●時:2015 ●時:2015 年 5 月 17 日 ●題:「復活の証人:あなたは私を愛するか?!」 ●聖書:ヨハネ21 ●聖書:ヨハネ21章 書:ヨハネ21章15- 15-22 節 序 論 ●先週は、「母の日」のメッセージとして、マルタとマリヤがイエス様を自宅にお迎えしたときのことを 通して「無くてならないもの」とは何かについて学んだ。 ●今日は、2 週間前のヨハネの福音書 21 章 1-14 節からのメッセージの続きである。 1.それは、イエス様の復活後、ガリラヤに行った弟子たちが、食事の糧を得るために、その多くが、 かつて漁師だったこともあり、「昔とった杵柄」とばかりに、テベリヤ湖(ガリラヤ湖の別名)で一晩 中、漁をしたときのことである。 2.ベテラン漁師達の夜を徹しての懸命な努力にもかかわらず、一匹の魚も取れないまま朝を迎えた。 3.失望と疲労で途方にくれていたとき、岸辺に一人の男が現れ、ぶしつけにも、何か取れたかと彼 らに聞いた。 4.弟子たちが、正直に「いいえ」と答えると、大胆にも、「船の右に網を下ろしてみなさい」と漁のベ テランたちが一晩中努力しても何も取れなかった湖の中に、また網を下ろすように言った。 5.魔法にでもかかったように、弟子たちはそれをそのまま実行した。しかし、その時弟子たちが経 験したことは、今まで見たことも、経験したこともない、まさに網が裂けそうになるほどの大き な 153 匹の大漁であった。 6.その 153 匹の大漁の意味は何であったか? それがメッセージの中心であった。153匹の魚は、 決して、弟子たちの日用・日常の糧を満たすためではなかった。それは、彼らの朝食のためのパ ンと魚が、すでに別にイエス様によって炭火の上に準備されていたことからも明らかであった。 7.むしろ、その 153 匹の意味は、彼らの生涯と奉仕を通して、イエス様が与えようとしている豊か な結実の約束を意味していた。 (1)言い換えるなら、それは、イエス様が、弟子たちに、「あなた方は、今までのような魚を捕る 漁師ではなく、これから人間を捕る漁師として生きるのである。そして、あながたの生涯には、 この 153 匹が象徴するような大きな結実が与えられる。即ち、私はあなたがたを大いに用いる。だか ら大きなビジョンと信仰をもって進むように」という約束と激励を与えられたのである。 (2)以前にも引用したが、インドへの偉大な宣教師ウィリアム・カーレーは、 ★かつては靴の修理人であった。しかし、後にインドへの宣教師となり、何十もの言語に聖書 を翻訳する仕事に携わり、沢山の宣教団体を起こし、近代宣教の父と呼ばれる人物になった。 ★彼がそのようにできたのは、イエス様が弟子たちに与えられたこの 153 匹の象徴する大き なビジョンに立っていたからである。彼は、このように言った。「神様のために大きなことを 企てよ。そして、神様から大きなことを期待せよ」と。 (3)しかし、それは、あの日弟子たちがそうあったように自分の力や経験ではできないことである。 ★だから、ウィリアム・カーレーも、「神様から大きなことを期待せよ」と言ったのである。 ★その実現のためには、イエス様が共におられること、イエス様の声に従うことが必要である。 弟子たちも、あの日、そのことを経験で知ったのである。 ●今日の聖書箇所はその出来事の続きである。その中心テーマは、前述のように私たちがビジョンをもって、 結実ある人生を生きようとするなら、「イエス様との個人的で親密な(intimate)関係」に入り、生きることが不 可欠であるというメッセージである。 ●それが、15 節以下のペテロとイエス様との会話に代表的に表されている。 ●今日は、この箇所から、そのイエス様との個人的で親密な関係とは何か? それは、どのように打ち 立てられていくのかについてご一緒に考えたい。 ●それでは、まず、「キリストの証人」として生きる私たちが大きなビジョンをもって進もうとするとき、 私たちに から考えて行きたい。 必要、不可欠なイエス様との個人的な関係とは何か? 本 論 Ⅰ.それは、一言で言うなら、私たちが、イエス様との「結婚関係」に入ることである。クリスチャン生涯とは、それ 以上でも、それ以下でもない。イエス様が花婿であり、私たちが花嫁である。 1 A. そのことこそが、三度も繰り返されているイエス様のペテロに対する質問の中心的テーマである。 1.1回目:ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」(15) 2.2回目:ヨハネの子シモン。あなたは、わたしを愛しますか」(16) 3.3回目:ヨハネの子シモン。あなたは、わたしを愛しますか」(17) 4.即ち、イエス様はここで、「あなたはわたしを愛しますか」(Do you love me?)という質問 を3回されたのである。 5.これは正に、イエス様からペテロに求められた「求婚」Propose とも言うべき質問であった。 1.このペテロの姿は、正に、結婚式の誓約で「YES, I DO. はい。わたしは誓います。わたしは あなたを愛します」と答える花婿・花嫁の姿を思い起こさせるものである。 2.即ち、イエス様は、ここでペテロと結婚関係が象徴する個人的で、親密な関係に入りたいと ペテロを招かれたのである。求婚されたのである。 1.「宗教」として、キリスト教的生き方をするために、イエス様を、教祖、先生、指導者として 崇め、仰ぎ、追従する信者になるという関係ではない。 2.あるいは、イエス様を「お助けマン」や、「アラジンのランプのジーニー」のように、何でもお 願いするなら答えてくれる、助けてくれる、守ってくれる便利な魔人として、或いは「足長 オジサン的な存在として信じ、頼る関係になることでもない。むしろ、 3.イエス様が求めておられるのは、私たちと「愛の関係」、「結婚関係」に入ることである。 (1)だからイエス様は、直に、ペテロに「あなたはわたしを愛するか」と聞かれたのである。 (2)今日私たちにもイエス様はもう一度「あなたはわたしを愛しますか」と聞かれるのである。 B.これに対して、ペテロは3回とも、「Yes, I do. はい、私はあなたを愛しています」と答えた。 C.イエス様が、わたしたちに求めておられる関係は: D.聖書には、神様、或いは、イエス様とわたしたちの関係を表すイメージが一杯ある。しかし、実は、この「結 婚(花婿・花嫁の)関係」こそが、最終的、究極的イメージである。 1.即ち、「キリストの花嫁」であるということが、結婚している人であれ、独身の人であれ、す べてのクリスチャンの究極的 ID である。クリスチャンとは誰か? キリストの花嫁である。 2.そのことは、パウロの書いたエペソ 5 章 25-33 節や、ヨハネの書いた黙示録の最後の部分 21-22 章を見ても明らかである。 3.それらの箇所には、キリストが花婿であること、クリスチャンが、また、群れとしての教会 が花嫁として描かれている。 4.更にパウロは、Ⅱコリント 11 章 2 節で、このように言う。「私はあなたがたを清純な処女 として、一人の人の花嫁に定め、キリストに捧げることにしたからです」と。 5.即ち、クリスチャンとは、単に、ある主義や考え方、思想体系を信奉する人々ではない。ク リスチャンとは、イエス様を花婿とし、自らをその花嫁とする、イエス様と結婚関係を結ぶ 愛の親密な関係に入った人々のことである。 6.有名な聖徒として世界中の人に知られている故マザー・テレサは、彼女自身地上的には、生 涯を独身で過ごした方であったが、彼女はいつも自らを「キリストの花嫁」と自覚し、そのよ うに告白していた人物であった。 7.彼女の最後の言葉は、すぐそばにいた修道女の報告によると〝Jesus, I love you”だった。 8.彼女は最期まで、主との愛の関係に生きた。その事実こそが、キリストの証人として、彼女 が激しい奉仕の生涯を生き抜くことができた原動力であった。 Ⅱ.イエス様とのこの親密な愛の関係に必要なものが4つある。それをイエス様とペテロとの対話から学ぶ。 A. 第一は、過去が清算されていることである。 1.人が、「結婚」と言う、新しい関係をスタートしようとするなら、二人が、それぞれ、その過 去を清算することが大切である。 (1)過去を曖昧にしたままであったり、ずるずると引きずり込んで新しい関係は始まらない。 (2)あえて具体的に言うなら、例えば ●それぞれが過去の異性関係を整理しなければならないことである。 2 ●或いは、どちらか一方が借金を負っていて、もしそれが結婚までに整理仕切れない場合、 その状況を両方が知らされていること、結婚後は、新しい意味で、二人のものとして担 っていくことを両者が了解し、受け入れなければならない。 (3)過去を過去とし、隠さず、受け入れ、赦し合う、ゼロからのスタートが必要である。 (4)古い、カスのような物を残したまま、新しい、しかも個人的で親密な関係をスタートす ることはできない(マキで風呂を焚こうとしたら前日の残った灰の掃除から始まるように)。 2.イエス様は、このことをよく知っておられたから、ペテロとの愛の関係を築くために、まず、 過去の清算から始められたのである。 (1)即ち、イエス様は、ペテロが過去の清算をしたか、それを確信しているか、新しい関係 をスタートする準備ができているかを確認されたのである。 (2)と言うよりも、イエス様は、ペテロが自分自身で、「私の過去の清算は終わった」と確信 できるように対話のうちに導かれたのである。 (3)ここに、イエス様がペテロに、誰もが「なぜ?そんなにしつこく」と思うほど、3 回にも わたって、同じ質問を繰り返し、彼に 3 回同じことを言わせた理由がある。 (4)ペテロは、3 回にもわたってイエス様を「知らない」と、しかも最後には「神にかけて」と 誓って、イエス様を裏切った自らの罪の重さと恥ずかしさで長い間苦しんでいた。 ●彼は、もしかしたらもう二度と赦されることはないとまで思っていた。 ●たとい赦されても、完全に赦されるなどあり得ないと思っていた。 ●少なくとも、もう神様に以前のように用いて頂くなどということはない。 ●ましてや、かつてのようにリーダーとしてご奉仕させて頂くなど到底ありえないと思っ ていた等々。あの時のペテロはそんな不確かで曖昧な気持ちであったことが想像できる。 (5)そんな曖昧では、新しい愛の関係には入れない。 ●イエス様はペテロに、「私はあなたを完全に、完璧に赦した。もう過去は終わった。過 去は清算された。私は、あなたを前と同じように受け入れている。否それ以上だ。私は あなたを牧者として大いに用いる計画だ」と、ここで言われたかったのである。 (6)だから 3 回の罪に対して 3 回の対話を通して、赦しと癒しの確証を与えられたのである。 (7)3 回は完全数のひとつである。3 回「知らない」と言って、完全にイエス様を拒絶したペ テロの罪が、3 回のイエス様との対話とお言葉で、完全に赦されたことをペテロに確信さ せたかったのである。 3.私たちには、イエス様や人との間に、過去の清算されていない問題はないか? もしあるな ら、それを今イエス様との対話を通してはっきり清算したい。またその確信を頂きたい。 1.イエス様がペテロに、「あなたは、この人たち以上に私を愛しますか」と尋ねられたとき、イ エス様は、ペテロにペテロの至高の愛を求めておられたのである。 2.ここで原語では、「この人たち」と日本語で訳されている(英語では"these")語が、その形か らだけ言うと、男性名詞とも、中性名詞とも取れるし、また目的格とも、主格とも取れると ころから、この文章は文法的に次の三つの解釈が可能となる。 (1)ペテロ、あなたは、ここにいる他の弟子たちが私を愛する、その誰の愛にも勝って私を 愛するか? (2)ペテロ、あなたは、ここにいる他の弟子たちを仲間として愛している。しかし、その誰 を愛する愛にも勝って、私を愛するか? (3)ペテロ、あなたは、漁師として、ここにある舟や網、即ち漁師としての仕事を愛してき たことはよく知っている。しかし、それらの何にも勝ってあなたは私を愛するか? 3.そのいずれであれ、イエス様がここでペテロに求められていることは、ペテロの至高の愛、 最高の愛、第一の愛をイエス様に向けることであった。 (1)即ち、残り物の愛ではない。ほかの色々な物・者を愛して、最後に残った愛ではない。 (2)或いは、沢山の者・物を愛して、そのうちの一つとしてイエス様も愛するのではない。 B.次に、イエス様と親密な愛の関係に入るためには、イエス様に私たちの至高の愛を捧げなければならない。 3 (3)「聖書の中でもっとも大切な教えは何ですか?」と尋ねられたとき、イエス様は何と答え られたか? 第一の教え、命令は、心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、力 を尽くして、即ち全力を尽くして、主なる神を愛することである。それから、第二番目が、 あなたの隣人を愛することだと言われた。即ち、神様を愛することが第一である。 (4)思い出して頂きたい。イエス様がここで求めておられるのは、「夫婦の愛」であることを。 ●私たちは確かにすべての女性(男性)、人々を愛さなければならない。 ●しかし、私たちの愛は、まず最初に、最高に自分の妻(夫)に捧げられなければならない。 ●それと同様に、私たちは沢山の愛すべき物・者に囲まれているが、まず、最初に、全力 を尽くして、私たちがイエス様を愛すること、それが、イエス様の願いである。 4.ところが残念なことに、多くの人々が、神様を第一に愛して生きること、そんなことは無理 だと初めから諦めてしまっている。 (1)しかし、イエス様は、そんなペテロや私たちの弱さや足りなさは分かった上で(事実この 後もペテロは失敗する。そのことを承知の上で)、ペテロにあえて聞いているのである。 (2)イエス様は、後に失敗するかどうかとは関係なく、ここでペテロの Yes, I do を聞きたい のである。 (3)将来の現実がどうであれ、今のあなたの気持ちを聞きたいのである。なぜなら将来は、 未来は、現在の毎瞬の積み重ねだからである。 (4)私は、来週の日曜午後、DC であるカップルの結婚の司式をするが、その中心は「誓約」で ある。「私は、今日からこの女性(男性)を妻(夫)として、富めるときも、貧しいときも、健 やかなときも、病めるときも、如何なるときも、これを愛し、これを慰め、励まし、助け、 私たちが共に生きる限り、堅く節操を守ることを誓います」。これが結婚の誓約である。 ●誓約のとき、まずすべての結婚する男女が、ほぼ例外なく、「はい、誓います」と言う。 考えてみたら、それが現実には、そんなに易しいことではないと分かっていてもである。 ●そこで如何にも正直ぶって「できるかどうかは分かりませんけど」とか、「そんなことで きるとは思いませんから、はっきりとした約束はできません」という人はまずいない。 ●将来どんなことが待っていても、その時点では、その献身的愛が、その人の正直な気持 ちであるからである。 (4)もし、あなたが、既に結婚している方なら、あの結婚式の時に、あなたの主人に、奥さ んに誓った時のことを思いだして頂きたい。そして、それと同じ気持ちで、同じことをイエ ス様に言って頂きたい。ペテロがそうしたように。 5.この愛の告白と応答なくして、私たちとイエス様との親密な関係は始まらない。 時間がないので、残りの二つについては、ごく短く触れることを赦していただきたい。 C.イエス様との親密な関係を支える三番目のこと、それは「使命 Mission をもって生きる」ことである。 1.イエス様との親密な関係というと、ともするとただ「甘い生活」を想像する人もいる。しかし、 クリスチャン生涯とは、夫であるイエス様と共に苦楽を共にしつつ使命に生きることである。 2.ペテロが、イエス様との親密な関係に入ったことを確認したとき、イエス様は、間髪を入れ ずにペテロに言った。「私の小羊を飼いなさい」「私の羊を牧しなさい」とペテロに「使命」を与 えられたのである。 3.使命に生きるとは義務に生きることではない。使命は、愛の実である。愛は、愛する者のた めに労する。愛する者に尽くしたいと思う。愛するものと共に働いて協働作業としての実を 求めるのである。丁度、それは愛し合う夫婦が子供を求め、産むことと似ている。 4.私たちにも、イエス様は同じことを語り、求めておられる。 (1)皆様一人一人に託されている羊が、子羊がいる。家庭に、教会に、コミュニティーに。 (2)羊の囲いの中にいる羊もいるし、羊の囲いから迷い出ている羊もいる。 (3)それらの人々(羊)のことをケアーするようにイエス様はあなたに求め、期待しておられる。 1.ペテロは、以上、第三番目までは理解できた。受け入れらた。 D.イエス様との親密な関係を支える四番目のこと、それは、イエス様だけを見ることである。 4 2.しかし、この第三の使命の道が、殉教という、自らの「死」を含んだものだということが分か ったとき、 (1)一方で、それを、「それもやむをえないこと」と納得し、受け入れようとしつつも、 (2)他方で、「でも、何で私だけが」と言うような、ひがむような、不公平だと思うような思 いが出てくるのも事実であった。 (3)そこで、前から気になっていた弟子、ヨハネを指さして、イエス様に「あの人はどうなん ですか? あの人も殉教ですか?」と聞いたのである。 3.私たちの人生の最大の誘惑は、「ほかの人と自分を比べる」「他の人の人生と自分の人生を比 べる」ことである。 4.しかし、私たちがそれをしている限り、私たちは、決して、イエス様との関係を親密に保つ ことも、深めることもできない。その結果は、人生の絶えざる不安定である。 5.だから、イエス様は、ヨハネと自分の人生を比べて悩むペテロに言われた。「あなたと彼と 何の関係がありますか、あなたは私に従って来なさい」(ヨハネ 21 章 22 節)と。 6.水野源三さんは、10 歳のとき集団赤痢から、瞬きをすること以外のすべての運動機能をう 失い、重度の身障者として生涯を送った。その彼が、わずか 8 歳で両目の視力を失っていこ うとする少年に、瞬きによる意思表示で贈った励ましの言葉は、「他人(ひと)と比べないで生 きてください」であった。 7.「人と比べないで生きる」、「イエス様だけを見て生きる」。それこそが、水野氏が重度の障害 をかかえながら、「朝、静かにこの一日のみ恵みを祈りおれば、わが心に溢れくくる主イエ スにある安らぎ」と、イエス様との親密な関係の中に生き続けることができた秘訣であった。 結 論 ★私たちも、ペテロのように、水野氏のように、イエス様の求愛に応えたい。 ★あの結婚式のときのように、「YES, I DO. 私もあなたを愛します」と言って、私たちの永遠の夫であるイ エス様にすべてを与え、最高の愛を捧げ、イエス様だけを見て、イエス様だけに期待し、従って行きたい。 5
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