるような、中世ヨーロッパの風潮には興味を持たなかったの
である。原作の第三幕第二景において、ペラン・チボー親子が
いご
主筋とは別にスガナレルの許へ診療の依頼に訪れ、直接治療も
この
七
之を動かすものは筋じやてな 。(中略) 扨右の筋なる
ものが動くのは、専ら五臓六腑が此腹中にて活動してをる
ちゞ
せずに適当にもっともらしい言葉を並べ立て、診療代を要求す
の
が故なりで、其五臓六腑の舌を繋ぐところの十一本の筋と
ほかにも、後半に描かれる娘の駆け落ちの場面においても同
る場面が省略されているのも、同様の理由によるものである。
その
いふものは、皆一処に弛びたり張むだりするで、自然舌の
様のことが言える。原作では、駆け落ちの手助けをするのは事
もの
活動といふものが自由自在なので、
舌が自由に働くから、
語
も自由にいへるといふ、まず之が理屈じやて。
肝玉は度胸を 掌 り、心臓は種々の思
ルの性格付けにおいては、機転がきき、弥三郎との会話におい
ず、道化に徹しているさまに滑稽さが窺える。原作のスガナレ
である。翻案において七兵衛は、事情を詳しく知らされておら
レルであるが 、「恋の病」において駆け落ちを促すのはおむら
情をよく理解し、恋人たち二人の気持ちを明確に知ったスガナ
た腎といふ臓腑は色恋を司る。今嬢様の腎といふものは、
て見られるような一般的な人間性の合間に滑稽性を付加するか
あづか
よろしい。扨五臓六腑の中で、胃袋は食物を 掌 どり、
つかさ
(中略)
かんがへごと
一方ならん活動をしてをる為に、甚しく疲労してをるじや
たちがとられているのに対して、紅葉は一貫して七兵衛に滑稽
七
つかさど
(中略)
て。
慮を 司 るて。ま
恋ひしい男に添ひたいく、
と一心に思ひつめるばかりで、
性を与えている。医者を諷刺しようとする原作の作者と、興味
かな
本位でにせ医者を取り扱う紅葉との意識の違いがここにも表れ
その
其願ひが協はんところから、それ腎臓甚しく活動するて。
さらに、この両者の性質の相違は、前述した主題、ひいては
ている。
(十)
ここから分かるように、七兵衛は口から出任せの根拠のない
てている一方で、紅葉は、娘の「恋の病」に焦点を定めている
タイトルの相違と関係する。原作は 、「にせ医者」に焦点を当
俗に云ふ恋わづらひでごす。
ことではあるものの、ある程度の道理を立てて、相手が納得し
と述べたが、「にせ医者」をメインとする原作は、物語のクラ
得る合理的な説明を披露している。その点においては意味の分
からないラテンを並べ立ててごまかすスガナレルとは趣を異に
した区別が施されているのである。
ち場面にはにせ医者である七兵衛を関わらせない、という徹底
ているのに対して、紅葉は同様にクライマックスである駆け落
イマックスである駆け落ち場面にスガナレルを大いに関わらせ
ROB. Neighbour, I beg your pardon with all my heart. Go on,
and at last strikes him with his stick.)
over to SGANARELLE, who speaks to him in the same way,
wanted. (She gives him another box on the ear ; he passes
の諷刺が単なる滑稽材料としてのみ写されていて、そこには原
カメロンの翻案である「手引きの絲」においても、欲深な僧へ
ROB. Let it be so.
SGAN. I don't want your help.
(中略)
and thrash your wife soundly. I will even help you, if you like.
作に見られるような僧への批判心は見出せない 。ゆえに、こ
SGAN. And you are an impudent fellow to interfere in other
同じような傾向が、紅葉の他の翻案作品にも認められる。デ
の点において紅葉は、原作の思想までをも材として求めたので
people's affairs. Know that Cicero said that we should never
どん
てあら
(第一幕第二景)
put the bark between the finger and the tree.( He drives him
away, comes back to him wife, and takes her hand.)
はなく、あくまでストーリーに重点を置いた翻案を目していた
付加された部分
とみることが出来よう。
8
どう
これさ、何したものだ、七兵衛殿。手暴なことをしな
さんな。(中略)
作
ある。両作において、冒頭の夫婦喧嘩の場面で、木こり仲間が
あつち
何処へ行かうとお前の世話にはならねえよ。他の事よ
か
ふだん
嚊のこんなに増長するといふのは、亭主の躾が悪いか
りお前こそ彼地へ行きねえな。(中略)
作
らだ。七兵衛殿、お前が余り不断のろ過ぎるよ。
ん
我が悪かった。これから何分気を着けるから。
におとなしいもんだ。我がかういふ気だから、随分無理も
ほ
味噌ぢやねえけれど、我の家のお樽よ。そりやあ真箇
つ
七
いやあ邪慳な事もする、お前も知てゐらあ。
おら
作
(中略)
しつ
MAR. And you are a fool to thrust yourself where you are not
way!
all this? What a shame! The scoundrel, to beat his wife in this
ROB. Hold! hold! hold! Fie upon you! What is the meaning of
りの扱われ方に差異が認められる。
夫婦喧嘩を止めに入る場面が描かれているが、その仲間の木こ
また、削除・改変部分のみならず、原典に付加された部分も
15
七
(中略)
尤 だく。
もつとも
かつ
明確に掴み取ることは困難である。しかし翻案では、作蔵の登
場により夫婦が仲直りをする経緯を簡明に示し得ている。ゆえ
ちゃうけ
のろけ
にこの部分は、紅葉が原作に合理性を与えようとして付加した
うぬ
作蔵殿、茶請でも買てからにしねえな。しと面白くも
き
ず
お前は頼むだかも知らねえけれど、我は頼まれた覚え
文章の技法
次に、表現の面に目を向けてみよう。原作・翻案ともに、両
稽さを与えている。斉藤広信が前出の論の中で、
作者は主人公の木樵りや召使いたちのキャラクターや口調に滑
9
なわち、近代的意識の作品へのあらわれと言えよう。
か
ふりもぎ
と七兵衛の住めるのを振拖
と
ものと考えられる。作品の合理性を保つものとしての挿入、す
そつち
は
ねえ、仲人に入りながら、己が嚊の惚話を謂ふ奴もねえも
ま
此匹婦は口の減らねえ。
あ
んだ。
だから其地へ行つて鼻毛でも抜きねえといふんだな。
作
あたま
さあ作蔵、何で我の嚊の頭顧を割りやがつた。それだ
こつ
(中略)
つて、お鎌の頭を三ツ四ツ搏りのめす。
七
我の難儀になることだから、
手暴なことを為てくれるなと、
から謂はねえ事ちやねえ、もしも微傷でもついた日にや、
あれほど
作
彼程頼むだぢやねえか。
はねえ。
原作にある棒殴りやどたはた的要素など笑劇(ファルス)の
とつ
覚えがなきや若耄碌だ。ちつと性をつけてやるべえ。
七
滑稽味をそのまま翻案に伝えると同時に、原作にはあまり
おち
見られない駄洒落、地口、落といった言葉の洒落を数多く
七
けつま
様を見やがれ。はヽヽヽヽヽヽ 躓 づいて転びやがつ
と柴をおつ取て撃てかヽると、作蔵は一目散に逸げ出す。
どう
(斉藤広信「モリエールの翻案家としての紅葉」)
と指摘しているように、「恋の病」には、原作にはない駄洒落
仲裁)
や落ち、地口の表現が多出する。原作で追求されているのは、
(二
加えている点に紅葉の特徴の一端がうかがえよう。
会話の運びの中に挿入することによって、翻案は滑稽味を
いて
と柴を捨てヽおかまの側へ寄つて、
た。飛だ弱虫ぢやねえか。あれくまだ一生懸命に迯げて
ない
行きやあがる。
両作に存在するの夫婦喧嘩に他人が介入する場面で、原作で
あくまで諷刺を基礎とする喜劇としてのおもしろさであるのに
お前まだ泣てるな。痛えか、何した。
のロベールは邪魔者扱いされるだけですぐに追い払われるのに
対して、「恋の病」では二人の駆け落ちを手助けする道化・七
七
対して 、「恋の病」の作蔵は喧嘩に加わり、奇しくも夫婦喧嘩
兵衛の滑稽さ、または「読みもの」としての作品運びにおける
の仲直りのきっかけとなっている。
原作においては、
いかなる経緯で夫婦が仲直りに向かったか、
これまで述べてきたように、紅葉は原作に漂う作者モリエー
語の「型」を途中で踏み外し、そこに「西洋的思想を持つ女」
いている。「心中もの」や「人情話」のようなありきたりの物
描きながら、従来の形式に「異質なもの」を挿入する方法を用
でいた伝統的・日本的な表現と構成において、近代化の中で生
ルの思想には無関心であるために、諷刺を基礎とした喜劇とし
や「合理的人物」のような西洋的要素を挿入することで得られ
テンポを保つ、言葉の巧妙かつ滑稽な言い回しをベースとする
て「恋の病」を描くつもりは無かった。ただし、作品の滑稽味
きる人々の躓きや戸惑い、あるいは新しく根付き始めた思想を
やテンポの良さには共感し、それを紅葉独自の手法、つまり当
る異質性・意外性が、結局は当時の読者の心に訴える結果とな
おもしろさが追求されている。
時の読者に響く滑稽味、すなわち、洒落や落ちなどの江戸的か
ったのである。
移入の風潮の中で、当時の作品内に見られる古典と西洋的要素
する。それらの作品を考察することにより、明治における西洋
他の硯友社作家の作品にも、紅葉と同様の特異な話型が存在
つ落語的手法によって、作品内に実現させたのだと言えよう。
結論
の混在とその正当性、あるいはのちに自然主義作家たちが批判
NO
岩波書店)
これまで詳細に見てきたが、両作品におけるテーマや人物設
【注記】
『岩波講座
平成十五年二月
九州大学日本語文学会)、拙稿「尾崎紅葉
『手引きの絲』論―『デカメロン』の翻案としての― 」『
( 香椎潟』第五
文』第二号
拙稿「尾崎紅葉とデカメロン―「鷹料理」と「三箇条」― 」『
( 九大日
と Irman Yofo Paul の共訳で、加津佐耶蘇會學林より刊行された。
マ字綴りの文語体で記されている。訳者は、日本人宣教師 Irman Vicente
ので、ペテロやパウロに関する物語によるキリスト教会史であり、ロー
」というも
GOSAGVIO NO VCHI NVQIGAQI(聖徒の御作業のうち抜書)
によると、書物として確認された最も古い翻訳は 、「 SANC'TOS
西洋文学翻訳年表』
(昭和八年七月
したような、
硯友社の作家たちの限界をも明確にしうるだろう。
ら医者にされ」を翻案する際、独自の目線によって原作を読み、
それを換骨奪胎して己の作品を作り上げたと言えるだろう。
紅葉は、原作における、木樵が棒で打たれてむりやりに医者
に仕立て上げられる部分と、娘が恋わずらいによって仮病を使
い、最後には駆け落ちを達成したという部分に焦点を当てて翻
案を書いた。その翻案行為の中で、彼は、女性の持つ近代的意
識などの西洋的近代的要素を取り入れつつ、それを調理して作
1
2
品中に巧みに組み込むことによって、西洋の雰囲気の一端を明
治の文学風潮になじませようと苦心している様子が、両作品の
比較によって浮き彫りとなったと言える。
他の彼の翻案作品に関しても同様で、当時人々が慣れ親しん
世界文学
定、内容構成の相違から、紅葉はモリエールの「いやいやなが
10
十号
平成十六年十二月
塙書房)
福岡女子大学国文学会)を参照。
平岡敏夫『日本近代文学の出発』
(平成四年九月
岩波現代文庫)所収、
「明
前田愛『近代読者の成立』
(平成十三年二月
治初年の読者像」(145頁~165頁)による。ここで氏は、明治の読
書生活の変革の過程を貫く契機として、①均一的な読書から多元的な読
書へ②共同体的な読書から個人的な読書へ③音読による享受から黙読に
よる享受へ、という三つの要素を挙げ、また、木版印刷から活版印刷へ
『鐘楼守』はユゴー作「ノートル・ダム・ド・パリ」の翻訳だが、直
の変革にも注目している。
接翻訳したのは長田秋濤であり、執筆時期が紅葉の晩年であったため、
原作と翻訳の照合や文のチェックをおこなったものの、紅葉の筆はほと
明治書院 )、福
んど加わっていないと言われている。ちなみに、長田はフランス語から
直接訳し、紅葉は英訳本でチェックした。
弘文堂書房)
岡保生『尾崎紅葉の生涯と文学 』(昭和四十三年十月
田清人『尾崎紅葉』
(昭和十六年八月
硯友社の文学運動』(昭和六十年九月
博文館新
斉藤広信「モリエールの翻案家としての紅葉 」『
( 比較文学』十三号
福田清人『改訂新版
社)
岩波書店)
モリエール作・鈴木力衛訳『いやいやながら医者にされ』(昭和三十七
平成十五年二月
九州大学日本語文学会)参照。
拙稿「尾崎紅葉とデカメロン―「鷹料理」と「三箇条」― 」『
( 九大日
年一月
文』第二号
九州大学
岩波書店)を使
平成十三年十月
拙稿「尾崎紅葉『むき玉子』論―エミール・ゾラ『制作』との関連を
めぐって― 」『
( 比較社会文化研究』第十号
本文の引用は、『紅葉全集』第四巻(一九九四年一月
大学院比較社会文化学府)参照。
用した。以下の引用も同様である。
九州大学大学院比較社会文化研究科比較社会文化
拙稿「尾崎紅葉『青葡萄』論―その描写法について」
(
『COMPARATIO』
vol.3 平成十一年三月
を参照。
研究会)参照。
(『香椎潟』第五十号
平成十六年十二月
(東京福祉大学非常勤講師)
福岡女子大学国文学会)参照。
拙稿「尾崎紅葉『手引きの絲』論―『デカメロン』の翻案としての―」
注
9
3
昭和四十五年三月 日本比較文学会)
9
10
11
12
13
15 14
4
5
6
7
8
Tsunehiko
も裏打ちされる。自作に愛着を感じるのは小説に限らず一般的
であろう。それを表明するかどうかは人それぞれだが、好き嫌
いを明白にする志賀の特色は 、「創作余談」などの自作評でも
同じであって、愛着の語を用いるのも一種の常套でもある。
「小
(「読売新聞」大 ・ ・ ~ )
僧の神様」の前後でも、
「雪の日」
26
の「我孫子生活の憶ひ出として愛着は持つてゐる」
(
「創作余談」)
23
(略)今では自分で
何にも書き足りない気がして止めて了つた。
も好きなものの一つになつてゐる 」(「創作余談」)などの発言が
ある。この傾向は「続創作余談」(「改造」昭 ・ )でも変わら
6
(「改造」大 ・ )と「痴
ず、若干の例を引くと、
「山科の記憶」
13
15
1
(同、大 ・ )について「今も或る愛着を持つてゐる」と、
情」
4
「プラトニック・ラヴ 」(「中央公論」大 ・ )について「淡ひ
15
4
味ひに多少の愛着を持つてゐる」と、
「邦子」(「文藝春秋」昭 ・
15
) について「私自身では自分のものとして 、
「これも亦一つ
2
「小僧の神様」の小僧は、
なぜ「はかり屋の小僧」か
MATSUMOTO
常 彦
(新潮社、昭 ・ )などに再録されたことによって
版『夜の光』
3
2
(「婦女界」昭 ・ )
のもの」として愛着を持つ」と、
「雪の遠足」
10
松 本
2
々』(改造社、大 ・ )、『真鶴』(新しき村出版部、大 ・ )、増補
10
13
9
語ったわけではない。一方では「過去」(「女性」大 ・ )への
義がもたらされるというのではない。ただし志賀は愛着のみを
っして特異ではなく、それだけでただちに何らかの積極的な意
例を挙げるのに困らない。その点では「小僧の神様」の例もけ
なかつたが、近頃は或る程度の愛着を感じてゐる」と語るなど、
について「書いた時は甚だ不出来のやうに思はれ、興味を持た
1
(「白樺」大 ・ )は志賀直哉にとって雑誌「白
「小僧の神様」
樺」に掲載した作品としては最後のものになる。そうしたこと
(「改造」昭 ・ )において作者は小
も手伝ってか、
「創作余談」
ね
(春陽堂、大 ・ )
この発言は、
「小僧の神様」が『荒絹』
、
『壽
はせて見た事である。此短篇には愛着を持つてゐる。
はれ又置いて出て行く、これだけが実際自分が其場に居あ
屋台のすし屋に小僧が入つて来て一度持つたすしを価をい
説への愛着をストレートに表明している。
7
4
1
2
・
)への「陰気臭い感じで、
る。好きなものは好きと聞けば十分で、その理由をあれこれ詮
ものの、その一方で逆に愛着の理由や由来が蔽われる一面もあ
直な表現になっている。それによって愛着の強さは推し量れる
が窺われるのだが、「小僧の神様」の場合、きわめて端的で率
解の言とを照らし合わせるなら、そこに種々の含意があること
また、愛着の理由も作品ごとに微妙に異なり、小説の内容と自
これも好きでない 」(「続創作余談 」)など逆向きの発言もある。
余談 」)、
「くもり日」(「新潮」昭
「作品としても、記憶としても好きなものではない」(「続創作
10
9
4
15
3
4
1
4
という評、また「焚火」(「改造」大 ・ )の「書いた時には如
9
2
11
索することは一般には野暮である。のみならず、その結果も、
つて来て一度持つたすしを価をいはれ又置いて出て行く、これ
あはせて見た事」そのもの、つまり「屋台のすし屋に小僧が入
もう一つには 、「小僧の神様」への愛着は、作者が「其場に居
たすことは無理であるが、
そのきっかけにでもなればと考える。
きるのではないかという期待である。この小稿でその期待を満
そうした評のある作品を貫いて何らかの通有性を見ることがで
理由は二つほどある。一つには、愛着という評を手がかりに、
の「若い貴族院議員のA」と同じような体験をしている以上、
うに違いがある。というのも、志賀が「屋台のすし屋」で作中
ていった按配だが、第三章の前と後とでは、その虚構のありよ
事」と重なる第三章を種子として、虚構の根がのび枝葉がつい
像がつむぎあげた虚構(描写や設定) ということになる 。「見た
二章も、その後に続く第四章から第十章にかけても、作者の想
の中で見聞にもとづくのは第三章のみになる。その前の第一、
作者の言うことを信じるなら、全十章からなる「小僧の神様」
るときの虚構の様相や方向と深く関わることはまぎれもない。
だけ」に由来するとは考えにくく、その愛着は多分に「これだ
うより、作者自身のもうひとつの体験とも見なし得るからであ
それを契機として導かれる心のはたらきは、純然たる虚構とい
おおよそ徒労に似ることを承知した上で、愛着の語にこだわる
け」の素材が小説に生成していく過程と深く関わっていると推
の心の行方にまつわる表現をたどると次のようになる(最初の
る。「価をいはれ又置いて出て行く」小僧を見た作者ならぬA
測されるからである。
作者の言う事実は、それだけを取り出せば、むしろ愛着とは
丸括弧は論者の注記)
。
「変に淋しい、いやな気持」になる心のはたらきを見つめる作
「冷汗もの」であり、ふとした偶然から、それを実行した後も
じる人物であれば、なおさらである。「御馳走」をすることが
まして、その場で「どうかして」やることが「冷汗もの」と感
も、それを引きおこす出来事自体に愛着があるとは思えない。
たい」と思うのは人情の自然であろう。その人情は尊いとして
た」(五章)
を知らしてから御馳走するのは同様如何にも冷汗の気がし
走するなら、まだやれるかも知れないが」(同)
3
2
(四章)
した」
1
姿に接して「何だか可哀想」と思い、続けて「どうかしてやり
遠い無残な出来事である 。「価をいはれ」て出ていった小僧の
者にとって、その場で「どうかして」やれなかった代償を小説
「何だか可哀想だつた。どうかしてやりたいやうな気が
で果たしたから愛着が生じたというのでも、つじつまはあうま
4
(名と住所をごまかして小僧を鮨屋に残して出てきた後)
「小僧に
(偶然に小僧と再会し「他所で御馳走する」機会に直面して)「名
「兎も角さう云ふ勇気は一寸出せない。(略)他所で御馳
よ そ
(だからといって、それを実行すると)
(同)
「此方が冷汗ものだ」
こつち
い。いずれにせよ、作者の愛着が「見た事」をもとに小説を作
5
した。そして、出来る事なら、かうもしてやりたいと考へ
「変に淋しい気がした。自分は先の日(略)心から同情
た。のみならず、其鮨屋にも出掛ける気はしなくなつた」
章)
(九
「淋しい変な感じは日と共に跡方なく消えて了つた。」
て居た事を今日は偶然の機会から遂行出来たのである。
(同)
別れると追ひかけられるやうな気持」(七章)
(略)自分は当然、或喜びを感じていいわけだ。所が、ど
「もう少し仕た事を小さく、気楽に考へてゐれば何でも
(同)
かうした淋しい感じで感ぜられるのかしら?」
を本統の心から批判され、裏切られ、嘲られて居るのが、
「自分のした事が善事だと云ふ変な意識があつて、それ
「勇気は一寸出せない」。それは基本的に実体験が誘発した作
うかしてやりたい」が、実行に移すのは「冷汗もの」で、その
ように何もしない。そのAの気持ちは、「可哀想」だから「ど
る。Aは作者と同じような場面に遭遇し、そこでは作者と同じ
右の分けかたは便宜にすぎない。確認したいのは次の点であ
様の偶然はなかったようだが、もしAと同じような機会を得て
者の内省と通じるのではなかろうか。その後の作者にはAと同
「然し兎に角恥づべき事を行つたといふのではない。少
の文脈になる。小
能性を実行すればどうなるか。そのときに一番しっくりとくる
から
「他所で御馳走するなら、まだやれるかも知れない」という可
心の動きをシミュレートしたものが
なくとも不快な感じで残らなくてもよささうなものだ」
「変な淋しい気持はBと会ひ、Y夫人の力強い独唱を聴
虚構に違いないが、作者にとって落ちつくべきところに落ちつ
の、不思議ネ」「さう云ふ事ありますわ。何でだか、そん
(妻の自問自答)「何故でせう。そんな淋しいお気になる
のやうな気の小さい人間は全く軽々しくそんな事をするものぢ
の性格が濃い。笑顔を向ける細君に対して「笑ひもせずに」、
「俺
では、あたかも生身の作者の心の動きを写したかのような写実
く「本統」の気持ちや一番しっくりくる心の動きを追求する点
(同)
な事あつたやうに思ふわ」
「本統にさう云ふ事あるわ」
などを話した」(同)
(淋しい気持が直った後で妻に)
「変に淋しい気持になつた事
僧への御馳走が作者の現実ではない以上、それも虚構といえば
15
いて居る内に殆ど直つて了つた」(同)
4
(同)
(同)
だ。」
ないのかも知れない。自分は知らず
こだはつて居るの
をするものぢあ、ないよ」と云つた」(同)
(笑いながら、その鮨を取ればという細君に)「Aは笑ひもせず
(しかし小僧の店の前を通るのは)「気がさして出来なくなつ
うだらう、此変に淋しい、いやな気持は。何故だらう。何
14
あと
15
7
の気持に似通つて居る」(同)
に 、「俺のやうな気の小さい人間は全く軽々しくそんな事
13
から来るのだらう。丁度それは人知れず悪い事をした 後
6
8
9
10
11
12
一寸出せない」という発言の再確認であり、「他所で御馳走す
あ、ない」と語るAの発言は、
「冷汗ものだ」
「さう云ふ勇気は
されていたことは十分に推測される。その点では、これも第一、
という問題が、仙吉の奉公先や境遇を描く第一、二章で先取り
必然の道筋をたどる第四章以降の文脈とは対照的に、「神田
二章の設定の問題として問うことが許されるだろう。
てはともかく、気持ちの上では意志的な選択として再び閉ざさ
るなら、まだやれるかも知れない」という可能性が、偶然とし
じ名の暖簾を掛けた鮨屋のある事を発見」したために屋台に飛
ち「片道」を節約して「番頭」たちの話に出てきた鮨屋と「同
び込む小僧を描いた第二章は、文字通りのシミュレーションの
の或秤屋の店」の様子を描いた第一章、「電車の往復代」のう
化の営みではなく 、「冷汗もの」のふるまいを実行してしまっ
試みだったような印象がある。それは「価をいはれ又置いて出
れたことを示している。第四章以降のAの気持ちのはたらきを
た後の心の必然的な道筋をたどり、落ち着くべき極所に向けて
中心とした記述は、自由な想像が次の想像を産むといった虚構
求心的に進む内面の写実になっている。それはシミュレーショ
中から任意の一つを選ぶ作業である。小僧は「或秤屋」でなく
て行く」はめになった小僧に向けて、つまり第三章の光景に向
のような文脈のみな
けて、多くのありそうな可能性を可能性の方向で検討し、その
から
ンであっても、むしろ他の種々の可能性を削ぎ落としていくよ
もっとも、第四章以降には先の
うなそれである。
かけなども「同じ名の暖簾を掛けた鮨屋のある事を発見」した
四章以降の僥倖に遭遇して不思議でない。屋台に飛び込むきっ
人見習いであったとしても、第三章のような不幸に出会い、第
(A)に対する仙吉の思い(第十章)なども描かれている。その
というに限るまい。その点、第一、二章の設定は可変的な性格
とも、呉服屋、本屋、文具屋の小僧、あるいは大工や左官の職
うち第五章のAと仙吉(小僧)との再会の場面は、仙吉の奉公
はかり
先が「 秤 屋」として設定されている第一章を受けているので、
を持つように思われる。
二章の設定がただちに第四章以降の仙吉の内面や人物像を説明
る文脈が、それとは逆の必然性を帯びているように見えること
以降の「可哀想」から「そんな事をするものぢあ、ない」に到
それ以外は基本的に仙吉の内面や人物像が問題になる。第一、
するというまでの呼応関係にあるわけではない。たとえば仙吉
)は「これまでの研究は「変に淋しい、いやな
孝「『小僧の神様』論―Aと仙吉との関係をめぐって」(「日本文
・
は、「小僧の神様」論の動向と関わっている。たとえば山口直
藝研究」平
が「秤屋」の小僧であることと第八章や第十章の仙吉の内面描
無関係にも見える。しかし、仙吉をどういう人間として描くか
7
写とが関係するのかどうか、にわかには断定できない。それは
第一、二章あるいは第五章の虚構化が可変的に見え、第四章
基本的には、第一、二章の設定の問題として問うことができる。
らず、Aと仙吉(小僧)との再会(第五章)、鮨屋での仙吉の様子
15
(第六章)、鮨屋から帰るときの仙吉の想像(第八章)、
「あの客」
1
9
気持」(七)の解明に比重を置き、出発点を問題にすることは殆
が、上記の点で、なお再考すべき指摘になっている。
のの、その後の研究史を見れば異論も多いことになるのだろう
いう発言がある。数の上からいえば、現在では、山口論や頓野
物語は、Aの内面を探る、という点を中心に読まれてきた」と
の展開の中で「秤屋」である必然性はとくにない」と述べた上
奉公先が「秤屋」である「必要があったのか」と問い、その「筋
刊国語教育」平
(
「月
紅野謙介「隔差をめぐるファルス―志賀直哉の短編を読む」
小説の第一、
二章の設定と小説の後半との関係を考える上で、
どなかった」と述べていたし、近くは頓野綾子「『小僧の神様』
論を含め、第一、二章の設定を問題にした論は「殆どなかった」
で、「
「 はかる」という行為自体のなかに、ヒントが隠されてい
―その「残酷な関係 」」(「中央大学國文」平 ・ )に「従来この
というほど少ないわけではない 。「小僧の神様」に関する研究
る可能性」があり、
「この小説では「はかる」ことは思いの外、
) は、興味深い指摘を行っている。仙吉の
史の上でも、今後の課題としては、作者の体験に重なる第三章
・
を中心として、第一、二章の設定と第四章以降の文脈との有機
9
賀直哉・鑑賞」(『鑑賞と研究・現代日本文学講座 小説 』三省堂、昭
について、
「相当程度の致命的な破綻」を指摘した紅野敏郎「志
引用するように、小説前半の「小僧」と「秤屋」という設定を
直哉「小僧の神様」を読む 」(「成蹊国文」平 ・ )がいずれも
だが、前掲の山口論や頓野論および次に引用する林廣親「志賀
って、以上の指摘がそれ以上具体的に検討されることはないの
めない代表例になっているが、その一方で紅野の意見には、第
しようとするからではない。なるほど同論は有機的な関連を認
いる。紅野論を引いたのは、「致命的な破綻」をそのまま是認
てしまい、たちまち、影の薄い存在になってしまう」と述べて
の分析に力が注がれ、同時に仙吉の形象はいちじるしく色あせ
れてきた」が 、「Aの登場」以後の文脈は、その「変な寂寥感
あたりのところまでは、たしかに迫真的な描写で書きすすめら
「隔差」を意味しているかどうかは曖昧なので、林が言うよう
困難さと関係すると述べる。紅野の発言の意図がストレートに
生の行方の不可知性というアポリア」つまり「はかる」ことの
ようなAと小僧との「隔差」にかかわるのでなく、「<他者>の
摘の重要性を認めた上で、ただし、その意義は紅野が示唆する
(
「国文学」昭 ・
種に言及した町田栄「志賀直哉『小僧の神様』」
考える上で重要な示唆を含んでいた。林は、「秤屋」という業
3
三章の前と後とをどう捉えるかという問題提起が含まれてい
11
4
な差異があるのかどうかも実は不明なのだが、ともかく、紅野
・
) のような意見もあるからである。紅野は、小僧が「二
どう読むか」という「連載講座」の一回であるという性格もあ
2
銭の不足で、むなしくうちのめされて引きさがっていく、その
有機的関連という語を用いたのは、第三章の前と後との落差
大事な役割を果たしている」と述べる。この文章は、「小説を
3
的関連を検討することが必要であると思われる。
15
た。紅野論の是非については、面と向かっての反論は少ないも
3
3
37
) を参照しつつ 、
「はかる」ことの意義に注目した紅野の指
59
避的に結びつくような可能性として「秤屋」の「小僧」の「仙
従来、多くの論で焦点になってきたAの「淋しい気持」と不可
を見直すことになることは確かであるように思われる。
それは、
へて貰つて」云々と連絡する仕掛けにもなっているが、「住所
という一文などは、小説末尾の小僧が「番頭に番地と名前を教
「秤を買ふ時(略)買手の住所姓名を書いて渡さねばならぬ」
は秤でなければならないという性格のものではない。たとえば
右の引用以外にも秤にまつわる表現は数箇所あるが、それら
のまで荷物秤が順に竝んでゐる。(第五章冒頭)
吉」を考えるということになるだろう。先行論文の驥尾に付し
の指摘の可能性を検討し直すことが、小説全体の有機的な関係
て、その可能性を以下で検討してみたい。
やシミュレーションの中から、現実には「秤屋」が選ばれたの
こないということは考えにくい。しかし、任意の多くの可能性
「秤屋」の小僧でなければならない、そうでなければしっくり
脈と同じような意味で必然的だったとは考えにくい。最初から
「秤屋」の小僧という設定が、第四章以降のAの気持ちの文
のシンボルとも言うべき「体量秤」という表現に集約される。
行くのを数の上で知りたい気持」という表現、さらにその気持
れるのは、右の引用の中でも「小さい子供が段々大きくなつて
応関係にあり、その設定が変更されたとき決定的な変更を迫ら
であろう。したがって「秤屋」という設定にとって不可分の呼
どが必要な他の品物でも同じような場面を用意することは可能
姓名」の筆記は「秤」に限らず、修理や修繕や不良品の返品な
であり、そこには相応の理由や根拠があったと考えられる。そ
は、この句および語との関係において考えられるべきだろう。
ところで「秤屋」という設定があったから、「小さい子供が
可変的な選択の可能性の中から「秤屋」の小僧が選ばれた理由
段々大きくなつて行くのを数の上で知りたい気持」という表現
の点では、
「秤屋」の小僧という設定にも一種の必然性がある。
降のAの気持ちをたどる文脈や御馳走をしてもらった小僧の描
たしかに 、「秤屋」の小僧が「呉服屋」の小僧でも、第四章以
き方に本質的な変更が生じるようには思えない。そのときどう
が用意されたのか、それとも逆に、「小さい子供が段々大きく
違ってしまう。前者なら、ともかく任意に「秤屋」が選ばれ、
らでもいいように見えるが、前と後とでは、その設定の意義が
屋」という設定になったのか、そのいずれであろう。一見どち
なつて行くのを数の上で知りたい気持」
を表現する必要から「秤
しても変更しなければならないのは、わずかに次の部分だけで
かよ
Aは幼稚園に 通 つて居る自分の小さい子供が段々大き
くなつて行くのを 数 の上で知りたい気持から、風呂場へ
その結果として「小さい子供が段々大きくなつて行くのを数の
ある。
小さな体量秤を備へつける事を思ひついた。そして或日彼
すう
は偶然神田の仙吉の居る店へやつて来た。(略)店の横の奥
上で知りたい気持」が導かれるのだから、第五章や第七章の秤
た た き
へ通ずる三和土になつた所に七つ八つ大きいのから小さい
であれば 、「小さい子供が段々大きくなつて行く」云々の句は
をめぐる話は小説にとって傍系的な挿話に過ぎなくなる。後者
次のように概括する。
方で、「国民の度量衡に対する畏怖感は長く消えないものにな
よる過酷な検査があり、「市民は度量衡器の不足に苦し」む一
多額の身元保証金を積んだ免許販売人は、厳重な官の取締
ってしまった」と述べ、明治から大正にかけての業界の動向を
りを背景に地方の有力な士となっていった。そしてこれら
最初から小説のひとつの根として発想されていて、そのために
代わってもかまわない代替可能な任意の設定ではなく、小説に
「秤屋」が要請されたことになろう。つまり、「秤屋」は他と
とって、ある種の必然的な設定ということになる。
「大正一〇年に始まるメートル法運動」と小説の間に何らか
が明治二七年設立される「大日本度量衡会」の会員となっ
の因果があるのかどうか、あるいは、「度量衡社会」の「大き
て、いわゆる度量衡社会が結成され大きな政治力を発揮す
である 。「自動車」や「辻自動車」が出る小説の時代設定は、
な政治力」と「貴族院議員」という設定との間に因果があるの
小僧の奉公先をあれこれ考える中で、秤屋については前引の
同時代の大正半ばと考えられ、そのまま適用するわけにはいか
かどうかなども気になるところである。
「大日本度量衡会雑誌」
ることになる。大正一〇年に始まるメートル法運動の推進
ないが、小僧の奉公先として任意に選ぶには、やはりすぐに連
から「計量会」に至る度量衡関係の雑誌を調べると、「神田の
町田論でも言及があるが、すんなりと発想されるほど一般的な
想されるような商店ではあるまい。たとえば「小僧の神様」以
或秤屋」や「京橋」にある「同業の店」の特定および「秤屋」
商いだったのであろうか。どうも、そういう気はしない。明治
外に秤屋を描いた小説として我々は何を想い出すことができる
が置かれていた「政治」的位相などについても手がかりが得ら
力となり、戦後のメートル法を完成させたのも、この団体
だろう。小泉袈裟勝『秤 』(法政大学出版局、昭 ・ )は、税や
れそうだが、ここではひとまず秤屋の設定が任意としては特異
の後身日本度量衡会及び日本計量協会である。
貨幣や貴金属や土地などとも密接に関係する秤が「その性質上
であり、その特異さから、小説との関係を一考するに価するこ
十三年七月出板の『東京商人録 』(編輯兼出板人・横山錦柵) を見
権力の下できびしく管理され、また貨幣と結びついて庶民と特
ると、権衡商之部には日本橋区本町と浅草区田原町の二軒のみ
別な関係で結びついてきた歴史 」(「あとがき 」)を通史的に検証
とを確認すれば足りる。
指摘する。そのため度量衡器の「製作及び販売の業」には官に
想」で「度量衡三器の製作及び販売の業」を律していたことを
くのを数の上で知りたい気持」や「体量秤」といった要素を小
屋」という設定の選択は、「小さい子供が段々大きくなつて行
どういう商売にもその商売なりの特色があるとはいえ 、「秤
するが、明治八年公布の「度量衡取締条例」が「本来公器で政
11
府が供給すべきものを、民間人に請負わせるという形式」の「思
57
めの鍵の役割を担っている。ただし、だからといって「子供」
のを数の上で知りたい気持」あるいは「秤」は、小説を開くた
いか。もし、そうなら、「小さい子供が段々大きくなつて行く
そもそも小説にとって最初から必要な要素だったのではあるま
たま「秤屋」が選ばれたことによる傍系的挿話などではなく、
なのではなかろうか。すなわち 、「秤」にからむ話柄は、たま
説に刻印する必要と不可分に結びついていると考える方が無難
「家事」を引用する。
締」まで十五段階あったと記し、立命館大学人文科学研究所編
は、三越の前身である越後屋の徒弟制度が「子供」から「大元
ん) となった安田丈一『丁稚の知恵袋』
(文化出版局、昭
だからである。大正十四年に神田の伊勢丹呉服店の小僧(丈ど
吉」に対比すべきはAのみだろうか。というのも、仙吉は小僧
に対応するほど十分に固有名の資格を持つのだろうか。また「仙
性が解釈の対象になっている。しかし「仙吉」はAという記号
問題として論じられている。仙吉とAについても、その非対称
)
と「小僧」がまったく同義というようには考えていない。それ
で、親元、宿元の身元保証のもとに丁稚入すると、七、八
親戚、旧徒弟、取引先等の縁故を通じて、十歳をすぎた位
・
については前引の紅野謙介論にも「子供ではあるけれど、決し
て無邪気で無垢な「子供」たりえない、労働者」という指摘も
年間の丁稚生活がはじまる。最初は主人のお供、子守、家
なる。封建的な主従関係のもとで起居始終にわたって厳格
も許される。手代を十年内外勤めると番頭に昇格、店務統
八歳で元服して手代に昇進すると本名でよばれ、酒も煙草
盆と正月に一定の仕着せをうけるほかは無給である。
十七、
な干渉をうけ、禁酒禁煙、羽織、表付下駄はゆるさない。
も本名でよばれず、亀次郎は亀吉どん、長助は長吉どんに
はかり
第一章で語られるのは 、「番頭」と「若い番頭」の間の鮨と
せんきち
作者は「仙吉」という名前を記すことから小説をはじめる。
安田は右の引用に続けて 、「このしきたりは、時代とともに
括の任にあたる。二十年勤めあげると資本、別家料、暖簾
改革されつつ進展したが、まだ大正から昭和の初めごろ、特に
仙吉の「神様」が登場する第三章冒頭が「若い貴族院議員のA」
ーションを経たはずだが、なぜ作者は仙吉という名を選び、そ
云々となっていることから見ても、小僧に名前を与えるについ
れを与えたのであろうか。小僧を指す表現としては「仙吉」と
呉服業界の人事関係には際立った変化は見られなかった」と述
がわかたれ別家になる。
「小僧」と「彼」の三つがあり、その使い分けは語りの視点の
ては、名前を与えるかどうかを含めて、これも一種のシミュレ
仙 吉は神田の或 秤 屋の店に奉公して居る。
はじまる。
鮨屋の名前をめぐる話である。そして小説の冒頭は次の一文で
業の雑用に使われ、しだいに店の仕事を仰せつかる。名前
説の鍵穴にさしこんでみたい。
11
あったが、いずれ後述するとして、以下、「秤」という鍵を小
56
し、「名前も本名でよばれず、亀次郎は亀吉どん、長助は長吉
者も「丈吉どん」ではなく、「丈どん」と呼ばれている。しか
示すのかは、地域や職種や規模によっても違うだろう。現に著
う「しきたり」が、実際にどのくらい浸透し、どういう消長を
は長吉どんになる」、
「手代に昇進すると本名でよばれ」るとい
べている 。「名前も本名でよばれず、亀次郎は亀吉どん、長助
なる。また、その結果を踏まえて今は「山の手通りの一大チヤ
夫、小僧、お神さん、商人、子供、勤人、娘、老人、女中」と
である。通行者として多かった順に記すと、それは「職人、人
ではなく、「身分構成」を調べるときの「身分」の設定の仕方
紹介している。いま注意したいのは、その結果や分析そのもの
北の大道路」で調べた「通行者の身分構成」を「図表」として
ンピオンたる青山通り」でも同じ調査を行っているが、そのと
「商人」という区分は、図を見ると、前掛けに下駄履きで鳥打
きの「身分構成」は「紳士、奥さん、上さん、学生、女学生、
帽をかぶった姿で描かれており、その図が実状を反映している
どんになる」
、「手代に昇進すると本名でよばれ」るという「し
吉どんになる」「しきたり」に即して用意周到に選ばれた「小
とすれば、
「小僧」の出世した姿、すなわち「手代」や「番頭」
娘さん、子供、老人、女中、職人、人夫、商人、小僧」となる。
僧」の名と見えてくるのではないだろうか。安田はその著書を
られた「本名」などではなく、「亀次郎は亀吉どん、長助は長
通じて、そうした「しきたり」が「大正から昭和の初めごろ」
が「商人」として括られていると思われる。同書を通じて、こ
きたり」が意識されるような世界では、「仙吉」も任意につけ
までは生きていたことを記している。「しきたり」が意識され
オ・考現学』が、同時代のあたりまえの風景や日常をあらため
うした区分が一貫するわけではない。しかし、『モデルノロヂ
ら、「小僧」という身分を「商人」でも「子供」でも「勤人」
て観察の対象として意識し直す試みであったことを考えるな
るような世界とは、その「しきたり」の内実については具体的
り」によって生きる人々が分節化される日常世界ということで
に知らないような一般の人々の意識においても、その「しきた
ある。そこは「小僧」が「小僧」として生きている世界であり、
まなざしの性格を知る上でも興味深い。同書の報告のひとつに
に関する情報もさることながら、その対象を選定し分節化する
堂、昭5・7)は、観察対象としての当時の「現在」や「風俗」
今和次郎と吉田謙吉による『モデルノロヂオ・考現学』(春陽
の「小僧」を子供ないしは少年として読む論は少なくない。た
て生きていた世界の存在をうかがわせるだろう。
「小僧の神様」
デルノロヂオ」になっている。それは「小僧」が「小僧」とし
うに自然に区分するまなざしがあったことをうかがわせる「モ
娘さん、子供、老人、女中、職人、人夫、商人」などと同じよ
でもない、そして、「紳士、奥さん、上さん、学生、女学生、
今和次郎の「本所深川貧民窟附近風俗採集」がある。その報告
とえば志賀文学における「子ども」を通観し、その重要性を指
「小僧」が「小僧」として見られる世界である。
の一環として今は 、「本所と深川とにまたがつてゐる中央の南
いコメントゆえに「小僧」への一般的な見方が示されていると
と、右のコメントに代表させるのは不親切かもしれないが、短
の制限がある中で多くの小説に言及する論全体の枠組を考える
愛すべき少年像がクローズアップされてくる」と述べる。紙幅
摘する宮越勉「志賀直哉の子ども」(「国文学」平 ・ )は、
「小
、、、
僧の神様」について「大人と子どものあわいにある、けなげで
るとしても、その使用が「幸さん」という人物の固有性を強調
の名に志賀の行きつけの鮨屋の名前 (幸ずし) が意識されてい
関係を計量する秤が働いているのはまちがいない。「幸さん」
ずれにせよ、「仙吉」と「幸さん」という呼称に、商店の人間
けで、もう一人と私が〝どん〟」であったとも述べている。い
は「当然そんな肩書きはない」ので、「上の二名が〝さん〟づ
ならば課長、係長、そして私の係」という関係について、当時
ん「幸さん」も本名の省略に違いないが、先に引いた安田は「今
も言えよう。しかし 、「小僧」を「子ども」から「大人」に移
する意義がないのと同様に 、「仙吉」という固有名も、その名
行する過程の一段階として捉え 、「少年」といった分節化をほ
どこすとき、
「小僧」のニュアンスというより、
「小僧」を「小
先に、仙吉という名との対応関係を見ておく必要があるのは
らではあるまいか。
視点の問題とは別に、両者がそもそも同義的な関係にあったか
大尾の付記が、「仙吉」ではなく「小僧」になっているのは、
として機能している。先行論でも評価や解釈が問題になる小説
「しきたり」の中で生きている「一人の小僧」の同義語めく名
Aのみかと問うたのも 、「しきたり」や「小僧」のニュアンス
作者は此処で筆を擱く事にする。実は小僧が「あの客」
稲荷の祠があつた。小僧は吃驚した。―とかう云ふ風に
の本体を確めたい要求から、番頭に番地と名前を教へて貰
書かうと思つた。然しさう書く事は小僧に対し少し残酷な
きな鮪の脂身が食べられる頃だネ」と話しかけることではじま
ある。それも右の箇所のみなのだから、なくても済まされそう
気がして来た。それ故作者は前の所で擱筆する事にした。
「若い番頭」に向かって、「おい、幸さん。そろくお前の好
である。しかし「幸さん」という名が記されることで、「昇進
作者が目撃したのは「小僧」だが、その体験をもとに構想し
行つて見た。所が、其番地には人の住ひがなくて、小さい
すると本名でよばれ」るという「しきたり」を通じて「仙吉」
つて其処を尋ねて行く事を書かうと思つた。小僧は其処へ
という呼称との階層的対比が暗示されるのだとすれば、やはり
たのは「仙吉」の話か 、「小僧」の話か。作者が「残酷」に思
る。A、Bの記号や「與兵衛」という屋号兼用の名前を除けば、
一定の意義を担って用意されたと考えられるであろう。もちろ
「幸さん」という名は仙吉とともに記された例外的な固有名で
と関わる。第一章の会話の場面は、「帳場格子」の「番頭」が
いか。
を与えることで固有性の輪郭を強調するためというより、店の
4
僧」として分節化するまなざしは決定的に見失われるのではな
14
うか。右の付記は、それを傍証するように、「小僧」とのみあ
問いが有効でない位相で「仙吉」の名が選ばれたのではなかろ
ったのは「仙吉」に対してか、「小僧」に対してか。こういう
う彼らがいる場所は、そのまま店の中の「然るべき位置」や「身
の中」「火鉢」「若い番頭からは少し退つた然るべき位置」とい
を入れて、行儀よく坐つて」いなければならない。「帳場格子
「若い番頭からは少し退つた然るべき位置に、前掛の下に両手
銅」なのである。番頭たちの話を聞いた仙吉は、「早く自分も
って「仙吉」と記さない。こう書くと、それなら「仙吉」とい
番頭になつて、そんな通らしい口をききながら、勝手にさう云
分」を伝えている。言うならば、彼らもまた「秤」の上に乗っ
とえば前引の小説冒頭の一文、あるいは第五章冒頭に続く一文
ふ家の暖簾をくぐる身分になりたいものだ」と思うが、「小僧
ており、彼ら自身がめいめいの重さがきっちりと決まった「分
「そして或日彼は偶然神田の仙吉の居る店へやつて来た。」な
が、そうすると文章上しっくりこない部分が生じてしまう。た
どである。後者を「彼は偶然神田の小僧の居る店へやつて来た」
の仙吉」でしかない彼は、連想してさえ「口の中に溜つて来る
う固有名そのものが不要ではないかという反論が予想される
とすると、文脈から推測できるとはいえ、「神田」中の店があ
ない。それが「身分」にふさわしい身のかまえである。先に引
唾を、音のしないやうに用心しいく飲み込」まなければなら
用した『丁稚の知恵袋』の著者は、先輩の「元どん」から「そ
てはまるようで具合が悪い。ほかの小僧ではない一人の小僧と
や自我ではあるまい 。「仙吉の神様」が、そのまま「小僧の神
入れ替わりに弥吉どんが入ってきた。ちらりと私を見て、
ば」を「御馳走」されたときのことを次のように記している。
して弁別する必要はあるが、固有名が担うのは仙吉という個性
様」となってかまわない位相で「仙吉」と名づけられている。
一緒なので何もいわれなかったのだろう。もし私一人であ
新入りのくせに生意気なという目つきをしたが、元どんと
なお「小僧」と「仙吉」を併用することで生じる効果もあるが、
その呼称にすでに一種の「しきたり」または「小僧」の要素
先行論もあり、本稿では言及しない。
の何げない風景の背後にも、
「手代に昇進すると本名でよばれ、
中」にいる年配の「番頭」は、「巻煙草をふかして」いる。そ
り」を描きこんでいる。「一人の客もない」店の「帳場格子の
題を提供する枕というのみならず、小僧の生活世界の「しきた
の暖簾」を潜る「身分」になるまで一足飛びというわけにはい
吉の「早く番頭になつて」という願いにもかかわらず、「鮨屋
ろしかつた」(同)に違いなく、それでこそ「小僧」である。仙
まして「再び其処へ御馳走になりに行く」(第十章)ことは「恐
そばを食うことが「お説教」ものであるなら、鮨もまた同じ、
ったら、後でお説教があるに違いないと思った。
酒も煙草も許される」という「しきたり」がある。
「若い番頭」
かない 。「悲しい時、苦しい時 」(第十章) を経て「小さい子供
が織り込まれている「仙吉」の名で始まった第一章は、鮨の話
は「火鉢の傍で新聞を読んで」いるが、「小僧の仙吉」はその
が段々大きくなつて行く」
ように大きくなるしかないのである。
、、
暖簾の信用と重みによって、人のできない苦労も出来、人
小説の最終章に「悲しい時、苦しい時」の句があるが、それ
せて行けるのだった。(傍点論者)
は右の引用とも通じるような「苦労」を経て、
「客」という「神
の出来ないりっぱなことも出来た人間だけが、暖簾を活か
て行く」ことは切実な願いでもあっただろう。この小説に寄せ
様」に支えられつつ「暖簾の信用と重みによって」成長する姿
なお、大正五年に長女慧子を亡くし、小説発表の約半年前に長
る作者の愛着の一因は、そうした成長を見守る目が「子供」な
男直康を亡くした志賀にとって「小さい子供が段々大きくなつ
らぬ「小僧」にもそそがれているからではなかろうか。
さて、番頭たちの言う「あの家」が「京橋の幸ずし」であり、
を予見させる。
「何屋」が「花屋」であることは「鮨新聞への返事」(「東京鮨
小僧が「大きくなつて行く」商いの世界とそこでの「秤」の
問題は、番頭たちが語る鮨屋の話とも関わっている。それは「あ
商組合新報」大
) で作者が語るところであるが、小説では
の家のを食つちやア、此辺のは食へない」という品評であり、
々さう云ふ名代の店」の代表として「與兵衛」という名前のみ
「幸ずし」や「花屋」といった具体的な名前は省いていて、
「色
振るひ起して暖簾の外へ出て行つた」(同)と第三章までに限っ
(同)、
暖簾を潜つた」(第三章)、「少時暖簾を潜つた儘」
「勇気を
の様子」(第二章)、「同じ名の暖簾を掛けた鮨屋」(同)、「兎に角
屋の暖簾を見ながら、其暖簾を勢よく分けて入つて行く番頭達
大分はげ落ちた暖簾」(第一章)、「暖簾をくぐる身分」(同)、「鮨
代の店」の暖簾分けをめぐる話である。なお、小説には「紺の
とか云つた。何屋とか云つたよ。聴いたが忘れた」という「名
る。それは誤解であるが、誤解の上で読んでも「暖簾」が「名
すのも、そのように読んでも可能な文章になっているためであ
というのが京橋の店の屋号かどうかはわからないが」云々と記
(
「文学界」平 ・ )が「
の神様』における経済的側面」
「与兵衛」
を与えかねない文章になっている。たとえば関川夏央「『小僧
屋」にも「與兵衛」という暖簾が下がっているかのような誤解
ない読者にとって、仙吉が飛び込む「同じ名の暖簾を掛けた鮨
を記している。そのため、「色々」の「名代の店」に通じてい
・
すか」
、「さう云ふ評判だ」、
「矢張り與兵衛ですか」、
「いや、何
「與兵衛の息子が松屋の近所に店を出した」、
「其処は旨いんで
て暖簾が描きこまれるが、暖簾は小僧の最終的な目標地点とも
)は、山崎豊子「暖簾」の一節を引き、
「暖簾の価値」
代の店」のシンボルであることを押さえれば大過ないような文
・
言うべく、また、それ自体が店の重量を示す一種の「秤」であ
1
脈に仕上がっている。
15
ることは言うまでもない。谷峯蔵『暖簾考』(日本書籍株式会社、
昭
5
は「それを活かせる人間の価値」と述べている。
54
5
として必ず言及する店なので、くだくだしい用例の列挙はやめ
與兵衛については、鮨の歴史を語るような本が握り鮨の創始
10
どにも、同じ「秤」や「しきたり」の世界を生きる者の教育が
仕様がねえな」と言う場面があるが、こうした「主」の対応な
(ちくま文庫)
江戸前の真髄』
て、いっそ嵐山光三郎『寿司問答
示されているのではなかろうか。嵐山は、明治十八年創業の銀
座「寿司幸」本店の二代目杉山宗吉が書いた『すしの思い出』
の一節を引こう 。「すし與兵衛」という店を取材した嵐山は次
「與兵衛」と店名をつけたのは、江戸前寿司屋「與兵衛」
のように述べる。
(養徳社、昭
)を引いて、
「十二歳のときに別の寿司店に修
業奉公に出されたことが書かれている。数え年二十一歳になる
ひて待ちくたびれる與兵衛、客ももろとも手を握りけり」
つも風味は與兵衛すし、買手は店に待つて折詰 」「こみあ
のを置いちやあ、仕様がねえな」と言う「肥つた鮨屋の主」は、
悟ではできないとおそれいった」と書いている。「一度持つた
までの年季奉公で、なるほど、店を継ぐというのは並大抵の覚
・
した江戸初の店として、つとに有名である。「鯛ひらめい
にちなみ、かの華屋與兵衛は文化七年(一八一〇年)に繁盛
と詠まれている。江戸時代の與兵衛店があった両国近くに
たい」とか「御馳走してや」ろうとは、けっして思わないだろ
あるいは「可哀想」と思うことはあっても、「どうかしてやり
あるという非難もあろうが、そこでは小僧は小僧以前に客であ
僧が御馳走してもらう「與兵衛の息子」の店の扱いが対照的で
う。それが「奉公」の「修業」であり、「小僧」自身のためで
「新入幕力士」から「雷電」までの鮨屋の世界もまた、小僧
なもので、主人の意気込みは感じられるが、はっきり言っ
から番頭までを律する「秤」によって支えられ計量される世界
る。ただ、その店でも客の小僧が「秤」の上にいることは同じ
あることを身をもって知っているからである。こう書くと、小
である。そのような「秤」の世界にあっては、
「生意気」
「図々
、、、、
なので 、「若い品のいいかみさん」は、小僧が「三人前の鮨を
には 、「海苔巻」がないと知った小僧が「こんな事は初めてぢ
ない人物として登場し、
「屋台の鮨屋」の前でも「一寸躊躇し」
、
世界を生きている。Aが、それまで「立食ひ」をやったことの
するのに対し、「若い貴族院議員のA」は多分に違う「秤」の
「鮨屋の主」が自分の生きる世界の「秤」で「小僧」を計量
わざ
しい」というのも一方的な貶詞などではなく、小僧への「新入
平げ」るときに「故と障子を締め切つて行つてくれ」る。
やないと云ふやうに」
「手を延ばし」
「其手をひく時、妙に躊躇
「思ひ切つて兎に角暖簾を潜つた」と表現される点なども、両
又台の上へ置いた」のを見て 、「一度持つたのを置いちやあ、
者の「秤」の違いを示すだろう。そのAが「御馳走」をしてや
あるじ
つ六銭だよ」と声をかけ、それを聞いた小僧が「黙つて其鮨を
した」瞬間、
「ジロくと小僧を見て居た」
「鮨屋の 主 」が「一
なつて行く」ための教育的言辞でもあるだろう。小説の第三章
りのくせに生意気な」という「お説教」と同様の「段々大きく
て生意気である。図々しいにも程がある。
店を開いたのはそのためである。歴史上の名店「與兵衛」
7
にちなんでの命名は、新入幕力士が「雷電」と名乗るよう
43
った後の気持は先に引いた。その
には「丁度それは人知れず
現在のように文化や学問も進み、また、階級意識も強く
作者は「鮨屋の主」のふるまいを通して、Aのような見方の一
右のようなまなざしを「鮨屋の主」が共有しているとすれば、
なった時代からみると、すべてが封建的で野蛮のようにも
「お説教」されるように、一件が知れれば、秤屋の番頭は仙吉
面性を示唆していたとも言えなくもない。また、第十章に「悲
考えられると思いますが、それだけに体験から受ける教え
を「人知れず悪い事をした」と責めるに違いない。なにより小
しい時、苦しい時」という句を書きこんでいる以上、作者は、
悪い事をした後の気持に似通つて居る」とある。小僧が生きる
僧に「人知れず悪い事をした」との自覚があればこそ、「主人
第三章と同じような惨めで可哀想な瞬間が、その後も「小僧」
には、魂のこもったとうといものがあります。
夫婦に再三云はれたに拘らず再び其処へ御馳走になりに行く気
世界の「秤」を尺度にすれば、Aの行為はより端的に「それは
はしなかつた。さう附け上る事は恐ろしかつた」という気持を
いうのではなく、「小僧」一般がなめる体験を予想させるだろ
しい時、苦しい時」は、仙吉ひとりの「悲し」さ「苦し」さと
を襲ったことを見通している。その具体的には描かれない「悲
「奉公」を一方的な搾取や奴隷制に比すような方向ではなく、
う。しかし、そうした体験は、たんに惨めで可哀想なそれとい
に「なれるように段々に仕込んでもらう」から、仙吉というよ
うだけなのか。そうではなく、まさに、そうした惨めさや悲哀
り「小僧」は奉公を続けるのだろう。先に引用した安田は、企
それが世の中に出るための「修業」として成立しており、その
見通されているとすれば、第三章の「小僧」の姿を、たんに惨
を通じてこそ「小僧」は「段々大きくなつて行く」、
「一人前」
めで可哀想なそれとしてのみ判定するのは、いかにもAのまな
業間の名刺交換のような場面でのやりとりを次のように記して
その「小僧」が「小さい子供が段々大きくなつて行く」ように
ざしに同調した見方と言わざるをえない。ちなみに嵐山のあげ
り覚えたり、あるいは、年期を勤め上げるところに、修業奉公
「体当たりの勉強」であり 、「その労苦を忍びつつ業を習った
仕込んでもらう」
「生きた社会学」であり、
「身をもって学ぶ」
するのがいるからだ。それはしかたないが、バツの悪そう
空白があったり、遠慮がちに答えると、見下した素振りを
の場合〝間〟をおかないようにしている。少しでも時間の
の場合だと「丁稚上りの無学者です」と即座に答える。こ
会話がとだえると、「学校はどちらです?」とくる。私
いる。
としての価値がある」と述べ、続いて次のように言う。
ぶ修業奉公について、それは「一人前」に「なれるよう段々に
た『すしの思い出』の著者・杉山宗吉は、時に「ビンタ」もと
中で自身を主体化していくようなものとして「小僧」を捉え、
小僧一般のものであろう。
抱くのである。そのような気持は、仙吉に限らず、年季奉公の
人知れず悪い事をした」となるだろう。そばを食う「小僧」が
6
だいたい、この二つのタイプに分かれている。私の身分
でに述べたように、「小僧」の住む側、「インテリ尺度はどの程
じる。それは彼の感じや気持としてしか記されていないが、す
度それは人知れず悪い事をした後の気持に似通つて居る」と感
の「秤」では成り立っても、同じことが、小僧が住む世界の「秤」
がハッキリすると、相手は気取りがとれてザックバランに
後」である。ただし、その「人知れず」にはA自身が含まれる。
な顔をする人もいるからだ。
こういう人は別段悪気はない。
なる。
Aは「満足していい筈 」「喜びを感じていいわけ」にもかかわ
では「悪い事」になってしまう。Aは「此変に淋しい、いやな
、、、、、、、、、、
今度は、こっちが相手のインテリ尺度はどの程度かを測
、
(傍点論者)
る側になる。
気持は。何故だらう。何から来るのだらう」と自問自答し、
「丁
たとえば、右の引用にあるのも、安田に限った観察眼などで
らず、「変に淋しい、いやな気持」を感じ、
「何故だらう。何か
もし同じ学校なら話題も深くなるからとの好意的意図があ
はあるまい。そこには、かつて「丁稚」(小僧)であったことの
こうした「秤」の違いがもたらす問題は、小僧のそれとして
ら来るのだらう」と問うが、それは「秤」の違いから来ている。
ってのことだろう。
惨めさよりも、むしろ、そこから自身を鍛きあげてきたことに
仙吉は不思議でたまらなくなつた。番頭達が其鮨屋の噂
も描かれており、それは次のような「不思議」として現れる。
度かを測る側」に立てば、Aはまさに「人知れず悪い事をした
よって「相手のインテリ尺度はどの程度かを測る側」の目を養
い得た自負、「生きた社会学」者の自負のようなものがある。
をするやうに、AやBもそんな噂をする事は仙吉の頭では
屋台の鮨屋での小僧の悲惨とAによる恩恵は、ともども 、「小
その結果、仙吉は「あの客」のことを「神様」
「仙人」「お稲
僧」が成長する要素、言うなれば、
「小僧」の浮かぶ瀬であり、
荷様」と考えることになるが、「神様」「仙人」「お稲荷様」を
想像出来なかつた。
者のストレートな「愛着」も 、「悲しい時、苦しい時」をくぐ
もたらすのは「AやBもそんな噂をする事」が「想像出来な」
「小僧の神様」だったのではあるまいか。この小説に寄せる作
りぬけていく「小僧」へのまなざしと関わっているように思わ
い事ではない」という一見普遍的にも見える判断が記されてい
わりについて付言しておきたい。小説には「人を喜ばす事は悪
最後に、小説の後半とくにAの気持を叙す部分と「秤」の関
来する。
という小僧の「不思議」も 、「秤」の違いという同じ構造に由
「あの客」について「何故だらう 」「どうして知つたらう?」
が「何故だらう。何から来るのだらう」と自問するAの不安も、
い仙吉の「秤」である。つまり、「変に淋しい、いやな気持」
れる。
た。しかし、それも常に成り立つわけではない。Aの住む世界
のではないか。さらに言えば、Aも仙吉も、それぞれ「かみさ
やう」な「急ぎ足で」も「かみさん」には「粋な人」に見えた
に急ぎ足で」退散しなければならない。しかし、その「逃げる
では「冷汗もの」の行為でしかなく、したがって「逃げるやう
して捉えることができる。
「粋な人」のふるまいが、Aの「秤」
して言う「粋な人」という判定も、同じように「秤」の問題と
あるいは仙吉が御馳走になった鮨屋の「かみさん」がAを評
の世界から「小僧」がいなくなったからかも知れない。もちろ
して、そのような「秤」が客観的な「秤」に見えるのは、我々
を惨めで可哀想とのみ見るのも、我々の「秤」ではないか。そ
だったと言うべきであろう。考えてみれば、第三章の「小僧」
やはり小説全体の鍵ないしは根として働く不可欠で必然の設定
う設定は、第三章以前のみに関わる任意の設定などではなく、
われている。このように見てくると、「はかり屋の小僧」とい
ように、Aも「淋しい、いやな気持」を感じることによって救
きのそれとも通じている。小僧が「残酷」さから救われている
わけでもないので、この小説の読みの場では、読者の「秤」が
ん」のいる鮨屋から足が遠のく点では同じだが、その理由は違
量られることになる。その点でも 、「はかり屋の小僧」は、こ
っている。しかし、その理由によらず、「かみさん」には、そ
こうして、「秤」の問題を意識すると、末尾の付記に言う当
ん、作者は「段々大きくなつて行く」「小僧」を明示している
初の構想が「残酷」なのは、そのような結末では種々の「秤」
の小説にとって、まことにふさわしい。我々もAの細君と同様
れすらも「粋」に見えたのではあるまいか。
が存在する世界に対して小僧の盲目が決定的になるからだろ
につぶやくべきであろうか。
(九州大学大学院比較社会文化研究院教授)
「秤どうも恐れ入りました」
。
う。それは「大きいのから小さいのまで荷物秤が順に竝んでゐ
る」秤屋の店員としては失格である。また、その「残酷」さは、
「俺のやうな気の小さい人間は全く軽々しくそんな事をするも
のぢあ、ないよ」と語るAではなく、たとえば「冷汗もの」を
実行して「満足し」「喜びを感じて」いるようなAを描いたと
KIM
金
Sung-yeon
成 妍
その四―
巌谷小波が朝鮮に「読ませた」
童話
―朝鮮児童文学と巌谷小波
はじめに
一九二三年六月二四日から七月一四日までの二〇日間、巌谷
小波は朝鮮半島の二〇ヶ所を巡回し六〇回のお伽口演会を開催
した。そのいわゆる「全鮮巡回お伽講演会」については、前回
その三―」)で詳細に述べている。
「全鮮巡回お伽
の『九大日文』六号(「巌谷小波が朝鮮に「聞かせた」童話―朝鮮児童
文学と巌谷小波
講演会」を大成功裏に終えた小波が帰国してから四ヶ月経った
一九二三年一一月二五日から、『毎日申報』紙上には「日曜附
立普通学校四年生による「夕陽」という題名の自由画が載せら
れている。次のページの上段には、巌谷小波の童話「白蛇の出
かけた後(上 )」と、山石生という筆名をもって日本語で書か
れた「東洋の兎さんと西洋の亀さん」、そして「笑話」が掲載
『毎日申報』に新しく設けられた「子どもの文芸」欄に登場
されている。
した最初の童話が、小波の作品であったことは注目に値する。
小波の童話が掲載されるまで、『毎日申報』に童話が全く掲載
されなかったわけではない 。『毎日申報』には、一九二二年一
月一日、「懸賞文芸童話」欄が設けられ、懸賞募集によって募
られた読者の「童話」が掲載されていた。これが『毎日申報』
における最初の「童話」の掲載だと考えられる。この企画によ
る掲載は同年一二月にも一回見られるが、
小波の童話以前に『毎
日申報』紙上に童話が載せられたのはこの二回だけである。小
波の童話の掲載に至るまで、『毎日申報』に掲載された童話は
次のとおりである。
家庭」欄に掲載されたものを紙面の上段から概観すると、次の
今朝/金股想
猿の祖先/東月
ガプトリの犬と猫/朴亭律
犬の心臓/崔在甲
一九二三年一一月二五日付『毎日申報』の「日曜附録婦人と
録婦人と家庭」欄が新しく設けられる。
とおりである。「週評、女子解放問題」、「通俗談話、難産と安
一九二二年一二月三〇日土曜日
(掲載日、題名/著者名の順)
一九二二年一月一日日曜日
産(一)」
、
「薪炭節約と改良温突」
、そして「子どもの文芸」欄
踊る魚/鄭遇尚
哀れな少女の昇天/芸峯生
が設けられている。また、
「童謡、幼い子ども」
、作文「少年木
こり 」、短編小説「創作、傷」が掲載されている。さらに、公
申報』において童話作家による本格的な童話の掲載は、小波に
は外国童話の再話( マッチ売り少女 )である。すなわち 、『毎日
魚」は、伝来童話を再話したものであり、
「哀れな少女の昇天」
の作文と日記である。「犬の心臓」「ガプトリの犬と猫」「踊る
以上の作品を概観すると 、「猿の祖先」と「今朝」は、児童
する場合、この挿絵も小波が日本から原稿と一緒に送ったもの
作」童話をはじめ、一一篇の童話を朝鮮に送りつづけたと仮定
名が記入されていない。
『毎日申報』の要請に応じた小波が、
「創
という署名が手書きで記されている。他の作品の挿絵には、署
『白蛇の出かけた後』と『鶴の塔』に用いられた挿絵には、
「坦」
のなのか、その二つの可能性が考えられる。そのどちらであっ
なのか、それとも後から毎日申報社によって付け加えられたも
一九二三年一一月二五日から掲載された小波の童話は、一
よる作品が最初だったのである。
収の「巌谷小波、著作年表」にも載っていない。最初に掲載さ
動に着手した。本稿では、『毎日申報』に掲載された小波の童
た小波が、今度は『毎日申報』を通して童話を「読ませる」活
口演童話を通して、朝鮮の人々に「聞かせる」活動を行なっ
となる。
ても、挿絵に対する考察は童話の分析において欠かせない要素
れた『白蛇の出かけた後』には 、「この童話は東洋の童話王と
話を紹介するとともに、そこにどういうものが語られ、またど
所
九二四年三月三〇日まで、およそ一五回にわたって全一一篇が
して名高い日本の巌谷小波先生が特別に毎日申報のために新し
ういうものが描かれていたのかを考え、その童話のもつ性格を
紹介された。この一一篇の作品は 、『近代文学研究叢書』
く作ってくださったものです」と明確に表記されており、それ
明らかにしたい。
めに、原則として日本統治期の半島を表す表記に、朝鮮を使用
歴史的・思想的コンテクストが曖昧になることを回避するた
用語の説明
なるべく原作をそのまま翻訳したことを明記している。
しかし、
く原作に傷が付かないようにそのまま翻訳致しました。」 と、
なりの割合を示す大きさの挿絵が用いられている。
そのなかで、
『毎日申報』に掲載された小波の童話
国と表記する)
。
することにした(一八九七年から一九一〇年までは大韓帝国を略して韓
程度は確認できない。
その次の作品からは、編集部による記述が一切ないため、翻訳
所と人物の名前を朝鮮のものに変えようとしましたが、なるべ
ていない。
『白蛇の出かけた後』の上編と中編の冒頭部には、
「場
品はすべてハングルに翻訳されている。翻訳者の名前は記され
『毎日申報』がハングルで発行されていたため、小波の作
以降の作品には「巌谷小波」の名前が漢字で明記されている。
1
また、『毎日申報』に掲載された小波の童話のすべてに、か
2
蛙とコウノトリ/
一九二四年三月二日
童話
(掲載日、題名、著者名、挿絵の順、題名訳は筆者による。)
挿絵有り・署名有り
挿絵有り・署名有り
巌谷小波/
巌谷小波/
巌谷小波/
挿絵有り・署名無し
挿絵有り・署名無し
挿絵有り・署名無し
挿絵有り・署名無し
挿絵有り・署名無し
巌谷小波/
巌谷小波/
老人と知恵/
周りを取り囲んでいる静かな川辺には、近日に至り変な
水はいつも秋のように静まり、山がまるで屏風のように
『白蛇の出かけた後』は、次のように始まる。
ものの字句と使われた漢字を忠実に訳したもので、筆者による。
本稿で取り上げる童話の引用は、『毎日申報』に掲載された
べく原作をそのまま翻訳したことを明記している。
めにこの童話を特別に創作したことと、場所と名前など、なる
って掲載された。毎日申報社の編集部は、小波が毎日申報のた
一九二三年一一月二五日から同年一二月九日までの三週にわた
た童話である『白蛇の出かけた後』は、上・中・下に分けられ、
『毎日申報』の「日曜附録婦人と家庭」欄に初めて掲載され
童話
一九二四年三月三〇日
人間と寿命/
一九二四年三月一六日
鴈と亀/
一九二四年三月九日
神様とネズミ/
童話
巌谷小波/
巌谷小波/
巌谷小波/挿絵有り・(挿絵の)署
一九二三年一一月二五日
白蛇の出かけた後(上)/
名有り
一九二三年一二月二日
白蛇の出かけた後(中)/
一九二三年一二月九日
白蛇の出かけた後(下)/
挿絵有り・署名無し
挿絵有り・署名有り
巌谷小波/
一九二三年一二月一五日
象の責任/
巌谷小波/
挿絵有り・署名有り
挿絵有り・署名有り
巌谷小波/
巌谷小波/
挿絵有り・署名無し
挿絵有り・署名無し
挿絵有り・署名無し
巌谷小波/
巌谷小波/
巌谷小波/
鶴の塔(上)/
一九二四年一月一二日
童話
鶴の塔(中)/
一九二四年一月二〇日
童話
鶴の塔(下)/
一九二四年一月二七日
童話
黄金の小魚/
一九二四年二月三日
童話
三兄弟の分財/
一九二四年二月一〇日
童話
蛙とコウノトリ/
童話
がせます―この川辺の潮水が最近一ヶ月前から急に高く
噂が伝播されて、その丘に住む人々の心を少なからず騒
一九二四年二月一七日
一九二四年二月二四日
と、年寄りたちは顔をしかめて、心配そうに話し合いま
い、今でも波が静まり返ったときは、屋根が見えるって?
きは、この辺の小さな島がいくつも水の中に沈んでしま
ったときも、このようなことがあったようだが、あのと
が起こる兆しではないか?
百年前に大きな海嘯が起こ
下から約三分の一程度水に沈んでいるのは、何かの災難
なって、まるで絵のような景色で名高い岩島の變天島が、
潮水が低くなるものだ。それが、反対に高まっていることは、決
信じる人々をあざ笑い、「愚かな人々!
て友達をぞっとさせる若い漁師」である。今度も信太だけは噂を
松魚(鱒のこと―筆者注)を釣るときにはしばしば危ないことをし
で、生まれつき快活な性格をもち、いつも遠くの海まで出かけ、
筆者注 )だけは、平気で漁に出ていた。信太は 、
「先祖代々漁師
がみな海に出ることを恐れるなか、信太(韓国語の読み方はシンテ―
高まっている海水とともに高まる不安によって、他の漁師たち
して海嘯が起こらないという証拠だ。
」といいながら、一人で漁に
海嘯が起こるときは、
した。
噂が流れている。村から見下ろせる海辺には、「變天島」とい
んどん高くなってきて、そのうち村を襲うかもしれないという
わざわざ陸地に知らせに来るそうだ。それはあまりにも申し訳
そして、「聞くところによれば、海嘯が起こる場合には、白蛇が
島の前を通りながら、ふとあの白蛇に関する伝説を思い出す。
ある日、いつものように釣船を漕いで海に出た信太は、變天
出かけていた。
う綺麗な岩島がある。村には、變天島に関する伝説が伝わって
海を見下ろす丘にある静かな村には、数日前から海水がど
いるが、話の続きは次のように語られている。
には、いつから出来たものなのか、小さい神堂(社のこと
この變天島は小さい島でありますが、その中央の岩の上
大きな亀がいるだけであった。そこからの語りは次のようである。
洞窟を覗いた。しかし、白蛇はどこにも見当たらず、洞窟には
を泊めた後、白蛇が住んでいるという、神堂の左側にある岩下の
かどうか聞いてみよう」と、變天島に入っていく。變天島に釣船
ないことだ。今日はこっちから先に尋ねて、海嘯が本当に起こる
―筆者注)があります。そのなかには、大きい白蛇が住ん
いう伝説があるのを、村人はみな信じています。そのた
ました。信太は意外に思って驚きましたが、ためらうこと
洞窟のなかには、大きい亀が平らな岩の上にうずくまってい
って陸地の方に、人間が住んでいる村に上がってくると
でいて、この辺に災難があるときは、その白蛇が水を渡
め、もし今度も、本当に災難が起こりそうになったら、
なく声をかけてみました 。「オーイ、亀や!
に行ったの?」まるで人間に話すように。そうしたら、そ
主人はどこ
必ずその白蛇が渡ってくるといいます。
の亀もまるで人間のように答えました。「竜宮に行ったっき
のもつ意味がより明らかになると考えるからである。
認しておくことにしよう。それをすることによって、この童話
先祖代々漁師である信太は、快活な性格で、いつも海の遠
りまだ帰って来ないよ!」
の特徴でもある。すなわち 、「桃太郎主義」に基づいた理想的
にどんどん進んでいく進取の気性に富むところは、「桃太郎」
くまで漁に出たり、友達を心配させるほど大胆な行動をとった
映されている。線描が主となって、
「水はいつも秋のように静まり、
な若者像として信太は描かれているのである。それに、先祖代
ここまでが、一一月二五日付に掲載された、『白蛇の出かけた
山がまるで屏風のように周りを取り囲んでいる静かな川辺」の風
々漁師であり、
いつも遠くの海まで出かけている信太の姿には、
後』上編の内容である。新聞では中央に挿絵があり、それを囲
景がスケッチされている。また 、「近日に至り変な噂が伝播され
島国根性を脱して海国少年の気概を養おうと唱えていた小波の
させる。冒険心が深く、無邪気で腕白な性格、それに、積極的
て、その丘に住む人々の心を少なからず騒がせます」といった状
少年観が反映されていると考えられる 。
りする若者である。このような信太の性格は「桃太郎」を連想
況を反映するように、加えられた明暗は全体的に暗い印象を与
むように童話が載せられているが、絵には話の冒頭部分の記述が
える。
人々を愚かに思う信太であるが、白蛇の伝説については、少し
ず、いつもの通り漁に出かけている。噂を信じ切っている村の
いる。たった一人、信太という若者だけが、その噂に左右され
ために村に上がって来るという伝説を、村の人々はみな信じて
が起こる場合は、變天島に住んでいる白蛇が、それを知らせる
海嘯を恐れて、生きる糧である漁まであきらめる。また、災難
變天島が海に沈んでいくのを見た村の人々は、災難を予想し、
ろした海のところにある、
變天島という岩島が設定されている。
ない。やっとマッチに火がついたとたん、どこからか雷のよう
煙草に火を付けようとしたが、洞窟の湿気でなかなか火がつか
は白蛇の洞窟で留守番をすることになる。
退屈になった信太が、
いてくれよ」と言いながら、亀はどこかに行ってしまい、信太
に卵を産めないのさ。遠くに行って卵を産んでくるから待って
守番をしてくれとお願いをする 。「最近海水が高くなって砂場
に留守番を頼まれたという亀は、信太に自分の代りになって留
「海嘯」は、「海溢」という言葉に入れ替えられている。白蛇
の挿絵には、信太と亀が対面する場面が描かれている。また、
再び、話の続きをみていきたい。『白蛇の出かけた後』中編
も疑いを持たない。ついには、災難が本当に起こるかどうか白
てきたのか、白蛇がとぐろをまいて信太を睨み付けている。
な大声がして、びっくり仰天する信太の前に、いつの間に戻っ
ここで、話のなかで信太がどのように描かれているかを再確
蛇に直接聞いてみるために、一人で變天島に入っていく。
この童話の舞台には、海辺の丘にある村と、その村から見下
3
が中心に語られている。
信太が變天島に来た事情を説明すると、
引きつづき『白蛇の出かけた後』下編は、白蛇と信太の会話
て事実が明らかになり、村の人々の不安は解消される。このよ
白蛇に会いに行くという行動をとる。信太の勇敢な行動によっ
た信太は、白蛇の伝説に対しては疑いを持たず、それゆえ直接
ず竜宮に行って、海の色んなことを相談してくるのだ。
見えても竜宮の海龍王の親族なんざ。六十年に一回は必
を、なるべく原作のまま翻訳したという編集部の記述を信じる
の次からは、ハングル表記のみ記されている。場所と人の名前
「シンテ」にカッコ付で漢字の「信太」と明記されている。そ
名前の信太は、初めて使われた上編において、ハングルの
のような理想的若者像が信太を通して語られている。
うに、『白蛇の出かけた後』には、
「信ずること」と「桃太郎」
白蛇は次のように答える。
「それなら心配いらないぞ。海水が高くなったのは、大
でも最近は年のせいか体が堅くなってさ、海水が高くな
と、この「信太」という名前も小波によって付けられたと考え
したことじゃない。俺は今年で三百六十歳なんだ。こう
いと泳ぎにくいのだ。
」
白蛇は、「そうだ。他のところにはあるそうだが、こっちには
たら、もうしばらく津波は来ないだろうね。」という信太に、
海が以前のように穏やかになっていた。「あ~よかった。だっ
ぎやすくするためであった。それに、もう白蛇が帰ったため、
動揺を治めるという、この物語の展開の仕方には、童話が掲載
るところがある。また、災難の兆しに怯えている人々の不安と
巡回お伽講演会を通して朝鮮の人々に直接聞かせた話と相通ず
明記されている。その内容においても、小波が四ヶ月前の朝鮮
にだけ小波が「創作」したことと、原作のまま翻訳したことが
前述したように、一一篇の童話のなか『白蛇の出かけた後』
られる。
津波が来ないように談判をして来たから、村人によろしく言っ
される二ヶ月前に起こった関東大震災への懸念も考慮されたと
結局、海水が高くなっていたのは、白蛇が龍宮に行くのに泳
てくれ。」
「万歳!万歳!」と、信太が万歳をあげ、躍っている
考えられる。
絵には、手に卵を持った信太を見送る白蛇と亀が描かれている。
もやめて、さっそく家に帰ったというところで話は終わる。挿
出かけた後』はその全体的な構成が「浦島太郎」にとても似て
いう「動物報恩のモティーフ」、「龍宮の存在」など、『白蛇の
「浦島太郎」である。
「中国の神仙思想の影響」、亀の恩返しと
た後』が日本のある昔話を喚起させているということである。
それに加えて、見逃せないことが一つある。『白蛇の出かけ
ところに、先の亀が現れて、自分の代りに留守をしてくれたお
村の人々が信じた通り、村の守り神である白蛇は存在した。
礼に黄金の卵を一個くれる。信太は、嬉しいあまりその日は漁
村全体を襲っていた噂を信じることなくたくましく行動してい
えて解釈することも十分可能である。
いる。信太が住んでいる村を朝鮮半島に、龍宮を日本に置き換
う亀の親切を断って、福童が自分の力で川を渡ろうと思うと、
泳いで渡ろうとしたら、一匹の亀が現れる。乗せてあげるとい
寿山にたどりつくと、大きい鶴が千年間作った霊薬が金色の千
力で登ろうとする。すると、岩山がなくなる。福童がやっと千
いでいる。今度は鷹が現れて助けようとしたが、福童は自分の
想像することができる。この二つの物語の関連性を論じるため
寿山の三〇層の塔のてっぺんにあるという。塔のなかに入ると、
川がなくなる。また、二百里を行くと、大きい岩山が道をふさ
には、まず 、「浦島太郎」という日本の昔話が当時朝鮮半島に
階段も梯子もない。呆然とする福童の前に先の亀と鷹が再び現
『白蛇の出かけた後』が「浦島太郎」の改作だとすると、そ
どのくらい普及されていたのかを調べる必要がある。現在、そ
れ、助けようとするが、福童は最後まで自分の力でやろうとす
こにはどういう効果を狙った意図が隠されているのか、様々に
関連性については、稿を改めて論じることにする。
る。福童の行動に感動した鶴が、金色の丸い薬を出してくれて、
の作業中であるため 、『白蛇の出かけた後』と「浦島太郎」の
話を戻して、『白蛇の出かけた後』の次に掲載された『鶴の
三回の難関が設定されて、一つの難題が出されるたびに、
動物や老人、童子などが現れて助けてくれるという類型は、昔
福童は無事に家に帰り、父親は元気になったという話である。
話によくあるパターンである。しかし、『鶴の塔』の場合は、
親孝行の少年が、千辛万苦を経て薬を手に入れるという、昔話
朝鮮で当時よく名付けられた親しみのある名前が用いられてい
の再話である。主人公の名前には、
「福童(ボットン)」という、
助けを断り、自力で乗越えようとすることによって望んだもの
塔』を見ていきたい 。『鶴の塔』は、病気にかかった親をもつ
る。父親が重い病気にかかると、親思いの福童は毎日神堂に参
が手に入るという設定となっている。
ろに行くと、父親の病気を治せる霊薬があるが、それを一日の
里(約一二〇キロメートル―筆者注)離れている万寿山というとこ
付きであった。いきなり大金持ちになった漁師を、村の人々は、
金持ちになる。しかし、それは鮒の事を秘密にするという約束
ある漁師が不思議な鮒を釣って、その鮒を放してやることで大
『鶴の塔』の次に掲載された話は 、『黄金の小魚』である。
り、父親の病気が治るようにと、神霊(民俗上のすべての神―筆者
間に父親に飲ませないといけないと教えてくれる。夢から覚め
た訳を話す。すると、すべてが消えてしまい、まずしくなった
泥棒に間違いないと誤解し、やむを得ず漁師は大金持ちになっ
注)に祈る。ある日、福童の夢に神霊が現れて、東の方に三百
た福童は、さっそく万寿山に向って走り出す。これがこの話の
である。鮒は、自分の身を六等分に切ってくれとお願いをする。
漁師は再び漁に出る。すると今度もこの前と同じ鮒を釣ったの
発端部分になる 。「万寿山」は、中編から「千寿山」と記述さ
福童が百里を走って行くと、橋も船もない川が現われて、
れている。
また二切れは二人の金童子となり、残りの二切れは、二匹の馬
鮒を六等分に切ると、その二切れは金色の百合の花束になり、
い鼻を振り回してもらおうという狐の提案にみな賛成するが、
わてた獣たちは、みんな集まって鳥退治の会議を開く。象に長
合わせて、象を載せた木の板を持ち上げ、野原を駆け回りなが
て、木の板に象を載せて実行することにする。獣みんなが力を
ら、鳥を追い払うことに成功する。しかし、たくさんの獣の群
象の大きい足で草がつぶれるのを心配したネズミの考えによっ
たくさんの宝物を馬に乗せて帰ってくる。こうして漁師は、再
によって、草がすべてつぶされ、次の日からは食べるものがな
になる。
これから漁師の息子になると言い出した二人の童子は、
び一日で世界一の大金持ちとなったという話である。
この話は、
百合の花を漁師に預けた後、馬に乗ってどこかに去り、すぐに
釣ったものを放してやって金持ちになるか、釣ったものから玉
くなってしまう。
『蛙とコウノトリ』は、同じ表題で一九二四年の二月一七
か何かをもらって金持ちになるという、昔話によくあるパター
日と同月二四日に掲載された。二月一七日掲載の『蛙とコウノ
ンが変型されている。特に鮒の身を六等分に切って、その二切
れずつが何かに変わるという構成は、珍しいものだと考えられ
を除いた九編の作品は、「むかしむかしあるところに」で始ま
された小波の童話のなかで、
『白蛇の出かけた後』と『鶴の塔』
い漁師一人が住んでいました」で始まる。『毎日申報』に掲載
って、蛙たちはそのコウノトリに一匹も残らず全部食べられて
願いをする。すると、神様は、大きいコウノトリを下ろしてや
してやるが、命のない柱に不満をもつ蛙たちは、再び神様にお
ろしてくれるようにお願いする。神様は最初、大きい柱を下ろ
蛙たちは、王様から支配を受ける世界に憧れて神様に王様を下
むかしある美しい湖では、蛙たちが自由に過ごしていた。
トリ』から見ていくと、次のような話である。
る昔話型である。教訓または諷刺を含めたたとえ話で、寓話あ
この『黄金の魚』という話は、「むかしある海辺に、まずし
る。その部分については、考察の余地を残しておく。
るいは現代イソップ物語の類型である。なかでも、
『象の責任』、
しまう。
て、そこに住んでいる獣たちは幸せな日々を送っていた。とこ
むかしある暖かい南国の広い土地に、おいしい草が生い茂っ
まず、
『象の責任』の内容は次のようである。
泳ぎ続ける。そのとき、川に浮かんでいるネズミの死体を見た
く泳ぎ回る。しばらくたってネズミが死んでしまっても、蛙は
なったネズミが放してくれと頼んでも、面白くなった蛙は楽し
ズミの片足と自分の片足を草で結んで、川に飛び込む。苦しく
蛙の話である。蛙がネズミに泳ぎを教えてあげるといって、ネ
二月二四日掲載の『蛙とコウノトリ』は、愚かなネズミと
『蛙とコウノトリ 』(二編 )、『雁と亀』は、動物寓話である。
ろが、この土地においしい草があるという噂を聞いて、あっち
その内容を簡略に紹介しておく。
こっちから鳥たちが飛んできては、勝手に草をとって行く。あ
かなネズミは鷹に食べられる。この話には、コウノトリは登場
鷹が飛んできて、ネズミを捕って飛び上がる。それで、蛙と愚
帰ってきた。
った。そこで三男は、猫を船いっぱいの黄金に換えて、故郷に
に行く。そこは、ネズミが多くて人々が困っているところであ
通りかかったとき、その様子を見た人々が口を合わせて醜いと
絶対口を開かないように注意させた後、飛び上がる。ある村を
を亀にくわえさせ、その両方の先を自分たちがくわえて、亀に
運ぶことによって起こるハプニングである。雁は、葦の真ん中
りで枯れてしまい、心配になった二匹の雁が、他の湖まで亀を
『雁と亀』の話の内容は、仲良しの亀が住んでいる湖が日照
た問題は、一問目は蛇の性別を区別すること、二問目は象の重
は年寄りを大事にするようになったという話である。鬼が出し
べて大臣の父親が容易く答えて、国は危機から免れ、それから
目の日にこの国を滅ぼすという。鬼は四つの問題を出すが、す
に、天から鬼が下りてきて、自分が出す問題を解けないと七日
に隠したまま世話をしていた。ある日、この国の王様のところ
の国のある大臣は、年取った父親を到頭捨てられなくて、洞窟
しある国に、年寄りを捨てる法律が立てられていた。しかしこ
『老人と智慧』も昔話の再話で、次のような話である。むか
してない。表題は、編集部による何らかの手違いがあった可能
言いながら亀に悪口を浴びせる。頭に来た亀が、人々に向って
性が高い。
ぷんぷんと腹をたてた瞬間、亀は地に落ちって散り散りに砕け
の部分かを当てる問題、そして最後は、二頭の馬を見てどちら
さを量ること、三問目は切られた木の切れを見て、どっちが根
『三兄弟の分財』には、崔南善が雑誌『子どもの読物』第七
が親でどちらが子かを見分ける問題である。
『神様とネズミ』の挿絵は、草と丘の線描の類似から、『象
て死んでしまう。
絵が、横長く真ん中に載せられている。むかしある農夫が、長
号(一九一四年三月五日)において用いた西洋の漫画のような挿
の責任』の挿絵と同人による作品ではないかと考えられる。
いためだと思った神様は、ネズミを猫に変えてやって、自分の
虐めているのを見る。ネズミが虐められるのは、その体が小さ
ある神様が人間の世界に下りて来て、子どもたちがネズミを
男には鶏一匹を、次男には鎌一つを、三男には猫一匹を財産と
金儲けに出かける。長男は北の端っこにある野蛮国に入り、ま
して残して死んだ。三兄弟は与えられたものをそれぞれ持って
だ鶏を見たことのない野蛮国の人々に鶏を売って、馬にいっぱ
きい犬にかみちぎられ、血まみれになっていた。かわいそうに
家に連れて帰る。ある日、神様が外から帰ってみると、猫は大
思った神様は、今度は猫を犬に変えてやった。しかし、犬が人
い黄金を載せて故郷に帰ってくる。次男は、鎌を持って山奥に
々に虐められているのを見た神様は、犬を虎に変えてやる。す
入る。そこは、豊年になっていたが、鎌がないために稲刈りが
換えて、故郷に帰った。そして三男は、猫がいない小さな島国
出来ないところであった。そこで次男は鎌をたくさんの黄金に
に引き籠っているから三十年でどうだと聞くと、猿は毎日人間
を三年に決める。その次の猿には、君は働くこともなく森の中
日中ほっつき歩くので三十年はきついと言い、神様は犬の寿命
命を与える。次に出てきた犬にも三十年を提案するが、犬は一
大変だから三十年は長すぎるという。神様はロバに二十年の寿
と、ロバは、朝から晩まで人間に引っぱられ使われているのが
した。最初に出てきたロバに、三十年ではどうだと聞いてみる
る、兎、猿などの動物を集めて、みんなの寿命を決めることに
である。世界を治めていた神様が、人間、ロバ、馬、犬、あひ
最後に『人間と寿命』は、この世界が出来たばかりの頃の話
一九二三年一二月三日に『老人と孝子』、同年一二月九日に『二
されている。「山石生」による童話は、この一回だけでなく、
石生」による「童話」、
『東洋の兎さんと西洋の亀さん』が掲載
の『白蛇の出かけた後』上編が掲載された紙面の左側には、
「山
る。それは、「山石生」による日本語童話の存在である。小波
もに変っている。
それにもう一つ、小波童話の登場の他に注目すべきことがあ
欄は、小波童話の始まりとともに現れ、小波童話の終わりとと
規模的にも縮小されている。つまり、「日曜附録婦人と家庭」
家庭」に略され、他の記事の見出しと変らない大きさになって、
題を掲げていた。それが、一九二四年四月六日からは「婦人と
紙面の上段に横長い絵入りの「日曜附録婦人と家庭」という表
以上のような童話一一編が、『毎日申報』の「日曜附録婦人
に躍りや可愛いしぐさを演じさせられているため、三十年は大
匹の猫とお猿さん』が掲載されている。その掲載時期は、『白
ると、生意気になった虎は、神様を殺して自分が王様になろう
変だと答え、十年の寿命を与えられる。しかし、一番後に出て
蛇が出かけた後』の上、中、下と一致している。小波の童話と
と家庭」欄を通して発表された小波の童話である。一九二三年
きた人間だけは、他の動物とは違って三十年は足りないと言い
並んで全三回掲載されたこの日本語の童話は、総督府の御用紙
と思い、神様を襲う。そのとたん、虎は元のネズミに戻ってし
張る。それで神様は、三十年にロバと犬と猿の年を合わせた七
とはいえ、ハングルを専用としていた『毎日申報』からみると、
一一月二五日新設された「日曜附録婦人と家庭」欄は、大きく
十年の寿命を与えてやる。こんなわけで、人間は、三十歳まで
非常に珍しい。
まう。
が一番楽で、その次からはロバのように働き、またその次から
亀と兎のかけくらで、兎がねむつて亀にまけたといふの
洋の亀さん』の全文を次に引用してみる。
山石生の童話のうち、最初に掲載された『東洋の兎さんと西
は犬のようにあっちこっちを歩き回ったり、猿のように片隅に
引き籠ったりするのである。そして、完全に年をとってしまっ
た後は、子どものようなしぐさをするようになるが、これはも
うろくすることで、まるで猿がかわいいしぐさを演じるような
ものである。
は、皆さんごせうちの筈の話ですが、今でも(七行、判読
でも、どうせばんまでかゝるだらう。といふので、イン
さん中々、足がはやいので、西洋亀さんどんなにいそい
さまが西洋人と思ふのはうおちがひそんなに東洋の大兎
釈迦さまもキリストさまも皆我々のお仲間よ。キリスト
の住んでる所。三千年前の孔子さまも、孟子さまも、お
の内で、一ばん先に開けたのが東洋。東洋とは我々仲間
週間後に掲載された『老人と孝子』においても続けられる。
『老
べている。このような「東洋中心主義」を強調する語りは、一
次に走り出したのが、日韓併合によって目覚めた朝鮮兎だと述
て叫ぶ声に、一番早く目覚めて追いかけたのが内地兎で、その
兎が眠っている間に走り出した亀が、世界文明の表舞台に立っ
る間に走り出した亀に、
シナは眠っている亀に例えられている。
朝鮮と内地とインドを眠った兎に例え、西洋を兎の眠ってい
(をはり)
ドの兎さん、毎日々々大きな木の下でねむつてばかり。
人と孝子』は、親孝行の意味と、親心を説明したものであるが、
不可―筆者注)それがどうした、よくよくおきゝよ。世界
シナの亀さんアヘンをのんで、ねてばかり。朝鮮兎は長
とせられて居る。世の中が進むにつれて此美徳は益々発達させ
れで親に孝行をすること、長者を大事にすることは此地の美徳
て行かねばならぬ。」と述べられている。また、少年に向って、
そこでは、「朝鮮は昔から東洋の礼儀国と唱へられて居る。そ
西洋亀は、けんめいに、走つて行つたおかげさま、世界
「このことは皆さん少年の方々にお願ひせねばなりません。少
ねぼう、三百年もねむつてた。兎がねむつてゐるひまに、
の文明は西洋の一人ぶたいと亀さんが、大ごゑあげて叫
年といふものはそんなに大きな力のあるものですよ!」と、話
きせる、くわへてオンドルでねてばかり。内地の兎は大
んだを、聞いてさめたは内地の兎。内地兎は五十年前か
日本帝国が志向した思想や文化について、分かりやすく語
しかけている。
った前の二編に比べ 、『白蛇の出かけた後』の下編と並んで掲
ら目ざめて一生懸命。とうとう亀に追ひ付いた次にさめ
に、横目もふらず走つてる。もうすぐ亀に追付さうそれ
載された『二匹の猫とお猿さん』は、短い童話である。この話
たは、朝鮮兎。日韓併合その時に、目さめてからは一心
インドとシナよ、内鮮兎が足なみそろへ、朝起ラツパと、
それごらんよ一生けんめい。愉快々々。一こうさめぬは
で始まって、「この猫ばかりではない、世の中には、ちようど
こんな猫のまねをする人が少くない。お互朝鮮(一文字欠、以下
は、
「或所に二匹の猫が居ました、玉ちやんとみゆうちやん。」
欠と表記―筆者注)生活する人は(欠)家内の人だ、互に力をあ
玉むき出し横目もふらず、亀の足許みだれたはづみ、す
かさず進め大兎。あゝ愉快々々。もうすぐだ、進め、進
進軍ラツパ。朝鮮兎よめざめよ。東洋兎よ大耳立て。目
め!!
生活する人は(欠)家内の人だ、互に力をあはせ心を一にして
ある。話の最後には、話とは何の関係もない、
「お互朝鮮(欠)
やると言いながら結局は自分で全部食べてしまうという内容で
けたと言い張って喧嘩になる。そこに猿が現れ、半分に分けて
匹の猫が、一緒に牛肉の塊を拾うが、お互いに自分が先に見付
していた 。『オリニ』二巻二〇号( 一九二四年一〇月一日)に仏蘭
な執筆活動を展開、世界各国における少年の英雄談を主に連載
童話を掲載していたのと同時期には 、『オリニ』を通して持続的
務めながら『新女性』の編集にも参加していた。『毎日申報』に
の創立メンバーとして、開闢社に入社し、『オリニ』の編集長を
文化運動家、口演童話家として評価されている。
「天道教少年会」
の問題』、四月二七日『不思議な人』が掲載されている。
李定鎬(一九〇六~一九三八)は、号は微笑、児童文学家、児童
はせ心を一にして愉快に暮しませう!」で終わる。仲良しの二
愉快に暮しませう!」という「内鮮融和」に立脚した言葉が付
り、『鶴の塔』から『三兄弟の分財布』までは漢字で「童話」
ズミ』には、ハングルで「童話」とジャンル名が記述されてお
山の絵が描かれていた。『蛙とコウノトリ』(二編)、『神様とネ
とネズミの絵が、そして『雁と亀』、
『人間と寿命』の表題には
申報』は、一九二三年一一月から「子どもの文芸」欄を設け、
また 、『京城日報』と共に小波のお伽講演会を主催した『毎日
話普及会」まで組織され、積極的に小波の口演を実行していた。
普及のため」であった。朝鮮における童話の普及のために、「童
小波の朝鮮巡回お伽講演会の開催目的は、「朝鮮における童話の
『京城日報』の記事によると、一九二三年六月に行なわれた
西少年の話、三巻六号(一九二五年六月一日)と三巻七号(一九二
されている。
と、そして最後の作品『老人と智慧』には、山の絵にハングル
四ヶ月間一五回にわたって一一篇の小波の童話を紹介した。それ
五年七月一日)にアメリカ少年の話、三巻八号(一九二五年八月一日)
で「童話」のジャンル名を記述している。李定鎬の童話には、
が『毎日申報』における最初の童話作家による本格的童話の掲
小波の童話は、一九二四年三月三〇日の掲載を最後にしてい
その表題に全て漢字で「童話」と記述されている。李定鎬の童
に英国少年の話、そして三巻九号(一九二五年九月一日)には仏蘭
話は、形式面においても、内容面においても、小波のものと同
載となった。
それでは、『毎日申報』以外の、当時朝鮮に発刊されていた新
る。同年四月六日からの「婦人と家庭」欄には、小波童話の後
様で、作家の名前だけが変っているような印象を与える。李定
聞・雑誌に童話が掲載されたのはいつ頃からなのか。朝鮮で行な
西少年の話を載せている。
鎬の童話は 、「むかしあるところに」で始まる昔話の再話と、
った小波の童話執筆活動が、朝鮮における童話の普及にどれ程の
を継いだ李定鎬の童話が登場する。小波童話の掲載において、
イソップ物語の類型である。一九二四年四月六日『蝋燭のなか
『白蛇の出かけた後』と『象の責任』の表題には、それぞれ蛇
の王女』、四月一三日『欲張り王様』、四月二〇日『難しい三つ
このような問題に対する検証は、
『九大日文』次号を借りて引
影響を及ぼしたのか。
き続き論じることにする。
션생이 특히 매일신보를 위하야 새로히 지
人物の名前を朝鮮のものに変えようとしましたが)
」の「곳치라하얏습니
ここで、「처소와 사람일흠을 됴션것으로 곳치라하얏습니다만은(場所と
얏습니다」
다만은 될수 잇는대로 원작에 흡집을 내이지안케하랴고 그대로 번역하
여 보내 주신것입니다. 처소와 사람일흠을 됴션것으로 곳치라하얏습니
흠이 높흔 일본 암곡소파
この記事の原文は次のようである。「이 동화는 동양의 동화왕으로 일
研究所、一九五六年)
昭和女子大学近代文学研究室『近代文学叢書 』(昭和女子大学近代文学
【注記】
1
2
3
다만은 (変えようとしましたが )」の記述は 、「変えようとしましたが」
とも「変えるようにおっしゃいましたが」とも解釈で きる。つまり、ど
ちらの解釈をとるにしても、小波の意見が反映されたことには変わりが
小波は、明治三十一年の「メルヘンに就いて」で武島羽衣の註文「壮大
ないと考えられる。
『毎日申報』の一九二三年一一月二五日付。
(筆者訳)
なる想像を馳せて、少年の気宇を豁大ならしめよ 。」に答えて、「小生不
肖と雖も私かに他日の大鵬たらんと期する者に御座候。元来日本人は、
兎角島国根性を免れず、小感情、小義理、小功名、小利慾にのみ馳られ、
神経質にのみ成り勝なるは、大に慨嘆すべき事と存じ候。されば少年教
育の如きも、あまりコセつきたるは宜しからず、所謂大器の晩成を期し
え方を述べていた。佐藤通雄、
『日本児童文学の成立・序説』
(大和書房、
て、小供は矢張り小供らしく、大様に育てるが肝腎と存じ候。」という考
一九八五年)
、一二頁。
(九州大学大学院博士後期課程三年)
石井充「白痴」論
―「白痴」という戦略―
S h i g e o
重 雄
当時の人間観及び「白痴」観を確認し、農本主義言説を整理す
ることで、この作品における「白痴」表象、さらには〈「白痴
人間観及び「白痴」観
者」を人間として描く戦略性〉を考える。
二
(大正四年六月 金港堂)は、その
している。
『異常児教育の実際』
K O U C H I
著作の一つだが、その中で脇田は 、「不幸な子供」を持つ親か
河 内
(「低能児」「
・ 白痴児」
・
脇田良吉(一八七五―一九四八)は、
「異常児」
石井充(生没年未詳 )「白痴 」(『文芸行動 第四号』 大正十五年四
ら送られてきた手紙を紹介している。以下はその手紙の一部分
本稿の狙い
月)は、医科大学の三年生の時に「運命的な、重い脳病に犯さ
一
れ」、田舎に連れ戻された主人公「謙介」の、田舎での百姓生
前が入っていたと思われる。以下、引用文中の傍線は全て筆者によるもので、
の引用である(本文中の「○○」には、もとはその「不幸な子供」の名
「精神異常児」「
・ 悪癖児」等の総称)教育で有名で、数々の著作を残
活を描いた小説である。日々の農作業に歓びを感じ、飾ること
末から昭和にかけての農本主義的農民像を極端にしたもの〉と
その一つの例と言ってもよいが、石井充「白痴」では、〈大正
る。作家が「白痴」を表象として様々なパターンで用いていく、
はなく、特定の歴史的状況と結び付けて戦略的に用いられてい
この小説では 、「白痴」は単なる障害者の表象としてだけで
へども教育次第にては人となる見込あるものを親の義務
く断念致し何も彼も前世よりの因縁と諦め天に任せ申候
も○○事更に見込無き白痴者と認め候へば私もいさぎよ
校に入学致させ候上は随分学資も費し申事とは存候へど
申上候へ共兎に角一寸以前御相談申上候 (中略)都門の学
御聞き入是非とも御許下され御目にかゝり委しき事は可
何卒 く ○○人となるとならんの境に付やさしき耳もて
旧漢字は適宜、新漢字に改めてある)
。
を知らない謙介と、そのような謙介に対し無理解な周囲(家族
や他の百姓)を描いた小説である。マイナーな作品なので、小説
して「白痴」を描いていると考えられる。それは同時に 、「白
として此儘捨置くに忍び不申もう く 私は○○さゑ人と
全文を巻末に資料として掲載した。
痴」こそが真の人間という 、「白痴者」を社会の異物ではなく
なり候へば我身は犠牲にしても少しも厭ひ不申候
尊厳ある人間として描く戦略をも内包していよう。以下、大正
(明治四十四
泉鏡花「高野聖」(明治三十三年二月)、島崎藤村『家』
正七年十月 )、有島武郎「星座 」
(大正十年七月―翌年四月 )、鈴木泉
年十一月 )、宮城露香「小説低能児 」
(大正二年二月 )、芥川龍之介
三郎「美しき白痴の死」(『鈴木泉三郎戯曲全集』(大正十四年五月 プ
本書の最後(「余論」)では、「最後に書き残しておきたい事は、
児も皆霊的には親戚であります。」といった、「
〈 白痴者」も同
ラトン社)収録 )
、小酒井不木「白痴の智慧」(大正十四年十一月―翌
(大正七年七月)
(大
谷崎潤一郎「金と銀」
、伊藤野枝「白痴の母」
じ人間だ〉とする見方を提示してはいるが、全体としてはこの
年一月 )、石井充「白痴 」
(大正十五年四月 )、太宰治「名君 」
(昭和
(大正六年四月―七月)、鈴木悦「白痴の子」
(大正六年六月)、
「偸盗」
手紙に見られるような、「
〈 白痴者」は人間ではないのではない
二年一月 )、夢野久作「いなか、の、じけん」
(昭和二年七月―昭和
我々御互は大宇宙の一分子であつて、異常児も普通児も皆無関
か〉とするまなざしで満たされている。例えば、「それで大体
五年一月)、松永延造「職工と微笑 」
(昭和三年)
、逸見廣「白痴」
係のものではありません、我々には変態児も、中間児も、普通
出来得るだけ人にするといふの主目的にして、教科は読書、算
「汗 」(昭和八年五月 )、北条民雄「白痴」(昭和十年四月)、小栗虫
(昭和三年 )、矢田津世子「反逆 」
(昭和五年十二月 )、岡本かの子
の方針は前にも述べたやうに普通児の教授と変はらぬが、先づ
術を中心学科として、其他の手工、唱歌、図画、遊戯、運動等
(昭和十年五月)、田畑修一郎「南方」
(昭和十年六月)、
太郎「白蟻」
は以上三科目教授の準備として予習として課したまでにすぎな
かつたのである。」といった記述は、その典型であろう。
(知的障害者)は人間か否か〉
学において、幾度となく〈「白痴者」
岡本かの子「みちのく」(昭和十二年十月)といったところか。文
という問いが問われてきたことが確認できるであろう。近代に
このような、「
〈 白痴者」は人間か否か〉といった問いとの関
たことではない。こういったことは、近代に入ってなされた諸
的表象の同時発生は偶然ではない 。「知的障害者」の表象を問
おける〈人間とは何か〉という問いかけと、「白痴者」の文学
係で考え、まなざすことは、何も脇田だけが特別に行なってい
概念や諸価値の再編成に伴い、人間観においても〈全ての人が
あり、同時に人間(〈どんな人でも全て人間〉の人間)を「人間」た
うことは、その時代その時代の「人間」(限定的)を問うことで
同じ人間として平等な尊厳を持っている〉といった考え方が少
なくとも建前としては登場してから今日まで、ほぼ一貫してい
筆者は以前 、「
「 春の鳥」論 」(『九大日文 』 平成十六年四月)
らしめる言説や価値観をも問うことである。
ると言えよう。そしてそれは教育の分野に限られたことではな
く、政治、経済、そして文学の分野でも、しばしば目にされる。
を内包しているもので、戦前に限って列挙してみると、国木田
と題した拙文を綴ったことがある。これをそのような関心(観
文学作品で〈「白痴者」(知的障害者)は人間か否か〉という問い
独歩「源叔父 」(明治三十年八月 )・「春の鳥 」(明治三十七年三月 )、
04
(「私」の中での〈翻訳者〉の敗北)と論じた。富国強兵がキーワー
は「六蔵(「白痴」の少年)」の意思、主体性を回復できていない
なざす者) の側面を想定した。そしてその上で、主人公「私」
科学言説は「白痴者」には理性や主体性がないとしているが、そのようにま
者〉(他者の意志や主体性を翻訳する者)の側面と、〈科学者〉(当時の
筆者はまず、「春の鳥」の主人公「私」の属性として、
〈翻訳
国民はもはや教育については皆問題は無いのだから、成人全て
吉野がこの論文で言わんとすることを要約してみると、〈日本
央公論』
(『中
造の「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」
ー運動であろうが、例えばそのイデオローグとも言える吉野作
大正末の「人間」観を考える上でキーとなるのは、デモクラシ
うと「春の鳥」発表当時からさほど変わっていないと言えよう。
号』に掲載された作品だが、大正期の「人間」観も、大枠で言
第四
ドである当時の「人間」観については、啓蒙主義的進歩史観が
(ただし「狂者」
、
「犯罪人」、
「貧民救助を受くるもの」、
「破産の宣告を受け
石井充の「白痴」は大正十五年四月発行の『文芸行動
強力に〈教育による理性の進歩、それによる社会の向上〉を謳
点)から整理すると、次のようになる。
っている以上 、〈教育が一定の効果をもち、それによって知力
めるべきだ〉といったところであろう。婦人参政権についても、
たるもの」、「浮浪の徒」は省く。「婦人」については保留)に参政権を認
年三月)等は、吉野の主張の要約の〈
「婦人」については保留〉
例えば与謝野晶子「婦人も参政権を要求す」(『婦人公論』大正八
大正五年一月)を見ても、そう言えるように思われる。
や主体性が進歩していく者〉が「人間」と見なされたと考える
痴者」には理性が無いとする〈科学者〉が勝利している以上、
を取り払いさえすれば、後は全く同じと言っても過言ではある
うた
ことは妥当と言えよう。
「私」の中の〈翻訳者〉が敗北し、
「白
のモデルとなった人物は亡くなっていないにもかかわらず、国
まい。それどころか、その本文中には、
「六蔵」は「人間」にはなり得ず、死なざるを得ない。
「六蔵」
木田独歩が「六蔵」を死なせざるを得なかったのは、「
〈 六蔵」
ようとして失敗したから〉と言えるのではないだろうか。そし
民主主義の家庭は、その家長の専制に依って家政を決す
を人間として描くための戦略として、「人間」(理性ある者)にし
頃の家族と共に公平に合議して決せねばならぬ如く、国家
ることなく、必ず家庭の協同員たる独立の人格を持った年
の政治もまた国民全体の意志に依って決することが、合理
てその失敗の結果、「
〈 白痴者」/「人間」〉という二項対立を
は、普通教育の充実により、今まで観念的にのみ僅かに問題に
格を持った国民―例えば満二十五歳以上に達して、白痴
的な民主主義の政治である限り、或年頃に達して独立の人
強化してしまうことになったとは言えないだろうか。このこと
されてきた「白痴者」が、現実に問題視され始めた明治二十年
でなく、六カ月以上一定の地に住し、現に刑罰に処せられ
代を時代背景としていること等を考え合わせても、強ち穿ち過
ぎとは言えないように思われる。
ていない者―こういう意味の国民全体が衆議院議員の選
いることは疑い得ない。吉野作造と与謝野晶子、二人の(ある
〈「白痴者」(知的障害者)は人間か否か〉という問いを内包して
いは他の多くの論者も含めてよいであろうが) 主張は、いかにも同じ
挙権と被選挙権とを持って、間接または直接に国家の政治
ではないが、「白痴者」を「人間」とみない点では、同じ穴の
狢であると言えるし、この限りで大正期の「人間」観は「春の
に参与することは、立憲国民に固より備った正当な権利で
普通選挙といえば、当然そのうちに男女の参政権が含ま
あるのです。(略)
ような一節がある。
「異常児はどうして判るでせうか」の「四
は一人もない筈であるさうすると正常児とは何か、普通
十人十色といふが一万人は一万色であつて、同様の子供
余の見方」に次の
本稿の最初に紹介した脇田良吉『異常児教育の実際』には、
鳥」の頃のそれと変わりはない。
にするものだと思います。決して徹底した普通選挙とはい
婦人を除外することは、婦人を非国民扱いにし、低能扱い
れているものと私は考えたいのです。この権利の要求から
われません。もし男子のみに限られた普通選挙が実施され
て―千二百八十三万九千六十二人を数え、現在の有権者
るとすれば、選挙有権者は ― 二十五歳以上の男子とし
数に比べると非常に増加するに違いありませんが、これに
出来、私たち自身の政治ということも出来ると思います。
そうなってこそ真実の意味で国民全体の政治ということも
我国総人口の約四割、
現在有権者数の約十七倍に当ります。
普通児といふ」斯ういふやうに定義するならば心身の発
発育状態年齢相応にて其時代と境遇に適応し得るものを
来る資格のあるもの、之を総称して普通児といひたい、
育を受けるために、公私の小学校で教育を受ける事の出
て定めて見たい。これ迄にも時々調べたやうに、国民教
も児童といふ人格者よりも、学校といふ教育機関によつ
といった記述すら見られ、〈吉野作造の主張は「白痴者」につ
児とは何か其標準を定めなくてはならぬ。而して其標準
いてはどうなのか〉という問いを発する者(まずいないと思うが)
育状態が年齢とは不似合である、例へば年はまだ十歳内
二十五歳以上の婦人を加えることが出来たら、男女合せて
への答えの代弁とも言い得るであろう。与謝野晶子の論法は、
時代に育つてゐるのに、何百年も昔の事をよく知つてゐ
外であるのに、顔容は壮年のやうである、又時代は大正
ほぼこれの倍数である弐千五百万を計上することになり、
まず「独立の人格を持」たぬ「白痴者」、
「低能」者を他者とし
たり、又は豫言者見たやうな事をいつて見たりして恰も
而してもしそれ之れを学術的に定義するならば「心身の
て囲い込み、その共通の他者に対する「私たち自身」とするこ
とで参政権を主張するといったものだが、このような排除が
狂人ではないかと思はれるやうなものは異常児である。
(大
こういった記述は、脇田の他の著作(『低能児教育の実際的研究』
巌松堂書籍)や『異常児教育三十年 』(昭和七年十一月)等)
制』(昭和四十九年十月 イザラ書房)でなされている当時の農本主
義の代表的な論者の紹介を、いくつか引用しよう。
横井(筆者注―横井時敬(一八六〇―一九二七)のこと)にとっ
ては「普通教育」は敵であった。横井がここでいう「普
正元年十月
や、他にも例えば三宅鉱一『白痴及低能児』(大正三年二月 吐鳳
通教育」とはいうまでもなく明治国家が近代化を遂行す
るために採用した「学校教育」のことで 、「組」「塾」「藩
大正十
校」の教育を除いたものである。この「普通教育」はや
東京啓発舎編輯局)にも見られる。普通教育と政治が手
堂書店) や藤岡眞一郎『促進学級の実際的研究』
(第五版
に手を取り、〈教育の場〉では、教育できぬ者は「異常」であ
り、その根源は知育偏重の教育にあるとみる。この都会
やもすると旧来の秩序意識を破壊する契機をはらんでお
二年三月
り「人間」ではないだろうとし 、〈政治の場〉では、教育でき
横井はふたたび伝統的秩序へと再教育しようと試みた。
中心、画一的な知育的教育によってゆがめられた人間を
ぬ者は「非国民」(与謝野)であるとする。労働者や婦人達被支
戦っている傍らで 、「白痴者」がどう利用され、まなざされて
それが「営利」「出世」を無視し、武士道精神を注入した
配者(の代表を名乗る知識人達) が、「人間」になろう(しよう)と
いたか。繰り返しになるが、このように「知的障害者」を中心
「実用的教育」となってあらわれるのである。
言説が異論を唱えた。普通教育など不必要だという考えが農本
だろう。すなわち、このような〈教育〉言説に対して農本主義
に一つの亀裂が走ったという事は視野に入れておいた方がいい
とはいえ、それを保障する〈教育〉言説については、大正期
的な学校教育にあきたらないという理由で、日本精神鍛練
の初めにかけては形式的、機械的、西欧的、都市文明中心
風義塾」を開設した。このころ、即ち、大正末期から昭和
者注―山崎延吉(一八七三―一九五四)のこと)は昭和四年に「神
この「農民道=武士道」の鍛練の「場」として山崎(筆
(『近代日本の土着思想―農本主義研究』より)
に明治末から大正末年を眺める時、大枠としての「人間」観は
主義において積極的に述べられたのだ。日本の帝国主義的な膨
であった。(略)
を目標としたいわゆる「道場」「塾」が流行していた時期
ほとんど変わっていないと言わざるを得ない。
張を農本思想がいかに支えてきたか、農本思想の内実と権力の
山崎はこの「神風義塾」の目的を日本民族の本然性に基
問題に注目し考察している綱澤満昭『近代日本の土着思想―農
本主義研究』(第三版 昭和五十年一月 風媒社)・『農本主義と天皇
づいた皇国および農民の「道義」を養い、愛国的農民を育
或ハ理論的推究ニヨツテ其機微ヲ窺ヒ得ルモノニアラズ。
体得セラルルモノナリ、決シテ学校ニ於ケル、没的生活、
一種霊妙ナルカニシテ、実際経営ノ努力奮闘ニ依ツテノミ
く学理におぼれることなく 、「技術ト数字ヲ超越シテ働ク
られた「白痴者」の就き得る職業の一つと言ってよかろう。そ
てよいであろう。このことから農業は普通教育の場から追い遣
(一八六八―一九三七) や橘孝三郎 (一八九三―一九七四) 等も加え
この論者達だけに限ったことではなく、他にも例えば権藤成卿
いた点では共通している。もちろん、異を唱えていたのは何も
いずれも普通教育に対し異を唱え、実際の農業体験を重視して
(『農本主義と天皇制』より)
…(略)…生徒教養ノ主眼ハ健国ノ精神ニヨル祖神ノ礼拝
れは、
成する点においた。教育方針としては決して官公立のごと
ト、農場ニ於ケル職員生徒ノ協力ニヨル真剣ナル労働生活
(『近代日本の土着思想―農本主義研究』より)
ニアリテ高遠ナル学理ノ解説ニアラザルナリ」という。
学校ノ教育ニ於テハ、徒ラニ、難キヲ児童ニ求ムルコトナ
欧米ニ於ケル、永キ経験ノ証明スル所ナリ。サレバ、補助
シテ、普通児ト同等ノ成績ヲ挙ゲシムルコト能ハザルハ、
教育ノ目的=真正ノ低能児ハ、如何ニ教育スルモ、コレヲ
業の真義は大学や書物によってわかるものではなく、「生
ク最初ヨリ、目的ヲ卑近ニ取リ、先ヅ、児童ノ常識並ニ徳
加藤(筆者注―加藤完治(一八八四―一九六五)のこと)は、農
の体験」を通して、生を徹底さすことによって、はじめて
や、原澄次『日本農業改造論』(大正十五年七月 明文堂)「一二
といった主張(『促進学級の実際的研究』等にも同様の記述は見られる)
(『白痴及低能児』より)
への普遍化をねらった。それがたまたま大正期に展開した
就カシムルヲ得策トス。
性ヲ涵養シ、早ク職業上ノ智識技能ヲ授ケテ、自活ノ道ニ
わかるという。(略)
このような時代的背景のもとで、加藤は一切の虚無的、
厭世的、逃避的思想を否定し、堂々と勇敢に真正面から人
新教育運動と奇妙なかたちで結びつくことになったのであ
文明国の農業」の、
生を肯定していく積極的姿勢を示し、農民教育の一般教育
る。学校教育のもつ知育偏重、つめこみ主義、受動的学習
のなかにおける自動教育、労働重視の教育をかかげながら、
之れが農業の進歩が後れる一つの原因にもなつて居るので
一般に此の子供は馬鹿だから百姓をさせるといふ様だが、
に対し、強い反発を示しながら、カリキュラム無視、自然
玉川学園や自由学園が生誕したのはこの時期である。
雑であつて熟練を要するといふことは、農業の進歩の困難
全く出来ぬことでは無い のであつて、農業上の作業が複
はあるけれども、我国従来の農業ならば幾分の低脳者でも
は、第二章の五助の台詞の後に述べられている。その謙介の考
にボルドー液を灌」ぐ場面の三つ。謙介の農業についての考え
章の最初の鶏の世話の場面、そして同じく第二章後半の「胡瓜
謙介が実際に農作業をしている場面は、第一章の最初、第二
えの中には、「だが五助が呉れようとする大きい胡桃からは、
である強い理由とはなり難いのである。
「彼は土地からは生命の出て来るのを喜んで居た。土を打つ、
つた。」といった一文があり、この「柔かい実」はその直前の
大地のにほひが立つ、種を下す、芽を出す、伸びて行く、花を
既に柔かい実が刳抜かれて終つて居るやうに思はれてならなか
のない「白痴者」と、普通教育など与えない方がいいとする農
開く、実を結ぶ、そして収穫!その時々の喜びが、謙介の歓び
てもそのように言えるであろう。そして、普通教育の施しよう
本主義言説に一致が見られること、もっと言えば「白痴」は農
と言える。第二章の「謙介は一本気に、土の中にある不思議な
であつた。」から、農作業によって得られる歓びをさしている
政治や教育言説に見られる「人間」観及び「白痴」観と農本
謙介の農業についての考え、観念を考察する方がよいと言えよ
て考察する上では、
実際に農作業をしている三つの場面よりは、
ていると考えてよいだろう。そうだとすれば、〈農民〉につい
出した。」の「夢中」さは、この「柔かい実」の実感に基づい
のなさ、第二章後半の「夢中になつて胡瓜にボルドー液を灌ぎ
第一章冒頭の「余念なく茄子に肥料をかけて居た。」の「余念」
力のことばかり考へて居た。」の「一本気」さ(一途に信じること)、
農本主義言説と「白痴」という装置
( 文芸行
石井充自身農民で、他の三作品(小説「子を失ふ百姓 」『
第
昭和三
う。「柔かい実」に対立するのは五助の言に読み取れる〈金儲
第二巻第五号』
大正十五年一月) 、随筆「土臭者の言葉」『
( 文芸行動
六号』
けのための農業〉である。このような二項対立において〈農業
大正十五年六月) 、小説「春」『
( 農民
年五月)の三作品) も、いずれも農民を描いているが、小説「白
大学」から「運命的な、重い脳病」になって「田舎」に帰って
の歓び〉を選択するということ、加えて 、「都会」の 「医科
第一号』
痴」では農本主義的農民像を極端にしたものとして「白痴」を
動
三
ず結論付けられよう。
主義言説のそれとの間には以上のような違いがあると、ひとま
とは疑い得ない。
本主義が示す理想的な農民 (人間)像の極端なるものであるこ
といった記述、あるいは宮城露香の小説「小説低能児」 を見
2
1
用いていると考えられる。そこで、次にこの作品における農民
3
像について考察することにしよう。
くるといった、作品世界における「都会」/「田舎」という二
5
4
項対立がその背景にあることから 、「田舎」で農作業を楽しむ
だ。そのなかで農村の古い共同体的な社会体制はしだいに
済の農村への浸透が決定的なものとなってきた点が重要
することから離れて、いわゆる寄生的な性格を強めていっ
謙介の考え方 (あり方) は、横井時敬や山崎延吉等の主張する
た。それにかわって一部の中農たちは、小生産者としての
くずれていき、また地主はしだいに農業経営や村の世話を
当時の農本主義言説がどのようなものであったかを紹介する
ところの農本主義的(後に紹介する)であると考えられる。
前に、農本主義が出てくる背景(歴史)を少し確認してみよう。
農村はすでに動き出していた。大戦景気による米の値上
るようになった。こうしたことはすべて、資本主義の発達
につれて、自分たちの生活のみじめさをはっきりと自覚す
方、小作貧農たちは、外部の社会に接触する機会がふえる
上昇・成長に強い意欲をもちはじめるようになったし、他
りで、地主たちが巨大な利益をおさめると、貧富の差はだ
のなかで、農民の生産物の商品化と下層農家の労働力の外
部への販売が急速にすすんだことの結果であるが、そこか
産の拡大にともなって農村から賃労働者が吸いあげられる
ら重い小作料の負担をはねのけて、みずからの小生産者と
れの目にも明らかなように大きく開いていったし、工業生
酬が少ないかを知るようになった。小作制度の不合理が実
と、小作人たちは、賃労働とくらべて小作労働がいかに報
働運動や農民運動が急激な展開をとげたのには、むろんそ
等で農業に魅力を感じなくなったこと等が理由として考えられ
地主が都市で銀行投資等に手を出し始めたことや、米価の下落
補足しておくと、地主が「寄生的な性格を強めていった」のは、
中央公論社)
れだけの背景があった。これを社会的な背景の面からいえ
よう。同時に小作争議も年々増え、石井充「白痴」発表当時は
』昭和四十二年一月
ば、第一次大戦後の世界的なデモクラシー勃興の波が日本
(大内力『日本の歴史
する農民の運動が生じてきたのであった。
しての発展なり、みじめな生活の改善なりをかちとろうと
』昭和四十一年十二月 中央公論社)
感としてつかまれたのである。
(今井清一『日本の歴史
にもおよび、そのなかで国民の政治意識がいちだんと高め
主レベルだと考えられるが、それは、一つには「抜け目のない」
ほぼピークだったと考えられる 。謙介の家は相当に豊かな地
農民についていえば、やはり第一次大戦を通じて商品経
がまずあげられるべきであろう。(略)
られたことや、外ではロシア革命の成功が、また内では米
24
騒動以来の大衆運動の発展が、労働大衆を勇気づけたこと
この時期に(筆者注―大正末から昭和の初め)、このように労
23
おめえよく考へて見るがいゝ。おめえがあん畑に火箸棒見てえ
百姓の五助の「兄さん、前の畑は貸したがいゝね。さうだつぺ。
6
な葱や猫の金玉くれえな茄子を作つたつて、一年いくらのもん
考えてよいのではないだろうか。
魅力を感じなくなったが故の農業離れ〉を、当時の背景として
まずは横井時敬から。
当時の農本主義言説については、
以下の記述を引用しておく。
があると思ふかね。あれを坪七銭で貸して見るがいゝ。楽をし
あと
て居て、好きがゝりなセン菜エが買へて、余つてけえるぢやね
えか。坪七百つて、お前、月だよ。」という台詞とその後の「彼
には五助の云ふ計算のことは解つて居た。」という語り(つまり、
横井は農業技術者としての座をしりぞき、
もっぱら農業、
農民教育に終始することにより、地主的農本主義者として
昭和恐慌下における「経済更生計画」と農
地主化すれば儲けがあるということ)、二つには綱澤満昭『近代日本
銀行の頭取になりたい、支配人になりたい、また政治家
の土着思想 』「Ⅱ
に、あるいは役人になりたい、これらすべて「都会熱」に
の確固たる地位を獲得するにいたる。彼は地主(耕作地主)
正十四年には三〇八円、余剰のあった農家は全体の八一%であ
毒されている見本だという。恐るべきはこの「都会熱」を
が「都会熱」によって「自殺」しつつある現状を憂慮し、
ったものが、昭和五年には平均不足額七七円、余剰のある農家
もたらす「資本主義化」であり、「金銭時代」である。横
本主義」の「この表に示されている農家は一町五反~三町の耕
は全体の三五%にすぎず、不足農家が六五%をしめた。この程
井は「今日農業界衰退の大原因は何処にあるか、経済の不
あらたな覚悟と任務の前に立たされたのである。(略)
度の農家にしてこのような状態であるから、それ以下の農家が
作面積をもつ相当に豊かな農家であるが、しかし、調査の結果
生死の間をさまようのは当然のことであったろう。」といった
安定、経済上の困憊ということもその一大原因に相違ない
は農家の平均総収入から平均総支出を控除した平均余剰額が大
記述(ちなみに、大正十五年には平均余剰額は百八十九円、余剰のある農
むることは出来ない。我国民全体の大欠陥は金銭に憧れる
満足せずむしろ之を厭ふ傾向は、其原因を経済上にのみ求
事である」「
( 現代の大欠陥と教育の本義」『横井博士全集
が、之よりももっとく根本的なる大原因がある。農業に
らのもんがあると思ふかね。」と言われるような、
〈採算の取れ
家は全体の六十パーセントにまで落ちている) から、そのように判断
ない農作業〉であることも視野に入れておく必要があろう(こ
第九巻』)と断言し、この風潮をくいとめるために「武士
した。しかし、謙介が地主になろうとしない以上、「一年いく
の作品は謙介の家の持つ土地の規模や小作人の有無がぼけているが、以上の
道精神の復興」を「地主層」に期待する。(略)
かも日本と異なり、
地主はすべてみずから耕作しているし、
ドイツには昔の武士がなお百姓として残存していて、し
ような把握は可能であろう)。農本主義の出てくる背景に戻るが、
これらの引用からも、都会と農村の金銭的な関係、地主の寄生
的性格の強化や小作人の反発といった〈地主や小作人が農業に
他に土地を貸しているものは少ない。日本はこれを見習う
橘が理想部落の興亡はひとえに教育にかかるとして、教
育を最重要視していることは既にみた。彼の見る教育の現
重・科学万能主義・大学の技術員養成所兼職業紹介所化で
況は、大都市中心主義的・主知主義的職業教育・理智偏
べきだという。(略)
都会中心、知育偏重の教育によってゆがめられた人間を
あり、農村を注視すれば、そこでの教育は都会思想によっ
横井は再度伝統的秩序へくみいれるべく再教育しようと試
みた。農業の神聖さが強調され、土地への定着をおしはか
て動かされ、農民は自己の本質を全く忘れている。
ではいかにすべきか。現代教育を「根本より改廃」して、
り、都市、商工業の農村、農業に対する優越性は事実とし
て認めざるをえない立場においこまれているにもかかわら
し、無欲にして、汚き人を相手にせず、業それ自体に楽が
農業は金に憧れることなく、土と親しみ、大自然を友と
以て勤労と称するかのやうに用ひられておる。此処で勤労
的に勤労と言へば、朝から晩まで牛馬の如くに労作するを
「勤労と言ふ言葉は甚だ誤解され易い言葉である。一般
(略)
基く、自営的勤労学校組織の教育であらねばならん」。
人格教育を推し進めることである。「一般的の為めに提唱
あり、慰安がある。それに較べ、商工業は金銭以外には何
といふ言葉の有する意義と内容は、さやうな牛馬主義的労
されねばならん我々の教育とは、人格的勤労主義の精神に
物もない、都会のみ発達すれば、その国家は極めて危機と
作を指して言ふのでは少しも是有り得ない。一言にして尽
ず、それを常に論理的には批判、攻撃し、農村、農業の「健
いわねばならない。都会の欠陥を補い、国家を安泰ならし
康」で自然にいだかれた田園を賛美する。(略)
めるものは、農業を除いてほかにない。
すわけにはまゐらんであらうが、要は、人間性の本然のあ
小作人もひたすら農作業に幸せを感じよ〉といったところであ
毒されて都会を羨むことなく、金に執着することなく、地主も
横井の言う農本主義の主張を要約すると、〈知育偏重の教育に
れておる。そして、これあればこそ人間への本然性的、霊
た人間の本然性の一端が示されておる。霊性の一端が示さ
を離れて存在し得るものではなかったのである。此処にま
…人は勤労せずして生存する能はざると同時に、勤労精神
うし、使命を果すを以て勤労の本義とせねばならない。…
る所に従って、その本性を尽し、その天職の存する所を完
ろう。権藤成卿の弟子の橘孝三郎の農本主義言説については、
性的真価が生み出されて来るものに外ならない。同時に人
紀伊国屋書店)
斎藤之男『日本農本主義研究』(昭和五十一年十二月 農山漁村文化
(綱澤満昭『日本の農本主義』昭和四十六年二月
協会)に、
間は其処に於て始めて、自主的人格者としての存在を発見
し得、併せて最高の満足と悦楽とをくみ得る事が許さるる
英国流の政治家が当路に在つた事は事実であるが故に、
ある〟―ものである。習熟とはこの対象の性質を労働(働
は無機的なものではなく、有機的な―橘の用語では〝生命
象の分析的な知識の教習を特に要件としない。けだし対象
熟練労働は習熟によって獲得されるが、習熟には労働対
も欠き、寂寞の感に堪へずなり、果ては自己を呪ふ様にな
農村に人物を欠き、資本を欠き、労力を欠き、青春の気を
躍して農村を去るは無理もない事である。如斯して今日の
(略) 成名を希ふ者、成功を欲する者は、男女を論せず勇
重に陥つた事は何人も否定する事の出来ぬ事実である。
英国の政治に則つて商工立国の政策を是なりとし、都市偏
き)のうちに体得することであり、そのためには対象に対
人も、心には迷ひつゝあるが故に、なす事する事に力が入
るは、今日の農村の情景である。手に鍬を握り、鎌を振ふ
(略)
ものと申さねばならない」『
( 建国』
)。
する愛護の精神が必要となる。この精神の働きを持つ労働
らず、魂がこもらぬ結果、出来る事でも出来なくなり、や
が、すなわち橘のいう勤労であって、それは一般化・普遍
化できない価値を持つ。
れる事もやれぬ様になり、奈落の淵に陥るばかりでは疲弊
る(都会中心・理智偏重ではない)「勤労」教育。「勤労」とは農民
取養成に努力するがあり、
都市を目的とするものもあるは、
於ては不相変二三の秀才を目当に力を入れるがあり、月給
政治も多数本位であり、政策も多数本位の今日、教育に
が甚だしい道理である。(略)
としての使命をはたすことであり、「勤労」あるが故に真の人
もと
間であり、最高の幸せが得られる。その教育は知識の教習では
に暇なしである。教育をすればする程、農業がいやになり、
教育の時代錯誤であり、それが農村に及ぼす悪影響は枚挙
とある 。〈農村を本とした都会と農村の相互発展、農村におけ
なく、実際の労働のうちに体得するものである〉。橘の主張を
農村に腰が落つかずなり、左視右往の徒が殖へるばかりで
要約すると、このようになると思われる。権藤や橘の農本主義
は、それが唱えられた時期という意味では石井充「白痴」より
ある事は全国的であるのである。
時にあたりわれ等は、われ等の仕事の貴い事を悟り、われ
田園の人として汗脂を流すことをいやがる風がある。此の
今の世はともすれば農耕の道を疎んじ、田舎住を避け、
(「農民道の闡明」
)
少し後かもしれないが、昭和恐慌以降の農村の窮乏は大正末に
も潜在的にはあったと考えれば、視野に入れておいてよいであ
ろう。
山崎延吉全集刊行会)より)
。
次に、山崎延吉の農本主義言説を見てみよう(いずれも『山崎
延吉全集第五巻』
(昭和十年四月
等の家業の大切なことを知り、われ等の住む田舎こそ我国
く、潔く働くことが出来れば、それこそ真に人に生れた甲
となく、怠たることなく、惰けることなく、いつも心持よ
家の土台であると云ふことを弁へて、飽くことなく倦むこ
して且つ最も有益であり、健康なるものである。金に憧れ
労働の「苦しみ」に対しての慰めは「農業は、最も尊貴に
のは、人間の労働の無制限的乱費のみである。そしてこの
生産様式を変革するものである。しかしここにみられるも
が出来れば、其処に喜悦を感じ人一倍の働きが出来れば、
の出るまで働くべきである。故に一時間でも余計に働く事
んで、宇宙の大生命の彌栄に貢献するてふ自覚の下に、血
欲のために汚がされるべきではない。生命の生産にいそし
神聖なる労働は無意識でやるべきでなく、同時に命令や
このような精神的慰めを唯一の支えとして日夜営々と鍬
都会の欠陥を補ひ以て国家を安泰ならしむるのは農であ
み発達せんか、
その国家社会は甚だ危険といわねばならぬ。
の根幹である。商工業は金銭以外の何者でもない。都会の
なく、「商工業」、「都会」である。農業は、
「実に国家社会
という言にみいだされる。農本主義思想の敵はいうまでも
せず…(略)…業それ自身に楽しみがあり、慰安がある。
」
ず土と親しみ大自然を友とし、無欲にして汚き人を相手と
(
「農家少年訓」)
其処に歓喜することが出来ねばならぬとする。 (「農民道」)
をうちこむ農民の姿、それこそ時の支配者にとって、実に
斐があると思ひます。
これまた要約すると、〈教育に毒されて都市を目的とすること
望むべき人間像であったのだ。
る。
」
なく、生命を生産する尊い農作業に楽しみを感じてこそ真の人
(『近代日本の土着思想』
「農本主義的「禁欲」と「職業観」」
)
間だ〉となるかと思われる。
最後に 、「時の支配者 」(=国家) の望む農民像についての綱
は考えにくい。都会に対しては対立するポーズのみで、百姓に
ある」とあるが、「時の支配者」が都会を文字通り敵視すると
「農本主義思想の敵はいうまでもなく、「商工業」、「都会」で
明治から昭和にわたる農本主義者の一貫して説く理想的
澤のまとめを見ておこう。
人間像は、労働の乱費を惜しまず、低生活水準に甘んじ、
言説は、「国」という「時の支配者」にとってありがたいもの
はひたすら農作業のみ求める(故に都会中心を強化する)農本主義
であったに違いない。国にとってありがたい農本主義言説とい
勤倹力行、
国のために下積の犠牲をはらうことをもって「光
いうまでもなく、生産様式にとって決定的なものは、労
う意味では、他にも〈有事の際、質の良い兵士を大量に生産・
(略)
栄」とするといった精神構造の持主であった。
働手段である。労働手段の変革こそ、労働生産性を高め、
私有財産の肯定 。農民運動や農民組合は大正末頃から次第に右傾化してい
たことや、〈農村を社会主義運動への防波堤(自作農奨励という、
供給するために、農村は今のままであらしむるべきだ〉といっ
学的「白痴」とは、この場合、ドストエフスキー『白痴』に見
文学的言説としての「白痴」として描かれているのである。文
まり、謙介は、「知的障害者」としての「白痴性」を併せ持つ
痴」的で、他人に理解されるようなものではないであろう。つ
かなぐり捨て、ひたすら尊ぶべき農業に幸せを求めよと主張す
的ポーズをとり、それにあおりをうけての教育も名誉も金欲も
こういったことを背景にして出てきた、都会(中心主義)に対立
ある。
「知的障害者」を指す語なので、そのような要素を孕むからで
としての側面が描かれているし、そもそも「白痴」という語は
のは、
『白痴』でも主人公ムイシュキン公爵には「知的障害者」
せをしる純なる者のことである 。「併せ持つ」と先ほど書いた
当時の都会と田舎の金銭的な関係、
地主・小作人の農業離れ。
る農本主義言説。
「重い脳病」にかかり、エリート街道(教育)
方は、当時の農本主義言説の求める真の農民(真の人間)像に極
等) が故に 、
〈馬鹿〉や〈愚直 〉、〈デクノボー〉と違って「田
①実際に後天的に「白痴者」である(「重い脳病」や「不気味さ」
「白痴」の装置性は、
めて近いと言えよう 。
となくひたすら農作業に「歓び」を感じる謙介のあり方、考え
をドロップ・アウトして田舎に連れ戻され、金銭に執着するこ
られるような、無欲で飾ることをしない、常識のない、真の幸
く)として利用〉するといったことも考慮できる。
7
て、小作人を生かさず殺さず「抜け目」なくやっていけば、食
の敗北。地主階級とても安泰ではあるまい。しかし、地主化し
ねた都会への出稼ぎ、娘の身売り、あいつぐ小作争議と小作側
ていく) には無力であったことも確かであろう。口減らしをか
然し、当時、現実問題として、農業自体は食べていく(生き
(第一章)等) の極端なる場合であることを含め 、
〈無欲で純粋
(「学問を絶つことは、人間の生活を無くすことのやうに騒いだ。」
不必要性〉
②前章でも述べた、農本主義の主張する〈農業における教育の
が持ち込まれる。
逆) が作品世界に作られ 、
「都会」と「田舎」という二項対立
へというベクトル(「都会」に縁付いて「田舎」から出て行く貞子とは
舎」に生まれ「田舎」に終わることなく、
「都会」から「田舎」
像)を選ぶ。謙介の家は相当裕福であろうから、直ぐにどうこ
民像をあえて引き受ける上で適当であるということ。
の邦訳が大正九年には出ている事から、自滅的な農本主義的農
で、真に幸せを感じる者〉を描いたドストエフスキー『白痴』
と、まとめられるであろう。本文中には「白痴」という語は用
ういうこともないであろうが、やがて立ち行かなくなることの
その自滅的な農本主義的農民像、その選択は、いかにも「白
分かり切った選択肢を謙介はあえて選ぶのだ。
ケース
の取れないことを知りつつ、〈農業の「歓び」〉(=農本主義的農民
9
べていける収入を得られることを「解って居る」謙介は、採算
8
いずにタイトルに用いたことも、
「土臭者の言葉」(大正十五年六
月)で農本主義者を指していると思われる「農村振興に就いて、
最後に、石井充「白痴」における 、「白痴者」を人間として
人間として描く戦略性
描く戦略性について、これまで考察したことを踏まえつつ評価
四
を、「都会の空中にでも舞踏している」「名論卓説」とアイロニ
いろくと説をなして呉れる 」「識者達」の「いろくの説」
カルなまなざしで見ていることも、その理由はこの「白痴」の
したい。
農作業をする上で「白痴」であるかどうかはいかにも関係な
装置性、都会中心主義の強化につながる(その意味で農民にとって
その単語が専ら使われている言説内(その語をよく見かける言説・
い。そのことは「脳病」とされている謙介とて例外ではない。
はマイナスに思われる) 農本主義言説を「白痴」としてあえて引
き受けていくということにあるのであろう。プロレタリア文学
ルに「白痴」としている以上、本文すべてに「白痴」という装
いるであろう。本文中には「白痴」という語を出さず、タイト
す農本主義的農民である謙介への無言の非難も多分に含まれて
という理由だけではあるまい。採算のとれない農業に現をぬか
なにもエリートになり損ねた(もはやなり得ぬ)「白痴者」だから
であって呉れたら!)」と謙介のことを貞子に眼で語る のは、
随所に対立が織り込まれている。謙介の母が「(これが一人前
て」られているというように、冒頭から対立が暗示されており、
では、「家」と謙介が耕している「畑」が「道」によって「隔
てみれば、たまったものではないであろう。そもそもこの作品
しかし、いかにも悲痛ではあろうが、その家族や関係者にし
ことはないかと考えまして、それには農園経営が最適だという
も、土ならなんとかなる。そこで、土を利用してなにかできる
なじみやすいのは土だ』ほかのことにはなかなかなじめなくと
輩からこういわれたのです 。『精神薄弱者にとって、いちばん
読んだりしていたとき、精神薄弱者に懸命にかかわっている先
もっとよい手だてはないものかと、あれこれ話をきいたり本を
のり村コロニー」の大木園長の「収容するのではない、なにか
(昭和五十八年十一月 二見書房)に見られる「み
吾『愛、見つけた』
を増やしていく石井のこのような作品が、後の、例えば小林完
等)を不安定にし、豊かに、流動的にしていく。語の適応箇所
用いる― ことで、安定していたその記号のシニフィエ(概念
とリンクしていったが、それを農業という他の言説・文脈内で
「白痴」という語は教育制度の中で実定性を与えられ、政治等
文脈内)からその語を取り出し、他の言説・文脈内で用いる―
等によく見られるような、惨状をセンセーショナルに書く小説
置はかかっていよう。つまり、農本主義的農民像だけでなく、
よりも、その決意たるやよほど悲痛ではなかろうか。
そのようなあり方に対し家族が感じる迷惑に無頓着であること
結論を得たわけです。」といった発言、近藤原理・清水寛編『こ
のち
にもタイトルの「白痴」はかかっているのではなかろうか。
10
ないが石田周一『耕して育つ 』(平成十七年五月 コモンズ) とい
の子らと生きて』(昭和六十一年七月 大月書店)や、文学作品では
き受ける時に〈自ら 〉「白痴」をもって任じている。このこと
と呼ばれていただけであった。これに対して石井充「白痴」で
純粋さや誠実さ、無欲さや朴訥さ故に、
〈他者によって〉
「白痴」
は、この後直ぐに出る雑誌『白痴群』がその流れをつくってい
は、〈無欲で純粋で真の幸せを知る社会的(言説的)周辺〉を引
らっても、それが即家族から、あるいは社会で一人前扱いをさ
いずれにせよ、明治期の「白痴」表象(「春の鳥」では「白痴」で
くが、石井充「白痴」はその先駆的作品と位置付けられよう。
った本がうまれる土壌にもなっていよう。しかし、農作業等の
れるということにはならない。その言説を受け入れようとはし
仕事が出来、マイナーな言説の上で立派な人間だと保障しても
ない多くの者達にとっては、所詮は厄介者でしかないことは明
というレッテル自体が差別だという主張等も、
時折耳にするが、
(農業の領域における農本主義というマイノリティー!)
。
「知的障害者」
ることで、多少の自由や選択肢が得られることも確かであろう
しかし、たとえマイノリティーであっても、その言説とつなが
くことなど叶わぬ以上、この限りにおいて得策とは言えまい。
品の考察ではその構成から文学的「白痴」言説色が濃くなり、
者」としての「白痴」の考察をメインにしつつも、第三章の作
疑い得ないのではないか。しかし、本稿第一章では「知的障害
世界ではそのようなニュアンスが実定性を獲得していることは
ンスは根強くあるも) 豊かになってきており、少なくとも文学の
痴」という語のニュアンスは(依然として社会の異物といったニュア
れる(「白痴者」とそうでない者との間に通路ができる)くらいには「白
物以外の何物でもない) と違い、自ら任じようと思う作家が現わ
分節化それ自体はそのように切り取ることが便利であったり有
それと交じり合っている「知的障害者」としての「白痴者」表
も「少年」であれば「天使」(純なる者)ではあるが、
「白痴」そのものは異
意味であると思われるからなされるに過ぎない。人間を「高校
現の現実性を必ずしも作品が十分に表し得ていないことも一方
らかであろう。安易に都合のよい言説 (今日だと芸術等か)内に
生」や「医者」といったように分節化すること自体は差別では
で否定できない。この〈もっとも純なる者〉としての「知的障
逃げ込み、かくまってもらっても、そこでのみ人は生活してい
ない。問題なのは語のもつシニフィエだ。この石井充「白痴」
害者」表象を、おとぎ話の妖精のような本の中にのみ存在する
者ではなく、現代においてもっとも現実味ある形でなさんとし
リアリティー
して描いており、それはそれで実定性(本当らしさ)をもつなら
の場合、そもそも謙介を一人前に農作業(仕事)のできる者と
ている作家は大江健三郎ではないだろうか。そこには一体、ど
のような戦略性が見出し得るのであろうか。それは別稿に譲る
ば、「知的障害者」の就職等に関しては意義があると言えるの
最後に、本稿で考察した文学的「白痴」言説のゆくえについ
として、おそらくは無欲にして非常識的、真に幸せを知る真の
ではないか。
て展望を述べておく。ドストエフスキーの段階では、あまりの
そのニュアンスを自ら引き受けていく(主体性として獲得する)と
人間としての「白痴」をはじめて名乗り、他者に理解され難い
博が「片輪」になりはしないか、医員に尋ねるが、医員に「あの患者は、
行くと、博は入院することになり、翌日には手術が行なわれる。彌平は
もかかわらず「一層烈しい痛みを訴へ出した」ので、街の病院へ連れて
片輪になるとかならないとか、そんな問題じやあないんですよ、今は死
いう石井充の捨て身の試み(戦略)を、大いに評価したい。
ゃんと農業の仕事はできていた。それが、教育の分野で(明治二十年代
痴者」に分類されるような人も、多少時間はかかるかもしれないが、ち
江戸時代でも明治になっても、あるいは大正にあっても、いわゆる「白
母あだつて死んでいゝ、よね公だつて死んだつていゝ、……だがあいつ
「あ、進、てめえ兄さんの代に死ぬ気はねえかよ。お父つあんはな、お
で爺を相手に酒を飲み、看護婦や医員に悪態をつく。もつれた舌で進に
思う。彌平は妻や進(博の弟)、身内の者や隣家の爺を病院に呼び、病室
しまい、医員を「人の命をどうにでもすることの出来る、神」のように
ぬか生きるかと云ふ、命の問題なんですよ!」と言われ、
「狼狽へ切つて」
頃から)「白痴」というレッテルが〈社会の異物〉といったニュアンスで
ばつかりはどうしたつて欲しいや!」等と言い、博の頭を抱えて「俺り
【注記】
もって実定性(本当らしさ)を得てからは、仕事もできる、問題になら
や、俺りやあ、どうしたつて惜しいや!」と叫び、とうとう親戚の一人
に病室から連れ出される。彌平は裸足で病院の外に出ると、初秋の午後
なかった人達を問題視するようになっただけという意味では、いかにも
「低能児」の子「宗松」に、学問よりも早く百姓仕事を教えようとす
その通りであろう。
の「美しく晴れた日」の「光の中」、一瞬、「自分等の鎌を待つて居る」
、
幻覚もすぐに消えて」しまう。彌平は「自分でも何処へ急いで居るのか
「もう実つて居る稲の穂波を見た」が、その〈百姓の真の幸せ 〉、「その
全く解らな」いまま、「やゝともすれば突き当りさうにしながら、無我夢
る父と、宗松がいつの日か勉強ができるようになることを信じている母
この作品は「白痴」と同じ位の分量の作品で、「白痴」に見られる語の多
中に」
「人波に逆つて歩」いていく。
所謂識者達は、農村振興に就いて、いろくと説をなして呉れる。
に取つては、非常に嬉しくもまた力強く思はれる。
れは自分等のやうに長い間農村に住み、また、自身農民でもあるもの
近頃、百姓のことが、いろくの人から云はれるやうになつた。そ
短いので、全文を引用しておく。
気」等 )。「白痴」発表の一月前の発表ということからも、(登場人物は違
うが)「白痴」を「子を失ふ百姓」の続編として位置付けて読むことも可
能と思われる。内容を要約しておくと、貧しく 、「馬鹿」で 、「単純」な
百姓の彌平は、「学問」の「ずば抜けて」できる息子の博(十三歳)が自
慢でならず、博の未来に「過度に労働しないで身綺麗に出来、それで生活
に余裕の見える世界」(「都会」での生活)を夢み、
「百姓は彼一代だけで
沢山だと思つて居」る。ある日、博が怪我をして、傷は三日で癒えたに
4
くが散見される(「学問」
、
「病院」、
「都会」、
「片輪」、
「無智」、
「子供」、
「呑
を描いた小説。
1
2
3
ゆめそれを疑ひません。だがそれは恐らく田舎の田や畑の上には降り
居るでせうか?農村を振興させる名論卓説は多々あるでせう。自分は
することを疑はない。だが、果してそれは、現今この地上に存在して
興するものとお考へになりますか?」と。自分は正義のこの世に存在
だが自分はその人達に問ひたくなる、
「あなた方はほんとうに農村が振
自分等のみじめな生活を諦らめて居る。
はないかと考へられる。彼等は「畜生!
に極めて呑気な一面を持つて居る。それは一種、絶望から来たもので
ると云つても恐らく過言ではあるまい。彼等は実に陰気だ。だが同時
居る。あの大震災直後に東京の人々のした生活を、常態としてして居
兎に角今日の農民は、大地主を除いて余りに恵まれない生活をして
「都会の 」、と書かれてはいないが 、「田舎に帰つて来た」と直後にあ
百姓!」かう韻をふんで、
て来ないでせう。多分、都会の空中にでも舞踏して居るのではないで
せうか。農村の小学校の教師自身すらが優秀の児童の農業教育を受け
ることを好まない。彼自身の名誉の為めに、一人でも多く中学校に入
『日本の歴史
』には、
るので、そう解釈してよいであろう。
とある。
きなかった。
作農をもまきこんで農村の秩序を変革する力にまで成長することはで
地主の小作料収入はしだいに低められていった。だが農民運動は、自
の要求がそのまま実現することは稀であったが、争議の激発によって
た。そのうち日農の組合員数は七万前後であった。争議によって農民
自小作農家の一〇パーセントに達したが、これが戦前のピークであっ
六万五三三二人で、当時の総農家五三〇万戸の七パーセント、小作・
達している。小作人組合は、翌昭和二年に組合数四五八二、組合員三
七五一件、参加人員一〇六一人で、参加人数は労働争議のほぼ五倍に
も、大正末年まで増加の傾向をつづけた。大正十五年の小作争議は二
大正十一年に激増した小作争議はさまざまな困難にぶつかりながら
23
れようとして居る。そして農学校の教師、農会なるものゝ技手技師は、
彼等の俸給の方が農業よりもより多い利益のあることを胸の中で計算
しつゝ、農業を教へ、勧めて居る。自分は或る地主の会合の席上で、
一人の若い地主の云つた言葉を忘れることが出来ない。彼は一老地主
の、
「百姓も悪くはないさ」と云ふ言葉に対して云つた。
「俺は誰が何と云つたつて、百姓くれえ、割の悪い商売はないと思ふ
ね。見るがいゝ、村の地主で、一人だつて、自分の忰をほんとうの百
姓にして居るものがあるかね。俺だつて、自分の子供を百姓になぞし
ようとは思つて居ないよ!」実際、村の地主の子供で純粋の百姓にな
つたり、ならうとして居るものは一人としてなかつた。老地主は子供
を小学校教員にして居た。
村にも、ところくにアンテナが聳えて来た。然しその聴取者は大
地主か医者か、せんべい屋か、豆腐屋か、さもなければ教師である。
実際に鍬を握つて居るものゝ家にはアンテナの立てられるのを見ない。
かうした事実は何を語つて居るのであらう。農民は吝嗇なのだらうか、
それとも生活の上に余裕を持たないのであらうか。
5
6
綱澤満昭『近代日本の土着思想』で綱澤氏が要約している〈奥谷松治
の考えには、「土を打つ、大地のにおいが立つ、種を下す、芽を出す、伸
け目のない」百姓五助の忠告への布石でもあろう。謙介の農業について
「土と人生」には、
の歓びであつた。
」といった一節があるが、同じく『山崎延吉全集第五巻』
びて行く、花を開く、実を結ぶ、そして収穫!その時々の喜びが、謙介
「第一次大戦後の農村問題」の個所では、夏目漱石、宮本百合子、有
よしあしの区別は兎に角、土には一種の嗅みがある。生産力の高い
土ほど嗅みが高い。嗅のはげしい土ほど物が育つといふのである。
(略)
されば土の嗅は、生活力、生命の力の高調を意味し、生命の増加を物
語り、同時に生産力の増加を示すものと思ふべきである。
(略)
不嗅の地は耕さゞる所であり、土嗅の少い所である。耕す事により
て所謂風化し、風化するにつれて土嗅を増す。施肥せざる瘠土には物
が育たず、育たぬ瘠土には土臭が少い。故に耕耘と肥培とは、単に作
付する作物や、播種する物ばかりを目的とするに非ず、土中微生物の
愛するものは、所謂痒きを掻くが如き親切を尽くすことが出来、育た
其の応用に愚なるものと雖も、真に土地を愛し、作物を愛し、動物を
愛を以てするに非ざれば、其の極致を見る事が出来ぬ。学理を弁へず、
分らぬ人であり、無智の人であるとする。農民に斯る人のあるこそ、
嗅の人と罵られて悲しむものあり、土に触れるを嫌ふものもあるが、
を歓迎せねばならぬものである。世には土嗅しとて恥ずる者あり、土
れば、農に生きんものは、努めて土嗅をはげしくせねばならず、土嗅
土嗅は農地の誇であり、価値であり、作物繁茂の原動力である。さ
繁殖を盛にし、其活動を促進する方便とせねばならぬのである。
ぬものも育ち、弱きも強くなすことが出来るのは、精農家に於て常に
全く恥辱であり、悲しむべきであり、悪むべきである。
セットで語られている。また、「謙介は自分が何にかよくないことを云つ
という記述が見られ 、〈土の臭いの歓迎と高い生産力、理想的な農民〉が
見らるゝ通りである。病虫害の駆除予防に冷淡であり、面倒臭い、厄
といった記述が見られる。この段落は、この後の、利益を追求する「抜
際に背負投げを喰ふ連中である。
介なりと、力を惜んで相手を愛する能はざるものは、必ず収穫の土俵
農業は愛に終始すべき職業である、作物の栽培、動物の飼育、共に
全集第五巻』
「農民道」には、
少々補足しておくと、謙介が鶏に餌をやる場面については、『山崎延吉
小作人等に土地を売る者の数が増え始める(小作人の自作農化)
。
といった記述が見られる。この頃から、農業に魅力を失った地主の中に
持政策が実施されたことをのべている。
村問題の重大化に対応して、小作制度改革の準備がなされ、自作農維
とする小作争議の激化と大正九年戦後恐慌による米価の暴落による農
島武郎の三大文学者の描いた、崩れゆく農村の姿と、大正六年を基点
による時代区分〉には、
7
8
もう兄弟でもあるかのやうな親しみをその人に持つて居た。
」とあること
と云ふことを知らなかつた。妹と縁談があると云ふそれだけのことに、
たことに気が付いた 。
(略)たゞ彼は、売りものには花を飾るべきである
なものだ、といった反論もあり得るかもしれないが、当の貞子が「都会」
リートの部分〉は、その人が「白痴」であるなしにかかわらず「不気味」
気味」と形容されることは多い。
「田舎」の人にとって、ラテン語等の〈エ
気味さを感じ」るとあるが、国木田独歩「春の鳥」等、
「白痴者」が、
「不
)」が本文で用いられているのは、ここを含めて二
まるカッコ
)」は、言語でもって実際に頭の中で思ったことを表している
まるカッコ
「(
の「白痴者」であることを示していると考えてよいであろう。
)」内の
ん!」まで一貫している)。この書き分けは謙介が「知的障害者」として
り〈理解不能〉であることは、小説の最後「何?兄さん、おかしな兄さ
貞子の間では通じ、謙介と恒子の間では通じない(この通じない、つま
言葉は、直接、口にされた言葉ではないにもかかわらず、謙介の母親と
貞子に対し「眼」が「さう語つて」いたのとは対照的だ。(
「
まるカッコ
これは、一章で謙介の母親が「(これが一人前であつて呉れたら!)」と、
合わせて、
「彼は妹の前では何一つ云へなかつた。
」にあることであろう。
後者での力点が 、「忙はしない彼の訪問は、妹からうるさがられた 。」と
中で忠告するところで用いられている。しかし、ここで問題になるのは、
ものなんだよ。(略)だがそんなものは、乗越して終ふんだよ。)」と心の
感じるのではないよ。憶病では駄目。好奇心は、かう云ふ時に利用する
箇所だけで、もう一箇所は、二章で謙介が妹に対し「(恒ちやん、屈辱を
と考えられる。(
「
10
に嫁に行った者であることを考えると、その様には考えにくいであろう。
については、
『山崎延吉全集第五巻』
「農民道」に、
に出し収穫物其のまゝ売るが故に、レツテルでよく見せたり、模様や
また農業は質実であり、修飾を要せぬものである。出来たまゝを市場
綾で綺麗に見せかけることはしないのが常である。大根の首が青いと
て白粉を塗つて市場に出したり、人参の色が薄いとて、紅を塗つて売
つた例はない。故に農民は比較的質素であり、質実であるとされて居
るが之亦業務の感化も少からぬと見るべきである。
といった記述が見られる。第二章の「だが彼には底意深く人を疑ふこと
彼を片輪にして終つて居たから。
」は、この「売りものには花を飾るべき
は出来なかつた。彼の大患が、彼の心からさうした部分を奪ひ去つて、
であると云ふことを知らなかった。」に呼応しており、この縁談を破談に
してきた本当の理由(「シユピツツエン」が理由という「底意」
(本心)
)
が分からないということについても 、
「白痴者」謙介の非常識の裏返しと
貞子が、謙介が廃人でありながらもラテン語などがでてくることに「不
しての純粋さ、屈託の無さが読み取れると言える。
9
痴
【資料】
白
一
石井
充
ヽ ヽ
謙介は道一つ隔てた野菜畑で、余念なく茄子に肥料をかけて居た。そこへ
妹の恒子は出て来た。
お客さまよ、
」
さう告げながら、
彼の女は却つて兄の方に近寄つて来て、
茄子や胡瓜のうね
「兄さん!
の中を横に歩いて居た。
「お客?」つと、謙介は顔を挙げた。「お客つて、またあの五助の爺ぢやな
い?」
る。時折彼はさうした人々の噂をする。連れられて、彼が田舎に帰つて来た
頃の情態は、まるで狂人であつた。学問を絶つことは、人間の生活を無くす
ことのやうに騒いだ。だが歳月はたうとう彼を廃人に落付かせた。そして何
時からか彼は自分から進んで鍬を取つて、百姓をし始めた。彼はもう三十四
だ。
「兄さん、五助のおやぢさんではないのよ。
」
「では誰?」
「さう?
それならさうと早く云へばいゝのに 、」謙介は土の上に柄杓を突
「C―のお貞さんなの、
」
いて腰を伸ばした 。「珍らしい人だね、何だらう?」謙介は、恒子の顔を覗
き込むやうにした。
謙介の母は心臓に持病をもつて、此の頃は床の上に寝たり起きたりして居
ラテン語まで知つて居る人には、未だどつかに不気味さを感じて居た。彼の
坐つて居た。貞子は廃人の従兄を馬鹿にし切つて居た。それでもドイツ語や
た。謙介が着物を換へて、座敷に入つて行つた時、貞子は彼の女の床近くに
「兄さん、これもいでもいゝ?」
女は謙介が近づいた時、座布団を滑つた。
丁度その時、恒子は胡瓜の前に立つて居た。
恒子は初生りの胡瓜を手にして、兄の傍にやつて来た。
「ご無沙汰いたしました、ずゐぶんご精が出ますわねえ、
」
ヽ ヽ ヽ ヽ
こゝで葱やへいろく芋を作るなんて、馬鹿だと云ふんだからね。あいつこそ
を相手として、真面目に文句を並らべ立てゝ居る。だが、兄は優等の成績で、
であつて呉れたら!)母の眼はさう語つて居た。それから、「兎に角お前に
「これがねえ、
」母は謙介を見据へて、それから貞子を見た。
(これが一人前
うにして居る絹ものを、村の人達へのみえとして居た。
丶 丶
近くの農村で人となつたが、都会の、C―市の商家に嫁いで、平常着のや
謙介はぶざまに一つおじぎをした。貞子は彼より四つ年下であつた。矢張
「五助の爺と来たら、あれはいけないね。自分が百姓のくせに、俺のことを、
余つ程おかしいよ。
」
恒子はぢつと兄の様子を視た。兄は、盲縞の野良着を纏ひ古ズボンを穿い
医科大学を三年まで進んで行つたのである。そこで彼は運命的な、重い脳病
も、
」さう冒頭して母は始めた。貞子は恒子の縁談を持つて来たのであつた。
て、手にはむさいものゝ柄杓を握つて居る。そして、無智な、貧しい百姓爺
に犯された。今、その頃の彼の同窓には、博士がある、大学の助教授があ
1
先方は、医専を出て、そこの病院で助手をやつて居たが、今度開業するにつ
彼の女は息子の病気と、不必要な言葉とから、二重に悩んで居た。
その時母の眼が謙介の方に動いた。
彼の女の顔には深い困惑が浮んで居た。
「シユピツツエンが、え、肺炎ですよ、ほんの少しだとは思ふんですが。」
「たつたお二人で東京でお暮しになるのですもの、それに、田舎のお家の方
るいものですか、ほんとにこれなぞ何にも解りもしないくせに、困つて終ふ
「さつきもご覧でしたでせう、恒子はあんなに元気なのですもの、どこが悪
いて妻を迎へようとするのであつた。
にはかなりの財産もおありなさるし、私こんないゝ口はめつたにないと思ふ
前に置いて、こんな風に云はれるのは、心に触れないでは居られなかつた。
謙介は自分が何にかよくないことを云つたことに気が付いた。自分を目の
のですよ。
」
のですよ。」貞子は傍から口を添へた。
謙介はいつも何かの相談ごとには自分から身を退けて居た。だがこの時は
「さうだ、恒ちやんはもう結婚しなくちやあいけない、ほんとにさうだ。」
のには花を飾るべきであると云ふことを知らなかつた。妹と縁談があると云
だがそれにも今は慣れて、また自分から諦らめても居た。だゞ彼は、売りも
明るい調子で、熱心に云ひ出した。
だが謙介はたゞ恒子はもう結婚すべきだ、その年齢が来て居ると云ふこと
(ママ)
だけしか考へて居なかつた。どんな人が選ばるべきか、それは彼の考への外
の性質なぞとか云ふことを、細く頭の中に入れて居た。それだけ、それ等の
だが母は違つて居た。彼の女は先方の血統だとか、資産の状態とか、本人
すわ。あんまりいゝ口なものですから、他人にやるのは惜しくてなりません
しになれば、一時はお困りかも知れませんが、それはまたどうにでもなりま
ては、後がどうかと考へられましてね、
」母はまた始めた。
「恒子さんをお出
「それよりも、これがこんな風なものですから、恒子を外に出して終ひまし
ふそれだけのことに、もう兄弟でもあるかのやうな親しみをその人に持つて
ことがはつきりしない今、はかぐしい言葉が云はれないで居た。
ですもの。
」
居た。
「先方では、恒子さんにお遊びながら、C―に来て貰へるとほんとにいゝ
「これのところに来て呉れる者があるやうだと、ほんとにいいのですが、」
であつた。漠然と、どこからか妹を愛する若い男が現はれて来るものと信じ
と云つて居るのですが、それもなんでしたら来週の日曜あたり、本人をこち
て居た。それが今、妹の結婚問題が現はれて来た。彼は無邪気に喜んで居た。
らにご案内いたしませうかねえ、お母さん?」
終つて居た。そして、それだけ心の裡では独りで考へて居た。自分は病気を
謙介は自分が気拙い位置におかれて居るのを感じて、憶病になつて黙つて
してから、ほんたうに駄目になつて終つた。でも自分は、自分だけでは、こ
「さうですね、―」
「あの、恒子は、
」謙介は不意に言葉を挟んだ。
「どうもシユピツツエン が
ろくな、複雑でわづらはしいことは、どうも自分にはうまく行かないだけ
悪るくはないかと思はれるんです。一度C―病院に診せにやらうと思つて
う。
」
なんだ。それまでが周囲の人達に否定されて居るやうに思はれるのが、ほん
の人生の中核だけは解つて居るやうに思はれる。たゞそれを包んで居る、い
「それならほんたうに好都合なのですが、恒子さんどつかお悪いんですか?」
居たところなんですから、それながらこつちから出るやうにしたらいゝでせ
2
たうに淋しい。でも自分にもきつと妻が来て呉れるやうに思はれる。その人
午後になつても未だ貞子等が姿を見せないと、謙介は一人でいらくとし
忠告して居た。
て居た。汽車が村の駅に着く度毎に、一々表の道まで出て行つて、立つて居
はほんたうに利口な人なのだ。よく、自分も解つて居るところがあると云ふ
ことを、ちあんと解つて呉れるんだ。そんな人がきつとどつかに居て、その
た。
「兄さん、前の畑は貸したがいゝね。さうだつぺ。おめえよく考へて見るが
そしてまた始めた。
て行くことに妙を得て居た。そんな時機嫌がいゝやうに、今日もよかつた。
て、御馳走がありさうな時に、どこからかそのにほひを嗅ぎつけて、出掛け
丁度さうした最中に、五助の爺はやつて来た。彼は他人の家に来客があつ
中きつと来て呉れる。―
「お母さん、私のところに来てくれる人、あるかも知れませんよ。」さう謙
介は口に出して終つた。
母は彼の方を振返つて笑ひ顔で貞子と見合ひあつた。
二
ゝ。楽をして居て、好きがゝりなセン菜エが買へて、余つてけえるぢやねえ
つて、一年いくらのもんがあると思ふかね。あれを坪七銭で貸して見るがい
いゝ。おめえがあん畑に火箸棒見てえな葱や猫の金玉くれえな茄子を作つた
何時もよりずつと早く床を離れた。彼は真先きに鶏の世話に取りかゝつた。
か。坪七百 つて、お前、月だよ。」
貞子が若い医師を連れて来ると云ふ日の朝、
謙介は落付いて居られないで、
お互の生活の、パートナーであつた。彼はよく子供に見ることが出来るやう
鶏は、彼に取つては、卵を産ませる為めの飼ひものではなく、友達であつた。
な親しみで、鶏を愛した。それで彼の鶏の中には四歳稀れには五歳のものも
五助は抜け目のない中年の百姓であつた。口前も非常によかつた。今日も
反感を感ずるそぐはないものがあつた。彼は土地からは生命の出て来るのを
助の話に余り惹き入れられなかつた。彼の心の中には寧しろ五助の話には、
その通りであつた。だが謙介は、今待つ人を持つて居るばかりではなく、五
そはくと朝の用事を済すと、謙介は座敷に上つて、時計を見た。それは
算のことは解つて居た。だが五助が呉れようとする大きい胡桃からは、既に
喜んで居た。土を打つ、大地のにほひが立つ、種を下す、芽を出す、伸びて
柔かい実が刳抜かれて終つて居るやうに思はれてならなかつた。謙介は一本
未だ漸く七時を過ぎたばかりのところであつた。今度は彼は恒子のところに
た。(恒ちやん、屈辱を感じるのではないよ。憶病では駄目。好奇心は、か
気に、土の中にある不思議な力のことばかり考へて居た。
出掛けて行つた。忙はしない彼の訪問は、妹からうるさがられた。彼には、
そんなものがお互を取囲
あつた。五助はより大きい胡桃を呉れようとして居る。彼には五助の云ふ計
う云ふ時に利用するものなんだよ。警戒、警戒!
行く、花を開く、実を結ぶ、そして収穫!その時々の喜びが、謙介の歓びで
んで居る。だがそんなものは、乗越して終ふんだよ。)彼は妹の前では何一
「ゆつくり話していくがいゝ 、」謙介はそこに来て居た妹に五助を残して、
見合と云ふことは、華かなことではなくて、淋しさを感ずるものであつた。
つ云へなかつた。自分の部屋の中に独りになると、心の中で一生懸命に妹に
彼は妹をいたはり、慰さめようとする心持を抱いて、妹のところに赴いて居
交つて居た。勿論それ等は彼に極く僅かしか卵を与へなかつた。
3
て、呑気さうに鶏を呼び集めたり、かと思ふと、「どうしたのだらう、もう
自分の部屋に入つて終つた。茶の間からたつた襖一重の部屋で、彼は縁に出
ある、彼の家から四軒目の、大きい家の庭へと曲つて行つた。連れ立つて行
そりと道端に立つた。二人は、それも貞子の遠い親戚で、そこにも若い娘の
ぬ家のやうにして通り過ぎて行つた。謙介は思はず道まで出て行つて、のつ
かり諦めて居た。
貞子が、この人生の道案内のやうにして、歩るいて居た。―謙介は急いで
彼の王妃を田舎娘の間に取りに行くやうであつた。そして彼の二歩前には、
青年紳士は歩るく時、軽快にステツキを振つて行つた。どつか、若い王子が
く若い男の麦藁帽は、真新らしかつた。そして柔らか味のある、薄色の洋服。
来さうなものだね!」と不意に妹に言葉をかけて来たりした。
「何にか、きつと不意の用事が出来たんですね 、」彼は母や妹の前で何度も
三時を過ぎても未だ約束の人達は来なかつた。その時にはもう謙介はすつ
繰返した。だがふと独語して云つて居た。
裏門から自分の家へと入つて行つた。母の部屋の前の障子は完全に閉つて居
た。謙介は台所の土間に立つて妹を呼んだ。
「どうして来なかつたんだらう?」
それには簡単に、年廻りが悪いと云ふことで、先方から中止の依頼があつた
「何、なんでもないんだよ、……」謙介は何がなしに狼狽へて居た。そして
「何?兄さん、おかしな兄さん!」
安堵した。
「何、兄さん?」恒子の無邪気な、平和な顔が納戸から現はれて来た。彼は
からと、書いてあつた。謙介は読終へると、そつとそれを自分の袂の中に入
それから六日目の朝、
謙介はやうやく貞子の許から一通の手紙を受取つた。
れて終つた。さもそれでそのことが母や妹に知らさずに片付いて終ふと思つ
だしぬけに呟いた。
「あいつ等は馬鹿なんだよ!」
【資料の注記】
と云ふやうに。
(一五、二、)
謙介はよく常人のことを馬鹿だと云つた、丁度狂人が常人のことを狂人だ
て居るかのやうに。そしてすぐと急いで畑へ出て行つた。彼は淋しい、そし
て不愉快な心持につゝまれて居た。だが彼には底意深く人を疑ふことは出来
なかつた。彼の大患が、彼の心からさうした部分を奪ひ去つて、彼を片輪に
その日は上天気であつた。太陽は機嫌よく照つて、鷹揚に光を漲らして居
「重い脳病」については、例えば脇田良吉『異常児教育の実際』には「脳
して「脳質炎」を挙げている)。藤岡眞一郎『促進学級の実際的研究』も
膜炎を主トシ」といった記述が見られる(『異常児教育の実際』も原因と
三宅鉱一『白痴及低能児』にも「白痴低能ノ後天性原因ニハ脳質炎、脳
位で済まない事があるから、寸時の怠りもないやうに願ひたい」とある。
膜炎は死なずとも、脳のおかされやうによつては、成績不良児や中間児
1
して終つて居たから。
た。六月の、成熟した木々の青葉や、また黒い土は、放恣にその光を接吻し
灌ぎ出した。
て居た。謙介もその光りを浴びながら、夢中になつて胡瓜にボルドー液 を
ではないかと、息を殺して居た。だが彼等は謙介の家の前を、まるで見知ら
が若い男と連れ立つて歩るいて居た。謙介は二人が自分の家へ入つて行くの
ふと彼は、危く、また呑気に言葉をかけようとした。すぐ前の道を、貞子
4
脳病で「白痴」の原因となるものについては「脳膜炎」を挙げている。
文学作品では、島崎藤村『家』に、「脳膜炎」が「白痴」の原因として描
謙介の母は、その反応から、「シユピツツエン」の意味が〈肺結核の初
等児及低能児」の遺伝的な原因として挙げている。
いるか否かはさして問題ではない。貞子がその意味を解したかどうかは
期の状態〉であることを知っていると考えられるが、謙介の母が知って
第五巻』には 、「農村の疲弊、農家の困憊
かれている 。『山崎延吉全集
専を出」た、病院を「今度開業する」医者である、ということだ。当時
分かり得ないが(まず分からなかったと考えてよいだろうが)
、謙介が「肺
を訴ふる前に、農民は須らく自己反省をなし、農業に落付き、農村に安
にあっては、妻が肺結核を患っているというだけでも結婚の条件として
住する道を講究せねばならぬのである。月給取はよい様であるが、果し
て見れば明瞭な事実である。」といった記述が見られるが、謙介の「脳病」
「血統」とい
はよくないであろう。加えて、健介の母が気にしたように、
し、ここで問題になるのは、貞子がもってきた恒子の縁談の相手が「医
を都会中心主義、出世主義の犠牲(ストレス等が原因)として読み得る
った要素を若い医師が気にするならば、「白痴」の子を産む可能性の考え
炎」と言い換えので、「肺炎」であることだけは分かったであろう。しか
かどうかについては断定はしかねる。石井充「子を失ふ百姓」には、都
られる「肺炎」の恒子は、二重の意味で結婚の条件としてはよくないで
出て成名成功の人は確にある、而も多くの犠牲者が存在する事は、調べ
会に出てきた百姓「彌平」について、
「彌平はたまに見る都会の賑かさ、
あろう(当時の教育学、とりわけ「低能児教育」は、医学と密接につな
て安全な地位であらうかを、考へて見れば直ぐ分ることである。都市に
田舎のそれよりも一層高いやうに感じられた。たゞそれは彼に喜悦を与
華かさを見返り勝ちであつた。彼には都会の空気こそ爽に、そして空は
有隣堂書店)によると、ベト病は葉が枯死、腐敗す
(九州大学大学院人文科学府博士後期課程二年)
間隔位に二三回葉面に撒布すればよいのである。」とある。
る。」、「発病前凡そ二週間前より二斗式又は二斗五升式ボルドウ液を二週
しめ顆を結ぶも成長せず且つ形状不正となつて其質硬くなるものであ
る病で、「被害は下葉に初まり漸々上葉に及び甚しきに至れば悉く黄枯せ
胡瓜』(大正十一年
胡瓜や南瓜等の瓜類がやられ易い病はベト病。佐藤総右衛門『茄子と
張と考えられる。
「坪七百」は、直後の「口前も非常によかつた」から 、「坪七銭」の誇
がっている)
。
「シユピツツエン」とは「Spitzen」
(独)で、
〈先端〉等の意。この場合、
へないで、圧迫を、反感を与へるのであつた。
」と語る一節がある。
シュピッツェンカタル
大正六年六月)の「呼
文脈から、「Spitzenkatarrh」〈
( 肺尖カタル〉の意)のことと考えられる。
通俗衛生普及会編『最新家庭医学大鑑』
(第二版
この
吸器疾患」には、「結核と云へばアヽ肺病のことだなあと素人までも知つ
はいせん か た る
て居る位のもので(略)肺 尖加答児、肺浸潤など云ふのは 此 肺病の初期
のこと」とある。「肺炎」というのは大きなカテゴリーで、原因によりい
くつかに細分化できるが、結核菌を原因とする「結核性肺炎」はその一
つ。ちなみに、ドイツ語の〈肺炎〉は「Lungeentzuendung」が一般的か。
藤岡眞一郎『促進学級の実際的研究』では、
「呼吸器病」、
「肺炎」を、
「劣
3
4
2
読むことの「客観」幻想
待遇もはるかに悪いとなると、大学病患者のあとは絶つまい。
つまり 、「試験地獄」は経済構造の問題であり、完全雇傭と最
低賃金に関係する政治の問題である。若いエネルギーを無駄
をつけるべきだと考える。
にさせないためにも、少なくとも大学、文部省、労働省、そ
―入試現代文のマークシート化をめぐって―
Takumi
れに雇傭者側とで総合対策の委員会をつくり、今からすぐ手
ISHIKAWA
巧
きる。ひとつは、見出しにもあるように、若いエネルギーが過剰
石 川
な「試験地獄」によって浪費・摩滅していくことへの懸念である。
この論説が訴えている内容は、おおまかにいって三つに要約で
昭和三十四年三月十五日に発行された「朝日ジャーナル」創刊
「大学病」という比喩からも明らかなように、この言葉の背後に
1
号 (朝日新聞社)には 、「
「 試験地獄」に対策を」という見出しで以
探しだす試験をして、実力がものをいう社会をつくることが
断である。短大だろうが、夜間だろうが、どこまでも実力を
かならない。社会に、学閥やコネの風習があっては、言語道
終着駅は、いわずとしれた有名会社か、お役所への就職にほ
から有名大学へ、というわけである。このエスカレーターの
にエスカレーター・システムという言葉がある。有名幼稚園
すぐその研究と対策を急ぐ必要があると思う。/受験の世界
春そうそう試験地獄の話でもあるまいが、実はいまから、
を実現するための基盤づくりとして、試験制度そのものを改革し、
ていることは間違いないだろう。だがこの論説は、そうした社会
同じ尺度で「実力」を見極めようとする機会均等主義が展開され
ないが、ともかく、ひとりひとりの人間を個人として自律させ、
にどのようなものであり、どのようにして測定可能なのかわから
をいう社会をつくる」というときの「実力」というものが具体的
り離していかなければならないという考え方である 。「実力がもの
なわち 、「氏」や「育ち」に類する環境をその人間の「実力」と切
れと同時に重視されているのは 、「学閥やコネ」といった要素、す
功につながるような社会は不健康だという認識がある。また、そ
は、高い学歴をもち、より有名な大学を卒業することが将来の成
下のような無署名記事が掲載されている。
大切である。そうなると、いい加減な教育をしている大学は、
する。ここでいう「試験」は、大学入試や採用試験といった選抜
「どこまでも実力を探しだす試験」をしていく必要があると主張
困ることになるにちがいない。その場合には、就職と待遇の
問題が起ってくる。中・高卒が、大学卒に比べて職も少なく、
味での「試験」ということだろうから、問題を短絡化させるわけ
とがむずかしい、トリレンマの状態にあるという。三つの原
制のもとでは、つぎの三つの原則を同時に三つともみたすこ
……フィッシュキンによれば、平等に価値を置く自由主義体
試験から様々な資格を取るための認定試験に至るまで、幅広い意
は大学入試であり、執筆者の念頭にあるのも大学入試をひとつの
則とは、(1)メリット、(2)生活機会の平等、(3)家族の
にはいかないが、文脈をみる限り、早急な対応を迫られているの
頂点とする受験制度であることは間違いない。
準に用いることである。生活機会の平等とは、
「生まれ」によ
とをつける場合、その人に何ができるかという「能力」を基
って子どもたちの将来の社会での地位が構造的に大きく異な
自律性である。/メリットの原則とは、社会的な地位に人び
題設定に間違いはなく、誰もが肯いてくれるような穏当な言説だ
いっけんすると、この論説はきわめてまっとうなことを言って
とさえいえる(実際、この手の理想主義的言説はいつの時代にも飽くこと
るようになってはならない、将来の生活の見通しは、
「生まれ」
いるようにみえる。というより正確にいえば、ひとつひとつの問
なく反復されてきた)。だが、①誰にでも同じチャンスを与えること、
である。そして、三番目の家族の自律性とは、子育てにおけ
による制約をうけずに、平等でなくてはならないという原則
る責任は親にあり、外部の干渉を最小限にくいとめるべきだ
②過剰な「試験地獄」にならないこと、③その人間の実力を見極
ようとするとき、私たちは途端にその矛盾に気づかされることに
すと、他の一つが成立しなくなる。
とする原則である。/これら三つの原則のうち、二つをみた
めること、という三つの要素を統合し、それらを同時に実現させ
見極めようとすれば、殺到する入学希望者を選抜するための試験
なる。例えば、誰にでも同じチャンスを与えてその人間の実力を
を実現しようとすると残りのひとつが必ず実現不可能になるよう
ないことからもわかるように、そこには、三つの要素のうち二つ
いう。逆にいえば、家庭で伝達される文化の違い=階層文化が存
違いを媒介して発生する」という前提で議論されているからだと
因は、「教育における不平等が、子どもが家庭で身に付ける文化の
苅谷によれば、こうしたトリレンマの状況が生じる根本的な原
が必要になり、それに向けての準備と対策が苛烈にならざるを得
年
学歴主義と平等神話の戦後史』(中公新書、平成
のである。同書には、教育における平等実現の困難さについて次
のように記されている。
文化のありようをまったく考慮していない。それどころか 、
「社会
だが、先述した「朝日ジャーナル」の無署名記事は、この階層
することは不可能だということである。
在している限り、子育ての自由と教育における平等を同時に実現
な構造的矛盾が生じるのである。これは、苅谷剛彦が『大衆教育
社会のゆくえ
月)のなかで、アメリカの社会哲学者であるフィッシュキンの理
7
論を紹介するかたちで言述した「トリレンマ」という概念そのも
6
たちで、ある人間が生まれ育った環境やその人間が所属している
に、学閥やコネの風習があっては、言語道断である」といったか
逸は、高校生が「一般的の教養書」を読む力が拙劣であることを
利用」という論文を掲載した兵庫県立長田高等学校教諭・三木一
年
月・全国学校図書館協議会機関誌) に「大学入試現代文と図書の
グループを「実力」の一部として認めることが、いかにも愚劣な
、、、
方をしてしまうと 、「実力」とは無関係のところで作用する裏取引
行為であるかのように捉えている 。「学閥」や「コネ」という言い
書以外の図書資料をできるだけ広範囲」で読む経験こそが必要だ
この背景となっている世界史を概観する必要」があるとし 、「教科
人道主義)、科学的合理主義、自立的人格の自覚を把握するために
憤り、
「近代精神の中核をなす人間主義(ヒューマニズム、人文主義、
と述べているが、こうした主張の根本にあるのは、まさに本を読
がもっている人的ネットワークなわけであり、個人の資質や能力
むという行為を通じて文化資本を継承しようとする考え方であり、
上記のような論法は当時から今日に至るまでかたちを変えること
さなければ、彼の「実力」を構成する要素のひとつであるといっ
ていいはずである。つまり、問題は「学閥」や「コネ」にあるの
逆に入試現代文が文化資本のありようを変形させていく可能性も
また、入試現代文と文化資本の間に相関関係があるとすれば、
なく繰り返されているのである。
を規定してしまうような階層文化の再生産性であり、様々な文化
に「共通一次世代」という表現が流行した。その言葉がさしてい
はマークシート型の試験対策に慣れた大学生たちを揶揄するよう
るのは、与えられた選択肢のなかから正解をマークすることに慣
ある。たとえば、共通一次試験がはじめて採用された直後、巷に
そして、こうした文化資本の継承という問題は、同じ入試科目
の階層文化がまったく議論の俎上にのせられていない点にある。
れてしまったことで、自ら問題を立ちあげてものごとを論理的に
えで資質や能力を測定することの重要性であるはずなのに、肝心
のなかでも特に現代文のあり方を規定する重要な要素となる。な
い世代といった意味合いの蔑称であろうが、当時、山本明という
考えたり、答えの出ない課題を探求し続けたりすることができな
と」(「言語生活」昭和 年
コミュニケーション論の専門家が「「全共闘世代」と「共一世代」
ぜなら、他のすべての科目が学校教育の現場で用いられる教材お
だけは、むしろ、どこかの出版社の教科書に掲載されている教材
月)のなかで、共通一次世代の大学生た
、、、、、、、、、、、、、
をそのまま出題してはいけない科目であり、学校以外の場での読
よびその応用の範囲内で設問が作られているのに対して、現代文
資本の集合体として存在している人間を「個」として区別したう
なわち 、親から子へと継承されていく様々な資産が個人の「実力」
ではなく、そうした副次的な要素を肥大化させていく原動力、す
よりも「学閥」や「コネ」が優先されるようなルール違反さえ犯
や利害の癒着を想像してしまうが、それはある意味で、その人間
11
ちの際立った特徴として、①授業中にノートをとらなくなったこ
(昭和
定的な役割を果たすからである。たとえば 、
「学校図書館」
書体験や活字を通して廻らされる様々な思考がその能力向上に決
8
と、②正解のない事柄について説明していると混乱し、ひとつの
58
31
うに、当時の識者が懸念する学生の質的低下は、現代文という科
らないことにはプンとそっぽを向く傾向があること……などを指
解答を求めてくること、③自分の感性を大切にするあまり気に入
を迎えるのである。しかし、それはアメリカから与えられた制度
から四年生まですべての学生に対して新制度が適用されるようになること)
施された高等教育の改革はこの時期に完成年度(大学でいえば一年生
卒業式が行われる。つまり、アメリカからの強い意向のもとで実
の定着であると同時に、「独立国」日本の現状に合わせて制度の内
摘し、彼らをテレビの聴取者に喩えていることからも明らかなよ
目のなかで培われる能力と密接に関係していることがわかる。昭
戦争中、国体維持と国民の戦意高揚のために利用されることの
実を問い直していく時代のはじまりでもあった。
の移行が模索されるわけだが、昭和二十九年一月の「解釈と鑑賞」
多かった入試現代文も、こうした状況のなかで新しい問題形式へ
ように見極めるべきかという問題に端を発し、教育が社会の階層
和三十年代に激化していった大学入試制度は、個々の実力をどの
現代文という科目は、まさにそれを拡大再生産していく循環シス
性や文化資本と深く結びついていることを明らかにしたが、入試
(至文堂)に掲載された座談会「来るべき入試の現代文をめぐって」
な認識をもっていたかを探るうえで興味深い資料となっている。
は、その当時の国語教育界および大学の国文学関係者がどのよう
テムとして機能していたのである。
本稿では、こうした構造をふまえたうえで、高度経済成長期の
この座談会の出席者は、東京大学助教授・阿部秋生、お茶の水女
大学入試における現代文の役割を追うことによって、あらかじめ
与えられた選択肢のなかから設問の要求に対応するものを選び、
教諭・石沢胖、石神井高校教諭・手崎政男、日比谷高校教諭・増
子大学教授・井本農一、横浜国立大学教授・吉原敏雄、両国高校
淵恒吉、田園調布高校教諭・松隈義勇の各氏である。いわば、首
の入試スタイルが、受験生たちを取り囲む教育環境にどのような
都圏の難関国立大学教員とそこに多くの合格者を輩出する名門都
その連鎖によって本文全体の内容を把握するような「客観」主義
はどのような変容を強いられたのかを考察する。
影響を与えたのか、あるいは、それを通じて「読む」という行為
立高校教諭が大学と高校それぞれの要望を突き付けあう格好にな
論がなされ、文語文、口語文、翻訳文などを幅広く含んだ「明治
この座談会では、まず現代文とは何かという定義をめぐって議
っている。
敗戦後の混乱、朝鮮戦争がもたらした特需、GHQによる占領
が紹介される。前者が文体がどのようなものであれ近代的な思想
以後の文章」という立場と「口語文で書かれた文章」という立場
2
った昭和二十年代には、高等教育に関する学制改革も大々的にな
を含んだ文章はすべて現代文の範囲だと主張するのに対して、後
からの独立などといった大きなうねりが国政や社会経済を揺さぶ
され、昭和二十八年には旧制大学最後の卒業式と新制大学最初の
文と文との論理的なつながり方や全体の論旨を経て、生徒が文章
口語文を同等に教えるのは困難だと反論する。後者の立場をとる
者は特に高校の現場での指導という観点から、文語文や翻訳文と
してこういうものを持つてきて場面を作つて行つて、人間が出て
それからそこへなんといいますかね、付近の描写なりなんなりと
もいいんじやないか。ここは前置でこういうことをいつてるんだ、
で、小説にしても、いわゆる小説家の読み方と同じにやらなくて
きて、その人間がこういう人物であるためこういうんだというよ
教諭が考える「現代文」を簡潔にまとめると、語句の解釈よりも
うに、廻りくどいかしれないが、とにかく文章にくつついて考え
てゆくというやり方で勉強して欲しいし、そういうやり方あたり
の思想をつかみとり、最終的には批判的な読み方ができるように
だが、こうした理想論は、逆に国語教育の限界を露呈すること
が国語教育というものの限度なんじやないかと私は思つてるんで
なるような科目ということになる。
すがね」という阿部秋生の発言などは、出題する側の本音といっ
ていいだろう。ここではそれ以上の議論にならなかったが、現代
さ易しさは、それを理解する人間の深さ高さが決定する要素が非
常に多いんですよ」という発言にみられるように、現代文は社会
の読書体験と同じように享受し、自由なイマジネーションを働か
文の教材としての小説に関して、生徒たちがその作品世界を普段
にもつながる。参加者のひとりである吉原敏雄の「現代文の難し
生活全般のなかで鍛えられるものであり、授業のなかで指導でき
せることに対して、大学教員側が警戒心を抱いていることは確か
る範囲はそのごく一部にすぎないという見方が展開されるように
なるのである。これに対しては、生徒たちの生活体験から遊離し
の領域において「何が書かれているか」ではなく「どのように書
かれているか」を考えることが必要であり、小説もまたその範疇
だろう。いささか比喩的ないい方をすれば、阿部秋生は、現代文
においては評論的な文章といささかも変わることがないと述べて
ないような教材を用いること、あるいは、
「書いてあるとおり読む」
きることには限界があるという点に着地する 。「……現代文であろ
訓練の重要性などが指摘され、最終的には、入試で問うことがで
うと古文であろうと、とにかくそこに書いてあるとおり読んで欲
いるのである。
ども、一応文章について考える訓練をして欲しい。それができて
細かいニュアンスや文学的なセンスを問うのではなく、たとえ理
の記述の仕方そのものに表現力が問われると考える大学教員側と、
また、この座談会では、古文の答案も一種の現代文であり答案
しいということなんです 。(中略) 論文みたいなものだと読む片つ
ないらしい。どうしてああなのかと思うぐらい文章を無視して解
ことが必要だ、と考える高校教諭の間に大きな認識の隔たりが露
解が浅くても型通りの解答ができればそれに一定の評価を与える
端から批判してしまう。そういう批判精神があるのは結構だけれ
まず思う。その点は小説であつても、今度は極端にいえば論文で
呈する。特に小説をどのように扱うかというところでは、たくさ
釈することが多い。ともかくも文章について考えてきて欲しいと
あつても、ある所までは共通するもんじやないか。そういう意味
限られた時間内に指導できるのはむしろ読みとったものを書く力
んの文章を読んで物事を深く理解することに重点を置く考え方と、
く時解きほぐしてゆけるような問題、段階を訊けるような問題、
になるのが多いと思うんですよ。それよりその問題文を読んでゆ
いう問題を出す時、いきなりこの文章の要旨はどれだということ
手崎は、「私はいま現代文の内容を読み解くものと限定して、そう
例えば、文章の一部分に難解な所があつても、問題を解きほぐし
く対立する。現代文の問題は、割り切れないはずのものを無理に
割り切って答えを出させるから受験生はそれに慣らされてしまう
分の処理もつかめていないんだという問題ですね」と指摘し、入
てゆくと難解な所も分るんだ、これに答えられなければ難解な部
だとする考え方は、高校の現場における諸問題を含みながら厳し
応じた井本農一は 、「最後に割切れる問題でないのを出すのは出題
という高校教諭からの指摘に対して、大学側を代表するかたちで
いくような流れが必要だと主張する。設問によって「問題を解き
ほぐし 」、その積み重ねによって文中の難解な部分を「処理」して
試現代文では各設問を解いていく過程で文章の内容が理解できて
いく形式は、のちにはじまる共通一次試験で基本となるスタイル
者の不見識を示す。しかしそれはすぐ割切れる問題じやないが、
のが文学的な問題としては当然考えられる。その第二段階、第三
であり、昭和二十年代の終わりに高校の教諭からこのような力を
一応こういつてみて、なおいつてみるとこうだという二段階のも
割切ろうとする。秋は淋しい。だけど秋は淋しくないところもあ
段階目で割切れる問題を、最後の割切れる所までゆかないで早く
められているのは、各設問を部分から全体へとつながるひとつの
問うことが求められていたという事実は注目に値する。そこに求
流れとみなして、容易な箇所から難解な箇所を類推する情報処理
る、という問題を出すんだ。すると秋だから淋しいという先入主
けではあまりに淋しいのでね 。(笑声)その次の段階の答を期待し
をもつて解釈して割切つちやう。われわれとしては秋は淋しいだ
たく性質の異なるものだからである。
能力であり、それ以前の入試現代文が要求してきたものとはまっ
また、もうひとつ注目したいのは、司会を担当していた増淵恒
かない答案が多い。その意味で型どおりのものはいけないといつ
吉が阿部秋生とのやりとりのなかで述べた次のような意見である。
ている。それは問題としては割切れているはずだが、そこまでゆ
てるんですよ」と述べているが、ここに表出しているのは、解答
く力を求めるのかという対立軸であろう。
に立つような力を検出してもらいたいんですよ。とい
……現代文をお出しになる時ね、実際生活において役
うことはね、われわれの読書生活で論説文が出てくる。
増淵
をひとつに型を求めるのか、それとも、問題を深く掘り下げてい
座談会は、こうした解決し難い問題を数多く噴出させながら、
ここで高校側の教諭から注目すべき二つの意見がだされている。
ちよつと読んでも分らない。二、三回読むと分つてく
最終的に入試問題の内容をめぐる議論へと展開していくわけだが、
ひとつは、
「出題者への注文」として手崎政男が述べた意見である 。
要旨を訊くとかね、かなり長くてもいいと思うんです
る。そういうものが丁度いいんだな。それを試すには
洗練させたかたちになっている。
述べているが、これなどは増淵恒吉が主張した学習法をそのまま
「全体の三分の一程度」にする縮約文を作成させるのが最適だと
いて「できるだけ内容を原文に一致」させることを心がけながら
の抽出 」、すなわち、文章の中心的な話題を見つけだしてそれを核
よ。いろいろ経費もかかることでしよう。三ページも
それより点をつけるほうが……
にまとめることをめざしているのに対して、文体や表現のニュア
長くなつたら経費がかかるんでしようが……
阿部
かせて下さればいいんですよ。
それは要旨を何十字以内というふうに制限をつけて書
この学習法の特長は、一般的にいわれる要約文が文章の「要点
増淵
的文章であろうが実用的文章であろうが、文章の種類は問われな
る。「原文の小宇宙化」が試みられる以上、説明文であろうが文学
ンスも含めて丸ごとすくいとるスタイルがとられていることであ
検出してもらいたい」という部分に比重が置かれているようにも
読むときに必要な精読力と速読力がともにあがり、それぞれがお
いことになる。著者によれば、この方法を用いたことで、文章を
増淵の発言そのものは「実際生活において役に立つような力を
形式の問題をどのように点数化するかという問題に関してかなり
みえるが、それよりも重要なのは、理解力と表現力をめぐる記述
また、自分の言葉で要約せず、原文中にある言葉をできるだけ要
互いを排斥することなく補完的に強化される効果があるという。
約文に盛り込んでいこうとすることによって、語彙の拡充と定着
具体的な試案を提示していることである。彼は、①生徒たちにと
を超えた文章を出題すること)、②文章全体の要旨を問うこと、③解
分の一程度しか自分の文章に使用できないが、この方法で読解力
が同時になされる効果があるという。多くの人々は理解語彙の三
ってやや難解と思えるような文章を出題すること(教科書のレベル
と……以上の三点を基本にすれば入試現代文をめぐる諸問題はか
が形をもって表出するものなのだから、読み手は当然それを理解
ただし、言葉は単に言葉としてあるだけでなく書き手の「判断」
現できるというわけである。
をつけていくと、理解語彙から使用語彙への移行をスムースに実
答に制限字数を設けて、その範囲内で必要事項をまとめさせるこ
なりの部分でクリアできると考えている。
このような、「要旨」の作成能力をもって現代文の基礎とみなす
いて輝きを失っていない。たとえば、公文式とよばれる学習法を
て」といった分析を加える必要がある。そうした条件を加えるこ
したうえで「だれが、何を、いつ、どこで、なぜ、どのようにし
考え方は、実は、いまでも入試現代文をめぐる指導法の領域にお
月・くもん出版)のなか
年
とによって縮約文は新しく創造された文章となる。また、著者は
実践する村田一夫は『公文式国語の「方法」 ―力のつけようの
なかった読解力がこれでつく 』(平成
4
で、国語力を身につけるためには「二〇〇〇字程度の文章」につ
11
言葉というものが本来的にもっている性格のひとつとして、書き
て差をつけるという方法でなくて」
「高校の実状を認識し、同時に、
がある」ことが指摘される。そして 、「ただむずかしい問題によっ
して、国語の入学試験に「高校教科課程に即していない入試問題
次の時代をつくる者としてどのような能力をもつ者を選抜すべき
手の「意図」を明確にすることではじめて思考の用を果たすと指
るが、長い文章では「一つの話題が完結する一内容段落の中の文
摘し、普通の文章では各文の文末表現にその「意図」があらわれ
が示される。また具体的な問題としては、①「機械的、概念的に
おぼえた知識」よりも「思考能力を基礎にする読解力と表現力」
かという観点に立って問題を作成していただきたい」という要望
を重視すること、②「現実とかけ離れた高踏的・末梢的な問題で
相互の関係」に表出するとする。そして、縮約文には書き手の表
があれば、それを批判的に指摘できるようになるという。学習者
はなく、国民にとって基本的に必要な、また生徒の生活に身近な
現意図を再現することが求められ、もし原文の論理に飛躍や破綻
性によってはじめて価値を発揮し、固有の働きをするということ
は、この方法を用いることで、言葉というものが言葉同士の関係
語を愛し育てていくという目標にそうような題材」であること、
問題」にすること、③「民族の文化の遺産を正しくうけつぎ、国
④「古文の占める割合が多すぎる傾向がある」ので「もっと現代
を「実体験」できるというわけである。昭和二十九年の座談会で
法を簡単に接続してしまうわけにはいかないが、少なくとも、増
文を重視」すること、⑤「高等学校の教科過程を十分に考慮に入
増淵恒吉が発言したことと、それから数十年後に確立された指導
淵のとったスタンスが今日の受験業界においてもけっして過去の
協会の機関紙である「日本文学」(昭和 年 月)に中央委員会の名
語教育にゆがみを与えている」という報告がなされたのを受けて、
学入試問題の中のある傾向が、青年を無益に苦しめ、ひいては国
と、などが提言される。あまりにも広範囲にわたる要望なのでそ
の解答例、ならびに答案に対する総評をできるだけ提示」するこ
基準」が明確なものを出題すること、⑨「試験後」に「大学当局
「設問の形式」に「親切な配慮」をすること、⑧「正解と誤りの
は「理解力・判断力を無視する結果になる」ので避けること、⑦
かの偶然性によって、正解になったり、誤りになったりする形式」
れて、無理な要求にならないように」すること、⑥「解答が何ら
前で「大学学力検査問題 (国語科)について」という異例の検討報
この座談会とほぼ同じ時期、日本文学協会は、大会の場で「大
考え方になっていないことは確かであろう。
告を発表している(国語教育部会が中心となって「大学入試問題批判」
れを簡潔にまとめることは難しいが、全体に共通しているのは、
年にあったが、それはあくまでも「現
としてまとめるような企画は昭和
できるような形式にして欲しいというスタンスである。
生徒の思考能力に基礎を置いたうえでなおかつ正誤を明確に判断
前述の座談会とこの検討報告を重ね合わせてみると、この時期、
場からの声」をアンケートで集計したものに過ぎなかった)。この報告で
2
はまず問題提起として、大学への入学者に占める現役生の合格比
29
率が著しく落ち込んでいることが報告され、その原因のひとつと
28
準のなかで優秀と認められる生徒を選抜しようとする傲慢な論理
大学側はそれについての対応を迫られている状況がみえてくる。
現代文という科目に関して特に高校側から厳しい注文が相次ぎ、
十五年のことである。昭和四十二年に「今後における学校教育の
唱された時期、高度経済成長期も末期にさしかかっていた昭和四
目的に、標準的かつ良質な試験問題を用いた全国共通テストが提
学進学希望者の増加にともなう受験戦争の激化を緩和することを
総合的な拡充整備について」の諮問を受け、三年間にわたって審
大学側が勝手に作った問題を密室で採点し、自分たちが設けた基
は完全に破綻し、入試現代文は、実際に生徒の指導にあたってい
改革に関する基本構想」という中間報告をまとめ、そのなかに「広
議を続けてきた中央教育審議会は、この年の五月に「高等教育の
域的な共通テストを開発し、高等学校間の評価水準を補正するた
正確に判定できるものでなければならないという考え方が主流に
めの方法として利用すること」という項目を設ける (それを受けて
る高校側の現状を踏まえたうえで、生徒たちの思考や学力がより
なるのである。生徒が本文に対してどのくらい思考をめぐらし、
日に
本文全体の要旨をどのくらい正確に掴んでいるかを正しく客観的
、
同年十月に開催された全国高等学校校長協会も、ほぼ同じ趣旨の要望書を採
月
に判断する方法。この時期の入試現代文には、そうした困難な課
また、この年に開催された国立大学協会の総会(
択している)
。
開催) では 、
「国立大学共通一次試験を調査研究する委員会の設置
だが、大学入学試験における現代文のあり方をめぐる議論は、
題をクリアすることが求められていたということである。
その後も様々なかたちで継続されたものの、実際には各大学が個
では、それ以前に開発されていた進学適性検査や能研テストがほ
一方には慎重論もあったが、進学希望者の増加にともなって従来
とんど利用されずに姿を消すという失態を繰り返していたため、
の入試制度に様々な歪みが生じていたうえ、すでに先進諸国の多
は、新たに数多くの私立大学が誕生し、多くの大学が女子学生獲
得のために文学部を設けたが、それでも押しよせてくる受験生た
っていたのでは大学の国際的な競争力を維持することができない
くが共通試験を導入しているなか、日本だけが個別入試にこだわ
の大学入試改善会議が共通学力検査の実施を提唱する中間報告を
同年の十二月十六日には、それと歩調をあわせるように文部省
のである。
という思惑も作用し、まずは委員会の発足をということになった
い直そうとする危機感などなかったのである。
3
現代文という科目のあり方が再び議論の俎上にのぼるのは、大
ちを前に、大学側にはどのような人間を採るべきかを根本的に問
みせていなかった。高度経済成長期を迎えた日本の高等教育界に
について各大学にアンケートする」ことが決定される。大学入試
26
ように受けとめて改善につとめていくか、という程度の進展しか
25
別の入試を行っている以上、それぞれの大学が高校側の声をどの
11
まとめる。年が明けた昭和四十六年二月に発表された上記アンケ
この大学に行っても「高度の勉学」をすることができる環境が必
ように、そこでは、大学入学時よりも入学後の学習を重視し、ど
う安易な風潮を打破する必要がある」といった文面からもわかる
要であるとする機会均等の原則が説かれている。要するに、偏差
ートの集計では、七十五大学のうち六十二大学が共通試験の導入
る入試問題特別委員会が国立大学協会内に設置される。中央教育
に賛成し、さっそく、試験の形式、内容、実施方法などを研究す
将来に大きな影響を与えるような学歴信仰を改め、総合的かつ継
値に基づいて志望校を選択し、どの大学に入ったかがその学生の
続的に学力評価を実施し続けるような教育システムを構築するこ
審議会も、六月に出した答申のなかに「大学入学者選抜制度の改
①高等学校の学習成果を公正に表示する調査書を選抜の基礎資料
善の方向」という項目を設け、大学入学試験のあり方について、
とが急務だといっているわけである。
項目を提案し、高等学校の「調査書」の重視と「広域的に利用で
ところが、この答申はそのための具体策として先述のような三
とすること、②広域的な共通テストを開発し、高等学校間の評価
が必要とする場合には、進学しようとする専門分野においてとく
説明する。専門分野によっては「特定の能力」についてテストし
きる共通テスト」の開発こそが選抜方法の改善の第一歩であると
水準の格差を補正するための方法として利用すること、③大学側
に重視される特定の能力についてテストを行い、または論文テス
たり 、「論文テストや面接」を加えたりしてもいいとして、ある程
トや面接を行ってそれらの結果を総合的な判定の資料に加えるこ
と、という方向性を示す。
力はもちろんのこと、すべての大学・学部間を明確な数値によっ
て序列化する共通テストを導入して、学力というものをきわめて
度の柔軟性はみせているようにみえるが、実際には、受験生の能
画一的なものにしてしまうような方針がとられている。ここには、
そもそも、この答申は「中等教育の段階で、その本来の目的に
性に応じた大学に入学できるようにすること」を目標として提出
格することだけを目的とした特別な学習をしないでも、能力・適
入試改革を行えば行うほど自分たちがめざす教育理念が崩壊して
応じた勉学に専念した者の学習成果が公正に評価され、選抜に合
されたものであり、上記三項目に付帯する「説明」には、特定の
学力の到達度を弁別するためというよりは、高等教育を受けるの
また、この答申の最大の矛盾は、共通テストの目的を「個人の
いくというウロボロスの状態が生じている。
ている 。「高等学校からどの大学へ進学するかによって、将来、よ
る」と明言し、本来は選抜試験以外の何ものでもないはずの共通
に必要な基礎的な能力・適性を検出するためのものとすべきであ
に行われるような試験制度のあり方をめぐって強い批判がなされ
大学に希望者が集中し、能力の接近した者を強いて区別するため
り高度の勉学をする機会が事実上制約されることのない学校体系
テストを適性検査的なものであるかのように装ってしまったこと
を考えることが大切である 」、「大学が、もっぱら選抜に力を注ぐ
よりも入学後の成績評価を厳正にして、入学さえすればよいとい
共性が重視されなければならない。現にその適否は、各段階の学
もあり、そこでは大学入試そのものに関して、「この制度は、本来
である。この答申には「大学入学者選抜制度の改革」という項目
テストを押しつけられるくらいなら、自らの判断でそのあり方を
教育方針にしたがって政治家や官僚がつくりあげようとする共通
調査委員会」に改称。試験の名称も「共通一次試験」と明記される)
。国の
に着手する(この段階で委員会も「入試調査特別委員会」から「入試改善
検討し、実施に向けて準備しようとするかのように、国立大学協
各学校だけの都合によって運用されるべきものではなく、その公
校教育に実質的な影響を及ぼしているばかりでなく、学校を取り
会はこの問題に関するイニシアティブをとりはじめる。
特別な学習の激化、選抜結果の妥当性に対する疑義、入学後の学
て運用されてきたが、もっぱら選抜に合格することを目的とする
た理由はいろいろ考えられるだろうが、この試行テストの報告書
一月のことである。国立大学の多くがこの共通試験導入に賛同し
て第一回の試行テスト(予備テスト)を行ったのは昭和四十九年十
その国立大学協会が全国七地区に約三千人の高校三年生を集め
巻く一般社会にもさまざまな問題を投げかけている。とくに大学
習よりは受験競争の勝敗を重視する傾向、大量の浪人の蓄積など、
なければ将来に向けての長期的展望でもなかった。当時の国立大
から推察する限り、問題の核心にあったのは受験生への配慮でも
入学者選抜制度は、これまで各大学の相当大幅な自由裁量によっ
各方面から強く要望されている」と指摘されているが、この文言
学は、旧帝国大学をはじめとして歴史と伝統のある大学が名を連
幾多の弊害のあることが指摘されており、そのすみやかな改善が
をまともに受けとめると、各大学の自由裁量による入学者選抜制
され、それぞれの間には歴然とした格差が設けられていたが、二
期校に属する大学の多くは共通試験の導入によって試験期日を統
ねる一期校と、地方国立大学の多くが含まれる二期校とに区分け
一し、そうした前時代的な序列化を解消すべきであると主張して
いうことになってしまう。逆のいい方をすれば、共通テストを実
様々な弊害は解消されるかのような幻想がふりまかれているので
施して入学試験を適正検査的なものにすれば競争原理にともなう
いたのである。翌年三月に発表された試行テストの報告書に「国
度が受験競争の激化を促し、社会的な弊害を助長してきた……と
ある。
施することが適当」という提案が盛り込まれたのはその証左であ
る (こうした動きに反発するかのように、東京大学をはじめとする有力校
立一、二期校の入試期日一本化と共通テストを五三年から同時実
は共通一次試験の配点を最小限に抑え、独自に行う二次試験を本番と位置づ
こうして、共通テスト導入は昭和四十五年から四十六年にかけ
協会と中央教育審議会が三つ巴となり、なし崩し的に推進されて
ける動きをみせる)。ちなみに、昭和五十年十一月には会場を七地区
ての一年間に、たいした議論もなされないまま文部省と国立大学
国共通一次試験に関するまとめ」を公表し、翌四十八年には試験
十四会場に増やし、約五千人の高校三年生を対象に第二回試行テ
いく。昭和四十七年九月には国立大学協会入試特別委員会が「全
問題作成、電算機処理、実施機構などに関する具体的な調査研究
ストを実施しているが、そのときは七十六%の大学が「共通一次
は、高等学校学習指導要領の「第1
国語を重視した出題がなされたものである。第1問題の内容
に当たるものであり、第2問題、第3問題の内容は、同じく
読むこと」の(2)にあたる「イ、論説、評論などを読む」
現代国語」の中の「B
は入試改善に役立つ」と回答している。
国立大学などの圧倒的な支持により「国立大学共通一次学力試験
説」に当たるものである。
「ウ、詩歌、随筆、小説、戯曲などを読む」の中の「随筆」
「小
昭和五十一年十一月に開催された国立大学協会の総会は、地方
は、昭和五十四年度から実施可能」の結論を出す。翌月に開催さ
現代国語三題、古文二題、漢文二題だったが、第三回試行テスト
昭和四十九年にはじまった第一回試行テストの段階で、国語は
参加を決める。旧実施要項で受験勉強をしてきた生徒が浪人した
れた公立大学協会の臨時総会もそれに同調して共通一次試験への
場合どうするかとか、高校での受験指導をどのように進めるかと
点)
、漢文一
いった高校側の混乱は蚊帳の外に置かれたまま、国公立大学は共
点)
、古文一題(
点)へと改められている(出題数が減った分、一題あたりの設問
年)からは現代国語三題(
(昭和
40
されている。そのなかでも特に議論の的になったのは国語に与え
施された試行テストでは、国語に関していくつかの試行錯誤がな
に現代文重視の姿勢が強まったことを意味している。この頃、現
は学習指導要領の単位数 (現代国語7単元、古典Ⅰ甲2単元) に合わ
数は5~6が7~8に増やされ、総設問数はほぼ同様だった)。この変更
月、文部行政資料調
昭和
ら、その現状からすれば現代文偏重の動きには反発も多かったは
役受験生の大部分は古典Ⅰ乙(5単元)まで履修していたわけだか
せたということなのだろうが、入試制度の流れからすれば明らか
年
ずである。
年
共通1次学力試験実施の概要
年度文部省所管概算要求の説明 」(昭和
また 、
「文部省行政要覧
文各1問題という比重で出題され昭和
査会)に記された国語研究専門委員会報告によると、試行テスト
年度もこの構成が踏
襲された。これは、出題の範囲が現代国語、古典Ⅰ甲とされ
文」の理解、
「文脈に即した読解力」、
「文全体の要旨の把握力」、
「熟
における現代文の出題内容は「漢字の書き取り能力 」、「論旨・構
年度試行テストから、現代国語3問題、古文、漢
ていることを踏まえ、かつ、高等学校における現代国語、古
……昭和
月)は次のような報告を行っている。
ト試験問題協議報告書 (国語 )」(『大学入試センター年報』昭和
ということだった。この点について「共通1次学力試験試行テス
題(
通一次試験へのカウントダウンを開始する。
120
典Ⅰ甲の履修状況が、現代国語は標準単位7単位、古典Ⅰ甲
55
3
られた二百点満点を現代文、古文、漢文でどのように配分するか
ところで、共通一次試験が導入されるまでに四回にわたって実
51
40
9
語についての正確な知識」、
「接続詞」の選択 、
「文学的鑑賞力」、
「基
54
54
は標準単位2単位となっている点に即応して、比較的に現代
52
51
学の入学試験と大差ない形式だったことがわかる。要するに、こ
礎的な文学史の知識」などきわめて広範囲に及んでおり、私立大
うな設問となることは避けねばなるまい。これは問題文の選定が
も必要であるが、しかしその反面小説読解の本質から逸脱するよ
文学的表現の機微について読解力・鑑賞力を見る設問を作ること
部分を採用することもあるのはやむをえないことであろう。また
適切であるかどうかにかかわる問題であろう」という意見を添え
に記されている項目を忠実に反映するために、論理的思考力から
鑑賞力、語彙力、知識に至るまできわめて幅広い領域を薄く広く
いるのかはわからないが、ともかく、試行テストによって得られ
ている。ここでいう「小説読解の本質」なるものが何を意味して
の段階で構想されていた共通一次試験の現代文は、学習指導要領
題に留意すべき点」に関して 、「小問の選択肢の中、正解一つにの
影響力を及ぼすことになる。具体的にいえば、一二〇分という試
たデータは昭和五十四年度以降の共通一次試験のあり方に大きな
網羅する内容だったのである。ちなみに、同報告では「今後の出
などの点差を与える方が、より合理
章」は出されなくなる。小説などの場合、ある程度の分量がない
験時間のなかで読解できる分量が見極められ 、「あまりに長大な文
応じて、たとえば1、0、
み点を与え、他はすべて0点としたが、これは正解への近似度に
的であろう」という指摘がなされているが、果たして現代文の答
とひとつのエピソードを完結できない場合が多いが、説明用のリ
ード文などを用いることでその困難を回避するようになるのであ
当初は全体の三分の一近くがこの形式だったが、正解を考える必
る。また、空欄補充問題についても、共通一次試験が実施された
要がなく 、「客観テストの設問としては最も作りやすいから 」(「共
こうした現代文の出題内容の広範囲化を牽制するかのように、
通一次シリーズ
月・旺文社)出題してい
書(国語)」では、「まとめ―今後留意すべき問題点」として、多
年
くの設問数が必要とされたことで「設問のための設問を無理に作
るに過ぎないのではないかという批判が相次ぎ、その後は徐々に
こうした動きのなかでも特に顕著な傾向をみせたのが小説であ
国語」昭和
成した」きらいがあったこと 、「空欄補充式の設問が多すぎる」こ
文や漢文に委ねるかたちで現代文からはほとんど姿を消していく。
減少していくことになる。漢字を除く知識問題にいたっては、古
意見を付帯し、特に小説に関して「小説の文章を問題文として選
棲み分けがなされていたが、たとえ「文学的表現の機微」を問う
が置かれ、評論で問うことができない領域を小説が補う、という
問題とは必ずしもかかわりを持たない場面やあるまとまりのある
る。従来の出題では特に「文学的表現の機微」や「鑑賞」に力点
7
題や骨格、登場人物の性格やその人生の推移など作品の本質的な
53
定するに際しては、作品の一部分を用いるために、作品全体の主
傾向と対策
な、あまりに長大な文章」を問題文としないことが大切だという
となどが指摘されている。また「限られた時間内での読解が無理
さきに引用した「共通1次学力試験試行テスト試験問題協議報告
ともなく終わっている。
げかけるこの提案は、残念ながらその後、発展的に議論されるこ
えはたったひとつに絞りきれるものなのだろうかという示唆を投
-1
問われている内容を裏付ける表現があるはずだ……といった具合
や登場人物の心情表現に関わる部分であろうと、本文のどこかに
最も重視されていた「鑑賞力」が切り捨てられ、たとえ情景描写
ようになる。こうして、かつては現代文を解くための能力として
表現を探し、それを根拠として正解を導きだすことが求められる
とはせず、評論と同様、本文のどこかに同義あるいは言い換えの
場合でも、その根拠を解答者の感受性や鑑賞力に求めるようなこ
困難になったと語っている。五教科七科目におよぶ試験科目が義
ますます激化して高校における正常な授業カリキュラムの遂行が
諭は口を揃えるように、共通一次試験の導入によって受験戦争が
って」という座談会を行っているが、そこに参加した都立高校教
改革と共通一次試験をめぐる特集を組み 、「今年の大学入試を終わ
(昭和 年 月)は入試
刻だった。たとえば、雑誌「日本の科学者」
試験対策の二元化が高等学校の現場に与えた影響はきわめて深
務付けられることによる受験生の負担増、二次試験や私立大学対
策と両立することの難しさ、マークシート方式になじまないジャ
に、評論と同じ方法で解くことが求められるようになるのである。
い受験生が増えるのではないかという危惧。高等学校の現場から
深くものを考えたり柔軟な思考力を発揮したりすることができな
か測れない」マークシート方式の試験に順応することによって、
トに対応する勉強法を迫られることになる。また、各国公立大学
る。また、直接的な議論には及んでいないが、発言の端々には、
の声には、文部省の教育政策そのものへの不信がありありと窺え
生の得点データを基にした分析やランク付けが行われるようにな
全国一律でマークシート方式の試験を実施することによって受験
二次試験を記述重視にシフトさせ、場合によっては小論文などに
振り替えて総合的な国語力を見極める策をうちだす。こうして、
漂っている 。そこには、やがて社会問題となる学校離れへの懸念、
すなわち、マークシート方式の試験で高い得点をとるためのテク
り、予備校を中心とする「受験産業」が台頭することへの危惧が
部・学科ごとの合格ラインと自己採点を照らし合わせて、あらためて志望校
ニックや勉強法をわかりやすく指南してくれる「受験産業」の存
勉強し、志望校が決定した段階(共通一次試験導入当時は、共通一次試
を決定し直して二次試験に臨むかたちだった)で記述・論述型の試験対
わせていくという問題が先取りされているのである。
在が、高等学校の教師や授業内容に対する生徒たちの信頼を損な
こうした批判はマスコミや有識者の間でも沸騰する。なかでも
ート型と記述・論述型ではまったく違った勉強法が必要になるの
である。
策に切り替えるスタイルが一般化する。同じ科目でも、マークシ
験の出願時に志望校二校を選んで受験し、予備校などが予測する各大学・学
国公立大学の現代文対策は、共通一次試験までは客観型を中心に
もマークシートでは判別できない論述力を問うため、独自に行う
共通一次試験が導入されたことによって、受験生はマークシー
ンルが教科書の記述から消えていくことへの懸念、「特定の能力し
8
4
54
反対論の急先鋒としていち早く論評を発表したのが政治学者の小
日、
が生じることを予言する。
それが的中したかどうかを簡単に判断することはできないが、
月
室直樹である。小室は「共通一次試験は必ず失敗する(上・中・下)」
日、
験が、教育問題のみならず、社会構造のあり方にまで影響を与え
月
ともかく、共通一次としてシステム化された国公立大学の入学試
年
日・毎日新聞社)に
(「エコノミスト」昭和
おいて、この新制度がたいした議論も経ないまま文部省によって
く背景には、人々を能力別に序列化・階層化し、それを秩序立て
いた日本において共通一次試験のようなスタイルが導入されてい
ていくことで社会の安定・繁栄を勝ち取ろうとする考え方が張り
ぼすこと、すべての受験生に対してこれまで以上の負担をかける
ってそれに適応できない生徒たちを排除し、結果的に「条件反射
共通一次を眼下に見下ろすことになろう。こんなものをあまり重
に対しては否定的な意見が圧倒的である。その典型的なパターン
コメントを読むと、現代文の能力をマークシートで判別すること
を示したのだろうか。当時の受験雑誌などに登場する現場教師の
ところで、こうした動きに対して高校の現場はどのような反応
巡らされている。
視しないのが一流校だとする風潮が一般化することだろう。②そ
言い回しであろう。また、それと結びつくかたちで、解答を導く
のひとつは「正誤判断に偶然性が入り込むからよくない」という
までの過程を評価することができない以上、受験生の総合的能力
だろう 。各大学の特長はますます希薄となり、囚人番号のように、
共通一次第何位の大学として取り扱われることになることだろう。
れる。こうした批判の根幹をなしているのは、教育はひとりひと
を正しく評価することができない、という批判も常套的に用いら
りの個性や可能性を尊重しなければならないという原理主義であ
れ、授業内容は、親会社が実施する模試のための準備が中心とな
ることだろう。④かくて受験戦争は、最終戦争的様相をおび、生
うしたひとりひとりの個性や可能性を伸張させる役割があると考
り、言葉によって表現された世界を学ぶ現代文という科目にはそ
える人文主義である。たとえば、前述の雑誌「日本の科学者」に
徒の人間的せん滅はいたるところで展開され、人間疎外教育は完
況)は全社会をおおいつくすことだろう。……といった「副作用」
全なものとなり、アノミー(混とんとしてどうしていいかわからない状
③高等学校は巨大受験産業の下請けとなり、それぞれに系列化さ
それでいて十把ひとからげに二、三流校としてランクされること
れ以外の国公立大学は、共通一次によって直線的に序列化され、
最終的には、①超一流校は、従来どおりの特権的地位に安住し、
無思考型人間」を大量生産していくことなどを指摘する。そして
ようになること、高等教育のあり方を均一化させていくことによ
る改革であったことは事実だろうし、そうしたなかで噴出した様
13
押しきられたことに怒りをあらわにし、この制度が大学間格差や
6
いない。本論が冒頭で指摘したように、高度経済成長期を迎えて
2
々な批判や意見がほとんど黙殺されたまま推進されたことも間違
30
をはじめとするごく一部の教育機関の特権性を助長する作用を及
1
受験生の能力格差に関する階層機能構造を強めること、東京大学
54
高の古宇田栄子教諭が執筆しているが、そこには 、「客観テストと
は「入試改革と共通一次」という批評欄があり、茨城県立土浦二
よく進める技術を教えざるをえないことは紛れもない事実だから
てその違いを見極めつつ、明らかな間違いを含んだ選択肢を消去
く場合には、本文の内容を深く考えるよりも、各選択肢を比較し
である。また、マークシート方式にはそもそも限界があり、「創造
していくやり方が有効だし、受験指導の場においてもそれを効率
力や文章表現力」を問うことができないという指摘もその通りで
ものが多くなった。すでに隠されている正解をいかにしてさがし
あてるかというパズル的思考方法は、このための訓練をしていく
あろう。この時期、各大学は個別に実施する二次試験に小論文を
した結果、すべて選択式で、各設問とも本文の空欄を埋めさせる
せてしまうのではないだろうか。論理的思考力や理解力、豊かな
ならば、生徒の思考力を伸長させるどころか、画一的なものにさ
導入したり記述問題を工夫したりして、共通一次試験では問うこ
れは、マークシート方式というものが国語の総合的な力を判定す
とのできない領域をカバーするための試行錯誤をはじめるが、そ
でもたいへんな量である点も考えなければならない。/内容的に
対策だったはずである。
るうえで決定的な欠陥をもっているという自覚のうえになされた
もさけたいと思うテスト形式である。また問題文が長く読むだけ
はいずれも部分的な読解力理解力を問うものが多く、創造力や文
情感を養い、人間形成に寄与したいとしている国語の分野では最
章表現力を問題にできないのも今回の共通一次テストの大きな欠
いるのは、近年の入試問題に一〇〇字から二〇〇字の論述・記述
たとえば、昭和五十四年十一月の「蛍雪時代」には国立大学の
形式の設問が増えていること、「問題文全体からみた筆者の考え、
陥のひとつであろう。文学史の問題に至っては本文と全く関係な
の内容そのものを拘束していく 。それは恐しいほどの現実である。
は日毎に進み、実質的な指導要領として、現場の教育課程や授業
心の推移、小説などであれば作中人物の気持ちの変化や、人物像
する分析が掲載されている。ここで顕著な特徴として紹介されて
したがってコンピュータにかけることのできるかたよった問題(基
題の具体的なバリエーションとして、①書き始めの言葉や特定語
などを問う設問が極めて多い」ことなどである。また、新傾向問
二次試験・私立大学入試対策特集として現代文の新傾向問題に関
万人以上の受験生が評価され、高校が序列化されていくと
うな出題法である。/現場の雰囲気からすれば、共通一次の分析
準)で
く、単に同時代人を選択するという文学史の丸暗記が強制されそ
いうことは、共通一次がいかに反教育的なものであるかを語って
句の使用などに関して細かな条件を与え、その条件のもとで要旨
説明させたり、わざと中断した問題文の結末を想像して書かせた
をまとめさせる設問、②文中の特異な表現について、その効果を
りして、問題文に表れた「筆者の考え」を探らせる設問、③作者
あらかじめ与えられた選択肢のなかから正解を探す客観テスト
はよくわかる。実際、マークシート方式で出題された現代文を解
では、生徒が「パズル的思考方法」をするようになるという批判
いるといえよう」というコメントが記されている。
30
の心情の推移に沿って段落を分けさせ、そのうえで全体の要旨を
ていくかという視点を喪失したまま暴走しはじめる。
で指導される現代文をどのようにして受験制度のなかに位置づけ
文章全体の構成を考えさせる設問、④長文全体を読解したあとで
いた夜久正雄である。この人物は、
「問題に対して解答を考へ出す、
(「亜細亜大学教養部紀要」昭和 年 月)という論文を書
ついて―」
その典型が「共通一次試験の問題点― マークシート方式等に
まとめたり、あらかじめ示しておいた各段落の構成図の一部を空
なければ設問に答えられないようにしたり、作者の主張そのもの
判別する力は、創造力とは異なるもので、かういふ力を助長する
といふのが創造力であるが、与へられたいくつかの解答の正否を
白にして、そこにあてはまる文章を書かせたりといった具合に、
作者の考えを参考にして、与えられたテーマに沿った作文を書か
ではなく、その主張が生じた原因を明らかにせよと問う設問、⑤
推移、人物像の描かれ方を問う設問、などがあげられている。こ
の思考力、表現力を試そうとする設問、⑥作中人物の考えや心の
せたり、問題文中の詩に対する批評文を書かせたりして、解答者
いふのは、正直である。この正直さを奪ふのが、国で行ふ共通一
、、、、、
あらさがしをすることにならう
」、「わからないから書かない、と
ことからは、自力で生きてゆかうとする力は生れない。お互ひの
気が蔓延する。人が答を出してくれないと動けないといふ神経性
い成績をとらうとして勉強するとマークシート中毒とでもいふ病
めにはどうすればいいかという立場から考案されたものであり、
とに卓越した若者が増大すると社会に悪しき風潮が蔓延する、と
の病気である」などと指摘し、マークシート方式の問題を解くこ
次試験といふコンピュータのお化けである 」、「かういふ試験でよ
としている。つまり、共通一次試験という欠陥品は、逆にそれを
いと動けないといふ神経性の病気」、といった表現を伴うことで、
のは、そうした主張が「正直さを奪う 」、「人が答を出してくれな
で警鐘を鳴らしている。だが、私たちが注意しなければならない
だが、負の要素を補うために何がなされたかという側面はほと
人間性のあり方や若者の頽廃と結びつけられてしまうことである。
いった根拠のない未来展望を描き、いかにもそれらしい言葉遣い
んど問題にされることなく見過ごされ、教育を語る言説において
深化発展させていく役割を果たしたといえるのである。
は、マークシート方式がいかに「論理的思考力や理解力、豊かな
たかも教育現場から発信される悲鳴であるかのように仕立てあげ
られ、社会全体のコンセンサスを形づくってしまう。入学試験は、
こうした短絡的な図式はマスコミにおける格好のネタとなり、あ
語力を測定することに関しての本質的な議論を回避したままもっ
別に生徒の精神性や人間性を測定するものではないし、本来その
情感を養い、人間形成に寄与」しないかという批判だけが常態化
ともらしい批判を展開できると錯覚した論者の言説は、教育現場
していく。マークシート方式の欠点だけをあげつらっていれば国
補うための工夫を促進させ、ある意味で入試現代文という科目を
明らかに共通一次試験では見極めることのできない領域を問おう
アしたうえで、できるかぎり生徒たちの力量を正確に測定するた
6
うした問題形式は、現代文という科目に与えられた諸条件をクリ
55
ようなものが客観的に測定できるはずもないのに、現代文はその
次シリーズ
なスタンスをとっていることである。たとえば、前述の「共通一
(昭和 年 月)は、その総論部分から「共
傾向と対策」
育成を担っていると錯覚させてしまうような妄想がこうした言説
通テスト(正式には国公立大学共通第一次学力試験)の最大のねらいは、
急成長を遂げたのが、受験全般に関する情報提供を行い、通信添
とが要求されるわけで、共通テストでは、高校生として、高等学
おける基礎的かつ一般的な学習をほぼ完全にマスターしているこ
定することにある。大学へ進学するためには、高等学校の段階に
わけである」と書き出され 、「問題作成の過程」という項目では、
校の全教科を、きちんと真面目に学習したかどうかがためされる
傾向と対策」を立ち上
げ、毎年内容を更新することで継続的な売り上げを確保できる販
「共通テストを行う機関は「大学入試センター」で、ここには各
月)では二年間に蓄積されたデータをもとに、試
科目中、英語A・B、地理A・Bはそれぞれ1科目として
売スタイルをつくる。駿台高等予備学校、代々木ゼミナール、河
年
18
受験生の側から見るならば、平素の授業を真面目に履習していれ
実態に即してテストするという主旨に十分かなっており、これを
くる問題であるから、高校生の基礎学力を、そのカリキュラムの
検討を加えることになっている。このような過程を経て作られて
会を設けて、共通テスト実施後にも、問題の内容について綿密な
出題がないよう考慮がはらわれており、さらにまた、試験問題部
表者によって、連絡協議会が構成され、高校の実情にそぐわない
トの客観、公平を期するため、センター関係者と高等学校側の代
は2~3年、毎年二分の一か三分の一を交替にする。また、テス
で組織されている。委員には国立大学教官などがあてられ、任期
の出題・選定委員 (問題を作成する人と、使用する問題を選ぶ人は別)
まとめる)ごとに、問題作成部会が置かれ、それぞれ約十五人程度
の科目(全
種の委員会が設けられている。その一つの教科専門委員会には、
傾向と対策」の「国語」
で、本番の自己採点を集計して合否判定予想を行うシステムを立
の版 (昭和
もなく文部省の管轄下にある機関である)の説明を代弁・広報するよう
る言説の多くが、総論としては大学入試センター(それはいうまで
だが、ここで注目したいのは、そうした受験業界から発信され
ている。
ータ収集こそが合格の秘訣であるかのように仕向ける言説が増え
校合格のボーダーラインなどが新たに加わり、客観的な情報やデ
験までのスケジュール、問題作成の過程、出題範囲・程度、志望
6
問題の分析と出題傾向の予想に終始しているのに対して、翌々年
と新しい入試のどこが違うのかを説明する以外、ほとんどが過去
をみても、昭和五十三年六月の刊行開始当初は、これまでの入試
ちあげようとする 。「共通一次シリーズ
合塾などの大手予備校も、大々的な全国模擬試験を実施する一方
文社は、いちはやく「共通一次シリーズ
タを蓄積する大手予備校だった。たとえば、前者の代表である旺
国公立大学入学志願者の高等学校段階における学習の達成度を判
6
削などにも進出していた出版業界であり、過去の膨大な受験デー
こうした教育現場の混乱をよそに共通一次試験の導入によって
を媒介にして拡散していく。
55
16
55
題範囲・程度」の項目でも 、
「共通テストは、学習の到達度を見る
ば答えられる問題であるということになる」と記される。また、
「出
に同じ言い回しが何度も繰り返される。共通一次試験の利点は短
増してたいせつであるということを心得てほしい」といった具合
を一つ一つ、真剣に、そして的確に習得していくことが、何にも
で、しかも基礎的事項を中心とする設問といえる。したがってそ
校とも対応した形式だと述べている箇所などをみると、共通一次
ころにあることをアピールし、挙句の果てには、私立大学の有力
思考力を、広い範囲にわたって数多く試験することができる」と
式が定着すると、それに戸惑う受験生の心をつかむために一部の
予備校講師やライターが解答のコツや裏技を伝授するという触れ
試験を過剰に持ち上げているとさえ思えてくる。マークシート方
ス方式で行われる。これは、解答用紙の数字やアイウエオ、アル
択肢だけで正解を判別してみせたり、本文の文脈に法則性を見い
込みの参考書を出版するようになり、例えば、本文を読まずに選
の学習以外にはないと銘記しておきたい」と繰り返され、「出題形
で採点処理するものである。この客観テストの長所は、大量の答
多く試験することができるという長所がある。/私立大学でも、
最大の理由は、もちろん、共通一次試験が膨大かつ安定的な顧客
受験業界が共通一次試験のメリットを積極的にアナウンスする
だそうとしたりするテクニック論が普及するが、受験業界全体と
早大・慶大・上智大・学習院大・青山学院大・南山大・立命館
を掘り起こしてくれるからである。学習そのものは高校の授業を
案の採点を短時間内に処理できるとか、試験官の主観が入らない
大・関西学院大・関西大など、この方式を導入する大学が五〇以
の収集も大事だという棲み分けをはかりつつ、大学入試センター
基本にすればいいが、それと同時に「傾向と対策」に関する情報
歩調を合わせていこうとする動きが活発になる。
年以降はさらにふえることが予測される。(中略)
しては、マークシート方式の試験を歓迎し、大学入試センターと
上にのぼり、
って、基礎的、基本的な知識や思考力を、広い範囲にわたって数
客観テストだからやさしいとか、うろ覚えでも何とかなるだろう
から公平無私であるなどと言われるが、そうした利点とはまた違
ファベットなどを塗りつぶさせ、光学マークシート読み取り装置
式」に関する説明では 、「共通テストの解答は、すべてマークセン
努めるべきで、日常の予習・復習を重視した高等学校の授業中心
時間での処理能力や客観性だけでなく「基礎的、基本的な知識や
年・
54
年入試の内容からみて、各科目とも履習した全単元からの出題
というねらいや、 年以降四年間行われた試行テストおよび
49
の対応策としては、全教科にわたって基礎力の充実をはかるよう
55
現場からもありがたがられ、自分たちの情報で受験生を包囲する
ことができるからである。また、一種類の「傾向と対策」シリー
の広報としての役割を演じれば、文部省からも大学からも高校の
が採用されており、単なる○×を判別する「まぐれあたり」を期
ズで大量の顧客を獲得できるうえ、同じフォーマットで情報の部
という安易な考えは誤りもはなはだしい。出題にはかなりのくふ
待してはならない。日常の地道な学習を通して、基礎的な事がら
うが凝らされていて、組合せによる解答やダブルマーク方式など
56
てくれるのだから、出版物としてのうまみは大きい。
分修正さえすれば顧客が毎年のように新しいバージョンを購入し
がら学力を高めていく努力が求められるようになるわけだが、な
られるようになり、いわば、それを自分に見合うように処理しな
力や語彙の知識の鍛錬よりも試験の形式にうまく順応することが
求められるようになったことで、現代文対策の中心は、教科書を
かでも大きく変わったのは現代文の学習法そのものである。読解
験でやっていけるのではないかという風潮が後押ししていること
なり過去問題や模擬問題に取り組み、それを模範解答と照らし合
読んだり参考書で基礎的な事項を学んだりするやり方から、いき
また、この時期は共通一次試験だけでなく、私立大学でもマー
傾向と対策」にも 、「私
クシート方式を採用するところが増えており、国語も客観型の試
立大学中、いわゆる総合大学の文系の学部では、大量の受験生を
も否めない。前述の「共通一次シリーズ
いく。易しい練習問題から難易度の高い問題にステップアップし
わせる過程で自分がなぜ間違ったのかを考えるやり方に転換して
ていくスタイルが消え、入学試験と同じレベルの問題を何度も反
短時日でさばくため、客観色の強い出題が主流となっている。採
復することで出題のパターンに慣れ、解き方を会得していくやり
点をコンピュータでやるためマークシート式を採用するところも、
学習院大、法政大、青山学院大、慶大‐法、国学院大、駒沢大、
方が一般化するのである。『入試現代文問題の正解法』(昭和
年
南大 、京都産大、関西大、南山大など枚挙にいとまがない。また、
上智大、早大‐商、立教大、愛知大、日本女大、関西学院大、甲
マークシート式をとらないまでも、従来はある程度の記述問題を
/古典なら、重要古語を覚えるとか、助詞・助動詞の使い方や敬
諸君にとって、現代国語ほど対策のたてにくい科目はないようだ。
月・三省堂)を書いた河村清一郎は同書の「はしがき」で、
「受験生
ども、現代国語の場合は、それが、何をどこから手をつけてよい
語法に習熟するとか、学習上のポイントがはっきりしているけれ
かわからないという人が多い 。(中略) 他の科目なら、まず、教科
ート式試験の導入は国公立大学のみならず私立大学をも巻き込ん
した流れに抵抗するように論述・記述色を重視して小論文や作文を課したり
方法がふつうだが、現代国語に関する限り、最初から入試問題を
書をしっかり勉強して、それから問題集と取り組んでみるという
解いてみて力をつけていくのがもっとも効果的であろう。設問形
読解問題のなかに要約・説明・鑑賞問題を含めて記述力を見極めたりする大
偏差値競争に埋没していくことを恐れた大学が、他大学との差別化を図って
文そのものを熟読することによって、思想や感情を豊かにするこ
式に慣れることによって考え方、解き方を身につける一方、問題
とができる」と述べているが、こうした勉強法はやがて広く推奨
い私立大学はのきなみマークシート化を進めている)
。
受験業界の躍進にともなって、生徒たちには様々な情報が届け
独自色を鮮明にするための戦略であって、国公立大学と併願する受験生が多
学が増えていることも指摘されている。だが、それはあくまでも、画一的な
で時代の趨勢となっていくのである(もちろん、この分析では、そう
合大学系の客観式化の傾向は圧倒的といえる」とあり、マークシ
11
も含めていた早大‐法がこのところオール客観式になるなど、総
53
ならないという考え方、あるいは、授業のなかで教科書を熟読し
常的に本に親しみ、読書を通じて教養を身につけていかなければ
され受験生の常識になっていく。現代文の力をつけるためには日
これらをすべて実現しようとすると必ずどこかで矛盾が生じるこ
外部からの干渉を最小限に抑えられること、の三点があげられ、
となく機会が平等に与えられること 、(3)子どもの教育に関して
かされること 、(2 )「生まれ」や「育ち」による制約をうけるこ
かから見えてくるのは、子どもの成育環境において伝達される文
とが論理的に説明されていたはずである。そして、その矛盾のな
て教師の説明に耳を傾けることが大切だという考え方は、このと
きひとつの凋落を強いられることになる。この時期の受験問題集
化の違い、すなわち、階層化された文化資本の継承という問題だ
に目を通していると 、
「出題者の狙い」という表現が頻出し、出題
者がその設問によって何を要求しようとしているのかを理解する
共通一次試験と現代文との関係をめぐる諸言説が浮き彫りにし
った。
ているが、文章の書き手と読み手である自分の間にもうひとり出
ことが入試現代文を解くためのカギになるという説明が加えられ
っている。(1)に対応するのは、偶然性の要素を入りこまないよ
うにして、受験生が本来もっている「能力」を正確かつ平等に測
た問題は、実はこの「トリレンマ」をちょうど裏返した構造にな
を決定的に変えたであろうことは想像に難くない。いわゆる理解
らなければならないという考え方である 。(2)に対応するのは、
題者という存在がおり、読み手は自らを出題者の意図に重ね合わ
力は、このときを境に、文章を理解する力とその文章を通して問
画一的な基準をもちこんで受験生をピラミッド型に序列化しては
せていかなければならないという考え方が生徒のリテラシー能力
われていることを理解する力に分裂するのである。
がものごとを深く考え、豊かな人間性を育んでいくためには、外
しなければならないという考え方である。この三つの条件は、ど
部からの情報や解法のテクニックがものをいうような方式を排除
ならないという考え方である。(3)に対応するのは、受験生自身
5
本稿では、昭和三十年代の高度経済成長期に頂点を迎える受験
とつひとつはもっともらしい説得力をもっている。だが、たとえ
れも共通一次試験をめぐってさかんに議論された問題であり、ひ
ば、受験生がどれくらい深くものごとを考えているかという「能
った共通一次試験制度の立ちあげまでを射程に収めながら入試現
代文をめぐる諸問題を考察してきたが、ここでもう一度、冒頭に
いうことが不可能であることからも明らかなように、これらは、
力」を正確に測定しつつ画一的な基準はもちこまない……などと
戦争を発端とし、それを回避する方策のひとつとして導入が決ま
たい。そこでは、自由主義体制のもとで教育の平等を実現してい
それを同時に実現しようとすると必ず破綻する仕組みになってい
記したフィッシュキンの「トリレンマ」という概念を思い起こし
くために必要な要素として 、
(1)その人の「能力」が最大限に生
にされるかしかないのである。
そういうものだといったニヒリズムに陥って矛盾のなかに宙づり
たすら実現不可能な原理主義を説き続けるか、教育などそもそも
る。残されているのは、砂上の楼閣のうえに高い理想を掲げ、ひ
力・理解度との間に明確な相関性を見いだすことが困難になるの
ゲッシングによる揺らぎが大きく作用するため、試験の得点と学
さらに思考・推理を働かせる中学力層である。そこにはランダム
る。だが、問題なのは選択肢をある程度まで絞り込んだうえで、
である。同論文では、センター試験の得点分布を指標として 、「
点の学生と
点の者が学力がある
とは限らず 」、「別のファクターを顧慮に入れた選抜方法」が必要
点と偶然性の相関関係が受験者の学力層によって大きく違ってい
の試験問題の出題形式に関する比較研究」(「大学入試センター研究紀
また、鈴木規夫・山田文康・池田輝政・赤木愛知による「国語
月)によれば、マークシート方式の設問を記述式に
要」平成
の試験ではマーク解答・記述解答間にも相関が見られた」ということであ
に変換した場合には、そのやり方に応じて両形式の正答率に差が
設問に多少のヒントを加えたり解答方法を変更したりして記述式
における誤答の紛らわしさの程度、によって生じるし、選択式の
説明する文(正答文)が同一段落にあるかどうか、②選択式の設問
る)。つまり、少なくとも上位層の受験生にとってはマークシート
の位置などを調節することで記述式との誤差を少なくすることも
可能だというわけである(これらは大学入試センターに所属する研究者
でるという。つまり、本文の難易度、選択肢の紛らわしさ、設問
ぶ行動」をとるため、まぐれ当たりの恩恵を受ける割合が低くな
が出した結論である。現行のセンター試験の精度と信用性を高めるために行
なるということである。また、逆に低学力層の場合は、選択肢を
り、結果的に受験生間の学力と得点分布に関する誤差が少なくな
絞りこんだあとで「等確率で選択肢から正解と思われる解答を選
であろうと記述式であろうと関係なく、学力に応じた得点分布に
変換した場合、両形式間の正答率の差異は、①指示内容とそれを
4
ことながら、設問をよく理解して解いている高学力層では「ラン
3
ダムゲッシング(当て推量)」が少なくなる(同論文によると、「上位校
年
選択肢を絞り込んでいく力は学力と相関関係をもつため、当然の
ることが指摘されている。具体的にいうと、解答を決定するまで
うことである。
選抜方法」を加えれば実力の誤差を少なくすることができるとい
点の学生を選抜するときに、
とだから偶然性が生じるといった単純なものではないことがわか
性が作用する割合が「能力」層ごとに異なっており、マークシー
問題というのは、受験生全体に作用するものではなく、中位層に
になると指摘する。つまり、マークシート方式における偶然性の
ところで、最近の研究では、共通一次試験の成績に関して偶然
よる共同研究「筆記解答方式とマークシート解答方式により測定
っている。櫻井捷海・藤井光昭・岩坪秀一・伊藤圭・松田稔樹に
65
生じる問題なのであり、それも「別のファクターを顧慮に入れた
70
(「大学入試研究ジャーナル」第 号、平成 年 月)
された学力の比較」
3
み合わせて受験生の解答行動を追跡したものだが、そこでは、得
15
70
がそれである。この研究はセンター試験のデータ解析と実験を組
13
いうのも事実である)
。
ないという結論を出すことは考えられない。だが一方で、そうした立場の問
われている研究である以上、センター試験では実力差を見極めることができ
主義への過度な期待であろう。
う、捻じ曲げられた平等意識が結びついたところに生まれる客観
は明確な基準のもとで「正しく」評価されなければならないとい
いう 、「読む」という行為についての素朴実在論と、受験生の能力
すべての設問をマークシートによる記号として答え、各設問に
題があるからといって必ずしもデータの信憑性が損なわれるわけではないと
こうしたデータを総合すると、共通一次試験をはじめとする入
ともと、現代文に関しては非常に折り合いが悪いものだった。な
与えられた点数の合計を実力とみなす共通一次試験の理念は、も
ぜなら、学校現場で教師が教える現代文は、文章の書き手(語り手
の議論には 、いつも、矛盾を隠蔽したまま展開される理想主義や、
も含む)と読者、あるいは、教師と生徒が「読む」という行為を通
試問題のマークシート化の動きが現代文に及ぼした影響について
煽るための悲壮な未来展望がつきまとっていることに気がつく。
科学的根拠のないところに生じるアレルギー反応や、マスコミを
理解を他者の認識を経由させて再び追認するような動的な体験と
みなすことによって成立しているはずであり、文章の意味はつね
して対話的な関係性を構築し、自身のなかに沸き起こった感動や
れるわけでもなく、教育の原理主義を抽象的に展開するような言
に固定化されることなく開かれているという共通認識のうえに築
実際には受験者の学力層に応じて能力判定の信頼性が異なってい
説がいまだに幅をきかせているのが現状なのである。また、共通
に、マークシートは受験生の個性を抑圧し、深くものを考えよう
かれているからである。また、先述の高校教諭が語っていたよう
るにもかかわらず、学力層があるという前提に立った議論がなさ
シート形式が、現在のセンター試験に受け継がれ、あわせて四半
だが、高度経済成長期における競争社会の激化は、それぞれの
としない機械型人間を育成するといったイメージも根強くあった。
一次試験が始動した当時、これほど批判にさらされていたマーク
うした批判がついぞなされず、むしろ、多くの私立大学をも巻き
世紀以上にわたって実施されているにもかかわらず、現在ではこ
化し、そうした階層性の根幹を支える大学受験の場においても様
々な矛盾をあらわにしていた。そうした「トリレンマ」状態を抜
人間があらかじめ与えられている文化資本にもとづく階層性を強
様々な問題が「トリレンマ」状態に絡まり、あたかも教育の荒
けだし、人々の不平不満をいっきに解消するための手段として持
込みながら増幅し続けている事実を考えるとき、こうした批判や
廃を招く諸悪の根源のようにいわれていた共通一次試験の現代文
う幻想である。
ちこまれたのが、世の中には客観的な真実というものがあるとい
懸念はどこにいってしまったのだろうという思いがよぎる。
を今日にまで生き延びさせてきた要因はなんだったのだろうか。
この客観主義の特徴は、まるでそれが世の中を覆っている摂理
― ひとことでいってしまえば、それは、対象となる文章を「正
しく」読みとっていけば必ず「正しい」理解が得られるはずだと
入学試験で明らかにできるのは、しょせん限定的な能力でしかな
ぎないという囁き方をすることである。大学受験に関していえば、
であるかのようにいうのではなく、あくまでも部分的なものに過
ど望むべくもないであろう」と批判する。原文の作者は、恐らく、
なければ、何よりも明晰さを要請される入試の公正さや客観性な
問題の場合においても歴史と整合的な解釈がなされるというので
という言葉がもっている歴史的意味合いを説いたうえで、「国語の
「免罪符」や「踏み絵」を「贖罪の証し」や自己を変身させるた
く、それができなかったからといって人間として何らかの否定的
な評価を与えられるわけではない、というかたちで人々を諦めさ
のであろうが、そうした作者の錯誤を出題者までもが鵜呑みにし
て、原文の作者と同じ錯誤を繰り返すという愚行をしていると難
めの「スプリング・ボード」という意味でムード的に使っている
じる。そして、
る拘束性は、他の分野よりもさらに屈折した自縄自縛的な構造を
もっている。 ― この問題は、同時代の様々な言説を通して説明
せるのである。また、この客観主義幻想が現代文に対して作用す
することもできるが、ここではあえて実際の入試問題に関して寄
せられたある批評をとりあげてみたい。
「事実」の意味をひとびとに伝え、またその意味が持続され
「既成の秩序」の維持を求めてやまない社会は、あくまでも
ることを恐れる社会でもある。したがってそのような「事実」
昭和五十五年度の共通一次本試験・現代文[第Ⅱ問]は光瀬龍
と、それに伴う「言葉」の意味は能う限り歪曲され、また歪
「ロン先生の虫眼鏡」という小説を出題している。この小説は、
蝶の採集に熱中して立派な標本を作ることに専心していた主人公
曲に任せて放置されるのである。/そして状況の放置が長び
くとき、大衆社会だけでなく、何と作家や大学教師にさえ「そ
きて、蝶のことをよく知るには蝶とともに野山で自在に遊ぶこと
れが国語だ」と錯覚されて入試問題にまで堂々と出題される、
の少年が、やがて、自分の行為が大変な罪悪であるように思えて
標本に火をつけて燃やすという場面があり 、
「それが私の免罪符で
というところが、今年の共通一次の「みどころ」なのである。
が大事だと気づくというストーリーであり、その最後には、蝶の
あり、踏み絵でもあった」という一節が添えられている。出題者
が、この設問では「貴重な標本をあえて燃やすことで自分の間違
まった杜撰さについては、完全なミスとしかいいようがない。コ
通一次試験の場において 、「作家の錯誤」がそのまま出題されてし
と結論づける。何十万人という受験生がその将来をかけて臨む共
はこの部分に傍線を引いて、このときの少年の気持ちを問うのだ
いを認め、またそのことを本当に反省しているかどうかを自分で
月)の「現代の眼」というコラム(無記
ラムの執筆者が求めているのも、今後、同じようなミスをするこ
年
誌「現代の眼 」(昭和
となく厳正な問題作りをして欲しいということだろう。だが、こ
3
確かめたかった」という選択肢が正解とされているのである。雑
名)は、それを「重大な勘違い」だとして、
「免罪符」や「踏み絵」
55
こで注目したいのは、それを単純なミスではなく 、「言葉」の意味
金看板として登場するのである。
成の秩序」を維持しようとする側ではなく、それを批判する側の
秩序を維持しようとする側の論理と、社会が硬直していくことへ
「客観」的な真実があるかのように見せかけることで階層社会の
を作りだす側(それは作家であったり問題を作成する大学教師であったり
成の秩序」を維持するために自分たちに都合のいい「事実」を振
の懸念からそれを批判する側が用いる「客観」性。この時代の入
する) の「歪曲」とみなしている点である。つまりそこには 、
「既
りまく権力者と、その「意味」を一方的に伝えられる大衆という
れに「客観」という幻想に過剰な期待をかけるような同床異夢の
試現代文をめぐる議論は、こうして、立場の異なる人々がそれぞ
そしてさらに興味深いのは、そうした共通一次試験のあり方を
構図が描かれ、現代文というものの凶器性が語られている。
議論がはじまってから四十年近くが経過した現在でも、いまだそ
なかで展開されている。そして、私たちは共通一次試験をめぐる
(立教大学文学部教授)
批判しようとする人間自身が 、「何よりも明晰さを要請される入試
の夢のなかに安住している。
の公正さや客観性」という表現を批判の根拠として用いている点
のように語られていた「客観」という言葉は、ここでむしろ 、「既
である。この時代、教育をめぐる多くの議論において諸悪の根源
LIM
林
Sang-min
相 珉
「二都物語」を跨ぎつつ ―
―股裂きの主体を生きる李礼仙・
特権的肉体論Ⅰ
Ⅰ
一九七四年十二月十三日朝、大阪市東成区の市立大成小学校
の講堂では「全校児童と教職員計六三〇名が参集する前」で次
のような「宣誓式」が行なわれている。
リ
名前を名のった「世にも不思議な 」「本名宣言」である。金一
勉によれば、いわゆる「本名を名のる運動」は一九六八年兵庫
県立尼崎工高で、朝鮮人と部落出身の生徒らが学園闘争を展開
して「部落民宣言」と「朝鮮人宣言」をした前例がある。しか
し一九七一年大阪市立中学校長会が「朝鮮人迷惑論」を趣旨と
する『外国人子弟の実体と問題点』と題する文書を公にしたの
が決定的な導火線となり、翌一九七二年に「教育労働者として
の朝鮮民族問題を捉え直す作業」を目的とし「大阪市外国教育
研究協議会」が設立されることになる。さらに一九七四年、大
、、、、、」
阪市教育委員会は朝鮮人の子供の名前を朝鮮語の「母国語読み
するため『人名仮名表記便覧』を作りあげ、各校に配布した。
そしてこのようなグループが日本全国に拡大、その延長線上に
右の「本名宣言」がある。姜尚中も『在日』(二〇〇四・三、講談
社)のなかで、早稲田大学在学中の一九七四年に韓国文化研究
会に所属し「「在日」同胞の家を一軒一軒訪問し、韓国名を名
ぼくは李という朝鮮人です。これからは朝鮮人であるこ
とに自信をもち、一人ひとりと話しあい、差別と闘い、
のるように呼びかけ」る「オルグ」をしたと書いている。
てあげるのが友情」だとする立場を「変態同情」として斥ける
語ろうとする金一勉の姿勢である。「朝鮮人であることを隠し
が持っているベクトルと「本名を名のる運動」を使って何かを
しかしここで注目したいのは運動史ではなく、運動それ自体
朝鮮人が日本人にとられてきた歴史や、言葉をとりもど
していきたいと思っています。そこでみんなの前でいい
リ
たいのです。これからは、朝鮮人も日本人も遊んでいる
金一勉の姿勢は、同書の中で「朝鮮出身であることを異常なま
(金
時であろうと、どんな時でも気軽に李と呼んでほしい。
一勉『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか』一九七八・五、三一書
り軽蔑している。そして「その見地から」、李礼仙を「日本名
「自己民族の劣等を自作自演」した「立派なもの」として皮肉
でに隠したり否定し」たとし、都はるみと岡田可愛を取り上げ、
房、二三七頁)
右は小学校「六年生の一少年が胸を張って」、自分の本当の
本人〟を志向することなく、朝鮮民族の血と文化を踏まえて生
いてないので原文の記事は未確認)という記事を引用し、
「〝擬似日
す」(『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか』、一四九頁、ただし初出が書
鮮人らしく生きろ〟と言われ、李礼仙の芸名を使い始めたんで
ち上げている。さらに「ある韓国人に〝おまえも朝鮮人なら朝
ではなく堂々と朝鮮名を名のった 」「例外中の例外」として持
は、「本名」ではなく、まさに「芸名」だったことである。さ
、、、、、
(リ
らに、それは朝鮮語の「母国語読み」でもなく日本語読み
は「朝鮮人なら朝鮮人らしく生きろ」と言われて使い始めたの
礼仙の心象を代弁しているものであったとしても、注意すべき
にはある強引さがある。金一勉が引用した記事がその当時の李
人による錯綜・語り直しとして捉えるにしても、金一勉の文脈
章からは明らかに違いが見られる。しかしこの違いを李礼仙本
子という通名で参加した李礼仙は、「何回かの公演のあと、一
しかし一九六三年から唐十郎が率いる「状況劇場」に星山初
しまう。ちなみに、俳優であり作家でもある息子の大鶴義丹は
っているだけで、短絡的に「朝鮮民族の血と文化」へと繋げて
レイセン) である。なのに金一勉は李礼仙が「朝鮮名」を名の
きている」
「優れた女性」として紹介している。
人前に自分も芸名をつかいたくなっ」たとし、次のように語っ
「想像」は出来ても、
「あえて自らの芸名を本来の韓国名「李」
とする行為の本当の意味を理解するのは難しい」(『昭和ギタン』
ている。
礼仙―字の感じも音も悪くないと、一ヶ月近く考えて決め
と思った。上の字は初に似ている礼にすることにした。李
母の名前が吉仙なので、吉はつかえなくても仙はつかえる
かないので、
いっそのこと韓国風の名前にしようと・・・・・・。
初子ではいかんせん色気がない。いろいろ考えたが思いつ
思い出し、日本姓よりも李にしようと決めた。けれども、
ではあまりないですね。何らかの形であったことはあったけど
う「編集部」の質問に対して、李礼仙は「すごい衝撃的な意味
ということで口惜しいとか、差別された経験については」とい
仙インタビュー」が掲載されている。その中で「韓国人である
の特集号になっているが、その中には「編集部」による「李礼
の「別冊新評」に注目してみよう。この号は一冊丸ごと唐十郎
ここで冒頭の「本名宣言」が行なわれた一九七四年の十月号
二〇〇五・十二、バジリコ、二十頁)と書いている。
た。まわりの反応も悪くなかった。その後、社会生活は李
とは思わないし、ふだん友だちの関係ではほとんどないといっ
も、大体自分でそういうことをわかってたから、別に口惜しい
そのとき、高校時代の友人の「カッコいい」という言葉を
(李麗仙『五つの名前』一九九九・三、
礼仙で通すことになった。
ぜんしゃべれない」とする李礼仙に対して「編集部」は、それ
てもいいくらいですね」と答えている。さらに韓国語が「ぜん
集英社、十九頁)
李礼仙という名前の由来は、金一勉が引用した記事と右の文
なら「自分自身を何者だと思いますか」と問いかける。その質
問に対して李礼仙は次のように答えている。
一度、ずット前に韓国と日本の私生児だなんていわれたこ
Ⅱ
股裂きの主体を生きる李礼仙をもう少し立体的に捉えるため
七) を発表し、金石範が「いま 、
「在日」にとって「国籍」と
である。まず李恢成が「韓国国籍取得の記」(「新潮」一九九八・
それは在日を生きる、李恢成と金石範との間で起こった論争
に、一つの論争に注目してみる。
ってくれたななんて思ったことがある。わたし、日本でも
とがあるけれども、まあずいぶんかっこういいことばを使
わりと昔からアクのつよいほうで、街を歩いてても違和感
それに答える形で李恢成は「「無国籍者」の往く道―金石範氏
は何か―李恢成君への手紙」(「世界」一九九八・十)で反論した。
への返答」(「世界」一九九九・一)を発表し、さらに金石範は「再
があって、ふり向かれたりして、じゃ韓国にいったら同じ
あったりして、同じ違和感があるなら、生まれ育った日本
(「世界」一九九九・五)と続けている。
を」
び、「在日」にとっての「国籍」について―準統一国籍の規定
朝鮮人だから違和感がないかと思うと、やっぱり違和感が
いかな、そういう人間がいても。(八十一頁)
がいいわなんて思ったりしてるけれども。でもいいじゃな
さと無謀さを指摘せざるを得ない。本稿の狙いは右のような強
「朝鮮名」という刀で切ろうとする金一勉の行為に、ある強引
「そういう人間」である。「そういう人間」としての李礼仙を
「違和感」に股をかけて生きる、まさに股裂きの主体を生きる
「違和感」を突き放して、どちらかに偏るのではなく、両方の
「日本」からもある「違和感」を抱いている。そして片っ方の
る」と持ち上げているが、しかし本人は「韓国」だけではなく
演することになっていた。タイトルは『二十一世紀に向う
なれば、私は一役買えるだろう。三十日の閉会前に私が講
経済・文化が三つながらに論じられるかもしれない。そう
にかなうものだといえよう。
このシンポジウムでは、
政治・
ものである。現在のアジアの状況を考えれば、まさに時宜
アジアの市場経済と伝統―新しい世紀に向けて―』という
ジウムに私は招かれていた。シンポジウムのテーマは『東
が五月二十九日と三十日の二日間に亘って共催するシンポ
五回目のソウル行が迫ってきている。翰林大学と東亜日報
論争のキッカケとなるのは李恢成の次のような文章である。
引さと無謀さ故に、さらに見えにくくなる存在に光を当て、そ
金一勉は李礼仙を「朝鮮民族の血と文化を踏まえて生きてい
の全貌を掘り起こし、
それが孕む問題を表面化することにある。
韓国と日本の文学』となっていた。これは明らかに私の力
(「韓国国籍取得の記」
、二九四ー二九五頁)
鮮」籍から「韓国」国籍に変える。(本誌が店頭に並ぶ日
自分の国籍を変更するのを明確にしようと考えている。
「朝
いて書くのが本稿の目的ではない。この講演の中で、私は
になりかねないと怖れている。もっとも、そのテーマにつ
量をこえた大きなテーマである。だから私の話は竜頭蛇尾
ろう。時代と新たな状況の変化が私にこの決心をもたらし
時代のすべてを見届けたいと思っているその希望を語るだ
ようとするだろう。しかし何よりも、文学者として、この
籍を取得しようとしている。ソウルで私はその決心をのべ
国籍者」とか「亡命者」という立場から離れ 、「韓国」国
とかいって日本で安穏と暮らしている(中略)私は今は「無
状況が変わったのに自分は「亡命者」だとか「無国籍者」
「韓国国籍取得の記」を読んでこの手紙の形に托した一文
を二つ挙げながら、反論する。
李恢成の「韓国国籍取得の記」を読んだ金石範は、執筆理由
たのだった。(三一七頁)
には既に私のソウルでの講演は済んでいることになるが)
李恢成によると「組織内部の分裂に厭気が差したのとある人
物を守ろう」として 、「一九六七年一月一日に朝鮮総連系の新
聞社を辞め」た後、「本名を隠して日本の小さな会社に入って
を書くことにしたが、その理由は二つある。一つは李君の
働」くことになる。その後小説を書き、一九六九年六月に「ま
たふたたびの道」で第十二回群像新人文学賞に受賞する。そし
国籍変更についての拙文に対する曲筆その他。二は「在日」
のわれわれにとっての生来的でない〝祖国〟国籍とは何か
クダが針の穴をくぐるほどむずかしい時代」に、「第一回目の
(一九七〇年十月)が実現したと語っている。それから「
韓国行」
『砧
(「いま、
「在日」にとって「国籍」とは何か―李恢成君への手紙」
、一
について、
改めて考えざるを得なかったということである。
て「当時 、「朝鮮」籍の人間が反共国家の韓国に入るのは、ラ
をうつ女』が芥川賞となってほどなく韓国日報社から招待」さ
六年十月にソウルで開催された「韓民族文学人大会」に参加出
北の国籍から外れて無国籍の少数者が生まれ」てくる経緯を説
持とうとしない在日朝鮮人」だと規定している。それから「南・
金石範は「無国籍者」を 、「AからBへの選択を自分の内に
三一頁)
れたことによって二回目の訪韓(一九七二年六月)が、そして一
九九五年十一月に「翰林科学院日本学研究所開所記念シンポジ
来た四回目の訪韓までを説明した後、「この稿」を次のように
ウム」の招請によって三回目の訪韓が実現する。その後一九九
まとめている。
明し、「無国籍はあり得る一種の解体を予感しながらも、敢え
ているのは、李恢成が金石範に対して「「亡命者」だとか「無
恢成君への手紙」の中で金石範が最も多くの紙面を割いて語っ
て不利な方向への選択をする」者だと語っている。しかし「李
だろうか」と話を締めくくっている。
だとし、「私たちのこの往還書簡に欠けているのは愛ではない
にたいする完璧なバッシングそのもの」であり、「中傷誹謗」
文章は、「
「 手紙」の形式を借りた「論争」ではなく、特定人物
李恢成の「AからBへの選択」がどれほど「自己合理化」の「弁
り取りに対して『世界』編集部宛に、とくに在日朝鮮人読者か
について―準統一国籍の規定を」の中で、「李恢成と私との遣
これに対して金石範は「再び、「在日」にとっての「国籍」
国籍者」とかいって日本で安穏と暮らしている」と書いた部分
解」であり、「飾りが多い」「すぎた弁明」であるかを批判して
も悲しく、胸を刺される思いをした。また電話その他での友人
ら失望や悲しみ、顰 蹙の声が寄せられたのを知って、私自分
である。すなわち金石範は「安穏と」という言葉に挑発され、
いるのである。具体的に金石範は李恢成が「韓民族文学人大会」
嘘で、それはあくまでも「国籍変更の約束の履行をきびしく迫
し、その状況の中で自分の判断に従っただけ」だと書いたのは
変える」と言った時 、「あらかじめそういうケースを想定した
する。李恢成が「次回から韓国へ行くときには〈韓国〉国籍に
領事館に行き 、「参事官と領事」が国籍変更を迫る場面を引用
韓の年次」以外は李恢成の「返答」の一切を認めないことを明
題について何ら実質的な答えをなすものでなかった」
ため、
「「訪
置きして、李恢成の「返答」は「支離滅裂」で、「
「 国籍」の問
りかねぬので放置してはいけないなどの声」があったことを前
でおけとか、そのままでは罵言雑言の内容が事実として罷り通
や知人たちの 、「在日」同士でカッコウ悪いから相手にしない
ひんしゅく
に参加するために、「臨時入国パスポート」のことで在日韓国
る参事官との遣り取りの結果」であったと、その「明言」ぶり
記」し、「論争」を打ち切った。
「在日」のあり方を物差しで計り、その可能性の是非を探るこ
この二人の「往復書簡」・論争で問題にしたいのは、二人の
を「すぎた弁明」だと批判している。
とではない。注目したいのは、二人の論争によって、一番辺鄙
金石範が取り上げた在日韓国領事館での出来事について李恢
成は、それは金石範の「捏造」であると反論する。そして「「無
なところに突き放されるのは何かである。まず、金石範は「再
び、「在日」にとっての「国籍」について―準統一国籍の規定
よい」し、
「朝日国交が開始すれば、
「少数者」が袋小路に入り、
「難民」として辛うじて生きていくという金氏の妄想」は、
「消
映画プロデューサー「シネカノン」社長李鳳宇の対談(『先に抜
を」の中で、評論家四方田犬彦と「月はどっちに出ている」の
国籍者」は条件がゆるす限り、積極的に「国籍」をとった方が
極的すぎる」故、自分は「ついていけない」と語る。さらに「自
け、撃つのは俺だ』一九九八、四、アスキー)を紹介している。
分の生き方と意見を異にするからと同じ文学者相手にたいし
て、これほど徹底的に容赦なく自論をふりかざした」金石範の
「李恢成君への手紙」の中で、「断食をするとき悲しい面持ち
「爽やか」さという言葉は、どう変容するだろうか。金石範は
四方田(犬彦)
をするな。これはキリストが弟子たちに向かっていった私の好
朝鮮籍から最近変えたじゃない、韓国籍
に。あれはなんなの?
面持ちをする傾きが大きい」と指摘しているが、要するに金石
きなことば」だとし、李恢成は「断食をしないうちから悲しき
不便だからね。イタリアにも行けないし。フ
李(鳳宇)
私の心にもこの「帰化」という気持がかすかによぎったこ
李恢成の文章に注目してみよう。
今度は、金石範とは対立的な立場に立っているように見える
い在日朝鮮人」のマナザシがあるのではないだろうか。
「キリスト」=「AからBへの選択を自分の内に持とうとしな
範の「爽やか」さの裏には、
「悲しい面持ち」を一切許さない、
ランスに行くっていうと四ヶ月かかるんですよ。ヴィザの
そりゃ面倒くさいよな。
発給までに。
プラクティカルな理由なわけね。イデオロギーじ
そういうのはすごく影響するんで。
四方田
李
四方田
ゃなくて。
国籍ってのは、ただの記号ですからね。われわれにと
っては。(二一一頁)
李
りしているからである。しかし私がそのとき思い出したの
とがあった。「北」にせよ「南」にせよ、愛想尽かしばか
は、田道間守であった。(中略)田道間守は、その昔、朝鮮
右の対談を紹介した後、金石範は「ちょっとした苦渋をたた
えながらも衒いのない爽やかな韓国籍変更の弁である」と書い
から日本に渡来してきた人の子孫なのだった。戦争中の私
た。あの時代を思い起こせば、ひやりとする。なんと罪深
ている。「AからBへの選択を自分の内に持とうとしない在日
い神話づくりなのだろうか。「日本書記」には世界帝国の
田道間守のように天皇に忠孝を尽くそうと固く固く決心し
ぎた弁明」を想定しての発言である。注目したいのは、「爽や
はこの神話にたわいなく胸をときめかせた。自分もいつか
か」さと「すぎた弁明」の境界線・線引きである。金石範は、
中国を意識した小帝国的傾向があるといわれるが、少年の
朝鮮人」としての金石範が言う「爽やか」さとは、言うまでも
李鳳宇の生き方に同調しているわけではなく、あくまでも「飾
な後味の悪さが消えない。それなのにまたふたたび「帰化」
私はまさに小さな田道間守だった。まるでおかされたよう
なく、李恢成の「自己合理化」の「弁解」と「飾りが多い」
「す
りが多い」
「すぎた弁明」をしないが故に、
「爽やか」さという
するということなど、どうしてあり得ようか。(「韓国国籍取
言葉を使っている。しかしながら李鳳宇が国籍変更を「自己合
理化」し、
「飾りが多い」「すぎた弁明」を並べたら、果たして
軍を増長させるに留まるだろう。金石範氏、ここまで書い
「在日」は結局のところ孤立し、日本人としての帰化予備
いずれにせよ、南北の国家と離れた「第三勢力」となれば
の上演は、詩人金芝河の協力下で、ソウルの劇団「常設舞台」
(一九七三・十二、新潮社)に収録された。
語・鐵假面』
「二都物語」
され、その後「文芸 」(一九七二・六) に発表、戯曲集『二都物
ルの西江大学構内の野外舞台で、韓国語で一晩だけ無許可上演
「二都物語」は、一九七二年三月十四日の夜、戒厳令下ソウ
Ⅲ
てきた私は自分の考え方とあなたのそれとが、意見の相違
との合同公演で「日韓反骨親善大会」と称し、「常設舞台」側
得の記」
、三一六ー三一七頁)
こそあれ、民族を愛し「在日」を憂慮する点でまったく同
は金芝河作「金冠のイエス」を上演した。状況劇場初の海外公
ソガン
じなのだということを発見した。(「「無国籍者」の往く道―金
まさに 、「民族を愛し「在日」を憂慮する」立場や「在日」と
日」を憂慮する点」が「まったく同じ」であることではなく、
れ母親の乳首からも離れてその時の不安から開放された
われわれは何時のときであったか、列島の何処からか離
胎児は母の胎内でその母の夢見た悪夢を見て怯えている。
六)のなかで以下のように書いている。
(「映画評論」一九七二・
えてしまった」ことについて、
「海峡報告」
演である。唐十郎は状況劇場の赤テントを率いて「玄海灘を越
キムジハ
石範氏への返答」
、二六九頁)
右の文章のなかで李恢成も書いているように、金石範と李恢
成は「意見の相違こそあれ」、
「まったく同じ」立場に立ってい
いう言葉を聖化するために、「帰化予備軍」および「帰化人」
かし、われわれが動く軌跡は何時か母の悪夢が通り過ぎ
ように日本列島の悪夢の文化のなかを彷徨った。(中略)し
るのである。もちろん、ここで指摘したいのは「民族を愛し「在
を最も遠い辺鄙に突き放してしまっていることが同じだという
半島の間をさえぎる玄界灘を越えてしまった。これはま
た血なまぐさい磁場をステップしていつか日本列島と韓
ことである。そしてこの二人の論争が激しくなればなるほど見
えにくくなるのは、まさに股裂きの主体を生きる人達の生であ
ことに必然ではないか。時間を逆流すればもっとも罪深
る。このような生に光を当てない限り、見えない、解読出来な
い光景がある。その一つが「二都物語」である。
比してわれわれの肉体は下降を願う。それ自体ファウス
い空間が立ち現れる都市の文化は観念的上昇をねがうに
ト的時間の冒険であるともいえよう。東京からソウルへ、
きるということは死に果てた観念だけがさかえる日本列
者であるかを知ることができよう。それを知ることがで
われわれの母が何者であったか、そして今われわれは何
われが立っている地盤は時間の沼の中に沈み、そのとき
ソウルから東京へその行跡を幾度もくり返すうちにわれ
て求める者たちはスポーツ見物へ、見世物が知的な喜びで
は失われていったのである。見世物に肉体的昂奮を主とし
っていった時期から、演劇における肉体的昂奮という要素
いった、スポーツの見世物化が大規模に成り立つようにな
そらくは、野球とか、サッカーか、ボクシング、競馬、と
ポーツによって充たされることになっている。そして、お
を逆流」させることでその「罪深い空間」を観客に現前化し、
「何時か」「母の夢みた」
「血なまぐさい」
「悪夢」を、
「時間
(一一二頁)
ではあるまいか。
という役割の分化が行われていった過程と規を一にするの
ったわけだ。形や色彩に対する知的な興味だけが絵画に、
あることを求める者だけが演劇へ、という分解作用が起こ
(十五―十六頁)
島において実にタブーであったのだ。
「母は何者であったか、そして今われわれは何者であるか」を
(
「劇 血 )
が唐十郎の創作及び演出方法である。そしてその「悪夢」
昂奮」の不在を指摘している。そしてそこに蔓延しているのは、
佐藤忠男は演劇を見ることによって巻き起こされる「肉体的
げきち
「ズタズタ切り裂かれる」思いと共に思い知らせること、それ
ただの「言葉、言葉、言葉で終始する」「知的な喜び」だけだ
体」の不在に勝負をつけたのが「特権的肉体論」であるが、唐
(「灰かぐらの由来」
『腰
は「役者が縁側に舞い立った時に流れ出す」
十郎は「知的な喜び」だけを生産しつづける劇作家を「三〇日
とする。このような「役割の分化」による「言葉」の蔓延と「肉
その「空間に狙いをつける」存在、ということである。これが
間の月経に似て為す術」もないものとし、次のように批判して
「縁側 」、すなわち舞台に立って、役者は「見られる」という
いわゆる六十年代後半に小劇場演劇運動が盛んだった時期、唐
巻お仙』所収一九六九・七、新潮社、五十二頁)ものだと語っている。
十郎が自分の演劇を理論化した「特権的肉体論」である。佐藤
いる。
劇界について以下のように述べている。
忠男は「情感と肉体」(「新劇」一九六八・九)のなかで、当時の演
者の精神が戯曲を呼び起こすのだと僕がいえば、そこら
作家の劇的な精神が役者を動かすのではない。劇的な役
もはや偉大な戯曲が必要なのではない。戯曲の中にある
俳優の肉体からジカに伝わってくる昂奮というものが、演
にいる劇作家然とした奴らは嫌な顔をするにちがいない。
劇のもっとも基本的な魅力のひとつであるということは疑
うわけはゆかない。現代では、その種の昂奮は大部分はス
(「役者の抬頭」
『腰巻お仙』一九六九・七、新潮社、三十八頁)
唐十郎は「新劇役者が戯曲を選んだところで、創造の冒険が
終わる」と断言している。これを言い換えれば、戯曲が先にあ
って、役者はそれを演じるだけであるならば、そこから巻き起
て決定されるという事態であった。この瞬間、遊戯のタ
限が切れており、強制送還も、相手側の自由裁量によっ
ガがすっ飛んだ。私は同居の人びととひとつも変わらぬ
囚人となった。(二六一頁)
一クセも二クセもある」
「一人一人、情念の特徴をもっている」
唐十郎の書く芝居は「一緒に三度の飯を食うのも嫌になるほど、
飛んだ」事件から「二都物語」が書かれるまでは三年を待たな
描いたのが「二都物語」である。しかし、「遊戯のタガがすっ
な「情念」(悪夢)を読みとったのか。その李礼仙の「情念」を
制送還) 瞬間、唐十郎は、留置場の李礼仙の「貌」から、どん
かどわかし(劇による襲撃)に来た者が忽ちかどわかされる(強
役者のためだけのものだと語っている。それから「紅の優しき
ければならない。「海峡報告」中で唐十郎は、一九七二年三月
こされるのは「知的な喜び」のみということであろう。しかし
母胎の形」をした紅テントを張り、現実原則に浸っている市民
に「玄界灘を越えてしまった」ことは「必然ではないか」と書
(『日
の後のことである。逮捕以後について唐十郎は「私的兵法」
にテント劇場を設置」した故である。しかし注目したいのはそ
った「騒動の一幕」の原因は 、「無許可で新宿西口の都立公園
に朝鮮及びアジアへの関心が高まり始め、一九七〇年前後は多
象徴的であるように、一九六五年の「日韓国交正常化」を前後
術も、ようやく、朝鮮をみつめようとしている」という言葉が
紙には 、「〝朝鮮〟の時代が来た……という。政治も文学も芸
一九七二年三月に出版された『金史良作品集』(理論社)の表
いているが、果してそれは唐十郎だけの「必然」だったのか。
をかどわかし、悪夢を見せるわけであるが、一度だけ、そのか
上演強行に警官出動 夜の新宿、テント
どわかしの「遊戯のタガがすっ飛んだ」時がある。
その名「状況劇場
本列島南下運動の黙示録』所収、一九七二・十二、現代新潮社)で詳しく
めた時代である。
くの雑誌が「朝鮮」を売り物(特集及び特集に準ずる企画)にし始
騒動の一幕 」(「朝日新聞」一九六九・一・四)である。逮捕まで至
説明している。機動隊による逮捕まで「すべて事前に予測」し
六)、
(
「新日本文学」一九七〇・九)、
「創造的課題としての朝鮮」
「朝
九六九・三)、
「われわれにとっての朝鮮」(「思想の科学」一九六九・
と展望」(「現代の眼」一九六六・一)、
「近代朝鮮と日本」(「思想」一
時系列的に「朝鮮」特集を並べてみると、「日韓問題の総括
てた唐十郎は、舞台衣装である自衛隊の服をひっかけ、留置場
でも芝居 (遊戯)を続ける。しかし「一つだけ予測し得ないこ
とが起こった」とし、次のように語る。
それは、李礼仙の逮捕であった。朝鮮人、李の登録の期
三・一)
(「世界」一九七三・九)
、「韓国の現状と日本人の朝鮮観」
、
訴える〉」(T・K生の「韓国からの通信」の第一信掲載、「世界」一九七
日本文学」一九七〇・十一)、
「金大中〈憤りをもって韓国の現状を
(
「文学」一九七〇・十一)、
(「新
鮮文学」
「アジア文化の今日的視点」
して観客をかどわかそうとしたのか。
をめぐる同時代の言説に対し、どういう「情念」(悪夢)を用意
のなのかである。唐十郎は刑務所の李礼仙の「貌」と、
「朝鮮」
波に乗って見せる「手品」(悪夢・劇血・情念)とはどのようなも
はなかろうか。それでは問題は、その「有効性」という時代の
「二都物語」はタイトルからも分かるように、朝鮮海峡を渡
「金大中氏事件‐何が問われているか」(「世界」一九七三・十)、
る、跨ぐことが大きなモチーフとなっている。そしてその朝鮮
年筆屋の二「貌」股をかけ」ている「プサンから密航して、戸
「いま〈植民地〉を考える」(「新日本文学」一九七三・十一)、〈
「 朝
籍を探し歩く元日本人 」、すなわち「幽霊民族」である。そし
(
「新日本文学」一九七四・三)
鮮〉の現実と〈在日〉朝鮮人の表現」
さらに、以上のような朝鮮ブームと相まって、在日文学が登
てもう一方は、「お母さんのお腹の中」にいるとき、朝鮮海峡
海峡を渡ってきた人達がいる。一方は、「昼間は職安、夜は万
場してくるのが、まさに、一九七〇年前後である。金鶴泳が「凍
を渡って来た「不滅のジャスミン」のリーランである。リーラ
などがある。
亭」(「文化評論」一九六二・五)で日本語創作を断って以来、七年
える口」(「文芸」一九六六・九)で文芸賞に入選、金石範は「観徳
円頂だい」。このリーランは、なぜ、「百円頂だい」とせがむの
ンはいつも痰壺を抱えている。そして次のようにせがむ、「百
か。
ぶりに登場してくるのが、一九六九年(「虚夢譚」、「世界」八)で
一二回群像新人文学賞を受賞したのが一九六九年、さらに、
「砧
課長
ただは貰わないわ。
百円なら、おじさんあげるよ。
(「群像」六)で、
ある。そして、李恢成は、
「またふたたびの道」
をうつ女」で第六十六回芥川賞を受賞したのが、一九七二年で
課長
リーラン
リーラン
(「夢判断の手品」
『腰巻お仙』一九六九・七、新潮社、四五頁)
なります」
くのですから、何を見せるべきかという有効性の手品が必要と
課長
唐十郎は、演劇を「やる者とみる者という関係の上で幕が開
ある。
と語っている。右の「有効性」という言葉は、「海峡報告」に
十二、新潮社、十七頁)
リーラン
(『二都物語・鐵假面』一九七三・
じゃ、もういいわ。
女に勇気を見せてもらおうとは思わんよ。
百円くれたら、勇気を見せたげる。
おける「必然」という言葉と符合するものと考えていい。すな
じゃ、百円あげたら、何を始めるんだ。
わち、唐十郎が率いる紅テントが「玄界灘を越えてしまった」
「必然」とは、すでに同時代のステージに容易されていたので
である。その痰壺に百円銀貨を投げてくれるのは、
「内地の人」
うではない。ここに、唐十郎が「特権的肉体」としての李礼仙
に「政治に巻きこまれ」て、殺された誰でもよかったのか。そ
された兄の面影をみる。その兄とは誰であるのか。別に戦時中
と、内田から戦時中「政治に巻きこまれ」て、日本の憲兵に殺
である内田一徹。リーランは百円恵まれた痰壺を抱え、歌いな
のために書いた意図がある 。「二都物語」の中で、リーランと
は内田に向けて 、「兄さん、あたしよ。美しいあなたの妹よ」
がら痰壺の中に手を突っ込み、銀貨をさぐる。そして、それを
いう名前はたった一度だけ漢字・「李欄」で書かれる時がある。
リーランが見せてあげる「勇気」とは一体何なのか。それが
引き出した「手の甲は汚物で濡れて、指に挟んだ百円銀貨をヒ
明らかになるのは、痰壺に百円の銀貨が「チャリンと響く」時
ラヒラさせ」ながら、次のように語る。
リヨング
それは、内田の面影からみていた兄の名前が語られる瞬間であ
肉体」を「現前化」させるために、そして「朝鮮」をめぐる同
時代の言説に対峙するために容易した「有効性の手品」とは、
る。その名とは「李容九」である。唐十郎が李礼仙の「特権的
あたしは恥ずかしい女です、一徹さん。こんな
「李容九」という「悪夢」であった。それでは「李容九」とは
リーラン
ても、決してめぐり会えない女。その身持ちの淋しさをま
事をして、勇気だと言っているのです。誰かさんが恋しく
ぎらす為に、こうやって自分を傷つけてる遊びをしている
何ものであり、その名が孕む文脈とは何なのか。
須磨にて死す、葬儀は京城にて行ふ筈」と報じ、その次の二十
京城電報」として 、「元の一進会長李容九氏、廿二日午前九時
Ⅳ
の。そして、勇気があるでしょ、あたし、ねえ、勇気があ
果な厄病神。でも、これは、あたしにしか出来ないお祈り、
る?と言ってせがむよ。(中略)あたしは、この世で一番因
リーランが百円を貰う代わりに見せてあげる「勇気」とは、
四には、李容九の略伝を掲載している。
一九一二年五月二十三日の「東京朝日新聞」では、「廿二日
「誰かさんが恋しくても、決して会えない」「淋しさ」を「ま
あたしって駄目ね。(三十七頁)
ぎらわす」ための「遊び」だったと語るが、その「誰かさん」
突っ込んだ瞬間、明らかになる。突っ込んだ瞬間、過去の「時
んだろうか。それは百円銀貨をメリーゴーランドのボックスに
童を抜き、天道教の信者として教主を輔け、比較的名利に
氏は確かに朝鮮人中の名士と称するに価す。幼きにして群
朝鮮人中にて最も朝鮮人らしからぬ者、之を李容九とす、
とは誰であり、リーランにしか出来ない「お祈り」とは一体な
間の木馬」は動きはじめ、かつての「悪夢」は甦る。リーラン
として年来の宿痾たる肺患を須磨に養いしが、遂にたたず
らず敢て人爵を望まず、敢て官職を望まず。悠々風月を友
本当局の処置方針に就いては平かならざる所ありしにも拘
会を解散し東京に悠遊して、叉名利を語らず。併合後の日
年併合の事全く成るや、我は我が務め終れしとなし、一進
奏文を奉り、上下の漸くその心を動かせり。而して四十三
衆に先にじて合邦を主唱し、四十二年十二月意を決して上
べし。日露戦役終りて露国の勢力全然一掃されるをみるや
些の報酬を望まざるなど、その志の存する所を知るに足る
送に、軍用鉄道の敷設に労役せしめ、しかも之れに対して
めに尽くす所あり、数十万の会員を監励して、或軍隊の輸
いて朝人の覚醒を呼号し、前途を達観して大いに日本のた
して淡にして、救民の志篤く、日露の役起るや一進会を率
におき、韓国の自治政治をしくことを希望していたもの」(二八
ンガリーのごとく、またスエーデン、ノルウェーのごとき立場
はなかったらしく、あたかも欧州における、オーストリアとハ
ている。そして李容九が主張したのは「合邦であって、併合で
冤罪に泣く民衆の立場に深く同情した結果」であったと説明し
のは、韓国政治の腐敗と悪政を憤り、暴使の苛歛誅求と、その
李容九が「排日排外の東学党より一転して親日主義者となった
九五〇・十一、創元社)でもう少し補足してみる。同書によれば、
(一
っきり説明されてないので、戦後の文献である『朝鮮新話』
が讃えられた」と書いている。「併合」と「合邦」の輪郭がは
授けられたが、宋秉畯に一任してこれに手を触れず、その清廉
しかし「併合なるや総督府より一進会解散にあたり十五万円を
皇帝、曽禰統監ならびに総理李完用にも建白」することに至る。
の名をもって一般国民に日韓合邦の声明書を発し、同時に韓国
時に「一進会」を解散したとは一体何を意味するのか。もう少
ことであろうか。さらに「合邦」を主張したが、「併合」と同
しかし「確かに朝鮮人中の名士と称するに価す」とはどういう
「朝鮮人中にて最も朝鮮人らしからぬ者」である李容九が、
の「番犬」として、
「一進会という団体」を作り、
「これを使っ
したことに関する評価は一切触れず、ただ、「帝国主義日本」
信社)による〕 を見てみると 、
「併合」ではない「合邦」を主張
史』〔金鶴鳴著、引用は大東国男『李容九の生涯』(一九六〇・十、時事通
しかし戦後の朝鮮側からの李容九の評価『朝鮮民主主義革命
二―二八四頁)であったと紹介している。
傷むべし。
し、辞典的なレベルで輪郭を捉えてみよう。
『東洋歴史大辞典』
り、さらにこれを使って日韓併合運動」をするなど、日本の「朝
て日露戦争の軍事輸送などに朝鮮人民を強制的に狩り出した
鮮侵略を合理化するためのダシ 」(十二―十三頁) であったと紹
(一九三八、六、平凡社)の中では、李容九は「日露戦争勃発とと
将来を救う所以と信じ、日本軍の幇助に努めた」と紹介してい
介されている。
もに、時局に明のあるかれは日本を支援してゆくことが朝鮮の
る。そして「明治四十二年十二月四日」には、「一進会百万人
鮮の自治政治」としての「日韓合邦」という考え方で日本を支
以上を合わせ読むと、李容九は「日露戦争勃発とともに」、
「朝
たもの」であるとも発言している。それに対して津久井竜雄は
国会では「日韓併合は両国の合意によって平等の立場で行われ
る崇高な考え方」であったと書いている。さらに一九六五年の
たし、『李容九の生涯』に「わざわざ序文をよせている」が、
持したわけであるが、しかしながら「合邦」とはならず、「併
果して佐藤首相は「この書の内容を知っていた」かどうか、
「日
の国会での発言は「韓国内の条約反対運動を喚ぶ一因」であっ
本の原罪的な負目などを感得することができたかどうかは疑わ
「善隣友好の虚妄と真実」(「現代の眼」一九六六・一)の中で、右
「極悪人」として、「伊藤博文を暗殺した民族の英雄安 重 根
「番犬」「
・ 売国奴」「
・ 朝鮮人中にて最も朝鮮人らしからぬ者」・
しい」とその「無責任」さを批判している。この後津久井竜雄
合」のために利用されてばかりであった。しかし朝鮮側からは、
(大東国男「人世無常を呑まざるは莫し」
・西尾陽太郎『李
と対比されて」
は「韓国の李容九」について、彼の思想は自ら述べているよう
「合邦」の話には一切言及せず、「帝国主義日本」に協力した
容九小伝―裏切られた日韓合邦運動』所収、一九七八・一、葦書房、二五〇
に「日本の樽井藤吉の大東合邦論によって深く影響」されたも
アンジュングン
頁)いる。すなわち、朝鮮のナショナリズムを補強するための
ので、「日露戦後に李は強く日韓合邦を提唱し、日本はこの提
行い、一進会その他の政治団体に解散」させた。いわゆる「パ
案に基づいて合邦を実現すると見せて、実は合邦ならぬ併合を
な
味は違っても、両国の口に合う、都合のいい「ダシ」だったの
「ダシ」に使われている。李容九は日本と朝鮮にとって、出す
である。そして「ダシ」としての李容九が、そのままそっくり
ンを求める者に石を与える」形で「韓国を裏切」ったのであり、
再演される時があった。それは一九六五年「日韓国交正常化」
前後の言説の中に見られる。
「日本人としては深い罪責を感じなければならない」と指摘し
同じ「反帝」という基盤に立っていながら、李容九については
ている。大東邦夫の『李容九の生涯』を援用しつつ津久井竜雄
全く正反対の評価を下す文脈がある。在日の姜在彦「朝鮮問題
一九六〇年十月、李容九の遺子・大東国男による『李容九の
辿りながら実証していくものであるが、しかし、この本で興味
における内田良平の思想と行動」(「歴史学研究」一九六五・十二)
が立とうとしている基盤は、いわゆる「反帝」である。しかし
深い名前が目に付く。カバーの序文を書いた佐藤栄作。佐藤栄
と「東学=天道教の思想的性格」(「思想」一九六九・三)がそれで
「合邦から併合にすりかわったいきさつ」に向かって、史料を
(
『民族と政治』一九六二・一)
作は「日本経済の動向とその問題点」
ある。
(時事通信社)という本が出版されている。同書の水脈は、
生涯』
の中で、戦時中 、「帝国主義」や「侵略主義」の別な呼称とし
姜在彦は「朝鮮問題における内田良平の思想と行動」の中で、
て言われた「八紘一宇」について、「本当の考えはそういう帝
国主義的なものじゃなく、直参一家とか人類愛の思想につなが
東亜戦肯定論」(「中央公論」一九六五・六)を取り上げて批判して
(竹内好編『アジア主義』所収、一九六三・八、筑摩書房)
、林房雄「大
―」(「思想の科学」一九六三・十二)、竹内好「アジア主義の展望」
候」として、判沢弘「アジア共栄圏の思想―内田良平を中心に
「さいきん、日米安保体制を基盤とする日本軍国主義復活の兆
脈にそって歴史を語り直している。
否 」(二〇八頁、林房雄) した顔ぶれ (水脈) を再確認し、その水
まちがいない」と 、「最後まで合邦の文字を固守し、併合を拒
良平、李容九の理想した「大東国」からでたものであることは
念 」(三十七頁、竹内好)であり 、「その日本名が樽井藤吉、内田
李硯奎)が日本名を名のっているのは、
「けだし「大東国」の記
の批判は当たっているとも言えるし、そうでないとも言える。
理解、それからくるドクマの氾濫」と批判している。しかしそ
う論客たちの論旨の特徴の一つは、史実にたいする初歩的な無
の、または「独立」の「志士」として脚光をおびている」こと
肯定的再評価の風潮」のなかで 、「李容九のたぐいが「連帯」
本人」だと断罪する。それから李容九につていは「戦前史観の
とする一進会を裏面からあやつり、そのお先棒をかつがせた張
良平を「日本軍国主義の朝鮮侵略過程において、李容九を頭目
しかし姜在彦は右の水脈を容赦なく切ってしまう。まず内田
いる。その時、姜在彦が立つ基盤は「連帯」前に「反帝」あり
李容九と内田良平をめぐる「日韓併合」に焦点を絞って右の
きである。姜在彦は三人の歴史の分析方法について、「こうい
論文を見てみると、林房雄は竹内好の「アジア主義の展望」と
に激怒し、「李容九一味」は「日本軍警のバック・アップ、そ
は、他の文脈を用いれば当たっていないとも言える批判である。
大東国男の『李容九の生涯』を下敷きにしているし、竹内好も
例えば、姜在彦は内田良平を「侵略主義者」に仕立てるために、
い、反人民的な売国分子」だと非難している。しかしこの非難
李容九が影響を受けた樽井藤吉の『大東合邦論』と「合邦」の
彼は「政府側の政策にのっとって一糸乱れず動いてい」たと批
の飼主のふところをはなれては一日として安全ではありえな
ために一緒に戦った内田良平の『日韓合邦』という論文を、自
その水脈に乗って、自分の「アジア主義の展望」だけでなく、
らの手で編集して「現代日本思想大系」シリーズの第九巻『ア
(『アジア主義』所収、一九六三・八、筑摩書房)の次のような文章を
判しているが、姜在彦もが引用している内田良平「日韓合邦」
大東国男の『李容九の生涯』を援用、その水脈に乗っている。
らの磁場の中心には「合邦」がある。結果的に「併合」になっ
日韓合邦は一進会および著者等がかかる苦心のもとに成
引用してみよう。
ジア主義』(前出)に収めている。すなわち、閉曲線を描くこれ
たものの、それは裏切られた結果であり、「合邦」のために努
良平ということである。さらに林房雄と竹内好は「合邦」とい
立せしめたのであるが、その結果は総督政治となり、そ
力した日韓の志士達がいる。その代表的な二人が李容九と内田
う水脈を遡って、
『李容九の生涯』の著者である大東国男(本名・
礎とならざるのみならず、一進会百万の大衆を満州に移
の機構は主唱者等の希望を裏切りて、東亜連邦組織の基
れた李容九が、「日韓国交正常化」を前後して、もう一回股裂
真実ではない。注意すべきは、「日韓併合」の時、一回股裂か
いうことになるだろう。ここで問題にしたいのは実体としての
がべい
住せしむる計画さえも画餅に帰したのであった。(中略)会
かれる羽目になるということである。
ていわく「われわれは馬鹿でしたなあ」と。けだし馬鹿
に赴き病床を訪うた。李容九大いに喜び著者の手を握り
(中略)四月二日に及んで須磨
ため須磨に来たのであった。
九、晋遊舎)を取り上げてみる。本の構成は第一話から第九話ま
二〇〇六・二、晋遊舎)である山野車輪『マンガ嫌韓流』
(二〇〇五・
こし
ィアなどで報道され、世界中が注目!「嫌韓流現象」を巻き起
ューヨーク・タイムズ』紙、英『タイムズ』紙、韓国主要メデ
病を得て京城病院に入院し、四十五年の春、転地療養の
を見たの意味であった。(中略)著者はここに日韓併合を叙
ちなみに、最近の韓流ブームの中ではどうだろうか。
「米『ニ
員はことごとく怨みを飲んで四散した。この時李容九は
するにあたり、一進会に対する我が政府当局の刻薄を記
る。それでは第八話「日韓併合の真実」に注目してみよう。場
でとなっていて、一話ごとに一つのテーマを設定・議論してい
(『嫌韓流2』の帯文、
万部のベストセラーとなった問題作」
したる所以のものは訐いて直となすがためにあらず。政
徳を傷つけ、日本精神と絶対に相反するものあるを慨し、
以来朝鮮に支那も、常にかくのごとき行動を行ない、聖
ジウム、観衆あり。まず日本側から手が上がる。「とにかく韓
糾弾韓国大学生訪日代表団」対「極東アジア調査会」のシンポ
面は「日韓併合の真実」をめぐる「歴史歪曲軍国主義復活陰謀
あば
府者みずから西洋思想の弊害たる功利主義に堕し、明治
後世をして再びこれを繰り返さしめざらんことを戒しむ
国側」は「善悪や感情論を持ち出すのではなく歴史的事実をも
る常識だけど、どうも韓国側は「感情が先行しがちでかつ歴史
と「歴史的な事実を置き去りにしたレッテ貼り」を非難する。
的な事実を置き去り」にするから、「あえて発言する」と語っ
「日韓併合」以後の文章に注目すると、内田良平と李容九は
と「政府者みずから西洋思想の弊害たる功利主義に堕」してい
ている日本側の基盤は、「歴史的事実」である。こんどは韓国
ることじゃないけどね」と続く 。「本来なら」言わなくて分か
ることを非難している。すなわち「日韓併合」をめぐる内田良
その時、同じ日本側のパネリストから「本来ならあえて発言す
平と李容九の問題は、何を主体とし中心として考えるかによっ
側から手が上がる 。「一九一〇年日本帝国主義は韓国を武力侵
政府にまんまと「裏切」られたことを「怨」み、
「当局の刻薄」
てその模様は変わってくる。矛盾かならずしも矛盾ではないと
「政府側の政策にのっとって一糸乱れず動いてい」るどころか、
とにディベートするということを今一度心に留めてください」
るがためにほかならぬのである。(二三六―二三八頁)
45
て植民地ではなく日本の一地方としたからこそ財政負担してま
が廃止され日本が整備したインフラの恩恵」や「韓国を併合し
語る。それから日韓併合後 、「近代治安国家となって奴隷制度
した後併合」するしかなかった当時の「世界の動き」について
本の安全にとって癌でしかなかった」朝鮮を「日本の保護国に
え日本人は反省する必要はありません」と異議あり宣言し、
「日
い」と日本側の「反省」を促す。それに対して日本側は「いい
して正当化しようとしている!被害者側として絶対に許せな
れら歴史的事実を日本の右翼勢力は隠そうとするばかりか歪曲
略して植民地とした」し、数々の「残虐行為」した。しかし「こ
に注目してみよう。
と描く山野車輪に異議申し立てをする次のような「読者の声」
そこで李容九が会長を務めている「一進会が併合を主張した」
対」か、どちらかの立場をとりながら疑問を投げかける読者の声もある)
。
奈川県)と「反対」する声に分かれている (中には「賛成」か「反
けない気持ちでいっぱいです」(二十二頁、三十歳・女性・主婦・神
三十九歳・男性・医師・千葉県)と「賛成」する声と、
「悔しくて情
者の声」は「すばらしい本をありがとうございます」(十八頁、
れている。ここで注目したいのは「読者の声」欄である。「読
読者の声」、「日韓友好催促企画」のための座談会などが収録さ
わせている。それに我慢し切れなくなった韓国側は、「嘘だ嘘
ながら、韓国側を「むぐぅうぐぐぐ」「むぅ…うむむ…」と言
たです。(二十四頁、三十八歳・男性・?・奈良県)
ました。(中略)一進会の主張は対等合併で併合ではなかっ
山野車輪氏は韓国人は日本と併合を望んだと事実を歪曲し
で朝鮮地方に近代化を施した」ことなど史料による実証を行い
だ嘘だ」「誰がそんなこと頼んだ!」と絶叫する。しかしその
んだのよ」などと言えるものではありません。一進会の主
また、一進会だけに限って言及しても「韓国人が併合を望
最後の絶叫すら「むぅ…うむむ…」と言わせた次のような台詞、
「韓国最大の政治組織である一進会が併合を主張したのよ」と
張は「併合」ではなく 、「合邦」でした。(中略)朝鮮人を
家畜扱いし過酷な搾取をもたらした日韓併合を望んだわけ
「一進会が併合を主張した」という「歴史的事実」の前で、韓
ではありません。(中略)リーダーの李容九は併合の二年後
韓国側の「感情論」を「歴史的事実」をもって論破してしまう。
国側はただただ「むぅ…うむむ…」と唸るだけ、という風に山
山野車輪は同書の「ロングインタビュー」の中で、編集部か
うです。(二十八頁、四十一歳・男性・設備管理・埼玉県)
に没しましたが、晩年に「日本にだまされた」と述べたそ
野車輪は描いている。
二〇〇六年二月に『嫌韓流2』が出版されている。そして第
一巻の好評のせいか、第二巻が出た同じ日付で『マンガ嫌韓流
公式ガイドブック』(晋遊舎)も出版されている。そこには著者
である「山野車輪ロングインタビュー」や「『マンガ嫌韓流』
じでネタを作っていました」と答えている。しかし右の「読者
から「借りた本なので、必要な部分だけを読みこむといった感
調査や取材はどうしていたんですか?」という質問に、図書館
らの「日韓問題に対して、一つ一つ実によく調べてありますが、
どう解釈するだろうか?(十五頁)
れば、かの国の人達と同じレベル。キミはこれらの意見を
の意見に執着し、真逆の主張に耳を傾けることができなけ
傷が混然一体となった意見公開の場がここに実現。ひとつ
『カンガ嫌韓流』読者はこう読んだ!
盤は、反対側に「かの国の人達」を想定している。すなわち「真
「どう解釈する」と読者に問いかける「晋遊舎編集部」の基
賛否両論・誹謗中
の声」に注目すると、山野車輪は「自費で買ったわけでな」い
嫌韓流』の「嫌」を正当化するために、「嫌」を主体とし中心
逆の主張」とは「嫌韓流」の「主張」であり、それに悟る「耳」
から「必要部分だけ」を読んだだけではなく、まさに『マンガ
として「必要な部分だけ」を読んだだけなのである。だからと
を持たないと 、「かの国の人達」のように「むぅ…うむむ…」
と唸る羽目になるよ、ということである。しかし何を主体とし
者の声」は、そうとも解釈出来る一つのヨミにしかならない。
中心として考えるかによってその評価が流動的である李容九や
いって右の「読者の声」が正しいということではない。右の「読
が持っている構図である。日韓両国から都合のいい「ダシ」と
一進会に注目すれば、「晋遊舎編集部」こそ「ひとつの意見に
ここで注意すべきは反復される李容九や一進会であり、それら
執着」していることになりやしないか。まさに語るに落ちてい
「二都物語」に戻ろう。リーランが追い求めた兄・李容九は、
して利用されつづける構図、そしてその構図故に隠蔽されがち
出す味は違っても、日韓両国の口に合う、都合のいい「ダシ」
るのである。
な気持ちでこの本を読みましたが、自分の国を悪く書かれたか
のような、股裂きの主体を生きる人物である。唐十郎が李礼仙
な次のような声を生産しつづけていることである。「私は在日
らと毛嫌いしたり、またはけぐちの道具だけで終わっては欲し
韓国人ですが、韓国も日本も大好きです。(中略)私は正直複雑
(三十五頁、二十七歳・女性・?・?)という声である。
くないです」
ンが兄の面影をみている内田一徹は、李容九という文脈を用い
るを得ない李容九の「情念」だったのである。そして、リーラ
ることによって内田良平とも読める。『李容九小伝―裏切られ
のために用意した「情念」(悪夢)とは、股裂きの主体を生きざ
産し続けられていることである。ついでにもう一つ注目してみ
た日韓合邦運動』のなかで西尾陽太郎は、「日韓合邦運動全般
『嫌韓流』を読むこと、それは違った衣装を纏って反復される
よう。「読者の声」の始めの頁には、「晋遊舎編集部」による次
構図に気づくと同時に、その構図故に股裂かれた主体・声が生
のような文章がある。
の見通し」について、それに関係した人々を次のように色分け
している。
のりゆき
まず、民間合邦側としては、前述の通り韓国側の李容九と
Ⅴ
股裂きの主体を生きる李容九を第二幕の冒頭に当てると、不
ては、伊藤博文と曽禰荒助が一組、山県有朋と桂太郎が一
のだ。きみのは3を描いているじゃないか。
きみ、シェーカーというものは、8の字を描いて振るも
刑事のマスター
思議な読みが生まれてくる。場面は「会員制バー」。
組、そして内田たちの「合邦派」と山県たち「併合派」と
円を二つくっつけると何か都合のわるいこと
ええ、円を二つくっつけたくないんです。
組である。これに対して「併合」をめざす日本政府側とし
宋秉畯が一組であり、日本側の内田良平と武田範 之が一
の中間の、両者のパイプとなったものに明治政界の黒幕的
マスター
バーテン
何か不真面目のようで。
マル
(シェーカーを振っている役人のバーテンに)
見てよいであろう。(七十頁)
存在である杉山茂丸と韓国憲兵隊長明石元二朗があったと
バーテン
でもあるのかね?
西尾陽太郎によれば、内田良平は一九〇五年に杉山茂丸の推
わたしは何かと何かが簡単に連結されると嫌
なんです。
8がどうして不真面目なんだね。
マスター
しかし、囲っていません。
バーテン
て会い 、「併合」のために李容九を説得する。しかし李容九の
い。
マスター
「合邦」論に納得、ついに「合邦」派になる人物である。この
バーテン
いいかげんにしたまえ、きみ。それでは氷が
薦により伊藤博文を知り、伊藤博文の意を託され「韓国事情調
ような経緯を「二都物語」に引きつけて考えるならば、最初の
マスター
査」のため韓国に行く。そして一九〇六年十月に李容九に初め
内田はリーランに対して「わたしは、あんたなんか知らない」
うまくまざり合わないんだ。
ィを持って浮かび上がる 。「二都物語」はまさに李容九と内田
バーテン
マスター
バーテン
そのうち描きますから、今のところは、3に
描いて誰かが傷つくもんじゃあるまいし。
どうして8の字を描くんですか。
3だって半円が二つつながっているじゃなか
は、今夜からおまえのヒモだ」と言ってしまう場面がリアリテ
と言いながらも、どんどんリーランに引きずり込まれ、つい「私
良平をめぐる「日韓併合」のパロディとして読めるのである。
しといて。(六十三頁)
それでは以上の李容九の文脈を導入しつつ、第二幕を見てみよ
う。
郎について、当時の東洋拓殖会社の副総裁であった野田卯太郎
ているのではないだろうか。特に「憲兵隊長」である明石元二
「8」と「3」をめぐる二人の会話は、「合邦から併合にす
道路らしいものを造ったのも明石、是と信ずれば眼中官なく民
は「朝鮮の 禿 山を今日のように青くしたのも明石、兎も角も
ゼ
りかわった」ドラマを連想させる。「3」では「うまくまざり
明石元二郎は「憲兵と警察とを統一したる新警察制度」を作る
なく一目散に突進する男」(西川虎次郎『明石将軍』一九三四・十、大
ことによって、これら二つを「同一首脳の下に統一」させたの
ように「何かと何かが簡単に連結」して「囲って」しまうのは
ハゲ
あわない 」(併合論)と責めるマスターに、バーテンは「8」の
邦」に見せかけて、最後は「併合」してしまう「日韓併合」の
である。そしてその任務は「1諜報ノ鬼集。2暴徒ノ討伐。3
憲兵隊司令官」
に何故このような評価が生まれるのかと言えば、
パロディではないだろうか。さらに一九六五年「日韓国交正常
将校下士(警視、警部)ノ検事事務代理。4犯罪ノ即決」など
道学館出版部、六十頁)と語っている。
「警務総長を兼ねたる明石
化」を前後して起こる「戦前史観の肯定的再評価の風潮」に対
などであるが、しかしそれだけではなく「日本語の普及、道路
ンの台詞は 、「そのうち描きますから」である。すなわち「合
して、姜在彦が「八紘一宇」の復活だと批判した、あの「八」
「何か不真面目」(合邦論)だと反論する。しかし最後のバーテ
をも思い出させる場面である。さらにこの場面が「日韓併合」
兵又は一般警察官の援助を待ってせるもの」(小森徳治『明石元二
法令の普及、納税義務の諭示等の諸般の行政事務は、総べて憲
郎(上巻)』一九六八・六、原書房、四四九頁)であったのである。す
の改修、国庫金及び公金の警護、稙林農事の改良、副業の奨励、
と「もともと、ここは万年筆工場」だったのである。というこ
なわち、「新警察制度」を作って「併合という間際になって、
のパロディとして示唆的なのは、この「会員制バー」が「万年
とはである。「万年筆売り」の後ろには「万年筆工場」があっ
水も漏さぬ警備を整へ、此曠古の大事業を、平穏無事の間に遂
筆工場」へと変身することである。「バーテン」の台詞による
たということである。第二幕で「万年筆売り」は「憲兵」に変
であり、その明石元二郎こそ「日韓併合」の「黒幕的存在」だ
身する。するとその後ろには「憲兵」を操っている何かがある
ったのである。以上のような物語を導入することによって、第
主体となったわけである。その「首脳」が明石元二郎だったの
中間の、両者のパイプとなったものに明治政界の黒幕的存在で
二幕の冒頭は、一九一〇年「日韓併合」直前の一場面として読
成せしめた」(四三七頁)だけでなく、実質的に「一般行政」の
ある杉山茂丸と韓国憲兵隊長明石元二朗があった」という解釈
ということになる。「憲兵」に注目すると、その何かとは、西
を連想させる。すなわち、
「マスター」と「バーテン」とは「黒
めるのではなかろうか。そして第二幕。内田が「私は、今夜か
尾陽太郎の「内田たちの「合邦派」と山県たち「併合派」との
幕的存在である杉山茂丸と韓国憲兵隊長明石元二朗」を暗示し
らおまえのヒモだ」と言った瞬間、リーランの「時間の木馬」
巻きこまれるのはやめましょうね。(七十七頁)
バーテン
リーラン
いいや、只……。
どっかに連れてゆくつもりね?
分かってますよ。
これは、私の兄なんです。
や日韓併合に向けての親日世論作り 」(四五一頁)だったと紹介
であり、その役割は「朝鮮内の反日的な動向を探るスパイ活動
日本軍通訳をつとめた宋秉畯が組織した朝鮮の親日御用団体」
を務めた「一進会」について、
「日露戦争中の1904年8月、
はまたも動き出す。
リーラン
されている。さらに姜在彦も「一進会は、日露戦争のさなかで
『朝鮮を知る事典 』(一九八六・三、平凡社)には李容九が会長
バーテン
あった1904年10月、表面、兵站監大谷少将の通訳として、
畯によって組織」(前出「朝鮮問題における内田良平の思想と行動」、十
兄さん、今のうちよ。謝ってしまいなさいよ。
八頁)された「売国団体」だと非難している。
リーラン
もしもし。
じつは「機密にかんする任務」をおびて日本からかえった宋秉
兄さん、どっからか電話よ。だめよ。もう奴ら
兄さんは只、あの人たちに通訳しただけなんだって……ね
バーテン
え、兄さんっ。
リーラン
李容九の「通訳」や「スパイ活動」を右の本文に当てると、
裏でコソコソやってる」と 、「政治に巻き込まれる」と忠告す
と語る。そして「時代はもう傾きかけている」のに、「奴らと
に通訳しただけ」だから、今のうち、
「謝ってしまいなさいよ」
驚きを以って映る。リーランは、兄 (李容九)は「あの人たち
て、奴らと裏でコソコソやってるんだから。兄さん、時代
る。だから「いい加減に足を洗って、村に帰ってらして」と説
あんたはいつもそういう。あたしにはそう言っ
ジャスミン。私は何もしてないよ。
と連絡なんかしたら。
内田
はもう傾きかけているのよ。いつまでもそんなことしてい
得する。リーランの言う「政治」とは何を意味するのか。それ
リーラン
たら、一人きりになってしまうのよ。兄さん、いい加減に
が分かるのはリーランの台詞が終わった瞬間である。二人の前
リーランの兄だけでなく、朝鮮で「憲兵」だった「元日本人」
籍を探し歩く元日本人」達である。過去への「時間の木馬」は、
とは、「昼間は職安、夜は万年筆屋の二股をかけ」ている、
「戸
には、
「憲兵の服」を着ている四人の影が現れる。その「憲兵」
(中略)
身柄はあたしに任せるって
足を洗って、村に帰ってらして。
兄さん、聞いた?
あんたの手、こんなにふるえてる。もう政治に
(困って)ジャスミン。
リーラン
さ。
内田
リーラン
「万年筆」も「戸籍抄本」も「燃え」てしまい、「偽の親子、
アメ色のベークライト
衣裳をぬいでもとの万年筆屋になる」。そして次の歌が流れる。
燃える
燃える
裏切りの約束
灰の数ほど捨てられた(一〇四頁)
暗い夢をまどろんで
燃える
炎のサインをかきまくる
インクの夢にたたられて
燃える
の親をも甦らせたのである。そしてその「憲兵」は、いわゆる
少女たち
「警務総長を兼ねたる明石憲兵隊司令官」傘下の「憲兵」に他
ならない。彼は李容九に次のようにせがむ。「そっちの彼氏は
万年筆買ってくれないのかね? 」「それと、あんた、もしかし
たら、あたしの顔に見覚えありませんか」「あたしを知りませ
んか?」と。そしてリーランの次のような台詞が続く。
兄さん、口をきいてはだめよ。
兄さんは、もうあんたたちの暗号を解読なんか
なんだって、リーラン。
リーラン
隊長
リーラン
(仲間に)冷たい娘だね。冷たい兄妹だね。
導入することによって、
「合邦」という「暗い夢をまどろんで」、
併合)の例えではないだろう。さらに股裂きの主体・李容九を
と摩り替えた道具であり、「戸籍抄本」とは国の「戸籍」(日韓
「アメ色のベークライト」(万年筆)は「合邦」を「併合」へ
隊長
ここまできたのに。
しないんだ。
連中
その実現のために「炎のサインをかきまく」ってきたが、それ
隊長の「頼む、誰か俺たちの万年筆を買ってくれ!」という
抄本」も「燃える
が「偽の親子」を刺した瞬間、忽ち「裏切りの約束」も「戸籍
ン」の「数ほど捨てられた」とも解釈出来る。しかしリーラン
兄さん、知らないって言うのよっ。(七十八頁)
ねえ、そこの彼氏。あたしたちを知りませんか?
言葉に、李容九はつい 、「ええ」と受諾してしまう。しかしそ
籍抄本」も燃えてしまった後、リーランは本当の内田を抱き、
リーラン
隊長
の瞬間、「軍刀がひらめく」。そして隊長は「あれじゃない。俺
らはすべて「裏切りの約束」で、「かきまく」った「炎のサイ
の戸籍には、あんな血は通ってない!」と切り捨ててしまうの
自死してしまう。
その時、李容九を用意した現在性とは何だったのか。李容九の
唐十郎は李礼仙のために李容九という「悪夢」を用意した。
燃える」のである。そして「万年筆」も「戸
である。その後憲兵達は、内田の「戸籍抄本」を手にし、内田
をせがむ。そしてニセの兄に抱きつき、「痰壺の中から一ふり
どういうところを現前化しようとしたのか。
「連帯」や「独立」
の家族に乗り移ってしまう。リーランは酔客に「最後の百円」
の短剣をつかみだして」
、「偽の一徹」の腹を刺す。その瞬間、
って「日韓併合」や「日韓国交正常化」前後して起こる議論の
陰画は股裂かれた主体だったのである。唐十郎は李容九をめぐ
というフィルタを通して李容九に光を当てた時、そこに現れた
しての李容九であるか。そのどちらでもない。唐十郎が李礼仙
の「志士」としての李容九であるか、それとも「売国分子」と
縛力によって、一人一人、その人ならではの情念(それが孕む問
無縁ではない。すなわち、「在日」という文字が持つ強烈な呪
名づけた理由は、唐十郎が氾濫する「言葉」に苛立ったことと
い。しかし、あえて唐十郎の言葉を借りて「特権的肉体論」と
ルやスター論と言ったら駄目なのか。もちろんそれでも構わな
も準備している。しかし何故「特権的肉体論」なのか。アイド
本稿のタイトルは「特権的肉体論Ⅰ」となっている。第二弾
題性)が揉み消されてしまったことへの異議申し立てである。
時も、どちらかに偏るのではなく、両方の矛盾かならずしも矛
ある特権的な場所にいる、ある特権的な在日の肉体を復活させ
盾でない主張によって、股裂かれる主体をみたのではなかろう
か。ここで注意すべきは、このような李容九の主体は李礼仙と
最後に、「一番気に入った役は?」という編集部からの質問
ることに、
「特権的肉体論」というタイトルの意図がある。
に、李礼仙は「「二都物語」のジャスミン」と答えている(「李
いうフィルタを通過することによって、初めて見えてくる光景
その光景は変幻自在に変わってくるのである。すなわち股裂き
である。李容九は李礼仙のどの部分に光を当てるかによって、
の主体を生きる李礼仙が、股裂かれた李容九という主体を甦ら
礼仙インタビュー」
『別冊新評』一九七四・十)
。
学)での研究発表をもとに新たにまとめた論であります。学会会場内外で貴
本論は「第四回九州大学日本語文学会」(二〇〇五・十・一、於・九州大
【付記】
せたのである。
一般市民社会では恥部に属されるものが、ある特権的な場所
界における刺青のように。六十年代後半、唐十郎が「言葉」に
重なご意見を賜りました皆様に深く感謝申し上げます。
ではその恥部さ故に非常に輝く時がある。例えば、ヤクザの世
対峙する形で打ち立てた「特権的肉体論」は、演劇界において
(九州大学大学院博士後期課程二年)
忘却されつつある「肉体」の奪還であった。そしてそのような
場所では、股裂きの主体を生きる李礼仙という肉体は、非常に
「特権的」に映ったに違いない。
◎ 書 評
書評『広島
Y o s h i e
佳 恵
記憶のポリティクス』
―なぜ、いま、それ、なのか―
HATANAKA
畑 中
期せずして「戦後六〇年目の夏」という衆目を集める時期に
米山が照らし出そうとする「現在」はといえば、さしあたり、
法を身につけた、
「現在」の構成員のことである。
《ポストコロニアルおよびポスト核の時代状況》(五五頁)、《国
(二九七頁)る状況、
民国家が制度的な単位として存在しつづけ》
という大きなキーワードとして確認できる。
「ポスト」という接頭辞が前時代からの切断を意味しないこ
とは周知のとおりで、植民地主義的な言説、核の恐怖とそれを
政治的カードとする言説は形こそかえ―《修正、反復、さら
この場所やその地の歴史と人々に実存的なつながりを見出
く、「現在」に必要な国民化の言説であるからに他ならない。
れ整備されるのは、それが独立した「過去」に属す何かではな
ている。また、出来事をめぐる記憶が国民のレヴェルで要請さ
には強化》(三五頁)され―「現在」の主要な構成要素となっ
さない人たちにとって、そこで起こったこと、起こりつづ
日本語訳の出版された本書であるが、著者米山リサの、
けていることと自分たちの生とが分かち難く互いに連結し
この認識に従うなら、原著が刊行された一九九九年と日本語
訳刊行の二〇〇五年、そしてさらに出遅れた本書評の「いま」
あっていることにどのようにしたら気づくことができるの
も、状況を等しくするといっていいだろう。〈いま私たちが当
だろう。(五六頁)
るものなのか。そこには、ある対象を切り取り説明する言葉が、
事者であること〉を可視化しようとする本書の試みとはいかな
切り取り説明する者の位置性を巻き込んでいることや、それゆ
―という問題意識は、公的な節目の言説としてある「現在」
一年に一度、あるいは十年に一度、特定の日時に特定の出来
え「現在」に機能しうることに関心を寄せる者にとって、無視
ではない「現在」を見据えようとしている。
事を想起し、儀礼的態度でもって消費する「現在」は、出来事
さて 、「いま」に連結する出来事のなかでも、なぜ他でもな
できない議論が含まれているに違いない。
い「それ」―広島の原爆被災をめぐる記憶と語り―に注目
との距離を測定する身ぶりを通して、その出来事を「過去」の
の「現在」はびくともしない。彼・彼女らの存在と重ねるよう
するのか。米山の言及を拾い集めると次のような回答をえられ
ものとして切り離す。切断を否認する者の現れによっても、こ
に「当事者」が実体化されるならば、他方には「非当事者」が
(ⅹ
る。ポストコロニアルに進行中の様々な《死の不均等配分》
実体化されるのだから。他方とはもちろん、公的な距離感と作
よるもの)や核武装化への動き(現今の日本など)への警告となる
頁)を喚起し、またポスト核の放射能汚染(例えば劣化ウラン弾に
憶・記憶の廃墟」である。
《競合的な記憶》(九九頁)に注目するのが、第二章「廃墟の記
去が計画されるが、それに対する反対活動をとおして出現した
(一〇七
ティヴとして、出来事を想起する者たちは《沈思の時》
ひたすら前進することを強いる支配的な時間感覚のオルタナ
から。また大枠としては国民の語りに回収されてきた一方で、
いたから。諸力のせめぎあい(ポリティクス)の場として辿りな
その経緯には《多元的な意味》(ⅷ頁)へのベクトルが介在して
頁)を体現していた。彼・彼女らの「喪失」をめぐる語りは多
様ながら、聴く者に核兵器の開発・使用に帰結した「進歩」へ
おすことによって 、《隠蔽された知 》( 頁)の抵抗力・批判力
を前景化しようというわけである。
の警鐘を鳴らす。遺跡から導かれる《悔恨と省察》(一二六頁)
の疑念をいだかせ、遺跡が被ろうとしている「第二の喪失」へ
の時のうちに聴き手をもとどまらせようとする語りは 、《批判
本書の構成にそって具体的に紹介しよう。序章ではまず、広
一部にある、という井上章一の論が紹介され、これが一般に忘
では、公的な証言活動が考察対象となる。広島の原爆被災を生
第二部にあたる第三章「証言活動」、第四章「記憶の迂回路」
的に政治化されたもの》(一二五頁)と評価された。
き延びた人々の語りは 、「被爆の実相」という公的な歴史の一
権能を与えられていた。が、その一方で、彼・彼女らは出来事
ているという構造において等しい。他にも、原爆死没者慰霊碑
を完全に伝達することの不可能性を感知してもいた。一九八三
地点を証言するものとして、
《真実のレジーム》(一三五頁)から
九頁、何処に向けての反核キャンペーンなのか)に 、
《普遍主義と特殊
年に設立された「語る会」のメンバーたちは、被爆がその後の
日本協議会の内部分裂として現れた《「いかなる国」問題》(二
跡)を拾いあげ、その可能性に照射する
の時間 》(一六一頁)を取り戻そうとする。このような証言活動
されてきたもの(痕
第一部第一章「記憶景観の馴致」では、広島市の再開発計画
は、固定化された被爆の証言と被爆者像に対する異議申し立て
人生に与えた影響を中心化して語り、それによって《「わたし」
や企業によるイベントにおいて 、《死の景観が豊かさ、魅惑、
なかでも「語る会」の沼田鈴子の語りの戦術は、当時の自分に
とくに第四章では、五人の語り手の活動に焦点がしぼられた。
として位置づけられている。
せる遺跡 (日本銀行旧営業所・原爆ドーム・赤十字病院)の解体・除
る。この「明るい広島」の形成過程で、「暗い過去」を想起さ
快適さの景観へと転化されていくプロセス》(七七頁)が辿られ
ことが、以降の章を貫くテーマとなるだろう。
トレーシーズ
主義の相互補完性》(三二頁)が指摘される。その背後に取り残
の碑文をめぐる論争(記念の遂行主体は誰なのか)や、原水爆禁止
和と人類の修辞》(三二頁)が日本人のナショナリズムと結託し
却されている事実に注意が促される。両者をめぐる言説は、
《平
島平和記念公園の様式的起源が「大東亜建設記念営造計画」の
ⅹⅱ
他にも、沖縄戦や南京掠奪などの出来事を経由して広島の被
させ》(一八一頁)つつ、公的に供給される「表の知」の性質に
同じ連隊だと知ったことを 。) 出来事の《言及的真実を無限に遅延
時代の記憶と、後に訪れたマレーシアのある村で中国人住民を虐殺したのが
るという。(例えば広島の第一一連隊をあこがれの的としていた軍国少女
は知らされていなかったことを結びつけ並べてみせることにあ
(二四一頁)ため、
《「民族として」日本の社会と歴史に参加する》
てきた。
とくに市民権・公民権を求める在日コリアンの多くは、
のは差別なのか特別な意味なのか、といった点で解釈が対立し
る文言が削られたのは誰のどんな意向ゆえか、その立地が示す
てを記念する碑であるか否か、日本の植民地支配を連想させう
の体験を想起する場となってきたが、韓国朝鮮人の犠牲者すべ
の在日コリアンを浮かび上がらせるもの。この碑は彼・彼女ら
合体が、差異のままに結びつけられる関係性―同化主義に批
憶 》(二四六頁)が「回復」されることによって、民族という集
米山の関心は、こういった《不協和音を奏でるもろもろの記
碑文に植民地支配の記憶が盛り込まれることを望んだ。
こそ、
聴き手の関心を向けさせるものとして重要視されている。
爆を語り、現代との類似や連続性をもって警告につなげようと
る、回避できたかもしれない出来事の連なりは、聴く者の「現
判的な連携―として生起する可能性へと向けられている。
する松田豪。彼が自らも含めた様々な加害者を指し示しつつ語
在」への信頼を揺さぶる効果を指摘される。山崎寛治、佐伯敏
米山が強調するのは、語り手と聴き手の共感、語り手と死者
することで母性を国民化する。「母となること」と身体の異常
とになった。その語りは、アメリカによる犠牲者・日本を代表
って 、「広島の母」は平和・反核言説において英雄化されるこ
な想起のあり様である。なかでも「母らしさ」の固定観念によ
第六章で分析されるのは、「日本人女性」を固定化するよう
子、田原幻吉らの語りは、原爆による死者たちのために語るこ
とと、死者に成り代わって語ることの間を往復するものとして
の共感はほんのつかの間しか成立せず、それも語り手の自覚す
とを結びつけて不安を抱く女性被爆者たちの経験は、母性を昇
取り上げられた。
感の共同体」の危険性―例えば国民国家の言説に回収される
る伝達不可能性とつねに緊張関係にあるということ。
それは「共
華する支配的言説から締め出され、
文学作品のテーマとなった。
が突きつけるのは、《女性の過去を女性に属する過去として書
の女性雑誌『銃後史ノート』である。これを紹介しつつ、米山
国家の共犯関係を明らかにしようとしたのが、一九七七年刊行
一連の支配的な想起において忘却されてきた、日本人女性と
危険―を回避し、各人が異質な位置性を通じて連携するのを
助けるような特徴であるという。
つづく第三部は第五章「エスニックな記憶・コロニアルな記
一九七〇年に平和記念公園の川向こうに建立された韓国人原
き直すこと》(二八二頁)への懐疑である。ジェンダーの二項対
憶」
、第六章「戦後平和と記憶の女性化」からなる。
爆犠牲者慰霊碑をめぐる言説分析は、差異化される主体として
侵害された経験として被爆が語られたこと〉に言及し、本章が
分岐しうるそれぞれの当事者性において、追求され止まぬもの
せていくものなのだ。それゆえ、私たちの「いま」は、様々に
時代状況は、事実上、いかなる者にもこのグローバルな状態の
立関係を攪乱する可能性の一つとして、〈ジェンダーの区別が
外にとどまることを許さない》(五五頁)といった常套句となり
となる。その意味では 、《ポストコロニアルおよびポスト核の
本書の概要を追ってみて気付かされるのは、本書評がやや過
締めくくられている。
剰に汲みだそうとしてきた「なぜそれを論じるのか」は、答え
つつある物言いに、素朴に寄り掛かることはできない。
はいえない。また、広島の光景を経由することが、抵抗を前景
り去ろうとする言説への抵抗は、おそらく広島に固有の光景と
う。そこで看過できないのは、「国民の語り」など支配的言説
ており、さらに共同で練り上げられている最中であるといえよ
をみようとする米山の立場は、すでに一定のコンセンサスをえ
らズレた言説を生み出す個人の行為に、歴史の主体となる能力
語りをつうじて記憶の断片をつなぎあわせ、支配的な言説か
尽くせる問いではないということである。記憶の作業によって
化する最も効果的な戦略であるか否かも、新たな論点を構成す
のあり様である。それは一貫性を備えた堅固なものとは決して
国民化を促す言説への抵抗、さまざまな「過去」を囲い込み葬
るはずである。(それは、全体を知らねば部分を解釈・評価できず、その
……とみるならば、ズレの性質(結局は支配的言説を豊かにする「異
いえず、周縁を彩る雑多なものを貪欲に飲み込みつづけている
逆もまた真という解釈学的循環との闘いでもあるだろう。
)
その一方で、本書の「はじめに」で感謝が捧げられているよ
くれるだろう。語りを「読む」行為が、テクスト内外の条件と
読書論と書物の形態論は、その際、大きな手がかりを与えて
質さ」にならないか)は慎重に吟味されねばならない。
うな多くの人々と広島を介して縁づき、対話を重ねてきた米山
して「それ」との縁を結び拡げながら、「なぜそれなのか」を
パースペクティヴによって、聴き手を最終的に何処へ連れ出す
の個人的経緯は、この問いと深く関わるに違いない。研究を通
分節化し続けるべき問いとして保持する姿勢こそが、米山を含
浩訳
米山リサ『広島
のか。抵抗と批判の可能性は、そこにかかっているからである。
めた私たちに求められているだろう。
その時、米山のいうように 、《象徴の暴力 》(五六頁) に気遣
て名指し、その経験を説明の言葉に絡め取ろうとすることは、
and the Dialectics of Memory』一九九九年五月
二〇〇五年七月
(西南学院大学非常勤講師)
カリフォルニア大学出版)
岩波書店/原著『Hiroshima Traces: Time, Space,
記憶のポリティクス』(小沢弘明・小澤祥子・小田島勝
他者を他者として知り応答しあうためのステップとして《あま
うことはとても困難で重要な課題となる。他者を分析対象とし
り性急に放棄されることがあってはならない 》(五六頁)。私た
ちの言葉は、固定化する力と流動化する力の緊張の上に成立さ
刺激的である。
―〈神話形成の文学世界と歴史認識―』の提示する問いは、
いるものとは何か。などといった大江の神話的思考の根底
学のテーマではないなら、神話によって照し出そうとして
形成〉的傾向はいかに解釈できるのか。神話それ自体が文
今日の文学においてなぜ神話なのか。大江文学の〈神話
認識の一方法でもあるとも言えよう。
出来事から、新たな可能性を発見しようとする大江の歴史
(歴史) の総体を鳥瞰し、実現されなかった可能性含みの
世界モデル、宇宙モデルをつくり出してきた。それは過去
目する。大江は〈神話形成〉を通して日本・日本人モデル、
に神話的ヴィジョンを持ち込もうとしている大江文学に注
繰返しになるが、私は六〇年代後半から著しく作品世界
必要もあるだろう。
バルトの「神話作用」的視点から大江の作品を読んでみる
・喚起力を呼び起こし、表象的な力を発揮してくるなら、
文学作品が創出する人工的神話が現実社会に大きな形成力
〈神話形成〉はどのような意図によるものであるか。また
的に神話を作っているとするなら、その対称は何であり、
で示唆深い。もし今日の文学テクストが何かに対して人工
つくりだすことである」というバルトの発言は、この意味
多分、今度は神話を神話化することであり、人工的神話を
るものとして作用する神話、それに対する「最良の武器は、
今日のブルジョワジーが彼らの価値観・世界観を押しつけ
◎ 書 評
K a z u n o r i
和 典
蘇明仙著『大江健三郎論―〈神
』
話形成〉の文学世界と歴史認識―
N A K A N O
中 野
統合と連合とは、言語を分析的にとらえる最も基本的な視点
だと言えるだろう。
「私はリンゴが好きだ」と言うとき、
「リン
ゴが私は好きだ」と言うのか、「リンゴが好きだ私は」と言う
葉の関係を見るのが統合の視点であり、
「私はミカンが好きだ」、
のか、つまり、言語の線的特質に注目してその序列において言
「私はレモンが好きだ」等、つまり、同位の言葉の中からどれ
を選ぶのかに注目して、その同位配列において言葉の関係を見
るのが連合の視点である。ソシュールの指摘するとおり、この
視点は、単に語に対してだけでなく、あらゆる種類の複合単位
(合成語から全文まで)に対して適用できる(
『一般言語学講義』)。
〈歴
史〉を一つのテクストと見なし、統合と連合の視点を拡大的に
援用すれば、ある時代の出来事の中から、どのような出来事を
選択し、記述するのかということは連合の問題に関わり、選び
出した出来事をどのように接続し、どのような文脈において語
るのかということは統合の問題に関わると言えるだろう。
このようなことを念頭に置くとき、蘇明仙著『大江健三郎論
こうとしている。実現された歴史に対抗する、もう一つの歴史。
性を見ようとするテクストとして大江健三郎の作品群を読み解
蘇明仙は、実現されなかった出来事に焦点をあて、そこに可能
ろうか。また、自己言及によって生まれている永遠回帰の反復
実現した、現実の世界の時空間とはどのような関係にあるのだ
において神話的な時空間を立ち上げているとして、そのことと
分が残っていると思う。例えば、大江健三郎の小説がその構成
か」という問題を本書が十分に論じきっているとは言えない部
ただし、最初に提示した「今日の文学においてなぜ神話なの
史という問題領域の広大さを知ることができるだろう。
それは既存の歴史にもうひとつの虚構の歴史を対置して、新た
や、新しい「私」探求のテクストが、どれくらい既存の歴史を
神話と〈神話形成〉
)
な連合の関係を創り出すことを意味するだろう。そして、その
相対化しえているのだろうか。このような点については、今後
(第一章
にあるものを明らかにしていきたい。
連合的な歴史の創出を成り立たせているのが、〈神話形成〉と
その場合、重要になるのは、統合の問題ではないだろうか。
もっと追究していく必要があると思う。
一言に連合といっても自明のものとして実体的に存在している
いう働きではないのか、という問いは鋭い。蘇明仙自身が指摘
その問いをめぐって、この書では多角的な検討がなされてい
しているとおり、
神話と歴史とは密接に結びついているからだ。
る。一九六〇年代に起こった新しい日本ナショナリズムと〈神
毎に連合の関係は生成するのであり、そのような意味において
合関係にあるわけではないのだ。何かを語ろうとする、その度
は、連合に枠組みをあたえているのは、統合の働きなのである。
のではない。リンゴやミカンがいかなる文脈においても強い連
考と異化の関係等々、それぞれに説得力のある論が展開されて
大江健三郎の〈神話形成〉の文学世界と歴史認識は、いかなる
話形成〉との関係、出来事の反復(再現)や円環的時間認識と
いる。特に『万延元年
文脈において、どのような照応関係をもって、実現された歴史
神話的時空間の関係、登場人物と記紀神話との関係、神話的思
むしり仔撃ち」(と「『芽
のフットボール 』、「芽
(とそれをささえる神話)とに対抗しうるのであろうか。今後の蘇
二三八〇円+税)
(筑紫女学園中学・高等学校教諭)
二二七頁
明仙の動向に注目したい。
花書院
むしり仔撃ち』裁判」)
、
『同
(二〇〇六年一月
時代ゲーム』における
神話的要素の分析は緻
密である。この書によ
って、大江健三郎の作
品群における神話と歴
い
編集後記
か
どっかに、適当に、安住しようとすると
◆
暖
恐ろしい沈黙を以て、我々を叱咤・挑発し
た花田俊典先生が二〇〇四年六月二日に他
界された。そして二〇〇五年四月から花田
先生の後任である松本常彦先生が赴任され
た。赴任して初めての顔合わせの席で先生
は我々に次のように挑発した 。「勝負しよ
◆ 投稿規定
一、投稿資格は会員に限る。
ついての研究。
二、内容は日本語文学に関連する各分野に
各自掲載頁数に応じた費用を負担し、
三、規定分量は設けない。但し、執筆者は
これを刊行費とする。
四、申込先は「九大日文」編集委員会。
九大日文
「九大日文」編集委員会
九州大学日本語文学会
二〇〇六年四月三〇日発行
編集発行
八一〇―八五六〇
福岡市中央区六本松四―二―一
誰がもっと面白いのを書けるか、勝
九州大学大学院比較社会文化研究院
う!
負しよう!」と。それから一年。今回の7
城島印刷有限会社
FAX 〇九二(五二四)四四一一
TEL 〇九二(五二六)〇二八七
福岡市中央区白金二―九―六
八一〇―〇〇一二
印刷製本
郵便振替 〇一七二〇―五―一〇五六七三
松本常彦研究室気付
編集委員
楠田 剛士
小川 竜紀
生住 昌大
相珉(編集長)
号はその挑発うけての第一戦である。挑発
読んでいただきたい。そして一つの報告。
二〇〇二年四月に山口大学から九州大学に
来られた石川巧先生が二〇〇六年四月で東
暖 か い
京の立教大学に移られた。正直、とても、
寂しい。しかし先生は 、「縁が切れるわけ
じゃないやろう。今度は東京で喧嘩を売る
から、ちゃんと買ってくれよ」と語る。東
京からの発信音をどのような形で受け止
め、送り返すか、売られた喧嘩をどのよう
な形で買うか、バカデカイ面白い爆弾を送
、、、、
り返すか、それとも自爆するか、福岡の今
、、、、、、
を生きる我々は問われている
。(L)
林
した者と挑発された者の緊張した空気をも
◆
07