ニューヨークで見たアメリカの経済と社会

NYで見たアメリカの経済と社会(講演).doc0112
愛媛大学経済学会講演
2001 年 12 月 12 日(水)
於
愛媛大学法文学部
ニューヨークで見たアメリカの経済と社会
――2001年9月 11 日の前と後で――
関西大学教授
森岡孝二
<もくじ>
はじめに――企業のアメリカと市民のアメリカ
1.エキサイティングなニューヨーク――多様なエスニック・グループ
2.世界都市の中の豊かな自然環境
3.非常に活発な株主運動と株主提案――問われる企業の社会的責任
4.9月11日までのアメリカ――大統領選挙後の政治的シラケ状態
5.9月11日の衝撃と対テロ報復戦争
6.ブッシュ政権の対応と準備されていたシナリオ
7.テロで不況が加速したアメリカ経済
8.アメリカ中心のグローバリゼーションにかかるブレーキ
おわりに――安全で危険な都市ニューヨーク
はじめに
私は、2001 年の 4 月上旬から9月下旬まで、関西大学の在外研究員として、主にニュ
ーヨークに滞在をしておりました。6ヶ月の留学期間のうち2週間ほどはオランダ、フラ
ンス、イタリアへも足を延ばし、小さな国際会議での報告なども行いました。また、途中、
ボストン、ワシントン、カナダのケベックなども訪れましたが、それ以外はもっぱらニュ
ーヨークで過ごし、アメリカ経済の現状やコーポレートガバナンスの実態などに関する資
料収集と調査を行っておりました。
そういうなかで、9月 11 日、世界貿易センタービルへのハイジャック機による連続テ
ロという大事件に遭遇しました。留学先が現場に近いところにあり、混乱した状況も体験
するなかで、当初の研究目的のほかに、アメリカの社会と経済をその中心地であるニュー
ヨークという都市から見つめ直してみよう、という問題意識が芽生えました。
アメリカ合衆国やニューヨークについては、それぞれの人が持つイメージがあると思い
ます。私の場合、アメリカ合衆国という国に対しては、「企業のアメリカ」と「市民のアメ
リカ」という二つのイメージを抱いておりました。また、ニューヨークという都市につい
ても、いってみれば、「怖い顔」と「優しい顔」を持っているとも思っておりました。今日
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は、これらのイメージを対比しながら、話を組み立てていくことにします。経済の専門の
話というよりは、なるべく学生や市民のみなさんに理解していただけるような話をしよう
と思います。
1.エキサイティングなニューヨーク――多様なエスニック・グループ
まず、ニューヨークの印象から話を始めましょう。ニューヨークに行って最初に感じた
のは、非常にエキサイティングな世界都市であるということでした。1985 年に留学したロ
ンドンでも世界都市という印象をもちました。しかし、ニューヨークは、ロンドンとは比
べものにならないほど多様なエスニック・グループ(人種民族集団)といいますか、世界
のいろんな国と地域から来た人々が混ざり合いながらも、融合してしまうことなく、それ
ぞれの民族性を残し、互いに競い合いながら、自己主張しているようにみえました。そう
いう人種の「サラダボール」状態から生まれる活力あるいはエネルギーを人々が持ってい
る。そこがまさにエキサイティングだと思いました。
では、ニューヨーク市にはどのような人々が住んでいるのでしょう。人口は、2000 年の
センサスで約 800 万人です。歴史的に見ますと、1900 年のニューヨークの人口は 344 万
人でした。大恐慌が起きた直後の 1930 年には 700 万人近く(693 万人)になっています。
第二次大戦後はプエルトリコ人の大量流入があり、1950 年には 789 万人に膨らみました
が、その後横這いの時期が続き、1970 年にも 1950 年と同じ 789 万人の人口を抱えていま
した。その後、人口の郊外への大規模な流出があって、1980 年には 707 万人まで減少し
ました。1930 年代の水準に逆戻りするまでニューヨークが衰退したということでしょう。
しかし、1980 年代から 90 年年代にかけては、人口が再び増加するようになり、80 年に
707 万人であった人口は、90 年には 732 万人、2000 年には 800 万人に膨らんでいます。
とく人口が急増したのはこの 10 年ほどで、近年は毎年 10 万人づつ増えるという勢いにな
っています。
このような急激な人口増加の背景には、1990 年代全体を通じて経済が繁栄を続け、労働
需要、したがって雇用が長期にわたって増え続けたという現実があります。この人口増と
雇用増を担ってきたのはアメリカへの新移民、ニューカマーと呼ばれている人たちです。
人種的にみて最も多いのは、ヒスパニックないしはラティーノの呼ばれる、スペイン語を
話す中南米からきた人々です。これにはアメリカ自治領であるプエルトリコからの移住者
も含まれます。このヒスパニックのグループが約 210 万人います。さらに約 210 万人の黒
人がいます。アジア系の移民は約 80 万人。そのなかでいちばん多いのが中国系アメリカ
人ですね。日系アメリカ人というのは非常に少なくて、アジア系の中では下位のほうです。
ヒスパニック、黒人、アジア系などのいわゆる「マイノリティ」の人々を総計すると、
約 500 万人になります。ニューヨーク市の総人口は 800 万人ですから、500 万人の「マイ
ノリティ」(非白人)は数の上では「マジョリティ」であるわけです。人種が多様であれば
言語も多様です。ニューヨークの地下鉄や街角で聞こえてくる言葉は、地域によっては英
語ではなく、スペイン語あるいは中国語です。電車や役所の掲示物も、英語だけでなく、
スペイン語や中国語でも書かれています。
たとえばこんなことがありました。留学も終盤になり、そろそろ帰り支度を始めたとき
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です。留学中に使用した電気、ケーブルテレビ、電話などの使用契約を電話で解除しなけ
ればならない。それぞれの契約先に電話をしますと、まず、音声案内になっています。修
理の人は 1 番、苦情の人は 2 番、契約変更の人は 3 番、何々の人は 4 番を押してください、
といった案内です。そこで番号を押すと、次には、英語の人は 1 番、スペイン語の人は 2
番、中国語の人は 3 番、その他の人は 4 番を押してくださいと案内される。そこまで苦労
して聞き取って、4 番と押しますと、
「日本語での対応は行っておりません、英語に戻って
ください」、ということになる。そうやって行きつ戻りつしてようやく最後に肉声が聞こえ
てきます。
また、おもしろいなあ、と思ったこともあります。たとえば、グローサリー(食料品や
青果物を扱う小さなスーパー)を経営しているのは、ニューヨークのどこに行っても、決
まって韓国系の人たちです。なぜかはわかりません。昔はユダヤ系の店が多かったそうで
す。ある本を読んでいましたら、カリフォルニア州にあるドーナッツ屋のチェーンは、ほ
とんどタイ系の人たちによって営まれていると書かれていました。特定の業種には特定の
エスニック・グループが入り込んでいる一例でしょう。
グローサリーなどで会話を聞いてみると、店のオーナーとレジの従業員の間では韓国語、
従業員のなかでも倉庫から荷出しをしている人はスペイン語、その店で買い物をしている
客はロシア語を話している、ということもよくありました。1990 年以降の話ですが、ロシ
アの社会主義体制が崩壊したあと、ニューヨークだけでも 25 万人のロシア系新移民があ
ったといわれています。もう若くない年で新移民としてアメリカに流入してくる。こうい
う人たちは私同様に英語をうまくしゃべれない。したがって、店内で何かトラブルあると
ロシア語で何か叫んでいるわけです。
そういう雰囲気が街をおおっておりました。私が住んでいたクイーンズという行政区に
はインド系の人が多い地域がありました。そういう所に行きますと、多くの人がインド人
特有の服装をしている。民族衣装に限らず、街行く人や住人が非常に個性的で、多様性に
富んだ、カラフルな町である、という感じがしました。
2.世界都市の中の豊かな自然環境
ニューヨークのもう一つの印象としてお話ししておきたいのは、乱立する超高層ビル群
のなかに、意外と自然があるということです。世界都市として有名なマンハッタンの中心
には、文字通り「セントラルパーク」という東西 800 メートル、南北 4 キロにわたる大き
な公園があります。この公園は、ニューヨークが舞台になった映画にはたいてい出てきま
す。ここは野鳥の楽園となっていて、公園内のメトロポリタン・ミュージアムに近いとこ
ろに小さい池(Conservatory Water)があり、池に面したビルの窓枠の上には、レッドテ
イルズホークという鷹が営巣していたりします。それを観察するために、毎年多くの人が
集まって、巣作りからヒナの巣立ちまでを見守っています。バードウォッチングのことを
「バーディング」、バードウォッチャーのことを「バーダー」と言いますが、5月から6月
にかけては、熱心なバーダーたちがいくつも望遠鏡を据えて、通行人や観光客が通りかか
ると、見てみろ、あれが父鳥だ、あれが母鳥だ、あれがヒナだ、今は何週間目だという説
明するわけです。ヒナたちの成長を楽しみに、私はパートナーと通っていましたが、結局
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ある日、飛び立っていなくなりました。
ほかにもたくさんの鳥たちがいます。たとえばブルージェイやガーディナルやオリオー
ル。アメリカのメジャー・リーグは現在のところ 30 チームありますが、このうち小鳥が
ニックネームになっているチームが3つある。ブルージェイというのはカケスの仲間で、
体が青く、ジェイジェイと鳴く鳥ですが、これをニックネームにしているのはカナダのト
ロントを本拠地とする球団です。アメリカの球団ではありませんが、大リーグのメジャー
の一つです。カーディナルという名は、カトリックの枢機卿(カーディナル)の衣装のよ
うに真っ赤な色の小鳥であるためについたようですが、これはマグワイヤーがいたセント
ルイスのチームのシンボルです。もう一つのオリオールはフルネームをボルティモア・オ
リオールといいます。だからメリーランド州のボルティモアの球団のニックネームになっ
たわけです。セントラルパークではこういうアメリカ人に馴染みのある鳥たちを見ること
ができます。
この前飛行機が落ちたケネディ空港の沖にジャマイカ湾があります。1950 年代の初期の
ことです。ジャマイカ湾の一部をニューヨーク市の交通局が地下鉄を通す目的で浚渫し、
盛り土をすることになりました。環境破壊が問題になって、工事の交換条件として、市の
公園局長が池をつくるように求めた。その結果誕生したのが「ジャマイカ湾野生生物保護
区」(The Jamaica Bay Wildlife Refuge)です。海に囲まれた小さな島に淡水の池が出来
たことで、他のところにも増して、たくさんの種類の水鳥が訪れるようになったわけです。
アメリカ大陸の地勢からいうと、北から南あるいは南から北に渡る鳥たちが途中で立ち
寄るところがニューヨーク市になっています。しかも、このジャマイカ湾にたくさん集ま
ります。ここには大変たくさんの野鳥がいます。正確には集計していませんが、私がいる
間に見た野鳥は 40 から 50 種になると思います。年間で言うと約 130 種は見られる。過去
25 年間に 325 種が観測されたといわれています。渡りで立ち寄るものも含め、これだけ
多くの種類の野鳥がニューヨーク市にいるのです。
ニューヨークのこのような場所に行くための交通手段も大変興味深いものがあります。
ニューヨークの地下鉄はどこに行っても、何回乗り継いでもすべて同一料金の 1.5 ドルで
す。しかも、2 時間以内に地下鉄からバス、バスから地下鉄に乗り継ぐ場合、乗り継ぐ料
金はノーチャージ、つまりただです。いちばん長い線は 1 時間半以上かかりますが、それ
でも 1.5 ドルです。地下鉄の路線はスタッテン島を別とすれば、市の全域に濃密に張り巡
らされていて、たいていどこでも地下鉄とバスで行けます。そのためにニューヨークはア
メリカの中でめずらしく車なしで暮らせる都市になっています。
ニューヨーク市内には公設の海水浴場が 10 ほどあります。私はそのうちの一つには地
下鉄で、もう一つには地下鉄とバスを乗り継いで行きました。夏は 5 月半ばから海開きで
にぎわっています。観光ガイドなどでみると、摩天楼が林立するマンハッタンだけがニュ
ーヨークだと思われがちですが、ニューヨークにはあちこちに東京や大阪では見られない
森や海の自然や野性があることを知ってほしいと思います。
3.非常に活発な株主運動と株主提案――問われる企業の社会的責任
もうひとつ、ニューヨーク、さらにはアメリカの「優しい顔」を紹介します。それは日
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本にはない株主運動、あるいは企業責任運動のことです。
アメリカでは 1960 年代から 70 年代にかけて、企業の社会的責任を追及する株主運動が
生まれてきました。60 年代の後半には、ベトナム戦争に対する反対運動が学生や市民を中
心に広がりをみせるなかで、ダウ・ケミカル社に対し、株主に呼びかけて対人殺傷兵器で
あるナパーム弾の製造を止めるように圧力をかける運動がありました。
70 年代の初めには「キャンペーンGM」という運動があります。その中心になったのは
ラルフ・ネーダーという消費者運動の指導者と公益法学者たちですが、彼らの呼びかけに
よってGMの株主総会に株主提案をするわけです。これは環境問題を重視する立場から、
企業責任に関する株主委員会を設置せよ、あるいは取締役会に公益代表を選任せよという
株主提案を行い、それへの支持を求める運動です。株主総会ではこれらの株主提案は否決
されましたが、結果的にはGMはその提案を受けて公共政策委員会を作りました。また、
GMは、黒人公民権運動の活動家のレオン・サリバンという人を取締役に選任しました。
当時、アメリカ全土では、反アパルトヘイトの運動が盛り上がっていました。反アパル
トヘイトというのは、南アフリカ共和国で行われていた黒人差別政策に対する反対運動の
ことです。南アでは、人種隔離政策によって、人口からいえば少数の白人が多数の黒人か
ら市民としての権利を剥奪し支配する体制が長期間続いてきました。このような差別政策
に反対しようということで、アメリカの企業に対して、南アへ投資や貸付を止めさせる、
あるいは南ア資産を売却させるように圧力をかける運動が盛り上がりました。サリバンは
この運動で大きな役割を演じました。
企業の社会的責任を問う株主運動には、いくつかの大きなグループがあります。それら
は、1960 年代後半から 1970 年代初めにできたグループです。70 年から数えても 30 年以
上の長い歴史を背負っています。そのいくつかを紹介しておきましょう。
一つはICCR(Interfaith Center on Corporate Responsibility)、日本語で言うと、
企業責任宗派連合です。カトリック、ユダヤ教、プロテスタントというような宗派のすべ
てが連合して大きな組織を作っています。仏教は入っていないようです。大きなビルに事
務所を構えて様々な活動をしていますが、その活動の一つとして株主運動をしています。
近年、企業の社会的責任を問う立場から、さまざまな株主グループが社会問題で多くの株
主提案をしていますが、そのうち最も有力なグループは教会グループのこのICCRです
ね。現在の運用資産総額は約 1100 億ドル、1ドル 120 円としても 13 兆円を超えています。
そういう運動を側面から支える機関、社会派の株主グループに対して様々な情報を提供
している機関があります。その一つがIRRC( Investor Responsibility Research
Center)、直訳すると投資家責任調査センターです。
この組織の起源がおもしろい。アメリカの大学は保有するファンドを株式投資で運用し
ています。1960 年代末から 70 年代の初めに、学生運動が盛り上がるなかで、大学が持っ
ている株で大学はどのように株主総会で投票するかが問題になってきました。たとえばナ
パーム弾を作っている会社の株を持っているかどうか、あるいは環境に対して有害な物質
を出している会社の株を買っているかどうか、また持っている場合、実態がどうなってい
るか知って株主総会で投票しているかどうかが問題になりました。
その結果、大学の株主としての議決権行使をめぐっていくつかの大学の中に検討委員会
ができました。そのような検討委員会の結論を踏まえて、1972 年にハーバード大学の学長
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が呼びかけて、スタンフォード大学などいくつかの大学が賛成し、当時のフォードや、ロ
ックフェラーというよく知られている財団が賛成して、このIRRC、つまり投資家責任
の問題を専門に調査する機関を作りましょうということになりました。
設立当時はスタッフ4人の小さなNPOだったのですが、今では 80 人もスタッフがい
て、2001 年からは営利企業として非常に大きなオフィスで調査活動をしています。
私はワシントンにあるこの機関を訪ねました。ウェブサイトにも出ていますが、IRR
Cは、環境、原子力、雇用、タバコ、人権問題、労使関係、取締役会の人種多様性、アル
コール飲料製造、武器製造、動物実験、避妊具製造、北アイルランド問題、ビルマ問題、
メキシコでの操業、防衛省との契約、ピストル等小火器の製造、ギャンブル、その他実に
さまざまな問題を取り扱っています。各種環境情報の提供も重要なサービスの一つです。
社会問題に関心を持つ投資家グループ(株主団体)は、IRRCのような調査機関から
こうした情報を受け取って、それをもとに議決権行使や投資判断をしたり、株主提案をし
たりします。
アメリカでは環境保護団体も株主運動に熱心です。「地球の友」(Friends of the Earth)
もその一つですね。そのウェブサイトには株主提案のハンドブックが載っています。「グリ
ーンファンド」というのもあり、環境に優しい企業に優先投資をします。それだけでは投
資の利回りが保証されませんから、一方で儲ける銘柄も買いながら、他方では育てるべき
企業の銘柄を持って、株主として資産運用しながら、意見表明をしていく。こういう両面
を持つ運動です。
このような運動の他の例に、ゲイプライドという運動があります。ことのはじまりは次
のようなものです。マンハッタンのグリニッチ・ヴィレッジという古い街の一角に、同性
愛者が出入りするバーがありました。1969 年6月のある日、警察の執拗な弾圧に抗議して、
ゲイのグループとその支援者たちがデモを行った。これが発端で、その後、毎年6月下旬
には、ゲイ・プライド・マーチが5番街で行われています。私はたまたま、6 月 24 日だっ
たと思いますが、5番街で主催者発表で 25 万人が参加したというそのマーチを観る機会
がありました。プラカードや横断幕でもっとも目についたスローガンは「平等」(Equality)
でした。性的嗜好に関係なく、家族、住宅、福祉、健康、雇用などについて平等な権利を
認めよというものです。アフリカのAIDS救済に関連したスローガンも目立ちました。
ゲイプライドの運動は、いまでは株主運動にも持ち込まれ、性的な嗜好によって差別を
するのはアメリカの基本原理である平等の原則に反するとし、雇用差別を糾弾しています。
福祉手当をする場合も、同性愛者相互のパートナーに対しても福祉手当を出すべきである
とする運動が盛り上がっています。このグループは、「ゲイプライド基金」を設けて、ゲイ
差別をなくす株主提案も行っています。
私が見た範囲でいいますと、エマーソン・エレクトリックという 12 万人も従業員のい
る会社に対して、その団体が株主提案をして、ゲイ平等処遇文書を採択せよと要求しまし
た。この提案は投票総株数の 12.3%の賛成を得たようです。これは、株主の賛成としては
非常に高い賛成率だといえます。社会問題の株主提案では、過半数の支持を得るというこ
とはありえず、通常でいうと、大体 10%を超えると会社は政策変更をせざるを得ないとい
うふうにいわれています。
付言しますと、ゲイに優しい企業というのがゲイプライドのホームページにあります。
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これはすでに従業員に対して、先ほどいった平等処遇を受け入れて実行している企業です。
50 社ほどあがっており、IBM、バンクオブアメリカ、セブロン、ナイキなどのそのなか
に含まれています。
他方でナイキは消費者団体からやり玉にあがっています。ベトナムで非常に劣悪な労働
条件でナイキ・ブランドの靴を作っており、もっと就業環境を改善せよといわれています。
ディズニーに対してもILOの労働基準の遵守を求める運動があります。ディズニーのキ
ャラクターグッズの多くは、非常に劣悪な労働条件の途上国で生産されているからです。
教会グループや市民グループが主体となった株主提案を武器にした株主運動は、大きな
機関投資家(機関株主)にも影響を与えています。例えば、アメリカ最大の機関投資家の
一つといわれるCalPERS(カルフォリニア州退職公務員年金基金)は、最近、途上
国市場での社会的投資政策を重視し、今後の海外投資にあたってはILOの労働基準やそ
の他の社会的基準の遵守状況の調査に力をいれると伝えられています。
日本ではないも同然ですが、アメリカには以上にみたように教会グループや市民グルー
プの株主提案を武器にした株主運動が大きな広がっています。そればかりか社会問題での
株主運動のために専門的な調査機関さえ存在します。こういう点は、日本における株主運
動の課題や可能性を考えるうえでいろいろと参考になります。
4.9月11日までのアメリカ――大統領選挙後の政治的シラケ状態
ここまで、いわばニューヨークやアメリカの「優しい顔」を紹介したわけですが、次に
9月 11 日のテロとその後の動きについて考えてみたいと思います。
私が4月初めにニューヨークに行って1か月ほど経った頃から、テレビの主な話題とい
えば、カリフォルニア州選出のゲーリー・コンディット下院議員が起こしたスキャンダル
でした。シャンドラ・レビー失踪事件と言ったほうが知られているかもしれませんね。シ
ャンドラ・レビーという大学院生がワシントンの米司法省刑務局でインターンをしていて、
コンディット下院議員のオフィスに出入りするようになったのですが、4 月末の連絡を最
後に姿を消したという事件です。
コンディット議員は当初、彼女との関係を否定していましたが、やがて関係があったこ
とだけは認めながら、失踪には関係ないと言うようになり、自らすすんでポリグラフにか
かり身の潔白を「証明」し、テレビに出て「私は嘘は言っていない」と繰り返しました。
その議員のテレビインタビューがあった翌日、私は風邪をひいてベッドでラジオを聴い
ていました。ラジオの街頭番組では、その議員が言ったことはウソかホントか、その議員
にインタビューした女性アナウンサーはどこまで切り込んだか、それを聞いてあなたはど
う思うか、ということについて延々とやっていました。このスキャンダルを扱ったテレビ
番組には、シャンドラ・レビーの両親も出てくるし、コンディット議員と関係があったと
いう元スチュワーデスも出てくる。また、コンディットの娘さんも出てきて、父親は全く
無実ですと言う。そういうことをCNNをはじめとして各局が競うようにやる。
こうしたうわついた状況の裏には、2000 年末の延々と続いた大統領選挙の開票騒ぎの後
の、ある種の政治的しらけ状態がありました。アメリカの大統領選挙制度では、「勝者がす
べてを得る」
、選挙区内で得票が1票でも多い側が、その州のすべての選挙人を取ってしま
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う。そういう選挙制度の下で、フロリダ州で大統領の当落が争われました。マスコミ関係
者が後に調査をした結果では実はブッシュの敗北でした。議会で選挙人が集まって投票す
る段階では、その結果は出ていませんでしたし、裁判所が打ち切りをしましたから、結局
ブッシュが当選して、大統領になりました。しかし、あまり良い格好の勝ち方ではありま
せんでした。長い長い選挙開票の報道が続いたことに国民が疲れてしまったということも
重なり、2001 年9月までは、ある種の政治的しらけ状態にあったといえます。
5.9月11日の衝撃と対テロ報復戦争
そこにまさに青天の霹靂のように起こったのが9月 11 日のテロ事件だったのです。事
件がアメリカ国民に与えたショックというのは形容のしようがないほど大きなものであっ
たと思います。私はあの9月 11 日の事件があった直後にアメリカの何人かの知人に私は
安全ですよとメールを送りました。そのメールの返事には、アメリカの人が受けたショッ
クの大きさが端的に表れていました。
ジュリエット・ショアさんから来た返事には、
「アメリカが受けた最大のマグニチュード
の衝撃」と書かれていました。テロの翌日の9月 12 日に、留学先の大学の近くで、お世
話になったポール・マティック先生に会い、アメリカの本土が攻撃を受けたのは 1812 年
の米英戦争以来だと教えてもらいました。9月 11 日を語るとき、しばしば、1941 年 12
月 8 日の真珠湾攻撃が引き合いに出されます。しかし、このときの日本軍による奇襲は、
いわばハワイという植民地で起きたのであって、アメリカ本土で起きたのではありません
(ハワイは 1898 年に米国領土に併合されますが、50 番目の州として承認されたには 1959
年です)。
要するに、アメリカは、自ら他国を侵略することはたびたびありましたし、いまもあり
ますが、本土が攻撃にさらされたことは米英戦争以来ありませんでした。近年、アメリカ
人を標的にしたテロが増えてきましたが、それらは主に海外の米大使館や軍事施設を狙っ
たものでした。私は今回の留学中にボストンで、言語学者にして評論家のノーム・チョム
スキーの講演を聴く機会がありました。彼が『9.11――アメリカに報復する資格はない』(山
崎淳訳、文藝春秋社、2001)というインタビュー集で語っているように、アメリカにとっ
ての9月 11 日テロの新しさは、「アメリカ本土に初めて銃口が向けられ」、アメリカの安
全が崩壊したことにあります。
しかし、本土での類似のテロがなかったわけではありません。1993 年には世界貿易セン
ターの地下室に爆弾が仕掛けられ、6 人が死亡し、1000 人以上が負傷するという事件もあ
りました。これは今回のテロと同じくイスラム原理主義の過激派グループがやった事件だ
と当時からいわれていました。この事件の延長で考えれば、世界貿易センターを襲った今
回のテロはまったく予想できなかったことではないかもしれません。しかし、テレビであ
のツインタワーが二つとも崩れ落ちる様を見ながら、私が思ったのは、
「考えられない」と
いうことでした。後にインターネットで知ったことですが、このテロを報じたアメリカ内
外の何百という新聞にも、1面の大見出しに、”Unthinkable”、「考えられない」と書いた
ものが少なからずありました。
あのテロの日、テレビのレポーターは現場から「これは戦争です」と叫び、市民もこれ
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は戦争だと言っていました。日本であの事件をテレビで同時進行の形で見ていた人の印象
も私の印象とそんなに違わないかもしれませんが、乗っ取られた航空機が狙いを定めたよ
うに激突した後、ツインタワーが崩落し、瓦礫と化した惨状は、まさしく戦場でした。私
の留学していた大学は5番街と 14 丁目が交差するあたりにありますが、その 14 丁目から
南はテロの直後から「ウオーゾーン」(交戦地帯)とされました。そして、ツインタワーの
あった場所は、「グラウンド・ゼロ」
(爆心地)と呼ばれるようになりました。
しかし、あのテロは、重大な反人道的な大規模な国際犯罪であって、戦争ではありませ
ん。戦争はブッシュ大統領が「これは戦争だ、われわれは必ず報復する」と言ってアフガ
ニスタンのタリバン支配地に軍事攻撃を始めたときから、始まったと考えるべきです。
6.ブッシュ政権の対応と準備されていたシナリオ
あまり深読みをしてはいけませんが、テロ後のブッシュの対応というのは、かなりの程
度すでに用意されていたシナリオの下での行動ではないかと私は思います。実は、1941
年の真珠湾攻撃の際に、アメリカは、日本に対する戦争だけでなく、世界大戦に全面参戦
をするためのきっかけをどのように作るかということに非常に大きな関心を払っていまし
た。とくに日本に対していえば、日本をおびき出して日本をたたくことについて周到な準
備がされていたということが、今では当時の機密文書が公開されて明らかになっています。
真珠湾ではアメリカは思わぬ被害にあい、大きな戦果を日本に許したにせよ、アメリカが
騙し討ちにあったというよりも、アメリカが日本を誘き出したというほうが歴史の真実に
近いようです。
今回のテロで言えば、アメリカはおそらく、確実にどこかで大きなテロがあるというこ
とを予測していたと思われます。それが9月 11 日のようになることを許したのはCIA
とFBIの大失態なのでしょうが、テロ警報は発せられておりました。1998 年のケニアと
タンザニアの米大使館同時爆破テロや、2000 年のイエメンの米駆逐艦爆破テロは、ビンラ
ディンが首謀者だと報道されていましたから、そうしたテロがいつどこで起きてもおかし
くない状況にありました。
そういうなかで、世界貿易センターとペンタゴンに同時テロがあり、3000 人を超える死
者が出ました。この衝撃があまりに大きかったので、アメリカ政府はテロ報復あるいはテ
ロ絶滅のために予期せざる戦争に入ることになったのでしょうか。私はそうは思いません。
政府・軍当局からいうと、何かテロがあれば、それを機に一挙に打って出る、つまり、軍
事強硬路線を取るということは、既定の路線であったように思います。事件直後にビンラ
ディンとアルカイダが犯人とその一味だと名指しされ、別件も含めテロ関係の被疑者とし
て、1千名を超える人々が検挙、拘束、収監されました。そのことも含め、アメリカには
新しい戦争を始める用意があったと考えられます。
9月 11 日のテロはいかなる理由をもってしても正当化されない反人道的な国際犯罪で
すが、アメリカが対テロ報復戦争を唱え、戦争体制に突入するという選択は、どう考えて
もけっして賢明な選択ではないと思います。
少し振り返ってみるだけでも、アメリカを標的とした一連のテロの種はアメリカが自ら
蒔いたといえます。アフガニスタンに対して、1979 年に旧ソ連が軍事介入をしました。こ
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れは 10 年にわたる泥沼状態の戦争になり、ソ連軍はアフガニスタンを破壊し、多数の現
地の住民と、両国の多数の兵士を犠牲にして 1988 年にようやく撤退することになりまし
た。このソ連の軍事介入時に、アフガニスタンの反ソ勢力を背後から支援したのは実はア
メリカでした。
アメリカは、CIAが巨額の資金を出してパキスタンの軍事情報機関を使い、タリバン
という神学校でアラブ諸国から一種の雇い兵あるいは義勇軍を募って軍事教練をしました。
これは今や公然たる事実として語られています。しかも、そのなかには少年もいました。
ビンラディンも、若かりし日に、旧ソ連のアフガニスタン侵略に対抗するためにCIAが
育てた傭兵ゲリラ部隊にいました。彼は、サウジアラビアの富豪の息子で、アフガン・ゲ
リラの中で頭角を現して、イスラム過激派のテロ組織の国際ネットワークと言われるアル
カイダの頭目になった人です。
彼はもともとは親米だったのですが、ソ連がアフガニスタンから撤退して2年後の 1990
年に、いまのブッシュ大統領の親父ブッシュが湾岸戦争を起こし、アメリカ軍はサウジア
ラビアの軍事基地からイラクに出撃した。その後サウジサラビアに米軍が居座るようにな
るや、ビンラディンは、それを「聖なる土地」のアメリカ軍による占領であるとして、ア
メリカに敵対するようになりました。これにはアメリカがイスラエルのパレスチナに対す
る侵攻を支援してきたという事情も絡んでいます。それにしても、アメリカが湾岸戦争の
あとサウジアラビアに駐留してきたことがビンラディンらの反米テロ活動を誘発したこと
は否めません。
ビンラディンは富豪の出ですが、それにもかかわらず、彼らの反米テロ活動の背景には、
今日のグローバル経済の下でますます富んでいくアメリカとますます貧しくなっていく第
三世界との埋めがたい対立構図があります。富める国と貧しい国との絶望的な不均衡は富
める国への憎悪を生みだし、それがテロとなって噴き出す。アメリカは、そういう不均衡
とそれがもたらす軋轢によって、アメリカ中心の世界秩序が揺らぐことを恐れて、力ずく
で現存の世界秩序を維持しようとする。それが9月 11 日のテロであり、アメリカの対テ
ロ戦争であると思います。
7.テロで不況が加速したアメリカ経済
経済の問題について少し触れておきましょう。私はアメリカに滞在している間、株主オ
ンブズマンや、経済理論学会、関西大学の同僚などに、Eメールでニューヨークの模様を
書いて送りました。
この通信で、私はアメリカの経済の様子を刻々と書きました。まず 3 月の渡米前でいう
と、アメリカの株価が下がり、このまま行けばアメリカは前半にも不況突入かという状況
でした。しかし、4月以降は消費がかなり好調で株価も持ち直して夏を迎えました。7月
になって突然IT関連、とくに半導体を中心に大幅なジョブカットが発表され、雇用情勢
が悪化し、失業率が高くなりはじめました。アメリカでは二期連続でマイナス成長があっ
た場合を「リセッション」といいますが、その意味のリセッションにはなっていなくても、
8月には雇用から見ても消費から見ても、明らかに景気後退の局面に入る。9月に入ると
不況突入を告げるような形で、株価は1万ドルを割り込み、9月の 5 日から 7 日までの 3
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日間で、ダウでみると、428 ドルも下がりました。
その不況を一気に強めたのが9月 11 日のテロであり、テロの後の戦争だといえます。
若干の数字を紹介しておきますと、失業率が8月の時点で 4.9%でしたが、11 月の数字で
は 5.7%に上がっています。現在、日本とアメリカは失業率の上昇競争をしています。個
人消費でいうと、99 年は 5%のプラスで、2000 年は 4.8%のプラスでした。しかし、2001
年は落ち込んでいます。とくに 11 月になると大きく落ち込んで、1.1%です。設備投資は、
今年の 4~6 月、第二四半期は-14.6%。7 月~9月は-9.3%でした。GDP(国内総生
産)は 7~9月は確定値で-1.3%でした。10~12 月もマイナス間違いなしと予想されて
います(その後の発表では 0.2%ながら、わずかにプラスでした)。いずれにせよ、1990
年代の初めからのアメリカの長期繁栄はようやく終わったわけです。
8.アメリカ中心のグローバリゼーションにかかるブレーキ
今後、90 年代の繁栄を支えた枠組みはどう変わるのか。それを考えるためにも、アメリ
カ経済の繁栄を支ええてきた条件をみておきましょう。
一つは、経済のグローバル化の下での金融情報サービスにおけるアメリカの世界的優位
の確立です。80 年代には「パクスアメリカーナ(アメリカによる支配)の終焉」というこ
とがいわれました。しかし、現在は一人勝ちの状況です。90 年代に入って、社会主義体制
崩壊後の再市場化とともにグローバル化がすすむ中で、アメリカはとりわけ金融と情報の
面で世界経済の中での優越的地位を高めてきました。
そのうえで、アメリカは徹底して途上国に生産拠点を移して、そこから安い労働コスト
で作った安価な商品を逆輸入する戦略をとってきました。そういう意味での生産基地の海
外展開と、それに基づく価格革命が推進されました。
私は、ジュリエット・ショアの『浪費するアメリカ人』
(岩波書店、2000 年)に関わっ
た経緯もあって、アメリカの消費事情を見ようと、ニューヨーク市からバスに1時間ほど
乗って、大きなアウトレットの一つに行きました。そこは卸値で販売するということで客
を呼び込んでおり、200 を超える専門店がそれぞれ個別の建物を構えていました。私がそ
こで買ったのは 12.99 ドルのジェフリー・ビーンのTシャツ1着だけですが、そのTシャ
ツはメイド・イン・ホンジュラスと書いてありました。ほかの店に入って、タグを見なが
らどの国で生産されたかを調べて回りましたが、ほとんど第三世界というか途上国製でし
た。いちばん多いのは中国です。ニューヨークの市内でも、さきのアウトレットにもあっ
たGAPの店に入る機会があり、トランクスを2着買いました。二つは柄も形もそっくり
でしたが、なぜかメイド・イン・スリランカとメイド・イン・タイランドでした。
日本でも消費財の海外生産比率の上昇が大きな問題になっていますが、アメリカは、ア
パレルから情報機器にいたるまで、生産基地の途上国移転が急激にすすみ、国際的な低コ
スト生産体制が創り出されています。
アメリカが日本と違うのは、大量の移民労働力によって、国内の生産基地までもが途上
国化していることです。労働市場の底辺は中南米およびアジアからの新移民によって担わ
れています。黒人がアメリカ社会の下層をなしていると思われがちですが、労働市場の底
辺をなしているのは、今日では英語を話す黒人よりも、スペイン語を話すヒスパニックの
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人々です。
アメリカには、就労ビザをもたず働いている不法滞在者が 600 万人から 1200 万人いる
と言われています。正確な統計はなく推計です。そういう人々の多くは、日本でいうとタ
コ部屋、アメリカではスウェット・ショップというのですが、非常に劣悪な労働条件のも
とで恐ろしく低賃金の小さな工場や商店で働いています。ニューヨークのチャイナタウン
に行きますと、ビルの地下に縫製工場があり、そこでは法定最低賃金(時給 5.15 ドル)よ
りもはるかに低い賃金で、監視つきで働いているそうです。雇用主の背後には人間の密輸
業者である蛇頭あるいはコヨーテがいて、不法入国者は年季が明けるまで(蛇頭からから
借金した入国費用を返すまで)、劣悪不当な労働条件でも我慢して働いています。そういう
人々が最底辺にいるわけです。私が行っていた大学の向かい側のグローサリーの前で労働
争議があって、配られているビラを見ましたら、最低賃金以下の賃金で働いている人々の
実態が、最低賃金以下の支払い、残業手当なしの1日 12 時間から 14 時間労働、医療保険
なし、有給休暇なし、と書かれていました。
しかも、アメリカは労働市場を流動化させるために、近年、日本以上に雇用形態を多様
化させています。派遣労働は日本より多い。それからインディペンデント・コントラクタ
ーと呼ばれる、個人請負業の形態が多用されています。これは、本来は賃金労働者なので
すが、雇用責任を負わず、様々な付加給付を払わずにすむように、個人事業主との請負契
約のかたちで働かせるというものです。
リストラというか、ダウンサイジングも猛烈にやられています。景気が悪くなればもち
ろん、景気のよいときも、ジョブカットを大規模に行う。かつては「レイオフ」といえば
「一時帰休」のことを意味していましたが、いまでは、解雇をさすようになっています。
そういうなかで、ホワイトカラーも仕事がますますきつくなるのに、収入はむしろ下がる
という状況に置かれています。ジル・アンドレスキー・フレーザーという金融レポーター
が書いた『ホワイトカラー・スウェットショップ』という本には携帯電話による仕事の私
生活への侵入、たえず増え続ける仕事量、高まるプレッシャーと、強まるストレス、職場
の雰囲気の悪化などがリアルに描き出されています(追記: 邦訳は森岡孝二監訳で『窒息
するオフィス
仕事に強迫されるアメリカ人』
として 2003 年に岩波書店から出版された)。
次に株式市場と個人消費についてです。90 年代のアメリカでは、ちょうど 80 年代のよ
うに株価がずっと上がり続け、証券市場はかつてない活況を呈しました。この株式ブーム
を背景に個人消費も好調でした。中産階級の上層を中心に、ブランド品、高級品を求めて
買いまくり、人に負けまいとして互いに消費を競う状況がありました。カードローンで将
来所得を先取りして、貯蓄率がマイナスになるまでに消費する。日本が消費低迷に喘いで
いる時期にアメリカは過剰消費に沸き立っていたとさえ言えます。
最後に、国際通貨体制でいうと、アメリカはとくに有利な立場にあります。国際収支、
とくに経常収支が長期に赤字になりますと、通常、対外支払いの側面から経済にブレーキ
がかかります。金融引き締めなり経済の引き締めによって輸入を減らす必要があります。
アメリカはそういう問題を抱え込むことなしに自国通貨であるドルで対外支払ができます。
したがって、国の経済力以上に派手な消費ができるわけです。アメリカの近年の繁栄はこ
ういう条件に支えられていました。
以上に述べた条件のいくつかは、9月 11 日を境に変わらざるをえなくなっています。
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少なくとも今までのようにはいかないと思います。まず、移民についていうと、9月 11
日のテロを堺にビザ発行や入国審査が厳しくなり、移民の流れにブレーキがかかり、移民
大国としてのアメリカは一つの新しい困難を抱え込みました。
それから、アメリカは北米自由貿易協定(NAFTA)のなかでカナダとメキシコに大
きな生産工場を持っており、また、アジアの工場で作ったものを逆輸入しています。この
国際生産体制は、セキュリティーコストや、部品供給の物流スピードの面で大きな支障が
生じています。
国際金融の問題でいうと、この部面でアメリカが進めてきたグローバリゼーションとい
うのは、金融の規制をどんどん撤廃していくことでした。金融はある面では一種の匿名主
義が原則で、誰が口座を持っているかには関知しないのが金融です。ところが、テロ資金
の洗い出しと根絶のためには、匿名主義を部分的にせよ破らざるを得なくなります。ビン
ラディンのファミリーがこれだけ株を持っていることを明らかにしなければなりません。
そして、そのような株は凍結する、関係資産を凍結する、ということもするわけです。そ
うなると金融規制緩和についてもブレーキがかかります。
さらに、情報についていうと、アメリカはこの間かなり徹底してディスクロージャーを
進めてきたわけですが、9月 11 日以降、いくつかの情報を隠すようになりました。たと
えば、原子力発電所がどこにあってどういう発電能力を保持しているかという情報をイン
ターネットで取ることができたのですが、今では取れません。それは、テロリストに情報
を提供するからだとされています。いまでは戦争に関する報道は大本営発表か記者クラブ
発表のようになっています。こういう面も含めて、今後は世界のヒトとモノとカネの流れ
に対する制約が強まる。戦争が長期化すればこのような状況が続くと思われます。
アフガニスタンでの戦争は、タリバンの勢力が最終的には崩壊して、アルカイダも国内
では解体されたと伝えられています。その意味でこの戦争は一区切りつくでしょう。しか
し、アメリカ政府は、イラク、そしてスーダン、それからフィリピンなども含めてテロ支
援国家だということで、テロ支援国家に対しては軍事攻撃をするとしています。どこでい
つするとはいっていませんが、するといっていますね(ブッシュ大統領は、2002 年1月
29 日の一般教書演説では、北朝鮮とイランとイラクの3か国をテロ支援の「悪の枢軸」と
して名指しで非難し、それらの国が「(テロ壊滅のために)行動しないなら、米国が行動す
る」と恫喝しました。
アメリカはイラク対して新しい戦争をしかけるかまえです。イラクに対しては9月 11
日の報復という理屈は成り立ちませんから、イスラム諸国の反発が強くなる。世界の緊張
がいっそう強まるということが予想されます(追記: 2003 年 3 月 20 日、アメリカの一
方的な攻撃で開始されたイラク戦争は、その後今日まで長期化し、泥沼化してきた)。
アメリカの戦争はアメリカ経済にとって、軍需産業が潤って、株価が上がるという面が
あると思いますが、長い目で見ると繁栄の条件を掘り崩し、困難を増大させずにはおきま
せん。そうなると国内的にも反対の世論が強まり、ベトナム戦争のときと同じように、失
敗は避けられないでしょう。
おわりに――危険な都市ニューヨーク
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NYで見たアメリカの経済と社会(講演).doc0112
最後に、ニューヨークについてもう一度感想を述べて終わりにしたいと思います。私は
ニューヨークに行く前に、多くの友人や同僚から、「ニューヨークは危ないよ」、「夜は地下
鉄に乗ったらあかんよ」という忠告を受けました。
ニューヨークには 1993 年にも行ったことがあります。その時は 5 日足らずだったので
すが、そのうち 1 日はボストンに行きましたから正味 3 日か 4 日です。その間私をガイド
してくれた人はどこに行っても、「デンジャラス」を連発していました。たとえば、地下鉄
で乗り換えのためにハーレムで各駅停車を待っていたときのことです。急行には乗っては
いけないのに、ガイドの人は、この駅は客が少ないときは危ないから「急行でも何でも次
に来た電車に乗りましょう」と言うのです。
実はパリで 1985 年の秋にある事情でホテルを探せずに、カフェで徹夜したことがあり
ました。このときに、持ち物を鞄ごと盗まれました。パスポートも現金もなくしたのです。
まあ、私に限らず、またパリに限らず、日本人の旅行者はいろんな都市でいろんな事件や
被害にあっています。たまたまかもしれませんが、私はそういう被害は今回のニューヨー
クでは遭いませんでしたし、聞きませんでした。ニューヨークにももちろんたくさんの犯
罪がありますが、あちらで会った日本人の中には「マンハッタンは東京よりも安全だ」と
言う人もいました。そういう点で、2001 年のニューヨークは 1993 年と打って変わって安
全になっていました。
この変化ははっきりとした理由があります。一つは失業者がうんと減り、ホームレスが
減って、失業や貧困に伴う犯罪が減ったということがいえます。
別の理由もあります。ジュリアーニ前ニューヨーク市長をご存知でしょうか。彼はテロ
以前は人気が落ちていましたが、テロ事件の後の巧みな現場指揮が高く評価されて、日本
でも有名になりました。ジュリアーニ市長は治安面では強硬派で、ニューヨークの警察力
を非常に強化しました。徹底的にパトロールをさせました。実際、いたるところで、人気
(ひとけ)のない公園でもパトカーがよく回ってきます。これは警察力強化の現れです。
それから、ホームレスを追い出しました。伝聞ですが、彼らに手当と旅費をつけて追い出
したそうです。どこかに行ってくれ、と。そういうことでニューヨークでは、例えばロサ
ンジェルスと比べてホームレスをあまり見ませんでした。
こういう印象もあって、「ニューヨークは意外に安全です」と私は度々メールで書き送り
ました。しかし、9月 11 日の事件を機に考え直してみると、私は間違っていました。
ニューヨークは、アメリカという世界でもっとも富み、世界のあらゆる問題に口をはさ
み、意に添わなければ軍事介入をし、世界から怨みを買っている国の商業・金融の首都で
す。ニューヨークの人口は、ヨーロッパから来た人々よりも、ラテンアメリカ、アジア、
アフリカから来た人々によって構成されています。ニューヨークはその内部に第三世界を
抱え込んだ世界都市です。こういう世界都市が安全であるはずはありません。
9月 11 日の事件の翌日、タクシーに乗りました。黒人の女性ドライバーは、あなたは
この事件をどう思いますかと聞いてきました。私があなたはどう思いますかと問い返した
ら、彼女は、
「敵はアメリカにいる」と言ったのです。1993 年の世界貿易センターのテロ
事件の犯人も、アメリカの住人でした。9月 11 日のテロも国内の居住者よって準備がさ
れたわけです。ニュージャージーやフロリダが拠点だったといわれています。
先日、12 月7日だったか、ニューヨーク総領事館から「在留邦人へのお知らせ」という
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メールが届きました。そのメールは、大慌てで出したのでしょうが、最初にメールが来た
あと、その訂正メールがあり、次には英文メールが来て、さらにさきほど送ったのは日本
語ソフトを持っていない人のための英語メールでしたという日本語メールがありました。
内容は、アメリカ当局によってテロ警告が発せられたので、危険なところには近寄らない
ようにというものです。
アメリカではサンフランシスコだけが市の条例で銃の携帯を禁止しており、ニューヨー
クを含む他の都市では、銃を所持するだけでなく携帯することもできるそうです。という
ことは、何かあった場合、撃たれるという可能性があります。ニューヨークに限ったこと
ではありませんが、ダグラス・ラミスさんが『経済成長がなければ私たちは豊かになれな
いだろうか』
(平凡社、2000 年)という本で言っているように、アメリカの男性の多くは、
軍事教練で殺人の訓練を受けています。そして、実際に戦争に行って人を殺している人も
少なからずいます。ベトナム戦争帰還兵の犯罪の度合いは、一般の市民より高いといわれ
ています。人々が銃を持っているという点でも、殺人の訓練を受けているという点でも、
アメリカ社会は安全ではありません。
ニューヨークにいた半年は、この世界都市の「怖い顔」と「優しい顔」のうち、
「優しい
顔」を好んで見るようにしてきましたが、最後になって9月 11 日のテロ事件で「恐い顔」
を否応なく印象づけられた、という感じがします。
以上を私のニューヨーク感想とさせていただきます。どうもありがとうございました。
<参考文献>
ジュリエット・B・ショア『浪費するアメリカ人』岩波書店、2000 年
Jill Andresky Fraser, White-Collar Sweatshop, W.W Norton & Company, New York,
2001.
M. Mittelbach & M. Crewdson, Wild New York, 1997, Three Rivers Press, New York,
1997.
Friends of the Earth, “A Handbook on Socially‐Oriented Shareholder Activism”.
Lauren Talner, The Origins of Shareholder Activism, IRRC, 1983.
野村達朗『「民族」で読むアメリカ』講談社現代新書、 1992 年
村上由美子『アジア系アメリカ人』中公新書、1997 年
松本百司『ニューヨークのワイルドライフ――野生生物の楽園』理文出版、2001 年
森岡孝二『日本経済の選択――企業のあり方を問う』桜井書店、2000 年
森岡孝二「ニューヨーク通信」http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kmorioka/
米谷ふみ子『なんや、これ? アメリカと日本』岩波書店、2001 年
青木冨貴子『目撃
アメリカ崩壊』文春新書、2001 年
ノーム・チョムスキー『9.11――アメリカに報復する資格はない』山崎淳訳、文藝春秋社、
2001
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