オストメイトになって 良かったこと

んな身体で、こんな状態でこれから生活して
体験記事 16
いけるのだろうか。お先真っ暗で、生きる自
信なんてものはありませんでした。
オストメイトになって
オストメイトになって
良かったこと
今でもあの時のことを思い出すと熱いも
のが込み上げてきます。術後も経過は思わし
鶴見区
保科正志
くなく、傷口はふさいで無く、こぶしが二つ
も入るほどの穴が開きガ-ゼを7~8枚ほど
経過:
経過:
万国旗のように結び、つないで入れていまし
昭和 60 年夏頃に、おしりの異常に気がつ
た。なかなか肉が盛り上がってこず、大学病
きました。以前より痔主だったものですから
院より家の近くの病院に転院し、肉が上り穴
又痔の再発位に思って(20 才の頃手術をして
のふさがるのを待つという状態でした。
いる)市販の痔の薬を使用。
その病院で互療会(現:横浜市オストミ-
ですが一向に良くならずに、だんだん便が
協会)のことを知り、連絡をするとすぐに役
細くなり、排便が辛くなり、膿の様な物が出
員のMさん、Nさんがわざわざ来て、いろい
る様になり腰が痛む様になったので、61 年9
ろお話をし、励まして下さいました。
月前に手術、かの有名な痔専門の病院を受診
早速入会の手続きをいたしました。ところ
しましたところ、市大病院へ行く様に言われ
がウロの方に問題が起き血尿がでるようにな
ました。 外来では詳しい検査ができないの
り、検査の結果、右側尿管に狭窄があり、大
で、ベッド待ち一週間で入院となりました。
学病院に戻り、このままだと腎臓が悪くなる
直腸3cm 位の所にポリ-プが出来ている。
ので右側のみ腎僂にしました。
手術をしなければならないとのこと。その前
そのままでは困るということで、昭和 62
に放射線治療で患部を小さくして手術をした
年8月再手術でウロの方は回腸導管のスト-
ほうが良いとのことで、一か月放射線を照射
マに造り直し、同時にお尻の方もこのままで
した後 61 年 12 月4日手術をしました。
は肉が上がるのに時間がかかるという事で腸
を下に落とし穴を塞いだそうです。そんな訳
骨盤内全摘出、下行結腸人工肛門、両側尿
で二つの病院に1年四か月も入院していまし
管皮膚ロウと言うことで、両ストマ-保有者
た。退院後は2カ月休養し、復職したのです
になりました。手術を終わって病室に戻った
が、肉体労働のため大変辛く継続は無理と判
のは夜の9時頃で 12 時間位かかった様です。
断し、退職しました。職安で身障者対象の職
その晩は痛みで意識が朦朧としていて、我に
業相談会があり、面接の結果、今の会社に入
返ったのは翌日の昼ごろでした。
社し、9年目になります。
看護婦さんから「保科さん、大変きれいな
形の良いストマ-ですよ」と言われ、腹に赤
い物がついているのを始めて見て、びっくり
失敗談:
失敗談:
元の生活に戻れ、この様に元気になれるま
しました。便と尿が腹から出るのだと聞かさ
でには色々失敗がありました。まず、ウロの
れた時のショックといったら大変なものでし
漏れの問題。初めの頃は何回となく失敗しま
た。布団をかぶって泣いてしまいました。こ
した。フランジのちょっとの透き間からの漏
195
れ、パウチとウロガ-ドの接続部の外れ、パ
ランジを貼りパウチを装着します。
(コロの方
ウチの小さな穴よりの漏れ。夜中に身体が冷
はストマ-回りが平らでないのでペ-ストを
たくて目が覚め、腹の方へ手をやると下着か
使用。ウロは皮膜剤をつけてから)
らシ-ツ、布団までびっしょり、情けなくて
コロのパウチにはサニ-ナを塗布し、便の
涙を流しながら身体を拭き、全部取り替えて
すべりを良くします。一日一回朝パウチを取
も朝まで眠れない夜が幾度あった事か。
り替えるだけです。昼間はほとんど便が出ま
せん。いつも夜8時過ぎから夜中に出るので
コロも同じで、夜中に目が覚めると何とパ
助かります。そのためには規則正しく食事を
ウチが外れ、ウンチだらけ。ツ-ピ-スのた
とる事と、間食をしない事に気をつけていま
めガスが満タンになり耐え切れずパウチが外
す。ウロのパウチはフランジ取替時に一緒に
れてしまったのです。運が悪く、たまたま軟
取り替えるだけです。
便の時だったものですから、お腹の上がウン
チのジュ-タンの様になっていて寝具一式捨
てることになりました。
パウチが直接肌に触れると気持ちも悪い
し、特に夏は汗もかき、カブレの原因になる
ので、バンド付きの袋を考えて作り使ってい
現状:
現状:
ます。会員の方に相談して作ってもらいまし
時々まだ通過障害が起き、夜中に病院に行
た。仲間同志でないとわかってもらえません
く事がありますが、それ以外のトラブル、失
ので。本当に横浜市オストミー協会に入って
敗はほとんどありません。 半年に一 回大学
良かったと思いました。何でも相談出来る仲
病院で血液検査、
二年に一回 CT と内視鏡検査
間がいる、
恥ずかしいなんて思う事は無いし、
を受けています。今のところ異常無しとのこ
ストマ-の事、病気の事、同憂者でないと分
とで安心しています。
からない話が出来る事、
随分助けられました。
これも横浜市オストミー協会の、良きアド
皆親身になり話を聞き、アドバイス、フォ
バイスとご指導のおかげ、あとは自分なりに
ロ-してくれます。身内にも分かってもらえ
色々工夫してやっています。
ない事もあるし、会の仲間は本当に有り難い
と思います。今ではオストメイトになって良
装具の
装具の取り替え:
私の場合は洗腸は出来ないので自然排便
かったと思える様になりました。
です。両ストーマ共ツ-ピ-スを使用してい
ます。コロは4~5日、ウロは中6日のペ-
*オストメイトになって
オストメイトになって良
になって良かったこと:
かったこと:
1.健康な時の様に、便もおしっこもがまん
スで替えます。取り替えは部屋の中でストマ
する必要はないのです。いつでもどこで
-の位置の高さに台を用意してあります。立
も立ったままでも出来るのですから。
ったままで台の上のノ-ボンを腹に当て、髭
2.自分の身体を大事にする様になりまし
剃り用の刷毛で石けんをつけ、プラスチック
た。オストメイトになる前は大分無茶を
製の醤油差し三本にぬるま湯を入れ、きれい
していましたから。
にした後、
空気浴のため 30~40 分位そのまま
3.人のやさしさがわかる人間になれまし
の状態でティッシュをあて家の中の用事をし
た。健康な時は身障者という事に無関心
たり、テレビを見て時間を過ごしてから、フ
で、別世界でしたが、まわりを見ると私
196
なんかよりもっともっと苦労している
体験記事 17
方が大勢いて、甘えてなどいられないと
明るく前向
るく前向きに
前向きに
思える様になりました。
4.今後年をとって、人様のお世話にならな
ければならなくなった時、下の世話はオ
金沢区 白石祥子
ストメイトの方がうんと楽なんだそう
です。
装具を取り替えれば良いのだから。おし
私は現在ダブルストーマです。昭和 61 年
30 歳の時に人工肛門になり、平成5年 37 歳
めはしなくていいのです。
の時に人工膀胱になりました。原因は直腸ガ
いろんな事を良い方へと考えを持ってい
ンでした。61 年の時は私に病名は知らされま
く様にする。会の仲間というのは本当にあり
せんでしたが、主人は先生から半年か1年と
がたいです。旅行に行ったり、ネオン街で盃
宣告されたそうです。
をかたむけたり、
カラオケに行って唄ったり、
それでも、幸運にもその後異常もなく元気
会社の仲間とはまた違い、本音で話が出来る
に過ごして参りました。最初の手術から7年
仲間が多く出来ました。
後に婦人科の検査で再びガンが見つかり、再
横浜市オストミ-協会では、全体研修会、
発したのが分かりました。
新入会員研修会、ウロ・コロ別研修会、男性
この時は私自身が直接聞きましたが、それ
女性別研修会、若い人達だけの集まり。
また横浜市を4つの地区(北部、西部、中
まで自分がガンだったとは全く疑うこともあ
部、南部)に分けて、春、秋の地区別研修会
りませんでしたので大変なショックでした。
等がありますので、どんどん参加して頂き、
しかし、これを知った主人はもっとショッ
お話し合いをして、一日も早く元気を取り戻
クだったと思います。死を宣告されながらも
し、
社会復帰が出来る様にがんばりましょう。
7年が過ぎ、元気にしていましたので、もう
大丈夫と安心していた矢先の出来事だったと
(平成 10 年 横浜だより 58 号)
思います。
ガンの再発ということで、私は死ぬのかも
れないと思い、落ち込んだりもしましたが心
配してくれる夫の顔を見た時に何故かは分か
りませんが、私は大丈夫だ、死ぬ事は無いの
だという不思議な確信のようなものが生まれ、
あまり深刻にならずに手術に臨めました。
手術は 12 時間以上におよび骨盤内全摘出
で膀胱、子宮、卵巣、膣、仙骨4個を取る大
変な手術でした。すでに直腸、肛門は無かっ
たのでおなかの中はカラッポかしらと考えた
りもしました。
197
再発したといっても食欲もあり、体力も充
と思い、ワンピースを試してみたら出先で台
分ありましたが、さすがに術後のダメ-ジは
の部分が溶けてしまいオシッコが漏れてきて
ひどいものでした。手術の傷自体の経過は良
慌てて家に帰った事もありました。この時は
好だったのですがモルヒネの障害もありまし
パートに行く時で3時間程遅刻をしてしまい
たし、食欲は全く無いしでどんどん体重が落
ました。
ちていきました。
でもそんな時でもシマッタとは思っても
それでも感染症にもならず 順調に快復し
ていった様です。本人はとても順調だとは思
落ち込んだりはしません。今度は気をつけよ
うと思うだけです。
えないのですが先生や看護婦さんからは珍し
い位順調だと言われました。
今は両ストーマともツーピースを使って
います。この頃は失敗もあまりありません。
しかし退院してからも食欲は無く、更に痩
中3日で両ストーマともおふろに入った時に
せてしまいました。家にいても何も出来ず主
交換しています。お湯を当てる時は最高に気
人が会社から帰ってから食事の支度をして食
持ちの良い瞬間です。痒くなる時もあります
べさせてくれたり、休みの日には気分転換と
がその時は少しの時間フランジを貼らずに置
言って車に乗せてドライブに連れていってく
きますが、やはりオシッコの方は水ですので
れました。このドライブはとても効果があり
やっかいです。この交換が一番面倒に思う時
ました。又、友人が食事を作って持って来て
です。
くれる事もありました。
私自身も家にいるより外に出る事が好きで
私のような手術を受けた人の5年生存率
したので早く外に出たい、遊びに行きたい、
が4人に1人で25%と聞きました。私はも
その一心で傘を杖代わりに散歩に出たり、休
う5年が過ぎて6年目に入りました。比較す
み休み家事をしながら、それでも着実に元気
る事は良くありませんが、もっと大変な人は
になっていきました。
沢山います。
私には神様からもらった肛門と膀胱はあり
本当にあの時は夫や家族、友人の大きな励
ませんが、人間の英知で作った肛門と膀胱が
ましがあったので元気になれたのだと思いま
あります。健常者と同じとはいきませんが充
す。ストーマに関してはすでに人工肛門にな
分な身体があります。
っていましたので、人工膀胱にもわりと早く
病気の後も温泉旅行やハワイにも行きま
慣れました。コロの時には術後暫く見るのも
した。ハワイでは水着を着て海にも入りまし
イヤでしたが、ウロの時はそんな事も無くス
た。多くの暖かい人に囲まれて元気に暮らし
ムーズに受け入れる事が出来ました。しかし
ている事にとても感謝しています。神様は越
何回か失敗もしました。ツーピースを使って
えられない試練を人に与える事は無いと言い
いる時にパウチがしっかりはまっていなくて、 ます。これからも明るく、前向きに生きて行
オシッコが漏れてしまった事が数回ありまし
きたいと思います。
た。布団を濡らしたり、服がビショビショに
ありがとうございました。
なった事もありました。
(平成 11 年 横浜だより 62 号)
一体になっているものなら外れる事もない
198
少し違う感じがしました。先生にも、今回は
体験記事 18
きちんと検査の結果が出るまでは退院は待っ
てくださいと言われました。レントゲン写真
九 年 目 の 転 機
を見ながら検査の結果を主人とともに聞くこ
とになりました。
南 区 山口サト
「もうこれ以上今までのような手術ではだめ
です。今回の検査であまりよくないので、こ
癌ではないと信
ではないと信じ9年間に
年間に9回の手術
のままでは‥‥‥」あとは、何をどう説明さ
ある日突然、尿がコーヒー色になり、次の
れたのか、ただ涙が出て、出て、覚えていま
日には元に戻り、2~3日すると生理になり
せん。
ました。
「9年間も先生はいろいろ考えて、膀胱をと
また1カ月ぐらいすると尿が濁る、その繰
り返しで半年ぐらい過ぎた時、今度はレバー
らずに治療してくれたのだから、もう今回は
全摘するしか助かる道がないんだよ!」
を細かくしたような血尿が出て、びっくりし
て近くの医院に駆け込みました。
市立 K病院
主人から言われたそのひと言で決心しまし
た。59 歳の秋でした。
を紹介され早速検査、すぐ入院、3日後に手
術と言うことで、ただオロオロするだけでし
た。
手術の
手術の苦痛以外のことが
苦痛以外のことが重
のことが重なって
平成4年9月 28 日、膀胱全摘・回腸導管
術を受け、ストーマ保持者となりました。
50 歳の誕生日の翌日でした。先生のお話で
こうなるまで9年間もあったのに、呑気と
は、膀胱内にマッチ棒の頭ほどの腫瘍が数個
いうか、無知というか、今思うと自分の勉強
できているということでした。家族には、最
不足が悔しくて、情けなくてなりません。
悪の場合は全摘、できるだけ残す方法でと言
手術は9時間ぐらいで終わったようですが、
われたそうです。経尿道的切除・電気焼灼手
麻酔のせいでしょうか、5日間ぐらいはモウ
術ですみ3週間で退院。3カ月ごとに内視鏡
ロウとしていて先生や看護婦さんに当たり散
検査、そして入退院の繰り返しでした。
らして大変迷惑をかけていました。
それでも自分は癌ではないと思い、先生に
それというのも、手術室の看護婦さんに麻
はハッキリ聞くことができませんでした。半
酔の時「山口さん、今回で何回目?」と言わ
年に1回の時もあり、2年間入院しないです
れたことや、手術が終わってベッドに寝かさ
んだ年もあり、結局9年間で9回経尿道的切
れていた時、着物が左前に着せられていたこ
除・電気焼灼手術をしました。
となど病気の苦痛以外のことも重なっていた
からだったと思います。
9回目の入院の時は、地元のお祭りの日で
今回は帰ってくることができるだろうか?
1週間が過ぎて大部屋にもどり、このころ
などと気弱な気持ちで駅に向かったことは今
からやっと先生の「よくなったね」という声
でも脳裏に焼きついています。
が普通に聞こえてきました。
いつものように経尿道的切除・電気焼灼手
術も終わったのですが、何となく今までとは
199
ですからストーマの補装具の処置などは、
ずいぶん長い間看護婦さんにお世話になった
と思います。
体験記事 19
1カ月ぐらいたってから化学療法に入り
ました。気持ちが悪く、食欲がなくなり、身
体中がけだるく1コースが終わって洗髪した
ガ ン 私 の 体 験
時は、
自分でもビックリするくらい髪が抜け、
洗面器の白いタイルが真っ黒に見えゾーッと
保土ヶ谷区 森田由美子
しました。
平成 11 年 8 月 25 日に沖縄の本島より、
300
お礼も言えずに病院
えずに病院を
病院を後に
その後どうやら化学療法も2コースが終
キロ南に位置する宮古島、下地島、来間島へ
わりました。9月初めに入院し 12 月 20 日に
行きスキュウーバーダイビングを楽しんで来
退院、4カ月近い長い入院生活でした。
ました。その前の一週間は台風でとても海に
退院の時は、看護婦さんの「よくがんばっ
入れる天候ではなかったらしいのですが、私
たネ、いちばんがんばったのはあなた自身よ
が行った4日間は素晴らしい天候に恵まれ今
!」の言葉に送られたものの、まともにお礼
年で 3 回目の沖縄なのですが一番良い天候と
も言えず病院を後にしました。
なりました。
日がたつごとにお礼も言わずに退院をし
初めのダイビングは砂浜から海に入り、浅
たこと、私に関わっていただいた先生や看護
瀬から徐々に水深 3m ほどの所まで入るので
婦さんに申し訳ないと思っています。
すが、その装具の重いこと、酸素ボンベが 16
キロ、おなかに付ける重りの鉛が 6 キロの計
その後、横浜市オストミー協会を知り入会
22 キロを背負ってヨロヨロと海に入ります。
しました。大勢の自分に会えたような気持ち
海に入り腰のあたりまで水がくるとフワッと
です。
体が軽くなり重さを感じなくなります。耳抜
精神的なショック・悩み・これからの生活
き(坂道を昇り、下りすると耳が詰まるよう
や人生を抵抗なく話せる仲間ができ、今は生
な感じになるのと同じで、水中に深く潜ると
きることに感謝しています。
耳がツーンとして痛くなるのを直す)をしつ
(泌尿器科領域の専門看護誌「ウロ・ナーシ
つ海底に着くと、そこは別世界。今まで体験
ング」11 月号に投稿したものを掲載)
したことのない夢の世界でした。これが本当
の龍宮城かと思いました。
(平成 11 年 横浜だより 64 号)
太陽に輝く珊瑚はエメラルドグリーンの海
にゆらゆらときらめき、色とりどりの魚たち
は仲間が来たとばかりにそばに来て、私の手
を突きます。
テレビの画面を見ているのではない。今自
分の目で見ているのだと思うと、嬉しくて楽
しくて胸がドキドキして、涙が出てきて水中
メガネが曇って困ります。
ボートから海に飛び込むダイビングにも挑
200
戦してみました。こちらはボートの縁に腰か
これを読まれた会員の方から「森田さん本当
け、水深5~6mの海に後ろ向きに落ちるの
にダイビングをやってきたの」とびっくりさ
です。これは少々ビビリました。怖いので辞
れたり、驚かれたりの声をかけられました。
めようかと思いましたが、
「エエーイせっかく
きっと私も 22 年前にこんなことをする同病
ここまで来たんだ。やっちゃえー」とばかり
の人がいたら同じように思ったことでしよう。
に海に飛び込んでみました。
ブクブクと海に沈んで行く時の怖さはちょ
私が直腸がんのため手術を受けたのは 22
っと言葉には言い表せない。
「やっぱり、辞め
年前の 34 歳の時でした。
市民病院の検査室で
れば良かった」
「辞めるー、上にあげてー」等
注腸検査の後、先生は窓におろしたブライン
と言葉にならない悲鳴を上げてしまいました。 ドに人差指を1本かけ外の雨を見ながら「森
ところが海の底に足がつき、落ち着いてあ
たりを見回すとその素晴らしさに又もや声を
のんでしまいました。
田さん、ほっておくとガンになるから手術を
しましょう!」と言われました。
検査室のトイレで自分の身体から出てきた
フィン(足ヒレ)を付けた足をゆっくり動
バリュウムの色を見て思いました。
「痛くも痒
かすと自由自在に海の中で動けるのです。海
くもないから手術はいやだ」等と言っている
の中で30分でも1時間でも息ができるんです
場合ではないと。
。信じられますか? 22 キロの重さもぜんぜ
その1ヶ月程前から用便の後少々の出血を
ん気にならないで、あっち、こっちと魚と一
見ていました。ほんの少しだから、大したこ
緒に泳いでいられるのです。このまま、ずー
とはないと自分で思いこもうと必死だったの
っと、海の中にいてもいいような気持ちにな
ですが、これは駄目だ。手術を拒んでいる場
ってしまいました。
合ではない。私の父が 10 年前に肝臓がんで
ダイビングの素晴らしさにすっかり取りつ
54 歳で亡くなっていましたので、ほっておく
かれて、宮古島に移住したくなった私です。
とガンになるのではなく、ガンなのだと思い
何しろ、住めば宮古(?)の宮古島ですから、
ました。
でも、反省点も多々あります。50 歳を過ぎた
手術をしてじきに死んでいった父のことを
肌は南の島の強烈な太陽にすっかりダメージ
思い出し、
自分の死もすぐそこに感じました。
を受け、真っ黒です。この黒さがシミになる
「いつも、
おこりんぼうの母さんでごめんね。
はずです。まっ、いいかぁ、あんなに楽しん
自分の事は自分で出来るように。人に迷惑を
だのだから・・・・・。 きっと、また来年
かけないように。人に優しく出来る人になっ
も行く事になるだろう。素晴らしい青い海と
て下さい」 小学校2年生の長男と1年生の
夢の国のように輝く珊瑚とあの可愛い魚達に
長女にこんな手紙を書きました。そのノート
会うために。
には涙の跡が染みついています。
とても辛く、
悲しかった事は今でも忘れません。
この文は人工肛門・膀胱造設者の会、オス
夏休みも最後の思い出を作ってやりたくて、
トミー協会の昨年9月号の会報に載せたもの
二人の子供と野毛山動物園に行きました。ゴ
です。 3 年前の夏、倅が親父と沖縄へ行っ
リラが糞を投げた。キリンが手をなめたと言
てこいと後にも先にもただ一度 10 万円をく
って喜んでいる子供達を見ながら「死」の事
れたお陰で病みつきになった沖縄紀行文です。 ばかり考えていました。この手紙はその後、
201
私がこんなに元気で 22 年間生きていますの
せん。
で日の目は見ていません。
オストミー協会の健康教室で、手術の後自
入院中6歳の娘は、夫や母と毎日のように
病院に来て私のベッドに一緒に寝たりしてい
分を支えてくれたものは、という質問に私は
『夫』と書きました。
ましたが、長男の方は一度来たきり退院まで
夫はきっと私よりも辛かった事だろうと思
顔を見せませんでした。何本も管をつけて寝
います。妻が子供を残して死んで行くことを
たきり身動きも出来ない母親を見る事が辛か
心に置いた上に、
「頭が痛いから再発した」
「
ったようです。
足が変だから、今度こそは再発だ」と喚く私
夫と母にもこの上ない苦労をかけました。
をしっかり支えてくれました。
今でも思うのです。子供が病気になったので
彼が「大丈夫、再発なんてない」と言って
無く、自分で良かった。と、私がこのように
くれるとその気になり立ち直ったことが何度
思うと言う事は、私の母もきっと自分が病気
あったか数えきれません。
になれば良かったと思ってずいぶん辛かった
ろうと思います。
これが、一緒に辛い顔をして落ち込んでい
たら本当に再発したでしょう。医師から「再
私は、ガンで直に死ぬのだと思った時、結
発すれば一年」と言われていた夫は、私に「
婚等しなければよかった。子供を産まなけれ
大丈夫。再発ではない」と言いながら、私の
ばよかった。と思ってしまいました。連れ合
顔を見るのが辛かったと後で聞いています。
いや子供たちに悲しい、辛い思いをさせなく
て済んだのにと、
そんな事ばかり考えました。
が、手術が済んで、日が経って来ると、夫
「俺は一人で耐えたのだから今度は俺を大
事にしろ」と威張っています。が、22 年も経
や子供のために生きて家に帰りたいと強く思
った今はやはり私が威張っています。 半年、
いました。そのためには病院の食事を残さず
1 年、
3 年と経って行く中でも再発の事は頭か
食べるのがまず第一の私の出来る事だと思い
らやはり離れるものではありません。10 年目
込み、お粥の椀に御盆の上の物全部入れて飲
に同じ日に手術をした隣のベッドの乳ガンの
み込みました。
友人が逝った時は本当にショックでした。
吐いても、吐いても飲み込みました。看護
婦さんに「森田さんはいつも残さず食べて偉
10 年生きられたら、二人で全快記念旅行をし
ようと決めていました。
い」と褒められる程飲み込みました。残さず
その彼女が、9 年目に左腕に転移してその
食べれば早く退院出来るとそればかり考えて
腕を切断し、
もうすぐ 10 年となるというのに
いました。
亡くなりました。同じ日に入院、同じ日に手
退院した私は、子供の面倒を見る事に夢中
になりました。病気になる前は、運動靴や下
術したその人と私は同じ年で同じ病気で、心
の通じ合った友となりました。
着の洗濯、翌日の支度を子供たちに自分でや
らせていたのも止めにしてしまいました。今
10 年経っても駄目なのか、友と自分がダブ
しか洗ってやれない。今しかしてやれない。
って、少し薄れていた怖さに再び襲われまし
と思い込んでいました。身体を動かしている
た。そんな時でも夫の懸命な明るさにどれほ
時は病気のことを忘れられたからかも知れま
ど救われたか、有り難さが心に染みました。
202
結婚しなければ良かったとか、子供を産ま
なければ良かったとか思った私がその家族に
助けられて今があるのです。
再発、死が頭から離れることはありません
体験記事 20
オストメイトになって
オストメイトになって
得たもの
が、今現在具合が悪くないのなら、少しずつ
中 区 今井肥子
忘れようと努力しました。
外を歩いていても事故はある。家にいても
空から飛行機が落ちてくる。そんな事もある
のだからと、自分に言い聞かせて来ました。
皆さん、こんにちは。
そして幸いにも 22 年が過ぎていきました。
あ
今年の夏はとても暑くて、術後まもない方
の時 1 年生だった娘が昨年、孫を見せてくれ
は特に大変だったと思います。私もオストメ
ました。
イトになって3年経ちますが、この夏は腸閉
手術の時、この子が中学校を卒業するまで
塞になりかかったりして大変でした。
生きていたいと無信心の私は、空や雲、道の
私は何処へ行くのにも、このリュックを持
端の石や雑草にまでお願いしたことが叶った
って行きます。 友人によく聞かれます。
「い
のです。
つも大きなリュックを持っているけれど、余
中学校を卒業後 10 年も経ち、
孫の顔まで見
程大事なものが入っているの?」と。
る事が出来たのです。夢のようです。友人の
そうなのです。といっても、今は金利が低
お母さんが 95 歳で亡くなる時に、
秋田県に生
いからと全財産を背負って歩いているのでは
まれ育ったその方が『天国だば、なーんぼか
なく、これがあるから元気に生きていかれる
良いとこだんべ、行った人がダーレも帰って
物たちが入っているのです。
こねー』と言われた話しを聞きました。
出先で何があっても大丈夫なようにパウチ
95 歳だから言えた言葉なのでしょうが、そ
の予備、クリップ、ウエットティッシュ、尿
んな風に生きられたら、素晴らしいと思いま
洩れパット、替えの下着、ペットボトルが入
す。本当に良い所かどうかは、いつの日か、
っています。中身もその時々で色々変わり、
確かめに行く事になるでしょう。
今は一応これに落ち着いています。
そして又、私の大好きな夏がやって来まし
た。今年も又宮古島に行ってダイビングをや
りたいといまからワクワクしています。
退院して間もない頃、駅のトイレで便器の
穴にクリップを落としてしまいました。小物
こんなに大勢の人の前で話しをしたこと等
を置く台はないし、遥かかなたの上の方にフ
ないもので舞い上がっています。お聞き苦し
ックが一つ付いているだけでした。
かったことと思いますが、どうぞお許し下さ
背伸びをして上のバックから清浄綿を取り作
い。
業をし、また背伸びをしてティッシュを取り
(平成 12 年 横浜だより 72 号)
出そうとしているうちに大事なクリップを落
としてしまったのです。
予備はないし、輪ゴム等代わりになる物も
ないし、
このまま帰る訳にもいかないし……、
そこで覚悟を決め、
手を突っ込んで取り出し、
203
早々に家に帰りました。
かグロテスクなものが出来てしまったな」で
それからはクリップを付けたパウチを持つ
したし、きれいとかそうではないとかの基準
ようにしました。そんな考えも自分一人では
がわかりません。鼻なら高いとか低いとか一
思いつきません。
般的な基準も分かるし、好みとか、慣れとか
もあるでしょうけれど。
私が手術をしたのは 3 年前の春でした。前
手術前に人工肛門の本も見ましたが、それ
年から気になる症状があり、その頃にはとて
には写真ではなく絵が載っていました。しか
も疲れ易くなっていて、ガンかもしれないと
も「ストーマ君」とか言って、はにかんだよ
思い始めていました。病院に行くとすぐに診
うな顔のついたストーマが描いてあったので
断がつき、人工肛門になるであろう事も知ら
もっとかわいらしいものかと思っていたので
されました。やはりそうだったのかと、かえ
す。これをきれいと言うのかしら、でももう
ってすっきりしました。
付いてしまったし、しかも一生ものだと言う
「今、何を考えていますか?」と先生は言
しと開き直るしかありませんでした。
われました。
「私、
ガン保険に入っているので、
いくらになるか計算している所です」と答え
入院中は管が外されると、今度は 2 時間置
ると「珍しい方ですね」と言われてしまいま
きの導尿が始まって(これが慣れないので、
した。
非常に時間がかかるのです)やっと処置を終
4 年前に母を膵臓ガンで亡くしているので
その時にガン保険に入っていたのです。
えベッドに戻ると、今度はパウチが膨らんで
います。
またトイレに行きぎこちない手つきで処
こうして私の告知場面は、体験記によくあ
置をし、戻るとまた導尿の時間です。今まで
るような頭の中が真っ白になりということも
当たり前にやっていた排泄が、こんなにエネ
なく、あっけなく過ぎていきました。
ルギーを必要とするものだと改めて思い知ら
そうそう、お昼ご飯がまだだった、手術を
されました。こうして排泄作業に追われなが
すればしばらく食事は出来ないだろうからと
ら一生を終わるのかと、気が滅入る時もあり
お寿司を食べて帰ろうと思いました。
ました。
私は寿司が大好物なのです。店に入ったの
人工肛門になっても前とほとんど同じ事が
が2時 5 分前。そして私の発した言葉は「す
出来ると言う説明はありましたが、具体的な
みませ~ん。ランチタイムサービスはまだや
先が見えないのです。人工肛門になっても活
っていますか」でした。
躍している人は『渡哲也』さんくらいしか知
でも、さすがに余り美味しくはありません
でした。
りませんでしたから。
そんな時に先輩が元気な姿を見せてくれる
と、希望が湧くのではないでしょうか。この
手術が、無事終わった翌日だったでしょう
か。看護婦さん(今は看護師さんというので
会に入らないと元気なオストメイトには会え
ないのです。
すね)に「今井さん、とてもきれいなストー
マが出来ましたね」と言われました。
そして 5 月の末に退院。車から降り、自分
初めて自分のストーマを見た印象は「何だ
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の足で立ち、見上げた空の眩しい位に青かっ
た事を忘れません。オストメイトになって素
止めと、
十日程ウロウロしていたでしょうか。
直に感動する心を神様が私に与えてくれたよ
遂に「オストミー協会です」と電話が繋が
うです。
ってしまいました。とても爽やかで力強く落
退院してしまうと一応主婦ですから、そう
ち着いた声でした。すぐに入会案内と会報が
ゴロゴロしている訳にも行きません。朝一連
送られて来て、私はその健康教室に参加する
の作業が終わると朝食の準備、手をよく洗っ
事になりました。
ても臭いが抜けず、気になっておむすびなん
て出来ません。
当日は会場一杯の人で、こんなに仲間が居
るのだと、とても力強く感じました。慣れな
みそ汁を作れば、
『クソみそ一緒』の言葉
い時は数々の失敗もありました。夜中に異様
が浮かんで来ます。それでも少しずつ外に出
な臭いで目が覚め、お腹に手をやると、ジャ
てみようかと思い 2 時間ぐらいなら大丈夫か
~ン、パウチをジョンに(我が家の犬)噛み
なと、初めて映画を観に行った時の事です。
切られてしまったのです。いつもはパジャマ
クライマックスを迎え、館内がシーンとなっ
の中にパウチをちゃんと入れて置くのですが、
た時、突然「ブブーッ」と大きな音が響きま
お風呂から出てついそのまままどろんでいる
した。ガスが出そうな時はパウチに手を当て
うちに、眠ってしまったのです。
てみましょうなどと本に書いてありましたが
こんな時に限って、中身がたっぷり入って
「あっ!」と思った時には既に遅く、手を当
いたりするのです。洗濯をして、シャワーを
てる暇などありませんでした。
浴びて、着替えたら、夜が明け始めていまし
よほどすぐに席を立ってしまおうかと思い
た。よく障害は不便ではあるが不幸ではない
ましたが、それでは音の主がバレてしまいま
等と言いますが、こんな時は思いっきり不幸
す。もうストーリーどころではなく、ひたす
だと思ってしまいます。
ら終わるのを待ちました。
入浴中に、突然下痢になって、湯船の中を
『かき玉汁』にしてしまったこともありまし
それ以来出かけるのが億劫になり、常にト
イレの事も気にしなくてはいけないので家の
中で過ごす事が多くなりました。
た。
でも最近はこんな事も少なくなりました。
たまにアクシデントがあった日には宝くじを
そんなある日、広報で『オストメイト健康
買う事にしています。
教室』というのを見つけました。行ってみよ
うかと思いながら、なかなか電話することが
この 7 月に初めてオストミー協会の一泊旅
出来ませんでした。 友人の「私はそういう
行に参加し、福島県母畑温泉に行きました。
会に入らないことにしているの。傷の嘗め合
バスで隣席の方は 82 才、前席の方は 85 才と
いはしたくないから」という言葉が頭をよぎ
93 才でした。皆さんとてもお元気で、頭の回
ります。
転も速く話題の豊富な方ばかりでした。私も
彼女は乳ガンでした。それに会に入るとい
うことは、自分が障害者だと認めることにな
あと20 年も30 年も元気で生きられるような
気がしてきました。
ってしまいます。決心がつかず、電話の前ま
術後初めて露天風呂にも入りました。大き
で行っては止め、受話器を手にしては止め、
な旅館でしたので、一般の方も一緒です。と
電話がなかなか繋がらないことをいいことに
ても一人では入る勇気がありませんが、仲間
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と一緒なら心強いです。先輩にアドバイスを
トイレって何なのでしょう。色々な問題もあ
頂きながら、恐る恐る入りましたが、心配し
りますが、私達の認識も含め、これからの課
たほどのことはありませんでした。その時私
題でしょう。
は思いました。バリアは私自身の心の中にあ
ったのではないかと。
私は今、精神障害者の作業所に行っていま
もう一人でも大丈夫です。この旅行をきっ
す。メンバーさんと一緒に買い物に行き、お
かけに自信がつき、先日は南アルプスに一泊
昼ご飯やクッキーを作ったりしています。
し、マイナスイオンをたっぷり浴び、温泉に
なるべく手作りをという事で、自分の家では
3回も入って来ました。
作ったことのない物まで手作りしてしまいま
その後プールにも挑戦しました。こうして
活動の場が少しずつ増えて行きました。
す。社会の片隅で、ひっそりと生きている人
達の存在も知りました。
最近はオストメイト対応トイレというの
オストメイトになって、それまで見えなか
も大分出来て来ました。 超豪華なのが、市
ったものが見えてきたと言うような大袈裟な
庁舎に去年出来たトイレです。場所が議会棟
ことではありませんが、何かふっきれたと言
という所の地下にあるので少々解りにくいの
うか、肩の力が抜けました。
ですが、設備が整いとてもきれいですが、手
それと同時に限られた命への認識が深ま
洗い場の設備が余りにも多くて、何処で何を
り『今』を大切に生きて行きたいと思ってい
したら良いのか、解らないくらいでした。
ます。その『今』が集まっていけば、もし、
先日久しぶりに寄ってみたら、汚物流し=
ある日、その終わりが来ても、自分なりに充
パウチの洗浄はこちらで行ってください。湯
実した人生だったと思えるのではないでしょ
の出るシャワー=腹部(排泄口)の洗浄にご
うか。
利用ください。と解りやすく表示されていま
した。
と言っても、毎日必死になっている訳では
なく、食事の支度にしても、袋を付けて作れ
ただ、またしても受付で引っ掛かってしま
ば何だって『オフクロの味』とか言って、家
いました。
「地下のトイレを貸して欲しい」と
族から不評を買うような物も作ったりしてい
言うと「そこは障害者用なので一般の人はダ
ます。
メ」と他のトイレを案内されました。
そして新しくオストメイトになられた皆さ
そこで仕方なく障害者手帳を見せ「その障
害者なのです」と言うと入れてくれました。
オストメイトは、見た目は健常者と変わりま
せんので、
無理からぬことかもしれませんが。
JR新宿駅なども駅員さんを呼び、鍵を開け
てもらわないと使えません。しかも「一般の
方は……」のチェック付きです。
折角オストメイト対応トイレが出来ても十
分利用されなければ意味がありません。オス
トメイトが自由に使えないオストメイト対応
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んを、少しでも元気づけられたらいいなと思
っています。
私が3年前に、先輩の皆さんに勇気づけら
れたように。
(平成 14 年 横浜だより 85 号)