聖書的に生きる - church.ne.jp

2015/10/11
門戸聖書教会 礼拝説教
コリント人への手紙第一 講 解 25
Ⅰコリント 11:1-16
聖書的に生きる
1.初めてネクタイをしめた時
男性にとって、初 めてネクタイを締めた日というのは、何か一 人前 になったような、記憶に残る日で
はないでしょうか。私が初 めてネクタイを締めたのは、就 職 活 動の時ではなくて、教 会の礼 拝におい
てでした。私 が最 初 に行 った教 会というのは、宣 教 師 が開 拓 を始 めたばかりの小 さな教 会 で、宣 教
師のご家族と、先生を助けて奉仕をしている姉妹、一組のクリスチャンホームと私で全員でした。もち
ろん、まだ会堂はありません。毎週 土曜 日 の夕方、町はずれにある集会所にパイプ椅子を運び込ん
で、礼拝の準 備をするのが、唯一の青 年 である私の役 目でした。パイプ椅子を一 度に何脚 持てるか
と、宣教師の息子さんジョン君と競ったりしたのも思い出です。
ある時、礼 拝の司会 をするようにと先 生 に言 われました。そして、礼 拝の司 会をする時には、ネクタ
イをしてきなさいと言 われたのです。「礼 拝 は、神様 にお会 いする時ですから、一 番 良い服 装で来ま
しょう。特に司 会 者はそうです」と。言 われてみると、その宣教 師のご家族 は、礼 拝 の時には、いつも
よそ行きの服装で来ておられました。4 人の韓国 人の孤 児を養 子にしておられたのですが、男の子
は蝶ネクタイを、女の子は可愛いリボンを付けておりました。
たぶん、私はまだ高校 生だったと思うのですが、ネクタイを持っていなかったのですね。それで父か
らいらないネクタイをもらって、結び方 を母から習って、生 まれて初 めてネクタイを付 けてみたのです。
なかなか上 手くつけられませんでした。着けてみると、やはり首 が絞 まって苦しい。でも、何か心が引
き締まるといいますか、自分 がこれから神 様の前で礼拝をするのだ、司 会の御用をさせていただくの
だと、厳粛な思いになったことを、思い出 します。
礼拝にどんな服 装で臨むか。それは、小さなことかもしれませんが、大 切なことでもあるでしょう。特
に、門 戸聖 書教 会では、これといったルールがあるわけでもありません。基本 的には、平服で良いわ
けです。それでも「どんな服装で来たらよいのでしょうか?」と聞かれましたら、ただ、「礼 拝にふさわし
い服装で来てください」とお答えすることにしています。
とはいえ、「礼 拝にふさわしい」服 装とは、どういう服 装なのか? それは考 えてみますと、意 外と難
しいことなのかもしれません。日本でも、江戸時代なら羽 織袴ということになるかもしれない。国によっ
て、時代によって、服 装や教会を取 り巻 く文 化や風 習も変わっていく。そういう変 わりゆくものの中で、
何を大切にして残し、何は変えてもよいのか? 本当に守るべきものは何で、変えることができるもの
は何 なのか? 本 当 に「聖 書 的 」に生 きるということはどういうことなのか? 今 日 の聖 書 の箇 所 は、
そういったことを考えさせてくれる絶好のモデルケースのようなところだと思います。
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2.かぶり物の問題
さて、今 日 の聖 書 の箇 所 で取 り上 げられているのは、女 性 のかぶり物 の問 題 です。 当 時 は、礼 拝
に出る時には、女性が頭にかぶり物を着 けるという習慣がありました。ところが、コリントの教会の中に、
非 常 に進 歩 的 な女 性 たちがいたようなのです。キリスト者 は自 由 だ、神 の前 には、男 も女 もなく、み
んな平 等 なのだ。なぜ、女 性 だけが、頭 にかぶり物 をつけなければならないのかと、かぶり物 をかな
ぐり捨てたわけです。そういう動きと、後で出てまいりますが、時と場所をわきまえないで異言を語ると
か、預 言 をするというようなことが相 まって、礼 拝 が随 分と混 乱していた。そんな、礼 拝 が混 乱してい
たコリント教会に対して、パウロが、まず、礼拝でかぶり物を着けるべきか、どうすべきかということにつ
いてアドバイスしているのが、今日の聖書 箇所であるわけです。
結論から申し上げますと、パウロは女性 たちに、礼拝ではかぶり物をかぶりなさいと命じ、男性には
反対に、かぶり物を着けてはなりませんと命じるわけです。
その理 由として、パウロは、なぜそもそも女 性 が礼 拝でかぶり物 を着けるのか、その意 味を 創 世 記
に記された人間の創造の記事にまでさかのぼって解説します。
Ⅰコリント 11:3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらは
キリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。
「かしら」というと、主従 関係、上下 関 係 のように思うかもしれませんが、そういうことではありません。
「キリストのかしらは神です」とあります。(子なる)キリストと(父なる)神 は、どちらも三位一 体の神 様で
すから、同じ本 質、ある意味 対 等の関係 です。しかし、(子なる)キリストは、(父なる)神から出た方と
して、父の栄光を現 される。そういう栄光の秩序と言いますか、順序のようなものがそこにはある。
創 世記 によれば、まずアダムが神の栄 光を現す器として、神によって創 造されました。そして、その
後に、「人 が、ひとりでいるのは良 くない。わたしは彼のために、彼 にふさわしい助け手 を造 ろう」(創
世記 2:18)と言われて、アダムのあばら骨の一つから女であるエバを造られた。そういうことからすれ
ば、「男 は神 の似 姿 であり、神 の栄 光 の現 れ」 であり、「女 は男 の栄 光 の現 れ」である(11:7)。神 の
栄光 の光 が、まず男という鏡に当たって輝き、そこから反射した光が女という鏡に当たって輝 くという
ような感じですね。
それで、何で女が礼拝でかぶり物をかぶるのかと言えば、礼拝で現されるべきは、神の栄光のみだ
からです。男 は「神 の栄 光 の現 れ」であるけれど、女 は「男 の栄 光 の現 れ」であると。ですから、神 の
栄光のみが現 されるべき礼 拝で「男の栄 光」が現 されるのは良くないことなので、全 てが神の栄 光の
ためになされるようにという、「権 威 のしるし」(これは神 の権 威ですね。男 の権 威ではなくて)として、
かぶり物 をかぶるべきであるというのです。そうしてかぶり物 によって、「男 の栄 光 」を覆 い隠して、そ
れが現れないようにしなさいと言っているわけです。
3.革新と伝統のバランス
何となく、ここを読むと、男 尊 女 卑 のようなそういう印 象を受 けるかと思 いますが、そうではないわけ
ですね。神の前には、男も女もない。それはパウロ自身がはっきりと教えていることです。
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ガラテヤ 3:26‐28 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神 の子どもです。バ
プテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。
ユダヤ人 もギリシヤ人 もなく、奴 隷も自由 人 もなく、男 子も女 子もありません。なぜなら、あなたがた
はみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
キリストにあって、男 女は平 等である。奴 隷も自 由 人もないというこのみことばは、女 性が男 性 の所
有物でしかなかった当時においては、革 命的な宣言でした。きっと、コリントの女性 たちも、こういうみ
ことばを聞いて、そうだ!もう平等なんだから、かぶり物なんてかぶらなくていいんだ!と思 ったのでし
ょう。しかし、パウロという人は、実にバランスが取れているわけですね。
Ⅰコリント 11:11 「主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものでは
ありません。女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生 まれるのだからです。しか
し、すべては神から発しています。」
このように、男 女が本 質的 に神 の前に対 等であると言います。しかし、同時 に、自 分たちが生きて
いる時 代 の文 化や風 習、そういう中 で培 われてきた教 会 の伝 統というものも、 無 視 してよいものでは
ないというのです。
Ⅰコリント 11:13 あなたがたは自分自 身 で判断しなさい。女 が頭に何もかぶらないで神に祈るの
は、ふさわしいことでしょうか。
11:14 自然自 体が、あなたがたにこう教 えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは
男として恥ずかしいことであり、
11:15 女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物
として女に与えられているからです。
11:16 たとい、このことに異 議を唱 えたがる人 がいても、私たちにはそのような習慣 はないし、神
の諸教会にもありません。
やはり、当時の文 化の中では、女 性 の髪 が長いのが当たり前であった。長い髪は女の光 栄であり
誇 りでもあった。女 が丸 坊 主 にするなら、それは非 常 に恥 ずかしいことであったわけです。反 対 に、
男性は長髪にするのが恥ずかしいことでした。
つまり、それぞれの文化において、男性らしいこと、女性らしいこと、女性がすると恥ずかしいこと、
反 対 に男 性 がすると恥 ずかしいことがあるわけですね。そうであるとするならば、礼 拝 において女 性
がかぶり物 を着 けるという習 慣 も同じことで、それがいやだというのは、頭をそるのと同じことをしてい
るのですよと、パウロは言うわけです。
4.聖書的に生きるとは
さて、ここで説 教 を終 わりにすれば、来 週 の礼 拝 から、女 性 陣 のみなさんは、何 かかぶり物 をつけ
てこられるかもしれませんね。とにかく、ここに書いてあることを文 字 通 り、そのまま実 行しなければな
らないとしたら、そういうことになります。現に、現在でも、礼 拝で女性がかぶり物を着けて礼拝してお
られる教会も、実際にあります。
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ただ、ここには、私 たちがどのように聖 書 を読んでいくか、そして、どのように、聖 書 のみことばを実
践し、生きていくかということについての、大切なレッスンがあるように思うのです。
聖書のみことばは、いつも、その時代の具体 的な状況、文 化の中で生きている人 々の生の現 実に
対して語られた言葉です。この『コリント人への手紙』などは、まさに、手紙ですから、紀元 1 世紀の、
コリントの教会という、非 常に具体 的な、パウロ自身もよく知っている人々に対して語られた言 葉であ
るわけですね。まさに、福音宣教の現場で、最前線で語られている言葉です。
それを 21 世紀の日本に生きる私たちが読んで、自分の生活に当てはめていくという時に、どうす
べきなのか。紀元 1 世 紀の礼 拝の仕方 を、そのまま現 在に持ち込めばよいのか。とにかく、聖書の
時代のやり方を真似していればよいのか。そうではないと思うのです。
やはり、ここでパウロがしていることというのは、本当に、教会が教 会である限り変 えてはいけない原
則にしっかり立って、その上で、その時 代 、その地 域 の文化 の中で、その原 則を生 かしていくのは、
どういう生き方なのか、ここで言えば、どのように礼拝をすることが、神のみこころなのかを考えるという
ことです。
ここでの原 則が何かと言 えば、何よりも礼拝が神の栄光を現すものでなければならないということで
す。そして、そのために、「すべてのことを適切に、秩序をもって行う」(Ⅰコリント 14:40)ということで
す。そういう大きな原則を、1 世紀における、コリントの文化、当時の教会の伝統の中で考える時、女
性はかぶりものをかぶって礼拝しなさいというアドバイスが出てきているのです。
ですから、私たちが、21 世紀の日本という文脈の中にこの原則を当てはめたときに、来週から、女
性 は帽 子 やベールをかぶって礼 拝 に出 てくださいということには、ならないのではないかと思 います。
でも、もし、みなさんが、旅 行などに行 って、ベールをかぶって礼 拝 する教 会 に出 席 されるのであれ
ば、私 は、それは、ベールをかぶりなさいとお勧 めするでしょうね。それは、先 週 学 びましたように、
「だれでも、自分 の利 益を求 めないで、他人 の利 益 を心がける」( 10:24)ため、「ユダヤ人にも、ギリ
シャ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないように」(10:32)するためです。
でも、そういうことであるならば、私たち 21 世紀の日本人キリスト者として、私たちは、私たちなりに
考 えなければならないわけですね。今 、この時 代 に、本 当 に神 の栄 光 を現 す礼 拝 とはどういう礼 拝
なのか。どういう心構え、服 装でもって礼 拝にのぞむべきなのか。私たちならではの、また違った答を、
模索していかなければならないのです。
私は、今回、あまり普段考えない視点だったので、心探られたみことばがありました。それは、 10 節
のみことばです。
Ⅰコリント 11:10 ですから、女は頭 に権 威 のしるしをかぶるべきです。それも御使 いたちのために
です。
パウロは、礼 拝がただ神 の栄 光を現すものとなるように、「男の栄 光」といった人 間 の栄 光が少しで
も出ないように、女 性 は頭 にかぶりものをしなさいと 言 うわけです。神 の栄 光 にそこまでこだわるわけ
ですね。そして、それも「御 使いたちのため」でもあると。人間がほとんど気にしないようなことでも、御
使 いの目 にははっきり見 えるのだと。私 たちの不 純 さ。礼 拝という聖 い場でさえも、人 間 の栄 光 を求
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めてしまう傲慢な心。人間の偽善。神はもちろんのことですが、御 使いが、この礼拝の場にもともにい
てくれている。空 席 を埋 めてくれているというわけではないでしょうが、とにかく、神 も御 使 いも私 たち
の礼 拝 を注 目 してくれているわけですね。そういう御 使 いへの配 慮 でもあるのだと。こんな小 さな礼
拝でも、それが神の国 の現 実 に直 結している。天 の御 国へと広 がっている。 パウロは本 当 に天の御
国をリアルに感じているわけです。そういう、今、この地 上の現実、特定の時 代の中 にありつつ、天の
御 国と直結した信 仰 。パウロはそういう信 仰の目で、礼 拝を見、クリスチャンとしての生き方を見てい
る。この地上で天の御国を生きる。それが聖書的な生き方なのだと思います。
5.キリストにならって
先週、OMF の日本委員会に行ってまいりました。OMF の日本の事務所は、千葉県の市川市に
あります。ある方 がささげられた広 い敷 地 の中に、本 部 の建 物 や宣 教 師 の宿 泊 施 設 や、隣 接して、
Y 兄の奥様が所属しておられる JECA のチャペル・オブ・アドレーションという教会もあります。
久しぶりに行くとその OMF のオフィスが改装されていたのですね。「水」がテーマらしいのですが、
ドイツ人 の宣 教 師 がデザインして、色 々な 水 にまつわるオブジェが置 かれ、壁 画 やみことばが壁 一
面 に描 かれている。階 段 の上 からは、無 数 の魚 のモビールがぶら下 げられており、まるで水 族 館 か
博物館のようでした。一度、ぜひ行ってごらんください。
その廊下の壁に、OMF の歴史年表が、ずらっと書いてあるんですね。そして、写真も壁にプリント
されている。そこに OMF の創設者ハドソン・テーラーの肖像写真もありました。とともに、ハドソン・テ
ーラーが中国で働き始めた頃の写真もありました。最初、それは、中国 人の写真かと思ったのです。
しかしよく見てみると、そうではなくて、西洋人がチャイナ服を着て、髪を辮髪に編 んで、いわゆる「ヤ
ンキー座り」をしているわけです。
辮 髪 というのは、要 するに長 髪 ですね。髪 を腰 まで伸 ばして、それを頭 の後 ろで編 むわけです。
ハドソン・テーラーは、偶像にまつわるものでなかったり、聖書の原則に背くのでないかぎり、できる限
り現地の文化を尊重し、その国の人になりきって福音を伝えました。それは、表面的 に見 れば、今日
の聖書 の箇 所でパウロが出している結 論 と反対のことです。男 性が長 髪にするのは、「男として恥ず
かしいこと」とあります。実 際に、髪を辮 髪 に編むのは、中 国に来ていた西 欧 人はもとより、他の宣教
師やクリスチャンたちからも、奇異の目で見られることでした。何でそんなことをするのか? なぜそこま
でする必要があるのか?
それは、神ご自身であられたキリストが、人となるほどへりくだってくださったからです。
ピリピ 2:6-8 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を
無にして、仕える者の姿をとり、人 間と同 じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を
卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
キリストは全てを捨てて、人となってくださった。十字架の死にまで従ってくださった。そこまでして、
私 たちを救 いに導 いてくださったのなら、 イギリス人 である自 分 が、中 国 人 のようになったとて、 何 の
不思 議があろうか。ハドソン・テーラーは、キリストの受 肉の愛、十 字 架にまでしたがってくださった謙
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りの愛を、自 分 自 身の宣教 の働きの中で生きたわけです。聖 書の原 則を、自 分 の生きている時 代、
自分の働きの中で具体化したわけです。OMF の宣教師たちの中に、150 年、そのスピリットが脈々
と流れているのを感じるのです。
今日、お読みした最初の箇所にこうありました。
Ⅰコリント 11:1 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。
パウロは、キリストを見 習っていた。キリストなら、今、この時、このことに対して、どうなさっただろうか。
そう考 え生きた。そして、コリントの教 会のクリスチャンたちに、そういう私を見 習ってくださいと勧 めて
いる。
OMF の宣教師はハドソン・テーラーに見倣っておられると思いますが、今、辮髪 にしている人は一
人 もありません。そういう外 面 的 なこと は、時 代 や地 域 で変 わっていく。しかし、そこで生 きる時 の原
則、スピリットは変 わらない。キリストにならって生きる。十 字 架にいのちを捨 てて下 さった、キリストの
愛を生きる。
あなたが今、遣 わされているところで、主 よ、今 ここであなたの栄 光を現してください、ここに御 国 を
来たらせてください、あなたの愛を生きることができますようにと祈りつつ生きる。 それが聖書的な生き
方です。そのようなものでありたいと願います。
祈りましょう。
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