東洋英和女学院大学 2015 年度オリエンテーション合宿 学長講演 2015 年 5 月 22 日 主体的に生きるということ ~「花子とアン」と現代~ 東洋英和女学院大学 学長 池田明史 昨年のいまごろ、NHK で連続テレビ小説「花子とアン」が放映されていました。ずいぶ ん話題になったので、自分が見ていなくてもその内容については耳にしている人がこの新 入生諸君の中にも少なくないのではないかと思います。舞台となった修和女学校のモデル はこの大学の母胎である東洋英和女学校であり、主人公の村岡花子さんやその親友の白蓮 さんなど、登場人物の多くは歴史的に実在した本学院の卒業生であります。 「英和」の草創 期を担った恩人たちや、花子さん・白蓮さんを含む先達の生き方については、みなさんの手 許にお配りしてある「カナダ人婦人宣教師物語」という小冊子に要領よくまとめられており ますので、目を通しておいてください。本学の出自・来歴を踏まえて学生生活を送るのと、 そうでないのとでは、得られるものがまるで違ってきます。そのことを最初に指摘して、本 日の話を始めたいと思います。この話の内容とも密接に関係してくると思いますので、しっ かり参考にするようにしてください。 さて、花子さんや白蓮さんたちが生きた明治・大正・昭和という時代は、それ以前と比べ ると加速度的にテクノロジーが発達し、人間や社会がその技術的進歩なるものに追いつこ うと必死になるという時代でした。しかもそれらの新技術は、ほとんどすべて外来のもので、 「脱亜入欧」という当時のスローガンが物語る通り、近代化とは要するに西洋化のことであ ったわけです。つまり、技術の発達といわゆる国際化の進展とは、同じコインの裏表という ことになります。流行りの言葉で言えば、グローバリゼーションの現代的な走りとでも申せ ましょうか。新入生の諸君には想像もできないでしょうが、われわれが学生のころまでは、 「舶来品」 (船に載って外国からやってくる品物)という言葉はそのまま高級品・上等品を 意味していました。車にせよ、電化製品にせよ、食糧にせよ、国産が外国製よりも高品質だ という認識が一般化するのは、花子や白蓮などこのドラマの主人公が死に絶えた後のこと です。いまや「舶来品」という言葉は死語になりました。 花子さんは、舶来の文化に接する際の必需品として英語を習得し、最新の英米児童文学を 日本に紹介する翻訳家として名を成した人です。白蓮さんもまた、三十一文字の文芸である 日本古来の和歌を、活版印刷という、やはり舶来の技術を介して現代的な流通に乗せる一翼 を担った人でした。言ってみれば、彼女らはいずれも、急速に変化しつつあった当時のコミ ュニケーションのソフトウェアに関わって生きた人々だということになります。実際、花子 さんは始まったばかりのラジオ放送で「コドモの新聞」という児童向けの番組のアナウンサ ーを担当していたことは、ドラマでも描かれていました。 ここまでドラマの時代背景を見てきましたが、翻ってわれわれが生きているこの時代に おいても、科学技術の進歩やヒト・モノ・カネの世界的な流動化といった状況にはますます 加速度がついているように思えます。花子さんの時代には、どれだけ英語に習熟していても、 現実に日本を出て欧米に渡る、いわゆる「洋行組」はごく少数でした。花子さん自身も留学 経験はありません。普通の学生にとって、海外留学が雲をつかむような話ではなくなったの が、おそらくわれわれの世代、1970 年代以降の学生たちからではなかったかと思います。 そしていま、この東洋英和女学院大学を含めて、多くの大学で海外留学は入学時から通常の カリキュラムに組み込まれているほど、普通のことになりました。 また、コミュニケーションの手段も、進化し続けています。1970 年大阪万博の年、私は 中学三年生になろうとするときでしたが、未来の電話として電話線のないワイヤレスフォ ンが展示されていたのをはっきり覚えています。それから 15 年後、私はある政府系のシン クタンクで中東の紛争研究をしており、イラン・イラク戦争その他の戦況解説にテレビなど に引っ張り出されることが多かったのですが、テレビ局でいわゆるギョーカイ人から重さ 3 キロもあるようなショルダーホンを見せられて「これがケータイ電話というものだ」と自慢 されたことを記憶しています。それから 30 年足らずの間に、ポケベル、PHS、ケータイ、 スマホと、端末は文字通り乗数的な加速度で進歩してきています。 「花子とアン」というドラマが人々の共感を呼んだ一つの理由は、激しく変化する時代に あって、どこまでも「主体的」に生きようとした主人公たちの懸命な姿にあったのではない かと思うのです。まだ女性の社会進出が認められていなかった時代、女性が自立した個人と して生き抜くことに夥しい制約が伴った時代に、自分の力で知識を習得し自分の頭で物事 を考え、自分から周囲に働きかけていく。そのことによってある場合には敢然と困難に立ち 向かい、また別の場合には悠然と圧力を受け流す。花子さんであれ、あるいは彼女の「腹心 の友」であった柳原白蓮であれ、そのようにして与えられた自分の人生を自分で生き抜いて、 最後はそれぞれに「なりたい自分」を実現したというそのストーリーに、同じように激動す る現代を生きるわれわれは自分を重ね合わせたのではないか、と考えられるのです。 しかしながら、いま「同じように激動する」時代と申し上げましたが、「花子とアン」の 時代とわれわれの現代とでは、加速度の付き方がまるで違うということは指摘しておかな ければなりません。例えば、さきほども少し触れましたが、ヒト・モノ・カネの世界的な流 動化という現象です。花子さんの時代でも、情報・知識・経験を海外から輸入し、これに日 本的な文化や伝統を加えたり、固有の工夫で直したりしたものを輸出して、日本という国は 成り立っておりました。高等教育にしても、明治以降の日本の教育体制それ自体が、良くも 悪しくも「欧米から輸入した学問」を「輸入したシステム」によって次の世代に伝えていく という構造を持っておりました。留学や駐在という形で日本から外に出た「洋行組」は、そ のような輸入と輸出の最前線に位置していたと見ることができます。言葉で言えばそれは 「国際化」であって、グローバリゼーションの先駆ではあってもグローバリゼーションその ものではありません。 ところがわれわれの生きているこの現代社会にあっては、そのような平板な、二次元的な 国際化はすでに過去のものとなっており、もはや日本から出ようが出まいがこのグローバ リゼーションの影響を受けずに毎日を送ることは不可能になっていると言っても過言では ありません。グローバリゼーションとは、国際化とは質的に異なる次元の問題なのです。 このことは、 「舶来品」が死語になって、むしろ国産品が高品質を意味するようになった 1970 年代以降の状況が、21 世紀に入ってからは一変しつつある事実を見据えればあきらか でしょう。かつては「世界に冠たる」と形容された著名な日本の製造業が、ここにきて国際 的な競争力を失いつつあるのはなぜなのでしょうか。 日本を代表する製造業の多くは、世界中で発明されたモノや技術やサービスを日本人的 な感覚・感性で改良し、改善し、高品質・低価格を目標にして、国際的な市場に送り出すこ とで競争力を維持してきました。それを支えてきた日本の教育とは、要するに、単一のシス テムによって大量に生み出される均質な(つまり同じような)人々が、一元的な(つまり同じ ような)知識を習得するというところにその特徴があったわけです。 これに対して、グローバリゼーションとは、輸入⇔輸出という平板で単純な双方向性では なく、立体的で複雑に錯綜した多方向性をその基本的構造にしています。そこでは、もはや かつての単一・均質・一元的という特性が、メリットではなくデメリットとして作用するこ とになります。一人一人の人間が、多様で、異質で、多元的なさまざまな要素を受け入れな ければ暮らしていけない時代、それこそがグローバリゼーションだということです。 そして、そのようなグローバリゼーションに最も適合的なコミュニケーションの手段と して立ち現われているのがインターネットであり、スマホやタブレットといった端末であ ります。一言で「情報化社会」と呼ばれる現代は、花子さんの時代と比べると、とんでもな く便利な社会になりました。外国の出版情報を手に入れ、原典を船便で送ってもらい、高価 な辞書や辞典を引きながら、原稿用紙に向かって鉛筆嘗め嘗めあーでもないこーでもない と呻吟しながら翻訳を進めていたことを考えれば、出版事情も原典テキストも、さらには辞 書や辞典も手のひらサイズの端末からリアルタイムで入手でき、執筆や推敲、そして送稿ま でもそれひとつで済ますことができるという暮らしが実現したのです。まさに、夢のような 未来にわれわれは生きていると言えるのかも知れません。 しかしそこには、確実に大きな落とし穴が口を空けて待っていることに注意していただ きたいのです。よく考えればわかることなのですが、人間は、生まれてから自分で言葉を覚 え、さまざまな苦労をしながら、いろんなことを習得していく存在なのです。自分がさまざ まに外に対して働きかけ、あるいは自分自身に自問することによって知識やスキルを積み 重ねていくわけです。そうやって、一人前になっていく。ところが、あらゆることが端末ひ とつで済ませられるようになれば、思考能力が成長する過程を「情報化」が簡略化して短絡 化してしまうことになります。言葉さえわかれば、あとは何でもインターネットでわかって しまうという状況ができていて、自分の足で歩いたり、自分の頭で考えたりすることがどん どんなくなってしまっているのですね。これはつまり、人間の思考能力が一方的に低下しつ つあることを意味します。 簡単に言えば、カーナビ状態です。昔であれば、車を運転して初めての場所に行こうと思 ったら、まず地図を広げ、最初に全体の配置、経路、地形といった情報を確認し、頭の中に 自分用の地図を設定するところから始めました。そしてその地図上で経路を選択し、決定し、 さらに走行中に見えるであろう風景を頭の中に思い浮かべ、それが実際の情景と一致する かどうかを検証しながら運転していたわけです。カーナビが浸透すると、これら一連の作業 や脳のなかでの手順は一切必要なくなり、ドライバーはただ頭を空白の状態にしてカーナ ビの指示に従ってハンドルを操作するだけの存在になってしまいました。 ことがただ単に情報の取得や状況の確認というレベルにとどまるのであれば、まだ傷は 浅いと言えます。問題は、例えば花子さんが鉛筆嘗め嘗めあーでもないこーでもないと煩悶 しながら言葉を紡ぎ出していく行為それ自体にこの簡略化や短絡化の傾向が及ぶ場合です。 そこでは、自分で知識を習得し自分の頭で物事を考え、自分から周囲に働きかけていく作業 はどんどん抜け落ちていきます。そこでいう知識とは、人間があちこち走り回ってさまざま な断片的な情報を自力でかき集めて、取捨選択して、評価して、序列化して組み上げるもの です。いわば個人がプロセス化した情報の体系が知識にほかなりません。現在の社会では自 分で走り回らなくともインターネット端末を通して収集・選択・評価・序列化までプロセス されたものが簡単に手に入ります(Wikipedia etc.) 。そこではまず、なまの情報とプロセス 化された知識との区別が極めて曖昧になってしまうという問題が生じます。 しかも情報であれ知識であれ、結果だけが簡単に目の前に差し出されるわけですから、 「情報」や「知識」の価値は相対的に下がらざるを得ません。いつでも、どこでも、誰にで も手に入れられる情報や知識には希少価値が認められませんから。それは同時に、専門家や 研究者が使い捨ての対象とされて消費される時代の到来を意味しました。恐らく今後は、識 者とか、知識人という言葉も死語になるでしょう。昔であれば、そのひとの頭にどれだけの 知識が詰め込まれているかに相当の価値があったのですが、現在は、知識・情報の貯蔵だけ ならパソコンやスマホといった外部記憶装置に依存できるからです。いま、知識人(頭のい い人)の価値は、それらの記憶装置を如何にうまく駆使して情報・知識を効率よく出してく ることができるかにかかっているように思われます。 しかし、そうした記憶装置にインプットされている情報は、それ自体がもはや古い情報で あって、すでに誰かが得ている情報にすぎません。ウィキペディアはその典型でしょう。そ うした既存の情報だけで動く社会とは、要するにみなが自分の頭でものを考えなくなって いる社会にほかなりません。情報をプロセス化することなく、そのまま知識としてあたかも 自分が思いつたものであるかのように思い込んで、それを消費する。それはつまり、知識は 創出されず、演出されるに過ぎなくなっている事態を意味します。否、もはや知識ではなく、 情報、それも他者からの既存の情報に依存しているだけなのだということでしょう。 新入生諸君にとりわけ警告しておきたいのは、君たちは本当に本を読まなくなっている ということです。これこれこういう本を読めといっても、その本のあらすじや感想がウェブ に載っていて、それを見たら読んだ気になってしまう。そんな手軽な情報だけを得て、ひど い場合にはそれらをコピペして書評レポートとして提出する手合いが激増しています。そ れでわかった気になっているものだから、時間をかけて読まなければわからない本を誰も 読まなくなってきているのです。 このような傾向は、きわめて短時間にものごとを裁断する風潮を生み出しています。世の 中の難しいことについて、ある人が一生懸命に時間をかけて考えたその苦労の筋道を追体 験することなく、最後の結果や結論だけ見て、よしとかだめとか簡単に決め付けてしまう。 なぜそうなるか、を飛ばして、同じ平面にいろいろ並べて、どっちが「正しい」か、どれが 「合っているか」しか考えなくなるわけです。そこでは、ある事象が自分に「わかる」か「わ からないか」という根本的な問いが埋没してしまっているのです。 そしてこのような現象は、恐ろしいことに人間関係についても妥当します。みなさんは Facebook や Twitter、あるいは Line といった SNS を通じて他者とつながっているという 実感を持っているのでしょうが、そのつながりはどこまでもバーチャルなそれ、仮想的なそ れであって、とてもではないですが友情と呼べるようなものではありません。多くの場合、 そこでのやりとりは、自分の感性に適合するもの、自分と同じ意見のものに対しては何度も 「いいね」ボタンを押すように、あなたがたはとてもやさしくなるのに、自分がわからない ものに対してはいとも簡単に「これはダメ」と弾いてしまうように見えます。なぜわからな いのかという理由や根拠を考えようとしないで、攻撃し始めるという傾向が目につくので す。ブログの炎上という現象です。 さて、そこでコミュニケーションです。いまの世の中では、誰も彼もが簡単に口にする言 葉になりました。ですが、人間関係はコミュニケーションが大事だといいながら、コミュニ ケーションとは何かという肝心な部分が誤解されているのではないかとも思うのです。す でに出来上がった自分がいて、決まりきった存在としての相手がいて、その間で情報のやり 取りをするのがコミュニケーションだと思っているようなところが見受けられます。非常 に静態的、スタティックに捉えているわけですね。しかし私の考えるコミュニケーションと いうのは、もっと動態的、ダイナミックな活動です。他者とのやり取りを通じて自分も相手 もどんどん変わっていく、そういうプロセスでなければなりません。若い人たちを見ている と、どうもそのあたりが理解されていない。だいたい、20 代やそこらで自分が出来上がる なんてことはほとんどありえないのではないですか。そんなに、とても早い段階で、自分と いうものを固めてしまって、それが自分だと信じ込んで、そこから一歩も動かない。あとは 情報だけをインターネットなどで引っ張り出してくる。そういうことをやっていると、自分 が変わるというチャンスはなくなってしまいます。自分が変わることがなければ、人間的な 成長はありえません。これは断言してもよろしい。 他人とのやり取りのなかで、自分の考え方を相対化する。自分の考え方が劇的に変わった り、別の視点や捉え方に出会って、 「ああ、そういう風な考えもあるのか」と認識を改める など、お互いにいろいろと調整をしながら、あっちにいったり、こっちにきたりして、紆余 曲折を経ながら自分を変えていく。それがコミュニケーションというものにほかなりませ ん。そういうプロセスをすっ飛ばしてしまって、自分と意見の違うやつを全部はなっから切 り捨ててしまう。そんなものはコミュニケーションの名に値しません。もう自分は出来上が っているから、欲しいのは自分を変えるプロセスではなくて、答えだと。いきなり答えを求 める人間がどんどん増えているのではないでしょうか。 情報化社会の弊害とは何か。要するに、自分で考えないでいきなり答えを知ろうとする人 間が際限なく増殖しているところにあるように思うのです。グーグルでもウィキペディア でも、あるいはヤフーでも、わからないことをわかろうとして文献や資料を探したりするの ではなくて、いきなり「何々についてはどっちが正しいんでしょうか」とか、「○○ってど ーゆー意味?」とかを質問して、おかしいとは思わない。誰かがその質問に対して何かを答 えると、質問した人間はもう何も考えないで、いくつも出されてくる「回答」の中から、な んとなく気に入った答えを選んで、それで済ませてしまう。そこからは、 「なぜそうなんだ」 という肝心の問いが欠落してしまっているのです。理由や根拠を問うことなしに、あるいは 回答者が提示する理由や根拠をそのまま鵜呑みにしてしまって、それを信じてしまう。あれ これ答えがずらりと並んでいて、結局は人気投票のような形で自分の答えを選んで、それで おしまい。思考の回路が始まらないまま終わってしまうということです。 コミュニケーションの道具を駆使できるということと、主体的にコミュニケーションを 展開するということとの間には、決定的な距離があります。自分の頭で考えて、自分から働 きかけていくプロセスこそ、主体的に生きているということの意味内容だという点を、新入 生諸君には真剣に考えてもらいたいと思うのです。
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