弱いからこそ選ばれた - church.ne.jp

2014/7/6
門戸聖書教会 礼拝説教
コリント人への手紙第一 講 解 4
Ⅰコリント 1:26-31
弱いからこそ選ばれた
1.教会が教会であることの核心
アメリカの著名なクリスチャンジャーナリストであるフィリップ・ヤンシーさんが、シカゴのラサール・スト
リート教会に通い始めた頃のことを思い起 こし、こう記しておられます。 1
「しばらくして、ラサール・ストリート教会 は普通の教会ではないことに私は気づいた」
初めて礼拝に出席した時 のことだそうです。ヤンシーさんは 13 歳の娘を連れた黒人女性の後ろに
座 られました。女 の子 は後 ろを振 り向 くと、ヤンシーさんの顔 を見 てにやにや笑 っていた。変 わった
子だなと思っていると、いきなりスカートの裾を高々とめくり上げたのだそうです。
「それから後も・・・、信 じられない出 来 事 が次 々と起 こった」のです。「ある日 曜 日、一 人 の男 性 が
講 壇 の牧 師 めがけてフットボールのボールを投 げつけたが、牧 師 は間 一 髪 でよけた。またある日 曜
日には、ホームレスの男性 が(聖餐 式に使う)お盆にぎっしり並んだ小さなグラスを全部 空にしてしま
った。(またある時は)スカートを重ね着したホームレスの女性が説 教の途中で講壇 に上り・・・その日
の特別説教者に向かって、パック牛乳の中に毒が入っていた話を大声で始めた。」
なかなか大変な教 会だなあと思 います。それと同 時に、すごい教 会 だなあとも思うのです。恐らく、
ボールが飛んで来たり、聖 餐 式 のグラスが空 になってしまっては、その日の礼 拝 は無 茶 苦 茶 になっ
たでしょう。怒って教会を去る人も少なからずいたのではないかと思います。けれども、このラサール・
ストリート教 会は、ホームレスの人や心の病の人たちを受け入れることを止 めなかった。イエス様がど
んな人でも受け入れたのだから、どんな人も受け入れようとあくまでも継続した。
実 は、高 松 シオン教 会 の加 藤 光 行 先 生 は、アメリカ留 学 中 にこのラサール・ストリート教 会 に出 席
しておられたのですね。それで、ある時、「どんな教 会 だった」と聞 いてみたことがあるのです。すると
加藤 先生 は神 妙な面持ちで、こんなことを言われたのです。「牧会や教 会のごたごたで嫌になること
があっても、あの教 会 のことを思 うと希 望 が湧 いてくる。この世 界 にラサール ・ストリート教 会 のような
教会があると思うだけで、ああ、まだキリストの教会は捨 てたものじゃないなと思えてくる。」
教会が問題 だらけでも、躓きだらけでも、何かそこに心を温かくするものがある。単なる人間 的な温
かさ、家族 的な雰囲 気ということを超えて、ああ、ここには目に見えないけれども、確 かに神様の愛が
あることが分 かる。自 分 に何 にもできなくても「ああ、私 もここにいていいんだなあ」と思 える。立 派 な
会堂 はなくとも、私は、そういうところに、教会 が教 会であることの核 心部 分 -すなわち、神の臨 在 が
あるのではないかと思うのです。
1
『教 会 -なぜそれほどまでに大 切 なのか』(フィリップ・ヤンシー著 、宮 川 経 範 ・道 子 訳 ) p.47
1
2.弱い者を選ばれた
そのヤンシーさんが、ラサール・ストリート教会 と今 日お読みいただいた聖書に出てくるコリント教会
を比べてこういっておられます。 2
「コリントの教会と比べれば、私の教会は退屈にさえ見える。」
コリントの教 会はまさに問題 だらけの教 会でした。「無秩 序がはびこって」いました。「ユダヤの商人、
放浪者、ギリシャ人、売春婦、偶 像崇 拝 者たち」といった、ひと癖もふた癖もある人 たちが集っていま
した。そのような彼らが、パウロから福音 を聞いて、神 様からの大いなる恵みを受けて、救われ、神の
愛に生きる喜びを知ったのです。
しかし、にもかかわらず彼らは高 ぶり、争 いを起 し、教 会 は分 裂 寸 前 になってしまっていたのです。
そういう教 会 に、もう一 度、信 仰 の原 点 、教 会 の原 点 について説 き聞 かせている のが、この『コリント
人への第一の手紙』であるのです。
今日のところで、パウロはコリントのクリスチャンたちにこう呼びかけております。
Ⅰコリント 1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはな
く、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
パウロは、「あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい」 と言っております。「召 し」というのは、神
様から「わたしのところに来なさい」と呼び出されることです。
私たちが教会 に来たということ、聖 書 を読み、イエス様を信じ救われたということ。それはもちろん、
私たちの選 択したことであったと思 うのです。けれども、その背 後 には、実は、神 様 のみこころ、神 様
の召しというものが、私たちには気づけないかもしれないけれどもあるのだと聖書は言うのですね。
「兄 弟たち、あなたがたが神 様 に召 され、クリスチャンとなったのはどうしてなのか? あなたがたが
優れた者であるからということで、神様 はあなたがたを選んでくださったのか。そうではないだろう。あ
なたがたの中に、この世 の知 者は少 しはいるかもしれないが、決して多 くはない。権 力 者も、身 分 の
高 い者もしかり。どうかよく考 えてほしい。神 がそうしようと思 えば、優 れたものばかりを教 会 に集 める
こともできたのだ」
そうなんですよ。みなさん。神様にはそうすることもできたわけです。この世の優秀 な人たち、力のあ
る人、身 分 の高 い人 、そんな人ばかり集 めることも神 様にはおできになったのです。しかし実 際の教
会はどうでしょう。そうではなかったわけです。キリスト教 は「松 葉づえの宗 教」とからかわれるほどに、
弱い人、貧しい人、虐げられた人 の宗 教 でした。コリントの教 会もそうでしたし、歴 史上の多くの教会
がそうでした。ただキリスト教が国家権 力と結びついていた時代を除いて。
それには、はっきりとした神様のご目的 があったと、パウロは言うのですね。
Ⅰコリント 1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者
をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
2
『同 上 』p.50
2
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有る
ものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
神様 はあえて、ご自分 の教 会を建て上 げるのに、この世 の愚かな者、弱 い者を選んでくださった。
また、「取るに足らない者」や「見下されている者」を選ばれた。この「見下されている者」という言葉は、
「一瞥するに価しない」=ちらっとでも見る価値がないという意味です。さらに、「無に等しいもの」とあ
りますね。これは、「この世 に存 在すらしなかったに等しい者」というような意 味です。 神 様 は、あえて、
そのような者を選 んでくださった。それは、「神の御 前でだれをも誇 らせないため」。人間 が自 分の力
で救いを獲得したと、誰一人誇ることがないためなのだと、使徒パウロは言うのです。
3.弱さのうちに現れる神の力
そもそもイエス様は、この地上に来られるのに、貧しい大工の夫 婦の子どもとして、小さな幼子の姿
をとってきてくださいました。初 めから王となるべく、王 侯貴 族の子 どもとして生まれることもできたし、
大 富豪 の跡取 りとして生 まれることもできました。しかし、主が選ばれたのは貧しい、虐げられた人 々
と共にあること、小さな無に等しい者となってくださることでした。
ヘンリー・ナーウェンはそれを神様の「聖なる選択」であったと言います。
「この世を支配し,人 間とこの地上を破 壊する悪 魔的な力 に対し,( 神がなされたのは)無力を選
ぶことでした。神は全 く無 力な存 在として人間の歴 史に介 入されました。…この思 いきった神の選択
は,完全 に力を脱ぎ捨てることの中に,神 の栄 光,美しさ,真理,平 和,喜 び,とりわけ愛そのものを
示すという選択でした。…私たちは力を持 つ人を恐れます。下手にでたり,羨んだりします。…しかし,
神 は私たちが神 に対して,恐れを抱 いたり,距 離 をとったり,羨んだりすることを望 まれません。神 は
私 たちに近 づくことを,もっとそばに来て,その親 しさの中で,安 らぐことを願 われます。だからこそ,
神は小さな赤ん坊になられました。
…あなたは自 分の腕に抱いて揺すっている赤ん坊を恐がりますか?そのように小さく,もろさを持
った赤ん坊を前に,あなたは下手に出るでしょうか,あなたのやさしさに,微笑みで応じるだけの赤ん
坊をあなたは羨 みますか。これこそ神 が人 の姿をとった受 肉の持 つ神 秘です。…神 は全 くの無 力 さ
によって,「力」という壁を打ち破ったのです。」
同じコリントのクリスチャンに書き送った、 『コリント人への第 二の手 紙 』に有名なみことばがあります
ね。
Ⅱコリント 12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのな
いようにと、肉 体 に一つのとげを与 えられました。それは私 が高ぶることのないように、私を打 つため
の、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
3
12:9 しかし、主 は、「わたしの恵みは、あなたに十 分である。というのは、わたしの力 は、弱 さのうち
に完 全 に現 れるからである」と言 われたのです。ですから、私 は、キリストの力 が私 をおおうために、
むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私 は、キリストのために、弱 さ、侮 辱 、苦 痛 、迫 害 、困 難 に甘 んじています。なぜ
なら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
この時パウロは、「肉 体のとげ」とありますように、何か の重い病 気 に罹っていたようです。彼 はその
病が癒されるようにと何 度も主に願った。しかし、癒されなかった。けれども、主からひとつのみことば
を与えられた。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全
に現れるからである」と。
ここで注 意 して読んでいただきたいことは、主 の力 は、「弱 さにもかからわ ず現 れる」とか、「弱 さを
...
補 って余 りある」とは言 われていないということです。「わたしの力 は弱 さのうちに 完 全 に現 れる」。す
なわち、「弱 さ」というものが、単なる欠 けや障 害、不 完 全 さの現 れということではなくて、むしろ、 「弱
さのうちにこそ」神の御力は完全に現れる、最も優れた神の力は「弱さ」という形をとって現れると言っ
ているのです。
先日、私が神学生時代に奉仕をさせていただいた、神奈川県の T 教会の O 姉という方から、一冊
の冊 子 が送 られてまいりました。 『オリーブ』という冊 子 です。これは、昨 年 召 されたクリスチャンの精
神科医・平 山正 実先生が開かれた、北千 住旭クリニックで治療を受けておられる患者さんの家 族会
の記録なのです。O 姉は、現在この家族 会の会長さんとして、心病む方を抱えたご家族に親身に寄
り添っておられるのです。
O さんご夫妻は若いときからキリスト教 の信仰を持っておられたそうですが、どちらかというと、形式
的な、表面的な信仰にとどまっておられたそうです。しかし、将来を嘱望されたご長男 の M さんが大
学院生の時に、重い心の病を発症された。その時のことを、私は詳しく聞いたことはありません。けれ
ども、それがご本人を含め、ご家 族にとって、どれほど大 変なことであったか。大きな痛みであり失望
であったか、想像には難くありません。
しかし、私は、その T 教会に通わせていただくようになって、何か不思議な力がここには働いている
なあと感じるようになっていました。それが、心を病んでいる当の M さんと、M さんを支え、その弱さに
寄り添うように生きておられる O さんご一家から流れ出ていることに気づくのに、そう時間はかかりま
せんでした。M さんはご自 分の弱 さを、その病 状も含 めて、隠すことをされなかったのですね。本当
に自然体でした。同じような痛みを負った方が教会に来られると、そっと近くに座って寄り添い、祈祷
会では同じように心病む方のことをよく祈 っておられました。そういうこともあってか、教会には心病む
方も多く、トラブルもありました。でも、何というか、不思議な安心感があったのですね。特別に何かす
ごいことや、プログラムがあるわけではないのだけれど、「ああ、自 分 もここにいていいんだ」と誰 もが
思える教会でした。
4
O 姉はよく M さんのことを、「この子はわが家の宝です」と言っておられました。そう心から思えるま
でにどれほどの痛みを通ってこられたのかは分かりません。しかし、私には、それは本当 に試 練に磨
かれた心から出てくる、恵みの言葉であるように思えました。
そういう恵みの力が流れ出てくるところというものが、私たちの経験させられる「弱さ」なのです。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるから
である」
4.弱さを誇り、主を誇る
Ⅰコリント 1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。
とても不 思 議な言 葉です。弱 い私たちが、取るに足らない私たちが、 「神 によって」選ばれた。そし
て、「キリスト・イエスのうちにある」 ものとされた。「キリスト・イエスのうちに」-これは、パウロが好 んで
使う表 現ですが、キリストとこれ以 上ないくらいの深 い霊 的なつながり、人 格 的な交 わりを与 えられる
ものになったということです。イエス様とひとつとされたということです。
だから、私たちはもう、自分の義を誇らなくてもよい。なぜなら、イエス様が私の義となってくださるか
らです。私の犯した全ての罪を、イエス様 が十 字 架で背 負 ってくださり、ご自 身 のなされた全ての正
しいことを、私がしたことのようにみなしてくださる。
私には、聖 いところは何 もない罪だらけのものですが、この私の内に、聖 霊なる主 が宿ってくださる。
私 たちが願 い、祈るならば、私 たちを通 して、このお方 の人 格 の聖 さが現 れてくる。私 たちの内 なる
人が日々、「キリストに似た者」と変えられてゆく。
また、やがて来たるべき時に、私たちの朽ちるべき体は贖 われて、栄光の朽ちない復活 のからだを
与えられる。
Ⅰコリント 1:30 キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられまし
た。
先ほどご紹介した『オリーブ』に平山正 実先生のこんな言葉が記されておりました。 3
「15 年 間、精 神 科の臨 床を本 格 的にやっていて私は、患者 さんの心 の中に、もしかしたら神 様 が
いらっしゃるんじゃないかと思うようになったのです。それはどういうことかというと、キリストと患者さんと
の間には共通項があって、それは見捨てられた体験なのではないかということに気が付いたのです。
イエス・キリストはあらゆるものから見捨てられた。神 様 からも…民 衆からも…弟 子たちからも裏 切 ら
れた。
イエスが十字 架にかけられたというのは、弱みの極致を体験 されたということです。この姿は心病む
人 の姿と重なるのです。そしてそういう人 のためにキリストが憐れみの情をもって(くださった)。・・・こ
の憐みとは、「自分 のはらわたを食 いちぎって食わせる」ほどの情 熱をもってというようなすさまじい意
味(の言葉なのです)。」
3
『オリーブ-オリーブ会 20 周 年 記 念 誌 』(北 千 住 クリニック家 族 会 発 行 )p.24
5
神 の力、神 の知 恵 が究 極 の形 で現 されているところ、それが、十 字 架 につけられたキリストなので
す。全 能の神、本 来 ならば全 世 界を統 べ治 めておられる方 が、ご自 身 に逆らい、罪 を犯し、汚 れに
まみれた人 間 の罪 を全 部 背 負 って、最 も小 さく、弱 く、謙 った者 、呪 われた者 となって くださった。
「自 分 のはらわたを食 いちぎって食 わせる」ような憐 みの 心 で、私 たちを愛 そうとされた。そこに神 の
本 当 の知 恵 がある。謙 りと愛 の力 がある。この神 の究 極 の愛 と知 恵 の力 が現 れるのが、私 たちの弱
さにおいてである。
だから、パウロはこう言った。
Ⅱコリント 12:9 私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦 痛、迫 害、困難 に甘んじています。なぜな
ら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
それは「まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです」(Ⅰコリント 1:31)。
もちろん、弱 さは弱 さ、痛みは痛み、悲 しみは悲しみです。それはまぎれもない事 実です。しかし、
それは同 時 に、神の選 びの招きです。神 の恵みの世 界 に目 が開かれる貴 重な機 会です。神 は、あ
なたを召 しておられるのではないですか。「はらわたをひきちぎる」ようなあわれみをあなたに注 いで
おられるのではないですか。そうして、あなたを恵 みの器 にしようとしておられるのではないですか。
私たちが何よりも、この恵みの主をこそ誇る者となれますように。
お祈りいたします。
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