世界のなかの日本生糸と埼玉県(3)

埼玉彩発見 知られざる歴史を探る
世界のなかの日本生糸と埼玉県(3)
繭と生糸の幕末維新史(前橋製糸所と富岡製糸場)
埼玉大学教育学部教授 田村 均
1 はじめに
べてみます。明治初年の日本における機械製
1870年(明治3)10月(旧暦、以下もお
糸技術の移転は、フランス人生糸検査技師の
なじ)
、明治政府と正式に雇用契約をむすん
ポール・ブリューナのほかに、イタリアで
で官営富岡製糸場の建設責任者となったポー
10数年間にわたって製糸技師の経験を積ん
ル・ブリューナ(Paul Brunat)は、いった
だスイス人のカスパル・ミューラー(Caspar
んフランスに帰国し機械・器具の購入と技師
Műller)によって行われたからです。
および熟練工などのスタッフ雇用の手配を行
それでは、日本最初の機械製糸場である藩
いますが、それに先立ち、開業後に初代場長
営前橋製糸所の設立・操業の中心的役割を
となる尾 高 惇 忠 らとともに上州富岡の建設
担った旧川越藩士・速水堅曹とミューラーの
予定地を実地検分しました。渋沢栄一の後押
出会いを紹介し、富岡製糸場創設をめぐる渋
しで民部省に任官し製糸場建設の実務担当と
沢栄一・尾高惇忠とブリューナとの人的つな
なっていた尾高は、西上州での建設資材用の
がりと対比させながら、機械製糸法の技術移
煉瓦や瓦の焼成・製造、石材の切り出し、そ
転をめぐる2つの潮流をたどります。
お だか じゅん ちゅう
して石灰や木材などの現地調達の準備をとと
のえ、工場建設を71年(同4)3月に開始
しました。
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製糸技術からみた官営富岡製糸場の特徴を述
はや み けんそう
2 機械製糸法の2つの流れ
―技術移転をめぐる前橋・築地と富岡―
なかでも、尾高惇忠は石材の搬出と煉瓦の
スイス人のカスパル・ミューラーが建設し
焼成にあたって、彼の郷里に近い武州幡羅郡
た機械製糸場は、①藩営前橋製糸所(明治3
明戸村(現・埼玉県深谷市)の菲塚直次郎の
年開業、6釜6人繰り、人力駆動⇒水車)
、
力を求めたことはよく知られていると思いま
②小野組築地製糸場(明治4年開業、60釜
す。後年の1889年(明治22)、瓦の製造が
60人繰り、人力駆動)
、そして③勧工寮赤坂
盛んであった旧明戸村には、在野に下った渋
葵町製糸場(明治6年開業、24釜24人繰、
沢栄一が設立を主導した日本煉瓦製造株式会
水車動力)の3工場でした。①と②が時期的
社の近代的な大工場が建設されますので、
に富岡製糸場よりも早く開業していますの
上・武州の地域的つながりのなかで埼玉県と
で、学界では前橋製糸所を日本で最初の機械
りわけ農産加工系の在来産業が成長していた
製糸場として注目してきました。ミューラー
県北地方において近代産業が移植される重要
が建設した機械製糸場はいずれも小規模であ
な契機が創り出されていたことになります。
るので、蒸気機関の動力とボイラーによる熱
本号では、ひきつづき上・武州の地域的つ
源を兼ね備えた大規模な富岡製糸場(300釜、
ながりに注目していきますが、官営富岡製糸
300人繰り)とくらべると大いに見劣りがし
場の開業(明治5年)に先駆けて上州前橋藩
ますが(表1)
、その歴史的意義はその小規
が設立した前橋製糸所(同3年開業)と小野
模性に求めなければなりません。
組の築地製糸場(同4年開業)をとりあげ、
というのも、前橋製糸所が生産規模を過大
ぶぎんレポート No.180 2014 年 8・9 月号
表1 明治初年に設立・開業した機械製糸工場(1872年以降は抜粋)
工場名
操業開始年月
撚掛抱合装置
繰糸機
動 力
加 熱
釜 数
300
富岡製糸場
1872年10月
共撚式
フランス製
蒸気機関
ボイラー
前橋製糸所
1870年6月
ケンネル式
木製国産
人力
炭火
12
築地製糸場
1871年4月
ケンネル式
木製国産
人力
炭火
60
水沼製糸場
1872年2月
ケンネル式
木製国産
水車
炭火
32
勧工寮製糸場
1873年
ケンネル式
鉄製国産
水車
炭火
24
二本松製糸場
1873年7月
ケンネル式
鉄製国産
蒸気機関
ボイラー
48
内藤新宿試験場 1874年
ケンネル式
イタリア製
人力
炭火
六工社
共撚式
鉄製国産
蒸気機関
ボイラー
1874年7月
2
50
(加藤宗一編『日本製糸技術史』製糸技術史研究会、1976年をもとに、一部加筆)
にせず新技術を試験的に移植し、それを日本
異なる、ミューラーがイタリアで経験を積ん
に着実になじませようとした努力をくみとる
で獲得したとみられる、もう一つの西洋式繰
必要があるからです。前橋製糸場だけでな
糸技術です。機械製糸法の核心をなす繰糸技
く、築地製糸場も草創期における西洋技術移
術は、共撚式もしくはケンネル式いずれかの
転の先駆的かつ具体的な試みでありました。
撚掛抱合装置を備えていることを大きな特徴
それにしても、それらとくらべて官営富岡製
とします(図1)
。撚掛抱合装置とは、繰糸
糸場の隔絶した生産規模にはあらためて驚か
鍋に入れられた数個の煮繭から数本(5~7
ざるをえませんが、蒸気機関やボイラーが普
本)の繭糸を集緒し(引き出して束ねて)
、
及する以前は、2工場のように煮繭鍋と繰糸
それらを糊状に溶解した接着力のあるセリシ
鍋に必要な熱源を木炭や薪を窯で燃やして加
ン(膠質)で相互に接着させながら、しっかり
熱する在来的な方法をそのまま採用していま
と抱き(撚り)合わせて円形の断面形状をも
した。また、糸枠を廻す動力源についても人
つ1本の糸筋の生糸にする仕掛けのことです。
力または水車に依存し、いわば和洋折衷の技
ケンネル式は数本引き出した繭糸を1口の
術 を も っ て 経 費 節 約 的 と な っ て い ま す。
集緒器を通し、繭糸数本を合わせて1束(1
ミューラーがかかわったイタリア・ピエモン
筋)
の糸条にし、その糸条それ自体を糸鈎
(鼓
テ地方で蒸気機関やボイラーが普及していな
車)仕掛けを通過させて抱き合わせる方法で
かった可能性も考えられますが、明治初年の
す。これに対し、共撚式は集緒した2束(2
当時、小規模であってもワンセットの製糸機
筋)の糸条を互いに絡ませることによって、
械と動力システムを準備するには多額の費用
それぞれの繭糸の張力を均衡させてよく抱き
がかかったからです。結果として、西洋式の
合わせる繰糸方法でした。しかし、相互の糸
新技術を文化や風土が異なる日本になじませ
条の張力が均衡的でないと糸が切れやすくな
ようとした試みとなったことを評価してよい
るなど、共撚式は操作がむずかしく、生産性
でしょう。
が上がりにくいという難点がありました。け
そして何よりも、特筆したいもっとも大き
れども、ケンネル式よりも抱合に優れていた
な特徴は、2工場に共通する撚掛抱合装置が
ので、品位がより良質な生糸の生産に適して
よりかけほうごう
「ケンネル式」(イタリア式ともいう)であっ
いました。
たことです。ケンネル式は富岡製糸場が採用
そもそも、繭1個から引き出せる1本の糸
した「共撚式」(フランス式ともいう)とは
筋=繭糸(直径、0.01 ~ 0.02mm)は、高
ともより
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セリシン
鼓車
生糸
撚り掛け
撚り掛け
フィブロイン
生糸
集緒器
図2 繭糸の断面図
し、官営事業に先行した藩営前橋
集緒器
製糸所や小野組の築地製糸場にイ
A:共撚り式
タリア式ともいわれるケンネル式
繰糸鍋
の繰糸法を移植したのが、スイス
B:ケンネル式
人 の カ ス パ ル・ ミ ュ ー ラ ー
図1 機械製糸法の撚掛抱合装置
分子繊維のフィブロイン2本の表面をタンパ
ク質(膠質)のセリシンが包んでいる、三角
形の断面形状をなしています(図2)。在来
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(1834 ~ ??)でした。
3 旧川越藩士(前橋藩士)
・速水堅曹と
ミューラーとの出会い
の製糸法にあっても、セリシンを溶かし、こ
明治初年の日本にいちはやくケンネル式の
れを数本合わせて水切りと糸節を除去しなが
繰糸法を持ちこむミューラーと出会ったの
らしっかりと抱き合わせることで、ようやく
が、廃藩置県(明治6年)以前の1869年(同
円形断面の、織物の原材料となる商品として
2)に、前橋藩の生糸売買担当(同3年に生
の生糸を製造することが要点でした。しか
糸取締役)であり藩営製糸場の建設責任者と
し、座繰り製糸法では繰糸工程でいちばん重
して奔走した、武州川越生まれの速水堅曹
要な抱合がおろそかとなり、しかも水切りや
(1839 ~ 1913)でした。維新直前(慶応
糸節の除去もいい加減でした。端的にいえ
2年)に川越藩主の松平大和守が上州前橋に
ば、抱合と糸節の除去を犠牲にして繰糸作業
移封(
「帰城」
)となったため藩士の速水堅曹
の能率向上を追求したのが座繰り法でした。
も同地に随行しますが、前橋藩は前号で触れ
それだけに、円形断面の良質な生糸を製造す
ました幕府による全国的な蚕種・生糸の流通
るにはもともと技術的な制約があり、フラン
統制に便乗して、みずからの藩域における生
スをはじめとする欧米諸国が求める生糸の品
糸の流通規制と製糸場建設に乗り出していま
質に十分に対応できなくなったため、機械製
した。
糸法が大いに注目されることになったのです。
幕末維新期にかけて、前橋藩は横浜開港後
かくして、日本における機械製糸法の技術
にいっそう活発化した生糸流通を藩の統制事
移転をめぐって、2つの大きな潮流が存在し
業なかに組みこむ戦略を具体化していきま
ました。1972年(明治5)11月に開業した
す。関東地方における生糸の1大集散地と
官営富岡製糸場にはフランス人のポール・ブ
なった前橋市場に集中する生糸を統制し、そ
リューナによって、いわゆるフランス式とよ
のいっぽうでみずから製糸経営も手がけるこ
ばれる共撚式の繰糸法が導入されたのに対
とによって、輸出生糸の生産と売買からの利
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益を一手に吸収して藩財政を立て直そうとす
ロッパ式の機械製糸技術を伝授しました。速
る政策を実施したのです。具体的な動きとし
水はこの前橋製糸場をみずから「糸試験所」
て、幕府が1866年(慶応2)5月に発布し
とよび、昼夜を惜しんでミューラーから機械
た生糸改印令に呼応するかたちで、同藩は
製糸法を積極的かつ熱心に学び取ろうとした
69年(明治2)に横浜に「敷島屋」という
ようです。さらに、彼は希望者には機械製糸
直営の生糸売込問屋を出店し輸出生糸の売買
法の伝習を授けました。前橋でのミューラー
に積極的に参入しました。前橋市場で集荷し
はわずか4ヶ月間の滞在でしたが、前橋を
た生糸の「浜出し」(横浜への出荷)を実行
去った後は小野組の築地製糸場を建設し、さ
するにあたって、既存の売込問屋(日本商人)
らには工部省に雇われて勧工寮赤坂製糸場に
をたよらずに外国商人(横浜居留地の外商)
かかわるなど、イタリア式=ケンネル式の機
に直接売り込み、もってより多くの収益を一
械製糸技術の日本への最初の移植と導入促進
手まとめて吸収しようとしたのです。要する
に大きな足跡をのこしました。
に、前橋藩は前橋市場に集まる生糸の売買を
製糸技師としてのミューラーの考え方は、
独占的に行おうとしたわけですが、藩みずから
製糸場は小規模であれば蒸気機関・ボイラー
が輸出商売に直接乗り出すのは全国的にみて
などの大掛かりな装置設備を用いなくても、
も異例のことでした。いうまでもなく、藩士・
在来的な人力ないし水力と薪や炭火で十分に
速水堅曹もこの事業にかかわっていました。
対応可能であり、それなりに上質の生糸が生
ここで注目しておきたいのは、この間、前
産できるようになって経営面で採算がとりや
橋藩の生糸取締役という立場で藩営製糸場の
すいという点にあったと思われます。
建設事業にも深く関与していく速水堅曹が、
生糸貿易をめぐる2つの重要なポイントに気
4 渋沢栄一とブリューナとのかかわり
づいたことです。1つは、日本生糸の国際価
おしまいに、官営富岡製糸場の設置主任と
格がかなり格安であったこと。そして、もう
なった渋沢栄一(1840 ~ 1931)がフラン
1つが、微粒子病(蚕病)によりヨーロッパ
ス人生糸検査技師のポール・ブリューナとか
の生糸需給が激変し日本生糸の海外需要が高
かわるいきさつを紹介しておきます。
まっているのに、座繰り製糸法による日本生
ブリューナ(1840 ~ 1908)は養蚕業が
糸が機械製糸法によって生産されたヨーロッ
盛んであった南フランスのドローム県ヴァラ
パ産生糸よりもかくだんに品質が劣っている
ンス(Valence、絹都リヨンから約30km南
とみなされていたことでした。そして前橋
のローヌ河沿いの町)の近郊で生まれ、リヨ
で、速水はミューラーが持っていた40年前
ン(Lyon)の絹糸問屋で働いた後、1869年
からの各国生糸相場表を目の当たりにしま
(明治2)の6月以前に生糸検査技師として
す。きわめて低い格付けで国際的に取引され
来日したばかりでした。おそらくブリューナ
ていた日本生糸についての海外情報に、おそ
は、横浜居留地のエシェ・リリエンタール商
らく速水が驚きをもって接したことは想像に
会(Hecht Lilienthal & Co.) に 着 任 し て
難くありません。
早々、同商会の推薦ないし斡旋によって生
1870年(明治3)6月、上州前橋に到着
糸・絹織物に精通した専門家としてイギリス
したミューラーは翌月には市内にごく小規模
公使館書記官アダムスの国内蚕糸業視察団の
な6人繰りの製糸所を建て、速水堅曹にヨー
一員に加わり、実地調査の機会を得たものと
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推測されます。視察後、アダムスは詳細な調
糸業調査が日本における機械製糸法の導入を
査報告書を作成し、本国イギリスをはじめ日
うながす機運をいっきに高める契機となっ
本政府や外商団体の横浜商業会議所などに配
て、その後における前橋藩や新政府の具体的
布しましたが、そのなかで抜本的な養蚕改良
対応を加速させることになりました。
とともに製糸法の革新すなわち日本にヨー
1870年(明治3)5月、イギリス公使館
ロッパ式の製糸機械を導入し機械製糸場を設
書記官アダムスは欧米列強代表として、ふた
立する必要性を強く主張しました。
たび明治政府の支援と協力を得て第2次内地
このアダムス報告書にいちはやく具体的な
調査を40日間にわたって実施しました。こ
反応を示したのが前橋藩でした。けれども、
れを受けて翌年に横浜居留地の外商たちが生
それと前後して、ブリューナが務めていたエ
糸改良を勧告しますが、過剰な蚕種輸出が日
シェ・リリエンタール商会の代表社員である
本生糸の粗悪化の原因であると指摘したアダ
ガイセンハイマー(F. Geisenheimer)が
ムスの調査報告は、日本政府に対して養蚕改
日本政府の中心にいた伊藤博文などに機械製
良とともに機械製糸法の早期導入とヨーロッ
糸場の設立を強く働きかけていたのです。し
パ熟練工による伝習教授を重ねて勧奨しまし
かし、日本政府はガイセンハイマーの製糸場
た。当初は小規模な機械製糸場を想定してい
設立の出願を拒否し、さらには資金供与の提
たとされる日本側が、この間に官営模範によ
案すら退けました。機械製糸場設立にかかわ
る機械製糸場の大規模な創設構想をもつに
る外国人の申し出や出資を拒絶した新政府の
至ったことになります。
対応は、外資依存=外国資本の国内侵入を排
明 治 政 府 は1970年( 明 治 3)10月 に ブ
除する意向が強く働いたものであったととら
リューナと5年間の雇用契約をとりむすび、
えられています。
ヨーロッパからの製糸機械の購入や技師・熟
前号で紹介したように、民部省に任官した
練工の雇い入れについてはエシェ・リリエン
渋沢栄一が「官営富岡製糸場設置主任」に抜
タール商会(本社リヨン)に斡旋させ、それ
擢されたのは1970年(明治3)5月でした。
らの購入準備金についても相応の金額を同商
日本において外資主導による機械製糸場の単
会に前渡しするなどの要求点を承認しまし
独経営をもくろんだガイセンハイマーが新政
た。こうして72年(同5)10月に開業する
府の中枢と直接交渉におよんだのがその直前
官営富岡製糸場にはフランス製の製糸機械
であったかどうかははっきりしませんが、明
(日本人向けにやや小型化に改良)が持ち込
治政府も実地視察にもとづくアダムスの所見
まれ、フランス流の共撚式繰糸法によって生
を重く受けとめざるをえませんでした。対外
産される生糸が、横浜のエシェ・リリエン
関係とりわけ欧米諸国との貿易交渉をつうじ
タール商会を介してヨーロッパ=フランス市
て新政府が官営富岡製糸場の大掛かりな創設
場に送られていくことになるのです。
を構想し、その具体化を喫緊の政策課題とす
るのは、まさにこの頃であったといえるで
しょう。おない年の、中央官僚になって間も
ない渋沢と来日したばかりのブリューナが出
会うのも、そうした状況下であったことにな
ります。いずれにしても、アダムスによる蚕
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ぶぎんレポート No.180 2014 年 8・9 月号
【参考文献】
富岡製糸場誌編さん委員会編『富岡製糸場誌(上)
』富岡市
教育委員会、1977年。
群馬県史編さん委員会編『群馬県史』
(資料編23/通史編8)
群馬県、1985年/1989年。
今井幹夫『富岡製糸場の歴史と文化』みやま文庫、2006年。