直接民主主義の系譜 - Bekkoame

直接民主主義の系譜
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││アテネのポリスから労働者評議会まで││
アントン・パネクーク
いま︑なぜ直接民主主義を問い直すのか
民主主義について
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フランス革命下︑パリ市民の直接民主制︵一七九二│九四︶ ⁚⁚⁚⁚⁚⁚⁚⁚
西欧中世の自治都市︵十一│十三世紀︶
古代アテネのポリス︵前五世紀︶
直接民主主義の系譜
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一八七一年のパリ・コミューン
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4
ロシアの労働者評議会︑工場委員会︵一九一七│一八︶ ⁚⁚⁚⁚⁚⁚⁚⁚⁚⁚
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6
パネクークの社会組織構想
ハンガリーの労働者評議会︵一九五六︶
スペイン革命下の農・工共有化︵一九三六│七︶⁚⁚⁚⁚⁚⁚⁚⁚⁚⁚⁚⁚⁚
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8
カストリアディスの自律社会構想
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ノアム・チョムスキー
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付・﹃ル・モンド﹄紙が報じた﹁カストリアディスとユートピアの精神﹂⁚⁚⁚⁚
産業の民主主義について
1
25 17
41 37 33 29 25
80 72 65 59 53 46
2
いま︑なぜ直接民主主義を問い直すのか
希望も︑確かな展望も︑実現すべき理想も︑その理想をぜひ
いるように見えます︒どこに向かったらいいのか︑輝かしい
日本のみならず全世界に眼を移しても︑広く混迷が覆って
質を的確につかみだすこともできる︑ と 考 え ら れ る か ら で
で︑現在の混迷の原因をなしている︑今日の社会や近代の本
の新鮮な視点をもたらしてくれますし︑その視界に立つこと
直接民主制の歴史の検証は︑通念とは全く違った現代世界へ
││序に代えて
とも実現したいという情熱も︑ほとんど認められません︒深
す︒
れわれの現実に距離をおいて︑根本から考え直してみなけれ
き方︑社会のあり方にとって本当に大事なのは何なのか︑わ
す︒目先をどうにかつくろえばすむわけではなく︑人間の生
諸国でほぼ達成された︑ その状況の中で起きていることで
足といった︑近代が目指してきたと思われるものが﹁先進﹂
かにしてくれます︒また第三に︑直接民主制が含みとしてい
の縮小こそ︑今日の混迷の基本的な原因であること︑を明ら
の過度の成功︑人びとの暮らしの中での自律的な領域の極度
数者への絶大な権力の集中過程であったこと︑その権力集中
主主義の時代ではなく︑社会の全面的な組織化を通じての少
ること︑を教えてくれます︒第二に近代がいわれるように民
主義の下にあること︑つまり特定の人びとのための社会であ
直接民主制の歴史は︑第一に現行の社会がマヤカシの民主
刻なのはこの混迷が︑生産と消費の飛躍的な増大︑科学技術
ばなりません︒その考え直す一助として︑直接民主制の歴史
る理念は︑ 社会を変えねばならないとするならどんな方向
の驚嘆すべき発展︑それらによる人びとの欲望の最大限の充
という鏡にわれわれの時代を照らし合わせてみようではない
に︑どんなふうにかを︑少なからず示唆してくれるはずです︒
か︑というのがこの冊子の趣旨です︒
この鏡の選択はもちろん気まぐれからではなく︑十分に理
さて︑そこでまず第一に︑われわれはマヤカシの民主主義
の下におかれているという事実について︒
由あってのことです︒未開の文化が機械文明の異常さを時に
浮かびあがらせるように︑あまりにも実相が知られていない
3
主権者と称せられている国民に求められるのは︑まさに自
員によって討議され同意されなくてはならない︑という原理
分たちにかかわる事柄への︑決定とその執行の権限を︑何年
民主主義の歴史は前五世紀の古代ギリシャ︑二千五百年前
を持っています︒ しかもその大半が直接民主制のものでし
かに一度︑誰かに白紙委任することだけです︒その誰かがこ
が確認されるとのことです︒これこそ民主主義の原理です︒
た︒このなぜか隠されている事実は重要です︒普選制にもと
んどは︑彼が所属する党派のボスにすべての決定を白紙委任
にさかのぼります︒それから千五百年間に及ぶ中断ののち︑
づく議会制間接民主主義は︑ いずれも二十世紀の産物です
します︒結局そうして︑何年かに一度の︑少数者の権力に国
この原理が今日の議会制民主主義の運営の中にいささかなり
し︑もっとも長いものでさえ一世紀に満たない︑比較的浅い
民の委任を受けているという正統性を与えるだけの︑手続き
とも見出されるでしょうか︒否︑断じて否です︒
歴史しかありません︒それを不可侵の制度︑人類が発明した
一式が民主主義とされます︒そこに︑マヤカシが︑詐術が︑
およそ十一世紀頃から西欧での再生が見られ︑断続的に今日
最良の制度であるかのように提出することは︑特定の人びと
あります︒
にいたります︒したがって民主主義はおおむね一千年の経験
のための意図的な行為以外のものではなく︑そのことは︑直
いう反論が必ず繰り返されますし︑そんなふうに多くの人び
したがって議会制民主主義こそ可能な最良の制度なのだ︑と
ない︑現代の巨大な人口を擁する国の規模では非現実的だ︑
民が集まって討議し決定することなど小さな都市でしかでき
この主張に対しては︑直接民主制は理想だけれども︑全市
接民主制の下で何が行なわれ︑何が目指されていたかを振り
返ってみれば︑ただちに判然とします︒
関係者全員の討議と同意で
理想的にであったかどうかは別にして︑古代から二十世紀
選出にもとづき︑行政︑司法︑治安維持︑軍事についての︑
集会にありました︒そこでの基本方針の決定や実務担当者の
兵士︑農民︑あるいは住民といった︑関係当事者たちの全体
きる程度の人びとが集まり︑そこでまず直接民主制を実践す
べきだとするなら︑職場なり地域なりで全員で討議し決定で
されなくてはならない︑という原理が理想であり優先される
しかし︑全員にかかわることは全員によって討議され同意
とは信じこまされています︒
自己統治が行なわれたのでした︒ある史家によれば︑西欧中
ることは︑関係者さえ賛成するなら明日にでもできることで
までの間に試みられた直接民主制の根幹は︑市民︑労働者︑
世の自治都市の運営に当たっては︑全員にかかわることは全
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す︒近代についても事情は変わりません︒王・聖職者・貴族
歴史は時の権力者に都合のいいものとして書かれがちで
もまた直接民主制の歴史という鏡は︑なかなかの威力を発揮
主制の歴史の最新のもの︑狭い政治の場のみならず生産を含
す︒ そうした基礎母体の設立とその連合という形での代表
めた全社会的な場での自己統治を求めた二十世紀の経験︑ロ
が支配していた封建社会に対する勝利者︑ブルジョアジーと
します︒
シア︑スペイン︑ハンガリーの経験の中で︑すでに実現を見
その相続人︑その同盟者の立場から︑賛美して書かれるのが
制︑いわば母体のヒモつきである段階的な代表制は︑直接民
たものです︒
ふつうです︒そこでは近代を正当化するために︑勝利をえた
近代はたとえば︑身分差別を廃止して法の前での人びとの
のが人間一般であるかのような︑事実に反したすりかえが見
平等をもたらした︑といわれます︒これは︑権力者の恣意的
これらの偉大な試みは︑現代社会においても直接民主制が
す︒左翼を含めて公表を望まない人びとがいるからで︑彼ら
な意志に従わされるのではなく︑法の支配を確立したものと
可能であることを示しています︒しかし現代史の中ではその
は︑世の中には指導すべき人間と指導されなければならない
られます︒
人間がいる︑と信じて疑わず︑自分こそ指導すべき人間であ
して︑われわれ庶民にとっても一つの進歩です︒しかし︑誰
事実は︑ あまり人の眼につかない場所に押しやられていま
ると自負し︑その自負を現実のものとすることで︑一般の人
が法を制定し︑誰が法を執行するのか︑という問題を残して
近代はまた生産力を著しく発展させた︑といわれます︒そ
びとには許されない地位と特権を確保したいと望んでいる少
の恩恵は確かに多くの人びとに及んでいます︒しかし生産の
います︒その実情に照らせば︑法の前の平等はしばしば形だ
かせておけばいいじゃないか︑と考えている大多数の人びと
増大が万人の福祉のために進められていると信ずるには︑よ
けのものに終わっています︒
です︒そこに今日の社会の実態があります︒この実態は︑議
ほどのお人好しであることを必要とします︒目覚ましい発達
数者です︒また一方︑その少数者の存在を延命させているの
会制民主主義というもっともらしい外見が︑国民から委任を
が︑社会運営の責任を自分たちで負うのは面倒だ︑誰かにま
受けていると自称する少数者の実際の支配を隠蔽する︑いち
の幸福のためのものと素朴に思いこむのではなく︑やはり批
をとげた科学技術についても同様で︑伝えられるように人類
さてここでわれわれは︑現行社会を生みだした近代とは何
判的な眼を向けなくてはなりません︒膨大な研究資金が国家
じくの葉であることを物語っています︒
であったのか︑という問いに導かれます︒この問いに対して
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何十万︑何百万︑何千万という人びとの︑組織的管理・操作
情主義﹂的な恵みをはじめ︑数々の美麗な衣装をはぎとって
を拡大し飽和させた時代であり︑その組織的管理・操作を通
と企業によってまかなわれている事実は︑誰に奉仕するもの
これらの近代への異議については︑ し か し 何 だ か ん だ と
じて︑各種の組織を実際に動かしている少数者に絶大な権力
近代を見直してみると︑近代は意外なほど単純な骨格を現わ
いっても近代は︑人びとの暮らしを驚嘆すべきほど向上させ
を集中化させた過程でした︒そこでは民主主義は︑﹁奴隷た
か︑を疑わせますし︑その答えの一端は︑科学技術の躍進が
たではないか︑という反論がただちに発せられましょう︒い
ちの反乱を防ぐ﹂とともに組織的管理・操作を円滑にする︑
します︒近代は︑経済︑国家行政︑軍隊︑教育︑メディア︑さ
かにも現代人は︑かつての王侯にさえ不可能であったことを
一つの技術にすぎません︒ ﹁全員にかかわることは全員に
らには政党︑労働組合など︑社会のあらゆる領域での︑何万︑
日々に享受しています︒世界中の珍味を簡単に口にできる︑
よって討議され同意されなくてはならない﹂という原理の尊
戦争︵市場と資源争奪のための殺し合い︶のたびに訪れてい
地球の反対側に半日そこそこで移動できる︑等々はその一例
重は︑かけらも見られません︒
ることの中に︑たやすく見出されます︒
です︒しかしここでは︑パネクークの警告に耳を傾けねばな
たずねられれば奴隷たちは︑疑いもなく親切に扱われること
が︑近代の入り口での︑工場制生産の開始とそれにともなう
この近代の核心をなすもの︑それを象徴的に示しているの
象徴的な賃労働の出現
りません︒
彼は︑支配者たちはつねに﹁温情主義かテロルか︑どちら
が奴隷たちの反乱を防ぐ最良の道なのか︑ という永遠の課
を望むに違いないけれども︑もしそこで﹁彼らが︑穏やかな
賃労働の出現です︒それらの特性は︑近代以前の労働のあり
題﹂︑二者択一に迫られている︑と指摘し︑どちらがいいか
路線を自由への路線だと見なすほどの思い違いをすれば︑彼
方と比べてみると一目瞭然のものになります︒
かつての働く人びと︑農民や職人は︑曲がりなりにも生産
らはその時︑ただちに彼らの解放を断念することになる﹂︑と
手段を所有するか占有していました︒自分の畑と農具︑自分
警告しております︵二十三頁末を参照︶︒いいかえれば︑袖の
下をつかまされれば君は︑魂を︑君自身を︑売るのか︑と問
の仕事場と道具がありました︒誰かに監視されながらではな
く自分のリズムで︑自分の仕方で︑自分が決めた時間だけ働
い返しています︒
この警告︑この問い返しを肝に銘じ︑支配者が与える﹁温
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ることです︒その利益は︑労働者に支払われる賃金と︑労働
ました︒組織の目的は︑社会福祉の増進ではなく利益をあげ
工場制生産の下での工場は︑それを設備し︑原料を買い入
工場制生産の中に送りこまれた労働者は︑まず自宅を離れ
者が働いて生みだす価値との差額の着服︑搾取と呼ばれる周
きました︒重税をとられるにせよ︑えられた収入をどう使う
て工場まで通わねばなりませんでした︒これはそれまで例の
知の事実からえられます︒この投資を有利なものにする安定
れ︑労働者を雇い︑指示して製品を作らせ︑それを商品とし
ないことでした︒工場は閉鎖的な空気のわるい場所で︑そこ
した手段︑大量に労働を組織することから多額の利益を獲得
かも彼ら自身の裁量次第でした︒そうした自律的な場が︑賃
に何十人︑何百人という人びとがつめこまれました︒工場は
て売る人︑つまり資本家ないしその代理人によって組織され
当初︑刑務所と同一視されたということですが︑理由のない
する方式の発見︑確立︑拡大が︑資本主義の確立︑拡大にほ
労働の下では激減します︒
ことではありません︒自分の仕事︑自分の技量に誇りを持ち︑
て決定する少数者と決定にしたがわされる大多数という分離
かなりません︒その確立︑拡大が近代史の中心に据えられる
が︑社会のあらゆる面で進行していった事実こそ︑直接民主
自分の流儀でやっていた労働の代わりに︑人間を機械同然︑
工場では︑現場監督の視線にさらされながら︑日に十何時
制の歴史という鏡が注目させるものです︒この事実は︑近代
ものであることはいうまでもありませんが︑それにともなっ
間も︑機械に合わせて働かねばなりませんでした︒機械は︑
が民主主義や人間の平等を促進したという通念に反して︑
機械の一部と見なす労働が待っていたからです︒
業務を細分化し︑細分化された作業を標準化し︑その標準化
﹁全員にかかわることは全員によって討議され同意されなく
決定する少数者と決定に服従する大多数という分離は︑す
された作業を自動的に繰り返すものとして設計されていま
でに見た企業のみならず︑特に国家行政と軍隊において顕著
す︒賃労働者もまた機械同様に︑分割された業務︵分業︶の
なく︑機械的に単純作業を反復するための部分的な能力でし
てはならない﹂という原理を︑徹底して踏みにじっていった
かありません︒そこに︑かつての農民や職人の知らない︑賃
になります︒工場制生産の発展にともなって資本は︑国内で
下で︑標準化された労働を繰り返す存在になります︒彼に求
労働の新しさがありました︒何より特徴的なのは︑実際に働
の統一された市場︑地域的に差のない法規を必要としました
歴史を明らかにするからです︒
く人びとと︑何のためにいかに働かせ︑その成果をどう配分
し︑外国資本と対抗する上では︑関税︑海外市場︑海外資源︑
められるのは︑人間としての全人格でも︑何らかの熟練でも
するかを決定する人との︑決定的な分離です︒
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植民地を争うために強力な政府と軍隊を不可欠なものとしま
した︒そうして司法︑警察︑行政︑徴税︑軍隊などの各面で
の中央集権的な国家機構︑国民国家といわれるものが築かれ
ました︒
軍隊についていえば︑かつての傭兵ではなく︑自国民の徴
兵による強大な常備軍がととのえられてゆき︑大量の兵士を
有効に活用する︑軍団から小隊にいたる段階的な指揮命令系
統の編成と︑戦略・作戦を策定して統一的な指揮に当たる参
謀本部の創設が進みました︒この軍隊は︑対外政策の有力な
武器で︑戦争にも繰り返し動員されます︒と同時に︑国内の
治安維持のための備えでもあり︑兵士の教育は︑十九世紀に
入ってからの列強間の競争のために新たに登場した感情︑ナ
ショナリズムの高揚にもまたとない機会になりました︒
企業︑国家︑軍隊とともに注目されるものに教育制度の整
備があります︒国家主導の下での初等教育から高等教育にい
たる制度化は︑発展しつつある資本主義にとって必要なあら
ゆるクラスの要員を養成・選抜する手段となりました︒特に
身分によってではなく学歴によって出世する道が開かれたの
で︑ 教育は既存の体制に統合する有力な装置になりました
し︑主としてこの装置の中から︑決定をする﹁優秀な﹂少数
者の補充もなされたのでした︒
工場制生産の確立・拡大にともなう社会の歩みは︑ふつう
工業化という言葉で語られます︒それにうながされ︑それを
促進した企業︑国家︑軍隊︑教育等々の変化は︑時代精神の
劇的な変化とともに進行しました︒第一に人びとの関心の中
心が︑彼岸での平安ではなく現世での幸福の追求に移りまし
工場制生産は実際には︑長時間労働や低賃金など︑これま
た︒
で知られていなかった悲惨をもたらしましたが︑それにもか
かわらず人びとは︑鉄道や汽船が現われ︑電信が遠くを結び︑
街に電灯がともるのを見て︑現世の幸福が手にとどくところ
にあると感じました︒生産力の増大と科学技術の発達とが︑
その幸福を保証しているかのように映りました︒歴史は進歩
する︑われわれは進歩の途上にいる︑という信仰が生まれま
合理的な精神の社会への浸透もまた時代のものでした︒人
した︒
間は理性的であれば︑あらゆるものを理解でき︑あらゆる問
題を解決できるといった︑これも信仰と呼ぶべき風潮が力を
持ちました︒自然に対する人間の科学的知識と技術的支配の
相次ぐ拡大が︑合理的精神への信頼を高めます︒この精神は
自然のみではなく社会自体にも適用されました︒恣意的なも
の︑衝動的なもの︑迷信等々の非合理的な判断や慣行を除去
して︑人間生活のすべてを合理的な計算の下におこうとする
態度が優位を占めるにいたります︒
何かを計画するに当たっては︑ 関係する一切を知ろうと
し︑予測できるものみなを予測しようとし︑危険ないし不都
8
化・細分化︑その細分化された業務を統括するための権限の
官僚制的な組織化は︑よく指摘されるように︑業務の特定
ふれたように︑特に企業︑国家︑軍隊で見られたものでした︒
制的な組織化が進められることになりました︒それはすでに
びとの集団を対象とした時︑支配・管理・操作のために官僚
る︑無意味な︑規則に反しない範囲でやっておけばいいもの
べきものでもありません︒ ただ報酬をもらうためだけにす
人生を預けうる意味のあるものでも︑責任感を持って果たす
だけです︒自発的な意思を持つことは許されません︒仕事は︑
は︑一個の人間であることではなく︑ごく特定の機能の発揮
によっても充分に代替できます︒ そこで求められているの
実務の大半は︑単純な繰り返しの作業です︒誰かほかの人
る人たち︑その管理の下におかれている人たちには︑決定を
上下関係︑ 業務をいかに運営するかを明文化した一連の規
になります︒言われたことだけをともかくする︑という態度
合なものをあらかじめ除外して︑効果的に目的達成をはかろ
則︑規則の適用に当たっての私情の排除︑を特徴としていま
が一般化します︒官僚制的な組織の中では自発性が失われ無
具体化する実務しか与えられておりません︒
す︒この組織化は︑もともと集団を能率的に管理するために
責任がはびこる︑といわれる所以です︒
うとするわけで︑この姿勢が何万︑何十万︑何百万という人
発達したものですが︑能率的な管理の実現そのものをはばむ
ところで︑いかに規則を詳細なものにしても︑現場で日々
要素を内部矛盾としてかかえている︑という別の特質を持っ
ていることにも︑注目しなければなりません︒
に迎える状況の中では︑規則に定められていない︑その場そ
の場で判断せざるをえない事柄に︑絶えず直面します︒そこ
決定を下す人と︑その決定にもとづいて実務を果たさねばな
さて︑官僚制的な組織にとってもっとも本質的なものは︑
ありません︒そこで欠かすことのできないのが︑自由な判断
に反し︑通常の権限の範囲を越えたものになることが少なく
措置を講じなければなりません︒その措置は︑しばしば規則
に照らして今ここで何をなすべきかを判断し︑即座に臨機の
では︑利益の達成であれ戦闘の勝利であれ︑組織の基本目的
らない人との︑分離です︒決定は︑頂上にいる少数の人びと
全面化した合理的管理の非合理性
によって行なわれます︒当の組織を何のために・いかに運営
しかしそうした自発的な判断や行動︑責任感こそ︑まさし
と責任感にもとづく決意と行動です︒
す︒中間の管理者にもある程度の自由裁量の余地や中央の決
く官僚制的な組織が殺してきたものです︒そこに官僚制的な
するかの基本方針︑ 規則や計画や人事を決めるのは彼らで
定への参加の可能性は残されます︒しかし管理機構の外にい
9
まだ看過できるものだったといえるかもしれません︒しかし
官僚制的な組織が社会の一部にすぎなかった時代には︑まだ
組織の全体が崩壊しかねない︑というわけです︒この矛盾は︑
作しようとします︒しかしその意図が十分に達成されると︑
にある人びとをできるだけ自らの意図にしたがって管理・操
もののもっとも根本的な矛盾が現われます︒頂上は︑統轄下
して生産への協力をとりつけるとともに︑大衆の購買力の増
公認され︑労働者には定期的な賃上げが約束されます︒そう
度も一変します︒それまでの敵視を止めて労働組合の存在が
の充実に努めます︒一方︑資本家の労働者や労働組合への態
す︒景気変動の調整をはかる役割を担うとともに︑社会保障
の原則が放棄され︑国家が経済運営に介入することになりま
第一に注目されなければならないのは︑二十世紀の終わり
大が資本家にとって利益になることが発見され︑大量生産・
の時点でいえば︑﹁先進﹂諸国の就業人口のうち九割以上も
大量消費の時代が到来します︒それは同時に︑官僚制的な組
社会のあらゆる領域での官僚制的な組織化は︑十九世紀に
が︑賃金労働者ないし俸給生活者になったことです︒十九世
それが社会の全面にまで拡大された今日においては︑問題の
よって準備され二十世紀において極端な形で実現を見るにい
紀の半ばには︑イギリスをのぞけばまだまだ圧倒的に農民の
矛盾は社会を崩壊にまで導きかねませんし︑その兆候はすで
たりました︒その具体例は︑ソ連の官僚支配体制︑ナチスの
世界でした︒第一次大戦の勃発時点でさえ︑イギリスをのぞ
織化が社会の全面に及んでゆくことをも意味しました︒
体制として︑ それぞれの違った特質をもって登場しました
けば農民と工業労働者の数は︑ほぼ同じか農民の方が上でし
に日々の新聞記事の中で認められています︒
が︑今日われわれにとって身近な直接の対象としてとりあげ
た︒それ以後︑工業化と賃労働化が急速に進み︑人びとの大
第二に注目されるのは国家機構の肥大です︒いわゆる福祉
なければならないのは︑第二次大戦後に﹁栄光の三十年﹂と
国家化の推進にしたがい︑経済的・社会的活動の中での国家
呼ばれる経済的繁栄を﹁先進﹂諸国にもたらした﹁甘い全体
一九二九年十二月二十四日︑いわゆる暗黒の木曜日︑アメ
多数が︑ 外部から強いられる労働規律の下で︑ 長時間にわ
リカで株が大暴落します︒資本主義が一挙に崩壊したかの光
の役割は飛躍的に拡大します︒﹁先進﹂諸国の中には︑政府
主義﹂︑大量生産・大量消費体制の下での︑社会の全面的な
景でした︒世界的な大不況が訪れ︑それは世界大戦への突入︑
総支出が国民総生産の半ばを占めるか︑それに近い国すら現
たって働くことを余儀なくされるにいたります︒
絶大な軍事需要の発生までつづきます︒第二次大戦後︑資本
われます︒それは当然ながら︑官僚制的な組織化の増殖をと
官僚制化です︒
主義は存続するために大変貌を強いられます︒まず自由放任
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いったことにこそ︑二十世紀後半という時代の特質がありま
国家行政︑ 軍隊のみならず︑ 社会のあらゆる領域に及んで
問題はその増殖です︒官僚制的な組織化がかつての企業︑
性の根を枯らしつつあり︑社会を解体に向かわせつつあると
ているわけですが︑この極度の依存が︑人間の生命力や社会
下にあり︑機械やエネルギーや外部サービスに極度に依存し
との日常は公的な面でも私的な面でも少数者の管理・操作の
れたものになっていることは周知の事実です︒それだけ人び
す︒それは︑ごく少数者の決定が絶大な人びとの生活をただ
いうのが︑ われわれが今まさに直面している重大な状況で
もなっています︒
ちに左右する体制ができたということですが︑一見それが人
す︒
抜に勝ち抜くための極端な低年齢からの競争を誕生させまし
を生産し選抜する装置の出現でしかありませんでしたし︑選
の教育機構への取り込みは︑既存の体制が必要とする人びと
かに映りました︒しかし実際には︑かつてない夥しい人びと
びとに高い教育を普及するものとして︑望ましいことである
たとえば教育は巨大な産業になりました︒それは多数の人
はそのまま経済を支えるはずの大衆の購買力を抑えることで
ど人件費の削減で何とか切り抜けようとしていますが︑それ
危機を各企業は︑大量の解雇︑臨時雇用化を大幅に進めるな
済システムの根本的転換をこそ考えねばならないのに︑この
は投資し利潤がでないと回転しない経済システムであり︑経
界的な経済危機にもとづいたものです︒破綻に瀕しているの
は︑二十世紀の最後の四半世紀に見られる繁栄の終わり︑世
先がないといういくつもの警告がなされています︒その一つ
問題の甘い全体主義︑大量生産・大量消費体制については︑
びとの同意の下で成立したかに思われるところに︑この体制
た︒そうした人間の幸福のためという仮面の下での別の目的
が﹁甘い全体主義﹂と呼ばれる所以があります︒
の追求という本質は︑やはり巨大な組織化された科学研究や
すから︑将来が明るいとはいえません︒もう一つは地球の限
界を説く主張で︑このまま経済の成長をつづけていけばいず
医療についても同じようにいえます︒
官僚制的な組織化は今では人びとのほとんどすべての私生
れ資源が枯渇する︑人間を含めて生物が生存できないように
二つともに耳を傾け追求していくべき大切な視点ですが︑
自然環境が破壊される︑という周知のものです︒
という人びとが同じ大量生産品を食べ︑身につけ︑似たよう
ここではあまり語られることのない︑もっと深刻だともいえ
活︑消費や余暇をすら包みこんでいます︒何億という人びと
な規格の住宅に住み︑何千万という人びとが同じテレビ番組
る現象に注意してみることにします︒それは︑少数者のでき
が画一的な生活様式の下で暮らしています︒何十万︑何百万
を見て時間を過ごします︒旅行でさえ多くが組織され管理さ
11
なった︑ということの中に見られます︒
いかえれば次世代の人びとを社会的人間として育てられなく
的には︑社会が社会としての教育機能をほとんど失った︑い
のの崩壊を招きつつある︑という事実です︒この事実は︑端
という意図が︑社会を社会たらしめているもの︑社会そのも
じく少数者のできるだけ意のままに人間や社会を制御したい
きる基盤である自然環境の破壊をもたらしているように︑同
るだけ意のままに自然を制御したいという意図が︑人間の生
こと︑社会的責任を全うすること︑たとえば自分の職業を天
でいえば︑正直︑勤勉︑清廉であること︑吝嗇や卑怯を嫌う
くましくすることが︑必須の条件でもありました︒共同の面
ました︒精神的には困難や危険に立ち向かうことで自分をた
ばならないので︑鋭い感受性︑注意力︑広い見聞が求められ
可欠でしたし︑どの場でも自分で判断し自分で決定しなけれ
体の強壮を保つためには節制や訓練を積極的にすることが不
らいくつもの徳目が養われました︒個人的な面でいえば︑身
職と見︑仕事の質を大事にすることが︑他者との間での信頼
や協力を約束しました︒
いはそう見えたことに帰因します︒機械の利用が労働者ない
古い世代から新しい世代へ伝えるものが︑陳腐化した︑ある
社会は二重の意味で教育機能を失いました︒その一つは︑
前の緊密な人間関係︑共同体といったものをほぼ消滅させま
関係の下で規則にもとづいて人を動かす機構の広がりは︑以
得すればそれで足りる︑という風潮を生みだしました︒上下
の資質・技能・識見への要求を弱めさせ︑操作する技術を習
と見られるにいたりました︒機械やエネルギーの力が︑人間
育てられなくなった社会的人間
し職人の熟練を追放したことはよく知られています︒技を極
しかしそうして培われたかつての美徳は︑時代遅れのもの
めた手仕事に比べて機械製品は︑ 質 的 に は 劣 る と し て も ︑
した︒そこから世代間の断絶が登場します︒
新しい世代は過去の世代の信条を古くさいものとして眺
ずっと早くずっと安くずっと大量にできたからです︒特別に
優れた能力は不要となりました︒同様に機械やエネルギーの
め︑古い世代は数々の新奇なものの出現を前にして︑自分た
世代もが営々と次代に伝えるべきものを伝えてきた︑社会の
ちが大切にしてきたものへの自信を失いました︒そうして幾
かつては人間がすべてを自力でしなけれなりませんでし
教育機能がほとんど壊滅しました︒もっとも伝統との断絶自
利用拡大は︑ 人間の成熟といった理念や存在そのものをさ
た︒何か作るにせよ問題を解決するにせよ︑自分自身を高め
体は非難すべきものではありません︒それは過去を問い直し
え︑絶滅させないまでも影の薄いものにしました︒
ること︑人びとが力を合わせることが不可欠でした︒そこか
12
す︒しかし現に迎えている断絶は︑創造ではなく︑むしろ弛
新しいものを創造していく上で︑ 欠かせない過程だからで
力を全く欠いた︑その場その場の欲望のままに衝動的に行動
潮は︑世代が新しくなるにつれて深まっているようで︑自制
は︑自分の行動︑自分の態度を決めていました︒自分のあり
とを知っていた︑ともいえます︒その基準に照らして人びと
実を確かめてみなくてはなりません︒
己教育︑自己形成の場が極度に失われてしまった︑という現
は︑もう一つの社会の教育機能の消滅︑すなわち社会から自
なぜこんなことになってしまったのか︒その理由を知るに
嬰児返りが人生最高の理想か
疑問をすら︑切実なものにします︒
実は︑社会は果たしてこのまま存続できるのだろうかという
する人びとが︑大量に発生しているように見えます︒この事
なぜ弛緩︑堕落なのか︒その根拠は︑今やいたるところに
緩︑堕落と呼ぶべきものであるところに問題があります︒
見られる自分を律する力の低下によって︑端的に表現されて
います︒かつては︑いいにせよわるいにせよ︑つまり同意で
きるものかどうかは別にして︑人びとそれぞれが自分のある
方に関して︑誇りを抱きもし︑恥を知ることもできたのでし
べき像を持っていました︒していいこと︑してはいけないこ
た︒しかし今日︑自分のあるべき像といったものをどれほど
法︑警察︑教育︑医療︑いたるところで信じがたい無責任が
力は︑社会から消えかかっています︒したがって︑政治︑司
る態度が一般化しました︒何かをよりどころにして自制する
はただ収入をうるだけのものとされ︑私生活に楽しみを求め
た︒安定した地位と所得を手にすることが第一となり︑職業
人びとは︑低い次元の欲望に動かされやすい存在になりまし
活かす︑といった生き方は︑すでに絶滅した種に属します︒
自分を越えた何ものかに献身することでこの上なく自分を
過程で︑社会で生きてゆく上でのよりどころが築かれます︒
すべきなのかが︑だんだんに身についてゆきます︒そうした
としての形成がはじまります︒何をしてはいけないか︑何を
ばならない苦痛をともなう認識ですが︑そこから社会的人間
少しずつ気がつきます︒それは自分の全能性を否定しなけれ
脱してゆかなくてはなりません︒他者の存在︑外部の存在に
のものです︒しかし嬰児も︑いずれそうした幸福な状態から
す︒彼ないし彼女には自他の区別はありません︒一切は自分
す︒ 泣き叫びさえすれば︑ 欲望はすべて即座に満たされま
嬰児は全能の存在です︒ 母親の手厚い保護の下にありま
横行しています︒社会的責任を感ずる力も︑他者を大事にす
ところが︑そんな自己教育︑自己形成の場が大幅に奪われて
の人が身につけているでしょうか︒
る気持ちも︑ほとんど認められなくなりました︒そうした風
13
接しなくなりました︒そのことは人びとから︑人間がどんな
第一に人びとは︑嬰児を含め︑あまりじかに自然や人間に
は︑今日の社会ではあまりにせばめられています︒したがっ
し︑確認し︑体得してゆくという︑自己教育︑自己形成の場
なのか︑社会とはどんなものなのか︑自分の経験の中で発見
で制御されるべき対象とされています︒人間とはどんなもの
環境の下で︑どんな人びととともに世界を作っている存在な
て人びとは︑自分はこうあるべきだという確乎たる自分のよ
いるというのが︑甘い全体主義の下での日常です︒
のか︑という認識を希薄なものにしました︒人工化されてい
りどころを持っていません︒
での不可欠な一面はできるだけ排除され︑すべては嬰児返り
孤独︑欠乏︑危険︑困難︑屈辱︑死といった︑人生を知る上
日が依存しています︒そこからは︑失敗︑挫折︑苦痛︑飢餓︑
のがあり︑その決定の下での管理︑示唆︑操作に人びとの毎
ません︒判断にせよ行為にせよ︑すでに外部で決定されたも
外部サービスがあり︑欲望を即座に満たす仕掛けには事欠き
まれます︒日々の暮らしの中では数々の便利な機具︑便利な
疑問を持ち自分で考えるには及ばない︑という信条をすりこ
人がいる︑その人から教えてもらいさえすればいい︑自分で
れ︑物事には必ず正しい答えがある︑その答えを知っている
幼児の頃から人びとは︑ 多種の教育機構の中に組みこま
も特徴づけるものは︑少数者による自然や人間の合理的な計
ところで︑これまでも再三みてきたように︑近代をもっと
をすらむしばんでいる自己形成の貧しさを証明しています︒
覚が全くないのは奇異ですが︑このことは︑社会体制の頂上
会体制のあり方そのものにあります︒そのことについての自
配・管理・操作することで人びとの自発性を殺している︑社
は︑ 少数の人びとが大多数の人びとを合理的計算の下で支
の重要性を語ったりしているのですが︑ しかし問題の根幹
人びとです︒だからこそ日の丸掲揚を強要したり︑奉仕活動
いているのは︑たぶん社会体制の中枢にいる﹁明日を憂える﹂
の現象ですが︑このことについて日本でもっとも危機感を抱
的に生きる人びとの大量発生です︒これは﹁先進﹂諸国共通
が︑たとえば先に見た自制力の全くない︑欲望のままに衝動
その自己形成の欠如︑ 嬰児状態からの脱出不十分の結果
ない自然や大勢の他者にふれなくなったということの裏面と
して︑人びとは圧倒的な時間を︑外部からの管理ないし保護
が人間にとっての最高の幸福であるかのように仕組まれ︑安
算の下での制御ですが︑この合理的な計算の根底には︑合理
の下で過ごすことになりました︒
楽だけが用意されていますが︑安楽ほど自己形成をさまたげ
的な説明のつかない︑非合理的であり任意の︑根源的な欲求
の設定があります︒たとえば資本主義は︑投資をして利潤を
るものはありません︒
人びとは︑企業︑政治家︑役人︑先生︑親等々の意思の下
14
最近に登場した新参の渇望であり︑それを最優先させるべき
の投資・利潤という欲望自体は︑長い人類史から見ればごく
えたいという欲望にもとづき︑成立し発展をしましたが︑こ
その深刻さを自覚せず︑いずれ誰かが解決してくれるものと
は︑何か大変な事態を迎えつつあるとは感じていながらも︑
らいいか確信のない人びとがいます︒他方︑大多数の人びと
才の出現に期待をかけるという始末です︒頂上にはどうした
ですら︑あるいは反体制の先頭に立っている人びとですら︑
得します︒ところが現在では︑社会体制の頂上にいる人びと
人は自己形成の過程で強く内からのうながしとして発見し獲
いる人間です︒その生きた人間が持つ根源的な希求︑それを
べての価値判断が可能になります︒出発点となるのは生きて
れば社会の崩壊現象はとどめられない︑とわれわれは考えま
です︒それを根本的に転換すべき時に来ている︑そうでなけ
制︑自然や人間を合理的な管理の対象としてしか見ない体制
の発展への信仰に支えられた︑少数者への極度の権力集中体
機︑この混迷をもたらしているのが︑生産の増大や科学技術
これが世界の現在を覆っている混迷の実態です︒ この危
せない︑という有様です︒
ぼんやりと期待していますが︑どこか先行きへの不安がかく
合理的な説明はありません︒
同様に︑人間の文化︑社会のあり方の根底には︑合理的に
説明できない根源的な希求があり︑それがあってはじめてす
人間形成が確乎としたものではなく︑したがって根本的に考
すが︑そうであればこそ︑ここで直接民主制の実践と理念の
︵一︶
え直す能力を欠いています︒
の技術的な解決策を見出すことは得意であっても︑枠をはみ
かを競ってきた人たちで︑ある枠を与えられれば︑その中で
出した意味ある生き方ができること︑それを共同して保証で
いう原則を確立し実現することです︒個人それぞれが自ら見
問題は︑個人ひとりひとりが人生や社会の主体である︑と
系譜をとりあげたのでした︒
だしたものや枠を含む全体の前では︑あるいは枠を自ら設定
きる社会を創出することです︒この理念こそまさしく﹁全員
彼らは︑官僚制的な機構にいかにうまく自分を適応させる
することでは︑無能であることを暴露します︒いかに生きる
にかかわることは全員によって討議され同意されなくてはな
す︒その歴史は豊かさに満ち︑われわれを明確にし︑われわ
らない﹂という︑直接民主制の実践が含みとしていたもので
それゆえにこそ彼らは︑社会を立て直す枠自体を新たに設
れを元気づけます︒しかしそこには︑それを真似ればいいと
べきか︑どんな社会が望ましいのか︑彼ら自身の内からうな
定しなければならない深刻な危機にいま直面しながら︑なす
いう模範はありません︒おかれた状況の中で︑何をいかに目
がしてくる強烈なものを持っていないからです︒
術を知らず︑声高な主張に引きずられるか︑創造性のある英
15
指すかは︑われわれ自身の課題だからです︒
に希望がないのではない︒われわれが存在しており︑われ
︵﹃抑圧と自由﹄石川湧訳︑創元社︶
でも︑われわれにとっての希望の理由を成している︒
われが現状以外のことを考え望んでいる︑という事実だけ
僚制的な組織を拡大して大衆を動員するといった︑旧来の左
ここではもちろん︑指導部があらかじめ絵図面を引き︑官
翼のやり方が許されるはずはありません︒新しい社会は︑人
があちこちで集まり︑心のうちを語り合うことからはじまる
現在の暮らしに疑問を持ち︑別の生き方を願っている人びと
かしそれも︑第一歩なしにはありえません︒その第一歩は︑
道筋であるはずはありません︒長い長い時間を要します︒し
を破壊し︑新たなものを創造してゆく作業ですから︑容易な
す︒それは︑人類が二世紀にわたって精密に築きあげたもの
目標と方法を決定する形で︑ 建設されるべきものだからで
望と勇気を新たにするために︒希望と勇気を多くの人びとと
集する冊子を刊行したいと考えています︒われわれ自身が希
われわれはいずれ︑その運動の実像をさまざまな角度から特
ヨーロッパでの社会運動の広がりには驚かされていますし︑
ありません︒その中でも特にここ数年の︑直接民主主義的な
ちは日本にもいるに違いないし︑世界の各地にもいるに違い
でいる﹂人たちの存在に︑希望を託しています︒そんな人た
ヴェーユ同様にわれわれも︑﹁現状以外のことを考え望ん
びとが自発的に要求し︑自分たちの﹁討議と同意﹂によって
のではないでしょうか︒その語らいの輪はやがて行動の輪へ
分かち合うために︒
二〇〇一年七月一日
が参考になります︒
会を創る﹄︵法政大学出版局︶︑特に同書三二九頁以下
︵一︶この考えについては︑カストリアディス﹃想念が社
﹁交流と運動﹂編集委員会
と発展してゆくはずですし︑それが大きなうねりとなること
さて冒頭に︑どこにも希望がない︑と書きました︒そのこ
も考えられないではありません︒
とに関連して︑シモーヌ・ヴェーユの言葉を最後に引いてお
きます︒ナチスの台頭から第二次世界大戦に向かう状況の中
での︑彼女の訴えです︒
大洋のまっただなかに投げ込まれた人間は︑助かる見込
みが少ないからと言って︑流されるままになるべきではな
く︑精根のかぎり泳ぐべきだろう︒それに︑われわれは真
16
民主主義について
アントン・パネクーク
︵英・仏語版﹃労働者評議会﹄第三部敵︑第六章︶
だった︒それらにおいて民主主義は︑すべての人間の権利の
じまる︒少なくとも︑その基本的な諸条件が現われた︒民主
資本主義の飛躍とともに︑ブルジョア民主主義の時代がは
まかされた︒中世の都市においては︑職人たちが同業組合を
平等についての理論的概念の表明として︑現われたのではな
主義それ自身がただちに実際に実現しなかったにしても︑で
民主主義は人間の原始的な共同体の組織として︑自然な形
い︒そうではなく︑経済的な方式の実際的な必要に応じたも
ある︒資本主義の下では︑すべての人間が商品の独立した所
組織し︑都市の政府は︑貴族の一族の手に握られていなかっ
のとして︑だった︒したがって同業組合の中では︑古代の奴
有者であり︑ 商品を意のままに売る︑ 同じ自由を持ってい
態だった︒集会に参加した部族のすべての一員は︑共同のあ
隷たち以上に︑雇われ職人たちが民主主義に参加していたと
る︒物質的な財産のないプロレタリアたちは︑自分たちの労
た場合は︑諸同業組合の指導者たちが担当していた︒中世の
はいえない︒概して︑財産を持てば持つほど︑その人は集会
働力を所有し︑売っている︒封建的諸特権を廃止した諸革命
らゆる行動について︑全く平等な立場で︑彼ら自身で決定し
においていっそう影響力を持った︒民主主義は︑自由で平等
は︑自由と平等と所有権を宣言した︒封建制との闘いはすべ
末期には︑ 君主たちの傭兵が武装した市民よりも強力にな
な生産者の協力と自己統治の形態であり︑各自は︑彼らの生
ての市民の結集した力を必要としたので︑公布された諸憲法
た︒古代のギリシャや中世のイタリアやフランドルの都市で
産手段︑土地︑店︑道具の主人だった︒アテネにおいては︑公
はきわめて民主的な性格を帯びていた︒しかし実際に適用さ
の︑ ブルジョアジーの最初の発展に際しても︑ やはり同様
共の業務を決定したのは市民の定期的な集会であり︑行政上
れた諸憲法は︑全く違ったものだった︒当時まだ十分に数多
り︑都市を支配していた自由と民主主義は抹殺された︒
の役割は︑一定期間だけの交代制で︑いくつかのグループに
17
奪っていたのである︒それゆえに十九世紀を通じて政治的な
ようになることを恐れた︒したがって下層階級から投票権を
の下に抑圧していた下層階級が︑ついに立法を自由にできる
くも強力でもなかった産業資本家たちは︑彼らが競争と搾取
い利害を持つ新しい諸グループが現われるし︑認知されるこ
不断の転換︑資本主義が経験する諸変化の過程の中で︑新し
紛争が︑絶えず存在している︒資本主義の発展︑その機構の
会においては︑社会的諸階級・諸グループ間の利害をめぐる
発︑抗議や政党の抗争の中に︑吸収されている︒資本主義社
しかしながらそれでも︑大衆が支配者になることへの恐れ
民主主義が︑下層階級の政治行動の︑目的にも綱領にもなっ
は残っており︑民主主義のあらゆる﹁望ましからざる使用﹂
とを望む︒その彼らに︑もはや見かけでは制限されていない
おそらくこの運動は︑成功に輝いた︒少しずつ︑投票権は
に対する保証を手にしなくてはならない︒そこで︑搾取され
た︒彼らの行動はある理念に忠実であったし︑つねにそうあ
拡大した︒最後には︑ほとんどすべての国で︑国会議員の選
る大衆に対して︑投票権を持っていることで彼らが自分の運
普通選挙が︑代弁者を与える︒新しい利害のすべての擁護グ
挙に当たって︑男性にも女性にも︑全員にとって平等な投票
命の主人なのだ︑ と思いこませなくてはならないし︑ した
ループは︑その規模や力にしたがって︑立法機関に影響を及
が認められた︒この理由のゆえに︑われわれの時代はしばし
がって彼らが自分の境遇に満足していないとしても︑自分自
りつづけた︒それは︑普通選挙という方法の下での民主主義
ば民主主義の時代と呼ばれている︒資本主義にとって危険な
身をしか責めてはいけないと︑思いこませなくてはならない
の確立が︑彼らに政治権力を確保させるであろうし︑そうす
いし弱点の源泉になるどころか︑民主主義が資本主義の強さ
のである︒しかしながら政治機構の構造は︑民衆のための政
ぼす︒したがって議会制民主主義は︑資本主義の初期におい
の一つであることは︑今では明白である︒資本主義は安定し
府が民衆による政府ではない︑という形で作られている︒議
ることで彼らに︑資本主義を抑制すること︑廃止することす
ている︒ 豊かな企業家や実業家からなる多数のブルジョア
会制民主主義は部分的な民主主義でしかないし︑完全な民主
ても発展期においても︑それにふさわしい政治形態である︒
が︑社会を支配している︒その社会に賃金労働者は適応して
らを︑可能にするであろう︑という理念だった︒
いるし︑そこで市民権をえている︒現在では社会秩序は強固
民衆は︑四年か五年に一日しか︑彼を代表してもらう人び
主義ではない︒
拠となりうるはずのすべての苦情の種︑すべての貧困︑すべ
とに対して影響力を持っていない︒選挙戦の期間中︑古いス
なものになっていると誰からも認められているし︑叛逆の根
ての不満は︑定期的にガス抜きされ︑議会における批判︑告
18
る︒彼らは︑そうした利害の番人であり︑そうした問題のす
本主義の利害︑ 資本主義社会の課題や障害に結びついてい
│は別にして︑代議士たちにゆだねられる問題の大半は︑資
別にかかわりのある諸問題││労働者のための特別の法律│
会議員たちは︑二股をかけなくてはならない︒自分たちに特
いるし︑時には大臣をだしさえしている︒しかもそれらの国
る労働党であり︑これらの党は議会で重要な役割を果たして
している︒││ドイツにおける社会民主党︑イギリスにおけ
る︒労働者たちは彼ら自身の政党を作ることで︑体制に順応
ダーに投票することは票を失うことだと︑ 誰もが知ってい
れらの党の指導者一味によって選抜されている︒アウトサイ
ちは︑大政党によって指名され推薦されているし︑事実上そ
寄せる彼ら自身の代弁者を︑指定する必要はない︒候補者た
う︑すべてを埋没させている︒有権者たちは︑彼らが信頼を
告が飛びかい︑ 批判的な判断をする余地がほとんどないよ
ローガンから生まれ︑新しい約束をする︑騒々しい宣伝や広
あるからである︒
幻想を抱かせることによって︑資本の支配を確保することに
彼ら自身の運命は彼ら自身で決定しなければならないという
ことである︒というのもこの民主主義の目的は︑大衆の間に︑
民主主義の下では実現されていない︒それはまたごく当然の
たちの指導者を選出すること︑である︒この原則が︑議会制
知のように民主主義の主要な原則は︑民衆が彼ら自身で自分
統治者たちに間接的にしか影響を及ぼすことができない︒周
は︑懲罰動議を可決するか︑予算案を拒否するかして︑真の
ることを禁じている︒おそらく彼らが法を作る︒しかし彼ら
法と執行の分離が︑選出された議員たちに彼ら自身で統治す
を指導し︑この後者が政府の実際の仕事を果たしている︒立
あり︑これら指名された人びとが役人たちからなる官僚機構
大臣や閣外相︑あるいは行政当局の要員を指名しているので
全く貴族階級と大資本の利害の中で生きている︒彼らこそが
定は主として君主たちや大統領たちの手中にあるし︑彼らは
れらの同意が法律の可決には不可欠である︒しかも最終的決
イギリス︑フランス︑オランダを︑民主的な国として語る
べてを既成社会の観点から扱うことに慣れる︒彼らは職業的
な政治屋になるし︑他の諸政党の政治屋と同様に︑民衆の上
全権を持ってはいない︒それらのかたわらに︑大衆のあまり
その上︑民衆によって選出された各国会は︑国家に対する
新しいものであれ古いものであれ︑﹁高い﹂階級への尊敬の
反映である︒伝統的な考え方や心情の中には︑不平等の精神︑
わしいであろう︒政治は︑民衆の感情と思想が達した水準の
ことは空しい︒たぶんこの言葉は︑スイスにはいくらかふさ
に大きな影響力を予防するために︑名士や貴族からなる別の
念が見出されるし︑一般に労働者たちは︑主人の前で帽子を
にある︑ほとんど独立した︑別個の勢力を形成する︒
機関││元老院︑上院︑第一院││が設けられているし︑こ
19
れに結びついている敬意の表明を︑搾取される大衆に要求す
なかったのである︒封建領主たちの衣装を改めてまとい︑そ
ジョアジーは︑新しい彼らの権威をどう示したものか︑知ら
い諸条件に適応した︑名残りである︒生まれたばかりのブル
に消滅した︑封建制の名残りであり︑新しい階級支配の新し
とる︒これは︑政治的・社会的な平等の形式的な宣言ととも
そこでそれらの人びとを︑彼ら自身の独立した政府を持つ同
ているかもしれない︑という考えに耐えることができない︒
世論は︑アメリカが外国の諸民族や諸国民を支配し屈服させ
している︒民主的な思想は︑植民地政策をすら支配している︒
ているし︑民主的な感情の強化にこの国のあらゆる力が寄与
は︑彼らの支配の道具として民主主義の価値を十分に意識し
とも大きな力でありつづけている︒主人たち︑億万長者たち
本主義のこの上ない堅固な基礎であったし︑今なおそのもっ
る︒それに︑民衆の感情や伝統のきわめて民主的な性格が︑
ること以外には︒このように被搾取者たちに屈従をはっきり
それにもかかわらず︑それに呼応する政治制度の創造をとも
表わすように求める︑資本家たちの大柄な態度によって︑搾
アメリカではちょうどその反対である︒大西洋を渡ること
なっていないことも︑理解しなくてはならない︒アメリカに
盟者にする︒しかし自動的に︑アメリカのまことに強力な財
によって人びとは︑封建制のあらゆる思い出との掛け橋を断
おいては︑ヨーロッパにおけるのと全く同様に︑統治方式は︑
取はますます怒りを招くものになった︒したがって労働者た
ち切った︒野生の状態にある大陸で過ごさねばならなかった
指導的少数者の支配を確保するよう制定された︑憲法にもと
政的な覇権が︑いかなる正式の従属もなしえないであろうよ
生活のための困難な闘いの中で︑個人ひとりひとりはその人
ちは︑貧困に対する彼らの闘争に︑人間の尊厳の侵害への憤
の個人的な力倆で判断された︒開拓者たちの独立精神の遺産
づいている︒アメリカ大統領は︑もっとも貧しい人と握手を
りも︑さらにいっそうの従属をそれらの国民に強いるのであ
である︑民主主義を愛するブルジョア的感情は︑アメリカ社
かわしさえする︒しかしそのことは︑合衆国の大統領や上院
慨に由来する︑より深い色合いを与えた︒
会のすべての階級の間に広まった︒平等についての生得の感
議員が︑ヨーロッパの大半の国の王や貴族院以上の権力を持
政治的な民主主義の内的な二枚舌は︑悪知恵の働く政治屋
つことを妨げるものではない︒
民主的な社会形態の下で行なわれていたので︑それだけあま
たちが考えだした︑数々の手品の一つではない︒それは︑資
情は︑生まれの大柄さをも血の大柄さをも許さない︒人とそ
り警戒されることもなく︑それだけいっそう進んで︑耐え忍
本主義体制の内的な諸矛盾の現われであり︑したがってその
のドルの真の力のみが評価される︒搾取もまた︑それがより
ばれ︑許容されていた︒したがってアメリカ民主主義は︑資
20
労働力を売る︒しかし自由で平等な商人として振る舞いなが
づいている︒資本家は彼らの生産物を売り︑労働者は彼らの
自由に自分たちの商品を売る私的所有者たちの︑平等にもと
に建設することができた︒いたるところで︑労働者評議会︑
要がなくなった時︑彼らは︑自分たち自身の社会組織を自由
者たちの手中に落ち︑彼らがなお国家権力の支配を受ける必
一九一八年にドイツで︑軍事政権が倒れ︑政治権力が労働
ある︒
ら彼らは︑結果として搾取と階級対立を手にする︒資本家は
兵士評議会が出現した︒それらの評議会は︑部分的には必要
諸矛盾への本能的な反応である︒資本主義は︑市民たちの︑
主人であり搾取者であり︑労働者は事実上の奴隷である︒法
政治的な民主主義は︑それらの指導者たちがそこで彼らとし
性から直観的に︑部分的にはロシアの先例から︑生まれた︒
ての存在意義を認められる領域であり︑労働者階級の代弁者
しかしこの自発的な行動は︑労働者たちが理論的に考えてい
労働者たちがこの矛盾││すなわち︑彼らの法的な自由か
として課題の指導に参加できる領域であり︑議会の中か協議
的な平等の原則を侵すことなしに︑しかし反対にそれにした
ら彼らの搾取と隷属が由来している事実││を乗り越えるこ
の場で論議したり敵対者たちと対決したりできる領域なので
がいながら︑人びとは結果として実際に平等の原則が侵され
とができるのは︑彼らがブルジョア民主主義というあの政治
ある︒彼ら指導者たちが熱望していたのは︑生産の労働者た
たこととは呼応していなかった︒彼らは︑何年にも何年にも
的伝統を克服するであろう時にのみである︒民主主義は︑か
ちによる掌握でも︑資本家たちの追放でもなく︑彼ら自身が
る状況の中にいる︒ここに︑資本主義的生産の内的な矛盾が
つてのブ ル ジ ョ ア ジ ーの闘争から彼らが相続したイデオロ
国家の首領になること︑貴族的・資本主義的な官僚と代わる
わたる社会民主主義の宣伝による︑民主主義理論に深く影響
ギーであり︑それは︑青春の夢想に結びついているすべての
こと︑だった︒そうしたものこそ︑指導者たちにとっての︑
あり︑ この体制が過渡的なものでしかありえないことを示
もののように︑彼らの心情に親しい︒そうした夢想に彼らが
されていたからである︒その同じ理論を︑政治的指導者たち
すがり︑政治的な民主主義を信用し︑それを彼らの綱領とし
ドイツ革命の意味であり︑内容である︒したがって彼らは︑
は当時︑きわめて熱心に彼らに改めて押しつけようとした︒
ている限り︑彼らはそのわなにとらわれたままで︑自らの解
ブルジョアジーすべてと協力して︑﹁新しい民主的憲法を制
す︑矛盾がある︒したがって同様な矛盾が政治の領域で見ら
放のために空しく闘うことになろう︒今日の階級闘争の中で
定するための新しい国民議会の招集を﹂︑というスローガン
れたとしても︑驚くには当たらない︒
あのイデオロギーは︑彼らの解放への途上での最大の障害で
21
が浸みこんでいた労働者たちは︑いかなる抵抗も示さなかっ
ローガンを前にしてためらった︒ブルジョア民主主義の思想
もいっていたのである︒ そこで労働者大衆は相対立するス
らに法的に認められた資格を与えることもできるだろう︑と
諸評議会をそのまま新しい憲法に加えること︑その結果それ
いた︒のみならず彼らは︑労働者たちがもし固執するなら︑
う素朴な求めへの保証として彼らが提出した平等を︑語って
者たち︑彼らは︑すべての市民たちの法的な平等︑公平とい
トの独裁を語っていた革命的な諸グループと対立して︑指導
をかかげた︒評議会としての組織化を勧め︑プロレタリアー
く道に︑飛びこませたのである︒
北した︒第一の段階が︑共和国の失墜と軍事的独裁樹立を導
いる女性たちである︒いくたびにもわたって労働者たちは敗
うな任務を果たしている警察と︑パン屋の前に行列を作って
的秩序回復を象徴するものとして見られたのが︑かつてのよ
ニャ政府の軍隊によって粉砕された︒その直後︑ブルジョア
部抗争によって弱体化した労働者たちの抵抗は︑ カタルー
ず︑その立場に追従することを意味した︒民主的な幻想と内
級のために闘う代わりに︑共同の立場のために闘わねばなら
ちが入った︒このことはつまり︑労働者たちが自分たちの階
らなるカタルーニャ民主共和国の政府に︑労働者の指導者た
時︑権力は労働者大衆の手中に落ちる︒所有者階級や資本主
社会的な危機あるいは政治的革命に際して政府が倒れる
た︒選挙とワイマールでの国民議会の開会によって︑ドイツ
を手にした︒このようにして国家社会主義の勝利へと導かれ
義にとって︑そこでの問題は︑彼らから権力を取り上げるた
ブルジョアジーは新しい支柱︑決定の中心︑確立された政府
る︑一連の出来事の流れが始まったのである︒
持と食糧の確保につとめた︒一方︑主要な工場は組合の管理
めた︒街頭の主人であった彼らの武装グループは︑秩序の維
け︑兵営を占拠し︑兵士たちを収容所に集め︑市を手中に収
工業地帯では︑労働者たちが︑将軍たちの反乱の知らせを受
さな規模でだが︑似たような経緯をたどった︒バルセロナの
一九三五年から一九三六年までのスペイン内戦は︑より小
従属する機関になるのを黙認するよう︑納得させるのに使わ
せるのに同意するよう︑すなわちそれらの機関が他のものに
て︑権力を断念するよう︑彼らの機関を国家の中に組み込ま
ある︒口実とされるのが形式的な平等︑法の前の平等であっ
義は︑権力を手放すよう大衆を説得する手段であり︑道具で
うであったし︑未来においてもそうなる恐れがある︒民主主
めにはどうしたらいいのか︑である︒過去において事情はそ
︵一︶
下で操業をつづけ︑近くの諸地方でのファシスト部隊との闘
れるのである︒
それに対して労働者たちは︑ 唯一の武器しか持っていな
いを継続した︒そうこうするうちに︑社会党や共産党の政治
屋たちと同盟している︑プチブルジョアの共和主義者たちか
22
れでもなお︑民衆の上に立つ政府はない︒民衆それ自身が政
る︒個人たちが全体に順応しなければならないとしても︑そ
る支配を意味するけれども︑ その支配が今やないからであ
るべきかもしれない︒というのも︑接尾辞クラシーは力によ
シー﹇民主主義﹈という言葉が適切かどうか︑問い直してみ
会にふさわしい︑ 平等の形態ではないか︒ それにデモクラ
る︒それこそ︑生産と人間生活が意識的な形で管理される社
明している︑という強い確信を彼ら自身の間で養うことであ
い︒評議会型の組織がより高度でより完全な平等の形態を表
はなく︑彼らの役割である︒
るものではない︒決定から排除されるのは︑彼らという人で
除されよう︒しかしこの事実は︑民主主義の欠如と見なされ
しない寄生者たちは︑あらゆる決定への参加から自動的に排
しか︑現実のものにならないだろう︒生産にいかなる貢献も
あらゆる種類の労働が︑労働者自身によって組織される日に
を待つことは空しい︒この領域においては︑実際の平等は︑
いて決定に参加する実際の権利を約束する︑法律ないし政令
力する︑彼らの生計を保証するからである︒全員に事実にお
は︑あらゆる生産者の生活基盤の自由で平等な主人として協
等な権利を持つ︒しかし売れるかどうかは確かではない︒評
ていないからである︒労働者は︑彼の労働力を売る︑あの平
ない︒というのもそれは︑経済生活にも生産にも︑かかわっ
をもたらしているか︑あの民主主義はほとんど気にしてはい
平等な権利を与える︒しかしそれが生活の上でのどんな保証
民主主義以上の何ものでもありえない︒それは各自に︑同じ
主主義︑ブルジョア民主主義は︑最良の場合でさえ︑形式的
り︑労働者の真の民主主義である︑といいうる︒政治的な民
であれば︑評議会型の組織こそ︑民主主義の最高の形態であ
きた感動に︑人びとが本当にずっと執着しつづけていたいの
一の手段である︒長期にわたって民主主義という語が伝えて
る政府を必要とすることなく︑彼らの真の活動を組織する唯
切に扱われたい︑というであろう︒しかし彼らが︑穏やかな
談されるとすれば︑疑いもなく彼らは︑無慈悲にではなく親
か︑という永遠の課題である︒この点について奴隷たちが相
かテロルか︑ どちらが奴隷たちの反乱を防ぐ最良の道なの
える答えにしたがっての分裂を︑である︒これは︑温情主義
│つまり苛酷な路線の選択││によってか︑という問いに与
やかな路線の遂行││によってか︑それとも独裁的な強制│
いる︒体制を守るのによいのは︑民主的な欺瞞││つまり穏
はこの二者択一は︑資本家諸グループ間の分裂を覆い隠して
もって支持しなければならない︑というものである︒実際に
の結論とされるのが︑労働者階級は民主主義の立場を全力を
に直面している︑という話をしばしば聞かされる︒そこから
現代世界は︑民主主義か独裁かという︑基本的なジレンマ
︵二︶
府である︒評議会型の組織は︑働く人びとが︑彼らを指導す
議会民主主義は反対に︑真の民主主義である︒なぜならそれ
23
路線を自由への路線だと見なすほどの思い違いをすれば︑彼
いたドイツの労働者評議会にいくらか似た︑数多くの地
会が部分的に政治権力を行使した︵地方権力を掌握して
享受していた︶︑いずれにせよその地位を保っていたも
らはその時︑ただちに彼らの解放を断念することになる︒現
のの︑少なくとも初期においては︑実権を奪われていた︒
方委員会の存在にも注意しておこう︶︒中央委員会は︑自
評議会民主主義を宣言することによって労働者たちは︑闘
一九三六年九月二十六日︑カンパニスは︑革命的指導者
由主義者や労働者の︑あらゆる政治党派を︵すでに︶結
争を政治的形式から経済的内容へと置き直す︒もっと正確に
たちも参加した︑自治政府協議会を創設させるのに成功
代において労働者階級に関して提起されるジレンマは︑評議
いえば││政治的なものは経済的なものの形式であり道具で
した︵これは第一級の画策だった!︶︒民兵中央委員会は
会型の組織︑労働者の民主主義か︑それとも形式的な権利の
しかないから││︑彼らは空しい決まり文句を︑革命的な政
消滅した︒パネクークがここでほのめかしているのは︑
集していた︒カンパニスを首相とする合法的なカタルー
治行動︑生産手段の掌握へと代える︒政治的な民主主義の言
民主主義︑ブルジョアジーのまことしやかで見せかけだけの
葉は︑労働者たちを彼らの真の目的から逸脱させる︒労働者
この出来事であろうと思われる︒ 一 九 三 六 年 十 一 月 四
ニャ自治政府は︵カタルーニャは国内的に一種の自治を
たちが︑現代における社会生活の最重要課題︑大課題にけり
日︑マドリードの中央政府にアナキストたちが入ったこ
民主主義か︑である︒
をつけられるのは︑評議会型の組織原則の実現を心がけるこ
とも想起しておこう︒一九三七年五月二日から六日にか
けて︑この中央政府が︑蜂起したバルセロナの労働者た
とによってのみである︒
での軍の反乱開始の日付︶ か ら 一 九 三 八 年 五 月 二 十 日
イン戦争は一九三六年七月十七日︵スペイン領モロッコ
︵一︶実際には︑公的な日付で満足しておくとすれば︑スペ
する︵フランス語版訳者の注︶︒
モクラシーはしたがって︑民衆の力︑民衆の支配を意味
を意味するギリシャ語︑クラトスから派生している︒デ
︵二︶接尾辞クラート︑クラシー︑クラティックは︑力︑強さ
ちを鎮圧する部隊を送った︵フランス語版訳者の注︶︒
︵マドリードにおけるフランコ軍部隊の〝 祝勝行進 ″の
日付︶までつづいた︒一九三六年七月二十一日︑カタルー
ニャ反ファシスト民兵中央委員会が創立され︑この委員
24
直接民主主義の系譜
ところで古代ギリシャ各地のポリスについては︑必ずしも
でもない︒したがって民主制への歩みを語るとすれば︑少な
散逸している︒それに︑どのポリスもが民主制を達成したの
古代アテネのポリス︵前五世紀︶
古代ギリシャ人の歩みは︑紀元前六世紀︑五世紀が特に注
からず史料もあり︑ もっとも民主的性格を深めたと見られ
1
目される︒文化と政治の面での彼らの偉大な成果が︑現代世
満足な史料が残されているわけではない︒むしろほとんどが
界にも一つの枠組を与えているからであり︑彼らはおよそ二
る︑アテネを対象としてとりあげなくてはならない︒
彼らは︑神々の教え︑祖先の遺法︑伝統的な慣習に盲従す
をとげたのか︑誰も明確には伝えていない︒ただ︑王がいた
家の中でどんな位置にあったのか︑それがどんなふうに変貌
ない︒その起源は謎であり︑ミケーネ時代の古代専制的な国
しかしアテネについても︑実は十分な記録があるとはいえ
千五︑六百年前に当たるその時期に︑哲学と民主主義を創造
ることなく︑それら一切を含めて自然を︑人間を︑社会を︑
と推定されているし︑ 前九世紀頃に貴族の政権が確立され
したのだった︒
タブーなく解明してゆく作業としての哲学を出現させた︒ そ
家という言葉は︑この場合あまり適切ではない︒むしろ市民
されるけれども︑支配者と被支配者との分割を連想させる国
ポリスの中で確立されてゆく︒ポリスはふつう都市国家と訳
民会もあったからである︒
職人がアテネ市民を形成し︑時に開かれる市民集会としての
らなる共同体社会であって︑自由な住民︑つまり貴族︑農民︑
り違ったものだったと見られる︒アテネとその周辺の住民か
とはいえそれは︑貴族独裁制といった言葉の響きとはかな
て︑王は貴族の一員にすぎないものになったらしい︒
れとほぼ同じ時期に︑民主主義も誕生する︒
共同体というべきで︑少なくともそうした実態の方向にポリ
民主主義は︑前八世紀以降にギリシャ各地で形成された︑
スは発展していったのである︒
25
と呼ばれる人びとだった︒彼らは前七世紀には︑﹁家柄のよ
政務の担当者は︑前八世紀末か前七世紀以降︑アルコーン
コーンに選ばれると彼は︑社会改革に着手し︑公私の負債を
落︑それをまず防ごうとしたのがソロンの改革である︒アル
それによると︑これまでどおり人びとは︑財務評価によっ
切り捨て︑身体を質にした金貸しを第一に禁止した︒同時に︑
て富裕者級︑騎士級︑農民級︑労働者級の四つに区分され︑
民主制の基礎となる国制を定めた︒
れており︑ アルコーンに就任できるのは上位の二つに限られ
九人のアルコーンと財務官などの役職は上位三級の人びとの
さと富によって﹂選ばれていた︒この時期には市民は︑収入
ていた︒以後︑アテネの歴史をいろ どるのは貴族と民衆の抗
みに与えられ︑労働者級は民会と民衆法廷に参加できただけ
によって富裕者級︑騎士級︑農民級︑労働者級の四つに分か
争であり︑それを通じて民衆の政治参加が量的にも質的にも
選した中から︑九人を抽選で決めた︒ また各部族百人ずつ︑
拡大し︑ 市民全体で政治を担う体制がととのえられていっ
四百人からなる評議会も設けられ︑これは民会での議題の予
だった︒アルコーンは︑四つの血縁部族がそれぞれ十人を予
もっともその歩みは決して一本道ではなく︑いくつかの陰
備的審議機関であったと伝えられている︒
た︒
謀︑政争︑僣主制の時期などを間奏曲として挿みながら︑ド
選んだ︒また参政権のある人びとの間から抽選された四百一
びとで︑彼らが九人のアルコーンと財務官を︑さらに将軍を
ものになった︒参政権を与えられたのは自費で武装できる人
部族を作り︑人びとを入り混じらせたことだった︒この地縁
の種となっていた四つの部族の代わりに︑地域を分けて十の
イステネスの改革である︒その第一は︑血縁にもとづき抗争
ポリス・アテネの民主的性格をいっそう強めたのは︑クレ
な力を与えることになった︒
衆裁判の法廷に上告できた︑という点で︑これは大衆に大き
処罰について不服があれば︑労働者級の市民も参加できた民
ソロンの改革の中で特に注目されているのは︑役人による
ラコンの立法︵前七世紀後半︶︑ソロンの改革 ︵前六世紀初
め︶︑クレイステネスの改革︵前六世紀末︶をへて︑アテネの
民主制が確立されてゆく︒
立法家ドラコンは︑慣習法を成分化し︑国制を定めた︒そ
人からなる評議会と民会が︑ 詳細不明な形で政治に関与し
による十の部族から五十人ずつ︑計五百人からなる評議会が
れは事実において︑貴族の恣意的な政治運営に制約を加える
た︒しかし土地は少数者のものであり︑借財は身体を抵当に
生まれ︑そのうち各部族の五十人が︑三十五ないし六日ごと
に︑当番評議員として政務に当たった︒一方︑各部族は一人
して行なわれていたのである︒
その身体を抵当にしての借財︑ 結果としての奴隷への転
26
指導は誰にでもできることではなく︑専門知識がいると考え
ずつ将軍をだした︒これは抽選ではなく選挙によった︒軍事
とである︒これによって貧しい人びとも自分の生活を顧みる
された最大の措置は︑裁判の陪審員などに手当を支給したこ
キスと呼ばれる陶片追放の制度がある︒僣主の出現をふせぐ
七四頁以下︶︑民主制の内容を確認するため︑その概要をこ
ているので︵﹃アテナイ人の国制﹄村川堅太郎訳︑岩波文庫︑
めのアテネの国制については︑アリストテレスが詳細に語っ
ペリクレスの時代とほぼ同じ制度を用いていた前四世紀初
ことなく︑公共の職務を果たすことができるようになった︒
ことを狙ったといわれるが︑危険と思われる人物の名を陶片
こで拾っておきたい︒
またクレイステネスの制定と伝えられるものに︑オストラ
られたからである︒
に書いて投票させ︑六千票以上をえたもののうちの最大多数
である︒しかしギリシャは︑有名なマラトンの戦いで侵略者
市をアテネが援助したことから︑その懲罰を口実にした遠征
をつとめ︑それ以上の期間の在任や再任は許されなかった︒
して政務を見た︒議長一人を抽選で選ぶが︑一昼夜だけ議長
人が︑抽選された順で︑プリュタネイスごとに当番評議員と
五十人ずつ︑計五百人が抽選で選ばれた︒各部族ごとの五十
実際の政務には評議会が当たった︒評議員は︑十部族から
十分の一︒三十五ないし三十六日︶の間に四回︑ 開かれた︒
重要事項について決定する︒民会はプリュタネイス︵一年の
ポリスの最高決定機関は︑全市民が参加する民会であり︑
のもの︵一説 では全投票数が六千を越えた場合に限り︑その
うちで最大多数をえたもの︶を︑国政から十年にわたって追
放する措置だった︒
前五世紀の初めにペルシャは︑大軍を送ってギリシャを攻
を撃破する︒ その十年後︑ペルシャの再侵冦にもギリシャは
撃した︒ペルシャの支配に反抗した小アジアのギリシャ植民
耐え︑ふたたび敵を敗走させた︒
者は選挙により︑民会で 民衆によって決定された方法で行な
通常の役人は︑すべて抽選で選ばれた︑将軍など軍事指導
評議会の開催は︑休日をのぞいた毎日である︒
シャ︑特にアテネの市民たちを勇気づけた︒以後アテネは︑
われた︒造船の技師長など特定の専門家も︑選挙で選ばれた︒
この二つの勝利は︑専制に対する自由の勝利として︑ギリ
前五世紀の半ば数十年にわたって︑民主制としても文化の面
かつて貴族政の中心であったアルコーン九人も︑依然とし
いずれも再任を許されなかった︒
軍事に関係する官職では再任が許されたが︑その他の役職は
でも︑全盛期を迎えることになる︒
この時代を象徴するのが︑民主制をいっそう深めたといわ
れるペリクレスである︒ 彼は︑十五年にわたって将軍に再選
されたので︑政治の中心的な指導者になるが︑彼の下で実現
27
て抽選で選ばれていたが︑祭祀用などの実権のない官職に変
特筆すべきは︑支配機構としての国家と︑その支配に服し
称すらなく︑市民の集団として単にアテネ人たちとよばれて
体であったことである︒アテネのポリスには国家としての名
ている民衆という分離が見られず︑ポリスが市民たちの共同
評議会は︑大部分の役人の勤務について審査した︒また私
わっていた︒
人も︑役人の仕事ぶりについて評議会に弾劾できた︒しかし
いたのだった︒
しかしそこには︑一つの問題がある︒誰が市民でありえた
有罪とされた役人は︑陪審廷に控訴することができた︒評議
会はまた︑プリュタネイスごとに将軍たちの仕事ぶりを審査
のか︒誰が市民であることから排除されていたのか︒これに
ついては︑H・G・ウェルズ︵﹃世界史概観﹄上︑岩波文庫︶
をはじめ︑ 市民は限られた特権的な人びとからなり︑ ギリ
訴訟は︑抽選された訴訟提起官によって陪審廷に提出され
した︒
た︒陪審員は抽選で選ばれた︒公的な訴訟の陪審廷は︑五百
シャにおける民主制は︑多数の奴隷の存在に立脚した貴族政
しかし最近の研究はむしろ︑奴隷の存在を過大評価してい
治的なものであった︑とする主張が古くからある︒
一人からなっていた︵ソクラテスもここで裁かれ た︶︒
評議会は︑民会が挙手によって選出した十人の登録官を通
じて︑騎兵の選抜を行ない︑審査し︑適格者を召集した︒ま
ると︑適格かどうか審査され︑適格であれば登録され︑二年
ともに市民の子である両親から生まれた男子が十八歳にな
た︑前四世紀初めのアテネには約三万の市民がいたが︑その
ると人口の半ば近くに達する数字ではなかろうか︒彼女はま
一割が市民であったと推定している︒これは家 族までを入れ
ない︒クロード・モセ は︑周辺を含むアテネの人口のうち約
間の軍事訓練に服した上で︑市民への仲間入りを許された︒
うち畑や作業場で肉体労働をしているものも多数にのぼっ
た︑騎兵について戦う歩兵の審査にも当たった︒
これがアテネ直接民主制のあらましである︒このようにま
め︑それを職業 化することは禁じられていた︒そこには︑限
特定の職務をのぞいて︑ どの職務も市民たちが交替でつと
すべて︑市民たち全体の共同の事業だった︒軍事指導者など
人である︒しかしこの重大な欠陥にもかかわらず︑アテネの
かったという奴隷︑商業などのためかなり在留していた外国
がいた︒女性︑よそに比べてそれほど苛酷に扱われてはいな
確かに政治参加の場から除外されていた少なからぬ人びと
た︑と指摘している︒
られた人物に権力を集中しないための︑ 周到な配慮がうかが
民主制は︑後世から見て驚嘆すべき先例なのであり︑それは
とめてみると︑その本質は一目瞭然となる︒ポリスの公務は
われる︒
28
ある︒そこからプラトンのような︑民主主義に失望した反民
相次いだ戦争︑政争︑陰謀︑暴力抗争︑道徳的退廃の結果で
年間に及ぶペロポネソス戦争と︑その敗北の中で自壊する︒
残念ながらアテネのポリスは︑前四三一年からおよそ三十
としての特許状を与えられているのが特徴で︑この特許状は
所領としている王ないし領主から︑コミューン︵自治都市︶
身が統治する都市﹂とある︒当の都市の市民たちが︑周辺を
語辞典には﹁封建制の束縛から解放され︑ブル ジョワジー自
害を持つ民衆︑もっと端 的には同盟を意味する︒ロベール仏
彼によれば︑十二世紀の言葉でコミューンとは︑共同の利
かる︑誓約を交わして結成された協同組織﹂︑と定義してい
主主義的な思想家が生まれてくることにもなるが︑大事なこ
新しい思想によってもたらされもしたし︑新しい思想を生み
とはアテネ民主制自滅の事実のうちに︑民主主義を保証する
ほかの都市にはない特権を保証しており︑したがって法的観
る︒
ものは民主主義を育て守ろうとする参加者以外にないこと︑
念としてのコミューンは︑当の共同体に認められた諸権利の
だしもしたのである︒
民主主義は参加者の質次第であること︑を確認することでは
全体を指すこともある︒
この種のコミューンは西欧の各地︑イタリア︑フランス︑
ないか︒
ドイツ︑フランドル︑イ ギリスなどで︑封建社会のただ中に
西欧中世︑十世紀後半以降における自治都市の誕生は︑古
紀における農業の躍進︑それにともなっての商業の活発化︑
あるが︑なぜこの大運動が生まれてきたかの背景には︑十世
西欧中世の自治都市︵十一│十三世紀︶
代ギリシャの経験を想起していえば︑西欧における民主主義
街道を往来する人びとの増大︑都市の再生ないし新設の流れ
2
の再生を告げるものである︒自治都市は︑フラン ス語ではコ
がある︒
出現する︒まさしく西欧民主主義の起源というべき大運動で
ミューン︑イタリア語ではコムーネと呼ばれたが︑一般的に
シャルル・プチ=デュターイが︑﹁一つの都市ないし連合し
このコミューンについては︑ フランスの中世史家である
る︒このブールの人びと︑つまりブルジョワと呼ばれるよう
る︒ そこに商人や職人が定着し︑ これまでにない集 落を作
きな城や聖堂の近くにできたブールと呼ばれた新開地︑であ
新興の都市の核となったのは︑ローマ時代の旧都市や︑大
た村々の︑ 住民ないし住民の一グループによって形 成され
になった人びとは︑土地に縁がないという意味で︑封建社会
はコミューンの名で知られている︒
る︑抑圧者たちから自分たちを防衛するための相互援助をは
29
封建社会の基礎は土地である︒まず土地を支配する領主が
誕生することになる︒この時期の誓約は︑宗教的な意味を帯
で相互援助を誓約した人びとからなる共同体︑コミューンが
たちの権利を主張するために団結せざるをえなかった︒そこ
こんな状況の中で都市は︑自衛を迫られるとともに︑自分
いた︒彼らは俗人︵騎士︶である場合もあり聖職者︵司祭︶
の中ではかつてない性質の人間たちだっ た︒
である場合もあるが︑所領を持ち︑領内の農民 たちを暴政の
びていて違約を許さない︑非常に強力なものであったことに
そんなふうにして結成された都市住民の共同体は︑王ある
下においていた︒さまざまな税金を取り立てていたことはい
いは周辺の領主︑特に直接の支配を受けている領主と当然の
も注意しなくては ならない︒
際には戦闘への召集さえしていた︒裁 判をするのも領主の権
うまでもな い︒労役奉仕という形の労働も強いたし︑必要な
利だったし︑ 農民が結婚するのに領主の許可がいるといっ
ことながら利害が対立する︒そこで都市は︑長い交渉を 重ね
とられる税︑商品を領内で移動させるととられる税︑商業活
都市に出入りするたびにとられる税︑市場に商品を並べれば
商業上の要請としばしば対立した︒たとえば︑よその商人が
ている人びとであり︑彼らが領主への異議申立てを推進し︑
められているとともに都市を代表して発言できると見なされ
えた有識者︑能力と財産のある有力者︑都市の住民として認
けて台頭する︒運動の中心にいたのは︑特に法的な能力を備
こうした動きは︑十世紀の終わりから十二世紀の初めにか
ミューンとしての特許状を手に入れる︒
るか︑ 時には武力を行使して︑ さまざまな権利を持つコ
た︑農奴的な因習も残っていた︒
都市は︑こうした封建的な支配︑王ないし地方領主の支配
の下で生まれた︒都市もまた︑その地を支配する領主の恣意
動にそぐわない裁判手続︑軍事上の徴発︑等々があったから
既存の権力と都市の共同体との関係を調整する︑コミューン
的な意向にしたがわざるをえなかった︒しかしその意向は︑
である︒
であったように︑略奪 ︵戦利品の獲得︶が富をうる一手段と
化して︑都市共同体の多くにコミューンの特許状︑あるいは
しかしこれは︑まだまだ例外的な事件であり︑もっと一般
の特許状獲得を実現させる︒
して公認されているかのような時代だった︒商 品を運ぶ輸送
自主権︵フランシーズ︶の特許状が与えられるようになるの
しかも十一世紀︑十二世紀といえば︑十字軍の一面がそう
隊が街道上で襲われたり︑豊かさが目立つようになった都市
は︑十二世紀半ばから十三世紀にかけてである︒
この流れは︑まず地中海地方の都市︑特にイタリアの北部
が騎士たちに狙われる︑ といったことも決して珍しくはな
かった︒治安を維持する中央権力が不在だったのである︒
30
併せて︑ローマ時代の都市自治の伝統が記憶されていたから
や中部で具体化する︒商業化がいち早く進んだという事情に
捕をまぬがれることができた︒
分の都市の外で裁かれることはなかったし︑不当な召喚や逮
し︑領主が介入する事案においても︑コミューン構成員は自
判権とともにコミューンを特徴づけるものに︑都市行政の自
以上の︑都市住民の人格尊重︑税負担の軽減︑自主的な裁
である︒ついで都市の自治化の波は︑フランス︑フランドル︑
さて︑では︑コミューンを結成することで都市の住民たち
治がある︒ しかしこれは︑ 自治都市が獲得した権 利の中で
ドイツ︑イ ギリスに及んでゆくことになる︒
は︑どんな権利を手に入れたのだろうか︒第一に目立つのは︑
も︑むしろ最後にえられたものである︒
も人間として尊重されるようになったし︑コミューンが同意
ままにとられることもなくなった︒一 言でいえば都市の住民
手荒に扱われたりしなくなったし︑さまざまな罰金や税を気
か︑新しい制度を創造するかして︑いくつもの自己統治の形
た︒しかし各コミューンは︑やがて旧制度をわが手に収める
ら︑ この慣行ないし制度は簡単には変更しえないも のだっ
いし領主の代官や役人が都市の統治に当たっていたのだか
都市の誕生が相次いでも︑周辺の田園地域と同様に︑王な
領主の代官︑役人の恣意的な支配が制約され︑ 人身と財産の
していない税は徴収されないようになった︒外から都市に出
を実現してゆく︒概してそれは︑革命的な手段での劇的な変
保護がはかられたことである︒勝手に何かを命ぜられたり︑
入りしている商人たちも︑ 同様に保護を受けられるように
化というよりも︑漸進的なゆっくりした経過をたどってもた
要約することはできな い︒しかし自己統治のおよその基本原
コミューンの自治行政の実態は多様である︒内容を単純に
らされたと見られる︒
なった︒
税でいえば︑現物なり労役なりで領主に提供していた賦課
についてのさまざまな税にかわったし︑市場税はほぼ廃止さ
理としては︑誓約共同体によって承認された代 表によって行
は︑市場での商品の陳列規模︑住居︑人か商品の移動︑等々
れ︑商売に関する税︑いくつかの通行税も免除された︒たと
政が行なわれた︑という事実があげられる︒統治は合議的に
理念としていえば︑権力の基礎は誓約者たちの全体集会
進められ︑権力は母体である共同体によって行使された︒
注目されるのは︑裁判権についての領主側の譲歩である︒
だった︒ここで︑行政に当たる人びと︑市長や行政職の幹部
えばまた︑製粉場やパン焼きがまなどの︑領主による独占所
コミューン内にかかわる争いについては︑おおむねコミュー
が︑任期を定めて選出された︒全体集会の頻度は明らかでは
有︑したがって強制使用も破棄され た︒
ンにおいて選出した裁判人によって裁かれる例が多くなった
31
としないが︑あるコミューンの特許状には年に三回の全体集
なく︑全体集会がどれほど行政の現実を制御しえたかも判然
るほど︑その方法は複雑化していたらしい︒
配分されていたものと考えられるが︑都市が大きくなればな
だ選任する役職員の数は︑都市︵ブール︶内の区分に応じて
こうしたコミューンの運動は︑実際には長つづきしなかっ
当たった︒
題が生じた時には︑ 和戦の決定︑したがって戦闘の指揮にも
徴税と財政の執行などであるが︑近隣の領主たちとの間に問
都市行政として実施されていたのは︑裁判︑治安の維持︑
会と記録されている︒召集の鐘が鳴らされると︑誓約者たち
は住居や職場からそれぞれ集会場に向かった︑といわれてい
る︒
行政官たちは原則的には選挙されていた︒しかしコミュー
ンによっては︑先任者が後任者を決めた場合もあり︑王ない
し領主によって指名された︑といった例すらあったようで︑
イギリスではバーガマスターと︑フランスではメールと呼ば
行政官の中にはまず市長がいた︒彼は︑ドイツ︑オランダ︑
る民主的な傾向は︑全員に関わることは全員によって討議さ
代の中世史家シモーヌ・ルーによれば︑コミューンに見られ
ゆくにつれてその中に吸収されてゆくからであ る︒しかし現
た︒十三世紀以降︑国の統一権力としての王権が確立されて
れた︒この市長の下に︑北の地域ではエシュ ヴァン︑南の地
れ同意されなくてはならない︑という原理に要約されるとい
行政官の任命には三つの形が混在していたと見られる︒
域ではコンシュラの名で知られる︑行政の幹部職があった︒
う︒
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
エシュヴァンはもともと裁判に当たるものの意で︑それが行
時代に先がけた驚くべき原理の出現であり︑その記憶は消
えずに残った︒ フランスでいえば︑ 一七八九年の革命に当
政官に転化しているので︑ここでは判事と訳しておくことに
する︒コンシュラは古代ローマ以来の称号で︑執政官と 訳さ
のコミューンがパリで結成された︒また一八七一年三月に蜂
たって︑フランスの民衆は﹁コミューンの子孫﹂︵ギゾー︶と
起したパリ市民たちが︑パリ・コミューンを宣言したことは
れることが多いが︑ エシュヴァンよりも合議的な性格が強
市長︑何人かの判事ないし執政官のほかに︑数十人の規模
うたわれたし︑一七九二年八月の王制廃止に際しては︑蜂起
での市参事会があり︑この参事会が行政を補佐するか︑行政
よく知られている︒
い︑と認められてい る︒
に当たったコミューンもあったようである︒いずれにせよ︑
こ れらの行政職の業務分担がどのようなもので︑実際にどん
な運営をしていたのか︑ 詳しく伝えられている例はない︒た
32
に大問題だった︒そこでブルジョアジーと民衆の間ではしば
フランス革命下︑パリ市民の直接民主制︵一七
3
しば対立が生じたし︑民衆の運動の側には︑一階級から別の
が︑その根底にあるのが︑人民主権についての理解の両者の
の人びと︑民衆との対立の過程で明確に出現しているものだ
さて︑問題の芽は︑ブルジョアジーとより下層の第三身分
という点にも︑フランス革命の大きな特徴がある︒
されたのである︒この︑単なるブルジョア革命ではなかった︑
間の人間による支配のない社会への︑ 新しい有力な芽も見出
階級への権力の移行という枠を越えて︑階級のない社会︑人
九二│九四︶
フランス革命︵一七八九年│一七九九年︶は︑大別すると
三つの時期に分けられ る︒
第一は︑ 一七八九年七月から一七九二年七月まで︒ バス
チーユ攻撃にはじまり︑封建制を廃止して立憲君主制を目指
した時期︒
第二は︑一七九二年八月から一七九四年七月まで︒外国君
こそが主権者であること︑を意味した︒この理念は︑王の権
人民主権とは︑権力の正当な持主は民衆であること︑彼ら
対立である︒
日︑パリ市民らが蜂起してから︑王制を廃止して王を処刑し︑
主たちと通謀して絶対王政復活をはかる王に対し︑ 八月十
共和制を確立していった時期︒ロベスピエールを中心とする
決し︑王から権力を奪う上で︑ブルジョアジーにとって不可
力は神から授けられた神聖なものである︑という考え方に対
欠で鋭利な武器だった︒しかしこの理念はまた双刃の剣であ
独裁制を生んだ時期でもあ る︒
第三は︑一七九四年七月から一七九九年十一月まで︒ロベ
り︑ブルジョアジーが権力を握った時︑こんどはそれが彼ら
の権力を脅かす民衆の武器となる危険性を︑つねに潜在的に
スピエール派を没落させ処刑した︑いわゆるテルミドール反
このフランス革命は︑ 何よりも成功したブルジョア革命
秘めていた︒ その危険性を︑フランス革命の長い過程が現実
動から︑ナポレオンの頭領就任にいたる時期で ある︒
だった︒旧勢力︑つまり王 ・貴族・聖職者のものだった権力
のものにする︒
ブルジョアジーにとって︑理論的にはすべての権力は民衆
と富が︑ ブルジョアジーの手中に移ったからであ る︒ ブル
ジョアジーは十分な勝利をえた︒しかしこの勝利は︑再三の
実際には彼らは自らの権力を欲し︑民衆がじかに権力を行使
に由来する︒しかしそれは︑理論の領域だけのことである︒
したがってブルジョアジーにとっては︑民衆をいかにして
することを認めようとはしなかった︒民衆に許されるのは︑
武装蜂起を含む民衆の運動なしにはありえなかった︒
協力させるか︑同時にいかにして民衆を制御するか︑がつね
33
権力を﹁委任する﹂ことだけである︒したがって主権は議会
とすべてを︑代表者たちによっ て行なう体制である﹂︒
ことすべてを彼ら自身で行ない︑彼ら自身ではなしえないこ
主権者として権力を︑何らの仲介者もなしに︑自分たち自身
この現実を民衆は︑黙って甘受してはいなかった︒彼らは
れが可能であったのは彼らが組織されていたからである︒彼
は︑何度にもわたって彼らの主権を対抗させるのであり︑そ
ていたのである︒議会の主権と称されるものに対しても民衆
たち自身で主権を行使する権利がある︑と考えるようになっ
は革命の過程を通じて次第に︑いかなる機会においても自分
この主張を民衆は︑事実において打ち破ろうとした︒彼ら
にあり︑議会は主権者である民衆の名において︑立法し統治
する︒民衆にできるのは︑多くは制限選挙の下で︑自分たち
で行使しようとした︒そこからブルジョアジーと民衆との衝
の代表を選ぶというにすぎなかった︒
突が起きた︒政治体制の上でいえばそれは︑直接民主制と間
らは︑パリの四十八の区会︑各地のコミューン︑民衆協会と
り︑その基本的な拠点となったのは区会︑つまり区ごとの市
そんな運動の先進的な事例を示したのはパリの民衆であ
る︒
いった組織を通じて︑ 彼らの意思を直接に表明したのであ
接民主制の対立である︒
ルソーは人民主権の思想家として︑フランス革命に少なか
らぬ影響を与えた︒ 彼は間接民主制の茶番的性格を批判し
いのである︒現実の問題としては︑いろいろと留保をつけな
民総会である︒この区を足場にした行動をまず概観しておく
た︒にもかかわらず実は︑直接民主制の達成を説いてはいな
がらも︑民衆の主権の委任︑間接民主制を容認する︵﹃社会
ことにしよう︒
されている︒そのパリは︑一七九〇年六月以後︑それまでの
一七九〇年代の前半︑パリの人口はおよそ六十万人と推定
契約論﹄︶︒フランス革命における彼の弟子たち︑ブルジョア
たとえばロベスピエールは︑直接民主制には明らかに反対
六十に代わって四十八の区︵セクシォン︶に分かたれた︒区
ジーの代表者たちは︑師の主張を踏襲する︒
だった︒彼は民衆の統治 能力を疑っていて︑﹁民衆は︑つね
の住民は︑多いところで二万五千人に近く︑少ないところで
このうち賃金労働者︑すなわち数人から数十人規模の従業
は一万人を割っているが︑大半は一万人台だった︒
け加える︒﹁民主主義とは︑そこで民衆が絶えず集会を持ち︑
員を持つ事業体である︑ 親方や企業に雇われているものとそ
に現職の判事であることはできない︑と私は知っているし︑
すべての公共の業務を彼ら自身で処理する体制ではない︒
の家族が︑市民のおよそ半分︑三十万人弱と見られている︒
私はそれを望んでもいない﹂と︑いった︒その上で言葉をつ
⁝⁝民主主義とは︑主権者である民衆が︑彼らによくできる
34
うして区会は︑民衆的な性格を深めてゆく︒
区会ははじめ︑身近な自治に関することのみを取り扱い︑
彼らを含めて民衆︑第三身分の下層を形成していたのが︑プ
チ・ブルジョア︑小商人︑職人の親方︑職人︑未熟練労働者︑
総会は︑一定の期間で交替する議長︑事務局員︑記録係書記
それを越える決定は無効にされた︒しかし一七九二年七月以
の役員に主宰され︑ほぼ連日︑夕方五時から夜の十時まで開
降の戦争の危機の中で︑ほとんど無制限の権限を手にする︒
区︵セクシォン︶はもともと︑王制時代の身分制議会︑三
かれることになっていた︒しかし実際には︑十一時︑十一時
貧民といった人びとであり︑ 民衆の活動を担ったのは彼ら
部会への第三身分の代表選出のための︑選挙母体として生ま
半にまで及ぶことも少なくはなかった︒
だった︒
れた︒区ごとに一定の税金を納めた選挙資格を持つ選挙人が
ただ留意しておきたいのは︑区の総会への出席者が必ずし
集まり︑そこでパリ全市の集会に派遣する選挙人を決定し︑
市の集会でパリの代表を選出する︑という二段階になってい
ための機構にすぎなかっ た︒しかしそれをパリ民衆は︑自分
したがって本来︑区会︵区選挙人集会︶は一時的な選挙の
議に加わったのは︑その権利を持つ人びとの数パーセントか
は千人近い人が集まったりした︒結局︑総会に足を運んで討
よっては百人を欠くこともあったようで︑状況の緊迫次第で
も多数ではなかった事実である︒それぞれの区ごとに︑日に
たちの恒常的な組織に変え︑民衆権力の基盤に変 える︒一七
ら多い時で十数パーセントだった︒こ の少数の人びとが革命
たのである︒
八九年七月十四日︑バスチーユ攻撃によって権力に空白が生
の下からの推進者となった︒
区会は単なる意思表明の機関では決してなかった︒行政機
じた時︑ パリ市の実権を掌握したのがパリの選挙人集会で
あったことを想起しておこう︒以後︑フランス革命進展の節
関でもあり︑司法・警察機関でもあり︑徴税機関︑軍事機関
る︒民事委員会︑革命委員会︑軍事委員会を持ち︑一七九〇
目節目で︑パリの各区会とその代表者たちは重要な役割を果
年五月からは区会の中から治安判事や警察署長の選出も行
でもあった︒その実情は︑民衆権力のあり方として注目され
パリの各区会は︑一七九二年七月二十五日︑立法議会から
たすことになる︒
つねに区会を開いている権利を認められる︒これによって区
個別の委員会の活動を見ると︑もっとも古いのが民事委員
なっていたのである︒
は︑一定の税金を払うことで選挙資格を持つ人びとだけでな
会で︑これは一七九〇年五月に設立され︑行政上の法令の実
会は︑民衆の政治機構の中心的なものとなる︒や がて区会に
く︑選挙資格のない貧しい市民も参加できるようになる︒そ
35
施に当たるとともに︑区内に関する情報伝達にもつとめ︑警
た︒
が役目だった︒一七九三年春になると強大な権限を行使する
次第に設立されたもので︑革命に反対する意見の持主の監視
軍事委員会とともに革命期における民衆権力の実現を象徴
しかし一七九二年八月十日以後︑区の総会が毎日開かれる
ようになり︑一部では﹁祖国を救い市民の全体的な安全を確
察署長の監視役・補佐役でもあった︒政令︑法令︑決議の執
ようになると︑民事委員会の仕事の多くが総会そのものに移
保するのに有効な﹂無制限の権力すら手にするにいたる︒容
するものに︑革命委員会がある︒これは︑一七九二年八月十
り︑委員会の活動は低調になった︒しかし総会の決定を執行
日以降︑国民公会︑市のコミューンにうながされて︑各区で
する役割は依然としてこの委員会のものだった︒戦費を賄う
疑者のリストを作成し︑彼らの逮捕状をだし︑身分証明を封
行状況を見守り︑パリ・コミューン︵市の自治体︶に報告し
︑︑︑
ためのお金持からの借入れ︑自︑発
的な募金︑出征兵士の家族
印するといった措置に当たるが︑さらに各区のすべての活動
たり意見をのべたりもした︒
や貧民の救済︑ 食糧品の確保と配布がその主な仕事となっ
会によってのみ担われていたわけではない︒パリ ・コミュー
動の強力な性格を示している︒しかし彼らの運動は︑ただ区
これらのパリ四十八の区会を拠点とした活動は︑民衆の運
を革命委員会が監視する︑という事態さえ生んだ︒
という実態の中から現われた︒一七九二年八月十三日︑パリ
ンもまた︑一七九二年八月十日の革命以来︑民衆による直接
各区の軍事委員会ないし戦争委員会の存在は︑﹁人民武装﹂
た︒
市民による国民衛兵の中隊編成が認められ︑四十八の区ごと
民主制の形態 の一つを出現させる︒
コミューン議会︵つまり市議会︶は︑各区の代表からなり︑
に︑国民衛兵という武装兵力が組織された︒区の人口に比例
には砲兵中隊も配備された︒各区の国民衛兵は︑自分たちの
選出母体と密接な関係にあったし︑その母体の意思を表明す
して︑それ ぞれ一二六人からなる中隊の数が決められ︑各区
司令官︑将校︑下士官の選出に参加でき︑連合した各区は︑
各地のコミューン︵自治体︶︑民衆協会などの組織を通じて︑
るよう絶えず制御下におかれていた︒また地方においても︑
そうして誕生した各中隊間の問題を調整したのが︑軍事委
三か月ごとに総司令官を任命した︒
そこから生じたのが二重権力の問題である︒民衆の運動は
パリにならって直接民主主義的な自治が実現を見ていた︒
もなった︒これらの委員会を通じて︑各区と軍部隊との関係
しばしば中央権力の存在を脅かしたし︑中央権力と民衆の運
員会ないし戦争委員会であり︑場合によっては懲罰委員会に
は密接なものとなったし︑ 市民と兵士の間に分離はなかっ
36
動は敵対的なものにならざるをえない要素を含んでいた︒
両者の闘いは一七九四年二月から三月にかけて激烈なもの
となり︑政府はモンターニュ派左派で民衆の代弁者でもあろ
で︑国民の間に不満が高まっていた︒そこで政府は︑反政府
運動の弾圧を試みる一方︑帝政延命の博打をうつ︒一八七〇
が︑それは同時に革命のエネルギーをも奪い︑数か月後の革
ちは︑政府指揮下の役人に変わる︒民衆の運動は無力化する
下に入る︒コミューンや区で各種の活動を担っていた委員た
運動にとどめをさす︒パリのコミューン︑各区も政府の掌握
主力は︑同年九月二日︑セダンにおいてナポレオン皇帝とと
ン軍のフランス領内への侵攻となり︑連戦連敗のフランス軍
のえていたプロイセン軍に撃破され︑八月初めにはプロイセ
だった︒普仏戦争の開始とともにフランス軍は︑準備をとと
権を握ろうとしていたプロイセンの︑まさに狙っていたもの
しかしこれは︑普墺戦争に勝利を収め︑ドイツ統一の主導
年七月の︑普仏戦争の勃発である︒
命政府の自滅︑テルミドール反動を導く︒今や民衆の運動は
もに降伏する︒この降伏がパリ・コミューン成立への導火線
うとした︑エベール派の指導者たちを逮捕・処刑し︑民衆の
政治の表舞台から退場し︑ テルミドール反動以後は︑僅かな
ア革命の単なる追随者ではなかった︒旧勢力からブルジョア
ものに大きな照明と勇気とを伝えている︒彼らは︑ブルジョ
らの足跡は決して無意味なものではなかったし︑後につづく
ジョアたちにとって︑権力を民衆にゆだねることは問題外で
帝政の廃止を宣言し︑第三共和制を発足させる︒しかしブル
と共和制の要求をする︒立法院は止むなくこれを受 け入れ︑
怒りに燃え︑五十万のデモ隊が立法院を包囲し︑帝政の廃止
九月四日︑セダンでの降伏がパリに伝えられると︑民衆は
になる ︵パリは当時︑人口約百八十万の都市だった︶︒
ジーへの権力の移行を越えて︑民衆自身のものである権力︑
ある︒そこでブルジョア共和派が画策して︑彼らの手で国防
確かに民衆の運動は挫折した︒しかし︑にもかかわらず彼
残光を放つだけになる︒
階級のない社会・人間による人間の支配のない社会への︑次
新政府を成立させる︒以後︑半年あまりにわたって︑新政府
九月四日の夜︑インターナショナル派を中心にして労働者
と民衆との間での攻防が展開されることになる︒
の新しい革命の道を開拓しようとしたのだった︒
一八七一年のパリ・コミューン
大隊︵一部のブルジョアと大多数の民衆・職人・労働者の大
4
一八七〇年のフランスは︑ナポレオン三世の下での第二帝
隊からなる︑志願にもとづく民兵組織︶の形成と武装化のた
たちが会議を開き︑新政府への協力の条件として︑国民衛兵
政の末期である︒経済不況︑メキシコ革命への介入失敗など
37
めの市会選挙︑警視庁の即時廃止と司法官の選挙︑出版・集
庁舎に押し寄せた民衆を武力によって鎮圧するなど︑政府側
以後︑十月三十一日︑翌一八七一年一月二十二日など︑市
耗させるために︑無益な出撃を強いたりもする︒そういう政
会・結社の自由への制限の撤廃などを決め︑新政府に申し入
翌五日︑五百人ほどの労働者たちが集まり︑パリにある二
府側の態度に対し︑民衆の間で︑民衆による市政の自己管理
は︑民衆を抑圧し懐柔する策を繰り返し︑国民衛兵の力を消
十の区それぞれに︑新政府の行動を監視するための監視委員
機関︑パリ・コミューン形成への気運 が高揚する︒
れるが︑適当にあしらわれるだけに終わる︒
会を設置することを決め︑実現させる︒九月十三 日には︑各
の設置にこぎつけ︑ パリ二〇区共和主義中央委員会を名乗
の講和の是非を問う国民議会選挙が二月八日に行 なわれた︒
十八日︑ヴェルサイユで プロイセン軍と休戦条約を結び︑そ
休戦の機会を狙っていた政府は︑ついに一八七一年一月二
り︑パリ市会と司法官の選挙︑出版・集 会・結社の自由︑生
パリでは抗戦派が勝ったものの︑フランス全土としては講和
区の監視委員会の代表四人ずつ︑計八十名からなる代表機関
活必需品の配給制︑ 各市民の武装などを要求する声明をだ
国民議会でティエール内閣が成立し︑三 月一日にはプロイセ
派が圧倒的な勝利を収め︑二月十五日︑ボルドーで開かれた
一方︑それに先立って九月十日にブランキ派は︑政府が共
ン軍がパリへの入城式を挙行した上で退去︑三月十日にはフ
す︒
和制と国防を推進する限り政府に協力すべきだとして︑愛国
ランスの首都のヴェルサイユ移転が決定される︒
これらの屈辱的な出来事がつづく中で︑ パリの民衆の間
的市民の団結を訴えた︒この訴えに呼応する形で︑民衆の国
で︑パリの社会構造を作り直す動き︑パリを民衆自身によっ
行してゆく︒その動きの中心に位置していたのが国民衛兵た
民衛兵への志願が相次ぎ︑国民衛兵の総数は約三十四万︑二
ちだった︒彼らは︑政府の指揮下にある補助的な軍隊の地位
百五十四個大隊にまで達した︒大隊長は︑大隊所属の兵士た
しかし国防新政府は︑プロイセン軍よりも武装した民衆を
から︑自分たち同士で連合する﹁武装す る民衆﹂へと変貌を
て管理するコミューンの下におこうとする動きが︑ 次第に進
恐れた︒適切な防衛策もとらないうちに︑九月十八日︑パリ
ちが選挙によって選出した︒
は包囲され︑十粁ほど南西にあるヴェルサイユも陥落する︒
とげてゆく︒
一するため︑各区一人の 兵士と各大隊一人の士官から構成さ
その試みは一月末からはじまり︑国民衛兵大隊の行動を統
政府は︑休戦の間合いをはかる︒それを知った民衆は憤激し︑
彼らの政府に協力する気持は消滅し︑両者は明確な敵対関係
に入る︒
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委員会の組織と︑総司令官の自主的選出を︑目指すこととな
れる各区の委員会の結成と︑各区委員会の代表からなる中央
が暫定的な権力であることを自認し︑預かった権力を民衆に
かし彼らはその地位にとどまりつづけることなく︑自分たち
挙の期日は︑一部反動勢力の策動で延期されるが︑三月二十
返還するため︑三月二十二日にコミューン評議員選挙を行な
六日に︑四十八万人余の有権者のうち二十二万余の参加をえ
い︑そこで成 立した新機関にすべてをゆだねようとする︒選
国民衛兵共和主義連合の組織は︑代表者総会︑大隊集会︑
て選挙が実施され︑ 各区ごとに住民二万人につき一名の議
る︒この構想は︑二月二十四日の国民衛兵共和主義連合代表
軍事会議︑中央委員会からなり︑代表者総会は︑中隊ごとに
員︑九十人の議員を選出し た︒
総会で︑二千名以上の代表を集めて具体化す る︒
一名の代表︑大隊ごとに選挙された一名の士官︑ 各大隊長か
この選挙に︑パリ・コミューンという新しい社会の誕生を
らなり︑彼らは任命した人びとによってつねに解任されうる
ことになっていた︒中央委員会を構成するのは︑各区ごとの
この国民衛兵中央委員会が︑政府との間に二重権力を形成
﹁権威の原理は︑街頭に秩序を再建し︑職場に労働を復活さ
一インターナショナル派の選挙宣言のうちに示されている︒
目指した人びとは︑何を期待していたのか︒それは︑次の第
し︑革命武装勢力と化してゆく︒そして三月十八日の早朝︑
せる上で今後は無力であり︑この無力は権威の原理の否定を
二名の代表と︑部隊ごとに選出された大隊長である︒
政府側が国民衛兵を武装解除し︑正規軍によって パリ全市を
意味する︒利害の非連帯性が全般的な没落をもたらし︑社会
新しい基礎の上に立つ秩序を確立し︑その第一の条件である
占拠することを計画したものの︑ このクーデターの失敗に
三月十八日の未明︑政府軍は行動を起こす︒奇襲は︑一部
労働を組織することを要求しなければならない︒コミューン
戦争を生みだした︒自由︑平等︑連帯をよりどころにして︑
では成功したかに見えた︒しかし急報とともに群衆がかけつ
の革命はこれらの原理を確認し︑未来における闘争のあらゆ
よってパリ・コ ミューンが誕生することになる︒
け︑政府軍を包囲する︒正規軍の中からは民衆の側につく兵
る原因を取り除くものである﹂︵河野健二︑柴田朝子訳︶︒
この基本的な原則は︑コミューン議会で革命派が優位を保
士たちもでてくる︒十八日の午後には︑パリ全市を制圧下に
つことで貫かれる︒三月二十九日︑初の議会が開かれ︑議会
おいていたのは民衆だった︒政府の要人と政府軍の残存部隊
はヴェルサイユに向けて逃亡し︑その夜︑市庁舎の屋上には
はパリ・コミューンの名称を正式に採用する︒執行委員会を
はじめ︑財政︑軍事など十の委員会も選任される︒この日以
赤旗が翻った︒
パリの支配権を握ったのは国民衛兵中央委員会だった︒し
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後︑コミューンは立法機関であると同時に執行する機関とし
兵士の壁として残されているのがその一角であり︑パリ市民
の一角にある壁の前で一斉に銃殺される︒現在︑コミューン
ない︒
によってその壁に捧げられる赤い花束は︑日々絶えることが
て︑さまざまな画期的な措置を決定してゆく︒
すなわち普通選挙の至上権の確立︑すべての官吏と司法官
を選挙するとともにつねに解任できること︑彼らの俸給は労
務教育など︑社会福祉政策の面でも注目すべき努力をした︒
けた品物についての措置︑食糧の供給︑非宗教的で無料の義
仰の自由︑教会と国家の分離︑等々であり︑家賃や質屋に預
と国民衛兵による治安と防衛の維持︑表現・結社・集会・信
く︒非宗教的で無料の義務教育は一八八一年から一八八五年
たことのいくつかは︑その後フランス で改めて実現されてゆ
人びとを鼓舞しつづけた︒事実︑パリ・コミューンが決定し
によって︑一つの歴史的な規範として︑人間の解放を求める
それが存在したことによって︑それが実現しよう としたこと
ているパリ・コミューン は︑わずか七十二日の生命ながら︑
そのように自由と平等への闘いの象徴として今も追慕され
しかし︑プロイセン軍と政府軍の包囲下にあったパリ・コ
の間に︑労働組合を組織する権利は一八八四年に︑結社と集
働者の最高賃金水準を越えないこと︑警視庁︑常備軍の廃止
ミューンは︑短命であることを運命づけられていた︒着手さ
しかしパリ・コミューンが讚えられねばならないのは何よ
れた事業は未完成のままに終わる︒包囲の網は徐々にせばめ
りも︑コミューンが一八 七一年四月十九日に採択した﹁フラ
会の自由は一九〇一年に︑国家と教会の分離は一九〇五年に︑
とどめを刺した︒ 銃殺されたもの三 万︑ 逮捕されたもの十
られ︑政府軍は五月二十一日にパリに侵入を開始し︑つづく
万︑三万六千人が軍法会議で裁かれ︑一万三千四百余人が有
ンス人民への宣言﹂の表現によるなら︑﹁あらゆ る個人的エ
というように︒
罪になり︑死刑の宣告を受けたもののうち二十六名が処刑さ
ネルギーの自発的で自由な結集﹂としての︑民衆による自己
﹁血にまみ れた一週間﹂ののち︑二十八日には組織的抵抗に
れ︑残りはニューカレドニ アなどに流刑にされたり︑強制労
ンは︑文字通り膨大な﹁個人的エネル ギーの自発的で自由な
統治の雛形を提示したからである︒まさしくパリ・コミュー
政府軍に対する絶望的な最後の戦闘の一つは︑五月二十七
働︑禁錮に服することになった︒
その事実を証明するのは︑三月十八日から三月二十一日ま
結集﹂だった︒
われた︒そこまで追いつめられた国民衛兵たちは︑ 果敢な抗
での四日間に︑実に七十もの新聞が創刊されたこと︑革命的
日︑パリ西郊の丘陵地であるペール・ラシェーズ墓地で行な
戦ののち︑力つきた百数十人がついに捕えられ︑墓地の東南
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︵桂圭男訳︶と訴えた中にも︑パリ・コミューンの性格がよ
版を通して︑自らを統治せよ︒諸君の代表者に圧力をかけよ﹂
を支持する目的を持つ︒人民よ︒公けの集会︑人民による出
せ︑彼らが共和国を救うために行なうすべてのことで︑彼ら
せ︑ われわれの委任者が原則を逸脱したら原則を思い出さ
り︑人民が自己統治できるように︑人民に政治教育を行なわ
クラブの宣言 が︑﹁コミューンのクラブは︑人民の権利を守
動に支えられてこそ︑パリ・コミューンは存在しえた︒ある
な民衆のクラブが輩出したこと︑である︒そうした民衆の活
熱狂的なデモがペトログラード全市を埋めた︒ 途中で彼ら
し︑両者がいくつものデモ隊を形成した︒三時間にわたって
織する︒ 二十七日朝になると労働者たちに兵士たちが合流
三日からは︑ストに入っていた労働者たちが強力なデモを組
月半ばからは首都ペテログラードの混乱が高まり︑二月二十
る︒軍の内部でも厭戦気分が広がりを見せる︒一九一七年二
者たちの間では︑ストライキがしきりに行なわれるようにな
の間からでてくるとともに︑食糧も十分に手にできない労働
この機会に専制政治を倒せ︑という動きがブルジョアジー
復のために臨時委員会設置を決める︒ こ の 委 員 会 が 一 週 間
がって彼らは︑自分たちで収拾策をとらざるをえず︑秩序回
ツアーに内閣の更迭を要求するが︑ 何の返事もない︒ した
その間︑国会では指導者たちが長談義を繰り返していた︒
命である︒
臣たちは逃亡し︑旧体制は数時間のうちに解体した︒二月革
は︑兵器廠にある武器を奪い︑裁判所に向けて発砲する︒大
ロシアの労働者評議会︑工場委員会︵一九一七
く現われてい る︒
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│一八︶
一九一四年七月末︑植民地獲得をめぐる対立からドイツが
らないことがはっきりしてゆく中で︑ロシア側の敗戦が相次
の用意がなかった︒当初の予想に反して戦争が短期では終わ
かしロシアには︑長期戦を戦うだけの士官などの人員︑武器
界大戦が勃発した︒ロシアも連合軍側に立って参戦した︒し
会︶を︑革命の司令部として結成しようとの提案がだされ︑
できた先例にのっとって︑ペトログラードのソビエト︵評議
ていた︒そこで︑一九〇五年の革命の際に首都にごく短期間
者たちや社会主義者たち三︑四十人が︑国会の一室に集まっ
同じ頃︑群衆によって刑務所から解放された政治犯︑労働
後︑ブルジョアを中心にした臨時政府になる︒
いだ︒国内の経済事情も悪化をつづけ︑国民の不満が高まる
労働者代議員ソビエト臨時執行委員会を自称し︑その日の夜
イギリス︑フランスなど連合国に対し宣戦布告し︑第一次世
につれて︑ロシアの帝政そのものが危機に瀕した︒
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の七時から国会で︑代議員会議の第一回会合を開くこと︑兵
労働者代議員ソビエトの名でだされたロシア革命最初の宣言
ビエトは︑ただちに行動を開始した︒まず実施されたのは︑
﹁各工場︑各作業場︑民主的・社会主義的諸政党・諸組織の代
士たちは中隊ごとに一名︑労働者たちは千人につき一名︑代
このアッピールは即刻︑自動車によって各工場に配布され
表からなる︑労働者代議員ソビエト﹂が結成された経緯をの
としてのアッピールで︑﹁民衆それ自身の統治機関﹂として
た︒驚くべきことには︑工場ごとにすぐさま短い集会が開か
べるとともに︑﹁ただちにこのソビエトに加わること︑各地
議員を選任すること︑を訴えた︒
れ︑代議員が選出された︒正式の委任状を持つものもあった
区に地区委員会を組織すること︑社会的な業務の運営を自ら
の手中に収めること﹂を訴えた︒
三月二日の会議でペトログラード・ソビエトは︑臨時政府
ペトログラード労働者 ・ 兵士代議員ソビエト第一回総会
が︑多くは﹁口頭で﹂委任を受けた︒
は︑二十二時からはじまった︒約二百五十名の代議員が参加
とすること︑を決めた︒それらのうち︑自己管理にもとづく
には参加しないこと︑臨時政府への要求事項を︑あらゆる政
軍の組織以外の要求は︑すべて受け入れられることになる︒
し︑会議は新たな代表団︑特に武装した兵士たちの代表団が
まず協議されたのは組織のあり方についてであり︑八名か
以上の経過からも理解されるように︑臨時政府はペトログ
治犯の釈放︑表現・出版・集会・団結・ストの自由︑秩序維
らなる執行委員会と︑そのうちの議長︵一名︶︑副議長︵二
ラード・ソビエトの同意ないし協力なしには︑有効に機能し
持のための民兵の組織化︑民族・宗教による差別の撤廃など
名︶からなる最高幹部会の︑設置が決められた︒これに関連
到着するたびに︑熱狂的な歓迎によってたびたび中断され︑
してボルシェヴィキ側の提案で︑ 執行委員会に︑ メンシェ
えない現実が生まれたのであり︑ブルジョアジーを代表する
翌朝午前三時頃までつづいた︒
ヴィキ︑ボルシェヴィキ︑社会革命党など︑社会主義諸政党
臨時政府と︑労働者・兵士を代表するソビエトとの間での︑
員︵うち約二千の兵士代議員︑約八百の労働者代議員︶を集
ペトログラード・ソビエトは︑三月後半には約三千近い代議
注目されるのは︑ソビエト組織の急速な拡大発展だった︒
とになる︒
いわゆる二重権力状況が︑対立と妥協の下でつづいてゆくこ
から代表各二名を加えることも承認された︒
同時に︑当面の事態に備えるため︑飢餓対策に当たる糧食
補給委員会と︑革命軍の組織に当たる軍事委員会を︑発足さ
せることになった︒さらに︑ペトログラードの各地区に︑地
区ソビエトを組織する働きかけを行なうことも決めた︒
会議が終わると︑新設されたばかりのペトログラード・ソ
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めるにいたるし︑ペトログラード以外の各地区でも︑自発的
に︑地区それぞれにソビエトの結成が続出した︒
象にされる︒
執行部と下部との分離を決定的にした別の要因は︑各政党
ワ地区ソビエト協議会には︑七十の労働者ソビエトと︑三十
ちは︑フロックコートを着用し︑ネクタイを締めた紳士たち
念する写真を見れば明白で︑第一列に並んでいる執行委員た
いことだった︒そのことは︑ペトログラード・ソビエトを記
の代表たちがインテリゲンチャであって︑労働者出身ではな
八の兵士ソビエトが参加している︒各地のソビエトは︑それ
なのである︒この紳士たちにとって大事なのは︑政党の綱領
一例をあげれば︑三月二十五│二十七日に開かれたモスク
ぞれ独自の事情の下で︑構成や組織原則を決め︑構成者の違
を実現することであって︑労働者や兵士の実際の問題を改善
することではなかった︒彼らはやがて︑あまり総会にはかる
いによって︑労働者・兵士ソビエト︑労働者ソビエト︑兵士
そんなふうにしてロシアでは︑二月の大衆行動を通じて︑
こともなく︑執行委員会︑最高幹部会の名で︑彼らの意向だ
ソビエト︑農民ソビエト︑と名乗った︒
誰も予想していなかった︑ソビエトという民衆の自己統治機
けで問題を処理するようになる︒
そうしたソビエト組織の操作・横領は︑地方ではペトログ
関が輩出した︒それは︑民衆の運動そのものから誕生したも
ラードほど顕著ではなかった︒執行部と総会の関係がずっと
のにほかならなかった︒しかしこの自己統治機関は︑内容を
成熟させる暇もなく︑発足間もなくから︑労働者・兵士にとっ
密接だった︑などの理由があげられるが︑各政党間のヘゲモ
られてしまう︒しかし一方︑ソビエトの官僚化︵ソビエトの
ての自己統治機関という性格を︑奪いとられてしまう︒ソビ
名で・ソビエトに反して・語る人びとへの権力集中︑外部の
ニー争いとそれによるソビエトの変質は︑だんだんに地方に
その原因の一つは︑ソビエトの執行委員会に︑各政党の代
少数者による組織の操作・管理の強化︶傾向は︑自分たちの
も波及してゆくことになり︑革命の象徴だった労働者・兵士
表二名ずつを加えたことだった︒その結果︑執行委員会の論
エトが各政党のヘゲモニー争いの場となり︑執行部が各政党
議で主導権を持つのは政党の代表たちとなり︑総会で直接選
問題を自分たち自身で解決しようとする︑ ソビエトよりも
によって牛耳られ︑代議員の選出母体と次第に分離されたも
出された執行委員たちは︑やがて討論からはずされてゆく︒
もっと自律的な︑ 新たな自己統治機関を民衆の間で生みだ
代議員ソビエトは︑自己統治機関という性格を急速に抜きと
一方︑総会への代議員の選出も︑基準が必ずしも明確でない
す︒工場委員会︑地区委員会︑それらの連合としてのそれぞ
のになったからである︒
こともあって︑自分の党派に都合のいいようにと︑画策の対
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れのソビエト︑赤衛隊である︒
工場委員会は︑各政党や各ソビエトが無関心だった︑労働
者に身近な問題に取り組むため︑各工場の労働者たちによっ
て結成された︒委員は︑働く仲間の中から選出され︑ふだん
らず屈することなく︑六月以後︑工場委員会ペトログラード
協議会は︑独立した革命権力として︑﹁すべての権力をソビ
一方︑ペトログラードの地区委員会は︑当初は市ソビエト
エトへ﹂を要求しはじめる︒
入り交じる住民の機関として︑失業者︑戦争未亡人︑住宅問
の下部機関として各地区に作られるが︑ソビエトが労働者や
題などを扱ううちに︑ソビエトから独立した機関としての性
は労働者たちと一緒に勤務につき︑ 直 接 の 接 触 を 保 っ て い
彼らは︑八時間労働︑賃上げ︑衛生条件の改善︑雇用の安
兵士の階級的機関であるのに対し︑地区委員会は各種階級が
定をソビエトに要求するとともに︑ 各工場ごとに企業の総
格を強め︑一九一七年四月には地区連合協議会を結成し︑次
た︒
務・経理・技術の各面にわたる管理の監視を主な目的とし︑
第に自律した政治行動をとるようになる︒
を持っていたこと︑武装した労働者といった性格のものだっ
て︑企業ごとに組織されたもので︑工場委員会と密接な関係
赤衛隊は︑ 工場警備のための労働者からなる防衛隊とし
そのために必要な情報公開を企業に求めた︒企業ごとに経営
者側と同数委員会を作り︑賃金︑労働時間︑就業規則につい
て交渉したのも︑それぞれの工場委員会だった︒
工場委員会はまた︑経営者が逃亡したりした工場では︑自
それは特に中小規模の企業で発展を見た︒工場委員会同士の
統治機関の拡大が続く事態の中で︑政治の舞台では状況がさ
そんなふうに︑ソビエトの官僚化と下部での自律的な自己
たこと︑が特徴である︒
横の連携も広がり︑ペトログラードでは五月十日に︑工場委
まざまな方向に流動化する︒
ら工場を管理・運営した︒労働者自己管理のはじまりであり︑
員会協議会の結成にまでゆきつく︒これは︑現代ロシア革命
三月に発足したブルジョア主体の臨時政府は︑十分な統治
ヽヽヽヽ
史家︑マルク・フェロによれば︑﹁民衆階級自身が虚無から創
能力を発揮できない︒しかし︑進行しているのはプロレタリ
シェヴィキは︑ソビエトの多数派であるにもかかわらず︑権
ア革命ではなく︑ブルジョア革命だと見る社会革命党やメン
しかし︑そうであることによって工場委員会は︑諸政党︑
力を奪取しようとはせず︑臨時政府に協力する立場をとる︒
造した最初の制度﹂︵傍点原著者︶であり︑三百六十七企業
諸組合︑諸ソビエトから︑政治的に何らの正統性のないもの︑
その状況に大衆は不満であり︑四月下旬以降︑デモがしきり
を結集していたのである︒
と見なされ︑批判・敵対の対象として扱われる︒にもかかわ
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に行なわれ︑﹁すべての権力をソビエトへ ﹂︑﹁ 臨時政府を倒
ビエト︑工場委員会︑地区委員会といった民衆の自己統治機
が宣言される︒この新しい事態は︑何千という数の︑各種ソ
状況が︑新政府と民衆との間で誕生する︒
関の目覚ましい発展を呼びさました︒そこで新たな二重権力
せ ﹂といったスローガンが目立ちはじめる︒
五月には六人の社会主義者閣僚を加え︑新連立政府ができ
る︒しかし大衆はやはり不満である︒六月から七月初めにか
道だった︒その︑ごく少数者による専制の獲得は︑他の政治
しかしその後の進展の中で確認されるのは︑自己統治機関
勢力︑ 社会主義諸党派の暴力的抹殺︑ ソビエトのボルシェ
けて強力なデモ︑武装デモが組織され︑七月には社会主義者
この間︑レーニンはドイツのスパイだった︑といった情報
ヴィキによる飼いならしにはじまり︑ついで工場委員会︑地
の発展と連合の上に築かれた新社会の建設ではなく︑ ボル
の流布により︑ボルシェヴィキは一時的に退潮を見せるが︑
区委員会︑赤衛隊︑労働組合などの民衆組織を骨抜きにし︑
主体のケレンスキー内閣が誕生して︑事態の収拾に当たろう
大衆の急進化が進む中で︑大衆の要望を巧みにとりあげ︑一
解体するか︑国家機構の一部として吸収する︑という形で進
シェヴィキ党︑その中でのレーニン派による︑独裁確立への
貫して政府に協力しないボルシェヴィキへの支持が高まって
とする︒
ゆき︑九月にはボルシェヴィキは︑ペトログラードとモスク
行した︒
その経過についてはここで詳述するゆとりはないが︑ゆき
ワの二大都市のソビエトで多数派を握る︒十月十日には︑ペ
トログラード・ソビエトに革命軍事委員会が設置され︑十月
の運動とは無縁の︑少数官僚による独裁体制の誕生だった︒
ついた先は︑ノーメンクラツーラと呼ばれる官僚階級の独裁
だとすると︑ロシア革命の中での直接民主制の試みは︑全く
体制︑人間の人間による支配と搾取の廃止を目指す社会主義
折から第二回全ロシア・ソビエト大会が開催されており︑
無駄な活動だったのだろうか︒断じてそうではないし︑その
二十三日早朝の軍事クーデターにより︑大した流血もなしに
そこでソビエトによる新政府が樹立される︒大会はボルシェ
ことは歴史の歩みが示している︒
ケレンスキー内閣が打倒される︒
ヴィキを主体とする中央執行委員会を選出し︑併せて内閣に
のか︒この疑問がその後︑大衆の自己統治機関の発展を基礎
資本主義社会以上の搾取・抑圧社会を成立させたのはなぜな
ロシア革命が大衆の自発的な運動としてはじまりながら︑
当たる人民委員会議をも組織させた︒レーニンを首班とし︑
閣僚に当たる人民委員のすべてはボルシェヴィキだった︒い
わゆる十月革命である︒
すべての権力を労働者︑兵士︑農民のソビエトに移すこと
45
﹁社会主義か野蛮か﹂グループ等々のマルクス主義の根底的
の評議会共産主義者たちによって︑ 一九四〇年代末以降の
練り直させるのであり︑それはたとえば︑一九二〇年代以降
は︑ はるかに限定された性格のものであった︒ 広範囲にわ
的な態度を示した︒ 彼らが受け入れねばならなかった妥協
スペインのアナキストたちは︑大衆の圧力の下により非妥協
﹁⁝⁝もっとも彼らが密着していた領域︑経済の領域では︑
で︑共有化の進行について次のように語っている︒
批判によって︑次第に実現を見ることになる︒その成果は︑
たって︑農業と産業の自己管理は一本立ちした︒しかし︑国
とする︑真性の社会主義に向けて︑社会主義の思想と運動を
たとえばこの冊子の中での︑パネクークやカストリアディス
だけに︑いっそうの注意をもって︑そこに足をとどめてみる
その経験⁝⁝は︑比較的僅かしか知られていないのでそれ
されたのは自己管理であった︒
退を余儀なくされ︑﹁反ファシズム﹂の祭壇に生贄として供
いはいっそう激化していった︒その挙句︑多かれ少なかれ後
もっと一般的には絶対自由主義的共有主義の経験との食い違
につれて︑交戦中のブルジョア国家と共産主義の経験との︑
家の力が強くなるにつれて︑戦争の全体的な性格が増大する
スペイン革命下の農・工共有化︵一九三六│七︶
の新しい社会の構想によって確認することができる︒
6
一九三六年二月︑スペインでは人民戦線派が選挙に勝利す
起こし︑それ以後スペインでは︑共和国を守ろうとする人民
に値する︒共和派陣営の中ですら︑それは無視されるか︑け
る︒これを革命の発端と見た軍は七月十七日︑クーデターを
戦線派とファシスト反乱派の間で︑内乱がつづけられること
なされた︒内乱はその経験を押し流し︑人びとの記憶の中で
は今日でもなおそれを押しのけている︒⁝⁝しかしながら︑
になる︒その過程で︑特にアナキストの影響が強い地域で︑
これについてはダニエル・ゲランが︑彼のベストセラー本
その経験はたぶん︑スペインのアナキズムが遺したもっとも
農業と産業の共有化が進められ︑社会革命が展開する︒
﹃アナキズム﹄︵邦訳﹃現代のアナキズム﹄三一新書︶の中で︑
確かなものなのである︒
改めて紹介してみるのも︑決して無駄なことではあるまい︒
急ぎで財産を捨てて外国へ逃亡した︒労働者と農民がこの所
対する猛烈な大衆の反撃に遭って︑実業家や大地主たちは大
一九三六年七月十九日の革命の直後︑フランコ派の決起に
ヽヽ
簡潔・的確に描いている︒この訳書は日本でも広く読まれた
ゲランは︑ アナキストたちが共和国政府に参加すること
有者不在の財産を引き受けた︒農業日雇労働者は︑彼ら自身
が︑主として一九七〇年代のことであり︑その一部をここで
で︑政治の領域では次第に妥協していったことにふれたあと
46
︽共有︾して提携した︒九月五日︑カタルニャでは︑CNTに
の手段で土地の耕作を続けることを決めた︒彼らは自発的に
市よりも農民の方がなお高められているようにみえた︒
生産手段の社会化の支持者であった︒そして︑社会意識は都
盟が結ばれた︒労働者たちは︑その置かれた位置からいって︑
とを選んでいた︒それとともに︑農民と都市の労働者との同
農業の共有は二つのかたちの管理の下で行なわれた︒経済
よって招集された農民の地方大会が︑組合の指導と管理下に
産とが社会化されるのである︒ 小土地所有者についていえ
的なものと︑地域的なものである︒この二つの機能ははっき
おける土地の共有化を決定した︒大所有地とファシストの財
ば︑彼らは私有か共有かを自由に選択した︒法的な承認はす
りわかれていたが︑たいていの場合︑それらを援助し︑指導
経済的管理のために︑働く農民の総会が各村毎に管理委員
していたのは組合であった︒
反乱に加担した人びと﹂の財産を賠償金なしに没収した︒そ
会を選んだ︒書記を除いて︑その総てのメンバーは︑手を汚
一九三六年十月七日︑共和国中央政府は︑﹁ファシストの
ぐあとで行なわれた︒
れは法的な観点からみて不完全な範囲であった︒ というの
して働くことを続けた︒労働は︑一八歳から六〇歳までの健
持つ一〇人からそれ以上のグループに分かれた︒各グループ
康なすべての人間の義務であった︒農民たちは先頭に代表を
は︑メンバーの年齢と仕事の性質を考慮した耕作区域か職務
も︑それは自発的に大衆によってすでに実施されている占有
農民たちは︑軍事的反乱に参加したものか︑しないものか
かを割当てられていた︒毎夕︑管理委員会はグループの代表
のごく小部分を認めたにすぎないからである︒
の区別なく︑収用にとりかかっていた︒大規模な耕作に必要
たちに応接した︒地域的管理の面では︑コミューンがしきり
衣類︑家具︑個人の貯金︑小家畜︑庭︑家庭用の家禽を除
な技術的手段に欠けている低開発諸国では︑貧しい農民は︑
いてすべては共有化された︒職人︑床屋︑靴屋︑等々は集団
社会主義農業よりも︑ まだ経験したことのない自作農から
自由主義的な教育と共に共有主義の伝統が技術の未発達を補
的に再組織され︑共有の羊は数百頭の群に分かれ︑牧人に委
と住民の部落総会を招集して︑活動状況を報告していた︒
い︑農民の個人主義的な傾向に真っ向から反対して彼らを一
やってみたい︑と思っている︒しかし︑スペインでは︑絶対
挙に社会主義へと押しやった︒その選択をしたのは貧しい農
生産物の配分のあり方については︑各種の方式の経験が積
ねられて組織的に山中に配された︒
な人びとは個人主義にかじりついていたのである︒土地労働
まれた︒あるものは共有主義に依拠し︑あるものは多かれ少
民たちであって︑カタルニャにおけるように︑もっとも裕福
者の絶対多数︵九〇%︶が︑最初から共有集団に参加するこ
47
ちこちで社会化された土地の再編成が行なわれた︒社会化さ
私有の農民の持つ区画との自由意志による交換を経て︑あ
いていた︒彼らないし彼らの財産が︑社会主義秩序のいかな
構成者の必要に応じて決められた︒各家族の長は︑毎日の賃
なかれ完全な共産主義に依拠していたが︑その二つのものの
金の名目で︑教会かその付属物の中に設けられたコミューン
れた大半の村では︑ 農民ないし商人の私有者は次第に数が
る混乱をも惹き起こさないように︑ということであった︒
の商店で︑消費品としか交換できないペセタで記載された手
減っていった︒孤立したことを自覚して︑彼らは共有主義に
組合せから生じたものもあった︒多くの場合︑報酬は家族の
形を受取った︒使われなかった残高は︑個人の預金としてペ
合流することを選んだのであった︒
家賃︑電気︑医療︑薬品︑老人への援護等は無料であり︑
己主義を軽視しようとした集団よりも︑自己管理をよく持ち
し︑また人間の本性︑特に女性の中に深く根を下している利
した集団は︑ あまりに早く完全な共産主義を創設しようと
ところで︑労働日による報酬という共有主義の原則を実施
セタで記録された︒その残高を限られた額の小遣いとみるこ
学校も同様であって︑その多くはかっての僧院に置かれ︑一
こたえたようにみえる︒交換のための貨幣を禁止した村々︑
とはできる︒
四歳以下の子供には義務的であって︑彼らに対しては肉体労
自由に取って消費した村々︑ 試験管の中で生産し消費した
働は禁止されていた︒
共有集団への参加は任意のままとされていた︒共有集団に
村々では︑自給自足が無力化し︑その障害が自覚された︒そ
コミューンは︑地方的な連合の下におかれた地区的な連合
は︑そんなふうにアナキストたちの自由についての基本的な
のかたちで結集していた︒一地区連合のすべての土地は︑原
こでは早速個人主義が優勢となり︑真の共産主義精神を身に
たが︑それは彼らが彼ら自身で自足することを主張していた
則として︑もはや境界のない唯一の土地だけとなっていた︒
つけることなく加わっていた幾人かの小土地所有者が脱退し
からであった︒しかしながら︑自由意志から共同の仕事に参
配慮が厳しく求められていた︒小土地所有者たちはいかなる
加すること︑作物をコミューンの商店に届けることは自由で
村相互の連帯は極端なまで推進された︒補償基金がもっとも
圧力もかけられなかった︒共有集団から自発的に離れている
あった︒彼らは総会に参加することを許されて︑いくつかの
恵まれていない共有集団を援助することを可能とした︒労働
て︑共有体の分裂が惹き起こされた︒
共同の利益に浴していた︒彼らはただ︑耕作しうる以上の土
手段︑原料︑余った労働力は︑必要に応じて諸集団の処分に
彼らには︑共有集団からの奉仕ないし供給を期待できなかっ
地を持つことを妨げられただけであり︑ただ一つの条件がつ
48
言によれば︑自己管理を行なった人びとは︑多くの場合︑絶
対自由主義者であることを知らぬ絶対自由主義者であった︒
委された︒
農村における社会化は︑地方によってその度合が違ってい
今あげたばかりの諸地方では︑共有化の先頭に立ったのは社
敵対者たちからサボタージュされず︑戦争によって阻害さ
会民主主義者やカトリックの農民であって︑のみならずアス
れなかった頃は︑農業の自己管理は異論の余地のないほど成
た︒農民の間に強い個人主義の伝統のある小・中土地所有の
それに反してアラゴンでは︑四分の三以上の土地が社会化
功であった︒成功を博したのは︑一面ではスペインの農業の
地方︑カタルニャでは︑社会化はいくつかの先駆的な共有集
された︒フランコ軍と闘うために北部戦線に向かう途中の絶
トゥリアスでは共産主義者の農民であった︒
対自由主義民兵隊︑ドゥルティ部隊の通過と︑その直後︑下
遅れた状況の仕業であった︒大土地私有の︿生産性の﹀記録
団のみにみられた︒
から行なわれた共和派スペインに類例のない革命権力の樹立
を破るのは難しいことではなかった︒その記録は嘆かわしい
半ばを持っていた︒彼らは︑彼らの中世的な領主としての地
は︑農業労働者の創造的な発意を鼓舞した︒約四五〇の共有
首都をバレンシアにおくスペインでもっとも豊かなレバン
位を脅かす適正な賃金を出入りの日雇労働者たちと取り決め
ものだったのである︒およそ一万の封建領主が半島の土地の
テ地方︵五州︶では︑およそ九〇〇の共有集団が出現した︒
るよりは︑また︑自立農業の苗床を新たにこしらえさせるよ
集団が設立されて五〇万人の加入者を集めた︒
それらは︑土地の四三%︑柑橘類生産の五〇%︑そのうち商
ことを選んだ︒したがって︑彼らはスペインの土地の︑自然
りは︑彼らの土地のよい部分をむしろ荒れたままにしておく
カスティリャでは︑概ね一〇万人の加入者をえて︑約三〇
品化されたものの七〇%を占めていた︒
の富の開拓を遅らせていたのである︒
土地は︑再編成され︑総体的な計画と農業専門家の指示と
〇の共有集団が形成されていた︒社会化は同様にエストラマ
ドゥラでも︑アンダルシアの一部でも勝利をえた︒手早く鎮
によって︑広い面積にわたって耕作された︒農業専門家の研
は増えた︒労働の方法は改良され︑人力︑動物力︑機械力は︑
究のおかげで︑収穫高は三〇%増大した︒種をまかれる面積
この大衆の間での社会主義が︑ある人びとが信じているよ
より合理的なやり方で活用された︒栽培は多様化され︑灌漑
圧されたものの︑アストゥリアスでも若干の社会化の気運が
うに︑たんにアナルコ・サンジカリストたちの仕事ではない
は発達し︑国は部分的に再び植林され︑苗床は開かれ︑豚小
うかがわれた︒
ことは銘記されなければならない︒ガストン・ルヴァルの証
49
けられ︑家畜は選別されて繁殖され︑付属的な産業がおこさ
屋は建てられ︑農業技術学校が設立され︑模範農民家屋が設
︿イギリスの﹀独立労働党代議士フェンナー・ブロックウェ
感嘆させた連帯と犠牲の精神とを持っていることを示した︒
的な意識と︑実践的なすぐれた感覚と︑外国の観察者たちを
多数は無学であったにもかかわらず︑農民たちは︑社会主義
を訪ねたのち︑それについて語っている︒﹁農民の精神状態︑
れた︒社会化は︑土地の一部を遊ばせておく不在大土地所有
彼らの熱狂︑共同の努力に貢献するよう彼らが用いている方
に対しても︑また平凡な種子と肥料なしの遅れた技術で耕す
農業の計画化は︑少なくともその下図が作られた︒基礎資
法︑それに彼らが抱いている誇り︑それらすべてはまことに
イ︑今日のロード・ブロックウェイは︑セゴルベの共有集団
料として各共有集団から出された生産と消費の統計があった
小土地所有に対しても︑等しくその優位を明らかにした︒
し︑それはそれぞれの地区委員会によって︑ついで︑地方の
素晴らしいものである﹂︒
その組織化と統合との能力を発揮したのは︑レバンテにおい
農村におけるアナルコ・サンジカリスムが︑もっともよく
四か月以上も管理された︒国家の援助も干渉もなしに︑時に
革命的な諸委員会の下に結集していた労働者たちによって︑
CNTの赤と黒の旗をかかげていたバルセロナの諸工場は︑
逃げられた労働者たちは︑工場の操業化を自発的に企てた︒
産業的な地方カタルニャで︑その面目を発揮した︒雇用者に
同様に︑自己管理は産業面でも︑殊にスペインのもっとも
生産を量的にも質的にも指導していた地方委員会によって集
められた︒一地方以外との対外交易は地方委員会によって確
保され︑委員会は売るための生産物を集めて︑地方によるそ
てであった︒柑橘類の輸送は︑近代的な︑組織的な商業技術
れらの一括購入を始めていた︒
を要求していた︒富裕な生産者との︑時には激しかったいく
は既知の指針すらなしに︒しかしながら︑労働者たちは幸運
八年にかけてロシアで︑一九二〇年にイタリアで行なわれて
つかの紛争にもかかわらず︑それらの技術は目覚ましく実行
いたこととは逆に︑工場占拠の短い経験の期間︑技師たちは
にも技術者たちを味方につけていた︒一九一七年から一九一
文化の発達は︑物質的な発達とともに進められた︒成年者
に移された︒
の文盲追放が企てられた︒地方連合は︑各村における講演︑
社会化の新しい経験への協力を拒まなかった︒最初の時から
一九三六年十月︑六〇万人の労働者を代表する労働組合大
彼らは︑労働者たちと緊密に協同していたのである︒
映画の催し︑演芸の上演の計画をたてた︒
それらの成功は︑ たんに組合運動の有力な組織のみなら
ず︑広範囲にわたって︑大衆の知性と発意に負っていた︒大
50
会が︑産業の社会化のために開かれた︒労働者の発意は︑一
定は履行すべきものであった︒
会は︑労働を計画化し︑利益の配分を決めていたが︑その決
私有として残っていた企業の中では︑労働者委員会が選出
九三六年十月二十四日付カタルニャ政府の法令によって制度
され︑﹁雇用者との緊密な協同の下に﹂生産と労働条件とを
賃金制度は︑ 社会化された工場の中に完全に存続してい
化されたが︑それは既成事実をそのまま認めながら︑自己管
た︒各労働者はやはり固定した賃金を受け取っていた︒利益
理の中に政府の監督を導入したものであった︒社会主義化さ
は︑労働者一〇〇人以上の工場︵五〇人から一〇〇人までの
は企業の段階では配分されなかった︒賃金は︑社会化の後で
監督しなければならなかった︒
工場は︑四分の三の労働者の要求で社会化できた︶︑所有者が
れたものと私有との二つの分野が生まれた︒社会化されたの
﹁反逆的﹂であると大衆裁判所が認定したか︑経営を放棄し
ほとんど上がることはなかった︒
一九三六年十月二十四日の法令は︑ 自 治 的 な 管 理 の 思 想
た工場︑最後に国内経済に占めるその重要性からみて︑私有
の分野から取りあげるのが適切な工場であった︵実際には︑
れていた︒委員会は管理人を指名して︑彼にその権限のすべ
る五名から一五名の委員からなる管理委員会によって運営さ
二年の任期で︑その半数は毎年改選される︑各業務を代表す
自己管理の工場は︑総会で労働者たちによって任命され︑
操縦桿を握りながら︑どうして自己管理への国家の干渉を怒
たちが政府に参加していたためであった︒自分自身が国家の
よって承認されたが︑それというもの︑アナキストの指導者
対自由主義者の大臣によって起草されたもので︑ CNTに
資本主義と社会主義との間の取引きであった︒その法令は絶
と︑国家統制的な監督への傾向との妥協であったが︑同時に
てか一部分を委任していた︒ きわめて大きな企業において
ることができよう︒ひとたび狼が羊の群に入れられれば︑狼
負債のあった多くの工場が社会化された︶︒
は︑管理人の任命は監督機関の同意をえなければならなかっ
はついには主人として振舞うこととなる︒
管理委員会は総会によるか︑︵諸管理委員会を代表する四
ルジョア的な協同組合主義︑利己的な排他主義に導かれる危
ように︑各生産単位が自分たちの利益しか考えない一種のブ
かわらず︑労働者の自己管理は︑ペイラァツが記録している
通常︑産業別総評議会に与えられていた大きな権限にもか
た︒その上︑各管理委員会には政府の監督官がついていた︒
それはもう完全に自己管理ではなくて︑むしろ政府との緊密
名︑労働組合代表七名︑監督機関から任命された専門家四名
険を冒していたとみられている︒豊かな共有集団と貧しい共
な関係における共同管理であった︒
からなる︶産業別総評議会によって解任しえた︒この総評議
51
有集団とがあった︒革命前の賃金支払いの維持にすら達しな
ていたのである﹂︒
リアスの場合のように︑しばしば労働者の管理委員会を持っ
かに︑スペイン革命下での直接民主制の経験として特筆すべ
さて︑ゲランが以上に示している農業と産業の共有化のほ
いものもあったのに︑比較的高い賃金の支払いを認めうるも
のもあった︒あるところで原料の供給がありあまっているの
に︑別のところでは不足していた︑等々である︒
これらの不均衡は︑資金を適切に配分することを可能とす
二月︑バレンシアで開かれた労働組合の会議で︑有害な競争
するスターリン主義者たちと︑兵士の自律を主張するアナキ
共和国軍の中では︑絶対服従の軍隊的規律を推進しようと
きものに︑共和国軍︑特に民兵隊内部での試みがある︒
と個々バラバラの努力を避けることを可能とする総体的な組
ストたちの間で︑激しい対立がつづいていた︒以下は︑CN
る平等化中央金庫の創設によって防衛された︒一九三六年十
織的計画において︑異なる生産分野を調整することが決定さ
Tの中心的活動家ドゥルティが組織した︑﹁将軍のいない﹂こ
の産業集中化は︑アナルコ・サンジカリストの計画推進者た
は一〇〇ばかりから約三〇に減った︒しかし組合指導下のこ
は七〇から二四に︑製革工場は七一から四〇に︑ガラス工場
計画的な再組織を企図した︒例えばカタルニャでは︑精錬所
る︑軍隊化の原則を非難している︒彼らは︑これまでとられ
緊密ないかなる関係もなしに作製され︑ 現に実施されてい
いて︑断乎たる態度をとった︒同志たちは︑戦線の人びとと
般的に軍隊化の問題︑特殊的にはこの部隊の中での問題につ
ドゥルティ部隊の国際グループのドイツ人同志たちは︑一
﹁民衆の軍隊と兵士評議会︒
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
とで知られる民兵隊で配布された︑文書の一節である︒
れた︒
労働組合はその時から︑何百という小企業を閉鎖し︑もっ
ちがどんなに希望しても︑急速には︑また完全には進展しな
た措置を臨時のものと見なし︑果てしない混乱の現状を終わ
ともよい設備を持った企業に生産を集中させる一切の事業の
かった︒なぜか︒スターリン主義者と改良主義者とが︑中産
らせるために彼らができるだけ速やかに設定することを要求
それらを受け入れている︒ドイツの同志たちは︑新しい軍規
している︑新しい〝 軍規 〟が創設されるまでのものとして︑
カタルニャの社会化の法令が適用されなかった共和派スペ
の編纂に当たって以下の要求を考慮することを提案してい
階級の財産没収に反対し︑宗教的な意味から私有の分野を尊
インの他の産業中心地では︑共有化はカタルニャほど数多い
る︒
重していたからである︒
ものではなかった︒しかし私有として残った企業もアストゥ
52
月︑ソ連共産党第一書記フルシチョフは︑党大会で﹁スター
ソ連の全体主義体制の崩壊のはじまりになる︒一九五六年二
一九五三年三月︑スターリンが死ぬ︒この独裁者の死が︑
2 全員に平等な俸給︒
リン批判﹂として知られる衝撃的な報告を行ない︑彼の専制
1 敬礼の廃止︒
4 討論の自由︒
3 言論の自由︵戦線新聞︶︒
君主ぶり︑彼の治下での大量粛清を暴露する︒
このスターリン批判は︑ソ連の植民地支配に根強い反感を
5 大隊評議会︵中隊ごとに三代表を選出 ︶
︒
6 いかなる代表も司令官の役割を果たさない︒
抱いていた東欧諸国に波及する︒ ポーランドのボズナンで
して相対的な自主性を持つ改革派を︑十月に政権につけるこ
は︑一九五六年六月に大暴動が発生する︒それが︑ソ連に対
とになる︒このポーランドの動きにうながされ︑同年十月二
大隊評議会は︑中隊代表の三分の二が同意するなら︑
8 各部隊︵連隊︶の兵士たちは︑部隊の信任しうる三人
十三日以後︑ハンガリーでハンガリー革命といわれる過程が
兵士の全体集会を招集する︒
からなる代表団を選出する︒それらの信任された人び
進行する︒しかしそれは︑二度にわたるソ連軍の介入で鎮圧
表 することにいたるまで︑延長されねばならない︒
その詳細については別にゆずるとして︵たとえばアンディ・
権力を掌握していたのは政府ではなく労働者評議会だった︒
の変革︑私たちの変革﹄径書房︶から︑その核心部分を以下
に拾ってみて︑ハンガリーが提示した歴史的意味を確認する
ことにしたい︒
53
7
彼らの一人は︑オブザーバーの資格で︵旅団の︶参謀
される︒
とは︑いつでも総会を招集しうる︒
9
部に派遣される︒
総参謀部はまた︑兵士総評議会の一代表を参加させな
アンダーソン﹃ハンガリー一九五六﹄現代思潮社︶︑ここで
革命は二か月に満たない短命に終わった︒しかしその間︑
くてはならない︒
はハンガリーにおける労働者評議会出現の意義について語っ
この機構は︑軍全体を兵士評議会によって総括的に代
兵士のみからなる戦場軍法会議︒下士官に対する告発
ている︑ハンガリー革命二十周年に書かれた︑コルネリュウ
7 ハンガリーの労働者評議会︵一九五六︶
ス・カストリアディスの﹁ハンガリー︑創造の源泉﹂︵﹃東欧
の場合は︑軍法会議に将校一人を加える﹂︒
10
11
12
﹁ハンガリー革命の︑ほかの数多くの側面の重要性をおと
しめようとするのではないが︑私はここでは主として︑労働
者諸評議会とそれらの目的と要求のいくつかの意義をとりあ
ヽヽヽヽヽヽヽ
諸評議会の決定的な重要性は︑ a( 直)接民主主義の︑いいか
ヽヽヽヽヽヽヽ
張っていたこと︑ c( 自)己管理と労働規準の廃止とに関する︑
それらの要求︑に由来している︒
ヽヽヽヽ
えるなら真の政治的平等︵権力に関する平等︶の確立︑ b( 具)
ヽ ヽ ヽ
体的な集団︵︽工場︾内に限る必要はない︶にそれらが根を
これらの三つの点の中に︑社会の既成の分割と︑集団活動
げることにしたい︒⁝⁝
⁝⁝ハンガリーの出来事は︑数週間しかつづかなかった︒
の主要な諸領域の中での基本的な分離とを︑廃止しようとす
ヽ ヽ
私は︑これらの何週間は︑︱︱パリ・コミューンの何週間か
る努力が︑確認される︒
ヽヽヽヽヽヽ
のように︱︱われわれにとって︑古代エジプト史の三千年よ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
りも︑重要でないわけではないし︑意義深くないわけではな
そして︑そう断言するのは︑ハンガリーの労働者諸評議会
の分割︑分離した︽政府︾︑あるいは︽政治的な︾狭い領域と
がその一形態である︶︽管理するもの︾と︽管理されるもの︾
けではなく︑︵︽代表するもの︾と︽代表されるもの︾の分割
ここで問題とされているのは︑単に︽諸階級︾間の分割だ
が︑ その形成やその目的の中に潜在的に含ませていたもの
いと︑断言する︒
が︑一方では︑政治権力についての︑旧来の︑制度化された︑
残りの社会生活︑時に︽労働︾ないし︽生産︾との間の分割︑
ヽヽヽヽ
伝統的な社会的諸意味作用の破壊であり︑他方では︑生産に
最後に︑当面の日常的な利害や活動と︽全体的政治︾との間
ヽヽ
ヽヽ
ついての︑労働についての︑︱︱したがって社会の新しい制
の分割も同様である︒⁝⁝
に由来しているのではない︒それは︑それらの︽プロレタリ
よって︑つまり︵工場であれ︑事務所であれ︑地域であれ︶
実にそれが可能なそのたびごとに︑ 関 係 す る 人 び と 全 体 に
評議会の組織の中では︑あらゆる決定は︑原則として︑現
りを要求する︒
ヽ
認をともなう⁝⁝し︑あれこれの部門間の︑別の型のつなが
ヽヽヽ
さて︑分割と分離の廃止は︑共同体の諸部門間の相違の承
度についての︑芽である︑と考えるからである︒それは特に
政治と労働についての政治的遺産との︑徹底した決別をとも
なっている︒
労働者諸評議会は︑ほとんどいたるところに出現した︒し
かも︑国中を覆いつくすのに何時間しかかからなかった︒そ
れらの模範的性格は︑それらが︽労働者のもの︾だったこと
ア的な構成︾にも︑それらが︽生産企業︾の中に誕生したと
︽政治的集団︾の総会によって︑下されなくてはならない︒
ヽ ヽ ヽ ヽ
いうその︽形態︾の外面にさえも︑よってはいない︒
54
次の総会までの期間の日常業務の管理の継続を︑保証する︒
代表たちのグループは︑総会の諸決定の実施と︑総会から
判をまた繰り返す必要もあるまい︒
会体制の中での︽諸選挙︾についての︑よく知られていた批
が︑周期的な選挙の法的な形態である︒ここでは︑既成の社
ぶんもっと重要だろう︒すなわち︑
︽政治的︾代議制は人びと
それよりは︑一般に無視されている点を強調する方が︑た
代表たちは︑選挙でえらばれ︑つねに解任できる︵いつでも
つでも解任できること︑彼らの選挙も︑ここでは決定的なこ
を︑彼らには社会の諸問題を管理することができない︑︽統
即時に解任される可能性がある︶︒しかし︑この代表たちをい
とではない︒ほかの手段︵たとえば交替制︶が︑同じ目的の
れはだから︑政治的無関心をもたらしているし︑この無関心
永続的な代議制は︑︽職業的な政治︾と対になっている︒そ
ようとしている︑ということである︒
う確信にしたがって︑︽教育し︾︱︱つまり︑非教育し︱︱
治する︾特別な能力を授かった特定の人間たちがいる︑とい
大事な点は︑決定権が総会に属していること︑総会は代表
ために役立つこともできよう︒
ヽヽヽ
か持っていないこと︑彼らは原則として︑総会を四六時中開
はまた︑人びとの気持の中で︑社会的諸問題の広がりや複雑
たちの諸決定を取り消せること︑代表たちは残りの権力をし
いてはいられないという理由でしか︑存在していないこと︑
間が限られているにせよ︶取り消されることのない権力の委
︽代表されるもの︾の︽代表するもの︾への︑︵形式的には期
配的な政治上の欺瞞を︑とりのぞく︒
れによって人は︑明らかに永続的な代議制を理解する︱︱支
代的なものである︶民主主義は代議制に等しいという︱︱そ
大衆の自己動員と自己活動に︑人びとが集団的な機関の活動
他のすべての自治機関の変化や︑それらの最終的な運命は︑
でつけくわえていうまでもあるまい︒諸評議会の︑またその
がありえないことを保証する︑万能薬ではないのだと︑ここ
総会に対する責任も︑革命の官僚的な︑またそれ以外の変質
総会の権力も︑代表たちを罷免できることも︑代表たちの
げているのである︒
さと︑それらに取り組む彼ら自身の能力との間の溝を︑ひろ
である︒
この総会の権力は︑︽管理するもの︾と︽管理されるもの︾
ヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽ
の間の︑社会の制度化された分割の廃止を︑直接的には意味
任︑代議制は︑政治的疎外の一形態である︒決定すること︑
に積極的に参加するかどうかに︑討論︑整理︑決定︑実施︑
している︒この権力は特に︑︵古いものではない︑典型的に現
それは自分自身で決定することであり︑誰が決定するかを決
監督という過程のすべてで︑全力をつくすべき人びとの意志
ヽ ヽ ヽ ヽ
定することではない︒この権利の剥奪を覆いかくしているの
55
効果を持つ︑ある制度上の形態を求めるのは︑言葉の矛盾で
であるように強い︑自己活動できることを示させる︑そんな
に︑かかっている︒そうした参加を保証し︑人びとに自治的
のように︒︱︱そして︑実際に彼ら自身の事業になる︒
関心をよせはじめる︒ちょうど自分たち自身の事業について
が︑惜しみなく示される︒個人個人が公共の事業に積極的に
と導かれる︒行動︑情熱︑献身︑︽自己犠牲︾︑これらすべて
能にするものである︒それに対して既成の政治的形態は︱︱
ないし︑保証できるものでもない︒ただ︑そうした活動を可
が︱︱︑以上のような自治活動の発展を︑保証するものでは
評議会という形態は︱︱ほかの同種のどんな形態も同様だ
リーの労働者諸評議会が︑ロシア軍の大部隊による第二次侵
例を︑ハンガリー革命はいくたびとなく示している︒ハンガ
奇跡的な成果を︑ともなっている︵それらのおびただしい実
的・技術的な着想や創意について︑信じられない︑ほとんど
明示として︑現われる︒この明示は︑社会的・政治的・実際
革命はこうして︑社会そのものの押し殺されていた真実の
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
あろう︒
それが︽代議制民主主義︾であれ︑一党の権力であれ︑のみ
入と国全体の占領ののち︑一か月以上にもわたってカダール
限の︑分離した特別な領域としての政治の廃止であり︑それ
ここで問題なのは︑政治の︽非職業化︾であり︑活動と権
中に相違をもたらすかどうかに︑かかっている︵この意味で︑
体的な生活との間の関係に︑採択された決定が彼らの生活の
の権力の性格と大きさとに︑討議される諸問題と人びとの具
民衆の自治的活動の追求とその後の発展は︑大衆の諸機関
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
はまた逆に︑社会の全般的な政治化であり︑社会の諸事業が︑
ヽ ヽ ヽ ヽ
言葉の上でではなく行為において︑全員の事業である︑とい
革命後の社会の主要な問題は︑自治的な活動の追求と発展を
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
ならず一党のリーダーシップであれ︱︱︑前記の発展が不可
と闘いつづけた︑あの勇気と手腕を︑想起してみよう︶︒
ヽ ヽ
能であることを保証するものであり︑それらの存在そのもの
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
によって︑それを不可能にするものである︒
うことを意味する︵これは︑プラトンが正義に与えた定義︑
可能にする︑諸制度の創設である︒しかし︑四六時中︑英雄
自分たちの権力の行使への積極的な参加に︑ 決定的にかか
ヽヽヽ
自分自身の事業に専念すること︑たくさんの事柄にかかり合
的な成果を期待する︑というのではなしに︶︒
革命的局面は︑必ず︑人びとの自治的な活動の爆発によっ
わっていることを認めれば認めるほど︑彼らはいっそうその
個人個人が︑彼らの実際の経験の中で︑彼らの日常生活が
うことによって無茶苦茶にならないことの︑まさに正反対で
て開始される︒この活動が︽反逆︾あるいは︽革命的な偶発
行使に参加するようになる︒自己活動の発展は︑それ自身の
ある ︶︒
事︾の域を越えると︑それは大衆の自治的な諸機関の創設へ
56
ヽ
さて︑人びとの具体的な生活と日々の生き方は︑︽全 般 的
逆に︑大衆の諸機関のあらゆる制限︑その権力の一︽部分︾
諸活動の中で生じてくることと︑切り離しがたく結びついて
している個々の共同体の中や︑人びとが参加している特定の
内容によって養われる︒
を他の決定機関︵議会 ︑︽党︾等々︶に移そうとするあらゆる
いる︒それら二つの面の分離と対立は︑現行社会の中での分
な︾社会的︑政治的な水準で起きていることと︑人びとが属
試みは︑参加をひかえさせ︑共同体の諸事業への関心を弱め︑
離と疎外の︑主要な表現の一つである︒この点に関してこそ︑
ヽ
ついには無関心を生みだす︑反対の運動を助長するものでし
ハンガリー労働者諸評議会の自己管理の要求と︑国民生活の
衆の諸機関の活動は︑不可避的に衰えてゆくことになるだろ
そうした移行をそのままにしておくならば︑民衆の参加と大
の下に︑専門的な諸機構にゆだねられる時に︑である︒もし
大衆の諸機関の権限からとりあげられ︑各種の合理化の口実
業にのみ限られている︑︽参加︾ないし︽自己管理︾について
︽全般的な政治権力︾を分離した階層にまかせたままでの︑企
の参加は︑明らかに欺瞞である︒そのことはまた︑たとえば︑
ての権力を︑人びとに持たせずにおく︑全般的な政治権力へ
自分たちの周りの環境や自分たちの具体的な諸活動につい
あらゆる分野での評議会設立との︑重要性がある︒
うし︑それらの決定機関が︑次第に数多いものになってゆく
も︑いえることである︒
官僚化がはじまるのは︑共同の諸事業に関する諸決定が︑
かない︒
主題について︑決定を下す︽べきものとされてゆくことであ
大衆の諸機関を人びとが見捨ててしまうだろうし︑現行諸社
そしてこんどは︑もはや重大なことを何一つ決定しない︑
らが︱︱投票する ︽市民たち︾ 等々のような︱︱別のごまか
う︱︱彼らが属する具体的な共同体を管理する︑そして︑彼
とが︱︱︽工場︾のみならず︽国民生活のあらゆる面︾とい
は︑そうした分離と対立の乗り越えである︒すなわち︑人び
ハンガリー労働者諸評議会の諸要求に含まれるもの︑それ
会の特徴であるだけではなく︑それらの存続の条件そのもの
しの下ではなく︑まさしく彼らの直接的な表現であるもの︑
ろう︾︒
である︑︽政治︾を支える冷笑的なあの無関心状態に︑戻って
ヽ ヽ ヽ
しまうだろう︒そこで社会学者たちや哲学者たちは︑この︽無
つまり評議会という管理機関を通して︑彼らが政治権力に参
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
関心︾の中に︑官僚階級の︽説明︾や︽正当化︾を︑発見す
加する︑ということである︒
そのようにして︑社会の分離/同質化という厄介なジレン
ヽヽヽヽ
ることであろう︵要するに︑誰かが公共的な諸事業の面倒を
みなければならない︑というわけである︶︒
57
ヽ ヽ ヽ ヽ
マは除去される︒そのようにして︑社会全体とそれを構成す
る個々の部分の間の︑ つながりの一つの型への道が開かれ
速になってゆくことを余儀なくされたのであった﹂︒
さて︑ハンガリー革命については忘れてはならないことが
たちが︑ソ連 軍戦車のハンガリー侵略を︑反革命を粉砕し社
ある︒それは一九五六年当時︑多くのいわゆる進歩的知識人
逆にまた理解されてくるのは︑諸評議会あるいはほかの類
会主義を守るためのものとして支持した︑ ということであ
る︒⁝⁝
似の諸機関︵たとえば︑一九一七年以後のロシアにおけるソ
る︒たとえばサルトルも︑まわりくどい言葉を用いながらで
に行動したとの非難に対してサルトルは︑ そうだとしても
はあるが︑ハンガリー反革命説をとなえたソ連やフランス共
﹁社会主義国家であるソ連にとって︑国家的利益は︑社会主
ビエト︶の権力が︑それを言葉の狭い日常的な意味での︑︽政
なぜ空しい形式にしかなりえないかといえば︑そこで伝統
義の利益と絶対に分けられない﹂といって︑ソ連の行動を是
治の︾諸問題にのみ限れば︑なぜ急速に空しい形式にしかな
的な意味での︽政治︾の領域と人びとの具体的な暮らしとの
産党を擁護した︒一例をあげれば︑ソ連は国家の利益のため
間の分離が︑改めて導入され︑改めて肯定されているからで
認したのである︵﹁スターリンの亡霊﹂︑﹃サルトル全集﹄二
りえないか︑ ということである︒⁝⁝
ある︒もし諸評議会ないしソビエトが︑法や政令を議決する
十二巻︑人文書院︑所収︶︒
そのようにして︑民衆の日々の暮らしや労働から引き離さ
なものであったことは︑記憶にとどめておいてよいことだろ
が︑サルトルをはじめ当時の進歩的知識人の大半がまずこん
れた現在から見れば︑まさしく噴飯もの以外ではありえない
している︑といった主張は︑ソ連が自壊しその内情が暴露さ
ソ連が﹁社会主義国家﹂であり﹁社会主義の利益﹂を代表
ことしか︑委員たちを任命することしか︑求められないとす
れば︑それは︑権力の抽象的な幻をしか︑手にしていないこ
れ︑身近な集団の利害や関心事からますます遠ざかり︑はる
う︒
とになる︒
かな全般的な政府の諸問題についてはせっせと立ち働く︵む
︵ボルシェヴィキ党に支配されていないにしても︶︑彼らには
命の評価が真剣になされていないことにあるのではないか︒
ところで問題はむしろ︑今日においてもなおハンガリー革
ヽヽヽヽヽ
しろ立ち働くと見なされる︶︑諸ソビエトは︑民衆にとっては
属していない︑彼らが気にかけていることを気にもしていな
確かにハンガリーの一九五六年は︑社会主義理論再構築の動
ヽヽヽ
い︑その他のもの同様の︑単なる︽公的な決定機関︾に︑急
58
ギュマン﹄誌の創刊︶︑残念ながら一部の少数者の間にとど
きをうながしたが︵たとえばエドガール・モランらの﹃アル
を大成し︑労働者評議会を通じての社会変革と新社会建設の
ロシア革命への批判を深めることで︑評議会共産主義の思想
と大衆という分離を拒否していたし︑そうであることによっ
織化の運動だったからである︒それは︑運動の中での指導者
ちで答えようとした行動であったし︑自分たち自身の自己組
然発生的な行動として出現したし︑自分たちの課題に自分た
つまりハンガリー革命は︑誰かの指導下にではなく大衆の自
己の存在を否定されかねない何か︑があるからではないか︒
実践の中にはいかがわしく映るもの︑危険と見えるもの︑自
導者であろうと自負している人たちにとって︑ハンガリーの
から世界を解放するのである︒労働者たちが︑生産手段に責
よって︑自分自身を解放するとともに︑資本主義という災禍
と﹂である労働者たちは︑生産を自分たちの手に握ることに
の主要な永遠の犠牲者︱︱更に人口の大多数を構成する人び
共通の利益が﹂守られる︑と彼は考える︒しかも﹁資本主義
働を確保しているすべての人びと︑労働者︑技術者︑農民の
そうしてこそ︑﹁すべての生産者たち︑社会の中で生産的労
身で生産を手中に収めなくてはならない︑という点にある︒
思想の核は︑労働者階級は︑彼らの解放のためには︑彼ら自
その一端をここで紹介することにしたいが︑彼の基本的な
構想を明らかにした︒
て︑支配するものと支配されるものの分離という何千年にも
任を負い︑工場の主人︑自分たち自身の主人になり︑彼ら自
なぜそうなのか︒それは︑運動家であれ知識人であれ︑指
まっているように思われる︒
わたる人類史のあり方を一変させる︑真の革命であったから
生産の性格が変わり︑新しい原則の下に生産が組織される
われることとなる︒
⁝⁝全 員の生活を満たすための財の豊かな生産﹂のために使
身の意志で工場を動かす時︑ その時こそ機械は ﹁真の用途
パネクークの社会組織構想
である︒
8
テルダム大学教授として国際的な数々の栄誉に輝く天文学者
めの剰余価値もないし︑社会的生産物の一部を独占する︑資
事に参加した人びとのものとなる﹂︒そこにはもはや資本のた
第一に搾取がなくなる︒﹁共同の労働の所産は︑共同の仕
のもその時である︒
であるとともに︑オランダ︑ドイツでの社会主義運動への熱
本主義的寄生者もいなくなる︒
アントン・パネクーク︵一八七三│一九六〇︶は︑アムス
心な参加によって︑左派の論客としても名高い︒特に彼は︑
59
や研究者の多くの世代の︑知的な︑肉体的な努力の貴重な所
人になるや︑雇用者たちは機械﹁この人類の富︑この労働者
第二に資本による生産の支配が終わる︒労働者が工場の主
ではなく︑国家の幹部である︑という基本的な事実は残って
改良に︑社会的支出に当てるかを決定するのは︑生産者自身
過程を指導し︑生産のどの部分を刷新に︑設備の入れ替えに︑
段を自由に処理し︑生産物を自由に処理し︑生産のすべての
決定する︒労働者たちは︑それゆえに︑指導者たちによって
産を︑勝手に使うことができなくなり︑なくもがなのもの︑
決定された生産の取り分︑賃金を受け取る︒生産手段の公有
いる︒したがって彼ら幹部たちが︑社会的生産のどれだけを
第三に生産は全体として十分に組織される︒﹁市場の︑需
贅沢品や粗悪品の生産を強制する︑ 資 本 家 の 権 力 も 消 滅 す
要供給による盲目的な競争の偶然の結果である︑資本主義の
制度の下では︑労働者たちはなお︑指導者階級によって服従
労働者たちに戻すか︑どれだけを自分たちのものとするかを
下での結合はその時︑意識的な計画化の対象となる﹂︒現代
させられ︑搾取されている︒公有は︑資本主義に現代的な変
る﹂︒
資本主義の組織は︑不完全な部分的なもので︑闘争と破壊と
装をほどこした︑ブルジョア的な一過程である﹂︒
ならず︑労働者階級の目標は生産者たちの共同所有におかれ
それゆえにこそ︑公有でなく共同所有が強調されなくては
をより激化させるものでしかないが︑それに代わって︑﹁世
界的な規模での協力の方式の中で﹂生産の完全な組織化が進
められる︒
なくてはならない︒そしてパネクークは︑労働者の彼ら自身
の実現に向けられる︒しかしそれは︑決して一日にしてなる
ここで︑パネクークが労働者による生産の掌握という時︑
ものではない︒闘争は長い︑果てしないものとなる︒指導者
による解放の闘争の起点に︑この﹁生産手段の共同所有の思
﹁傑出した社会改革家たちによってしばしば弁護される公
階級は猛烈に抵抗するに違いない︒それに勝つためには︑労
想﹂の労働者たちの精神の中への定着をあげる︒その自覚の
有の中では︑国家ないし他の政治組織が生産の主人である︒
それは共同所有を意味しているのであって︑公有︑国有を意
労働者たちは彼らの労働の主人ではない︒彼らは︑生産を組
働者階級は全力を傾けなくてはならない︒知力を︑精神力を︑
味しているのではない︑という点は重要である︒彼は︑共同
織し指導する国家の役人によって命令されている︒労働の条
組織能力を︑動員しうるすべての力を︒﹁しかし何よりもま
下に︑労働者たちすべての思想︑すべての行動が︑この目標
件がどのようなものでありえようと︑労働者たちが十分に尊
ず︑狙う目標をはっきり限定すること︑樹立すべき新しい秩
所有を公有と混同してはならない︑と強調して語る︒
重され人間的に扱われていようとそうでなかろうと︑生産手
60
序をまざまざと思い描いてみることが必要である﹂︒
献身︑刺激剤として作用する・各自の努力や達成へ仲間たち
共に働いている労働者たちの集団である︒彼らがすべての問
この工場の組織の中で管理機構を構成するものは︑そこで
が与える・賞賛ないし非難︑によって置き換えられる︒資本
きではないし︑パネクークの構想自体も同様である︒しかし︑
題を討議するために集まり︑すべては総会で決定される︒そ
そこに︑未来社会の構想の重要性がある︒しかし︑未来社
闘争を進めてゆくに当たり︑到達すべき社会がどのようなも
うすることで労働に加わっているすべてのものが︑共同の労
の受身の道具であり犠牲者である代わりに︑労働者たちは︑
のであるのか︑おおよそのところを提示しておくことは不可
働の組織化に参加する︒これは見たところ︑資本主義制度下
新しい人類の飛躍に積極的に協力する︑という誇りによって
欠である︒このおおよそのものは︑闘争を進めてゆく過程で︑
で︑労働組合が共同の事業について組合員の投票で決定する
会がどうあるべきかは︑それを労働者たちが実現してゆく過
必要に応じて︑修正もされ︑批判もされ︑細部を深められも
場合と︑似ていないわけでもない︒しかし︑そこには基本的
程で︑その時の社会的諸条件に応じて︑彼ら自身が決定して
するだろう︒そういういわば︽叩き台︾として︑パネクーク
高揚し︑自信を持つ︑生産の主人であり︑組織者となる﹂︒
は彼自身の未来社会の構想を︑彼の主著﹃労働者評議会﹄の
な違いがある︒
ゆくべきことである︒誰かが考えたものを押しつけられるべ
第一部﹁任務﹂の中で︑八章に分けて書いている︒
﹁組合の中ではつねに代表と組合員との間に仕事の区別が
画を考える配慮を他人まかせにせざるをえない︒彼らが自分
彼はまず︑工場の内部での組織から語り始める︒それは︑
たち自身の仕事にたずさわるのは︑きわめて部分的であり︑
ある︒代表たちが提案を準備し︑ととのえ︑組合員たちが投
工場の中での組織原則は︑来るべき社会では資本主義の下
見かけだけにすぎない︒工場の共同の組織の中では︑彼らは
票する︒肉体の疲れや精神の倦怠のために︑労働者たちは計
とは全く違ったものになる︒技術的な基礎が︑機械の規則的
自分自身ですべてをしなくてはならず︑思想を持ち︑計画を
労働者階級にとっての最大の任務である︑新しい基礎の上に
なリズムによって強制される労働の規律である点は変わらな
生産を組織することの第一歩である︒
いが︑社会的な基礎︑人間同士の相互関係はかつてのものと
そこでは︑貢献やいい意味での競争心が大きな役割を果た
樹て︑また決定しなくてはならない﹂︒
たちの命令と彼らに仕える人びとの服従︑に代わる︒飢えや
す︒それは労働者各自の労働の中だけではなく︑生産を組織
すっかり変貌する︒﹁相互に平等な︑同志間の協力が︑主人
失業への絶えざる危険への恐れは︑義務の感覚︑共同体への
61
職場代表からなる中央委員会の総会という︑組合わせによっ
合はどうか︒そこでは︑工場内の異なる職場での総会と︑各
ことが不可能な︑もっと労働者たちの数の多い大工場での場
きる程度の︑規模の小さい工場での場合だが︑一緒に集まる
以上は︑労働者たちが全員︑一つの総会に集まって討論で
で︑すべての思想は組織の共通の目的に向かう﹂ことになる︒
新しい共同体の中では︑ すべての利害は基本的に同一なの
停し除去して共同行動をとるために行なわれたが︑﹁労働の
個人的な利害の相違による対立があり︑討論はその対立を調
義制度の下での組合のものとは違った形をとる︒かつては︑
は公開されていなければならないし︑労働者たちはそれらを
な成果をあげているのか︒経理はどうなっているか︒それら
工場内の仕事はどんな風に進められているか︒それはどん
なことは︑情報はすべて公開されている︑という原則である︒
等な分担を引き受けなければならない︒そして︑そこで重要
で︑工場の組織の中で︑日常の業務や全体の調整の中で︑平
が︑男も女も︑老いも若きも︑力や才能に応じて︑仕事の中
除してしまうからである﹂︒反対に︑工場に働くものすべて
なら︑そうすると結果として︑各メンバーに彼らの責任を免
うが︑しかし︑全般の円滑な運営の責任者ではない︒﹁なぜ
工場委員会は︑日常の諸問題︑相互関係︑仕事の調整を扱
ではもはやない﹂︒
て決定が行なわれる︒この中央委員会は︑新しい経済機構の
よく知っている必要がある︒そうしてこそ︑労働者たちはい
するという共同の任務の中でもそうである︒討論も︑資本主
基本的な機関であり︑それは資本主義世界で知られる︑類似
つも全体の過程を概観することができるからだし︑ そうで
あってこそ彼らは︑職場での総会や工場での委員会で提起さ
の組織とは全く性格の違ったものとなる︒
れる問題を討議もでき︑とるべき措置を決定することも可能
﹁数量的な結果は︑一目で状況を見ることのできる︑統計
﹁それは︑中央組織である︒しかし︑指導組織でも政府機
表が図表として提示される︒これらの情報は︑工場の従業員
関でもない︒それを構成する代表たちは︑特別の指示ととも
なければならない︒そして︑より綿密な審議ののち︑同じ︑
になる︒工場での生産は︑一切の情報を公開することで大衆
あるいは別の代表たちが︑新しい指示を準備し︑︵委員会の︶
にのみ向けられるものではない︒従業員だろうがそうでなか
に各部門の総会によって委任を受けている︒彼らは︵委員会
会議に復帰する︒こうして彼らは︑異なった部門のメンバー
ろうが︑誰にでも利用できる︑公共のものである︒すべての
の精神的な管理下におかれることになる︒
たちの間の連絡役として行動する︒これらの工場委員会は︑
企業は社会的生産の一要素でしかなく︑それらの活動と社会
での︶討論とその結果を報告するため︑それらの総会に戻ら
未熟練労働者大衆に指令を伝えることが任務の︑専門家集団
62
業における生産の正確な知識が︑生産者全体に共通する知識
的労働全体の関係は︑簿記を通じてなりたつ︒こうして各企
て労働者階級が果たすはずの任務である︒
が︑労働者評議会という組織の形態であり︑この組織を通じ
がって︑ 生産を掌握しなければならない労働者階級にとっ
種の部分の間の協力が︑ 全体の社会生産を構成する︒ した
各工場︑各企業は社会の生産面の一部分であり︑それら各
同の決定に到達しようとする︒
と要求とを表明し︑他のグループの見解と照らし合わせ︑共
ちのグループから指名された代表たちが︑自分の母体の意見
の集団が労働者評議会であり︑ここでは︑協力する労働者た
ないので︑彼らの意志は代表を通じて表明される︒この代表
すべての工場の労働者を一か所の総会に集めることはでき
て︑これまでのべてきた工場内での労働の組織だけでは︑﹁任
の一つの断片となる﹂︒
務の半ばでしかない︒はるかに重要な任務が残されている︒
資本主義︑ あるいは国家社会主義の下では︑ 生産の基礎と
主義を修正するものとして登場した︑国家が大幅に介入する
労働の巨大な浪費を伴わざるをえない︒一方︑そうした資本
ており︑結果として︑破産︑生産過剰︑恐慌︑失業︑物質や
ている︒それらの間の結びつきは︑市場と競争の偶然によっ
資本主義は︑独立した組織されない企業の群れを基礎にし
な対立を生みだすような困難な仕事にはなるまい︑ とパネ
ようという労働者評議会の仕事は︑長期にわたる研究や重大
あり平等であるという原則から出発する︒この規範を設定し
立脚しているが︑新しい社会では︑すべての生産者は自由で
主義の中では︑最高主席の︑中央政府の︑更に大きい権力に
度の下では規範は︑主人の︑社長の権力に立脚し︑国家資本
則や各自の権利義務を明らかにすることである︒資本主義制
範を設定すること︑つまり仕事の中での相互関係を定める規
すべての企業を統一した社会組織の中に結集し︑生産を確
なっているのは︑政治権力と経済権力をあわせ持った国家官
クークは予測するが︑というのも︑﹁これらの規則はそれ自
すなわち︑異なる企業間の結合の方式を樹立すること︑それ
僚の権威主義的な手段に立脚した組織である︒ これらに対
保しようとする労働者評議会にとって︑まず手をつけなけれ
し︑来るべき社会の中で労働者階級は︑全く違った原則を示
身︑各労働者たちの自覚の中に生まれる﹂からである︒﹁各
らを同じ社会的組織の中に集めること﹂である︒それは︑い
す︒主人も召使いもいない︑自由な協力にもとづく労働者に
自はその力と才能にしたがって生産に参加する義務があり︑
ばならない基本的な課題の一つは︑生産の中での一般的な規
よる生産の組織であり︑﹁同じ原則が︑統一した社会組織へ
各自は共同生産の均等な取り分を受ける権利がある﹂
︒
かにして実現されるか︒
のすべての企業の結集にも貫かれる﹂︒それを保証するもの
63
量をどうして計るか︒﹁生産が消費と直結する社会では︑⁝⁝
れらに従事する当事者たちによって組織され︑社会生活全般
めの︑子供の教育のための︑保健衛生のための評議会が︑そ
右の生産の組織化とともに︑流通のための︑文化活動のた
理することも︑彼らの宇宙を支配することもできる﹂︒
市場も︑⁝⁝価格もない﹂ので︑生産の中で用いられた労働
ところで︑果たされた労働の量と各自に渡される生産物の
は︑労働時間数によって計られるべきだ︑とパネクークは提
の円滑な運営を担うことになるが︑それらの評議会における
る︒﹁なぜなら︑その支配の基礎︑任務の分割が消滅したか
評議会の組織の中では︑代表の大衆に対する支配は消滅す
ことはあるまい︒
民主主義の徹底については︑いくら強調しても強調しすぎる
案している︒
といっても︑もちろん︑生産の全部が各自の労働時間に比
例して生産者に分けられる︑というわけではない︒生産のき
いった生産機構の完成や拡大のために向けられるし︑非生産
らである﹂︒この時︑各自がそれぞれの注意を共同の利益に
わめて大きな部分が共同所有とされ︑ 設備改善︑ 近代化と
的な活動︱︱全般的な管理︑教育︑保健衛生にも当てられる
となっている︒すべての措置は︑評議会での︑グループでの︑
向けているし︑共同体への自覚がすべての感情と思想の基礎
生産の円滑な管理を保証するのは︑ 統 計 と 会 計 資 料 で あ
職場での討議と決定にもとづいている︒こうした条件の下で
し︑子供や老人の扶養のためにも用いられる︒
る︒﹁異なる財の消費についての統計︑工業諸企業の︑機械
は︑なすべきことを上から命令されることはない︒
﹁決定は︑大衆がそれらを彼ら自身の意志から出たものと
の︑土地の︑鉱山の︑輸送手段の統計︑各地区の︑各地方の︑
見なさなければ︑実行されえない︒外からの強制は︑尊重さ
性格を持っていない︒なぜならそれらは︑自分の意志を大衆
人口と資源の統計﹂といったものが︑十分に整理された数量
に強いる︑いかなる力も持っていないからである︒すべての
的な資料として︑経済的過程の基礎を提示する︒そうして︑
﹁史上初めて人びとは︑公開された帳簿の形で︑経済生活
れえない︒そのような力は存在しないからである︒評議会は
の総体と細部とを目にしうる︒そうして誰もが︑細部にいた
社会的な力は︑労働者自身に属している︒力の行使︱︱紛争
どの程度のものが生産されなければならないかが知らされる
るまで日常生活の完全な知識を獲得できるし︑社会生活に要
に対し︑ないし既成秩序への攻撃︱︱が必要ないたるところ
政府ではない︒もっとも集中化された評議会でさえ︑政府の
求されるものも︑彼自身に要求されるものをも︑検討し︑理
で︑それは︑職場の中の労働者の集団から発し︑彼らのコン
とともに︑生産の全過程が要約して明示される︒
解することができる︒そうすことで生産者たちは︑生産を管
64
政府の権力機関としての﹁主要な性格は︑階級支配を維持
じまったロシア革命があの奇怪な全体主義体制にゆきついた
いかに搾取社会であるか︑なぜ大衆の自発的な運動としては
連社会批判だった︒ソ連社会が社会主義社会であるどころか
何より自律の思想家である︒彼の思想的営為の出発点は︑ソ
する必要によって決定されていた︒この必要がなくなる時︑
トロールを受ける﹂︒
その手段もまた消滅する︒残されたもの︑それは︑多くの他
この疑問が彼をつき動かしつづけた︒そこから︑ソ連社会
のか︒何かが大きく間違っていたとするなら︑革命を目指す
批判︑マルクス主義の批判的検討︑現代資本主義の分析︑革
者の間での一種の仕事である管理︑特殊な労働者たちの任務
神であり︑共同で自分たちの共通の利益について考える︑労
新しい思想と実践はどうあるべきなのか︒
働者たちの絶えざる討論である︒評議会の決定の成就を強い
命運動の新しいあり方の提示︑さらには唯物弁証法に代わる
である︒政府に代わるもの︑それは︑組織活動についての精
るもの︑それは精神的権威である︒そして︑このような社会
哲学の構想という︑彼の巨大な作業が積み重ねられることに
も︑つねに彼の関心の中心に位置していた︒そして彼は︑未
においては︑ 精神的な権威は︑ 政府の命令ないし強制より
さて︑以上がパネクークの未来社会構想の概観である︒す
来社会の構想を二度示している︒まず﹁社会主義の内容につ
なる︒その中で︑どんな新社会を建設すべきか︑という課題
でに半世紀以上も前に示されたこの構想の新鮮さ︑ 豊かさ
いてⅡ﹂︵一九五七︶において︑ついで﹁社会主義と自律社
ずっと厳しい力を帯びる﹂︒
に︑われわれは今改めて驚かされるが︑残されているのは︑
会﹂︵一九七九︶において︒
られているが︑ここでは以上の二つによって彼の構想の概略
いずれも﹃社会主義か野蛮か﹄︵法政大学出版局︶に収め
われわれがいかに彼の思想を血肉化し︑いかに現実のもにし
なお︑パネクークは︑未来社会において市場や価格を不必
を見てゆくこととしたい︒ところで彼は新社会について︑ま
てゆくか︑である︒
要なものとして語っているが︑次項のカストリアディスの構
スの社会主義社会観を表明している︑もっとも基本的な文書
さて︑﹁社会主義の内容についてⅡ﹂は︑カストリアディ
次第に不適切なものになった︑という理由による︒
れは内容の違いによるものではなく︑社会主義という用語が
ず社会主義社会と呼び︑のちには自律社会と呼んでいる︒こ
カストリアディスの自律社会構想
想では︑別な意見が提示されていることに注意したい︒
9
コルネリュウス・カストリアディス︵一九二二│九七︶は︑
65
しての労働の内容そのものの根底的な転換を︑同時にまた︑
と︑テクノロジーならびに︑人 びとのもっとも重要な活動と
社会から分離されたあらゆる管理機構の廃止をともなうこ
においても︑生産者たちによる生産の管理を意味すること︑
でもないこと︑したがって企業の段階においても社会の段階
人びと自身による︑彼らの生活の意識的組織化以外の何もの
である︒そこで彼は﹁社会主義は︑あらゆる領域における︑
任できる︑労働者たちに対して定期的に自分たちの活動の報
ちによって選出され︑労働者たちの要求によっていつでも解
の工場が大きすぎて総会を持つのが無理な場合は︑労働者た
的な決定を行なうのは︑その工場の労働者の総会である︒そ
る︒ある工場についていえば︑そこでの管理についての基本
か︒いうまでもなく︑それに当たるのは労働者たち自身であ
るならどうなるのか︒生産の管理はどんな形で行なわれるの
彼のいう直接民主主義的な社会を︑もっと具体的に見てみ
この労働者評議会は︑同じ性格の代表たちによって︑工場︑
資本主義社会が暗にか明白にか志向しているあらゆる価値の
企業︑産業︑地域︑さらには全国の水準で設けられよう︒社
告を行なう︑代表たちからなる労働者評議会が︑討論と決定
かつての社会主義綱領が︑生産手段の国有化︑経済の計画
転換を︑もたらさなくてはならないこと﹂を軸にして︑新し
化︑プロレタリアートの︵実は一党の︶独裁であったとすれ
会主義社会において︑生産︑経済の面で大衆の自治を実施す
と執行の役割を担うことになる︒
ば︑カストリアディスが提出するのは︑図式化していえば︑
る根幹をなすものは︑それらの労働者評議会と︑それらのさ
い社会の運営のあり方を具体的に描きだしている︒
大衆自身の自律︵大衆自身による生産と社会の管理︶︑テク
まざまな水準での連合である︒
この労働者評議会の制度と従来の議会制度とは︑何がどう
ノロジーと労働の人間にとって意味あるものへの転換︑所得
の絶対的平等である︒そのいずれもが︑資本主義的な理念や︑
免されないままでいる人びととの︑決定的な分離にもとづい
違うのか︒議会制は﹁時々︽相談を受ける︾大衆と︑大衆を
ている﹂︒議会制の下では人びとは︑代議士たちに自分たちの
その理念を少なからず継承していたマルクスに対する︑根底
そこでもっとも基本的なものは︑民主主義を徹底して実現
︽代表する︾と見なされ︑コントロールされえず︑事実上罷
しようとする意志だった︒﹁民主主義は︑語源的には大衆の
決定権を譲渡している︒代議士たちは一定期間にわたって白
的な批判を含んでいるのが特徴である︒
支配を意味する﹂︒﹁民主主義の完全な唯一の形態は︑直接民主
紙委任を受ける︒彼らを選出した人びとは︑彼らを自分たち
ヽヽ
ヽヽヽヽ
ヽヽヽ
主義である﹂︒この直接民主主義をカストリアディスは︑でき
の意志にしたがわせる手段を持たない︒
ヽヽ
る限り現実のものにしようとする︒
66
とのできる制度である︒もっとも基本となっているのは︑下
い︒大衆が自分たちで決定するためには︑決定するために必
れは事情をよく知った上で決定する﹂ことでなくてはならな
しかし︑ここには一つの重要なことがある︒﹁決定する︑そ
ことになる︒
部の総会である︒基本的な方針を決定するのは︑この総会で
それに反して︑労働者評議会は︑大衆が自分で決定するこ
なくてはならない︒下部の大衆によって選出された代表たち
要な情報が大衆自身の手許になくてはならない︒
らない︒代表たちは︑自分たちの活動を定期的に選出母体に
る人びとを操作するのに必要なものだけが流されていた︒そ
れており︑管理される人びとには隠されていたし︑管理され
これまでの社会においては︑情報は管理する人びとに握ら
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
は︑総会で決定された基本的な方針によって動かなくてはな
対して報告する︒その活動が適切でないと選出母体が判断す
の意味で社会は︑ 真暗闇ではないにしても︑ 薄い闇の中に
れば︑代表たちをいつでも解任することができる︒
こうして労働者評議会の制度の下では︑代表たちは彼らの
管理する人びとと管理される人びとの分離がないこと︑その
独占化された業務にはならないこと︑を意味する︒つまり︑
とによっては行なわれないこと︑特定の人びとの専門化され
れば︑集団の運営の指導が︑集団から分離した︑特定の人び
るだけでも︑これまでの社会と社会主義社会の違いはきわめ
形で提供されなくてはならない︒この情報をめぐる事情を見
その情報は︑誰にでもわかりやすいように︑要点を圧縮した
に︑最大限の情報が自由にできるようでなくてはならない︒
でなくてはならない﹂︒一般の人びとが社会を理解できるよう
それに反して社会主義社会においては︑﹁社会組織が透明
あった︒
分離は社会主義社会の成立とともにただちに廃止されねばな
母体である集団を真に代表することになる︒それはいいかえ
らないこと︑を意味する︒
理する︒常任には︑何人かの代表が順番であたる︒彼らが処
ない︒必要な時︑たとえば週に半日︑会議を開いて問題を処
なる評議会である︒この代表たちは︑生産の現場からは離れ
ちによって選出された︑いつでも解任しうる︑代表たちから
ケーションは︑主として決定を︵そして補足的に︑頂上の決
は︑もっぱら情報を伝える︒頂上から下部に向かうコミュニ
のようになっている︒下部から頂上へのコミュニケーション
央の機関と下位の機関との関係︑国民との関係は︑およそ次
国民が政治権力を奪われている従来の社会においては︑中
て明白になる︒
理する問題は︑月に一度か二度開かれる労働者たちの総会に
定を理解し適切に実行するのに必要な最小限の情報を︶伝え
工場の水準でいえば︑生産の管理に当たるのは︑労働者た
報告され︑そこで批准を受けるか︑決定を下される︑という
67
る﹂ことである︒つまり︑経済のさまざまな事実や関係をい
ヽ
る︒頂上は権力の独占︑決定の独占だけではなく︑権力の諸
くつかのデータに変えること︑それによってどのようなこと
ヽヽ
条件の独占をも行なっている︒つまり︑頂上のみが︑判断し
が問題なのか︑簡潔に表現することである︒
するための諸手法によって実現可能なことであるといい︑こ
このことについてカストリアディスは︑現代の経済を理解
決定するのに必要な情報の全体を把握している︒ほかの人び
社会主義社会は︑そうした事態を根底的に転換するもので
の経済の現実を単純化して示すことを任務とする︑︽計画の
とは︑自分の分野以外の情報には近づきにくい︒
なくてはならない︒二つの方向の流れが︽下部︾と︽中央︾
工場︾という構想を示している︒
諸決定は下部によって行なわれ︑中央はその執行を保証する
あるとともに配布者になる︒一方︑あらゆる重要な領域で︑
とのえることである︒
自身によって計画が決定されるように︑そのための条件をと
この︽工場︾の役割は︑計画を決定することではなく︑社会
経済研究所あるいは中央経済企画機構といったものだろう︒
この︽計画の工場︾は︑ふつうの呼び方をするなら︑中央
の間で樹立される︒中央の主な仕事の一つは︑下部の機関全
か︑実行することを担当する︒したがって図式的にいえば︑
体に集めた情報を伝えることであり︑中央は情報の収集者で
情報は︽中央︾から︽下部︾に流れ︑決定は︽下部︾から︽中
よって﹂行なわれる︑ということである︒しかし︑一工場な
﹁社会全体に関する諸決定は︑そこで暮らす男と女の全員に
はどのように管理されることになるのか︒ここでも原則は︑
以上のような原則にしたがえば︑社会全体の規模での経済
行中の計画の︑計画と現実とのずれをつねに明確にし︑必要
画は絶えず再検討され修正される出発点でしかないから︶遂
になる︒計画が決まってからの︽計画の工場︾の任務は︑︵計
はその提示にしたがって改めて計画を検討する︑ということ
か︑それを︽計画の工場︾は計算して提示する︒各︽下部︾
出される︒その計画を実施したとすればどんな結果になるの
計画についてはまず︑各︽下部︾からさまざまな提案が提
いし一地域での関係者たち自身による管理が可能だとして
なら計画の部分的な変更の必要性を関係機関に知らせること
央︾に流れる︒
も︑中央の水準における︑関係者全員による経済過程の意識
ついての計画は︑︽下部︾から積みあげ︑︽中央︾で調整し︑︽下
こうして︽計画の工場︾を媒介にして︑社会全体の経済に
にある︒
的な管理が果たしてできるのか︒
それが実現しうる一つの条件は︑﹁生産者たちと彼らの共
同機関が︑決定的な諸問題について︑事情をよく承知した上
で意見を持ちうるように︑管理の諸業務が著しく単純化され
68
準︑投資と公共的消費にあてるべき資源︑各企業が果たすべ
な決定において定められるのは︑ 労働時間と当面の消費水
部︾で改めて検討して決定する︑ということになる︒基本的
れれば︑価格は正常になる︒そのように市場を通すことで︑
もとづいた正常な価格よりも上昇する︒その消費財が増産さ
される︒供給が下廻れば︑その消費財の価格は︑労働価値に
なろう︒個々の消費財は当初︑需要の予測にもとづいて生産
需要と供給は均衡化されるだろう︑とカストリアディスは考
き任務だろう︒
来たるべき一定期間における生産の諸目標と︑それらが伴
におけるとりまとめ︑実現しえない提案の除去︑実現しうる
論と各評議会における検討︑それらの提案の︽計画の工場︾
全体に関係する諸決定は︑そこで暮らす男と女の全員によっ
どのように管理されるのか︒ここでの原則はもちろん﹁社会
それでは︑これまで見てきた経済以外のもの︑社会全体は
える︒
諸提案の具体的な諸結果の提示︑それらの提案の各評議会と
て﹂でなくてはならないし︑そのためには国民のすべてが組
なうものについての諸提案をめぐる︑各企業の総会による討
各総会における討論︑各企業の総会における多数決︑という
カストリアディスの構想では︑企業ごとの労働者評議会︑
組織は︑経済の場におけるように労働者評議会である︒
織されていなくてはならない︒その国民を組織する基礎的な
こうして関係者たちは︑ 社会全体の経済のあり方と同時
形で︑計画は決定されることになろう︒
に︑その中での自分たちの企業が果たすべき仕事について︑
費財のリストと量を決めるのは市場の機能であろう︑とカス
しかし計画化しうるものは大枠でしかなく︑生産すべき消
れは︑全国の評議会全体の連合である中央権力︑評議会の中
おいてそれは︑地域的な自治行政を担当し︑他方においてそ
く︑同時にあらゆる面での自治行政の機関でもある︒一方に
あるいはその連合は︑ 単に生産の管理のための組織ではな
トリアディスは想定する︒誰かが︑何々をいくら作るべきで
央議会と︑その中央議会が設ける政府へつながってゆく︑結
当事者として決定に参加することになる︒
あると決め︑できあがったものを割りあてる︑などというの
び目ともなる︒
しかし︑すべての人びとを評議会のうちに組織することが
はバカげたことだ︑と彼はいう︒消費財生産を具体的に決定
させるものは︑消費者たちの至上権を保証する市場でなくて
まい︒そこでは︑そこに働く人びとが評議会を結成するだろ
できるのか︒産業に属する大きな企業の場合は︑問題はある
所得の平等が実現されるなら︑特権的な消費に重みがかか
う︒では︑あまり大きくない企業の労働者たちはどうするの
はならない︒
ることなく︑市場は消費者の需要をそのまま反映することと
69
う︒農民たちはどうするのか︒彼らは自分たちの評議会であ
か協同組合を組織し︑それは評議会と同じ役割を果たすだろ
の人びとはどうするのか︒彼らは職業的にか地域的にか協会
を作るだろう︒小商業︑個人的サービス︑家内工業︑自由業
か︒彼らは地域的にか産業的にか再結集して︑彼らの評議会
働く人びとによって自治的に管理されるものに変えれば︑そ
社会保障といったものはすでに産業化されているし︑そこで
業務は産業化することができる︒土木︑運輸通信︑保健衛生︑
なっているし︑そのうちの多くの部門︑公共行政や専門的な
るものは産業化される︒ 現代の国家はいわば巨大な企業と
の管理業務は︑経済の管理における︽計画の工場︾の場合の
れですむだろう︒財政︑外国貿易︑農業︑工業などについて
ように︑それぞれを︑やはりそこで働く人びとによって管理
る農村コミューンを組織するだろう︒
そのようにして社会管理のための基礎的な組織が成立す
すると︑国家の機能として残る主なものは︑権力ないし強
る︒しかし︑企業の評議会がどうしてそのまま地域的な自治
制の物質的な基礎であるもの︑つまり軍隊と司法と︑もう一
されるサービス企業として︑産業化することができよう︒
でいて︑企業の従業員であると共に住民である場合はよいと
つは︑全体的な展望︑社会的諸活動の調整と方向づけに関す
行政の機関でありうるのか︒労働者たちが企業の周辺に住ん
その際には︑ 地域のさまざまな企業と住民たちを代表す
る仕事︑ということになる︒そのうちまず︑軍隊と司法はど
して︑そうでない時︑そこにずれがある時はどうするのか︒
る︑地域的な評議会が結成されるだろう︒その評議会が自治
うなるのか︒
ば︑﹁国家の最終的な機能は︑暴力の合法的な独占によって
現行の国家は解体されなくてはならない︒ なぜかといえ
しかし国の水準においてはどうなるのか︒
大な軍備は︑考えられない︒﹁社会主義のための原子爆弾は
れる︒しかし社会主義社会にとっては帝国主義国のような巨
単位のほかに︑地方的な︑また中央での︑軍事組織も考えら
ごとの軍の基礎単位を形成することとなろう︒そういう基礎
体される︒各企業と各コミューンの労働者たちが︑管轄地域
古い国家機構の支柱である常備軍は︑当然のことながら解
行政の機関となるだろう︒その評議会は︑地区︑地方という
ふうに︑さまざまなレベルで連合し︑社会的な諸活動を調整
既存の社会的諸関係の維持を保証すること﹂︑つまり抑圧と搾
ない﹂︒戦争の手段は︑新たな立場から再検討され︑転換さ
する協同の網を拡大してゆくだろう︒
取のためのさまざまな関係の維持を保証すること︑にあるか
れなくてはならない︒各評議会はまた︑それぞれの地域での
警察の責任をも負うことになるだろう︒ 軍務や警察の仕事
らである︒しかし︑どう解体されるのか︒
まず現行の国家が果たしている業務の中で︑産業化されう
70
ての︑第一審の法廷となろう︒地方あるいは中央機関への控
各評議会はまた︑その管轄下で行なわれた違反行為につい
ていないからであり︑それらは解任しうるし︑最終的には諸
きない︒というのも両者とも︑﹁固有のいかなる権力も持っ
この政府も︑また中央議会も︑勝手な真似をすることはで
すること︑からなるだろう︒
訴権は︑もちろん保証されよう︒裁判は行なわれる︒しかし
企業の労働者たちが武装しているからである﹂︒中央の機関
は︑労働者たちが交替して勤めるものになろう︒
刑罰という観念そのものは︑バカげたものになるだろう︒判
は︑まさしく調整のためのものでしかない︒
なるのだろうか︒社会主義社会の当初︑つまり資本主義社会
ところで︑こうした社会体制の中で︑諸政党の存在はどう
決は︑違反者の再教育と社会環境への再統合のみを︑目指す
ものとなろう︒監獄に代わって︑本質的に教育的︑医療的︑
精神科的な機構が設置されよう︒
から相続したもの︑まちまちな利害やそれに呼応するイデオ
しかし︑政党は︑本来は消滅してゆくものでなくてはなら
それでは︑ 社会的諸活動全体の調整と方向づけは︑ 何に
ない︒政党の存在と︑国民の直接的な参加にもとづく評議会
ロギーが存続している限り︑政党が存在する可能性は残され
いつでも解任できる代表たち︑一万人か二万人の労働者ごと
の存在とは︑矛盾するからである︒政党の活動が盛んになれ
よって担われるのか︒それにあたるのは︑各評議会の全国的
に一人の代表たちによって︑形成されることになろう︒代表
ば︑それは政治活動の一部が評議会の外で行なわれることを
るだろうし︑諸政党は︑搾取制度の復活をはかるものではな
たちは生産の現場を離れることはなかろう︒彼らは︑たとえ
いと認められれば︑活動が許されよう︒
ば週に二日か︑月に一週間の︑会期中にのみ参集することだ
意味し︑評議会はすでに外部で決定されたことによって動か
な連合である︑中央議会である︒中央議会は︑基礎の諸機関
ろう︒彼らは定期的に︵たとえば月に一度ずつ︶︑選出母体
されるようになり︑その存在は形骸化されることになる︒
代表たち︑それらの機関の総会によって直接に選出された︑
に対して︑彼らに委任された仕事について報告しなければな
成することになろう︒この政府は︑数十人の常任制となろう︒
代表たちは政府を︑彼らの間から任命するか︑交替制で形
一政党による権力の保持には︵独裁にはなおさら︶敵対する
制度は消滅に向かう︒したがって評議会の体制は︑本質的に
身による彼らに関係する事業についての決定の制度︑自治の
政党が有力になれば︑評議会の制度︑つまり関係者たち自
政府の任務は︑議会の仕事の準備をすること︑議会の閉会中
ものである︒したがって︑社会主義の発展は︑諸政党の段階
らないだろう︒
は議会に代わって行動すること︑必要なら臨時に議会を招集
71
的な萎縮によってのみ特徴づけられることになる︒
ヽヽヽヽヽ
礎についての疑問を提起することが実際に社会的に可能であ
る︑大衆の自律を原則とする社会のあり方である︒そのおよ
なければ︑その履行はない︑法の制定への平等な参加がなけ
﹁自律社会における自由は︑決定の採択への平等な参加が
る︱︱社会である﹂︒
その骨組を紹介したわけだが︑しかしそこにはまだ︑もう一
れば法はない︑ という二つの基本的な法によって表明され
以上のようなもの︑それこそがカストリアディスの構想す
つ肝心な問題が残っている︒彼が構想するような社会は︑単
る︒自律的な集団は︑われわれれはわれわれ自身の法をわれ
うにさせるもの﹂でしかない︒大衆自身の自律の実現は︑人
﹃ル・モンド﹄紙が報じた
付録
して自 己 定 義としている﹂︒
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
に制度が準備されても︑それだけでは成立も機能もしない︑
われに与えることを法としている人間たちである︑を標語と
新しい制度は︑それが活かされるのに必要なことを人びと
ということである︒
ヽヽ
がすることによってのみ︑成立もするし機能もする︒この制
びとの自律的行動にかかわっているし︑﹁目的と手段につい
﹁カストリアディスとユートピアの精神﹂
度は︑﹁国民が望みさえすれば︑彼らに権力を行使できるよ
ての意義や必要な連帯と決意を自分自身の中に見出すべき﹂︑
の世を去った︒それから三年余りがたつ︒彼のあの自律社会
残念ながらカストリアディスは︑一九九七年十二月末にこ
彼らの能力にかかわっている︒
つまり新しい社会は︑与えられるものではなく︑創りだす
か︒この三年間を振り返ってみると︑彼の声価は改めて高ま
ものであり︑ある体制が実現したらそれですむ︑というもの
りつつあり︑自律社会への関心も同様である︑と思われる︒
の構想は︑ 今どのように社会に受けとられているのだろう
したがってカストリアディスは︑一九七九年の﹁社会主義
ただそれは︑まだ大衆的な運動の中でではなく︑さしあたっ
でもない︒
と自律社会﹂の中で︑自律社会のあり方について次のような
て出版界︑学界においてである︒
定義を下している︒
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
﹁正しい社会とは︑正しい法を決定的に採用した社会では
出版からあげるとすると︑パリにある大学院大学である社
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ない︒正しい社会とは︑そこで正義の問題が絶えず開かれた
会科学高等研究院での︑一九八〇年から一九九五年に及ぶ︑
ヽヽヽヽヽ
ままである︱︱いいかえれば︑そこで法についての︑法の基
72
いう総タイトルの下での一連の刊行が予定されている︒
て﹄︵一九九九年︑スーユ社︶を皮切りに︑﹃人間の創造﹄と
をもとに編集されたもので︑﹃プラトンの︽政治家︾につい
彼の講義録の刊行がはじまった︒学生たちがとっていた録音
わたる︑ ニューヨークのコロンビア大学フランス館でのも
大学主催のもの︒ついで十二月一日から三日までの三日間に
での︑九月二十六日から三十日までの三日間に及ぶ︑クレタ
ついてのシンポジウムが相次いだ︒まずギリシャのクレタ島
りあげた︑入門書としては好適なものである︒ダヴィッドが
意的に紹介したこの書物は︑彼の思想を簡潔かつ組織的にと
構想﹄︵ミシャン社︶の出版がある︒﹃リベラシオン﹄紙が好
ダヴィッドの﹃コルネリュウス・カストリアディス︑自律の
﹁カストリアディスとユートピアの精神﹂と題する報告をの
いては︑﹃ル・モンド﹄紙︵二〇〇〇年十二月十二日号︶が︑
を集めた︑盛大な討論の場となった︒このシンポジウムにつ
ア︑アルゼンチンの︑二十六の大学ないし研究機関の研究者
のぞくと︑アメリカ︑フランス︑ドイツ︑イギリス︑イタリ
特にこの後者は︑何人かの著作家︑精神分析家︑編集者を
の︒
三十九歳という若手の研究者であることは︑カストリアディ
せているので︑今日カストリアディスの思想とその自律社会
二〇〇一年に入ってすぐ注目されるものに︑ジェラール・
スを継承しようとする新しい世代が育ちつつある事実を示し
九五〇年代から鋭く批判しつづけていたこと︑ソ連やスター
であるジャン=ポール・サルトルを︑カストリアディスが一
ロンビア大学︵ニューヨーク︶のフランス館が︑一九九七年
ルナンド・ウリドリによって計画され︑この十二月初めにコ
聴衆︒ステファン・バーク︑アンドレアス・カリヴァス︑フェ
﹁十の分科会︑五十人の発言者︑討論の三日間︑三百人の
のとして︑全文をここに訳出しておきたい︒
の構想がどのように迎えられているのか︑その一端を示すも
ているのかもしれない︒
驚かされるのは︑﹃レ・タン・モデルヌ﹄誌二〇〇〇年六・
七・八月号が︑百十頁余をさいて﹁なぜカストリアディスを
リン︵ついで毛沢東︶の擁護者としてほとんど罵倒︑嘲弄し
十二月二十六日の彼の死から三年をへて︑コルネリュウス・
読むか﹂という特集を組んだことである︒この雑誌の創刊者
ていたことを思えば︑時代の流れの変化に感慨を覚えざるを
あった︒カストリアディスの大著﹃想念が社会を創る﹄は︑
に表明することのできた︑ おそらくもっとも美しい敬意で
カストリアディスに捧げたシンポジウムは︑人がこの哲学者
えない︒
一方︑マドリードの政治・文芸誌﹃アルチピェラゴ︵列島︶﹄
も︑現在カストリアディスの特集を準備中であると聞く︒
学界についていえば︑二〇〇〇年にはカストリアディスに
73
在に恵まれて︑彼の思想は単に﹁急進的な﹂知識人たちのみ
デーヴィッド・エイムズ・カーチスというすぐれた訳者の存
主義﹂の一変種と見られている︒それに反してアメリカでは︑
トリアディスの思想は︑まだしばしば流行遅れの﹁左翼急進
に解散した﹁社会主義か野蛮か﹂運動の創立者である︶カス
ランスでは︑︵クロード・ルフォールとともに︑一九六七年
カを経由してのことだった︒それに驚くには当たるまい︒フ
偉大な著作がその真価を認められたのは︑またしてもアメリ
二十年前にスーユ社から刊行された︒したがってフランスの
明白だったのである︒彼は︑ディック・ハワードがのべたよ
﹁マルクス主義﹂と﹁革命﹂とがもはや両立しえないことが
ることを︑さまたげるものではなかった︒ただ彼にとっては︑
リアディスが﹁革命家﹂を︑さらには﹁社会主義者﹂を名乗
わりから概略を示しはじめた︶分析は︑しかしながらカスト
ルジョアジーの地位を占めている︒この︵一九四〇年代の終
か生まなかったからであり︑そこでは官僚階級がかつてのブ
所で︑革命は失敗した︒なぜなら︑革命が国家資本主義をし
はない︒さらに悪いことがある︒革命が起きたまさにその場
からである︒したがって革命は︑いささかも不可避のもので
びうるであろう傾向の︑典型的な代表者なのである︵﹁左翼
ならず︑もっと広い形で多くの社会科学研究者の関心を集め
隅から隅まで政治的な︑彼の思想の重要性は︑第一に明晰
の左翼﹂という表現がフランスで︑まだマルクス化している
うに︑﹁反全体主義的な﹂左翼と︵﹁左翼の左翼﹂とさえ︶呼
さと結びついていることである︒その明晰さをもって彼の思
一派︑ブールデューの弟子一派を連想させないとすれば︑だ
ているのである︒
想は︑マルクス主義を拒絶している︵アグネス・ヘラー︶︒討
が︶
︒
革命が生ずるのはプロレタリアートの存在によってである︒
い﹂ものになる︒資本主義は革命によって廃止されるだろう︒
している︒資本主義の核心にある矛盾はついに﹁手に負えな
矛盾せざるをえない︒そこからマルクスの三つの確信が由来
が︑与えられた生産様式の中で不変の︑生産諸関係の構造と
であり︑それによって官僚階級を排除するとともに︑社会生
に必要なのは︑生産の組織が生産者自身にゆだねられる体制
柄があるのを︑確認することである︒具体的には︑われわれ
うまくいかないし︑改善もなしえない︑あまりにも多くの事
その世界を支えている主要な﹁柱﹂の根底的な転換なしには︑
なのだろう︒答えは︑われわれが生きているこの世界の中で︑
では︑いま︑ここで﹁革命家﹂であるとは︑どういうこと
論を要約してみよう︒マルクスにとっては︑││それ自身が
幻想の確信だ︑とカストリアディスは指摘する︒というのも︑
活の他のあらゆる領域にただちに影響を及ぼす︑大変革であ
技術の無限の進歩によってもたらされる││生産力の発展
マルクスの死後も︑資本主義は発展することを止めなかった
74
もない︒それはむしろ﹁自由の深淵への徹底した潜航﹂︵エ
ント的な意味での︶普遍法の理性による発見とも︑何の関係
ピュイが強調するように││︵実現しえない︶自足とも︑︵カ
律は︑││フランシスコ・ヴァルラ︑ジャン=ピエール・デュ
定義するのがむつかしい観念︑カストリアディスによる自
考えることはできないであろう︒無意識はその中でのあらゆ
を考慮することをおろそかにしたとすれば︑自律を具体的に
ではなく意味作用を発明する力として定義した︑あの実在物
ストリアディスが﹁根源的想念﹂と名づけ︑彼が心象として
ていた関心を強調したのは︑偶然のことではない︒事実︑カ
生涯の第二の時期に職業的に実践していた︶精神分析に抱い
断固としたフロイト派であったカストリアディスが︑︵その
準でも││生じた時に︑である︒アンドレ・グリーンからピー
ドガール・モラン︶である︒譲歩することのない無神論者︑
る実現の一つでしかない︵ウリバリ︶︑根源的想念は︑結局︑
る︒その意味で問題なのは︑経済的自己管理へのアッピール
アテネ型直接民主制の熱心な賛美者︵セイラ・ベンハビブ︶
社会的ないし歴史的な創造の中で働く人間の力以外の何もの
ター・デュウズにいたる︑エルネスト・ラクロやフェルナン
であるカストリアディスは︑世界でただ一人のものとしてあ
であり︑この自己管理はそれ自身︑より大きな個人的自律の
る人びとにとって︑自分たちの全的な開花への深い必要に応
でもない︒ したがって根源的想念によって︑ 根源的想念に
ド・ウリバリを含む︑多数の発言者が︑反ラカン主義者だが
えるよう世界をととのえること以上に︑最善のものは何一つ
よってのみ︑われわれは何ものかを﹁革命﹂として期待する
要求に役立つものである︒
ないと信じている︒よいにせよわるいにせよ︑何らかの社会
ことができるのである︒
自己発見の︑﹁自己創出﹂の︑産物以外のものではない︒した
物︶よりもアリストテレスのもの︵政治的動物︶を好んだと
彼が人間についての定義として︑マルクスのもの︵経済的動
である︒カストリアディスはほとんど幻想を抱かなかった︒
残されているのは︑革命がなおも可能であるかを知ること
は︑カストリアディスにとって︑いかなる必然的な﹁法則﹂
がってユートピア︵わが哲学者が使うのを避けた用語︶を人
しても︑歴史の中で人間が十全にその﹁政治性﹂を発揮する
︵特に経済の法則と称するもの︶にも従っていない︑共同の
工的に望む必要はない︒われわれが︑われわれの行動の一つ
ヽ ヽ ヽ
ヽヽヽヽ
一つによって共同の自己発見に生命を与える︑と考えれば足
時期がまれであることを︑彼はよく知っていたのである︵ロ
ヽヽヽヽヽ
りるのである︒その生命は︑われわれの行動がより意識的に
ベール・ルドケール︶︒にもかかわらず彼は︑創造性の哲学
ヽ
なりさえすれば︑それだけでますます充実したものになる︒
者︑絶対的な新しさの思想家︵ハンス・ヨーアス︶である彼
︵1︶
﹁私﹂が﹁それ﹂があった場所に││社会の水準でも個人の水
75
とんどすべてが︑可能なものとして開かれている︑と力説し
は︑経済的︑政治的な組織についてはすべてが︑あるいはほ
それですむ︑という思想ではないからである︒
想は︑大学で研究され︑解釈され︑講義され︑賛美されれば
し必ずしも喜んでばかりはいられない気持ちもする︒彼の思
︵2︶
むしろ︑単に研究や解釈の対象︑賛美の対象に終わるなら
ている︒このユートピアの精神へのアッピール以上に今日︑
人びとを強壮にするものは何一つない︒
ば︑カストリアディスの思想は死ぬ︒彼の思想は︑真理を語
人にとっては︑どんな点に着眼して彼を読んだらいいのか︑
を限られた紙面に手際よくまとめている︒彼の著作に未知な
この﹃ル・モンド﹄紙の論評は︑カストリアディスの思想
である時︑私もまたより自由になる︑と告げている思想であ
いる思想である︒さらにいえば︑あなた方一人一人が自律的
かしらの自発的な行動に移ってゆく︑そのことをうながして
一人が︑現在に疑問を持ち︑自分で考え︑自分で発見し︑何
自律的であることをうながしている思想である︒人びと一人
クリスチャン・ドラカンパーニュ﹂
手引きにもなっている︒しかし彼の思想にこれまで親しんで
る︒その意味で彼の思想は︑カストリアディスの名がもはや
り︑その信奉者を求めているのではない︒人びと一人一人が
きたものにとっては︑伝えられたシンポジウムの内容は︑特
したがって︑大学ではなく人びとの日々の暮らしの場︑社
に目新しいものではない︒むしろ四十年前︑三十年前の彼の
会的な運動の場にこそ︑カストリアディスの思想はふさわし
記憶から消えた時︑人びと一人一人が自分になろうとするそ
とはいえ︑肩すかしをされたと感ずるよりも︑ある傑出し
仕事を確認し評価しているだけなので︑何を今更という思い
た思想が社会に定着してゆく長い歳月を要する過程の現場
い︒そう考えれば︑彼の死後三か年に見られる出版界︑学界
の時︑はじめて生きたものになる︒
に︑いま立ち会っているのだと受けとるべきなのであろう︒
での評価の高まりは︑彼の思想が人びとの間で血肉化してゆ
もする︒
ニューヨークのシンポジウムに二十六の大学ないし研究機関
く︑長い長い過程の︑はじまりのはじまりにすぎない︒
を︑超自我︑自我︑エスの三つに分けた︒前二者は無意識的
︵1︶フロイトの用語︒ドイツ語ではエス︒フロイトは心的過程
の研究者が集まったということは︑少なくともそれだけの数
の学術の場で︑カストリアディスの研究が始まっていること
を意味するし︑彼の著作が古典になりかけていることを意味
する︒これは︑カストリアディスの思想に共感を持ってきた
われわれにとって︑歓迎すべきことであるに違いない︒しか
76
なものでもあるが︑意識的なものでもありうるもの︒それに
対しエスは全く無意識的な領域で︑フロイトは﹁エスは混沌﹂
で﹁自我の対立物である﹂といっている︵﹃精神分析入門︑下﹄
新潮文庫︑第三十一講﹁心的人格の分析﹂参照︶︒
︵2︶カストリアディス自身︑﹁思想家への敬意は︑彼の仕事を
称賛すること︑解釈することによっては表明されない︒そう
ではなく︑それを問題視し︑そうすることで生きたものとし
てとどめ︑それが時間に耐え︑妥当性を持ちつづけているこ
とを︑行為の中で証明することによってである﹂と書いてい
る︵﹃人間の領域﹄法政大学出版局︑二三二頁参照︶︒
ジェラール・ダヴィッド著
﹃コルネリュウス・カストリアディス﹄
先にふれたダヴィッドの新著の目次を︑参考までにここに
あげておくことにする︒カストリアディスの思想の全体像が
概観できるし︑さらにまた︑われわれが自律的な社会を作り
だしてゆく上での課題を明示してもいるからである︒
序文
カストリアディスの哲学的企図︑人間の創造を考える
こと︒自律の構想と徹底した民主主義の要求︒
Ⅰ
Ⅱ
﹁社会主義か野蛮か﹂と自律についての考察の前提
スターリン主義批判から﹁官僚制的資本主義﹂の理論へ
義の批判と官僚制的資本主義の分析︒現代資本主義︒
﹁社会主義か野蛮か﹂︑その状況と企図︒スターリン主
マルクス主義批判
マルクス経済理論の批判︒マルクス主義の歴史的・
政治的批判︒ マルクス主義の哲学的批判︒マルクス
主義との決別︑その意味と含み︒
継承され再点検された革命の要求
官僚制に対抗する労働者管理 ︒社会主義の内容︒革命
運動の転換のために︒革命の構想を考え直すこと ︒
自律︑ 社会転換構想の新しい見方
社会の明白で絶え間ない自己=創出︑革命構想の新しい
目標
制度化された他律に対抗し︑社会と社会自身との新し
い関係を樹立すること︒哲学的背景 ︑
﹁想念が社会を
創る﹂ことの考察 ︒自己=疎外に対する明白な自己=
創出 ︒
自律の思想︒実践︑自律的で創造的な活動︒社会の既
自律︑ 実践︑政治
存の制度を明白に問い直す政治︒
﹁自律社会﹂の構想
自律社会 ︑存在論的創造と政治的構想︒自律社会存在
77
Ⅲ
の諸条件︒自律社会と革命︒
転換︑錯綜とした過程︒
自律の構想の正当化
自律の構想の社会 ・歴史的な実効性︒自律の構想の
社会︑ 個人︑パイデイア︑人類学的変化の過程
﹁理論的有効性﹂︒自律の構想の普遍性︒
どんな民主主義か?
自律の構想︒現代諸社会の批判︒
現代の官僚制的資本主義︒社会と文化の危機︒かげる
現代の諸社会
無限の発展︒近代西欧の政治的特殊性︒
現代という文脈の背景︑近代性︒自律対合理的制覇の
西欧の近代性
民主主義的な自律︑今日のための政治的構想
社会︑ 個人︑文化の循環関係︒ 自律的な主体︒自律
Ⅳ
の社会化とパイデイアの役割︒自律に向かっての社会
の転換︑人類学的変化︒
自律の構想︑ 真の民主主義への運動
伝統と遺産︒ギリシャの﹁芽﹂︑民主主義の創造︒自
自律の構想︑ 連続する社会 ・歴史的創造
律と民主主義の要求の社会・歴史的な継続︒
自律社会の基本的な諸価値と諸原則
う思想の規範的帰結︒
軸になる諸価値︑自由︑平等︑正義 ︒共同の自律とい
自律の構想︑ 現実への視点とわれわれにとっての目
標︒民主主義の構想︑自律の構想の政治的形態︒個人
自律社会の具体的構造化と運営
共同管理の思想の社会・政治的な結果︑労働者評議会
と共同の自律に向けての参加型民主主義︒
民主主義的自律の今日︑われわれにとっての挑戦
の制度︒社会・政治的な諸領域の連結と公/公的領域
を真に公的なものにする要求︒
自律への諸傾向と﹁実践の循環﹂︒自律的・民主的な
動員の必要と諸条件︒経済優位の否定と階級制への徹
自律社会︑ 真の民主主義
自律社会と真の民主主義の同一性︒制度としての民主
底した批判︒民主的よみがえりのために︒
ダヴィッドの本の構成について︑蛇足を少し︒Ⅰ章は︑カ
エピローグ
主義︒民主主義︑悲劇的な制度︒民主主義︑熟考性︑
創造性 ︒
政治︑自律に向けての個人と共同の行動︒パイデイア
ストリアディスの一九四〇年代末から六〇年代半ばまでの作
真の民主主義樹立の諸条件
と民主主義の人類学的基体︒社会の徹底した民主的な
78
作業が自律の思想にいかに新しさを与えたのか︑がⅡ章の主
来て︑根源的想念にもとづく哲学が構築される︒その哲学的
だしたギリシャ・西欧思想史総体を再点検する沈黙の十年が
像を提示するまでを扱っている︒ついでマルクス主義を生み
業︑ソ連社会分析からマルクス主義批判を深め︑新しい革命
の基盤の中に見出される︒すなわち︑社会の多様な危機︑多
由︑その必要性︑その正当化は︑彼が生み出せなかった現実
解釈に明確にもとづいた︑構想なのである︒ただその存在理
は何のかかわりもない︒それは︑政治的選択を表明するある
思想においても現実においても︑地上のエデンの園の建設と
進する自律については︑いささかも同じではない︒それは︑
その現実と無関係だという事情は︑カストリアディスが推
ヽヽ
題︒つづく二章は自律社会を目指す実践をめぐり︑Ⅲ章では
数の個人ないし社会的グループによる体制への明白な︑ある
ヽヽ
原理的に︑Ⅳ章においては現代の状況を前にして︑語ってい
に︑である︒⁝⁝ ﹂︒
いは暗々裡の異議申し立て︑自律に向かう実際の諸傾向の中
ヽ
る︒
エピローグでは︑﹁自律の構想﹂は長年にわたる社会運動
の伝統を継承したもので︑決して非現実的なものではない︑
さらに著者は︑自律の構想が直面するさまざまな困難につ
﹁社会の徹底した民主的転換を目指す包括的な政治構想とし
カストリアディスの言葉を引いている︒その上でわれわれの
しい形態の創造に助けられねばならないであろう﹂という︑
いて語りながら︑﹁民主的な運動の再生は︑政治的組織の新
ての︑自律の構想が今日︑⁝⁝圧倒的な関心の的になってい
任務として︑﹁問題の再生の諸条件を明らかにすること︑そ
と次のように強調している︒
ると見るのは︑無邪気にすぎよう︒しかしそれでは︑あの構
れなしには自律の構想も真の民主主義も単に言葉でしかな
い︑個人と共同の実践に実体を与えること﹂︑をあげている︒
ヽヽ
想は非現実的なのだろうか︒
われわれがその相続人である一連の創造││解放を求め支
配に反対した社会的・政治的闘争の長い豊かな伝統によって
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
もたらされた︑自由・自省・自己統治の構想││の中に加え
られるあの徹底して民主的な構想は︑ユートピアではない︒
それは︑否定しえない将来への役割を含んでいる︒それに対
し厳密な意味でのユートピアは︑全く別のものである︒それ
は時空の外にあり︑
既存の諸現実と何の関係もない︒
⁝⁝⁝
79
産業の民主主義について
同時に反体制活動家としても知られている︒ 以下の文章
チョムスキーはアメリカの国際的に高名な言語学者︑
同所有の思想が︑労働者たちの精神の間に定着しはじめてい
自由な協同をもたらす﹂︒パネクークはまた﹁生産手段の共
運動の目的そのものであるもの︑﹁すべての人びとの間での
ノアム・チョムスキー
は︑一九七七年五月十五日に﹁産業民主主義﹂の表題で書
る﹂と︑書いている︒
除いて正しいことが示された︒ロシアの暴政が︑何度となく
産業社会についてのパネクークのこの考察は︑アメリカを
かれ︑﹃セヴン・デイズ﹄一九七七年六月二十日号に︑﹁労
働者評議会﹂の表題で発表された︒
の管理を行なわねばならない︒資本主義は︑近代産業技術と
労働者たち自身が︑生産手段の︑計画化の︑分配の︑すべて
支配されている体制︑﹁公有と混同されてはならない﹂︒逆に
同所有は﹂︑そこで労働者たちが生産を管理する役人たちに
自身の意志にしたがって労働を導かねばならない﹂︒この﹁共
人︑彼ら自身の労働の主人にならなければならないし︑彼ら
てであった︒労働者たちは︑と彼は書いている︒﹁工場の主
働者評議会﹄を書いたのは︑ナチス占領下のオランダにおい
古典的な研究︑労働運動の経験と思想の長い歳月の精華︑﹃労
多国籍企業が︑﹁出現しかねない労働者管理に比べれば共同
ようと努めている﹂︒シクはヨーロッパにおけるアメリカの
維持することによって︑﹁平等と監視に向かう圧力を緩和し
て見られている﹂混合経済での﹁指導における強力な特権を﹂
は︑﹁アメリカの企業家たちの多くによってまだ嫌悪をもっ
スウェーデンの資本家たちの恐怖について書いている︒彼ら
﹃ニューヨーク・タイムズ﹄紙︵一九七六年四月七日号︶で︑
にとって多くの不安の種となっている︒レオナード・シクは
を実現するための闘争はつづいており︑それが国際資本主義
え何一つない︒しかしその思想はつねに生きているし︑それ
ん︑真の産業民主主義に近づいているものは︑遠くからでさ
東欧のあの渇望を粉砕したにもかかわらず︑である︒もちろ
私的所有という古風な社会原則を組み合わせた︑﹁過渡的な
オランダのマルクス主義者アントン・パネクークが︑彼の
形態﹂である︒共同所有と結合した進んだ産業技術が︑労働
80
同様に﹃エコノミスト﹄誌︵一九七七年二月十九日号︶は︑
式を提案している︒すなわち︑労働者と株主の同数の代表︵2
たこのレポートは︑経営管理における﹁2X+Y﹂という方
している︒委員会での産業代表たちによって激しく攻撃され
人びとのあらゆる生活に不可避的に影響を及ぼしてゆく過程
︵﹁デンマークやスウェーデンの組合による脅迫的で過激な計
X︶と調停者グループ︵Y︶である︒運輸労働組合のジャッ
管理はまだ天国であると︑考えるにいたることもまたありう
画には少しも﹂見られない︶オランダにおける組合の提案を
ク・ジョーンズは︑﹁普通選挙を成年男女それぞれに拡げる
であり︑職場もまた例外ではありえないこと﹂を︑明らかに
論じて︑﹁諸組合はもはや︵彼らがすでにえている︶より大
にはほとんど百年を待たねばならなかった︒われわれは産業
る﹂と︑強調している︒
きな分け前を追い求めてはいない︒体制を選択する可能性︑
大いにありそうもないことだが︑もしバロックの勧告が実
同時に体制を作りだす可能性を求めている﹂と︑指摘してい
現したとしても︑あの勧告は﹁産業の解放﹂という自由社会
の解放のために百年を待つという贅沢を︑自分に許すことは
主義が主張する共同所有にはほど遠いものであろう︒勧告は
る︒したがって多国籍企業は﹁オランダでのあらゆる投資の
さて︑国際資本主義経済とその地域的な部門を保持し指導
あの攻撃に対して旧秩序を守るための有力な手段なのだが︒
むしろ経営参加の穏健な一形態であろう︒それにもかかわら
できない﹂と︑書いている︒
している人びとの悪夢を︑あまりに真面目に受けとる必要は
ずあの提案は︑ヨーロッパの労働者たちがすでに手にしたも
提案に懐疑的な目を向けている﹂︒実際には︑資本の侵略は
ない︒職場への民主主義の拡張はこれまで限られているし︑
のよりは︑ずっと進んでいる︒だからこそ︑きわめて中央集
レポートが疑問視され拒否されるのでなければ︑イギリスの
﹁過渡期の﹂秩序の伝統的・専制的な機構を守ろうとしてい
諸企業グループの性格は決定的に変わるだろう﹂と︑警告を
る勢力は︑国家管理を支えている人びとの勢力同様に︑依然
この点でイギリスは興味ある事例となっている︒一九七七
権化したイギリス産業の諸グループの代表たちが︑激しく反
年一月︑オックスフォード大学の歴史家アラン・バロックが
発した︒多国籍企業の︑特にアメリカ企業の︑百にものぼる
として強力である︒しかしながら︑産業民主主義に向かう圧
主宰する︑政府のある委員会が︑もっとも大きな諸企業での
子会社もまた影響を受けるであろう︒しかしあの提案が葬り
対したのである︒イギリス産業経営者連盟の会長は︑﹁この
労働者の経営参加を提案する︑レポートを提出した︒このレ
去られたとしても︑提案はある程度の国営企業には適用され
力を無視することもできない︒
ポートは︑﹁われわれの社会における民主主義時代の到来は︑
81
るであろう︒提案はすでににイギリスにおいて激しい論争を
的見地から見て︑計画は成功だとあなた方は考えるはずだ﹂︑
が語る﹁労働者の生活についての人間的な見地︑成果の経済
はない︒その主なものは﹁経営スタッフのある部分の人びと
巻き起こしているし︑金融界のすべてで不安の種となってい
労働者の革命は︑とパネクークは書いている︒﹁限られた
が︑自分たちの立場がおびやかされていると感ずる﹂ことで
という言葉を紹介している︒しかしながら問題がないわけで
期間の単一の出来事ではない︒それは組織化と自己教育の過
あり︑というのも労働者たちがあまりにも見事に﹁彼ら自身
る︒
程であり︑それをへて労働者たちは少しずつ⁝彼らの共同生
資本主義の・またその国家的な変種の・権威主義的な体制に︑
圧力は︑それがなお限られたものであるにしても︑階級制に︑
は︑興味のないものではない︒職場から出発しての参加への
るのである︒なおかつ︑労働者管理の経験は︑労働者の社会
れが親方たちの場を残していない﹂と︑一世紀前に嘆いてい
は明らかに成功だった︒しかしあるイギリスの雑誌は︑﹁そ
ることのない異議の的となった︒その過程は︑経済的な面で
そのことが︑産業革命の初期以来︑民主的な過程への絶え
の事業を管理するのに﹂成功してしまうからである︒
技術的にも道徳的にも︑正当化がありえないことの理解をも
で働いている人びとに︑彼らは規則にしたがって働かされる
十九世紀における普通選挙の拡大をもとにした比較の利用
産の新しい方式を建設する⁝力を⁝見出すことになろう﹂︒
たらしうるものである︒
いる﹂アメリカの現実から︑遠いものとして見えるにしても︑
もの批判が強調したように︑あの種の提案は﹁資本主義的階
意を留保してきたし︑それももっともなことだった︒いくつ
左翼は︑バロック・レポートのような提案にはしばしば賛
必要のないこと︑逆に生産組織のあらゆる管理が実際にでき
それにもかかわらず﹁いつの日かアメリカにも押し寄せるこ
級制に民主的な外観を与える﹂ことも︵ニール・キノック︶︑
バーナード・ノシッターは一九七七年一月二十六日の﹃ワ
とがありうるだろう﹂と︑指摘している︒事実アメリカも︑
ること︑そうすることによって民主主義という観念に現実の
民主主義の諸原則を産業社会の中心的な諸制度にも広めよう
また﹁産業民主主義という思想そのものへの不評判を招きか
意味を与えることを︑納得させることができるのである︒
とする努力から︑完全に切り離されているわけではない︒一
ねない︑欲求不満の方式を作りだす﹂ことも︵ケン・コース
シントン・ポスト﹄紙で︑バロック・レポートが巻き起こし
例をあげれば︑﹃ビジネス・ウイーク﹄誌一九七七年三月二
ト︑トニー・トーファム︶︑できるからである︒
た諸問題が︑﹁ヨーロッパより社会的規制が典型的に遅れて
十八日号は︑参加計画についての報告を掲載し︑その責任者
82
型について語っているし︑賃金と生産性への懸念が︑そうし
部門がさらに強化されてゆく﹂︑組合と産業の関係の新しい
バロック委員会の委員長は︑﹁それにもとづいて私企業の
ことになろう︒
させるであろうし︑資本主義的支配と国家的独裁を除去する
ろうし︑この訓練がついには産業社会を作り直す運動を出現
上でのことであることに︑疑いはない︒ハーバード大学の経
と︑あの種の計画が別の諸要求の代わりになるのを期待した
章からのものである︒
働者評議会﹄第一部﹁任務﹂の︑第一章︑第二章︑第三
︵訳注︶引用されているパネクークの文章は︑すべて彼の﹃労
た計画への多数の同意をもたらす重要な要素になっているこ
済学者であり元労働相であったジョン・ダンロップは︑﹁労
働者評議会﹂のヨーロッパにおける経験の重要性について論
じているが︑しかしそれは﹁努力と成果の増大につながる手
段﹂︑﹁労働力の養成と管理の新しい方式﹂︑﹁規律を発展させ︑
不平をしずめ︑抗議を抑制する新しい方法﹂への配慮という︑
文脈においてのことだった︒すべての事態は︑たとえばパネ
クークが考えていたこととは逆方向に進んでいる︒そうした
ものこそ︑現に行なわれている産業管理の専門的な方式の支
持者たちが︑採用していこうとしている態度であり︑それは
民主的な諸勢力を支配し欺瞞しようとする彼らの試みであ
る︒
しかし左翼は︑にもかかわらず︑それらの実現を受け入れ
るべきであろう︒ただ︑それらについて︑その限界を批判し︑
参加と所有と経営との間の実際の巨大な不均衡を強調しなが
ら︑であるが︒限られた参加の中でえられる経験︑持つこと
になるはずの権力についての理解︑権威を主張することのバ
カらしさについての理解は︑解放をもたらす訓練となるであ
83
【参考文書類】
http://www.bekkoame.ne.jp/˜rruaitjtko/に以下の文書を収録している。
パネクーク『労働者評議会』(第二部まで+α)日本語訳(2001年2月)
江口幹『根源的想念の哲学』
──カストリアディス読解の試み──(1996年11月)
『自由共産主義の新しい青春』(2000年4月)
『ストライキの季節
夢見る日々』──フランス1995 年11 月〜12 月──(1996年5月)
『スペイン革命 一九三七年五月の記録』(2001年5月)
直 接 民 主 主 義 の 系 譜
──アテネのポリスから労働者評議会まで──
2001 年7月 15 日 発行
発 行 「交流と運動」編集委員会
〒 101‑0051 東京都千代田区神田神保町2 ‑48 協栄ビル2階
関一般RRU内
定 価 700円
E-mail / [email protected]
84