●時:2015 ●時:2015 年4月12日 12日 ●題:「信じる者となる」 ●聖書: ●聖書:ヨハネ 書:ヨハネ 20 章19-26 -26 節 序 論 ●中国古代の思想家、儒教の始祖孔子の弟子が、ある時、孔子に尋ねた。国を治めるために必要なこと は何かと。孔子は、弟子に言った。「十分な軍隊と食糧、そして民の信頼である」と。 1.弟子は続いて孔子に尋ねた。「もし、その全部を準備できないとするなら、その内のどれを失っ ても良いか?」と。「軍備である」と孔子は答えた。 2.弟子は更に、孔子に問うた。「もし、残る食糧と信頼の両方を期待できないときは、どちらを失 うべきか?」と。すると孔子は、「食糧である」と。 3.そして、孔子は言った。「民、信なくば立たず」と。即ち、国家、社会というものは、「信頼」がな ければ立つことはできないと。 ●著名な経済学者であるフランシス・福山は、その著書「信なくば立たず」(原題は Trust 信頼)で、経済 の世界においても、互いの「信頼」度が高いほど、その発展が容易になると言って、「信頼」の重要性を 強調している。 ●これらが私たちに告げていることは、人間関係、また人間が生きる上における「信頼」の重要性である。 1.もし、夫婦が、互いの間で信頼できなくなったら、二人は夫婦としての幸せを持ち続けることが できるだろうか? 2.9・11の同時多発テロ事件以来、世界は、急速にお互いにお互いを「信頼」できない、否、「信 頼」してはならない社会となって来た。そして、いわゆる「住みにくい」世界になりつつある。 (1)先日、過去に何の罪も犯していない。犯罪歴もない。善良な市民であり、今回もこれまでの ところ?は何一つ悪いことはしていない下田ご夫妻が、テキサスで米国に入国して、税関を 通過する際、たった一つ、Non-Visa での「3 ヶ月の長期滞在」という理由のために、怪しい 者と疑われ、3 時間近くも別室で取り調べられ、2機も飛行機を逃した。 (2)飛行場で、また入管で、人を疑わなければならないために、どのくらい膨大な経費、無駄な 時間、そして不愉快さと言う代価が払われているかわからない。 3.それでも、なお互いを信じる心がどこかに少しづつでも残っているからこそ、私たちの社会はそ れでもなんとかやっていけるのであるが、今やその信頼を失い、確実に行き詰まりつつある。 ●そもそも、私たち人間にとって、「信頼する」とか、「信じる」「という心が必要なのは、私たち人間が、 霊的な存在者として造られているからである。 1.私たち人間は確かに「物」の世界の一部であり、その「物の世界」に生きている。そのために、「物」 を知り、確かめるために、「聞く」「見る」「触る」「味わう」「嗅(か)ぐ」という「五感」をもっている。 2.しかし、人間には「物」とは別のもう一つ別の世界がある。「霊」の世界である。「愛」の世界である。 (1)確かに、人間は、肉体を持つ動物の一部として物の世界に生きている。 (2)しかし、同時に、人間は、霊である神様のように、霊的な存在である。 ●神様は、創世記 1 章26節で「我々に似るように、我々のかたちに人を造ろう」と言われた。 それは、私たち人間が、神に似た存在、即ち、霊的な存在となったという意味である。 ●更に、神様は、創世記 2 章7節に記されているように、「人を形造り、その鼻にいのちの息 を吹き込まれた」のである。 ●「息」は、ヘブル語で「霊」と言う言葉と同じである。言い換えるなら、神はここで人にご自 身の息、即ち、霊を吹き込まれ、ご自分と同じ霊的な存在となさったのである。 3.霊的な世界、それは、神様を知る世界であり、人間の物質的でない部分、愛を知る世界である。 4.この世界は、物の世界ではないので、見る、聞く、触る、嗅ぐ、味わうなどの五感では何かを知 ることができない。神様は、私たち人間に、この世界で何かを知るために、「信ずる」「信頼する」、 「信仰」と言う機能を私たちに与えてくださったのである。 5.だから、私たちは、クリスチャンとなるか、ならないか以前に、その対象が神であれ、人であれ、 信じる、信頼すると言うこと抜きにして、人間らしい生き方はできないのである。 6.しかし、聖書は、その信頼は、まず霊と万物の根源である神様との関係から始まると言う。 1 ●聖書を開くとき、そこに、「信じる」ことの重要性で溢れている。ごく代表的なものを挙げるなら: 1.マルコ1章15節「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」。 2.ローマ1章 節「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべて人にとって、救いを得 させる神の力です」(ローマ 1 章 16 節)。 3.ヘブル 11 章6節「信仰がなくては神に喜ばれることはできません」。 ●今日ご一緒に読んだ聖書の箇所は、 1.主のご復活を祝う「イースター」の日の夕方、自分たちもイエス様と同じように捕まえられるので はないかと恐れ、ある人の家の二階座敷に戸を閉めて隠れていた弟子たちの前に、イエス様が、 突然現れたこと。 2.そのイエス様を見て、当然のことながら、弟子たちは、驚きと喜びで一杯になったこと。 3.しかし、そこにいるべき弟子が一人欠けていたこと、それがデドモとも呼ばれるトマスであった こと。 4.ほかの弟子たちが喜びと興奮をもってイエス様の奇跡的復活と再会を、戻って来たトマスに告げ ると、トマスは、「私はそんなこと信じない」と冷たく反応したこと。 5.すると、それから、丁度一週間後、今年のカレンダーで言うと、イースターから一週間後の今日 の夕方再びイエス様は弟子たちの前に突然現れたこと。 6.そして、トマスに、「信じないものにならないで、信じるものになりなさい」「見ないで信じる者は 幸いです」と不信仰をただされたことが記されている。 ●この箇所から、今日は、トマスの姿を中心に、「信じる者になりなさい」と言われるイエス様のお声の中 にメッセージを頂きたい。 本 論 Ⅰ. ここで、第一に心を留めるべきことは、イエス様が、トマスに求めたことは、普通ならとても「信ずる」ことができ ないようなことを信じるように求められた事実である。 A. 多くの人は、信じることに範囲を設けている。 1.信じることとについて多くの人が言う。「信じても良いけど、そこまでは信じられない」と。 即ち、ここまでは信じられるけど、そこまでは無理だと。 2.たとえば、私が、「昨日、家の前で滑って転んだ」と言ったら、あの先生ならあり得る。オッ チョコチョイだから。と皆様は簡単に信じるであろう。 3.あるいは、私が、「滑って転んで、そこに丁度車が来て、車の下敷きになったけど、かすり 傷ひとつしないで、元気に起き上がった」と言っても、「ヘーッ」と一瞬、信じられないと言 う表情をしたとしても、そんなこともあるんだなと恐らく、そのまま、私が安全に守られた ことを信じるであろう。このように、 4.多くの人は信じると言っても理性の範囲内であることが基礎である。そして、もし理性で及 ばない範囲が少しだけなら「その位なら起こりうるかな」と信じるのが普通のパターンである。 B.しかし、ここでイエス様が、トマスに求められたのはそういう信仰ではなかった。イエス様は、トマスに、理性 でうなずける範囲を少しどころではない、遥かに越えたことを信じるように求められたのである。 1.それは、「死人が甦る」という事実である。それは単なる蘇生ではなかった。皆様の誰が、死 人が甦るなどということを信じられるであろうか? 2.イエス様の死と復活についてもう一度整理してみると: (1)それは、数時間前に死んだと思われていたある人が、実は、本当には死んでいたのでは なかったので、突然息を吹き返したなどというのではない。 (2)イエス様は本当に死なれたのである。十字架という極刑に掛けられて、むごたらしくも 惨殺されたのである。 (3)ローマの兵隊たちは、イエス様の死んだと思われる体を、その死を確かめるために、あ るいは、死を確実なものにするために、その遺体の足を折り、槍で脇腹を突き刺すという ダメ押しまでしたのである。イエス様は、どこから見ても完全に死なれたのである。 (4)しかも、それから、足掛け3日も経っていた遺体である。 2 (5)更に、その遺体は、今のように、蘇生を願って治療を受けていたわけでもない。岩穴の ような墓の中に放置されていたのである。 (6)そして、外にはローマ政府による封印がなされ、ローマ兵24人が交替で厳重に警戒し ていて、誰一人、指一本も触れることができない状態であった。 (7)イエス様は、そのような中から甦られたのである。 (8)それは、単に、普通の人が言う常識の範囲を超えているだけではない。それは、考えら れないほどに、遥かに常識の範囲を超えていた。 (9)即ち、人間的には、知性的には、あり得ない、不可能なことであった。 3.しかし、それが、イエス様が、トマスに求めた信仰であった。 (1)それは、常識を超えた信仰であった。 (2)しかし、それは、常識を少し超えたどころではない。それなら彼も信じられたであろう。 (3)それは、死人が甦るという常識を遥かに超えたことをそのまま信じる信仰であった。 (4)そして、イエス様は、今、その信仰を私たちに求めておられるのである。 ●あなたは、トマスのように、「そんな常識を超えたことを私には信じられない」と言われ るかもしれない。確かに、それが人間の性であろう。 ●しかし、イエス様は、トマスにそれを願ったように、あなたにも、常識を遥かに超えた ことを信じるものであって欲しいのである。 ●なぜか? それは、イエス様が私たちのために準備された福音は、常識や、人間の想像 の範囲内にあるものではない。それらを遥かに超えた驚くべきアメージングなもので あるからである。 ●聖書は言う:・・・・(Ⅰコリント 2 章9節)。 Ⅱ.しかも、第二に、イエス様は、トマスに、イエス様の死人の中からのご復活を、イエス様が実際に復活されたそ のお姿を見ないままで、信じるように求められたのである。 A. 多くの人々は、この点で、主のご復活の日の夕方に起きたこの出来事について、しばしば間違った感じを 持っているように思う。 1.と言うのは、多くの人々は、この出来事の中で、 (1)ほかの弟子たちは、イエス様の復活を素直に信じた信仰の優等生で、 (2)一方、トマスは、イエス様の復活を最初信じられなかった信仰の足りない信仰の劣等性 であるかのように感じている。 2.しかし、それは、大きな間違いである。ほかの弟子たちは、復活のイエス様を見たのである。 だから信じたのである。彼らは、見ないで信じた訳ではない。 3.彼らも、もし、イエス様がご復活の日の夕方に現れたとき、そこにいなかったら、トマスの ように、イエス様のご復活を信じなかったであろう。 4.だから、トマスだけが特別に劣等性な信仰者だというのではない。 (1)ほかの弟子たちも同じである。 (2)そして、私たちも、みな同じである。 (3)誰だって見なければ信じられないのである。 1.ここが大切である。イエス様は、トマスに、「それで良いよ。信じられなくって良いんだよ。 人間は弱いんだから」とは言われなかった。 (1)多くのクリスチャンがこの点を誤解している。 (2)神様は私たちの弱さに同情してくださる。確かにそうである。 (3)ありのまま、弱いままを受け入れてくださる。確かにそうである。 (4)しかし、そのままでいて良いとはどこにも書いていない。 (5)むしろ、聖書は、信仰が成長するように、完全に向かって変えられていくように勧めて いる。「完全を目指して進もうではないか?」(ヘブル 6 章1節)。 (6)ここでも同じである。信仰がないなら、信仰を増してくださいと祈り求めるべきである。 2.27-29節を見ていただきたい。そこには: B.しかし、イエス様は、トマスに、また私たちにも「見ないで」信じるものとなるように求めておられるのである。 3 (1)甦ったイエス様に直接お会いして、ほかの弟子たちのように、イエス様のご復活を信じ、 ひれ伏しているトマスがいた。 (2)しかし、イエス様は他の弟子たちのときのようにそれだけでは満足されなかったとある。 (3)トマスに言われた。「あなたは見たから信じたのか?見ないで信じるものは幸いです」と。 (4)イエス様は、本当の祝福・幸いは、「見た」から信じると言う信仰によってではなく、「見 ないで」信じる信仰から来るとハッキリと言われたことが記されている。 (5)言葉を換えるなら、「見えるところによる信仰にばっかり留まっているから、いつまで経 っても、本当の信仰の醍醐味・祝福を味わえないのである」と言われたのである。 3.なぜか?なぜ「見ないで信じる」ことが必要なのか? (1)見ないで信じることが、信仰の本質だからである。 (2)言い方を換えるなら、見て信じるのは本当の信仰にはならないと言うことである。 4.そもそも、「信じる」とは何か? (1)多くの人が、「信じる」ことと、知的に「納得する」ということを混同し、誤解している。 (2)例えば、ちょっと理解しにくい、複雑な現象を知的、科学的に説明してもらうとする。、 ●説明を聞いてから「あーそうか、確かにそれならそう言うこともあり得るか」と納得する。 ●そして、「それなら、私も信じます」「そういうことなら、それもあり得たこと・あり得 ることと信じます」と言う人が多い。 ●しかし、それは「信じる」と言う言葉の誤用である。それは、本当は、「それなら私も納 得しました」「分かりました」と言うべきで、「信じます」ではない。 (3)理性で分かる、あるいは、納得できる間は、私たちには信仰はいらない。 (4)世界には、私たちの人生には、理性では理解できない、分からない、証明できない、納 得もできないことがある。●最近も、以前看護婦さんをしていた方が、(科学的、医学的 な環境である)病院で働いていて、いくつも科学では証明できない、説明できない現象に いくつも遭遇したことを話しておられた。 (5)信仰はそこに登場するのである。即ち、見えないとき、聞こえないとき、触れられない とき、味わえない時、嗅げないとき、私たちの知覚が五感では届かない世界のものを知ろ うとするとき、信仰が必要なのである。 (6)言い換えるなら、分からないから信じるのである。納得できないから信じるのである。 5.ここに信仰の本質がある。 (1)それは、自分の理性の限界を知って、認めて、自分の理性よりも大きなお方、自分の理 性よりも確かなお方、その理性のそもそも造り主であるお方を信じることである。 (2)即ち、クリスチャン信仰の本質は、イエス様ご自身の人格と、そのなさった御業と、そ のお言葉、即ちイエス様と言うお方の全部に信頼を置くことである。 (3)このことを教えているのがルカ 5 章の最初の部分に出てくるペテロの言葉である。イエ ス様は湖岸から少し漕ぎ出したボートの上から説教し終えた後、そばにいたペテロに更に 深みに漕ぎ出して網を下ろすように言われた。ペテロは最初同意できなかった。ベテラン 漁師である自分が一晩中仲間たちと網をおろしていたのに、そこからは何も獲れなかった。 漁師でも何でもないたかが元大工のイエス様が漁のことで何が分かると思った。魚が獲れ るなどと信じられなかったのである。しかし、ペテロはそこで何と言ったか? 「でも、 お言葉ですから(お言葉通り)、網を下ろしましょう。Because you say so」(ルカ 5:5)。 (4)そうです。信仰とは、すべてのインディーケーターの針が、「あり得ない」と指さしてい るとき、英語で言うと against all odds、「でも、あなたのお言葉ですから」と全面的な 信頼をイエス様に託することである。 結 論 ★今日の聖書箇所を読むたびに思い出す水野源三さんの「キリストにお会いしてから」という詩を思い出す。 1.戸をかたく閉め切っていた 部屋に入って来られた キリストにお会いしてから、キリストにお会いしてから 4 2.その両手と 脇腹に きずあとが いたいたしい キリストにお会いしてから 私の心が かわった 3.信じないものに ならずに 信じなさいと言われた キリストにお会いしてから 私の心が かわった お会いしてからー ★明らかに、今日の聖書箇所を背景に作られた詩である。 ★水野源三さんは 10 歳のとき、彼の住む長野の田舎を襲った集団赤痢による高熱のために、体の全運動機 能を奪われ、動かすことができるのは、まぶたで瞬きをすることだけであった。12 歳のとき一時的、奇跡 的に口が少し聞けたことがあったが、そのときに彼の口から出ることは死にたいと言う言葉だけであった。 その彼が、15 歳のときイエス様と出会った。そして、まもなく母親とともに「瞬き」と「50 音表」を使って 一字一字意思表示する手法を編み出し、詩をつづるようになり「瞬きの詩人」と呼ばれた。 ★彼のこの詩は、「信じないものにならずに、信じなさい」と言われたイエス様との出会い、そのイエス様と 生きた 30 年以上に及ぶクリスチャン生涯を表している。 ★彼の生涯は人間的に言うなら、見えるところから言うなら、イエス様を信じれば幸せになりますなどと言 える生涯ではなかった。見えるところから言うなら、イエス様を信じたって、何にもよくならないじゃない か、何にも変わらないじゃないか、・・・・などなど、信じられない材料ばかりである。 ★でも、その中で、イエス様は、水野さんに信じないものにならずに、信じなさい。と言われたのである。 ★そして、それをしたから、彼の生涯は輝いたのである。彼に励まされた人がどのくらいいたことか?! 8 歳で視力を失っていく少年、三浦綾子、榎本保郎、日本中の多くの人々 ★今日、私たちは、最初トマスがそうだったように、他の弟子たちのようにイエス様の復活に直接お会いし たわけではない。しかし、イエス様は、復活のイエス様を直接見た人々が幸いになるのだとは言われない。 むしろ、復活のイエス様の事実を直接見ないで、信じる人が幸いになると言われたのである。 ★このようなお扱いを受けたトマスは変わった。すばらしい使徒となった。そして南インドにまで行って大 宣教を展開したと言われる。あの達磨(ダルマ)の元祖はトマスという伝説もある。かくもインドの文化と歴 史に即席を残す、偉大な使徒となったのである。 ★それは若き日に、信じないものにならずに信じるものになること、見てしんじるのでなく、見ないで信じ ることを学んだからである。 5
© Copyright 2024 Paperzz