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主体的に生きるということ
新入生オリエンテーション合宿主題講演
学長 池田明史
前回、新入生の皆さんに向って話したのは入学式の時でした。その際には、
ちょうど始まったばかりの NHK 連続テレビ小説「花子とアン」の主人公で英和
の大先輩にあたる村岡花子さんについて若干言及いたしました。その連続ドラ
マも回を重ねて、昨今では英和(劇中では修和女学校となっていますが)を卒
業して故郷の甲府に戻ったあたりの話が展開しているようです。
テレビドラマのことですから、話を時によって面白おかしく作り上げたり、
あるいは波乱万丈に盛り上げるために新しくエピソードを加えたり、さまざま
な脚色が施されているわけで、当然ですがこれをそのまま実話として受け止め
ることはできません。
しかし、脚本家は多くのフィクションの中に、明らかに実在の人物や状況か
ら抽出した一本の「真実の筋」というべきものを通しているように見えます。
あんなか
あ き こ
それはモデルとなった安中はな(劇中では安東はな)や柳原燁子(劇中では葉
山蓮子)の性格描写とか、友情や家族関係の本質、さらにはそれぞれが困難に
立ち向かう姿勢などにはっきりと表れているように思えるのです。
同じようにそれは、修和女学校として登場するこの東洋英和の教育の内容や
指導の方針といった部分にもあてはまります。事実、村岡花子さんご本人が書
き残したものの中に、それをうかがい知ることができます。引用すると、こう
いう文章です。
「『すべてのものが忘れ去られた後に残る一つのもの、それが教育だ』と
いう言葉がある。人格の感化をさしていうのだろうが、あわただしく、雑事
に追われている主婦の生活の中では、かつての年月に学んだ知識は忘れ果て
たとしても、教師の言行を深く心に刻みつけられ、生活の指導をその中から
得ていることがしばしばある。
『すべてが忘れ去られた後に残る一つのもの』
の場合であろう。」
花子さんが深く心にその言行を刻みつけたその教師とは、劇中ではお仕置き
の場面で’Go to bed!’と言い放つブラックバーン校長として出てくる、東洋英和
第 10 代校長のミス・ブラックモアのことにほかなりません。
これもドラマの中に何度か登場しておりましたが、年少の生徒に対して英語
を教え込む 60 の文章(60 Sentences)を発案したと言われるのもこのブラック
モア先生です。ミッションスクールならではの「聖書を読む」とか「祈りをさ
さげる」といったことを含めて、朝起きてから夜寝るまでの一日の行動が 60 個
の英語の短文で事細かに記されているのがわかります。ただ単に暗記するだけ
ではなく、寄宿舎で生活していた当時の生徒は、この短文通りの生活を規則正
しく行うことで、
「時間を守る」とか「約束を守る」といった、人と人とが一緒
に暮らしたり付き合ったりしていくうえで欠かせない生活態度を身に付けてい
ったことになります。
そのブラックモア校長の卒業式の言葉がいまも残っております。ごく一部分
を引用しますと、次のような内容です。
「今から 15 年、20 年、30 年ののちに、あなたがたが今日のこの時代を
思い返して、なおかつ、あの時分が一番たのしかった、一番幸福だった、と
しんそこから思うようなことが、もしあるとしたならば、私はそれをこの学
校の教育の失敗だといわなければなりません。人生は進歩です。きょうはき
のうよりもよく、あすはきょうよりもすぐれた生活へと、たえず前進してい
くのが真実の生きかたです。若い時代は準備のときであり、その準備の種類
によって次の中年時代、老年時代が作られていきます。最上のものは過去に
あるのではなく、将来にあります。旅路の最後まで希望と理想を持ち続けて
進んで行く者であってください。」
さて、以上に述べてきた、花子女史の時代の東洋英和女学院のあれやこれや
から見えてくるもの、みなさんはそれをいったい何だと考えるでしょうか。ド
ラマの脚本家であれば見出すべき、英和の教育の「真実の筋」をどのように表
現すればよいでしょうか。人によって、見方によって、その答えはさまざまで
ありえるでしょうが、私はそのキーワードは「主体性」ということだと考えて
います。英和は、当時の女生徒・女子学生に、
「主体的に生きる」とはどういう
ことかという指針を示していたのではなかったかと思うのです。まだ女性の社
会進出が認められていなかった時代、女性が自立した個人として生き抜くこと
に夥しい制約が伴った時代に、自分の力で知識を習得し自分の頭で物事を考え、
自分から周囲に働きかけていく。そのことによってある場合には敢然と困難に
立ち向かい、また別の場合には悠然と圧力を受け流す。花子さんであれ、ある
いは彼女の「腹心の友」であった柳原白蓮さんであれ、そのようにして与えら
れた自分の人生を自分で生き抜いて、最後はそれぞれに「なりたい自分」を実
現したといえるのではないでしょうか。
花子さんや白蓮さんをはじめ、かつての東洋英和からはみなさんのロールモ
デル(お手本)として格好の先輩たちが数多く輩出されています。特に英和に
限る必要もないかもしれません。これはと思える先達は、その気になって探索
すれば必ず見つけることができます。そのようなロールモデルを、自分で探し
出して、彼ら彼女らのドラマを見るなり、伝記を読むなりして、
「主体的に生き
る」ことの意味をそれぞれに探求してもらいたいと思います。
しかしながら、その際に大事な点をひとつ指摘しておかなければなりません。
それは、みなさんは情報化社会と呼ばれる現代に生きているということであり
ます。
「あたりまえのことを」と怪訝に思うかもしれないが、PC やタブレット、
スマホ等が氾濫する現代の情報化社会は、花子さんの時代と比べると「主体的
に生きる」ことを、花子さんたちとはまったく違った意味で、著しく難しくし
ていることに注意してもらいたいのです。
先程は、主体性とは自分で知識を習得し自分の頭で物事を考え、自分から周
囲に働きかけていく作業と切り離せないと申し上げました。しかし例えば、そ
こでいう知識とは、人間があちこち走り回ってさまざまな断片的な情報を自力
でかき集めて、取捨選択して、評価して、序列化して組み上げるもの。いわば
個人がプロセス化した情報の体系が知識なのです。現在の社会では自分で走り
回らなくともインターネットを通して収集・選択・評価・序列化までプロセス
されたものが簡単に手に入るようになっています。ネットのウィキペディアの
あり方に典型的に現れているように、情報と知識との区別が極めて曖昧になっ
ているのです。
しかもそこでは、情報であれ知識であれ、結果だけが簡単に目の前に差し出
されるようになっています。そのような「進歩」や「発展」によって、皮肉な
ことに「情報」や「知識」の価値は相対的に下がったと言わなければなりませ
ん。同時に、大学の先生を始めとする知識人の価値も下がったことになるのか
もしれません。昔であれば、そのひとの頭にどれだけの知識が詰め込まれてい
るかに相当の価値があったわけですが、現在は、知識・情報の貯蔵だけならパ
ソコンやスマホといった外部記憶装置に依存できてしまうからです。いま、知
識人(頭のいい人)の価値は、知識それ自体というよりは、それらの記憶装置
を如何にうまく駆使して情報・知識を効率よく出してくることができるかとい
う単純な技術、スキルにかかっているように思われるのです。
しかし、そうした記憶装置にインプットされている情報は、それ自体がもは
や古い情報であって、すでに誰かが得ている情報にすぎません。そうした情報
をプロセス化することなく、そのまま知識としてあたかも自分が思いついたも
のであるかのように思い込んで、それを消費する。それはつまり、知識は創出
されず、演出されるに過ぎなくなっている事態を意味します。否、もはや知識
ではなく、情報、それも他者からの既存の情報に依存しているだけなのだとい
うことでしょう。既存の情報だけで動く社会とは、要するにみなが自分の頭で
ものを考えなくなっている社会にほかならないといえるのではないでしょうか。
人間は、生まれてから自分で言葉を覚え、さまざまな苦労をしながら、いろ
んなことを習得していく存在であるはずです。自分が働きかけることによって
知識やスキルを積み重ねていくことで一人前になっていくわけですね。ところ
が、その過程を「情報化」が簡略化して短絡化してしまったのです。言葉さえ
わかれば、あとは何でもインターネットでわかってしまうという状況ができて
いて、自分の足で歩いたり、自分の頭で考えたりすることがどんどんなくなっ
てしまっている。つまり、人間の思考能力が一方的に低下しつつあるのです。
本を読めといっても、その本のあらすじや感想がたくさんウェブに載っていて、
それを見たら読んだ気になってしまう。そんな手軽な情報だけを得て、それで
わかった気になってしまっているから、時間をかけて読まなければわからない
本を誰も読まなくなってきているのです。
ジャッジ
このような傾向は、きわめて短時間にものごとを裁断する風潮を生み出して
います。世の中のいろいろな難しいことについて、ある人が一生懸命に時間を
かけて考えたその苦労の筋道を追体験することなく、最後の結果や結論だけ見
て、よしとかだめとか簡単に決め付けてしまう。なぜそうなるか、を飛ばして、
平板にいろいろ答えと称するものを並べて、どっちが「正しい」か、どれが「適
合しているか」しか考えなくなるわけです。
そしてそのことは、恐ろしいことに、人間関係についても妥当します。あな
たがたは Facebook や Twitter、あるいは Line といった SNS を通じて他者とつ
ながっているという実感を持っているのかもしれませんが、そのつながりはと
てもではないが友情と呼べるようなものではありません。多くの場合、そこで
あなたがたは、自分の理解できるもの、自分と同じ意見のものに対しては何度
も「いいね」ボタンを押すように、とてもやさしくなるのに、自分がわからな
いものに対してはいとも簡単に「これはダメ」と弾いてしまうように見えます。
理由や根拠を考えようとしないで、攻撃し始めるという傾向が目につくのです。
いわゆるブログの「炎上」というやつです。
そのような人間関係は、結局は身内か敵かという区別でしかありません。
「花
子とアン」のドラマに出てくるような友情、例えば花子さんと白蓮さんという、
主体性を持った人間同士の、
「腹心の友」などという友情は成り立ちようがあり
ません。かつてある有名な女性政治家が、自分の周りの人間は「家族」か「敵」
か「使用人」の三種類しかいないと言い放っていたと伝えられましたが、その
ような人間には主体性の欠片もないというほかないでしょう。
いまの世の中では、ともすればコミュニケーションということが強調されが
ちです。ですが、人間関係はコミュニケーションが大事だといいながら、コミ
ュニケーションとは何かという肝心な部分が誤解されているのではないかとも
思うのです。すでに出来上がった自分がいて、決まりきった存在としての相手
がいて、その間で情報のやり取りをするのがコミュニケーションだと思ってい
るようなところが見受けられます。非常に静態的、スタティックに捉えている
わけですね。しかし私の考えるコミュニケーションというのは、もっと動態的、
ダイナミックな活動です。他者とのやり取りを通じて自分も相手もどんどん変
わっていく、そういうプロセスでなければなりません。だいたい、あなたがた
の年代で自分が出来上がるなんてことはほとんどありえないのではないですか。
そんなに、とても早い段階で、自分というものを固めてしまって、それが自分
だと信じ込んで、そこから一歩も動かない。あとは情報だけをインターネット
などで引っ張り出してくる。そういうことをやっていると、自分が変わるとい
うチャンスはなくなってしまいます。自分が変わることがなければ、人間的な
成長はありえません。これは断言してもよろしい。
他人とのやり取りの仲で、自分の考え方を相対化する。自分の考え方が劇的
に変わったり、別の視点や捉え方に出会って、
「ああ、そういう風な考えもある
のか」と認識を改めるなど、お互いにいろいろと調整をしながら、あっちにい
ったり、こっちにきたりして、紆余曲折を経ながら自分を変えていく。それが
コミュニケーションというものにほかなりません。そういうプロセスをすっ飛
ばしてしまって、自分と意見の違うやつを全部はなっから切り捨ててしまう。
そんなものはコミュニケーションの名に値しません。もう自分は出来上がって
いるから、欲しいのは自分を変えるプロセスではなくて、答えだと。いきなり
答えを求める人間がどんどん増えているのではないでしょうか。
情報化社会の弊害とは何か。要するに、自分で考えないでいきなり答えを知
ろうとする人間が際限なく増殖しているところにあるように思うのです。グー
グルでもウィキペディアでも、あるいはヤフーでも、わからないことをわかろ
うとして文献や資料を探したりするのではなくて、いきなり「何々については
どっちが正しいんでしょうか」とか、
「○○ってどういう意味?」とかを質問し
て、おかしいとは思わない。誰かがその質問に対して何かを答えると、質問し
た人間はもう何も考えないで、いくつも出されてくる「回答」の中から、なん
となく気に入った答えを選んで、それで済ませてしまう。そこからは、
「なぜそ
うなんだ」という肝心の問いが欠落してしまっているのです。理由や根拠を問
うことなしに、あるいは回答者が提示する理由や根拠をそのまま鵜呑みにして
しまって、それを信じてしまう。あれこれ答えがずらりと並んでいて、結局は
人気投票のような形で自分の答えを選んで、それでおしまい。思考の回路が始
まらないまま終わってしまうということです。
繰り返しになりますが、みなさんに考えてもらいたいことは、自分の頭で考
えて、自分から働きかけていくプロセスこそ、主体的に生きているということ
の意味内容だという点です。いま大学生活が始まったみなさんにとって、それ
は具体的にどのような行動につながるのでしょうか。それをそれぞれに自分の
頭で考えて、自分の身体で実践してもらわなければなりません。主体的に学生
生活に取り組んでもらいたい。私からは最後に、そのためのヒントをいくつか
差し上げて、この講演を締めくくりたいと思います。
第一に、あるものを使うということです。この大学には何があるのか、誰が
いるのか。施設であれ、データであれ、教員であれ、職員であれ、あるいは友
人であれ、何があって誰がいるのかがわからなければ、ものごとを考えたり働
きかけたりできません。あるものを探し出して、それを活用するということ。
第二には、ないものは創るということでしょう。何があるかがわかるという
ことは、裏を返せばこの学校にないものがわかるということです。ないものの
うち、逆立ちしても創れそうにないものと、ちょっと考えたり働きかけたりす
れば新しく創り出せそうなものとを区別して、新たな人間関係であれ、課外活
動であれ、これならできるのではないかというものは自分から働きかけて創り
出していく。それこそまさに、主体的に生きることのアルファであり、オメガ
であるのです。これから四年間のみなさんの学生生活が、主体性に貫かれたも
のとなるよう心より祈ります。
2014年5月23日
新入生オリエンテーション合宿主題講演