平成 26 年度(第 1 回) 宇和島おもてなし検定 解答・解説 日 程:平成 26(2014)年 8 月 24 日(日) 場 所:きさいや広場 市民ギャラリー 主催:公益社団法人宇和島青年会議所 後援:宇和島市・宇和島市教育委員会 協力:宇和島市生活文化若者塾拓己塾 1 問1 正解 3 平成 27(2017)年に伊達秀宗公の入部 400 周年となる。 問2 正解 3 幕末黒船が襲来し、列国が開国を要求する中、右往左往するばかりの弱体化した幕府を憂え、 英明な藩主たちは積極的に国政にかかわり。幕政改革を進言した。その一人が島津斉彬、松平慶永、 山内豊信らとともに国事周旋に奔走し、幕末四賢侯といわれた宇和島藩八代藩主・伊達宗城である。 宗城は来たるべき時に備え、先進的に洋学を導入していた。 問3 正解 1 追手門は宇和島城に残る数少ない建物として、昭和9年に天守と一緒に当時の国宝に指定された が、昭和 20 年7月 12 日の宇和島空襲で、焼失している。 問4 正解 3 石応はこくぼ、遊子はゆすと読む。 問5 正解 2 藤堂高虎が 1601 年に創建した天守は望楼型天守であり、現存する天守は 1666 年頃に伊達宗利が 再建したものである。 問6 正解 3 愛媛県大洲市は、大洲藩の範囲に含まれる。 問7 正解 2 1 竪三引両紋は、伊達氏の始祖朝宗(ともむね)が奥州征伐(1189年頃)の際、源頼朝から 拝領しました。伊達家の中でもっとも古い由緒をもっています。 3 伊達家の家紋でよく知られている「竹二雀紋」 、宇和島藩と仙台藩とでは使っている葉の数、節 の数等が異なり、宇和島笹、仙台笹と呼ばれ区別されています。 4 九曜紋は、仙台藩祖である伊達政宗が気に入り、細川氏から譲り受けたと言われています。 問8 正解 1 秀宗の重臣、山家公頼(やんべ きんより)が襲撃暗殺される。襲撃を命じたと言われる人物(桜 田元親)が変死。その後も自然災害や伊達の家の人間が早世するなど不幸に見舞われる。秀宗自身 も病気になるということが重なり、秀宗は和霊神社を創建し霊を鎮めるという行動にでました。 問9 正解 1 2 は市指定、4 は県指定である。3 は文化財に認定されていない。 問10 正解 1 宇和島市の市花はみかんの花、市木はうばめがしである。 問11 正解 2 オレンジは燃えるごみ、緑はペットボトル、茶色はビン・缶である。 2 問12 正解 4 2007∼2009 年 タンパベイ・デビルレイズ、2010 ン年ピッツバーグ・パイレーツ移籍、2010 年 途中オークランド・アスレチックス移籍。 問13 正解 4 いわゆる平成の大合併で、平成17年8月に旧の宇和島市、吉田町、三間町、津島町が合併し新 宇和島市が誕生した。 問14 正解 2 昭和51年に現在の場所(宇和島市曙町)に移転新築された。数年前までは、市内で最も高い建 物だったが現在は高層マンションにその座を譲っている。 問15 正解 2 水荷浦の段畑は近世から現代に至るまで営まれ続けてきた半農半漁の生活を示す独特の文化的 景観と評価され、平成19年には国から重要文化的景観の選定を受けている。毎年4∼5月に行わ れるこのイベントには、市内外からたくさんの人が段畑の初掘りジャガイモを目指して押し寄せる。 問16 正解 2 六兵衛(ろくべえ)は長崎県島原半島周辺と対馬に伝わる麺料理である。 六宝とはいわゆる鯛めしの別称である。 問17 正解 3 宇和島市立歴史資料館は明治 17(1884)年広小路の角屋敷宇和島警察署として建築された 問18 正解 4 バトミントンは砥部町、なぎなたは松山市で行われる。 問19 正解 2 愛別町と登別市は姉妹都市ではなく、伊達市は福島県である。 問20 正解 4 西江寺では毎年 2 月にはえんま祭りが行われ、本堂には同市出身の芸術家村上天心(1877 年 1953 年)の彫刻と絵画の作品が公開されている。 問21 正解 3 八面山1,166m、鬼ヶ城山1,151m、三本杭1,225.72m、大久保山1,155, 47m。 問22 正解 1 1921 年から現在まで 16 人の市長が誕生している 問23 正解 3 『大番』 (おおばん)は、1956 年から 1958 年まで、週刊朝日に連載された作家獅子文六の大衆 小説である。 3 問24 正解 2 長谷川穂積は 2008 年 6 度目の防衛線を前に宇和島でキャンプを行った。 問25 正解 1 児島惟謙は、緒方酒造(宝暦 3 年(1753 年)に西予市で創業)の 17 代目緒方惟貞のもとで、3 年間、文武の修業を励みました。 問26 正解 4 尻割山は、毛山と共に鬼ヶ城山系にある山の名称である。音無山は津島町御内にある。鼻高山は 島根県出雲市にある山である。 問27 正解 4 宇和島市津島町は五つ鹿踊り。 問28 正解 4 国道 1 号は東京都中央区から大阪府大阪市北区へ至る一般国道。国道 57 号は、大分県大分市か ら竹田市・熊本県阿蘇市・熊本市・長崎県島原市・諫早市を経由して長崎市へ通じる一般国道。国 道 197 号は、高知県高知市から大分県大分市に至る一般国道。 問29 正解 1 明治 17 年 12 月に愛媛県南予地域の経済の発展に寄与するため地元有志の出資により設立。本拠 地は八幡浜。 問30 正解 4 作家司馬遼太郎は宇和島との縁は深く、公私にわたって 10 回以上宇和島を訪れている。 朝日新聞に昭和 44 年 10 月から 2 年間にわたり宇和島を舞台とした小説「花神」を連載した。ま た「街道をゆく」シリーズでも宇和島を書いている。 問31 正解 1 魚貝藻霊供養塔には、 「題字 大蔵大臣 宮沢喜一」との記載がある。宇和島市の遊子漁協では、 毎年3月18日に、魚貝藻霊供養祭を行っている。 問32 正解 4 慶応2年6月に英国艦隊プリンセス・ロイヤル号、サラミス号、サーベント号が入港し、パーク ス夫妻、副提督ジョージ・キングが来宇している。通訳アーネスト・サトウが来字したのは、同年 12月のことであり、この時の模様は、 「一外交官の見た明治維新」に詳述されている。 問33 正解 1 解答のいずれも名誉市民。 2 伊達宗彰氏は、宇和島城天守をはじめ、多くの土地、建物を寄付し市の発展に貢献した人物。 3 井関邦三郎氏は、井関農機の創業者、済美学園理事長。 4 田中九信氏は、辺地の医療問題に取り組み、図書館の建設、蔵書の寄贈などにより、文化活動 振興につくした人物。 4 問34 正解 4 南予レクリエーション都市は、愛媛県の南部(南予)のうち、北宇和郡吉田町(現・宇和島市) から南宇和郡城辺町(現・愛南町)の沿岸部において昭和 40 年代後半か昭和 60 年代にかけて、愛 媛県が計画し、建設省の補助を受け、一部地域において整備を行った観光レクリエーション開発の ことを言います。海に面してない松野町は含まれていない。 問35 正解 2 小西左金吾は明治 42(1909)年 30 才で小西真珠養殖所を開き、内海浦漁業組合から真珠養殖の漁 業権を借り受けて本格的に養殖を開始した 問36 正解 2 片山恭一さんは、宇和島市生まれで宇和島東高等学校を卒業している。故郷の宇和島が「セカチ ュウ」の舞台となっている。宇神幸男さんは、宇和島市生まれの小説家。最近では「宇和島藩」 「伊 予吉田藩」 などの歴史書も手がけている。 宮川俊二さんは宇和島市生まれの元 NHK アナウンサー。 現在はフリーアナウンサー、タレントとして活躍している。東野圭吾さんは、大阪生まれの小説家。 2006 年には「容疑者 X の献身」で直木賞受賞。ミステリーランキングでも上位にいる人気作家の 1人である。 問37 正解 2 簡野道明(かんのどうめい) : (本名:かんのみちあき) <1865∼1938> 吉田町出身の漢学者であり、漢和辞典「字源」の著者である。 (広辞苑に記載あり) 問38 正解 1 田中長三郎はウンシュウミカンの代表的品種である宮川早生の発表した人物、今城辰男は 1926 年に愛媛県宇和島市にて南柑 20 号を発見した。青島平十は 1978 年に枝変わりとして静岡県静岡市 で青島温州を発見した。 問39 正解 1 姜沆は今から 400 年前豊臣秀吉が朝鮮侵略の時、大津城城主藤堂高虎にとらえられ、伊予の大津 (大洲市)に幽閉された韓国の儒学者である。大津城を脱走し、藤堂高虎が築城中の板島(宇和島) 城に落書きを行った 問40 正解 3 いっぷりは頑固者・変人・一徹な人という意。 問41 正解 1 山下 亀三郎は慶応 3 年(1867 年) に生まれた日本の実業家で、山下汽船(現・商船三井)の 創業者です。1999 年大阪商船三井とナビックスライン(ジャパンラインと山下新日本汽船の合併会 社)との合併により商船三井が発足 問42 正解 2 九島大橋は、堂崎ではなく坂下津(戎山) 、九島蛤を結ぶ橋である。中央径間を油圧で上下させ る機能などは備えていない。 5 問43 正解 4 (エ)JR 宇和島駅舎が改築され、ホテルなどを併設した駅ビルとなった。1992年 (ア)北宇和郡吉田町・三間町・津島町と宇和島市が対等合併し、新宇和島市となった。 2005年 (ウ)市立宇和島病院が全面的に建て替えを行った。2008年 (イ)四国横断自動車道宇和島北 IC∼西予宇和 IC が開通し、高速道路が宇和島までつ ながった。2012年 問44 正解 3 宇和島藩 10 万石の高直しは 3 代伊達宗贇の時代である。 問45 正解 2 戦国時代、宇和島∼西予市(宇和町)あたりを伊予国宇和郡(うわごおり)と呼称していた。宇 和郡の当時の支配者は、西園寺氏である。宇和の本城には西園寺公広、板島(当時の宇和島あたり) には、板島殿として西園寺宜久がいた。天正 4 年、織田信長が、石山本願寺攻めを行っているころ、 宜久は、伊勢神宮へ参拝していたことが、宇和旧記には記されている。西園寺氏は、伊予国守護の 河野通直と同盟関係にあり、その通直の妻は、毛利輝元の姪にあたることから、板島殿の船旅の安 全は、毛利氏によって保障されていた。播磨に入ってからは、小寺官兵衛に船旅の便宜を図っても らうなどしている。その紀行文は、 「伊勢参宮海陸の記」と仮称され、宇和旧記に収められている。 問46 正解 4 凶刃に倒れた家老山家清兵衛の一統は、はじめは金剛山正眼院近くの西ノ谷に和霊廟としてひっ そりと祀られたが、桂林院殿(秀宗正室亀)の三回忌法要の時、大風が吹き金剛山正眼院の本堂の 梁が落ち、桜田玄蕃が圧死した。その後も事件関係者が変死し、人々は清兵衛の怨霊の祟りと恐れ、 城北の八面大荒神の社隅に小祠を建て、児玉明神とし、霊を慰めた。しかし、そのかいもなく、飢 饉、疾病、早世、天災が相次ぎ承応二年(1653)秀宗は檜皮の森に神社を建て「山頼和霊神社」 とした。享保十六年(1731) 、山家清兵衛を追慕尊崇する五代藩主村候は、現在の場所に大規 模な社殿を造り、武士・町人・農民総参加の大祭が始まり、民衆の広くに信仰されるようになった。 問47 正解 3 秀吉の肖像画で現在まで伝わっているものは、京都高台寺・大阪豊国神社・高野山蓮華定院のも のなどがあるが、宇和島伊達家所蔵のそれは、中でも最も大幅で(縦一三二 cm・横一〇四 cm) 、 荘厳を極めたものである。秀吉が慶長三(一五九八)年八月、六二歳で亡くなったのち、彼の側近 であった富田左近将監知信が、旧主を偲んで描かせたもので、画家の名は不明であるが、狩野派の 有力な画家の作と推定され、慶長四年二月僧録職(五山十刹を統轄する僧録)の西笑承兌和尚の賛 文がある。知信の嗣子、富田信高によって建立された金剛山正眼院(いまの大隆寺)に伝わって来 たものだが、幕末に伊達家に献上された。 問48 正解 4 蔵六は、宗城の上府に随行し、宇和島藩士の身分で幕府の蕃書調所の助教授、講武所の砲術教授 にむかえられている。宇和島滞在歴は約二年半、藩士在籍は 4 年である。また、司馬遼太郎著の「花 神」では、おいねと蔵六が恋に落ちたかのように描いているが、蔵六は妻お琴を呼び寄せており、 おいねも大野昌三郎と同棲(事実婚)しているため事実とは言いがたい。大村益次郎の最期を看取 ったのは三瀬諸淵夫妻とおいねである。 6 問49 正解 1 児島惟謙は宇和島出身の明治時代の裁判官です。明治 24 年に現代の最高裁判所にあたる大審院 の院長に就任しました。同年、ロシア皇太子ニコライ 2 世がきりつけられた大津事件で,犯人津田三 蔵の死刑を要求する政府に対し,条文にない刑罰は適用できないとして司法権の独立を守った人物 です。 問50 正解 2 丸亀城寛永末期、宇和島城寛文中期、高知城寛延元年、松山城安政元年に築城されている。 ≪参考文献・資料等≫ 「宇和島藩」 「宇和島を行く」 「儒者姜沆と日本」 「八つ鹿踊りと牛鬼」 「新 宇和島の自然と文化」 「2007宇和島市勢要覧」 「宇和島城」パンフレット 「伊達博物館」パンフレット 「遊子水荷浦の段畑」パンフレット 「愛媛県」HP 「えひめ国体」HP 「宇和島市」HP 「宇和島市観光協会」HP 「愛媛県酒造協同組合」HP 「商船三井」HP 「三湯華飯」HP 「木下正月堂」HP 「ウィキペディア」 「日本水産資源保護協会月報」 「建通新聞」 「ボクシングマガジン」 7
© Copyright 2024 Paperzz