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田門外 の雪 を血 で染 める始末 とな った。
これま での叙述 では、江戸時代 には大名 とそ の家臣 だけが肉 にあ
を貰 って食 べては いたが、仏罰 があ たるような気 がして、身 になら
な か った。
そ の頃、若 い福沢諭吉 ︵一八三四︱ 一九〇 二︶ は 蘭 学を学 ぶた
めに長崎 へや って来 て、 そ こでシ ッポク ︵
卓状︶料 理を食 べた。 そ
れは、中 国式 のテーブ ル料 理を意味 し、通常、肉 の角 煮 ︵
東妓肉︶
などを含 むも ので 江戸時代 から長 崎 で流行 している名物料 理 であ
る。中津藩 の大阪堂島 の倉屋敷 で生 まれ、 キ チ ンとした武家 の食事
り ついていて、下 々には無縁 のよう に思われるが、実 はそう ではな
い。 い つの時代 にも、う ま いも のの味 を知 って、 これを探 し出す努
力 を惜 しまな い通 人と いうも のが いる。
頃 は元禄 十四年 ︵一七〇 一︶、殿中 刃傷 がかど により、赤穂藩主
浅野長矩 は切腹 を命 ぜられ、 お家断絶。家臣 は除邑 の憂 き目を かこ
方式 になじ んでいた諭吉 は、他 人と箸 を交え て、 つ っつき合う中国
方式 の食 べ方 と、そ の料 理 の風味 に甚 だ異国情緒 のあ る ことを知 っ
日本 人 の考え方
た。 彼 は、
そ の情 緒 の中 に 外国らしさを見出 し、
ち つつ、諸 国 へ散 って行 った。時 の家老職 。大 石内蔵助良雄 は、京都
山科 に閑居、昼行 灯を装 って、主君 の仇 ・吉良義央 の首をねら って
いた。彼 は、或 る時、烈 士 ・村 上喜剣 の足 のゆび に挿 んだ肉 を食 わ
され て、肉 の味 を知 るよう になり、牛 肉を同志 の堀部 弥兵衛老 人 に
啓蒙態度 は、実 はこのシ ッポ クから出 たも のだと云えば、差 し障 り
があ るだろう か。彼 の大観性 と独立自尊性 は、中 国料理 の味 のわ か
たも のと思われ る。維新 の変革 にあ たり、高 く思 い低く処 した彼 の
や、交 わり方、社会 のあり方 の改造 に ついての方向 を見出 した。大
観院独立自尊居士 の法名 をも つ彼 の本領 は、そ んなと ころ に根 ざ し
養老品故、其許 には重宝 かと存 じ候。枠主税 など に参 ら せ候 と、 か
へってあ しかるべし。大笑大笑。十 二日。堀部弥兵衛 殿。大 石内蔵
贈 っている。 そ の添手紙 に、
﹁
可然方 より内 々到来 にま かせ、進 上致候、彦根産黄牛 の味 噌漬、
助 ﹂とあ る。
ら ぬ者 にうなずけ るも のではな い。 そうす ると、 日本歴史 の夜明け
は、 さくら鍋。明治維新 の黎明 は シ ッポ クと いう こと になろう か。
然 るべき方 より内 々到来、
とあ る のは、 牛 肉 の 入手過程を
文中、
本 ︵豚 の古字︶ の字 が見え る。家 の字 なども、屋根 の下 に人が いそ
う だが、そ こには本が いる。豚 は家畜 の王座 に位 し、食 肉 の首位 に
日本 では、専 ら牛肉 が愛好 され てき たが、海 の向う の中 国 では、
昔 から豚も重きをなしている。 三千年 も昔 の殷周時代 の盤銘 など に
たい内蔵助 の思 いやりがわかる。
おかれ ていたも のと思われる。
最近、中 国 で批判 され ている三家村札記、 これ は孔子以 来 の古典
あ いま いにしたも ので、大公方 の治 下 にあ って、 ヤミの牛肉 に つい
ての大 石 の行 届 いた配 慮が窺 われる。十 二日の日附 けは、元禄十 五
年 の討入り に近 い頃 のも のと思われ、老 人 に スタミナを つけ てやり
安政 三年 ︵一八五六︶、
ハリ スが下 田 へや って来 て玉泉寺 を宿 と
した。章酒山門 に入 るを許 さ ぬ寺内 で、而も境内 の仏手柑 の木 に牛
牲 に供 される のが慣 わしであ る。太牢 の際 には、牛豚羊、少牢 の時
︱
つ﹂ と題す
は役 にた
前 の文章 のあり つくと いう 表現 は、 唯物史観 の 立場 の語意 を 含 む
は牛 を省 いて豚羊 が供 えられる こと にな っている。 いずれ の場合 も
豚 は欠 かさな いので、 孔子廟 の祭 には必らず豚 が つきも のであ る。
︱
や故事 などを豊富 に引用 した現代中共 の要 人 たち の随筆集 で、中 共
の初期 に思想 の指導標 とされ たも のであ る。 そ の中 で ﹁孔子 の教 え
0
を繋 いで、撲 殺 したと いう記 録があ る。世 は発季 だと い って、坊主
も たまげ たろうと思う。 下田 の人達 は唐 人お吉 から牛肉 のすそ分け
1
の 一節 があ
が、肉食史観 から見 れば、彼 の国 にお いての豚肉 の重要 さが この言
葉 から読 みとられる。
る文中 に左
﹁かれ ︵孔
Zつ。
子︶ の学説
清朝 の頃、英 国人が中国 の黒豚 を自 国 に持 ち帰 り、バ ーク シャー
地方 で、自国産 の黒豚 と交配 して、 いわゆ る。
ハー クシ ャー種 ︵黒︶
を作 り出 した。それと、そ の後、 ョー ク シャー地方 で改良 した コー
ク シャー種 ︵自︶ が英 国豚 の二大 横綱 であ る。 この黒豚 の方 を、英
が封建秩序
人が幕末 に、薩摩 に持 ち込 んで来 た。
を維持す る
には、き わ
薩摩 藩 は九州 の南端 に位 し、古 く鎌倉時代 に、島津 が関東武 士を
-8- 9 -―
めて有利 な
武器 であ っ
引き具 して赴任 して以来、明治 に至 るま で、国替 えなども な か った
ので、凡そ 八百年 の間、中央 の干渉 から遠離 され ていて、恰 かも独
食 器 などを造 っていた。 また、江戸初期 に入来 した蕃薯 ︵甘薯、 さ
つま いも︶ の耕作も進 ん でいた ので、青木 昆陽 ︵甘薯 先生︶ は ここ
立国 の観 を呈 し ていた。前述 のよう に、 キリ スト教 なども早く から
受 け入れ、外国 と の交易も盛 んで、夙 にガラ スエ業 を興 し、 ビ ンや
たため、 か
たたえ ら
れ は聖 人と
れ、 二千余
年 の間、 い
かなる王朝
の種 芋を江戸 へ移植 して、全国 へ流布 した。 そ んなわけ で、薩摩 に
はも ともと豚 の飼料 が具わ っていて、中 国豚も琉球 を通 じ て既 に渡
って来 ていた。豚 の飼育 技術 にも長 け ていた ので、新来 の英 国系バ
ーク シャーは、 ここで次第 に増え てい った。
ポ ルトガ ル人が、牛肉 の味 でキリ スト教 を広 めようとしたことは
な いも のは
も、尊崇 し
︵毎 日新聞社訳 ︶
前 に述 べたが、英 国人は、バ ーク シャーと ス コッチウイ スキー で薩
摩 を手 なづけ て、 日本列島 への布 石 にす る考え でいた。英 国と薩摩
なく、永久
に孔子廟 内 に祭 られ て、 おそなえ の豚 肉 にあり つく こととな った﹂
前 に述 べたよう に、 日本 では、昔、漢神 に牛 肉を献じ ていたが、
これ は中 国 の風習 になら ったも ので、中国 では、祭 の時 に四 つ足 が
幕末のころ薩摩に持 ち込 まれた バー タシャーの銅像 (水道橋かつ吉)
藩 の因縁 はそれ まで久 しく深 いも のであ ったが 文
久
一
一
年
︵一八六
、
二︶島津久光 の行列 が神奈川 の生麦村 にさしかか つた時 に この行
、
列 を英 人が横切 った。 これを警固 の武 士 が、無礼打 ち にブ ッタ斬 つ
たので、英 国 は艦隊をも って、鹿児島湾 に侵 入 島津 の牙城 に報復
、
艦 砲射撃 を加え た。 この時 は薩摩武 士 の奮戦 めざましく 敵艦隊 に
、
異常 な打撃 を与え て撃 退 したっ この薩英戦争 には、幕府 はいたく狼
狽 し、取 りなし の挙 に出 たが、西郷隆 盛を中 心とす る武士 たち は
、
英 国と の親交 を拒 んだ 西郷 は ﹁西郷 と豚
姫
﹂
の
ど
。
芝
居
な
で
に
豚
、
惚 れられ る奇縁 があ るが、とも かく豚 を持 ち込 んだ者 と の関係 を
、
必要以 上 に深 めようと しな か った。
1
リ
一方 、 フラ ンスは幕府 に加担 し ボ ルドー フ
、
ン
と
イ
仏
西御料 理
蘭
で、勝海舟腋ゼ物要 人を薬籠 の中 に収 める つもり だ ったが ﹁
、 糞士
は食 わねど高楊枝﹂ のサ ムライ達 は これ になび かず、そ の洗 脳 には
CM の七言絶句 があ る。
柳 か牛 店を開 いて、微忠を表 わし
生民 の頑古 の風を洗 わんと欲す
一喫 、乍 ち悟 る開化 の味
果 たし て知 る、 肥肉半 斤 の功
そろば ん勘定 だけ ではなく、 国民思潮 の指導 にも心を配 った明治 の
牛 鍋屋 の旺んな気慨 にふれ る思 いがす る。
関西 では、今 日 でも、単 に肉 と いえば牛 肉 のこと で、 明治時代 に
も丹波、但 馬 の牛 が、神戸牛 の名称 で、近 江牛 と並 んで、東京 へ移
出 され ていた。宮中 の大膳寮 でも牛 肉 で外来 の賓客 を饗 応 し、明治
陛下も好 んで召上 った。
新顔 の薩摩 の黒豚 は、都 に上 るにあ た って、牛 と角 逐 しては勝味
がな いとして、京阪神、名古屋 を素通り して、
一挙 に関東 へ入り こ
ん で来 た ので、東京地 区 には、養豚所 が ふえ てい ったo そ の頃 の養
豚施設 は、今 とちが って不潔 だ ったため、附近 の住民 は悪臭と蝿 に
せめられ、 これが撤去方 を政府 に願 い出 た。明治 六年 五月 十 五日 の
太政官布 告第 一六三号 によれば ﹁
︱前略︱自今 三府市街 の区内 は勿
論、各地 一般 人家棚密 の場所 にて養豚 の儀堅く禁止候条 、右 区内 に
於 て従前営業 の者 は布令到達 の日より 三十 五日以内 を以 って郊外便
宣 の地 に立退き、養豚致す可き事。但 し東京府下朱 引内 はたとえ草
野空間 の地 と雖も養豚相成 らず候。も っとも乳汁搾取 のため養豚候
は差許 され候えども、不潔汚 臭 の儀 も之 れ有り候 えば詮議 の上取 り
払 い令 す べき事。太政大臣 一
二条実美﹂とあ る。文中 の乳汁搾取 は
少 しお かしいが、 これ は豚肉処理が業務 でなく、豚乳搾取 が目的 だ
と言 い張 って、乳牛業者並 みの扱 いを主張 して、退去 を拒む養豚業
彼等 は手 を焼 く始末 だ った
。
彼等 おもえらく、衣 は肝 に至り、袖腕 に至 る 三尺 の
秋水 人断 つ
、
べし、 と い つて、全 土 に温 れる百万 に近 い不遅 のやから
を平げ て教
ても、資源 には乏しく、言葉 は通 じない
文
化
は低 級、そ んなむ だ
。
骨 は避け た方 が いいと、英仏もそ の他 の国も さ ら
、 わ ぬ神 に崇 りな
し の態度 をとるよう にな った。
当時 のサ ムライ達 は葉 がくれ論 語を読 み ﹁ 士 とは死 ぬこと
武
道
﹂
と悟 り、茶 を のん で ﹁
茶禅 一
如
の
っ
﹂
境
地
を
味
わ
ていたから、外国
人 の側 からは、わび しい動物 のよう に見 られ たが こ ら
、 ち 側 から向
うを見 れば、物欲 し気 な 一方通行 の損益計算器 のよ に
う
見
え
たかも
知 れな い。武 士は 一見、智性 に け て
欠
い
て
人
間
性
の
薄
い
、
木
石 のよ
う に思われがちだが、葡萄酒 の風味 や豚 肉 の味 がわ からな
いような
野蛮 人 ではな い。彼等 はい つも、 人殺 しと いう保身 と 腹切
りと い
、
う滅身 の両面交通 に扶 まれ て物 を考え、そ の中 から生
きと し生け るも のの生 の醍醐味 を味 わ い、 いわゆる大
乗 の味覚 を自覚す るよう に仕向 けられ ていた
末時
幕
。
代 の有為転変がそ んな人物 を たくさん生 ん でいた 西
。
郷も勝もそんな人物 だ ったら から、 おかげ で、江戸 の
町 は兵火 からま ぬがれ る ことが でき た。
さ て、世 は明治 と な り、
僧侶 の肉食妻帯 の許 が出
て、南無阿跡陀仏も、南無妙法蓮華 経も、肉 を食 うこ
とが自由 にな った。国を挙げ て文 明開化 を謳歌 し、西
洋料 理がせ てはやされる時代 とな ったが、肉 の本流 は
依然 として牛 で、牛 肉料 理 は牛 鍋が主流 であ った。明
治九年版 の ﹁日本開化詩﹂ の中 に、牛 鍋屋開店披露 の
●″ “ ”● ■
者も いたためではな かろう かと思う
。
そ の頃 は 豚 は無精
の
標
者
本
、
の
に
よ
う
思
わ
れ、無芸大食 の馬鹿者
の代表 とされ ていたから ﹁
愚息﹂ の代 り に ﹁
豚児﹂ と いう言葉 が流
行 った。大事 な入学試験 に臨 ん で、豚児 にと んか つを食 べさせる親
はいな か った。豚肉 は牛 肉と混 ぜて腸詰 とされ、 ま た、
ハムやベー
コンのよう に スモー クされ て、
一部 の ハイカラ階級 の専用 となり、
そ の人達 は、 これを時代 おくれ の人達 に食 べさ せて、 この人 たちを
煙 にま いて誇 りを感 じていた。 こんな時代 が長 く続 いた。
明治 十年 、西南戦争 で家 を焼 かれ、食 う に困 った薩摩 の 一青年 が
上京 して来 た。城山 が陥 ちる前 の暑 いさ かり で、旅 に疲 れ ていた彼
は、新橋 で汽車 を降 り ると、何気 なく駅前 の西洋料 理屋 の暖簾 をく
ぐり、豚肉料 理を注文 したが、 おあ いにく と断 わられ それ ではと
、
いう ので、ビ フテキを注文 した。久 しく栄養 に欠 け ていた彼 は、 ビ
フテキを食 べると、 そ の味 が全身 に深り渡 り、大 死 一番 の気慨 が肛
の底 に固 まり、そ こで揮 の紐 を締 め直 したと いう こと であ る 思う
。
に、不敵 な悟り であ った であ ろう。彼 は故郷 の豚 が東京 で巾 がき か
な いのを見 て、食 わず嫌 いの生民 の頑固 の風を洗 わんと欲 して、終
生、豚 の普及 に努 めた。そ の男 こそ、天狗 ・岩谷松平 ︵一八四九︱
一九 二〇︶ であ る。
彼 は日本 におけ る巻 タバ コの始祖 で、明治十 二年 から薩摩葉 を主
体 とした天狗 煙草を売 り出 し、 これを日本全国 に広 め、遠 く印度 ま
で東洋 一円 に売 り込 んだ。自 ら、東洋 煙葉大 王、国益 の親玉と称 し
﹁
驚 く勿れ煙草税金 た った三百万円﹂ の標 語を掲げ て、明治 の実業
界 に君臨 した。 日清戦争後 にな ると、 ア メリカ タ バ コ ・ト ラ スト
が、 日本 のタバ コ事業 に目を つけ、 まず岩 谷商会 の買収 に乗 り出 し
―- 10 -11-
薩摩 グ ラ アの び んは 早 くか ら造 られ た
′つ。
商 一位大 薫位光爵国益大妙 人 の位階勲等 をも っていた彼 は、豚 や
鯨 の食 肉 の方面 でも、不朽 の功績 を残 している。新修 渋谷区史 によ
てき た。 はじ め三百万円を提
示 したが不調 におわり、次 に
一千 万円を持 って来 たが、松
いと云 って、 トラ ストの全権
平 は、 ゼ ニカネ のこと ではな
た めに、 かえ って臭 いと か四 つ足 と かい って、岩谷松平 が都内 に十
る民営 煙草合戦 であ る。︱中略︱渋谷 に移り住 んで養豚業 を開始 し
た のであ るが、前述 の如く庶民 はまだ これを食 べる習慣 がなか った
町 一番地 から 八幡通 一一
丁目附近 の 一万三千坪 の 土地 であ った。 彼
は明治時代 におけ る先覚者 と いう べき存在 であ って ア メリ カ資本
に依存 した村井商会 に対抗 して最初 に開始 した のが、今 に伝 えられ
を副食 とす る当時 では当然 の考え方 であ った であろう。 しかる にこ
の布告 から約 二〇年後 に薩摩 の人、岩谷松平 は西洋 と我 が国と の食
事 カ ロリー の差 を考え、敢然 と して養豚 を行 ったのが 現在 の猿楽
れば、前記 の太政官布告 に引き続 き、左 の記述 があ る。 ﹁
︱ 前略︱
この頃 ︵明治初期 ︶ の人 々は前代 の儒教 々育 の流 れを受 け継 いで、
動物 ︵四 つ足︶ の肉 を食 べるど ころ ではな か った のであ るが、魚鳥
に対 して、巌谷 一六 の書 いた
﹁国益之親 玉﹂ の扁額 の説明
を して間 かせた。不敵 な野郎
とば かり、 ア メリカタバ コ ・
ト ラ ストは、 日本 の他 の業者
を糾合 して、天狗 の鼻 を ヘシ
折り にかか ったが、松平 は終
始 独力 これ に拮抗 し、矢 玉 つ
日本 のタバ コ権益 を外資 に渡
き て最後 には、煙草専売法 を
も ってこれ にむく い、 ついに
数軒 の豚肉店 を開 いて この普 及 につと めたにも かかわらず、 この
事業 は甚 だ振 わな か った。そ こで彼 は豚肉 を軍隊 に持 ち込 んだほど
であ った。け だし明治時代 人 の信念 とも いう べき であ ろう か。彼 は
この他 に捕 鯨業、水力発電 そ の他 国家的事業 を興 し︱後略﹂。
岩 谷松平 に関す る記述 が蛇足 と冗長 に亘 る如く で甚 だ恐縮 だが、
さな か った。明治 三十七年 の
こと で、桂内閣 の蔵相 ・曽爾
荒助 の献身的 な努力が手伝 っ
てのこと だ っ た。
こ の所謂
松平 は実 は私 の実父 で、私 が父 の先師 ・
西郷吉之助 の名 を頂戴 し ﹁か
つ吉﹂ の看板 を掲げ ていること から、心ならずも筆 に力が ついてし
ロシヤの動向 を監視 していた。父 は千島 におけ る ラ ッコ、 オ ッ
て、
ト セー の狩猟権 を政府 に申請 し、 そ の許 可 のもと に、 ラ ッコと オ ッ
そ んな因縁 があ って、私 は幼少 の頃 から豚 に馴染 みが深く、 カ ロ
リー のためと はいいながら。豚肉 はず いぶん食 べた。父 の主宰す る
ま った。
﹁日米 タバ コ合戦﹂ が、最近
マス コミに捉 えられ ﹁けむり
よ煙﹂ の題名 で人気 を呼び、
明治 百年 の 一的を担 っている
こと は.
御承知 の 通 り で あ
当時、豊 多摩 郡渋 谷町字下渋谷 の屋敷内 には茶 畑 があり、 八十 八
日本家畜市場株式会社 と いう屠殺場 に つれ て行 かれると、 レパ ー シ
チ ュウやとんこ つ ︵豚 の骨 つきバ ラ の煮込 んだも の︶ などが出 た。
った。そ の頃 ︵大 正初期︶ の豚 は、 正直 なと ころ水ブ タで、今 のよ
う なう ま味 はなか ったよう に思う。
蔵助 とちが って、父 はわれわれを こ の席 に侍 ら せ、 お相伴 を つと め
さ せた ので、私 など末席 の子 が、豚 の料 理 の能 書が云え るよう にな
た。 この人達 に、 とうも ろ こしやさ つまいも にバ ターを ぬ って食 べ
さ せたり、豚肉 と赤茄子 の煮込 みなどを作 って試食 さ せた。大 石内
豚舎 には、常時 二百頭 くら い の コー ク シャーとバーク シャーが い
た。陸海軍 の軍 人さんなどが大 ぜ いで豚 を見学 に来 る こ と も あ っ
薯 と玉蜀黍 は大 量 に作 られ て、季 節 には主食 とした。
熊 の皮 を敷 いた父 の居間 から は、鯨 の黒 い骨 が見え ていた。父 は
晩年、枠 たちを ここに集 めて、仏道 の四 諦みた いな人生観を ﹁人間
い っていたが、虎 より はまだ いけ る のではな いだろう か。 たく さん
の大熊小熊 の皮 をなめし て、居間 の敷き物 にし ていた。
を開 墾す るために、森林 の伐採 と農具 の改良 に意を用 い、 セ ッター
犬を つれ て熊狩 り に専念 した。父 は、熊 の肉 はあ まりう まく な いと
地 区 の土地約 百万坪を入手 した。後、更 に別 の地 区 にも手 を のば し
たが、 いづれも宗谷海峡 に面 した軍事的要地 である。 この朔北 の地
た。 そ こで父 は、近代的 な大農法 と牧畜 によ ってこれを開発す るこ
とを つと に主張 し、北 海道開拓使長官 ・黒田清隆 に建言 し て、稚内
蝦夷地 の開発 に意 を用 いた政府 は、廃 刀 の武 士を屯 田兵 とし て、
こ の地方 に扶植 したが、武 士 の農法 はあ まり成果が あ が ら なか っ
を設立 して、太平洋 の鯨 で国民 の体 位 を向 上 させることを企図 し て
いた。家 では、皮 つき の脂肉 を塩漬 にし てお いて、 これを味噌汁 の
なれば ひどく異様 な臭 いが した。
こ の捕 鯨事業 は、前述 のよう に、海洋資 源を開発す ることと、北
のプ ラ ン コの支柱 はそ の顎骨 で作 られ ていた。冬 はまだしも夏 とも
川 に捨 てて帰 って来 て、大目玉を食 ったことなどもあ った。
天狗 の旅行 は平常、貸 し切り の二等車 で、車内 に コン ロを持込 み
たみ蜜柑 を買 わせた。 また、天津 あ たり から乾 肉を取 り寄 せ、荷受
け に行 った書生 さんが、腐臭 に耐え かね て、太間 の故事 を慮 ってか
ら、 われわれも、ず いぶん色 々な旨 いも のを食 わされ た。蜜柑 は、
いたんだも のがう ま いと云 って、 銀座千 疋屋 まで人をとば し て、 い
実 にしたり、酢味噌 でたべたり した。庭 の目抜 き の場 所 に、 ながす
鯨 の頭蓋骨 が庭 石 の代 り に押 し立 ててあ ったり、 また、 われわれ用
方 警護 と いう国防 目的 を かね ていた。 日露戦争 の頃 は、捕鯨会社 の
キ ャ ッチャーボートは、 つね に北海道周辺 から千島 あ たりを巡航 し
は食 う て、寝 て、 たれ て、死 ぬ﹂ と教 え た。 この諦観 の冒頭 に、食
ま ず い物 が嫌 いで あ ったか
う て、 と い った父 は、食 いしん坊 で、
父 は明治 の早 い頃 から、鯨 の資 源 に目を つけ、東洋捕鯨株式会社
紀ヽ機蔀ヽ極鶏解活、パセリ、セロリ、ポFデなど。このほか、鷲
夜 には若芽 を摘 んで、手も み の茶 を つく った。 また、野菜畠 には、
そ の頃 とし ては珍 らし い洋菜 が作 っ て あ っ た。赤 蕪、 レイ ン、蕃
ト セーを獲 っていた。明治時代 の金持 ちは、 こ の毛皮 を 二重 まわし
の襟 に つけ て得意 が っていた。泉鏡 花 の ﹁日本橋 ﹂ の芝居 にも、 そ
んな風体 の高利貸 が現 われ てく る。
費
- 12 -
-13-
天狗 ・岩谷松平の書 (水 道橋かつ吉)
焼肉 や スキ焼 をや ったこともあ ったo こんなことが旅客輸送法 に違
反 し ていたかどう かは、天狗 の預 り知 ら ぬと ころ であ る 途中 の停
。
車 駅 で、駅大 が、けむり よ煙 と、けげ んな顔 つき でのぞき込む景色
などあ った。代議 士時代 のパ スが通用 し ていた のか、或 いは博多湾
鉄道 を経営 し ていたためか、父 は、全 国通用 の鉄道 パ スをも ってい
た。従 って切符 を買 わな いく せが つき、家 の子郎党 まで改札 口通行
の慣 わし に違 反し ていた。特 に渋谷駅 の場合 は、 ホー ムから線路づ
たいに家 へ帰 る習慣 があ った ので、渋 谷駅長 は困 っていた 度 々注
。
意 を受け る ので、そ の申 しわけ に、豚 の枝 肉を駅長室 にか つぎ込 ま
せ、駅長 を仰 天さ せたりし た。
盆暮 には、天下 の名 士 に豚肉を配 っていたが、届先 の女中 さんが
豚 の肉塊を見 て、悲鳴 をあげ て飛び逃げ ることもあ ったと いう こと
であ る。配達係 の書生 さんたち は、帰 って来 て、大山 さん は 山県
、
さん は、黒田 さん は、渋 沢さん は、松方 さんは、大倉 さんは 中橋
、
さん は、床次 さんはと、次 々に送達先 の台所 の反響を具さ に報 告し
ていた。父 はそれ にうなずき ながら、次 の手 を考え ていた
。
併 し、 タバ コ合戦 で、国益 の名 をとり、 ゼ ニカネ の利を棄 てた父
の晩年 は財政的 にはみじ めで、内 々到来 の浄財 など の助けを かり て
生き ていた。大 正九年 に父 が往生を遂げ ると、豚小屋 なども取り毀
わされ て、岩 谷 は豚 の失敗 で潰 れ たと噂 された。捕鯨事業 から は鯨
の朽 ち骨 が、北海道開発 から は数枚 の熊 の皮 が、養豚事業 から は豚
の糞尿溜 めが残 っただけ で、私 は番頭 の吉 田市恵 に引きとられ た
。
さ て、
一般的 に、 日本 で豚肉 の良否 が云 々されるよう にな った の
は、岩 谷松平 死後 の関東大震災 の頃 から であ る テ レビド ラ マのお
。
はなん によれば、横浜 で潰 れ た ヒ ゲ カ ツ が震災前 に東京上野 に移
藤原定家 のこの歌 は、
茶道 の心を、あらわしていると いわれるが、こ
γ
々な
電
の歌 のも つ寂びが、 日本 の茶 の湯を育 て、そ の茶 の湯が日本 のお茶
の向上をもたらした。それと同じくとんか つの見栄も体裁もない 一
﹁
嗽を 為
谷文兄画 「川中島合戦 J
文に曰く 「仁田はてがら, わ れはゆだん。ち
んばŚ , ん
だもこの ししゆえじや」鳥羽名筆画譜より ( 東京名物研究会蔵)
り、 お はな はん の指導 によ って、洋 風 から和風 のとんか つに転換 し
たこと にな っている。事実、上野 に発祥 をみたとんか つは、 日本伝
統 の精進 の法 による惣菜料 理 で、楠物油 を用 いている これはラー
。
ド ︵豚 脂︶を用 いて揚 げ、 チーズ など で香りを つけ たりす る いわ
、
ゆ るポ ークカ ツレツと は類 を異 にす るも のであ る。 とんか つは箸 で
食 べ、 ナイ フ、 フオー クを使 わな い。添 え物 も マョネーズ サ ラグ の
代 り に生野菜、 パ ンの代 り に丼 めし、 スープ の代 り に味噌汁 と いう
こと にな っている。 と んか つの語源 は、豚 とカ ツレツから来 ている
が、 ヨー ロッパでカ ツレツと いえば、 ビ ー フか チキ ンで、ポ ークカ
ツンツと いうも のは、 正式 な メ ニュー には載 っていな い。そう いう
意味 で、 と んか つは、 お惣菜 の油揚げ や薩摩揚げ の弟分 で、江戸 っ
子が発明 した日本料 理 であ る。
日本 の豚 の改良発達 は、と んか つが推進 したと い っても過言 でな
い。多く の惣菜料 理がそう であ るよう に、 と んか つは、ズバ リ型 の
料 理 で、材料 の吟味 に重きが置 かれ ている 揚げ方 は 大 量 の新 ら
。
、
し い油 の中 に入れ、揚 がる 一歩手前 で、瞬 間を逃 さず引き揚げ る の
が コツであ る。 それ は、見 た目 の配色 や風味 の混合 で感 心され る料
理 ではなく 材料 とそ
、
の
生
か
し
が
方
で
問
題
あ
る
茶
の湯 の湯加減が
。
、
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し
動村 ﹂ 一檄約れに浸れ﹁ ”諏嘲 ¨珈鋼 嚇赫討﹄ いが恥 っ蒙一は
堂
︵
社
与え た。塩梅加減 が上手 だからと い って、総 理大臣 の揚げ たとんか
っはど んなも のであ ろう か。
とんか つ屋 はめし屋 であ って、料亭 や飲 み屋 ではな いから 素朴
、
をっ
﹁
も
呼
け
姜
味
喉
れ
撫
跡
け
い
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観
測
い
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本調子 の朴訥 さが日本 の豚 の向上発達 に資 したこと は事実 であ る
。
建 久四年、仁 田四郎忠常 が、大猪 を屠 って男 をあ げ て か ら 八百
年 、忠常 の出身地 ・伊豆 は伊豆豚 の産地 とし て有名 にな った。富 士
の巻狩 の直後、島 津 と共 に西国 へ下 った関東武 士は、 い つしか薩摩
隼 人と化 して、薩摩 は豚 の家元とし ての名誉 を担 っている。薩摩 の
川内川 のガラ ッパ ・岩 谷松平 は豚 にこだわり、 人を悩 まし て男 を下
げ たが、 これ にも、 この川 の早瀬 にかけ て、うき世 の波 を し のぐ に
野ざらしを 心に風 のしむ身哉 芭 蕉
たえな い深 い運命 があ ったのだろう。
さ て、肉食 盛衷記 の ﹁とんか つの段﹂ によれば ﹁人 の浮沈 と世 の
移 ろ いは、波 に浮 べる捨 て小舟。風 のま にまに流 れ のままに、き のう
の、肉 のよしあし品定 め、 これも浮世 の慣 わしと、き のう は薩摩き
は東き ょう は西。雨 が降 ろうが陽 が照ろが、水 の流 れ は天 にし て、
人 の運命 は性 なれや。 二九 は元来 十 八と、き ま っていると いうも の
ょう は伊 豆。 人 の口さが いろ いろなれど、豚 の先祖 はい のししなれ
ば、我 も多少 の味 を知 る。関東武 士 のなれ の果 て、江戸 っ子衆 に見
込 まれ て、因果 は廻 る緒車 の、麻 の衣 を着 せられ て、油地 獄 に浮き
沈 み。 にはん の箸 に救 われ て、世 に出 てみれば 金調 の、衣 のそうと
変 りけり。
一喝くら っておどろく は、それ早計 のお人なれ、 な か身
を割 れば仏陀 の慈悲 、
餓 鬼救済 の味 あり て、衆生を頓 に活 かす なり。
さあれ昔 の人 々も、神代時代 の神 々も、 おれ の風味 は御存知 なく、
まして西方 浄上 に在 わす、 お釈迦 さまでは気 が つく めえ。仁 田忠常
往生四郎、況 んや天狗 の松平 おや﹂ とあ る。
金調 のころもを着け て喝と のう
き ょう の揚げ かたそうも至らず 食散 人
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●
撥
ト カ 緒烙臭 春 織 暑、
■ 歯一
・
仁 れ 薫 右 綾 た■ 二
守巻 十繊ふ
た事
4
略壕
承「
ヽ
霧 遺す る こと、諸 孫 に偏 し
酔 う て帰 るに、余肉 を懐 にし
古礼、亦 た略 存す
牲牢 の盛 んなる無 し と雖 も
老 巫、廟 門 に立 つ
飢 鳴、街樹 に集 まり
播実 し て、香、村 に満 つ
社 日、社猪 を取り
贅 れ偽
歳4 ・
わる慣 わし に心う るおう 心地 し て、 お神酒 にホ ロリ酔 い心地。
残 した肉 を懐 に、家 で待 ってる孫 共 の、嬉 ぶ顔が目 に映 る。 さ
てこの へんでお興を、も たげ る こととし よう かな。
放翁は南宋の詩人陸済。書は山水楼 ・宮田武義氏︶
︵
老 いたる巫も寄 り来 り、物 はしげ なる顔 をし て、社 の門 に立ち
並 ぶ。昔 のような いかめし い、儀式 は今 はす たれ たが、尚も伝
お祭が終 ったあと のねぎ ら いに、供 え の豚を料 理 し て、村人
達 が幡く煙 に、飢え た鴨が集 ま って、道ば たの木 で騒 いでる。
像ド F り く 目
雷 丈 為ォ轟
LT や 燎 春 ハ ・
裏
放翁詩 社 肉 遊記 山人
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