新春企画PART1 特集1 今年こそはという気になる! 公募に効く魔法の言葉 名言、格言、箴言。 世の中には、なるほど! と膝を打ってしまうような言葉がたくさんあります。 言った人もさまざまです。偉人、著名人、芸能人、物語の主人公。 今回は新春企画として、皆さまの心が奮い立つような言葉を集めてみました。 先達の気持ちが言霊となってやってきて、きっとあなたを入賞へと導いてくれるはずです。 イラスト 佐々木一澄 17 鯨統一郎先生インタビュー 苦節 年目にして作家デビュー なぜそこまでやることができたか? 17 鯨統一郎氏は 歳で作家を目指し、実に 年がかりで夢を実現させました。 なぜそんなことができたのか、諦めようとは思わなかったのか。今回はその interview 鯨統一郎著﹃努力し ないで作家になる方 法﹄︵光文社刊/1、 中で﹁作家になんかなれるわけない﹂と ー﹄という雑誌が廃刊になってしまった 500円+税︶ 当の努力をされたという印象を受けまし 同僚に言われて怒るシーンがありますが、 ましたか。 たが、デビュー前はどのような気持ちで だったし、生活もあるしで、そこには葛 が強かったんですよね。生活は破綻寸前 でも、作家になりたいという思いのほう せてはいけないという思いもありました。 いましたから、家族にひもじい思いをさ 本当にデビューできるんだろうかって、 何度も不安になりました。妻も子どもも 負けん気が強かったんだと思います。 言われたことは原動力になりますよね。 ないって強く思ったんですよね。悪口を するためにも絶対デビューしないといけ いるつもりはなかったので、それを証明 れたことがあるんです。現実逃避をして て、 ﹁現実逃避はいけないよ﹂って言わ し く て っ て い う 感 じ で し た︵ 笑 ︶ 。でも 嫉妬や焦りは? ︱︱続々と仲間がデビューしていく中で、 やる気になったというのはあります。 ときの仲間が入賞したのを知って、また ﹃SFアドベンチャー﹄に投稿していた てですか? ︱︱でも、また書きはじめたのはどうし ︱︱デビューして一番嬉しかったことは そういう読み方をしていました。 ら﹁こういう書き方はしないな﹂とか、 賞眼でプロの文章を読んで、自分だった なんとなくわかるんですよ。そういう鑑 と、プロのレベルに達していないものは しなかった自分の作品を読み返してみる 1年くらい書けなかったですね。 藤がありましたが、諦めようって気持ち ︱︱書くための一番のエネルギーは何だ 彼らは実力があるからデビューしたわけ からわきあがってくるのかわからないん とにかく作家になりたいって思いが強 くて、そのためにやっていました。どこ こで何が足らないのかと考えたのは良か ばかりでは成長もないと思いますし、こ どこに差があるのかってね。悔しがって ビューできないのかって考えましたね。 で、それなら自分はどこが足らなくてデ 書こうと思ったきっかけは? ︱︱﹃努力しないで作家になる方法﹄を から。 本当に好きなことだけをやれるわけです を手に入れたっていうのが嬉しいですね。 自分の本が書店に並んでいるのを見た ときは嬉しかったですね。今現在は自由 なんですか? にはなれなかったんですよね。だからデ ったのでしょうか? ですが、そこだけは﹁バカみたいな情 ったと思います。 すごく嫉妬していました。悔しくて悔 ビューできて本当にラッキーだったと思 熱﹂といいますか、その想いだけはずっ っています。 と持っていたと思います。ただ、ずっと から来ているのでしょう? 10 ︱︱ 年間も書き続けた強い信念はどこ 小さい賞に入選したとか、一次選考に 通ったとか、小さな実績の積み重ねで自 青春をかけてきた﹃SF アドベンチャ デビューして 年たって、そろそろ再 出発したいなっていうのがあったんです 信が芽生えたのかもしれないですね。何 ︱︱小説家になるためにどんな勉強をし の実績もないとつらいと思います。 作家を目指していることが周囲に知れ ときはさすがにがっくりときて、その後、 勉強したという意識はあまりないです が、読書は常にしていましたから、入選 ︱︱﹃努力しないで作家になる方法﹄の 17 怒りも大きな原動力になった? ︱︱ 年目で作家デビューされるまで相 あたりを中心にお話をお伺いしました。 23 書いていましたか? 17 17 18 枚 てきたことを書くだけなので、ミステリ それはなかったですね。自分が経験し はありました? ︱︱自伝的な内容ですが、苦労された点 いという思いはありました。 とを書いて、里程標みたいな感じにした がどれだけ楽しんでくれるかどうかで、 るのは常にエンターテインメント。読者 方はそんなに変わっていません。頭にあ ですが、そういう意味では今までと書き タルシスを覚えさせられるかを考えるの テリーを書くときも、最後にどれだけカ できるかっていうのは考えました。ミス てきたそうですね。 ︱︱アマチュア時代からいつも完結させ があるかどうかだと思うんですよね。 後は、絶対書き終わらせるっていう意志 途方に暮れてしまう場合もあります。最 場合が多いですから、そうすると途中で くらいで、途中の展開は何も書いてない ども、それもだいたいレポート用紙 ーなんかより楽でした。 最初から最後まで面白く読める工夫はし するというカタルシスをどれだけ大きく ︱︱今作は、事実に基づいたエンターテ たつもりです。 したことはあまりなかったですね。 ね。それで自分がデビューするまでのこ インメント小説とのことですが、書くと ︱︱冒頭、ザ・ブルーハーツの歌詞を引 ンメントとして成立しているかどうか﹂ できて、扉に言葉があるのが好きだった デビュー前からいろいろな小説を読ん すから、とりあえず完結させることが大 それは大事ですね。どんなボロボロの 作品でも、あとで書き直せばいいことで デビュー前から、書きはじめたら全部 書き終わらせていました。途中で投げ出 きに留意されたことは? ︱︱完結させることは大事ですか? です。ただ経験を書くだけじゃなくて、 事だと思います。まずは完結させて、で きれば寝かして︵時間をおいて︶から読 んですね。海外小説にはよくエピグラフ の小説のすべてにエピグラフをつけよう み返すといいと思います。 ︱︱作家を目指している段階で、デビュ ーしたあとのことは考えましたか? デビューすることも一大目標ではあり ましたが、作家として生活していくって ﹃努力しないで作家になる方法﹄ より抜粋 だけど、投稿した作品は、ほとんどが 第一次予選も通らずに落選していた。 成果も出ないのに諦めずに書き続けた 原動力は、僕には才能があるという根拠 のない、だけど揺るぎない自信だった。 僕は甘えていたのだ。小説は勉強など して書くものじゃないと思い上がって、 まったく勉強してこなかった。 いい歳して未だに作家を目指してい る。それどころか、生活はますます困窮 し、ついに借金まで拵えてしまった。 も う 書 け な い ⋮⋮。 そ れ が 本 音 だ っ 長編を書いていて、これ本当に終わる でしたね。 こうと思って、常にメモは欠かしません デビュー前からアイデアだけはためてお 済力も。すべてが限界を超えていた。 え、体力も限界だった。そして脳力も経 た。ネタがないという根本的な問題に加 んだろうかって思うことはありますね。 いうのが最終目標でした。そのために、 今まで何度かそういうことがありました ︱︱最後に作家を目指している方々にア えた。 どんなに長くても、僕は諦めずに夢を叶 も僕はやり遂げた。僕は作家になった。 十七年⋮⋮。あまりにも長すぎた。で が、それでもいつも終わってきたんだか ば、必ず芽が出ると思います。 自分のことを信じて諦めずに書き続けれ 自分の才能を信じることだと思います。 ドバイスをお願いします。 ︱︱いつもゴールがわからない状態で書 らと、勝手に納得して書き進めます。 たときはありますか? ︱︱デビュー後、書いていてつらくなっ あるんですけれども︵笑︶ 。 いますね。たまに忘れそうになることも 冊ありますけれども、すべてについて と考えていたんですよ。今、自分の本は が出ていますが、デビュー前から、自分 常 に 考 え て い た の は、 ﹁エンターテイ 用されていますね。 1 どん底の状態から這いあがってデビュー ビュー。近著に﹃新・日本の七不思議﹄﹃小樽・カム 鯨統一郎︵くじら・とういちろう︶ 小説家。 1998年、﹃邪馬台国はどこですか?﹄でデ くのでしょうか? プロットは最初に決めて書きますけれ 19 イの鎮魂歌﹄﹃タイムスリップ紫式部﹄﹃京都・陰陽 師の殺人﹄﹃今宵、バーで謎解きを﹄など多数。 聞き手 木村芽久美/撮影 神崎安理 54 読者による読者のための やってみなければ分からない、まず打 ち込んでみろというこの言葉は、世の中 のほとんどの人は天才ではない、必死に ここでは、皆さまからお寄せいただいた﹁ふ む、なるほどそれはそうだな﹂という名言を紹 介していきます。 私の心に響きました。 ビで歌を歌っているが、この言葉だけは、 光ならぬ子どもの七光で、ときどきテレ やることこそが尊いという意味に思え、 ﹃ ベ ッ キ ー の 心 の と び ら ﹄︵ 幻 冬 舎 ︶ に 歳・主婦︶ 北海道 高橋多美子︵ ︻編集部︼やりもしないで、やっても無 訳する前に、まずは﹁練る、書く、出す﹂ ってサロンパスのCMみたい。 ひょっとすると、多くの成功者たちは 案外なりゆきでやっているうちに成功し たというケースが少なくないのではない いいこと言うなあと思いました。 松井秀喜選手のお父さんの言葉。親の七 石川県が生んだ野球のスーパースター、 ある言葉です。後悔していることも、必 理、無意味と言う人、多いですね。言い 北海道 ペン太︵ 歳・家事手伝い︶ ︻ 編 集 部 ︼ な る ほ ど、 ふ む、 鋭 い ぞ、 ベ ッキー! 漫画﹃ちはやふる﹄ ︵末次由紀著︶に出 石川県 坂井和代︵ 歳・主婦︶ ︻編集部︼松井秀喜選手の座右の銘だそ 後藤みわこ先生のためにも 児童文学系で結果を出す ら ご め ん。 ひ た す ら 我 流 を 貫 い て 早 二 十 い て き ま し た。 誰 か の 助 言 な ん て ま っ ぴ これまでずっとがむしゃらに童話を書 うですが、お父さんが先に言ったんでし 年。 笑 っ て し ま う ほ ど 結 果 が 出 な い。 ょうかね。いずれにしても含蓄のある言 葉です。 こ こ は ひ と つ、 素 直 に な る し か な い の で は な い か。 私 の よ う な 人 間 は、 謙 虚 さ を 学 び、 必 要 な 助 言 を 求 め、 聞 く 耳 を 養 う ほ う が い い と よ う や く 気 づ い た。 現 在、 後 藤 み わ こ 先 生 の﹁ 童 話 必 勝 講 座 ﹂を 受 け て い る。 本 気 で 向 き 合 っ て く 歳・家事手伝い︶ 兵庫県 米美恵︵ ︻編集部︼すべて行き当たりばったりと を打つタイミングなど、作品は作り手の でしょうか。 島太一。だが、努力型で器用で真面目な いうこともないと思いますが、熟考しす 個性の塊です。もちろん、正しい文法で 感 謝 の 気 持 ち は 人 を 動 か す。 日 々、 そ う 東京都 堀渕理恵︵ 歳・日本語教師︶ これは思いもよらない新たな目標だ。 学 系 で き っ と 結 果 を 出 し て み せ る。 出 し た い 思 い が ま す ま す 高 ま る。 児 童 文 だ さ っ て い る こ と が あ り が た く、 結 果 を 太一でも、かるたで名人を目指す天才の ぎ た 結 果、 悪 い 意 味 で 冷 静 に な っ て し 相手に伝わるようにというのは重要なこ 文章の始め方、言葉の合わせ方、テン 綿谷新が相手では﹁青春すべて賭けたっ まい、可能性が低いように思えてしまう、 を向けて、それを直そう直そうと力みす て勝てない﹂とつぶやく。そのとき、か ことはありますね。 実 感 し て い る。 てくるセリフです。密かに思っている綾 東京都 堀渕理恵さん とです。しかし、悪いところばかりに目 いなさい﹄です。 42 瀬千早にかるたをやろうと薦められる真 47 50 モチベーションが下がってしまうという B るたの先生が言ったのが﹃賭けてから言 39 D A B 33 たれ、励まされました。 要な過去と思えば、心が楽になる気がし E ました。短い言葉ですが、なぜか胸を打 C ࣑ ɬ ℕ ȹ შ ૐ Ɉ ಭ 20 の作品だ、と開き直ることも、時には必 ぎるのではなく、それもひっくるめて私 かなんとか言った気がします。そういう まうと︵考えると︶ 、全体を見失うぞ﹂と 者だったかも﹂なんて後悔してしまう。 あ。出せばよかった。そしたら俺が受賞 大阪府 村田弘︵ 歳・会社員︶ ︻編集部︼大和証券のCMでやっていま これは悔みきれない! した。﹁行動非行動の研究﹂ですね。 意味では直感は必要ですね。 愛知県 小里︵ 歳・会社員︶ ︻編集部︼個性というか癖のようなもの 要なのではないでしょうか。 は直りにくいですね。基礎トレーニング ほど個性が入り込む余地はないものです が、 た と え ば﹁ 走 る ﹂と い う 単 純 な 動 作 でもフォームは千差万別。文章や小説に ース・リーのセリフです。武道では五感 映 画﹃ 燃 え よ ド ラ ゴ ン ﹄の 中 で の ブ ル 心を奮い立たせています。 なときにこの言葉を思い出して、自分の ても楽なほうに身を寄せてしまう。そん 感を得られると分かっていても、どうし ところに身をおいて勝負したほうが充実 っぱたかれた思いがしました。きびしい です。この言葉に出会い、ほっぺたをひ かもしれません。 歳・自営業︶ 宮崎県 黒岩文雄︵ ︻編集部︼﹁今さら﹂ではなく﹁今だから﹂ もかく、志は持っていたい。 にもなりますが、実現する、しないはと 今年還暦を迎えます。今さらという気 もそういうところがありますね。 を超えた第六感をとぎすますことが重要 ﹃自分の中に毒を持て﹄の中にある言葉 なのだと思いますが、これは創作にも通 東京都 石井敬︵ 歳・会社員︶ ︻編集部︼そう、努力というのは自分を じることだと思います。 公募マニアの私としては、作品に関し てはもちろん頭を使って考えるのですが、 考えすぎてもダメであり、瞬間的にパッ とひらめいたもののほうがいいこともあ ります。 歳・会社員︶ 北海道 穂苅敏︵ ︻編集部︼字幕では﹁考えるな、感じろ﹂ だった気もしますが、細かいことはいい いじめ抜くことかもしれませんね。 ﹃もの思う葦﹄の中にあるアフォリズム で す。 タ イ ト ル は﹁ふ と 思 う ﹂ 。どうい うシチュエーションでそう思ったかは分 かりません。誰かの論争のことか、自作 への批評のことか。でも、確かにみんな 同じことを言っているような⋮⋮。 滋賀県 渡信也︵ 歳・塾講師︶ ︻編集部︼あるいは、小説のテーマのこ ネーミング公募でボツ! でもそれは 力不足、あるいは運がないということで 納得はできる。しかし、結果発表を見て、 とを言っているのかも。違うかな。 ﹂ で し ょ う。 音 声 は﹁ Don't Think. Feel! と言っていますね。で、記憶が定かでは あ り ま せ ん が、 そ の あ と、 ﹁そ れ は 月 を ﹁あ、それ、俺も思いついていたのにな 44 万 円 を 獲 得 し た。 す ご い な い。 20 1 2 年 は 家 族 で デ ィ ズ ニ ー ラ ン っ た。 で も そ れ 以 上 に、 家 族 を 喜 ば せ た そ れ で も 名 誉 な こ と だ。 私 は う れ し か ﹁ト ロ フ ィ ー と 賞 状 だ よ﹂ 高 校 生 の 娘 が 聞 い た。 家 族 は 色 め き た っ た。 ﹁賞 金 い く ら ?﹂ 入 選。 し か も 最 優 秀 賞 と 書 い て あ っ た。 応 募 し た エ ッ セ イ の 結 果 だ。 中 を 見 る と、 そ れ か ら し ば ら く し、 封 筒 が 届 い た。 上 げ て い る の か、 下 げ て い る の か。 う 下 心 み え み え で 落 ち ち ゃ う ﹂な ど な ど。 レッシャーをかけたら賞を獲ろうとい ー ラ ン ド に 行 け る の は い つ か し ら ﹂﹁ プ 以 来、 わ が 家 で は﹁ 私 た ち が デ ィ ズ ニ し ま っ た の だ。 シ ャ ル ホ テ ル に 二 泊 三 日 し、 全 部 使 っ て っ た。 家 族 で デ ィ ズ ニ ー ラ ン ド の オ フ ィ あ と 思 っ て い た が、そ の 使 い 方 も す ご か 最優秀賞で 公 募 仲 間 の 一 人 が、 あ る コ ン テ ス ト の 家族でディズニーランドに 行けるくらいの賞金獲得! 愛知県 竹内祐司さん 歳 ・ 会 社 員︶ ドに行けるくらいの賞金獲得公募入選! を目指すぞっ! 愛知県 竹内祐司︵ 21 28 59 指差すようなものだから、指先を見てし 48 33 20 25 47 れないことも事実である。 本 特 集 の 締 め く く り と し て、 歴 代 公 募ガイドの中で作家の方々が語って くれた熱いメッセージを紹介します ︵ 写 真 は 掲 載 時 の も の で す ︶。 士の股割りも、脚本家の習作も、面白くはないが、型通りにやらないことにはプロにな プロになるための訓練は、だいたいが面白くないものである。画家のデッサンも、力 と議論である。︵中略︶ 歴代公募ガイドの誌面を飾った、 偉大なる作家たちの名言とアドバイス 助走︵自習︶の期間は持たなくてはいけない。ただ、思いつき で書いて出した な ら い い と い う も の で は 決 し て な い 。 藤本 義一 テレビがまだ一般的じゃない時代だったので、連日連夜ラジオドラマが流れていた。 これが生きた教材になった。一年間に古今東西の戯曲を七百冊読んだりもした。︵中略︶ 人間、自分の力を自分で判断するのは難しいものだ。やはり、投稿という行為での判 定を待つしかない。 といって、助走︵自習︶の期間は持たなくてはいけない。ただ、思いつきで書いて出 したならいいというものでは決してない。 内館 牧子 プロになるための訓練は、だいたいが面白くないものである。 面白くはないが、型通りにやらないことにはプロになれないこ とも事実である 。 教室の仲間の多くは映画マニアであり、それだけに講師の言うことを疑問視する人も る。と、これが宿題さえ書いてこない。手ぶらで授業に来て、授業終了後にまたもお酒 するのはじつに簡単なことだ。批判していたのでは、翻訳はうまくならない。 翻訳がうまくなるコツの一つは、他人の名訳を盗むことだと思う。他人の翻訳を批判 もなくさらりと訳していた。 ︵中略︶ かである。この作業は楽しかった。私が難解だと思っていた部分を翻訳の名人たちは苦 名訳の筆写で私の翻訳がうまくなったかどうかはわからない。勉強になったことは確 名訳の筆写で私の翻訳がうまくなったかどうかはわからない。 勉強になったことは確かである。 常盤 新平 内館牧子 脚本家 代表 作は NHK 連続テレビ小説 『ひらり』 、大 河 ド ラ マ 『毛利元就』など。 1994 年 2 月号掲載 常盤新平 翻訳家・小説 家 1986年、『遠いア メリカ』で直木賞受賞。 1993年4月号掲載 藤本義一 小説家・放送 作家 1974年、『鬼の 詩』で直木賞受賞。 1985年3月発行VOL.2掲 載 ︵中略︶彼らが次の授業でどんな﹁感性の世界﹂を展開してくれるのかと、私は期待す 少なくない。 修業 22 荒俣 宏 難行苦行に耐えるには、欠かせないものがある。それは、どう にでもなれという開き直りだ。開き直れば、自分も知らなかっ た力がでる。 大学を卒業し、サラリーマン生活にはいった約十年間。昼間はデスクワーク、夜はコ ンピュータ、そのあいだを縫って、文学の翻訳や評論を書くという生活だったから、削 れるのは睡眠時間だけだった。結局のところ、いろいろさし引いて残った睡眠時間は、 二十代を通じて、一日三時間ほどであったと記憶する。高度成長期の時代の話である。 当然、日々の生活は、大峯山の回行もかくやと思われるほどの難行苦行だった。毎晩 ぼくは、あしたこそ辞表を叩きつけるぞと決意したものだ。 ︵中略︶ 修業時代の生き方には二つのパターンがある。これと決めた道ひと筋につきすすむ場 合と、道草を食いながら大迂回する場合と。 ︵中略︶人生は長い。体力と気力さえあれば、 ぼくは二度めの人生でも、この大迂回作戦に従いたいと思う。 まだまだ生ぬるい。もっと罵りあい、つかみかかるほどの厳し い批評をし合お う じ ゃ な い か 。 戸川 幸夫 長谷川先生の門下には著名な作家が多く、月々の勉強会も熱心だったが、ある日のこ ﹁ま だ ま だ 生 ぬ る い。 も っ と 罵 り あ い、 つ か み か か る ほ ど の 厳 し い 批 評 を し 合 お う と、 じゃないか﹂ ﹃炎の会﹄というのを組織し、毎月一度那須山中にある宿に泊まり込んで研鑚会をした。 炎が燃え上がるほどに激しい研鑚をしようというのだったが、このことは私らの実力付 けには大いに役立ったと思う。 青春の容赦ない付き合いは、人を傷つけると同時に発奮もさせ る。無知を嗤われれば嗤われぬために勉強するし、文章の読み 方も鋭くなる。 孝次 中野 書き方を学ぶばかりが文学修業ではないだろう。もっと根本に、ものの見方、考え方、 であった。 洗うように揉み合ううち、自分とは何者かということをだんだんに知るようになったの 何が自分の得意の分野で、何が不得意かも知る。つまり優秀な他者と同じ桶の中で芋を われれば嗤われぬために勉強するし、文章の読み方も鋭くなる。議論の仕方も覚える。 こういう青春の容赦ない付き合いは、人を傷つけると同時に発奮もさせる。無知を嗤 あるかを証明してみせたことさえあった。 宮益坂の喫茶店で猛烈な作品評を始め、午後いっぱいかけていかにそれがダメな小説で あるときなぞわたしの書いた初めての小説﹁大いなる市にて﹂について橋本一明が渋谷 ︵中略︶しまいには相手の無知への嘲笑が文学的能力の否定といった話にさえなった。 に生きるかを学ぶこと自体が文学修業だということになるかもしれない。 それは、どうにでもなれという開き直りだ。開き直れば、自分も知らなかった力がでる。 感受性、判断力の訓練といったことがありそうだし、それをさらにつづめて言えばいか ただし、ひとつだけ注意を。こういう難行苦行に耐えるには、欠かせないものがある。 戸川幸夫 小説家・児 童文学作家 1954年、 『高安犬物語』で直木賞 受賞。動物文学の第一人 者。 1993年1月号掲載 中 野 孝 次 小 説 家・ ド イ ツ 文 学 者 1988 年、 『ハラスのいた日々』で 新田次郎文学賞受賞。 1995 年 7 月号掲載 荒俣宏 小説家・博物学 者 1987年、『帝都物 語』で日本SF大賞。 1994年10月号掲載 と同門の新田次郎が私に言った。よかろう、と私は賛成し池波正太郎、井手雅人らと 23 研鑽 登場人物と、その置かれた状況とを、十行以内で明らかにする こと。それには 、 三 人 称 で 書 く の が 望 ま し い 。 星 新一 登場人物と、その置かれた状況とを、十行以内で明らかにすること。それには、三人 称で書くのが望ましい。外国の面白い短編はみなそうである。 ︽その男が、妻に逃げられ悲しんでいると、どこからか声がした。 ︾ 二 行 で も、 先 を 読 み た く さ せ ら れ る の だ。 一 人 称 で、 ︽じ つ は ネ コ な ん て、 将 来 性 の 一人称だと、書きやすいようだが、読まされるほうは、たまったものじゃない。手紙 ある才能とは思えない。 ︾ は、おたがいを知った上だからいいが。 ︵中略︶ できうれば、いい友人を持つこと。まず、その人に読んでもらうのが最良。とんでも ない誤字は、選者をうんざりさせる。また、ちょっとした思いちがいが、判明する。ひ そかに応募したい気分はわかるが、つまらん欠点で落ちるのと、どちらがいいか。 過去に書かれた傑作に、どんなトリックが使われているかはもちろんのこと、どうい 過去の作品を読みこなしておこくことが絶対に必要である。 ︵中略︶プロのもの書きに︱︱特に、ミステリ作家になるためには、まず、五百以上の 感したのもその頃である。 て、エンタテインメントはご馳走であり、プロフェッショナルの姿勢に徹すべきだと痛 純文学が日々の糧であり、アマチュアリズムに徹する姿勢が必要であるのにくらべ 生島 治郎 プロのもの書きになるためには、まず、五百以上の過去の作品 を読みこなして お こ く こ と が 絶 対 に 必 要 で あ る 。 星新一 小説家 1961 年、ショートショート 6編で直木賞候補に。 ショートショートの神 様。 1988年1月号掲載 う伏線が張られ、どういう登場人物が描かれ、どういうテクニックが使われているかを 身につくほどに読みこんでおくことである。 アマチュアが陥りやすいのは、驚天動地の大トリックさえ考えれば、ミステリの傑作 が書けると思うことで、実際には、そんなトリックはほとんど書き尽くされている。む しろ、それらのトリックをどう応用したら、自分のものらしい新しい世界が描けるかと いうことが肝心なのである。 だったのだ。 いった。どんな小説でもこなせる基礎技術とでもいえようか。プロに必要なものはそれ の設計図の青写真と同じものである。私はこれを仕事をしながら研究し、マスターして 算しつくした上ではじめて原稿用紙に向う。それはビルを建てる前に用意される何百枚 人物たちの仕事の分担と出し入れ。効果を出すための文章のリズムと文飾。それらを計 文学であれ大衆文学であれ、一にも技術、二にも技術である。起承転結を明確に、登場 をうっとりさせるような口当りのよい言葉は、小説を書く上で何の役にも立たない。純 自分自身をさらけ出して書くとか、自分の精神を吐露するとか、大正時代の文学青年 なのだということに思い当った。 小説というものは、精神や感性などで書くものではない。徹頭徹尾、技術で書くもの 光瀬 龍 小説というものは、精神や感性などで書くものではない。徹頭 徹尾、技術で書くものなのだ。 生島治郎 小説家。 1967年、『追いつめ る』で直木賞受賞。日本 のハードボイルドの基礎 を築く。 1989年9月号掲載 光瀬龍 小説家 代表作 は『百億の昼と千億の 夜』、動物の生態を書い たエッセイ『ロン先生の 虫眼鏡』など多数。 1991年9月号掲載 技術 24 やらなくて後悔するよりも、やって失敗したほうがいい。失敗 は貴重な経験と し て 残 る の で あ る 。 ジェームス三木 私はコンクールとかオーディションとかいうと、ダボハゼのように見境なくトライす るくせがあった。 ︵中略︶ 私が若いころの自分をえらいと思うのは、自分に掟をつくったことだ。掟というのは、 やろうかやるまいかと迷ったときには必ずやるということだ。常に積極的に動くことを 自分に課し、たとえいやでもやるほうに自分を向けていったことだ。 やらなくて後悔するよりも、やって失敗したほうがいい。失敗は貴重な経験として残 るのである。私は打率の高いバッターよりも、打席数の多いバッターでありたいと思う。 たくさん打席に立ちさえすれば、たとえ打率は低くても、ヒットの絶対数では勝つかも 知れないからである。 お互い頑張ろうではないか、あと三年のうちに片方は二次試験を通ること、もう一方は 原稿料を月に五千円かせぐことを目標にし、それで駄目だったらまた考えよう、と、約 束したのである。 とにかくどこかで採用されなければならない、 と、ぼくは猛烈に書きはじめた。 ︵中略︶ それでも落ちつづけた。がっくりしていると次にとりかかるファイトがなくなるの で、いくらでも送ることによって、常時ふたつか三つが発表前︱︱という状態にし、自 分を励ましたのである。 原稿用紙代くらいは自分で稼ぎだそうと、大衆小説やらコント やらをずいぶんと投稿した。 北 杜夫 学校へはあまり出ず、下宿の一間で、青年の気負いから、二千枚を目ざす長編を大学 ノートに書きはじめた。これはもちろん中断し、題名も変え、二年ほどもいじったが、 原稿用紙代がもったいないので、主に大学ノートに書いたが、投稿するには原稿用紙 結局はあきらめた。︵中略︶ がっくりしていると次にとりかかるファイトがなくなるので、 常時ふたつか三つが発表前︱︱という状態にし、自分を励まし たのである。 を用いねばならない。そこで、せめて原稿用紙代くらいは自分で稼ぎだそうと、当時多 りの雑誌に投稿し、大半が没になっている。 かったカストリ雑誌に、大衆小説やらコントやらをずいぶんと投稿した。︵中略︶かな うが多いくらいだ。 その他さまざまな作品に着手したが、完成したものより、途中で投げ捨てたもののほ 眉村 卓 就職し、やがて結婚もした。共かせぎをしなければ食っていけない上に、会社での仕 事は必ずしもぼくの意に沿ったものとはいえない。こんなはずではなかった︱︱と思う うちに、文学への情熱がよみがえってきたのである。 ︵中略︶ 同人誌にも参加し、こつこつと書いては新人賞に応募したが⋮⋮なぜか、予選も通過 その頃、小学校時代からの友人で、司法官試験を志している男がいた。ぼくたちは、 しない。 25 ジャームス三木 脚本家 代表作は、連続テレビ小 説『澪つくし』 、大河ド ラマ『独眼竜政宗』など 多数。 1992 年 4 月号掲載 眉村卓 小説家 代表作 は『なぞの転校生』『ね らわれた学園』『僕と妻 の1778話』など多数。 1987年4月発行VOL.8掲 載 北杜夫 小説家 1960 年、『夜と霧の隅で』で 芥川賞受賞。『どくとる マンボウ航海記』など エッセイも多数。 1989年7月号掲載 応募欲 売れぬにしろ売れたにしろ、とにかく自分はものを書いてゆく 人間だと、自分のことを信じ込める人間であれば、その星を手 に入れることが で き る だ ろ う 。 夢枕 獏 もの書きになってみてわかるのだが、才能が助けてくれるのは、ごくごく、わずかの 部分でしかない。ほとんどの部分を、こけの一念でやってきたように思う。 何にしても、才能というのは、間違いなく必要なのだが、自分にそういう才能がある かどうかなど、何年間か、そのことに必死で取り組んでみないことにはわかるものでは ない。 ようは、それに、自分がどれだけのめり込んでいるか、どれだけのエネルギーと時間 を、そのことのためについやすことができるかどうか︱︱そういうことで、才能をはか ってみるしかないようである。 売れるか、売れないとかは、その時その時の現象でしかないわけで、売れぬにしろ売 れたにしろ売れなくなったにしろ、とにかく自分はものを書いてゆく人間だと、そうい 続けることによって、その星を手に入れることができるだろうと思う。 え牢にいれられても、翻訳をやり小説を書きたくてしょうがないのが、ぼくたちみたい がいる。とんでもない質問だ。小説を書くな、翻訳をやるなと他人から言われて、たと ぼくみたいな者にも、どうしたら翻訳家になれるか、また小説家になれるかときく人 田中 小実昌 小説を書くな、翻訳をやるなと他人から言われて、たとえ牢に いれられても、翻訳をやり小説を書きたくてしょうがないの が、ぼくたちみ た い な ニ ン ゲ ン な の だ 。 夢枕獏 小説家 1988 年、『陰陽師』シリーズ 第一作刊行。1989年、 『上弦の月を喰べる獅 子』で日本SF大賞を受 賞。 1988年8月号掲載 なニンゲンなのだ。どうやったら小説家に⋮⋮なんてことは考えてもいない。︵中略︶ そのまえに、みんなが自明のものだとおもっている時代とはなにか、と考える。また、 考えたあとで、それを書いたりするのでもない。書くことが考えることなのだ。このふ たつはちがったものではない。 い。 半村 良 そんな常套句でしめくくって満足していられるようなら、読者のままでいたほうがい ﹁⋮⋮などと思うきょうこのごろです﹂ とすると、文章家は人一倍人間を観察することにたけていなければならないだろう。 文章の読み手は常に人間であり、その内容は人間にかかわること以外にはありえない。 葉に対して、人一倍敏感であるはずだ。 読者の中から現れる。読者はまず字が読めなければならないし、まして作家は文字や言 キャッチボールも満足にできない者が、野球の選手になれるわけがない。作家は常に 私はいつもそう答える。 ﹁書く前にまず読者であること﹂ ときどきそんな質問をされる。 ﹁プロの物書きになる条件は⋮⋮﹂ キャッチボールも満足にできない者が、野球の選手になれるわ けがない。 田中小実昌 小説家・翻 訳家 1979年、『ミミ のこと』『浪曲師朝日丸 の話』で直木賞を、『ポ ロポロ』で谷崎潤一郎賞 受賞。 1995年4月号掲載 半村良 小説家 1975 年、『雨やどり』で直木 賞受賞。ほか、『戦国自 衛隊』など代表作多数。 1988年5月号掲載 う星のもとに生まれてしまった人間だと、自分のことを信じ込める人間であれば、書き 資質 26 小説開眼のようなものは突然にやって来たけれども、ずっと書 きつづけていな か っ た ら 訪 れ な か っ た も の だ ろ う 。 藤沢 周平 その点懸賞小説の方は気が楽だった。土曜、日曜に少しずつ書きためた原稿を、規定 の八十枚以内にまとめて一年に一回ぐらい応募する分には、時間に縛られるわけでもな く、それでいて、いつ芽が吹くというあてはなくとも、休日に机にむかって原稿用紙を ひろげていると、いくらかは作家気分も味わえた。 ︵中略︶ 私は会社で額に汗して働き、そこからもらう給料で妻子と老母を養っていた。平凡だ が、それが堅気の暮らしというものだと思っていた。たしかに小説も書きたかったが、 そういう生活の方がもっと大事だった。 ︵中略︶ 私は小説を書くことが勤めに影響をおよぼさないように、両者の間にきびしくけじめ をつけていた。 ︵中略︶ある年に書いた小説は、いつもと違っていた。それまで書けなかったような文 章が書けただけでなく、書いている物語の世界が手に取るように見えた。その小説開眼 のようなものは突然にやって来たけれども、ずっと書きつづけていなかったら訪れなか ったものだろう。送稿するときにふと胸が騒いだが、 ﹁溟い海﹂というその小説は、予感 どおりその期のオール読物新人賞に入選した。 文章を書くことによって何かを伝えたいという熱意がなければ 最後まで到達で き な い 。 山際 淳司 ホーガンはかれらに必ず質問した。なぜきみはスポーツライターになりたいのか、 と。 するとかえってくる答えのほとんどは﹁スポーツが好きだからです﹂というもの だった。ホーガンはその答えには不満だった。﹁それじゃだめだ﹂というのである。 ﹁スポーツが好きだからスポーツライターになりたいと思う前に、書くことが好きにな らなければいけない﹂。 正論だと思う。ミステリーが好きだから推理小説でも書いてみようか。旅が好きだか ら旅行記でも書いてみようか⋮⋮。そういう人がかなりいると思う。しかし書きはじめ てみればわかることだが、文章を書くことによって何かを伝えたいという熱意がなけれ ば最後まで到達できない。原稿用紙やワープロに向かって﹁書く﹂という行為に没頭で You have to love the writing. きなければ、最初の思いを形にすることはできない。ホーガンのアドバイスは簡潔であ る︱︱ その二点を結びつけるものは歳月ではなく、野心という翼なの だ。これを持たぬ限り何も始まらないのである。 真理子 林 これははっきり言えることであるが、昭和五十年代のあの頃、野心というものはもっ とこっそりと、他人から気づかれないように育てるものだと思われていたのである。 ︵中略︶私はコピーライターからエッセイを書くようになり、いつしか作家になった。 現在ではいくつかの小説の賞の選考委員をしている。 投稿を続けていた私と、今の私とでは十六年の隔たりがある。そして立場も大きく変 わった。しかしその二点を結びつけるものは歳月ではなく、野心という翼なのだ。これ を持たぬ限り何も始まらないのである。 27 藤 沢 周 平 小 説 家 1972 年、 『暗殺の年輪』 で直木賞。 『たそがれ清 兵衛』 『蝉しぐれ』『武士 の一分』など映画化され た時代小説多数。 1990 年 6 月号掲載 山際淳司 小説家・ノ ンフィクション作家 1980年、「江夏の21 球」でデビュー、1981 年、『スローカーブをも う一球』で日本ノンフィ クション賞受賞。 1993年8月号掲載 林真理子 小説家 1986年、『最終便に間 に合えば』『京都まで』 で直木賞受賞。 1995年1月号掲載 継続
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