奮闘記 - 電翔

東京マラソン2012
東京がひとつになる日
当選
「東京がひとつになる日」人間が生活していく上で、必要丌可欠となってしまった情報発信源のパソコンから
5年連続(8月末)の応募を繰り返す。2011年10月11日(火)朝礼当番にて「当選したら、走ってみ
ようと」公言。これは卑しくも「また落選だろう」
「ぜってぇー落選だしぃ」と甘くみていたのだろう。
この辺が人間の浅はかな心を朝礼スピーチにて発言してしまったのだろう。
禁煙
今までやったことがなかった禁煙活動。どんどん少なくなっていく喫煙場所。風邪をひいても止めなかった
PEACE SUPER LIGHTS 。当選の連絡から1週間後、仕事場所は海老名。過度のプレッシャーにより、自
己制御丌能の時に何を血迷ったのか、禁煙を無作為に実施。およそ2カ月間の起床、食後、待ち(暇な)時間
等の生活では苦も無くストップすることができた。しかし12月に入ってから年末まで繰り広げられる人との
交流の中で、何年か振りに会って禁煙されている方や美味しそうに煙と戯れている方と多種多様いましたが、
時代の流れなのか前者のほうが多くなってきています。それでも我慢?ができたのですが、同僚との魚釣り。
誰も勧められる訳でもなく煙草に火をつけてしまう。魚が釣れなかったから、いやそうではなさそう。つまら
なかったから、まったく違う。言葉では表わし難いが無防備で何も考えていなかった自分がいたと思います。
20年以上の喫煙、なめたらいかんぜよ。
練習開始
娘は高校1年生、息子は小学5年生。娘は陸上を小学生からやっていて、種目は違うが高校1年の分際でイン
ターハイ東海大会までいく強者である。女子三段跳びでは東海3位の記録を引っ提げて日本ユース大会への出
場権を持っている、しゃらくさい奴である。息子は私と同じ野球をやっていて、うまくいかず泣いてばかりい
る団体競技者のゲームおたくである。そんな小僧でも、「走りにいくぞ」と言ったら話にのってきた。1回き
りだったが、父は頼もしく感じ、かつ寂しくも感じた。3km余り11月後半の話でした。12月からは再喫
煙もあって走る距離を伸ばした。ただし練習できるのは週末のみで、息子の野球のコーチや配車等と重なれば
走る時間がなくなる。2週に1回の割合で2時間走20km から3時間走30km と練習量を増やしていった。
これを、2月12日(日)まで続ける。
スポンサー
当選以降、スポンサー探しを近隣でしたものの誰も賛同されずにあっという間に暦は2月。参加費1万円(1
0月31日まで)や、スポーツはやはり格好からとウェアを購入した。後にやめられなくする妻の策略だった
と思うようになった。宿泊代も考慮すると馬鹿に出来ない出費でもあります。妻や娘は江戸に行く気満々の観
光気分、どんどん費用が嵩むにつれてドタキャンすらできなくなっている一人のオジサンが佇んでいました。
2月のある日のこと、静岡本社で同じ釜ではないが社会人野球までやったエリートであり、仕事でも大変お世
話になっている常務との立ち話で東京マラソン当選の話をさせていただいた。住まいも東京ということもあり、
常務は常務なりの東京マラソンへの思いを感じた。ただ当選しただけなのに凄く喜んでくださった。その後に
史上最強のスポンサーを手に入れることができました。
1
とうとう週末に東京マラソンを控え、
「一人寂しく走って来よう」
「なるようになるさ」と少し緊張していたと
ころ、常務から社長の処へ伺えとの指令が出ました。こんなギリギリまで挨拶・報告もせず、常務がいなかっ
たら、確実に社長の処には行っていなかったことを断言します。この時に自分という人間は周りの人に支えら
れているんだなぁと痛感させられました。年齢の数ばかり増えていき、もうすぐ半世紀にもなるのに、まだま
だ人間形成としては半人前であり、今後は周りの人を支えてあげられるような人になっていかなければいけな
いとも感じた瞬間でもありました。
スポンサー(社長)の声
めったにない光景。会社も大きくなって、昔では当たり前だった社長とのお話。ここ数年?十年位は本当に立
ち話程度だったのが2月21日(火)社長室へ訪問。東京マラソン当選への配慮。社員1名に対する配慮。自
分が言うようなことでもありませんが流石です。1社員ではちっぽけな存在でも、それを大切にする気持ちや
思いやり。話している相手がどう思っているのか、楽しいのか嫌なのか何を考えているのか。言葉で表現でき
ない感覚が襲ってきます。話しを交わしているだけで気持ちが研ぎ澄まされていくような感じです。私も大し
た人間ではありません、社員皆様も社長と会話する機会、タイミングを作ろうとする気持ちを持つことも大切
なことだと思います。それを実行するには、支えられているうちに実施するのが一番です。
“ところてん”で
はありませんが、後押しがないと出来ない事ってありますよね。
出走前日(エントリー締め切り)
忘れ物がないよう東京へ出発し、我が社でスポンサーとなって
いただいたのでランニングTシャツにも社名と会社エンブレ
ムマークを引っ提げて、エリトリー会場である東京ビッグサイ
トにいざ出陣。流れるように受付(やはり本人確認は厳重でし
た)を済ませ、協賛の出展ブースにて更に気持ちを(無理矢理
に)高揚させられました。おかげで帰着したホテルでは、なか
なか寝付けない前夜となってしまいました。
東京ビッグサイト
(ゴール地点)
(エントリー会場)
2
トップアスリート(福島千里)
100m:11‘21(日本記録)
200m:22‘89(日本記録)
・文句なしの日本短距離界のトップアスリートです。
娘でさえ、まだ拝見していない人が此処に・・・・・
思わず、立ち止まり写メしたワンショットです。
東京マラソン2012・出走当日
もう逃げられない。十分な練習ではないが、やったほうではないのか。(甘い自己判断)怖がる事はない。
「一丁やったるかぃ!」そんな気分でした。妻と娘を朝一番の新幹線で呼び寄せて、沿道で葉っぱをかけても
らえるように経路もバッチシ!新宿西口~銀座四丁目~東京ビッグサイトで写真を撮っていただく寸法だっ
たが、結果は0枚。新宿スタート地点で無理なのが判り、しょうがない自分で撮りました。
3
START(Cブロック)地点にて
・トイレが凄い。順番待ちが尋常ではありません。
(設置前、人の渦です。時間にして30分位)
・集合時間まで該当ブロック内に到着できない場合
は、最後尾より出走となります。
・かぶりもの「凄っ」
(「走れるのかなぁ」って普通に思います)
2月26日(日)9時10分・スタート
東京都庁周辺、テレビ放映のまんまです。ランナー・大会関係者以外は立ち入る事ができない場所にて号砲を
待つ。何と言っても、心を和ませたのは都知事の挨拶です。社長とは違い、ひとつになろうとする 36,000 の
人達に向かっての挨拶ですから、心を掴まないといけないところで「限界までやって、やれるだけの事をして
くれ。死んだら何にもならねぇぞ」だとさ。走り出したらそれどころではなかったが、これも心に残るシーン
でした。よくTVとスタジアムでは全然違うと言うが圧倒される雰囲気でした。是非味わってみてはいかが。
スタート地点~10km地点(新宿都庁~皇居外周~日比谷公園)
今回、初めてのフルマラソンです。練習でも30kmまでしか走ったことがありません。他のマラソンは・・・
参加した事がありません。参加の動機は第1回の東京マラソンでした。たしか雪が残っていて、東京中を走り
回れるという満足感に浸れるには、これしかないと思っただけです。なんと楽観的な、なんて単細胞なのでし
ょうね。
この地点では、身体に何の違和感も痛みもなく、自分のペースを保っていました。さすがCブロックは基本的
に速い集団です。
(応募時の目標記録は3時間30分で申請)スタートの紙吹雪も降り掛からないところでし
たが、5km30分のペースでは追い抜くなんてできません。これ本当の話。ペースを乱さないようにするだ
けで精一杯でした。
4
10km~20km地点(日比谷公園~品川駅~日比谷通り・銀座前)
何か下半身から足のほうから聞こえる鈍い痛み。どこが痛いってわけではない。「アミノバリューで体力回復
してくれるって言ってたよな~」と困った時の神頼みも甚だしいが、給水は必ずというほど採りました。市民
ランナーの星・川内優輝さんでさえ、My給水が採れずにペースが掴めなかったのは事実だと思います。苦し
かったと思います。品川での折り返しによりトップランナーとすれ違いで観戦することができましたが、トッ
プランナー達は同じ人間かと疑うくらい怪物(モンスター)です。日々鍛錬していないと駄目なんですね。家
路についてからのTVで確認したのですが、皇帝と言われるハイレ・ゲブレセラシェ(エチオピア)の選手は
7歳差だけでなく、国では従業員を持つ社長であるということだ。恐れ入ります。
20km~30km地点(日比谷通り~銀座~浅草・雷門~江戸通り)
銀座にて沿道からの声援、2度目になる家族からの声援を受け、日本橋から我が社・東京支店を横目に通り過
ぎて一路浅草へ。気持ちとは裏腹に25km過ぎより右膝に激痛が。ひとつになる支えがなかったら、この時
点で終わっていました。スタート以降の沿道からの応援は途切れることを知りません。そして有り難味は走っ
てみないと判りません。何が凄いかって声援が気持ち良い。走っている人達は選ばれた選手でもなく、箱根駅
伝のように襷もなく、まったく知らない市民ランナー達に対して声援を送ってくれる。
「東京がひとつになる日」まさしく、このことだと思いました。
28km地点では歩くことすら出来ず、何処にいれば良いのか困りました。沿道は給水ポイントや声援してく
ださっている人で埋め尽くされているわけで居る場がない。苦しい顔をしていると「大丈夫か。まだ走れるか」
と心配そうに話してきてくれる人もいて、走ることも歩くこともできないのに「もう少し頑張ります」と普通
に声が出てしまう自分が怖い。痛くない歩き方をその場で覚え、ひたすら先を目指した。私は浅草に行った事
がない。東京スカイツリーは何処にある。久しぶりに顔をあげたら、たまたま東京スカイツリーが見え、浅草
雷門で折り返し。30km地点までは、もがき苦しんでおりました。
東京スカイツリー
(浅草・雷門に到着する前(右手方向)で見える場所がありました。
)
(あまりの右膝痛で写真撮るくらいしかできませんでした。
)
5
30km~38km地点(江戸通り~銀座~築地~豊洲付近)
30km地点で気になる事があった。それは殆ど歩いていたため、5kmを1時間以上費やしてしまっていた
のだ。何箇所か関門が設けられており、指定時間内に通過できない場合は、それ以上走ることが許されない。
これは1秒たりとも遅れてはいけない事だ。大きな時間ボードでしっかり時を刻みます。当然、初心者である
私は「そんなに遅いわけがない」
「そんな関門いらない」というような勢いだけで出場している始末である。
そこへ来て何せ足が動かない。言うことを聞いてくれない身体となっているので、時限爆弾を持たされ、時間
までに指定場所に置いて来いと言われているようなものです。ここでは騙し騙し走りました。関門を通過でき
ずに完走メダルが貰えないほど悔しいものはないと、極力痛みが伴わない走り方を見つけ出すしかありません
でした。その走法は痛い右膝を曲げずに伸ばした状態で走ることでした。(靴底はボロボロにすり減り、当然
ながら左足に倍の負担が加わりました。強い左足でした。)35km地点の関門を閉鎖10~15分前に通過
し、3km先の38km地点の関所までの持ち時間は49分、約60分あったが、1kmを20分計算すると
100mを2分です。これってどうです。私が普通の状態であれば13秒あれば走れます。ただし100mを
30本走ったらどうなるか、足をびっこに引きながら前へ進みました。この距離は本当に泣きました。痛くて
泣いているのか、暖かい声援によって泣いていたのか定かではありませんが、「何でこんなになるまで走るん
だろう」って。36kmを過ぎた時点で中央分離帯に座りながら自分の足(ふくらはぎ)を叩いている青年に
遭遇しました。やはり泣いていました。先に進めないからでしょうか。自分に言い聞かすように「頑張れ、座
っちゃ駄目だよ。あともうちょっと」と応援しました。そのランナーが復帰したかどうかは判りませんが、私
は38km地点の関門を閉鎖5分前にて無事通過。後の調べで実際は3kmではなく、3.7kmありました。
辛いわけだ。
35km地点(佃大橋付近にて)
(どうです、後ろの人も歩いているでしょ)
6
38km~41km地点(豊洲付近~有明~東京ビッグサイト)
38km地点を過ぎ、自分の中ではもう関門はないと思っていたのですが、41km地点にまだあったようで
す。何故、苦もなくというかスムーズに進めたイメージがあるのは、最後の沿道にいる声援です。半端な応援
ではありません。25km~35km地点で「でんしょうぉ~ガンバレ」「でんしょう頑張って」と耳に入っ
てきたのは 3、4回ありました。殆ど立ち止まっている時です。この区間でも電翔エールが1回ありました。
今でも覚えています、足を引きずりながら走っていると、「でんしょうぉ~頑張れぇ、痛いのはオマエの足じ
ゃない、心だぁ。足なんか痛くない。胸張って笑ってゴールへ進めぇここで止める気かぁガンバレェ~」と。
何か目が覚めたというか、最後の力をいただきました。後に41km地点で追いつかれ並走するものの、オー
ドリー・春日にも抜かれてしまいました・・・
41km付近でオードリー・春日に抜かれてしまいました
(凄いですね、ヒルナンデスのレギュラー陣の写真を背負って)
(そんな春日さんにも抜かれてしまうなんて)
7
FINISH(完走タイム5時間53分51秒)
自身の身体で「東京がひとつになる日」を味わってみて、東京マラソンがもたらす意義の大きさを実感するこ
とができました。個人差はありますが、それぞれに感じるものは似たような気持ちではないでしょうか。
今後、8月末日までの応募に対して迷いはあるものの、記録(目標タイムは3時間30分)にリベンジするの
も悪くはないと思います。
このマラソンで痛切に感じたもの、得たものは、ただひとつ。一人で走っているわけではないということ。
私の適当な応募から端を発した東京マラソン。一度もフルマラソンンを走ったことがない素人ランナー。
ひとつになる意味も知らずに参加の話を親身に聞いてくださった常務、それを聞きつけてスポンサーまでして
くださった社長、出場させてくれた会社皆様、沿道で応援してくださった方、ドタキャンしようとした心を見
逃さなかった妻、練習に付き合ってくれた愛娘・愛息、近所だけということで親身に話を聞いて下さった皆様。
すべての人に感謝の気持ちでいっぱいになった1日(誕生日)でした。
ありがとうございました。
平成24年2月27日
深澤 広昭
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