公益財団法人 京都市国際交流会館 25周年記念シンポジウム 「トルコ・ドイツ・日本──銭湯から考える多文化共生」 日時:2014年9月13日(土) 場所:京都市国際交流会館イベントホール ■第2部 シンポジウム パネリスト: 漫画家 ヤマザキマリさん 大阪大学大学院情報科学研究科 情報ネットワーク学専攻特任研究員 オヌル・アルパルス ラン(Onur Alparslan)さん ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川 館長 マルクス・ヴェルンハルト(Markus Wernhard)さん 聞き手: 公益財団法人 京都市国際交流協会 評議員・前京都市国際交流会館 館長 柴田重徳 柴田●ご紹介いただきました、柴田重徳と申します。50分しかないので、どれだけ3人の みなさんからおもしろい話しを引き出せるか、心もとないのですが、さっそくすすめてま いりたいと思います。 はじめに、パネリストのみなさんをご紹介いたします。ヤマザキマリさんについては、 先ほどご紹介もありましたし、お話しもしていただきましたので、省略させていただきま す。 2番目の、ヤマザキさんの手前の方が、トルコ出身のオヌル・アルパルスランさんです。 オヌル●よろしくお願いします。(拍手) 柴田●大阪大学で情報ネットワークについての研究をしておられます。もうドクターを済 まされて、研究者であられます。他方、もうひとつの顔は、トルコにおける日本漫画の大 家、権威です。りっぱなウェブ・サイトもつくっておられますし、日本の漫画についての 本も出しておられます。 そして、ドイツ出身のマルクス・ヴェルンハルトさんです。 マルクス●みなさん、こんにちは。 (拍手) 柴田●ヴェルンハルトさんは、京都市左京区にありますゲーテ・インスティトゥート・ヴィ ラ鴨川の館長をされておられます。京都に来られて、まだそれほど間がないですね。おふ た方とも、日本語がとても堪能な方ですので、日本語のみで進めていくことができます。 まず、今日のテーマは「温泉をめぐって」ということで、切り口に「お風呂」というこ とを取り上げています。そのあたりの事情を、皮切りにしたいと思います。ヤマザキさん には先ほどお風呂の話しを、ご自分の体験も含めてしていただきました。トルコとドイツ では大衆浴場というものがどのようなものか。そもそもあるのかないのか。ある場合、現 在はどうであるのかということも教えていただきたい。トルコでは有名ですね、トルコの お風呂というのは。 オヌル●そうですね、トルコ風呂「ハマム」。 どうも、オヌルと申します。トルコ人です。私の日本語はほとんど独学ですので、日本 1 語をまちがえたら、ごめんなさい。 私は約10年前に日本の国費留学生として大阪大学に来て、大阪大学の情報科学研究科の 博士課程を修了し、いまは大阪大学で特任研究員として働いています。専門はコンピュー ターサイエンスですが、趣味は日本の文化や日本の歴史で、むかしからいろいろな活動も してきました。日本に来るまえ、たとえば2000年にトルコ初の日本のアニメ、漫画、コミュ ニティ・サイトをつくって、コミュニティもいっしょにつくった。いまは3万人以上の会 員がいます。さらに2003年には、トルコ初の日本のアニメ、漫画雑誌を出版しました。本 日、1冊持ってきましたので、見たい方がいればあとで声をかけてください。ぜんぶ売り 切れですので、1冊しか残っていません。 さらに、日本に来てから2011年に、 『アニメ・漫画・トルコ』という本も書きました。ト ルコ人の友だちといっしょに、このような本を書きました。これは完全に日本語で、トル コにおける日本のアニメや漫画文化を紹介する本です。トルコ人の漫画家たちの絵や情報、 記事など──たとえばトルコ人のアニメ声優のインタビューなど、情報がたくさんありま す。東京のイベントやコミケ(コミックマーケット)などで、たまに販売をします。きょ う持ってきましたので、買いたい人、見たい人がいれば、あとで声をかけてください。 「ハマム」はどのようなものかというと、 「ハマムはどこからはじまったとか」いうとこ ろからみればいいと思います。ハマムというのはもともと、ローマ帝国の浴場からきたも のです。これはおよそ7世紀ころ、イスラムの世界がどんどんローマ帝国を支配しはじめ てローマのお風呂と出合って、すごくいいものだとわかった。自分たちでもつくりはじめ て、大人気になりました。一つの理由として、イスラムの教えに「清潔は信仰の半分」と いうことばがあります。宗教的にもすごくだいじなことであり、大人気になりました。 トルコ人も約1,000年前にローマ帝国、いまのトルコという国のある場所に入り、支配し て、お風呂と出合い、トルコ風呂「ハマム」というものをどんどん発展させました。どの くらいだいじであったかというと、たとえば新しい都市をつくるとき、最初はイスラム教 のモスクをつくり、そのとなりに市場をつくる。そして市場のなかに、ぜったいにハマム をつくるほどでした。たとえば17世紀には、個人のハマムも含めてイスタンブールには 14,000以上のハマムがあったといわれています。それほど大人気で、一般の人が自由に行 くことのできるハマムも300以上、イスタンブールにあったといわれています。 文化的にもトルコにとって、すごく大事な役割がありました。ハマムというのは、体を 洗うだけではなく、そこで長時間すごす場所でした。みなで話しをしたり、交際したり、 踊ったり、くだものを食べたりと、いろいろな活動をしました。そういった意味で、ハマ ムはむかしの文化センターのようでした。 トルコの伝統にとっても、たくさん役割がありました。たとえば、むかしトルコでは恋 愛結婚はすくなかったといわれています。だいたいが見合い結婚。見合い結婚のために、 息子にお嫁さんを探しているお母さんたちは、お嫁さんを探すためにハマムに行きました。 ハマムに行って、 まわりの若い女の子たちを近くで見て、息子に見合い相手を選びました。 それほどだいじな場所でした。 柴田●ありがとうございます。まだたくさんあると思うのですが、おいおいほかの部分も 聞かせていただくことにしまして、次はマルクス・ヴェルンハルトさんにも自己紹介と、 ドイツにも公衆浴場のようなものがそもそもあるのか、ないのかというあたりも含めて、 お願いします。 2 マルクス●私は今年で、東アジア地域歴は20周年を迎えています。もともとは中国の勉強 をしていました。中国文学が専門です。なぜ日本に来たか、日本とのつながりができたか というと、それはまさに今回のシンポジウムのテーマにもつながりがあるのです。異なる 文化のあいだで誤解があることは、かならずしも悪いわけではない。 たとえば、私の場合はもともと中国語の勉強をしていました。ドイツ文化センターで仕 事をはじめたところ、最初はミュンヘンの本部でした。そのとき、うちの人事部がおそら く思ったのは、「この人は中国語を話せるので、東京がいいのではないか」と。(笑)ヨー ロッパ人のバカさで、東アジア地域への理解不足で、私を東京に転任させたのですね。こ れでまさに、人生の軌道は完全に変わったのです。日本人の嫁ももらった、家族ができる など、建設的な勘違いでした、結果的には。(笑) もとの話しにもどると、ドイツと温泉との関係は、私はそんなに深くないと思います。 (笑) 柴田●それは個人的に、ですか。 マルクス●個人的にはほとんど関係ないのです。ドイツの温泉は、日本とちがって温度が 低い。ですから、日本のように楽しく熱いお湯に浸かることは、まず、ドイツではないで す。もちろん、療養的な温泉はあります。でも、銭湯のようなところはあまりない。それ より、その総合的な、つまり日本語でいうと、クアハウスのような場所がよくあるのです。 ドイツ人ももちろん、そのようにお湯に浸かることなどは好きです。しかし、いちばん普 及しているのは、 西洋式のサウナです。みなさんにとってすこし衝撃的なニュースとして、 男女共浴はすごく普及しています。 柴田●混浴ですね。 マルクス●混浴です。つまり、おじいさん、おばあさん、若い人たちも皆まっ裸で、いっ しょにそのサウナに入るのです。私がもっと若いときは、それにたいして違和感はすこし あったのが正直な話しです。 私がテレビで見たところでは、日本のプロレスラーで筋肉隆々 なりっぱな方が、ドイツ人の女性と結婚した。彼はドイツでも女性にそういった男女両方 まっ裸で入るサウナに連れて行かれた。彼はそのときに衝撃を受けて、どうしたらよいか という感じでした。 しかし、ドイツではわりとべつに平気で、皆、まっ裸でいても、いやらしい発想はまっ たくないです、逆に。もちろん、すこし恥ずかしがりやの人のために、たとえば月曜日の 夜は女性だけなど、そういうシステムにもなっているのです。しかし、両性でいっしょに 入っていることには、それほど違和感はないと思います。 柴田●私は、トルコによく行くのですが、ハマムには残念ながら行ったことがない。でも、 このあいだパムッカレで、テラス状の階段のようなお風呂に入ってきました。なにが違和 感だったかいうと、水着です。水着をつけて入らないといけないのですね。多くはそうだ ろうと思うのですが、ハマムはそうではないのですか。 オヌル●ハマムも、水着は必要です。完全な裸はないです。 柴田●これは日本人にとっては、なにかを身につけて風呂に入るというのは、じつに違和 感があるのですね。ヤマザキさん、そのあたりはどうですか。 ヤマザキ●私はハマムを体験したことがあります。シリアにいたときに、いまはもうボロ ボロになってなくなってしまいましたが、アレッポというまちに「世界最古のハマム」と いうものがあったのです。私はそれに入る予定はなかったのですが、ダンナに「ちょっと 3 ようすを見てきて」と言われ、ちょっとようすを見に行くと、中からおばちゃんが出てき て、全部脱がされた。でも「下着は着てろ」と言うのです。中に入ったら、みな下着でピ クニックのようなことをしていました。びしょびしょなのですが床に座って、みんなすご く派手な下着──ふだん真っ黒じゃないですか、脱いだらすごいんですよ。トラ柄とか。 (笑)そんなのばかりに目がいってしまった。みなさん床に座って、一所懸命に食べたり しゃべったり、楽しそうにしていた。古代ローマのスタイルのお風呂として、けっきょく、 お水が豊富でない地域は全部蒸し風呂として発達していったということですね。それが ずっと残っていたのだと思って、すごく感動したのを覚えています。まあ、アラビア人の 下着のすばらしさを、私は堪能しました。 柴田●トルコのお風呂は、ずっとあったとばかり思っていたのですが、なるほど言われて みれば、それはローマのお風呂を引き継いだのですね、ハマムも。 オヌル●そうです。 柴田●それはちょっと予想していなかったですね。 オヌル●ローマの遺跡などは、 トルコにたくさん残っていますし、ちゃんと残っています。 さっき話しにありましたが、シリアよりきちんと管理されていますし、きれいにされてい ます。政府がきちんと管理していますので、外国人に大人気の観光スポットで、行く人も 多いです。ぜひトルコでも、ローマの遺跡に行ってください。数え切れないほどたくさん あります。 ヤマザキ●そうですね。だいじな属州でしたからね、トルコも。 柴田●この話題も楽しくてずっと続けたいのですが、ほかにもいろいろなポイントをお聞 きしたいと思いますので、これはとりあえずこれくらいにしておきたいと思います。 3人のみなさんは、それぞれ自分の国以外での生活というものをたくさん経験されてい るわけですね。日本において「多文化共生」ということが、あえて言われるということは、 「できていない」 、「日本はそういう多文化共生社会ではない」ということが前提にあるか ら、そのような社会をめざしましょう、ということになっているのだと思うのです。そう すると、日本とたとえばイタリア、あるいはトルコ、ドイツとではずいぶんと事情がちが うと思うのです。日本に来られて、日本と自分の国、あるいは自分がかつて住まわれた国 との状況のちがいをいろいろと感じられたと思います。順番に、その部分についてふれて いただけたらと思います。 ヤマザキさんは日本人というよりは、もうイタリア人ですか。 ヤマザキ●いや、日本人でもイタリア人でもないですね。ほんとうに、自分はあまり辺境 意識がないというか。どこに行っても──これはダンナにもよく言われるのですが、 「なに 人かがはっきりしない人だ」と、よく言われます。日本に帰って来ても、ぜんぜん、日本 に帰属したという感覚がこないですね。安心したとか、帰ってきたという気持ちではなく、 「日本という文化圏にきた」 。 それはイタリアに行っても「イタリアという文化圏に行った」。 やはりそれは、いろいろなところを転々として暮らしてきたたからでもあると思うのです が。たとえばポルトガルという国には7年間住んでいましたから、ポルトガルはポルトガ ルで、行くとやはり、ある種の「帰属感」もあるけれども、 「異文化感」もある。自分が何 人であるかということは、ふだんはあまり意識しないで生きていますね。 ところが、日本に来たときに、私のような経験をした人はそれほどいない。みな、どこ かに帰属の意識というものがあって、自分の国籍がはっきりわかっています。だから、私 4 の目線で見てしまったものを、たとえば公の情報上のサイトなどでよく発言をすると、 「炎 上」という状況になったりします。しかし、それは私が求めていることではない。単純に 私はコミュニケーションとして、ほかの人がそれにたいしてどのようなリアクションを戻 してくるか、それについてどう思うということであって、けっして上から目線で「日本」 というものを眺めている意識はまったくないのです。日本に来て、日本のことを誉めると、 みなさんすごくよろこばれるのですが、文化比較だとか、たとえばいろいろなcomparative な発言をすると、それがなぜか、 「批判されている」ととらえられるパーセンテージが多い 感じがします。 「ちょっと外国にいたからって」というようなことを、よく言われるのです。 そこが自分的には、 「いつになったら、そのように思われない日が来るのかな」というのは あります。 柴田●オヌルさんは日本に来られて、何年とおっしゃいましたか。 オヌル●だいたい10年です。 柴田●最初のころといまとでは感じ方がずいぶんとちがうかもしれないですが、10年たっ て、自分はいわば日本人、日本社会の一員になったなという感じですか。 オヌル●いや、どうかなあ。まだ、みんな、もちろん外国人として見ています。でも、私 はたくさんの日本の伝統的な活動もして、日本の歴史も好きです。たとえば鎧を着たりな ど、いろいろとへんなこともします。祭りに参加したり……。いっしょに活動している日 本人には、 「オヌルさんも日本の国籍をとればいいんじゃないですか」とよく言われていま すが、一応外国人としていま日本に住んでいます。 柴田●そこで、なんとなく「壁」があるなというように感じるときはありますか。 オヌル●いろいろとあります。たとえば、もちろん私もできれば日本の国籍は欲しい、日 本でもっと自由に活動できるので。いま、外国人としてはいろいろと制限されています。 しかし、私が日本の国籍をとって帰化をしても、日本は二重国籍を認めていない国ですの で、トルコの国籍をなくさないといけない状態です。外国人としては、自分の生まれた国 の国籍をなくすのは、すごくむずかしいことです。自分の国での権利をなくすことなので す。自分の国に行きたいときにもビザを取らないといけなかったり、親からのこった遺産 があってもとれなくなるなど、法律の問題などが海外ではたくさんあります。なにかを得 るために、なにかが失われてしまいます。外国人にとってこれはたいへん大きな問題です。 日本も将来、二重国籍を考えてもいいと思います。世界の国ぐにではどんどん進んでい ます。今年からハーフの子どもも、ドイツで二重国籍の取得が可能になりました。いろい ろな条件がありますが、韓国でも最近、二重国籍が可能になりました。トルコではむかし から可能ですし、さらにトルコの政府はおすすめしています。 「もしできるのなら、二重国 籍を取ってください」と。 日本は完全に逆です。もちろん米国にもむかしからあります。ヨーロッパのたくさんの 国にもあります。日本も、それを考えたほうがいいと思います。外国人にとっても、ずっ と日本に住むためには、住みやすくなると思います。いま、 「日本で死ぬまでずっと住みた い」と思って住む人は、だいたいは日本人と結婚した外国人です。日本人と結婚していな い外国人はあまり、死ぬまでは日本には住まない。いつか帰ってしまう。 「ずっと外国人と して住むのはいや」だとか、 「不安定」などと思う。「コミュニティに入りづらい」、「いろ いろと制限がある」と思ってたり、困ったりします。日本も考えたほうがいいと思います。 柴田●二重国籍という問題も含めて、制度、法律の問題というものもありますし、それ以 5 外に、日本の社会にとけこみづらいなど、このような問題もあろうかと思うのですが、ま たあとでふれたいと思います。 オヌル●いろいろと考えて、ディスカッションをしたほうがいいと思います、日本のなか でも。 柴田●ヴェルンハルトさんは、先ほどの自己紹介にもありましたように、まずは中国が専 門でした。ところが、たまたま日本に派遣されたということで、アジアにおける日本、そ れから中国、台湾にもいらしたのですね。その3か国で暮らされて、仕事もされた。 おなじアジアの国でありながら、 「ずいぶんとちがうな」という感じや、いまの問題と関 連して、日本社会はこの二つの国にくらべ、外国人、ドイツ人であるヴェルンハルトさん を受け入れる受け入れ方に、ちがいが感じられたかどうかということにも、ふれていただ けますか。 マルクス●私がまず言いたいのは、日本人としてそれほど自虐的でいる必要はないと思い ます。日本にはすごくつよい伝統、文化があるわけですし、島国でもある。いろいろと伝 統的なルールなど、発達した文化からきている社会のなかでのやりとりのルールが健全で あることは、肯定的にみるつもりです。いいことですね。 もし、日本は外国人にとって生きづらいところがあるとすれば、それはあくまでも「言 語の壁」だと私は言いたいです。外国人には、もうすこし日本語の勉強をしてほしい。同 時に日本人にも、もうすこし英語力を高めてほしい。つまり、これは実質的な問題ですね。 私の目でみる日本は、 まったく閉鎖的ではないし、日本人のみなさんも外国人にやさしい。 もちろん、そうでない人もいるのですが……。 (笑)でも、だいたいはそのような印象です。 ただし問題は、コミュニケーションをとれるかというと、なかなかとれない人が多いです ね。そういう意思があっても、すこし無理ですね。 もう一つは、日本は外国人には見えないルールだらけです。いろいろと発達した国でも あるし、なによりもその島国ですので、人口密度も高い。ですから、効率よく社会を発展 させるために、ルールが欠かせない。しかし日本語が話せない外国人にとっては、そのルー ルがなかなか見えない。海外でも、ルールはもちろんあります。しかし、これほどルール の密度が高いところはなかなかない。これはメンタリティの問題ではまったくない。でも ときどき、 「このルールは本当に必要か」などと、自問できるのです。 柴田●たとえば、疑問に感じたことには、どのようなことがありますか。 マルクス●いくらでもある。 (笑) 私がいつも思っているのは──きょうのシンポジウムの場では言いたくないのですが、 いろいろな公的な行事とか、社会のなかのことで、「もうすこし落ち着いて」と。「こんな に堅苦しくする必要があるか」と言いたいのですね。(笑)(拍手) 柴田●ドイツの人からみても、日本は堅苦しいですか。日本人からみれば、ドイツの方も 堅苦しいのではないかと……。 マルクス●ドイツはだいぶ変わった。みなさんはまだ、むかしのドイツの伝統的なイメー ジを抱えている人が多いですね。でも、ドイツは70年代から、地理的に言うと、 「南下」し てきた。つまり、ラテン化してきたのですね。今回のワールドカップ、みなさんはドイツ のサッカーを見たかもしれませんが、ドイツのサッカーもむかしのようにロボット的な サッカーではなくて、ずいぶんラテン的にかっこよいサッカーにもなっています。社会全 体はけっこう落ち着いて、もっとのんびりしている。 6 そのように、個人がのびのびできる空間が、社会のなかですごく大切だと思います。日 本のような経済大国、発達した国は、もうすこし自分に、そういう自由を許したらどうで すか。これは私の意見です。 (笑) 柴田●ひじょうに大切なポイントではないかなと思えるのですね、これは。日本は日本人 には住みやすいとはいうものの、日本人自身もやはり周りの目を気にしないといけない。 マルクス●みなさんはたぶん、自分に聞けば、 「堅苦しい」とか「面倒くさい」などと思う ところはいくらでもある。でも、すなおにそれに従って、それを問題視することはなかな かない。それがもしかすると、外国との一つの著しいちがいですね。 たとえばドイツの社会では、既存しているルールが問題視される。平等な感じで、その ルールがほんとうに必要か、そのルールのあり方や社会のあり方が議論される。この土台 のうえで社会が前に発展する。そういう議論は世代のあいだでも、同世代の人のあいだで も欠かせない。既存のルールは「御影石」でつくったものではない。おなじ社会で生きて いる人たちがそれを議論して、変えていくものです。 日本にはなにが欠けているかというと、もしかして、そのルールに対して、勇気をもっ て変える意志が……。 柴田●意志が弱い。ヤマザキさん、そのへんについてはなにかコメントありますか。 ヤマザキ●やはり異質なものや、異文化を受け入れることなど、それまでの自分が「そう であれ」と教育されてきた以外のものを認めることは、とても勇気もいるし、すごくエネ ルギーのいることです。最近の人には、それをとにかく避けて通ろうとしているという傾 向を感じる。なんでも、 「あぁ、ある、ある」という方向のものが売れたりする。新しくて 知らないものも、情報として自分が求めているタイプのものであれば積極的に受け入れる が、そうでないものだと、排除する。そういった傾向をすごく強く感じられることが、多 くあります。私の場合は子どもの時代から、先ほどもお話ししたように、すこし変わった 家庭にいて、ずっと異質な子ども扱いを受けてきていたので、それを感じます。 先ほど「国のあり方」としておっしゃっていたように、古代ローマ帝国というのは、1,200 年続いた国ですよね。 あれだけ巨大化した国がこれから、たとえばアメリカやロシアなど、 あれほどの国力をもって大きく巨大化していくということは、ありえないと思います。古 代ローマがなぜ、あそこまで大きくなれたかというと、いろいろなことを失敗して、紆余 曲折がありながらも、そこでダメージを受けず、しかも、いろいろな国を属州にしていく うえで──とうぜん殺戮もあったり、ひどい目にもあわせてはいるのですが、最終的には 「異質なものを受け入れていく」という体制をとったわけです。たとえば、異文化であり、 あるいは異質の宗教であったり、まったく生活慣習もちがう、肌の色もなにもかもちがう のだが、 「まあ、いい。古代ローマということで、いっしょにやっていこうや」といった共 存性、共有性というものを、まったく具体的に表面化していった国なのですね。それによっ て多言語化や多種多様な文化というものが、滅びることなく認められて、そして増長して いった。 そして、古代ローマのなかに属することによって、 「ほかの国籍を捨てろ」とは言わなかっ た。ローマ人としての国籍も認めるが、「そっちの国でもいい」ということも認めていた。 それで、あれほど大きな国になったのです。だから、そのような精神性というか、寛容さ など、幅広くいろいろ異質なものを受け入れてみる。拒絶するのではなく、 「もしかしたら そういう宗教もありかもね」と、見てみることができる。 7 古代ローマの都市のなかには、実はさまざまな宗教があったのです。むかしの八百万の 神という──要するにギリシア、ローマの神が本質的なものであったが、たとえばミトラ 神であったり、一神教のものも認められていました。ぜんぜん、それが悪いことでもなん でもない。そういった意味では、いろいろな問題もあった時代ではありましたが、国のあ り方としては、 「異文化の共存」という意味で、ひじょうに理想的だったところもあるので はないかと思います。 マルクス●いま、話にあがっている宗教についてですが、このあいだ、ドイツの叔母さん が亡くなった。私は唯一の甥としてその叔母さんの面倒をずっとみていた。ドイツに戻っ てその葬式を行なったときに、私がすごく楽しいと思ったのは、葬式を行なっている小さ いまちで、カトリック教の教会を運営している司祭の方は、インドから来ていた。インド といっても南のインド、つまり、皮膚の色もけっこう黒い方。南ドイツの小さいまちで、 カトリック教会のトップを務めていた。ドイツ語はたどたどしいというほどでもないが、 流暢とも言えない。あとで聞いたところでは、最近、社会の中心的な役割を果たしている 宗教でも──むかしは東ヨーロッパはポーランドなどの人がいましたが、聖職者不足で、 最近はインドなど発展途上国からの司祭がドイツに来て、言語的な訓練を受けて、2年間 ドイツの勉強をしたあと、そのように一つのまちの教会を任される。それはかなり、いろ いろな問題の縮図としてもみられますが、ある意味で、キリスト教徒の寛容性ものぞかれ るのですね。 柴田●それはほんとうにそうですね。いま、おうかがいして驚いたというか、意外な感じ がしました。ただし、意外といえば、先ほど指摘されたように、 「ドイツ人といえば堅苦し い、こういうタイプだ」などといったステレオタイプの見方というものが、そもそもいけ ないのですね。 いまのローマ帝国は多様なものを受け入れながら、ずっと継続できて豊かになったのだ という点については、まさにトルコもそうですよね、オスマン大帝国も。 オヌル●そう、トルコもオスマントルコ時代には、たくさんの民族をなかにいれて、大き な国になりました。いまでもトルコにはいろいろな民族が住んでいます。割合としても、 トルコの80%はトルコ系トルコ人で、だいたい18%がクルド系。あと1%くらいはアラブ とその周りの民族などが、たくさん住んでいます。トルコにもいろいろと異文化と多文化 共生の問題もあった。むかしはトルコのなかでも、いろいろな民族の活動が制限されてい たこともあります。勉強や政治活動など、たくさん問題がおこりました。 その結果、一つだけではなくて、いろいろな理由がありますが、トルコの東などではテ ロ問題がはじまりました。トルコ人のなかでもありました、宗派で。また、べつの民族で もありました。しかし、いろいろ問題があって、けっきょく政府は多文化共生は大事であ ることがわかった。彼らの活動も、どんどん自由になった結果、テロの問題もいまは減っ てきました。だから平和のためにも、国のなかでも、多文化共生などはすごく大事だと思 います。 柴田●「多文化」は、いろいろな豊かなものをもたらすというメリットと、やはり文化が ちがう人どうしがいれば、そこで摩擦、紛争やトラブルもとうぜん起こりうるわけです。 そうしたものを克服していこうという姿勢や、それをせざるをえない条件がある国とく らべると日本は、伝統的にいろいろな多様な人たちがいて、多様な文化的な背景をもった 人たちがむかしからたくさんいて、こういったことを経験しつつ克服してきたということ 8 は、他の国にくらべればすくない。そのところが、ちがう点なのかなという気がします。 オヌル●じつは日本にもあります。むかし、もちろん外国人も日本に来ました、渡来人な ど。私が思うのは、歴史的に見ると、日本が急速に発展した時期はだいたい、外国人と異 文化、海外の文化が日本にきた時期です。 とても昔の話をすると、私は歴史が趣味なので、いろいろ調べていますが、たとえば2,300 年前に、日本は急に縄文時代から、弥生時代に変わりました。急速に変わりました。それ はなぜかというと、ある説によると徐福という中国人のおかげです。2,300年前に中国の王 様は徐福というえらい人を、不老不死の薬を探しに日本におくりました。彼は約5,000人の 中国人といっしょに日本に来たといわれています。そのなかにはたくさんの高い知識を もっている専門家もいた。彼らの影響で、日本人はたくさんのものを学んで、急に発展し たといわれています。この徐福の伝説はいま、日本各地に残っています。日本人はあまり 知りませんが、彼をまつる神社も日本各地にたくさんあります。 そのあとでも、たとえば奈良時代は急に発展した時代で、外国人が来た時代です。奈良 にも中国人のお坊さんの寺などがまだ残っています。その次も、明治時代の鎖国のあと、 急に海外の文化と外国人がたくさん来て、日本はまた急速に発展しました。だから、将来 の日本の発展のためにも、「海外の文化」と「外国人」は大事なものだと思います。 柴田●ヤマザキさん、イタリアの場合、かつてのローマ帝国時代以来、広い意味ではいろ いろな文化、人種も含めていっしょに一つの文化圏をつくっていたと思うのですが、現在 のイタリアにおいて、 多文化的な要素というか、いろいろなバックグラウンドの人たちが、 どの程度いっしょに暮らしておられるのでしょうか。 ヤマザキ●イタリアという国がほかのヨーロッパの国とくらべ、一つの大きくちがうのは、 植民地をもたなかったことですね。たとえば、フランスやスペイン、ポルトガルのような 小さな国でさえ、他地域に大きな植民地をもって発達していき、自分たちの言語が自分た ちの国以外のところで文化的発展をとげるという、そういった歴史をもっているわけです。 イタリアというのは、第二次世界大戦中にアフリカの一部分のエトルリアというところ を一時的に支配していただけであって、植民地をもたなかった。だから、ヨーロッパのな かでもめずらしく、アフリカ系の人が入ってきたりだとか、インド系の人たちが入ってき たりすることもないわけです。 ところが、東ヨーロッパが崩壊したあとに、東ヨーロッパ系の人たちがものすごくたく さん移民してくるようになった。お手伝いさんなどの職業をするために。また、アルバニ アというアドリア海の対岸の小さな国からも、どんどん筏で移民をしてきた。 いま、いちばんの大問題はアフリカです。アフリカから筏でどんどん、シチリア島に積 載量過剰状態で船に乗ってくるので、だいたいの船が沈んでしまって、みなさん溺死され てしまったりと、大問題になっています。 しかし、アフリカからの移民も、すでに私がいたころからはじまっていました。最初の ころはすごく、みなさん動揺していた。すこしばかにしたような差別用語も使っていた。 黒人の人が来ると──みな、通りでものを売る商売をしますよね、ドイツなどでもそうだ と思いますが。それを「ボーコンプラ」という名前で呼んでいたのです。「ボーコンプラ」 というのは、イタリア語で「ボーイ・コンプラーレ」というのをうまく発音できないアフ リカ人の言い方を、名称にしていたのです。 いまは、その世代のアフリカ人たちが、じつはイタリアで生まれて、イタリア人になっ 9 ているのです。サッカーのマリオ・バロテッリではないですが、イタリアで活躍する人が アフリカ系だったりしていることが、ごく当たり前になってきて、コマーシャルにもアフ リカ人が出てきて、道路工事など、どこを向いても、外国人がふつうにいる暮らしという ものが当たり前になってきている。その浸透力の早さ。ここ20、30年の間なのに、まるで ふつうになってきているのですね。もうだれも「ボーコンプラ」なんて言わないし、当た り前にバロテッリのことを誇りに思っている。 はたして日本のような国でもそういう浸透力というものは、あるのか。日本も植民地と いうか、状況的にはちがいますが、やはり大きな植民地をもっていたわけではないし、い ろいろな意味で侵略もされていない国ですから、そのへんのコミュニケーション力は弱い のではないですか。そこはすごく興味があります。 柴田●さきほどの、かつて愛されたシリアがいま、とてもひどい状況になっていると。そ れを反映して、たくさんの人が難民になっていますね。国内難民もありますが、国外だけ でも100万人の単位で難民になっています。隣国トルコなど、いろいろな国にもそうですし、 それからヨーロッパにもたくさん、難民になっていると思います。 受け入れる側にしてみれば、これは大きな負担になりますね。それでもやはり、国際社 会の責務として受け入れている部分がありますよね。 ヤマザキ●ありますね。ほかの隣国はやはり、そのあたりに関しては、ひじょうに寛容に 対応していると思うのです。トルコなどでもそうだと思います。 柴田●ドイツもそうですよね。 オヌル●いま、トルコに100万人くらいのシリア人難民がいるといわれています。彼らはほ とんど、パスポートもないし、お金もないので、別の国にも行けない。ヨーロッパにも、 パスポートを持っていないから行けない。ほとんどのシリアの難民の面倒をみるのは、い ま、トルコ政府です。この100万人ものシリア人のために、たくさんのキャンプなどをトル コはつくりました。そのなかにはたとえば学校などがあり、完全無料です。食事も無料で すし、医療も完全無料。だから、国にお金がかかってしまいます。 トルコもそれほどお金もちの国ではない。それで、全世界の国に、 「私たちを手伝ってく ださい、いっしょにこのシリアの難民の面倒をみましょう」と言っていますが、残念なが ら手伝ってくれる国はいま、ほとんどいません。トルコだけ。 柴田●日本もすこしは、いろいろな意味で──たとえば資金的な、あるいは物資的な支援 をしようとしているとは思うのです。ただし、どこにせよ、日本に難民がたくさん来たと いう話しは聞かないのです。 これはなぜかというと、地理的にまず遠いというのが一つありますが、かつてはベトナ ムやカンボジアなど、 近くの国からも来たことがあるのですが、やはり日本社会というか、 国が難民を受け入れなかった。だから日本に行ってもしようがないということもあると思 うのです。いくら遠くても、シリア難民でも、日本が受け入れてくれるなら来るだろうし。 たとえばここ数年で、おそらく指で数えられるくらいしか、日本は難民を受け入れていな いと思うのです。それはやはり、これだけの経済力のある国が国際社会に対して、きちん と共同責任をはたしているのかなという疑問がありますよね。 ヤマザキ●難民として申請される外国の方はたくさんいらっしゃるのです。ところが認定 されないのです、いろいろな理由で。そのあたりが、やはり難民の事情というのは、いろ いろなマニュアルに沿っていくと、 「これも排除、あれも排除」という感じになってしまっ 10 て、どこかでそれを新しく構築しなおさないといけないはずなのに、うまく機能していな いのです。それで、難民がほんとうに受け入れられにくい国のひとつになっていますね、 日本は。 柴田●ヴェルンハルトさんに一つだけ、もう時間になってしまったのですが、アドバイス いただきたいと思うのですが、ドイツも日本も第二次世界大戦の敗戦国ですよね。近隣の 国に侵略をして、たいへんな損害、被害を与えたわけです。そのあと、戦争が終わってか ら、その関係を修復する過程というものは、日本とドイツでは、ずいぶんとちがってしまっ たなという私の思いがあるのですが、そのへんはどのように思われますか。 マルクス●まず、私はあまり、 「ドイツはよくやった、日本はだめ」という図式はあまりよ くないと思います。つまり東アジア地域の状況と、ヨーロッパとは、どこまでくらべられ るかは、一つのポイントですね。ですから、外国人としては日本の話しをするときに、ど こまで立ち入った話しをしていいかもわからないのですが。 しかし、はっきりとした区別は、ドイツの政府は指導的な役割をとったのです。つまり、 第三帝国について、なにが言ってよくて、なにを言ってはいけないなど、それについては はっきりとしたルールが定められたのです。たとえばナチスのシンボルを身につけること などは、ドイツでは罪になっています。 日本政府は、それとはかなり対照的な見方をとっています。つまり、日本政府は、 「私た ちは政府として、過去について定める立場ではない」といっている。 「それは歴史のこれか らの専門家の判断に任せておきたい」という態度をとっている。ほんとうにそれでよいか、 それについては考えるべきですね。つまり、政府は日本のような民主的な国で、政府はほ んとうにそういった役割に自分を限らせてよいかどうか。 つまり、問題はたしかにあるのです。べつに私は、日本は過去にどこまで悪かったなど、 それについてはべつに……。しかし、そういった問題は実際に存在している。隣国との間 にもずっと、そういう不快感だとか、不快感よりももっと大きい、いざこざなどがあって、 それを無視することはやはりできない。それは積極的に取り上げて、全社会の議論をおこ して、決着をつける必要がある。 「歴史を克服する」ということば使い自体もまちがっているのですね。つまり、歴史は 克服できない。歴史は存在していて、否定できない。歴史に対するひとつの態度をとる、 歴史と対話するなどはできる。でも、歴史を克服するというのは、それはドイツ語の 「Vergangenheitsbewältigung」という専門用語の誤訳です。ですから歴史はぜったいに克 服してはいけない。歴史を認識して、それについて、社会全体として議論したほうがいい。 日本の最近のひとつの傾向、とくに若い人たちのあいだで、 「中国と韓国からはまたなに か文句をつけられて、もう聞きたくない」という傾向があります。でも、そのように問題 自体を無視すること、それはやはりだめです。 柴田●ありがとうございます。 この問題はあまりにも大きすぎて、時間も足りないですし、深めることもできないので すが、政府がどうするべきかという問題は一つあると思うのです。 それ以外に、この国際交流会館もそうですが、そういう部分が仮にあっても、政府間の いろいろな問題があっても、 「市民一人ひとり、大衆レベルではまたちがうんだ」、 「ちがう ことができるんだ」といった思いで、われわれは直接に、おたがいに顔が知っている人だっ たら、中国のだれだれさん、韓国の、トルコのだれだれさんという関係を結ぶことによっ 11 て、国と国のいろいろな問題のある部分も乗り越えられる、そういう側面があるというこ と。それが、市民レベルでの交流や、多文化共生社会を追及する意義ではないかと思いま すが、いかがでしょうか。 ヤマザキ●まさにそうだと思います。 やはりこのようなコミュニケーションというものを通していかなければ、浸透性がない ものはたくさんあると思うのです。表面的にだけなめて、頭に入れるだとか、テレビでし ているものを見るというだけではだめなのです。生のことばで対話して、その人が一旦一 旦、それを考える時間を割いていかないと解決していかないことだと思います。ほんとう にそれはすごく大きな問題だと思います。できるだけコミュニケーションがとれるような 場というものがもっと増えていけばいいと思います、日本でも。 柴田●時間をだいぶオーバーしてしまいまして、申しわけございません。 これだけのメンバーに、ほんとうはもっと聞きたい、もっともっと語っていただきたい と思うのですが、残念ながら時間を超過してしまいました。あまりまとまりのない話しに なりましたが、きょうのシンポジウムは以上で終了させていただきたいと思います。 あらためて、三人のみなさんにお礼を申しあげます。ありがとうございました。 (拍手) 12
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