博多ラーメンしばらく ⑤

ぶりだ。
(略)昭和五十九年七月二十三日午
前四時三十分、ブーチャン死去。六十三歳。
三十年間のライバルである。寂しいことだ。一
つぶ
心亭も七年前に死んだ。残りは私だけだ」
「飲めば二~三日は潰れて仕事にならず、
実に弱り疲れ果てた。此の頃、よく考え込む
おやじ
み
様になった。一心亭、長浜の赤鼻のブーチャン、
赤のれんの親父、私より皆んな一、
二年遅く開
業した連中が、皆んな酒で死んだ。
今度は自分の番かと思うと、用心せねば
と思う様になり寂しいことだ。あと四、
五年
は頑張るつもりだったが…」
〔一心亭〕とは楢崎六郎さん。長浜の赤鼻
のブーチャンとは〔元祖長浜屋〕の榊原松雄
さん、
〔赤のれん〕の親父は津田茂さんのこと。
3人とも初代で、博多・長浜ラーメンの礎を
築いた人たちである。
麺揚げ数 年間で400万杯突破!。そ
の誇りを胸に、外村さんはついに勇退を決意
する。1986(昭和 )年4月4日 店の
入り口にはこんな看板を出した。
御挨拶申し上げます。私、開業以来、早
や三十三年になります。此の間色々なことが
あり、一つ一つが今では懐かしく思われてなり
ません。私は頑固一徹、独自の営業方法でお
客様には大変御迷惑をおかけした事と思い
ますが、私は私なりに信念を持って、ラーメ
ン作りに専念したつもりです。
私事で申し訳ありませんが、近頃体調に
自信がなく、長時間の立ち仕事に苦痛を感
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1959(昭和 )年6月に屋台から福
岡市早良区西新に店舗を構え、長浜に支店
ほかむら やすのり
の屋台も出して順調に発展した〔博多ラー
メンしばらく〕創業者の外村泰徳さん。1
日500杯以上も売り上げる繁盛店になり、
こういち
長男の貢一さん夫婦も一緒に働くようになっ
て気が緩んだのか、1981(昭和 )年頃
から酒の飲み過ぎが原因で体調を崩すよう
になり、入退院を繰り返すようになっていく。
日誌にはこんなことが書きつけてある。
「定休日の明くる日、焼豚を切っていたが
手が震えて切れず。よくよく考えた末、勇
退を決意する。仕事をもぎ取られた様な気
がしてならず、寂しさから毎日の生活態度
が狂う。
三度の飯もいやになり、毎日々々が酒浸り
となる。朝五時十分前には決まって目が覚め
る。雨が降ろうが降るまいが、ワンカップを
買いに出る。朝五時より自動販売機が始動
するからである。
昼から、今度は五合瓶を買いに行く。一升
瓶で買うと全部、その日の内に飲んでしまう
からである。それからパチンコ屋通いである。
友達に会えば飲み、勝っては飲み、負けては
飲み、毎日同じことの繰り返しである。海軍
魂も三十三年間鍛えあげた商魂も何処へや
ら、も抜けのからである」
「昭和五十九年は丸まる入院生活で過ごし
た。四階には長浜ラーメンの元祖、赤鼻のブ
や
ーチャン、三階にはトン吉の奥さんと私。白
は
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十字病院は現在ラーメン流行り。困った繁盛
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九州ラーメン伝説
(16杯目)
福岡市早良区西新
博多ラーメンしばらく⑤
酒がアダ、
博多の
ラーメン元祖たち
現在の〔博多ラーメンしばらく〕
じる様になりました。勝手では御座居ますが、
幸い子供もどうにか成長し、私に負けない程
の腕に自信をつけた様ですので、安心して子
供達に実権を譲りたいと思います。
私と同じく無骨者ですが、今迄以上の御
愛顧、御引立ての程、心からお願い申し上げ
ます。私自身は腰に鞭打ち、チエーン店関係
の指導に廻り、命のある限りラーメン作りに
専念する決意です。
お客様 頑固親父
す
翌年の1987(昭和 )年3月 日、
外村泰徳さん逝去。享年 歳。今は2代目
の長男貢一さんが、
「かけ放題摺りゴマ」を
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2代目店主の外村貢一さん
初めてテーブルに出した老舗のノレンを守っ
ている。
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