フランス共和派の「ナシォンの政治社会学」

フランス共和派の「ナシォンの政治社会学」
北 川 忠 明
はじめに
Ⅰ.承認の思想と相対的な相対主義
Ⅱ.「市民の共同体」としてのナシォン
1.ナシォンの概念
2.政治的ナシォン論
Ⅲ.寛容の共和主義と多文化主義
1.本質主義の拒否
2.多文化主義の批判
Ⅳ.ナショナルな市民権は超えられるか
1.「新しい市民権」論の批判
2.「ポスト・ナショナルな市民権」論の批判
おわりに
はじめに
ポストモダニズムからカルチュラル・スタディーズにいたる国民国家批判の立場では、「国
民国家は崩壊すべきもの、乗り越えられるべきもの1)」であり、国家へ回収される「<国民>
という怪物」もまた超克の対象となるものだろう。しかし、国民国家の揺らぎが自明のことと
はいえ、その崩壊が近い将来に現実になると考える論者は少ないし、国民という「想像の共同
体」の生命力の根拠を軽視するわけにもいかない。また、国民や国家の観念に結びついてきた
共和主義という観念も、20世紀の逸脱現象に関わりがあるとはいえ、安易に手放すわけにいか
ないだろう。
コミュニタリアニズム
とはいえ、英米においてリベラリズム批判として登場してきた共同体主義と、J.G.A.ポーコ
ックの『マキアヴェリアン・モメント』以来の共和主義ルネサンスを下敷きにして、共和主義
精神を「祖国のために死ぬ」という点に収斂させ、国民国家の復権を論じる保守主義的共和主
義2)に与するつもりもない。一口に共和主義といっても、共同体主義的立場をとるものもあれ
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政策科学8−3,Feb.2001
ば、ジャコバン主義に固執するもの、リベラリズムに親和的なものと多様である。フランスで
は、L.フェリーやA.ルノーのように、ポストモダニズムによる共和主義批判を受け止めつつ、
共和主義の新たなる基礎づけをしようとする政治哲学者や政治社会学者がいるが、これらは、
英米における共同体主義とそれを基礎にした共和主義よりも、J.ロールズのようなリベラリズ
ムに近い要素をもつものである。今あげたルノーは、「イスラムのヴェール事件」などによっ
てフランス・ナシォンのあり方が問われた1980年代の末に、フランス型ナシォンとドイツ型フ
ォルクとの対立を越えるナシォンのあり方を模索することを提唱していた。本稿では、リベラ
ル共和主義におけるナシォンの再規定の試みに焦点を絞り、ルノーたちの流れに近く位置する
ドミニク・シュナペール(Dominique Schnapper)の国民=ナシォンの社会学をとりあげたい
と思う3)。
シュナペールは1934年生まれの社会学者であり、R.アロンの長女でもある。フランスにおけ
るユダヤ人問題や移民問題・国籍問題について長期間研究し、わが国では、従来の「同化主義」
と他方での「差異主義」を批判しつつ、
「統合」の論理を提示した『統合のフランス』
(1991年)
の著者として知られている4)。また、わが国でも知られているP.ビルンボームやP.=A. タギエ
フとも共同で仕事をしているようであるが、その後『移民たちのヨーロッパ』(1992年)、『市
民の共同体』(1994年)、『他者との関係』(1998年)、『市民権とは何か』(2000年)といった著
作を刊行しており、『市民の共同体』は英訳もされている。ナシォンや市民権に関する理論的
な検討に比重をおいた研究に力点が移動しており、フランスにおける共和派ナシォン論の現況
をみるのに適切な人物といってよいだろう。本稿では、90年代の彼女の著作を手がかりにして
フランス共和派のナシォンの社会学を検討したい。なお、ナシォンとは何かを問うことは国籍
をどう考えるかという実際的問題に関わるが、ここでは、国籍法改正などの政策的問題との関
わりではなく、様々な理論動向との関わりで彼女の議論を整理することに課題を限定したい。
Ⅰ.承認の思想と相対的な相対主義
啓蒙的理性批判としてのポストモダニズムやカルチュラル・スタディーズは、同一性に対し
て差異を、共和主義の普遍主義に対して文化的多元性を対置してきた。そこには、「他者」=
異民族にどのように向き合うかという問題がはらまれていた。
『他者との関係』は、モダンの到来、ナシォンの形成・発展、植民地主義とともに、ヨーロ
ッパ(イギリス、ドイツ、フランス)とアメリカの近現代の思想と社会学が、非ヨーロッパ人
との邂逅において、「他者の承認」の問題とどのように向き合ってきたかを論じた大著である。
ここでは、「他者の承認」問題に関する彼女自身の構えに限定してみておこう。
シュナペールによると、「他者を考える思考様式」には二つのものがある。一つは、差異の
承認すなわち人間社会の多様性を承認することから出発する。それはモンテーニュにみられる
「寛容」の基礎になるが、文化的相対主義にもつながる。もちろん、普遍的真理を否定する相
対主義は、相対主義を正しいものとして語るならば自己言及のパラドクスを免れない。しかも、
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フランス共和派の「ナシォンの政治社会学」 (北川)
文化的相対主義は、文化的多様性を横断する普遍的に承認しうる基準を拒否することによって、
諸集団間の融和ではなく、諸集団と諸文化の並存を固定化する。この時、寛容は共存を可能に
するけれども、他者への「無関心」を内包するようになる。そこでは、他者は融和不可能な他
者として疎遠な存在にとどまる。「差異主義 différentialisme」の根底にあるのはこれである。
第二のものは、普遍主義の原理または「人類」の統一性を想定する。この立場では、「他者
とは別の自己である l’Autre est un autre soi-même5)」と考えられ、他者と自己とは置き換え
可能である。それは「共感」に支えられた関係をつくる。しかし、現実に存在する差異や不平
等に直面するとき、「他者とは別の自己である」という思考は、他者は自己と同一でなければ
ならないという思考にスリップし、他者の特殊性を軽視することになる。そのとき、普遍主義
原理は同化主義や植民地主義に堕することになる。
こうして、差異主義においては、他者と自己との異質性のみが強調されるが、同化主義では、
他者と自己との同一性のみが強調され、両者において他者としての他者は否定される。この両
者をどのようにして越えるかが問題であるが、差異の承認と普遍性原理とはもともと二律背反
の関係にあり、近代化とともにこの二律背反は鋭くなる。近代社会における政治的平等化とい
う普遍的原理は同化主義への傾向を生むし、他方で、テクノロジー発展は時間的・空間的距離
を縮小し、人類と個人との中間領域である文化の多様性という現実をますます露わにさせ、同
時に文化的相対主義を生む。
モダンがはらむ二律背反を踏まえた上で、今日の争点は、絶対的相対主義と「相対的な相対
主義 relativisme relatif」のどちらを選択するかにある。絶対的相対主義は、レヴィ=ストロー
スの構造人類学以来、西欧近代の相対化を様々な形で提起してきた思考に潜むものである。そ
れは、西欧近代の進歩の観念に潜む人種主義および植民地主義を批判しながら、文化の根本的
異質性を主張することによって、差異主義に転じ、逆説的に他者への不寛容に堕する危険をも
つ。それ故、この立場は採ることができない。残るのは「相対的な相対主義」であって、それ
は文化的多様性を基本的現実としつつ、文化的多様性を越えた普遍性の超越的理念をも承認す
るものである。シュナペールによれば、同化主義は誤った普遍主義である。普遍的なものは画
一性と同じではないし、本当の普遍主義はどの個別的文化とも、どの具体的な歴史的社会とも
同一視できないものである。普遍性原理は具体的には実現されない地平なのであって、「規制
理念」なのである。それは、差異の承認が、文化的相対主義から差異主義という他者への不寛
容に逆転することを阻止し、本当の差異の承認が意味する寛容を救い出すものなのである。
この「相対的な相対主義」のみが他者の「承認の思想 Pensée de la reconnaissance」を基礎づ
けるものであって、シュナペールは、この原点をモンテスキューに見いだす。モンテスキュー
の『法の精神』は政治体制の相対主義的社会学を展開した書物としてとらえられるが、彼はこ
の相対主義的社会学を「普遍的な人間概念の内部に位置づけ 6)」ていた。『法の精神』では、
奴隷制度や宗教裁判所に対する批判がちりばめられているが、この批判を支えているのは「人
類」という普遍的概念である。人間は個別文化に属する前に人類に属するのであり、人間の歴
史的条件は人類という人間的条件の内部に位置づけられて初めて意味をもつというのがモンテ
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スキューの構えであり、彼は、普遍性の地平と原理を承認しながら、文化の個別性と理性的・
道徳的存在としての人間を総体としてとらえようとしていたと、シュナペールは言う。
このあたりは、モンテスキューに始まる「フランス政治社会学派」の末裔と自ら規定した、
父親であるアロンの立場を受け継ぐものと言ってよいであろう。そして、「相対的な相対主義」
こそ「承認の思想」を基礎づけるとしているのは、後にみるように、Ch.テイラーの多文化主
義と「承認の政治」を意識しているからであろう。この多文化主義に、彼女は「寛容の共和主
義 républicanisme tolérant」を対置し、共和主義的ナシォンを擁護する。
Ⅱ.「市民の共同体」としてのナシォン
国民を「想像の政治的共同体」と規定したのは言うまでもなくB.アンダーソンであるが、こ
れに対して、シュナペールは国民=ナシォンを「市民の共同体」と規定する。これの含意を見
ていこう。
1.ナシォンの概念
フランス型ナシォンとドイツ型フォルクというナシォンの二類型論は常識的になっている
が、これを復活させ、共和制擁護の立場からフランス型ナシォンの優位を論じた論者にA.フィ
ンケルクロートがいる。彼は『思考の敗北』の中で、普遍主義を軽侮し個別主義を謳歌する知
識人を告発したJ.バンダの『知識人の背任』を引きながら、レヴィ=ストロースやフーコーら
反啓蒙主義的なポストモダニズムをドイツ・ロマン主義と重ね合わせて批判し、排他的なドイ
ツ的国民概念に対してフランス的国民観念を擁護する7)。
しかし、この共和主義的ナシォン擁護論には問題点も指摘されてきた。共和主義理念の中核
にある普遍主義理念は、ナシォンの内部においては、支配的文化による少数者集団の支配を隠
蔽しているのではないか。あるいは、普遍主義的理念を掲げて多文化主義を批判しながら、ヨ
ーロッパ連合においてはフランス文化の擁護という個別主義的・多文化主義的主張を掲げるの
は矛盾ではないか、等々。
そこで、カントとフィヒテに戻って共和主義の新たな基礎づけを試みた L.フェリーや A.ル
ノーたちは、絶対的に自由な選択能力をもつ主体を措定する主意主義的で契約的なナシォン概
念と、「自然」によって決定された人間を措定し伝統・言語・文化の共有をナシォンの基礎と
するロマン主義的なナシォン概念の、双方の欠点を超えるナシォンの第三の概念の可能性を模
索することを提唱した8)。シュナペールの『統合のフランス』や『市民の共同体』におけるナ
シォン論もこれを受けている。
彼女によれば、ナシォンの二類型論は分析的というよりもイデオロギー的なものである。よ
く知られているように、フランス型ナシォンとドイツ型フォルクとの類型化は、普仏戦争の後、
アルザスの帰属をめぐる論争によって生み出されたという事情がある。フランスは意志による
帰属を強調し、これに対してドイツはエスニックで言語的な帰属を強調するというように、こ
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フランス共和派の「ナシォンの政治社会学」 (北川)
の二類型は、両国の政治闘争に結びついたイデオロギー的要素を含んでいる。それが、例えば、
「公民的・領域的ナシォン」と「エスニックで言語的なナシォン」を区別する A.スミスのよう
に9)、現代の理論家にも引き継がれているのである。もちろん、西欧では集権的君主制のもと
でナシォンが形成され、対外的な権力意志が国内の統合を強化してきたのに対して、東では封
建制が残存し、統合が進まずに断片状態のまま非ヨーロッパ系民族の支配を受けることもあっ
たという歴史的事情の違いに基づく差異はあるし、生地主義と血統主義という国籍観での差異
もあるが、彼女はこの二項対立の固定化には反対する。この二項の代表格とされている、一方
のフィヒテは契約的・市民的ナシォンの要素を統合しているし、他方のルナンは契約的ナシォ
ンの単純な主張者ではなく、過去の遺産という要素に意志的要素を統合しているのである。
だから、シュナペールによると、ナシオンには「ただ一つの概念」がある。それは意志的要
素とエスニックな要素を分節化した、複合的なものであり、ドイツ型とフランス型との違いは、
ナシォン構築の起源にある意志的要素における政治的プロジェの違いによるものである。だが、
ナシォンの理念型は、アメリカ的・フランス的ナシォンのような民主的ナシォンにあるのであ
って、土着性と個別的帰属・忠誠を普遍的市民権によって超越することにより、政治社会を作
り出そうとする意志によって特徴づけられる。他方、ドイツ的ナシォンの特徴はプレ・ナショ
ナルな価値を強調し、ナショナルなプロジェの特徴を拒否しようとする点にあるとされる。
では、ナシォンとは何か。それは「すべての政治的単位と同様、内的には住民を統合するた
めに、外的には、政治単位であるナシォンの相互関係に基づく世界秩序において歴史的主体と
して自己主張するために、行使される主権によって定義される1 0 )」のだが、他の政治単位に対
する特殊性は、ナシォンが「住民を市民の共同体に統合し、市民の共同体の存在が国家の対内
的・対外的行動に正統性を付与する1 1 )」という点にある。そして、ナシォンは、意志的要素と
エスニックな要素の両方を含む複合的なものであるが故に、「市民」の「共同体」なのであ
る。
だから、ナシォンとエトニーとははっきりと異なる。エトニーは、歴史的・文化的共同体の
相続者として生き、共同体を維持する意志を共有する人間集団である。エトニーは、歴史的共
同体と文化的特殊性という二つの次元によって規定される帰属集団であり、政治的表現形態を
必ずしももたない。しかし、これは、エトニーの方がナシォンよりも自然だということではな
い。両方とも歴史的に形成された集団の形式である。エトニーもまた政治状況の産物であり、
ナシォンとエトニーの違いは人々を結びつける紐帯の性質にある。ナシォンは近代の産物であ
り、それを特徴づけるのは、市民権によって人々が結びつけられるという点にある。近代にお
ける市民権は、自由権、参政権、社会権の複合としてあるが、それはエトニーの相違を超えて、
ナシォンを構成する人々を結合させる「創造的プロジェ」である。
さらに、多くの共和主義者と同様に、シュナペールはナシォンとナショナリズムを区別する。
ナショナリズムは、ナシォンとして承認されたいというエトニーの要求である。歴史的・文化
的共同体としてのエトニーを政治的組織と合致させたいという要求である。あるいはすでに構
成されているナシォンが他を犠牲にして自己主張するための権力への意志である。
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また、ナシォンは国家をもつが、両者は歴史的系譜を異にするから区別されなければならな
い。国家は、近代的政治単位の内的凝集性を維持し、対外的行動を遂行しうる、統制・強制の
制度であり手段である。「市民の共同体」としての民主的なナシォンは国家とは異なるし、国
家に確実に回収されるものでもない。
一方で、エスノナショナリズムが強くなりすぎると、ナシォンの不統合と無力化に導くであ
ろうし、他方で、国家が過度に強力になって、暴政的、全体主義的になると、ナシォンを吸収
し、市民の共同体を破壊する。ナシォンとは「国家とエトニーとの間におかれる1 2 )」必要があ
る「市民の共同体」である。それは、エスノナショナリズムの分裂性と国家の暴力性から、個
人を保護する社会的基盤なのである。
もちろん、そうは言っても、「市民の共同体」としてのナシォンは、多分に理念型的なもの
であって、現実のナシォンは支配的エトニーを中核として構築されているし、複数エトニーの
統合過程の産物として歴史的に形成されたものであるが、彼女はこの統合過程が暴力的なもの
であったことを無視しない。国民統合の過程は平和的なものではなく、内的暴力(政治的・文
化的個別性の削除)と外的暴力(戦争)によって行われてきた。だがどの政治的単位もただ暴
力によって維持されることはない。ナシォンの存在の必要条件は、特殊利益から独立した公的
領域が存在するという観念、またその機能のための規則を尊重しなければならないという観念
を、市民が共有することである。だから文化的同質性はナシォンを構成するのに十分ではない。
ナシォンは、生物学的・歴史的・経済的・社会的・宗教的・文化的な個別的属性を市民権によ
って超越しようとする「創造的プロジェ」によって、つまり具体的規定性を超えた抽象的個人
として市民を規定しようとするプロジェによっても特徴づけられる。ルノー流に言えば、ナシ
オンの基礎は、「自由と伝統の価値への教育可能性13)educabilité」なのである。
2.政治的ナシォン論
シュナペールのナシォン論は、ナシォンの政治的性格を強調することによって、K.W.ドイ
ッチュ、E.ゲルナー、B.アンダーソン、A.スミスたちに代表される英米系のネーション論14)と
は違っている。
ドイッチュ、ゲルナー、アンダーソンたちは、最近のナショナリズム研究では、モダニスト
と呼ばれているが、これについて彼女は次のように言う。
まず、社会的コミュニケーションの相補性の視角から民族(people)、政治的民族、国民、
国民国家へといたる発展段階論を提示するドイッチュの影響を受けて、ナショナリズムを産業
社会への移行に伴う経済的・技術的組織化の必要性から解釈するゲルナーのアプローチについ
て。彼は、産業化が要請する読み書き能力を育成する教育システムの維持と、そのための国家
の役割を重視する。そして、政治的な単位と文化的な単位を一致させようとする運動としてナ
ショナリズムをとらえ、それを近代化要求に対応するものととらえる。が、シュナペールによ
れば、ナショナリズムの運動は産業化に伴って生じたのではない。ナショナルな観念と制度は
産業発展に先行するのであり、物質的利害だけからではなく、尊厳の要求すなわち情念や意志
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フランス共和派の「ナシォンの政治社会学」 (北川)
の要素に由来している。つまり、ゲルナーにおいては、ナシォンの心理的次元や政治的次元が
軽視されている。
アンダーソンは、ゲルナーたちに対しては、心理的・政治的次元を重視しており、ナシォン
を「イメージとして心に描かれた想像の政治的共同体1 5 )」ととらえる。そして、この「想像の
共同体」を生み出したのが、周知の印刷技術の発展と出版資本主義による大衆コミュニケーシ
ョンであった。しかし、シュナペールによれば、アンダーソンはナシォンの本質的に政治的次
元を軽視している。「想像の政治的共同体」という規定であれば、それはナシォンにもエトニ
ーにもあてはまるし、両者の断絶を示す基準の一つである国家の役割も軽視されている。
他方、ナシォンをエトニーの延長でとらえるスミスの立場は歴史的連続論者と呼ばれる。ス
ミスは、エスニック・アイデンティティをナシォンの基礎におくとともに両者を連続と断絶の
相においてとらえようとするが、ナシォンとエトニーとの断絶を軽視する傾向が強いと、シュ
ナペールはいう。また、他方ではナシォンと国家とを区別しないと批判する。
つまり、ナシォンの理念型を「市民の共同体」とするシュナペールにとって、モダニストで
あるアンダーソンの「想像の政治的共同体」という規定では、ナシォンとエトニーとの違いが
はっきりしないし、いわんや歴史的連続論者スミスにおいてはなおさらであるというのであ
る。
わが国の国民国家批判論においては、アンダーソンの「想像の政治的共同体」としての国民
論を下敷きにして国民国家のフィクション性を主張する議論があるけれども、シュナペールは、
アンダーソンに対して、ナシォンがフィクションであるといっても、エトニーだって同じくフ
ィクションであること、ナシォンを単にフィクションや「偽善」としてではなく「創造的発明
invention créatrice」として理解することを強調する16)。そして、国家に回収されない、エトニー
にも分解されない「市民の共同体」としての民主的ナシォンを擁護するわけである。ナシォン
とは、「創造的ユートピア」としての市民権によって結合した人々の共同体なのである。
ところで、国民国家批判論は「差異の政治」や「承認の政治」、多文化主義に接近するであ
ろうが、民主的ナシォンの核にある普遍主義的市民権を擁護する彼女は、これらにどのように
応答するだろうか。
Ⅲ.寛容の共和主義と多文化主義
1.本質主義の拒否
シュナペールの民主的ナシォン擁護論は、「差異の思想」を全面的に拒否することはない。
「差異の思想」が問題になるのは、それが相対主義と本質主義 essentialismeを含み、社会の
断片化を帰結する可能性をもつからである。本質主義は、階級や性や人種といった集団の属性
を不変のものとみ、そこに属する諸個人の思考や行動を集団の本質なるものによって規定され
たものとみる。諸個人は個別集団の特殊性にとらわれ、普遍的なものに向かって開かれた態度
をとることが不可能だと見なされる。「差異の思想」は、この本質主義を媒介にして、差異主
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義に変貌する危険を内包しており、この危険に対する歯止めをもっていない、だから、「規制
理念」としての普遍主義的市民権は手放せないと、シュナペールは考える17)。
繰り返しになるが、民主的なナシォンは、その正当性の基礎である市民的原理と具体的社会
のエスニックな現実との緊張を、あるいは全市民の平等の原理と実際の多様性及び不平等との
緊張を内包している。民主的なナシォンは市民権によってエスニックな情念と分裂する利害を
超越しようとするのだが、しかし、それは共同の歴史から生まれ、過去から受け継いだ政治制
度に刻印された共同体の観念に訴えることなしには情念と利害闘争を沈静できない。「シヴィ
ックなプロジェ」は普遍的使命を含むが、すべての社会は個別的であるから、市民の社会は常
にナショナルであらざるを得ないのである。具体的ナシォンは、歴史の特定の時点と特定の地
域で生まれた特定の政治組織であり、エスニックで共同体的な基礎を持ち、各人が、この集合
的アイデンティティに結びついて個人のアイデンティティを形成するのは宿命的なものであ
る。
ナシォンが普遍性と個別性との二律背反を内包せざるをえないように、近代社会は、具体的
社会における多様性・不平等と政治的・法的領域における平等の理念との解決されざる緊張に
よって特徴づけられる。そして、社会的不平等を正当化し、緊張を解決しようとするときに
「生物学的不平等」を疑似科学的に援用する傾向が生まれる。形式的平等の主張は、現実の不
平等を前にして、ある人々に対する人種主義的行動を生み出す危険とセットになっているので
ある。
だから、差異主義的人種主義は、伝統と共同体的価値に依拠して、他者を排除する(「排除
の人種主義」)から前近代に結びつくが、近代社会に構造的なものなのである。もとより、右
翼の人種主義は、今日では人種よりも文化を援用し、その主張の中心に絶対的差異主義と相違
への権利をおいているが。
他方、同化主義的人種主義は、個人主義的・普遍主義的価値に引照し、閉じた社会に固有の
価値を拒否する。それは、特殊主義を進歩への障害として拒否することによって、普遍の名に
おける「包摂の人種主義」となる。これも近代社会に構造的なものなのである。
差異主義的人種主義も同化主義的人種主義も近代社会に構造的なものだが、反人種主義は、
二つの人種主義の論理を区別して、敵手の思考様式の採用を放棄しなければならない。しかし、
植民地主義の批判者である差異派の反人種主義は差異主義的人種主義も批判するが、同化主義
的人種主義批判に焦点をあてることによって、差異主義的態度にスリップし、絶対的相対主義
の罠を免れていない。差異派の反人種主義者も差異主義的な実体論的・本質主義的思考を免れ
ていないというのである。
これに対して、シュナペールの「相対的な相対主義」は、「差異」の思想がはらむ絶対的相
対主義と本質主義的思考を拒否して、「普遍」への通路を保持しようとするのであるが、それ
は同化主義の危険を避け、「差異」にも開かれた「寛容の共和主義」だという。
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フランス共和派の「ナシォンの政治社会学」 (北川)
2.多文化主義の批判
「寛容の共和主義」は「差異」に開かれた態度をとるが、英米におけるロールズのようなリ
ベラリズムに近いものである。したがって、リベラリズム批判としての共同体主義や多文化主
義とは距離をとる18)。
共同体主義は、歴史的に形成された集合体がその真正性と価値を否定されたためにエトニー
と人種をめぐる病理が拡大しているのだという視点から、普遍主義的市民権の批判を行う。
W.キムリッカとテイラーは、この問題提起を受けて、文化の多様性の承認に基づく社会統合
の新しい形式を構想するのだが、第一に、不平等な市民権ではなく「差異のある市民権」をど
のように制度化するか、差異と平等の矛盾をどのように解決するかという問題、第二に、個別
主義的な帰属の実体化をどのように逃れるか、個別主義の公的承認は社会的断片化に導くこと
はないのかという問題にうまく答えられていないと、シュナペールはいう。
キムリッカとテーラーは、リベラリズムの主張する同化政策と、極端な多文化主義の基礎に
ある共同体主義との対立を越えようとする点で共通性をもつ。
両者とも市民の平等と個別文化の公的承認を同時に保証する政治的正統性原理と社会組織を
探求し、アメリカ・リベラリズムと同化政策を、また、フランス式共和主義的市民権とジャコ
バン主義の誤謬を批判する。アメリカ・リベラリズムもフランス共和主義も、抽象的で普遍的
な個人的市民権の観念を社会統合の中核に置き、個別主義的要素を排除しているという批判で
ある。
また、彼らは「手続的リベラリズム」を批判する。言うまでもなく、リベラリズムは、諸価
値の多元性を前提にして、近代社会における共通善の成立の不可能から出発し、善に対する正
義の優位を主張する。そして正義は手続きの民主性によって保証されると考える。これに対し
て、キムリッカやテーラーは、「手続的リベラリズム」は本当のデモクラシーを保証しないと
批判する。それは、抽象的市民ではなく具体的個人としての尊厳の承認要求を軽視している。
また、「手続的リベラリズム」は国家の中立性を想定するが、これは幻想である。公的領域に
おける実践と価値が個別的集合体に強制されているし、公用語や祝祭は多数者の言語や祝祭で
ある。本当のデモクラシーのためには、否定されてきた集合的権利の承認が不可欠だというの
である。
ただし、知られているように、キムリッカは、民主的規制なしの極端な多文化主義にも反対
する。極端な多文化主義は社会的断片化を帰結するであろうし、エスニックな帰属と忠誠の絶
対化は個人の自由と矛盾をきたす。したがって個人は個別集団に出入り自由でなければならな
いし、集団の内部規範は全体社会の規範と矛盾してはならない。さらに諸集団間の支配関係も
拒否しなければならない。これらを前提にして多元的で民主的な統合を構想しようとするので
あるが、その際キー概念になるのが「差異のある市民権」である。そこでは、黒人、先住民、
移民たちエスニック・マイノリティの集合的権利の多様な承認に基づく統合が構想される。た
とえば、黒人と先住民については固有の文化に対する権利を保障すること、移民には支配的文
化に適応することが要請されるというように、諸集団の諸条件の多様性に対応した市民権の構
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政策科学8−3,Feb.2001
想である。
テイラーの場合は、公民精神 civismeの弱化と商業精神の拡大に対抗するため、政治制度に
個別文化の承認を導入することによって、真のデモクラシーを再活性化することが構想される。
政治参加の低下に示される抽象的市民権の病を是正するために「承認の政治」を提唱し、「手
続的リベラリズム」に抗して、文化の差異を承認した新しい参加民主政を提唱するのがテイラ
ーである。彼においては、リベラリズムの中核にある個人の自律性の価値と、歴史的集合体の
成員であることに根ざす真正性とは矛盾するものであり、キムリッカと違って集合体と真正性
が第一義的地位におかれ、政治のレベルで個別文化の存在を支える「平等な承認の政治」、政
治的多文化主義が主張される。「虚構の同質性」より「多様性による統一」が目指されるわけ
である。
シュナペールの「市民の共同体」論は、テイラーの「承認の政治」に対しては本質主義を含
むものとして批判するが、キムリッカには近い立場をとる。彼女は、キムリッカとは、同一の
政治的単位への多様な歴史的集合体の民主的な統合という目的では一致するとしつつ、異なる
のは政治戦略だという。彼女によると、普遍主義と差異主義とを、あるいはジャコバン主義を
導いた誤謬と極端な多文化主義を同じ平面におくことは妥当ではない。双方批判されるべきで
あっても、共和主義擁護の立場からすれば、同列に置かれるものではない。普遍主義と差異主
義との対立を超える試みは、アメリカ・リベラリズムもフランス共和主義も行ってきたのであ
って、それらは、市民の平等と歴史的集合体への愛着を、公的領域と私的領域を区別すること
によって結びつけようとしてきた。キムリッカがいうように、確かに国家は真に中立的ではな
いし、共通文化が個別文化に強制される。しかし、これはすべての市民がナショナルな社会の
「創造的プロジェ」に参加するための代償ではないかと、彼女はいう。
さらに、彼女によれば、1970年代のカナダの多文化主義政策のなかの多く、例えば、移民に
一時的に特別な権利を与え、「統合」を促進する政策については、穏健なリベラリズム(キム
リッカ)も「寛容の共和主義」(シュナペール)も一致するであろう。しかし、多文化主義政
策の1項目としてしばしばあげられるエスニック・スクール(例えば黒人だけの学校)の創設
やそれへの援助は「統合」を促進することはない。共通の学校は民主的な価値と実践の学習の
場であるべきであるが、もしある集団のための特殊な政治的地位を制度化するなら、それは特
殊的なものの永続化を帰結するだけである。その場合、特殊集団はさまざまな面で不平等な地
位を受け入れることになろうが、この特殊主義つまり「真正性」の追求の代償を拒否し自由を
追求する人にとっては、特殊集団への忠誠とナシォンへの平等な参加の意志との矛盾は解決さ
れることはないし、また社会の断片化は弱まるより加速するというのである。
シュナペールの「統合」論は、多文化主義を価値としてではなく、手段としてとらえている
ようであり、やはり同化主義への反転の危険をはらんでいるとも見えよう。が、本質主義を批
判する彼女は、近代化とともに集合生活のエスニックな次元は弱まらないこと、ゲマインシャ
フトとゲゼルシャフトの二つの社会組織原理の弁証法的関係は解消できないことを前提にし
て、文化が不変なものではなく、不断に変容を続けていくことを承認し、ナシォンは複数エト
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フランス共和派の「ナシォンの政治社会学」 (北川)
ニーによって作り上げられるものであるという立場に立って、普遍性の地平を保持し続けるこ
とを要請するのである。
もう多文化主義の意義と限界も(もちろん同化主義の限界も)知られている今日では、目新
しい議論ではないかもしれないが、普遍主義的市民権と個別主義との二律背反は、政治単位が
ナシォンの水準においてであれ、より上位のEUのような地域統合や世界政府(それができた
として)の水準であれ、解きがたいものであることをふまえると、同化論を潜ませていると捨
て去ることもできない議論であろう。
だが、EUという超ナショナルな空間の成立・発展によっても、ナシォンとそれに結びつい
てきた市民権は大きく揺らいでいる。これについて、彼女がどのように考えているかを見よ
う。
Ⅳ.ナショナルな市民権は超えられるか
シュナペールによれば、ナシォンは経済的・社会的次元と共に、文化的次元ももつが、本質
的なのは政治的次元である。言うまでもなく、ナシォン概念の構成要素である市民=公民権の
観念は「祖国のために死ぬ」という観念と結びついてきた。しかし、彼女によれば、今日では、
「祖国のために死ぬ」ことを、民主的ナシォンの市民は欲しない。また第二次世界大戦以後、
米ソ二超大国のヘゲモニー闘争の時代にあっては、ヨーロッパの国民国家は「対外的な軍事主
権と独立」を縮小せざるをえなかったことは厳然たる事実である。さらに、湾岸戦争やコソボ
空爆に示される今日の軍事技術のハイテク化は、「祖国のために死ぬ」国民の総動員を不要に
している(周知のように、フランスは1996年に徴兵制の段階的廃止に踏み切った)。集合的価
値を防衛する意志のない市民が構成するナシォンが存続しうるかは不確定なのだが、ナシォン
の政治的次元のうち、対外的軍事的主権の希薄化は否定しがたい。つまり、権力への意志とし
てのナショナリズムは過去のものになりつつある。が、諸価値と諸規範のシステムとしての、
すなわち対内的統合システムとしてのナシォンの意義は失われていないと、彼女は考えてい
る19)。
とはいえ、EUの成立や国際的労働力移動の発展とともに、国民国家に回収されない市民権
を探る動向も生まれてきた。EU市民権や多国籍企業のような非政府機関における市民権(企
業内市民権)の追求のような動きもある。これらはナシォンに結びつけられてきた市民=公民
権を無意味化するのかという問いに対して、シュナペールは、否定的に応えている。
1.「新しい市民権」論の批判
まず、EU市民権という国境を超えた市民権を拡大することによって、ナショナルな市民権
を縮小していこうとする、「新しい市民権」論について20)。
シュナペールによると、現時点では、EU市民権の取得は、加盟国の国籍所有者に限定され
ているから、ナショナルな枠組みを超えてはいるが、それを基礎ともしている。そして、一部
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政策科学8−3,Feb.2001
の国を除いて、EU市民による自国以外の政治への関与は地方政治に限定されているし、経済
的社会的諸権利は、EU市民のみならず、外国人にも認められるが、政治的権利はそうではな
い。
これが、現時点での現実なのだが、ヨーロッパ市民権が本当に確立するためには、ヨーロッ
パ公共空間が作られ、ヨーロッパ市民が、ヨーロッパ水準で政府を選び、その決定を正当であ
ると承認することが必要になる。そのときにはフランス人がドイツ人やイタリア人のために投
票し、国籍ゆえにではなく、政治的信条の近さによって投票することになろう。またヨーロッ
パ人が共同体の防衛のために戦う用意があることも必要になる。しかし、シュナペールによれ
ば、そのようなことは近い将来可能ではない。今日フランス政府の正当な決定ですら種々の抵
抗にあうのに、また、今日フランス国内ですら投票率が低下し、市民権の危機が叫ばれている
のに、フランス人が、ヨーロッパ・レベルで行われた決定の方を容易に受け入れるということ
や、ヨーロッパ政治に能動的に参加することは考えがたいというのである。
もちろん、経済問題は国境を越えているし、他国の選挙や政府の決定はフランスに直接的影
響をもつから、それらへの関心は増大している。さらにEU委員会への圧力行動もみられるし、
EU議会の権限も強化され、選挙運動も国境を越えて行われている。ここから、
「新しい市民権」
論者は、進行中のヨーロッパ市民権の構築が意味するのは、まさに「新しい」市民権の構築で
あって、それはナショナルな市民権のヨーロッパ水準への拡大ではないし、ヨーロッパは単に
拡大されたナシォンではないという。そして、この「新しい市民権」は経済的社会的権利を核
とし、それが参加的な新しいデモクラシーを基礎づけるとする。市民権の純政治的性格はナシ
ョナリズムと国民国家構築の時代に結びついていて、ヨーロッパの構築はそれらの時代の遺産
に基づく制約から市民を解放しているのだとされ、集合体への真の帰属は、政治への参加では
なく経済活動への参加によるのだとするのである。
さらに「新しい市民権」論は、古典的市民権が非市民=外国人の排除原理になっていて、近
代デモクラシーの価値からしても耐え難いものになっていると批判する。EUはもう移民労働
者を送り返そうとしていないし、彼らは契約期限をすぎても自由に滞在している。滞在権は経
済的社会的権利を保障するが、政治生活への参加権を与えていないから、この区別と排除は撤
廃されるべきである。国民国家時代には国籍と市民権が融合していたが、いまや市民権は国籍
から分離して、社会への実質的参加が市民権への資格になるべきだというのである。
「新しい市民権」論がEU市民権をナショナルな市民権を超えるものととらえるのに対して、
シュナペールは、EU市民権がナショナルな市民権を引きずっていることの方を強調し、かつ、
EUが深化するのであれば、それ自体がナシォンとして構成される必要があるという。彼女に
よると、人間社会は、デモクラティックであれ、ポストモダンであれ、固有に政治的次元をな
くすことができない。もし、市民権を物質的利益に関するものに還元して、ナショナルな市
民=公民権を縮小すると、エスニックで宗教的な情念を統制する正統な審級がなくなる。この
審級が存在すべきであるなら、政治の空間が具体化されることが必要だが、この新しい政治的
空間は、経済的協働と社会的保障の拡大の単純な産物ではありえないというのである。表現を
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フランス共和派の「ナシォンの政治社会学」 (北川)
変えれば、デモクラティックな政治秩序が、市民=公民と具体的な個人との区別に基礎づけら
れる必要は依然としてある。政治的集合体への参加は具体的社会への帰属とは本質的に異なる
からだ。
もちろん、彼女は近い将来ヨーロッパ・ナシォンが誕生するとは考えていない。「新しい市
民権」論が、ヨーロッパ・レベルでのナシォンの必要を認めずに、ナシォンとナショナルな市
民権を弱めることの危険を強調するのであり、現時点では、ナシォンとナショナルな市民権を
擁護するのである。彼女によれば、国籍への権利はエスニックな違いを越えた「市民の共同体」
に参加しうる全個人に開かれるべきだが、それは、やはり政治的=公民的要件によって規制さ
れねばならない。国籍は、政治体制を含む集合体の価値への支持を含む。市民権は物質的利益
にかかわるものから出発しているのではなく、政治的意味空間の存立要件と結びついているの
であり、これを希薄化すれば、エスニックで宗教的な紛争を制御するのは困難になるというの
である。
2.「ポスト・ナショナルな市民権」論の批判
「新しい市民権」論がナショナルな市民権を経済的社会的市民権に解消していくとすると、
ハーバーマス系譜の「ポスト・ナショナルな市民権論」は、ナショナルな帰属と政治的忠誠と
は分離可能と考えて、本質的に政治的な市民権をEUレベルに持ち上げようとする2 1 )。これは、
フランス共和制モデルをヨーロッパ水準で実現しようとするものである。つまりナショナルな
パトリオティズムと抽象的な人権に支えられた市民権行使を分離しようとするのであり、市民
権行使のレベルであるヨーロッパにおいては「憲法パトリオティズム」が成り立つとする。ナ
シォンは愛着の場であるが、ヨーロッパの公共空間は「法の場」とされる。
しかし、ヨーロッパ・レベルで、市民権の実践を弱めないで、純粋に市民=公民的な政治形
態を作ることは可能なのか。公民性の実践は、市民や政治家や専門家が暴力を用いることなし
に、語り、理解し、説得しあう場が存在することを意味する。これはまた、成員が一つの言語、
共通の文化と価値を共有することを想定している。歴史的には、共和制はナシォンを母体にし
ていたし、ナシォンは一言語で共通文化と価値を共有していた。そして、それがあってはじめ
てコミュニケーションが可能であった。この条件なしに、つまり多言語社会において、民主的
実践を規定する対話と交渉の場をうまく組織できるのか。抽象的原理への知的支持だけで政治
的動員ができるだろうか。この点からしても、ヨーロッパ・ナシォンの形成は容易ではないの
である。
人間社会は権利主体や市民からだけ構成されているのではなく具体的な個人によっても担わ
れている。市民権に基礎を置くナシォンは普遍的使命をもつ「創造的なプロジェ」であるが、
同時に文化共同体、集合的記憶の場、歴史的アイデンティティの場である歴史的社会である。
この特殊性を消去することは可能でもないし望ましくもないと、彼女はいう。もしこれを消去
して、純粋に公民的社会を作ったとすると、それは人々を動員できないであろう。それは、か
えってデモクラシー社会を脆くするのではないか。そして、ナシォンなき純粋に市民=公民的
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政策科学8−3,Feb.2001
社会は、エスニックで宗教的な帰属から生まれる情念を統制する力をもたないであろう。
ポスト・ナショナルな市民権の理論家は、このナショナルな現実を具体的政治組織に結びつ
ける必要を過小評価している。問題は普遍性と特殊性の双方にところを得させる具体的な分節
化について考察することである。それを可能にするのが諸国民国家の「連邦制」であり、それ
は歴史的ナシォンの存在を重視した新しい政治的実体であろう。EUによって、デモクラシー
社会は、これまでナショナルであった共通市民権によって統合されるだろうが、ヨーロッパの
構築はデモクラシー社会を非政治化する危険を避けなければならないというのである。
シュナペールは、政治的単位としてのナシォンは依然として必要だとして、それを基礎にし
た「連邦制」を構想する。防衛の意志なきナシォンが存続し続けられるかというジレンマはあ
るけれども、エスニックな紛争を制御するためにも、共通言語と共通文化に結びついた政治的
コミュニケーション空間としての政治的ナシォンを清算するわけにはいかないというのであ
る。
おわりに
リベラル共和主義におけるナシォンの再規定の試みの一ケースとして、ドミニク・シュナペ
ールの、「市民の共同体」としてのナシォン論と「寛容の共和主義」論を見てきた。アンダー
ソンの「想像の共同体」論などの英米系のナショナリズム論、「差異の思想」や多文化主義へ
の批判、またEUの深化とともに登場してきた「新しい市民権」論やポスト・ナショナルな市
民権論への批判に見られる、社会学者としての彼女の議論には、否定できないリアリティがあ
るように思われる。従来の共和主義的ナシォン論を見直した、彼女のナシォン論と「寛容の共
和主義」論は、これら新しい理論潮流に対するリベラル共和主義からの応答の一つの到達段階
を示していると言えよう。
もちろん、ナシォンの再規定をめぐる議論は多様である。共和主義に対する「市民社会」派
のP.ロザンヴァロンによる、福祉国家の再構成をはかるという文脈からの「ナシォンの再形成」
論22)もある。
彼は、社会的カテゴリー間の伝統的不平等ではなく、多様な社会的カテゴリーを横断して生
まれている長期的失業による「新しい不平等」と新たな「排除」を問題にするとともに、近代
個人主義の拡張に「社会的なもの」の崩壊の兆候を見る。そして、グローバリゼーションに伴
う経済的空間と政治的空間とのズレの拡大を踏まえて、以上の兆候に対処するための政治的空
間と福祉国家の再構成を考える必要があるという。その際、彼は、左翼における、公民として
の平等の観念を核とする共和主義的レトリックの再生は、「社会の一元的見方 vision moniste
du social」を想定したノスタルジックなものだという。
ただし、福祉国家の発展は共和主義の論理の延長上にあった。共和主義的公民の観念は、市
民に祖国のための死を要求する一方で、国家に社会的権利の保障を要求するからだ。だが、個
人主義的なデモクラシー社会の人間はもはや祖国のための死の準備をすることはない。福祉国
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フランス共和派の「ナシォンの政治社会学」 (北川)
家の再構成は、もう市民=公民の論理とは別に行われなければならず、したがって、「ナシォ
ンの再形成」が不可欠だという。彼の「ナシォンの再形成」論は、ナシォンの政治的次元では
なく社会的次元を拡大して編成替えしようとするものであるが、彼は、新しい不平等時代に対
応した排除に対する闘争を「挿入 insertion」の概念によってとらえ、これに依拠した新しい権
利を「統合 intégration の権利」と規定し、「政治的権利と統合の権利は二つとも社会契約の共
和主義的哲学に発する2 3 )」と述べている。彼の議論は「新しい市民権」論に近い要素ももって
いるが、共和主義理念の根本的放棄ではなく、その革新とナシォンの再規定が試みられている
と言えよう。ただし、その場合でも、シュナペールからみれば、ナシォンの政治的・市民的次
元を前提しなければ、「社会的ナシォン」も脆弱さを免れないということになるだろう。
リベラル共和主義と市民社会論からのナシォン論を踏まえて、共和主義理念とナシォンをど
のように再規定するかという問題をさらに具体的に問うことにしたい。
〈付記〉
本稿は、平成11-12年度科学研究費補助金(基盤研究(C))による研究「現代フランス国家
の変容と共和主義・市民社会論争」の一部である。
注
1)西川長夫『国民国家論の射程』(柏書房、1998年)、281頁。
2)佐伯啓思『現代日本のリベラリズム』(講談社、1996年)、『「市民」とは誰か』(PHP研究所、1997年)、
『現代日本のイデオロギー』(講談社、1998年)などを参照されたい。
3)L.フェリーとA.ルノーの共和主義論については、別稿で扱う予定である。
4)シュナペールの「統合」論については、梶田孝道『統合と分裂のヨーロッパ』(岩波書店、1993年)
などを参照。
5)Schnapper, D., La Relation à l’autre, Éditions Gallimard, 1998, p.36.
6)Ibid., p.41.
7)アラン・フィンケルクロート『思考の敗北あるいは文化のパラドクス』(西谷修訳、1988年、河出書
房新社、原著1987年)
8)Renaut, A., L’idée fichtéenne de Nation, dans Etat et Nation (Cahiers de philosophie politique et
juridique, no.14, 1988)
9)アントニー・D・スミス『ネイションとエスニシティ』(巣山靖司他訳、名古屋大学出版会、1999年、
原著1986年)、第6章参照。
10)Schnapper, D., La Communauté des Citoyens, Éditions Gallimard, 1994, p.28.
11)Ibid., p.28.
12)Ibid., p.38.
13)Renaut, A.(dir.)Histoire de la Philosophie Politique, Tome III, Calmann-Lévy, 1999, p.392.
14)英米のナショナリズム論については、特にA.スミスのネーション論の批判的検討を基礎にした田口富
久治『民族の政治学』(法律文化社、1996年)を参照。
15)ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(白石隆・白石さや訳、リブロポート、1987年、原著
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1983年)、17頁。
16)Cf.Schnapper, D., op.cit., p.104.
17)本質主義批判については、Cf, Schnapper, D., La Relation à l’autre, pp.23-24
18)以下のシュナペールの多文化主義批判は、La Relation à l’autre, Cinquième partie, Une nouvelle étape
de la sociologieで展開されている。なお、キムリッカとテイラーについては、ウィル・キムリッカ『多
文化時代の市民権』(角田猛之他訳、晃洋書房、1998年、原著1995年)、チャールズ・テイラー、ユルゲ
ン・ハーバーマス他著『マルチカルチュラリズム』
(佐々木毅他訳、岩波書店、1996年、原著1994年)を
参照。
19)Cf. Schnapper, D., La France de L’intégration, Éditions Gallimard, 1991, p.331.
20)「新しい市民権論」については、Schnapper, D., Qu’est-ce que la citoyenneté?, Éditions Gallimard, 2000,
pp.247-253.
21)ハーバーマスたちのポスト・ナショナルな市民権論に対する批判は、Qu’est-ce que la citoyenneté?,
pp.256-261.
22)Rosanvallon, P., La nouvelle question sociale, Éditions du Seuil, 1995.
23)Rosanvallon, P., Le nouvel âge des inégalités, Éditions du Seuil, 1996, p.166.
24)Ibid., p.212.
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