「メサイア」プレ・トーク 2009 年 11 月 11 日(水) 11 月 25 日(水) 12 月 9 日(水) 19:00∼ at Alios カフェ お話:足立優司(いわきアリオス音楽プロデューサー) ・メサイアってどんな音楽? それなりにクラシックを聴く人でも、「『オラトリオ』なんだから『宗教音楽』?」とか、 「ああ、『ハレルヤ』が入っている曲!」という人が多いのではないでしょうか?「ハレル ヤ」の古い合唱楽譜には「救世主」というタイトルが書いてありましたから、それをご存じの 方もいらっしゃるかもしれません。 ・オラトリオって?? 本来は、教会の中の、談話室に続く祈祷室(オラトリウム)で、キリスト教の物語をわかり やすく「娯楽的」に伝えるための音楽作品のことです。「東方からきた 3 人の博士」の物語と か、「馬小屋でお生まれになったイエス様」の物語などなど。中世の教会で、お芝居や舞台セ ットを省略した、いわば「ラジオドラマ」みたいな感じのものとしてはじまり、後世には独 唱・合唱・伴奏楽器を用いて、演奏会用の音楽として発達しました。 ・救世主って?? ヘブライ語で「油を注がれた者」と言う意味の言葉です。ユダヤの人々はこの言葉を「神か ら特別な権威を授けられた者」としての「王様、司祭、預言者」を示す言葉と考えていました。 ユダヤでは、有名なダビデ王、ソロモン王の時代以降、国勢としては凋落の一途をたどり、 国が南北に分裂した後、北イスラエル王国が滅亡し、またその 140 年後、南ユダ王国では世 界史に名高い「バビロン捕囚」が起こるなどの悲運の歴史がありました。そうした辛い状況か ら自分たちを解放してくれるものこそが「救世主」、ということなのです。ですから、救世主 はダビデ王の子孫から生まれる、と信じられていました。 そうした「救世主」像を真っ向から否定したもの。それは旧約聖書のなかのイザヤ書にある 「苦難の僕」であり、後の世に「生け贄の小羊」となるイエス・キリストでありました。 ちなみに、メサイアのことをギリシャ語で「クリストゥス(英語表記でCHRISTOS)」 といい、ヘンデル作曲の「メサイア」では、救世主=イエス・キリストのことを意味していま す。ですから、イエス・キリストのさきがけとしての古い時代の「預言」=イザヤ書、そして 500 年の時を経て、「預言」の実現としてのキリストの顕現、という構成が、メサイアを楽し むうえで案外重要なポイントなのです(歌詞日本語訳をご覧下さい)。 ・ヘンデルという人 ヘンデルは、実はドイツ生まれの生粋のドイツ人でしたが、42 歳の時にイギリスに帰化し ました。名前も「ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル」から「ジョージ・フレデリック・ヘン デル」に変えています。 彼はドイツ中部のハレという町で生まれました。何と、あの大バッハ(J.S.)と同じ年(1685 年)生まれ(実は、八代将軍徳川吉宗と一歳違いです)で、それから一時期イタリアに渡って、 オペラの作曲を学び、劇場作曲家として活躍。そこで、これも同い年の大作曲家ドメニコ・ス カルラッティと出会っています(D.スカルラッティはその後、イベリア半島に行って活躍)。 そしてその後、一旦はドイツ・ハノーファーの王宮に宮廷楽団の音楽監督として呼ばれるので すが、休暇をとって、産業革命の中心地である大都市ロンドンに行ったときに、そこがいっぺ んで気に入り、そのまま休暇が明けてもドイツには帰らず、そのままイギリスに帰化しました。 ところが! なんとイギリス王室の血筋が途絶えてしまい、親戚ということで、よりによって ハノーファーの王様が新しいイギリス王になってしまったのです。ヘンデル大ピンチ!! しかしそこはさすがヘンデル、「水上の音楽」と「王宮の花火の音楽」を王様に捧げてご機嫌 をとり、上手く仲直りができた、というわけでした。 そんなこんなで、彼が3つの音楽文化圏を体験し、そこで蓄積した様式や技法をふんだんに取 り入れているので、この作品には非常に多彩な曲が多彩な形式で集められており、それもメサ イアの魅力の一つといえます。 で・・・、「げっ? メサイアってドイツ語なの!?」って思った方! ご安心ください。ドイ ツ語版も、「モーツァルト編曲版」というのがあるのですが、ヘンデルのオリジナル版は英語 です(ただ、はっきり言ってヘンデルは英語が母国語ではないので、「どうしてこの旋律でこ の言葉を歌わせるの!?」っていうくらい聴き取りにくいところが何箇所もあるので、要注意 です)。 ・メサイアの作曲=1741 年 さて、メサイアのオリジナル版がなぜ英語なのか? それは、ヘンデルがすでにイギリスにいて、イギリスで演奏するために書いたからです。1741 年のことでしたから、今から 270 年くらい昔の話。この年の夏、チャールス・ジェネンズとい う人が、聖書の有名な詩句の中から、「主」の物語を語るにふさわしい聖句を精選して台本を 作成し、このころ、得意としていたイタリア式のオペラ作品があまり売れなくなっていたヘン デルに、新しいオラトリオの作曲を依頼したのです。 ・メサイアの台本作家=チャールス・ジェネンズ 1741 年夏には、ジェネンズは友人に、一種の「娯楽作品」として「メサイア」の台本を編 んで、ヘンデルに作曲を持ちかけていることを、手紙で明かしていました。 このジェネンズという人は資産家の息子で、様々な分野に造詣が深く、中でも聖書の研究家 としては当時相当なものだったようです。その彼が腕によりをかけて選んだ「歌詞」に曲をつ け、50 曲近くの、一種の組曲風にまとめ上げたのが「メサイア」なのです。 しかしなんでも、ヘンデルは作曲に取りかかってから、のべ 24 日程度で全曲を書きあげてし まったらしいのです(もっとも、一部には自分でかつて作ったオペラ曲を使いまわしたりした ようですが)。ジェネンズとしては、2年くらいかけてゆっくり『大作』を作ってほしかった ようで、ずいぶんがっかりしたとか。 ・メサイアの初演=1742 年 4 月 13 日、アイルランドのダブリンにて そんなジェネンズにとって、ヘンデルが突然「メサイア」の楽譜一式を持って、アイルラン ドに行ってしまったことは、非常にショックだったに違いありません。ヘンデルにとっては、 逆にジェネンズにガミガミ言われないで、さっさと初演を果たしてしまいたかったのかも。実 際、 このダブリンでの初演は大成功を収めました。 ・メサイアのその後 その後ヘンデルは、再演のたびに曲に大幅な修正を施したり、曲を作り変えたりしています。 そしてジェネンズの強い要請に応え、いよいよロンドンでの初演を迎えるに当たっては、ロ ンドンのオーケストラの大きな編成に合わせて手直しされ、オーボエパートを書き足していま す。 ところで、「メサイア」の中には合唱曲あり、ソロあり、二重唱あり、語るような曲(レチ タティーボ)や歌い上げる曲(アリア)ありと、ヘンデルお得意のオペラの手法を取り入れ、 非常に華麗・多彩に作られています。 ですから「オラトリオ」とか宗教音楽といっても、中世の重々しく単調なものとは違い、か なり華麗で派手な作品です。おそらく当時としてはかなりエンターティメント色の強いものと 思われたのでしょう。ジェネンズ自身も「娯楽的」という言葉を手紙の中で使っていましたし、 それはヘンデルにも分かっていたに違いありません。現代で言えば、「天使にラブソングを (Sister Act)」の映画で歌われている曲くらいの印象だったのかもしれません。実際ロンド ン初演当時には、「たとえ神を賛美する内容とはいえ、『劇場』で行うような『娯楽』作品に 『救世主』という名をつけ、宗教的な内容を演奏することは冒涜である」などと、ひどく叩か れてしまいました。 そんな「メサイア」の受け入れられ方に、徐々に変化が現れたのは 1750 年ころのことです。 このころ、ピューリタニズムを信奉するイギリスの中産階級に浸透した「市民合唱運動」がこ のメサイアを圧倒的に支持し、イギリスのナショナリズムがそれに拍車をかけたようです。 その後押しもあって、ヘンデルは 1749 年以降ロンドンのコヴェントガーデン劇場で毎年メサ イアを「オラトリオ・シリーズ」の締めくくりとして上演するのを常としていました。 また、1750 年以降はコヴェントガーデンでの演奏後に「孤児養育院」での慈善演奏会でメサ イア演奏を毎年行っています。今回いわきアリオスで演奏されるのは、この「孤児養育院」で 1754 年に演奏されるために手を加えられた版になります。ソプラノのソリストが 2 人起用さ れているのが特徴で、声の性格でソロを歌い分けています。編成もさらに大きくなり、ホルン パートも加えられたようなのですが、スコアにもホルンパートの段はあるものの音符が書かれ ておらず、パート譜も失われたため、現在ではホルンがどのように用いられたのかは分かりま せん(今回はホルンは加わりません)。 ・メサイアの構成 よく「メサイアはイエス・キリストの一生を描いた音楽」などと言われますが、これは大き な間違いです。 実は「メサイア」では、キリストの生涯の中でも3つの大きな出来事しか扱っていません。 それは「救世主生誕の預言∼降誕」、「受難と贖罪、そして復活」、「永遠の生命」です。 ・エンターティメント色の強い、メサイア 日本でも、みんなが良く知っている物語、例えば歌舞伎の有名な演目は、なかなか通し上演 しなくて、名場面だけを上演することが多いですよね。同じように、西洋人にとってイエス・ キリストの生涯なんて、今さらだれでも知っている物語で、それを逐一歌っていくのはくどす ぎるのでしょう。 ・メサイアを聴くためのキーワード → 資料 ・「旧約聖書」と「新約聖書」 ※「旧約」とは古い契約・・・・「出エジプト記」での、モーセと神との契約 「新約」とは新しい契約・・・キリストによって取り持たれた、人間と神との契約 旧約聖書とは神と人間との古い契約、新約聖書とは神と人間との新しい契約を書き記したも のと言う意味があります(この、旧約聖書という名前を使っているのはキリスト教だけです。 念のため)。契約を書き記したと言っても、現代の契約書のようなものとは違い、歴史書であ り、詩歌であり、物語であり、書簡であります。 キリスト教においてイエス・キリストは「神の子」であり、かつ「神そのもの」であり、しか しながら人の姿をとっておられます。旧約聖書で述べられていた「神」=メサイア(救世主) が、新約聖書でのイエス・キリストであり、彼(He)が人間と新しい契約を交わしたというの です。 ・メサイアの中のタイム・ワールド メサイアの「歌詞(テキスト)」は主に旧約聖書の「預言書」、「詩編」、新約の「書簡」、 あるいは「黙示録」などから取られています。普通はキリストの物語を語るのには、イエスの 言行録である(とされる)新約聖書の「福音書」を使うのが良いように感じるのですが、ジェ ネンズという人は、旧約聖書に描かれた「預言」がイエス・キリストによって成就した、とい う考えから聖書全体を見渡し、幅広く詩句を集めてきています。彼の作った台本を貫く強い思 想は、「キリストは、神の意志と愛によってこの世に顕れた」ということと、「この世はすべか らく闇に包まれ、それを破る光はキリストの他にはない」ということでしょう(ジェネンズに よって掲げられた序文 日本語訳参照 に、このことが要約されています)。 また、「メサイア」のテキストでは、新約聖書で大きな部分を占めるキリストの教えやたとえ、 病を治したり、死者をよみがえらせたりする力といったものにまったく触れていません。これ も、そうした聖句はイエスがキリストであるということを証明しようとするもので、「キリス トの《顕現》」という出来事の本質には直接関係ないと判断したためだと考えられます。 ですから、メサイア全体は、旧約の「預言」による時間軸と、新約の「現実」となった時間 軸がパラレルワールドのように並行して流れています。これを最も感じられるのが、序曲以外 でただ1つの器楽曲である 12 番「田園曲」です。この曲が流れている間に旧約の世界から大 いなる時の流れを経て、新約の世界へと入っていきます(その後も旧約からの詩句は使われま すけれど・・・)。 もうひとつ、17 番もまずはレチタティーヴォにより「盲いた目が開き、聞こえない耳が開 く」という旧約聖書の中の奇跡が語られます。福音書に書かれているキリストの奇跡はひとつ も採用されていないのに、です。その後曲調が変わって、「重荷を負うものは、だれでも主の もとに来なさい。主はあなたがたを休ませてくださるであろう」、「主は柔和な方だから、主 のくびきを負って主に学びなさい」...と新約聖書の「マタイ福音書」からの歌詞へと続き ます。このあたりは美しく安らかな旋律が続きますが、ここでも、旧約の預言から新約のイエ ス・キリストの言葉に引き継がれ、これによっても「救世主」誕生の預言が成就されたことを 現しています。 このように、「預言」とその「成就」という大きな構造が「メサイア」の中には描かれており、 そこにジェネンズの天才の証を見ることもできるのではないかと思います。 * * * * * 「第 1 部 救世主生誕の預言∼降誕」 序曲 ・「受難を暗示する」序曲 まずは第1部。序曲が重々しくはじまります。主題はキリストの生涯なので、やはり「受難を 暗示する」ということでなかなか軽々しくはできないのです。ダダーン・ダダーンと、キリス トが足を引きずりながらゴルゴダの丘に登っていくようなリズム。このリズムは全曲を通じて、 キリストの受難に結びついた重要なリズムです。 続けて、テンポが変わると今度はバロック音楽好きのかたなら狂喜しそうな、美しい旋律の追 いかけっこ(フーガ)の曲調になります(フーガというのは、バロック時代に完成された音楽 形式「対位法」の代表的なものです)。 2番∼3番 救世主(メシア)誕生前の聖地エルサレム ・3種類の歌の曲 ソロ(独唱)がセリフを語るように歌う「レチタティーヴォ」 ソロが歌い上げる「アリア」 コーラス「合唱」 ・「謳う」ことと、「歌う」こと 「謳う」のは神にかかわること、「歌う」のは人間や地上のできごとに関わること。 「慰めよ(Comfort)」という柔らかな言葉で、メサイアの歌詞は始まります。ゆったりと して美しいメロディです。 「救世主が生まれる」という預言がなされるために、まず「戦災にあったエルサレム(英語な ので「ジェルザレム」と発音しています)そのものが赦され、その民たちが慰められるよう に」と歌います。なお、この「慰めよ(Comfort)」という最初の言葉は、ミサ(宗教曲)の幕 開けの曲「キリエ・エレイソン(主よ、あわれみ給え)」という人々の願いにたいして、「慰 め」が与えられるということを預言している、とも言われます。 つづいて3番。引き続きテノールのソロですが、曲調ががらりと変わり、「全ての谷は身を起 こし、全ての山は低くなれ」と、一見むちゃなことを歌います。救世主が現われるのだから、 荒地は道になれ、ということです。自然界すら主の栄光の前にはひれ伏しなさい、ということ でしょうか。ちなみに、この部分は「神の前には人々はみな平等になる」ことを暗示している とも言われています(なお、歌いだしは「エブリバディー(すべての人々)」ではなくて「エ ブリバリー(すべての谷)」です。お聴き違えなく)。 4番 合唱 テノールのアリアが「地形まで動かしてしまえ」とむちゃを言ったのを受けて、「そして主の 栄光を、生きとし生けるものは皆そろって見るのだ」という内容を合唱が歌います。 5番∼7番 メシア誕生の預言 さらに、地形にまで主の影響力を見せつける、という預言を謳うのが5番。バスの力強い声で 「ゆり動かしてやるぞ∼∼∼(Sha----------ke)」と歌います。「主が万物(世界)をゆする と、メシアという宝がこぼれおちる」ということを暗示しているのです。 上記の「シェーーーーィク!」の部分はメリスマという、細かく連続して音が上下する形にな っています。1音1音を半ば切りながら、音程をしっかり発声していくのが大変難しく、高度 な技術を要します。 続く6番はソプラノ(Ⅱ)のアリア。内容は「精錬の炎のように、すべてを焼き尽くして清め てしまう」という、曲調にくらべてかなり激しい内容です。ちなみに、この出だしのメロディ を覚えておいて、この後の8番:アルトのソロと聴き比べてみてください。 そして7番では、レビの子孫を清める話しが合唱で歌われます。レビ人というのは、イスラエ ルの民の中でただ一つ、代々神を守っていくことを使命とする一族です(英語なので、リーヴ ァイと発音しています)。「出エジプト」を指導した旧約聖書最大の英雄モーセも、その兄で ユダヤの大祭司の祖先となったアロンもレビ族出身でした。清められたレビ人たちだけが、義 にかなった捧げ物をすることができるのです。こうして、救い主が生まれるにふさわしい土壌 が整います。 レチタティーヴォ∼8番 受胎の知らせ 続いて、アルトのレチタティーヴォとアリア、及び合唱で、救世主を乙女マリアが身ごもっ たという知らせが歌われます。「見よ! 乙女が身ごもって...」というセリフに合った、 美しくゆったりとした語り口のレチタティーヴォです。 そして「吉報をシオンに伝えるものよ、山に登れ!」という、「救い主」受胎の知らせがエル サレムにもたらされる喜びが、美しいメロディに乗せて歌いあげられます。「シオン」とはエ ルサレムの別名(英語なので「ザイオン」と発音されます)であり、そのエルサレムの栄光を 創り、そこに君臨した「ダビデ王」の血統を奉じる民族そのものをも指しています。よく聴く と、先ほどの6番のアリアの出だし、短調のメロディラインを今度は長調で歌っているのがわ かります。ここは「すべてを焼き尽くす精錬の炎も、エルサレムの人々にとっては、喜びとな る」ということを暗に語っているようです。曲はそのまま合唱へと引き継がれ、力強くも美し いコーラスとなって、人々の間を吉報が伝わっていきます。 9番∼10 番 闇の中の光 美しい合唱が終わると、一転してバスの沈んだレチタティーヴォから、暗∼いアリアに入っ ていきます。主の栄光が現われる前の「闇が地上を覆い(9番)」「闇の中を歩む民・死の陰 の地に住む者(10 番)」たちの状態を歌います。 11 番 合唱 聖誕 そしていよいよ、「ひとりのみどり子が私たちのもとにつかわされ」ます。クリスマス物語の クライマックス、救世主(キリスト)の誕生を喜ぶ箇所です。前の暗いアリアから一転して明 るい合唱になりますので、この見事な対比をお楽しみください。 ちなみにこの箇所は、旧約聖書「イザヤ書」のなかでも、第一イザヤと呼ばれるイザヤ本人の 「インマニュエル預言」と呼ばれるところです。新約聖書「マタイによる福音書」がこの箇所 に言及し、イエス・キリストの降誕はこの「インマニュエル預言」の実現であるということを 書き記しています。「God-with-us」はマタイによる書き込みです。 曲中、「権威が彼の肩に載る(And the government shall be upon His shoulder)」という フレーズがありますが、ここのフレーズだけは「タターン、タターン...」という足を引き ずるような上昇音階になっています。これは「受難のリズム」という、キリストがゴルゴダの 丘に十字架を背負って登っていくことを暗示している部分です。キリストの受難は生まれなが らにして既に決まっていたのです。 12 番 田園曲 キリストが生まれたところで、曲は静かな器楽となります。 「田園曲」というだけあって、非常に美しくゆったりとしたメロディです。キリスト生誕の物 語では、田園に面した馬小屋の飼葉桶のなかに幼子が寝かされていること、最初に駆けつけた のが野原で羊を追っている羊飼いたちであったことが重要なポイントです。救世主は人々にあ がめ奉られる王ではなく、最も低いもの、虐げられたものの友として、この世に顕現するので す。 したがって「クリスマス」にちなんだ音楽作品にはこの「田園曲(パストラーレ)」が挿入さ れることになっています。「メサイア」でも、この曲から次の「羊飼いたちが野宿をしなが ら...」につながっていきます。目をつぶると田園のおだやかな風景と、そこで野宿をしな がら羊を追う羊飼いの姿が浮かんできませんか? ところで、この曲は、「ひとりのみどり子がつかわされる」という「預言」の後、「旧約」か ら「新約」へという、まるでタイムスリップのような大いなる時の流れを現しています。この 曲の前までが旧約からの「預言」で語られているのに対して、この後からは主に新約の中から 取られた歌詞で「(預言が成就した)現実」として語られるのです。 13∼15 番 降誕の知らせ ここからのレチタティーヴォを含む5曲のうち、4曲はソプラノ(Ⅰ)のソロ。「天上の世 界」を表わすソプラノの美声が謳う内容は、降誕を天使が羊飼いたちに知らせに来る、クリス マス物語中 最もポピュラーなシーンです。 ・「羊飼いたちが野宿をしていた」 ・「天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」 ・「天使は言った『恐れるな、私はおおいなる喜びを告げる。今宵ダビデの町(ベツレヘ ム)で、主イエス・キリストが生まれた』」 ・「すると突然、天の大軍が現われ、神を賛美して言った!」 そのまま、15 番「いと高きところには神に栄光、地には平和を」という合唱につながり、 クリスマス物語のクライマックスを高らかに謳いあげます。神を賛美する「いと高きところに は神に栄光」というフレーズと、「地には平和」を謳う男声の高低の対比や、天使たちのにぎ やかに響き渡る歌声の速さと、いつまでも続く平和を表す長い音の緩急の変化が特徴です。そ して可愛らしい後奏で、天使が遠くに飛び去って行く様子が描かれます。 ちなみにこの歌詞、「peace on earth」の後をカンマで区切るのはジェネンズの用いた「欽定 訳聖書」の誤りで、正しくは「地には、御心にかなう人に平和があるように」です。 16 番 喜ばしい知らせ 主の降誕の知らせは、やがてシオンの人々に伝わっていき、人々は喜び踊ります。この喜びも ソプラノ(Ⅰ)の独唱によって歌われます。 17 番∼18 番 主の栄光 続いて、アルトのレチタティーヴォにより「盲いた目が開き、聞こえない耳が開く」という 旧約聖書の中の奇跡が語られます。先述のとおりジェネンズは、新約聖書の福音書に数多く見 られるキリストの奇跡については一箇所も引用していません。唯一この箇所で、キリストの顕 現がもたらした数々の奇跡は、旧約のなかですでに「預言」されていた、と述べているのです。 そして同じくアルトのアリアによって、「主は羊飼い」という「(第二)イザヤ書」からの聖 句が謳われ、その後曲調ががらりと変化して、ソプラノが「重荷を負うものは、だれでも主の もとに来なさい。主はあなたがたを休ませてくださるであろう」、「主は柔和な方だから、主 のくびきを負うて主に学びなさい」...と新約聖書の言葉を謳います。このあたりは美しく 安らかな旋律が続きますが、先にも記したとおり、この曲は旧約の預言(アルト)から、新約 の現実(ソプラノ)に引き継がれ、「救世主」誕生の預言が成就されたことを現しています。 第 1 部最後の曲は合唱です。前の歌詞をうけて「主のくびきは負いやすく、主の荷は軽い」と いう希望に満ちた内容が謳われます。「主が我々に負わせる荷は軽い。だから主に従い、主の 下に集まろう」ということです。荷の軽さを表しているのが、軽く弾むようなメリスマです。 * * * * * 「第 2 部 受難と贖罪、そして復活」 19 番∼20 番 人々の裏切り キリストの受難 = イザヤ書の「苦難の僕」 メサイアはキリストの一生を、順を追って書き上げているわけではないので、2部に入ると いきなり受難がはじまります。ここでは台本のほとんどを旧約聖書によっています。これはイ エス・キリストがその生涯の手本としたであろう 500 年前の出来事=「苦難の僕」の姿を、キ リストの受難のさきがけとし、間接的にその受難を描こうとしたからです。 紀元前6世紀のイスラエルは、強国が次々台頭するのに蹂躙され、ユダヤの人々はその苦難 から自分たちを救ってくれる「メシア」を待望していました。「バビロン捕囚」から開放され、 エルサレムに帰還したユダヤ民族を主導したのが、第二イザヤと呼ばれる、「イザヤ書」中盤 に登場する名前の伝わっていない預言者と、これも名前の秘された民の指導者でした。しかし、 70 余年にわたる捕囚の間にエルサレムは異民族に支配され、ユダヤの人々がエルサレムに定 住することは非常に困難でした。そのような中、クーデター疑惑をかけられたのでしょうか、 彼らはエルサレムから追い出され、追撃を受けて全滅されるかもしれない危機を迎えます。そ の状況の中で、指導者はユダヤの民を守るため、すべての疑惑をその身に受けて殺されるので した。この、「苦難の僕」の死によって疑惑は解かれ、ユダヤの人々がエルサレムに定住する 道が開かれます。 この人、名を秘された指導者は、捕囚からの帰還の途上では滅びかかったユダヤ民族の希望 でもありましたが、「指導者としての押し出しの立派さや、風格は無かった。しかし、人の苦 しみのわかる謙虚な人であったのに、わたし達は、軽蔑していたのだ。彼は、私たちの苦痛を 一身に負っていたのだ。そして犠牲となった。」と「イザヤ書」53 章で述べられています。 何ゆえ彼は悲惨な、不条理な死を遂げたのでしょうか。神は何ゆえ彼を死に至らしめたのか。 それは、彼が帰還民の過ちを担い、犠牲となることによって、残された人々が正しい者とされ 平和を得るために、神がそのようになされたのだ、とされています。民の指導者は代贖者・仲 保者として、まさに新約聖書でのイエス・キリストと同じ役割を果たしたのです。 受難は、キリストを裏切った人間によってもたらされたのですから、私たち人間はそのことを 痛切に後悔します。第 2 部の最初は、「見よ、神の小羊なり」という暗い合唱ではじまります。 その小羊であるキリストは、いまや「人々に軽蔑され、見捨てられ、多くの痛みを背負っ て...」います。本当は世の罪を取り除く、神の小羊なのに・・・。 なおここから先は、「犠牲となる神の小羊(Lamb)=キリスト」と「迷える羊(sheep)= 私たち地上の人間」 とが何度も出てきますので、これを混同しないようにしましょう。 21 番∼23 番 合唱 21 番は「メサイア中もっとも激しい曲」と位置付けられている「Surely」。「彼が担ったの は、確かに私たちの病であり、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに...」という、非 常に大きな哀しみを合唱が歌います。「彼」とはもちろんキリストのことで、「私たちの病や 痛みをキリストが代わりに負ってくれている」という悲嘆を、私たちの代表である合唱が表現 します。 続いて 22 番は「彼の受けた傷によって、我々は癒された」という、人々の後悔を歌った曲。 この曲の出だしは「十字架音形」という特徴的な形になっています。出だしの「and with His stripes」は、横に比較的平らな「and with」の2音のあと、高音から一気に貫くように落ち る「His stripes」の2音で十字架をイメージしているのです。暗い曲調で、なおかつ十字架を 暗示するという仕掛けです。この十字架音形の部分は鞭でたたかれるような鋭い音で表現され、 その後の「我々は癒された」のなだらかな音と強い対比になっています。「stripes(傷)」 とは、むろん鞭打ちのあとの縞状の傷のことです。 23 番は「私たちは皆、羊のように惑い...(All we like sheep,…)」。曲調は一転して明 るく楽しげな様子ですが、4声がバラバラに、羊のように惑う人々の馬鹿ばかしさを表現して います。神の示す道に従わずあちこちに人々が勝手に行き惑う様を現し、曲調は途中までは明 るい感じですが、最後に「その我々の罪を主は彼に負わせた」と重々しく結びます(なお、こ の曲は「羊好き」ではありません。念のため)。 24 番∼25 番 「彼」をあざける人々 人々は「彼」をあざけりつづけます。「彼を見る人は皆、彼を嘲笑し、唇を突き出しつつ言 う」とテノールが激しく語るとすぐ、人々の嘲笑のセリフを合唱が続けます。「彼は、神が救 ってくれると信じていた。神が彼に心をかけているのなら、神が彼を救い出せばいいのだ」と。 まず、群集の中の 1 人の男がこれを言ったのでしょう。合唱のバスパートがそれを最初に叫び ます。するとすぐ別のもっと声の高い男が続けていきます。合唱後半になると、人々が勝手に 「神が彼を救えばいいんだ!」と口々に叫ぶシーンになります。合唱の各パートがランダムに 繰り返し言うことによって、人々の身勝手さを表しています。 似たようなバラバラの合唱が、地上の王たちの身勝手さを表す 37 番にもあらわれます。 26 番∼28 番 絶望と、磔刑 ついに、キリストは十字架にかけられます。しかしメサイアには「十字架」や「処刑(磔 刑)」という言葉は一切出てきません。 それらはすべて、はるか 500 年の昔、第二イザヤの「苦難の僕」についての聖句によって謳わ れており、せいぜい先の 22 番に「十字架音形」で暗示されるだけです。しかし、26 番で「あ ざけりに彼の心は打ちひしがれ、彼を慰める者はだれもいなかった」(後述《トピック》参 照)、 27 番では「目をとどめ、しかして見よ。これほどの哀しみがあったであろうか」、 28 番「彼は、彼の民の背きのゆえ命ある者の地から断たれたのだ」...と、処刑されて命 を落としたことが淡々と謳われます。「苦難の僕」こそが、救い主。「苦難というものをこの ように、この世界を救済する手段として、熱烈に栄光化した」のが第二イザヤだと、ドイツの 社会学者マックス・ヴェーバーは述べています(『古代ユダヤ教』岩波文庫 888 頁)。この 「苦難の僕」をさきがけとし、キリストはこの世を救ってくれるのです。 ここの3曲は、非常に大きな悲しみを、静かな美しいメロディにのせ、テノールが謳います。 29 番∼33 番 復活 ソプラノ(Ⅰ)が、「しかしあなたは彼の魂を陰府(よみ)に渡すことがなかった」と、まず 神がそのひとり子を見捨てなかったことを謳います。ここから曲調が少しかわり、復活のテー マに移っていきます。 そしてひとたび冥府に落ちたキリストの魂が復活するため、その城門を開ける合唱が力強く謳 われます。30 番「城門よ頭を上げよ。栄光に輝く王がこられる」。そして、男声と女声のか けあいによって「栄光に輝く王とは誰ぞ?」、「そは強く雄々しい主、万軍の王なり」と、 人々の間に伝わっていく「主の復活」がこだまのように響きあって聞こえます(なお、メサイ ア全曲中この曲だけが、女声3部合唱(ソプラノ・メゾソプラノ・アルト)に分かれていま す)。 力強い合唱の後、キリストの復活は確固たるものとなり、天使は神を賛美します。テノールが 少し哀愁をおびたメロディで静かに「神は、かつて何時どの天使に言われたか…」という、神 の言葉に言及し、31 番「神の天使たちは、神を賛美せよ!」となります。 キリストは一度死んで冥府に下り、冥府をも清めてそこから復活し、「いと高き天に上り、 人々をとりことして導き、人々のために貢ぎものを取り」ます(32 番アルトのアリア)。そ れは、「主なる神がそこに住まい、背くものにさえ救いをあたえてくれるから」です。 そして「主は約束の言葉をお与えになり、大勢の女たちがその福音を告げていく」ことが、33 番の合唱で力強く歌われます。いかに人々の間に福音がのべ伝えられて行ったのか。上昇音階 の連続によって人々の喜ぶ様が表現されています。 34a 番 ∼35a 番 平和の福音 キリストが復活し、その「平和の福音を知らせる者の足のなんと美しいことか」という哀愁を 帯びた美しいメロディがソプラノの独唱で歌われます。この聖句は、「ローマの信徒への手 紙」から取られていますが、第二イザヤ 52 章 7 節にまったく同じ言葉があり、実質上はここ でも旧約聖書からの聖句を用いていることになります。そして福音をのべ伝える「その声は全 ての地に響き渡り」、合唱がこだまのように響き渡る様子を歌います。 36a 番∼37 番 国王たちの反乱 キリスト復活のニュースは、エルサレムから各国へと伝わっていきます。ところが、各国の王 たち(指導者たち)は、復活や神の栄光を伝えるキリストの弟子たちを迫害しようとしました。 当時「キリスト教」はユダヤの世界では、過激な「新興宗教」だったのです。 そうした地上の王たちの反抗(=ローマ帝国によるキリスト教の迫害)が、バスのアリアによ って歌われます。不安と苦痛に支配された闇の世界に光がもたらされて(クリスマス)、人々 は永遠の救いを得られるのに、自分たちの狭い了見でその大きな流れに反抗してしまう、とい うことです。「何ゆえ、国々は狂おしく騒ぎたち...」。これはバスのアリアの中でも名曲 中の名曲。 ひきつづいて、地上の王たちが「我らは枷(かせ)を打ち壊して...」と勝手な言い分をあ っちこっちでバラバラに言い合う状態を歌う曲が、37 番の合唱です。本来は3拍子なのにお 構いなしに2拍目から入ったり、早いメリスマがあったり、各パートがそろうところはほとん どありません。それでいながら全体で一つの合唱曲にまとまっているところが、ヘンデルの天 才たるゆえんなのでしょう。 レチタティーヴォ∼38 番 天はそれを見て、あざ笑う 次のテノールのレチタティーヴォは、これら地上の王たちの様子を見て、天があざ笑うことを 物語ります。「天に住まう方々は彼らを蔑して笑い給わん」。そして 38 番のアリアでは、 「汝 鉄の槌をもて、彼らをくだかん」というわけです。いかにも槌で打ち砕くような音形に なっています。かくして地上の王たちの反乱も、主の力の前にはひとたまりもなく打ちくだか れてしまうのでした。 39 番 ハレルヤ! 鉄槌によって伝道への弾圧が退けられ、主の栄光が再び地上を照らしたあと、神の栄光の国 の訪れを賛美して謳う内容です。「ハレルヤ!」とは喜びの声であり、「全能なる我らの神で ある主が王となった!」「王の中の王!主の中の主」と賛美して謳います。テキストは「ヨハ ネの黙示録」から取られています。 おそらく、「メサイア」という言葉を一度も聞いたことがない人でも、ハレルヤだけは耳にし たことがあるでしょう。あまりに有名なコーラスで、ヘンデルの名を不動のものにしています。 この曲はロンドン初演(1743 年)時に、感激した国王ジョージ2世が思わず立ちあがって聴 いたという言い伝えから、聴衆は立ち上がって聴くことが習慣になったというくらいの名曲で す。 ハレルヤは、晴れるや! ってことですね。 * * * * * * 《トピック》闇に打ち勝つ光 クリスマス・キャンドルは、「光が闇の中にもたらされ、闇は光に勝たなかった(ヨハネ 1-5)」 ことを私たち一人ひとりが体感するために、灯されます。 「イザヤ書」52 章(第二イザヤ)に「贄ふられる羊」の話が出てきます。キリスト者は、この場 所を「イエス様の先駆け」として大切に読むのですが、ここで描かれている人物、苦難の僕は、罪 無きまま殺される直前に神の光を見て、心が慰められた、とあります。 イエス様はこうした光=癒しを、得られないまま亡くなりました。父なる神は、イエス様の死に際 しても、言葉を隠されたままだったのです。 それでもイエス様は、自分を殺そうとする者のために祈られました。「お許し下さい。この者たち は自分が何をしようとしているのか、分からないのです。」 私たちはイエス様ご自身が、闇に打ち勝つ光であったことを知っています。それだからこそ、イエ ス様ご自身を「慰める」ものが存在し得なかったことも…。 数年前、NHKが戦後60年の節目に制作した記念ドキュメンタリー番組の一場面で、このことを 想い起こさせる事柄が出てきていました。 真珠湾攻撃を指揮した旧日本海軍の兵士は、終戦後GHQの厳しい監視下に置かれ、しかも故郷の 村でも「間違った戦争の発端を開いた者」として白目視されます。彼は自分だけがこのような目に 遭う「不条理」に対して、アメリカ軍だってきっと戦争に際しては非難されるべき事柄の一つや二 つはあるに違いない、と思って調査を始めました。 しかしそこで出会ったのは、なんとアメリカの日本軍捕虜収容所で、彼らのために奔走した一人の アメリカ人女性の存在でした。 この女性の両親は宣教師としてフィリピンに駐在していて、撤退する日本軍に捕まり、スパイとし て処刑されてしまいました。両親は釈明をしたのですが、聞き入れられなかったのです。処刑の数 時間前、両親は聖書を読むことを願い出て、許されます。そして出会ったのが、先のイエス様の言 葉でした。「許してください。彼らは自分が何をしようとしているのか、分からないのです。」 そして、アメリカにいる一人娘に、決して日本人を恨まないようにと伝言し、処刑されたというの です。 アメリカにいた娘は、当然両親の訃報を聞き、日本に対する憎しみを燃えたぎらせるのですが、や がて両親の最後の場面とその伝言を聞き、彼女は憎しみを乗り越える努力をしていきます。そして、 日本人捕虜のために力を尽くすようになった、というのです。 この話を聞いた元日本軍の兵士は「雷に打たれた思い」だったといいます。以降彼は、キリスト者 になり、そして、「リメンバー・パールハーバー」を忘れない彼の国の人々に、自分の信仰を証し しようと、アメリカに渡り、遂にハワイへとたどりつきます。彼のことを最も憎んでいると思われ る土地。しかしハワイで彼は、静かに受け入れられました。 「闇に打ち勝つ光」イエス様を、暗闇であったこの世に送って下さった、その光がはるか時を超え て、フィリピン、アメリカ、そして日本に火を灯したのです。 絶望的な暗闇の時代、キリスト者は光があることを信じられる幸せを持っています。そして、その 力はキリスト教という枠を超えて、人々の心に火を灯すのです。「あなたの隣人を愛しなさい」と いわれたイエス様の言葉を、今一度私たちはじっくりと思い返したいものです。 * * * * * 「第 3 部 永遠の命」 40 番∼41 番 「復活」への信仰 「ハレルヤ!」で神を賛美した後、第3部の最初の曲はソプラノ(Ⅰ)の歌声により、静かに はじまります。謳われているのは、キリスト教信仰の根幹をなす「復活」への信仰。これは 「来るべき世には永遠(とこしえ)の生命をもたらす」という、大いなる希望をもたらしてく れるものです。その美しく崇高な信仰をソプラノのアリアが謳いあげます。「わたしは知って いる。わたしをあがなう主が、ついには地に立たれるであろうことを」。 続く 41 番は、「死がひとりの人によってもたらされたのだから、死者の復活もまたひとりの 人によってもたらされるのです」という信仰を合唱が謳います。「すなわち、アダムによって すべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が永遠の生命を受けるこ とになる」というものです。死を謳う静かな部分と、生命を謳う力強い部分の対比が鮮やかで す。 42 番∼43 番 永遠の生命 バスがやさしく語りかけます。「見よ。わたしはあなたたちに神秘を告げよう...」。この バスは今までの荒々しく力強いバスとは一転して、慈父のようなやさしさに満ち溢れています。 曲調も限りなく優しく始まり、急速に高まり、高らかにこう告げます。「最後のラッパの鳴る とき、たちまち、一瞬のうちに/私たちは皆、今とは異なる状態に変えられます」。 そして、トランペットの高らかな音色が導く「最後のラッパが鳴るとき、死者は復活して朽ち ない者とされ」。ここのトランペット独奏は、実に崇高で華やかな音を奏で、それに合わせて バスが高らかに永遠の生命への甦りを謳いあげます。 レチタティーヴォ 44 番∼46 番 死に対する完全勝利 「永遠の命」を謳いあげた後、死に対する完全勝利が宣言されます。「その時、書かれている 言葉が実現するのです。『死は勝利に飲み込まれた』」。預言の実現をアルトがレチタティー ヴォによって述べます。 そして、44 番「おお、死よ、お前のとげはどこにあるのか。死の勝利などどこにあるの か?」というテノールとアルトの二重唱になります。これは、メサイア全曲中ただ1曲、ソリ ストによるハーモニーです。 引き続き 45 番では、同じメロディで合唱が「しかし、わたしたちに勝利を賜る神に、感謝し よう」と続けて歌います。 最後にソプラノ(Ⅱ)が 46 番「……もし神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたした ちに敵対できますか」というアリアを謳います。神に祝福された生命の、死に対する完全勝利 であり、これによって「メサイア」冒頭の「預言」が実現されたのです。 47 番 アーメン 「メサイア」全曲の最後は、「屠られた小羊こそは」で始まる合唱です。 「屠られ、その血によって我われを神にあがなってくださった小羊こそは、力、富、知恵、威 力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」と、「神の小羊=キリスト」を賛 美して歌います。 この曲のテキストは、「ハレルヤ」と同じく新約聖書「ヨハネの黙示録」から取られています。 「ハレルヤ」といい、この曲といい、最高の盛り上がりを聞かせる2曲のテキストが、ともに 黙示録から取られているというのが、ジェネンズのすごいところではないでしょうか。 そして最後の曲。バスパートから始まる「アーメン」詠唱です。いままで歌ってきたことに対 して「アーメン(然り:まさしく、そのとおりです)」と結びます。 ここには、よく聞くと「アーメン、アーメン、アーメン」と3回唱えるところが何箇所もあり ます。この「3」という数字は、キリスト教の基本教義である「父(神)と子(キリスト)と 聖霊の《三位一体》」を示しているもので、メサイア全体が3部構成になっていることとも関 係しています。「3」という数字は、「完全」な数字なのです。この「アーメン」のみでつづ られた重厚なコーラスにより、輝かしくメサイア全曲の幕を閉じます。 * * * * * バッハ・コレギウム・ジャパンについて 「バッハ・コレギウム・ジャパン」とは、わが国を代表するオルガン・チェンバロ奏者の鈴 木雅明が、世界の第一線で活躍するオリジナル楽器のスペシャリストたちを擁して 1990 年に 結成したオーケストラと合唱団です。オーケストラはプログラムごとに最もふさわしい編成を 採用し、バロック時代の音色を現代に再現するとともに、作品における音楽の目的をより鮮明 に表現するために、可能なかぎりオリジナル楽器を用いた当時の演奏スタイルを追究していま す。また合唱はドイツ語や英語の語感を生かした、透明かつ劇的な表現力を生かして演奏活動 を続けています。 J.S.バッハの宗教作品を中心にバロック音楽を理想的に上演・普及させることを主旨とし、 内外に活動の場を広げ、≪J.S.バッハ:教会カンタータ・シリーズ≫を軸とした定期演奏会に 加え、近年はヘンデルやメンデルスゾーンなどの合唱作品やバロックオペラにも積極的に取り 組んでいます。 1997 年フランス公演以降、海外公演も本格化しており、ヨーロッパを中心にイスラエル、オ ーストラリア、アメリカ、韓国でも公演を行なっています。2007 年夏には、イギリス・BBC プ ロムスにデビュー、08 年 11 月にはパリ、ベルリン等でのデビューを含むヨーロッパ公演(7 ケ国 11 都市)、09 年 1 月にはカナリア諸島音楽祭に出演し、各地で絶賛を博しています。 09 年夏、イギリスを代表し世界的にも有名な「エジンバラ音楽祭」にヘンデル作曲のオペラ 「リナルド」により「鮮烈なデビューを果たし、演奏会形式ながら、集中度の高いアンサンブ ルと歌手たちの華麗かつ勢いのある歌唱によって、、ヘンデル通の多い聴衆から熱い拍手が送 られました」(『音楽の友』10 月号より)。 CD録音も多く、≪J.S.バッハ:教会カンタータ全曲録音シリーズ≫など声楽曲を中心にスウ ェーデン BIS 社より 70 点近いCDがリリースされ、国際的な評価を不動のものとしています。 03 年ディアパソン金賞(同シリーズ 22 巻)のほか、バッハ≪ミサ曲 ロ短調≫は 2007 年度レ コード・アカデミー大賞銀賞および 2008 年ディアパゾン金賞を受賞。第 24 回音楽之友社賞ほ か、国内外で多数の賞を受けています。 そんなバッハ・コレギウム・ジャパンが毎年 12 月に演奏しているのが「メサイア」。東京 公演であるサントリーホールでの公演と同内容・同じ出演者での公演が、今年いわきアリオス で実現します! この機会をどうかお聴きのがしなく。 鈴木雅明さんのこと 鈴木雅明さんは、東京藝術大学作曲科から、同大学院オルガン科に進み、スウェーリンク音 楽院にてチェンバロとオルガンを学ばれました。1990 年にオリジナル楽器アンサンブル&合 唱団「バッハ・コレギウム・ジャパン」を結成し、J.S.バッハの宗教音楽作品を中心に幅広く活 動を続けています。BIS 社より 70 点を超える CD をリリース。 2001 年に「ドイツ連邦共和国功労勲章 功労十字小綬章」、08 年度芸術選奨文部科学大臣 賞ほか受賞歴も多数。現在東京藝術大学教授、神戸松蔭女子学院大学客員教授を務め、本年秋 よりはアメリカ・イェール大学教会音楽研究所の客員教授も務めています。 バロック・ピッチ 現代は、ピアノの鍵盤上でちょうど真ん中の「ド」の音の上の「ラ」の音の周波数が 440 ヘルツ(単位:Hz)と定められています。NHK テレビのニュースの時に「ピッ、ピッ、ピッ、 ポーン」と鳴るあの時報の、「ピッ」にあたる音が、この 440 ヘルツの「ラ」の音です。ち なみに「ポーン」のところは、1 オクターヴ高い「ラ」の音で、周波数は 880 ヘルツです。 バロック時代は、今のような周波数測定装置はありませんでした。 では、どうやって基準の音の高さを決めていたかというと、それは町の中心でもある教会堂の オルガンのピッチに合わせる、というものでした。 同じ職人が造れば、オルガンは(作業に使う道具が同じ限りは)ほぼ同じピッチになると考 えられ、また師匠が同じ職人間でも、大体ピッチが揃っていくことは容易に想像が付きますが、 北ドイツと南ドイツのように遠くはなれ、また別系統で修行した職人の場合には、基本ピッチ が異なることがありえます。 実際、ドイツの北のほうでは基準音「ラ」の音で比較した場合、実は現代よりほぼ半音高い、 466 ヘルツで鳴るオルガンが多数造られました。これを「コーアトーン」と呼びます。 一方、逆に「ラ」の音が半音低い 415 ヘルツの楽器も造られており、またフランスではさら に半音低い 392 ヘルツ、という場合もありました。この 415 ヘルツを「カンマートーン」と 呼びます。 このような状況でも、その地方の仲間うちで音楽を演奏するのには支障はありませんでした。 そしてライプツィッヒで活躍したバッハの場合、415 ヘルツのカンマートーンが使われたので はないか、と考察されています。 平均律と古典調律 古典調律というのは、歴史上最初に音階を「発明した」、古代ギリシャの科学者ピタゴラス の方法による「ピタゴラス音律」と、中世末期からルネッサンス時代にケルト音楽などの影響 を受けて考案された「純正律」の 2 つを基にしています。ピタゴラス音律はドとソという「5 度」の音が純正に響きあうことを目指して造られた音階です。一方純正律はそれに加え、 「ド」と「ミ」の響きを限りなく美しくしたものです。しかし、こうしたやり方ではどこかに しわ寄せが起こり、しかも転調してしまうと音律が保てなかったのです。 そこでそれらを「転調」できるように変えていったのが、「ミーントーン」およびヴェルク マイスターやキルンベルガー、ジルバーマンなどの考案による様ざまな「ウェル・テンパー ド」といった調律法です。ヴェルクマイスターとジルバーマンはバッハの友人、キルンベルガ ーはバッハの弟子でした。従ってバッハはこれらの調律法を様ざまに試したと思われます。 それに対して、産業革命の後、音の周波数を測定できる機会が発明されたことにより、1 オ クターヴ間を 12 音に「等分」できるようになったことから、現代で主流の「平均律」が生ま れました。和音の美しさを犠牲にしながらも、転調が自由自在にでき、機能性に優れた調律で す 。 キーワード解説 「メサイア」には、繰り返し出てくる言葉がたくさんあります。その中でも特に重要な言葉 を以下にとりあげました。(これ、歌詞対訳を見てもよくわからないんですよね。) Lord:「主」そのものをさします。メサイアにおいては「神」と「神のひとり子キリスト」 のどちらの人格を指す場合もあります。(キリスト教の教義では、「父なる神」と「子イエ ス・キリスト」と「聖霊」は三位一体であり、ただ 1 つの「主」が現わされる、しかしそ れぞれ別の「格」であるということになっています。) God:「自らのひとり子イエスキリスト」を我われに遣わしてくださった、天にいる「父 なる神」です。メサイアにおいて、キリスト「He(神のひとり子)」は「God(神)」と 別の人格として区別して歌われます。これを混同しないようにしましょう。(ただし、教 義の上では 三位一体の第一位と第二位ですので、唯一の神が現わされる別の「表現」と いうことです。) He:あちこちで言われる「彼」とは、無論キリストのことです。メサイア中、「Christ」 という言葉はほとんど出てきません(表記は神に関するものなので一般の「彼」とちがっ て大文字ではじまります。Lord や King、Lamb なども同様)。 King:「王」のことなのですが、一般に「万軍の主」すなわち「主イエス・キリスト」を 指します。 kingdom:「神の王国」つまり、キリストによって地上にもたらされる「神の栄光に守ら れた平和の地」を指します。「天国」のことじゃありませんので、念のため。 Lamb: 小羊です。これは犠牲になった方、つまりキリストを指しています。最後の 47 番「Worthy is the Lamb(屠られた小羊こそ)」で高々とその栄光が謳いあげられるのも、 この「小羊」の方です。 sheep: 羊です。迷っているほうで、我われ地上の人間を指します。23 番あたりでうろう ろしています。「小羊(Lamb)」と混同しないでください。 glory:「栄光」。主の栄光に関して、曲中で繰り返し語られています。 highway:「(しっかりとした)道」。別にあの時代に高速道路があったわけじゃありません。 3番のテノールソロで出てきます。 behold:「見よ!」。「目にも見よ」という感じです。メサイアでは、「小羊」や「主の 栄光」、「乙女」、「哀しみ」、「神秘」などなど、いろんなものを見させられます。 purify:「清める」。"pure(純粋)" にする、という意味です。 Levi:「レビ人」。 ただし英語なので「リーバィ」と発音されています。レビはヤコブの 12 人の息子の一人で、レビの子孫であるレビ族だけが信仰を失わなかったことから、その子 孫であるレビ人を清める、という話が7番などで歌われます。 righteouness:「義」・「正義」。清められたレビ人だけが「義にかなった」捧げ物を主 に捧げるようになるであろう...という「預言」に出てくる言葉です。 Jerusalem:聖地「エルサレム」のことです。でも英語なので「ジェルザレム」と発音し ています。 Zion:「シオン」。英語なので「ザイオン」と発音します。エルサレムの別名で、ユダヤ の人たちにとって、ダビデ王家とエルサレム神殿の伝統全体を現すことばです。8番のア ルトと合唱のアリアや、16 番のソプラノのアリアなどに出てきます。「シオニズム」とも 関連しています。 lo:「見よ!」。 間投詞です。13 番で「見よ! 神の御使いが近づき」とソプラノが盛り 上げていくところで出てきます。 yoke:「くびき」。 牛の首や肩にかけて牛車を引かせるための道具。ここでは、比喩的に 「重荷、苦痛」などをあらわします。 burthen:「重荷」。 現代英語だと burden です。上記 yoke とともに「主の重荷」のこ となのですが、こちらは「主が背負っている重荷」ではなくて、「我われに主が負わせる 重荷」のこと。第 1 部最後の 18 番は、「その重荷は軽いよ。だから主に学び、主の下に従 って行こう!」という希望を表す曲です。 hath borne:「担った」の意の過去分詞です (現代英語だと has borne ですね)。私たちの 悲嘆や痛みを担ってくださったのです、キリストは。 Griefs:「苦痛」・「病」 sorrows:「悲嘆」 21 番などで、キリストが我われの代わりに担ってくれています。 chastisement:「責め」・「懲罰」。21 番の "the chastisement of our peace" を「我々 の平和の責め」と訳すと「???」になってしまいます。正しくは「彼が責めを受けてく れたおかげで もたらされた、我われの平安」という意味です。 Hallelujah:「ハレルヤ」。ヘブライ語で「神(主)を賛美せよ」という意味で、心から の歓びを表すことばです。 Redeemer:「購(あがな)う人」。 結局キリストのことなのですが。40 番で出てきます。 "redeem"(購う)の元の意味は家畜や奴隷を、対価をはらって買い取ることで、「本来滅 ぶべき私たちを、キリストが受難することによって『買い取って』、不死なる者としてく れる」...ということです。 mystery:「奥義」・「神秘」。推理小説のことではありませんが、同じ語源です。「今 ここで、私は神秘を話そう...」と、バスが 42 番で優しく告げます。 Amen:「アーメン」。キリスト者以外にもよく知られた言葉でしょうが、語源や意味を 知らずに唱えている人が多いかもしれません。ヘブライ語で「まことに」、「しかり」、 「かくの如くありますように」という意味です。「父と子と聖霊の御名によって」3 回唱え るのが、正しい伝統です。
© Copyright 2024 Paperzz