価値移転の諸様式 1-1では、人々は価値を生産し取引することによって物

(第 1 章補論) 価値移転の諸様式
1-1では、人々は価値を生産し取引することによって物質的な豊かさの多くを得ている
と述べた。しかし、人々の間で価値が移転する様式は、「取引」という様式に限定されるわ
けではない。この補論では、生み出された価値がある主体から他の主体に移転する様々な
様式について考察する。この補論の内容は、行為の類型について述べた0-6と内容的に
重複する部分もあるが、この補論は行為の帰結としての価値移転という現象に焦点を当て
るという点で0-6とは異なる。
図 1-6 価値移転の様式
一方的
非自発的
相互的
一方的
合理的
相互的
自発的
一方的
非合理的
相互的
本書では価値移転の諸様式を図1-6のように分類する。はじめに、価値を持つ主体が他
者に対して自発的に価値を移転するかどうかという基準で分類する。非自発的な移転は、
価値を持つ主体が自らは望まないにもかかわらず、自分の持つ価値を他者に移転する場合
である。非自発的な価値移転の様式はさらに双方向に価値が移転するか、一方向に価値が
移転するかで分類される。非自発的で一方向的な移転1の例としては、窃盗、引ったくり、
置き引き、空き巣、スリなどが挙げられる。非自発的で双方向的な移転2の例としては強制
や脅迫などがある。例えば、強盗が「金を出せ、さもなければ殺すぞ。」と脅して金を奪っ
たり、独裁的な政府が「税金を払え、さもなければ強制労働を課すぞ。」と納税を強要する
ケースが挙げられる。このような非自発的で相互的な移転では、コスト(殺害や強制労働)
の回避という消極的便益が、価値の提供と引き換えに与えられるという意味において双方
向的であるが、価値を持つ主体は価値提供を拒否するという選択肢が与えられないという
意味で非自発的な移転とみなすことができる。
1
2
0-6で見た行為の類型の中では、一方的に有害な行為の帰結として価値移転が発生する。
一方的に有害な行為の帰結。
1
次に自発的な価値の移転について考えよう。価値を自発的に他者に移転する主体は、その
移転の見返りに何らかの価値を獲得することを期待するであろう。自発的に価値を提供す
る主体が、自らの価値の移転によって何らかの別の価値を獲得することを合理的に期待で
きるならば、それは合理的な(理性的な)価値移転3である。合理的な価値移転のうち、一
方向的な移転4の例としては、有意義な慈善活動を行っている NGO への寄付という行為が
挙げられる。寄付する主体は寄付によって自らの内面において精神的な満足感を感じるこ
とができるだろう。一方向的に価値を移転する理由は慈善だけではなく、理想や正義など
もありうるだろう。例えば、自国の軍隊やスポーツチームの勝利、地球環境や稀少生物の
保護、神の国の実現のために一方向的に寄付をする行為が含まれる5。合理的で双方向的な
価値移転6の例としては、経済的取引や社会的交換が挙げられる。このような双方向的な価
値移転では、価値を提供する主体が自らの価値の増加を合理的に期待できる。民主主義的
な政府が、市民にとって有益な財・サービスを提供するという約束のもとに税金を徴収す
る場合には、双方向的で自発的な価値の移転と解釈できるかもしれない7。
一方、価値を提供する主体による価値獲得の期待が虚偽の情報に基づいている場合には、
非合理的 (操作的、非理性的)な価値の移転が起きている。非合理的で一方向的な価値移転8
の例として、実際には慈善事業を行なっていないにもかかわらず慈善事業を唱って寄付を
集める行為がある。また結婚を約束して相手から価値を奪い、結局結婚しない結婚詐欺も
このケースに該当する。次に、非合理的で双方向的な移転9の例としては、財・サービスの
質についての虚偽の情報を伝えて取引を行う詐欺行為が挙げられる。なお、非自発的な価
値移転には合理的であるか、非合理的であるかを問う意味は小さい。
最後に、社会において価値移転のそれぞれの様式が価値生産の生産性に与える効果につい
て検討してみよう。各経済主体は価値生産の生産性を高める行為からのリターンが大きい
ほど、そのような行為に高い努力を投入する。非自発的な価値移転が広く発生する社会に
おいては、経済主体がより大きな価値を獲得してもその多くを他者に奪われるために、価
値生産の生産性を高める行為への努力が低迷するであろう。同様に、自発的で非合理的な
価値移転が広く発生する社会においても、価値生産の生産性向上のための努力は低位にと
どまるであろう。ただし、経済主体は非合理的な価値移転の脅威を、自らの援護行為によ
ってある程度回避することができる10。最後に、自発的で合理的な価値移転が広く実現する
理性的、操作的という用語は Dahl(1991)の理性的、操作的な説得の分類にヒントを得た。
一方的に有益な行為の帰結。
5 自分が憎悪や敵意をいだく対象へ危害を加えるテロリストへの寄付行為も、寄付する主体にとっては自
発的で合理的で一方向的な価値移転である。
6 相互的に有益な行為の帰結。
7 ただし、民主主義的な政治システムにおいても、有益な財・サービスの供給を期待できない場合には納
税者から政府への非自発的な価値移転とみなすことができる。また各国民ができれば税金を払わずにフリ
ーライダーになりたいと望んでいる場合にも、納税者から政府への非自発的な価値移転が起きているとみ
なすことができる。
8
一方的に有害な行為の帰結。
9 有益な相互的行為と考えられていたにもかかわらず、一方あるいは双方の主体が相手に騙される場合。
10 例えば、寄付する相手方や取引する相手の資質や経歴についての情報収集を十分に行なったり、もし虚
3
4
2
社会では、価値を持つ主体は価値移転によってさらに大きな価値を受け取ることができる
可能性が高い。そのため、価値を生産する主体は価値生産の生産性を高める誘因をもつ。
この補論での考察から、社会における価値生産の生産性を高めるためには、経済主体が非
自発的な価値移転や、自発的で非合理的な価値移転を経験する可能性を減少させることが
重要であるといえよう。そのような社会であれば、価値移転の多くは自発的で合理的に行
なわれるようになるので、価値を生産する主体が価値生産の生産性を高めるインセンティ
ブが高まるであろう。6-1節では、規範的な観点から、社会において望ましくない様式
で価値が移転する可能性を減少させる機能を果たす財産権保護の制度の重要性について考
察する。
(第 7 章補論1)
以下では、複数の純粋戦略ナッシュ均衡が存在するゲームと相手の性質が不完全にしかわ
からないベイジアンゲームにおいても、外的メカニズムが均衡を特定する単純なケースを
説明する。
複数の純粋戦略ナッシュ均衡が存在する場合にも制度が特定の均衡を選択しやすくする
可能性がある。図 A7-1 は the battle of sexes と呼ばれているゲームである。両プレーヤ
ーは同じ場所にデートに行くことを一人で行くよりも望んでいるが、プレーヤー1 はサッカ
ーに行くこと(s)を、プレーヤー2 はバレエに行くこと(b)をより強く選好している。
このゲームには、2つの純粋戦略ナッシュ均衡((s, s), (b,b))が存在するが、もしsがサッカ
ーでなくカジノ(c)であり、この社会でカジノは違法で-3の罰が与えられるとすると、
利得構造は図7-5のようになる。図 A7-2 で表されるゲームにおいては、どちらのプレ
ーヤーにおいても b が c を強く支配しており、純粋戦略ナッシュ均衡は(b, b)という戦略の
組み合わせになる。
図 A7-1
プレーヤー1
プレーヤー2
s
b
s
2, 1
0, 0
b
0, 0
1, 2
偽の情報を提供していた場合には相手に制裁を加える手段を用意することで、非合理的な脅威の程度を軽
減することができる。
3
図 A7-2
プレーヤー1
プレーヤー2
c
b
c
-1, -2
-3, 0
b
0, -3
1, 2
同様に、各プレーヤーの期待価値の低いナッシュ均衡と期待価値の高いナッシュ均衡が存
在する場合に、期待価値の高い均衡を実現できるかもしれないし、期待価値の低い均衡に
陥ってしまうかもしれない。しかし、図 A7-3 のようなコーディネーション・ゲーム
(coordination game)において、制度が新たにdという戦略をとることを罰し、-2のコス
トを課すことになったならば、利得構造は図 A7-4 のように変更され、
(c, c)が唯一の純
粋戦略ナッシュ均衡となる。制度が高い価値をもたらす均衡を実現する場合には、そのよ
うに人々の行為を規律づけ、また予測可能にする慣習や文化はソフトなインフラストラク
チュアの一部ということができるだろう。
図 A7-3
プレーヤー1
プレーヤー2
c
d
c
2, 2
0, 0
d
0, 0
1, 1
図 A7-4
プレーヤー1
プレーヤー2
c
d
c
2, 2
0, -2
d
-2, 0
-1, -1
第 3 章で述べたように、Cremer(1993)は、企業文化によって従業員にいちいち細かい指
示を出さなくても企業文化に基づいて従業員が正しく判断して行動することができ、コー
ディネーションのためのコストを削減できると述べている。この企業文化についての議論
は、経済全体での文化(価値観)・慣習・規範・公式の制度にも妥当する。例えば、互恵的
な選択肢を互いに取り、生み出された価値を公正に分配することを望ましいとする文化・
慣習があれば、取引のたびに詳細な契約書を作る必要がない。一方、契約書の内容に背か
なければ何をしてもよいという慣習・文化であれば、取引相手によるタカ行為を防ぐため
により多くの援護行為をとらなければならず、詳細な契約書を作成するなどの余計なコス
4
トをかけなければならない。場合によっては、このような詳細な契約書を作るためのコス
トが取引を制約するかもしれない。
相手のタイプに関して情報の不完全性があり、相手のタイプによって取りうる行為が異な
る場合にも、制度による裁可によって、相手のタイプによらず、相手の特定の行為が他の
行為を強支配することになるならば、やはり相手の行為に対する予測を正確なものにする
であろう。図7-5 では、プレーヤーB がとりうる2つのタイプ(タイプ 1 とタイプ 2)のそ
れぞれのケースの利得構造を示している。図7-5-1のゲームは囚人のジレンマと呼ばれ
るゲームであり、図7-5-2はプレーヤーB が b2 という行為をとることで-3の追加的な
コストを受けるタイプであるケースである。プレーヤーB がタイプ1である確率をμ、タイ
プ2である確率を1-μであるとすると、このベイジアン・ゲームにおいてプレーヤーA が
とる戦略はμが 1/3 未満の時には a1 を、1/3 以上の時には a2 をとることがベイジアン・ナ
ッシュ均衡を構成する。しかし、仮に制度がプレーヤーB が b2 をとることに-3の付加的
なコストをかけるならば、利得の構造は図 A7-6 のようになり、プレーヤーB はタイプに
よらず b1 を選択するため、ベイジアン・ナッシュ均衡は(a1, b1)となる。
図 A7-5-1 B がタイプ1の時の利得構造
プレーヤーA
b1
b2
a1
0, -2
-5, -1
a2
-1, -5
-3, -3
図 A7-5-2 B がタイプ 2 の時の利得構造
プレーヤーA
プレーヤーB
b1
b2
a1
0, -2
-5, -4
a2
-1, -5
-3, -6
図 A7-6-1 B がタイプ1の時の利得構造
プレーヤーA
プレーヤーB
プレーヤーB
b1
b2
a1
0, -2
-5, -4
a2
-1, -5
-3, -6
図 A7-6-2 B がタイプ 2 の時の利得構造
5
プレーヤーB
プレーヤーA
b1
b2
a1
0, -2
-5, -7
a2
-1, -5
-3, -9
ここでは政府が行為主体の行為に与える裁可の効果について述べたが、取引主体の間で自
発的に形成される裁可メカニズムも他の取引主体の行為についての予測に影響を与え、そ
のため、取引主体の行為の選択に影響を与える。例えば、企業と従業員の間に終身雇用の
暗黙の了解(という制度)が成立しているならば、従業員は企業特殊的技能の習得など企業に
とって望ましい行為を進んで取ろうとするだろう。企業が暗黙の了解を破って従業員を解
雇した場合には、従業員は企業にとって望ましい行為を以前ほどは積極的にとろうとしな
いであろう。その結果、企業は損失を受ける。従業員は企業側がこの損失を回避するため
に、従業員の解雇を極力避けようとするだろうと予想して、自分の行為を選択するのであ
る。
(第 7 章補論2)
「財産権」
財産権は、人々の間で他者の所有物や他者との契約を尊重する行為を是とし、そうでない
行為を非とし、このルールからの逸脱者に罰を与える制度によって保護される。十分な裁
可メカニズムによって財産権保護の実効性を確保するため、また財産権保護の制度は規模
の経済性をもつため、財産権保護のための公式の制度が設立されることが望ましい(North
1990)。公共財的な特徴のため、財産権保護の公式の制度はしばしば政府によって提供され
るので、政治家・官僚が適切な制度の構築と運用を実行するような動機づけが与えられな
ければならない11,12。公式の制度が、規範・慣習・文化(価値観)によって補強されると、
財産権保護の程度は一層高まるであろう13。
「人的資源」
人的資源とは人々そのものであり、文化(価値観)・慣習・規範などは人的資源の一部と
考えることができる。なぜなら、それらは人々の中に内面化され、広く人々の行為を規定
するものでもあるからである。人的資源である従業員の価値観・意欲・行動パターンなど
は企業における業務遂行の効率性に影響を与える14。例えば、誠実、勤勉、努力、協調を尊
重する労働者は高い生産性を達成することが可能であり、企業者にとっての企業活動の期
Lake and Baum(2001)によれば、民主主義的な政治システムに比べ、独裁的な政治システムでは公共財
の供給が少ないという。
12 民主主義的な政治システムは政治家・官僚にそのような動機づけを与える可能性がある。
13 Grossman and Kim(1995)、Hirschleifer(1995)、Hafer (2006)らは自生的に財産権保護が生起する可能
性を理論的に示している。
14 労働に関する価値観・意欲・行動パターンに影響を与える制度は、労働者にとっては内的効果の問題で
あるが、企業者にとっては環境要因の問題である。
11
6
待価値を高める。そのような価値観をもつ労働者はそのような価値観を尊ぶ社会において
多く存在するであろう。
必要な業務を効率的にこなせる従業員を低いコストで採用できることは企業活動にとっ
て望ましい。教育を肯定的に評価する人々が多い社会15や公的な学校教育制度が整った社会
では、基本的な認知能力を備えた人々が多いであろう。また、人的資源は公共財の特徴を
持つため、多くの国では政府が公教育を提供したり私立学校教育に補助金を提供している。
そのため、政治家・官僚が経済発展にとって有益な教育を供給するように動機づけられな
ければならない16。
さらに、文化(価値観)
・慣習・規範・公式の制度は労働者の採用可能性に影響を与える。
例えば、女性が社会に出ることを望ましくないとする文化においては、女性を労働者とし
て活用することは制約を受ける(Landes 1998)。大家族制という制度は各個人のリスク分散
という観点からは望ましいかもしれないが、労働者の移動可能性を制限して人的資源の効
率的な活用を制限するかもしれない。
「金融資源と需要」
企業活動にとっては金融資源を低コストで迅速に入手できることが望ましい。人々は現在
所有する価値を現在の消費と貯蓄に配分する。国内での貯蓄率が高ければ、企業者はその
貯蓄を金融資源として利用できるだろう。したがって、借金を望ましくないと感じ将来の
消費のために節約する貯蓄性向の高い文化においては利用可能な金融資源は多くなるが、
現在の需要は喚起されない。一方、現在の消費を重視する消費性向が高い文化においては、
財・サービスへの現在の需要は大きいが、利用可能な金融資源は少なくなるであろう。
また、制度は金融資源の入手可能性を制限するかもしれない。例えば、イスラム教では金
貸し行為に対して利子を受け取ることを禁止しているため、金融資源を十分に動員するこ
とに制約が多かった。
透明性の高い会計制度や金融取引に関する法制度が十分に整備されていなければ金融取
引は活発に行われない17。金融取引が効率的に行われるためには、公式の制度に支えられた
金融システムが十分に発達しなければならない(e.g., Levine 1997)。すなわち、政府が金融
関連法を整備し、金融取引を監督する機関を設置して十分な資源を配分し、そのスタッフ
が適切にモニタリングする動機づけを与えなければならない。そして政治家・官僚がその
ような公式の制度を構築・運用する動機づけを与えられなければならない。
「技術機会」
技術機会は人々の知的創造活動から生み出される。人々の自由な知的活動が奨励される制
度であるかどうかは社会の創造的活動の質と量を決定し、企業者にとっての技術機会に影
響を与える。中世ヨーロッパの暗黒時代においては、キリスト教会が教義と異なる世界観
15
そのような社会では、日本の寺子屋のように、人々による自発的な子供の教育が行なわれるだろう。
第 5 章で見たように独裁国家や社会の分断が顕著な社会では政府支出に対する教育支出の割合が低い。
17 例えば、Demirguc-Kunt and Maksimovic (1998)、Rajan and Zingales (2001)、 Levine, Loayza and
Beck (2000)などを参照。
16
7
を唱えることを処罰の対象としてきたため、自由な科学的探究は抑圧された。古代中国の
秦やカンボジアのクメール・ルージュでは知識人を殺害した。そのように自由な知的活動
が抑圧されている環境では企業活動に有益な技術機会は限定されるであろう。
金銭的なリターンが期待できなくても知的創造活動は行われるが、利益を目指す知的創造
活動を促進するには知的財産権のように知的活動の成果を占有できる公式の制度が有効で
ある(e.g., Griliches 1984)。政治家・官僚が知的創造活動を促進する公式の制度を構築・運
用するように動機づけられることが望ましい。
「支援産業」
支援産業とは、言いかえれば、当該企業と補完関係をとりうる他企業のことである。した
がって、本書で検討している制度の影響を通じて企業活動が促進されれば支援産業が育つ
可能性が高まる。
「インフラストラクチュア」
道路、橋、水路、灌漑などのインフラは公共財であり、その自発的な供給にはフリーライ
ダーの問題が発生しやすい(e.g., Olson 1965, Ostrom,1990)。同じ人々が長期間にわたって
多面的に相互的行為をとる小規模な共同体では、フリーライダーを罰する文化(価値観)
・
慣習・規範・公式の制度が自生的に発達し、公共財的なインフラの供給を可能にする18。一
方、共同体の枠を超えて人々が活動する社会では、政府が国民から強制的に税金を徴収し
てインフラを供給する制度を構築することが望ましい(North 1990)。そのためには、政治
家・官僚が、多くの国民が有効に利用できるような適切なインフラを供給するインセンテ
ィブを与えられる必要がある19。
「マクロ経済環境」
経済発展にとって望ましくないマクロ経済環境はしばしば一国内ではコントロールでき
ない要因によって引き起こされるため、国内の制度によって防ぐことが困難である。しか
し、時には政府の失敗によって望ましくないマクロ経済環境が発生する。適切なマクロ経
済運営を可能にする公式の諸制度を構築することが望まれる。例えば、選挙サイクル
(electoral cycle)と呼ばれるように、現政権は選挙での得票を目指して選挙に向けて拡張的
な経済政策をとることがある(see, Franzese 2002)が、そのような経済運営が無制限に行な
われないように、適切な財政規律を課す制度が実効性を持つことが望ましい。また有力な
政治勢力が金融政策を操作してマクロ経済環境が不安定化することがないように、中央銀
行の独立性が制度的に十分に保障される制度が望ましい20。
以上、制度が環境要因を通して企業者の行為に与える影響の可能性を見てきたが、制度は
間接的要因を通して経済発展に影響を与えることもある。
地域的公共財(local public goods)の供給における共同体の役割については速水(1995)などを参照のこ
と。
19 上述のように Lake and Baum(2001)らは独裁国家で公共財の供給が低いことを明らかにしている。
20 中央銀行の独立性は低インフレ、金融システムの安定性、財政規律などに貢献することが実証的に示さ
れている(Arnone, Laurens and Segalotteo 2006 を参照)
。
18
8
「政治システム」
政治過程は政治制度によって異なる様相をとり、その結果政策の選択にも影響を与える。
これについては、第 9 章で論じるのでここでは省略する。9 章では、政治制度が政策の選択
や執行に影響を与え、経済発展にも影響を与えることを述べる。ここでは、9 章で述べない
政治文化について簡単に触れておきたい。宮川(2002)は政治文化とは「政府が果たすべき役
割は何か、そしてその役割をいかに果たすべきかについて、また市民と政府の関係につい
てその社会に広く共通されている価値観、信念および態度」であると定義する。政治文化
は政治家・官僚の果たすべき役割についてのイメージを与え、彼らの行為の選択に影響を
与える可能性がある。例えば、援助を求める者に対して政治家が応えないことが社会的に
恥と考えられる父権的な文化や、そのような政治家の理想像が、ばら撒き政治を誘発する
かもしれない21。また政治文化は市民の政治活動の目標や活動内容のあるべき姿についてイ
メージを形成し、彼らの行為の選択に影響を与える可能性がある。例えば、私的価値を政
府から引き出すために政治家・官僚に請願することが是認される文化では恩顧主義が広が
りやすい。このように政府の失敗の背景には特定の文化や慣習が作用している可能性があ
る。
Almond and Verba (1963)は 1960 年代初めに 5 カ国の政治文化を比較し、政治文化を未
分化型、臣民型、参加型の 3 つに分類して、特に参加型と臣民型の政治文化が適切なバラ
ンスを保ちながら混合しているアメリカやイギリスの政治文化において民主政治がうまく
機能すると結論づけている。また既述のように、Putnam (1993)は平等な立場にある市民が
公的問題に積極的に参加し、自発的に市民団体を形成し、互いに信頼し助け合う市民社会
が育っている北イタリアにおいて、市民文化が成熟していない南イタリアよりも、州政府
のパフォーマンスが高いことを明らかにしている。
「社会の分断」
制度は、社会の分断を深刻化させたり緩和したりする。旧植民地においてヨーロッパの旧
宗主国は統治を容易にするために社会を分断させることがあった。例えば、ルワンダでは
ベルギーが植民地支配を容易にするためにトゥチ族を優遇する政策をとり、それまで共存
していたトゥチ族とフトゥ族を分断し、その後の内紛につながる亀裂を作った(武内 2007)
。
またイギリス植民地支配下のインドでは、植民地政府が国勢調査において帰属する宗教を
選択させたことによって、インド人に宗教的コミュニティーに属するという意識を生み出
した。そして、植民地政府がヒンドゥーとムスリムの対立を招くような統治(例えば、分
離選挙制度22)を行なったため、彼らの対立を先鋭化させた(小牧 2003)
。
一方で、現代のアメリカは多民族国家であるが、差別を禁止する法律とそれを強制する警
察や裁判所などの公的機関が実効性を持ち、また価値観として人種差別について内面的に
21
日本の政治のそのような側面については京極(1983)などを参照。
1909 年に制定され、中央・州法参事会や地区会・市会におけるムスリム議員をムスリム選挙人だけによ
る投票によって選ぶ制度。
22
9
反感を持つ多くの人々が存在するため、社会的な分断をある程度のレベルに抑えている。
「貿易・直接投資」
政府は国内の様々な利益を守るために、貿易や直接投資を制限する公式の制度(関税や数
量制限など)を設置することがある(e.g., Grossman and Helpman 2001)。政治家や官僚が
個別利益に影響されずに、経済発展にとって望ましい貿易政策や外資政策を決定し執行す
るように動機づけられることが望ましい。
また排他的な文化(価値観)は、貿易や直接投資を含む海外との交流を妨げるかもしれな
い。Landes(1998)は過去の中国エリート層の排他的な価値観が中国の発展を妨げる一因
であったと述べている。イギリス植民地政府によるイギリス製品の押し付けに対して 20 世
紀初頭のインドではスワデシュ運動という、国産品を使用することを提唱する運動が盛り
上がった。これらの文化(価値観)や公式の制度は貿易や直接投資がもたらしうるプラス
の効果を制限する可能性がある。
「集積」
集積がスムースに進むためには、人や企業の移動の自由度が高くなければならない。一般
に、国内の移動よりも国境を越えた移動の方が公式の制度によって制限されている。国内
においても政府が国民の自由な移動を制限する場合がある。例えば、中国では省を越えた
人々の移動を制限している。また、言語、生活習慣などの文化的な相違や民族間の差別が
人々の移動を制限する可能性がある。大家族制も親の扶養義務などによって人々の移動を
困難にするかもしれない。一方で、様々な背景を持つ人々が共存する大都市が形成される
と、都市において多様性を許容する文化(価値観)
・規範・慣習・公式の制度が発達し、村
落共同体から人々をひきつけるようになる可能性もある。
(第 7 章補論3)
先進国では多くの破壊的タカ行為、狡猾なハト行為が公式の制度によって違法行為として
罰せられる。日本におけるそのような公式の制度の一部である法律とその規制監督機関の
代表的な例を表 A7-1 に示した。それぞれに働きかけの影響力の大きさも異なるし、望ま
しくない行為の矯正の可能性も異なる。
表 A7-1 経済発展にとって望ましい公式の制度の日本における例
企業の利害関係者
利害関係者との相互的行為に影
響を与える法律の例
10
主要な規制監督機関
独禁法、刑法、不正競争防止
競争相手
法、財産権法、外為法、特許法
等知的財産権法、景表法、消費
者基本法、消費者契約法
民法、会社法、商法、金融商品
取引法、利息制限法、出資法、
資金提供者
銀行法、預金保険法、保険業法、
証券取引所規則
公正取引委員会、消費者庁、関係省庁
警察・検察、裁判所
消費者団体
金融庁、証券取引等監視委員会、
中央銀行、証券取引所
警察・検察、裁判所
民法、労働契約法、労働基準法、
最低賃金法、社会保険に関する
労働提供者
諸法律、労働安全衛生法、労働
労働基準監督署、労働委員会、労働局、
紛争調整委員会
者災害補償保険法、労働組合法、
裁判所
労働関係調整法
労使協議制、団体交渉
独禁法(下請法)、不正競争防
売り手・買い手
止法、民法、景表法、製造物責
公正取引委員会、消費者庁、関係省庁
任法、特定商取引法、消費者基
警察・検察、裁判所
本法、消費者契約法、各製品の
消費者団体
品質に関わる法律
公職選挙法、斡旋利得処罰法、
政治資金規正法、政党助成法、
政治家・官僚
国家公務員法、国家公務員倫理
警察・検察(特捜部)
法、地方公務員法、地方自治法、
裁判所、弾劾裁判
情報公開法、会計法、官製談合
会計検査院、
防止法、刑法(贈収賄)
、独占禁
市民オンブズマン
止法、不正競争防止法、会社法
本章でこれまで見てきたように、制度は裁可によって行為主体による特定の行為からの期
待価値を変化させ、その結果行為の選択に影響を与える。制度が経済発展を促進するよう
な企業者による行為を引き出すことが求められる。また、制度は行為者による他の行為者
の行為に関する予測に影響を与える。そのため、例えば複数均衡が存在する状況や囚人の
ジレンマの状況などに行為主体が直面する場合には、制度が利得構造を変化させることで
11
他者の行為に関する予測を変化させ、高い期待価値を実現する均衡に達することができる
可能性がある。さらに制度は環境要因を供給する主体がそれらの要因を供給するインセン
ティブに働きかけることで環境要因の状態を変化させ、その結果企業者の行為の選択に影
響を与える。例えば、財産権の保護、教育、インフラストラクチュアなど企業活動を促す
環境要因を供給する政府の政策決定・執行に関わる政治家・官僚が適切に動機づけられる
ような政治・行政の制度が求められる。これについては 11 章で詳しく検討する。
(第 9 章補論1)
「経済発展戦略」のツール
9-1節では、企業活動が活発に行われ、企業者によって価値創造行為がとられるように
促すことが「経済発展戦略」の根幹であることを述べた。そのような考えに基づいて、本
節では本書でのこれまでの考察を前提に、経済発展を促進するための潜在的な政策ツール
を見てみよう。これらの政策ツールは、本書で言う公式の制度を構成している。以下では、
各政策の代表的なツールの潜在的効果(メリットやデメリット)を検討し、さらにその政
策の実行上の問題点について簡単に見てみよう。そこでは、政策の実行上、全知全能で博
愛的な政府を仮定できない場合にはどのような問題が起こりうるかについても若干触れる。
但し、経済発展戦略の網羅的な考察はこの短い節では困難であり、より深い分析は別の機
会に示したいと考えている。
9A-1 財産権の保護
第 5 章で見たように、財産権の保護とは以下の 2 つを意味する。第 1 に、人々が所有す
るモノを自由に利用したり処分したりする権利を保障し、他者による物理的な価値破壊行
為を抑制する。第 2 に、人々が契約を交わした相手に対して、契約した行為の履行を求め、
不履行の場合には被った損害の賠償を請求できる権利を保障することである。
政府は財産権の内容と違反者に対する罰則を法律に規定し、法律の違反者を逮捕する機関
(警察など)
、その者に対する処罰を決める機関(裁判所など)
、そして処罰を与える機関
(刑務所など)を設置し、かつそれらの機関に必要な資源を供給して、財産権保護の実効
性を確保する。このような財産権を保護する仕組みの構築と運用は公共財的な側面を持ち、
取引の範囲が拡大した経済においては、民間による十分な供給を期待できないため、政府
が供給することが望ましい(North 1990)。
財産権が保護されれば、企業者は企業活動からの利益をより確実に獲得することができる
ため、企業活動が活発化するであろう。契約の実効性が高ければ、補完関係にある主体間
での取引が促進され、創造的ハト行為がとられやすくなるであろう。但し、過度の財産権
の保護は公的な目的のための資源の利用(例えば、土地の収用)を困難にして、インフラ
整備などを遅らせたり、不可能にすることもある。
12
財産権保護の実効性を高めるには、逸脱者を拘束し罰するため公的機関は武力を伴う強制
力を持つ必要がある。しかし政府が武力を持つことによって、権力者がその武力を用いて
多数の人々の財産権を侵害する可能性がある (Weingast 1995, Djankov et al. 2003) 。
9A-2 自由の保障
経済発展を促進するためには、他の人々の自由や公正であると認められる他の権利を侵害
しない限りにおいて、経済主体の自由を保障すべきである。特に経済発展を実現する上で
重要な役割を果たす企業者の自由は、最大限に保障すべきである。他の人々の「公正な」
権利が不適切に拡大され、企業者の社会的に有益な機能が発揮できなくなるような自由の
制限は極力避けるように、政策は決定され執行されるべきである。その意味で、政府によ
る企業活動に対する規制は慎重に導入されるべきである。
9A-3 競争政策
競争政策とは、「公正で自由な競争環境という公共善を供給することによって、個々の経
済単位にその目標を自律的に追求する機会を公平・透明に保証する政策」
(後藤・鈴村 1999)
と定義される。競争政策の根幹は競争法(日本では独占禁止法)である。日本の独禁法は「市
場占有力の一部企業への集中排除」、
「不当な取引の制限の禁止23」
、
「不公正な取引方法の禁
止24」を3本柱としている。経済発展の観点から見ると、日本の独禁法の第1の柱は独占企
業が生まれ、価値創造活動が停滞することを防ぐ25。第2、第3の柱は破壊的タカ行為や狡
猾なハト行為をとる主体に対して罰を与え、そのような行為を抑制する効果を持つ。この
結果、市場において代替関係にある企業間の市場競争を促し、企業者による創造的行為を
引き出す効果が期待される26。
また、虚偽の情報を潜在的な取引相手に伝えて、取引の実行を誘導する詐欺行為の禁止は、
独禁法や不正競争防止法、景表法あるいは個別の産業分野に関わる法律などで規定されて
いる。こうした法の強制によって、詐欺行為による価値破壊行為を抑制することができる。
財産権の保護と同様に、競争を促進する仕組みは公共財的な性格をもち、民間に任せてお
くと料金の徴収や行為の強制が困難であるため、過少供給となる。そのため、競争環境の
構築と維持は政府によって行なわれるべきである。
競争法の実効性を高めるため、公正取引委員会のように、審査や命令の権限を持ち政治的
に独立した公的な機関の設置が必要である。またスタッフの身分が裁判官と同じように保
証されることが求められる。さもなければ、大企業や組織化された業界団体の政治的圧力
23
例えば、価格や生産量、流通経路などのカルテルの禁止など。
例えば、再販価格維持、不当廉売、共同の取引拒絶の禁止など。
25 ただし、競争政策によって企業が大規模化することが妨げられると、Spence(1984)が議論した
fragmentation 効果によって、各企業の生産性向上のインセンティブが小さくなる可能性がある。
Schumpeter (1942)も技術革新の担い手として大企業の重要性を主張している。
26 競争政策は静学的な効率性の観点から議論されることが多いが、企業者の創造的行為を引き出し価値生
産の生産性を高めるという動学的な観点からの効果がもっと強調されてよいと思われる。
24
13
によって、競争政策の実効性が減じられるであろう。十分な数の審査官を配置し、効率的
に情報を集める仕組み27を構築することが必要である。また独禁法違反の処罰が軽くては実
効性が保たれない。実効性を持たせるためにはアメリカの3倍賠償(treble damage)28のよ
うな厳しい罰を違反者に課すことが望まれる。
9A-4 インフラストラクチュアの整備
文字通り政府が政府支出によってインフラストラクチュアを供給することであり、インフ
ラの建設・維持・管理が含まれる。具体的に政府支出によって道路、鉄道、空港、港湾な
ど多数の人々に共有して用いられる交通インフラを建設すること、また電気・ガスなどエ
ネルギー関連のインフラや上下水道などを公的あるいは民間の組織を通じて供給すること、
通信インフラの整備を推進することなどが政府に期待される。
いくつかのインフラは外部性の問題や、あるいは規模の経済による自然独占の問題が深刻
化する可能性に直面しており、民間主体の供給に任せると過少供給になる可能性があるた
め、政府による規制や供給が期待される。インフラが整備されることによって企業者は企
業活動を低コストで行うことが可能になり、その結果企業活動が活発化するであろう。
多くのインフラの建設や管理は民間業者に委託されて実施されるために、受注をめざす民
間企業から政治家や官僚に対する働きかけが行われる。この結果、社会的に最適なインフ
ラの整備が阻害されたり、あるいは高コストで委託されたりする可能性がある。また各地
方がインフラ整備の予算枠を奪い合うために、経済発展の観点から全国的に見て最適なイ
ンフラの整備が実現できなくなる29。
一般に製造業の生産活動は広大な面積を必要としないので、限られた地域に集中してイン
フラが整備されていれば十分である。そのため、工業団地や輸出加工区などを設立し、地
理的に集中してインフラストラクチュアを整備して企業活動を促進することができる場合
もある。モーリシャスは有効に輸出加工区を活用し、経済発展を実現したと評価されてい
る(Subramanian and Roy 2003)。
インフラの整備を十分に行わないまま経済発展が進行した後にはインフラの整備が困難
になり、混雑現象がその先の発展の隘路となるので、政府はある程度先行してインフラ整
備を行なう必要がある。また上記のように財産権が強いと効率的なインフラの建設ができ
ない場合が発生する。
9A-5 産業政策
産業政策(industrial policy)とは、ある価値基準に照らして、望ましいと考えられる産業
27
例えば、課徴金減免(leniency)制度は、競争政策当局による調査の開始前に違反事業者が違反行為に
ついて情報提供を行った場合に課徴金を減免することで、情報提供を促している。
28 アメリカ反トラスト法の違反行為によって被害者が被った損害額の 3 倍額を請求できる制度。
29 ただしインフラは有形で人々が観察できるものであるために利害関係者や第 3 者が評価しやすい(援護
行為をとりやすい)という面がある。
14
のあり方へ近づけるために政府によって意図的に採られる方策の集合のことをいう。経済
発展の観点からは、ターゲットとする産業内の企業活動を活発化し、企業の生産性を高め
る政策群が関係してくる30
Rodrik(2005)は、産業に政府が介入することを正当化しうる 2 つの理由として、学習の外
部性とコーディネーションの失敗を挙げている。前者は企業活動にかかわる知識がそれを
獲得した主体以外にも波及し有効に使われうることをさす。他の経済主体への正の外部性
は内部化されないため、知識の獲得は社会的に過少となるので、このような活動を政府が
促進する合理性がありうる。後者は市場規模の外部性に基づくコーディネーションの失敗
のことである。経済活動の水準の全体的な増加は、互いに需要を喚起し、インフラへの投
資を促進し、特殊的な中間財への投資を促進する。経済活動の水準が全体的に低い場合に
は、経済主体が個別に投資を行っても十分なリターンを得ることができない。そのため、
分権的意思決定メカニズムの下では、投資が過少になるというコーディネーションの失敗
が起こりうる。例えば、Rosenstein-Rodan(1943)が提唱し、Murphy, Shleifer and Vishny
(1989)によって精緻化されたビッグプッシュのモデルは、需要とインフラの投資におけるコ
ーディネーションの失敗を説明している。
産業政策の代表的なツールには以下のようなものが含まれる。
9A-5-1.将来のビジョンの形成
国の経済が将来進むべき方向性と、諸産業に対する政策の方針を示す。政府による信頼性
の高いビジョンの公表は長期的な企業戦略や投資計画に影響を与え、民間企業の投資のコ
ーディネーションを促進する。多くの発展途上国は 5 ヶ年計画などの形で、数年間の経済
発展計画を示す。ただし、現実味の薄いビジョンだけを公表しても、ビジョンが信頼でき
るものであることを示さなければ効果が薄い。そのため、政府によるビジョンの形成は他
の政策と組み合わせて、信頼性(credibility)を高めなければならない。過去に非現実的な
ビジョンを繰り返し提示し、現実には達成されてこなかった国においては、政府によるビ
ジョンの提示は信頼性がなく、企業者の行為に影響を与えることができない。
9A-5-2.金融資源の提供
以下の3つの政策ツールは、金融資源を提供することで特定の企業活動を促進しようとす
る31。第 1 に、補助金がある。産業の発展にとって望ましい企業の諸活動に対して補助金を
与える。例えば、日本では、外国の高性能の工作機械の輸入、新規の機械設備投資、研究
開発活動などに補助金が与えられ、1960 年代以降これらの補助金が増加した。
第 2 に、低利融資がある。産業の発展にとって望ましい企業の諸活動に対して、市中より
も有利な条件(金利、期間、政府保証など)で融資を行う。例えば、日本では、新技術企
30
その他にも例えば衰退産業を安楽死させる政策も産業政策に含まれる。小宮・奥野・鈴村編(1984)
、
小野(1999)
、伊藤・清野・奥野・鈴村(1988)などを参照。
31 以下の記述は、後藤・若杉(1984)に基づく。
15
業化融資、重機械の開発融資、新規機械の企業化融資制度などの制度があった。これらの
融資は、日本開発銀行、中小企業金融公庫などの国内産業の振興を目指した開発銀行によ
って提供され、1960 年代末以降融資額が増加してきた。
第 3 に、優遇税制がある。産業の発展にとって望ましい企業の諸活動に対して有利な税制
を適用する。例えば、日本では、1950 年代以降に重要な産業を担う企業に適用される法人
税減税、固定設備等に対する法定耐用年数の短縮、重要機械類の輸入税額免除、研究開発
費のうち一定割合の税額控除などの優遇税制がとられてきた。
このような政策は、韓国、台湾、シンガポールなど東アジアの新興工業国だけではなく、
世界中の多くの発展途上国、旧社会主義国でとられてきた。企業活動を資金面で補助する
政策ツールは、十分な金銭的リターンが得られるなら民間から資金を獲得できるはずであ
ると批判されてきたが、上述のように需要の相互依存性や技術知識の創出・伝播という外
部効果からこれらの補助制度を正当化できる場合もある。
但し、補助金、優遇税制などの企業者に金銭が移転される政策は、政治家・官僚の腐敗が
生じる可能性がある。また補助を得るための基準を満たしているかどうか、期待された効
果を上げているかを官僚が正確に判断できない場合には、企業が自らに有利になるように
情報を操作することによって、政策の効果が上がらない可能性がある。
9A-5-3.特定の企業活動の促進と抑制
以下の2つの政策ツールは特定の活動をより直接的に個別企業に対して制限したり、ある
いは促したりする。第 1 に、企業が行う活動についての許認可がある。例えば、外貨使用
の許可と割当、投資、参入、立地、輸入(輸出)、新製品投入、証券発行、特定の原材料32の
使用などの許認可などが含まれる。また一定の基準を設けてそれを満たさないと特定の企
業活動を行うことができなかったり、罰則が課されたりするという規制の方法もある。
第 2 に、行政指導がある。これは法的な裏付けなく、政府が民間企業に対して与える指示
のことをいう。許認可と同じように特定の企業活動を促したり、抑制したりする。法的な
根拠が弱いので、政府による将来の何らかの裁可の可能性の有無が行政指導の実効性に影
響を与える。日本の官庁は強力な裁量権を持っていたために企業者の行為にある程度の影
響力を持つことができたと言われている。
許認可や行政指導は、企業に対して特定の活動を促したり、あるいは特定の活動を禁止す
る。許可を得た企業は市場シェアを保護されるのでコスト削減のインセンティブが高まる
一方、競争に曝されなくなるので創造的行為に対して意欲を失う可能性もある。また許認
可や行政指導は企業者の意思決定の自由度を狭めるために、企業者の期待価値を下げる可
能性がある。また手続きに余計なコストが嵩んだり、事業化の遅れによる機会損失を発生
させることになる。さらに許認可や行政指導に政治家や官僚の裁量の余地が大きいと彼ら
と企業の間で腐敗した関係が発生する可能性が生まれる。しばしば社会主義型の(準)計
32
例えば、国内生産財や環境基準を満たした原材料。
16
画経済的な開発戦略を採用した国々で、計画を実現するために許認可が広く見られたが、
合理性は小さいばかりか、しばしば腐敗の温床となってきた。
9A-5-4.リスク負担
次の2つのツールは、企業では負いきれないリスクを政府が肩代わりすることで、企業活
動を支援する。第 1 に、官民共同事業がある。民間企業にとってはリスクの大きすぎる事
業やプロジェクトを、政府と民間企業が共同で行う。第 2 に、国営企業がある。リスクが
大きすぎたり収益性が低いために民間企業が進出しない領域において、企業活動が行われ
ることが望ましいと判断される場合に、政府が国営企業を設立して運営する。
この2つは、第1に、企業活動に伴うリスクを政府が負うという面がある。これによって
新たな企業活動が生まれ、関連産業に対して需要を創出し、前方・後方連関効果によって
バリューチェーンの形成が促進される。第2に、他の企業者の企業活動にとって有益な技
術や市場などについての情報が生産されるという面がある(Rafael 1991, Hausmann and
Rodrik 2002)。第 5 章で見たように、政府はこのような情報の伝達に直接的に関わること
がある。その点に関しては、技術政策のところで改めて述べる。ただし、官民共同事業や
国営企業は、倒産のリスクが小さいために経営者の業績向上のモティベーションは低く、
税金による赤字補填が国民の負担を招くことが多い。
9A-5-5.産業政策の実施上の問題点
産業政策の策定においては、経済発展のためにどの産業のどの分野が将来競争力を持つか
予測し、その達成のためにどのような企業のどのような活動をどのような政策ツールで支
援したり抑制したりすべきかを判断し、さらに政策間のコーディネーションについても配
慮しなければならない。しかし、政府には必要な情報を入手し分析し、政策の効果を正確
に予測して、適切な政策を決定したり執行することは困難である。また政治家や官僚が私
的価値の増大のために政策の決定や執行を歪め、効果が上がらないことがある。Rodrik
(1995)は、韓国・台湾で産業政策がプラスの効果をもったのは、そのための条件が満たされ
ていたからであり、そうでない国々では産業政策は効果を持たないと述べている。
9A-6 貿易政策
特定のカテゴリーの財やサービスの輸出入の量や額に影響を与える政策のことをいう。発
展途上国の場合には政府が輸出入から税収を得ることが重要な目的であることも多い。輸
出入を管理するための政策ツールとしては、税(輸入関税、輸出税、輸出補助金)
、数量制
限、輸出入ライセンス制、外国為替管理、政府系貿易機関による独占的取引などが用いら
れる。代表的な貿易政策は貿易自由化の程度によって、大きく輸入代替工業化政策と輸出
指向工業化政策に分けられる。
第1に、輸入代替工業化政策(import-substitution industrialization policy)は、輸入品の
17
流入を関税や数量制限などによって制限し、国産品で代替することを目的とする政策のこ
とをいう。この政策は、通常、幼稚産業保護論によって正当化される。すなわち、国際競
争力を持たない国内企業が企業活動の経験を通じて競争力をつけるまで国内企業を保護す
べきであるという考え方である。また多くの発展途上国では国内産業による労働者の雇用
の確保も期待してこの政策がとられている。ほとんど全ての西欧先進諸国や、アジアの先
進国である日本や韓国、台湾も一時的に用いた政策である。
しかし、現実には輸入代替工業化政策を採用した多くの国が失敗した33。特に旧社会主義
国では、第 3 世界の発展途上国の経験に比べても悲惨な結果に終わった(Winiecki 1988)
。
競争力をつけるための国内企業の一時的保護のはずが政治的な働きかけによって保護が長
期にわたり、経験・学習を通じた技術の獲得や、研究開発などによる生産性向上のための
行為・努力を企業者から引き出せないことが多い。また、関税の設定や輸入ライセンスの
付与などにおいて政治家や官僚の裁量の余地が大きく、賄賂の授受等の腐敗を引き起こす
こともある。
第2に、輸出指向工業化政策(export-oriented industrialization policy)は、貿易に関して
より開放的な体制を採り、国内企業を競争に曝すことによって国際競争力をつけさせると
いう考え方に基づいている。輸出指向工業化政策を採用する国では海外から競争力のある
製品が流入するため、国内市場の競争が激化し企業者から努力を引き出すことができる。
また、貿易によって、企業者が海外製品に接する機会が増え、リバース・エンジニアリン
グを含む様々な方法で新しい技術情報を入手することができるようになる。さらに質が高
く安価な資本財を国外から輸入することもできるようになる。一方で、貿易自由化によっ
て、質・価格で競争力をもつ輸入品が国内でシェアを拡大し、国内企業は市場シェアを落
としたり倒産したりして、学習効果によって競争力を強化する機会を失う可能性もある。
途上国企業の商品の質は低く、貿易自由化によって輸出が伸びないことも多い。さらに、
輸入品目を無差別に自由化すると、途上国にとって希少な外貨が富裕層による奢侈品の輸
入に費消される可能性もある。
過去に保護政策をとってきた国が貿易自由化に舵を切る時、国内で短期的に発生するコス
トをどう緩和するかは難しい問題である。少なくとも短期的には国内で失業者が増えて政
治が不安定化するかもしれない。経済主体は保護政策のもとで制度特殊的投資を行ってい
るため、貿易によって損失を被る国内のグループから常に保護指向の提案がなされるであ
ろう。貿易自由化のメリットを享受するためには、自由化を政治的に阻止されないために
漸次的に自由化に移行していく必要がある。
9A-7 外資政策
外資政策は外国資本の国内での活動をどの程度認めるかにかかわる政策である。より具体
33
ただしブラジル、メキシコ、トルコなど一部の国では一定の効果を持ったという評価もある(Rodrik
2005)。
18
的には、どの産業において直接投資を許可するか、合弁会社における外資系企業の持分比
率を何%まで認めるかなどを制限したり、外資系企業の進出に伴って遵守すべき条件34を設
定する。政策の実行のためには、外資関連法の制定、直接投資の案件を審査し許認可を与
える機関の設立、工業振興団地の設立・運営とその投資条件の決定・運用などが含まれる。
外資の国内への参入を制限することによるメリットとしては以下のようなものが挙げら
れる。第 1 に、国内企業が競争力をつけるまで保護することができる。保護された国内企
業が学習効果や規模の経済によって国際競争力をつけることが期待される。第 2 に、直接
投資の制限を輸入制限とセットにすることで、海外企業から国内企業に対する技術ライセ
ンスを引き出すことができる場合がある。一方、外資参入を許容することによるメリット
としては、以下のようなものが挙げられる。第 1 に、国内市場の競争が激化し、企業者の
努力を引き出す。第 2 に、外資系企業からの技術のスピルオーバーによって国内企業の技
術力が高まる可能性がある。第 3 に、外資系企業の直接投資により雇用を拡大することが
できる。第 4 に、直接投資を行なった外資系企業が輸出をすれば外貨を稼ぐことができる。
外資参入を制限すれば、許容する場合のメリットを得られなくなる。例えば、保護された
国内企業が十分な競争にさらされず、企業者から努力を引き出すことができなくなる可能
性がある。また、外資系企業が進出してきた場合に起こりうる技術のスピルオーバーの機
会が小さくなる。さらに、輸入代替工業化と同じように、国内産業の保護に国内企業が安
住して国際競争力をつけないまま、政治的な圧力によって保護が継続する可能性もある。
このため、直接投資を制限する場合でも政府が時限的な外資制限にコミットすることによ
って国内企業の努力を促すことができる可能性がある。
逆に、外資参入を許容すれば、外資参入を制限することのメリットが得られない。例えば、
外資系企業のシェアが大きくなって、国内企業の学習の機会が失われてしまう。また、寡
占化が進み過ぎて競争が減退する可能性さえある。また、外資系企業は移転価格や技術料、
ライセンス料などの名目で利益を本国へ送金してしまうために当該国内での需要創出への
貢献は制限される。
外資がもたらす技術機会や雇用創出の効果を最大限に生かしながら、国内企業を圧迫する
ことがないように様々な工夫が必要である。例えば、直接投資を行った企業がメーカーで
ある場合には現地調達比率や製品輸出比率を一定以上にしないと高率の税金を課すなどの
政策を受入国政府がとることが有益な場合もある。また、輸出加工区を用いて、国内市場
での競争を緩和することで政治的な抵抗を和らげ、外資導入を政治的に実施しやすくする
ことができる。
9A-8 労働政策
労働者の労働条件と労働者と企業の雇用関係を適正なものにするとともに、労働者の能力
34
例えば、現地調達比率や輸出義務など。
19
を高め、労働者の雇用を促進する政策ツールの集合である35。
第 1 に、労働者の最低限の生活を保障する。労働者の最低生活を保障する生活保護制度や
雇用保険制度、労働者災害補償制度などのセーフティー・ネットを提供する。このような
政策は社会政策の一環として労働者の生存権を保障するものである。経済発展の観点から
は、労働者の転職を容易にすることで社会的に適材適所を実現し経済活動の効率化にも役
立つという効果がある。また辞職しやすくなることで労働者の交渉力を高めることができ、
それが逆に労働条件の改善と雇用の安定につながるならば、労働者による企業特殊的技能
への投資を促す。また雇用政策では雇用確保のために、公的な職業安定所で仕事を斡旋し
たり、不況産業の企業の従業員の雇用維持や再訓練に対して補助金を拠出することもある。
第 2 に、企業と労働者の雇用関係において、それぞれが持つ権利・義務を確定する。例え
ば、労働者の職場における一定水準以上の労働条件を保障し、それを実現するための制度
の整備と運用を行なう。また、労働者が労働条件の改善を要求するために団結したり争議
に訴える権利の有無などを明確化したり、採用・解雇のために企業が踏まなければならな
い手続きの内容などを規定する。さらに、労働関連の問題を監督したり解決する企業外の
第3者機関(労働基準監督署や労働委員会、裁判所など)の設置も含まれる。経済発展の観点
からは、権利・義務の確定と政府による強制は、権利・義務が未確定である場合に発生し
うる価値破壊的な対立・紛争を緩和させることができる。また企業間での雇用関係におけ
る条件の差異をなくし、企業間の競争を適正化することができる。さもなければ、児童労
働や非人道的労働条件を採用する企業が、通常の労働条件で操業する企業を市場から追い
やる可能性がある。
第 3 に、労働者と経営陣が意思疎通するための労使協議制や団体交渉などの仕組みを整備
する。経済発展の観点からは、このような意見交換や交渉の機会は、労働者と経営陣の間
の不信感を軽減し、両者が協力しやすい環境を醸成する。また労使紛争の調整を行なう第 3
者機関(労働委員会や紛争調整委員会など)が、法的判断を行う裁判所よりも有効な解決を導
く可能性がある。第 2、第 3 の政策は、企業者と労働者の関係を友好的なものにして創造的
ハト行為を両者がとることを促進する。
第 4 に、労働者の能力を向上させる。公的な職業訓練機関などにおける一般的技能の訓練
や、企業における労働者の能力開発を促進する補助金などが含まれる。労働者は企業で訓
練を受けたあと退職する可能性があるため、社内で一般的技能の訓練が十分に行われない
可能性があり、政府がそれを支援することに合理性がある。労働者の一般的な知識・技能
を高めることによって、企業者が有能な人的資源を低コストで入手することを可能にした
り、企業が訓練する費用を小さくすることができるため、企業活動を活発化することが期
待できる。
これらの政策のうち、雇用保険による失業等給付や労働者の能力開発のための補助金など
は、情報の非対称性や政府によるモニタリング能力の制約を考えると、必ずしも効率的に
35
以下の記述は、浅倉・島田・盛(2008)、水野(2008)などを参考にしている。
20
運用されるとは考えにくい。
労働政策は労働者の生存権や労働権を守るという重要な役割を担っており、経済発展を目
的としているわけではない。ただ、経済発展の観点からは、労働政策において労使の協調
が促進されるように、適切な交渉力のバランスをとることが重要である。例えば、労働政
策が労働者保護に傾斜しすぎると、辞職や転職という行為の選択肢を選びやすいものにし
て、かえって能力向上のための努力を低下させる可能性がある。また労働者の交渉力が高
すぎると、労働者が企業者に対して敵対的な行為をとる可能性が高くなる。しばしば労働
政策の内容は労組側と企業側の間の政治的な駆け引きで決まるが、創造的ハト行為によっ
て両者ともにより大きな価値を獲得することができるという win-win の観点から政策論議
がなされることが望ましい36。
9A-9 教育政策
ある人の人間形成の過程において他者が働きかける場合、その働きかけのことを教育とい
う37。教育はそれを受ける者の社会で生活する能力を高める働きをする面もあるが、権力者
が支配をしやすくするために教育を利用する場合もある。教育政策とは、政府が教育制度
を構築し、教育条件を決定し、かつ実際に教育を提供する一群の政策ツールをいう。教育
政策の実行によって、主として子供たちに学校を通じて教育を与えたり、勤労者や失業者
に対して必要な技能を教授する。より具体的には、教育の内容と提供方法を決定しそれを
執行すること、学校制度の構築と運営、学校施設の建設・維持・管理、教育に必要な教員・
職員や教育補助品の供給、教員の養成や質の改善のための研修、教育費を払えない子供の
ための補助金の提供、学校への送迎や給食サービスなど教育に必要な補助的サービスの提
供などが含まれる。
教育は個人や家庭に任されると、教育の内容・質や教育の機会に偏りが発生し、社会を維
持・発展させる上で有用な教育が供給されない可能性がある。そのため、政府が社会にと
って有益な教育を担う必要があるという考え方がある。また経済学的には、教育は正の外
部性が大きく、社会的リターンと私的なリターンとの差が大きいため、個人の意思決定に
任せておくと過少需要となる。そこで、政府が税金を徴収して義務的に教育を施すことが
正当化される。
経済発展の観点から、第 5 章で見たように、教育によって人々の認知的能力が高まれば、
より質の高い人的資源が利用可能になり企業活動は促進される。また教育水準が高まれば
優れた企業者が輩出される可能性も高まるであろう。さらに人々の教育水準が高まると民
主主義的な政治体制が促されたり、出生率が低下したり、乳幼児死亡率が低下したりする
など、経済発展に有益な副次的な効果があることが知られている。
36
後述のように、コーポラティズム・システムをとるヨーロッパ諸国では、労働者と経営者の頂上団体が
政策形成にかかわり、1970 年代に他の国々よりも経済パフォーマンスがよかった(Schmitter 1981)。
37 以下の記述は黒崎(1999)、河野編(2006)、教育制度研究会(2007)などを参考にしている。
21
教育の目的は労働者を生産することだけではなく、能力や知識を高めること自体が人間の
幸福をもたらす最終的な目標であるともいえる。しかし、もし経済発展を国の重要な政策
目標の 1 つに置くのであれば、企業活動にとって有益な能力・知識を与える教育内容にしな
ければならない。そのためには、企業との緊密な情報交換を行って、企業活動にとって有
益な能力や知識を習得させるために有効な教育政策を設計していく必要がある。
9A-10 技術政策
技術政策とは経済活動において利用される技術の開発や普及を目的として政府によって
採られる方策の集合のことをいう。
技術政策のツールを大きく 2 つに分けることができる。
第1に、研究開発活動や新技術の事業化を促進する政策ツール群がある。研究開発活動や
新技術の事業化に対する補助金、優遇税制、低金利融資などが含まれ、産業政策のところ
で既に議論した。研究開発という企業活動に対して補助が与えられれば、必要な研究開発
費が軽減し期待価値が増加するであろう。技術革新が活発に行われれば、技術の公共財的
な特徴によって、社会全体で企業者にとって利用可能な技術機会が拡大する。
また研究開発活動を促進する政策ツールには、知的財産権の保護が含まれる。これは発明
行為の成果を一定期間排他的に利用できるようにして発明行為を促進する。特許庁や裁判
所など知的財産権を保護する機関が設立され、実効性を持つ必要がある。一方で、発明の
過剰な保護は技術普及を妨げ、社会全体の価値生産の生産性を損なうため、研究開発の促
進と技術の普及の間の適正なバランスをとらなければならない。さらに、産業政策で述べ
たように、非常にリスクの高い技術開発については、政府と民間が共同でプロジェクトを
行ったり、あるいは公的企業が設立されて実行される場合もある。
第2に、政府が中心になって、技術や需要など企業活動に有益な情報を企業者に伝達する
政策がある。具体的なツールとしては、技術博覧会の開催、技術普及促進機関や促進員の
設置、公的な技術研究所の設置などがある。ある企業が技術を採用し、より環境に適した
利用方法を開発すれば、その方法が国内の他企業に将来利用され生産性を高めるという正
の外部効果がある。技術革新に失敗した場合にも、その技術の事業化の困難性について有
益な情報を他企業に提供することになる。また技術革新は累積的なので、ある技術革新は
次世代の技術革新の基礎となるという意味でも世代間での正の外部効果が存在する。
もともと情報は売買によって利益を上げることが難しいため、有益な技術情報を得た企業
は自らの企業活動に活用しようとして、他企業に情報を伝えようとしない傾向がある
(Geroski 1995)
。このため、民間に任せておいては、企業活動に有益な技術情報の伝播が
不十分となり、技術機会が最適な規模以下になってしまう。そのため、政府が技術情報の
普及にかかわることに合理性がある。一般に各事業単位が小規模であるため、新しい技術
技術を開発したり情報を収集するインセンティブが少ないが、その技術が採用されれば企
業活動の効率性が高まるような産業分野がある。代表的なものに農業や、クリーニング業
などの小規模な事業がある。しかし、他産業でも途上国での当該産業の現状がこのような
22
条件に当てはまるならば、政府が研究開発活動や情報伝達を支援する合理性がありうる。
また、政府の別の役割として技術の標準化がある。技術基準(technical standard)の設定
は製品のパフォーマンスや需要などに関する不確実性を低減し経済内の技術開発や技術普
及を促進する。また、技術基準によって各企業は製品を個別ニーズに合わせて調整するコ
ストを削減できるため取引が活発化する。その結果、より多くの企業が新技術を用いた製
品の生産に参入できるようになり、より一層企業間の技術開発競争も促される(see, e.g.,
Mowery 1995)。
技術政策にもいくつかの問題点がある。政府による国営企業の運営や情報伝達による技術
機会の提供は、民間が本当に必要としている情報を政府が提供できるように、関係者のイ
ンセンティブ構造がうまくデザインされなければ、企業ニーズとのミスマッチが発生する。
また政府による企業のモニタリングが十分ではないので、研究開発や技術伝播に対する補
助は非効率なものになりやすい。さらに、民間企業を支援する目的で設立された公的研究
所でも、研究員に適切なインセンティブが与えられなければ、彼らが自らの研究業績を高
めるための研究に資源を偏って配分するおそれがある。このように、民間企業が必要とし
ている技術について十分な情報を持たないまま、官僚の判断で技術政策をとることは政策
の効果が小さくなる可能性がある。民間企業との情報交換を緊密に行い、民間企業を適切
に支援するシステムを作ることが求められる。
9A-11 金融関連政策
金融に関連して政府がとる政策は大きく3種類に分類できる。第 1 に、政府によるマクロ
安定化政策は、マクロ経済変数(金融政策の場合には主として物価)の変動を抑えたり、
目標値に近づけるために、金融当局が民間金融機関との取引に用いられる各種変数(マネ
ーサプライや公定歩合など)を操作する。この政策については次項で述べる。
第2に、金融システムの安定(信用秩序の維持)のために、金融当局が金融機関の行動ルー
ルの設定や金融機関の監督を行う。銀行法などの金融機関に関連した法律を制定し、金融
当局による金融規制・監督・行政指導が行われる。個別金融機関の経営破綻が引き起こす
金融システム全体の混乱を回避するために、預金保険制度などの制度をとって金融システ
ム全体を保護する。また、銀行が過度のリスクをとらないように、銀行に一定以上の自己
資本比率の維持や不良債権への引当金を義務付けたり、また過度の競争を制限したりする。
第 3 に、金融取引における経営者の行為を規律づけるために、コーポレートガバナンスの
制度の実効性を高める。コーポレート・ガバナンスの実効性の向上によって経営者のモラ
ル・ハザードを回避できる。その結果金融取引を活発にして企業者が利用できる金融資源
を増加させることができる。
金融システムの安定の維持やコーポレートガバナンスの仕組みの有効性の保障は、公共財
的な特徴を持つため、政府が行なわなければならない。また金融システムはショックに脆
弱で、かつ引き起こされる損害の規模が甚大であるために、政府による規制が正当化され
23
る。多くの資金提供者はリスク回避的であるため、信頼できる政府が金融機関の背後で預
貯金を保証していれば、彼らの信頼を高めて資金供給を増加できる。日本の郵貯では、政
府が背後にいたことで預金者の信頼を高めてきたといわれる。また第 3 のコーポレートガ
バナンスの実効性を高め企業者の行動を規律づけることで、利益を増加させようとする企
業者のインセンティブが高まる。
こうした政策は、金融システムの発達に役立つ可能性がある一方、過度の保護はモラルハ
ザードを引き起こす可能性があり、金融部門内の競争が停滞し、金融部門自体の生産性が
停滞するおそれもある。
9A-12 マクロ安定化政策
マクロ経済変数38を目標値に近づけるために政府や中央銀行によって採られる政策であ
る。特に経済発展の観点からは、マクロ経済変数の変動を適正な範囲内に留めるためのマ
クロ安定化政策が重要である。代表的なツールには、金融政策、財政政策がある。為替政
策もマクロ経済安定化において重要な役割を果たす。財政政策は、経済活動が停滞してい
る時に政府支出の増加や減税によって有効需要を拡大し、経済活動が過熱しているときに
は政府支出の減少や増税によってインフレの抑制をはかる。金融政策は、マネーサプライ
や公定歩合を操作することによってマクロ経済指標の安定化を図るもので、特に物価の安
定を政策目標の中心においている39。これらの政策を効果的に実行するため、政策を決定・
執行する機関の公正性・独立性が保たれる必要がある。
マクロ経済環境が安定していれば、企業者は将来の経済環境の予測が立てやすくなり、企
業活動が活発化する。また、景気を刺激するための政府支出による有効需要の創出は関連
産業の企業に対して需要を生み出し、企業活動を促進するであろう。しかし、そのような
需要が一時的なものと予想されるならば、投資は活発には行われないであろう。
しばしば発展途上国の政府や中央銀行には、マクロ経済環境をコントロールするための能
力や、マクロ経済政策を有効に実行するための制度ができていない。特に中央銀行の独立
性が十分に保障されていなかったり、財政政策の規律が十分に守られていなかったりする
ことがある。民主的な国家では選挙のたびに政権政党が人気取りのために財政金融政策に
介入して、マクロ経済環境を不安定化しがちである。また独裁的な国家では独裁者が私的
な価値の拡大のために財政金融政策に影響を及ぼすケースもある。
(第 9 章補論2)政府開発援助
9-3 節の国内政策の分析と同様の枠組みを用いて、本節では政府開発援助の有効性につ
38
インフレ率、金利、失業率、GDP など。
この記述はケインジアンの考え方に基づいており、リアルビジネスサイクル理論のように、政府による
金融・財政政策の効果を疑問視する理論もある。
39
24
いて検討する。本節では政府開発援助は国内の経済発展戦略よりも有効に実行されること
が一層難しいことを述べる。ここでは 2 国間援助を中心に議論する。多国間援助40の効果に
ついても類似の問題が発生する。2 国間政府開発援助の枠組みを大雑把に表すと図11-2
のようになる。図中で矢印は、主たる作用の方向を示している。援助供与国(以下供与国)
の国民が納めた税金の開発援助への支出を政治家が議会で決定し、それに基づき政府の担
当官庁が詳細な使途を決定し、専門の援助機関に委任して開発援助を執行させる。政府間
で外交文書が交換され、その交換公文に基づき、援助受入国(以下受入国)の担当官庁・受
図 A9 開発援助の基本的な関係図
政府
政府
援助機関
担当者
執行機関
援助実施主体
担当者
( 企 業 、 NGO,
専門家 etc)
上位の官僚
上位の官僚
議会
便益
政治家
議会
政治家
受 益 者
国民
(国民)
援助受入国
援助供与国
入機関が受け入れの業務と実施の監督を担当する。援助の実施は企業や専門家、NGO など
に委託され、彼らによって受入国の受益者に便益が提供される。受入国が民主主義国であ
れば受益者である国民は選出した議員を通して援助の受入れを担当する官庁の役人をモニ
40
国際機関を通じた援助。
25
ターできる権限が与えられている41。
ここでは政府開発援助のうち、その国の経済発展を支援することを主な目標とする援助に
ついて考える。一般に援助は多目的であり42、その結果援助の特定の目的(例えば、経済発
展)から見た達成度は低いものになりがちである。ここではそのような多目的性の問題を認
識しつつも、経済発展の支援を主たる目的とした援助に焦点を絞って議論しよう。経済発
展の支援を主たる目的とした援助には、企業活動を支援する補助金や融資、企業活動の効
率性を促進する技術支援、企業活動を直接的に支援するインフラの整備などが含まれる43。
(援助の決定)
政府開発援助は、受入国の政府、供与国の援助機関、また援助の実施主体、時には政府高
官や政治家などによって発案(発掘)される。そして、受入国の関係者や他の援助機関と対話
を行いながら、フィージビリティ・スタディ44を経て、受入国政府からの要請に基づいて供
与国政府によって決定される。
経済発展の支援を主目的とする援助に議論を絞ったとしても、途上国の誰をターゲットに
どのような援助をすれば望ましいかについての決定が適切に行われるためには、決定を行
なう主体が十分な能力と情報を持ち、また適切な決定を行なうように動機づけられる必要
がある。途上国側だけでなく、先進国の援助機関や国際援助機関の能力や情報は不足して
いる。経済発展は人々の行う経済活動の総合的な成果であり、その原因から結果に至るメ
カニズムは経済現象の中で最も複雑である。現在も、また将来にわたっても、経済発展の
メカニズムについての我々の知識は、増加しながらも、不完全なままであり続けるであろ
う。仮に経済発展のメカニズムが理解できたとしても、その分析枠組みに則って特定の途
上国の状況を正確に把握するための十分な情報を得ることはできない。さらに、どのよう
な援助が当該国の経済発展を支援する上で最も有効かを正確に特定することは非常に難し
い問題である。
経済発展のメカニズムに関する理解や情報の不足の結果、国際機関や先進国が多くの誤っ
た援助を長期間にわたって実行し、途上国の状況を改善できず、かえって悪化させた可能
性も指摘されている(Easterly 2006, Rajan and Subramanian 2007)。また、日本政府は長
い間要請主義45を掲げて、援助の成果に関する実現可能性の検討を十分に行わないまま援助
を実施してきた。
41
この他にも供与国の援助機関がプロジェクトを直接実施したり、プロジェクトを伴わないプログラム借
款を行なったり、国際援助機関に援助を委託するケースもある。
42 経済発展以外の目的としては、貧困の削減、緊急支援、ベーシック・ヒューマン・ニーズの充足、マイ
ノリティーの状況改善、同盟国の形成、援助供与国の輸出増加、麻薬の撲滅などが含まれる。
43 貧困削減、BHN の充足、緊急支援なども、本書で考察してきた様々な要因の状況を改善することで間
接的には経済発展を促進することになりうる。
44 援助の計画内容や実施可能性についての事前調査。
45 援助を発展途上国からの要請に基づいて決定・実施すること。このような方式は他国や国際援助機関で
も同じであるが、要請があったのちにどれほど緻密に援助の効果の分析と評価を行なった上で援助の決定
をしているかは別の問題である。
26
援助決定には受入国の政治リーダーが関与することもある。援助プロジェクトが、受入国
の政治リーダーの意向に沿わないものであれば、その政治リーダーによって援助は阻止さ
れる可能性がある(Bueno de Mesquita and Smith 2007)。例えば、援助によって貧困層の
所得水準や教育水準が上昇し、政府に対する抗議行動が活発化することを恐れて、政治リ
ーダーは援助を望まないかもしれない(Easterly 2003)。また援助が政治リーダーの私的な
価値獲得のために利用可能であれば、援助の当初の方針とは違った内容で執行される可能
性もある。例えば、政治リーダーの支持者のグループに便益が偏って提供されるように援
助の内容が歪められるかもしれない。たとえ受入国の政治リーダーが国民全体の厚生にも
配慮していたとしても、政治リーダーによる私的利益追求の思惑が部分的にでも働く限り、
援助の一部は政治リーダーの私的価値を高めるために利用される可能性がある (Adam
and O’Connell 1999, Azam and Laffont 2003) 。
(援助の執行)
援助が、被援助国の政治リーダーの意向に反せず、かつ私的価値の追求のために利用価値
が低い場合には、援助は供与国の援助機関の方針に沿って進められるかもしれない。援助
は援助の実施主体(企業、NGO、専門家など)、受入国の執行機関、あるいは援助国の援助
機関などによって実施されるであろう。援助の実施段階では上位の機関で決定されなかっ
た細部について決定しなければならない。このために、執行に携わる上記の機関の人々が
十分な能力と情報、そして適切な動機づけを与えられなければならない。
ここでは、受入国政府の援助執行機関と援助実施主体について考える。受入国政府の援助
執行機関の能力の不足については多くの観察者によって指摘されている。途上国の多くが
現在世界中の国々や国際機関、さらに NGO からの援助を受け、これに対応するために膨大
な時間を割かなければならない。Brautigam and Knack(2004)によれば、ガーナでは政府
高官が供与国への対応(例えば報告書の作成など)に年間 44 週を使わなければならず、自分
自身の省庁の仕事さえ満足にできない状況にあるという。また世界中の援助機関が援助プ
ロジェクトの執行のために現地の有能な人材を引き抜き、受入国政府側で人材不足が起き
ている。
受入国の政治リーダーは、援助を効果的に実行しない官僚を罰する権限をもっている。し
かし、これまで本章で見てきたように受入国の政治リーダーには援助によって受入国の現
状を改善しようという強い動機づけが必ずしも与えられていない。現状を変更することは
国内の政治勢力のバランスを変更することになるため、政治リーダー自身にとって政治的
なリスクになりうる。また後述するように供与国側の関係機関は援助を提供せざるをえな
いという状況にあり、受入国の政治リーダーは受入国の状況が変わらなくても援助は継続
されるだろうと予測できる。そうであるならば、援助が受入国の政治リーダーの私的利益
を向上させる限り、むしろ状況を改善せずに援助を継続させたほうが、受入国の政治リー
ダーが得られる私的価値が大きくなるであろう。Easterly(2001, 2003)によれば、ケニアは
27
1980 年から 2000 年にかけて同じ大統領の政権下で世界銀行から 21 の構造調整ローンを受
け入れてきたが、構造調整のコンディショナリティーはほとんど満たしてこなかったとい
う。
また援助の執行にかかわる執行機関や実施主体の担当者が、不適切な行為をとる可能性も
ある。第 1 に、援助実施にかかわる人が援助の中から私的価値を奪おうとするかもしれな
い。例えば、援助を民間企業に委託する場合には、政府官僚が受注業者から賄賂を受け取
り、その分援助実施のコストが割高になるかもしれない。援助が受益者への物資や金銭の
提供である場合には、本来の価値よりも少ない価値分しか提供されず、残りを官僚が横領
するかもしれない。また受入国の企業に対する開発資金が供与国から受入国の政府系開発
金融機関などを通して提供される場合には46、官僚は貸付金や補助金の割り当てを操作する
ことによって受益企業に対して賄賂を要求し、その結果有能であるが公正な企業者に対し
て必要な資金が届かない可能性がある。第 2 に、単に援助の目的を実現するための最大限
の努力を怠るかもしれない。援助機関や実施主体の担当者は通常援助の目的が達成されな
くても罰を受けないので、強い動機づけが与えられていない。
供与国の援助機関はそのような腐敗した官僚や政治家あるいは企業が援助に関係するこ
とを避けたいと考えるかもしれない。しかし、援助国の援助機関は受入国の官僚や政治家
の質について不完全な情報しか持たないため、逆選択の問題に直面する47。理論的には、援
助機関が逆選択の問題を緩和する方法も提案されているが(e.g., Svensson 2003, Azam and
Laffont 2003)、現実の援助で受入国の政治家や官僚を選別するための効果的な方法を取る
ことは困難である。
援助受入国で政治家や官僚の腐敗が存在したとしても、供与国側による十分なモニタリン
グが働くかどうかは疑問がある。第1に、供与国の政府は外国の政治家や官僚の行為に関
して十分な援護行為の手段を持っていない。例えば、政治家や官僚による不正の疑いがあ
ったとしても、逮捕したり取調べを行ったり処罰を与える権限を持っていない。受入国が
援助の適切な執行を約束しても、契約後に不適切な執行しか行わないという機会主義的な
行動をとるかもしれない。また機会主義的な行為を回避するため供与国側は事前に受入国
側の十分なコミットメントを得ることができない。国内の取引であれば裁判所が契約を強
制することができるが、援助を不適切に執行した受入国の官僚や政治家を罰する手段は限
定されている。
第2に、援助供与国の官僚や援助機関のスタッフに、援助受入国の政治家や官僚の不正を
正すインセンティブは小さい。彼らは公務員あるいは準公務員であり、被援助国の不正を
見逃したからといって所得や地位が脅威に曝されるわけではなく、また不正を発見し罰し
たからといって個人的に褒賞を得るわけでもない。むしろ過去の援助が不適切に使用され
46
例えば、日本政府によるツーステップローン。
開発援助の理論的分析において、政治家や官僚の質という時には、経済発展や貧困層の生活改善に取り
組む真剣さ、国民全体の厚生に置くウェイトの大きさ、援助を横領しない正直さ、国民の一部だけを優遇
しない平等さなどの性質が含まれる。
47
28
ていたことを明らかにすれば、そのような援助を行ってきた援助機関自体が援助国のマス
メディアや国民の非難にさらされるため、それを回避しようとする(Easterly 2003)。一般
に援助はアウトプットを的確に測定することが難しいために、インプット(援助額)で評価さ
れる傾向が生まれる。そして援助機関のスタッフの人事考課が援助執行額に基づいて行わ
れるようになり、有益な効果が望めなくても援助を実行しようという誘因が生まれる。ま
た援助機関は援助事業の評価をしばしば内部監査によって行うため、監査は厳しさが少な
くなる(Easterly 2003)
。
第3に、援助供与国の援助機関は政府系機関であるために、ある年度の予算が過去の実績
に基づいて決定される傾向が強い。その結果、有効に使われる見込みが立たなくても、予
算分だけは援助しようというインセンティブが援助機関に生じる。援助機関のスタッフは
成果の低い援助を行っても罰せられることはない。さらに先進国は国際社会からの政治的
な圧力により、また国際社会での影響力の向上のために、経済規模に応じた援助の負担を
求められるという状況にあり48、したがって援助額だけは相当な規模になる。このため、援
助資金を有効に使うインセンティブが援助機関のスタッフには低く、資金配分の非効率も
起きやすい。また、援助機関が受入国の政府を罰するほとんど唯一の手段である援助を与
えないという方法の信頼性(credibility)が低くなるために、その手段では援助受入国の政治
家や官僚を規律づけることができない(Svensson 2000b)。また最近は新たな援助国の増加
や途上国に援助を行うNGOの増加に伴って、発展途上国に対する援助はますます増殖し
ており、一国から援助を打ち切られても受入国政府にとっての損失は相対的に小さくなっ
ている。
第4に、受入国の政治家は官僚をモニターして適切に援助を執行しない官僚を罰する権限
をもつが、11-1節で述べたように、権限が有効に行使されることはあまり期待できな
い。民主主義的な政治システムでは、政治家と官僚はしばしば補完関係にあるため、政治
家は有権者のために官僚に対して厳しい援護行為(官僚のモニタリングや処罰など)を実
行しない可能性がある。また、独裁的な政治システムでは、政治リーダーが官僚の腐敗を
看過する傾向がある。
第5に、援助が受入国の政治リーダーの私的な価値を高め、また上記のように低開発の問
題(例えば、貧困)が解決されない限り援助を受け取ることが期待できるのであれば、低
開発の問題を真剣に解決しようとはしないであろう。さらに援助機関は途上国に多額の資
金を貸し付けているために、返済を支援するために援助を打ち切ることができない。上述
のように、受入国が開発の成果を上げなければ援助を打ち切ったり減額すると援助国が脅
しても、援助機関が援助を打ち切れない理由が存在していれば、そのような脅しには信頼
性(credibility)の問題が発生する(Svensson 2000b)。
20 世紀後半に経済大国としての地位を確固とした日本は国際社会への応分の貢献を求められるように
なる。1988 年当時の竹下首相はサミットで「世界に貢献する日本」を提唱し、援助による世界への更なる
貢献を宣言した。
48
29
最後に、潜在的な受益者による政治家や官僚のモニタリングは不十分にしか働かない。援
助を受けることができたであろうにもかかわらず、政治家や官僚あるいは企業の不正によ
って援助の便益を十分に得ることができなかった受入国の潜在的な受益者は、そもそも援
助から便益を得ることができたであろうということについて知る可能性は低い。国内で税
金の見返りに期待される公共サービスと異なり、援助は被援助国の特定の人々に提供され
ることに必然性が低い。したがって、潜在的な援助の受益者が受入国内で政治家や官僚あ
るいは企業を非難したり告訴する可能性が低い。さらに援助の効果が広く共有される場合
には、国民によるモニタリングという援護行為はフリーライダー問題によって過少にしか
行われない。さらにそのような行動をとることが、政治家や官僚からの報復につながるこ
とを恐れる人々は彼らを非難しないであろう。
(援助の効果)
プロジェクトや技術協力などの援助の場合、企業、専門家、NGO などに事業委託される
ことが多い。このうち、企業に委託された場合には、企業は利益の最大化を目的としてお
り、途上国の経済発展を目的とはしていない。そのため、様々な決定や行為において、経
済発展への貢献という目的とは必ずしも整合的でない決定や行為が選択される可能性が高
い。例えば、供与される資材に高い価格が設定されたり、必要のない物資や途上国にふさ
わしくない高価な機材が提供されたりするおそれがある。
通常は供与国(あるいは受入国)の援助担当機関が、委託事業の成果を評価することが期
待されているが、情報の非対称性や援助の多目的性のために、援助が所期の目的を達成し
たかどうかの評価は難しい(Murrell 2002)
。また上記のように援助機関のスタッフは、援助
の目的を達成するための強い動機づけが与えられていないので、十分に援護行為を行うこ
とは期待できない。さらに要請主義をとる場合に、企業が受入国の政治家や官僚に賄賂を
支払って援助の要請を援助供与国政府に対して提出させ、事業を受注して利益を得るとい
う狡猾なハト行為をとることさえあるという(朝日新聞「援助」取材班 1985、毎日新聞社会
部 1990、草野・ナナウラ 2004)49。
NGO は特定の目標(例えば、貧困の削減、環境の改善、民主主義の確立など)を達成し
たいと強く選好するため、その目的については企業に比べ高い成果を実現できる可能性が
ある(Murrell 2002)。しかし、NGO は特定の課題の解決を強く志向しているために、途上
国の現状には厳しすぎる環境規制を要求したり、あるいは民主主義を実現するために選挙
に過度に介入したりすることがあるという(Murrell 2002)
1980 年代以前に主流であった物的な援助が効果を上げられないことへの反省から、80 年
代から政府開発援助に占める制度改革支援プロジェクトの比率が増加し50、移行経済諸国の
出現により 90 年代からさらにそのような援助が増加してきた(Martens 2002)。しかし第 7
49
50
但し、これらのジャーナリスティックな見解はバイアスをもっていることが予想される。
例えば、世界銀行・IMF による構造調整融資。
30
章 で 見 た よ う に 制 度 改 革 の 援 助 は 社 会 的 な 埋 め 込 み (embeddedness) の 問 題 が あ る
(Granovetter 1985)ために実効性が低く、また無形であるために事後評価が困難であり、援
助が無駄になる可能性が小さくない(Mummert 2002, Rodrik 1996)。
マクロ経済のレベルで見る限り、開発援助が発展途上国の経済成長を促しているという証
拠は希薄である。Boone(1996)は援助が投資を増加させることも貧困層の状況を改善させる
こともなく、一方で政府の規模を増加させることを示した51。これに対し Burnside and
Dollar (2000)はよい政策をとる国々では援助が経済成長を促すが、そうでない国々では効
果がないという推計結果を示し52、これに続くいくつかの研究が何らかの条件下で援助はプ
ラスの効果を持ちうることを示した53。けれども、Easterly, Levine and Roodman(2003)、
Easterly(2003)、Roodman(2004)、Rajan and Subramanian (2005)らの研究は、援助の有
効性を示す既存研究の推計方法やサンプルを少し変更するだけで、援助と政策の交差項は
有意なプラスの係数を示さないことを明らかにし、現在ではよい政策の有無にかかわらず
援助の有効性については疑問がもたれている。さらに Brautigam and Knack(2004)、Rajan
and Subramanian (2007)は、援助がかえって受入国のガバナンスの状態を悪化させるとい
う推計結果を得ている。また援助は独裁体制の存続を助ける可能性さえある。なぜなら、
政府は国民から税金を徴収する場合には応責性を求められるが、援助のように国民に対し
て応責性が求められない資金が豊富にあれば、国民に対する政治リーダーの交渉力が増し、
政策において譲歩する必要性が減少するからである(Brautigam and Knack 2004)。
(受入国の受益者によるモニター)
図 11-2 で見た援助の一連の流れの中で、唯一私的な利害の問題として、援助の効果的な
執行のために働きかける可能性のある主体は援助の潜在的受益者である。しかし上記のよ
うに潜在的な受益者は援助を受けられる可能性を必ずしも認識しておらず、潜在的受益者
によるモニタリングは不十分にしか働かない。少しでも国民によるモニタリングを促すた
めに、潜在的な受益者に向けて、彼らを受益者として援助国から受入国援助機関に向けて
援助が実施されることをアナウンスすべきである。援助の便益を獲得するために受入国政
府に対して働きかけることは、潜在的な受益者の間でフリーライダー問題が発生するため、
そのようなアナウンスが必ずしも有効であるとは限らないが、民主主義的な国家では潜在
的な受益者による援護行為を期待できる場合もある。Reinikka and Svensson (2004a)はウ
ガンダ政府による教育補助金について、生活水準が高いコミュニティーに属していて政府
に対して交渉力をもつ学校では役人による搾取を抑制することができたことを明らかにし
ている。また、Reinikka and Svensson (2004b)はやはりウガンダにおいて新聞によるキャ
Boone(1996)以前の研究については Hansen and Tarp (2000)を参照のこと。
ただし Svensson(2000a)は供与国から腐敗の少ない国々へ援助が供与されている証拠は見られないとい
う。
53 例えば、Hansen and Tarp (2001), Dalgaard and Hansen (2001), Guilamont and Chauvet (2001),
Lensik and White (2001), Collier and Dollar (2002)など。
51
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ンペーンが役人による教育支出の中間搾取を抑止する効果をもつことを示している。
一方、供与国側の国民による十分なモニタリングも期待できない。供与国の納税者の一部
は、税金の一部が途上国の恵まれない人々のために有効に使われることを望むであろう。
しかし、援助の成果が納税者の私的な価値に与える効果は十分に大きくないために、供与
国の国民が援助の効果をモニターするインセンティブは小さい。Svensson(2005)は、援助
のパフォーマンスが国内向け公共政策に比べても一層悪いものになっている援助固有の問
題として、以上見てきたように納税者から受益者までの feedback loop がないことを指摘し
ている。
本節で見たように、図11-2の中の政府開発援助の実施過程に関係する人々のうち誰も
「私的な利害の問題として」、援助が有効に使われるために必死で奮闘することはない。な
ぜなら援護行為に十分な努力を注ぐことによって私的な価値が高まる構造が不在なのであ
る。本書全体にわたってみてきたように、企業活動に関わる利害関係者の全てが、私的な
価値を最大化するために必死で奮闘することによって、企業間競争がその国の物質的な豊
かさを高めるメカニズムについて強調してきた。しかし、全く対照的に、政府開発援助で
はそれに関わる誰も「私的な利害の問題として」必死で奮闘することがないのである。この
結果、政府開発援助の決定・執行の各段階で、悪意の有無に関わらず、援助の内容が歪め
られ、資源が掠め取られ、怠惰によって効率性が低下し、当初期待された成果が実現され
ることなく、援助がもたらすはずの価値の一部は消えていく運命にあるといえる54。
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それでも国際政治的な理由で援助を行わなければならないならば、せめて相対的に容易に援助の成果が
評価でき、かつ受入国にとって有益であることが明らかな援助に重点を絞るべきであろう。インフラと学
校施設の整備は有力な候補である。道路、港湾、鉄道、車両などの交通インフラ、また電気・ガス・水の
ような産業や生活へのインプット供給のインフラ、そして学校教育に必要な建物や設備などに対する援助
は相対的に評価しやすいであろう(Martens 2002)。これらは作ればそこにあることが確認でき、またその
質を第 3 者が確認することができるものである。そして、不必要なものが高額で提供されないように、受
注金額も公表されるべきである。そうすれば、不完全であってもマスメディア、NGO、研究者などの第 3
者がある程度独立に評価することができ、必要があれば批判をすることができる。一方、技術協力などは
有効に使われたのかについての評価が難しく、批判にさらされる可能性が低いため、非効率な使われ方を
してしまう可能性が小さくない。
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