ジム・クレーマーにとって、人生最悪の一日だった。 一四年間にわたり

ジム・クレーマーにとって︑人生最悪の一日だった︒
一四年間にわたり︑このウォール街の派手なトレーダーは︑正気とは言いがたい長時間労働を続け︑
毎朝五時にオフィスに出勤し︑売買注文をがなり立て︑マーケットの些細な変動をすべて逃さず利用し︑
雑誌への寄稿やテレビ出演で名前を売り︑さらにはインターネット上でニュースサイトを立ち上げて成
功を収めた︒メディアの人気者という立場と第一線のトレーダーという立場を使いわける過程で︑倫理
的な問題でちょっとした傷を負うこともあった︒それでも︑この熾烈を極めるゲームの頂点に立ってい
一九九八年一〇月八日の朝︑クレーマーはそうしたすべてが崩れ去るのを目の当たりにしていた︒急
たこと は 間 違 い な い ︒
ピッチで上昇していた株式相場は︑七月以降︑胃に穴が開くような急降下を続けていた︒ダウは二〇〇
〇ポイント近く下げ︑自信満々で相場の上昇に賭けていた投資家たちは期待を裏切られた︒この日︑突
クレーマー・バーコウィッツ& カンパニーの顧客一〇〇人のざっと半分が資金を引き揚げてしまった︒
然︑彼のヘッジファンドの顧客が次々と電話をよこして︑資金の引き出しを求めはじめた︒瞬く間に︑
信用はガタ落ちだった︒いままで︑投資家には一人たりとも逃げられたことなどなかった︒なにかしく
巷では︑最近のクレーマーはあちこちのメディアに首を突っ込みすぎて気が散っていると囁かれていた︒
確かに︑この一年はクレーマーにとって悪い年だった︒ファンドが一月以降に上げた利
益は︑たったの二%︒SP500に連動するインデックスファンドの収益率三〇%に︑遠く及ばなかっ
じった の か ?
た︒しかし︑今回の投資家の大量離反はこれ以上ない悪夢だった︒ファンドの資金はすべて不振の株式
市場に投資されており︑クレーマーは午後一時までに︑引き出しを求める顧客に金を支払わなくてはな
らない︒六時間以内に︑五〇〇〇万ドルを超す金を調達しなくてはならないのだ︒
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いつものクレーマーなら︑ピンチに陥っても冷静さを失うことはほとんどなかった︒ウォール街一〇
〇番地のビル八階にあるオフィスのデスクにどっしり構えて︑四台のコンピュータと︑緑と赤の文字で
最新の株式市場の動きを映し出すブルームバーグの専用端末に囲まれながら︑部下に大声で指示を出し︑
書類を飛ばし読みし︑背後のテレビから聞こえるCNBCの音声に耳を傾け︑オンラインコラムを執筆
し︑電子メールにざっと目を通す︒これをすべて同時にこなすこともあった︒ブローカーのマックス・
レヴァインとオープン回線でつながっている電話の受話器を取り︑
﹁AOLを五﹂買うだの︑
﹁サンマイ
クロを一〇﹂売るだのと指示を飛ばす︒宝くじを何枚か買うみたいに気軽に言うが︑実際にはとてつも
しかし︑この日は違った︒危機は自分のまいた種だった︒古い友達でロースクール時代のクラスメー
なく不安定な株に何十万ドルもの金を賭けているのだ︒
トのエリオット・スピッツァーを助けようとしたのがそもそものはじまりだった︒スピッツァーは︑ニ
ューヨーク州の検事総長選に名乗りを上げていて︑その選挙資金がどうしても必要だった︒クレーマー
府の規則では︑ヘッジファンドはすべての投資家を平等に扱わなくてはならない︒そのためクレーマー
は︑スピッツァーがヘッジファンドに投資していた金を引き出すことを認めた︒しかしアメリカ連邦政
受け付けを開始する日だった︒その日が訪れたとき︑折悪しくウォール街は半ばパニック状態に陥って
は︑すべての顧客に資金の引き出しを認めると発表する羽目になった︒一〇月八日は︑資金引き出しの
いた︒それまでの一〇週間で︑ダウは九三〇〇ドル台から転げ落ち︑七五〇〇ドルを割り込んでいた︒
数人の顧客はどうにか説得して思いとどまらせることに成功したが︑大半の顧客は資金を引き揚げると
言って譲らなかった︒動かせる金は二〇〇〇万ドルあったが︑七〇〇〇万ドルを支払うためには︑保有
している株式を売らなくてはならなかった︒市場は冷静さを失っており︑株価は崖から転がり落ちる岩
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ウォール街の名物男、
人生最悪の一日
第1章
こた
のように暴落しているというのに︒
いちばん堪えたのは︑船から逃げ出したネズミのなかに︑マーティー・ペレツがいたことだった︒ニ
ュー・リパブリック誌のオーナーであるペレツは︑クレーマーの親友の一人だった︒彼はペレツを実の
父親同然に思っていた︒二人の関係は︑八〇年代前半︑クレーマーがハーバード・ロースクールに通っ
ていた時代に遡る︒クレーマーは生徒︑ペレツは先生だった︒すでにこのこの頃から︑クレーマーには
相場の勘のようなものが備わっていた︒自宅の留守番電話に毎週︑株式相場のワンポイントアドバイス
を吹き込んでいて︑彼の家に電話をかければそれを聞けるようにしていた︒このアドバイスのおかげで
儲けていたペレツは︑この頑固な若者に五〇万ドルの運用を任せることにした︒すると︑クレーマーは
この金を三倍に増やしてみせた︒こうして二人の友情が花開いた︒クレーマーの結婚式では︑ペレツが
花婿付添人を務めた︒九六年には︑二人で組んで金融ニュースサイトのザ・ストリート・ドットコムを
立ち上げ︑熱心な読者を集めた︒筋金入りの親イスラエル派であるペレツの五〇歳の誕生日には︑クレ
ーマーはエルサレム財団のために五万ドルの資金を集めた︒
しかし︑二人の関係は次第に張りつめたものに変わっていく︒クレーマーは︑師匠と弟子という関係
にうんざりしはじめていた︒自分ももう四三歳だ︒いいかげんに︑そろそろ対等に扱ってほしいと感じ
の立ち上げにあたって︑約束していただけの金額を拠出しなかったというのだ︵ペレツはこれを強く否
るようになっていた︒それに︑裏切られたという思いもあった︒ペレツがザ・ストリート・ドットコム
定している︶︒それに︑自分は新しい会社のために身を粉にして働いているのに︑ペレツはほとんどな
にもしていないという不満もあった︒それでも︑クレーマーにとってペレツは欠かせない存在だった︒
証券取引委員会︵SEC︶は︑クレーマーがトレーダーとして巨額の投資をしている株式相場を扱うニ
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ュースサイトを運営するためにはきちんとした出版業者と組む必要があると主張していたからだ︒苛立
ちを募らせたクレーマーは︑ザ・ストリート・ドットコムの出資割合の五〇%対五〇%を変更して︑ペ
レツの出資を一〇〇万ドル増やすよう要求した︒ペレツはこの元教え子の要求をあつかましい態度と考
えて最初は拒否したが︑結局は渋々ながら言うことをきいた︒
九七年一二月のザ・ストリート・ドットコムのクリスマスパーティーで︑クレーマーは涙ながらにス
ピーチをし︑タイム誌を創刊した伝説的な人物ヘンリー・ルースを引き合いに出しながら︑生まれたば
かりの会社を軌道に乗せたスタッフを称えた︒すると︑ペレツは自分のスピーチの番になると︑こう言
ことだ﹂︒クレーマーはショックを受けて︑席を立った︒妻のカレンは︑もう二度とペレツと口を利く
った︒﹁ひとつはっきりしているのは︑ルースと同じように︑クレーマーはいけすかない野郎だという
そして︑今回の最大のピンチにつけこんで︑ペレツはクレーマーに襲いかかった︒投資家のなかには︑
なと言 っ た ︒
資金を引き揚げたほうがいいとペレツに助言されたという人たちもいた︒自分はクレーマーのことなら
誰よりもよく知っているが︑彼はザ・ストリート・ドットコムにかかりきりで︑ヘッジファンドはおざ
なりになっていると︑ペレツは語ったという︒ペレツは後に︑資金を引き揚げるようアドバイスした相
手は一人だけだと述べているが︑クレーマーは顧客の大量離反の原因は彼にあると確信していた︒クレ
ーマーの目には︑これ以上ない裏切り行為に映った︒母親の葬式以来泣いたことはなかったが︑大量の
それこそ︑生きるか死ぬかの瀬戸際だった︒定められた期限までに必要な金を調達できず︑相場が暴
不信任票を突きつけられたこの日の夜︑気がつくと︑クレーマーは大声を上げて泣いていた︒
落するようなことになれば︑資金の引き出しを求めた投資家の損失を埋め合わせる責任を負う羽目にな
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ウォール街の名物男、
人生最悪の一日
第1章
る︒資金を引き揚げる可能性があるなかでいちばん大口の投資家は︑マックス・パレヴスキーだった︒
クレーマーは思った︒この主張を跳ね返すのは至難の業だった︒世間では︑ペレツはクレーマーをよく
パレヴスキーもペレツの言葉を信じて︑自分の注意が散漫になっていると考えているにちがいないと︑
知っていると考えられていたからだ︒パレヴスキーの出資額は非常に大きく︑彼が資金を引き揚げれば︑
クレーマーは商売を畳むしかない︒厳しい話し合いの末︑どうにか説き伏せて︑資金の引き揚げを思い
留まらせることに成功した︒
クレーマーは四年ぶりに︑ニュージャージー州サミットの自宅にいる妻のカレンにオフィスに来て仕
事を手伝ってほしいと電話で頼んだ︒カレンは以前はトレーダーをしていて︑このヘッジファンドも夫
ーマーは妻に言った︒カレン・クレーマーがオフィスに姿を見せたとき︑夫のシャツは汗でびっしょり
と一緒に彼女が始めたものだった︒子供の世話はベビーシッターに任せて︑すぐに来てほしいと︑クレ
になっていた︒コンピュータの画面は︑すべて赤く点滅していた︒株価下落を表す赤い文字だ︒値下が
りしている銘柄は︑値上がりしている銘柄の九倍に上った︒これは絶好の買い時なのか︑それとも一九
八七年の大暴落の再現なのか? クレーマーは︑そんなことを考える前にやらなくてはならないことが
あった︒必要な金を調達するためには︑株を売らなくてはならなかった︒ランチタイムには︑ダウはさ
スが︑マーケットの強気派が一転して弱気派に変わってしまったと語っていた︒株式相場の大暴落は避
らに二六四ポイント下げていた︒CNBCの番組﹁パワーランチ﹂では︑キャスターのビル・グリフィ
けられないと︑クレーマーは考えていた︒カレンの考えでは︑唯一の希望は︑FRBのグリーンスパン
議長がどうにかして相場を救ってくれることだった︒しかしグリーンスパンは︑経済はうまくいってい
ると語り︑相場の下落に歯止めをかけようという動きは一向に見せなかった︒
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相場下落の火に油を注いだのが︑証券会社プルデンシャルの花形アナリスト︑ラルフ・アカンポーラ
だった︒ダウは七〇〇〇ドルまで下げると考えていたが︑さらに六七三五ドルまで落ち込む可能性があ
ォール街でも指折りの強気派なのだ︒その彼が弱気に転じたとなれば︑今回の株価下落はいよいよ本物
ると︑彼は社内のブローカーたちに言った︒この予測は極めて重大な意味をもった︒アカンポーラはウ
と考えざるをえないというわけだ︒大手証券会社ゴールドマン・サックスの超強気派アナリスト︑アビ
ー・ジョセフ・コーエンも︑アメリカ経済は不滅であるという考えそのものは変えなかったが︑SP5
00の予測を下方修正した︒いたるところのトレーディングデスクに︑こんなメッセージが共鳴してい
散らかったデスクの前で︑クレーマーはCNBCのベテランキャスター︑ロン・インサーナの言葉に
た︒﹁コーエンが降りたぞ﹂
き情報網をもっていて︑次に起きることを予見する第六感が備わっているように見えた︒しかし︑番組
注目していた︒インサーナのことは︑ハーバード時代からテレビで見ていた︒このキャスターは驚くべ
きん
内ではリラックスしたように見せていたが︑インサーナもこの日はピリピリしていた︒彼自身︑資産の
一部を金に換えることも考えていた︒誰も︑相場がどこまで下がるか見当がつかなかった︒
この日の朝早く︑インサーナは有力な情報源のライル・グラムリーに電話をした︒元FRB理事のグ
ラムリーは︑いまもアメリカの金融政策の内情に通じていた︒インサーナがある筋から得た情報によれ
ば︑FRBがなんらかの電話会議を予定しているという情報がグラムリーのもとに入ったとのことだっ
違いない︒FRBは九月末にすでに利下げをおこなっていたが︑市場はこれに反応しなかった︒しかし
た︒正規の会合の間に︑電話会議が開かれるのは極めて異例だ︒金利引き下げについて話し合われるに
第二段の利下げがおこなわれれば︑市場に驚きをもって受け止められるはずだ︒インサーナが接触する
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と︑グラムリーは断定を避け︑電話会議が開かれる可能性もなくはないとしか言わなかった︒しかしイ
ンサーナは︑これを額面どおりに受け止めなかった︒グラムリーが確かな情報を握っているという話を
聞いていたからだ︒FRBが動くにちがいないと︑インサーナは考えた︒いまやあまりに多くの人が︑
クレーマーは午前中ずっと︑株を売り続けていた︒本当は手放したくなかった優良株の多くも︑売却
相場が雪崩を打って崩れていると考えていた︒
しなくてはならなかった︒金を調達するには︑そうするしかなかったのだ︒クレーマーはカレンにトレ
ーディングデスクを任せて︑資金を引き揚げようとする顧客に思いとどまるよう懸命に説得した︒それ
でも︑ファンドの保有する株式をほとんど売り払い︑顧客の払い戻しに応じている間も︑このチャンス
に安値で株を買うべきかどうか考えていた︒もし株を買うとすれば︑金を借りて買うことになる︒その
場合︑相場が下がり続ければ︑一巻の終わりになりかねない︒実際︑八七年の大暴落の際は︑そうやっ
底かなど︑誰にもわからなかった︒クレーマーは怖じ気づいていた︒トレーダーたちは決して認めよう
て大勢の仲間が破滅していった︒しばらく前には︑巨大ヘッジファンドのLTCMが破綻した︒どこが
午後一時一五分︑CNBCでロン・インサーナが最新のニュースを伝えはじめた︒クレーマーは背後
としなかったが︑市場は血の気が引くような事態に陥っていた︒
の書類キャビネットの上に置いたテレビを見ながら︑インサーナが画面に登場しただけでまた損が膨ら
むと思った︒ここ数日︑インサーナは一貫して悲観的な情報ばかり伝えていた︒しかし︑今度は違った︒
ライル・グラムリーとの会話について話しはじめたのだ︒﹁静かに﹂とクレーマーは叫んで︑テレビの
音量を上げた︒インサーナは︑グラムリーの観測として︑FRBが緊急の電話会議を開くという見通し
を伝えた︒インサーナがこのニュースを伝えている間に︑ダウは三〇ポイント︑四〇ポイント︑五〇ポ
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イントと上昇︒前日比二〇〇ドル安まで盛り返した︒クレーマーはザ・ストリート・ドットコムに弱気
な内容のコラムを配信したばかりだった︒﹁インサーナの言ってることが正しかったらどうするの?﹂
それでもまだ︑クレーマーは株を買う気になれずにいた︒しかしすぐに︑これが重大な間違いであっ
と︑カレンは言った︒﹁このヘマは一生忘れてもらえないわよ﹂
たと知ることになる︒FRBの緊急電話会議に関するインサーナの情報は正しかった︒FRBは数日後︑
利下げをおこなったのだ︒FRBが動く可能性があると最初に知ったときに︑すぐに手を打つべきだっ
たと︑クレーマーは後悔した︒株価は上昇に転じていた︒長い下落は終わったのだ︒ダウはそのまま九
〇〇〇ドル台まで回復した︒これは︑一人のテレビ記者のスクープによってマーケットが底を打って上
昇に転じた史上はじめての出来事として瞠目すべきことであると︑クレーマーは考えた︒
血みどろの大虐殺は終わった︒クレーマーは会社を救うことに成功した︒しかしその過程で巨額の金
を失った︒そして︑マーティー・ペレツを失った︒ペレツは彼を侮辱し︑落ちぶれさせた︒生計を立て
のおかげでクレーマーは金持ちになった︒しかしそれと引き替えに︑とてつもない代償を支払わされる
るにはあまりに醜悪な仕事だと︑クレーマーは思った︒このビジネスにはまったく魂がない︒この仕事
◉ ◉
羽目に な っ た の だ ︒
◉
トレーダーの仕事を始めた頃から︑ジェームズ・J ・クレーマーは︑尊敬されることを強く求めてい
た︒クレーマーはフィラデルフィア州ウィンドムーア郊外で生まれ︑地元の公立学校に通った︒父親は
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第1章
プレゼント用の包装紙を売って生計を立てていた︒少年時代のクレーマーは︑近くのベテランズ・スタ
ジアムで大リーグのフィラデルフィア・フィリーズの試合があるときはアイスクリームやソーダを売っ
て金を稼いだ︒七三年︑奨学金と資金援助のおかげでハーバード大学に進学したが︑金持ちの同級生の
間で自分が貧しい家の出身であることに負い目を感じ︑人一倍努力することで身を立てようと固く決意
した︒
すぐにジャーナリズムに惹きつけられるようになったクレーマーは︑学内紙ハーバード・クリムゾン
に次々と記事を発表しはじめた︒本当はミドルネームなどないのに︑﹁J ﹂というミドルネームをでっ
ち上げたのもこの時期のことだ︒クリムゾンの編集者ニコラス・リーマンに︑そのほうが洗練したイメ
外感を感じた︒対立候補のエリック・ブレインデルは︑マンハッタンの私立学校出身というエリート階
ージになると言われたからだ︒七五年にクリムゾンのトップを選ぶ選挙に立候補したときは︑強烈な疎
級の一員︒クレーマーは︑自分の当選を阻止するための﹁ストップ・クレーマー﹂キャンペーンが存在
すると信じていた︒それでも︑結局︑一票差で当選を果たした︒クリムゾンを採算に乗せるという仕事
に乗り出し︑はじめて給料の支払いや収益の問題に直面したクレーマーは︑週末版の雑誌を発行し︑広
告収入で赤字を埋め合わせようとした︒
しかし︑自分個人の財務状況に関して言えば︑クレーマーは敗者だった︒大学を卒業した後は︑故郷
ウィンドムーアに戻って︑フィリーズの試合を見てだらだらと過ごしていた︒やがてニュー・リパブリ
ック誌の編集をしていた友人のマイケル・キンズレーを通じてマーティー・ペレツに紹介されて︑この
雑誌に記事を書くようになった︒しかしすぐに︑一本一五〇ドルで記事を書く仕事では生活していけな
いと思 い 知 ら さ れ た ︒
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その後︑ワシントンDCの叔母の家に同居して一時期コングレッショナル・クオータリー誌で働き︑
次いで︑週給一五五ドルでフロリダ州タラハシーのタラハシー・デモクラット紙の記者として働いた︒
ローカル記事と格闘する日々を送っていたある日︑連続殺人犯のテッド・バンディがクレーマーの住ん
でいた家のすぐそばにある女子学生クラブ会館を襲った︒この事件に関する執着的とも言える報道が評
価されて︑ロサンゼルス・ヘラルド・エグザミナー紙に引き抜かれた︒
しかし︑西部に移り住んでもだらしない金の使い方は改まらず︑クレーマーは多額の負債を抱えてし
まった︒全財産の一〇〇〇ドルをもってラスベガスに行って︑半分をすってしまったこともあった︒住
んでいた界隈は治安の悪い地区で︑ある時など︑アパートに泥棒に入られて︑小切手をはじめ全財産を
失ってしまった︒何カ月もの間︑友人のアパートに泊めてもらったり︑車の中で銃をすぐそばに置いて
切実に転機を求めていたときに︑アメリカン・ロイヤーという雑誌を立ち上げようとしていたスティ
夜を過ごす日々が続いた︒単核細胞症を発症し︑肝臓を痛めた︒どん底の時期だった︒
だ︒クレーマーはニューヨークのグリニッジビレッジの姉妹のアパートに移り︑ブリルの下で働きはじ
ーヴ・ブリルから連絡があった︒ブリルは共通の友人からクレーマーの名前を聞いて︑電話してきたの
めた︒年俸は二万五〇〇〇ドルという夢のような金額に跳ね上がった︒立ち直ったクレーマーは︑再び
株式投資を始めた︒カリフォルニア時代に︑ナショナル・セミコンダクターなど︑後にシリコンバレー
と呼ばれることになる地域の企業と関わりをもつようになっていた︒急成長を遂げているそうした企業
一九八〇年にクレーマーがハーバード・ロースクールに入学することを決めると︑ブリルは持ち前の
に︑彼 は 投 資 し た ︒
ねばり強さを発揮して︑ロースクールの学部長に電話をし︑クレーマーは目下︑アメリカン・ロイヤー
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人生最悪の一日
第1章