サンタクロースと会うために ――コレット・メシャン『サンタクロース伝説の誕生』再考―― I サンタクロースと聖ニコラス まっ赤なコートに、まっ白な髭、トナカイのひく櫓にのってクリスマスの夜にやってく るサンタクロースのことを知らない日本の子どもはいないでしょう。プレゼントのいっぱ い詰まった大きな袋をしょって、煙突からしのび込み、暖炉のわきの靴や靴下のなかにお 菓子やおもちゃをそっとおいてゆきます。最近では、世界の各地にサンタクロースの村が できて、子どもたちの于紙にこたえて、クリスマスのメッセージをおくるサーヴィスもは じまりました。でも、サンタクロースって本当はどんな人なのでしょう。なぜ、いつも煙 突からやってきて、靴や靴下にプレゼントをおいて いくのでしょう。どうしてトナカイの楯にのってい るのでしょう。こんな質問に正確に答えることので きる人は、もちろんいません。けれどもサンタクロ ースのルーツなら、すこしは分かりそうです。 サンタクロースは、ミュラ(現在のトルコのデム レ)の司教であった「聖ニコラス」のオランダ語「シ ンタクラース Sinterklaas が、なまったものといわ れます。 シンタクラースは、アムステルダムの守護の聖人 で、オランダではとても人気があります。その祝日 は十二月六日ですが、もう十一月の中句にはシンタ クラースの乗った大きな船がスペインからやってき ます。 船がアムステルダムの港につくと、市長をはじめ たくさんの市民がおしかけ、時には女王まで歓迎に かけつけます。それからの三週間、聖人はとても多 忙です。各地の学校や病院やデパートをまわり、よ い子の家を訪れて祝福を与え、十二月五日にやっと アムステルダムに帰って、白い馬にのり、まっ黒く 顔に煤をぬった黒人のピートというお供をしたがえ て、市内をパレードします。オランダの子どもたち は、シンタクラースと黒人のピートは「一年中スペ インに住んでいて、ピートが贈り物の買い置きをす るかたわら、シンタクラースは赤い表紙の大きなノ ートに子どもたちの良い行ないと悪い行ないを書き とめている」と聞かされているのだそうです。 もちろん、この「スペインからの船」や「市内で の盛大なパレード」は、現代のオランダの聖 ニコラス祭の風景ですが、十二月六日の前夜にシンタクラースがプレゼントをこっそり届 けにくるという習慣は古くからあります。たとえば、十七世紀のオランダ画家のヤン・ス テーンの描いた「聖ニコラスの祭り」には、祝日の朝、贈り物をみて大騒ぎをする子ども たちの様子が描かれています。 この絵の画面の中央では、女の子がその朝もらった聖人の人形をしっかり抱きしめてい ます。その左手にいる男の子は自分の靴のなかに 鞭が入っていたので泣いています。いちばん奥に いるのはおばあさんでしょう、泣いている男の子 に別のプレゼントをあげようと合図をしているよ うです。その横で赤ん坊を抱いているのは、長男 かもしれません。暖炉を指し示して、赤ん坊に聖 ニコラスがどうやって家に降りてきたかを話して 聞かせているようです。赤ん坊が抱えているのは、 おそらく香辛料入りのビスケット(パン・デピス) ではないでしょうか。暖炉の前のテーブルには、 きっと聖ニコラスのための食べ物や飲み物が供え てあったのでしょう。床にも靴やパン龍や本の実 がちらばっています。 日本では、子どもたちがプレゼントを受け取るのは十二月二十五日ときまっていますが、 ヨーロッパでは、かならずしもそうではありません。ここに紹介した十二月六日の聖ニコ ラスのほかにも、寒さに凍える貧しい人に自分のマントを裂きあたえたという伝承のある、 聖マルタンの祝日(十一月十一目)に子どもたちに贈り物をする地方があります。若い娘 たちの守護聖人である聖カタリナの祝日(十一月二十五日)に、少女たちにプレゼントを する習慣もあります。冬の長いスウェーデンでは光の聖 女である聖ルチアの祝日(十二月十三日)を盛大に祝い ますが、この日にも子どもたちにプレゼントのとどくこ とがあります。聖ルチアや聖バルバラが、十二月六日に 聖ニコラスといっしょにやってくるという伝承もある そうです。 子どもたちにプレゼントを持ってくるのも、聖入ばか りとはかぎりません。イタリアのベファーナ、ドイツの ペルヒタ、ロシアのバブーシュカのような魔女は一月六 日の公現祭の夜にやってきて、よい子にプレゼントをく ばります。公現祭というのは、ベツレヘムに生まれたキ リストを東方の三博士がはじめて訪れたことを記念す る祝日です。フランスでもスイス国境近くのオート=サヴォワ地方ではシャランドおじさ ん、フランシュH‥コンテ地方ではアワーおばさんが、クリスマスの夜に贈り物をとどけ ます。 デンマーク、スウェーデン、フィンランドなどの北欧諸国ではクリスマスのかわりに「ユ ル」の祭りを祝いますが、この夜にはユル・ニッセ、 ユル・トムテ、ヨル・スヴェンなどという妖精や小人 や鬼がやってきます。人びとは、こうした訪問者のた めに食べ物や飲み物を用意して歓迎の意をあらわし、 ささやかなプレゼントと祝福を受け取ったのでした。 (「ユル」という言葉の語源は不明ですが、「季節の変 わり目」、あるいは「太陽の進行が活発になること」を 表わすという説があるそうです。 こうして見ると、サンタクロースや聖ニコラスのプレゼントの習慣が、実はヨーロッパ の長い冬にちらばった、さまざまな祭りや生活習慣や民間信仰と結びついているのが分か るでしょう。 2 サンタクロースのフォークロア アムステルダムのような大都会とちがって、フラ ンスやドイツの村々には、いまでも素朴な聖ニコラ スが登場します。たとえば植田重雄氏の『ヨーロッ パの祭りと伝承』に紹介されているオーストリア国 境にちかいドイツのベルヒテスガーデン付近の聖ニ コラ祭では、先頭をきって歩くのは八名の「ブット マンドル」という、全身麦藁でおおわれた穀物の霊です。ブットマンドルは、手にした鞭 をピシピシ鳴らしながら悪霊をはらい、眠っている地霊をめざめさせ、つぎの年の豊穣を 析るのだそうです。 司教の姿をした聖ニコラスにつきそうのは、ニッコロヴァイプルです。 「ニッコロヴァイ プル」というのは「ニコラスの妻」という意味ですから、ここには男神(聖ニコラス)と 女神(ニッコロヴァイプル)を対で考えるゲルマンの古い信仰が生きているのでしょう。 そして、聖ニコラスの後からは、夜警や牧師のほかに、龍を背負った「髭もじや男」、翼を つけた天使、山羊の面をつけ白い布で身をつつんだ「ハーペルガイス」 、大鎌をかついで不 気味な白い面をつけた死神男などが、ゾロソロしたがいます。 一行は、「やがて子どもたちが集まっている村の宿舎や会議所のようなところに現われ、 いろいろな躾や戒めを言い渡したのちに、子どもの聖者にふさわしく、子どもの喜びそう なとりどりのプレゼントを年齢に応じて与える」のだそうです。 こうした聖ニコラスの行列は、コレット・メシャンの本のなかにもいくつか登場します が、大切な共通点が少なくとも三つほどあります。 一つ目は、この行列が、おおくの場合、村の若者たちによってこっそり準備され、仮面・ 仮装のうちに正体をかくして行なわれたことです。若者たちは、祭りのために「長い秘密 の集会を何度も重ねたのち、演ずべきいろいろな役割が割り当てられ、それぞれがひそか に自分の衣装を準備する」のがつねでした。 「聖ニコラスー行に誰が参加し、仮装するかは、 子どもにも親にも誰にも知られてはならない」のです。 二つ目は、こうした行列のなかに恐ろしい動物 や、死者や、妖怪がふくまれていることです。鞭 をピュンピュン鳴らしたり、鈴や鐘の音をひびか せたり、鎖をガチャガチャいわせたり、とにかく 騒がしいのです。この音は、一方で悪霊をはらう 役割を果たしますが、同時に人びとを脅かします。 彼らは、この世の者ではありません。まさに百鬼 夜行そのものであり、伝説や神話に登場する「呪 われた狩人」のように地上をさまよう者たちなの です。 十一月一日にはじまるとされるヨーロッパの冬は、死者の季節であり、魔女や妖精の活 躍する季節です。この行列に参列し、聖ニコラスのあとをついて歩く者たちは、きっと村 を訪れる祖霊の群れなのでしょう。 三つ目の共通点は、聖ニコラスの一行が、むかしは村の家を一軒ずつ訪れて、その家の 子どもたちの様子をたずね、祝福を与えてあるいたことです。ちょうど現代のサンタクロ ースが、暖炉も煙突もないような小さな家でも、一軒ずつ訪れて子どもたちにプレゼント を残していくように、聖ニコラスも村の子どもたちの家の扉をたたき、お菓子や鞭を配っ て歩いたのです。そしてこの聖ニコラスには、ハンス・トラップとかクランプスという怖 いお供がついていました。このお供は、意地悪な人さらいで、悪い子どもは背中の能にほ おりこみ、連れて帰ってバリバリ食べてしまうと信じられていました。 聖ニコラスの特徴をこんなふうに整理してみ ると、私たちがいやでも思い出してしまうのは、 男鹿のナマハゲや甑島のトシドンのような日本 の来訪神のことです。たとえばナマハゲの場合 は、十二月三十一日の大成の夜や小正月の晩に こっそりと支度をした若者たちが、鬼の面をか ぶり藁の蓑をつけ雪靴をはいて、村の家々を訪 れます。そして大きな音をたてて暴れ回り「怠 け者の子どもはいないか、いれば取って食う」といって威します。ナマハゲの場合は、よ い子に対する褒美はありませんが、トシドンの場合には子どもに大きな丸餅を背負わせま す。これが、まさに日木版のクリスマスプレゼント(=「お年玉」)なのでしょう。 そしてここで、とても大切に思われるのは、この来訪神たちが祖先の霊として死者と同 一視されていることです。これは、ちょうどベルヒテスガーデンの聖ニコラスの行列の仮 面・仮装のお供だちと同じです。彼らは、一方で悪霊をはらい、豊かな実りをもたらす村 や家の守護神でありながら、鞭をふるう人食いの人さらいとして恐れられているのです。 そしてさらに、もう一つ大切なことは、ここで迎える者と来訪神が、食べ物を媒介にし て結ばれているということです。ナマハゲは、ひとあたり子どもに説教をしてしまうと、 家の人たちの用意した膳について食事をします。サンタクロースや聖ニコラスは、プレゼ ントを届けると、暖炉のまえに用意されたテーブルにつくのです。 「クリスマスはもともと、死者たちと豊穣のための異教の古い聖なる祭典であった。ク リスマス前夜のごちそうは、昔は死者たちのための食事で、暖炉の前でしたためられたも のだが、暖炉というのはいつの時代、どこの場所でも祖先への礼拝を捧げる場だったので ある」とルパニョールは書いています。 たとえこれほど明確に言い切ることはむずかしくても、ヨーロッパの人たちにとっての クリスマスや聖ニコラス祭の食事、日本人にとっての太織や小正月の食事は、祖先=死者 との絆を強める太切な機会であったのでしょう。 かつてヨーロッパの冬は、さまざまの神とともに妖怪たちの歎息する季節でした。死者 をむかえる十一月一日の諸聖人の祝日にはじまり、クリスマスをへて公現祭にいたるまで、 若者たちは仮面をつけたり、藁で身をつつんだりして、訪れる神や妖怪を演じたのです。 そしてさらに、こうした仮面・仮装の神や妖怪たちは、復活祭準備の祭りや初夏の訪れ を祝う五月の祭りのあいだにもしばしば登場して、人びとを恐れさせ、豊かな恵みを約束 しました。なかでも、私たち日本人によく知られているのは力-ニヴァルの仮装です。 カーニヴァルは、復活祭を準備する祭りの一つです。復活祭は、キリストがゴルゴダの 丘で十字架につき、死んで三日目によみがえったことを記念する祭りです。この祭りをむ かえるために信徒たちは、キリストの苦しみを想って四十日のあいだ肉食をたち、生活を つつしみます。この期間は「四旬節」とよば れます。この四旬節の始まる前日の「脂の火 曜日」を中心に御馳走をたらふくつめこむ祭 りが、カーニヴァルなのです。この祭りには、 仮面のほかにも、男たちが女の扮装をしてね り歩いたり、藁でカーニヴァルの王様をつく って行列して馬鹿騒ぎをしたりします。 そしてこの藁人形は祭りの終わりととも に焼かれたり、川に流されたりしたのです。 3 ロレーヌの歴史・文化・言語 コレット・メシャンは、広く聖ニコラスのフォークロアの問題をあつかいながら、サン・ ニコラ・ド・ポールという小さな町を中心にロレーヌ地方の生活と信仰の跡を丹念にたど っています。彼女の意図は、そこに表われた土着の信 仰と文化がキリスト教に受け継がれ、春と夏の聖ニコ ラスの祭りのなかに生き続けていることを証明するこ とでした。それは、きわめてスリリングで、時には思 いきった飛躍を想像力で埋めてゆかなければならない 難事業で、作者自身が、しばしばジグソー・パズルに たとえているほどです。しかしこの難しい仕事も、ロ レーヌの歴史と文化についてあと一歩踏み込んで考え てみると、興味ぶかいものに見えてきます。 地図でみれば分かるとおり、ロレーヌはドイツとル クセンブルクに国境を接しています。そして、さ らにムーズ川を下ればベルギー、モーゼル川から ライン川を下れば、オランダにもつながっている のです。 ロレーヌという地名は、この地が八四三年にヴ ェルダン条約によって成立したロタリンギアに属 したことに由来します。アンリ・ジオルダン編の 『虐げられた言語の復権』によれば、この地方で は古くから「プラット」と呼ばれる中部ドイツ語 系の言葉(フランク語)が語されていました。この地方にフランク族が定着して、ケルト やローマ人の血をひく土地の人びとと混合したのは五世紀のことです。フランク族の言 語・文化は他を圧倒し、フランク語がこの地方の地域の言語となりました。中世のあいだ に、ロレーヌ諸公は独白の支配体制を確立し、十四世紀初頭にはプラットで書かれた公文 書も登場したほどです。 フランスとドイツという大国の狭間にお かれたロレーヌは、二つの国の干渉を切り抜 けながら独自の文化を築きますが、ついに三 十年戦争末期の一六四七年にロレーヌ公シ ャルル四世が亡命すると、ルイ十四世の率い るフランスの支配下にはいります。そして一 八七〇年の普仏戦争にいたるまで、フランス 化の荒波にさらされることになるのです。 そして一八七一年、ビスマルクのドイツに 破れたフランスはアルザス、ロレーヌニ州を ドイツに割譲します。このとき書かれたアル フォンス・ドーデの『最後の授業』には、母 国語の教育を失った教師の胸をうつ言葉が つづられていますが、本来ドイツ語系の言葉 を語していたアルザス、ロレーヌの人びとに とっては、それまでのフランス語教育こそが、 抑圧の枷であったのでしょう。 以後この地域の言葉は一時の自由を享受し、フランク語とドイツ語のバイリンガル地域 になりますが、一九一八年の第一次大戦の終了によって再びフランス領となり、学校、新 聞、行政による徹底したゲルマン文化の破壊がはじまります。 そしてさらに、第二次大戦がはじまると、当然のようにナチス・ドイツの支配をうけ、 ドイツ語とフランク語、ナチズムの文化と地域の文化を混同させられ、みずからの文化的・ 言語的アイデンティティーを脅かされます。そして、その危機は、終戦とともにピークに 達します。第二次大戦後、この地方ではすさまじいフランス語化か再開され、ゲルマン的 なるものの全否定が行なわれるのです。 「全国紙、地方紙ともに熱心にこれに専念し、教師たちは学校でゲルマン語方言のほん のわずかな片言をも追い出そうとした。この言語はおとしめられ、一般の生活から追放さ れた」と『虐げられた言語の復権』には述べられています。 私たちの国にも、 「方言札」をもたされて、一言でも地域の言葉を使うと厳罰にあった標 準語普及の運動の時代がありましたが、アルザスやロレーヌの言語問題には、つねに二国 間の政治やイデオロギーの脅威がひそんでいたのですから、その厳しさは想像をはるかに 越えると思われます。 コレット・メシャンは、こうして失われかけたロレーヌの地域文化を呼びもどし、民間 の祭りや信仰を本来の文化の枠組みのなかでとらえなおすために試みられたフィールド・ ワークを基礎にしています。 小アジアのギリシャ人たちのあいだで生まれた聖ニコラスの信仰が、十一世紀に地中海を 渡って南イタリアのバリに移転し、さらにアルプスを越えてロレーヌにもたらされたので す。この信仰は、きっとモーゼル川やムーズ川にそってドイツ、ペルギーをへて、ついに ライン川の河口地帯のロッテルダム、アムステルダムにたどりついたのではないでしょう か。ハンザ同盟をはじめとする、ヨーロッパの都市の文化と海と運河のネット・ワークが 水の守護聖人としての聖ニコラスの信仰を広めていったのです。 そして十六世紀、聖ニコラスは新天地をもとめて大西洋を渡ったオランダ人たちと一緒 にもう一度海を越え、ニューアムステルダム(現在のニュー ヨーク)にたどりつきます。ここで「シンタクラース」は「サ ンタクロース」に衣装をかえ、聖人に対する信仰にこだわら ないプロテスタントの多い多民族国家アメリカの都合にあ わせて、十二月六日のかわりにクリスマスにプレゼントを配 り歩くことになったのでしょう。 現在のようなトナカイの櫓にのったサンタクロースのイ メージが生まれたのは、それほど昔のことではありません。 十九世紀初め、アメリカの神学者クレメント・クラーク・ム ーアの「クリスマスイブのできごと」という詩にあらわれた のが最初だといわれています。 フランスでは、いまでもクリスマスにサンタクロースは登 場しませんが、赤いコートに白い髭のサンタクロースにそっくりの「クリスマスおじさん (ペール・ノエル)」がプレゼントをもってきます。これもフランス本来の伝統というより、 アメリカの影響ではないかと言われています。 民俗学者ヴァン・ジュネップによれば、フランスにはじめて「クリスマスおじさん」が 登場したのはパリが最初で、十九世紀後半のことらしいのです。そして、この習慣は一九 五〇年代あたりになってやっとフランス全土にゆきわたったのだそうです。 大西洋を越えて旅しか聖ニコラスが、装いも新たにもう一度ヨーロッパの地をふみ、新 しい生活習慣を生みだしつつあるのでしょう。 (本稿は、かつてコレット・メシャン著『サンタクロース伝説の誕生』 (原書房1991年) を刊行した際に用意した「後書き」に加筆したものです。)
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