増毛山道の歴史 - 北海道留萌振興局

増毛山道の歴史
北海道留萌振興局森林室
「陸の孤島」
雄冬(増毛郡増毛町雄冬)と言えば、かつては、陸の孤島の代名詞にもなっていた時代があった。
平成 4 年 10 月 22 日、最後の難所であった増毛町~浜益村(現、石狩市浜益区)にまたがる雄冬地
区と増毛町の岩尾地区を結ぶ増毛町歩古丹と大別苅間の新ルートが開通し、国道 231 号線の通年
通行が実現し、陸の孤島から脱することになった。
昭和 28 年に 2 級国道札幌留萌線(現 231 号線)に指定されていたものの、増毛町と浜益村との約
30 キロキロメートルが不通となっていた。昭和 56 年 11 月 10 日、幻の国道と呼ばれていた 231
号線が全線開通したものの、増毛町歩古丹と大別苅間 12.1 キロメートルは 108 箇所のカーブがあ
る難所のため冬期間は通行止めとなっていたものである。
平成 4 年に全線開通するまで、昭和 24 年からこの間海上交通として、雄冬~増毛間一般旅客定
期航路が、毎日 1 往復していた。
「標高千米の峠」
今でこそ増毛町~浜益間は車で約 30 分ほどであるが、北海道の開拓期には険しい山の峰々を辿
る、増毛山道が存在していた。
伊藤秀五郎著「北の山」の(北海道の峠)には、次のように描かれている。「一寸以外なのは、
北海道に千米を越える峠の一つも無いことである。如何に山が低いとはいへ、僅か一千米である。
一つや二つは有りそうな気がする。それでも地図を調べてみると、無い。いくら探しても一つも
ない。しかし、昔は一つあった。増毛から浜益にぬける増毛山道がそれである。雄冬山の中腹を
巻く時も、いよいよ幌の方へ下ろうとする浜益御殿の頂でも、一千三十米程の高さがある。蝦夷
地時代には、この山道は雷電峠、濃昼(ごきびる)山道に増して、恐らくは本道随一の難所であっ
た。(中略)山道の中では、この増毛山道は最も高く、距離も遙かに長い山道であった。今でこそ、
僅か三千尺とはいふものの、とにかく石狩天塩の国境をなす増毛山塊の一つを越して、八~九里
も続くこの山道が、そのむかしの旅人や村人達にとって、如何に難所であったかは、想像に難く
ない。しかし、何時とはなしに人の往来がと絶えて、今では深い根曲笹の茂るままに、全く跡方
もなくなっている。(攻略)」。
「蝦夷地第一号の山道」
蝦夷地と呼ばれていた時代の北海道には、道と呼ばれるものは鹿などの「けものみち」か、人
々によって自然に踏み固められた程度の道しかなかった。
今から約 200 年ほど前の寛政 10 年(1798 年)、江戸幕府蝦夷地探検隊の別働隊として近藤重蔵
森重が率いた一行は、国後、択捉島に渡り「大日本恵登呂府」の柱を建て日本の領土であることを
宣言した。その帰途の 10 月、広尾に立ち寄った一行は、日高との国境を前にして風雨にあい、広
尾に足止めされてしまった。当時、蝦夷地三大難所で随一と呼ばれていた広尾・幌泉間の海岸線
は断崖絶壁が多く、通行は非常に困難であった。人々の難儀する有様を見た重蔵は、従者の下野
源助に指揮をさせ背後の山に自費で道を開削した。この道こそが「ルベシベツ~ビタタヌンケ間約
10 キロメートル」であり、北海道で最初に開削された「北海道道路開削の嚆矢」とされている道で
ある。(「北の交差点・特別号~道の歴史を訪ねて~」を参照した)
「増毛山道」
記録によれば「増毛山道」は、寛政 8 年(1796 年)には、すでに九里余(36 キロメートル)が開削さ
れている。その後、安政 2 年から 4 年にかけての改修の様子などについては、伊達東著「増毛山道
~失われた道を求めて~」に詳しく紹介されている。
著者の伊達氏の先祖は増毛、浜益一帯の場所請負人(7 代目から)であり、8 代目伊達林右衛門(智
信)が安政 2 年(1855 年)4 年(1857 年)にかけて、1,311 両 5 朱・銭 311 文の私費を投じて改修され
たものである。
伊達氏がこの山道に興味を持ったのは、「ご先祖様が作った道であることもさることながら、前
述の伊藤秀五郎の文にひかれたからである。」と述べられており、平成 5 年 4 月から平成 7 年 11
月まで、実に 11 回にもわたって「増毛山道」の跡を探す旅を続けられてきた。
当時の「増毛山道」は、現在の増毛町大別苅と浜益村幌(現、石狩市浜益区幌)の間の 27.8 キロメ
ートル(7.2 里)である増毛町側の大別苅から峰筋を登り御内(631.9m)を経て天狗岳近くの「武好駅
逓」に至り、天狗岳(938.5m)を遠巻きすると武好から増毛町岩尾へ通じる枝道がある。さらに武好
(708.9m)、雄冬岳(1197.6m)直下を通過し浜益御殿(1038.6m)に至る。後は浜益村の幌に向かって
下っている。(増毛町と浜益村を結ぶ道はこの「増毛山道」のほかに、海岸線の断崖を縫ってコタン
間を結ぶ道があったが、自然発生的な踏み分け路程度のもので、開削等の記録は残っていない。)
この山道の増毛町側の大部分は道有林を通行していたが、現在はその痕跡すら見つけることは
難しい。僅かに山道沿いに敷設してあった電話線(明治 29 年完成)の古い電線が山道を偲ばせる。
また、留萌管理区の林相図(1/50,000)には、昭和初期まで残っていた「武好駅逓」の跡地が、道有林
の中にぽつんと増毛町有地として区画されている。
「礼文華山道」、「猿留山道」、「川汲山道」などの道有林に残る山道の跡地は、旅人や村人など先
人達の苦難と苦渋の歴史そのものである。
増毛山道の地図(大別苅~岩尾ルート)
左は、山道中腹にある「庚
申塚」、裏面に明治 32 年
11 月 12 日とある。
倒れている古い電柱
(道有林内)
右は、「増毛山道看板」と「武好橋」の跡と思
われる石組み(道有林内)
増 毛山道の起点に建つ
標柱(増毛町大別苅)