2015/10/4 門戸聖書教会 礼拝説教 コリント人への手紙第一 講 解 24 Ⅰコリント 10:23-33 ただ神の栄光のために 1.W.W.J.D. 時々、若い方がしておられる腕輪などのアクセサリーに、“W.W.J.D.”と書かれてあるのを見かける ことがあります。それは、What Would Jesus Do? (イエス様なら、どうなさるだろう?)ということば の頭文 字をとった記号なのです。自分が何かをしようとする時、あるいは、何かをしないでいる時、ふ と、その“W.W.J.D.”の 4 文字を見て、立ち止まり考える。イエス様なら、こういう時に、どう振る舞わ れるのだろう。イエス様なら、いったい何と言われるのだろう。イエス様 がもし、私の立場 におられたら、 いったい何をすることを喜ばれるのだろう。そう自問 自答 する。そういう習 慣を持つことができるとした ら、それは、とても素晴らしいことだと思います。 何度かお話いたしましたが、私が、最初 に導かれた教 会は、割と事細かに、クリスチャンはこれをし てはいけない、あれをしてはいけないということを教える教会でした。お酒を飲んではいけないのはも ちろんのこと、味醂 を使うこともだめでした。アルコールが入っているからです。髪 形 は七 三 の刈り上 げと決まっておりましたし、女性 がズボンを履くのもご法 度でした。 何だかとてもうるさく、面 倒 くさいこ とを言 うなあと思 われるかもしれませんが、慣 れてしまえば、意 外 と楽 なんですね。とにかく、こういう 戒 律 や律 法 さえ守ればいいわけですから。心 の中で、どう思 っていようが、関 係ないわけですから。 なによりも、いちいち、「このことを神様は喜ばれるのだろうか」と考えなくてよいわけですから。 そういう意味で、“W.W.J.D.”の腕輪を見ないでも、What Would Jesus Do? (イエス様なら、ど うなさるだろう?)と、もう一 度 、信 仰 の原 点 に返 って、イエス様 のことを思 って行 動 する習 慣 というも のを持つということは、とても大切なことなのだと思うのです。 2.すべてのことはしてもよい? 今日お読みいただいた聖書の箇所の、最初のところで、使徒パウロは、実に大胆 なことを言ってお ります。 Ⅰコリント 10:23 すべてのことは、してもよいのです。 これは恐らく、コリントのクリスチャンたちが言っていた言葉だと思われます。正 確 に言うならば、コリ ントのクリスチャンたちが、かつてパウロが語った教え、パウロがしたメッセージのほんの一部分だけを 切り取って使っていたもののようです。クリスチャンは「すべてのことをしてもよい」-パウロ先 生は、そ う言っていたのだと言 って、遊 女 のところに通ったりとか、好き放 題 にしていた。放 縦 に陥 っていた。 そこで、パウロはもう一度、誤解が無いように、こう繰り返さなければならなかったわけです。 1 Ⅰコリント 10:23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません 。 確かに、クリスチャンは、イエス・キリストの十 字 架 の贖 いによって、神 様から全ての罪 を赦していた だけるのです。生涯の最初の罪から最後 の罪まで、主イエスが私たちの身代わりとなってくださること によって、全ての罪を赦していただけます。「信 仰義 認」とは、ただ信 仰によって、一 生正しい行 いを したものと見なしていただけるということ。その意 味では、何をしても無 罪 放 免、絶 対 に裁かれないと いう驚くべき恵みの中に入れられている。 でも、だからと言って、何でもしていいのか? どのような生き方をしてもよいのか? 以前、ある方から、「先生、クリスチャンはどんな罪も赦してもらえるんだから、何 をしてもいいんでし ょう?礼 拝 に来 たくなければ、こなくてもいいんでしょう?」と言 われたことがありました。それは、まさ に、このコリントのクリスチャンたちと同じ類 の発 想ですね。どうせすべて赦してもらえるのだとしたら、 罪を犯せるだけ犯しておこうと。何をしてもいいのだと。あるいは、気が向かなければ、何をする必 要 もないのだと。 やはり、私たちは、聖書の律法・戒めの意味をしっかり理解しなければならないのです。 私たちは、礼 拝 で十 戒 を唱 和しています。これは、 福 音 派 の教 会 では珍 しいことかもしれません。 でも、大切なことです。聖書の戒めの中には、神様の聖さと義と愛が現されています。「義と聖さは分 かるとしても、愛もですか?」と言われるかもしれませんね。もちろん、愛もです。 「殺 してはならない」-この戒 めに現 されているのは、私たちひとり一 人 のいのちを何 よりも大 切 に 思ってくださっている、主のみこころです。神のいのちに対する愛です。イエス様は、「安息日は人 間 のために設けられたのです。人間が安息 日のために造られたのではありません」(マルコ 2:27)と言 われました。まさに、律 法が、人間のために造られたわけです。人が、地上で祝福 のうちに、安らかに 生きることができるように。そこには私たちを大切に思ってくださっている神の愛が現 されている。 福音書を読みますと、イエス様が律 法主 義者をこてんぱんにやっつけておられるので、律法そのも のが悪 いもののように勘 違 いされる方 もいるかもしれませんね。そうではないのです。 律 法 主 義 の間 違いは、律法を守ることそのものを目的にしてしまっていること。また戒律を守ることによって、自力で 天 の御 国に入 れるのだとしていることです。そこにあるのは、自 己 義 認です。神 様、私 はこれだけや っているのだから、私を認めなさいと、神に要求する傲慢です。 律法主義、戒律主義の一番の問 題は、神様と私たちの関係を、ギブ&テイクの関係にしてしまうこ とです。それは、これだけ律 法 を守 ることができたから、これだけの報 酬 をくださいという、雇 人 としも べのような関係です。それは実につまらない関 係です。放蕩息 子のお兄さんが、まさにこれです。彼 はお父さんにこう言いますね。 ルカ 15:29‐30「ご覧なさい。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに 仕 え、戒 めを破 ったことは一 度 もありません。その私 には、友 だちと楽しめと言 って、子 山 羊 一 匹 下 さったことがありません。それなのに、遊女 におぼれてあなたの身 代 を食 いつぶして帰 って来 たこの あなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』 2 放蕩 息子の兄は、自分 はまじめに働いてきた、戒めを破ったことは一度もない。なのに、放蕩に身 を持ち崩した弟の方が許されるのは耐 え難いと言ったわけです。このお兄さんは律 法主 義 者なので す。ギブ&テイクの世 界 で生きているのです。でも、神 様 が私 たちと結 びたいと願 っている関 係 は、 そんなものではない。できがよかろうが悪 かろうが、何ができたかできなかったかとか、そんなことで決 して変 わることのない、無 償 の愛、無 条 件 の愛、そういう愛 で、わたしはあなたを愛 したいのだと。雇 人と主 人 の関 係ではなくて、真 実な父 と子 の関 係でいたいのだと。神 様が私 たちに願っているのは、 そういうひたすらな恵みによる関係なのですね。 3.キリスト者の大原則 律法主義が一方の間 違いなら、もうひとつの誤りは、無律法主義です。 それは、放 蕩 息 子 のたとえに当てはめていうならば、悔 い改 めて、お父 さんの愛 ふところに抱かれ て、赦してもらった、あの弟 息 子が、なお、そのお父 さんの金 庫を夜 中 に家 探しするようなことです。 お父 さんの無 限 の愛 につけあがるのです。無 律 法 主 義 などと、あえ て呼ぶ必 要 はありませんね。単 なる放縦であり、神の愛を踏みにじることです。 コリントのクリスチャンたちが、陥 っていたのは、まさにこの誤 りでした。キリスト者 は自 由 だ。すべて のことをしてもよい。すべての罪が赦される。だから、何でもしたい放題するのだ。 パウロは、それは違うというのです。 Ⅰコリント 10:23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。 自由を与えられているキリスト者 こそが、その自由を、主のみこころのために、有益 なことのために、 徳を高めるために用いるはずではないかと言うのです。そして、ひとつの大きな原則を教えます。 Ⅰコリント 10:24 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。 自分の利益のためにではなく、他者のため、隣人のために、その自由を用いなさい。 ここであげられているのは、前からの続きで、偶像にささげられた肉の問題です。市場に売っている 肉 や、招 待 されて出 された肉 は、普 通 に食 べなさいとパウロは言 います。 「地 とそれに満 ちているも のは、主のものだからです」(26)と。 Ⅰコリント 10:28 しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です」とあなたがたに言うなら、そ う知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。 それは、こう忠告してくれた人の良心、信仰のためにですね。たとえ、自分の良 心 が痛まないことで あっても、他の人の良心が痛むことであれば、愛のゆえの配慮をしなさいとパウロは教えます。 どうしてそこまでするのか。なぜそこまでする必要があるのか。パウロはここで、キリスト者の生き方 の根底になる大原則を述べます。これはクリスチャンの人生の指針です。原則中の原則です。 Ⅰコリント 10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄 光を現すためにしなさい。 ただ、神の栄光のために! 神の栄光を現すために生きなさい! 3 4.「されば」の宗教 けれども、大 原 則 が分 かったからといって、すぐにその原 則 を生 きることができるのかと言 えば、そ れはまた別 の話でしょう。腕 輪をはめるだけで変 われるのならば、こんな楽な話はない。「食 べるにも、 飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すために」 生きるということは、これは小 手先の話ではな いですね。人生の根っこを、生き方の土 台のところを総入れ替えすることです。 先 日 、聖 隷 福 祉 事 業 団 を創 設 した、長 谷 川 保 先 生 の奥 様 、長 谷 川 八 重 子 姉 のお証 しを読 ませ ていただきました。 1 長谷 川 八 重 子さんが、教 会に導かれたのは、大正 十 年(1921 年)の女学 校 の 頃と言われますから、何年くらいのお生まれなのでしょうか。ご存命なら 100 歳を超 えておられるかも しれません。当時の若い進 歩的な人たちは、白樺 派の影響もあって、とにかく自分 を徹底 的に肯定 して、「自分に正直に」生きることが素晴らしいのだと、そういう世相だったそうです。 しかし、長 谷 川 八 重 子 さんは、「自 分という命 がある限 りは、本 当 に生きがいがあったという人 生 を 過ごしたい。たとえ、それが一日でもいい、価値があるという生活がしたい」と願っておられました。 それで、浜松にあった小さな伝道所 (日 本基督 教会・浜松 伝道所。現、日本 基督 教団・遠州栄 光 教会)に行ってみました。そこは、畳で 8 畳と 6 畳の二間で、牧師もいませんでしたが、とにかく若い 人たちが熱心に聖書を学んでいた。みんな貧しかった。でも、毎晩のように集まっては聖書を学ぶの です。そこで後に結婚される長谷川保兄 とも出会われた。 ある晩、『ローマ人への手紙』を学んでいた。仲間の大野兄がローマ 6:1 を読んでこう言った。 「キリスト教は、『されば』の宗教だ!」 古い訳では、ローマ 6:1 はこうなんですね。 「されば何をか言はん、恩恵の増さんために罪のうちに止まるべきか、決して然らず、罪に就きて死 にたる我らはいかで尚その中に生きんや」 わかりにくいので、今の訳で読んでみましょう。 ローマ 6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加 わるために、私たちは罪の中にとど まるべきでしょうか。 ローマ 5 章では、すべての罪を赦してくださるキリストの十字架の恵みが語られている。 そういう恵 みをいただいて、「されば」「それでは」私たちはどう生きるべきなのか、そういう問いかけですね。 「キリスト教 は「さればの宗 教 だ」。されば、聖 書 に従 っていこう。自 分 を喜 ばすためにではなく、神 の栄光のために生きよう!」と大野兄が言 った。すると長谷川保 青年も、こう言った。 「キリストのために働 きぬいて、キリストのために苦 労 しぬいて、最 後 は野 垂 れ死 に するをもって理 想としよう」と。「すると、皆 は、うなずきました」とあります。 別 に、門 戸 聖 書 教 会 の青 年 会 と比べるわ けではないけれども、すごい青年 会だなと思いますね。この時、神の栄光 のために、キリストのために 野 垂 れ死にすることを本 望としようと誓った青 年 たちが、後 に、日 本 のキリスト教 福 祉 の分 野で本 当 に大きな足跡を残すのです。 1 『心 の緒 琴 に-主 に従った婦 人 たち』(長 谷 川 八 重 子 他 、一 粒 社 ) 参 考 4 5.ただ神の栄光のために といっても、最初は、自分たちでお金もないのに、結核で誰も引き取 り手のない人 、浮浪者や放浪 者、ハンセン氏病の方をひきとって、のお世話をするということだけです。その施設を「ベテルホーム」 と名 付けた。施 設というと聞 こえはいいけど、要するに、ただ自 分たちがボランティアで世 話 をしてい るだけです。資金の裏付けも何もない。ところが、「若いのに、感心なことだ」と、当時 1 円 2 円が給与 の時代に、千円もの資金を提供してくださるお医者さんが現れたり、いつしか 23 人 の患者さんを収 容するようになった。それが、今の聖隷事業団のスタートになっていく。 このお証しの中で、長谷川八重子姉は、こういうことを言っておられるのですね。 「信 仰 とは、創 造 者 の神 、イエス・キリストの贖 いを信 じることができたときに全 身 全 霊 を献げます。 そしてイエス・キリストがそれぞれの福 音書 で言われていることは本 当にその通りで、一寸も違ってい ません。(そのことが)分からないのは、一切を注ぎこまないから分からないのです。・・・ キリストは「一 里 行 くことを強 いられたならば二 里 行 け」といわれました。一 里 を強 いられる とは、体 力においても能力 においても一 里しか一 切のものが無いことだと思 います。けれども、二里 行 けとキ リストは言われるのです。」 一里しか行 けない者が、二里 行 けと言 われる。当 然、行きづまる。人 間 的に見れば、八方 塞 りで、 どうしようもなくなってしまう。けれども、一切を注ぎこんで、神に従って行くときに、本当に神が神であ ること、聖 書のみことばの真 実を経 験 させられる。 主は生きて、働 いてくださるということを経 験する。 それが、分からないのは、「一切を注ぎこまないから」だと。 私 は、何 だか自 分 の信 仰 の中 途 半 端 さを、ぐさりと 突 き刺 されたように思 いましたね。神 の栄 光 の ため-それは決して中途半端なことではないのだと、心探られました。 でも、この長谷 川 八重 子 さんたちの、徹 底した信 仰、一 切を注ぎこむ信仰 がどこから来たのかと言 えば、それは、聖 書 のみことばから来たわけですね。みことばに示 された神 の愛 、十 字 架 の愛 、キリ ストの愛、この愛が中 途 半 端ではないから。いのちを賭 けた 愛だから、神ご自身 が、最も大 切なひと り子を惜しまずに十字架にかけてくださった、神が「一切を注ぎこんで」くださったのだから。そんな愛 を受けた私たちは、どう生きるのか、「されば」「それでは」どう人生を歩むのか。 Ⅰコリント 10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄 光を現すためにしなさい。 キリスト教の倫 理、それは実に単 純なことです。実にシンプルなことです。神 にいのちを与 えられた あなたは、キリストにいのちがけの愛 で愛 されたあなたは、どう生 きるのか。すべての罪 を赦 されたあ なたは、神の子とされたあなたは、どのように人生を使うのか。神のいのちがけの愛への応答、これに 尽きます。 ならば、一切を注ぎこんでくださった神 の栄光 のために生きよう。私の弱 さも、小ささも、それらすべ てを捧げて、神様の栄光の器としていただこう。一切を注ぎこんで、神に自分自身をささげていこう。 弱くていいんです。何もできなくていいんです。生ける主が働いてくださる。一里しか行けない者を担 ぎ上げて、二里も三里も、天の御国まで導いてくださる。この主と共に生きればよいのです。 5 「主 よ、ただあなたの栄 光 のために用 いてください。この弱 い、小 さな者 を栄 光 の器 としても一 てく ださい」そう祈りましょう。 祈ります。 6
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