2014年度部落史連続講座講演録 (PDFファイル 19.8MB)

 京都部落問題研究資料センターは、前身の京都部落史研究所が部落史編纂のために収集した図書・資料を
生かしながら、部落問題・部落史についての情報発信を主な業務とするセンターとして二〇〇〇年七月に発
足しました。
部落史連続講座は、一九九五年に完結した『京都の部落史』(全十巻、京都部落史研究所刊)の成果を広
く生かしていくことを目的として二〇〇二年度から開催しています。
この講演録は、二〇一四年に京都府部落解放センターで開催しました部落史連続講座の講演記録をもとに各
講師に加筆訂正していただいたものです。尚、第2回の左右田昌幸さんの講演録につきましては、書き下ろ
していただきました。講演の行われた月日とテーマは次のとおりです。尚、所属は講演当時のものです。
5月 日 描かれた河原者のくらし ―絵画史料に見る四条河原の風景―
日本中世史研究者 下坂 守
6月6日 近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝
種智院大学教授 左右田昌幸
6月 日 近世都市の芸能興行と差別 佛教大学准教授 斉藤 利彦
30
月 日 山室軍平と京都 ―同志社時代を中心に―
関西学院大学教授 室田 保夫
20
月
日 石井十次と京都・大阪 龍谷大学非常勤講師 田中 和男
13
28
21
日 近代京都の施薬院 京都府立医科大学准教授 八木 聖弥
11
月
1
11
11
目 次
描かれた河原者のくらし ‥
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 下坂 守 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 室田 保夫 山室軍平と京都 ― 同志社時代を中心に ― ‥‥
斉藤 利彦 近世都市の芸能興行と差別 ‥
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝 ‥
‥‥ 左右田昌幸 45
23
田中 和男 石井十次と京都・大阪 ‥
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
73
―絵画史料に見る四条河原の風景 ―
近代京都の施薬院 ‥
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 八木 聖弥 89
3
109
2
描かれた河原者のくらし
― 絵画史料に見る四条河原の風景 ―
下 坂 守
3
条の橋で、五条の橋(現在の松原橋)は清水寺に行くため
何もなかったと思ってください。畑や田圃があっただけで
はじめに
近年、鴨川の風景を描いた絵画史料で新しいものが出て
まいりました。中世に河原者といわれた人たちがどういう
す。かろうじて道沿いに家が若干あっただけで、ほとんど
京極大路
このあたりを描いたもっとも古い絵画の一つに『一遍
上人絵伝』があります。一二九九年、鎌倉時代の末に作
Ⅰ 「四条道場前」の「河原者家」
の橋でした。現在はこのあたりは観光地ですが、中世には
生活をしていたかを、それらの絵画史料から追ってみたい
人は住んでいませんでした。
すうしん
と思います。
親
平安京の地図をみますと、四条河原町のすぐ南側に崇
いん
院という建物があります。その崇親院は平安京の中になり
ますが、そのすぐ外に出たところ、鴨川と平安京の間に空
地があります。そこは河原なのですが、そのあたりの風景
を見ていきたいと思います。応仁の乱後、京都の町はたい
へん小さくなってしまいます。東は万里小路のあたりまで
しか町がありませんでした。そこから東は畑か田圃でし
た。ほとんど麦畑だったと思われます。戦国時代の京都は
このような様子でした。
これからお話するのは、現在の地図でいいますと、四条
河原町にある高島屋のあたりになります。東京極大路、現
在の寺町通までが平安京になりますので平安京の外側、洛
外です。河原町というのは、河原があった所ということで
すから、住むには大変条件の悪いところです。
かつては、祇園社、現在の八坂神社に行くための橋が四
一遍上人絵伝 東京国立博物館所蔵
4
描かれた河原者のくらし
た。川を渡ったところに、四条
こんれん じ
道場というお寺がありました。
後に金蓮寺と称します。これか
ら何度も出てくるお寺です。そ
こをさらに東に行くと鴨川にで
ます。四条橋がかかっていま
す。その手前に大きな鳥居があ
りました。この時代にここに鳥
居があったことがわかるのはこ
の絵だけですので非常に貴重で
流れています。
その東側に川が
通)が描かれ、
路(現在の寺町
すと、京極大
す。それを見ま
られた絵巻物で
す。そして動物の皮を干している様子が描かれています。
あって家の屋根が描かれています。板葺と茅葺の屋根で
く境になっていたということです。河原の中洲に竹藪が
条の橋も「清水寺橋」といいました。鴨川は神社や寺にい
社のものです。「祇園橋」ともいいました。同じように五
ここから先が祇園社だったということです。当然橋も祇園
た。これは、祇園社に入るための鳥居です。ということは
りませんが、鎌倉時代にはすでにここに鳥居がありまし
す。いつからあったのかはわか
この川は江戸時代の絵画や絵図にしばしば描かれていま
ちょうど同じころの四条河原を描いた絵がもう一つあり
一遍上人絵伝 東京国立博物館所蔵
す。平安京を出るにはこの川を渡らねばなりませんでし
5
一遍上人絵伝 東京国立博物館所蔵
あります。天狗が中国からやってきて、日本で悪いことを
うものです。これには説明文がついています。史料の1に
の家なのですが、その家の中に臼のような道具がみえま
上人絵伝』にはなかったものが描かれています。多分穢多
景を描いていると解釈できます。ただ、この絵には『一遍
すので、先ほどの同時代の『一遍上人絵伝』とほぼ同じ風
いっぱいしていました。ある天狗が肉食をするために四
す。『天狗草紙絵巻』の異本である『魔仏一如絵詞』にも
ます。それが『天狗草紙絵巻』(一二九三~九九年)とい
条河原に行ったのです
同じ場面が描かれています。これは、この後説明する「挼
もみ
が、そこに穢多が肉に
藍の舩」という道具になると思います。
れたものです。3の『洛中洛外図(歴博乙本)』は、今か
館が持っているもので模本です。江戸時代になって模写さ
のです。2の『洛中洛外図(東博模本)』は東京国立博物
民俗博物館の所蔵です。そのほかは全て一六世紀半ばのも
言われていたもので、一四世紀半ばのものです。国立歴史
の『洛中洛外図(歴博甲本)』、これはかつて町田家本と
ジュメのⅡの表1に九つの洛中洛外図をあげています。1
ます。それは洛中洛外図がつくられたことによります。レ
ばになりますと、一気に四条河原の絵がたくさんでてき
これらの絵が描かれて以降、しばらく四条河原の様子
は描かれなくなります。それが戦国時代、一六世紀の半
Ⅱ 「洛中洛外図」等に見る「四条河原」
あい
針をさしたものがあり
それを握ってしまいま
す。それを捨てようと
したのですが取れない
まま、穢多の子どもに
つかまって首をねじ切
られてしまったという
話です。四条河原に穢
多と呼ばれる人々が住
んでいたことがこの絵
によってわかります。
この絵にも動物の皮ら
しきものを干している
ところが描かれていま
天狗草紙絵巻 伝三井寺巻 個人所蔵
6
描かれた河原者のくらし
いてアルバムにしたもので、奈良県立美術館所蔵です。こ
です。5の『洛中洛外図帖』は洛中洛外図を場面ごとに描
4の『洛中洛外図(上杉本)』は有名な上杉家伝来のもの
ら二〇年ほど前に見つかったもので歴博乙本といいます。
の『祇園社大政所絵図』は、祇園祭でお神輿は必ずでます
リー美術館所蔵です。そこにも四条河原が出てきます。9
王・祇園祭礼図屏風』は祇園の祭礼を描いた絵で、サント
た 珍 し い 絵 で 、 太 田 記 念 美 術 館 所 蔵 で す 。8 の 『 日 吉 山
た絵図です。7の『洛外名所図』は洛外の名所だけを描い
7
こまでの1から5は洛中洛外を描いたものです。6の『東
洛中洛外図帖 奈良県立美術館所蔵
が、中世までは大政所というところにお神輿は二基必ず移
洛中洛外図屏風(歴博甲本)国立歴史民俗博物館所蔵
山名所図』は一〇年くらい前にでてきた、東山だけを描い
洛中洛外図屏風(東博模本)東京国立博物館所蔵
東山名所図屏風 国立歴史民俗博物館所蔵
に行こうとしているところです。冠者殿社という社があり
をみてみます。鳥居、金蓮寺、神輿が鴨川を渡って御旅所
輿が三基、橋を渡っている様子が描かれています。尚、神
んが竹藪があり茅葺の家が見えます。『歴博乙本』には神
まず『歴博甲本』です。八坂神社から橋を渡って神輿が
京都に入ろうとする場面です。ここにも、垣根はありませ
かんじゃでんしゃ
ます。その隣に大きなエノキがあります。その横に茅葺の
輿は四条橋を渡れません。必ず仮橋を架けてそこを通りま
の絵図がどう描いているかを見ていきます。
す。その竹藪の外に垣根があります。こういったものを他
洛外名所図屏風 太田記念美術館所蔵
屋根が見えます。その家を囲むように竹藪が描かれていま
これらの絵から四条河原がどのように描かれているのか
をみていきます。最初に『東博模本』に描かれた四条河原
動していました。その大政所の風景を描いたものです。
上杉本洛中洛外図屏風 米沢市上杉博物館所蔵
8
描かれた河原者のくらし
れているということです。
かることは、橋のすぐ西側、四条の南側に集落が必ず描か
ます。『洛中洛外図帖』でも家が見えます。これらからわ
殿社、そして霞で隠していますが集落があることがわかり
部が見えています。上杉本でも、四条道場、エノキ、冠者
す。四条道場、鳥居、エノキ、冠者殿社、そして屋根の一
エノキがありますので、同じところを描いているといえま
す。最後に『祇園社大政所絵図』です。ここでも大鳥居と
す。この位置関係はこれまで見てきた絵画ではみな同じで
エノキが描かれ、藪や木で囲まれた板葺の屋根がみえま
山王・祇園祭礼図屏風』でも四条道場、鳥居、冠者殿社、
集落を南側から描いています。祇園の祭礼を描いた『日吉
所図』です。鳥居、四条道場が同じようにあって、やはり
一六世紀の半ばには存在したと解釈しても問題がないと
が共通して描かれているということは、これらの風景が
表1 はそれぞれの絵図で描かれている大鳥居や四条道
場などの場面の有無を表にしたものです。こういう風景
んとその日に行われないこともしばしばありましたが。
に描いているのです。日付は旧暦の六月七日です。ちゃ
京都に入ってくる姿を全ての洛中洛外図は全く同じよう
重要であったかを示していると思います。無事に神輿が
洛中洛外図には、神輿が京都に入ってくる場面が描か
れています。いかに京都の人々にとって祇園社の祭りが
す。
また、これまでの絵画ではその集落の中は見えなかった
のですが、その中が見
えている絵画がありま
す。『洛外名所図』で
は、洛外の名所を描い
た関係で、南の方から
四条河原を描いていま
す。藪で囲まれていた
生活がこの絵画には描
かれているのです。鳥
居、四条道場、冠者殿
社、エノキも描かれて
思います。なお、エノキと冠者殿社はこの場所に明治ま
で存在します。明治四五年(一九一二)に四条通が拡張
9
います。
もう一つは『東山名
日吉山王祗園祭礼図屏風 サントリー美術館所蔵
されることになって他所に移されます。さらに言えば、寺
町通りの東側に川があって、この川を渡れば冠者殿社、エ
ノキが何百年もあったということです。そして、このエノ
キと冠者殿社の南東側に竹藪で囲まれた集落がある時期ま
であったということです。この藪の中の集落の様子がわか
るのが先ほどの『洛外名所図』と『東山名所図』の二つの
絵図です。問題はここでの生活をどのように描いているか
ということです。河原町通りのすぐ西に豊臣秀吉はお土居
をつくります。天正一九年(一五九一)のことです。京都
の町をぐるりととりまいて、四条通をシャットアウトして
そしてその後、近現代になってここに高島屋ができます。
と、「大雲院」というお寺になっています。いつここに大
所は、寛永一四年(一六三七年)の『洛中絵図』になる
一六世紀半ばの絵画ではその南東に藪で囲まれた集落が
あったことになります。かなり正確にわかります。その場
た。
ようになりました。四条道場はずっと同じ場所にありまし
なってしまいます。それを徳川家康の時代に開いて現在の
る風景が描かれます。女性が作業をしているように見えま
屋」です。そこで改めてみると、藍で染めた布を干してい
す。「四てうのあおや」とあります。つまり「四条の青
かってきます。手がかりは絵の中に書かれている説明文で
では、大雲院が移ってくるまでにあった集落の中の様子
についてです。『洛外名所図』と『東山名所図』の二点の
Ⅲ 「四てうのあおや」の風景
しまいます。四条通りはお土居で一時期、突き当たりに
雲院が来たかといいますと、秀吉がお土居を作ったときに
す。しゃがんで桶で染物をしたり、井戸から水を汲んでい
史料を分析していけば、個々の生活の様子がある程度わ
ここにあった集落を他に移して造ったといわれています。
『洛中絵図』より
10
描かれた河原者のくらし
きません。
れている人物です。女性と子どもです。男性は一人もでて
ようなところで作業をしています。あと共通するのは描か
ます。そして注目すべきは、どちらも石を敷いたり積んだ
発酵で染色可能な時季は夏期三か月に限定される」と解説
す。江戸時代の紺屋を描いた資料には、「気温による自然
ものをいれて染めるのが紺屋とか紺掻といわれる職業で
どに描かれていて、大きな壺の中に藍の原液、発酵させた
東山名所図屏風 国立歴史民俗博物館所蔵
されています。重要な点です。この時代は紺掻は夏にしか
やっていないようです。非常に難しい作業で、植物の藍を
採集して葉を発酵させ、発酵
させたものを灰などで化学反
あいだて
応をおこさせてようやく染め
ることができます。藍建とい
います。気温の調整がむつか
しく、それによって染色の具
合も変わってくるようです。
夏期しかできなかったという
のは、この時代は保温のため
の施設がなかったので夏期に
限定されたのだと思います。
様々な図では女性の仕事とし
て描かれています。紺屋とい
うのは女性の仕事だったこと
11
では、染物はどういう風にして行われるのかについて触
れます。藍染は紺屋がやります。『七十一番職人歌合』な
洛外名所図屏風 太田記念美術館所蔵
がわかります。藍壺などを利用しています。
す。中国では首都の周辺のことを雍州というそうです。日
本でいうと山城国ですので山城国の地誌ということです。
しては、穢多の仕事といわれていました。どうして区別さ
古くから青屋と紺屋は違うといわれてきました。青屋に関
う染物屋が青屋で、壺を使うほうが紺屋だと思われます。
いえます。「四条の青屋」と説明がありましたが、桶を使
の集落の絵は夏に桶で染物をしている様子を描いていると
が、桶のほうは夏期限定ということで続いたようです。こ
と炭火などで温度を調整することができるようになります
め方が違うようです。紺屋の壺のほうは、江戸時代になる
す。調べたところ藍染めは桶でもできるようです。ただ染
女性がおこなっているということは共通します。違うと
ころは藍壺が出てこないということです。ここでは桶で
歌合』などの図像と比較してみましょう。
では、『洛外名所図』と『東山名所図』に見えるこの集
落での作業の様子を、紺屋として描かれた『七十一番職人
ら一疋につき月十文の銭をもらえるだろう」とあります。
また、「小笠原殿の前にでてきて蹲踞すれば、小笠原殿か
に色をつけて勝手なことをやっている」ということです。
端で色を付けた禅である。穢多の家で染物をするように禅
「穢多の家には挼藍の舩がある。それを使って染める。異
しい者だと罵倒しています。その中の文章(詩)です。
が兄弟子を、河原者や非人を引き合いにだして、それに等
史料 の『自戒集』という史料からは、中世から青屋が
藍染を間違いなくやっていたことがわかります。一休宗純
によってではないかと思います。
屋は違うということが具体的にわかったのはこの絵画史料
た処刑に立ち会う仕事をやっていた」ということが書かれ
染物屋の通称である。青屋は穢多が役として課せられてい
黒川道祐という学者が書いています。「藍汁をもって衣服
れたのかについてはこれまでわかりませんでしたが、この
これは犬の値段です。小笠原殿というのは室町幕府につか
17
もみあい
ふね
いぬおうもの
ています。この史料は江戸の初めのものですが、青屋と紺
を染めるものを青屋又は藍屋といった。しかし今は紺屋が
絵画史料によって明らかになったのではないでしょうか。
えていた武士で有職故実の家でもあり、犬追物という犬を
Ⅳ 青屋と紺屋
をごらんください。『雍州府志』という史料で
史料
15
12
描かれた河原者のくらし
わかりませんでした。特に青屋に関しては、女性がやって
なかなか彼らがどういうことをもって生活の糧としたかは
と思いますが染物をやっていたということがわかります。
間違いなく穢多や河原者といわれた人たちは、特に女性だ
います。一休宗純は室町時代の人ですので、かの時代から
部分は穢多の男性のやっていた仕事を表しているのだと思
半の部分は穢多の女性のやっていた仕事を、また、後半の
処理するのに使う道具だと思います。この一休の文章の前
ことをいいます。ここでの挼藍の舩というのは、藍の葉を
藍というのは、藍の葉を乾かし砕いて製した藍色の染料の
すので、この部分は河原者を念頭に書いているのです。挼
原者の仕事です。確かに一匹十文で捕まえていました。で
がたくさんいるのですが、その野犬を捕まえてくるのは河
つかった儀式をも担当していました。犬追物のときには犬
場の前、河原者の宿所」とあります。四条道場の前の河原
苑日録」といって相国寺の鹿
もう一つは、史料4の「鹿
苑院というところのお坊さんが書いたものです。「四条道
高いといえます。
ほどから見てきた竹藪で囲まれた集落が焼かれた可能性が
が焼けたということがわかります。その場所から見て、先
す。ここでは、四条道場の前で喧嘩がおこり、河原者の家
所の駕籠かきがかついで祇園社に返した」ということで
しまった。駕与丁が神輿を捨ててしまったので、幕府の侍
原者の家などに放火してしまい、たちまちのうちに焼けて
た」。駕与丁というのは神輿をかく人です。「駕与丁が河
るときに、四条道場の前で駕与丁と河原者の喧嘩があっ
所でおこったことを書いています。「神輿がお帰りにな
起こった出来事です。お神輿が祇園社に帰る際に、その場
記」を紹介します。史料3です。宝徳三年の六月一四日に
き
いたとか、どういう形でやっていたかはこれまでわからな
者の家ということです。子どもと牛や馬が焼けたというこ
後にこの河原者の集落は「あまべ」とよばれるようにな
あったということを示しています。あの絵に描かれていた
ろくおんにちろく
ちょう
かったのですが、先ほどの絵画史料などとあわせてみると
とです。これは明らかに、四条道場の前に河原者の家が
よ
かなり具体的にわかるのではないかと思います。
集落は河原者の家と断定していいと思います。
が
四条道場の前に河原者の家があったということを絵画史
料で確認してきましたが、文献的な史料はそれほどありま
もろ さと
せん。その中で中原師郷という公家の日記である「師郷
13
ですが、それがなくなるのが史料9、 にある事件です。
の史料からも、古くはあの場所こそが旧の「あまべ」の領
た、といっています。大雲院側の史料からも「あまべ」側
移ったことについて、大雲院の場所は自分たちの土地だっ
べ」の人達が江戸時代になって自分たちが三条鴨川東に
そのことは三条の鴨川東に移転した「あまべ」に残る文
書からもわかります。史料8の『余部文書』です。「あま
作られた天正一九年(一五九一)のことでしょう。
してきたことがわかります。御土居とそれに沿った寺町が
という集落があってそこに秀吉の時代にこれらの寺が移転
中絵図』にでてくるお寺です。四条道場の前に「あまべ」
て結構です」ということです。これらの寺は先ほどの『洛
長寺に関してはこれから永久に大雲院の勝手にしてもらっ
た文書です。あまべの敷地のうち、「浄教寺、透玄寺、春
都の代官をやっていた前田玄以という人が、大雲院に出し
がわかります。史料7です。天正一九年に秀吉のもとで京
「あまべ」が秀吉によって三条の鴨川の東に移されたこと
ありません。四条通りは鴨川を渡れなくなります。このた
四条の方はどうしたかというと、それまでなかった三条
に橋を架けます。三条大橋は秀吉が架けたもので中世には
れが現在の五条橋です。
じて、その南の六條坊門に新たに橋を架けたわけです。そ
元々の五条通りは現在の松原通りですから、そこの橋を閉
通りと五条通りはお土居でシャットアウトされます。「六
史料 は祇園社に残る史料です。天正一九年に秀吉はお
土居を作ってその内側に寺町を作ります。その結果、四条
いくことになります。
なくなってしまいます。その結果、東側が歓楽地になって
では鳥居から東側が祇園社でした。鳥居がなくなると境が
で、これ以降の絵画には一切描かれなくなります。それま
てが流されてしまいます。この時に鳥居がなくなりますの
都を襲った洪水の中で最初にして最後の大洪水です。すべ
天文一三年(一五四四)に大洪水が起こります。これは京
るのですが、それは史料5、6からもわかります。その
域であったことが確認できるわけです。
ばなくなりました。秀吉の時代には、この辺りではたいへ
10
鴨川の西側にあった祇園社の鳥居は、鎌倉時代の末、
『一遍上人絵伝』の時代からずっとこの場所にあったわけ
め祇園会では神輿は三条まで大回りして鴨川を渡らなけれ
條坊門ニ大橋」とありますが、これは現在の五条橋です。
12
14
描かれた河原者のくらし
んな変化が起こっていたということです。
がるようなものではなかったようです。
したのだと思います。禁止するということはやっていた人
がいたということですから、藍そのものは特に差別につな
ただ、秀吉が亡くなると、人びとは四条通りを開くこと
を家康に願い出て、慶長七年(一六〇二)、関ヶ原の合戦
また、史料 からは、藍を発酵させる「寝藍」を「九条
座」というところが独占的に作っていたことがわかりま
の二年後に徳川家康によって四条通りは再び開かれていま
す。神輿も通ることができるようなったということです。
人々が商売としてやっていたということだと思います。
でわかります。藍で染めたものでも、紺屋が
藍について少し触れます。京都は南にいくほど湿潤な土
地になります。九条あたりが藍の栽培が盛んな土地だった
ことが史料
染めた藍と青屋が染めた藍は違っていたようです。史料
す。この九条座は河原者とは多分関係ありません。一般の
紺 屋 と 青 屋 の 違いは 江 戸 時 代 も ずっと 続 き ま す 。史 料
は、享 保 六 年(一七二一)、江戸 時 代になってからあ ま
ということです。この場合の「公事」とは訴訟のことで
士たちが争って死ぬのですが、争った原因が「藍の公事」
の『蔭凉軒日録』によると、一四九〇年に事件がおこり武
かうのは青屋がすることであってそれを紺屋がやっている
並みの役をするように」と幕府に願い出ます。「藍壺をつ
んあって藍壺をつかって藍染めをしている。ですから青屋
べ村から幕府に願い出た文書です。「町中に紺屋がたくさ
りょうけんにちろく
す。藍というのは大変高価なもので、特に河原者が作った
から、青屋と同じように役を務めてほしい」ということで
壺をつかっているということです。桶と壺、これがどう違う
藍は高値で売り買いされたのではないかと思います。それ
いうことです。
のか、同じなのかはよくわかりません。ただ、享保六年の
境内では作ってはならないという文書です。藍は発酵させ
の役をこの時代でもやっていたということがわかります。
河原者たちがやっていた断罪や牢屋敷の外番といった刑吏
時点でも紺屋と青屋は区別されていて、青屋は中世以降、
その一方、藍の加工には一般の人も携わっていたこと
が、史料 の『東寺百合文書』からわかります。藍は寺の
す。先ほど、青屋は桶で染めるといったのですが、ここでは
いん
20
をめぐって訴訟があり、その結果、刃傷沙汰が起こったと
21
るときにアンモニア臭がします。それで寺ではこれを禁止
15
18
16
19
に崇親院という建物がありました。これは、藤原氏の子女
で家がない人たちのための施設でした。崇親院は収容した
にあるように、四条大
人たちを養うために領地をもっていました。それを表した
のが第1図です。その位置は史料
染め方の違いについては、史料 からわかります。「葉
藍」は藍染職が用い、「藍玉」は紺屋職が用いるとありま
地だったことがわかります。すなわち『一遍上人絵伝』に
で、先ほどの河原者の土地は、かつてはやはり崇親院の領
この文書です。敷地の範囲がはっきりと書かれているの
す。「葉藍」で染める藍染めの職と、発酵した「藍玉」で
描かれた鎌倉時代から四〇〇年くらい前は、この場所は藤
ことがわかります。とすると、ここでも女性と子どもがで
むすび
これまでは四条の河原のどこに河原者が住んでいたのか
がわからなかったのですが、「洛中洛外図」などいろいろ
いうことは、何らかの関係があったと思われます。
てきます。このことと、そこが河原者の住まいになったと
四条道場の前に河原者の住まいがあってそこで女性たち
が青屋の仕事をしていたことがこれまで見てきたように絵
な史料を重ねてみることによって彼らが住んでいた場所が
画史料などからわかるのですが、史料
24
に、貞観元年(八五九)、この場所を少し西にいった場所
具体的にわかるようになりました。この「あまべ」とも呼
にありますよう
です。
染める紺屋があきらかにちがう職種であったことがわかり
期耕作が禁止されます。その禁止の取り消しを求めたのが
同じです。この領域は洪水の原因となるという理由で一時
これはまさしく、先ほどの河原者の住まいのあった領域と
路南、六条坊門小路北、鴨川の堤西、京極大路東でした。
25
原氏の生活に困った女性や子どもたちのための領地だった
石井正敬「崇親院に関する
二・三の問題点」より
ます。青屋はあくまでも発酵させない葉藍で染めていたの
22
16
描かれた河原者のくらし
垣根をめぐらすという環境におかれたということがわかり
たと思います。集落の在り方も、藪に囲まれ、さらに外に
引っ越してしまうわけですが、その当初の姿が良くわかっ
ていきたいと思っています。
ていくという経過があります。それらについても今後考え
ものになっていく、その中で祇園社の境内が歓楽街になっ
さらには、江戸時代に入り、お土居の東側が開発されて
いきますが、高瀬川ができ、町ができ、鴨川の堤が強固な
ばれた河原者の集落は秀吉の時代になると、鴨川の東に
ました。移転後の天部村も竹藪に囲まれている様子が近世
の絵画史料に描かれています。
また、四条河原の河原者の集落では女性たちが働いてい
たということがわかったことは大きな発見でした。河原者
というとどうしても男性を想像しがちだったのですが、青
屋を営む女性たちの姿が初めて確認できました。
さらには、青屋が紺屋とどう違っていたのかということ
は、以前から議論があったのですが、絵画史料から両者が
全く違うものであったこともわかりました。
その一方、いまだよくわからないこともたくさん出てき
ました。たとえば、『東山名所図』『洛外名所図』が描く
河原者の女性が働く場所には、絵には石がたくさん敷かれ
ています。これは何のための石か。また、この場所には、
女性と子供しか描かれていません。なぜ男性は描かれな
かったのか。いろいろなことが、疑問として残っていま
す。
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-1-
18
描かれた河原者のくらし
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描かれた河原者のくらし
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近世真宗教団における
被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝
左右田昌幸
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架空講演録「近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・
門徒の本山参拝」
究上の意義は?」というような形式張った問題意識はほと
んどふくんでいません。いたって単純・素朴な疑問から出
の時代以来の研究成果に勉強させてもらってきたことに対
たとき、本音は断りたかったのですが、京都部落史研究所
避けてきました。今回も、依頼の電話を研究室にいただい
ことに対して苦手意識が強く、講演や口頭発表などは極力
実は、このような架空講演録を執筆するのは三度目で
す。教師を生業にしておりながら、大勢の人前で話をする
まったくあらたに執筆した文章です。
ん。もちろん当日の話の流れに添っているつもりですが、
講演録なのですが、テープを起こしたものではありませ
が史料紹介もしてきました。この作業は、さまざま状況が
古記録から関係史料を抽出する作業を続け、少しずつです
ける被差別寺院の研究をテーマにして以来、この古文書・
や古文書が十万点ほど保管されています。近世の真宗にお
は、近世の本願寺の内部で筆録された日次記などの古記録
ら数えると三十年以上の関わりになります。この研究所に
学には所属していません。所属はあくまで宗派です)して
(場所は龍谷大学の大宮学舎の図書館地階ですが、龍谷大
筆者は現在、真言宗の大学で教員をしていますが、勉強
の拠点は本願寺史料研究所という浄土真宗本願寺派が設立
発しています。素朴な疑問の由来を説明しておきます。
して、一度だけはお返しをという気持ちで引き受けてしま
許す限りこれからも継続するつもりです。
本稿の建前は、二〇一四年六月六日(金曜日)に筆者が
京都部落問題研究資料センターで標記の講題にて話をした
いました。結果は、公開講座というより、筆者にとっては
いと思います。
さて、本題に入ります。当日に頂戴したご質問の内容
も、可能な限り組み込んで、架空の講演録を仕立ててみた
日次記などは、両方で二百五十箱・二千三百二十四冊にお
ぎ込んだ「留役所諸日記」と「日次之記」と仮に題された
数年にわたって展開することにほとんどのエネルギーを注
ひ な み き
いる施設においています。大学院生のときのアルバイトか
「後悔講座」と書く方が相応しいという気分です。
研究所の史料群は目録が未完成で、できている部分の目
録も残念ながら公開されていません。さらに、筆者がここ
今回のテーマは、表題に提示した通りなのですが、「研
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近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝
外、不向きであろうということです。しかし、反対にこれ
比較して、それらのテーマを追いかけるのには、思いの
管されている史料群は、在地で発掘されるであろう史料と
ことは間違いありません。ところが本願寺史料研究所に保
が、被差別寺院史の研究上で決定的に重要なテーマである
院の成立、さらに非常に偏った本末関係の形成などの問題
この作業の中で徐々に感じてきたことに、次のことがあ
ります。被差別身分の人びとの真宗信仰の受容や被差別寺
ことがあります。
力が散漫にもなるのですが、時に思わぬ記事に遭遇できる
関係記事に遭遇できないときもあります。眠くもなり注意
い上がるのですが、そんな作業を一日続けても、ほとんど
なった日次記は、一丁展開するごとにホコリと虫の糞が舞
やるしかないかと思うようになりました。湿気で板状に
があったわけではないのですが、この地味な作業は自分で
部の研究者には不可能だろうと思います。特別な切っ掛け
一丁展開し、関係記事を抽出するという作業は、およそ外
窺っているのですが巡ってきません)。これなどは、一丁
読入力は終わっています。しかし一挙に紹介する機会を
よびます(一応すべて展開し、被差別寺院関係の記事の解
では「河原者」と表記することが多いという印象を持って
徒を、さまざまに呼称しますが、寺務処理マニュアルの中
理マニュアルです。本願寺の中では被差別寺院の僧侶や門
記」とは、近世後期の本願寺における寺務担当者の寺務処
ジュメの最初に提示した記録の内容です。「諸事心得之
になります。この点について、以前から頭にあったのはレ
講座の題を、より素朴に言い換えると、被差別寺院の僧
侶や門徒は、本山本願寺のどこまで入れたのかということ
ください。
「者・而・江」なども小さくしてありませんので、ご注意
ので「A」と入力してあります。また、ひらがな読みする
が合字されている箇所です。ワープロで表記できなかった
これからレジュメの史料の読み込みに入りますが、史料
表記で「A」となっているのは、ひらがなの「よ」「り」
ようというのが、ここ数年来の立ち位置になっています。
題に目を向けて、本願寺史料研究所の史料と対話をしてみ
て、身近なところにある史料群が喚起する素朴で小さな問
ということで、大きな重要なテーマは他の研究者に任せ
かにする可能性があるだろうという思いを強くしました。
まで誰も目を向けられなかった被差別寺院史の細部を明ら
25
じ ていとう
に対して、「河原者」は御白洲だといのうです。それが少
が、宗主は御影堂の檐(縁側のこと)まで「被為成」るの
一二)に「河原者」の自剃刀御礼の場所は御影堂なのです
が問題です。朱書きの但し書きによれば、文化九年(一八
「諸事心得之記」によって復元できる、自剃刀の御礼に
本山にきた被差別寺院の僧侶の立ち位置と宗主の立ち位置
います。
弱い寺院の多くの僧侶が自剃刀によって真宗僧侶になって
ただし、被差別寺院ではない在地の寺院でも、経済基盤が
には被差別寺院の僧侶は自剃刀しか許されませんでした。
山で、自得度・自剃刀は在地の寺院で執行され、近世後期
刀・自剃刀の四種に分けられていました。得度・剃刀は本
なのですが、寺院・僧侶の格によって、得度・自得度・剃
ておくべきであったのですが失念しました。ここで翻刻
先ず最初は、宿泊場所の問題ですが、その前にレジュ
メで提示した史料について、ホントはレジュメに注記し
のが、今回の講演のテーマとなりました。
の可否や、御影堂・阿弥陀堂への入堂の可否を探ってみた
てきたとき、どこで宿泊し、御影堂門・阿弥陀堂門の通過
そこで、本願寺史料研究所が保管している近世の本願寺
で作成された実際に当該時期の記録や古文書群から、在地
可能性があると感じます。
されるはずがない」というようなバイアスがかかっている
の記述には、「河原者に対しては・・・のようなことは許
きに立ち会ってはいません。となると、「諸事心得之記」
で、「諸事心得之記」の記主は場所の変更が達せられると
「頃」というようなあいまいな表現しかしていませんの
し時期が降った文政頃には御礼の場所が書院対面所に変わ
の有無を示しておきます。本山の役所の一つである留役所
います。自剃刀とは、儀式の意味内容としては得度と同じ
るのですが、「御上」(宗主)の位置は檐だというのです
(ルビのように呼び習わしています。しかし、江戸時代に
な ら せ ら
とめやくしょ
の被差別寺院の僧侶や門徒が本山にさまざまな事情で登っ
から、「河原者」は檐の先の地面の上だと理解できます。
そのような音で称していたのかどうか不明です。記録には
え どう
この記録によって、これまで被差別寺院の僧侶や門徒は、
読み方が記載されていません。他の近世真宗史の用語も同
ご
御白洲までしか入れなかったのだろうと思い込んでいま
じレベルです)の「大坂諸記」「摂津諸記」で摂津国渡辺
えん
した。しかし、場所が書院対面所に変わった時期を文政
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近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝
宿泊先については、レジュメの(二の二)で提示した史
料が端的に示しています。留役所「山城諸記」の弘化三年
料は、まとまった翻刻や史料紹介はありません。
1・特別号、二〇一二年)に翻刻があります。その他の史
す。(七の一)「起居筆記」は『同和教育論究』(201
(四)」に「穢村永代経願一件」として史料紹介がありま
究』(二八号、二〇〇八年)の「近世真宗差別問題史料
じく「安政四丁巳年九月諸事取調言上簿」は『同和教育論
(四)」(三〇号、同和教育振興会、二〇一〇年)に、同
出申渡留」は『同和教育論究』の「近世真宗差別問題史料
一巻。龍谷大学、一九八七年)に、(六の一)「諸事被仰
谷大学図書館蔵)は『龍谷大学三百五十年史』(史料編第
ジュメ(四)「学黌万検雑牘」(これが正式名称です。龍
拭できません)に一応、翻刻があります。その他ではレ
正ミスが多い。自分の力不足に忸怩たる思いをいまだに払
願寺史料」の部分はいろいろな悪条件が重なって非常に校
村関係の記事は『史料集 浪速部落の歴史』(「浪速部落
の歴史」編纂委員会編、二〇〇五年。筆者が担当した「本
村の正宣寺も大森屋に宿泊していることが判ります。少な
記」をみても、渡辺村の徳浄寺とその門徒や、同じく渡辺
えればいいのか、現状では明快な説明ができません。しか
事の火や食器をどうするのかなど、この点をどのように考
別身分のものであることを知っていたと考えられます。食
ことが判りますので、灘屋安次郎側は榎並屋利三郎が被差
とあります。両者には、日常的な商売の取引関係があった
の伜利三郎は、「平日出這入いたし候割木渡世」していた
ており大森とも屋号を称していました。一方、榎並屋宗助
す。御前通西洞院西江入南側の灘屋安次郎は宿屋渡世をし
側に展開していた寺内町(一般的には門前町)のことで
ように、現代的な意味の境内ではありません。本願寺の東
う「御境内」とは「西六条寺内」とも言い換えられている
あったことが目立ったのかもしれません。なお、ここでい
の三井寺・石山寺辺への物見遊山などなかなかの豪遊で
います。記事によれば、芸者を挙げての松茸狩りだの近江
査がなされたのか読み取れきれませんが、調査がなされて
き きょひっ き
し、(二の二)で提示した留役所「摂津諸記」と「大坂諸
で は い り
灘屋安次郎方に宿泊したことについて、なぜこのような調
(一八四六)九月三日条によると、大坂渡辺村の榎並屋宗
くとも大坂の渡辺村の被差別寺院の僧侶と門徒たちは大森
がっこうばんけんざつとく
助の伜利三郎と妻ふちと下男・下女ら五人が、「御境内」
27
そのまま反映させて認識することが一般的です。ですか
わけではありません。提出されてきた書類の地名肩書きを
所在地名を、領地における「公式の地名」で把握している
れているという印象を持ちます。本願寺は、在地の末寺の
するときの地名肩書きに使用し、意図的に限定して使用さ
称といっても、村の真宗門徒が本山の本願寺の書類を提出
辺村あるいは摂津役人村などと称される村の別称です。別
ることに注目しておきたいと思います。西木津村とは、渡
話の流れから少し外れますが、(二の二)で大森屋に宿
泊した榎並屋三郎らが、「西木津村門徒歟」と記されてい
内町の「宿々」ですから、それ以外で宿泊するとなると、
式的には間違いではありません。止宿禁止されたのは、寺
います。二人が自分たちを直門徒であるといったのは、形
浄寺は、弘化二年(一八四五)に上寺万宣寺から離末して
う文言は、次のように理解しています。渡辺村の惣道場徳
出します。理解の難しい「彼寺江可参筋も無御座候」とい
止宿禁止なのでしょうか、と質問書を御用番に直々に差し
ない者たちは多いに迷惑するであろう。そもそも直門徒も
ればならず、一統愁歎している。これから「智恩」を持た
多くの渡辺村の門徒は宿泊先がなく、直ぐさま下坂しなけ
ちはそこに宿泊できるが、自分たちと徳浄寺は直門徒であ
ら、本願寺内部で作成された古文書・記録には、西木津
かつての上寺である「四ケ之本寺」の万宣寺を頼らざるを
屋を常宿としていたのでしょう。
村・渡辺村・役人村という呼称が混用されています。
映しているのでしょう。
京してみると、寺内町の町役所より「御寺内」では「黒所
惣代奈良屋新助と岸部屋伝兵衛は、「当度上納御礼」に上
には、被差別寺院や被差別部落ではない、寺院・村に対し
や被差別寺院などを示す隠語です。本願寺の記録・古文書
またまた流れから外れますが、「黒所」について、解説
が必要かと思います。「黒所」「黒地」とは、被差別部落
得なくなる可能性があり、それは避けたいという意識が反
り、「彼寺江可参筋も無御座候」である。御礼に上京した
順番が前後しますが、(二の一)の記事を読んでみま
しょう。留役所「大坂諸記」五十九番帳の安政五年(一
一統」の止宿は御法度とし、「宿々」から請け印を提出さ
て「白地」という隠語も使用されていました。古文書学の
八五八)三月二十七日条によれば、渡辺村の徳浄寺門徒
せたと聞いた。この点について、「取次寺」がある門徒た
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近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝
の文言からすれば、寺内町にあった万宣寺のほか、金福
いだしていませんが、奈良屋新助と岸部屋伝兵衛の質問書
では、渡辺村以外の被差別寺院の僧侶や門徒は、どこに
宿泊していたのでしょうか。それを示す直接的な史料を見
ん。
なっていたのでしょうか。現状では、答えを持っていませ
専用の宿でないとすれば、食器や「別火」の差別はどう
の内容がその点を反映するのではないでしょうか。では、
専用の宿であるなら、奈良屋新助と岸部屋伝兵衛の質問書
達は寺内町の「宿々」に対して出されています。大森屋が
の専用の常宿であったのではないか。しかし、止宿禁止の
問が浮かんできます。大森屋は、被差別寺院の僧侶や門徒
とが不都合とされ差し返されます。ここで、いくつかの疑
寺内町の「宿々」での止宿禁止についての二人の、おそ
らく抗議の意味を込めた質問書は「直々」に提出されたこ
ます。
くち」か「しろち」などと呼称していたのかと想像してい
が、本願寺の中では「黒」に対する「白」ですから、「は
用語で「白地」と書けば、「あからさま」と読むわけです
寺号や出身地を誰何されて正直に答えとしても、本山の
之中、河原者相雑難知」というような状況ですから、門で
れて記載された本山の坊官・家老衆が、「諸国入込多人数
示した最初の史料にあるように、日付の下に四人と省略さ
を対象にしていると思われますので、門の出入りは基本的
保三年(一八三三)の鑑札・名前のチェックは御用達商人
く、不審者を発見し防衛するという趣旨と思われます。天
ですが、一人一人の身分をチェックするという趣旨ではな
の出入りについては在来通り名前・刻限をチェックするの
(一七九二)には堂内の守護・警備体制が再編成され、門
侶が処分されている事例を拾うことができます。寛政四年
阿弥陀堂や御影堂に、何度か「胡乱者」が乱入し御番の僧
記」「留役所諸日記」「諸事被仰出申渡帳」の三つです。
拠として年表風に示しました。おもな出典は、「日次之
ては、被差別寺院の僧侶や門徒に対する事例は見いだして
さて次は宿泊場所を出て、御影堂門・阿弥陀堂門をく
ぐって御白洲に入ります。両門の出入りのチェックについ
所に宿泊していたのであろうと考えたいと思います。
に不自由がなかったと考えられます。レジュメの(四)で
いませんので、一般的な事例をレジュメの(三)に状況証
寺・福専寺・教徳寺などの「四ケ之本寺」や「智恩」の場
29
義)でした。ポイントは同じ国から、つまり天龍のことを
らこの寛延二年は、二回目か三回目の夏安居(学林での講
れます。そして寛延二年(一七四九)は巳年です。ですか
ての入学ではありません。初めて入学した僧は新隷と称さ
「卯年」に入学していた天龍は下座とありますので、初め
いう事例です。所化(学黌・学林に入学した僧)として
者」が隷籍(入学こと。懸籍・掛席などとも)していたと
された浄土真宗の僧侶の宗学研鑽のための学校に、「夙
(四)の二つ目の史料は、寛永十六年(一六三九)に創設
倉庫に転用されていました。しかし、雨漏りもひどくこの
は、すでに「黒地之者溜所」としては使用されておらず、
座敷もあったことが判るのですが、明治二年五月の段階で
なっていたのではないかと想像しています。この建物には
が、ひょっとすると被差別寺院の僧侶や門徒の休憩所に
(五)に提示した「阿弥陀堂御門内北横手黒地之者溜所」
たであろうとは思いますが、実態は不明です。レジュメの
受けていたのでしょうか。身分がばれなければ可能であっ
僧侶や門徒も、少し一休みとしてお茶(番茶か)の接待を
営されていました。では、御白洲に入ったた被差別寺院の
が開かれています。江戸時代には、泉州接待講によって運
知っていた同国出身の所化から身分について学林当局に出
ままでは納められた献上品が傷むので、屋根を修復するよ
役人には身分が判らなかったのではないかと思います。
訴されたということと、一年目のときは同国出身の所化が
り、建物を取り払うことが許可されるような状態でした。
けんせき
げ
ざ
がくりん
しゆうがく
いなかったのか、また学林当局も本山も、天龍の身分につ
「先年より(略)取建有之」という「先年」が何時頃のこ
かけせき
いてまったく判らなかったという点です。(四)のはじめ
となのか、本山側の主導で建てられたのか、被差別寺院の
れいせき
の史料で坊官・家老衆四人が長崎御坊称名寺に「於御本山
僧侶や門徒の希望であったのかなど、まったく手がかりを
しよ け
河原者与相知候得者差別有之」と回答している事態といえ
持っていません。しかし、被差別寺院の僧侶や門徒の専用
しんれい
そうです。
はないかと思えます。なぜなら、この「溜所」に対して視
げ あん ご
与えられた枚数を考えて、先を急ぎます。次は門をく
ぐって御白洲に入ります。現在でも同じなのですが、御
線をそそぐ本山の関係者や御白洲にいる参拝者からすれ
の休憩所であったとすれば、あまり利用されなかったので
白洲には休憩場所として御茶所(接待所とも称します)
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近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝
影堂なり阿弥陀堂に入ることができたのでしょうか。それ
式な真宗僧侶・門徒として、身分を明かした上で公式に御
しかし、被差別寺院の僧侶も門徒も、当たり前のことで
すがあくまで浄土真宗の僧侶であり門徒です。となると正
なくともその可能性が考えられます。
入って参拝することができたのではないかと思います。少
われないように注意して、そのまま御影堂・阿弥陀堂に
に不自由なくくぐり、御白洲に入ったならば、不審者と思
京都の名所の一つとして観光寺院としても存在していた
であろう本願寺前に到着し、御影堂門か阿弥陀堂門を無事
宣言することになります。
てみれば、出入りするという行為によって、自らの身分を
するでしょうし、出入りする被差別寺院の僧侶や門徒にし
ば、出入りしている僧侶や門徒は被差別身分であると認識
という方法が採られていました。この「諸事取調言上簿」
の複数の担当者が月番制で案を作成し、宗主の決済を得る
せんでした。この頃、寺務処理は坊官・家老・奉行衆など
帳に挿入された意見によって、結局、この時は許可されま
れくらいの割り増しを上納させるのが適当かという検討が
いませんが、検討の方向は特段の思召をもって許可し、ど
寺務処理の検討に入ります。レジュメには史料を提示して
では「御免之儀者古来無御座候ニ付」として、本山の中で
永代経は被差別寺院の門徒に許されていましたが、御影堂
候共」、高すぎるといって決して辞退などいたしません、
ば「志願事足」ます。それに対する冥加金は外より「相増
されている親鸞の木像座像)の前でお勤めしていただけれ
までは望んでいない。何卒、御真影(御影堂の厨子に安置
ご しんねい
を考える一つの材料が、レジュメの(六の一)に提示した
の終わりには、非番の者もふくめて処理案の可否について
れてこなかった御影堂での永代経を歎願しているものがい
専寺から、自分たちの門徒で、これまで規定がなく許可さ
安政四年(一八五七)九月に「四ケ之本寺」万宣寺と福
しょう。挿入紙の記主が誰なのか判明しませんが、この意
箋にするには大きすぎるため袋綴の部分に挿入されたので
いう状態になっています。レジュメに提示した挿入紙は付
意見を記す複数の付箋があり、付箋にさらに付箋があると
なされたのですが、袋綴冊子「諸事取調言上簿」の最後の
ふくろとじ
という非常に控えめな出願でした。この頃、大谷本廟での
ことたり
永代経の事例です。
る。宗主の御焼香や供物のお下げなどは恐れ多いのでそこ
31
す。おそらくこの意見が効果を発揮したのでしょう。この
である。ざっと要約すると、こんなことになるかと思いま
もないといろいろな「差閊」が発生することは自明のこと
については考え直し、沙汰やみにするのがいいだろう。さ
では古来より許可されているのだから、御影堂での永代経
を許可すれば、いろいろな悪評がたち口惜しい。大谷本廟
のは判るが、だからといって「穢村」に御影堂での永代経
惑少なからずである。親鸞の大遠忌が近づき経費がかさむ
加金で「白地」に許されている。時節柄とはいうものの迷
かったが、近年は本山の逼迫する経済状態もあり少ない冥
加金は千両を納めなければ御影堂での永代経は許可されな
地」と区別をつけなければならない。昔は「白地」でも冥
そらく、この記述から浮かびあがってくる現場の状況は、
の内法のことで、溝が彫られていない敷居のことです。お
「夫江差出拝礼」する。「ヌメ敷居」とは御影堂正面の扉
とする(現在の御影堂と同じです)。願人は正面に居て、
も)に取り置きの結界を「ヌメ敷居」の外に出して仕切り
影堂の平日に使用している結界は取り払い、外陣(下陣と
渡留」です。レジュメ七頁上段の最初の記述によると、御
の(六の一)の留役所「摂津諸記」の次の「諸事被仰出申
で執行されたのかが問題です。それを示すのが、レジュメ
しかし今日の話のテーマとしては、ではどのような式次第
別寺院の僧侶や門徒に広がっていたということでしょう。
ば、御影堂での永代経を実現させたいという希望が、被差
をという執念を感じますし、ふくまれていなかったとすれ
すれば、なんとしても御真影が安置される御影堂で永代経
時は結局、許可されませんでした。
が置かれ、その外側に願人が着座して、厨子の扉が開かれ
見は強硬でした。「河原者」に永代経を許可するなら「白
許可されたことが判るのが、レジュメの(六の一)の
留役所「摂津諸記」以下の史料です。渡辺村の徳浄寺門
た御真影を拝礼したというものです。つまり願人の大和屋
別の事例を確認しましょう。レジュメの(六の二)で
御影堂の正面の扉の前、二段になった板の縁側の外に結界
げ じん
徒大和屋佐助が、千両の冥加金で慶応元年(一八六五)
佐助本人は御影堂の中には入ることを許されなかったとい
さしつかえ
十二月十四日に、臨時という形式で執行されました。大和
うことです。
うちのり
屋佐助が安政四年に不許可となった万宣寺と福専寺の門徒
にふくまれてたのかどうかは不明ですが、ふくまれていた
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近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝
を申し渡されるのに御影堂外陣の北側の入り口前の板縁に
から改宗した被差別寺院ですが、「御宗意御安心」の趣旨
(一八一一)閏二月十二日条の備中国大円坊とは、真言宗
す。香房という役所で筆録された日次記ですが、文化八年
の僧侶や門徒には、・・・ことは許されるはずがない」と
マニュアルには、差別意識の高まりもあり、「被差別寺院
ることができますので、後の時期にまとめられた寺務処理
ります。このような事例を、日々に筆録された日次記にみ
ていませんので、書院波之間の畳の上であった可能性もあ
記」は当該の時期に筆録された日次記です。その安永七年
ました。レジュメの(七の一)をご覧ください。「起居筆
は、一定のバイアスがかかっているのではないかと指摘し
はじめに記したことですが、寺務処理のマニュアルに
レジュメの(七の二)をご覧ください。「御堂日次之
記」と仮称している日次記と「御堂日新録」の寛政八年
示しておきます。
さというか、筆者の現状では上手く説明できない事例を提
最後に、不思議なというか、近世の本願寺のいいかげん
ご あんじん
座し、申し渡す役僧は御影堂内部の畳の上という位置関係
いうバイアスがかかっているのではないかと感じている次
(一七七八)九月五日条では、「河原者」は地面の上では
(一七九六)四月十八日・十九日条です。珍しい姓の蓮華
しゅう い
でした。御厨子の扉は開かれていましたが、大円坊も御影
第です。
なく、書院の広間正面の狭屋に居並んで、宗主が書院の上
半九郎と妻のそめが、書院対面所で在家でありながら「御
ご
堂内部に入ることは許されませんでした。
段の畳の上に立つという位置関係がみえてます。おなじく
剃刀」を受けています。「剃刀」に「御」が付されるの
や
「起居筆記」の天明七年(一七八七)二月十八日条や別の
は、形式として宗主による「剃刀」であることを意味しま
さ
日次記「天明七年丁未年二月記」の同年二月十七日条にみ
ないおん じ
す。もちろん、実際に剃刀を蓮華半九郎と妻そめの頭に当
しゅう
える、将軍代替わり誓詞の提出(幕府の将軍が代替わりす
てたのは堂達衆(御堂衆とも)の泥洹寺梅蘂でした。位置
み どう
るごとに、提出先は異なりますが、原則、宗主以下、全末
は、確実に対面所の内部の畳の上だと考えられます。蓮華
しゅう
寺が血判の誓詞を書きます)でも、被差別寺院の僧侶が書
半九郎とは、伊予松山藩の「穢多頭」の一族だと考えられ
どうたつ
院波之間でおこなわれています。ここには狭屋とは記され
33
記載に相向寺門徒とあります。この相向寺は被差別寺院で
被差別身分の門徒であることは間違いありません。肩書き
執行されたのでしょう。となれば、願主の蓮華治右衛門
の永代経は、被差別身分の門徒であることが気づかれずに
ません。ということは、蓮華治右衛門の出願による釈道憲
いる「諸事取調言上簿」や日次記にもまったく言及があり
す。蓮華一族からは、近世の後期に、渡辺村の徳浄寺の門
は、宗主が読経しているあいだも御影堂の中に座していた
ます。非常に高い格を藩から認められていたようですが、
徒であった超のつく富豪播磨屋五兵衛の妻がでています。
出願した蓮華治右衛門はどこに座していたのでしょうか。
厨子の扉を開き、その前で宗主が読経しています。では、
「御影堂御開帳」とあるので、場所は御影堂で、御真影の
の門徒としての扱いの永代経ではないでしょう。そして
大和屋佐助の事例と比較すれば、この永代経は被差別寺院
り、宗主の読経・焼香もおこなわれています。慶応元年の
の出願による釈道憲の永代経です。冥加金が白銀五枚とあ
て相向寺の門徒であることが確認できます。蓮華治右衛門
屋五兵衛が中心となって徳浄寺から分立した寺院です。通
泊しているのですが、場所は岡崎の正光寺でした。阿弥陀
弥陀寺と門徒中が大谷本廟へ門と五具足の寄進に京都に宿
触れるのを忘れていました。最後にレジュメ(二の三)
をみておきましょう。明治三年閏十月二十一日に大坂の阿
ていいものやら、判断しきれずにいる状態です。
かったから差別しなかった」という方向で、素朴に理解し
別有之」とあるのを裏返しに読んで、「河原者と相知れな
この二つの事例も、もう一度引用しますが、レジュメの
(四)に提示した史料に「於御本山河原者与相知候得者差
と考えていいでしょう。
執行されたのが文化五年(一八〇八)四月九日ですか
ら、安政二年の万宣寺と福専寺の門徒による出願や、慶応
常なら禁止されているはずの新寺建立にあたるはずです
(八)の事例も同じ蓮華一族の蓮華治右衛門です。肩書
きに相向寺の名は記載されていませんが、他の史料によっ
元年の大和屋佐助の出願の永代経の時に前例として言及さ
が、津村御坊の出張所という名目で既成事実を作ることに
ご ぼう
寺とは、幕末に渡辺村の徳浄寺で発生した寺争論で、播磨
ぐ そく
れてしかるべきだと思うのですが、寺務処理の参考事例と
よって成立しました。被差別寺院ではない正光寺の意識が
ご
して近世初期の永代経の事例を詳しく調査して書き上げて
34
近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝
どのようなものであったか判りませんが、宿泊の禁止が継
続していた可能性を示すのかもしれません。
当日、会場に足を運んでくださり、脱線を繰り返して話
の本筋に上手く戻れなくなる筆者のモタモタした話を聞か
れた方が、この文章を読まれて、なんだ、左右田はこうい
うことを話そうとしていたのかと思っていただける架空講
演録になっていれば幸いです。当日は、ご静聴、ありがと
うございました。
35
近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝
種智院大学
左右田昌幸(二〇一四・六・六)
現在の本願寺(通称、西本願寺)は、京都駅近くの一つの観光スポットとして、拝観料
な ど の 料金な しに 、 誰で も 自 由 に本 堂 たる 阿 弥 陀堂 ・御影堂 に 入って 、参拝す るこ とが で
きる。
本 報 告に おけ る 発 表者 の 興 味は 、 部落 寺 院 史研究の意義云々以前の、いたって 素朴・単
純な ものであ る。
で は 、近 世において 、 真宗 の被差別寺院の僧侶や門徒にとっても 、参拝は 自由であ った
の か ど う か 、 御 影 堂 門 ・阿 弥 陀 堂 門 を通 って 御白 洲 に 入 って から、 どこ まで 入ること がで
きたのか、というもので ある。
以下、 史料に基づ いて 、関連す る状況を 探って み たい。
一 ) 最 初 に 、 も っ と も 手 近 な 記 録 か ら 。「 諸 事 心 得 之 記 」( 原 本 は 、 龍 谷 大 学 図 書 館
蔵。翻刻は『真宗史料集成』第九巻、同朋舎)の「河原者自剃刀」の記述
一河原者自剃刀、又者河原者在家之分、冥 加諸志献上有之節、御盃御礼不被仰付候事
( 朱 筆 )
「但し、文化九年A御礼被仰付、尤諸御 門末トハ違ひ 、御影堂御檐迄被為成、御白
砂ニおゐて 御礼被仰付、但少々之上納ニ而者不相成、大体五百匁以上A御礼被仰
付、初而御免之節八百匁上納有之候事」
右 之 通 ニ 候 処 、 亦 々 文 政 之 頃 A 御 対 面 所ニ 而御 礼 被 仰付 、 尤御上 ハ檐 ニ 而 御礼ヲ 致 ス
-1-
36
◎自剃刀の御礼において、河原者は御白洲、宗主は御影堂の縁という位置関係
◎文政頃より、場所が 書院対面所、宗主は縁。では河原者は?
◎こ の場合は、被差別身分で あること を前提に して いる
二 )の 一 )京 都 に 登 っ て く る と こ ろ か ら 探 り 直 し て み る 。ど こ に 宿 泊 し た の か 。
留役所『大坂諸記』五十九番帳
安政五年(一八五八)三月二十七日条
三月廿八日
大坂徳浄寺門徒
一
惣代
奈良屋新助
岸部屋伝兵衛
上京之節、於御境内止宿御法度候哉之旨伺出、左之通右少進役宅へ差出
乍恐以書附奉御詞申上候
一私共上京仕候処、此度町御役所A御寺内於而黒所一統止宿御法度之旨宿々江被仰附、則
御請印可仕様被仰出候趣承知仕候、右ニ附夫々取次寺御座候分者右寺江止宿も可仕哉ニ
奉存候へ共、私共手次并門徒之義者御本山御直門徒之義ニ而御座候故、彼寺江可参筋も
無御座候、右ニ付当度上納御礼上京之者共、多人数直様下坂仕、一統愁歎仕居候、向後
上納上京砌、智恩無御座候族大ヰ ニ迷惑仕候、御直門徒之分も止宿御法度御座候哉、此
37
段以書附御詞奉申上候、已上
大坂船場町
安政五 午年三月
徳浄寺門徒惣代
奈良屋新助
岸部屋伝兵衛
御用番様
留役所『大坂諸記』五十九番帳
安政五年四月二十一日条
以 剪 紙 申 上 候 、然 者 先 達 西 木 津 徳 浄 寺 門 徒 共 A 京 地 旅 宿 之 儀 ニ 付 、役 前 へ 彼 是 申 出 ル ニ 付 、
段々及利解候処、其後直々願書差出候趣甚以不都合之義、猶又利解申聞候処、何卒願書一
応御下ケ之儀申出候ニ付御下ケ被成遣度、此段奉願候、先者右申上 度如斯ニ御座候、以上
四月廿一日
田口大炊
下間少進法印様
◎ 問 題 に な っ た の は 、「 直 々 願 書 差 出 候 趣 甚 以 不 都 合 」 と い う 点 。 止 宿 禁 止 が 解 か れ た の
かどうか不明
◎「四ケ之本寺」や周辺の被差別寺院が宿泊場所になった可能性
二)の二)これ以前は、どこ に宿泊したのか。
留役所『山城諸記』四十一番
弘化三年(一八四六)九月三日条
九月三日
-2-
一御境内灘屋安次 郎与申者方ニ過日穢村之者止宿いたし居候ニ付、自然西木津村門徒歟火
打村辺之者願筋ニ而安次郎留置候ニハ無之哉、内々聞合申付置候処、左内A左之通書付
差出
乍恐口上
西六条寺内
御前通西洞院西江入
南側家持
大森事
宿屋渡世
灘屋安次 郎
六拾才計
右方江当月十五日A同廿五日迄止宿罷在候左之者とも
大坂渡辺
檜並屋宗助倅
利三郎
廿六才計
利三郎
妻
名前ふち
廿一才計
此下男両人ハ役人村火方役
下男
二□吉
近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝
38
相勤候者歟、又ハ出入有之者歟
之よし
三十四五計
与五郎
廿四五才計
下女
なを
廿七才計
右之者義、当地六条村ニ名前不分候得共、金子取引先有之候ニ付、用方□□□□前書名
前ふち 利三郎妻病 気ニ 付、右 療養方元 A同人義、本 山講中ニも有之旨 参詣致候ニ付、前
書灘屋安次 郎方ニ止宿罷居候よし、然ルニ当月廿日頃六条村より名前不分もの取引金子
凡四拾両計持参いたし相渡候義も有之由
一右之もの共、同月廿日時分灘屋方へ平日出這入いたし候割木渡世、右之手続ニ而堅木原
辺松 茸山へ罷越 申し、其節是又 灘屋方 手続ニ而西新屋敷中堂寺町木村屋与申方A芸者壱
人、同娘両人召連同道ニ而前書樫原山へ茸狩ニ罷越候義も有之由
右之次第ニ而前書五人之ものとも 滞留いたし、当月廿五日ニ灘屋方ヲ出立いたし、江州
三 井 寺 之 辺 所 々 見 物 い たし 、 夫 A 石 山 寺 へ 参詣 いたし候 而下坂仕 候様子ニ 相聞へ候 、尤
前文金子持参仕候六条村□ 之者方名 前承合、跡A奉申上候
右之趣相聞申候、別段 如何敷様子ハ相聞不申候得共、尚跡々手ヲ残し罷在候ニ付、 自然
紛敷様子之義聊ニ而も相聞候ハヽ、早速奉申上候、以上
八月晦日
留役所『摂津諸記』四十六番
嘉永五年(一八五二)十一月九日条
-3-
十一月九日
一去ル九月摂州西木津徳浄寺并門徒A津村御坊ニ而取扱方不伏、且永代経之儀申達、願書
昨日少進役宅A右願人宿大森屋呼出し、右願之趣者御取上難相成、願書御下ケ之旨申渡
願書相下ケ、大和円照寺大坂表江御用之儀有之、今昼船ニ而罷下り候ニ付、委細同人A
承り可申旨を以、早々願人手元願書差下ケ可申旨□□左衛門A為申達候事
留役所『大坂諸記』三十二番
嘉永六年二月十七日条
二月十七日
一上京御届
大坂西木津
正宣寺
宿
大森
二)の三)ちょっと参考 に。止宿禁止は継続したか
大坂
閏十月廿一日
明治三年閏十月二十一日条
留役所『大坂諸記』百九番帳
一
阿弥陀寺
大谷
門徒中
五具足一式
御廟堂
実門一式
御廟前
宿
岡崎
39
正光寺
右献上之義 申出候旨、小取次 豊右衛門A書□を以伺出候間、掛り崇泉寺へ申出候様可申
達旨申達
三)門の出 入りチェ ックはど うなって いたのか 。年表風に
天明三年(一七八三)十月五日
二日 朝に胡乱 者が阿 弥 陀堂外 陣 に 乱 入。三十日番 当番専教寺を勤 め方不届きとして 押し
込 め に 処 す ( 諸 事 被 仰 出 申 渡 帳 )。
寛政四年(一七九二)四月十五日
堂内の守護・見回り体制や白州の警備体制を再編制する(門の出入りは名前・刻限をチ
ェ ッ ク は 在 来 通 り )( 諸 事 被 仰 出 申 渡 帳 )。
天保二年(一八三一)五月十四日
阿 弥 陀 堂 余 間 に 他 派 僧 侶 が 乱 入 ( 諸 事 被 仰 出 申 渡 帳 )( 日 次 之 記 )( 留 役 所 諸 日 記 )。
天保三年(一八三三)二月二十三日
近来 、御門 の 出 入りが みだ りと な って いるとして 、幕御門 ・堀川御 門にて 在来通り
鑑
札 ・ 名 前 を 厳 重 に チ ェ ッ ク す る よ う に 指 令 ( 留 役 所 諸 日 記 )。
天保六年(一八三五)十月二十八日
晨 朝 前に 、 御 影堂 内 陣に 俗 人が乱 入 。 翌二十 九日に 御番 等閑として 慈 恩寺が御 叱 り・差
控 に 処 さ れ る ( 諸 事 被 仰 出 申 渡 帳 )( 日 次 之 記 )。
)
-4-
四 自己申告なしに被差別寺院の僧侶・門徒であることをチェックできたのか 。
「諸国江遣書状之留」
宝暦十一年(一七六一)
( 前略)
一河原者町方之者与雑居之儀、於御本山差別無之段申候由、於御本山河原者与相知候得者
差別 有之候得共、諸国入込多人数之中河原者相雑難知候故、其分ニ成行候儀を差別無之
様ニ存候ハ甚存違ニ有之候、於諸国其差別 有之儀一同之事 ニ候得者、兎角其 所之風儀に
准し取扱可然存候、併無程随専寺下着之事ニ候得者、能々 申談跡々御苦労筋無之様可被
相心得候、此返書長崎便所京都 近江屋新兵衛江廿日夕出、七日便ニ差下候、猶上京之節
可申承候、不宣
五月十九日
四人
長崎御坊
称名寺
「学黌万検」
寛 延 二 年 ( 一 七 四 九 )( 巳 年 。 卯 年 は 延 享 四 年 ・ 一 七 四 七 年 )
(
ママ)
一下座天龍、紀州芝村西福寺嗣、卯年隷籍、同国衆十四人訴其所生之跡、混不浄人世称
夙者、首陳不明因命退席、手印退状納在庫篋
五)門を くぐってい よいよ御白洲へ。どこで休憩したのか。留役所「諸日記」
十六日(明治二年五月十六日条)
近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝
一阿弥陀堂御門内北横手黒地之者溜所江、和州 A献上之天井板積入、御座敷雨漏等ニ而
不都合ニ付、右溜所取払之義弐番帳を以金穀掛伺出、左之通
同日
一阿弥 陀堂御門内北横手ニ 先年 より黒地之者溜所取建有之候所、内々和州表より献上 之
天井板積入御座候処、屋根朽損し候所より雨漏致し、板之為方不宜、為其毎々屋根取
締候も 無益之義、且四方共板囲ひ候之事故不用心ニ有之、旁天井板不残外場所江取片
付候様仕 度、就而者溜所先ツ当今之処ニ而者不用、尤損し候耳ニ付取払候而者、如何
御座候哉、奉伺候
( 朱 筆 )「 支 配 江 可 申 達 事 、 五 月 十 七 日 下 知 」
(明治二年五月十八日条)
一阿弥陀堂御門内北横手小屋破損ニ付取払度旨、金穀懸より伺出、伺之通可取払、尚又
天井板 等外場所へ取片付可締置旨斎宮へ申達、右板者酒蔵へ可相移旨斎宮申出
◎泉州接待講によって運営されて いた御 茶所・接待所の「黒地」専用ヴァージョンと考え
てはどうか。
◎ここ まで を 総合す ると 、お そらく 被差別身分が 露顕しなければ、現在と同じように御影
堂・阿弥陀堂に 参拝できて いた可能性が大きい。
六)の一)被 差別寺院の僧侶・門徒ととして 正式には御影堂に入れたのか。永
代経を事例に
「『 袋 拵 』
一
安政四丁巳年九月
諸事取調言上簿
博」
安政四年(一八五七)
乍恐書付を以奉歎願候
-5-
40
私共門徒之内A永代祥月経志上納之儀奉願上候所、従来先規無御座候趣ニ而御免無御座
候 段 奉恐 察 候 、 然 上 者 強 而 奉 歎願 候 儀 実ニ 奉恐 入 候 得 共 、 何分 懇 願 之 者 歎 出 候 趣者 、 決
而御勤式之儀外方先例御座候衆中与同様之儀願上候ニ而者無御座候、上様御焼香御供物
御下ケ抔之儀者奉恐入候事故、左様之儀無御座候共、何卒於御真影様御前御経御勤ニ相
成候ハヽ志願事足候、尤御冥加銀之儀も 外方A相増候共決 而相辞之申間敷、唯偏ニ御 憐
愍 之 御 次 第 ニ 相 従 ひ 奉 仰 上 、御 慈 悲 之 程 候 外 無 御 座 候 由 申 出 候 段 、甚 不 便 ニ 奉 存 候 ニ 付 、
乍 恐 奉 歎 願 候 、何 卒 以 出 格 之 御 慈 悲 、右 御 免 被 為 成 下 候 ハ ヽ 、当 度 懇 願 者 共 者 申 ニ 不 及 、
私共迄生々世々忘却仕間敷、如何程 難有仕合ニ奉存候、已上
御境内
安政四年
万宣寺印
巳九月
同
福専寺同
御本山
御役人中様
右之通出願ニ付取調候処、河原者江永代経御免之儀者古来無御座候ニ付、右者御取扱難
相成筋ニ可有御座哉与奉存候、乍併右願面之次第ニ而者御真影様於御前御経而已御執行
有之候ハヽ志願事足候趣、依而永代経濫觴、申経等之次第御定取調候処、左之通
41
(中略)
(挿入紙)
「河原者申経之義 何れ 差許候ハ ヽ、白地トハ次第付不申候ハてハ成不申事必然之義ニ候、
過日A種々致勘考候得共、全躰白地ニ而も沢山ニ近来申経之義始り、往古者真ニ千金之
冥 加無之而ハ御影堂ニ於て 執 行ハ叶 不申義 案内 之通、然処時勢と ハ乍申近来難迫ニ 付、
色々仕法も替り無拠一座申経之姿ニ而、銀三十枚或ハ五十枚、百金弐百金三百金之経料
ニ而執行聞済候も、全時節柄故之事迷惑不少候、此度大御遠忌被為近設事多分之訳故、
出格之取計ニも及度者存候へ共、穢村之申経ヲ御影堂ニ而執行と申事ニ相成候ヘハ、定
而色々悪評も 可有之、口惜事ニ存候、夫故大谷ハ古来御免ニ相成候事故、何卒今一応被
回勘考、沙汰止ニ相成候ハヽ宜と存候、色々差閊之義共出来ニ相成候事ハ眼前ニ候、能
々思慮有度候事」
留役所『摂津諸記』六十九番帳
慶応二年(一八六六)九月十二日条
徳浄寺門徒
一
摂州西木津
九月十二日
黒地
大和屋佐助
昨 丑 年 十 二 月 十 四 日 開 闢 相 願 之 永 代 経 祥 月 之 義 、臨 期 御 執 行 可 被 成 遣 旨 被 仰 出 有 之 候 処 、
昨十三日得度後臨期御執行被成遣候旨、以端書勤番安養院へ申達
「諸事被仰出申渡留」 慶応元年(一八六五)十二月十二日条
-6-
同
一
河原者
摂州西木津
徳浄寺門徒
大和屋佐助
此度千金上納達々歎願ニ付、格別之御取計を以、於御影堂永代祥月経御執行相成候ニ
付、御取扱方左之通
一開闢之節、御出座御焼香無之
但、例年祥月者日限不定、臨時ニ御執行之事
一御斎無之
一両御堂御荘厳御供物白餅一具、御前卓御荘厳無之、須弥壇上御供物台ニ打敷懸之
一勤番中壱人調声、堂達中当番懸出仕
但、衣体黒衣小五条袈裟着用
一御開扉点灯
一焼香役僧
右之通可被相心得事
右勤番江達
同
一右同断
近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝
一願人御正面、平日之結界取払、外陣取置之結界、ヌメ敷居外ニ而仕切、夫江差出拝礼
右之通可相心得事
右役僧江達
(後略)
六)の二)備中国大円坊を 事例に
「香房日次記」
文化八年(一八一一)閏二月十二日条
備中国辻田村
改宗
大円坊
皮多
了恵
御影堂下陣北ノ入口板檐江呼出、役僧上畳ニ出席、御宗意御安心之趣申渡候事
「御堂日新録」
文化八年閏二月十二日条
備中
惣道場
大円坊
看坊
教恵
右者真言宗A改宗御免ニ付、今十二日巳ノ半刻、御開帳可被成候、以上
閏二月十二日
右之通申来、則御開帳いたし候、尤穢多坊主ニて候由、長御殿A申来、依而下陣□□之外
-7-
42
より為致拝礼候事
)
七 の一)書院に入れた事例もある。
「起居筆記」
安永七年(一七七八)九月五日条
一河原者御礼御請、御広間正面之狭屋ニ並居、御上段御畳之上御立請也、披露奏者中可相
勤旨被仰出
「起居筆記」
天明七年(一七八七)二月十八日条
関東御代替り付
一於波之間今日河原者誓詞有之、右寺号御日次所御記録ニ有之、仍而略ス
「天明七年丁未年二月記」
同年二月十七日条(二十八日条には十七か寺の記載あり)
一於波ノ間河原者誓詞名前、左之通
円光寺
同三条
教徳寺
同木津橋
正久寺
同柳原
金福寺
城州
右之通相調
同嵯峨
同大仏
同竹田村
同西三条
証行寺
西光寺
西教寺
教専寺
出役
43
町役両人
虎ノ間役人
◎狭屋とは記載されないので 、波 之間の中 の畳の上であろう 。
)
七 の二)書院対面所の畳の上。しかし、身分は露顕しなかったのか
「( 仮 称 ) 御 堂 日 次 之 記 」
一御剃刀頂戴奉願
寛政八年(一七九六)四月十八日条
相向寺門徒伊予国
温泉郡松山
同人妻そめ
御免
蓮華半九郎
明十九日
寛政八年四月十九日条
「御堂日新録」
泥洹寺梅蘂
御剃刀上ケ
一御剃刀、巳刻、於対面所ニ
御戒師
伊予国松山
御装束、御直綴小五条
蓮花半九郎
同妻そめ
披露
下間少進
御剃刀上
泥洹寺梅蘂
-8-
八) 御影堂にも入った ので はないか。
「御堂日新録」
文化五年(一八〇八)四月九日条
予州松山
蓮花治右衛門
白銀五枚上ル
釈道憲志
申御教、明九日被成御免候間、例之通可被仰触候、以上
四月八日
右昨夕方、従長御殿申参
道憲申経、白銀五枚上ル、
予州松山
巳刻
一御影堂御開帳
蓮花治右衛門
三方点燭
大仏飯供奉
御門主御経ノ中、御焼香有之
上巻
調声
念仏
和讃
本行寺本悟
十方諸有
ソヘ信楽
終而御閉帳、御影供下之
御装束御直綴五条
大衆直綴小五条
近世真宗教団における被差別寺院の僧侶・門徒の本山参拝
44
近世都市の芸能興行と差別
斉 藤 利 彦
45
ては、大規模な芸能の興行がおこなわれています。江戸時
京都・大坂の三都が中心となりますが、この三都におい
江戸時代は都市の時代ともいえる時代で、城下町がた
くさんありまして二〇〇以上といわれています。江戸・
さて、本日は、「近世都市の芸能興行と差別」と題し、
以下、これらの問題についてお話させていただきます。
さいころから手伝いに行っていたからです。
は、自分の父親が歌舞伎の裏方をしておりまして、私も小
ています。こういったテーマをするようになったきっかけ
最初に自己紹介させていただきます。
歴史文化学科におりまし
私は現在、佛教大学歴史学部
て、専門は日本の芸能史、特に上方歌舞伎を歴史的に考え
民、特に穢多村が関わってきますが、こういった人々の関
のものも差別の対象でありましたし、興行に関わる被差別
差別というものはどういうものだったのか、これは役者そ
会の中でも特異な場所でありました。そういった場所での
だったのです。
分を一旦解消させてしまうような場所を悪場所、悪所とい
けですね。身分制の社会におきまして、非日常の世界、身
る世界になります。遊廓ですと、大名などは刀を預けるわ
す。芝居小屋ですと、木戸口を入ると、皆が芝居を観てい
た。これは風儀上悪いところだ、という意味で捉えられる
代になりますと、それまでの芸能興行と違い、不特定多数
係はどうだったのかということを考えていきたいと思いま
近世中期になりますと、幕府権力において、被差別階層
と芸能者の関係の政策転換がはかられます。その象徴が
芝居小屋はそういう意味で一時、あらゆる階層の人たち
が共有して芝居を観るという時間と空間を持つ、身分制社
う言い方をしました。その代表が遊廓、そして芝居小屋
ますと、身分というものが一旦解消されるということで
ことがありますが、それだけではありません。そこに入り
の観客を対象とするようになります。中世の能などは勧進
す。
はじめに
能などもありましたが、多くはパトロンに対しての興行と
いってもよいでしょう。江戸時代になって、不特定多数の
人々が一つの空間を共有するということになります。
芝居小屋や遊廓は江戸時代、悪所、悪場所といわれまし
近世都市の芸能興行と差別
かち お う ぎ
件」と呼びます。「勝扇子」そのものは、代々団十郎家で
ました。それが「勝扇子」です。そのため、「勝扇子事
いということで、それを記念して、事件のあらましを書き
非人」などと呼んでいたのですが、自分たちはそうではな
ます。二代目市川団十郎は、それまでは自分のことを「人
行います。結論的にはそうではない、ということで決着し
太夫が江戸の弾左衛門の配下であるかどうかを争う訴訟を
官許、つまり、特に幕府から常設興行をしてもよいとい
う権利を与えられた人物が興行をしている芝居小屋は、櫓
究上、「興行の三権」と呼びます。
つかさどることもあります。こういった三つの権利を、研
者でありまして、「座本」といいます。この座本が興行を
る人です。そして、一座の総責任者、これは役者側の責任
小屋の経営者、「芝居小屋主」、あるいは芝居主といわれ
江戸時代の興行には必要な権利と人材がありまして、ま
な だい
ずは興行権、これは「名代」といいます。もう一つは芝居
「勝扇子事件」というもので、歌舞伎役者や人形浄瑠璃の
秘蔵されたのですが、現在、原本は確認できません。
す。たとえば、今でも、南座の表側に櫓があがっているの
ざ もと
をあげることができました。芝居小屋の表側に櫓をあげま
しば い ぬし
この事件の結果、歌舞伎役者が弾左衛門の配下ではない
ということにはなりましたが、全芸能者ということではあ
はそういった名残を示していますが、この櫓をあげること
や ぬし
りませんでした。しかし、そういった両者の関係が大きく
ができるのは官許の象徴でした。一方で、神社やお寺の境
こ
変化していきまして、興行に関わる穢多層に対して、興行
内で臨時的に興行をする宮地芝居というものがありまし
しば い
側の態度が非常に変化をしてきます。そういった姿をみな
た。こういった宮地芝居の興行権は、座の興行権、一座を
やぐら
さんと一緒に考えていきたいと思います。
芸能興行といいましても、江戸時代には江戸と上方では
全く異なる仕組みをもっていました。これは、驚くほどに
Ⅰ 近世都市の芸能興行~三都を中心に~
て興行の三権が四人、後には三人に集約されていきます。
官許の興行権ですが、江戸の場合は、当初は数人に興行
権が許され興行がなされていきましたが、徐々に整理され
できました。
組んで興行をしてもいいという座の興行権があれば興行が
異なります。
47
出勤する役者は座元の小屋にしか出ないので、幕府が座元
を掌握すれば、座元を通して江戸の大芝居の役者を掌握で
つまり、江戸の場合、興行権と芝居小屋経営者と役者側の
一座の総責任者が四人、後に三人に集約されます。そう
きる体制をとったからです。つまり、歌舞伎役者一人一人
ざ もと
を掌握するのではなくて、座元を通して掌握していく体制
いった興行三権を一手に握っている人を「座元」と呼びま
した。
て、長太夫は大島に遠島、山村座は廃絶となります。
ていたのが山村座であったということから連座いたしまし
生嶋事件で、大奥女中絵島と役者の生嶋新五郎が密会をし
た。このうち山村長太夫は、正徳四年(一七一四)の絵島
勘三郎、市村羽左衛門、山村長太夫、森田勘弥の四人でし
責任者、つまり興行の総責任者です。江戸の座元は、中村
この座元の後継者は若大夫と称されました。世襲です。
座元は興行権の所有者であり、芝居小屋主であり一座の総
が四軒、のちには三軒しかないということになります。
人の芝居小屋しかありませんので、大芝居の役者は出勤先
止されまして本櫓が興行をしました。ですので、三座を必
いったパトロンを見つけたりして経営的に興行ができるよ
ものですが、大体五年間が目途で、この間に座元が金主と
という形をとりました。今でいう民事再生法というような
する代行人のことで、その人たちに興行を代替わりさせる
休業しなければならない事態になったおり、興行の代行を
設けられていました。仮櫓(控櫓)とは、江戸三座がもし
戸三座体制は堅持しないといけません。そのため、仮櫓が
きになります。年間で二千両、三千両くらいの赤字が出た
ところで、江戸三座の興行は、いくら経営努力をしても
赤字経営になることがありまして、近世後期以降、赤字続
でした。
この正徳四年以降、江戸の座元は中村勘三郎、市村羽左
衛門、森田勘弥の三人となります。これを「江戸三座」と
ず堅持して、座元を通して歌舞伎役者を統制しようとする
この座元は世襲で絶大な権力と権威をもちました。江戸
の場合は、檜舞台といわれる大芝居はこの四人ないしは三
呼びまして、江戸三座体制が堅持されるようになります。
のが、江戸の形でした。
うに努力し、興行ができる状態になると、仮櫓の興行は停
りするわけですが、破綻する場合があります。しかし、江
なぜ、三座体制が堅持されたのかといいますと、大芝居に
48
近世都市の芸能興行と差別
はとられていません、名代は名代、座本は座本、芝居小屋
一方で、上方、つまり京・大坂の場合は江戸と大きく異
なっていまして、一人が興行の総責任者となるような体裁
です。つまり、「斉藤利彦」は興行権所有名義人となり、
さんは興行権を持つのですが、名義は「斉藤利彦」のまま
太郎さんに名代を売るとします。そうしますと、佛大太郎
「斉藤利彦」です。斉藤がどうしようもなくなって、佛大
主は芝居小屋主とばらばらになっています。
興行権を下付された人が興行権所有名義人です。名義の切
すと、それを人に貸したり売ったりしはじめます。最初の
最初に興行権、名代の許可を受けた者が経済的に困窮しま
なります。株化し、動産所有化していきます。すなわち、
上方らしいところで、この名代が売買、賃貸されるように
さて、名代は興行権の所有者です。名代の名義がなけれ
ば興行の許可がでませんので必ず必要なのですが、ここが
することができました。
が止められる形になっています。そのため、リスクを分散
言葉を言い替えると、興行が赤字になったら、すぐに興行
者がそれぞれ別々、しかも、興行者が複数存在することも
複雑さです。名代名(名代名義人名)、名代所有者、興行
人が興行に関わることになります。ここが上方の興行権の
彦」の名前で出される、という形になります。たくさんの
しかし、奉行所に提出される書類上、興行主は「斉藤利
そうなると、興行主が実際には五人いることになります。
いということで、五人仲間を募って一人二十両ずつ出す。
ばらばらになります。しかも、佛大太郎が百両で貸しま
興行権名義人名と所有者と実際に興行をしている興行主が
佛大太郎が興行をそのまましていけばいいのですが、佛
大花子さんに興行権を貸す場合があります。そうすると、
佛大太郎は興行権所有者になります。
り替えが一切行われないので、最初に興行権を下付された
あります。
名代と座本と芝居小屋主の三位一体によって興行が成立
するようになっていまして、諸権利が分割されています。
人の名前でずっと権利が賃貸、売買されます。
つぎに、上方の座本、これは興行師ですが、一座を組む
必要から役者がなることが多く、これを「役者座本」とい
しょうと、いった時、佛大花子さんは一人では全額出せな
例えて説明しましょう。
斉藤利彦が大坂町奉行所から名代をもらいます。名代
49
せんので、実質的な興行者である「芝居師」が関わってい
きな特徴です。
くって芝居小屋を売るということもありました。これも大
くようになります。座本の名前も奉行所に提出するのです
さらに、江戸の大芝居は座元が芝居小屋主ですので、小
屋名は座元の名となります。中村座・市村座・森田座(守
いました。実際には役者が興行を取り仕切ることは出来ま
が、地位の高くない役者や子役の役者名を使うようになり
やめられる体制になっています。赤字の分は関わっている
田座)といった具合です。しかし、上方の場合は、今、述
もう一つ、芝居小屋主についてですが、上方の場合、芝
居小屋の所有者であり、経営者である芝居小屋主が興行権
人たちで割ることになります。江戸の場合は、大芝居の興
ます。ここも、上方の非常に複雑なところでして、番付で
をもっていないことが多いので、貸小屋でしかありませ
行は座元が総責任者ですから、全てが座元にかかります。
べましたように、立地場所がそのまま芝居小屋名となりま
ん。江戸の場合は、座元が芝居小屋の経営者ですので、自
上方の場合は、三権がばらばらですのでリスクを分散でき
座本と出てくるのですが、これは一座の総責任者であるは
分の所有の芝居小屋で、自分が一座の総責任者で興行権を
ます。集約と分散というのがキーワードになります。ただ
した。南側にあるので南座、北側にあるから北座、角にあ
もって興行をしているわけですが、上方の場合は、芝居小
上方の場合は、興行に関わっている人の中でもめ事が起こ
ずなのに、調べてみると子役がやっていたりします。本当
屋をもっていても興行権をもっていないと単なる貸小屋で
るとたくさん関わっているので、収拾がつかなくなること
るので角座、真ん中にあるので中座といったかたちです。
しかないので、名代や座本と連携して興行をやらないと自
があります。興行主が五人も六人も関わっていてそこでも
は責任者などやれないはずなのですが、便宜的に使ってい
分たちの生活ができないので、積極的に芝居をやろうとし
めますと、当事者では解決できません。しかし、大坂町奉
ることがあります。
ます。また、芝居小屋主は小屋は持っているのですが、地
行所や堺奉行所などは、この興行をめぐる争いや訴訟に対
こう見てくると、上方は諸権利が分割されているので、
一旦、興行が始まったとしても、当たらなかったらすぐに
主ではない場合が多いですね。ですので、地代が払えな
50
近世都市の芸能興行と差別
すので、その面でも気質の違いを生み出したのではないか
す。それも最後の五日間は御礼奉公だったといわれていま
は休座してももらえます。上方の場合は日割りで行きま
す。あと六回興行に出るのですが、一回だけ出演してあと
年間の契約料の払いがよく、最初に三分の二が支払われま
方の役者が江戸に行った場合もそうです。江戸の場合は、
し、給料の払い方も全く違いますのでびっくりします。上
戸の役者が上方にやってくると興行のやり方が違います
おそらく大きな影響を与えているだろうと思われます。江
このように、江戸と上方では大きく異なっていました。
全く異なる興行機構、興行慣行というものが役者の芸にも
ということが基本的な方針になっていたようです。
しては一切関わらないという姿勢でした。相対で済ませる
います。興行警固を河原者が行っていることが近世初頭か
固衆と村の者が喧嘩をして大騒動になったことが書かれて
つぎに、3頁の史料1をご覧ください。慶長十年(一六
〇五)の史料です。奈良の河原におきまして、河原者の警
した。
に、太鼓を打ったり、芝居小屋の設営、警護なども行いま
として請取来り候事 一、四條河原常芝居の櫓銭、太鼓祝
儀の義は前々年寄共仕切候由申伝候御事」とありますよう
芝居并に勧進能、相撲、櫓を上げ、太鼓を打候に付、祝儀
ました。レジュメ6頁の史料7をご覧ください。「一、諸
設営を行い、芝居小屋の周りを囲むといった仕事をしてい
の警備などを行いました。芝居小屋の設営というのは、近
芝居小屋の設営・太鼓の触れまわり、木戸銭の徴収、芝居
ところで、櫓銭とは①能・相撲・芝居などの諸芸の興行
場の入場料をさし、また、②興行の際、入場料の何割かを
めぐっての騒動ではないかと思われます。
者の騒動になったのかはわかりません。おそらく、櫓銭を
らうかがえるわけですが、どのような理由で村の者と河原
世初頭ですと河原が興行の場所でしたので、そこで小屋の
と思います。
Ⅱ 近世都市の芸能興行と被差別階層
興行慣行上、被差別階層、特に穢多層が深くかかわりま
被差別階層、特に穢多村に納める興行慣習のことをいいま
こういった近世の芸能興行と、被差別階層の人たちとの
関係はどうだったのかということですが、近世初頭より、
す。
51
た。しかも、序幕からずっとやるのではなくて、序幕が大
らないときは値下げをする、いったことも行なわれまし
まして、人が多く入っているときは値上げをして、人が入
が変わることはありませんが、江戸時代には普通に変わり
①についてですが、ちなみに、現在、南座で歌舞伎の興
行をおこないますと、興行中に一等席、二等席などの値段
閑話休題。
した。
あったのかよくわかりません。初演時は、今とは違う形で
で、初演時の「東海道四谷怪談」に対する理解はどこまで
お岩さまがあそこまで祟るのかわからない、ということ
す。
当たりすると皆が飽きるまで序幕しかやらない、そして、
②の興行慣行としての櫓銭は、芸能興行に関わる被差別
階層の経済的収益の一つでした。史料2には「元禄十二年
つまり、一日目しか見ていない人は、お岩さまがどう
なったかわからないんですね。二日目から見た人は、なぜ
人が入らなくなるとなりますと、そろそろ全部やるという
卯六月、岡崎村にて勧進の相撲在之時候、天部村へ櫓銭請
す。
手本忠臣蔵』の世界・舞台設定と綯い交ぜにしているので
り、時代設定や人物相関などを組み込んでいます。『仮名
た本来あった権利を興行側が制限しようとする動きが強ま
に、それを咎められたため騒動になったという史料です。
多層の騒動なのですが、無料で入場できるはずだったの
もう一つ、無料で芝居小屋に入場できる権利を有してい
ました。これは史料3になります。大坂の例で興行側と穢
取申候事。」とあり、櫓銭を徴収できる権利があたえられ
ようなことをしたりしています。
ま
ていました。
な
有名な「東海道四谷怪談」、初演時は二日間でひとつの
話が終わるという興行形態でした。作者の四代目鶴屋南北
興行は「仮名手本忠臣蔵」の序幕をやって、次に「東海
道四谷怪談」の序幕をやる、つぎは「忠臣蔵」の一幕目、
りますので、こういった騒動が起こるわけです。
の得意な「綯い交ぜ」というもので、忠臣蔵の世界、つま
そして「四谷怪談」の一幕目というように進行し、二日で
もともとは櫓銭といわれる入場料の何割かを徴収できる
正徳六年の事件なのですが、この前後あたりからこういっ
ようやく終わるというというのが初演時でした。
52
近世都市の芸能興行と差別
るようにという法令が頻繁にでます。
令がでまして、騙ったりするものがいれば、すぐに届け出
があったようです。無銭入場については、近世初頭から法
ていられるか」といって、ずかずか入っていくということ
無銭入場です。咎められると、「大小が怖くて芝居などみ
役人を騙って入っていくということもあります。いわゆる
行、役人も無料で入ったりしています。町人のなかには、
料で入場できる権利は穢多層がもっていたのですが、町奉
権利、かつ無料で芝居に入場できる権利がありました。無
の芝居が停止されました。弾左衛門はこういった事件が起
頭である日暮長兵衛と八太夫が櫓銭の徴収で揉め、八太夫
ら天満八太夫が人形浄瑠璃興行をするとき、ささら説経の
たとえば、江戸の場合、史料4にありますように、堺町
は中村座や市村座があった芝居町ですが、そこで、大坂か
す。
かけに、その関係に制限がかけられたりしている模様で
行面だけをみますと不明な点が多いのですが、事件をきっ
とですが、三都の大芝居の興行と被差別階層との関係は興
ることを容認することもありましたが、興行側と被差別階
事例の様に、京都町奉行所が穢多村の出訴に対して徴収す
否する傾向が強まります。拒否しても、後に述べる京都の
ましたが、享保期前後より、興行側がこれまでの慣習を拒
というような相互の関係になっていました。先ほども触れ
制限はかけられなかった模様です。
われています宮地芝居での櫓銭徴収や無料入場に関しては
下を興行面では脱したようですが、神社やお寺の境内で行
は寛文期の史料なのですが、江戸の大芝居は弾左衛門の配
銭等々については制限がかけられるようになります。これ
江戸町奉行所の裁可で、これは不届きであるということ
で、長兵衛が牢舎へ入れられて、弾左衛門は堺町からの櫓
こったことを把握していませんでした。
層との間で訴訟が多くみられるようになります。これはど
穢多層には芝居小屋入場の権利が与えられているのです
が、その見返りとして、芝居小屋の設営や警護などを行う
ういう理由からなのか、ということですが、その背景には
やってきて無料入場し、芝居の中で半畳―座布団のことな
大坂の場合はどうかといいますと、史料5にありますよ
うに、正徳期の騒動なのですが、穢多が二、三百人ばかり
宝永五年の「勝扇子」事件が影響しているといえます。
三都の大芝居と櫓銭との関係はどうだったか、というこ
53
のですが―をなげて舞台をぶち壊して興行側と大騒動にな
京都については不明瞭でして、江戸や大坂のようなこう
いった事件があったことは確認できません。ただ、京都の
かったかというと疑問が残ります。
がかかったと思われるのですが、これがどこまで制限がか
場を停止されます。大坂の大芝居への穢多村の管掌に制限
財を打ち砕いたりするという処分を行い、芝居小屋への入
題があるということで追放にしたり、諸道具を焼いたり家
書いているのです。こういったことは被差別階層をめぐる
充てる必要経費という言い方を町奉行所に提出する書類に
な論調で、従来からの慣習なんだから徴収できるという言
ですが、鍬や鋤だとか箒を整えるといっています。一方的
言い方もします。これは主張する上での方便だといえるの
した分は、御用の節に必要な諸道具の購入に充てるという
主張の内容は、穢多村側も、こういったことは従来の慣
習なんだ、と訴えますが、一方では、この十分の一を徴収
り、慣習を尊重する形です。 場合は、「櫓銭十分の一」という言い方をされまして、入
動向の変化、穢多村側から一方的に主張しても慣習が受け
ります。これに対しまして、大坂町奉行所は穢多の側に問
場料の一割を徴収する、あるいは、上納するという慣習が
入れられるとは限らないということを感じていて、このよ
い方だけでなく、御用の節に必要な諸道具を購入するのに
ありました。
うな方便を使ったのではないかといわれています。
ように、勧進能、勧進相撲においても入場料の一割でし
京都では「櫓銭」上納を「櫓銭十分一」と称し、入場料
の一割を天部村などに納めていました。史料2にあります
てきたのか、といったことを書き上げています。
こと、過去にどのような興行の時に「十分の一」を徴収し
勧進相撲、芝居の際に入場料の一割を徴収してきたという
ここで、史料6をご覧ください。享保九年四月に西町奉
行所よりあった問い合わせへの返答です。従来、勧進能、
た。ただ、享保期前後から十分の一を上納することを拒否
Ⅲ 近世中期京都興行界と「櫓銭十分一」
する動きがあります。これを穢多村側が京都町奉行所に訴
これをみますと、万治二年五月といった日付がみえます
ので、かなり早い段階、近世初頭から、京都では「櫓銭十
え出まして、町奉行所側はその主張を受け入れます。つま
54
近世都市の芸能興行と差別
保三年に上鳥羽村の実相寺が六波羅で勧進相撲を行った時
分一」の徴収がおこなわれてきたことがうかがえます。享
になっています。それは史料
ます。享保三年にも再度「櫓銭十分一」をめぐって訴訟
町奉行所は徴収を容認します。これは史料9からわかり
です。このように何度も拒
に櫓銭十分の一の上納を拒んだことから出訴におよんだと
分の一の徴収がうかがうことができます。「古来より櫓銭
収をめぐっての史料です。四条河原での大芝居での櫓銭十
書かれています。史料7も、辰巳萬吉の芝居での櫓銭の徴
きっかけが、「勝扇子」事件です。
ています。ただ、拒否できるような環境、意識が生まれた
否をして、そのたびごとに京都町奉行所は徴収の容認をし
そうし御用の時分、持参仕候御用に遣ひ候鍬くわ、かま、
Ⅳ 「勝扇子」事件と弾左衛門
祝儀請取、東西御仕置者御座候時分、并に牢御屋敷内外の
ほうき、鋸、槌、兼て拵置候」、こういう形で自分たちの
「勝扇子」事件は、宝永五年に京都の四条河原のからく
り師小林新助が、歌舞伎芝居と操り芝居の興行権をめぐっ
公儀の御用の諸道具のために必要だといっています。
をしていました。これは史料8からもわかります。正徳六
のための勧進相撲を七日間行うことを京都町奉行所が許可
おこないました。実相寺は朝鮮通信使の宿所で、本堂修復
ません。享保元年に実相寺が北野七本松で勧進相撲興行を
房、一九七一年)に載っています。
されたものが『日本庶民生活史料集成』第十四巻(三一書
呼ばれています。現在、原本については不明ですが、書写
て秘蔵し、後世に伝えました。そのため「勝扇子」事件と
当時の芝居関係者はひどく喜びまして、二代目市川団十
郎はこの事件の顛末を記した文章に「勝扇子」と題をつけ
て、弾左衛門と争い法廷で勝訴となった事件です。
年は享保元年にあたります。この興行の際に蓮台野村が十
上鳥羽村の実相寺が勧進相撲の折に十分の一を出すのを
拒否したという話を先ほどしましたが、それだけではあり
分の一を徴収しようとするのですが、実相寺側はこれを拒
め、二十二人の人形遣いをひきつれて旅興行にでました。
事件の発端は、宝永五年閏正月に、京都のからくり興行
師小林新助が、江戸堺町の浄瑠璃太夫薩摩小源太をはじ
否します。
これに対して蓮台野村側が出訴します。そして、京都
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10
す。新助は江戸町奉行所へ訴え出て法廷で争うことになり
人ほどを連れて芝居に押し寄せ小屋をつぶしてしまいま
しく芝居を始めてしまいました。翌日、治兵衛は穢多三百
が決着しないうちに新助は房州の丸之内薄谷村へ移って新
断で芝居を興行していると苦情を申し入れます。話しあい
弾左衛門の手代の革買い治兵衛という者が、自分たちに無
の役者が小芝居へ出勤すると、二度と大芝居に戻れない、
江戸では、大芝居と小芝居(寺社境内での興行である宮
地芝居)とは、厳然たる区別がひかれていました。大芝居
ます。
することはできないというものです。この点を補足説明し
の芝居にもでるのであって、旅芝居と大芝居の四座を区別
第二点目は、役者は旅芝居で稽古を積んで江戸、京、大坂
左衛門の支配を受ける理由はない、といった主張です。
ました。これが事件の発端です。
別的といってよい区分がありました。しかし、上方の場合
房州などで村を廻って興行をしていました。その興行中、
三月二十一日、訴訟人の浄瑠璃太夫薩摩小源太らは月番
奉行の坪内能登守の取り調べを受けまして、弾左衛門や手
は江戸とは異なり、大芝居と小芝居、つまり、大芝居と宮
小芝居の役者は三座の檜舞台には出勤できないという、差
代の治兵衛と対決をすることになります。
申し上げを行いました。主な論点は、以下の三点です。
す。しかし、新助が自ら奉行所に出頭して、つぎのような
の支配を受けるという和解案を示して解決しようとしま
いません。所作だけを忠実にやらせていきます。そして、
のように呼ばれました。こども芝居というのは、こどもの
うことを「ちんこい」といいますが、それが略されて、こ
上方の大芝居の役者修業階梯は、まず、こども芝居、こ
れはチンコ芝居といいます。上方言葉では「小さい」とい
地芝居の関係は「格」の問題でした。
まず、第一点目は、自分はもともと京都でからくりの修
業を積んだ者である。御所にも出入りしているし、歌舞伎
中芝居、大芝居と上がっていきます。中芝居は宮地芝居で
はじめは江戸町奉行所も和解案を示そうとします。奉行
所は江戸堺町・木挽町の四座は別として旅芝居は弾左衛門
やあやつり人形芝居にも出演している。しかし、芝居興行
行われている芝居です。
芝居で、義太夫狂言をみっちり習います。セリフは一切言
については素人である。江戸に初めて下ってきたので、弾
56
近世都市の芸能興行と差別
居といわれて差別されているところが、上方では青年期の
こういうところで修業をします。ですから、江戸では小芝
第三点目は、旅芝居が弾左衛門の支配下にあるのであれ
ば、その証拠を示してくれというものです。
補足説明が少し長くなりました。。
修業の場になっています。そこで人気がでますと、大芝居
役者絵が出版されて本来なら大芝居で活躍するはずなの
で、大芝居から誘いを受けても断り、浜芝居で人気がでて
を作る必要がないのでお金がたまります。そういうこと
芝居の役者の衣装は興行師が貸衣装を与えますので、衣装
人もいます。大芝居の役者は衣装が自前です。中芝居、浜
子ども芝居、中芝居、大芝居と上がっていきますが、落
とされる場合もあります。また、浜芝居にずっととどまる
るということがありました。
た。伊勢や名古屋で人気がでて実力が認められ、大坂に戻
の役者でもありましたが、特に、大坂の役者は重視しまし
などにあがりました。旅芝居で稽古を積むというのは江戸
上方役者は中芝居の時に旅に出て修業をすることが多い
のですが、伊勢とか名古屋などで認められますと、大芝居
いうのもありました。
の直接責任者として革買い治兵衛、房州穢多頭の庄兵衛と
初は考えられもしない結果となりました。芝居打ちこわし
こういった主張が繰り返された結果、新助の主張が江戸
町奉行所に受け入れられて、弾左衛門側が敗訴します。当
うのはおかしい、と主張します。
いなのに、四百年前から自分たちが支配しているなどとい
ない。とりわけ、歌舞伎は阿国からはじまって八十年くら
の妻の阿国が出雲の神楽の真似をしてはじめたもの。官職
新助は、京都の歴史と地理の案内書である、黒川道祐の
案内書『雍州府志』を引用して、歌舞伎は名護屋三左衛門
ちらともつかないような発言をします。
などの関係者が呼ばれて証言がもとめられるのですが、ど
これに対して、弾左衛門側は、歌舞伎や操りの芝居が穢
多頭の支配を受けた例は数多いとして、新助に反論しまし
にあがります。また、大芝居と中芝居の間に「浜芝居」と
に、そこにとどまっている役者が大坂などではありまし
善兵衛は遠島となり、弾左衛門は、京、江戸、大坂の三か
名ももらっていて、穢多支配などということは何の根拠も
た。両者の主張は相いれないということで、結城武蔵太夫
た。
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所の奉行所へ三通の始末書を提出させられて事件は終了し
ます。
のところ、弾左衛門の影響力というものが増大するなかで
規制をかける、というような幕府の政策転換があったので
た。実際はすべての役者が配下ではないということではあ
目団十郎は喜んで事件の経緯を書きつけて、これを「勝扇
この「勝扇子」事件によりまして、大芝居の役者や浄瑠
璃太夫は弾左衛門の配下ではないと非常に喜びます。二代
はないかと、考えられています。
りません。大芝居の役者に限られています。
子」事件が投影された狂言が興行されます。現在の「助六
この幕府判決を、能の太夫や歌舞伎役者、浄瑠璃関係者
は弾左衛門配下ではないことを保証されたと受け止めまし
「勝扇子」事件と同じような芝居小屋の打ちこわしは、
能興行でも起こっています。少し時期は早いのですが、寛
由縁江戸桜」がそれにあたります。助六で有名な歌舞伎で
幕府側は公認しています。つまり、宝永五年の「勝扇子」
の何割かを徴収する慣習を、寛文七年の金剛太夫事件では
た。また、弾左衛門の櫓銭・祝儀などによる興行のあがり
て事件は終結します。弾左衛門の行動も不問とされまし
す。金剛太夫の陳謝と観に来ていた老中のとりなしによっ
興行であるとし、彼らは興行に乱入して演能を中止させま
で能興行が開催されます。演能中、弾左衛門がこれは無断
二代目団十郎は、当初、「自分は人非人なんだ」という
言い方をしていましたが、この「勝扇子」事件を機に、自
て江戸の守護神とまで言われる名跡でした。
常に重いものがあります。頂点です。江戸の人にとりまし
です。歌舞伎界におきまして市川団十郎という名跡は、非
助六は江戸っ子にとりましてヒーローです。皆があこが
れている助六を、江戸の飾り海老である団十郎が演じるの
すね。
子」と名付け家宝にしました。それとともに、この「勝扇
です。寛文七年に江戸
事件は、金剛能事件とは全く反対の判決がでた、というこ
分たちは弾左衛門の配下ではないと、とても喜びました。
文七年の金剛太夫事件です。史料
となのです。その背景はなんだったのでしょうか。
かな「花館愛護桜」といいまして、今以上に荒事のかかっ
そして、助六劇というものをつくりました。初演時は華や
この「勝扇子」事件に関しましては史料が少ないという
こともありまして、よくわからないところもあります。今
10
58
近世都市の芸能興行と差別
て、現在は「助六由縁江戸桜」と称しまして、人気狂言に
ているものでしたが、それが徐々に洗練されていきまし
ちなみに余談ですが、助六というお寿司がありますが、
これは恋人の名前が揚巻だったことから、そこから油揚と
に、投影させているのです。
いう老人が刀を持っていることを聞きだし奪い返すという
城揚巻と恋仲になった助六は、吉原で豪遊する髭の意休と
の宝刀友切丸を探して吉原に出入りしている。三浦屋の傾
助六劇では、助六は実は曽我五郎時致という設定になっ
ていまして、いわゆる、曽我物です。花川戸の助六が源氏
の見返りとして河原での興行では芝居小屋の設置、太鼓な
近世の都市における芸能興行は、被差別階層が深く関
わっていました。櫓銭の徴収と無料入場の特権をもち、そ
おわりに
巻寿司となっています。
なっています。
設定です。
ので、助六が意休に対して非常に失礼な物言いをします。
さらに、助六に二代目の団十郎を投影させています。そ
して髭の意休というのは弾左衛門を象徴しています。です
です。
実際の事件を他の時代の設定をかえ、虚構の実をあげるの
台設定の時代があります。王朝・源平合戦・太平記です。
いうことです。
の配下ではないということが幕府の採決として出されたと
は、こういった「勝扇子」事件が関係しているのではない
相撲の折、櫓銭十分の一を徴収されるのを拒否しているの
宝永五年の「勝扇子」事件以降、その関係が相対的に揺
るぎ訴訟が頻発していきました。上鳥羽村の実相寺の勧進
どの触れ、警固などを受け持ちました。
江戸の人達が見れば、弾左衛門に対してしているというこ
ただ、歌舞伎役者の身分的な脱賤化がはかられたのかと
いいますと、これ以降も歌舞伎役者たちは河原者といわれ
助六劇は吉原を舞台に進行するのですが、実は鎌倉時代
の曽我五郎という世界です。歌舞伎では「世界」という舞
とがわかるようになっています。「勝扇子」事件を、二代
ますし、天保の改革の際、大坂町奉行所は役者を一人、二
でしょうか。大芝居の歌舞伎役者、浄瑠璃太夫が弾左衛門
目団十郎が「花館愛護桜」という形で助六劇をやるとき
59
人と呼ぶのではなくて一匹、二匹といった数え方をしてい
ます。団十郎のみ一人と数えられたりします。教養のある
文人たちも、河原者が金儲けをしているというような言い
方をします。しかし、庶民たちは歌舞伎役者にあこがれて
崇拝の対象になったりもしました。階層によって歌舞伎役
者に対する意識は非常に違いがあります。
最後ですが、歌舞伎役者が身分上昇するのは明治に入っ
てからです。有名な井上馨邸で三日間行われました天覧歌
舞伎以降です。これ以降、歌舞伎役者は身分上昇を果たし
ます。そういう意味では、天皇が観る、いわゆる「天覧」
は大きな意味があるでしょう。日本の芸能を考えるとき
に、前近代から続く芸能の身分上昇を考えるとき、天皇と
の関係を看過してはならないと考えます。
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近世都市の芸能興行と差別
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山室軍平と京都
― 同志社時代を中心に ―
室 田 保 夫
73
本日の山室軍平についての報告が、近代日本における広
い意味での人権の問題や底辺の人々との関わり、貧困問
彼が編集した機関紙『ときのこゑ』も全巻復刻されていま
ています。『民衆の聖書』全二四巻です。生前中ほとんど
た著作や論文、書簡がおさめられています。彼はもちろん
題、福祉事業について考えるきっかけになればと思ってい
す。正式な著作目録は作られていませんが、『ときのこ
はじめに
ます。
などをあわせていくと、膨大な量になります。
生願ったという話が載っています。また、高浜虚子に「来
もを思う気持ちから「卵断ち」をして、子どもの幸福を一
どです。戦前の小学校の教科書に、山室のお母さんが子ど
たる地位をしめた彼が、どういった経緯で救世軍に入って
ます。副題が「一名従軍するまで」であり、救世軍に確固
九二九(昭和四)年に発行された『私の青年時代』があり
山室の伝記は数冊刊行されていますが、研究書ではなく
て顕彰的なものが多いです。彼が書いた自伝としては、一
ゑ』のほか、キリスト教関係や社会福祉関係の雑誌・新聞
救世軍の指導者でもありましたから、聖書の注釈集も出し
今日、ご出席の中で山室軍平についてご存知の方、何人
ほどいらっしゃるでしょうか。私の勤務しております関西
る人に我は行く人慈善鍋」という俳句がありますが、救世
いったのかということが主題で、この著では同志社時代に
学院大学でも山室や救世軍については知らない人がほとん
軍の「慈善鍋」というのは、歳末を表現する俳句の季語に
多くの頁を費やしています。
『人物でよむ近代日本社会福祉のあゆみ』からのもので
もなっています。今よりむしろ戦前のほうが有名だったか
山室は数十冊の本を書いていますし、論文の数もすごい
量があります。『ときのこゑ』という救世軍の機関紙があ
す。参照してください。
もしれません。
り月二回発行されているのですが、そこに小論文を毎回書
まず、山室と言う人物について簡単に説明します。レ
ジュメにある年表は、ミネルヴァ書房から発行されている
いています。昭和二〇年代から三〇年代にかけて『山室軍
山室は一八七二(明治五)年に岡山県の現在の新見市に
生まれました。中国山地の山間の村での誕生でした。後に
平全集』全一一巻が刊行されていまして、そこには主だっ
74
山室軍平と京都
させてからでないといけないのではないか、キリスト教と
のかと考え、キリスト教を伝道するには、まず生活を安定
言う人々でした。スラム街で伝道するにはどうすればいい
を聞いてくれない。難しい話よりも今日のパンがほしいと
ム街で伝道活動をしようとしますが、どうしても人々が話
ンドンに行きます。ロンドンのイーストエンドというスラ
地で伝道活動をしていました。新しい伝道地を求めてロ
救世軍についても簡単に説明しておきます。一九世紀
中ごろに、イギリスでウイリアム・ブースという人が各
へ帰り救世軍に入ります。
崎県の茶臼原、愛媛県の今治と各地を放浪したのち、東京
八九四年迄の同志社時代です。その後、岡山県の高梁、宮
今日の話の中心になるのは一八八九(明治二二)年から一
詳しく説明しますが、小学校を出て東京へ出るのですが、
ツルメント事業などがあります。また、慰問籠といって、
す。救世軍の活動には、慈善病院や結核療養所の設立、セ
の活動であるということを知っていただきたいと思いま
りします。しかし、やはり救世軍という教派のなかの一つ
室軍平もキリスト教社会事業家というレッテルを貼られた
が、社会福祉事業専門の団体と間違えられたりします。山
派から派生した一つのプロテスタントの宗教団体なのです
済をしようということです。救世軍というのはメソジスト
駆的にやっていきました。困っている人がいたら、まず救
積極的にしていきます。日本の社会福祉の歴史を見ていく
性たちを救済していく運動をはじめ、あらゆる社会事業を
か」といわれるほどになります。日本の救世軍は遊廓の女
救世軍中心の生活を続け、「山室の救世軍か救世軍の山室
に帰り、救世軍に入っていきます。そこから亡くなるまで
中で、ほとんどそういうことのなかった時代に救世軍が先
生活支援の二つをしていこう、そしてそれを軍隊方式で
す。日清戦争に勝ったということで日本が世界の注目を集
治二八)年九月に日本にやってきて各地に広がっていきま
日本だけではなく「満州」、アメリカ西海岸の日本人移民
ヘルパー、訪問看護のような活動もやっています。また、
の方が訪問する、英国での「友愛訪問」、今でいうホーム
やっていくと効率的であると考え、
正月用品を小さな籠に入れて貧民家庭に配布するという取
The
Salvation
Army
―救世軍―を一八七八年に創ります。それが一八九五(明
り組み、病気で寝込んでいる家庭があれば、女性の救世軍
める中で、来日するのです。ちょうどその年に山室が東京
75
部分を観ていただきます。ここには山室の生涯と廃娼運動
では、ここで岡山県の生んだ二人の社会活動家、留岡幸
助と山室軍平をとりあげた番組のうち山室軍平についての
四〇(昭和一五)年三月に亡くなります。
を指導した山室は日本が真珠湾攻撃をした年の前年の一九
を食べてください」と言うのですが、子どもが健康に暮ら
となのですが、山室が母親に「私は立派に成長したので卵
はないかと思います。彼が亡くなるまでよく言っていたこ
めることにいたしましよう。
をたどり、同志社に学ぶことになったかということから始
に話をしたいと思います。まずそれまでにどのような経緯
や社会事業等の日本救世軍の社会的活動、とりわけ果敢な
して生涯をおくれるように卵断ちして神頼みしているのだ
の人達の生活支援もやっています。そして、これらの活動
活動で展開された娼妓解放運動(廃娼運動)が紹介されて
からと絶対に食べなかったというエピソードです。それを
いがあったのではないかと思います。そこに彼の民衆像の
像、女性に対する見方、庶民の祈りというものへの強い思
彼は幾度も言いますし、説教のなかでも触れます。母親
さしあたり岡山時代についてですが、山室が農家の生ま
れであったこと、そして母親の「卵断ち」のことが重要で
います。
(ビデオについては省略します―編集部)
原点と称しますか、思想の原像が構築されたと思われま
す。
以上、ビデオで山室の生涯と救世軍の果敢な活動や先駆
的な社会事業活動について視覚をとおして確認していただ
をやっていて金銭的には余裕がありました。小学校に入っ
弥太郎の養子になります。杉本家は岡山県下足守町で質屋
彼が生まれたときはそれほど貧しくはなかったのです
が、後に貧窮したときに山室軍平は母の叔父にあたる杉本
きました。今回はこうした活動の原点が京都同志社時代に
て中等科に進みます。そして松浦黙という塾でいろんな勉
1 岡山時代
あったのではないかという理解の中で、同志社時代を中心
76
山室軍平と京都
すが、マタイ伝余師、ルカ伝余師というように自習できる
もらっていました。のちに山室は聖書の注解書を書くので
いって、四書五経を簡単に自習できるようなものを教えて
なさい、という話です。お父さんからは、「経典余師」と
いがあり、悪いことをすれば悪い祟りがある、善行に励み
書をその塾で教えてもらいます。良いことをすれば良い報
強をします。江戸時代の『陰隲録』『功過格』といった善
ら同志社との関係が始まります。
れを聞いて、すぐに京都に行くことを決断します。そこか
ば非常に清々しい気持ちになるというような話でした。そ
人として京都の新島襄を紹介しました。その人の話を聞け
徳富の講演のタイトルが「品行論」といい、品格を持った
之友』を刊行し、文壇にデビューしたころです。その時の
ことになります。ちょうど徳富が『将来之日本』や『国民
注釈書のようなものを書いています。山室は中学に入って
くっていかねばならない」といった演説でした。その後七
3 同志社時代
三回目に成功して東京にいきます。同じ足守出身の人松
浦鳳之信という人を頼って行き、築地活版製造所を紹介し
月に、岡山の高梁に伝道活動に行きます。その折に岡山孤
その後、大学にも行きたかったようですが、それを許して
てもらって職工になります。そして、たまたま築地の祝橋
児院に立寄り、そこで初めて石井十次と出会います。その
もらえませんでした。そのため三回も家出します。
のたもとで路傍伝道があって、そこで初めてキリスト教に
後ずっと石井とは関わっていくことになります。岡山から
一八八九(明治二二)年六月に京都に来ます。同志社で
開催された万国キリスト教青年会の第一回夏期学校に参加
接します。それをきっかけにメソジスト系の築地福音教会
帰って九月に同志社に入学します。お金がないので大変な
しました。そこで新島は演説をします。「明治維新は青年
の教会員になり、一八八八(明治二一)年九月に洗礼をう
苦学生でしたが、吉田清太郎から献身的な援助をしても
の手によってなされた。あなたたち青年が新しい国をつ
けます。そして、教会の中の福音青年会のメンバーにな
らっていました。まず一八八九年に同志社予備校に入り、
2 東京時代
り、そこで講演会を企画します。その時、徳富蘇峰を呼ぶ
77
ています。
かりませんが、ここで、初めて救世軍のことを聞き書きし
訳を筆記します。どこまで救世軍について理解したかはわ
ウイリアム・ブースの名著『最暗黒の英国と其の出路』の
をします。また、石井十次が同志社病院に入院した時に、
助や岡山の石井十次と震災孤児院の設立のための募金活動
に、大阪で博愛社という児童養護施設をつくった小橋勝之
す。一八九一年一〇月に濃尾大震災が起きました。その時
一八九〇年に始まる普通学校の生活ですが、『同志社文
学』といった雑誌などにいくつか論文も書き始めていま
に書いています。
遺志を継がんことをその在天の霊に誓う」と山室は追悼文
で信者の模範たる新島先生の肉体の死を弔い、謹んでその
「愛国者であって慈善家であって社会改良家である。謹ん
襄は一八九〇(明治二三)年一月に亡くなるのですが、
スルノ平民ナリ」と本当のクリスチャンは平民であると
にとらわれることのない生き方が必要だというものです。
は調子外れというものが必要である、当然その時の価値観
識的には調子外れではないのだけれども、天下を動かすに
ニアラズシテ時勢ニ先ツノ調子外レナリ」とあります。常
【資料8】では「天下ヲ動カシ天下ヲ制スル者ハ調子外
レノ人物ナラザルベカラズ。只其調子外レヤ時勢ニ後ルヽ
参照してください。
解です。資料に八つの小論をあげておきましたのでそれを
れているのですが、この時の文章は後のものと比較して難
ます。後の『ときのこゑ』などに書かれた文章はルビを全
ら西洋の思想などの引用文があり、漢文なども使われてい
しずつ翻刻しているところです。そこでは、日本の思想か
の小論のタイトルをあげられています。今、その小論を少
という論文を書かれていまして、そこで山室の八〇点以上
ると思います。杉井六郎先生が「同志社時代の山室軍平」
では続いて、この同志社時代の思想についてみていきま
す。一九八〇年代、同志社人文科学研究所で山室軍平の共
いっています。また、「篤実ナル信者ハ皆健全ナル労作ノ
翌年に同志社普通学校に進みます。五年の課程です。新島
同研究をしていた時に山室家から日記の一式が同志社に寄
人士ナリ」と、本当の信者は労働者であるとして、労働者
「先ツ基督ヲ拝スル者ハ単純質実、額ニ汗シテ野ニ羊ヲ牧
部つけて、まさしく平民のために非常にわかりやすく書か
贈されました。今後、少しずつでも紹介していく必要があ
78
山室軍平と京都
【資料7】の「石井十次兄トノ対話」では、「新島先生
ハ単純ナル宗教家ニアリシ」と書かれています。また、
たということだと思います。
だ二〇代ですから、自分がいかに生きるべきかを探してい
か」といったことがキーワードとなっていることです。ま
の視点」とか「平民」「本当のクリスチャンとは何なの
始まります。彼の文章を読んでいて気づくのは、「労働者
という本は、「私は一個の労働者である」という文章から
です。ちなみに彼の代表作『平民之福音』(一八九九年)
への尊敬を常にもっていました。平民=労働者ということ
「1.自ラ先ス直裁朴実均勤勉刻苦ノ労働者タルコト シテ之ヲ営マバ是ニ労力ニ因テ自活ヲ得ルノ道開ケン」
可ナリ、洋服匠可ナリ、三年之ヲ学ンデ而シテ後ニ独立
て「我ハ同志社ヲ終ルノ日、再ビ職工トナラン哉、活版屋
あります。例えば【資料1】では、「将来ヲ夢想ス」とし
きたらいいのかということを考えるために書かれた文章も
平民、民衆、下層の人々のためにといった言葉が、いろ
んな文のなかにでてきます。また、自分がこれからどう生
をすべきかといった視点を持っていました。
を与える、高潔なる快楽をあたえる、キリスト教を宣伝す
かれています。具体的には境遇を改革する、あるいは職業
【資料6】は「此滔々タル淫風ヲ如何セン」という小論
です。乱れている社会をどうするかということについて書
方に山室たちは尊敬の念を持っていたことがわかります。
治一九)年末から翌年にかけて来日しています。彼の生き
ギリスで孤児院を経営していた有名な人で、一八八六(明
【資料4】「労働者ヲ救フノ道」では、彼が救世軍に
入っていく必然性のようなものが語られています。同志社
に分けています。
【資料5】では彼が「貧困の原因」について考えていた
ことがわかります。貧困の原因を自然的原因と社会的原因
労
5.働者間ノ一改革者トシテ千弊万害ヲ革新スルコト」と
しています。
ト 4.労働者ノ代表者トシテ疾病難クルヲ言現スコト 2.労働者間ノ一伝道者トシテ宗教道徳ヲ宣伝スルコト 3.労働者間ノ一教育者トシテ日用必需ノ実学ヲ教ユルコ
る、としています。後に救世軍で廃娼運動を行いますが、
時代の考え方が救世軍に入る素地をもっていたことがよく
ジョージ・ミューラーについても触れています。彼は、イ
同じように社会問題とか風俗の乱れている状況に対して何
79
の山室には、社会問題や将来どうするかといったことにつ
入れていることが日記の中から読み取れます。同志社時代
かなり関心をもっており、下層社会、底辺の民衆を視野に
す。社会問題、貧困問題、矯風問題といった問題に対して
は同じ目線に立つ労働者として生きるという覚悟が窺えま
に対して魂をもって伝道を考えていかねばならない、自分
これまで見てきたように、山室は二〇歳ころから労働者
(平民)ということをキーワードにして真剣に考え、彼ら
思想をということでしょう。
ないということを言っています。外来でなくナショナルな
【資料3】「日本魂ニ授洗スベシ」では、日本魂という
ものとキリスト教というもの、二つを考えていかねばなら
こに端的に表現されています。
す。結局四つ目の労働者間に入り込むことを選択します。
労働者間に入り込むこと、この四つの選択肢をあげていま
社に復帰すること。三つ目は伝道者になること。四つ目は
ています。一つは藤井氏の養子になること。二つ目は同志
西しげ宛て書簡で、自分の進むべき四つの道について書い
児院に戻り、その後東京へ行きます。山室は今治時代に福
説教に取り入れています。今治の後、岡山の石井十次の孤
窮の真の意義」といった説教をしています。貧民の問題を
どうすべきかを迷っているのか、いろんなことをやってい
子どもたちと一緒に開拓事業を行います。この時期、将来
事業に送るのですが、その責任者となり、彼等を引率して
をしています。その後、宮崎県の茶臼原に行きます。石井
高梁の教会で働き、六か月間、牧師の見習いのようなこと
いて、すでに救世軍的な考え方を持っていたことがわかる
かくて一八九五(明治二八)年一〇月に東京へもどって
伊藤為吉に弟子入りをします。伊藤為吉という人は新進の
わかる文章です。後に救世軍で彼がやろうとすることがこ
と思います。
建築家でアメリカ留学をして伊藤設計事務所を開いた人で
書」を発表しています。これに山室は共感して伊藤の弟子
す。伊藤は職工軍団というものを作って「職工軍団趣意
ます。その後、四国の今治教会に行きます。そこでは「貧
十次が岡山の子どもたちを自分の生まれた茶臼原での開拓
4 彷徨の果て
一八九四(明治二七)年一月、同志社を飛び出します。
もう少しすれば卒業だったのですが中退します。六月から
80
山室軍平と京都
の代名詞ともなる、激越な社会運動とも称せる廃娼運動に
治三二)年に佐藤機恵子と結婚します。その頃から救世軍
ら山室の救世軍生活が始まります。その後、一八九九(明
ます。そしてその年の一一月三〇日に入隊します。そこか
くことになり、その結果、山室が救世軍に入ることになり
室に代わりに見てきてほしいという話になって、東京に行
石井十次が、自分が行きたいのだけれども行けないので山
さて、山室が岡山にいた一八九五(明治二八)年九月に
ライト大佐ら英国救世軍の一行が日本に来ます。その時に
に入るのです。
す。
視座」といった課題がこの時に形成されたということで
時代にみた思想があった。それは「平民伝道」「貧民への
るものでありました。その根底には、今日お話した同志社
災害救助、セツルメント事業に至るまで各分野をカバーす
児童保護、軍事保護、経済保護、医療保護、矯風・教化、
といみじくも述べたように、更生保護事業から婦人保護、
せられるわけである」(田川『社会改良史論』五七五頁)
ゆる社会事業なるものゝ種類と性質、目的と要領とが理解
ゆる社会事業の種類は、ほとんど一切を残さず網羅して居
に福音を伝えるだけでなく、福祉活動をしていった。その
けです。山室は名もなき労働者、平民の為に伝道し、彼等
軍か救世軍の山室か」といわれたような歩みをしていくわ
動や事業とも表裏一体ともいえる、すなわち「山室の救世
す。山室の活躍は先ほど映像でみましたように救世軍の活
音』です。これが今日にかけてベストセラーになっていま
頭演説、あるいは公会堂で演説して大歓迎を受けます。そ
います。各地で大歓迎を受け、京都でも四条河原町での街
とその経緯が書かれています。その年、ブースが来日して
(明治四〇)年にできました。【資料9】を御覧いただく
最後に、救世軍の京都小隊についてお話しておきます。
京都小隊は四条富小路を下がったところにあり、一九〇七
おわりに
るのである。それを、洽ねく視察すれば、略ぼ今日のいは
とりくんでいます。また、結婚のときに二週間の休暇をも
場が救世軍という団体でありました。
の時に山室軍平がブースの英語を流暢に通訳し、彼も大変
らっていますが、その二週間で書き上げたのが『平民之福
その福祉活動は、後に田川大吉郎が救世軍を評し「有ら
81
有名になっていきます。そして、ブースの来日、そして上
洛でのいわばブースフィーバーが京都小隊の創設の一契機
になります。その後、京都小隊も重要な活動を展開してい
くことになります。つまり、京都小隊のように、日本各地
に小隊(支部)が出来、次第に救世軍のネットワークが広
がり、救世軍の事業が大都市だけでなく全国的にも行われ
ていくことになります。戦前の日本において、その中心に
山室軍平と言う人物がいて、救世軍をとおして人びとへの
分かりやすいキリスト教伝道とともに、福祉政策でもって
生活を支援していったということ、その素地が同志社時代
前後に形成されていたということです。そして高浜虚子の
「来る人に我は行く人慈善鍋」という俳句にあるように京
都においても京都小隊によって四条河原町の高島屋の前で
年末の風物詩として見られることとなったのです。
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山室軍平と京都
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山室軍平と京都
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山室軍平と京都
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石井十次と京都・大阪
田 中 和 男
89
も全部が親がいないわけではなく預かっている場合もある
亡くなってしまうこともありました。また、孤児といって
ずっと留まっていくのではなくて、小さい子どもですので
人だったのが翌年には一六人となっています。この人数が
す。一八八七年に岡山孤児院は始まるのですが、最初は四
資料に岡山孤児院でどのくらいの数の子どもたちが世話
をされたか、新たに世話をした児童数の変化を書いていま
護施設を開いておられます。
方が石井の出身地である宮崎県の高鍋という町で、児童養
井が亡くなったのち、岡山から離れます。現在は、子孫の
続けています。ただ、岡山の岡山孤児院は一九一四年に石
在でも愛染橋の近くで石井記念愛染園隣保館として活動を
山ですが、大阪では岡山孤児院の分院が活動しており、現
にはあまり知られていません。活動した中心的な地域は岡
今日お話しする石井十次は岡山孤児院の創設者として社
会福祉の分野では大変有名な人なのですが、それ以外の人
かれています。「当市に於ける各基督教会員等は深更にし
東北凶作地の孤児二七四名が京都駅に着いた時の様子が書
年五月一六日の日出新聞の記事がそれに関するものです。
先ほど一九〇六年に東北で冷害や津波があって子どもた
ちを預かったということをいいましたが、資料の一九〇六
き継いでいるということです。
井記念友愛社」を高鍋に設立し、現在はそのお子さんが引
た大阪の分院は独立する形で現在も活動を続けています。
一九二六年に岡山孤児院は解散します。一九〇七年にでき
には大原も院長を辞任して他の人が院長を継ぐのですが、
大原孫三郎があとを継いでしばらく続きます。一九一九年
とがわかります。一九一四年に石井が亡くなるのですが、
なっていて、二〇〇〇人以上の子どもたちの世話をしたこ
す。創立三〇年記念の冊子では合計人数が二一一八人と
を預かっています。一九一六年までの人数があがっていま
〇〇人でした。一九〇五、六年は東北で冷害が起こった
ので、実家に帰ったりすることもありました。また里子に
て雨さへ加はりしに拘らず約数十名同停車場に出張の上
はじめに
でる場合もありました。一九〇六年には八三〇人もの子ど
一々孤児を慰問し菓子、麺麭、夏蜜柑等を一々同情袋に入
一九四五年に、石井の孫である児島虎一郎という人が「石
り、津波被害があったりした年で、たくさんの子どもたち
もたちを預かっています。院児数は一二〇〇人で職員は一
90
石井十次と京都・大阪
児教育会」を始めることになります。その趣意書は次のよ
ば卒業後に国家試験を受けなければならないのですが、甲
なろうと岡山甲種医学校に入学します。普通の医学校なら
宮崎県警察雇いのようなこともするのですが、結局医者に
とになり、なかなか進路が定まりません。一八八二年には
石井は一八六五年に宮崎県高鍋に生まれます。一八七八
年に東京の攻玉社で学びますが、脚気のために帰郷するこ
石井十次の福祉実践
い、それが広まっていったため、その後石井もその名称を
の実践を紹介するときに「岡山孤児院」という名前を使
教会牧師に就任した安部磯雄がキリスト教雑誌などで石井
学校や岡山キリスト教会の人々もサポートをします。岡山
けるために「本会を組織」した。その趣意書に賛同した医
性がある。私たちは「同胞兄弟の情」をふるって彼らを助
困にして不幸父母に離るゝ孤児」であり、「自業自得」で
れ分与」したとあります。
種というのは卒業と同時に医師の免許が与えられる学校で
使うようになります。この孤児院は日本で最初のものでは
うに訴えました。世間で「最も憐れむべきものはその家貧
す。一八八四年にはキリスト教に入信し同志社系の岡山キ
ありませんが、孤児教育で有名になっていきます。
帰り育てることにしました。医師になるための学業がうま
いの子どもを預かることになります。そして岡山に連れて
ま子供連れの親子がやってきて、前原定一という七歳くら
七年、岡山の郊外の診療所で手伝いをしていた時、たまた
す。学業についていけない状況になっていました。一八八
児院を離れた後に自活できるように、岡山孤児院の中に労
マッチ部をつくりました。施設の財源ということと将来孤
部、一八九一年には機織部、理髪部、麦稈部、翌年には
設立当初は試行錯誤を続けます。預かっている子どもた
ちを自活させようということもあって、一八九〇年に活版
石井十次を支えた人々
ないのに「良知」を発達できず「無頼の凶悪」に陥る可能
リスト教会に属します。石井には日記が遺されていてそれ
くいけば一時的なこととして終わったのが、挫折した状態
働をするような部門をつくっていきます。一八九一年に博
によると、一八八六年頃、医師への道について悩み始めま
だったため責任をもって預かろうということになり、「孤
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さな新聞を毎月発行して自分たちの活動を載せ、財政状態
八九六年には活動を紹介する「岡山孤児院新報」という小
井十次はかなり積極的に組織化をするようになります。一
にもいったりしています。朝鮮半島にもいっています。石
でなく、ハワイに行ったり、日本からの移民のいるカナダ
八九八年には賛助会員制度をつくります。国内を回るだけ
維持するために財源が必要なため、音楽会を開催したり一
を求める活動をします。多くの子どもや職員のいる施設を
一八九三年には、風琴音楽隊を結成して各地を回る活動
をします。孤児が演奏をし、石井が話をしたりして、寄付
す。
ります。分離したのは宗派の違いなどが原因だったようで
(現在の相生市)にありました。一八九三年まで一緒にや
小橋勝之助がつくった施設で今もあります。当時は兵庫県
するようになっていきます。常に懐にお金をしのばせて、
九年に訪問します。その時にショックを受け、サポートを
父さんの勧めで石井十