【初めに】 【自分事と他人事】

【初めに】
今回のセミナーでは(も?)、いくつか混乱させてしまった点があると思うので
すが、特に「自分事と他人事」という話と、
「コミットメント」という話は、2
012年中にある程度フォローしておいた方がいいかなと思い、大急ぎでレポ
ートを書きました。
僕のセミナーは全てが同じテーマのもとに企画されていますので、当然内容的
には全てがつながっていますが、この「自分事と他人事」と「コミットメント」
もかなり濃厚につながっています。この濃厚なつながりを言葉にしたものが、
セミナーで言うと最後のスライドです。つまり、僕の感覚としては
「最後のスライドを腑に落とすためには、コミットメントの感覚が必要→コミ
ットメントの感覚を腑に落とすためには他人事感が分からないといけない」
というものがあったのです。
だから、あのスライドさえ腑に落ちてくれれば、それ以前は全部忘れてくれて
も構いません。あのスライドを腑に落としてもらうための、より深いレベルで
理解してもらうための、その他のスライドたちでしたから。
その辺について、少し言葉を補足しながら、例を挙げながら、詳しく解説して
まいります。推敲などほとんどできていないのである程度誤字脱字や、日本語
としての不備、構成上の不備などあるかと思いますが、ご容赦を。
ちなみに「ですます調」なのはこの「初めに」だけになりますが、それもお気
になさらず。
【自分事と他人事】
少し混乱させてしまったのかもしれないけれど、
「自分の人生を他人事として見
る」ことと「自分の人生を自分で生きる」ことは矛盾しない。そもそも、他人
事として「見る」のであって他人事として生きるのとは違うし、心配しなくて
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も100%他人事には絶対になれない。この話を長々と繰り返しした肝は、
「我々は自分のことを他人事として見れな過ぎる」
という前提で、
「バランスを取るために他人事として見る訓練をしましょう、そうして初めて
見えてくる世界もあるのですよ」
ということ。
これを少し固い言い方に直せば、「自分のことを主観的に捉えるだけではなく、
客観的に見れるようになりましょう」ということになる。こう言えば特に違和
感はないと思うけど、個人的にはその違和感のなさがかえって怖い。あえて「自
分事・他人事」という用語選択をしたのは、「主観的・客観的」という単語が、
あまりにもなじみがありすぎて、にも関わらずほとんどの人には実感を伴わな
いもの過ぎて、変化のきっかけにはなり得ないと感じたからである。
「分かった気になっていて実はその本質を分かっていない言葉」というのが一
番対処に面倒くさいのだけど、この主観的とか客観的という言葉は、ほとんど
の人にとってそのカテゴリーに入ると思う。主観とは何か、客観とは何かとい
うのは、数千年続く哲学の議論をある程度は踏まえていないと腑には落ちない
ものだから。ましてや自分の実存と結びつけて理解するのはとても難しい。
でも、自分・他人という言葉は、そもそもが実存からそこまで乖離していない。
直観的に理解できる単語である。だから、今回はあえてこの単語を選ばせても
らった、ということ。
これは最後の話にもつながっていて、自分は自分の人生という物語の主人公で
もあると同時に作者でもあるという、驚くべき特権階級に属しているのだとい
うことを知ること。他人の物語として見る作者の目、そして自分の人生を生き
る主人公の目、その二つのバランスが大切なのだということ。完全に作者にな
るのでもなく、完全に主人公になるのでもない。両方の視点が必要不可欠なの
だということ、そういうことにつながっている。
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【コミットメント】
多くの人を最大の混乱に陥れたコミットメントの話は、しなくてもよかったか
もしれないし、実際資料を作っているときにも悩んだんだけど、最後のヒーロ
ーの話をするためにコミットメントの感覚をどうしても説明しておきたかった。
ヒーローは「必ず」コミットしてて、それは「そうであると知っている」だけ
なのだという、その感覚を。
ヒーローというのは、別に「俺が頑張って世界をよくするぞ!」とか思ってい
るわけではない。全ては「見せる」作品である以上、漫画や映画ではそう描か
れていることも多いけれど、
「みんなで力を合わせて世界を救うぞ!」とかわざ
とらしく言っているシーンもあるけれど、よく見ると、ヒーロー自身に移入し
て考えてみると、そうではないことがわかる。
なぜなら、彼らは確信しているから。
自分にはできる、自分にしかできない、と確信しているのである。
あれは努力して、できるかどうかわからないことをがんばってやる、という態
度とは違う。そういう「不確定な」ものに対する「確信」は、実は「確」信で
はない。99%信じているかもしれないけれど、本質的に不確定なのだから、
100%は信じられない。1%は、不確定な領域として“必ず”残される。
引き寄せの法則的な本に「100%信じましょう、そうすれば叶います」と書
いてあるのがあざといと僕は思うのは、それが絶対に不可能なことだから。
「難しいからできない」というのであれば、それはその人の努力でどうにでも
なる。死ぬ程頑張れば、できるようになる。でも、この「不確定なものを10
0%信じる」というのは、努力ではどうにもならない。難しいのではなく、
「不
確定」という単語の定義に、
「確かではない」という意味が含まれているからだ。
それを「確かに」信じるというのは、単なる語義矛盾であり、人間的なるもの
を全てを放棄した「人知を超えたバカ」にしかできない芸当だ。
100%信じれば願いが叶う、というのは嘘ではないし、僕自身本当だと思う。
しかし、今説明したように「本質的に不確定なものを100%信じる」という
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ことは、理屈上はできても、実際にはできない。それを「やれば」願いがかな
うと言ってるところが、とても悪どいと個人的には思うのである。仮に願いが
かなわなくても、「それはあなたが100%信じていないからです」と言える。
場合によっては
「そういう人間に本来備わっているはずの能力が、あなたの長い抑圧された生
活の中で機能しなくなっています。まずはその能力を解放するためのワークシ
ョップに参加しましょう。はい、100万円です。」
とか言える。これを悪どいと言わなくて何と言うのだろうかと、僕は素朴に思
う。これは完全な悪徳商法である。
100%信じられるのは、つまり「確信」できるのは、
「それが起こると“既に”
知っている」場合に限られる。
そんなのは日本語を少し冷静に考えてみれば理解できるレベルの、当たり前の
ことである。コミットメントは、そういう意味合いの単語。確信しているから
こそ頑張れる、という感じの単語なのだ。それが、
「目標設定+努力(=不確定な
ものに対する人知の挑戦)」と、「コミットメント(=既に答えを知っているも
のに対する確認作業)」の違いかなと思う。
さて、ではこれからいくつかの例を挙げるので、コミットメントの実感を掴む
更なる助けとしてもらえれば幸いである。
【科学用語としてのコミットメント】
今僕はマスタークラスで、肉体と精神とスピリチュアリティを統合するための
講座を、約20ヶ月かける壮大な講座として行っている。といっても別に何か
ふわふわしたことをやっているかというと全然そうではなく、脳科学の話をし
たり、癌の話をしたり、アレルギーの話をしたり、筋トレの話をしたり、時々
ヒーリングの話をしたり、というくらいだが、そこで最近免疫の話をした。
「免疫」というのは骨髄にある造血幹細胞が分化して、例えば T 細胞という免
疫細胞になったり、B 細胞という免疫細胞になったりしてできていくものなの
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だけれど、免疫学の教科書なんかを見てみると、ある造血幹細胞が、例えば B
細胞になる現象を「B 細胞系列へのコミットメント」という言い方をしている
ことに気が付く。
当然だけれど、造血幹細胞に意思はなく、
「よし、B 細胞に絶対なってやるぞ!」
と思ってなるわけではない。何か降りかかる困難を排除し、努力に努力を重ね
て何とか B 細胞になるわけではない。それは確率論的に自動的に決まっている。
コミットメントという単語は、こういう場合に使うものであり、本質的に結果
論なのだ。免疫学の教科書の場合では、
「B 細胞になる」という不確定な未来に
ついて言及する単語として使われているのではなく、あくまでも「なることが
決まっている」ことを指示してその単語を使うということ。
僕らがこの単語を使う時に混乱を誘うのは、セミナー中の質問でも出たように、
表現の形式として、どうしても時系列が破綻してしまう、という点にある。コ
ミットメント『する』と未来形で表現しなくてはいけない言語上の制約があっ
て、これを仮に「コミットメントした」と言ったところで本質は変わらない。
過去に「するぞ!」と思ってしたようなニュアンスになるから。
コミットメントは、未来形でも、過去形でもない。純然たる現在形で、それも、
永遠の現在形なのだ。
その意味でコミットメントは、また別の方が言ってくれたように、Do というよ
りは Be であって、するものではなく、しているもの、そういう状態にあるもの
なのだという理解が不可欠かなと思う。この方は「速く動こうとするな、動け
ると知れ」という映画マトリックスのセリフを紹介してくれたけど、まさにそ
れはコミットメントの感覚として、非常に的確だと個人的には思う。
【ラグビーとコミットメント】
セミナー中で、スラムダンクの安西監督のような「鬼→仏」という変化を遂げ
た東福岡高校ラグビー部の監督の話をした。興味がある人は
https://www.youtube.com/user/katchan55
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の「ALL for ONE! 筑紫高校 魂のラグビー」という動画(完全版とそうでな
いものがあるので、完全版の1~7を順番に見るのがお勧め)を見てほしいと
思う。この番組の主人公は筑紫高校という福岡の高校で、東福岡はそのライバ
ルという位置づけで登場する。多分、王者に立ち向かう挑戦者、という画の方
が受けるからそうなっているのだろう。もちろん、筑紫も素晴らしいチーム。
面白いのは、今まで何人かの人にこの動画を紹介したけれど、筑紫が好きか東
福岡が好きか、割と綺麗に分かれるという点だ。もし見てみたら、自分がラグ
ビーをやるとしたら、どちらの高校でやりたいかを考えて、またなぜそう思う
のかも考えてみてほしい。
で、この動画の中で、試合前に「101%は必要ない、でも80%じゃもった
いない。何%だ?」という谷崎さんの言葉に、
「100%」と部員が返し、それ
に対して「そう、楽しんどいで」と谷崎さんが送り出すシーンがあるのだけど、
これは彼の象徴だと思う。ミスをしても、点を取っても、笑顔を忘れるなとい
う谷崎さんの本質がここにある。
自分のステージの中で、できることを残さずやって来い、そしてそれを楽しん
で来い、仮に試合中に死んだとしても、そしたらきっと悔いは残らないから、
と。
そういうことを、彼は常に考えているのだろう。
「もったいない」という表現が
ポイントだと思う。
「ダメ」とか「そんなんじゃ勝てない」とかそういうニュア
ンスではない。80%程度で流すとか、
「お前たちの人生の、貴重なこの瞬間に
対して、そんなことをしていてはもったいないだろう、それでその直後に死ん
でお前たちは笑顔でいられるのか」という谷崎さんのメッセージである。
80%しか出せないということ、それはつまりコミットしていないということ
だ。コミットしていないならば、あえてそれをやらなくてもよい。そのこと自
体が「もったいない」ことである、と、コミットできることをやるべきである、
人間はいつ死ぬかわからないのだから、と、奥さんを突然失った谷崎さんは感
じているのではないかと、勝手に思う。コミットしている谷崎さんに引っ張ら
れる形で、東福岡の選手たちもコミットできている。コミットするとはどうい
うことかが、谷崎さんの背中を通して選手に語られているからだろう。
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【ボディビルとコミットメント】
ここ日本には、マッスル北村さんという世界に誇れるボディビルダーがいた。
「いた」と過去形なのは、あまりにも過激な減量をしすぎて若くして亡くなっ
てしまったからだ。彼は多くの人を惹きつけ、今でも多数のファンが「○回忌」
という形で彼を弔い、トレーニング系の雑誌ではしばしば彼の特集が組まれる
ほどである。
もちろん彼の人格が素晴らしかったということもあるが、彼の「コミットする」
姿が、多くの人を魅了してやまなかったのだと僕は思う。コミットできるのは、
ヒーローだけだから。
かく言う僕は、生きている北村さんを見たのは、小学生の時に1回、それもテ
レビで見たことしかない。しかしおそらく1分もないくらいのその時間で北村
さんが言っていたことは、今でも鮮明に覚えている。ボディビルダーなんて気
持ち悪いと思っていたし、内容的にも興味のある話では全くなかったし、なぜ
こんなに鮮明に覚えているのかもよくわからないが、コミットしている本物の
発言というのはブラウン管を通してもインパクトがあったということなのだろ
う。
彼は、
「ボディビル」にコミットしていたと思われているけれど、僕は違うと思
う。彼は、「燃え尽きることにコミットしていた」のだ。彼はジョーのように、
真っ白な灰になりたかった。自分のすべてを出し尽くしたら自分はどうなるの
か、どうすれば真っ白な灰になるほど自分の全力を出せるのか。彼は高校生の
時からそれだけを考え、様々なことをしてきた人である。
そんな彼は伝説に事欠かない。
あまりにも多すぎてここではあえて書かないけれど、興味があれば検索してみ
てほしい。コミットしているとこうなるんだ、ということが垣間見れると思う。
これは「努力」の世界ではない。「コミット」の世界なのだ。
セミナーでも言及したけれど、
「どうしてそんなに努力できるんですか」という
くらい努力している人、例えばイチローみたいな人は、それを努力と思ってい
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ないことが多い。そういう姿を見て我々凡人は「あの人は別格だ」と思考を停
止したり、
「天才とは、努力を努力と思わない人のことだ」などとしたり顔で語
ったりするが、彼らは努力ではなくコミットをしているのだというのが、実際
の所である。
努力は裏切らない、というのは本当だが、同時に努力ではその到達点に限界が
ある。
このことを、もっと「コーチ」や「リーダー」の立場にある人は誠実に語るべ
きだと思う。努力すればそれで願いが叶うというのは、宇宙へオーダーを出せ
ばそれで願いが叶うというのと同じくらいの暴論で、嘘ではないにせよ大事な
部分が抜け落ちた言説である。
努力の先へは、コミットメントがないと到達することができない。そしてコミ
ットメントができると、努力という概念が存在しなくなる。周りから見ればそ
れは努力だが、“主人公”に言わせれば何の努力でもなくなるからだ。
さらに大事なのは、ステージが上がるとコミットメントできるものが各段に増
える、ということ。例えばステージ1の人は1つ、2の人は3つ、3の人は6
つ、などというように、それは比例的に増えていかない。もっと指数関数的な
グラフで増えていく。ステージ100くらいになると、もうほとんどのことに
コミットでき過ぎて、例えばノーベル賞を2つ取ってしまったポーリング(二
つのノーベル賞受賞は歴史上唯一)みたいなことになる可能性もある。
だから僕はセミナーで「とにかく自分のステージを上げることにコミットする
べき」と言ったのである。それこそが真の意味での「自己投資」であり、株の
勉強をするとか、コピーライティングを学ぶとか、頑張って哲学書に挑戦する
とか、そういうものは表面的な自己投資だ。
「表面的」というのは言葉が悪いか
もしれないが、それは結局は「直線的」な成長しかもたらさない。あくまでも
一次関数の世界なのである。
しかしコミットメントは違う。ステージが上がれば指数関数的に成長と成功を
サポートしてくれる。直線的な、1+1=2の自己投資はあくまでも「努力」
の範疇であり、それはとても大切で尊いものだが、万人が限界までやらなけれ
ばいけないものだが、それが「ゴール」だと思ってはいけない。それを乗り越
えた先に、「コミットメント」という境地が開けるのである。
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これは確信しているわけではないから断言はできないのだけれど、多分コミッ
トメントは、ある程度の努力を超えてきた人にしかできないものなのではない
かと思う。というのも、努力とはどういうものか、努力の限界がどこにあるの
かが肌感覚でわからないと、コミットメントの感覚もわからないからだ。
天才と呼ばれる人は、努力を努力とも思わないのではなく、努力の限界を超え
る前にコミットメントができる人のことなのではないかと、最近は考えている。
この辺はまだ結論が出ていないので何とも言えないのだけれど、何か参考にな
るようであれば、してもらえると嬉しいし、コメントや意見などあれば送って
もらえるとなお嬉しい。
【漫画とコミットメント】
セミナーでは今こそ神話の法則を再び文脈を変えて読み返すとき、と言ったけ
れど、漫画や映画の主人公を見ていると、いろいろなことを学ぶことができる。
大体の主人公は最初優柔不断で精神的にも弱くてどっちかと言うとダメなやつ
であるが、だけどある時コミット出来て成長が加速する。
逆に言うと、コミットができないと成長が加速しないし、主人公として物語を
進めることができない。コミットするきっかけは絶望だったり真実に気付いた
り愛がどうのこうのだったりと様々だが、いずれにしてもコミットできた時に、
直線的ではない、飛躍的な成長が始まるのである。
これは神話学と宗教学とユング心理学が明らかにした、人類に普遍的な性質で
ある。
「人類に普遍的な」というのは、
「映画や漫画の主人公に特殊な出来事ではない」
ということを意味する。つまり、我々すべての人間にも当てはまるということ
だ。
ところが、このことが「自分事」として見ると信じられないのもまた我々の特
徴なのである。映画として、漫画として、他人事として見ると客観的に理解で
きるのだが、どうしても自分とは別の世界の出来事であるように感じてしまう。
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それは「自分事」フィルターがかかっているせいなのだ。
これを「他人事」として、究極的には「自分とは関係ないもの」として見るこ
とができるようになると、客観的に正しいのだということが理解できる。それ
は「人間はみんなヒーローで、主人公で、最後は成功してハッピーエンドなん
だ!」と信じるというよりも、単に「そういうもんなんだ」とわかってしまう
感覚に近い。まさに、「そうであると知れ」の世界なのである
だから、自分も例外などではなく、そうなんだとわかるべきだ。時々、自分だ
けは違う、とか、自分の人生はそんなにうまくいかない、とか言っている人を
見かけるが、そう思うのは歪んだ自己中心主義であり、選民思想の亜種である。
「俺様は特別なんだ」と言っている人とはベクトルが逆なだけで、構造的には
同じだからだ。
「私なんて私なんて」と思うことで、世界の中心になりたいので
ある。
ただ、これは別に責めるべきものではないとも思う。そういう人を相手にする
のは激しく疲れるが、彼・彼女の望みというのは我々と同じく「主人公に戻り
たい」ということなのだから。そのやり方が上手ではないだけで、目標は同じ
なのである。
いつの日からか、人は自分が主人公ではない物語を歩き始める。なぜなのかは
わからないが、途端に世界の脇役に追いやられた感じがする。
「そんなのはおか
しい」と誰もが思うが、「真っ当な」大人はそれを押し殺し、「真面目な」社会
人として生きていく。
しかしそれでは当然落ち着かない自己がいる。その自己は、ある人にあっては
「俺様こそが世界の中心なんだ!」と叫ぶ。
「俺様を中心に世界は回るべきだ!」
と声高に叫ぶ。またある人においては「私なんて私なんて世界一不幸なんだ」
と嘆く。
「私は誰よりも不幸で、何をしても幸せになれないんだ」と嗚咽を漏ら
すのである。
僕らはそのちょうど中間にあって、自分が主人公であると静かに宣言しよう。
そういうことを確認するためには映画も意味があるかもしれない。僕は映画を
楽しむことはできないが、分析するのは好きだ。あれは自分なんだと、ものす
ごい冷めた目で、他人事として自分事を見る訓練として、映画を利用すること
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は意味があると思う。暇つぶし、娯楽としては、特に価値を感じない(あくま
でも、個人的に)。
映画や漫画の主人公という「他者」は、自己の鏡なのである。他者を通して自
己を知るということがしばしば言われたりするが、それも実は同じことを言っ
ている。僕らはみんな同じような人生という物語を語る語り部であり、主人公
である。個人個人で異なるのは、その物語のテーマや起こるイベントやそのス
ケール感にとどまる。
もちろん面白い映画もあればつまらない映画もあり、それと同様に面白い人生
もつまらない人生もある。しかし筋書き構造はみんな同じなのだということ、
さらにはそれを書いているのは他ならぬ自分なのだということ、それがどれだ
け理解できるのかという点が、人生をコントロールする上で、人生をデザイン
していく上で重要なことなのである。
僕は少年漫画で言うと、初めは強大な敵として現れたのに、いつのまにか味方
になっているキャラクターを好きになることが多い。ドラゴンボールで言えば
べジータだし、ほぼ同時期に連載していた「ダイの大冒険」という漫画におい
てはハドラーというキャラクターがそれにあたる。この二人は、ほぼ同じ意味
合いを持つキャラクターだ。
この二人は、共に素質は最高なのに、精神的な脆さのせいで結果を出せない最
強の大ボスという形で描かれる。もちろんそのあとでもっと強い敵が、みたい
な展開はお約束で、その過程で仲間になるのだが、こういう役割を持ったキャ
ラというのは、あるとき「吹っ切れる」瞬間がある。自分を縛っていた精神的
な弱さを捨てる時が来る。虚栄心や慢心、無駄なプライドなどがそれにあたる。
何かをきっかけにして、それを捨て、言い換えればコミット出来たときに、そ
の生まれ持った本来の素質が活きるキャラとなる。
だから僕はハドラーとべジータが好きなのだと思う。元々は悪いやつで、悪の
大ボスだったのに、最後には一番人間臭くて、そして僕らに近い感じがするか
らだ。僕らはたまたま地球征服や人類絶滅などをたくらむ悪ではないだけで、
こういうキャラクターが持っている精神的な問題は、一番リアルに持っている
ように思う。僕の場合、漫画の主人公よりもこういうキャラクターを通して、
自分を見つめていることが多い。彼らを主人公とした新しい物語を勝手に想像
し、そこに自分を重ねているのかもしれない。
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おそらく、漫画でも映画でも、好きなキャラというのがいると思う。それがな
ぜ好きなのか、どういうところが好きなのか、そんなことを「他人事」として
考えながら、自分とつないでほしい。そうすることで、自分事が他人事になり、
他人事が自分事になるような、そんな不思議な循環を感じられると思う。映画
や漫画に時間を使うならばそういうバランス感覚を、是非に見つけてほしいと、
個人的には思っている。
【自己責任とコミットメント】
僕はセミナーで「会社なんか辞めればいいじゃない」とか「家族なんか捨てれ
ばいいじゃない」とか言ったけれど、もちろんこれは実際にそうするかどうか
が問題なのではない。捨てるも捨てないも自分で決めることができるんだとい
うことを知れ、というのが僕が言いたかったことである。
これは裏を返せば、
「できる」けどしない、のであれば、ごちゃごちゃ言わずに
その制約の中で最善を尽くせ、ということが言いたいということでもある。
「自
分事フィルター」がかかっている人は誤解してしまうかもしれないが、別に辞
めなければ何もできないとか、捨てなければ不自由だからダメだとか、そんな
しょーもない話ではない。
というか、それは結局外的要因のせいにしているでしょう、と。
違うんだ、そうじゃないんだ、と。「会社があるからビジネスができないんだ、
だから辞める」というのは、結局のところ会社のせいにしているのだから、多
分この人は仮に起業してもビジネスで成功できない。そうじゃない。大事なの
は実際に捨てるかどうかではなく、自分は会社を続けることも辞めることもで
きる、ということを知ること。全てを選び、決めるのはいつも自分で、会社な
んて、ビジネスの成否には関係ないということを知ること。
これは違いがピンと来ないかもしれないけれど、大切な感覚だと僕は思う。先
の「主人公」とか「コミットメント」という感覚とセットで理解してもらえる
とより正確なニュアンスとなるはずだ。
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「今の仕事を必死でできない人は起業しても成功しない」ということがよく言
われると思うけれど、この理由がここにある。こういう人が成功できない理由
は2つあって、それは
1.今の仕事は「本当は」自分で選んでいるのに、一生懸命やらない
2.今の仕事を選んだのが自分だということが信じられない
この2点。
これだと、結局起業しても「何か違う」
「こういうことを俺はやりたかったんじ
ゃない」などとしょーもないことばかりを考え、パフォーマンスが下がる。全
ては自分で選ぶことができる、ということすら「知らない」人は、コミットメ
ントも何もできていない証拠だし、そういう人が何かを成し遂げることは限り
なく難しいと僕は思う。「何か違う」のは仕事ではなく、お前の頭。
起業の世界では「雨が降っても自分のせいだと思え」ということが言われたり
する。これについて反射的に「いやいや、言いたいことは分かるけど、客観的
に天気はコントロールできないでしょ」と人間は考える。それは普通の発想だ。
何か問題があるわけではない。
「普通ではない成果を残せない」という点を除い
ては。
雨が降るのが嫌ならば、雨が降らない場所を選べばよい。夜が嫌いなら白夜の
場所を選べばよい。地球が嫌いなら宇宙へ飛び出せばよい。これらは、実現可
能性は高くはないが、ゼロでもない。つまり、「できない」わけではないのだ。
「できる可能性はあるが、それができないと考え、その努力も放棄した」だけ
である。
「雨が降っても自分のせいだと思え」というのは、この意味で単なる精神論で
はない。
「あなたは主人公として人生を生きているのですか、あくまでも脇役なのです
か」
ということを、鋭く問いただしてきているのである。
僕はビジネスを始めた時は、睡眠時間や食事の時間、その他すべての自由時間
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を入れて4時間しかなかった。大学が朝から夕方まであり、予備校が夜11時
まであり、その後朝4時まで予備校の資料作りをしていたから。
そこから学校に行く朝8時までしか、自由時間がない。その中でも、大学のレ
ポートを書き、本を読み、ビジネスを学び、仮眠を取り、最低限の栄養を取り、
メルマガを発行し、ビジネスを起こすことができた。家族との会話も、友人と
の会話も、
「お出かけ」も、そんなものは当然やれるはずもない。人生で最もギ
リギリだった時期が、まさにそこにある。
そんな僕を見て、大学の友人や予備校の講師たちは「よくそんなに頑張れます
ね、気持ち折れたりしないんですか」と初めは聞いてきたものだが、こんなの、
「絶対頑張るぞ!」とか「絶対成功するぞ!」なんていう安っぽい思いででき
ることではない。月に一回血を吐いて、倒れて点滴打たれて、それでも「頑張
るぞ!」なんて、少なくとも僕にはできない。そんな心の強さは、生来持ち合
わせていない。
僕には血を吐くことも点滴につながれていることも、寝れないことも、友達が
いないことも、家族から白い目で見られることも、
「興味が及ばなかった」だけ
で、それはもっと正確に言うと「他にコミットしていることがあったからそん
な些細なことは目に入ってこなかった」という感じなのだと思う。僕は「気が
付いたらそれをやってしまっていた」だけであって、毎年毎月毎日毎朝目標を
紙に書いて努力して、ということをやっていたわけではないのである(そうい
う「努力」は別にしていた)。
「空を飛びたければ、あなたを地上に縛り付けている些細なことを捨てること」
というモリスンの言葉をセミナーでは紹介したが、この言葉を実践しようとす
る時に難しいのは、その「些細なこと」はコミットしてるものがないとわから
ない、ということである。
コミットして初めて、自分が本当には何をやるべきで、何をやるべきでないか
がわかる。ただぼーっと生きていて、何が些細で些細じゃないかなんて、どう
やってわかるのか、と。
「必死に努力」している人は、実は些細なものとそうで
ないものの違いは、完全には分からない。
「脇目もふらず」努力はできるが、ふ
と気が緩んだ瞬間に、その些細なことの誘惑に耳を貸し、心が揺れ、決心が鈍
るからだ。
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だから、みんな、一生懸命頑張っている人も含めて、最終的には些細なことに
気を取られて空を飛べない。自分を縛りつけているものが特定できないから、
ずっと縛り続けられている。空を見上げて、
「いつかは俺も空を飛ぶぞ」と毎日
思って、一生が終わるのである。
そういう意味で、コミットメントの真実についてセミナーでお話しすることは、
きっとみんなを混乱させると思ったけれど、それを体験した時にいつか分かっ
てくれるはずだから話しておこう、と思ったのである。10年前の僕のような
生活を送れといっているわけではない。それだけが成功への道ではないと思う。
しかし何かにコミットメントしているのであれば、外的要因など「関係ないん
だ」ということは知っておいてほしい。
ちなみに予備校を辞め、大学を辞めてからビジネスに専念できる時間がそれこ
そ5倍くらいに増えたが、じゃあビジネスが5倍質が良くなったか、規模が大
きくなったか、などを考えると、わからない。僕自身の心身が「楽になった」
ことは間違いないけれども、密度という意味では当時の方が高かったような気
もする。どちらがいいということではなく、そういうものなのだ。ステージに
よってあり方が変わるのだ、と。僕のパフォーマンスそれ自体は上がっている
と思うが、それは大学や予備校を辞めた「から」ではなく、別の理由によるだ
ろう。
【何かを捨てるということと他人事感】
さて、ここまで理解できれば、日々自分の周りに起こる様々な出来事が違った
角度から理解できるようになる。僕のセミナーの受講者は比較的若い人が多く、
最近お父さんお母さんになったという人も少なくない。そういう人達に対して
「家族も捨てたらいいじゃない」と言うのは、いささか現実味がないのだろう
けれども、それはそれとして、ここではそれとは逆の視点についてもお話しし
ておきたいと思う。
ここに新米お父さんである A さんがいたとする。彼が僕のセミナーを受けて、
なんだか間違って影響され、家族を捨ててしまったとする。そうすると、彼の
家族は「捨てられた」ことになるのだろうか。
「私たちを捨てるなんて酷い!つ
いでにそんなことをそそのかした木坂って男も酷い!!」と、僕は事故に巻き
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込まれなければいけないのだろうか。
そんなくだらないとばっちりは僕個人としては取り合う価値すらもないが、し
かし重要なのは、
「捨てられる」というのは、自分事フィルターから生まれる誤った視点である
という点である。
それと同時に、
「捨てる」というのも極めて自分事の視点なのだと気が付いてほ
しい。大事なことは、捨てるとか捨てられるとか、そういうことではない。ま
ずはこの「現象」を、全く無関係な他人事として見てみる必要がある。そうし
て初めて、現象が純粋にとらえられるからだ。
例えばこの現象を他人事として見ると、そこにあるのは「A さんと奥さん子供
さんが離れた」ということ。ただそれだけであって、それ以上でもそれ以下で
もないということがわかる。
「捨てる」とか「捨てられる」という言葉にはある
種の価値判断が潜んでいて、決して純粋かつ客観的な物言いではない。
そして、僕らはもしかすると、奥さんの話を聞くうちに「そんなの酷い!そん
な男別れて正解だよ!木坂とかいうやつは死ねばいいのに本当に死ねばいいの
に」とかいう気持ちになっていくかもしれない。しかしそうなるのは、他人事
だったものが、共感という力によって自分事になってきてしまっている例であ
る。これはもはや他人事ではない。
思い出してほしいのだが、みんなそれぞれが、主人公なのだ。主人公が「捨て
られる」ということは、原理的にありえない。世界中どのシナリオライティン
グの本を読んでも、どの映画を見ても、どの漫画を見ても、どの神話学の本を
読んでみても、主人公が脇役に「捨てられて」いく話などは存在しない。そう
いう「構造」がそもそもあり得ないからだ。
つまり、
「捨てられた」と奥さんは思っているのかもしれないが、実際にはそう
ではない。
「捨てられた」存在であるのは旦那さんが主人公である物語において
のみのことであって、奥さんが主人公の物語においては、主人公である奥さん
が捨てられることなどあり得ない。
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「全てはあなたが選んだことなのです」みたいな成功法則に対してこの奥さん
はおそらく「捨てられることを私は選んだというのですか」と食って掛かるか
もしれないが、その問いかけ自体があまりにも濃い色眼鏡で世界を見ている人
特有の的外れな問いかけだ。そもそも論として一人の人間が「捨てられること
を選ぶ」なんてことは不可能だ。
「捨てられる」のは脇役だし、
「選ぶ」のは主人公。主体が違う二つの動詞を同
時に使うことは言語として成り立たない。もちろん「(私が)捨てられることを
(旦那は)選んだというのですか」なら成り立つ。それなら答えは間違いなく
Yes であるが、その問いと答えには何の意味もないだろう。この「捨てられた」
らしい奥さんが気付かなければいけないことは、
「あなたは捨てられたのではない、あなたが捨てたのです」
ということである。
僕は、姉を失っている。正確に言うと、
「姉になるはずだった人」を失っている。
つまり、流産だ。姿も顔も名前も知らないが、そういう事実を昔親から聞かさ
れ、なぜ小さい位牌と線香のセットがタンスの上に常にあったのかの謎が解け
た瞬間がある。
この姉は、母親がタバコを吸っていたせいで「流産させられた」のだろうか。
僕は場合によっては母親に詰め寄り「お前が姉ちゃんを殺したんだ」と責める
べきなのだろうか。
もちろんそうではない。
母親の物語としては、母親が「流産した」のだから、姉は「流産させられた」
存在なのだろう。そしておそらく姉が死ぬという「イベント」があったからこ
そ、主人公である母親は成長し、僕や弟の時には同じ過ちを犯さなかったと言
える。もし姉がいなければ、死んでいたのは僕なのだから。
一方僕の物語としては、姉を「身代わりにする」ことで、姉を「犠牲にする」
ことで、僕の人生がスタートしたという意味を持つだろう。だからやはり、姉
は「(母親ではなく僕によって)流産させられた」存在であると言える。姉を犠
牲にし、それによって母親を成長させ、そのおかげで僕が生まれた。表現は穏
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やかではないが、そのために僕は姉を「殺した」と言うこともできるかもしれ
ない。姉が死んでくれたおかげで、今こうしてレポートを書き、セミナーをや
ったりできている。姉が死ななければ、たとえ生まれていたとしても、今の僕
は存在しないのだ。
そして最も重要な姉の物語としては、
「ここは私の生まれる場所ではない」と感
じたのか、それとも「弟たちを生かすために、私は犠牲になる必要がある」と
感じたのかはわからないが、いずれにせよ彼女は「自分で生まれないことを選
んだ。」
姉は、自分の人生において、殺されたのではない。自分で死を選んだのである。
これは、すぐには受け入れ難いかもしれないが、決定的に重要な感覚である。
姉は母親の煙草のせいで殺された、あるいは僕によって殺された、などという
のは、姉が主人公である物語を踏みにじる、単なる冒涜である。彼女は、彼女
の(この世における)人生を全うしたのだ。その人生が長いか短いかで、外野
がガタガタ言うことではない。
映画や漫画によっては、主人公が一回死に、蘇ってくるシーンがあるものがあ
る。その「死」は実際の死か象徴的な死かは作品によるだろうが、いずれにせ
よそういうイベントが起こることがある。しかしそれは、あとから見てみると、
主人公は「自らその死を選び、そのおかげで成長して世界を救う」ことにつな
がっているのである。主人公が脇役ごときに「ただ殺される」などという物語
はこの世に存在しないのだ。
【自分事と他人事のバランス】
僕は、人間というのは基本的に優しい生き物なのだと思っている。だからこう
いう話を聞かされた親族は同情もするし、母親はきっと自分を呪った時期があ
るだろうし、他人であっても「いやいや、姉は自分で死んだんですよ、だから
悲しいことなんかないですよ」と笑っている人がいたら「なんて冷たい人なん
だ」と思うだろう。他人事なはずなのに、いつの間にか他人事ではなく自分事
として感じてしまう、人間はそんな優しい生き物だ。
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こんなところで書くことが適切かはわからないが、今年一年だけで、僕の大切
なセミナー受講者の中の数人が、とても近しい人を失い、それも大変に悲しい
形で失い、絶望の淵に落とされるという経験をした。そういう人を前にして、
慰めの言葉をかけることはたやすいが、それで何かが解決するとも思えない。
結局、彼らは自分の力で真実に気付き、その悲しみを含めてすべてを「踏まえ
て乗り越える」必要があるからだ。
時間は当然かかるだろうが、踏まえて乗り越えるためには、自分が自分の人生
の主人公であるということ、そしてその亡くなった人は、亡くなった人が主人
公である人生を全うしたのだ、ということに気が付くしかない。そのためには
どうしても自分の人生に対する他人事感が必要になってくるのである。
僕は、「自分事感」からくる絶望のような悲しみを乗り越え、「姉は自分で死ん
だんですよ、だから悲しいことなんかないですよ」と言える人の方が、姉に対
して誠実だと思う。彼女の人生を本当に尊重している人だと思う。自分のフィ
ルターを通さず、あくまでも姉の人生として、姉が主人公である物語として、
それを扱っているからだ。勝手に自分の物語の「かわいそうに死んでしまった」
脇役にして生きていく人の方が、姉に対しては失礼ではないか。
僕はセミナーやメルマガでもよく「踏まえて乗り越える」という言葉を使うが、
この本当の意味での誠実さ、つまり「他者が主人公として進む物語を尊重する」
という意味での誠実さこそが、何かを踏まえて乗り越えるためには必要な感覚
だと思う。姉の死を踏まえて乗り越える、というのは、姉を忘れることでも、
無視することでもない。ただ単に彼女は彼女の人生を全うしたんだな、という
ことをまずは理解すればいいだけの話だ。
それだけの話なのだけど、
「他人事と自分事」のバランスが自由に取れない人は、
それができない。先ほどの「共感」の例を思い出してほしい。他人事すら自分
事として見てしまう僕らにとって、自分事を他人事として見るのがいかに難し
いか、わかるのではないだろうか。
だから、僕は「自分事を他人事として見る訓練をしてください」と言っている
のだ。
「自分事を、他人事として見て、自分事として生きる。」
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それでバランスが取れるのではないかと、主人公の座を取り戻し、ヒーローと
して生きていくスタートとすることができるのではないかと、僕は思っている。
2013年が、一人でも多くの“ヒーロー”にとって実り多き年でありますよ
うに。
2012年12月31日
木坂健宣
追記:このレポートについて、早速いくつか感想をもらっていますが、その中
で非常に重要なものがありましたので、少し長いですが僕のコメントを含めて
共有したいと思います。改行など、こちらで変えてありますことをご了承くだ
さい。
「新年から、素敵なレポートをありがとうございます。筑紫高校ラグビー部の
動画、見ました。
レポートに、筑紫高校と東福岡高校と、自分がラグビーをやってみるならどち
らの高校でやりたいか、その理由も考えてみるといいとありました。私は東福
岡高校がいいな。。。と思うのですが、ふと、こんなことも思ってしまいました。
「子ども達にやらせるなら筑紫高校がいいかも」
ここに、ちょっと危険を感じました。というのは、私が受けた印象として、筑
紫高校は、兵隊として働く者を育成している感じがしたのです。それに対し、
東福岡高校は、自分で切り開いていく力を持つ者を育成している。そんな印象
を受けました。
私は、自分は大衆に甘んじたくないが、子ども達にはそれを求めているのかも
しれません。
(中略)
今まで、子ども達には幸せになってほしいと願っていました。教育を受け、マ
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ナーを身につけ、いい人を見つけて結婚し、子どもを産み、育て、幸せな家庭
を育んでほしい。それを強制するつもりはないけれど、そういった幸せを願う
こと自体については、微塵も疑問を持っていませんでした。
こんな、子どもの幸せを願う親の気持ちは、子どもの可能性を閉じてしまう危
険性を孕んでいるのかもしれません。
(中略)
子ども達には、明日の見えない生活をしてほしくなかったです。
兵隊としてでもいいから、大衆としてでもいいから、見通しのきく人生を送っ
てほしかったのです。今日も明日も明後日も、ぬるい幸せにつかりながら、安
泰でいてほしかったのです。
自分で人生を切り開くパイオニアになる。
自分だったらそうありたいと思うのに、子ども達には、どこか、望んでいない
部分があった。そのことに気付いてしまいました。
見通しのきく人生なんて、幻想であるのに・・・。
今後、子育てについて、子どもの将来について、しっかり見直していきたいと
思います。
ありがとうございました。」
ここで告白してくれている感覚は、子を持つ親の感覚としては非常に自然で、
しかし重大なものです。僕ら一人一人がしっかりと自覚しなければいけない部
分だと思います。セミナーで、サンタさんレポートについてたくさんの感想が
来る中、2通くらいネガティブなメールがきたという話をしましたが、そのう
ちの1人は、まさに同じことを言っていました。
「私が親なら、子供にはいい学校に行って、いい会社に就職しなさいと言うと
思います。私のようにはなってほしくないからです」
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と。
言いたいことは非常によくわかります。この人は「自分は自分の心に正直に自
由に生きてきて、結果どん底になった」と「確信」していますので、そういう
発想になるのだと思います。
ただ残念なのは、実際にはこの人はおそらく「極めて不自由に生きている」と
いうことです。何をされている人なのかは知りませんが、この「思考」を見た
だけで、「他人事」として見たならば、それは分かると思います。
それはともかく。
おそらくですが、特にお子さんをお持ちの「親御さん」にとって、この葛藤は
ずっと続くと思います。世界が混迷を極め、これまでの「日本的な」パラダイ
ムでは、もう次の時代を生き抜く子供は育ちません。それはほぼ間違いないの
です。でも、この「ほぼ」というところが曲者で、1%でも大丈夫な可能性、
それは大丈夫な可能性というより単なる「不確実性」なのですが、その曖昧な
領域がある以上は、親は葛藤してしまう。
「もしかしたら」今までと同じでも大丈夫かもしれない、
「もしかしたら」新し
いパラダイムに適応できないかもしれない、
「なら」今までのパラダイムに乗っ
かっていた方が・・・ということをどうしても考えてしまう。そういう悩みは、
一生消えません。そして、どういう結論を出すにせよ、結局やっぱり悩むので
す。
僕が言っているのは、そういう答えの出ない「未来」を相手にする場合、結局
は確率論なのだから
・勝てる可能性の高そうな方に賭けるべきではないですか
ということであって、
「他人事」として見たら、どちらの方が勝てそうかは明ら
かなのではないでしょうか、ということなのです。それを踏まえた上で、
・残された時間で、勝てる可能性を上げる努力をするべきではないですか
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ということも、セットで提案しています。自分と我が子を新しいパラダイムに
適応させる努力はできますが、新しいパラダイムを巻き戻す努力は、つまりい
ま世界を流している波に逆らって波の方向すら変えようと孤軍奮闘することは、
端的に不毛だと僕は思うのです。
実を言うと、
「短期的な」結果を求めるならば、筑紫スタイルの方が「成功確率
は高い」のです。実際ビデオを見ても明らかなように、80点以上の差をつけ
られていたところから、ほぼ互角に持っていくスピードは普通ではない。これ
はまさに、感想をくれた方が言うように「軍隊的な」システムだからこそ可能
になることです。サッカーで言えば、国見高校がそれにあたるでしょうか。時
として大学の強豪チームにも勝ってしまうレベルまで持っていけます。
しかしここが重要なのですが、それではあくまでも王者と「ほぼ」互角までし
か行けないのです。
全国ではここ数年最強の座から降りていない東福岡にあれだけの接戦ができる
のですから、筑紫高校は全国レベルで見ても間違いなく強豪校で、順当に見れ
ばベスト4、悪くしてもベスト8くらいの実力は持っていると思います。だか
ら、筑紫高校「も」全国大会に出したら、もっと面白い大会になるのではない
か。そう考えるのは僕だけではなく、実際にある試みが行われたことがありま
した。
2年くらい前、九州ラグビー協会関係の記念か何かということで、一年だけ、
福岡の全国大会出場枠が2校に増やされた年がありました。これは東福岡とも
う一校花園に出れることを意味し、その最右翼がもちろん筑紫高校です。しか
も神様もそれを望んでいるのか、筑紫は予選で東福岡とは別のトーナメントグ
ループに入り、東福岡と試合をしなくても花園への切符を手にすることができ
ることとなりました。誰もが、東福岡と筑紫が、花園で大暴れする画を思い浮
かべていたのです。実際、僕も楽しみにしていました。
しかし結果はどうであったか。
東福岡は、楽勝で全国大会出場を決めました。筑紫高校は、予選で敗退しまし
た。
僕は、これは偶然でも運でもないと思います。確かに筑紫の相手も強豪で、ど
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れだけ必死に頑張ってきたか、それも番組になったレベルのものであることを
僕は知っていますが、しかし実力的には、筑紫が勝てない相手では間違いなく
ない。それが、結構な点差をつけられて、負けるのです。
僕はその結果を見ながら、すごく時代を象徴していると感じていました。
「王者」
には王者のロジックがあって、風格があって、それは「努力」という泥臭いも
のでは決して超えることのできない「コミットメント」の領域に存在するもの
なのです。
筑紫は努力「のみ」でそこに至ろうとした。もしかしたらその先を見据えてい
たかもしれないけれど、時間的に間に合わず結果としてそういう育て方になっ
てしまった。それは部員の顔を見ればわかるように、決して間違いではないし、
素晴らしい育て方の一つであることは間違いないと思います。でも、限りなく
近づくけれど、そこには到達できないのです。これが部活ではなく実際の人生
だったら、もしかしたら、あの部員の笑顔も消えてしまう結果をもたらすかも
しれない。
僕は、そのことがとても心配なのです。元来、心配性なので。
先ほど言及したサッカーの強豪国見高校。高校ではずっと強豪ですが、そこの
出身選手がプロとして活躍することはほとんどないことでも有名です。ある J
リーグの関係者に話を聞くと、スカウトはそもそも国見の選手を「あまり見て
いない」と。
それが現実なのです。
高校時代、「軍隊的な」訓練にすべてをささげ、3年間ちやほやされた選手に、
長期的な視点で見た時何が一体残るのでしょうか。根性は残ります。体力も筋
力も残る。それで世界を渡っていければ素晴らしいですが、そこまで現実は甘
くないと僕は思います。
今年は谷崎さんが総監督に引き、良くも悪くも、東福岡も変わるでしょう。か
つて国学院久我山が変わったように、もしかしたら弱くなるかもしれない。そ
こからどう登ってくるか、それもまた「物語」としてとても面白い部分だと思
います。
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僕が中学高校のときは東福岡は「それなりに強い高校」のひとつでした。
「王者」
などと呼ばれるようになったのはごく最近なのです。ほんのちょっとしたこと
で、大きく変わるもの。それは僕らの人生においても、同じことだと思います。
僕だって10年前は、単なる予備校の先生だったわけですから。
そこから普通に就職したやつもいれば、研究者になったやつもいて、そのまま
先生業を続けているやつもいる中で、僕はこういう道を選んだわけです。具体
的な職業の優劣は存在しないと僕は思いますが、考え方、生き方、選択の仕方
として、僕は間違っていなかったと、今だからこそ思います。
親にとってわが子のことは、実は自分の事以上に自分事です。だからこそ、最
も危険が入り込みます。最も他人事として見れなくてはいけない部分にもかか
わらず、最も自分事として見てしまう。
「不安」が実際以上に大きくなり、つい
つい「短期的な」結果に目を奪われてしまう。しかし、親子関係こそ最も距離
を取ることが求められる部分であり、長期的な視点で見るべきことであり、僕
は、これこそが親としての最大の責任だと思っています。
努力が無駄なのではない。努力が不要なのではない。努力は「当たり前」で、
その先にあるものを常に意識しておかなくてはいけない、ということです。努
力一辺倒では、いつか息切れしてしまいますから。
是非、親である方、これから親になる方は、この辺を強く意識していただきた
い。親の意向を大方無視できる僕のような子供ばかりとは限りませんので、や
はり親の方がしっかりしないといけないのだと思います。そして何より、親が
背中でそういう生き方を見せてやること。それが大事かなと。
是非、頑張って参りましょう。
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