1 京 都 部 落 問 題 研 究 資 料 セ ン タ ー は 、 前 身 の 京 都 部 落 史 研

 京都部落問題研究資料センターは、前身の京都部落史研究所が部落史編纂のために収集した図書・資料を
生かしながら、部落問題・部落史についての情報発信を主な業務とするセンターとして二〇〇〇年七月に発
足しました。
部落史連続講座は、一九九五年に完結した『京都の部落史』(全十巻、京都部落史研究所刊)の成果を広
く生かしていくことを目的として二〇〇二年度から開催しています。
この講演録は、「地元で学ぶ地元の歴史」と題し、左京西部いきいき市民活動センターで開催しました二〇
一一年度部落史出張講座と、京都府部落解放センターで開催しました部落史連続講座の講演記録をもとに各
講師に加筆訂正していただいたものです。講演の行われた月日とテーマは次のとおりです。尚、所属は講演
当時のものです。
日 河原者 そのマルティプルな面目―時代に名を残す川崎の者―
5月
6月
月
11
18 24
高校教員 高野 昭雄
月 日 覚書・近代京都と屠場―三都の比較史―
元京都文化短期大学教授 辻 ミチ子
月2日 京都の近代史における朝鮮人労働者―山科地区を中心に―
日 戦後の部落解放運動と田中部落 朝田教育財団評議員 井本 武美
日 下村文六は京の弾左衛門か―はてな はてなの下村家―
大阪人権博物館学芸員 朝治 武
元京都文化短期大学教授 辻 ミチ子
日 田中部落・改善運動から水平運動へ―朝田善之助の視点から―
6月
27
12
大阪市立大学人権問題研究センター特別研究員
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吉村 智博
1
10
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目 次
― 時代に名を残す川崎の者 ―
河原者 そのマルティプルな面目 ‥
‥‥‥‥‥ 辻 ミチ子 ― 朝田善之助の視点から ―
田中部落・改善運動から水平運動へ ‥‥
‥‥‥‥‥ 朝治 武 戦後の部落解放運動と田中部落 ‥
‥‥‥‥‥‥‥ 井本 武美 ― はてな はてなの下村家 ―
覚書・近代京都と屠場 ― 三都の比較史 ― ‥
‥ 吉村 智博 京都の近代史における朝鮮人労働者 ‥
‥‥‥‥ 高野 昭雄 ― 山科地区を中心に ―
辻 ミチ子 下村文六は京の弾左衛門か ‥
‥‥‥‥‥‥‥‥ 3
42
16
98
115
137
2
河原者 そのマルティプルな面目
― 時代に名を残す川崎の者 ―
辻 ミ チ 子
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本題にはいります。レジュメの「一 室町時代の川崎
河原者」です。川崎という肩書きをもって歴史上、文字
す。
したように、川より西の今出川のあたりの地域になりま
て玄京町のあたりにかけてです。中世では、先ほどいいま
はどのあたりになるのかといいますと、馬場町を中心とし
このなかの川崎のことだけです。この川崎は現在の地域で
疇になります。ですので、今日お話させていただくのは、
してきたと言われる川崎、これらが江戸時代の田中村の範
か畠中、柳、百万遍、門前、蓼原、そして元和の頃に移転
や枝村を持っています。まず、本郷がありまして、そのほ
すように、江戸時代には行政村になっていく田中村は大字
たちが住んでいました。レジュメの「はじめに」にありま
から少し南側にかけてのあたりに川崎の人々といわれた人
域のことになります。今出川の橋の西側で、今出川の北側
と賀茂川の合流地点の川西のあたりにあった元の川崎の地
場町のあたりになりますが、今日のお話の前半は、高野川
川崎の歴史について始めさせていただきます。まず、資
料の地図をごらんください。現在の田中地域は玄京町、馬
を庭の者にくれています。さらに、同じ年に川崎入道とい
者が植えたりしていて、ごくろうさんと、お公家さんが酒
庭もつくらせています。お公家さんがそれをつくる奉行の
わかります。文明十年(一四七八)には、蓮池をつくって
頃です。御所で河原者に木を植えさせているということが
されています。文明六年(一四七四)、これは応仁の乱の
をみてください。これは『京都の部落史』の史料集に掲載
地域です。史料の①「川崎庭者、御所で作庭に携わる。」
れは他の地域と比べると早いです。早くからわかっている
が歴史上ちゃんと文字ででてくるのが、室町時代です。こ
に住んでいただろうといわれています。この川崎の人たち
員です。この清目と言われる人々が川の西側にあたる川崎
にあたりますが、そこに務めている公務員です。下級公務
りしているときは、検非違使庁という、今で言うと警察庁
先祖にあたる人々です。平安時代、まだ政治組織がしっか
いかと言われています。清目といわれた人々はこの地域の
と思いますが、清目といわれる人々も住んでいたのではな
川崎といわれているところは、平安時代までさかのぼれる
役割をしています。さらにその翌日、庭に大きな楓を庭の
原者」とか「川崎の庭者」という名称ででてきます。この
でちゃんとでてくる人々は「川崎の者」とか「川崎の河
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河原者 そのマルティプルな面目
した。資料②の「河原者、御庭者等、庭の手入れに従事す
御所の方々、お公家さん、武士などは待遇良くしてくれま
なのですが、やはり大事にされていました。庭者に対して
いたということです。隷属していたというと、それはそう
さらに夕飯もよばれて帰ります。こういう中で仕事をして
す。川崎の人にしましたら面目を果したということです。
おわんぬ」とありますように、梅染めの着物をもらいま
帰るのですが、その時にお公家さんから「御小袖を下され
いるのではありません。川崎の庭者は夕方に仕事を終えて
き使われているのではなく、低賃金で無理やり働かされて
来て石に物をつけたりして細工をしていました。ただ、こ
うな仕事をしていました。毎日のように川崎の人がやって
をやっていたかといいますと、石を持ってきて庭に置くよ
詠みが庭者でした。リーダー的な位置にいたようです。何
中の一つが発句です。後の俳句に通じるものです。その歌
ていましていろんな人々が詠み続けていくのですが、その
文化人で、発句をつくりました。室町時代は連歌がはやっ
と入道になります。ここにでてくる川崎入道はなかなかの
崎の庭者は信仰心があつかったようです。隠居したりする
う人がでてきます。入道というのは仏門に入る人です。川
の人たちは皮革業もやっていますが、ほかに、他の各地域
す。そして面目を保っていたという人々でした。この川崎
うことが他の地域よりも際立っていて、史料が残っていま
うように、川崎の人たちはお庭の仕事に携わっていたとい
やっていたとは思いませんでしたので驚きました。こうい
す。盆栽は江戸時代に発達しますので、私はこの時代から
史料に、「御盆山木」とありますが、これは盆栽のことで
んぬ」とあります。よく飲みます。次に文明十三年七月の
者もお庭の仕事をしてそして「河原者など酒をのませおわ
二月の史料には、下級の武士である「青侍」と一緒に河原
「清目」と言う言葉も使われていました。次の文明十三年
た。みな一概に河原者、そして広く言えばこの時代でも
もありますし、皮の仕事を専門にしている人もありまし
ている場合もありますし、庭の仕事を専門的にしている人
しており、庭の仕事をしていた人がそのまま皮の仕事をし
もしれません。これは当然、この時代から斃牛馬の仕事を
けではなく、皮ということを公家たちは意識していたのか
(皮カ)と書いています。川崎というのは川の崎というだ
「彼崎入道参るなり」とありまして、彼という漢字の横に
る」という文明十三年(一四八一)の史料を見ますと、
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銭を納めていない借金をしている人の借金はそのまま認め
は、お金を貸しているほうが税金を幕府に納めたら、分一
た―幕府は借金を棒引きにするということです。もう一つ
して幕府に納めたら―その税金のことを分一銭といいまし
している人が幕府に対して借金の額の何分の一かを税金と
かといいますと、一つは、借金(お金とは限りませんが)
ことが頻繁におこっているのが室町時代です。分一とは何
三行目に「今度徳政御法十分一に」とあります。こういう
が、分一徳政令をだしてくださいといっている文書です。
方々に対して米や麦などを借りていました川崎の人たち
倉幕府に頼んでださせたのが始まりです。③の史料は、
ます。これを徳政といいます。この徳政は武士が初めに鎌
に借金棒引き令を出して欲しいと願うということが起こり
金を借りて返せなくなり、金貸しに金を返せないので幕府
町時代の終わりのころです。室町時代、武士が土倉からお
す。史料の③をご覧下さい。天文十五年(一五四六)、室
よう、農民として認めてもらおうという動きも出てきま
わかるのがこの川崎の地です。天部もわかりますが、もう
の者が集団で住んでいたということがこの時代はっきりと
ます。そしてこういうことを集団でするということは、庭
きの文書に名前を書くという社会状態であることがわかり
人となります。室町時代には女性が所帯主として借金棒引
ますと、誰々の後家として出てきます。明治になると未亡
す。所帯主として出てきています。これが江戸時代になり
「おとく」「おつる」といった女の人の名前も出てきま
人々の名前がわかるというのは珍しいです。「おかめ」
と書いたのがこの史料です。天文十五年のころの川崎の
さいというときに、川崎の誰が誰に何を借りたかをずらっ
の庭の者たちが、税金を納めるから借金を棒引きにして下
ますと、中国から輸入していました。そういう中で、川崎
なります。では、室町時代、お金はどうしていたかといい
心でした、徳川幕府になると、土地、米が中心の世の中に
ないのかと思われるかと思いますが、室町幕府はお金が中
てやるというものです。お金よりもお米中心の世の中では
いる人が税金を払ったら、その貸している人の債権を認め
たら、借金棒引きにするという命令を出す、お金を貸して
る、棒引きにはしないというものです。幕府はどちらにし
少し時代が下がります。
でもでてきますが、田畑を耕す、農業をして生活をよくし
ても得をしています。お金を借りているほうが税金を払っ
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河原者 そのマルティプルな面目
らい必要でした。ですから川崎だけではだめでした。その
ると、武士もたくさんでてきますが、河原者は二〇〇人く
になりました。その時に活躍するのが河原者です。一回や
者の技術を訓練する大事な行事として盛んに行われるよう
稽古に犬が使われるというようになっていきます。この騎
の中になってくると武士が馬に乗って矢を構えて敵を討つ
した。除災の儀といわれた儀式からはじまって、武士の世
追いかけるというものです。元は災いを祓うという儀式で
に乗ってひき目の矢、当たっても突き刺さらない矢で犬を
ただいています。この犬追物というのは、元々は武士が馬
館大学の川嶋将生先生の研究の成果を拝借して喋らせてい
追物が行われていたと考えられます。この中世の話は立命
る地域ではないかと思いますが、ここで幕府の主催する犬
野川を越えた東側で、多分この「いきいきセンター」のあ
時代に下鴨の河合神社より東のほうでやっていました。高
どの名前があげられますが、この犬追物というのは、室町
は「犬追物」が盛んに行われました。八代将軍足利義政な
では、川崎の者はどうして生活をしていたのかというこ
とですが、レジュメの一の(2)になります。室町時代に
なければなりませんでした。信長が死んで二年ほどたっ
は通したらあかん」といわれたら、警官のような役割をし
役、特に戦争が起こったときに、上級の武士に「あいつら
す。それがこの川崎の大きな特徴です。今出川の橋の番
ですが、それが川崎の人たちの大きな役目になっていま
ので大きな橋です。この橋の番というのは大変な仕事なの
都の北東の交通の要衝でした。高野川と鴨川が合流します
がよくわかる良い史料になっています。この今出川口は京
室町時代の終わりから信長、秀吉のこと、京都全体のこと
の日記が残っています。『兼見卿記』といいます。これは
田神社の神主の吉田兼見が力をもっていました。その兼見
そしてもう一つの川崎の河原者の仕事は、今出川口の番
役の仕事でした。この辺一帯は室町時代の中頃以降は、吉
養って、使ったかで賃金がもらえたようです。
した。そうすることで礼金がとれました。どれだけの犬を
犬を育てたり、放したり、斃れた犬の後始末をしたりしま
辺り一帯が馬場であったと考えられます。そこで河原者が
て武士が馬で射るということをやりました。この馬場町の
ました。そして、大きい土俵をつくってその中に犬を放し
り、犬追物に放つまで責任を持つ、そういう仕事をしてい
中の一五〇人くらいが犬を捕まえてきて犬をそこで養った
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れています。
は少し、北へは広く、というそういう地域だったと確定さ
の研究で、中世の頃の川崎は、今出川通りをはさんで南へ
がいたところは、いろいろ諸説がありましたが、川嶋先生
のために大きな働きをしたといえます。この川崎の人たち
担ったのが川崎の河原者です。武士の配下にいて治安維持
番衆によって出入りする人の取調をやります。その番役を
七口を全部封鎖しろと命令がきます。すると今出川の橋は
た。その一族の佐久間道徳が謀反をおこしました。京都の
に対抗して負け、切腹させられるということがありまし
あと柴田勝家と豊臣秀吉との闘いのときに佐久間氏が秀吉
てしまいます。また、佐久間家の親戚筋が、信長が倒れた
柄をたてていたのですが、後に失敗をしでかして追放され
武士の一族なのですが、信長に仕えていて初めのころは手
間道徳が謀反を起こしました。佐久間家というのは大きな
役割を担います。天部と六条とこの川崎の三つが中心で
川崎村は江戸時代の初めは下村家の下で、そして下村家が
寺の門徒であり入道して名前をもっている人が続きます。
われました。次右衛門一徳、次右衛門順西といった、本願
者になります。ここでは次右衛門が年寄の世襲名として使
ますと、枝村ですが川崎村ということになり、年寄が指導
崎の移動と関わりがあるかもしれません。江戸時代になり
地へ移ってきた寺です。詳しいことはわかりませんが、川
これは豊臣秀吉にかかわりの深い寺で、近世の初期に今の
とになります。レジュメに干菜寺光福寺と書きましたが、
した。時期的には川崎に移ってきたのは元和年間で少しあ
として、天部もそうでしたが、この川崎も移されていきま
いった大きな仕事をしました。そういった都市計画の一環
くるとか、平安時代のままであった道を細かくつけると
りません。ただ、豊臣秀吉は京都の都市計画でお土居をつ
人々が高野川の東側に移らされたかということは良くわか
けません。一番上は年寄でした。なぜ川西にあった川崎の
レジュメの「二 江戸時代の川崎村(田中村の枝村)」
にいきます。江戸時代になり、田中の方へ移転させられ田
す。そういう役割を担う村になります。史料の④にありま
て、秀吉の天下になろうとしている時、天正十二年に佐久
中村の枝村となります。本村の田中村は庄屋、年寄といっ
すように「六条・天部・川崎村がおさん茂兵衛の処刑にあ
取り潰しになってからは四座雑色のもとで、幕府の行刑の
た村役がいるのですが、枝村になった川崎村は、庄屋はお
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河原者 そのマルティプルな面目
をきちっと念入りにしらべることをちゃんと果したという
橋をちゃんとしておこうと、「橋杭」「橋板」「橋廻り」
す。誰かの名代がやって来てどこを通るかわからないので
の役を担う人がいます。この史料では弥左衛門が橋守りで
については史料⑦にあります。川崎村の年寄の下で橋守り
大きく違うことは今出川橋のことです。今出川橋の橋守り
ずさわっていたのです。この川崎村の仕事で、他の村とは
い歴史を持っている村として四座雑色のもとで刑吏役にた
たようです。川崎村はこういった天部や六条村と一緒に古
というのは文書にちゃんと名前がでてくる大した人物だっ
べるということは出来てないように思われます。又次郎役
研究して書いておられますが、日本では人物像について調
部謹也さんはヨーロッパで処刑役をやっていた人のことを
通の人にはできない、腹がすわっている大人物でした。阿
刑にあたる役をした人です。天部に住んでいた人です。普
います。文書の最後にかいてある又次郎というのは直接死
いうことです。史料⑤でも、この三つの村が中心になって
もの時分には有名でした。その処刑の仕事をさせられたと
き、近松門左衛門が脚本に書き芝居にまでなり、私の子ど
たる」という記録が残っています。井原西鶴が小説に書
だから一乗寺村や高野村の村々は田中村は大人気ないと悪
度も話し合いをしたけれどもどうしてもうまくいかない。
ほしいと回りの村にいってきた。回りの村々と田中村が何
た。そして橋の管理は大変だからもっと通行料を取らして
ました。ところが最近、田中村が管理したいといってき
ん通行料をとるということもせず、きちんと管理をしてい
出川橋は川崎村の治右衛門の下で管理しているが、たくさ
行所へ今出川の仮橋を作らせてほしいと願い出ました。今
料です。一乗寺村の庄屋や高野村の庄屋たち十二ヶ村が奉
で、ここで口頭で紹介します。寛政七年、一七九五年の史
れています。私もみせていただき書き写してきましたの
れているのですが、これは現在京都市歴史資料館に保存さ
件が起こりました。この事件については、別の史料に記さ
表者たちが計算して企画をしました。そういった時に、事
いう事をして橋を付け替える計画をたてました。村々の代
五ヵ年の間万人講と称えて数万人から寄付を集める、こう
ちが万人講を企画したというものです。毎日銭一文づつ
出し合い、周囲の村の人たち、この時は三十四ヶ村の人た
く起こるので新しい橋を架け替えたいと、みんなでお金を
ものです。史料⑧は、今出川橋は人がよく通り、洪水もよ
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ういった交通の要衝とか、大事なところに河原者の村があ
たのか、などがわかるのではないかと期待しています。こ
橋という通行の上でとても重要な橋の管理がどうなってい
してくれるとそれぞれの村がどうなっていたのか、今出川
す。私はもう眼が見えないので無理ですが、研究者が研究
うなったのか、一乗寺村や他の村の文書が膨大にありま
ういったことが書かれた文書が出てきたのです。その後ど
せるとちゃんと管理をしてくれる、というものでした。こ
十二ヶ村の言い分は、川崎の治右衛門らに管理を請け負わ
二ヶ村に命じてくださいと奉行所へ申し出た。そのときの
いかない。それでこの十二ヶ村の庄屋は仮橋の管理を十
用を切り詰めてお金をつくって田中村と交渉したがうまく
まくいかないので、橋に近い所の十二ヶ村が自分の村の費
で、白川村に仲介にはいってもらった。ところがそれもう
れど田中村とちゃんと折り合いをつけないといけないの
いいだした。川崎村は回りの村から信用されています。け
は川崎の治右衛門にまかしたらちゃんと管理ができる、と
研究も進んでいます。こういった講座などで、川崎のこと
ん出た仕事振りを発揮していたことがわかる史料があり、
代、明治になってからは学校の教育やいろいろな面で抜き
理が必要なところがあり、成果が待たれます。しかし、近
るまでどういう生活ぶりをしていたかはまだまだ史料の整
ます。もっと時代が下っていって江戸時代から明治にいた
とで非常に神妙に仕事をしていたという仕事振りがわかり
が特徴になります。そして近世になると交通の便というこ
村々と同じ様な仕事をしていますが、中世をみると庭作り
るといいと思っています。江戸時代の川崎村はほぼ、他の
したような文書がでています。もっと具体的なことがわか
ようにしたいと思っている、というような意志がはっきり
川崎村の人々に管理してもらってスムーズに通行が出来る
橋の管理をしている、だから我々周りの村も一緒になって
配仕」と書いています。神妙に、つまり一生懸命きちっと
レジュメの「おわりに」に書いていますが、今度出てき
た書類に川崎村の弥左衛門などのことを「甚神妙ニ懸引支
たのではないかと思います。
れども実際の仕事の面では一生懸命やっている村が多かっ
り、京都だったら所司代、奉行所、四座雑色といった支配
を知っていただければありがたいと思います。
口をいうようになった。その中で一乗寺村や高野村の庄屋
の系統が出来ているなかで、世間的には差別されているけ
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河原者 そのマルティプルな面目
2011 年 5 月 27 日
河原者 そのマルティプルな面目 ―時代に名を残す川崎の者―
辻
はじめに
田中村
たではら
本郷・畠中・柳・百万遍・門前・蓼原・川崎
一 室町時代の川崎河原者
(1)川崎庭者
作庭にたずさわる
資料①②
(2)犬追物の犬ひき
(3)今出川口の番役
吉田神社の神主兼見(かねみ)
通行の便
(4)川崎の地と人々
資料③
河崎観音堂ノ址 梶井町・中御霊町・北邊町などの当り
二 江戸時代の川崎村(田中村の枝村)
(1)川崎の移動(元和年間
馬場町
1615~23 年)
近くに干菜山光福寺
(2)今出川口年寄次右衛門(川崎入道)
次右衛門一徳
次右衛門順西
延宝 8 年(1680)六条村北組と南組の争論
(3)下村家のち四座雑色のもとで行刑役
役人村の行刑役
資料④⑤
役人村 5 か村
資料⑥
(4)今出川橋のことども
橋守りが橋の整備にたずさわる
資料⑦
今出川橋の新造は万人講で
資料⑧
今出川仮橋と通行料
おわりに
「甚神妙ニ懸引支配仕」
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噯(あつかい)に入る
ミチ子
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河原者 そのマルティプルな面目
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河原者 そのマルティプルな面目
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田中部落・改善運動から水平運動へ
― 朝田善之助の視点から―
朝 治 武
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田中部落・改善運動から水平運動へ
理論をつくらないといけないという立場の人でした。で
部投げ捨てるのではなくて批判的に継承して新しい解放
私は大学の関係で大賀正行さんに近いところにいまし
た。大賀さんは朝田理論に批判的だけれども、それを全
大阪の大学へ入りました。
運動の基本認識』という本もあり、朝田理論を勉強して
家でもありました。私が高校時代にふれた本には『解放
委員長でもあったし朝田理論や三つの命題といった理論
年です。それまで朝田さんは、部落解放同盟を代表する
なる時期です。朝田善之助さんが中央委員長を辞任する
に入った一九七五年頃は部落解放運動が大きな転換点に
で、部落問題の本を読んでいました。ちょうど私が大学
した。高校時代から部落解放運動に参加していましたの
を書かないといけないので何にしようかと考えていま
私は田中部落とは因縁を感じています。私は一九八〇
年三月に大学を卒業しました。卒業するには卒業論文
と全国水平社』を書いてからどうも自分のなかで動いてい
近思っています。私は二〇〇八年に『アジア・太平洋戦争
つもりですが、厳密な意味での研究者ではないのかなと最
まえるとか資料を読むとかといったことに関しては忠実な
分かりません。ただ自分の思ったことを歴史に仮託をして
言っているつもりで、私は研究者なのか物書きなのかよく
私は今も歴史の勉強をしていますが、歴史に名を借り
て、今の部落問題の現状だとか部落解放運動の現状に物を
書いた問題意識は今でも続いています。
きました。論文とはいえない稚拙なものです。でもそこで
卒業論文を「京都・田中の水平運動」というタイトルで書
の原点はやはり戦前の水平社の時代にあるということで、
いという問題意識を当時もっていました。そして朝田さん
を勉強するには朝田さんからきちっと勉強しないといけな
動や理論とかがどうもなじめないというなかで、解放理論
辺倒でというのは、理屈は分かるけれど体がなじめないわ
も私は大賀理論にどうしてもなじめないところがありま
て、よく言えば発展している、悪く言えば軸がぶれだした
書いているので、歴史の研究者なのかどうか。研究史を踏
けです。自分の生まれ育った篠山の部落の状況と大阪の運
した。私は兵庫の篠山の部落の生まれで農村部落出身で
というか、これは最近の部落問題の現状そのものに自分の
1 田中部落と私
す。どうも大賀さんのような都市型でしかも資本主義一
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かないませんでした。ですから一九八〇年に書いた卒論は
態が悪くて卒論を書くときには朝田さんに話を訊くことは
いので紹介して欲しいとお願いしていたのですが、健康状
会部長をやられた方なのですが―、朝田さんに一度会いた
の解放出版社に林神一さんという方がおられて―朝日の社
亡くなられたのは確か一九八三年だったと思います。大阪
一九八〇年というと朝田さんがまだ生きておられました。
当時はまだ戦前の雰囲気を残していたような気がします。
の地域を歩きました。今は近代的になりすぎていますが、
れが私と田中部落との出会いです。卒論を書くときにここ
校時代から部落問題を地域でやっていたゆえのことで、そ
識としてずっともっておりました。これは部落に生れ、高
当時、中央や全国の運動よりも地域に密着した運動や地
域の状況に対応した運動とは何なのかということを問題意
が。
ているから、何かを模索しつつあるということなのです
水平社が生まれる一つの前提を探るという目的もありまし
て、その意味を考えたいということで書きました。京都で
か、人に謝るということ、謝りにもいろんな形式があっ
たのものです。糾弾をやって謝罪するというのは何なの
ことを、奈良の同人誌的な下之庄歴史研究会の会誌に書い
③の「謝罪という差別事件の解決―一九二一年・京都駅
差別事件の検討―」は、一九二一年の京都駅の差別事件の
ます。
タンスで好きな事をやるのがいいのではないかと思ってい
来れば傍流、反主流になろうとは思いませんが非主流のス
スです。自分の生き方も出来る限り主流に身をおかずに出
をやるほうが本体が見えるわけです。私はそういうスタン
無視をされ続けた人、脇に追いやられた人、除名された人
とをやる、部落史研究の隙間を埋めています。でも実は、
をされ続けているこういう人をとりあげたらおもしろいの
話をしました。全水の委員長でありながら、ほとんど無視
所の所報に載せたもので、数年前に千本でやった講演会で
その辺にある資料集だとかをちょっと解釈しただけのもの
た。これは東七条を中心とした事例です。④は四年前にな
これまでの蓄積された理論や知識が対応できなくなってき
です。でも私にとっては大きいものです。
ります。白石正明さんと大藪岳史さんとの共同研究による
ではないかと思いました。私の歴史研究は人のやらないこ
②の「創立期全国水平社と南梅吉」は、京都部落史研究
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田中部落・改善運動から水平運動へ
係しているけれども相対的に区別をする、そういう発想を
でもって全国を見るというような逆も無理があります。関
理解しようとします。これは無理があります。地域の事例
が我々はともすると全国的な事例、一般的な事例で地域を
の生まれ方と地域の水平社の生まれ方は違います。ところ
ます。全国水平社と単位水平社の成立の相違、全国水平社
いると思います。その自覚の意味を問うということになり
いう運動です。そこには自覚という問題が大きく作用して
いとか言葉遣いが悪いとかそういうことを直していこうと
と、部落の貧困であるとか、貧しい生活実態とか風俗が悪
生まれたとは思っていません。改善運動とは何かという
善運動のなかから生まれたと思っています。融和運動から
というのはむつかしい議論が色々されていますが、私は改
水平社を担う主体がないと出来ないわけです。主体の形成
大きく変わったということです。水平社が生まれるには、
す。水平社成立期における部落青年の主体形成のあり方が
あるといわれていますが、私はそうではないと思っていま
次に、わたしなりの問題意識です。従来から水平運動と
いうのは改善運動と融和運動を批判して乗り越えた運動で
私にとって初めての部落改善運動史研究です。
地域社会における部落改善とは何なのか、ということも現
う意味です。差別糾弾闘争も歴史的に変わっております。
していると思います。純然たる区別をつけるのは無理とい
継承しているわけです。私はもっというと融和運動も継承
コールという意味ではなくて戦後の解放運動は改善運動を
そのものです。ただ、そのものという意味は一〇〇%イ
組みとして出来上がっています。今の解放運動は改善運動
され、戦後の解放運動が出来たなどということが一つの枠
いると見たほうがいいわけです。ところが改善運動が否定
戦後の解放運動イコール改善運動の一側面を多分に有して
生活が良くなって、これは改善運動そのものです。だから
が、この地域も含めてこれだけ住宅が建って施設が建って
平社が生まれた、戦後の解放運動が生まれたといわれます
は現在も生きていると思います。改善運動が否定されて水
連でも全国連でも同和会でもいいのですが、私は改善運動
です。戦後の部落解放運動、解放同盟でも全解連でも人権
つは、部落改善運動と水平運動の現代的継承ということ
それから、現在の部落解放運動ということもこの歴史
のなかから考えられるのではないかということです。一
もたないととけません。
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在を考える上で歴史から学ぶ事は大きいと思います。
安さんとの議論でした。
いますが、水平運動というのは世の中を平らにする部落解
念が広いです。水平社の組織活動としては水平社運動と使
すか。私はその使い方と同じです。水平運動というのは概
た。労働運動と労働組合運動、皆さんはどう違うと思いま
平社運動と使います。一時期、二人で論争をやっていまし
水平運動と呼びます。水平社博物館の守安さんは絶対に水
運動の思い出』です。ちなみに私は水平社の運動のことを
て』、北原泰作の『賤民の後裔』、木村京太郎の『水平社
まり多くありません。朝田善之助の『差別と闘いつづけ
きます。全国水平社の活動家の中では自伝というのはあ
ついて話しますので、歴史上の人物については敬称略でい
本を読み直しました。面白かったです。これからは歴史に
こういうことを考えていますと、もう一度朝田さんの本
を読まないといけないと思い、準備する過程で朝田さんの
るわけです。私もこうして卒論の話などをしていますが、
うと思いますが、歴史的な記憶と歴史的な事実は乖離をす
撃というのもあるかもしれない。これを元にしてしゃべろ
あるんです。中には隠蔽も忘却もありますしね。曲解、攻
らダメだとはいっていません。だからこそこの本は意味が
で言うと誇張と誇示が多いです。だから面白いです。だか
誇示があったり錯綜的な物語です。朝田の場合は、この中
あったり、隠蔽があったり冒険があったり誤解があったり
は面白いです。ところが、自伝は謙虚であったり誇張が
いとその運動は理解できないという単純な理解です。自伝
と思います。運動をやるのが人間だったら人間がわからな
ういうところが今、人物にむかわせている自分があるんだ
で、小学校時代から図書室で読むのは人の伝記でした。そ
た歴史的回顧にすぎません。僕は伝記を読むのが大好き
自伝の読み方にはいろいろありますが、朝田はこれを自
分では書いていません。これは口述筆記です。だから、こ
放運動総体、政治も含めて、それが水平運動だと思ってい
自己弁護があったり後悔があったりするわけです。人間は
こでは執筆証言時点での自分が過去を振り返って正当化し
ます。同じようで全然違います。そういうことを意識して
過去を喋る時必ず現在の自分を投影してしゃべっています
2 朝田善之助『新版 差別と闘いつづけて』の意義
使わないといけないということを気付かしてくれたのが守
20
田中部落・改善運動から水平運動へ
いのです。だからこそ厳密な史料批判とか自伝批評がいる
けです。その誇張とか隠蔽そのものがその人物だから面白
自己流解釈なんですね。価値がないと思ったらいけないわ
では意義があるわけです。体験と見聞による歴史的事実の
わけですが。歴史的記憶に基づく体験の記録化という意味
からこれは仕方ないことです。私の場合は後悔が先にたつ
なっています。
事実の確定をきちっとやること、というのが私の方法論に
しか事実はない、そうしたらその人の意識や認識を通じた
一〇年くらいとっていなくて、人の意識とか認識を通じて
があって意識があるというマルクス主義的な考え方はここ
か認識を通じた歴史的な事実しかないのです。だから物質
訳です。
人はそういうものですから。嘘もつくし、攻撃もするし、
しろいのです。朝田がだめだといっているのではなくて、
図をもって嘘をつく場合が結構あるわけです。それがおも
あってやっているのです。だから嘘をつくというのも、意
ると、ここにおいておけばいいという朝田なりの意図が
一九三二年にしているというのは自分の歴史的発展を考え
しかありえないんです。資料的にもそうなんです。それを
子講の棒引き運動をやったとあるのですが、一九三一年で
か、ただ単に間違ったのか、たとえば、一九三二年に頼母
売を営んでいて早瀬圓蔵商店に奉公していました。この早
あるらしいです。朝田の父親は大津市出身で和鞋の製造販
昔はこういうことはざらにあって、一年違うこともざらに
日でずっと通しているらしいです。この辺も面白いです。
生まれたけれど出生届を出したのが七月四日だから七月四
のです。朝田は一九〇二年七月四日、実際は五月二五日に
を振り返っておきます。これは本からの記述を要約したも
実をどう捉えていたのかということです。ここで少し朝田
なります。朝田は、私が今日話そうとしている歴史的な事
そういう方法論から言うと、朝田が自伝で捉えた「田中
部落・改善運動から水平運動へ」というのが一つの導きに
3 朝田が自伝で捉えた「田中部落・改善運動から水平運動へ」
悪口も言うし、自己誇示もします。客観的な事実などある
瀬というのは田中部落の人です。後に肥屋、汲み取りを
実は私は卒論を書くときから、この事実の間違いは史料
をみてわかっていました。これは朝田が意図的にやったの
のかというと、私はないと思います。それは人間の意識と
21
と米を買ったりして質から戻す、という生活だったと書い
しなので生活に困り、朝、質屋に質入して現金収入が入る
いうことです。米を買うのも大変で、日雇いでその日暮ら
だったようです。全体的に生活は苦しく質屋が流行ったと
く、皮革の仕事は少なくて皮革の仕事をしていた人は裕福
たというように書いています。青物行商と人力車夫も多
それを道路などに使う、その人夫をやっていた人が多かっ
ことです。すぐ向こうが鴨川ですから川の砂利を採取して
が多く、後には親方は土建屋の下請になっていったという
同、といった状況でした。親方が営むバラス採取業の人夫
部落の状況は、一九〇七年には戸数二五三戸、人口一五
八七人で非常に貧しく瓦葺の家が三分の一程度で便所は共
がいました。
ようです。朝田は五人兄弟で上に二人兄がいて下に妹と弟
で働き者だったようです。母親は世話好きで男勝りだった
の多い部落に流行ったようです。
す。一般地区では少なかったと思います。特に低所得者層
だったようです。それで経営できたのが浴場や夜学校で
保障するということがありました。特に田中部落が盛ん
になって経営しました。こういう民間金融で部落の生活を
らしいです。胴元というのがいて、部落内の有力者が講元
講、下水溝、風呂屋講とか大小あわせると二、三〇あった
方です。それが流行りました。この田中部落には、教育
たりする費用に充てます。貧乏人の工夫で民間金融のやり
者を決めてその配当金を出す。全体の収入は学校をつくっ
回か二回掛け金を集めます。集めるごとに抽籤をして当籤
というのは、例えば教育講だったら一五〇口くらい月に一
〇人のうち、卒業は六人、不就学児童が多かったというこ
くらいの人口だったことが想像できます。部落の同級生三
四分の一弱ということで、田中村全体からみると四分の一
約六三〇人のうち部落児童は約一五〇人でした。ですから
てあります。
小学校での差別ということで、教師と児童による激しい
差別がありました。朝田の武勇伝はここから始まるのです
やって一九〇七年から共同浴場の経営をしたという苦労人
養正小学校に入学したと書いてあります。養正というの
はもう少し後の言い方でこの頃は田中尋常小学校だったと
が、「私は差別されても相手を殴って負けなかった」とい
とです。頼母子講によって田中夜学校を設立しました。講
思いますが。一九〇八年に養正小学校に入学し、全校児童
22
田中部落・改善運動から水平運動へ
す。若手の自覚は米騒動によって高まり、青年会の役員の
制限が二〇歳から一八歳に引き下げられて若手が進出しま
改善事業が開始されます。同時に醇成青年会の役員の年齢
激しかったので軍隊も出動しました。その米騒動後に部落
撃したりしました。部落民衆の検挙もあり、田中の場合は
朝田にとって米騒動は大きな出来事だったようです。一
九一八年八月に勃発して町内外五軒の米屋に交渉したり襲
社創立まではこういう経歴の人でした。
て八ヵ月後にスペイン風邪になったということです。水平
校には一年間くらい通ったようです。京都予備校に入学し
職工として鐘紡京都支社に四年間勤務しました。田中夜学
印刷用の蝋紙をつくったりしました。一九一七年には保護
づくりをしたり、田中下柳町の福島クロムペーパー工場で
に行ったり、東山区の粟田焼本舗金光山竹次郎商店で陶器
いうことで、卒業して寺町五条下ルの篠本靴店に丁稚奉公
いし、すばしっこいということです。職業も転々としたと
時には悪太郎と呼ばれていたということです。ずるがしこ
ね。小さい時は善ちゃん、善ちゃんと呼ばれていたけれど
う話がいっぱいでてきます。事実そうだったのでしょう
起こった京都駅差別事件糾弾闘争をもちこんで組織化しま
あるのですが。その六部落青年連絡会に一九二一年の夏に
きたのかどうななのか、これができていたら大きな意義が
もこの頃です。実はこれは資料上、でてきません。実際で
時代とは全く違います。六部落青年連絡会が結成されたの
演説会が大きな自覚の契機になっています。これは我々の
を深め自覚も高めるという、演説会の時代です。ですから
ラシーの時代は、我々がテレビを見るくらいの感覚で金を
当時演説会に参加して刺激を受けたようです。大正デモク
います。水平運動における米騒動の意義を重視していて、
水平運動成立への道についてはどう書いてあるかという
と、改善運動や融和運動からの影響は少なかったと書いて
かちょっとわかりません。
を振り返ってそういったのか、当時本当に批判的だったの
れもにわかに信用していいのかわかりません。戦後に戦前
融和団体を作った人に批判的だったということですが、こ
的であったということです。大江天也、帝国公道会という
田静一が大江天也を連れて来るけれども多数の青年は批判
朝田は重視をしています。一九二〇年に義士会が開かれ上
払ってでも演説会に行っていろんな話を聞いて自分の知識
年齢制限を下げて若手が自覚的になったんだということを
23
理をしているんですね。泣かなかったというのは朝田の性
れは創立大会の後の様々な演説を聞いた話を朝田はこう整
報告にみんなが涙を流したが、自分は泣かなかったと。こ
の差別が深刻で、学校での差別や寺院、氏子の差別などの
全国水平社創立大会が開かれて田中部落から三〇人が参
加したということです。朝田の記憶によると、恋愛、結婚
うに思えます。
と理解できるのですが、それまでは朝田は誇張が激しいよ
るを得ないのが一九二八年三月以降です。それからはわり
事件が終って主要な活動家がパクられて朝田が前面に出ざ
自覚的に指導的立場にある人間とは思えません。三・一五
あたっている面がありますが、それ以前は朝田はそんなに
かのような書き方です。おそらく一九二七、八年頃からは
が多く、自己中心的です。全部裏で自分が歴史を動かした
らせたとか俺は裏で動いたとか、こいつを表に立てたとか
たと書かれています。朝田の自伝の特徴は、これは人にや
努力をして文章をまとめていますが冷ややかな文章です。
冷たいスタンスです。それではいけないと思って、何とか
した。水平社宣言について文章を書いたりしていますが、
か、リアリティーをもって受け止めることが出来ませんで
ですが鈍感な人間だったのか、文章が理解できなかったの
宣言も読みましたが、ぴんときませんでした。部落の生れ
ます。宣言があまりにいいので全部暗記して、時々喋る時
がうまく感情に訴える宣言の方が感銘深かったといってい
こちらのほうが読み物としては面白いです。綱領より文章
正はしています。ただ朝田自身は資料を見ていないので、
なので渡部徹さんとかが資料を当たっています。だから補
田の場合は資料を確認して書いていません。ただ口述筆記
分で直接書いています。資料を確認して書いています。朝
のは木村京太郎で、事実に関して的確です。この二人は自
だ、評価が高いのは北原の評価が高いです。もう少し高い
としてはこっちのほうが良く出来ていると思います。た
いての自己評価が明確に出てくるので面白いです。読み物
格からしてそうかもしれません。自伝を読むとわりと人物
自分が部落に生まれて解放運動にも参加しているのですか
した。しかし、朝田はスペイン風邪で相談に乗るのみだっ
が彷彿させられます。北原泰作の自伝は淡々と事実を書い
らもう少し熱をもって対象に向き合えるかと思っていまし
にそれを使ったとも書いています。私は高校時代に綱領も
ている面が多いのですが、朝田の場合は必ずある事実につ
24
田中部落・改善運動から水平運動へ
で宣言と綱領なんです。ちなみに、全水でもっとも重要な
て朝田は宣言と決議を朗読したとあります。これも間違い
いということがここでわかります。松浦清重が司会をやっ
るのか。実は改善運動と水平運動はそんなに敵対していな
が京都府水平社の委員長ですから、この辺はどうなってい
の記憶間違いだと思います。大正会の副会長の寺田清四郎
平社に参加してしゃべっています。ですので、これは朝田
会がつぶれてできます。記録を見てみると、和田信一は水
いわれるもので改善運動の受け皿になった組織です。自彊
す。大正会はこの地区の改善団体、もしくは自治的組織と
一九二二年四月二日に田中水平社が結成されます。醇成
青年会会長の和田信一と大正会が反対とか妨害行動をしま
か、自分の生き方を左右したとか一切ありません。
たが、いまでも綱領や宣言に感動したとか感銘を受けたと
いうのはこういうことです。
す。そういう人物です。朝田が捉えた水平社の創立までと
長をやって朝田より年長者で人望があったからだと思いま
かのような書き方をしています。私は、村の大正会の副会
わせると、こいつを据えといた、と自分が委員長にさせた
長に就任します。寺田清四郎は有力者なので、朝田から言
んけれども。京都府水平社も結成されて寺田清四郎が委員
ん。前進したのか解放運動が希薄化したのかはわかりませ
す。今は差別がきついといっても、結集の軸にはなりませ
る。今もやっている人がいますが、それは大きな間違いで
るわけです。ひどい差別を言えば言うほど結集がはかれ
ひどい差別をいうと「何だそれは!」ということで結集す
おりながら離縁された、という話が当時受けたわけです。
て結婚をしたのですが、部落であることがばれて子どもも
事情に応じて勝手にやってくれというのが水平社の考え方
議は各水平社でどんなものを作ってもいいんです。地区の
以上をフィルターに、今から喋ることは私が調べたこ
と、資料上事実のことです。資料が事実かというと資料も
4 田中部落の生活状況
水平社の時代は差別されているということで結集します。
文章は何かといいますと綱領と宣言です。全国共通でどこ
です。中西千代子の離縁された話はとてもよかったと書い
間違いがありますし、官憲資料には官憲の目線が入ってい
の水平社でもこれは変えてはいけないというものです。決
ています。中西千代子は大阪の西浜の出身で、部落を隠し
25
とわざわざ書くということは、部落は一般的に犯罪を犯す
いうと、「犯罪なく温順」だとあります。「犯罪がなく」
れは京都府の調査ですから役所から見たらどう見えたかと
と戸数が二一四戸、人口が一二九四人と増えています。こ
可能性があります。一九〇二年と一九〇三年の調査になる
かったのかもしれません。まだ近世の皮革業をひいている
違うので、川から砂利をとってくるという仕事がまだな
一九〇七年の状況とは産業の発展の度合いとか経済構造が
の頃は靴直しが多かったことがわかります。朝田の書いた
です。六割が生活困窮者でそのうち四割が極貧者です。こ
です。履物直しが約七割、人力車曳きが約一割という状況
部落の生活状況はどうなのか、ということですが、一八
八六年の調査によると、戸数が一五八戸、人口が八八一人
いうのが次からの話です。
応資料上、文字資料で確かめられたものを見るとこうだと
水平新聞とか方針書といえども信用できないのですが、一
いなかったので、これ以上はいわないでおこうと思いま
記述はそう部落の生活状況と乖離したようなことを書いて
事の面でも細かな資料をあげようと思いましたが、朝田の
いうことです。こういう部落だったようです。もう少し仕
社会の目のあり方が新聞だとするとこういう風に見えたと
政とかからみると治安対策があるから犯罪に目を向ける、
いですがある社会の認識の一端を反映していますから、行
いう風に報道されています。新聞というのはすべてではな
れは金を貯めるほど収入がないので当然のことです。そう
あります。金を貯めようという意欲のある人は少ない。こ
う時代です。また部落の中には「貯蓄の観念が皆無」とも
払えない、この頃は戸数割税ですから一戸につき何円とい
域」とあります。ようするに生活困窮者が多いので税金も
と多くの貧困者が生まれるような状況だったということで
なると階級分化というか階層分化というか、一部の金持ち
一九〇八年になると、数人の一万円以上の資産家がいる
けれども大部分はその日暮らしということです。この頃に
ます。運動家の資料には運動家の目線が入っていますから
率が高いとみているわけです。早瀬圓蔵ら貯蓄者もいまし
す。
す。一九一一年の新聞報道によると「租税徴収が困難な地
た。早瀬圓蔵は、先ほど言った朝田の父親が勤めていた商
店を経営していた人です。
26
田中部落・改善運動から水平運動へ
を克明にメモに残し始めるわけです。学校の先生でサラ
託児所をつくろうとか、家屋がぼろぼろで借家が多い、部
次に、改善運動が田中部落でいつから始められたかとい
うことです。ここでいう改善運動を、本格的・組織的とい
リーマンをやっておけば、社会的地位も収入も安定してい
時 時でやっておけばいいのですが、上田静一は偉
落の中の下水道とか家屋の整備をやろうとかそういうこと
う意味で限定するとおそらく上田静一が始めた改善運動が
て、
5 改善運動の成立と展開
重要になると思います。上田は一九〇六年四月に田中尋常
られませんから、風呂がなかったら風呂をつくろうとか、
始めます。でも生活態度そのものでは部落改善は成し遂げ
よくないとかそういう部落の生活態度そのものに目が向き
ころに目がいきます。言葉遣いが良くないとか衛生状態が
ります。学校の先生をやっていたらどうしてもそういうと
人が多いから子どもの教育を何とかしないといけないとあ
いています。たとえば部落には未就学児童、中途退学する
して、克明にこの部落をどう経営すべきかということをか
村経営とか使われていました。上田のノートが残っていま
あるけれども、地区によっては部落経営とか村落経営とか
すが、改善運動という言葉がその当時から使われることも
を使っていました。我々は改善運動と歴史的に呼んでいま
す。当時は部落改善という言葉ではなく、経営と言う言葉
小学校に赴任します。即座に部落改善運動を思いつきま
をするとかしないと解決できません。改善運動というのは
の子の就職を世話をするとか、失業状態の人に仕事を世話
部落の職業構造を変えるとかしないと出来ません。不就学
に取り組みました。本当に貧困を解決しようと思ったら、
の生活実態をより和らげる程度しかできないけれどもそれ
的に解決することは個人では難しいです。貧困であること
うと、部落の貧困からの脱却と人格形成です。貧困を本質
あったんだと思います。何を問題意識においていたかとい
親友夜学校をつくるには場所もいるし資金もいります。
それには有力者と話をつけなくてはなりません。行動力が
青年層・婦人層の改善をはじめるわけです。
でした。早くも一九〇六年一一月から親友夜学校の設立と
かを考えてメモをつくって行動に移すという、稀有な教師
るだけではなしに、どうしたら田中部落の生活が良くなる
い人でまず部落に目を向けたということ、そして目を向け
5
女性が働きにいこうにも子守をしないといけないというと
27
9
けるものだと批判されます。でも私は押し付けてもいいと
けです。原因を取り除かずに部落の自主的な努力を押し付
困を和らげる程度の運動だからということで評価が低いわ
改善運動は批判も強いです。貧困も、原因を解決せずに貧
した側を問わずに部落の人格ばかり言うということで部落
なお世話とも思うけれどもそういう事実も確かです。差別
念、常識を身につけた人格ということだと思います。大き
格形成、これは何かというと、一般社会で通用する社会通
で差別をしているとなりかねません。その中で、部落の人
場にある人が部落の人格をいうということは、上から目線
わけです。これはなかなかいいにくいです。差別をする立
りいるとかいったことがあり、人格ということに取り組む
れると自暴自棄になって性格が歪むとか人をねたんでばか
す。もう一つは部落の人格形成ということです。差別をさ
を少なくするというだけです。でもそれは意味がありま
路、委員には早瀬圓蔵ら有力者二五人、顧問には田中小学
拠に会長は田中村村長の小西源吉、後に愛宕郡長の兼田義
力者と上田静一の役割が大きかったと思います。それが証
察署長が主導したけれど、その下支えをしたのは部落の有
ているわけです。私はこの自彊会は愛宕郡長だとか下鴨警
ほどの貧困から脱却して人格形成をするという目的にあっ
「彊」は「強」の旧字です。まさに改善そのものです。先
の名で下して、それによって一二月に自彊会ができます。
して国民が要らぬ方向にいかないようにと戊申詔書を天皇
年の一〇月に、無駄遣いをせずに天皇の思し召しを大事に
会事業の中心になって部落改善をやり始めます。一九〇八
でも治安の悪化を危険視して政府が始め、郡とか警察が社
めるために様々な矯風会事業をやります。その一環で部落
る時期です。思想が悪化するというので政府は国民をなだ
れると思ったらなかなかとれないので政府に批判が集中す
多大な税負担で大国のロシアに勝って、賠償金や領土をと
だとされています。ちょうど日露戦後というのは、国民の
思います。それで人格がかわれば改善運動というのは大き
校長の木村弥一郎とまだ教師になって三年目の上田静一が
もともと限界を持っています。それは効率よく貧困の打撃
な意味があると思います。
は裏のフィクサー、仕掛け人だったと思っています。自彊
なっています。この若さで顧問になるというのは実質的に
部落改善団体の自彊会もできます。一九〇八年七月に愛
宕郡長や下鴨警察署長が部落改善を企図してつくったもの
28
田中部落・改善運動から水平運動へ
が部落改善運動だったわけです。
て徹底するわけです。自己規律をさせます。そういうもの
ではないわけです。これをしなかったら村人に罰則を与え
ました。改善運動のおもしろいところは、これは努力目標
による精神講話等です。これを破ったら罰則規定まであり
風俗の矯正、倹約の実行、質屋・高利貸しの取締、布教使
人女子の裁縫、下水の改良、道路の修繕、幼稚園の設立、
的には講の湯屋からの収益です。活動は夜学校の拡張、成
会の仕掛け人は上田静一ではないかと思っています。経済
す。青年も本を読んで修養して教養を身につける、という
者を重視して一九一一年二月に図書部と理髪部を設立しま
月、醇成青年会に改称されます。軍隊への入営者とか退営
この「醇」というのは、人を手厚くもてなすという意味
で、まさに改善運動にふさわしい名称です。一九一〇年一
ん。幹事長に寺田清四郎がなります。
の胴元で、部落の有力者です。田中部落の人ではありませ
〇名で、女子部二〇人、会長は浅井清三郎、これは教育講
員、推薦を受けた名誉会員で構成されます。男性会員は七
ことで夜学校のなかに図書部をつくります。理髪部、これ
を組織しておこうと、しかも卒業生だけでなく青年全体か
が、卒業すると社会にでてすさんでしまう。そうなら青年
年を統一することです。夜学校に行く時は監視できます
上田は同時に、青年団の組織化もします。田中村青年団
の結成は一九〇八年一月です。目的は夜学校の卒業生と青
善運動の延長としての、改善運動の青年版といってもいい
動をやっていたわけです。純然たる青年会ではなくて、改
をしたのでしょう。少しでも生活を改善していくような運
を引く仕事をして、金儲けをします。おそらく交替で運用
の三月からは自彊会から人力車を寄付してもらって人力車
は散髪代くらい節約しようということで青年が自主的に散
ら集めました。改善運動の一環としての青年団活動です。
ようなことを田中部落の青年会ではやっていました。そう
髪のバリカンを買ってやったんだと思います。一九一二年
これは会長が上田静一です。一九〇九年に醇厚青年会への
せざるを得なかったのです。
6 青年団の組織化
改組を行い愛宕郡青年会の支部にします。一五歳から三〇
歳までの通常会員、趣旨に賛成して金品を寄付する賛助会
29
守ろうとして上田はそれまでは田中尋常小学校の正式教員
制はうけないと村との対立が起こります。それで夜学校を
上田や青年会は自主的にこれまで経営してきたのだから統
とで、村当局がそれを規制しようとします。それに対して
自主的にまかしていたら不正もおこるしよくないというこ
どります。ところがお金の問題が解決しても、村は部落に
売却して全部整理をします。それでようやく講が正常にも
補填をしたかというと浅井清三郎の娘せいが自分の資産を
出し合った金が使い込みされるわけですから。それを誰が
ても不正に使ったら摘発されます。講が混乱に陥ります。
講元が集まった金を不正に使うわけです。民間金融といっ
のが娘せいです。ところが講をめぐる不正が起こります。
講を運営している浅井清三郎が死去します。後を継いだ
ところが、田中部落で混乱が起こります。これは大き
な混乱でした。一九一二年五月に青年会の会長もやって
けです。今と一緒で行政は法とか制度とか財政状況をみて
いうことになります。しかし、なかなかそうはいかないわ
ら、今で言うと行政が責任をもって、田中村が運営せよと
す。これまでのように講のあがりで運営するのは無理だか
には村民大会を開催して村費で夜学校の運営を決議しま
醇成青年会は統一して一貫して上田を支持し、一九一四年
なります。実質には青年会が改善運動の団体になります。
青年会が引き継ぐことになってこの時点で改善団体がなく
自彊会そのものが機能を停止してしまいます。事業は醇成
た者が自彊会の役員になっているのはおかしいとなって、
有力者は講の胴元でもありました。摘発されて不正を起し
自彊会と青年会はどうなったかというと、不正者を出し
たのは自彊会でした。自彊会の役員は部落の有力者です。
頃です。
までは行かないけれど分岐が始まるのが一九一二、三年の
そらく上田にもいい顔をしつつ村当局の指導も受けていま
だったのが、夜学校の赴任教員、出向になります。上田は
必ず拒否をしますから。副会長の寺田が指導力を発揮して
人いたのですが、それが摘発されて機能停止になり、寺
した。私は軸足は村当局にあったと思います。部落が分裂
これまで自彊会や青年会で動いてフィクサー役だったので
村のまとめ役になります。これまで早瀬圓蔵とか有力者は
7 田中部落の混乱と自彊会・醇成青年会
すがはずされて影響力を失うことになります。青年会は一
貫して上田を支持しています。ところが部落の有力者はお
25
30
田中部落・改善運動から水平運動へ
月には大江卓に書簡を送って北海道移民を取りくみたいが
帝国公道会の部落改善に期待をしています。一九一六年二
は大江卓らが部落を全国行脚します。一九一四年、上田は
するようになります。それをなだめるために、米騒動以降
特に米騒動以降です。部落青年が自覚をしてくると批判を
各部落の青年層から反発を受けたという側面もあります。
は、部落に対する同情融和を売り物にする事があったので
のが融和団体の役割です。ところが、帝国公道会というの
上で部落と部落外が対立しないように融和をはかるという
ことを反省し、部落は卑下をせずに自覚をもつ。そうした
するということです。その前提に部落外は差別をしていた
た融和団体です。融和というのは、部落と部落外が握手を
上田はどうなるかというと、帝国公道会に接近して北海
道移民を推進します。帝国公道会は一九一四年に設立され
有力者として台頭します。
田清四郎は青年会の中心で動いていたのですが、この人が
善運動をやめたわけではありません。
道移民なのです。上田は田中部落からは離れたけれども改
るのです。上田にとっての改善運動というのは、実は北海
地で新しい生活をしたほうがいいだろうと上田は撤退をす
とコンタクトをとって部落民を北海道へ連れて行って新天
道会、これは政府の内務省とつながっていますから、そこ
展望がない、これ以上発展しないと思い新しい道を帝国公
て、講で田中部落が混乱し、もう部落の中で活動する事は
道に行ってしまいます。おそらく夜学校の赴任教員になっ
た要求をしたようです。上田静一は一九一七年一月に北海
と道路にたくさん危険物があるのでそれを取り除けといっ
りをするときに駅から人力車をつかいました。賃金の問題
もうひとつは、人力車夫の生活改善要求が一九一六年に
おこり、上田が行政にかけあいます。当時、金持ちが寺参
研究されていますので参考にしてください。
ています。行ってからの詳しい事は白石さんや大藪さんが
道会が政府にかけあい、政府から北海道庁にかけあって、
8 地域社会における水平運動の成立
帝国公道会でも取り上げて欲しいと提案をします。帝国公
政府と北海道庁と帝国公道会の事業として北海道移民を実
水平社ができる過程はどうだったかということですが、
田中部落には大正会が米騒動以降にできます。一九一九年
現します。一九一七年一月に田中部落から北海道移民をし
31
ん。事業は風紀・衛生・情義―情に厚く義理堅い人間をつ
も残りますので、今でも田中に大正会があるかもしれませ
ます。今で言う財団法人の運営と同じです。財産区は戦後
一本に集めてそれを貯蓄し、その利子運用でやったと思い
寄付金です。おそらくこれは、講を整理したときに資金を
新たな有力者も組織しました。経費は基本財産運用収入と
うことです。警察の力を得ながら青年会も参加して部落の
員は一二人の有力者でした。自彊会のやり直しをするとい
副会長は寺田清四郎、先ほどの青年会の副会長です。評議
る大きな組織ができあがりました。会長は下鴨警察署長、
い、といって官製そのものでもない、部落の自治を代表す
自治会的組織であるということです。自主的とはいえな
うことですから、部落の人口ほぼ全員です。ということは
学校、会員は二〇歳以上の男子で約一三〇〇人を組織とい
大きな問題ですが資料上、よくわかりません。事務所は夜
れとも自治会機能をもったのか、これは改善団体の評価で
私はまだよくわかりません。自治会が別にあったのか、そ
に出来たかどうかはわかりません。六部落のゆるやかな青
ち嘘ではないと思います。ただ、六部落青年連絡会が本当
いているわけではなく記憶で書いているとすると、あなが
のですがこれは資料上でてきません。朝田は資料を見て書
落青年連絡会に持ち込まれて抗議行動を起こした、とある
二日に謝罪広告を提出します。朝田の自伝によると、六部
全体の問題だと抗議行動を始めます。謝罪を要求し、六月
ちが、これは七条部落だけの問題ではない、京都市内部落
批判的な記事を書きました。それで京都市内の部落の人た
行きます。このことが大阪朝日新聞に載りました。かなり
す。子どもが親に知らせて、部落の何人かが警察に抗議に
て殴ったんです。子どもが暴言をはかれて怪我をしたんで
年に、「穢多か、穢多なら殺してやってもよい」と発言し
に入ってきて注意してもなかなか出ていかない東七条の少
そういう中で、京都駅差別事件が起こります。一九二一
年五月、水平社の結成の前年の五月に、駅員が夜、駅の中
とか、罰金を決めたりします。
規定をつくって、部落の決めごとの会議には参加させない
りました。努力目標だけでは人間は守りませんから、罰則
くるということです―・児童教養の改善を行いました。こ
年の横のつながりができていたと考えても不思議ではあり
一二月に部落改善団体として設立されます。これの性格が
こでも厳格な規約がつくられて、罰則規定もよりきつくな
32
田中部落・改善運動から水平運動へ
くっていたら自伝に書くはずですが、書いていません。誰
て朝田の可能性も考えられますが、こんな大事なものをつ
はわかりません。この団体を誰が担ったのか。ひょっとし
差別撤廃期成同盟の記述があります。ただ記述だけで実態
の新聞報道に、普通選挙運動に参加した養正撤廃同盟会と
件が起こります。一九二二年一月、全水の創立の二ヶ月前
メンバーが吉崎民之輔です。続いて、上田荘吉差別発言事
層が一九二一年七月に自由青年団を結成します。その中心
桜田規矩三という人です。事件の解決に不満をもった青年
れる人です。この人とつながっていたのが全水を創立した
が新しい動きを始めます。東七条の青年会の革新派といわ
青年団の中では友愛会京都連合会らと繋がった吉崎民之輔
団を統制しなければならないということになったんです。
米騒動を契機とした警察当局による強力な青年団の指導
も始まります。東七条、田中の青年団も参加したので青年
も謝罪をさせたということはすごいことです。
載らなかったようです。私は見つけられませんでした。で
が崇仁小学校に残っていました。結局、謝罪広告は新聞に
ません。六月二日に駅員が謝罪広告をだします。その写し
ですまそうとします。ところが吉崎民之輔は徹底的に糾弾
をめぐって、南梅吉・寺田清四郎は、発言者の謝罪くらい
ことだと思っています。そこで問題はこの差別事件の解決
の功績ですが、そういう側面があったということは大事な
あまり重視されてこなかったのですが、これは鈴木良さん
そういう集め方を一方でしています。上田事件というのは
るからそこへ参加したという可能性もありうるわけです。
ですが、もう一つは上田糾弾のために大きな集会が開かれ
したというのは、創立大会に参加したという側面はあるの
糾弾を訴えます。全水の創立大会に京都からたくさん参加
は三月三日の全国水平社創立大会に上田事件を持ち込んで
して全国水平社創立関係者らも参加しました。吉崎民之輔
条と田中など各部落の有力者が差別撤廃示威講演会を開催
輔を中心として抗議運動がおこります。二月一八日に東七
の会話です。東七条と田中などの部落が憤慨して吉崎民之
んなえた村には這入れぬ」と発言しました。鈴木が上田を
一九二二年二月に、鈴木紋吉が上田荘吉を殴打し上田が
鈴木に「貴様等の穢多村には居らないから」もしくは「そ
はまちがいありません。
殴ったから差別発言をしたわけです。これは市会議員同士
が作ったのか、養正と書いてあるので田中部落であること
33
もりだったとあります。私は『水平』第一号のほうがあ
し、『水平』の第一号では最初から京都府水平社は作るつ
提案があって同時に成立したと朝田は言っています。しか
も、桜田規矩三から同時に京都府水平社もつくろうと緊急
田中水平社は一九二二年四月二日に京都府水平社と共に
結成されます。朝田によると田中水平社を作ったけれど
というと両方に足をかけていました。
に分かれているのです。では、桜田規矩三はどうだったか
取上げませんでした。だから水平社の創立の時にもう二派
だったから上田事件の吉崎民之輔とか青年の急進的な者は
か京都の中の穏健派が中心です。そういう人たちが中心
かというと、水平社を創立したのは南梅吉、寺田清四郎と
誌では上田事件のことはほとんど取上げていません。なぜ
をしている『水平』の第一号、一九二二年七月にできた雑
潮流が出来ていきます。水平社の創立について細かな記述
けないということだったろうと思います。そういう二つの
であったということです。通説でいわれていたように、水
来た。そしてその中心になったのは改善を担った青年層
私の結論は何かといいますと、田中の場合、改善運動
から水平社は生まれた。改善運動を継承して水平社が出
ことではないと思います。
会の副会長です。ですので、大正会全体が反対したという
演説をしているということは協力を得ているということで
ます。そして寺田清四郎は演説をしました。この人たちが
とは青年会全体が反対したということではないと私は思い
すが『水平』では参加したことになっています。というこ
朝田の自伝では妨害して参加しなかったことになっていま
あたりが全水関係者です。和田信一、青年会の会長です。
南梅吉、西光万吉、駒井喜作、近藤光、中西千代子、この
委員長に当選したと『水平』には書いています。参加者は
太郎が閉会の辞を述べました。選挙によって寺田清四郎が
の辞と経過報告、朝田善之助が綱領と宣言を朗読、和田寅
原託児所で約一〇〇〇人が参加しました。松浦清重が開会
たっていると思います。他の府県を見ていると大体、全水
平社は改善運動を批判して、恩恵的慈善的だから、否定し
しないといけない、おそらく市会議員をやめさせないとい
の本部をつくり、府県の水平社をつくって府県から各地に
て生まれたというのはあたりません。むしろ改善運動を基
す。そして寺田清四郎は青年会の副会長で改善団体の大正
広げていくというのが水平社のつくり方です。会場は西河
34
田中部落・改善運動から水平運動へ
盤にして青年層の自覚が高まって、それを基礎にして水平
社ができたと捉えたほうがいいのではないか。むしろ田中
水平社は改善運動の役割をもちながら運動を進めていまし
た。水平社を糾弾だけで捉えるのは無理です。階級的に捉
えるのは無理で、改善運動の継承ととらえたほうがいいの
ではないかというのが私の結論です。
35
田中部落・改善運動から水平運動へ
―朝田善之助の視点から―
2011.6.10
朝治武
1.問題意識と課題
①卒業論文「京都・田中の水平運動」(1980 年3月)
◇論文とは言えない稚拙なものであるが、問題意識は今も継続
◇絶大な影響力をもっていた朝田善之助への強い関心
◇中央・全国よりも地域社会に根付いた水平運動の展開を重視
②「創立期全国水平社と南梅吉」(『京都部落史研究所報』第 10~12 号、
1999 年8~2000 年1月)
◇全国水平社中央執行委員長の南梅吉に関する本格的研究
◇京都における水平運動の成立と展開をも検討
◇上田荘吉差別発言事件にも触れる
③「謝罪という差別事件の解決―1921 年・京都駅差別事件の検討―」(下
之庄歴史研究会『雑学』第 29 号、2004 年5月)
◇水平運動成立直前における東七条部落の差別糾弾闘争と謝罪を検討
◇部落改善運動における青年団の役割と部落青年の主体形成を探る
◇水平運動史研究において自伝の歴史的意味を検討することを提起
④「京都・田中部落の改善運動と上田静一」(『大阪人権博物館紀要』第9
号、2007 年1月)
◇白石正明氏と大藪岳史氏との共同研究による私にとっての初めての部
落改善運動史研究
◇部落改善運動の内在的矛盾と水平運動成立の前提をなした青年層の台
頭との関係を検討
◇部落改善運動が融和運動と水平運動の底流であることを指摘
⑤地域社会における水平運動の連続と断絶
◇水平運動は改善運動と密接に関係
◇水平運動成立期における部落青年の主体形成と役割
◇全国水平社と単位水平社の成立の相違
⑥現在の部落解放運動への照射
◇部落改善運動と水平運動の現代的継承
◇差別糾弾闘争の歴史的変容
◇地域社会における部落改善運動
1
36
田中部落・改善運動から水平運動へ
2.朝田善之助『新版 差別と闘いつづけて』(朝日新聞社、1979 年)の意義
①全国的活動家の自伝
◇水平運動活動家では数少ない自伝の一つ
◇執筆(証言)時点での正当化した歴史的回顧
◇謙虚、誇張、隠蔽、忘却、誤解、誇示などの錯綜的物語
②歴史的記憶と歴史的事実の距離
◇歴史的記憶に基づく体験の記録化
◇体験と見聞による歴史的事実の自己流解釈
◇厳密な史料批判(自伝批評)の必要性
③認識や意識を媒介にした歴史像の構成
◇歴史的事実とは認識・意識された歴史的事実に過ぎない
◇現在を生きる私たちが史料によって認識・意識した歴史的事実
◇自伝の歴史的記憶と史料による歴史的事実との照合
3.朝田が自伝で捉えた「田中部落・改善運動から水平運動へ」
①出生と家族
◇1902 年7月4日(実際は5月 25 日)に三男として生まれる
◇大津市出身の父は和鞋の製造・販売を営んでいた早瀬円蔵商店に奉公
し、後に肥屋、1907 年から共同浴場の経営
◇母は世話好きで男勝り
②部落の状況
◇1907 年に戸数 253、人口 1587 人で非常に貧しく、瓦葺きの家が三分
の一、便所は共同
◇親方が営むバラス採取業の人夫が多く、後に親方は土建屋の下請けに
◇青物行商と人力車夫も多く、皮革の仕事は少なく裕福
◇全体的に生活は苦しく質屋が流行る
③養正小学校
◇1908 年に養正小学校に入学、全校児童約 630 人のうち部落児童は約
150 人
◇部落の同級生 30 人のうち卒業は6人、不就学児童が多かった
◇頼母講によって田中夜学校を設立
④小学校での差別
◇教師と児童による激しい差別
◇反逆児として暴力による抗議
◇「善ちゃん」と「悪太郎」
⑤職業を転々
2
37
◇卒業して寺町五条下ルの篠本靴店に丁稚奉公
◇東山区の粟田焼本舗金光山竹次郎商店で陶器づくり
◇田中下柳町の福島クロムペーパー工場で印刷用の蝋紙づくり
◇1917 年に保護職工として鐘紡京都支社に4年間勤務、田中夜学校に1
年間くらい通う
◇京都予備校に入学し、8ヵ月後にスペイン風邪
⑥米騒動に遭遇
◇1918 年8月に勃発し、町内外5軒の米屋に交渉・襲撃
◇部落民衆の検挙と軍隊の出動
◇米騒動後における部落改善事業の開始
◇淳成青年会役員の年齢制限を 20 歳から 18 歳に引き下げ若手が進出
◇1920 年に義士会が開かれ、上田静一が大江天也を連れて来るが、多数
の青年は批判的
⑦水平運動成立への道
◇改善運動や融和運動からの影響は少なかった
◇水平運動成立における米騒動の意義を重視
◇演説会に参加して刺激を受ける
◇六部落青年連絡会の結成
◇1921 年夏の京都駅差別事件糾弾闘争により部落解放運動の組織化が進
んだ、朝田はスペイン風邪で相談に乗るのみ
⑧全国水平社創立大会に参加
◇田中部落から約 30 人が参加
◇恋愛、結婚の差別が深刻で、学校での差別や寺院、氏子の差別などの
報告にみんなが涙したが、朝田は泣かなかった
◇綱領より文章がうまく感情に訴える宣言の方が感銘深かった
⑨1922 年4月2日に田中水平社を結成
◇淳成青年会会長の和田信一と大正会の反対・妨害行動
◇松浦清重が司会、朝田は宣言と決議を朗読
◇中西千代子の離縁された話の大きな反響
◇京都府水平社も結成され、寺田清四郎が委員長に就任
4.田中部落の生活状況
①1886 年の調査
◇戸数 158、人口 881 人
◇履物直しが約7割、人力車曳きが約1割など
◇6割が生活困窮者、そのうち4割が極貧者
3
38
田中部落・改善運動から水平運動へ
②1902 年と 1903 年の調査
◇戸数 214、人口 1294 人
◇犯罪なく温順、早瀬圓蔵ら貯蓄者もあり
③1908 年の調査
◇数人は1万円以上の資産家、大部分はその日暮らし
④1911 年の新聞報道
◇租税徴収が困難な地域
◇少数の金持ちと多数の生活困難者が存在
◇貯蓄の観念が皆無
5.改善運動の成立と展開
①上田静一の部落改善運動
◇1906 年4月に田中尋常小学校に赴任し、即座に部落改善を開始
◇1906 年 11 月の親友夜学校設立と青年層・婦人層の改善
◇貧困からの脱却と部落の人格形成を重視
②部落改善団体の自彊会
◇1908 年7月に愛宕郡長や下鴨警察署長が部落改善を企図
◇1908 年 10 月の戊辰詔書を契機に 12 月に自彊会が設立
◇会長は田中村長の小西源吉(後に愛宕郡長の兼田義路)、委員には早瀬
圓蔵ら有力者 25 人、顧問は田中小学校長の木村弥一郎と上田静一
◇経済的基盤は講の湯屋からの収益
◇活動は夜学校の拡張、成人女子の裁縫、下水の改良、道路の修繕、幼
稚園の設立、風俗の矯正、倹約の実行、質屋・高利貸しの取締、布教
使による精神講話
6.青年団の組織化
①田中村青年団の結成
◇1908 年1月に結成
◇目的は夜学校の卒業生と青年を統一
◇会長は上田静一
②醇厚青年会への改組
◇1909 年9月に改組し、愛宕郡青年会支会とする
◇15 歳から 30 歳までの通常会員、趣旨に賛成して金品を寄付する賛助
会員、推薦を受けた名誉会員で構成
◇男性会員 70 人、女子部 20 人、会長は浅井清三郎、幹事長に寺田清四
郎ら
4
39
③醇成青年会に改称
◇1910 年1月に改称
◇軍隊への入営者と退営者を重視し、1911 年2月に図書部と理髪部を設
立
◇1912 年3月から人力車の運用を開始
7.田中部落の混乱と自彊会・醇成青年会
①田中部落の混乱
◇1912 年5月に浅井清三郎が死去
◇講をめぐる不正の発生による混乱
◇田中村当局と上田・青年会の対立
◇夜学校を守ろうとする上田は夜学校赴任教員となる
②自彊会と醇成青年会
◇不正者を出した自彊会は機能停止し、事業は醇成青年会が引き継ぐ
◇醇成青年会は統一して上田を一貫して支持
◇1914 年4月に醇成青年会主催の村民大会を開催し、村費での夜学校運
営を決議
◇副会長の寺田清四郎が指導力を発揮
③上田の帝国公道会接近と北海道移民の推進
◇1914 年に帝国公道会の部落改善に期待
◇1916 年2月に大江卓に書簡を送り、北海道移民を提案
◇人力車夫の生活改善要求を上田が支援
◇上田は 1917 年1月に北海道へ出発
8.地域社会における水平運動の成立
①田中部落の大正会
◇1919 年 12 月に部落改善団体として設立
◇事務所は夜学校、会員は 20 歳以上の男性で約 1300 人を組織
◇会長は下鴨警察署長、副会長は寺田清四郎、評議員は 12 人の有力者
◇経費は基本財産運用収入と寄付金
◇事業は風紀・衛生・情義・児童教養の改善
◇厳格な規約と罰則規定
②京都駅差別事件と糾弾闘争
◇1921 年5月に駅員が東七条部落の少年に「穢多か、穢多なら殺してや
ってもよい」と発言して殴打
◇『大阪朝日新聞』が事件を報じ、部落差別の不当性と駅員・警察当局
5
40
田中部落・改善運動から水平運動へ
を批判
◇新聞報道で事件を知った東七条部落の青年団が抗議行動を起して謝罪
を要求し、6月2日に謝罪広告を提出
◇米騒動を契機とした警察当局による強力な青年団の統制
◇友愛会京都連合会らと繋がった吉崎民之輔の新しい動き
◇差別事件の解決に不満をもつ青年層が 1921 年7月に自由青年団を結
成
③上田荘吉差別発言事件
◇1922 年1月の新聞報道に普通選挙運動に参加した養正撤廃同盟会と差
別撤廃期成同盟の記述、
◇1922 年2月に鈴木紋吉が上田を殴打し、上田が鈴木に「貴様等の穢多
村には居らないから」もくしは「そんなえた村には這入れぬ」と発言
◇東七条と田中などの部落が憤慨し、吉崎民之輔を中心とした抗議行動
◇2月 18 日に東七条と田中など各部落の有力者が差別撤廃示威講演会を
開催し、全国水平社創立関係者らも参加
◇吉崎民之輔らは3月3日の全国水平社創立大会に上田事件を持ちこむ
◇事件解決をめぐる南梅吉・寺田清四郎らと吉崎民之輔らの2潮流の対
抗
④田中水平社の結成
◇1922 年4月2日に京都府水平社とともに結成
◇会場は西河原託児所で、約 1000 人が参加
◇松浦清重が開会の辞と経過報告、朝田善之助が綱領と宣言を朗読、和
田寅太郎が閉会の辞
◇選挙によって寺田清四郎が委員長に当選
◇南梅吉、西光万吉、駒井喜作、近藤光、中西千代子、和田信一、寺田
清四郎らが演説
9.総括と展望
6
41
戦後の部落解放運動と田中部落
井 本 武 美
42
戦後の部落解放運動と田中部落
一先生、工学部では西山卯三先生、そのほか医学部、経
行ったものです。医学部の西尾先生、経済学部の山岡亮
会、京都大学の学生及び教授の組織が昭和三一年四月に
ようと思いました。この調査は京都大学の部落問題研究
ではなくて、これに依拠して今日の学習内容を組み立て
ということがわかりました。行政が出している調査報告
にとってとても重要な人たちがやってくれていた仕事だ
ります。誰が調査をしたのかを確かめてみましたら、私
今日はたくさんの資料を準備しました。昭和三一年に
田中部落のいろいろな問題を調査した調査報告資料があ
1.はじめに
れません。
田中親友夜学校が果たしたこの田中地域での教育での役
割については、前回お話がありましたのであえて今回は触
ました。
する改良住宅の家は昭和の遺跡に数えられる水準だと感じ
サイズの家を再現していまして、この田中の部落でも存在
位置づけられていました。そこでは、改良住宅と同じ団地
現代史ではなくて過去の歴史のひとこまとして博物館では
先月、関東の国立歴史民俗博物館へいきました。昭和の
時代のコーナーがあり、昭和の時代はすでに過去の歴史、
に非常に影響を受けた人たちばかりです。
家で田中で活動をしていた木村京太郎さんも朝田善之助
れた人です。田中さんも亡くなりました。水平社の活動
いますが、この人は西院の支部作りの時に私を助けてく
をした人です。経済学部の研究生で人見嗣郎という人が
う京大出身の学生もいます。この人は大阪の八尾で活躍
同盟の立場から参加していまして、また、田中三郎とい
の田中地域からは、朝田善之助と木村京太郎が部落解放
の働き口は、初めて労働手帳をもらって失対の労働者にな
るのですが、戦後のこの時代になっても町内の部落の婦人
業が国家の政策で行われていまして、失対事業は昔からあ
りませんでした。完全な失業者です。戦前から失業救済事
〇年代の田中部落の職業構成をみますと女性には仕事があ
では、昭和三〇年代の田中の生活実態はどういうもの
だったのかということを見ていきたいと思います。昭和三
2.昭和三〇年代の田中の生活実態
済学部の研究生、工学部の人たちが参加しています。こ
も亡くなりました。学生の頃、あるいは二二、三歳の頃
43
は、そこのマンションは杉本錬染だったし、その北の方は
て煉瓦しか残っていません。私が京都へ来た昭和三〇年代
域にとってとても重要な企業でした。今は高野団地になっ
のです。また、記録のなかにでてきますが、鐘紡がこの地
し、収入はないし、本当に塗炭の苦しみの生活をしている
ません。この家族の問題を考えて見ても、家は非常に狭い
は親方がいるわけですから、そんなに高い賃金は貰ってい
とってはそこの河原はとても大きな仕事場所でした。これ
た。人夫として河原でこの仕事をしていました。田中に
けて、コンクリートをつくるのに必要な砂の製品にしまし
行って砂をとって家で小さいのから大きいのまで順番にわ
ふるいとは、私の子どものときもありましたが、直接川へ
田中の人たちの主な仕事だったことがわかります。バラス
族の人たちが若いときは、河原でバラスふるいをするのが
のっています。この家族の仕事は殆どありません。この家
にありますが、八四歳のおばあさんと七人の家族の話が
かの家族の話を聞き取りをしています。資料①の2ページ
都市の旧市街の部落の共通した特徴でした。しかも、なか
集会をしたりしましたが、過密な不良住宅というのは、京
五年頃、私は京都市のほとんどの部落でビラまきをしたり
昭和三〇年代の初めの頃は、このように悲惨だったとい
うことです。これは田中の村だけではありません。昭和三
的な学習会だと思います。
評のあと、皆がやる気をだして風呂屋の二階でやった自主
るのは、田中三郎さんと木村京太郎さんです。その上は勤
一メートルくらいの路地です。その前のページに移ってい
踏み切りのところだと思います。その上は聞光寺さんと幅
補充資料の一番後ろの写真を見てください。一番下は当
時の部落の共同水栓の写真です。その上は、田中の部落の
れていますのでぜひ読んでみてください。
この記録を読んでもらえばわかります。凄いドラマが語ら
頑張って働いていた人たちの運命でした。こういうことが
ういう家族がとてもたくさんあります。それが三〇年代に
高いです。七人くらい産んで、三人か四人が生き残る、そ
非常に高いです。また、働いている人の子どもの死亡率が
人々の多くがこの鐘紡の女工さんになっています。割合が
鐘紡でしたから、紡績工業が大きく位置づけられていまし
なかそれが単純な密集ではありませんでした。資料②をみ
るのが多くの婦人の状況でした。京大の調査では、いくつ
た。今の高野中学のところは市電の操車場でした。田中の
44
戦後の部落解放運動と田中部落
す。昭和二八年の京都府の調査では、破損状況で健全とい
続いて補充資料をみてください。建物の荒廃状況の調査で
年当時は失業救済事業に従事しているのは二七二人です。
態はこういったものでした。大分前になりますが、昭和四
年八月の医学部調査では、日雇いが約三〇%です。職業実
ありました。日雇いが一番多いです。4ページの昭和三一
来たのが昭和三二、三年頃ですが、あちこちに靴屋さんが
日雇いが多いですが、靴職もそこそこいます。私がここへ
です。職業についてですが、3ページに統計があります。
のように増えています。どの時代も人口密度がとても高い
年には戸数二五三、人口一、五八七人、昭和一〇年には表
ました。養正は三八七戸で二、〇〇〇人でした。明治四〇
りません。所帯数で四、三五五、人口で二一、八八六人い
今言っているような不良過密住宅はそんなに割合は高くあ
養正、錦林、加賀屋敷、竹田狩賀です。あとは農村部で、
地区ありました。旧市街というのは楽只、三条、東三条、
一年四月の京都府民生部の調べでは京都市内の部落は一八
てください。調査書から統計資料をつくりました。昭和三
でいるのです。この医学部の調査では人間の健康な就寝環
こに住んでいるかというと、さっき言いました二間に住ん
で一番多いのは四人から五人です。その四人から五人がど
三一年八月の京大医学部調査でみますと、世帯人数の分布
です。電燈が大きい家で三個、普通の家で一個です。昭和
があります。大体一間か二間ですが、四畳半と三畳くらい
京都市社会課の調査で古い住宅の様子をスケッチしたもの
ます。重なるようにして家に住んでいたということです。
京区・京都市の平均は二〇人、田中は二八〇人となってい
場合は殆ど用材は古いものです。次に人口密度ですが、中
材はちゃんとしたものを使っていると思いますが、平屋の
す。田中にも二階建てのちゃんとした家もあり、そこは用
住宅で、最初から新品の用材は使っていないという事実で
として住宅問題を考えるときは、不良過密状況であり老朽
ていました。古木を使っているということです。部落問題
て建てていたので、建てた時にはその用材は何十年も経っ
らってきたり、家をつぶしたあとの古い木材をもらってき
かったです。これらの家は、火事で焼け残った材木をも
宅といっている建物は三〇年、四〇年たっているものが多
境ではないということです。3頁に畳数の表があります。
%、小修理必要が四七%、大修理必要が二八%、
うのが
修理不可能が六%でした。よく考えてみると、この不良住
45
18
一人当たりの畳数がでています。括弧は%です。成人換算
れている記録によりますと、子どもたちは四年か五年しか
の面では不就学児が四割くらいいました。また資料に書か
た部落の実態が劣悪な生活実態といわれるものです。教育
雑したと思います。こういう実態でした。今、みてきまし
かを示しています。ご飯を炊いたり、煮炊きするのに大混
ます。共同井戸と共同ポンプに人がどういうふうに流れる
より後の状況です。次に共同水栓の使用経路の地図があり
所帯が五二です。これが昭和三一年、オールロマンス事件
す。二所帯共用が四七、三所帯が三八、四所帯が四九、五
いうことに気づいてください。共同利用の状況が下の表で
専用が六七で共用が七一です。水道も井戸も共用が多いと
使用は専用が一二〇で共用が二〇三です。井戸水の利用は
していたはずだと思います。次は水の問題です。水道水の
ということです。この住環境では様々な問題が日常に生起
ころでも寝られるので、大人だけに換算したらどうなるか
左の数は子どもも含まれていて、子どもは小さくて狭いと
失対事業はどんな仕事をしていたかというと、京都市の河
運動の担い手は失対事業のおばちゃんたちでした。当時の
終わりに、部落解放要求貫徹の請願運動をしました。この
解決を国の施策にせよ、ということです。昭和三〇年代の
の半ばから国策樹立の運動を同盟で始めます。部落問題の
の施策にしてもらって国から金を貰おうと、昭和三〇年代
同盟も行政もいっしょになって、巨大な金がいるなら国
金を出せといったが、金はないといわれました。では、
昭和三〇年代、劣悪な実態を何とかするために京都市に
動の第一号で会員制の結婚式をやらせてもらいました。
私はここで昭和三九年に結婚式をしています。生活改善運
保館から左京西部いきいきセンターへと変わっています。
いから、同和対策事業は終わったといって、この建物も隣
いたいと思います。現在の状態をいいますと、一昨年くら
次のテーマは戦後の部落解放運動です。田中部落は非常
に大きな役割を果たした部落だということを胸をはってい
3.戦後の部落解放運動
がかなりの数いたということです。
通わず、先生のお情けで卒業させてもらったということが
川の公園、児童公園、学校のグラウンドの整備などでし
値というのは大人と代えたらどうなるかということです。
書かれています。義務教育もまともに終えていない子ども
46
戦後の部落解放運動と田中部落
ました。しかし、入学していくら探しても部落問題研究会
で、京都へ行けば部落研があると思って立命館大学に入り
青年集会が開かれたのですが、その記事を朝日新聞で読ん
私は昭和三三年の勤務評定反対闘争のときに初めて田中
部落に来ました。昭和三二年に小豆島で第一回の部落解放
の時代に各地域のオルグの担当をさせてもらいました。
になってやりました。その中心はこの田中でした。私はそ
た。解放運動は、名もない失対のおばちゃんたちが担い手
ち取りました。それで住宅などのいろんな問題が進みまし
して、大体事業費の九九%まで国庫でやるという方針を勝
助率をうんと高くし、地方交付税の起債の算定基準に編入
住宅を建てたり、保健所をつくったりするのは国庫で、補
とによって地方自治体が改善事業をするようになります。
審議会がつくられて、昭和四〇年に答申がでます。そのこ
その勢いで東京でも請願運動をやりました。昭和三六年に
もやって、西本願寺会館が一杯になったことがあります。
ありました。集会にはそのおばちゃんらが結集して、デモ
へ行っていました。当時、自労という失業者の労働組合が
た。窓口は京都府民生労働部で、ここからは円町の紹介所
朝田さんと初めて会ったとき、「差別とは何や」ときか
た。
行政の職員になり、私は教員になって走りまわっていまし
ました。松井君は隣保館のアルバイトもしていて、その後
の時は単位をとってしまっていたのでオルグにまわってい
していました。私は大学の食堂で働いて夜は子ども会を
が、彼は勤労学生で北大路書房の学力テストの採点なども
に松井君とはアパートの同室で暮らすことになるのです
景之、和歌山から来ていた松井珍男子などがいました。後
た。当時、先輩に北井というのもいたし、岡山出身の塚本
のです。朝田善之助とは勤評闘争のときに初めてあいまし
もつながっていて、それで解放運動をしようとやってきた
して、小野市で水利権闘争をやっていました。うちの親父
た。私のおじは兵庫県連の委員長をしていた小西といいま
まで等持院に住んでいたのですが、田中に引越してきまし
い、勤評闘争のことを教えられて早速参加しました。それ
告の時に、立命館大学部落問題研究会にいた北井君に出会
かを手伝っていたので大学にはいなかったのです。その報
兵庫県の南光町の山林解放闘争に学生が行って同盟休校と
やっていました。ともに苦学生でした。それから、四年生
がありません。聞いてみると、昭和三三年の夏からずっと
47
力車夫、出町柳に市電ができるまでに、田中の人が車引き
うに田中の仕事はバラスとりか日雇いか、明治時代には人
都会では仕事がないということです。先ほどいいましたよ
です。つまり部落問題というのは、農村では土地がない、
いので平均反別は少ないのですが、部落は二、三反くらい
とかで土地のわりに収量があまりない。京都は山間部が広
では、二町歩くらい土地がある。うちは山の陰とか川の淵
から比較的、村では金持ちだと思っていましたが、隣の村
い出しました。うちは一町歩くらいの田んぼがありました
じゃないかと思うようになりました。私は田舎のことを思
消えるのです。失業の問題、これが一番大事な問題なん
くて、日雇いの給料は子どもが学校にもっていく納入金で
た。日雇いにいって、その日暮らしの生活さえままならな
といわれ、私はショックでした。それからずっと考えまし
たのです。朝田さんはきびしい顔で「それが正しいか?」
んやし、勉強もしないし、それが差別される原因やと答え
と答えました。侮辱されるようなことをするし、ええかげ
が道路を(つ)くったり、こわしたりしてしまうのではな
たちまち前より悪い泥濘の街となってしまう。部落の人間
それで雨が一日降ると、側溝と道の区別がつかなくなり、
は手を抜かれている。勿論、側溝蓋などあるはずがない。
修理される日がやってくる。設計はでたらめであり、工事
は、こんな風におこなわれている。(中略)部落の側溝が
ところは5ページ以降にあります。「高山市政の土木事業
章の可能性が高いです。この糾弾要項で生活実態に関わる
う人がいるのですが、その人と朝田さんが一緒に書いた文
えられません。この文章は、京都市の幹部で中川忠次とい
私は、オールロマンス事件はこの糾弾要項を基準にしか考
ロマンス事件についてはいろいろ研究がされていますが、
また、オールロマンス事件の資料をみてください。オール
文章です。差別に対する考え方を簡単にまとめています。
をみてください。これは部落解放同盟第一六回全国大会の
るという言い方は真理を含んでいると思います。資料の③
てくるけれども、昔からいうように、衣食足りて礼節を知
いかということでした。私たちは、努力、根性を先にもっ
まれてやっと気がついたのは、生活に差別があるのではな
で百人くらいあそこにたまっていました。車引きは市電が
い。市に道らしい道をつくる誠意がないのである。」とこ
れました。私はそのとき「部落民がしっかりせんからや」
できたら仕事がなくなりました。朝田さんに怖い顔でにら
48
戦後の部落解放運動と田中部落
頁に部落
ういう風にかかれています。これは私が昭和三〇年代の各
一の生活手段である自由労働者の就労日数はいよいよ少な
て差別行政でもって一貫している。」「部落の失業者の唯
考えられる」とあります。私が田中に来て最初の住民集会
ず、第一に水道の本管が部落をよけてとおっている場合が
「部落には水道がすくない。なぜすくないかというと、ま
す。水道についても非常に重大なことが書いています。
の便所についての記述がありますが、これもその通りで
します。昭和三六年に京都市に請願書をだしたのですが、
時の記録です。この実態は先に統計で見たものと大体合致
まわそうとしている」としています。これが一九五一年当
出してしまい、公然と自由労働者をモップだと称して敵に
支持を得て公選された高山市長は、もはや失業対策を投げ
くなった。スローガンに失業対策をうち出し、勤労市民の
部落をまわっていて実感できる実態です。また
で水道をつけよという要求をしたとき、このことを演説し
ほとんどこれを手本にしました。
ページに簡単に要求事
た憶えがあります。水道の本管が迂回しているのです。ひ
ていく。」とあります。教育では、ここでは不就学の問題
法外な重税をしぼられて、企業が破壊し、仕事をうばわれ
産業の不況と、インフレにより、耐える力がなく、その上
労働者・土木建築など部落民の零細な仕事は、最近の平和
ですが、「皮革、履物・靴・修繕業・鹿の子しぼり・自由
あったり、いろいろ問題があったようです。次に経済政策
いい加減になって、終ってみたら地代も払っていないのが
すね。土地を買収したりしていたのだけれど戦争の混乱で
の不良住宅改良計画は戦前にすでに計画がされていたので
どい状態でした。住宅については、9ページですが、京都
のではありません。先ほど差別は仕事にあると申し上げま
はなくなるという理屈と同じになります。そんな単純なも
はありません。予算を組んで改善事業をやったら部落差別
これでは差別行政反対闘争は理論的にきちっといくわけで
方です。差別は実態の反映だということです。ところが、
ていると思う、これがオールロマンス事件での差別の捉え
みすぼらしいと思う、だらだらしているものを見たら怠け
汚いものを見たら汚いと思う、みすぼらしいものを見たら
と、部落の生活実態があったからというものです。誰でも
は今申し上げたように、差別観念がなぜあるのかという
項をあげています。オールロマンス事件の時の差別の認識
11
を扱っています。結論として、「部落に対する行政はすべ
49
8
にしたのである」と、ここで初めて市民的権利という言葉
残している行政こそ客観的に差別行政であることを明らか
不完全にしか保障せず、今日なお惨めな部落の生活実態を
に行政の停滞だけでなく、部落民に市民的権利を行政的に
ことです。資料③のなかでは、3ページにあるように「単
いったけれども、一番大事なのは、何をしているかという
業にしかつけなかったのです。差別は実態の反映であると
事があったらいつでもやめるという程度の仕事か、失対事
て、部落民は河原のバラスさらいなどの酷い仕事、他の仕
らって人間らしく生きていく手段を制限されることによっ
ことが社会的立場をもった人間というものです。給料をも
ます。社会の大きな責任ある歯車として生きていくという
間の労働は他の人々の仕事とつながって生きたものとなり
いけません。必ず役に立つことでなければなりません。人
れる存在となることが仕事なので、それは仕事といっては
えても、その人が給料をもらって社会の一員として評価さ
いますか。麻薬の売買などは、仕事をするという言葉は使
す。世の中に役に立たない仕事というのは普通、仕事とい
というと差別の現象ではないのか。部落民の置かれてきた
低いからといえばそれまでだけれど、それは何故低いのか
生とうまくいかないといったことは、部落民の文化水準が
か、たとえば、部落の子が喧嘩する、勉強ができない、先
だったというその存在、歴史が起こしていることではない
くて、部落の誰かに起こることは、いつも失業者でどん底
からきかされましたが、そんなことをいっているのではな
こけても差別か、という議論が組織内であったと朝田さん
る。」という差別に対する命題がうちだされ」ます。箸が
落にとって部落民にとって不利益な問題は一切差別であ
発展してきますと、「「日常部落に生起する問題で、部
す。明治憲法でもこれは保障されました。ところが、更に
の機会均等、教育の機会均等、居住移転の自由の権利で
定した自由主義経済社会の人々です。市民的権利とは就職
ができる権利をもつ人々をさします。つまり封建社会を否
対する資本家、自由な営業、資本の自由な活動をすること
とのできる人を中心とした立場の人々、つまり封建社会に
した。しかし、これは京都市民ではなくて、資本をもつこ
の市民
当時この「市民」は京都市民なのか、いわゆる civil
なのか、ブルジョアジーをさすのか、理解ができませんで
した。仕事とは何かというと、人間が社会に参加する形で
がでてきました。市民的権利という言葉はむつかしくて、
50
戦後の部落解放運動と田中部落
年くらい、行政と部落解放同盟との交渉の
歴史がそれをもたらしてきているのではないのかというこ
のなかの重要なポイントを占めています。主要な生産過程
りました。部品工場というのは、自動車をつくるプロセス
な地震が東北で起こって、東北にあった自動車の部品工場
ありますのでいろんな生産過程があります。たとえば大き
る、とありますが、社会の生産関係の中には多様な職業が
かにした」とあります。主要な生産関係から除外されてい
とであり、これら差別のただ一つの本質であることを明ら
民は、差別によって主要な生産関係から除外されているこ
別観念を生み出している根本的な原因である(中略)部落
的に不完全にしか保障されていない結果であり、それが差
機会均等、教育の機会均等、居住の自由等の権利―が行政
めで非人間的な生活実態は、部落民に市民的権利―就職の
また、「その後さらに運動が発展するにつれて、部落の惨
会性からみようというのがこの第一二回大会の方針です。
うことがおこる可能性があるのかということを歴史性と社
い。個人の責任はないとはいわないにしても、なぜそうい
れはどういう問題なのかということを考えなくてはならな
とがあります。別の側面から考えたら、部落問題としてそ
やり方で規律を守らないとかいったことで問題になったこ
目には行政が同和事業が終ったというくらいきれいになっ
らない人でも継続して伝わります。今では改良住宅は見た
よります。差別観念はいくらでも再生産されて、部落を知
うと、日本人の生活のあり方や、親から子への教育などに
部落への差別意識、忌み嫌う対象としての部落差別意識
は根強いです。こういった気分、感情がなぜ起こるかとい
はありません。これが差別なんです。
力が必要です。しかし、先ほどの人たちはこれだけの賃金
賃金には自分が生きるだけではなくて、家族を再生産する
や契約社員は社会的地位はほとんどこれに近い。労働者の
済構成体のなかの生産過程で位置づけが低い、季節労働者
えば生産過程から排除されているということです。社会経
るわけです。これが差別の本質です。それを経済学的にい
いることと同じですから、生産の場からはじきだされてい
関係から除外されているということは失業状態におかれて
要な位置をしめる仕事をされているはずです。主要な生産
要です。ここにおられるみなさんも社会の生産のなかで重
に位置づけられているのです。そこの労働者はきわめて重
とです。ここ
が生産できなくなった時、世界中の自動車産業が一時止ま
51
10
理論で一番大切なことは、存在が意識を規定するというこ
拠がなくなっても偏見だけは残るだろう」と。現代の差別
根のない花がある程度生きつづけるように、部落差別の根
産します。朝田さんがよく言っていました。「部落差別は
の生活にある古い伝統と教育というものは差別観念を再生
しょうか、周辺の人は緊張していると思います。京都市民
弟は大きな成果をあげてのびのびと社会に出て生きていま
きます。部落民であっても可能です。この期間に部落の子
ました。大学をでて技能をもてば職域を開発することがで
拡充されて高校進学率が上がり、大学に行く人も相当数で
ではありません。同対審答申が出てから奨学金がどんどん
はいえるけれど、貧乏だから勉強できないというのは真理
貧乏だから勉強ができないことはしばしばあるということ
をもっているということです。これが教育の可能性です。
とです。労働者は労働者の意識になるし、資本家は資本家
す。運動は見た目より大きな成果をあげています。
ていますが、ここを通る部落外の人は緊張をしていないで
の意識になっています。立場が変わると考え方も変わりま
実践しているのです。こういう人間の力を意識の相対的独
を書きます。企画をたてます。これはやる前から頭の中で
があります。人間はどんな仕事をやっている人でも設計図
大変重要な性質があって、意識の相対的独自性というもの
遂行する場合は差別に反対する人だ」と。人間の意識には
見があるということを自覚してそれと闘って自分の任務を
た。「誰が差別をしない人かというと、部落民に対する偏
意識を自覚することです。朝田さんはよくいっていまし
難しさは、個々の人間がもっている上部構造としての社会
差別という抽象的な言葉は、生業がないという具体的なも
し、抽象的に見ても具体的なことは解決しません。例えば
す。今や人権論一般に解消している場合が多いです。しか
別に対する理論は、別世界のことのように思う人が多いで
れが今でも役にたっています。現在、私が言ったような差
ました。当時私も原稿書きの手伝いをしました。そしてそ
田伴彦、河上肇など錚々たる学者と交流して自らを研鑽し
過去の運動の歴史をみると、田中は全国の運動の中心で
した。朝田善之助は山岡亮一、奈良本辰也、上田正昭、原
4.部落解放運動における田中部落の位置づけ
す。これが部落問題に影響されます。部落問題の特殊性の
自性といい、人間は自分の存在に対して意識的に戦う能力
52
戦後の部落解放運動と田中部落
のにつながっています。人権もそれぞれの立場によって解
決の仕方が違う。障害者差別と部落差別の具体的方策は違
います。現象は同じでも本質は違うということです。差別
をどう捉えるかということを、田中の解放運動は先駆的に
発展させてきたということです。今は、最初に言ったよう
な悲惨な状態は目に見えないから部落民の立場はもう変
わったと判断するか、新しい時代の形態に対応して失業状
態が変化した形でまだ失業状態なのか、相対的過剰人口の
状態なのか、これは興味を持ち関心をもって調べていかな
いといけないことだと思います。改良住宅では高齢化が進
んでいますが、子どもや孫がどんな状態かをいつも見なが
ら部落差別の存在を意識的に捉えて行きたいと思っていま
す。これが我々の町づくりでもあります。一般社会にも広
がる希望のある地域にならないといけないので、田中を封
鎖してしまうような都市開発も私は好きではありません。
広く社会の文化、交通とつながった田中の開発というもの
を考えて行きたいと思っています。
53
2011 年度部落史出張講座
―地元で学ぶ地元の歴史in田中―
第 3 回 6 月 24 日金曜日
会場
左京西部いきいき市民活動センター第 1 会議室
「戦後の部落解放運動と田中部落」
井本武美
1.はじめに
・全国水平社と田中部落
(朝田善之助「差別と闘いつづけて」)
・田中親友夜学校と上田静一
2.昭和 30 年代の田中の生活実態
(京都大学部落問題研究会の調査報告から)
職業の状況
住まいの実態
教育環境
3.戦後の部落解放運動
・オールロマンス差別糺弾闘争
・勤務評定反対闘争
・改良住宅の建設
・差別的教育環境の改善
・就職のためのたたかい
4.部落解放運動における田中部落の位置づけ
・差別行政反対闘争
・差別のとらえ方の発展
差別の本質と現象
三つの命題
5.むすび
54
戦後の部落解放運動と田中部落
資料①
2011 年度部落史出張講座
―地元で学ぶ地元の歴史in田中―
第 3 回 6 月 24 日金曜日
「戦後の部落解放運動と田中部落」資料
会場
左京西部いきいき市民活動センター第 1 会議室
出典
京都大学部落問題研究会資料A
京都田中部落総合調査
生活の一断面
イ
婦人日雇労働者家族を中心に
京都部落問題研究資料センター所蔵
-1-
55
イ
この家の家族はおばさん(84 才)と、先年死んだ長男の嫁(54 才)と、その次男夫婦(夫
36 才、婦 33 才)と 3 人の子供(男10、女 8 才、男 6 才)7 人で、その内現在働ける年齢
のものは 3 人である。
ばあさんは寝たきりで、もっぱら長男の嫁が世話をしている。
この嫁は、職安の日雇いである。
その次男は靴工であるが、仕事は十分にはまわってこない。
その嫁も最近職安の日雇いに出ている。
南北に長く伸びた長屋の真ん中で東にも向いてているが、細い路地の向かいには、大き
な寺があって、日当たりは良くない。
階下は 2・.2・3 畳の三つ、階上の低い屋根裏は 4.5 畳と物置がある。月家賃 700 円の借
家に住んでいる。便所だけはこの家族の専用であるが、水道も炊事場も隣の大家族と共用
である。電灯は三ケ。ばあさんは月 1500 円、次男夫婦夫婦子供につき 8070 円の、生活保
護が出ている。ばあさんも長男の嫁も、次男家族も同居であるが各々別世帯の形。
姑
長男の嫁
この在所では北海道と呼ばれる北の端。それも特別にひどい貧乏の固まってるところで生
まれた。
彼女の父も母も、彼女の幼児から、加茂の川原でバラス採集を請負でやっていた。この
父は坂本(滋賀県大津市)のサザナミから、田中へ流れてきた。この在所の盆踊りには、
音頭取りなどしていたことを思い出す。
この在所生まれの母と一緒になって、彼女を中二人の男子を生んだが、弟が足手まといに
なるので、川原で働く母に変わって子守をしているうちに学校へも行かず、9 才頃になる
とc両親とともに川原に出て、ひとかどバラスふるいをやった。セメント樽にいっぱいふ
るって 2 銭5厘。家族 1 日で 20~30 杯ふるったようにに覚えている。子供な5はいふるっ
て家に帰ることにしていた。
15 才までこの仕事をつづけた。とうとう学校には行かずに終わった。
15 才になって鐘紡(カナボウー)へ入った。「選別」である。
16 才で結婚したが、そのまま 22 才までか鐘紡につとめていた。
17 才で初めて子供生んだが、人に預けて出かけて休まない。
生んだ子供の数は 40 才くらいまでに 7 人、そのうち 5 人(うち女 4 人)1~2 才で死ん
でしまった。「腹の虫もあったが、梅毒もあったと思う」のは先頃死んだ夫の死因から想
像してみる。
夫というのはやはりこの土地の男で土方をしていた。市役所などから請負仕事をしてい
たが、「どうも女好き、背も高いし、顔も行けるし、まあまあいい男で女にもてた。」仕
-2-
56
戦後の部落解放運動と田中部落
事で福井や岡山へとかへ、始終出かけて家にいることは少ないし、金もちょいちょいしか
送ってこなかった。
とうとう妻の 36 才~39 才頃に「忘れません、盆の 17 日にオヤマを足ぬきして、年の明
あいた女の里の四国へ」流れていってしもた。「7つか8つの男の子、母親嫁を置いて・
・・・」
子供がまだこんなに小さい、その夫な母親の世話もある。これから彼女苦労は一段と深
まった。
百万遍のレール工事の仕事、バラスの洗い子につかってもらって、1 日1.20円とい
う収入。
また田中にマーケットがあった時分にお芋のへたを買ってきて、この部落の中をうって
歩いたこともあった「なんぼも儲かるの物じゃなかった。一杯一 1 銭だったから。・・・」
家畜のえさにする甘藷の端をこの在所の人達は食用にしたのである。
思い出してみると,こんな事もした。昔万里小路に,川のあったころ、靴をはいて川浚
いしてほす、アカものや金が出ることがあった。コレは良い商売になった。夫がいたころ
そばに来て,一緒に探したこともある。
四国へ女とともに去っ夫が,突然の送り返されてきた。10 年たっていた。「忘れもせん
2 月 10 日だった」かのじょの 46 才の年である。「すでに脳梅毒で,本人はわけがわから
ない。帰って 5 日目に死んでしまった。
このおばさんが職安の日雇いに出たのは、夫に死にわかれて 1 月目、あれからすでに 5 年
になる。「民間の仕事はいつまでも続かんと思う・請負師自身も遊んでいる世の中だもの。
日雇いがよい。
今は 84 才で寝たきりのの夫の母と,四畳半と物置の 2 階で,息子夫婦に子供は階下で,そ
れぞれ別別世帯で暮らしている。
母に 1500 円の生活保護が降りているが、今度は「タドン代」が引かれて1330円とかに
なる。
その息子の嫁
おばさんは 7 人生んだが育ったのは 2 人だけだった。その一人の子を赤貧の中で靴師に
した。戦争中彼は日本電池へ勤めに行っていたとき、東三条から嫁を迎えた。
この嫁さんに会った。
彼女は夫婦で下駄を修繕をやってきた家の長女として生まれた。下に4人の弟妹がある。
下駄直しの仕事でこれだけの家族を養う親は苦しかった。小学校すぐ撚糸工場(大宮堀川
50 人)に入って,月 20 円~30 円もらった。もらった金はみんな家に入れて2~3円小遣
い銭をあてがわれて不足は感じなかった。20才まで約 6 年,ここだけに働いて結婚した
のである。
田中へ来てから夫が工場に勤めている時は楽だったが、戦後夫が靴をはじめ、子供がつ
ぎつぎと生まれると家事に追いまくられたが、夫が胃腸病にかかって寝込んだので,日雇
いに出ることになった。まだ長くない。出番の日は子供を里に,東三条で胸を患ってぶら
-3-
57
ぶらしている妹に預けていく。工場へ働きに行きたいと思うが,「そんなとこあらへんが
な」夫婦と子供 3 人の世帯で月 1 万 5000 円はかかる。「夫が病気をした昨年は,最も生活
に困って,ちょい借り 2 万円程たまっている。利子のない金だけども…」夫の病気生活保
護がもらえることになって 8070 円もらっている。しかし,こん度は夫も妻も収入証明を出
したので,削られるに違いない。今の収入は夫の靴修繕約 4000 円
約
妻の日雇い
円
ロ
さきの家族と一つ裏庭で、井戸も水道も一緒に使っ隣の家族の話である。この家には,
人力車夫で一生の大半を終わろうとする老父(
その子
末娘(
才)土方の次男(
才)その長女(34 才)出戻りの次女と
才)戦死した長女の子(
才)の 7 人家族であ
る。
戦後間もなく亡くなった母代わりに、長女は一家の主婦代わりとなって家事をやりつつ、
自ら職安日雇に出ている。而も、自由労組の執行委員でもある。
先の家とほぼ同じ間取りで、便所だけが専用。
父、甥を除いて、皆はたらける年令にあるが、妹 2 人は肺結核。
田中部落の鼻崎、出町柳には八瀬、大原、鞍馬へ通ずる洛北観光地帯への足場で、明治
末期で約 40 台、大正の初期の最盛期には、約 100 台の人力車が屯していた。勿論その車夫
はこの部落の男たちであった。
この家の主人はその生き残ったわずか 3~4 人の一人である。9人の子供を産んだ妻も代
八車を引いて戸毎に尋ねる青物行商をつづけていた。
生活が極度に苦しかったのは、人力車が、市内では着々延長される市電に取って代わら
れつつあったためもある。
父母が屋外労働に出かけると、長女は下に五人の弟妹の母代わりとなって、子守をする。
彼女は末娘の面倒を見るため、六年生はほとんど学校に行っていない。でも、「先生のお
慈悲」で、卒業したことになっている。
学校を出ると長女は乳呑児の世話と、母の商売の手伝をすることになる。行商に出る母
があまり頑健でないので、子供背負った彼女が夜の明けきらぬうちから、母とともに中央
市場(市設卸売市
七条千本)まで、約 8 キロの道を大八車を引いて出かける。仕入れを
すませると、荷が重くなった車を市中へ引き戻して、得意の多い三条川端あたりから、戸
毎に商売はいじめがはめる母を残して、彼女は夕食の菜を手にまず帰宅して、夕食の食事
をととのえる。そして、商売を終えて空車を引いて帰る母を途中まで迎えに行く。長女の
助けで母の行商は楽になった。
このような幾年がつづいた。
しかしそれもやがて、食料の、戦時統制、配給切符制になるに及んで、店舗を持たない
彼女の親の商売も、また、この部落の全ての行商人同様、一斉に中央市場からしめい出さ
れて仕事を奪われることになった。
母としではすでに新しい仕事はなかった。
彼女は同じ部落内にある寺嶋製靴という短靴工場へ働きに出た。作業は機械物メーカー
-4-
58
戦後の部落解放運動と田中部落
とはいえ、実質的には家内手工業的なものが多かったし、鉄鎚と釘抜きと針の大変な労働
の上に、食料はますますひどくなった。いよいよ食糧事情が切迫すると、米や芋の買出し
に毎日出かけて行ったのである。彼女は終戦後も買出し部隊の一員だった。
この部落からは 100 人以上も毎日毎日東海道線を東に出かけて行ったのである。これは
終戦と同時に、真先に工場からしめい出された労働力でもある。
終戦も間近い頃、彼女の兄は生後 3 ヶ月の男児をおいて戦地に出たきり帰ってこない。
そのつまは終戦の翌年 3 才になるその男児をおいて、実家へ去った。泣きわめくその子が
暗い部屋で近所の人に発見されたときは、コタツもない濡れたフトンの中で、殆んど冷え
切っていた。
その甥を引き取って、自分の子のように育てることになってから、なお彼女の仕事はふ
えてきた。
冷えこんだ身体の児を温浴させるため、毎日遠い銭湯にも出かけた。そのうち彼女は、
買出しをやめて土方に出た。体の頑丈な彼女は、男に混じってバラスや栗石はこびなど、
さらに、トロ押しまでやった。そのとき痛めた腰は今もなお続くうずく。
一方父親はすでに 60 才越して、戦前は人力車を京都ホテルにとどめて外人観光客を相手
に働いていたから、英語が少ししゃべれる。戦後、もはや老令でホテルに雇われぬ彼は、
占領軍相手の人力車夫の組合に入った。夜の八時に家を出て朝四時頃まで車をひくという
仕事の上に、占領軍兵士には仲々手こずった。乗り逃げしょうとする横着者が時々あると
英会話のできる老父は乗車賃を執拗に請求し、かえって乱暴を働かれる。木屋町の高瀬川
に叩きこまれること再三、再四、白髪の五尺そこそこの老車夫はうちのめされて、車体は
壊された。
この知らせは、夜中の家族を驚かせ、深く悲しませた。警察は、先方の顔がわからない
から探しようもないと、見て見ぬふりをしたという。医者代も馬鹿にならない。
そこで、こんな仕事を父親にさせないでおこうと決って、お父さんはウチの留守番、そ
の代わりに長女は、戦後再開されたばかりの緊急失業対策事業に、つまり職安の日雇いに
かようことになった。
現在、200 人を超えるこの部落の女のニコヨンのなかで 3 番目に古いという。その頃は、
日雇いに彼女のように 20 才代の娘は 1 人もいなかった。以来、6 年余り、毎朝職場に出か
けている。
かようにして、彼女の婚期が遅れているが、彼女の子供(甥)は、もう中学生になって
いる。教育費はかさむばかりである。高等学校に入れてやりたいと思っているが、最近肺
結核だと診断され、また心配が増えた。栄養も安静も今では及ばない。…弔慰金も恩給も
子を捨てた母の手許に入って、こちらに廻らない。文句をいうと、「子を返せ」といわぬ
ばかりの応対ぶり。そこで子供に生活保護を受けることになった。これも彼女が盲腸で手
術することになってから下った。今年になると・・・q
楽でない世帯に隣接部落の土方に嫁に出した妹が戻ってきた。お腹の子供とともに、ま
もなくこんな古風な三下り半がもたらさて離婚されたのである。
私儀是れ迄貴女と夫婦関係相結び来たりし処、今日限り離縁致し候に付
ては今後他へ縁付き等勝手たるべく候段状而如件
-5-
59
昭和 31 年 5 月。○○日
○
○
○
○
○
○
印
殿
聞き糾してしてみるところによると、前夫に新しい女ができ、家をあける。帰っても決
して日当を渡してもらえれなかったというのである。
しばらくして女児を生んだが、2 ヶ月後には母子ともに結核と診断された。現在生活保
護法の適用を受けているが、扶助費でとてもやりくりがつかない。この二人も一家の負担
になっている。
さらに働きに出ていた弟が帰ってきた。
ガス会社の下請けでガス管敷設工事をやる会社に雇われて住込んでいたが、女ができて、
欠勤がちのところに病気になった。失保、健保もなく、5~6 年勤続に退職金も受けられず、
姉のはからいで医療保護をうけて乳○腫瘍なる病気の手術をして、快復することができた。
今は土方に出ている。
未婚の末娘は 20 才になった。中学校出て間もなく近くのパチンコ店に勤めたが、半年目
から過労のためか微熱・発汗がつづき、「休むよりやめて欲しい」といわれては休んでこ
れず、ついに 8 ヶ月目には寝込んでしまった。店主は治療費も見舞金も出そうとせず、こ
れもやはり医療券をうけて医者にかけてみると結核、絶対安静との話。
ではではぶらぶらするぐらい体力は回復したものの、軽労働で過ごせる職場もなも、あ
ちこちのパチンコ店を転々としている。この末娘の結核が姉母子、甥の感染源だと思われ
ている。
この南隣のやはり人力車夫の一家は、4~5年前、結核で死にたえててしまっている。「あ
んまりいろんなことが起こりすぎるので、頭がぼっとなる」と主婦代わりに家族を支えて
きた長姉は訴える。
-6-
60
戦後の部落解放運動と田中部落
ハ
田中のあんまの家に生まれ幼児から、川原の砂ふるいに出、結婚しては病弱の夫をたすけ
て、多くの子を育て、早くに未亡人なって、70 才になる今日まで休むひまを与えられず働
いてきた老母。そしてその長女。母子二人の日雇い。
畳一間にその母、次女(未亡人)孫 2 人、長女(離婚)孫 2 人、狭い路地の裏西側にガラス
戸、水道も炊事も便所も供用。
「うちのオッサンはつぎつぎ仕事変えるし、収入がさだまらんし『男世帯』で嫁には全く
財布をもたさん。酒飲みで乱暴する・・・・もう将来のこと思うと、一緒にせいかつしょ
うとは思わない。この子供ら二人ずれで帰るんです。一ペン帰ったことがあるが、今度こ
そ離婚するつもり・・・・」
と、先頃の夫婦喧嘩の余憤いまだ静まらない口ぶり。
子供はかたはらでおとなしい。
「おいおいチャンバラの話まで聞いてもらうのか。」と側から白髪の母がむっつりと口
をはさむ。
さんざん苦労をしたような口ぶりのこの若い嫁も母の 60 年のまだ半分しか生きていな
いのである。
まず母の昔話から
今年 65 才になるかつえの母は、この田中でアンマを業とするウチに明治 23 年に生まれた。
2 人の兄、2 人の妹がいる。
彼女も 13 才から、川原のバラス採集に出た。
父の死んだ 16 才の年に、鐘紡の分工場(丸太町東大路・錦糸工場)に勤めに出た。ここで
2 年間、朝 6 時から夕方 5 時まで働いたが、その間 17 才で田中の靴師と結婚した。鐘紡は
長男の出産が近づいたのでまもなく辞めた。
44 才で夫と死別するまで七男三女をもうけたが、そのうち三男一女は誕生日までに死ん
でいる。つぎつぎと 1~2 年の間隔で生んで、一人おきに欠けていった。
靴師の夫には慢性的な病気があって、毎年 8 月末から 3 月(夏から冬にかけて)まで体
が動かなくなる。結婚生活の 27 年のうち、後の 10 年間にはいよいよ生活がひどくなって
きた。子供の育ち盛りに主人が充分働けないからである。
彼女は 30 才をこえると上の子供なっても大きくなって弟妹の守りをしてくれるように
なってバラスふるいに出かけた。1 日河原の重両労働で疲れきって帰っても、夜は、藁草
履や竹の皮の草履の手仕事が待っていた。一晩に2足づつやっとこさこしらえて、7銭に
なった。この7銭が子供の養育費に充てられた。
大正末から、昭和の初め頃の話である。
それでも夫が死んだときには、療養費の借金がどっさり溜まっていた。草履造りはやは
り続けられたが、時代がす進んで草履が売れなくなると、鴨川のバランスもとりつくして
仕事はなくなるし、支那事変の始まる頃は全く失職してしまった。すでにこの頃子供たち
-7-
61
はやっとこさ働く年頃になっていたが,長引く戦争は男の子を奪っていったので。家計に
は楽にならない。
彼女の窮迫ぶりを見かねた方面委ノ M さんは、いろいろ心配してくれた末、衛生局の
「薬撒き」(消毒剤散布人夫)の仕事を世話してくれた。昼は消毒剤を肩に市内の不潔な
場所を這いまわり、その出勤までの時間を利用して、早朝の新聞配達で糊口をつなぐとい
う状態だった。
戦争が激しくなると、子供が大きくなった手軽さで彼女の従兄のいる岡山県の田舎の飯
場の飯炊きの手伝いに行った。終戦までこの田舎で暮らして、戦後田中へ再び帰ってきた。
日雇いに出てからもう六年になる。戦争で出かけていた息子たちも一人は戦死したがあ
とは田中へ帰ってきてそれぞれ世帯を持っている。
みんな土方をしているが「みんな甲斐性なしで親のうちに少しも入れない」今一緒にい
るのは、昨年後家になったという末娘が孫 2 人つれて帰ってきているのをいるのいれと 4
人世帯である。この娘も日雇いに出ているし、生活保護を受けている。(月額
円)
しかしこれだけではやっていけないので、よく借金をする。返済は遺家族援助費、(年
円年 4 回払)で充てている。。これが繰返されて止まらない。
額
こんな生活で、「映画も芝居も今日まで見たことがない」という彼女はこうプツンとつ
け加えた。「どんな貧乏したって淫売とぬすっと(窃盗)だけはせん!」一生やすむひま
なく働いて、働いて、今日に至った。お産がこじれて手足が動かず、寝込んだことはあっ
ても、病気したことはない。「まだまだ若い者に負けない」という。心身ともに健康なば
あさんである。
この母親と娘と孫 2 人が、長屋の一間4畳の家へ。もう一人の娘かつえがこれも子供 2
人つれて帰ってくるということになった。
かつえ
かつえが今度こそは帰るという家は、夫の生家で義姉が居る。六畳一間をあてがわれて、
水道、炊事、便所は共用
父が死んだときかつえは 12 才になっていた。
あと 1 年で小学校をでるという年だったが、すぐ学校やめて働きに出た。
ある印刷屋につとめて事務で印紙はりや発送の荷造りの記述手伝いをやらしてもらった
が、小学校で出ないと正式に雇ってくれないので、卒業証書もらうために暫く学校へやら
してもらった。
昭和 12 年~13 年頃である。ここで、日給 55 銭もらって、約 1 年働いた。
15 才になると、京都織物へ入った。戦争が進んで人手が不足して、この会社へも田中の
ものが入りやすくなったのデある。これまで、ここのもんは、とても大きな会社に入れて
もらえなかった。はいりたい定ものは住所(ところ)を変えて申し込んだ…」さらにまた.
このような大会社は「身体検査がやかましかったからめったに入れなかった。」
この大会社ではじめ 1 年は、日給制で65銭くれた。残業すると歩がついた。ここでし
ばらくすると「手柄仕事」(出来高給制)をやらせくれた。月100 円稼いだこともある。
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戦後の部落解放運動と田中部落
もちろん給料は、みんなウチに入れて、わずかばかりの小遣いをもらって満足していた。3
年間ここで働いて 18 才で母が田舎へゆくのに従って会社を辞めた。
田舎で女中に雇われた。しかし女中なんかしていると、挺身隊にとられそうだときいて、
2 ヶ月ぐらいで京都へ舞い戻って田中の人が経営している機械工場に雇ってもらって、終
戦後まで 2~3 年ここで働いたが、結婚してやめた。その時に21才になっていた。
結婚した相手は四つ年上の土方で、やはりこの田中の生まれ。幼い時からもよく知って
いた。当時、河原の請負をやっていた組に属していたが,土方の仕事は結婚後 1 年程で辞
めて、自動車の修理工になろうと、米軍のモータープールにつとめた。
しかし、これも収入が少ないので 1 年でやめ、こんどは、日通梅小路駅(京都唯一の貨
物駅)の仲仕に入った。3~4 年つづけたが、馘になり、失業保険の給付が済んでから失対
日雇に入った。
このように結婚数年にして夫の職業は転々と変わり、遂に失業してしまった。
結婚して 3 人の子供が 2 年おきくらいに生まれて妻は子供の世話に忙しかったが、夫が
こんなに頼りないし、義姉の「嫁の世帯ためが悪いという中傷もあったようで、長い間妻
に財布が渡されない。いよいよたまりかねた彼女は、自らも失対日雇いに出向くようにな
った。
日雇いに出て 3 年になる。長女ははしかでなくした。
子供は小学 1 年と幼稚園だが何とか養う決心がついてとうとう最近別居することになっ
た。
ニ
下駄直しの娘に生まれて、土方の妻
老夫婦に息子 2 人
ふりかえってみると、あらゆる仕事をしてきた人なのにやさしいものの言い方をする婦
人である。
民生安定所の係員の言葉があまりにもきついので、二度とあんなところゆきたいと思わ
ない。けど生活保護を最近止められて困ると言っている。
他のおばさんたちが、子供の東京旅行に 1000 円だけなら出せると学校側へ答えた時でも
このばあさんはいくら出せると言えなかった。
もう 56 才になるが、まだ中学を卒業する前の男の子がある。
9人の子供を産んで赤ん坊のに 7~8 人なくしたという。そして今 3 人残っている。結婚
した長男夫妻、孫 1 人、老いたその夫婦、息子 2 人が同居している。
1 日中日のあたらぬ路地の突き当たり。低い二階があって、階上二間を貸していて階下二
間を使っているが、水道は五軒で共用、炊事場は二階と共用、この家の家賃 500 円は階上、
階下で折半している。
階下の電灯は、二間大人 6 人に幼児 1 人の世帯にたった一つきり。炊事場にもない。ザ
ラ紙を張った仕切りの障子の上の方に二つ三つあけて、二部屋明かりをとっている。
このおばあさん、はるえさんは、下駄直しの父と下駄のタタミ表の内職をつけていた母
との間に生まれた 1 人娘で、上下に男兄弟があった。
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人事を 6 年で学校を終えたが、すぐ働くところもないので、子守に雇われた。16 才か
ら鐘紡の「選別」に入ったが、長くは続かなかった。結婚して子供ができたためでもある
が、ここも給料が安くて自分のものを思うようにかえなんだように覚えている。
その後、3~4 年「ハク会社」と土地の人の呼ぶコロンペーパー加工工場へもつとめた。
仕事は、紙にのりを塗って天日で乾燥させる単純な加工をやるので、ほとんど女工ばかり
で、それも田中の若い女たちばかりだった。当時10名ぐらい一緒に通っていた。(註=
れんこんや女主人談)
それから、映画館のお茶子に行って、2 回程替わった。八千代館・エビス座・月 22 円(?)
くれたが、仕事は朝 10 時頃から深夜に及んだ。
そばにまだ日くれないのに高いびきでねている年寄りを指して御主人かと聞くと「うち
のおさんのことか?」ききかえす。
結婚した当時は、主人もやはり、下駄直しをやっテいたが,やがて土方になった。今も
やはり土方だけど、もう年でさっぱり働くことができない。失対日雇でなく、業者の土方
としてよい腕を持っていたが、近頃は若いものと混じっても無理をするため、めっきり体
力を失っている。
神経痛がひどくて毎日仕事に出るということができない。収入も自然落ちる。
このばあさんの母親が、彼女の 22 才から 40 才頃までに20年近く神経痛でいざりの生
活だったので、その世話と次々に生まれる子供が,何故か乳児で死んでいったりして 30
才代は、家族にしばられて働きに出ることはなかったが、その後はまた川原のバラスふる
いにいった。
そして、失対日雇いに入ってから既に 6 年になる。
40 才代で産んだ子供はそだった。だんだん年をとる両親に小さな子供で、この家はよけ
いな苦労がある。長男(大正 15 年生まれ)は下水課の直行日雇で収入 8000 円。妻と乳児
1 人がばさんの隣の部屋に住んでいる。
ばあさんの家計をたすどころではない。家賃だけ負担ている。
つぎは五男(昭和 12 年生まれ)が靴屋へ見習いに通っている。月 2000 円は小使でいっ
ぱいである。
その下に9男の 16 年生まれは、中学 3 年であるが、結核で養生をすすめられている。と
いって栄養も安静も取れない。
老母が働きに出るから、病気の子供を全く野放しである。
この間も、学校の長距離レースに加わって、途中で倒れた。そのときは憔悴して部屋で
動けなかったが、常は、母親が何か言おうとすると、「死んでもええわい」とわめいてと
びとびだしてゆく。また同居の兄の幼児が這い回る。若い妻が引きずってもどすと泣きわ
めく。とてもねていられる毎日ではなさそうである。
医者にかかるにも近頃の両親の収入と兄の収入ではその費用も出ない。
そこでこのばあさんは、日雇保険の扶養家族にその時まで入っていなかったこの息子の
「籍」入れ、これで家族半額給付を、さらに生活保護のに医療券で後の半額の負担を受け
て、治療にやろうという段取りで、あちこちしてみた。
診断書、収入証明等の手続き上の書類だけでも大変なことだった。やっと揃ったという
のに、今までの生活保護が打ち切られた。そこで、ばあさんは何もかもだめになってしま
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ったと思って、今はぼんやり手をつかねているばかりである。
書類も全く助けにならない。
まず主人弟(明治 40 年生まれ)は叡電の踏切番をして、月 9000 円、女の児 2 人と夫婦
の 4 人暮らしで生活は苦しい。ばあさんのただ一人の弟は七条に住んでいて、定食ははな
い。子供 5 人かかえて、やはり下京民安で生活保護を受けている。
長男の嫁の実家には嫁の兄(大正 7 年生まれ)と母がいるが、靴職人であるが仕事がな
くなっている。両眼悪い母 80 才と 2 人暮らしである。
この夫婦の収入(昭和 30 年 10 月)
勤務日
夫の分
30年7月
11日
3630
〃
8月
10日
3330
〃
9月
12日
3960
31年1月
8日
2640
〃
7日
2310
2月
勤務日
妻の分
失業保険加算日数
30年7月
15日
8日
4050
〃
8月
13日
9日
3510
〃
9月
16日
9日
4320
31年2月
16日
6日
5160
〃
3月
17日
8日
5710
〃
4月
16日
6日
5160
どうしても「月 1 万 2000 円はいるな」と老母は答える。
主人のますます年老いてゆくのを心配してているが,この調査の済まないうちに主人は
脳溢血でぽっくりなくなった。
葬式代がないので、民安の窓口へ願い出た。
夫○○○○
本日 8 時 25 分脳溢血で死亡しましたが、
生活扶助申請中であり、葬祭費が出ませんので、
扶助をお願いします。
31 年 5 月 3 日
そこで市営葬儀の領収書をもってくれば、民安も考えようといって、3,000 円出してく
れた。
しかし葬式にはそれだけの費用では済まない。雑費がいる。「坊さんのお経代もいるし、
なんやかんやいるので、今度はほんとにどうしたらよいのやら。」途方にくれている。
民生保護が約1000円下りることになったが、3 人の世帯ではどうにもならない。
靴職見習の息子が一人前になるまで、この老母も元気で頑張ろうと思っている。が靴や
も前途は明るくないので、この母の苦労もまだまだ終わりそうにない。「チョイ
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借り」の生活費を足す借金5,000。ー円位ある。
知り合いに 1,000 円円で 100 円位の利子をはらっているそうだが、この借金のせんさくを
させない。
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下村文六は京の弾左衛門か
― はてな はてなの下村家 ―
辻 ミ チ 子
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下村文六は京の弾左衛門か
書物があります。ところが、実際は下村家は断絶させられ
だったかというと、京都の穢多頭下村文六と書かれている
の穢多頭弾左衛門と書かれています。では京都ではどう
で何代も続いています。ですので江戸時代の文書では江戸
期から世襲名でずっと明治まで続いております。弾左衛門
いた人たちの広い層、地域を統率していました。江戸の初
今日の講座は、「下村文六は京の弾左衛門か」という変
な題をつけました。江戸の弾左衛門は、江戸の差別されて
いただければありがたいです。
とか思いながら考え続けている情況です。何なりとお教え
ていたけれども違っていたなとか、研究が進んできたな、
しろかったとか、昔のことを思い出してあんなことをいっ
強になってありがたいと思います。この歳になって、おも
ともいえるのではないかと教えていただいたりすれば、勉
思います。ですので、反論していただいたり、こういうこ
か、どうなっていったのかということをお話してみたいと
下村文六と書かれるのかということが不思議でした。調べ
のかはわかりません。なぜ下村家が断絶しても京の穢多頭
ですから、それ以前、中世末の頃の下村家が何をしていた
とも書いてあって、初代は江戸幕府が始まってからです。
料でちゃんと様子がわかるのが三代目文六です。初代のこ
いての史料がほとんどないのです。江戸時代に出てくる史
は支配体制がだいぶ違っていたのです。そして下村家につ
が、被差別者の頭という地位ではありませんでした。京都
囲まれ、寺屋敷のすぐ東を隅田川が流れ、山谷堀を少し
た。「弾左衛門の屋敷は山谷堀北岸にあり、東西北を寺に
衛門は徳川家康に認められてこういう立場にたっていまし
をそれぞれの頭を通して支配した」ということです。弾左
一部、併せて十二か国にまたがる地域の穢多・非人・猿飼
います。「江戸時代、関八州、伊豆・陸奥・甲斐・駿河の
『部落史用語辞典』に弾左衛門のことがたくさん載って
います。ご紹介したいところだけ書き写して資料にあげて
レジュメの「はじめに」に入ります。
が見てきた史料でもって京都の下村家はどんな家だったの
ていて、三代目の文六で終わりなんです。ですので、文書
てみたのですが、証拠としてはっきり書かれている文書は
遡った西側に新吉原遊廓、その西に隣接して車善七配下の
に京の穢多頭下村文六と幕末まで書かれていたりします
見つけていません。そこで今日は独断と偏見で今まで自分
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を越える浅草新町の南端に位置した」、これは浅草新町の
聚落と溜があった。弾屋敷は広さ一〇〇〇坪余り、一万坪
話になります。
たのかというと、全く違うと思っています。本題の京都の
た、つまり皮と徳川というのが、弾左衛門の権力のバック
を徳川氏が受け継いで更に拡大し強力なものにしていっ
考えられています。後北条氏が支配していた皮作の人たち
で、弾左衛門は広い範囲で徳川氏のもとで勢力を握ったと
別しつつも優遇したりしながら支配下においていくなか
産を中心にした産業で、武士が皮作に従事する人たちを差
戦国時代以降、皮作というのは非常に重要な武具などの生
させていったものと推察されている」と書かれています。
にすえ、彼の関東における皮作支配権を徐々に成立・拡大
し、徳川氏に直接仕える弾を皮革上納者である皮作の中心
部により、後北条氏の皮作に対する一元的支配権を継承
ています。そして「弾の支配権の成立過程は、徳川氏の入
もらっている武士の暮らし方と同じではなかったかと述べ
録』という書物では、弾左衛門はおよそ三〇〇〇石くらい
非人の集落や溜り場があったということです。『世事見聞
門の屋敷の近いところには吉原の遊廓や車善七の支配する
な文化人がいました。ただの文化人ではなくて、行政の仕
いう地域がありました。そして川崎入道というような立派
させられますが、中世には賀茂川、高野川の西側に川崎と
今年の部落史講座のパート1でお話しました田中の歴
史、江戸時代では川崎村といっていました地域、後に移転
いたのかを具体的にお話したいと思います。
ルしておられました。その山水河原者はどんなことをして
でした師岡先生が山水河原者の文化的地位を非常にアピー
す。中世の山水河原者というと、京都部落史研究所の所長
についてはたくさん史料があります。そのうちの一部で
ります。史料は①から⑥までをみてください。山水河原者
んと見てみたいと思います。そこでレジュメの(1)にな
とでてきています。この中世の山水河原者をもう一度ちゃ
河原者といいますと、中学、高校の歴史の教科書にもずっ
初めから結論めいたことをいってしまいますが、下村家
は中世の山水河原者と関わりが深いと考えています。山水
レジュメの「一 中世の山水河原者」にはいります。
あたりが一万坪ということではないかと思います。弾左衛
だと思います。ではそれに対して、下村家はどんな家だっ
100
下村文六は京の弾左衛門か
走り回って、寺などの秘蔵の樹を見て廻りこの樹が欲しい
える時に河原者に頼んでいます。そして河原者はあちこち
回るということをしています。二十三日には、樹を植えか
ります。庭にしかるべき適当な樹がないのであちこち見に
ころでは、庭を作るので河原者三人が庭の検査をするとあ
めて活躍したということが書かれています。二十一日のと
まず①です。史料名が「看聞御記」と書かれています
が、これは伏見宮の日記です。河原者が所々に庭の樹を求
たいと思います。
んな関わりをもっていたかということを史料から見て行き
都全般に、河原者と中世でよばれていた人が庭つくりにど
はこうだった、川崎ではこうだったという話でなくて、京
くりをしたということがわかっています。今日は天部村で
史料にでています。ですから天部村でもこういう人が庭つ
の達人、庭師がでています。名前もちゃんとわかるように
被差別部落を形成していく地域に住む人が多く、各地で庭
でした。中世の河原者といわれる人たちは、近世に入って
いました。その川崎入道は立派な庭師、山水河原者の一人
事、今出川橋という大きな橋を管轄するような仕事もして
くり、石の組立などをする技術者だったと考えられます。
をするのも河原者の大事な仕事でした。庭つくり、樹木つ
この庭で松笠を結う、とあります。松をきれいに結う仕事
事することが書かれています。その虎が伏見殿に行ってそ
すと、お庭者の虎親子とか市などが伏見殿の庭つくりに従
りに携わっていたといえます。そして、④の史料になりま
幕府の上層部や朝廷の上層部の人たちの御殿、家の庭つく
のことをするんだと言っています。河原者たちはその時の
の「看聞御記」には、朝早く御庭者の虎菊、名前まで出て
河原者を遣わしたというようなことがかかれています。次
軒主、主人が書いていた公用日記です。ここに庭のことで
す。次の「蔭涼軒日録」という史料は、相国寺の蔭涼軒の
ことに召しだされていたということが次々とかかれていま
うことです。河原者がこういう仕事をしていた、こういう
方の御所に出入している河原者がこの仕事をしていたとい
所属していたかといいますと、仙洞御所、天皇を引退した
を立てるのも河原者が立てています。この河原者がどこに
くるので山水河原者が参入して作庭に従事しています。石
した。また、次も同じことになりますが、伏見殿に庭をつ
いますが、その人がやってきて、公方の仰せで来た、庭先
と注進するという、樹を見る達人のような仕事をしていま
101
りをしたことがかいてあります。ここで気になるのが、庭
と書いているのは尚通の院号です。ここでも河原者が庭作
近衛尚通が書いた日記で「尚道公記」です。上に後法成寺
者の仕事を認めたいと思います。⑥は、時の関白太政大臣
ん。見ることができません。広く文化的な仕事として河原
庭も河原者がはいっていますが、残念ながら今はありませ
二つが有名になっていますが、他の有力武将や公家などの
らい、中世の京都を象徴するのは庭です。そして先ほどの
う時には、仏像を見ます。京都の場合は庭です。というく
らい関わっているかはわかりません。奈良で寺へ行くとい
河原者がやっていますが、難しい哲学的なことまでどれく
えのある庭で、実際に庭をつくる、石を運ぶということは
にゆかりのある、龍安寺の石庭です。あそこは哲学的な考
くられている所は江戸時代のものです。もう一つは細川家
この庭は河原者の善阿弥がつくりました。ただし、砂でつ
が次の二つです。一つが銀閣寺です。義政と善阿弥、あそ
よく研修会で中世の河原者の大活躍を言うときにあげるの
次の⑤ですと、庭者の虎菊が相国寺の蔭涼軒という屋敷
の庭作りに従事していることが書かれています。私たちが
についての理論をのべるということが日記に書かれていま
いっています。一四八九年の史料です。山水河原者が作庭
とについて意見を述べています。なかなか大した意見を
です。史料⑧になりますと、河原者が庭をつくるというこ
なく、自分たちの意見を持つようになっていたということ
河原者はだまっていわれたとおり力仕事をしていたのでは
ことを河原者がこういう意味ですと意見を述べています。
は、禁裏の小御所の庭樹を洗う仕事、なぜ洗うのかという
といった難しいことをするようになっています。史料⑦で
レジュメの一の(2)に入ります。この山水河原者は、
庭に山をつくって水を流すかわりに砂、岩で水を表現する
状況でした。
だのか、ということなんです。これが中世の山水河原者の
でした。私が気になるのはそんな人が、河原者と一杯飲ん
仕事をする二人の武士のことです。この細川は右京の京職
律令の役人の役職名です。右、左の京職、京都を支配する
す。細川右京の職、京兆というのは京職のことなんです。
なみに、細川右京兆、これは右京職という役職のことで
時期ですが、こういう生活があったのかと思いました。ち
夕食もいっしょに食べた、ということで、もう近世に近い
作りをした後に一杯飲む、河原者も一飲ましてもらえた、
102
下村文六は京の弾左衛門か
す。簡単にいいますと、庭を作るときに中心になるのは陰
れます。
人と非常に結びつきを強くもつようになっていたと考えら
きな人は、陰陽を知っていますので、河原者と話しあうと
陰陽に結び付けて考えて庭をつくっていく、そして庭の好
んですが、そこでどうしたらよいかなど、いろんなことを
るかで陰か陽になったりします。たとえば桜、これは陰な
にまでずっと続いてきていると思いました。何の木を植え
をつくることについての根本的な考え方はある程度一般人
ら木を植えたら「困」という字になるというわけです。庭
や、あかんで、というわけです。先に垣をつくってあとか
ら木を植えられたのですが、近所の人があそこの家は大変
りました。まず周りに生け垣をつくられました。作ってか
ですが、京都の人びとの目からみると半分武士、半分町の
ん。どこまでが武士で百姓かということがあいまいな時期
て、支配させました。この小舎人雑色は武士ではありませ
にあたる侍所の下のほうに小舎人雑色という役職をつくっ
ころと治安維持にあたる役所がありますが、その治安維持
仕事を侍所がしていました。幕府の体制は政治にあたると
です。この頃、一般庶民を支配するための警察官のような
ことが続く時代です。史料⑨です。これは大永三年の史料
幕府は将軍が力をおとし、下克上、将軍が殺されるという
の元では治安が維持できないということになります。室町
戦国時代となりますと、京都もがたがたになっていま
す。特に応仁の乱以降、がたがたになるのです。室町幕府
いろんな階層の人たち、群衆を支配する支配体制につい
てみていきたいと思います。
次にレジュメの「二 小舎人雑色から四座雑色へ」には
いります。
陽のバランスということです。これは中国の陰陽からきて
いると思います。こういう、これは陰である、陽であると
いうことがちゃんと、昔から伝わっているということで
す。男は陽だ、女は陰だというようなこと、樹についても
石についても庭の作りかたについても陰と陽を頭において
作っています。私も憶えていることがあります。昭和三〇
いったこともあったようです。中世末という時代の山水河
人というような人で、しっかりしている人が雑色の役職に
年代くらいのことですが、近所でお庭を作られたことがあ
原者というのは、文化人であり、世の中の支配をする側の
103
徳川幕府はなかなかいうことをききません。武士とは違う
分たちは前からこういう仕事をして来たというのですが、
した。職がなくなっていたのです。徳川の時代になり、自
信長、豊臣秀吉の時代、小舎人雑色は仕事にあぶれていま
配体制ができるのは江戸時代になってからです。その織田
のような細かい支配の組織はできません。きちっとした支
田信長の支配になり、豊臣秀吉の支配になってもそれまで
役人でしたが、室町幕府がつぶれてしまいます。そして織
四座雑色に組織されていきます。小舎人雑色は侍所の下級
ように、史料では⑩、⑪になりますが、江戸時代になると
なるのかといいますと、レジュメの二の(2)にあります
状況だったとわかります。この小舎人雑色が、その後どう
置づけられて仕事をしていたことが江戸時代に入る以前の
た仕事を小舎人雑色が、侍所の一番下の下級役人として位
る、悪いことをした人を牢屋へいれる、拷問をするといっ
するとか、河原沙汰、喧嘩が起こったりする河原を支配す
料⑨です。治安維持が仕事です。悪い事をした人の捕縛を
いますが、こういう仕事を受け持たせたというのがこの史
に下役をつけて四つのブロックにわけて、これを四座とい
ついて侍所に所属していました。小舎人雑色は、上役一人
ます。ここでは下村家は全くでてきません。六条、川崎、
がつきました。つまり処刑の仕事をするようになっていき
り、以前からの歴史をもつ天部、六条、川崎の村の人たち
犯罪者の取り締まりが任務です。そして刑吏役はやっぱ
座雑色ということになります。そして、この四座雑色は、
人雑色から時代を経て近世に入って牢奉行から始まった四
を通じて半官半民で武士にはなっていません。これが小舎
あるのですが、身分的には不安定でした。結局、江戸時代
犯罪者の取り締まりですので、皆から怖がられるところが
わると、もう雇わないとかいわれたりしています。業務が
るようになっています。江戸初期の四座雑色は所司代が代
犯罪者の取り締まりに関わるような仕事、警察の仕事をす
寛永です。そのころには三代目の所司代のもとで牢奉行、
す。史料にはっきりとでてくるのは⑩の史料にあるように
も、結局牢奉行という形で江戸幕府に採用されていきま
せに町の人から嫌われているやないかと文句をつけながら
のはうまみがあるというところから、徐々に、町出身のく
たとき、京都の町の人だったという小舎人雑色を活用する
で、京都のことを知りません。ただ、京都を治めようとし
ではないかとも言います。徳川幕府は三河武士中心ですの
104
下村文六は京の弾左衛門か
たのです。
村の特別な役割でした。つまり、下村家は携っていなかっ
三」とありますが、処刑の時に首を斬る役割、これは天部
す。以前にも言いましたが、史料に「又次郎役天部村伝
天部村が四条河原で処刑にあたるというのが⑪の史料で
あります。寛永元年の史料ですが実際に書かれたのはもっ
す。どれくらいの知行地をもったかというのは⑬の史料に
あまりを知行する立場で、庭作りの肩書きででてきていま
ます。こういうようにいろいろ知行地をもって、一〇〇石
作文六知行」がでてきます。愛宕郡の蓮台野村にもでてき
行地に分かれています。ここに文六の知行地があります。
が何百石とか、どこどこが何石とかと一つの村が多くの知
計算ができないとだめでした。知行が細かくて、どこの寺
作文六知行」とあります。京都の村は大変で、村の百姓は
ということがあげられています。真ん中あたりに、「御庭
そのころの大将軍村、聚楽村がどんな人の領地であったか
できてきた時代、三代目の文六のことがかいてあります。
ち、牢屋の仕事でも町奉行の下で仕事をするという体制が
時期で、四座雑色なども立ち直って触頭としての力もも
りません。これは元禄のころです。江戸幕府も落ち着いた
レジュメの「三 はてな はてなの下村家」にはいりま
す。史料では⑫になります。江戸初期の下村家の史料があ
家の仕事になっていたということです。しかし、二条城の
ということです。三代目文六のころは二条城の掃除が下村
天部とか六条とか川崎といった村々が掃除役についていた
れていたんだという感想を私はもっています。文六の元で
頭であったと書いています。元禄の頃にはこのように思わ
書には三代目の下村文六は一〇九石を知行し、そして穢多
す。二条城の掃除役を勤めていたと書いています。元禄覚
助、二代目ですが、が地方で一二〇石ほどいただいていま
います。「諸式留帳」という記録には寛永一一年、下村庄
六は宝永五年七月に死んでしまったということを記録して
すが、これは文六が生きているあいだはもらっていて、文
です。三代目の下村文六はこの記録のころには死んでいま
とあとのことです。六条村の史料、というより記録です。
文六はこの村からだけの収入ではなくて、あちこちの村に
掃除役で百何石もらうなんていうことはどうも解せませ
下村彦惣、初代ですが、一二〇石もらっていたということ
あって、あちこちに名前がでてきます。西院村にも「御庭
105
ます。宝永五年七月に文六が病気で死にます。⑭の史料に
ら、そういう人たちが掃除をするようになっていたと思い
部村にも庭作りをしていた人もたくさんいるわけですか
除役につかっていたということがいえます。六条村にも天
や川崎の人たちが働くので、後の被差別部落の人たちを掃
六自身やり手で、下村家は上に立って、掃除は天部や六条
せることはない、という考えがでてきている時代です。文
です。奉行所としては一〇〇石もわたして下村家に掃除さ
と、⑭の史料です。下村家の文六の頃はやはり掃除が中心
それから後、良い庭となるとすべて小堀遠州となってい
ます。では、下村家はどんな仕事をしているのかという
建てた伏見城の庭のようです。
が庭作りをしたことがわかる史料というと、どうも秀吉が
山水河原者の庭作りは終っていきます。最後に山水河原者
わってきます。それが小堀遠州という実力者です。そして
作りはどうなったのか、この頃から庭作りのリーダーが代
か、やはり文六のころは掃除だったとおもいます。では庭
勝手に想像しています。下村家は何の仕事をしていたの
ん。お庭者、山水河原者と深く関わっている関係だと私は
ているのですが、「右は下村文六殿御給地に御座候とこ
に、東塩小路村での下村家の知行地はどうなったかをかい
〇八年に文六は死んでいますが、それから五〇年ほど後
た。寛延三年、一七五〇年の東塩小路村の史料です。一七
それでは、下村家の知行地はどこにあったのかというこ
とは⑯にあります。京都の近郊の農村に知行地がありまし
た。
うことで、宝永五年七月で下村家は取り潰しになりまし
出願しますが、奉行所はそれを受付けませんでした。とい
く知っているのでどうぞ下村家の跡を継がせてくださいと
六の手代だった人が、自分たちは掃除のやりかたなどを良
すが、何とかして下村家を継ぎたい、二条城の掃除役につ
た。そして次の⑮の史料になります。大分年月ははなれま
所に願いでます。しかしこれは全く受入れられませんでし
せてくださいと、天部や六条、川崎の年寄が連印して奉行
うということで、文六の弟の源内に二条城の掃除役を継が
り、九月になって跡目を考えないと下村家は潰されてしま
行くのですが、途中で死んでしまいます。七月に亡くな
く、死んでしまったら跡目は難しいのです。必死になって
きたい、というより知行をもらいたいということで下村文
よると、文六が死にそうだということで奉行所へ通達にい
106
下村文六は京の弾左衛門か
ということです。下村家の存在自体が後々あまり知られて
…」と、下村家の知行が大分前からわからなくなっている
なく、名寄帳を以て上納仕り来候ところ、宝永五子年…
ろ、いつの頃御給地の訳相知れ申さず。勿論古帳等も御座
御免になったと考えられます。
底辺の仕事としていきました。そういう中で下村家は御役
ちっとかためる、犯罪者の取締りをするということを一番
制をつくっていくのではなく、治安維持のため牢屋敷をが
制が、庭作りとか掃除とか、そういう役目のもので支配体
の史料「京都御役所向大概覚書」
いないということです。しかし、役所の書類には昔のこと
を書いています。⑭の
で、村同士が利害関係があわず喧嘩になったとき仲裁をす
役に付かせることをしていました。文六はやり手だったの
で穢多村といわれるような村々の人たちを出動させ、掃除
刑吏役にはタッチしていません。けれど、庭作りとか掃除
でやっていたことがわかっています。ですので、下村家は
が、罪人の処刑役などの手伝い、特に天部村などの支配下
末から青屋という青色、紺とは違い青色を染める染屋さん
配にはいります。このなかで、青屋とかいてあるのは中世
村々はその後どの支配に入ったかというと、四座雑色の支
も支配していたと書いています。そして、ここにでてくる
り候」というふうにこの村々を支配していた、そして青屋
文六支配致し、御城内掃除の儀、文六これを相勤め申し奉
幕府の方針としては、他の被差別の村々の人たちにも順繰
犯罪者の刑吏役も勤めるということになっていきました。
すが、その元でこういった村々が外番役を勤める、そして
下雑色、その下の人々と、ちゃんと組織ができているので
という役目を担うことになりました。四座雑色も上雑色、
吏役を勤めていた天部、六条、川崎村の年寄たちは外番役
こに書きましたように牢屋敷外番役ということで、元々刑
と牢奉行だった四座雑色ですので、その四座雑色の元でこ
ました。そして、牢の仕事は四座雑色の仕事です。もとも
いって放免しました。その後、大きな牢屋敷を六角に作り
た犯罪者たちは一旦放免、いついつまでに帰って来いと
京都の町が大変な状態でした。焼けてしまった牢屋敷にい
レジュメの「四 下村家を継ぐ役人村」にはいります。
下村文六が死んだ宝永五年は宝永の大火で牢屋敷も焼き、
には下村文六と書いて、「六ヶ所の穢多並びに洛中青屋共
るようにもなっていました。しかし以降は、幕府の支配体
107
59
くに下村文六が死去した頃大火が起こり、牢屋敷が大きく
う一つ、小舎人雑色の時から持っている牢屋敷の問題、と
従わなかったらえらい目にあいます。大きな役目です。も
すというのは、統治をする権力者のすることで、お触れに
として幕府、奉行所の元で力を持っています。お触れを出
と同じように触頭として、四座雑色はお触れを言い渡す頭
きちっと支配しているのが四座雑色です。小舎人雑色の時
しようということにもなります、そして天部などの村々を
村などの収入になる。そうとなると、外番役の村々を多く
六条など実際に役につく人たちの日当になる、また、天部
はなく、すべて代わりのお金で納める、そしてその天部や
いうことです。何々役というのは肉体労働をしにいくので
いけるわけではなく、お役に立つようにとお金を納めると
際、摂津の村の人が出ますといっても、歩いて六角牢まで
でなく摂津、大坂のあたりまで行ってもめたりします。実
くわけです。外番役を出せといいに行く、それが京都だけ
へも外番役を要求しに天部村が、四座雑色から言われて行
はあまり関わってこなかった京都のあちこちの小さな村々
が中心になるわけですが、今まで京都の治安維持の仕事に
りに牢屋敷外番役を勤めさせようとするわけです。天部村
まったということです。
が、下村家という昔の名前を背負った家はそこで消えてし
います。町人になって子孫は続いていっていると思います
家は子孫はいます。弟がいましたので。町人になったと思
が死んでしまった、そしてお家断絶となりました。下村の
の中で、下村家は切ったほうがいいという情況のとき文六
都では大きな火事が起きたりといった、がたがたした時代
体制のもとで、富士山が爆発したり、地震が起きたり、京
をおこない、そんなものいらんといわれる近世の徳川支配
た。下村家は庭師、山水河原者の系譜から庭作り、掃除役
は皮の仕事で武士と力を合わせて明治まで力をもちまし
衛門と下村家とは歴史が違います。独断ですが、弾左衛門
刑吏役の仕事をするようになった。ですので、江戸の弾左
体制がつくられ、その支配体制の中で天部や川崎の村々が
なって、断絶させられ、新たに京都の町奉行を中心に支配
ながら続いてきましたが、近世の統治機構の中でいらなく
だったということです。下村家は中世の文化的な仕事をし
事にあたらせたのが天部、六条、川崎村を中心とした村々
なったのです。その時きちっと自分の傘下でその実際の仕
なって四座雑色は牢の治安の仕事をしっかりするように
108
下村文六は京の弾左衛門か
下村文六は京の弾左衛門か
―はてな
はてなの下村家―
辻
はじめに
江戸の弾左衛門
一.中世の山水河原者
(1)河原者が作庭に従事する
①~⑥
(2)庭者が山水・陰陽を述べる
⑦⑧
こ と ね り ぞうしき
し
ざ
二.小舎人雑色から四座雑色へ
さむらいどころ
(1) 侍 所 に従う小舎人雑色
まちぶぎょうしょ
(2)京都町奉行所に従う四座雑色
三.はてな
⑨
⑩⑪
はてなの下村家
(1)知行地をもつ下村家
⑫
(2)下村家の任務とは
⑬
(3)下村家の断絶
⑭~⑯
四.下村家を継ぐ役人村
(1)天部・六条・川崎村
(2)牢屋敷外番役
(3)四座雑色と役人村
おわりに
109
ミチ子
110
下村文六は京の弾左衛門か
111
112
下村文六は京の弾左衛門か
113
114
京都の近代史における朝鮮人労働者
― 山科地区を中心に ―
高 野 昭 雄
115
いた『近代都市の形成と在日朝鮮人』をあげていますが、
す。参考文献Dとして、私が二〇〇九年に出版していただ
た。参考文献A~Cは京都大学の水野直樹先生のご研究で
今日は発表の機会を与えていただきありがとうございまし
林組です。大林組は、京都では、現在の阪急電鉄の西院・
今日の話に関わる土木会社でいうと、稲葉組、西本組、大
す。この時の工事に日本の土木会社が多く関わっています。
年の日露戦争期における朝鮮半島での南北縦断鉄道工事で
そのきっかけとなっているのが、一九〇四年から一九〇五
が一九一〇年です。去年で百年になりました。併合前後か
私は、かつて山科に十二年間住んでいました。その関係
もあって、ずっと山科のことを調べたいと思っていました。 ら土木工事に朝鮮人労働者を使うことが始まっています。
この中で被差別部落居住日本人と朝鮮人労働者との共通の
することは、殆どありませんでした。戦前期における朝鮮
が、被差別部落居住の日本人、特に男性が繊維産業に従事
前期においては、多くの朝鮮人が繊維産業に従事しました
われることがよくありましたが、そうではありません。戦
友禅染と西陣織も部落の人と朝鮮人の両方が従事したと言
ことになります。その後、京都関連では、一九〇六年から
ました。朝鮮人の労働者を使うという経験を積んだという
日露戦争時における朝鮮半島での鉄道工事では、日本の
大手土木建設会社が、現地で朝鮮人労働者をたくさん使い
傷者が出ました。
最初の地下鉄工事をします。朝鮮人労働者に十人以上の死
仕事としては、土木工事の仕事が最も重要だと書きました。 大宮間の地下鉄工事で、朝鮮人労働者をかなり使って関西
人と部落居住日本人との共通の仕事としては土工が一番重
JRの山陰線になります―を稲葉組が請け負うのですが、
要だったのです。今日の発表は、舞台は山科になりますが、 一九一〇年にかけての園部・綾部間の鉄道工事―今で言う
被差別部落と朝鮮の労働者が土木工事を通じて共に働いて
この工事に朝鮮人労働者をたくさん使っています。
請け負い、朝鮮人労働者を使っています。この宇治川水力
このあと、一九〇九年から一九一一年にかけての宇治川
水力発電所工事は、西本組、増田組、大津の吉井組などが
いたということが中心テーマになります。
一 はじめに
略年表をご覧下さい。日本が朝鮮半島を植民地化するの
116
京都の近代史における朝鮮人労働者
やってきて工事をして、春には帰るという形もあったので
ただ当時は、朝鮮人がずっと日本に住み続けていたのか
どうかは不明です。冬の間、農業ができませんので日本に
働者が従事していることが新聞記事に載っています。
すということで非常に重要でした。この工事にも朝鮮人労
工事は、当時都市の人口が急増し、工業化も進み市電も通
にある夷川発電所の工事もこの時行われました。発電所の
発電所工事と同じころに第二疏水工事がありました。岡崎
事したという証拠はありません。従事していたとしても少
ます。新聞記事や他の資料で、東山トンネルで朝鮮人が従
てきたのですが、実際は従事していなかった可能性があり
す。もう一つは東山トンネル工事、こちらは京都・山科間
は朝鮮人労働者が働いていたことが新聞記事に出ていま
ンネル、山科と大津の間のトンネルです。こちらのほう
の大きなトンネルの工事がありました。一つは新逢坂山ト
す。稲葉組が中心となった工事です。この工事には、二つ
です。実はこれまで朝鮮人労働者が従事していたと言われ
はないかと思います。この第二疏水工事は、京都市内で朝
た。一九一二年のこの工事にも朝鮮人が関わっています。
が、京阪の路面電車が大津と三条の間を走っていまし
続いて山科に関わることとしましては一九一二年の京
津電気軌道工事があります。今は地下鉄になっています
いう形で朝鮮人が働いています。
ほぼ同じ頃に西陣でも少数なのですが、西陣織の見習いと
を使ったわけではありません。
と使わない業者があって、必ずしもすべての業者が朝鮮人
せんでした。この頃は下請との関係で、朝鮮人を使う業者
一九一四年から一九二一年ですのでそれほど多くはありま
後半から三〇年代になりますと、土木の工事には、ほぼ全
で、朝鮮人労働者は多くありませんでした。一九二〇年代
鮮人が労働者として入ってきた最初のケースかと思います。 数だったと思います。当時はまだ第一次世界大戦の頃なの
一九一二年の桃山御陵工事も増田組が請け負いますが、こ
組と朝鮮人との関係は深いといえます。一九三〇年の西紫
てといってもいいほど朝鮮人労働者が入ってくるのですが、
こでも朝鮮人労働者が働いています。
一九二八年には増田伊三郎が選挙に出るのですが、朝鮮
人三名が選挙違反で取調べをうけています。それほど増田
一九一四年から一九二一年の東海道線の新線工事、これ
は大規模な工事ですが、これにも朝鮮人が関わっていま
117
ていただきます。
日はここに書かせてもらったようなことを中心に発表させ
うち六割から七割が朝鮮人だったとの史料があります。今
これにはたくさんの朝鮮人が関わっていました。労働者の
な工事で、道幅を広げ、山を削って勾配を緩くしました。
年から三三年にかけての京津国道改修工事は、かなり大き
が、その建築工事に朝鮮人が携わっていました。一九三一
ます。一九三一年の京都薬専工事、今の京都薬科大学です
いるのですが山科に住んでいる朝鮮人労働者が従事してい
野・上賀茂土地区画整理事業の工事にも、ずいぶん離れて
川ダム・第二疏水の工事で、錦林部落の人が土方の親方と
ではないかというのが今日のテーマの一つです。近くの夷
地図で錦林部落を確認して下さい。ここは土木中心の部
落であり、ここの人たちが山科の工事にも関わっていたの
ったのです。
一九三〇年では、この西院に次いで二番目に朝鮮人が多か
流しの仕事も多かった地域です。新市域の中で、山科は、
す、冬は水が冷たくてとても大変なのですが、この友禅
は、友禅流しの仕事、糊や染料を冷たい川に入って洗い流
西院・大宮間工事で多くの朝鮮人が働いていました。西院
の方が高いです。町はずれの空き地に朝鮮人が住み着いた
を比べると新市域が五・三%、旧市域が二・三%と新市域
です。山科も新市域です。旧市域と新市域の朝鮮人人口率
先に表2の方をご覧下さい。地域別の朝鮮人人口です。
新市域は一九三一(昭和六)年に京都市に編入された地域
でそこに勤めている朝鮮人もいました。さらに東の御陵三
精工所というねじをつくっている工場が隣にありましたの
町も、土木の仕事に従事した朝鮮人が多いのですが、山科
人密集地であり、土方仕事が中心でした。次の日ノ岡堤谷
都では最も早くできて戦後の高度成長まで長く続いた朝鮮
なって、朝鮮人労働者を使っていました。次に山科におけ
わけです。
業中心の朝鮮人密集地でした。さらに東には大津市の藤尾
蔵町は、京都薬科大学の近くになりますが、ここも土木事
る朝鮮人密集地を確認していきます。北花山山田町は、京
表1は、新市域のうち、一九二〇年、一九三〇年段階で
朝鮮人が多かった場所をあらわしています。一位の西院は
別格です。今の阪急電鉄、当時の新京阪電鉄の地下鉄工事、 地区があります。ここは新逢坂山トンネル山科口のあると
118
京都の近代史における朝鮮人労働者
います。
人密集地です。これらの密集地は、ほぼ三条通りに沿って
ころです。ここも一九一〇年代から続いた古くからの朝鮮
した。
松下佳弘先生の研究では、大津市の藤尾では戦後も朝鮮人
っているようです。御陵三蔵町がやはり出ています。また
との区別ができていません。距離が近いのでごっちゃにな
されています。次に京都府協和会要覧による一九三八年の
岡堤谷町、御陵三蔵町の四カ所が朝鮮人密集地として記載
町―ここは先ほどの錦林部落です―と北花山山田町、日ノ
次に表3です。 番の山階学区が山科になります。京都
市社会課による一九三五年の調査では、左京区鹿ケ谷高岸
が居住したのではないかと思います。
様々な土木工事が絶えず続いたため、多くの朝鮮人労働者
てみると、山科は京都と大津にはさまれた交通の要衝で、
三七分かかっていたのが一七分に短縮されました。こうし
京都・大津間が一八キロあったのですが、一〇キロになり、
逢坂山トンネルを作って、とても距離が短くなりました。
を示します。宇治川水力発電所の電気は、主に大阪に送電
(3)は、一九一〇年の韓国併合の頃になると宇治川水
力発電所工事と第二疏水工事に朝鮮人が従事していたこと
った朝鮮人もいました。
した朝鮮人労働者がいたのです。トロッコ事故で重傷を負
(2)は、韓国併合前に行われた園部・綾部間の鉄道工
事を、稲葉組が請け負い、韓国から労働者を連れてきてい
請け負ったことを示す資料です。
(1)は、日露戦争の時に朝鮮半島で南の釜山から北の
新義州まで、日本の大手土木建設会社が多数、鉄道工事を
二 日露戦争前後から韓国併合前後まで
が多く、一九四八年に朝連藤尾初等学校生徒が二二人いま
この地図で、一九二一年までの東海道旧線を確認し
て下さい。ここは現在、名神高速道路となっています。
資料では、日中戦争が始まっている時期ですが、やはり鹿
されました。株主も大阪の人が多かったのです。第二疏水
一九二一年に完成する工事で今のように東山トンネルと新
ケ谷高岸町が朝鮮人密集地として書かれています。次に山
工事・夷川発電所の電気は、京都で使われました。京都も
たことを示す新聞記事です。厳しい労働条件の下、逃げ出
科日岡北花山山田町とありますが、これは日ノ岡と北花山
119
14
した。
桃山御陵の工事にも携わって、朝鮮人労働者を使っていま
田組も宇治川、第二疏水工事の両方に関わっており、また
もに第二疏水工事でも朝鮮人労働者が働いていました。増
鮮人労働者を使っていました。宇治川水力発電所工事とと
よるものです。西本組や吉井組が、一九一〇年前後には朝
以 上(1)~(3)は 、 京 都 大 学 の 水 野 直 樹 先 生 の ご 研 究 に
所が必要になり、その工事に朝鮮人が使われたのです。
大阪同様に、都市化が進む中で電気が足りなくなって発電
鮮人労働者が流入していたが、彼らがそのまま東山トンネ
邦」直後の時点で宇治川電気発電所工事などにかなりの朝
通説のように書かれてきた記述です。「すでに「日韓合
瓦解の浮目を見ている」と書かれています。③A・Bは、
際し、逢坂山ずい道で大きな損失を招き頽勢となり、遂に
の有数な業者であって(中略)大津―京都間の改良工事に
ネル工事を稲葉組が請け負いました。「稲葉組も明治以来
に工事が行われるのですが、東山と新逢坂山、両方のトン
一九一四年から二一年まで、ちょうど第一次世界大戦の頃
ル工事に従事した」、「東山トンネル完成後も日本に定住
して、低賃金労働者として日本の多重的労働市場の最底辺
錦林部落ととても近い所です。 1( の) 三つの資料は、錦林
部落の有力者が、第二疏水工事を請け負い、朝鮮人労働者
一九一〇年頃の第二疏水工事には、錦林部落の土木会社
が関わっていました。第二疏水工事は、場所からいっても
人労働者を関連づける新聞記事や史料はみあたらない」の
宇野豊先生が書かれているように、「東山トンネルと朝鮮
域は、こうして京都における在日朝鮮人の集住地の一つと
を構成することとなった。東九条を中心とする鴨川西岸地
を使っていたことを示します。錦林部落は被差別部落の中
です。宇野先生は、東山トンネル工事と東九条の在日朝鮮
三 錦林部落(鹿ケ谷高岸町)と朝鮮人労働者
でも土木建設業を早くからやっていた地域です。
ています。私も宇野先生のいわれることが正しいと思って
います。
人と直接結びつけるのは無理があるのではないかと書かれ
なっていった」と書かれています。ところが実際は、④で
次に、東海道新線の工事と朝鮮人労働者についてです。
大津まで一八キロの東海道線を、トンネルを作って一〇
キロにするという工事です。 2( ②) の資料にあるように、
120
京都の近代史における朝鮮人労働者
坂山トンネル、山科・大津間のトンネル工事に朝鮮人労働
示します。②③は藤尾の記事です。一九一六年には、新逢
年に日ノ岡で朝鮮人が京津線の工事に従事していたことを
います。レジュメ7頁、(3)①の新聞記事は、一九一二
最も古い朝鮮人部落がここにできたのではないかと思って
東海道新線工事と朝鮮人密集地の関係ですが、北花山日
ノ岡と大津市藤尾の二箇所の朝鮮人密集地が関係します。
とからも、この記述は注目すべきだと思います。
地区と錦林部落が結びついている場所があります。そのこ
ます。また、このあとでみますが、山科地区の朝鮮人密集
人労働者のつながり、これははっきり新聞記事にも出てい
ことです。第二疏水工事における錦林部落土建業者と朝鮮
ではないか、その周辺に暮らしていたのではないかという
みつけました。東山トンネルと錦林部落とは関係があるの
住する人もかなりいた、という証言がある」という一文を
町〕ないしその周辺に居住したといわれるが、東九条に居
事に動員された朝鮮人の大部分は、錦林部落〔鹿ケ谷高岸
私が注目している記述は⑤です。「一九二一年に終わっ
た東海道線増幅、東山トンネル工事」について、「この工
し新聞史料にも出てきませんので少数だったと思います。
山トンネル工事に従事した可能性はあると思います。ただ
花山方は北花山山田町からとても近い所です。朝鮮人が東
捨吉は東山トンネルの花山方の工事を担当していました。
丸岡捨吉と関係があるのではないかと思っています。丸岡
ります。この丸岡末吉という人は東山トンネルの下請人の
朝鮮慶尚北道大岳〔邱〕府南門朴周大(三十一年)と云
へる朝鮮人は山科村字北花山丸岡末吉方に滞在中…」とあ
山トンネルに関わる唯一の新聞記事です。「朝鮮人の泥棒
北花山の飯場とは、関係があったことを示します。⑥は東
⑤は北花山の新聞記事です。北花山は五〇年間続いた朝
鮮人部落です。新逢坂山トンネルの工事と朝鮮人、そして
くるようになったわけです。
で人手不足になります。その頃から朝鮮人がどっと入って
時は大戦景気で景気が良かったのであちこちの工場や工事
二百二十名内外となつた」とあります。第一次世界大戦の
です。「四百人以上の坑夫が段々減じて今日では僅かに
夫たちがストライキをしたという一九一七年の新聞記事
密集地がありました。④は逢坂山トンネル工事の時に、坑
藤尾には、一九一六年から戦後まで、約三〇年間、朝鮮人
者が従事し、その人たちは藤尾に住んでいたのです。この
121
りの部分が朝鮮人労働者と被差別部落の労働者です。業者
ながりがありました。戦前の土木事業は、その土工のかな
示すように、山科の朝鮮人部落と鹿ケ谷錦林部落とは、つ
ります。井上梅吉は錦林部落の土建業者です。この記事が
くなった、日岡の合宿所には飢餓に衰へた友人が…」とあ
は米屋へその代金を払はぬので近ごろでは伝票も通用しな
たゞけだ、初めは賃銀の代りに米屋の伝票をくれたが井上
市電大徳寺線の附近で働いたが井上は約一割の賃銀をくれ
れ等朝鮮人は約百名井上に使はれ三月四日以来十月末まで
使はれてゐる鄭東信、戌伊植、文錫英等十名は〔中略〕わ
事は殆ど終了したがその工事の請負者鹿ケ谷の井上梅吉に
⑨は、日ノ岡の飯場と錦林部落が結びついていることを
示す新聞記事です。「京都市西紫野土地区画整理組合の工
⑦は、警察が東海道線工事に朝鮮人を斡旋したという
一九一九年の新聞記事です。
津国道日岡峠改修工事に従事するため日岡花山に鮮人親睦
方を市に陳情」、③「京津国道改修/鮮人陳情」、④「京
②「京津国道沿線の鮮人労働者/菱野市議の紹介で/救済
京津国道工事に採用方を依頼することになったとあります。
するため失業救済会を設けることを決議し近く着工される
堤谷にあった親睦会山科支部が、多数の会員失業者を救済
この京津国道改修工事にも多くの朝鮮人が関わっていま
した。(2)の記事をみていきます。①では、日の岡小字
一が府県負担でした。
た。③の記事が示すように、三分の二が国庫負担で三分の
ように、昭和恐慌後の失業救済対策事業として行われまし
が失業者救済の目的で施行することになつてゐる」とある
ます。9頁の(1)②にあるように、この工事は「内務省
一気につなぐ、最終的には大津と神戸をつなぐことになり
ます。一九三一年に工事が始まり一九三三年に開通してい
た。京津国道の幅を広くして勾配を緩くして山科と大津を
も被差別部落の業者が多かったのです。⑩は、日ノ岡の飯
場に、たくさんの朝鮮人が住んでいたという新聞記事です。 会の合宿所が設けられ…」などとあります。また京都府社
四 京津国道改修工事と朝鮮人労働者
す。これは鮮人が最も多いやうです」、「京津国道改修工
ます。殊にその求職者が刻々変化するのは注意すべき点で
会事業協会の『社会時報』では、⑤「失業者は日々増加し
京津国道改修工事にも多くの朝鮮人労働者が従事しまし
122
京都の近代史における朝鮮人労働者
(3)からは車石と朝鮮人の関係です。江戸時代は、京
都と大津の間を牛などで荷物を運ぶために、車石という石
事でもその六七割は鮮人でせう」と書かれています。
~三人の朝鮮人が働いていた。今と違い草を刈ったり、農
た」。Bさん:「祖父が牧場を経営していて、そこにも二
いた。一緒に鏡山小学校に行っていたので、一緒に朝鮮部
の②は車石研究家・久保孝先生からのご教示です。このあ
の朝鮮人達は牧場のすぐ近くに住んでいた」。Cさん:
家へ行って藁を運搬したりといった労働が大変だった。そ
落と言われいじめられた。朝鮮人は牧場の辺りに多かっ
頁
たりを歩くと今でもあちこちの石垣などに車石が残ってい
「ミネルヴァの裏駐車場の付近〔日ノ岡堤谷町〕に朝鮮人
が敷かれていました。竹田街道の方にもありました。
ます。近所の人たちが、京津国道改修工事に従事した朝鮮
が集まって住んでいた。そこから鏡山小学校に通っていた
朝鮮人の中に優秀な子供がいて、学校でよくケンカをし
人労働者から、車石をわけてもらうということがあったの
です。
っていたと思う」。
た」、「山田町以外の朝鮮人部落は戦争が終わると無くな
(4)は、京都薬科大学の工事に従事した朝鮮人労働者
が「賃金が貰へず歳の暮に困まる」と、「代表を選び薬専
と請負者に談判」したことを示す記事です。
六 おわりに
古くに形成され、遅くまで続いた、おそらく五〇年間位続
北花山山田町の朝鮮人密集地は、高度経済成長期、
一九七〇年位まで続いた、京都の朝鮮人部落の中では最も
ていました。
と続いていました。稲葉組など特定の業者が朝鮮人を使っ
の動脈として鉄道や道路の工事が多く、朝鮮人部落がずっ
洛東から山科にかけて、京都市内では最も古くに朝鮮人
部落ができたのではないかと思っています。京津間は交通
いた朝鮮人密集地ではないかと思っています。聞き取り資
五 北花山山田町の朝鮮人密集地
料を貼らせていただきました。Aさん:「朝鮮人はここか
先ほど金森先生から、冬だけ日本に来て工事をし、春に
帰るという出稼ぎ、季節労働の朝鮮人は統計には出てこな
らはBさんの牧場までの間に一〇軒ほど、たくさん住んで
123
11
いだろうというアドバイスをいただきました。そういった
人たちも含めて、さらに調査を続けていくことが今後の課
題だと考えています。
〔付記〕本稿は、平成 年度科学研究費補助金(奨励研
究)による成果の一部である。
23
124
京都の近代史における朝鮮人労働者
「京都の近代史における朝鮮人労働者-山科地区を中心に」 京都部落問題研究資料センター
2011 年 12 月2日、部落史連続講座
高野昭雄
一、はじめに
(1)略年表
A1904~1905
B1906~1910
B1909~1911
C1908~1912
1912
1912
1914~1921
日露戦争 朝鮮半島鉄道工事 (稲葉組・西本組・大林組)
園部綾部間の鉄道工事
(稲葉組)
宇治川水力発電所工事
(西本組・増田組・吉井組・鹿島組・大倉土木)
第二疏水工事(夷川発電所) (西本組・増田組・吉井組)
京津電気軌道工事
桃山御陵工事
(増田組)
東海道線新線工事
(稲葉組・増田組)
(新逢坂山・東山トンネル工事)
※1928
増田伊三郎の選挙(朝鮮人3名取調)
『京都日出新聞』1928 年 3 月 12 日夕刊、1928 年 1 月 31 日夕刊
1930
西紫野・上賀茂土地区画整理事業
1931
京都薬専工事
(大林組)
1931~1933 京津国道改修工事(失業救済事業) (吉井組)写真参照
※本研究ではこれらの事項を稲葉組などの土木建設会社や錦林部落から見ていきたい
(2)参考文献
A.水野直樹「丹波マンガン記念館―戦時下の朝鮮人労働者」
『2005 年度講演録 講座・人権ゆ
かりの地をたずねて』
(世界人権問題研究センター、2007 年 3 月)109~110 頁
・1904~1905 年 日露戦争時に朝鮮半島で鉄道工事等を行った大手建設会社、あるいはその下請、
孫請の会社が朝鮮人労働者を使用する経験を持ち、以後日本国内の土木工事に朝鮮人労働者が
使われるようになった。
・大村陽一「明治期の土木建設業と朝鮮人労働」
『Core Ethics』vol.5、2009 年
・ 同
「日本土木建設業の近代化と朝鮮人労働者の移入」
『Core Ethics』vol.6、2010 年
B.水野直樹「京都における韓国・朝鮮人の形成史」
(
『民族文化教育研究』第1号、1998 年 6 月)
・1907 年 園部綾部間の鉄道工事に朝鮮人が従事
・1909~1911 年 宇治川水力発電所工事に約 100~200 名の朝鮮人が従事
C.水野直樹「夷川ダム(琵琶湖疏水)と朝鮮人労働者」
(
『みんなで学ぼう 京都と韓国の交
流の歴史(1)
』2007 年 12 月)
・1908~1912 年 第二期疏水工事に朝鮮人労働者が従事。この工事の頃から、学生以外の朝鮮人
労働者の姿が京都市内に見られるようになっていったと思われる。
D.高野昭雄『近代都市の形成と在日朝鮮人』
〈佛教大学研究叢書5〉
(人文書院、2009 年)
・被差別部落住民と朝鮮人労働者の共通の仕事としては、土工が最も重要。
1
125
(3)
『国勢調査』人口統計、1931 年に京都市に編入された町村、外地人人口の多い町村
表1
表2 地域別朝鮮人人口(1935年)
(単位:人)
総人口
(A)
朝鮮人人口
(B)
朝鮮人人口率
(B)/(A)
旧市域
852,482
(79.1%)
19,240
(61.8%)
2.3%
新市域
225,824
(20.9%)
11,903
(38.2%)
5.3%
1,078,306
(100.0%)
31,143
(100.0%)
2.9%
京都市全体
出典:京都市臨時国勢調査部『昭和10年国勢調査京都市
結果概況』1936年、調査時は1935年。京都市社会
課『市内在住朝鮮出身者に関する調査』1937年、
調査時は1935~36年。
注 :特別調査区の人口は除く。
2
126
京都の近代史における朝鮮人労働者
(1935年)
表3
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
学区
朱 雀
陶 化
養 正
吉祥院
西 院
深 草
七 条
上賀茂
待 鳳
竹 田
修学院
太 秦
大 内
山 階
錦 林
朝鮮人人口数 朝鮮人人口率
5090
2050
1741
1251
1247
1182
945
896
863
833
831
831
821
808
791
5.91
8.02
6.96
19.08
7.46
3.89
4.96
11.74
1.85
14.32
7.93
5.31
2.93
4.06
1.52
出典:京都市社会課『市内在住朝鮮出身者に関する調査』
1937年、人口の調査時は1935年。
京都市臨時国勢調査部『昭和10年国勢調査京都市
結果概況』1936年、調査時は1935年。
注 :京都御所・陸軍部隊など特別調査区の人口は除く。
(4)朝鮮人密集地
①京都市社会課『市内在住朝鮮出身者に関する調査』1937 年、調査時は 1935 年。
左京区鹿ケ谷高岸町 朝鮮人(10 世帯、 53 人)総人口(1161 人)
東山区北花山山田町 朝鮮人(35 世帯、159 人)総人口( 553 人)
東山区日ノ岡堤谷町 朝鮮人(15 世帯、 60 人)総人口( 241 人)
東山区御陵三蔵町
朝鮮人(17 世帯、 78 人)総人口( 169 人)
②『京都府協和会要覧』1938 年
左京区鹿ケ谷高岸町
職工2、自由労働者 48、合計 120 人(男 85 人)
東山区山科日岡北花山山田町 職工8、自由労働者 37、合計 149 人(男 92 人)
東山区御陵三蔵町
職工5、自由労働者 17、合計 97 人(男 55 人)
③
協和会補導員
左京区鹿ケ谷高岸町20
東山区北花山山田町35
東山区日ノ岡堤谷町8
東山区御陵三蔵町23
玉敬五
柳周玉
金元敬
劉載秀
協和会指導員
左京区鹿ケ谷高岸町 萩崎繁蔵
東山区御陵三蔵町20 芝田亀吉
④大津市藤尾 1948 年朝連藤尾初等学校生徒数 22 人(松下佳弘氏の研究)
3
127
二、日露戦争前後から韓国併合前後まで
(1)京釜線・京義線
……京釜鉄道はすでに明治 31 年(1898)9月〔、
〕3カ年以内に着工しなければ無効という条件で
韓国より建設特許を得ていたが、折柄の財界不況のため着工は非常に困難であった。設立発起人代
表渋沢栄一は百方奔走のすえ、とにかく一部分だけでも建設にかかることとし、特許の期限が切れ
る直前の 34 年(1901)8月末に至ってようやく起工式をあげることができたのである。
京釜鉄道の京城からの北部線はほとんど有力韓国人の請負会社によって施工されたのであるが、
彼らは鉄道工事の経験を持たないため、実際には下請の形で志岐組・阿川組・間組・太田組等日本
の鉄道請負業者が工事を行なったのである。不況に悩む日本の請負業者はその北部線の下請と、釜
山からの南部線の工事をねらって朝鮮半島に進出した。
京釜鉄道が着工されて間もなく、日露間の外交関係は急速に切迫した。満州において開戦必至と
見た政府は、その際の軍事輸送に間に合わせるため、すでに着工していた京釜線、韓国が着工して
いた京義線(京城―新義州)の完成を急ぎ、明治 36 年(1903)11 月京釜線、翌 37 年(1904)2
月開戦と同時に京義線速成命令を下したのである。ここにおいて京釜線・京義線とも大量の請負工
事が一時に発注されることになり、朝鮮半島はにわかに鉄道ブームが起こったのである。
この速成工事に従事した請負業者はすべて日本人ばかりである。大倉組・吉田組・荒井初太郎・
太田組・鹿島組・杉井組・間組・大島要三・阿川組・稲葉組・菅原工務所(のちに鉄道工業)
・志岐
組・前田栄次郎・早川曻作・大林組・久米組・西本組・宮崎相吉・江森組等をはじめ、日本の請負
業者は大小を問わずほとんどといってよいくらい仕事のなくなった内地から朝鮮へ移って工事を入
手し、不況時の活路を見いだそうとした。請負業の性質上たとえ決算で多少の赤字を作っても、つ
なぎの仕事を持ちたかったのである。31 年(1898)結成された日本土木組合も、すべての業者が
朝鮮へ行ってしまったため自然消滅ということ〔と〕なり、東京麹町山下町にあった土木倶楽部は
釜山に全部引っ越して、書記長が倶楽部員のため種々サービスに務めたものといわれる。※土木工業
協会・電力建設業協会編『日本土木建設業史』
(技報堂、1971 年)93 頁。
(2)1907 年 園部綾部間の鉄道工事
①綾部・園部間:明治 39 年〔1906 年〕10 月着手、同 43 年〔1910 年〕8月開通
綾部・園部間の工事請負人は稲葉弥吉を其主なるものとし、彼の請負工区は殆ど全線の大部分を
占めた。※『日本鉄道請負業史 明治篇』(鉄道建設業協会、1967 年)414~415 頁
②「韓国労働者使役」目下工事中なる園部綾部間官設鉄道敷設の為使用せる人夫中韓国人四五十名
加はり居れるが右は同工事請負人稲葉組に於て韓国釜山附近の村落より群守等の斡旋にて傭入れた
る労働者にして賃銀は日本人夫と高低なく最下一日六十銭内食費に二十四五銭差引き手取三十四五
銭に相当する由而して彼等は頗る規律正しく一定の時間労働して少時休憩喫煙し再び一定時間は専
心労働に従事する等日本人夫の不規律なるに比し大に優れるものあり加之ならず日本人の如く親分
乾児の関係あらざる為雇主に於ても極めて便利なりと(
『京都日出新聞』一九〇七年六月三〇日)
③「朝鮮人の保護願」……四十二名の韓人京都鉄道の園部駅附近のトロック工事労働者に雇はれ来
りしに毎日一食に握り飯二箇を与へらるゝ外に食物なく其の労働の激烈にして到底堪へ難きを以て
我等両名申合せ監督者の隙を窺ひ逃亡し今より帰韓せんと思へど旅費なきを以て保護を得たしと…
…(
『大阪朝日新聞京都附録』一九〇七年七月二三日)
④「韓国人の重傷」
丹波天田郡下□富村字荒川小字神谷に於て鉄道工事の工夫に傭はれをる韓国京城生れの安永株
(二十一年)は二十一日午前十時頃土砂運搬用のトロックに土砂を積載し運搬の際誤つて線路内に
墜落し右足重傷を負ひたり(
『大阪朝日新聞京都附録』一九〇八年二月二四日)
4
128
京都の近代史における朝鮮人労働者
(3)1909~1911 宇治川水力発電所工事
と 1908~1912 第二疏水工事(夷川発電所)
・
「……何分一方に宇治水電と云ふ拙者〔第二疏水〕以上のえらい奴が居るから……」
『大阪朝日新聞京都附録』
(一九〇六年八月三一日)
A西本組
(※水野直樹B参照)
・宇治川水力発電所工事第七号トンネルを受け持つ 鹿島組の下請
・西本組の「請負にて目下第二疏水工事の下請負を成し居りて義気に富める大津市中北国町吉
井組……」
(
『京都日出新聞』一九一〇年九月二日)
B増田組
・宇治川電気会社水路第九号開鑿工事、第二疏水第五区工事、
(桃山御陵工事)に携わる
※『明治の光』2巻9号 他
⇒西本組と増田組は、宇治川水力発電所工事とともに第二疏水工事にも関わっていた。
西本組も増田組も朝鮮人労働者を使用していた会社である。
三、錦林部落(鹿ヶ谷高岸町)と朝鮮人労働者
(1)第二疏水工事(夷川発電所)
①「清国人と朝鮮人」目下京都に入り込み居る清国人の数は未だ確たる調査を得るに至らざるも其
のうち医専門学校にある九名は今回赤十字社看護手として本国帰る事となりしも其の他にある同国
人の動静に就ては其の筋に於て専ら警戒を加へつゝありと又朝鮮人にして現に京都府下に入り込み
宇治川水電京都市下水道及び第二疏水、道路拡築工事等に従事し居る者約二百四十名ある由、是等
労働者の生活状態及び教育程度並に現状に対する各自の感慨等に就ては目下府高等課に於て内密調
査を為しつゝあるといふ(
『大阪朝日新聞京都附録』一九一一年一一月七日)
※水野直樹C参照
②「巡査の袋叩」洛東鹿ケ谷の土木業萩原〔崎〕元次郎方の請負へる南禅寺インクラインに接した
る第二疏水の一部工事は釣橋の東方道路を横断して白川口に至る土工にて上手よりの勾配急なるた
め土運車〔トロッコ〕の進行極めて速かに通行の人馬に危険少からぬより
(
『大阪朝日新聞京都附録』一九一一年一二月五日)
⇒錦林部落の有力者・萩崎元次郎氏(土地台帳)が第二疏水工事を請け負う
③「朝鮮人同士の喧嘩」洛東鹿ケ谷町字高岸土木請負業古名手甚吉方に朝鮮人金得龍(二十年)等
四名を雇入れ疏水工事其の他に使役せり(
『大阪朝日新聞京都附録』一九一〇年一二月一九日)
⇒錦林部落の土木請負業者が、朝鮮人労働者を第二疏水工事に使役
※横井敏郎「明治後期の都市と『部落』-京都市を事例として」
『部落問題研究』第一〇五号、一九
九〇年五月、一〇〇頁によると、錦林部落はかなり早くから京都の被差別部落の中では土方部落と
なっていた。
5
129
(2)東海道線新線工事と朝鮮人労働者
①東海道線工事の概要(地図参照)※田中真人・宇田正・西藤二郎『京都滋賀 鉄道の歴史』(京都新聞社、
一九九八年)二六~二七頁(執筆:田中真人氏)
京都から山科を経て大津に至る現在の東海道線のルートは、一九二一年に東山トンネルと新逢坂
山トンネルの貫通にともない移し替えられて以後のもので、現在の京都―大津間の営業キロは一
〇・〇キロメートルである。これ以前は、京都から伏見藤の森付近まで、ほぼ現在の奈良線軌道を
走り、ここから大亀谷を越える現在の名神高速道路のルートで山科に抜け、追分付近から現大津市
逢坂に至る逢坂山トンネルを潜ってそのまま馬場(膳所)に直行し、スイッチバックで大津(現浜
大津)に戻るルートで、その線路延長は一一マイル二六チェーン(約一八・二キロメートル)であ
った。*京都大津間は、37 分→17 分に短縮(『大阪朝日新聞京都附録』1921 年3月1日)
②大津―京都間線路変更工事
大正三年〔一九一四年〕一二月着手、大正一〇年〔一九二一年〕五月竣功
本線の建設に当っては、山科を境にして二工区に分けて、新逢坂山ずい道を含む大津―山科間を
第一工区とし、東山ずい道を含む山科―京都間を第二工区とした。
両工区とも稲葉弥吉が請負ったが、第一工区の請負金額は一〇四万八千円で、大正三年〔一九一
四年〕一二月三十一日に工事に着手した。また、第二工区は八六万四千円で同五年〔一九一六年〕
五月一日に工事に着手した。
※『日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)篇』
(鉄道建設業協会、一九七八年)三四九~三五〇頁。
稲葉組も明治以来の有数な業者であって、同組の請負になる鉄道建設工事は質量ともに多く、本
書でも太多線の全工区をはじめ、小浜、会津、北条、久慈、橋場、横黒、羽越(中)の各線の建設
を請負っているが、
大津―京都間の改良工事に際し、
逢坂山ずい道で大きな損失を招き頽勢となり、
遂に瓦解の浮目を見ている。※『日本鉄道請負業史 大正・昭和(前期)篇』七一六~七一七頁。
◎稲葉組は、朝鮮半島の鉄道工事(日露戦争中)や園部綾部間の鉄道工事で朝鮮人労働者を使役
③田中真人氏の記述
A 東海道線東山トンネルの工事にはかなりの朝鮮人が働いた。関西地方は在日朝鮮人労働者の先
駆的集住地で、すでに「日韓合邦」直後の時点で宇治川電気発電所工事などにかなりの朝鮮人労
働者が流入していたが、彼らがそのまま東山トンネル工事に従事した。故国の朝鮮では日本の植
民地支配のもと、とりわけ事実上の土地収奪を意味した総督府による「土地調査事業」により生
業の道を失った朝鮮人の多くが日本に流入し、東山トンネル完成後も日本に定住して、低賃金労
働者として日本の多重的労働市場の最底辺を構成することとなった。東九条を中心とする鴨川西
岸地域は、こうして京都における在日朝鮮人の集住地の一つとなっていった。
※京都市『史料 京都の歴史 第一三巻 南区』
(平凡社、一九九二年)五四~五五頁。
B 京都―大津間新線付け替え工事は一九一四年一二月の新逢坂山トンネル工事起工を皮切りに
始められ、ついで一九一七年五月一日東山トンネル起工、一九二一年八月一日から新線の供用を
開始した。総工費は六四〇万円であった。工事はすべて請負方式が踏襲され、両トンネルは稲葉
弥吉が請け負った。注目すべきはこのトンネル工事にかなりの数の朝鮮人労働者が使われたこと
である。すでに京都近辺では、一九一〇年の「日韓合邦」直後から、宇治川電気会社のダム建設
工事にかなりの朝鮮人労働者が流入しており、この一部と見られる朝鮮人が一九一二年の明治天
皇睦仁の伏見桃山陵建設工事に従事した。日本の植民地となった朝鮮では、この頃「土地調査事
業」の名のもとに、共有地や所有権を立証できなかったと見なされた土地を取り上げる政策が総
督府のもとにとられ、土地を失った朝鮮人の多くが労働力として日本に流入することとなった。
東山トンネル工事に従事した朝鮮人は、そのまま京都駅南の鴨川西岸の低湿地に定住していった
ものも多く、京都における在日朝鮮・韓国人の集住地となっていった。
※田中真人・宇田正・西藤二郎『京都滋賀 鉄道の歴史』
(京都新聞社、一九九八年)三九~四〇頁。
6
130
京都の近代史における朝鮮人労働者
④宇野豊氏の記述 「東山トンネル工事」に関して
戦前の東九条における朝鮮人の集住過程を考える際、東山トンネル・東海道新線付け替え工事に
従事した朝鮮人が、その後も東九条に居を構え定住していくという「説」が一般的であった。誰が、
いつごろから展開しはじめたのか定かではないが、私を含めて、東九条形成に触れる論文、講演時
には、必ずといっていいほどこの「説」が無前提に用いられてきた。
比較的はっきり記しているものとして、たとえば、
「史料 京都の歴史 一三 南区」の概説の
項に、
「宇治川電気発電所工事などにかなりの朝鮮人労働者が流入していたが、彼らがそのまま東山
トンネル工事に従事した」とし、
「東山トンネル完成後も日本に定住して、低賃金労働者として日本
の多重的労働市場の最底辺を構成することとなった。東九条を中心とする鴨川西岸地域は、こうし
て京都における在日朝鮮人の集住地の一つとなっていった」がある。
確かに、一九一〇年前後に、宇治川電気発電所工事にかなり多くの朝鮮人労働者が従事、その一
部の労働者が一九一二年の伏見桃山陵建設工事にも従事したことは新聞記事等によって知られてい
るが、一九一七年〔一九一六年の誤り〕五月一日に起工、一九二一年八月に供用が開始された東山
トンネルと朝鮮人労働者を関連づける新聞記事や史料はみあたらない。また、多くの朝鮮人労働者
が働いていたとしても、工事終了後も日本にとどまっていたのかどうか、果たして東九条に住むこ
とになったのかどうかを裏付けることはかなり困難である。
これまでみてきたように、東九条への朝鮮人の実態としての定住傾向は一九二〇年代中期であり、
また、先述の一九二〇年国勢調査の職種構成をみても、トンネル工事に従事した朝鮮人が東九条に
住み着いたとは考えにくい。何らかの関連を考えるとすれば、新線付け替えに伴う鴨川鉄橋の新設・
拡幅工事に従事する朝鮮人が、工事中あるいは終了後、東九条に一時居を構え、入れ替わりに朝鮮
人が移住し、時を経るごとに集住地として形成されていくという仮説は成り立つが、裏付けること
は不可能である。※宇野豊「京都東九条における朝鮮人の集住過程(一)―戦前を中心に―」(世界人権問題研究
センター『研究紀要』第六号、二〇〇一年三月)七三~七四頁。
⑤本研究で筆者が注目する記述
「1921年に終わった東海道線増幅、東山トンネル工事」について、
「この工事に動員された
朝鮮人労働者の大部分は、錦林部落〔鹿ヶ谷高岸町〕ないしその周辺に居住したといわれる
が、東九条に居住する人もかなりいた、という証言がある」※東九条松ノ木町40番地実態調査団『九
条思潮 vol.六―東九条松ノ木町四〇番地実態調査報告書』
(一九八四年)七~九頁。
⇒第二疏水工事における錦林部落土建業と朝鮮人労働者のつながり、また後述するように山科地
区の在日朝鮮人密集地と錦林部落との関わりから、この証言は事実に近いのではないか。
(3)東海道新線工事と朝鮮人密集地⇒北花山日ノ岡、大津市藤尾の2カ所(最も古い朝鮮人部落形成か?)
①日ノ岡
「少女の惨死」京都府宇治郡山科村北花山藤原つねの私生児とみ江(十年)は十八日午後四時十分
山科村日の岡にて軽便鉄道作業場に軽便軌道により土を運搬し居たる朝鮮人朴昌根のトロツクに轢
かれて重傷を負ひ大学病院に収容せしが午前八時三十分死亡せり(『大阪朝日新聞京都附録』一九一二年
一月二〇日)→1912 年段階で日ノ岡付近に飯場があったかどうか不明。可能性はある。
②大津市藤尾
「夕闇の滅多斬」大津市藤尾村上市太郎方に同居せる逢坂山新隧道の工夫朝鮮人金益夏こと今内長
三郎(三十六年)は十一日夕大津市外伏見街道四宮の路上にて鋭利なる短刀を以て滅多斬に斬つけら
れ頭、背其他数箇所に重傷を負ひ長三郎を赤十字社滋賀支部病院に収容し、手当中なるが凶行犯人
は逃走し未だ何者とも分らず目下所轄署にて厳重犯人の捜査中なり
(
『大阪朝日新聞京都附録』一九一六年一〇月一三日)
7
131
③事故
「爆弾爆発して重傷」新逢坂山隧道工事に従事せる朝鮮生れの上野春一郎こと金令秀(二十七年)
は十七日午後七時四〇分頃同隧道鑿岩の為に穿てる穴へ工事用鉄棒を差込みたるに忽ち大音響を発
して爆発し金令秀は顔其他に重傷を負ひ居合せし愛媛県生れの坑夫寺田京太(二十五年)亦顔面に
負傷し赤十字社滋賀支部病院に収容し応急手当を加へたるが金令秀は生命覚束なし
(
『大阪朝日新聞京都附録』一九一七年六月一九日)
④「逢坂山同盟罷業の真相(上)
(下)
」
「其由来を聞くと此同盟休業なるものが一種の示威運動として下請負の四人が稲葉組を困らせよう
とした様であるが」
「各地の炭坑や鉱山で坑夫の給料を二倍或は三倍にした為め此隧道に従事する坑
夫を各地鉱山から高給で誘拐に来たので坑夫連も頻りに動揺し本年の始めには四百人以上の坑夫が
段々減じて今日では僅かに二百二十名内外となつた」
「其契約の工程等を伏見の増田組其他信用ある
請負者に立会を求めて愈よ四名の下請と手を切る事になつた」
「跡は稲葉組が直轄として二十五日頃
から作業を始める」
(
『京都日出新聞』一九一七年八月二一日夕刊、二三日夕刊)
⇒大戦景気下の労働者不足、稲葉組の請負、増田組の仲裁
⑤北花山の飯場と新逢坂山隧道工事
「工夫襲撃事件」京津間の新逢坂山工事の土工に従事せる稲葉組配下の飯場中に頭押へと称し一種
の勢力争ひの末本年一月二日山科村字北花山高田治三郎(三十八年)始め同飯場の野口新次郎(三
十一年)西村筆次郎(二十一年)松井由之助(二十一年)神本昇(二十一年)の五名が夜半に脇差又
は棍棒を携へ勢揃ひの上翌暁迄三回他の飯場森田進一方を襲撃し工夫松田源彌(二十四年)外十数
名を殺害すべしと脅迫したるが其の際逃後れたる今村竹次郎(四十二年)及び朝鮮人李基仲(三十
五年)を傷けたる家宅侵入並に脅迫、傷害事件の公判は五日午後京都区裁判所に於て井階判事樋口
検事の係り若林、新免両弁護士出席の上開廷、事実審理ありて薄暮に及べり(『大阪朝日新聞京都附録』
一九一八年二月六日)
⑥「朝鮮人の泥棒」朝鮮慶尚北道大岳〔邱〕府南門朴周大(三十一年)と云へる朝鮮人は山科村字北
花山丸岡末吉方に滞在中十七日未明左記各品を窃取逃走せしを以て目下厳探中(『大阪朝日新聞京都附
録』一九一八年一一月一八日) ※慶尚北道の府は、大邱1カ所
*丸岡末吉は、東山トンネルの下請人・丸岡捨吉(『大津京都間線路変更工事誌』212 頁)と関係か?
丸岡捨吉は東山トンネルの花山方(東口)掘鑿工事を 1916~1918 年担当。
⇒朝鮮人が東山トンネル工事に従事した可能性は高い。
⑦「厄介千万な宋 浮羅天鮮人」……食ふにも困る処より無銭飲食をなしたるものなる〔伏見憲兵
屯所裏手に居住〕が警察の小使でも好いから使用して呉れと頼みたるも警察にても差当り必要なき
より東海道新線の隧道工夫に周旋し遣るべく警察より照会せり(『京都日出新聞』一九一九年一月一七日
夕刊、二月四日)
⇒東山トンネルに朝鮮人が従事した記事はないが、
・新逢坂山隧道工事と東山トンネルは、一体化した工事でどちらも稲葉組の請負
・北花山の飯場は、新逢坂山隧道工事よりも東山トンネル花山口に近く、上記⑥からも、東山ト
ンネル工事に朝鮮人労働者が従事したと考えられる
⑧工事の概要 労働者数 東山隧道の一部以外は手掘、8 時間 3 交替、12 時間 2 交替、6 時間 4 交
替
・新逢坂山隧道 467,903 人、1914~1919 年、事故5回、死者0名
東山隧道
447,125 人、1916~1921 年、事故 16 回、死者4名、加茂川西岸に第二土捨場
※被害者はいずれも日本人?
(鉄道省神戸改良事務所『大津京都間線路変更工事誌』1923 年 1 月)
(参考)1913 年 1 月 生駒山トンネル 148 名生き埋め 20 名死亡 塚崎昌之氏の研究
8
132
京都の近代史における朝鮮人労働者
⑨日ノ岡の飯場と錦林部落との結びつき
「朝鮮労働者の 悲しい陳情 西紫野土地区画整理に 賃銀不払問題起る」
京都市西紫野土地区画整理組合の工事は殆ど終了したがその工事の請負者鹿ケ谷の井上梅吉に使は
れてゐる鄭東信、戊伊植、文錫英等十名は上田総同盟京連書記長および上田、神田、菱野三市議に
伴はれ十二日午後高田市土木局長を訪ね
われ等朝鮮人は約百名井上に使はれ三月四日以来十月末まで市電大徳寺線の附近で働いたが井上は
約一割の賃銀をくれたゞけだ、初めは賃銀の代りに米屋の伝票をくれたが井上は米屋へその代金を
払はぬので近ごろでは伝票も通用しなくなつた、日岡の合宿所には飢餓に衰へた友人が窪んだ眼ば
かりギロギロさせてゐる、私たちも他に払ふ金がないので十一日には合宿所の水道も電燈も停止さ
れてしまつた、この区画整理組合の組合長は土岐市長だから市の方で何とかしてくれ、われ等の日
当は一円四十五銭だが未払賃銀は鄭東信の五百七十二円を始めこゝへ代表できた十名だけで約一千
二百円になるから百名分で約一万円になると思ふ、井上は何度訪ねても二軒の宅で交互に留守を使
はせてどうして〔も〕面会してくれない
と陳情した
「何とか巧く してやりたい 土木局長談」
右について高田土木局長は語る
「労働者諸君には大変お気の毒だと思つてゐる、労働者諸君が憤慨して近ごろは働かず組合として
も監督者の立場にある市としても困るので井上を呼出したが出て来ない、自宅へ行つても留守だと
称し行方がわからぬ、同人に払ふ金がまだ一万円ほどあるので何とか同人にも話をつけその金を労
働者諸君の方へ廻したいと思ふ、未払賃銀も恰度一万円ほどだといふ話だからうまく行くと思ふ」
(
『大阪朝日新聞京都版』一九三〇年一一月一三日)
※『商工人名録 昭和五年版』や『京都土木建築関係業者名簿 昭和八年・九年』によると、井
上梅吉は「鹿ケ谷高岸町」
(錦林部落)在住。
⇒日ノ岡堤谷町の飯場から、市内の土地区画整理事業に従事(『京都日出新聞』一九三〇年一一月一二
日夕刊、一三日夕刊、二二日朝刊)
※西紫野土地区画整理については、
『京都日出新聞』1929 年 1 月 16 日夕刊、1 月 28 日夕刊
⑩1920 年代中頃 日ノ岡の飯場に 85 人
「恋の勝利者を袋叩きにした鮮人土工 八十六名を珠数繋ぎに」
……十日午前四時頃川端署員四十余名は犯人たる彼等土工鮮人の寄宿である市外山科村字日岡福田
方を包囲し寝込の場所へ押入り活動映画の如き大乱闘を演じて慶尚南道昌原郡生れ金敬賛(二八)
外八十五名を取り押へ早朝本署に引上げ武道場に留置した、蹴上から岡崎附近の人々は八十余名の
鮮人土工を四十余名の制服警官が物々しく護つて引上げたので何事が起つたかと驚異の眼を瞠つた
が……(『京都日出新聞』一九二五年一月一〇日夕刊)
四、京津国道改修工事と朝鮮人労働者
(1)京津国道改修工事(1931 工事開始、1933 年開通、大津~神戸までつながる)
京津国道改良事務所「=山科御陵」は、昭和 6 年設置、昭和 8 年廃止。
①「……道路建設作業は、この時期に着々と進んでいる。京津・京阪両国道が開通し、東は大津よ
り、西は大阪、神戸、明石および姫路に至る百数十キロメートルの舗装道路が出来上がったのは、
この時期である」※京都市『京都の歴史九 世界の京都』(学藝書林、一九七六年)一二六頁。
②「京津国道改修設計 愈よ本省へ提出 けふ技術課長が携へて」内務省が失業者救済の目的で施
工することになつてゐる京津国道京都市三条蹴上より山科町日の岡に至る道路改修工事の設計は予
て府土木部で研究中の処廿五日その完成を見たので小笠原土木部技術課長はこれを携へ二十七日東
上、本省へ提出すると共にその説明をなすことになつた、改修に要する全工費は約六十五万円で認
可と同時に着工することになつてをり改修後の道路の幅員は六間になる筈(『京都日出新聞』一九三一
年一月二七日)
9
133
③〔2/3国庫負担、1/3府県負担〕全工事に対して補助を受くる事が出来るからこの際全力を
挙げて〔滋賀〕県下の道路改修を行ふ事は一つに失業救済のみならず本県の大利益である(『京都日
出新聞』一九三一年一月二〇日朝刊)
④「近代明粧新動脈 けふ山科御陵大津畑で 京津国道開通式」国道第二号線の中京都、滋賀両府
県を繋ぐ京津国道の開通を寿く晴れの開通式は、けふ二十七日午前十一時から東山区山科御陵大津
畑の広場で華々しく挙行される、延□九千百卅五米、総工費二百廿二萬九千円、この国道の完成に
よつて京津間は僅々十分間余で連絡しさらに先程開通式を挙げた京阪国道、並に阪神、神明、明姫
の各国道等を繋ぎ京都、滋賀、大阪、兵庫の各府県を連絡するといふ経済的にも軍事上にも極めて
重要な意義を有するもので、工事経過を示すと左の通りである「工事概要」京津国道改良工事は昭
和六年四月工を起し昭和八年三月竣功せるもので京都滋賀両府県に亘り京都府側では京都市東山三
条通蹴上を工事起点とし滋賀県側は大津市上片原町逢坂山峠地先を工事起点とし共に両府県界を工
事終点として連絡せられ此延長七粁六百余米に及び、更に滋賀県執行に係る大津市札の辻より逢坂
山峠地先に至る延長一粁五百米の完成に依つて京都大津両市は完全に連絡せられ茲に交通刷新を実
現した(『京都日出新聞』一九三三年五月二七日)
(2)京津国道改修工事には朝鮮人が従事
①親睦会山科支部:東山区山科町日の岡小字堤谷崔元哲(⇒P12(4))方
「……なほ現在の多数会員失業者を救済するため失業救済会を設けることを決議し近く着工される
京津国道工事に採用方を依頼することになつた」
(
『大阪朝日新聞京都版』一九三一年四月一四日)
※崔元哲は『京都日出新聞』一九三一年一二月八日に出てくる
②「京津国道沿線の鮮人労働者/菱野市議の紹介で/救済方を市に陳情」山科日の岡町から京津国
道沿線にかけ散在する鮮人労働者は年々数を増し家族を併せ四五百名にも上つておる
(
『京都日出新聞』一九三一年五月二三日)
③「京津国道改修 鮮人陳情」
〔京津国道改修工事には〕多数の人を要せず日々七十人内外の失業者
を使用してゐるに過ぎないが、この沿線には約二百名の鮮人が居住してをり斯様な状態では浮かば
(
『京都日出新聞』一九三一年五月二九日)
れぬといふので…」
④「酌婦の奪合が原因で 口論から大喧嘩に ビール罎で殴り更に短刀で刺す 山科の鮮人乱闘事
件」五日夜京都市東山区山科町に起つた鮮人土工の四名殺傷事件は目下京津国道日岡峠改修工事に
従事するため日岡花山に鮮人親睦会の合宿所が設けられ……
(
『京都日出新聞』一九三一年七月六日夕刊)
⑤「失業者は日々増加します。殊にその求職者が刻々変化するのは注意すべき点です。これは鮮人
が最も多いやうです」
。
「鮮人の登録者が三千八百人もありますからね、京津国道改修工事でもその
六七割は鮮人でせう」
。※京都府社会事業協会『社会時報』第二巻第三号(一九三二年)二一頁。
(3)車石・車道と朝鮮人
①近世の街道である東海道の京都・大津間の逢坂山や九条山付近には「車石」と呼ばれる敷石がは
め込んであった。切り石の一面に一本の刻みをつけ〔現在反論あり〕
、これを荷車の車輪幅に合わせ
て二列に並べたものである。近世において幕府は大名統制と軍事的理由により、主要河川にあえて
架橋しないといった流通上の制約施策を行っていた。街道における車両の使用禁止もその一つであ
る。しかし主要幹線であった東海道の大津・京都間は例外として車両の使用を認め、この区間の急
勾配での円滑な荷車輸送を可能とするためにこうした車石が敷設されたわけである。※田中真人・宇
田正・西藤二郎『京都滋賀 鉄道の歴史』
(京都新聞社、一九九八年)二五頁。
10
134
京都の近代史における朝鮮人労働者
②車石・車道研究家・久保孝氏によるご教示
山科のX氏邸の石垣、Y氏の玄関石垣には、溝の深い車石が多く使われています。12 年前に、Yさ
ん宅を訪問してお母様(故人)にお話を伺いました。
「昭和の初め頃、主人は、朝鮮人労働者から、
たくさんの車石をわけてもらいました。主人はXさんとも友達で、Xさんも車石をたくさんもらっ
た、と聞いています。主人は、いつも『石そのものはたいした石ではないけれど、歴史的に謂われ
のある石なので、大切にしないといけない』と言っていました。嫁に来た昭和8年頃は、三条街道
は砂利道でした。近くの川(四ノ宮川)で洗濯をしていました。子供たちも泳いでいました」
、
「朝
鮮人労働者は、厨子奥の入り口辺り、薬科大学の西側辺りに住んでいたように思います」とのこと
でした。
③御陵・厨子奥に朝鮮人が居住しはじめる
・
『京都日出新聞』一九三〇年八月八日夕刊、一九三一年八月一八日夕刊、一九三四年一〇月一日夕
刊、一九三六年九月一二日朝刊など
・
『大阪朝日新聞京都滋賀版』一九二六年七月二四日、一九二六年九月一五日、
『大阪朝日新聞京都
版』一九三三年六月二三日、一九三四年一二月一五日など
(4)薬専工事に朝鮮人が従事 大林組
「賃金が貰へず 歳の暮に困まる と鮮人労働者が代表を選び 薬専と請負者に談判」
山科御陵京都薬専の建築工事に従事した鮮人労働者百余名は去る八月二十七日から十月九日迄の延
人員八五□人この賃金五百三十七円が不払となつてをり歳末向寒の季節に入つて路頭に迷ふのやむ
なき事情に置かれたといふので崔元哲ほか十数名は七日午後二時頃工事の元請負大林組を訪れ更に
薬専に事情を訴へて問題の円満解決につき意見を述べる処があつたが何れも問題解決の核心に触れ
る事が出来ないので八日引続き薬専その他を訪れ事情を訴へる事となつてゐる因に同工事は関西建
材株式会社が大林の下請負をしたもだと
「こちらとは全然無関係 大林組で語る」
右につき大林組では語る
本社とは全然無関係で、まだ寧ろ関西建材会社の破産する際には四百円を出してをる位で、相愛会
の連中が賃銀不払ひで問題を起してゐても、それは関西建材と交渉すべきものであつて大林組に取
り合ふべき性質のものではないと思ふ(『京都日出新聞』一九三一年一二月八日)
※崔元哲は『大阪朝日新聞京都版』一九三一年四月一四日に出てくる
五、北花山山田町の朝鮮人密集地
⇒京都で高度成長期までつづいた朝鮮人部落の中では最も古くに形成されたのではないか。
京津国道九条山バス停から東側、旧三条通りに入ってすぐの所から約一〇〇m
Aさん(女性)聞き取り 70 歳前後
・朝鮮人はここからは長谷川さんの山科牧場までの間に 10 軒ほど、たくさん住んでいた。一緒に
鏡山小学校に行っていたので、一緒に「朝鮮部落」と言われいじめられた。長谷川牧場の辺りが多
かった。今は激減。
Bさん(男性)聞き取り 80 歳前後
・祖父が山科牧場を経営していて、そこにも2~3人の朝鮮人が働いていた。今と違い草を刈った
り、農家へ行って藁を運搬したりといった労働が大変だった。その朝鮮人達は牧場のすぐ近くに住
んでいた。
【長谷川安之助・山科牧畜場】住所;山科、日岡:牛乳搾取販売業
※京都中央電話局『京都市電話番号簿』1937 年 4 月 1 日現在、236 頁
11
135
Cさん(男性)聞き取り 80 歳前後
ミネルヴァの裏駐車場の付近〔日ノ岡堤谷町〕に朝鮮人が集まって住んでいた。そこから鏡山小学
校に通っていた朝鮮人の中に優秀な子供がいて、学校でよくケンカをした。小学校は一九四一年に
卒業したので、
戦前のことだ。
三条通りの南側の日ノ岡朝田町にも三軒ほどの朝鮮人部落があった。
北花山山田町はもっと大規模で一〇軒はあったと思う。今でも痕跡があるでしょう。踏切を渡った
ところから一〇〇mくらいの間で、長谷川牧場までの間です。ここも鏡山小学校だった。山田町以
外の朝鮮人部落は戦争が終わると無くなっていたと思う。
六、おわりに
・洛東~山科:京都市内では最も古くから朝鮮人部落形成
・京津間は交通の動脈、鉄道・道路等の工事が多く、朝鮮人部落がつづく。
・稲葉組などの土木会社が朝鮮人を使用
(課題)
・錦林部落:1920 年代後半~1930 年代の行政統計では朝鮮人人口が多くない。なぜか。
・1920 年国勢調査では、朝鮮人労働者数があまり出てこない(山科 20 人)
。なぜか。
・史料収集
12
136
覚書・近代京都と屠場
― 三都の比較史 ―
吉 村 智 博
137
まして、大阪が専門です。そうした私が京都のみなさん
私は、大阪でかつて西浜といわれていた都市部落の研
究や西成区の釜ヶ崎の日雇労働者の問題を研究しており
はじめに
いうような状況で九〇年代は全国の情況を俯瞰する、屠場
もかかわらず課題も、わかってきたこともたくさんあると
とを考えれば、屠場に着目した研究は歴史が浅いです。に
をしはじめたのは一九九〇年代からです。とても新しい分
野で、部落史が林屋先生や奈良本先生の時代からあったこ
の前で京都の話をするということになりまして、みな
大学が衣笠で、最近は時々百万遍にも行っているとい
たということで、よく考えたら京都と縁が深いのです。
親が西陣の近くで働いていて三歳頃まで御陵に住んでい
とはいえ、私自身が生れは堀川、亡父の地元が玄琢、母
それが二〇〇〇年代に入りますと、各個別の地域を掘り下
体の屠場史をどう考えるかという時代だったと思います。
くなられた三宅都子さん、と各地域の素材を捉えながら全
南昭二さん、東京の中里亜夫さん、のびしょうじさんや亡
代です。現在広島大学におられる布川弘さんとか、神戸の
さ ん の 方 が く わ し い こ と も た く さ ん あ ろ う か と 思 い ま す 。 が部落史や社会にどんな位置を占めるのかが研究された時
うようなことで、自分の中で京都は切きっても切れない
ところです。今日は京都のことを中心にしながら、大阪、 げてやろうというようになってきます。それが資料Aの
まずは、屠場の研究史をひもといてみますと、かなり
蓄積があります。資料のAです。屠場の歴史は各地域の
うことでお許しください。
いというのが報告の主旨です。あくまでも覚書程度とい
屠場の歴史から何かいえることがないかをさぐってみた
前ですが、漢字で「屠場」として出されたいうことが非常
書で「屠場」というドキュメントを出されました。一五年
うという研究になります。あるいは(3)にあげましたが、
学的に屠場がどのように位置づけられているのかを考えよ
な俯瞰の時代から生産額とか生産空間を細分化して、地政
東 京 と 三 つ の 都 市 を 比 較 す る こ と に よ っ て 牛 を 屠 る 場 所 、 「(2)地域ケーススタディの時代」になります。全国的
記念誌などをひもとくとかなり古いのですが、学者、研
に新鮮でした。東京や大阪、横浜の取材に基づくかなり面
ご存知のようにルポライターの鎌田慧さんが初めて岩波新
究者が屠場、屠畜、食肉生産を研究史の中にいれて研究
138
覚書・近代京都と屠場
さんが「屠場(とば)」という写真集をだされていまして
験談をまとめたものがどんどんでまして、最近は本橋成一
白いものでした。それ以降、いろんな所の聞き書きとか体
産業自体を考える時に、皮革業も屠畜業も衰退してきてい
受けています。その中ででてきた傾向だと思います。部落
ストモダンとかコロニアリズムとか、部落史研究も影響を
ていく、という大きな流れがあります。部落史においてな
ていることを真正面から対象を捉えて映し出したり、書い
いわば一見タブーな側面もありながら人が知りたいと思っ
づけてみることによって部落問題を等身大に見ていく必要
れてきた屠畜業や皮革業に対する捉えなおし、改めて位置
同体というものも変わってくる、と同時に部落の中で培わ
そうすると部落の中の人間関係も大きく変わってきて、共
そこで働く職人の日常生活などを紹介されるということで、 ます。海外からの輸入品がたくさん入ってくるからです。
ぜこの二〇年から二五年くらいのあいだに研究が盛んにな
するようになってきたからだと思います。日本史では網野
てきて差別・被差別の関係があるのかということを問題に
権力というものだけでなく社会の中でどのように編成され
ます。
だけということになるかもしれませんがよろしくお願いし
これらの研究をベースにしまして、今日のお話は整理した
の姿勢があってこういう研究になっているように思います。
ってきたのか、一つは部落史の問題、差別の問題が、国家、 があるといった、危機意識とセットになったような研究者
善彦さんたちが社会史という分野を開拓されましたが、民
権力構造のなかで解いていかないといけない、という大き
とを指摘しています。部落差別もまた社会の中に偏在する
中にあるのではなくて、社会の中に偏在しているというこ
フーコーがポストモダンという流れの中で、権力は国家の
をえなくなってきたのではないかと思います。ミシェル・
とは知らなかったとか、当然禁止されていると思っていた
でも話をするのですが、やはり江戸時代に肉を食べていた
うになったというイメージが一般的です。市民学習会など
日本社会のなかで食肉というもの、牛や馬に限りません
が、肉を食べるということが未だ文明開化で肉を食べるよ
Ⅰ 日本社会と肉食の慣習化
衆史や社会史というところで屠場を必然的に取り上げざる
な影響を受けています。カルチュラルスタディーズとかポ
139
いて食べたり、たれをつけて食べるという料理法の問題で
とかという意見があります。文明開化で入ってきたのは焼
本人は生き物を大事にした、まして食べることは禁止され
した。教科書にでてくる「生類憐みの令」、江戸時代、日
得たわけです。肉食は建前としては禁止されていたけれど
考古学の成果で我々は肉食が常態化していたことの確証を
僚達が官舎で肉を食べていたことがわかりました。やっと
しか発生しない寄生虫の死骸が見つかりました。当時の官
だったものの分析をしたところ、肉を食べることによって
て、厠のあとからでた糞べら、トイレットペーパー代わり
ませんでした。昨年、奈良の文化財研究所が発掘調査をし
べていたからだと考えられます。しかし確たる証拠があり
るわけです。昔から禁止令が出ていたということは肉を食
るということは、肉食が日常に行われているから禁止され
五年、聖武朝の天平一七年、と相次いでいます。禁止され
構でています。たとえば天武朝の天武四年、持統朝の養老
の詔」、天皇が直接肉食を禁止するという法令が古代に結
をされてきたからだということがわかります。「殺生禁断
うイメージをつくりあげてきた理由の一つは、肉食が禁止
古来ずっとありました。ただ建前として食べていないとい
がありました。しかし、先ほどいいましたように文化史や
研究の対象にクローズアップされることもないという時代
いた、特に江戸時代の被差別民のことがかえりみられない、
ます。当然そうなっていくと、肉食や肉食生産に関わって
肉食はされていなかったんだと思い込むということがあり
という、米の優位性が強調されて、なんとなく多くの人が
一方で肉食というのが非常に穢れたものとして否定される
て農本というものが、五穀というものがすごく崇拝される
ものがずっとあります。天皇の新嘗祭、大嘗祭なども含め
績に学ぶと、米の白さに対して肉の赤さ、聖と賤といった
ているとされます。原田信男さんという食肉の研究者の業
う農本思想というのがあって、その対極に肉食があり穢れ
励する時代があります。もう一つ、日本には五穀豊穣とい
て、本草学などで滋養強壮を強調して肉を食べることを奨
り減りますが、実際は続いています。連綿と食べられてい
定された話で、たしかにそのころ食肉に関する書物はかな
をつくったりするのですが、これは綱吉の特定の時期に限
あって、食肉一般が明治から始まったわけではありません。 ていたと綱吉将軍の姿勢を高く評価したり、ありえない像
も官僚を中心に食べていたということが古代社会の実態で
140
覚書・近代京都と屠場
食文化というものがとりあげられることによって、生産面、 別にして小さな動物類は一般的に捌く技術は各地でもって
りも随分たくさん本を読んでいたと思います。版元がたく
ます。江戸時代は出版文化の時代ですから、今の日本人よ
が合理的に良いということを宣伝してたくさんの書物がで
滋養と強壮に良いということで、中国の本草学という学問
実態としても肉食はされています。これは薬食い、人体の
っと流れを追いまして幕末維新まででどんな食肉が行われ
通説になっています。資料のBで、古代の律令国家からず
ことがあって実はたくさん食肉が行われていたというのが
れども、現実と理念の差はものすごくあります。そういう
対する文化的な違い、都市部と農村部の違いはありますけ
は狩猟をして食べるというのはあたり前ですから、肉食に
産業面にも光が当たるようになったということです。また、 います。山間部にいきますと猪や鹿を食べます。山間部で
さんあり、いろんな解説書やら諸本がでて未曾有の出版文
もう一つは、江戸時代の学問を語るときに、江戸の正学で
めます。
史が前近代時代にあったということを前提にして話をすす
化を迎えます。たくさんの書物がでて、肉食を奨励します。 ていたかということについてまとめてみました。こんな歴
ある儒学ばかりを取り上げて思想史を語ることが多いので
の多くは職能として食肉加工をやってきましたから、十分
どんどん肉食が広まっていきます。かわた身分の人々の村
による賤民支配の正統性が崩れていくという事情があって
ます。ですから国学が隆盛する幕末になってくると儒学者
んじる儒学者がとなえる正論、賤民支配論に動揺をあたえ
いということを随所でいいます。徳川の特殊性、道徳を重
は穢れ論を真っ向から否定します。そんなものは存在しな
うことです。太政官は天皇が食べたということで一年後、
段から食べていて、時々豚、鹿、兎の肉を料理にするとい
兎の肉は時々少量を御膳に上せしむ」、つまり牛や羊は普
膳司に令して牛羊の肉は平常これを供進せしめ、豕・鹿・
年の一二月に肉を食べたという記載があります。「乃ち内
まず、天皇がだした「殺生禁断の詔」は天皇しか解けま
せん。明治天皇が肉食をします。「明治天皇記」に明治四
Ⅱ 文明化・近代化と肉食の受容―前提としての需要と消費
すが、本居宣長など国学者の理論をきいてみますと、彼ら
供給する体制はできています。また、特に大きな牛や馬は
141
愚楽鍋」、これは絵入りですからものすごくわかりやすい
年間ずっと守ってきたわけです。例えば仮名垣魯文の「安
て肉食は禁止でした。天皇がいったことだからと一二〇〇
はここで解かれます。約一二〇〇年の間、国家の慣例とし
れていたわけではありませんが、建前としての食肉の禁止
のは牛とか馬に限られていたわけで、小獣類は一切禁止さ
肉食の解禁を行います。もともと食べてはいけないという
らして肉とは思いません。薬だと思います。あくまでも薬
丸(へんぽんがん)」と書かれた肉の包み紙です。名前か
ます。その下の写真は、彦根藩が諸大名家に贈った「反本
の手前に「江州生製彦根牛肉漬」という看板があがってい
写真は、明治初年のもので、神奈川の厚木の宿で薬の看板
が描かれています。それを資料のCに載せています。上の
ます。これらをとりあげてみますと、たいてい食肉の様子
ていたからだということです。客層の絵を解読してみます
店女の隠食」とかいわれて陰で食べるものだと当時いわれ
いうことがわかってきました。「娼妓の密肉食」とか「茶
幅広い人たちが食事をしています。一方で女性は少ないと
ると、江戸時代の中頃から「反本丸」、牛肉の味噌漬が全
す。彦根博物館に井伊家の文書があるのですが、それを見
伊家を通じて願いをだしていて、随分人気があったようで
た身分の人々です。将軍家や大名家が自分から欲しいと井
献上しています。当然加工したのは、彦根藩の城下のかわ
です。若い茶屋女といわれる人々から五〇過ぎの医者まで、 だったということです。これに包んで徳川家に井伊家から
と、人力車夫とか職人、落語家、役者、武士、文士とかで
明治一〇年頃になってきますと、「大阪新繁昌誌」という
転換点だと思います。外食という風情だったと思います。
牛肉というものが取り入れられてきたということが大きな
と変わったやりかたをしているわけではありません。ただ
調理法もさだまっておらず、味付け、煮方、焼き方など今
した。かつては二階では女義太夫なんかをやって、肉食と
元々は角座の南側にあったのが今の道頓堀橋に移ってきま
屋重兵衛です。大阪で一番最初に小売店をはじめた人で
り重」という肉屋が道頓堀橋の南側にあります。元は播磨
たのです。今でも大阪で牛肉の味噌漬けを売っている「は
いたといわれています。どんどん支配階級が肉を食べてい
庶民の姿はあまり描かれていないということもわかります。 国各地の大名の口に入っていき、水戸黄門なんかも食べて
風俗誌、「東京開化繁昌誌」「東京新繁昌記」などがあり
142
覚書・近代京都と屠場
肉を公然と食べています。また、店を構えた上等な店に対
帽子を被った男性がいる、こういう時代になっています。
折衷、ちょんまげの着物姿がいると思えば、マントを着て
の「東京開化繁昌誌」では、牛鍋と書かれていて、和洋の
を下げた洋風の男性の前に痩せた犬が描かれています。下
捌いて軒に肉らしきものをつるしています。買い求めた肉
は明らかに「牛肉」と旗に書いています。一階では何かを
しとか屠場を襲うとかがありました。「大阪新繁昌誌」で
のやっていたようなことを取り込むな、と学校の打ちこわ
に屠場の禁止というのがでてきます。野蛮な、かわた身分
たということです。部落解放反対騒擾といわれるものの中
来で牛を捌いてはいけない、つまりこれは往来で捌いてい
えば死んだ牛や馬、病気の牛や馬を売ってはいけない、往
ますが、こういったものを絵入りで啓蒙しています。たと
した。資料Cの「違式詿違条例」、今の軽犯罪法にあたり
みじ」や「ぼたん」などといって隠さなくても良くなりま
「山鯨」などといって隠語をつかうこともなければ、「も
であたりまえのように肉食が描かれる、これまでのように
たようです。文明開化で天皇が公然と肉食をする、風俗誌
義太夫節を語ってお茶屋で遊ぶというのが一体となってい
てしまった舟場という被差別部落がありまして、その舟場
い肉屋があると書いてあります。大阪の北に今はなくなっ
文化にうるさかったようです。難波橋の南側のたもとに安
ろによく安い肉屋にいったことが書かれています。結構食
諭吉の『福翁自伝』に、まだ福澤が緒方塾の塾生だったこ
う下等社会の食文化を罵倒しています。面白いのが、福澤
「煮込」という文を書いて、ホルモンといわれる、彼のい
です。足したら五〇〇軒を超えます。また、松原岩五郎が
あって一九六町三七九村一一宿に六八軒もあるということ
る。旧朱引外、開発を奨励した地区には大きな地区が五つ
が六大区あって、一一七七町のうち四八八軒の肉屋があ
ってこれから都市開発をするのを禁止した地域です。これ
ろしく多くなった」。旧朱引内というのは各藩の藩邸があ
こういう記事があります。「府下〔東京府〕の牛肉屋は恐
にもどります。明治一〇年一一月八日付の「朝野新聞」に
う対照的な図式があらわれています。レジュメの2ページ
店を構えた上等な店とそうではない貧客が集まる露店とい
べ物として学生がホルモンをつついている絵があります。
「最暗黒の東京」などを見てみると、都市の下層社会の食
して、松原岩五郎、後に従軍の記者になるのですが、彼の
143
す。この自伝はとてもおもしろいです。
という地域からそこに店をだしていたことが記録にありま
懸隔の地に係るを以て之れを許し免許鑑札を下付し」と許
同じです。明治六年に葛野郡西院村に永井彦兵衛が「人家
可を得て屠場を開設します。この永井彦兵衛の人物像はは
では、本題にうつります。レジュメ3ページです。前段
の話では、社会でどのように肉食が受入れられてきたか、
合御座無様篤と注意し」ということを誓約して屠場を作る
衛門が「御規則等堅く遵守し、税金上納は勿論決して不都
っきりわかりません。同じ様に一八八六年、天田郡額田村、
前近代的な建前をなくして公然と近代で食肉が行われてき
ことを認可されています。ここまでは江戸時代の被差別民
今の福知山市にあたるのですが、やはり同じ様に西口重左
たかということでした。つまり消費の面でした。当然そこ
との関係性はわかりません。一般の人、多分士族が授産事
Ⅲ 屠場の創設と展開
には、江戸時代から言えばかわた身分の人々が食肉を生産
つか、通史にわずかな記述があるだけです。京都の事例は
いようなのです。唯一、『京都の部落史』の史料編にいく
歴史書がないんです。京都食肉市場史などというものがな
てみたのですが、残念ながら京都の屠場については固有の
は京都、大阪そして東京にしぼってみます。いろいろ調べ
生産面に注目したのが屠場の歴史なのですが、それを今日
近代も同じ様に消費に対して生産や流通があります。その
くと、江戸時代にかわた身分が当然担っていた皮革業や屠
ないのでわかりません。ただ、部落史のスケールでみてい
ようになった形跡がわかります。これ以上は資料がでてこ
とか明治一九年の段階で被差別部落の人物が屠場に関わる
に柳原庄の前田治之助、小野政蔵の名前がでてきます。何
ますが、六名の連署で屠場が開かれます。この六名のなか
京村、後に町村合併で朱雀野村となり今の下京区にあたり
にとどまります。ところが、明治一九年一二月に葛野郡西
する、井伊家などに献上するという歴史があったわけです。 業かなにかで町中や村に屠場を開設しただろうということ
『京都の部落史』に基づいた整理になっています。流れを
まいがちですが、おそらく維新期のいろんな変動で実質的
みていきます。幾つかの段階に分かれることがわかります。 場がそのまま近代の屠場に移行したかのように語られてし
まず、私設屠場として開設されます。これは大阪も東京も
144
覚書・近代京都と屠場
ずいということになってきたのです。これは、コレラとか
なってきたのです。民間の屠場をあちこちにつくるのはま
合しようという動きがでます。屠場の合理的運営が必要に
てきます。金になります。そこで市内と農村部の屠場を統
を開きます。ところが、屠場は儲かるということがわかっ
も私営です。個人が申請して法令を守ることを誓って屠場
明治一九年頃までは、京都のいろいろな人たちが市中や
周辺農村に屠場を開きます。これが第一期です。あくまで
はできないということがわかります。
の産業として屠場を近代とつなげてダイレクトに語ること
流れがあります。前近代の役目や食肉を含めた被差別部落
事が全部一般に流れ込んでしまいます。皮革業もそういう
的な公共の業務の一角を占めていたかわた身分の重要な仕
てやっていた被差別民の役目がすべてリセットされ、基本
す。それと同じように長吏もそうで、江戸時代に御用とし
れたことによって今の葬儀業者の系譜とは切れてしまいま
いわれる人々もやはり同じで、近代になると役目が免除さ
わったという根拠はありません。これは三昧聖(隠坊)と
にかわた身分が江戸時代のように食肉業にダイレクトに関
ようです。三〇銭にまけろともめたようです。先に見た西
かわかりません。ただ持ち込んだ業者からは不満があった
っています。一頭五〇銭ということですが、高いのかどう
う仕組みです。当然、当時も一頭あたりの捌く料金が決ま
てそれを仲買人が捌いてもらう。それをせりにかけるとい
もらうだけなのです。一頭あたりの捌く値段が決まってい
た仲買人が責任を負うべきものなんです。屠場は加工賃を
場のシステムです。したがって肉の質や問題は仕入れてき
は捌けないので自分の需要にあった地域の屠場に委託をし
産地から自分が適当と思われる牛を仕入れてきて、自分で
有しているわけではなくて、博労といわれる牛の仲買人が
です。③の屠牛場の屠殺料の問題です。牛は屠場の人が所
ないので強権を発動して統合することになったということ
は安さを競って固い肉ばかり出す、再三指導しても改まら
いてはわかるのですが、あとはわかりません。統合の理由
す。この資料に接続町村五ヶ所とありますが、三ヶ所につ
す。レジュメ3ページ(1)の②の「中外電報」の記事で
二期です。そのことは『京都の部落史』にも載っていま
なります。統合しようとする管理しようとする、これが第
てさばいてもらい、その捌いた料金を支払うというのが屠
牛疫のこともあって、お上が屠場の乱立を制限するように
145
す。屠場規則一四条が制定されて、これが油小路十条にで
知事の認可が必要になります。七月には市立屠場ができま
化がはじまります。一九〇九年には、獣肉商組合も京都府
を統合し、かなり権力的なものができます。京都でも公営
は、公的な機関が儲かるようにできています。私設の機関
屠場ができるということではなくなります。またその狙い
なければならないというものです。誰彼なしに申請すれば
にできます。屠場を開くにあたっては法令に従って運営し
なった出来事は、屠場法という法律です。一九〇六年四月
す。一九〇九年に屠場を公営化します。公営化への画期と
ると獣肉商組合といった業者の横のつながりもできてきま
す。山科の日岡、華頂、深草とできます。一九〇三年にな
します。その頃あちこちに同じ様に私設屠場がでてきま
本三〇〇〇円に相当する株を進呈するということで合意
五〇〇口を発行して株式会社化します。新実には出資元
実に譲渡してくれという話をもってきます。一株二〇円で
が出てきて、この屠場を株式会社化して運営するので、新
銭で屠殺をはじめているところに、小松と能勢という人物
出資者の新実八郎兵衛に運営権が帰属します。新実が四〇
京村と下横町の屠場が経営破綻します。経営を支えていた
う流れです。どんどん中心部から周辺部に移っています。
施行細則が施行され、現在、南区吉祥院に屠場があるとい
築が行われ一九五四年四月には京都市立屠畜場使用条例・
場法が制定されたのをうけて、一九二八年には施設の増改
ほうが優位になります。その後、一九二三年に中央卸売市
の京都花鳥屠獣株式会社が連座して検挙されて市内業者の
われます。その間に一七条をめぐる疑獄事件が発生し、こ
っているので株式会社と市内業者との間で綱引きがおこな
きがおこなわれます。市営屠場をめぐって儲かるのはわか
なくて貸与してくれと請願します。この両者の間で駆け引
します。一方で京都市内の業者の何人かが屠場を委託では
頭にたったのが、京都花鳥屠獣株式会社で、委託の請願を
一七条を変えるためにいろんな人に働きかけます。その先
そこで何とか私設屠場の経営者は経営を続けたいのでこの
私設の屠場は閉鎖しなさいということがうたわれています。
条に、法が制定されて三年後には、この法律にかなわない
す。また、法律をめぐって汚職がおこります。屠場法一七
ろうとしました。西本願寺が猛反対して、油小路にできま
ろんな出来事がおこります。初め屠場を大谷本廟近くに作
きるのですが、屠場法と京都市の屠場の運営をめぐってい
146
覚書・近代京都と屠場
これは大阪も同じです。
自前で運営してすごく儲かっていました。松原のミートセ
ミートセンターは運営しているのは民間会社です。第三セ
したりということがあります。例えば羽曳野市の市立南食
おされて採算が採れないということで民間委託したり閉鎖
まで屠場が結構ありました。ただ衛生問題だとか輸入牛に
ページ(2)を見てください。大阪も七〇年代・八〇年代
統計上明治一五年くらいまででてきません。レジュメの4
ています。ですから木津、今宮という部落に近いところは
ために、被差別部落とは関係ないのですが屠場がつくられ
す。川口居留地です。当然外国人が多くてそこに供給する
がわかります。西成郡の安井村はちょうど居留地の近くで
場についてわかります。随分いろいろなところにあること
屠畜頭数をまとめたものです。明治一二年位から大阪の屠
す。京都では一万数千頭です。資料Fは大阪府内の屠場と
ます。大阪の方が多く、一九一五年で二万頭をこえていま
が随分盛んになってきたということがこのグラフでわかり
にしたものです。右肩上がりに増えています。全国で食肉
す。
を一日数百頭くらい処理しているそうです。豚もしていま
ています。下ではホルモン専門の業者が待っています。牛
す。二階建で、二階で捌くと内臓が下に落ちるようになっ
派な建物です。今の南港屠場は一九八四年にできたもので
ります。資料Gに屠場の写真があります。レンガ造りの立
でも私設屠場を統合して市営屠場をつくるという経緯があ
ようにすったもんだがあります。明治三〇年代には大阪市
にあったものが南港に移転したものです。5ページにある
にある屠場の三つだけです。大阪市営屠場は、木津と今宮
定です。現在大阪府には、このミートセンター二つと南港
ます。貝塚の屠場も、扱う頭数が減って今年閉鎖される予
屠場、豊中の屠場も私営から公営になり今は閉鎖されてい
いう二重構造です。これは今でも続いています。堺の神石
き去りにされます。儲けは行政へいって、差別は部落、と
なるとか偏見がなくなったわけではありません。それは置
ます。ただ、財政が潤っただけで部落に対する差別がなく
次に大阪の場合をみていきます。資料Dを見てください。 ンターも同じことです。京都と同じ様に最初は私営で、屠
京都府内と大阪市内の公営屠場の各年毎の生産額をグラフ
場法とかいろんな規制を受けて公営となり村の財政が潤い
クターに委託しています。かつては私営から村営になって
147
営屠場ができます。規則をつくったり屠場を一箇所に限定
許した屠牛の改会社をつくります。続いて警視庁による直
いきます。浅草の新谷町に屠場を構えて官許というお上が
締世話方というトップになって官僚機構のように統率して
町久兵衛、福井数右衛門といった明らかに旧武士が屠牛取
がります。ただそれ以降はわかりません。明治五年には水
従事したとあります。明治四年までは旧かわた身分とつな
友吉が設立しています。『史料集 明
・ 治初期被差別部落』
という史料によりますと、斃牛馬処理技術をもつ旧賤民が
会社というのができます。今里村、今の白金に屠場を渡辺
階でたおれたりということがあります。明治四年頃、官許
た。ただ、この頃住民の反対ですぐ廃場になったり計画段
すが。本芝や秋葉原、三田など都内にたくさんありまし
いうと港区の白金です。今やセレブの住む町として有名で
士族や農民が始めています。荏原郡今里村というのは今で
す。京都と違い数が多いです。明治維新のころに、一般の
ろんな屠場が乱立して統廃合されたりという繰り返しで
続いて東京です。東京も京都と同じで私設でできます
が官許、つまり警視庁が絡む公的な屠場になったり、い
ズ、二万坪ツヾ三箇所ノ指定地ハ、僅ニ一箇所ハ三百坪、
テアッテ、広イ所ガ外ニ於テ三箇所指定シテアルニ拘ハラ
ています。「此屠場ト云フモノニ付イテハ、土地ヲ指定シ
議員が出した屠場法案の文言がとても当時の世相を反映し
す。一九〇六年の屠場法に至るまでに、衆議院の川島瀧蔵
してそれ以外は五年以内に廃業させるという通達を出しま
こんなに確保できるわけがありませんが―、三箇所に限定
二万坪の土地を与える―土地開発の時代ですから現実には
状況です。結局、東京府は白金と千束と三河島に限定して、
束が開発されてくるということでしょうか。いろんな屠場
うとしますが、芝浜に移転をせざるをえなくなります。千
します。千束村の屠場を木村荘平は四苦八苦して再編しよ
つくっています。彼らが豊盛社という会社をつくって経営
ろんな事をやっていますが、最後は肉食に移って牛肉屋を
かに木村荘平、これは画家の木村荘八のお父さんです。い
は鹿児島県士族です。警視庁は薩長閥の牙城ですから。ほ
拾がつかなくなったのでしょう。払い下げられます。相手
をつくります。二年ほどで警視庁は投げ出します。多分収
ができて統廃合を繰り返すというのが明治二〇年頃までの
化製所を併設します。肉、皮以外の物を再利用する実験場
したりします。千束の屠場が唯一でした。また附属の獣類
148
覚書・近代京都と屠場
が、民間にまかせていると事が運ばないから公営の屠場法
甚シキハ(後略)」、なかなか文意がつかみかねるのです
ヲ付ケラレル訳ニナッタ、ソコデ土地ノ価ノ下落ハ固ヨリ
ッテ往ク、御前ノ土地ヘハ牛殺場ヲ持ッテ往クト云フケチ
ソレガタメニケチヲ附ケラレル、御前ノ土地ハ火葬場ヲ持
一箇所ハ僅ニ二百坪、通計五百坪シカナイ、使ハナイ方ハ
統廃合されていく。しかし、やはり公だけではやっていけ
政にとって儲け話になるような法令をつくることによって
で収拾がつかなくなったために国としては屠場法という行
要するに、京都も大阪も東京も共通していえることは民
間資本が新しい産業として屠場に注目していく、そのこと
所ということになります。
ってきて、ここで東京市内の屠場に一本化されます。これ
に吸収合併されたり統廃合されたりして一九三六年までや
場、寺島屠場の六屠場が、ずっと株式会社やいろんな会社
石島町屠場、尾久屠場、三ノ輪屠場、八王子屠場、三鷹屠
久に開設しています。レジュメの破線を引いている、深川
場がありました。他にも大日本獣畜株式会社は石川島、尾
で、かなり話題になったようです。東京の諸島部にも屠畜
は初めて冷蔵庫を導入します。明治四〇年に業務用の導入
式会社が隆盛します。中央屠畜株式会社の帝国中央屠場で
です。屠場法以降の時代がどうなったかです。東京では株
てしまうための法案なんです。公営化の必要性を説くわけ
彼にとっては確保していた三箇所の屠場を一挙に屠場にし
ありません。かつての旧市街地外にあってそれを都市計画
した外側に新しい町があります。真ん中には遊興場は一切
ナツのような何重構造にもなった、古い時代の町をコアに
の都市計画法で網をかけて動かないようにしました。ドー
に、屠場も斎場も遊廓も周縁部に集中して一挙に大正七年
江戸時代の町を核にしながらまったく都市計画に基づかず
心にしてまわりに無造作にいろんなものができた町です。
もインナーシティといって、核になる江戸時代の市中を中
にあった屠場が周縁に追いやられていきます。大阪も東京
どう位置づけるかということですが、やはり市内の中心部
吉祥院となります。こういった共通点があります。それを
何度かの波を経て、今の東京の芝浦、大阪の南港、京都の
しかしまた法令の影響などで統廃合が進む。と、こういう
をつくって話を進みやすくしようというのが彼の意図です。 なくなり、また民間の株式会社などが屠場に参加していく。
が現在の芝浦の屠場です。市内には一箇所、府内には一箇
149
ることができました。
あります。これで何とか京都と大阪と東京をざっと俯瞰す
心部にあるのですが、生産拠点はすべて外部という構造が
のではないかと思います。食肉生産の供給や消費は当然中
ーシティに影響を受けているということが屠場にもいえる
は地理学のインナーシティという考え方です。このインナ
法でがちっと枠を掛けられて動かれないようにする、これ
にできています。居留地のあるところは早いです。横浜は
場が明治一二年に居留地にできます。慶應年間には北方村
が、横浜、神戸は早くからの開港場です。横浜は田村屠畜
(2)の居留地との関係です。今日は取上げませんでした
から多量の肉を供給していたという記録もあります。次に
いました。また大阪では関東軍特別演習の時に大阪の屠場
肉もそうです。牛肉の大和煮の缶詰が軍隊では常食化して
屠場法後すぐに横浜屠場株式会社が成立しています。株
レジュメの最後のところに島崎藤村の「屠牛」という文
章を引用しています。藤村は「破戒」では屠夫のことをめ
す。この部落は何故できたかというと、屠場が移転してき
彦の記念館があり、部落とスラムが混在しているところで
式会社化で旧賤民はほとんど参入できなかったと思いま
ちゃくちゃに書いています。赤ら顔とか鋭い眼とか怖いと
てから人がそこに集まった、宇治野という村から何人か部
す。神戸は新川のところにあります。新川地区には賀川豊
か書いているのですが、ここでは小諸の屠場に自分から見
落民がきたと語られています。詳しいことはわかりません。
Ⅳ 屠場の描写
学をしに行ってちゃんと書いています。
まとめにかえて
はあったけれども、かわた身分がもっていた技術とは断絶
れが旧生田川の東側に移り、またこの新川地区に移ってき
もともと神戸の屠場は居留地、海岸通りにありました。そ
まとめに入ります。レジュメ8頁の(1)です。もとも
と肉は基本的に軍需物資、兵食です。基本的に皮革もそう
があったのではないかということです。そして(3)です。
ました。布川さんによると外国人と日本人屠殺業者の接触
です。軍隊への供給が多かったのです。皮革製品では背嚢
とか軍靴などが大阪の西浜などで生産が盛んになりました。 何度も繰り返していますが、儲けは行政や民間資本、差別
150
覚書・近代京都と屠場
代に我々が知っているような肉屋さんができてきます。保
思います。(4)は小売店の拡大です。これは一九二〇年
中心に見て行くという研究の視点が必要なのではないかと
が。特に屠場法を境とした屠場が増殖している時期に人を
究はありません。それは資料がないということもあります
いう研究はあります。ただ、人ということを機軸とした研
りません。こういう屠場があってこれだけ生産していたと
生産の一角を占めていたのかというはっきりした研究があ
みましたが、どの部分に被差別民が関わっていてどういう
なのに、近代の部落史や部落問題の中での屠場の研究史を
見はあるということです。近世の草場権などの研究は盛ん
んし、コミットメントできたのかもわかりません。ただ偏
いうことです。部落の参入時期がいつなのかもわかりませ
誰でも参入したくなる。株式会社にしてまでほしくなると
態ですから、儲かるときは富が一極に集中します。だから
時の疑獄事件などを見ればわかるように、排他的に独占状
しないといけないと思っています。屠場の事業に参入する
部落になるのか、ということのからくりをちゃんと説明を
しか記録されていないのになぜ屠畜、屠場、皮といったら
は部落です。両者には接点がなく、京都でも柳原庄の数名
生産過程に伴う偏見や蓄積されてきた技術を隠蔽すること
加工といった生産過程が見えにくくなってきます。それは
屠場で斃れる牛の姿だとか、屠場の労働者の技術だとか、
りまえになってくると、当然最終形にたどりつくまでの、
スーパーで簡単にパックに入った肉を買い求めるのがあた
ないかと思っています。最後に(5)です。最近のように
みることによって部落史にまた違う視点がでてくるのでは
いうことだけではなくて消費や流通ということをもう一度
は日本ではあまり注目されることはないのですが、生産と
主義を発達させてきたという論理を展開しています。彼ら
消費」という概念をもちいて世の中の資本を刺激して資本
を展開しました。ソースティン・ヴェブレンは、「顕示的
発展させた」と、生産ではなく消費に重点をおいて経済論
ー・ゾンバルトという人は「旺盛な消費活動が資本主義を
するという研究はあまりありません。たとえばヴェルナ
とか消費需要から部落史を見たり、屠場の問題を逆に照射
ず行われます。資本主義的生産関係ばかりが語られ、流通
る階級論とか労働問題、労働のエートスといった議論が必
ということがあります。生産の話をするとそこから発生す
冷の問題とか都市のなかでの民需というものができてくる
151
なることが差別の問題を強めると考えたほうがいいと思い
み出す差別が強まると思います。見えなくなる、きれいに
になってくると見えないことによるリアリティの欠如が生
偶像をつくって差別の刻印をおしていく。より便利な時代
アリティを失っていく、それがためにいろんなありえない
いものが多いばかりに、実際に口にしたりするものへのリ
の偏見につながっていくのではないかと思います。見えな
にあって、さらに屠場の労働に対する差別や生産の現場で
つながります。見えないものに対する予断や偏見が明らか
になると思います。見えなくするということは隠すことに
ないかと思っています。
寄与できることがあれば充実したものになっていくのでは
を再認識しています。その一つのきっかけに屠場の研究が
ことを多様な視角でもって見なくてはならないということ
史として視野を広げ、何故部落問題が存在するのかという
と思います。差別は社会関係だと思っていますので、関係
とばかり、身分集団のことばかりを考えていても解けない
考えるのかという意味もあります。部落史は部落内部のこ
すが、そこに培われてきた技術をどのように現在の我々が
題やかわた身分と関係があるかないかということも大事で
ます。今年の六月に鎌田慧さんと本橋成一さんとの対談が
技術が存在する。ともすれば非人間的な労働がすばらしい
屠場がある。人の手間隙、技も含めて見事な手作業による
短小軽薄で非人間的なロボットに近いような労働の対極に
)までお問い合わせください。
か、吉村( TEL 06-6561-8195
詳しくは、大阪人権博物館のホームページをご覧いただく
近日刊行されます。興味のある方は、ぜひご覧ください。
て考える―大阪人権博物館調査報告書第四集』(仮題)が
あって私が司会をしたのですが、お二人がいわれたことは、 【付記】この報告と関連して、『日本社会と食文化につい
労働と考えられがちな反面、人間の手間隙が詰まった人間
労働が存在する屠場をさげすむような言説が生まれつつあ
る。それを我々はもう一度捉え返して、いまこの時代に再
定義していく必要があるのではないか、とお二人が語られ
ています。屠場の労働の現実を語るということは、部落問
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二〇一一年度部落史連続講座 講演録
発 行 日 二〇一二年三月三一日
編集・発行 京都部落問題研究資料センター
京都市北区小山下総町五の一
京都府部落解放センター三階
電話 〇七五(四一五)一〇三二
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