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Akita University
秋 田大学教育文化学部研究紀要
教育科学部門 5
8 pp.
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3
明治期秋 田県 における武道の奨励 について
森
田 信 博
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1. は じめに
A.リー
が整 っていった。外国人教師として招蒋 された G.
1
87
2
) 9月 5日 (
陰暦 8月 3日), 学制が
明治 5年 (
ラン ドは,D.ルイスが考案 した 「徒手体操, 亜鈴, 球
発布 され小学校教科 に 「
体術」 の名称で学校体育が実施
竿,木見
豆嚢,梶棒など1
)
」の保健的性格のノーマル ・
され ることにな った。 しか し具体的な実施方法を示 した
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) を主要教材
ジムナステ ィックス (
「
小学教則」 には 「
体術」 の項 目がな く, その内容, 方
として 「
男子体操術,女子体操術,幼児体操術,美容術,
改正小学教則」
法 は明 らかにされなか った。翌 6年の 「
調声操法など2
)
」を指導 した。 この 「普通 体操」 あ るい
樹 中体操法図,
では 「
体術」が 「
休操」 と改め られ,「
は別名 「
軽体操」 は,斜梯,平梯,平行棒,跳躍板など
,2時間」
東京師範学校板体操図等」を参照 して 「1日 1
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) の対極 に位置 さ
を用いる重体操 (
実施す ることが示 された。体操伝習所が開設 される明治
れ, フッ トボール, ク リケ ッ ト,ベースボールなどの戸
11
年 まで は, これ らの欧米 の体操書 の直訳を模倣 した形
外運動や端船操櫓法や競漕などの操櫓術 も含 まれていな
式的な徒手体操が実施 されれば良い方であ った。学校体
4
か った3
)
。 この リーラン ドの指導 した体操法 は, 明治 1
育 の教材 に 「
徒手体操」が取 り上 げ られたひとつの理由
年 7月以降,体操伝習所の卒業生 によって全国 に普及 さ
として,幕末か ら明治初年 にかけ幕府や各藩 は兵制の改
れることになる。 この体操法だけが学校体育 として最適
革 に西洋式 を取 り入れ, その基本訓練 として徒手体操が
の方法 とな った。
実施 されてい った ことがある。明治 3年 には陸軍が フラ
6
年の徴兵令の大改革 に伴 い翌1
7年 に,文
しか し明治1
ンス式軍制 を敷 き,6年 には陸軍戸山学校 に体操研究所
部省 は学校で行われる歩兵操練科 の程度,実施方法 さら
を設立 し翌年 にはフランスの体操教師デュクロを招聴 し
に小学校での実施の是非を体操伝習所に問いかけた。 こ
ている。学校体育 はこのような陸軍の採用 した体操 の影
の頃 より富国強兵策の強い影響 と急速な西欧化への見直
響 を うけ,徒手中心 の体操教材 とな り, さ らに施設,設
しなどにより,体操伝習所の普通体操 のほか陸軍戸山学
備の不備 さ らには学童の和服 も,室内での上肢,下肢を
校の兵式体操,伝来の武道 さらに外来の戸外 スポーツが
主 とす る運動 にな らざるを得なか った。
学校現場 に導入 されていった。すなわち外来 のスポーツ
明治11
年 に体操伝習所が設立 されて,学校体育の基礎
は教科 としてではな く,課外 クラブや運動会 といった課
-6
5-
Akita University
秋田大学教育文化学部研究紀要
教育科学部門 第5
8集
外的行事 として学校体育 に影響をおよぼ したが体操伝習
けれども,身体の調和的発達をさまたげ,多少危険を伴
所の考え方か らすれば, 自主的なスポーツやゲームは,
い,闘争心を誘発 し勝敗 にとらわれる風を助長 しやすい
必ず しも教育的ではなか った。 さらに体育 は単 に保健衛
など,心身の発達 に応 じた指導が困難であ り, また経済
生的 に疾病予防や身体養護 のみではな く,徳育 として精
上,管理上か らみて も」学校の正課 として採用す ること
神 を も鍛えてい くとい う発想 も強 まり,陸軍戸山学校式
は不適切である, とい うものであった6
)
。 体操伝習所 の
の操練法 に強い関心が もたれ,陸軍教導団附士官の学校
立場 は生理学,解剖学,衛生学 といった医学的な面か ら
派遣が行われた。 この軍事訓練 としての兵式体操 も,体
発育期 の学童を配慮 した もので,競技主義,鍛錬主義 を
操伝習所 は当初反対の姿勢であったが,文部省,陸軍 に
回避 して適度 な運動 により身体の発育発達 の促進,健康
7
年 に答 申を出 し学校体育は普通体操,
押 し切 られ,明治 1
の維持増進 を主課題 とす るものであ った。 それに加 えて
兵式体操併行へ と移行 してい く。それ とともに剣術及 び
武道各流派 は別々の教授,指導法で共通性 も少 な く,勝
柔術 の教育上の利害適否 に関す る調査が体操伝習所 に依
負,護身が主眼 とされ,精神的効果 に重点を置 きす ぎて
頼 されてい く。
いる点 も否定的に受 け止め られた。 しか しなが ら日本在
一方秋 田県では,他県 と異 な り 「
学制発布 一従前学校
廃止 一新教師の育成 一新学校設立4
)
」 という経緯をたどっ
慣習上行われ易 さところあるを以て,
来の運動であ り,「
かの正科 を怠 り,専 ら心育 のみ偏す るが如 き所 に之 を施
たために,学制 に基づ く学校設立の伺書は明治 7年になっ
さば,利を収むるを得べ し7
)
」 と付 け加 え られ, 若干 の
て文部省 に届 け られ ることになる。秋田県では従来の郷
配慮が された。
学校や藩校などを容易 に廃止す ることはで きたが,その
体操伝習所の武道 に対す る否定的な答申が,兵式体操
一方で新学校の創立 には困難が山積 し,長 い教育の空 白
に対す る積極的答申と対照的であるのは,森文相 に代表
期を生み出 して しまっている。 その遅れを取 り戻すべ く
され る富国強兵策への効果的対応 としての西欧的軍制へ
明治期中期以降 にかけて,学校制度が整備 されてい くな
の傾倒 と三育主義 に基づ く医学的合理主義 に立つ体育思
かで,地域社会 に広 く普及 し親 しみ もあ りさらに従前 の
想の優位性の結果であろう。
藩校 などで武芸,教練 として実施 されていた武術,武道
が どのよ うに扱われさ らに奨励 されていったのかを明 ら
(
2) 武道の体操化
かにす ることが本稿の課題 となる。 そ こには近代的な西
5
年頃にスエーデ ン体操が紹介 され るまでは,正
明治3
欧の学校教育,体育 の目標,課題 と日本の伝統的な道徳
課体育 は大 きな変更 もな く普通体操 と兵式体操が実施 さ
敬,鍛錬観,精神性 などの括抗 を見て取 ることができる。
れていた。一方で学校衛生への関心が高 まり,両体操 に
医学的視点か らの批判が加え られつつあ った。 とりわけ
2.武道教材 に関する文部省の見解
普通体操 は形式的で不合理 な もの とな っているとの批判
(
1
) 武道 に対する体操伝習所の答 申
を受 けた。 そ こに生理学,解剖学 に即 した科学的で合理
明治 4年廃刀令 に伴 い刀剣への規制 も始 まり,不辛士
的なスエーデ ン体操 の紹介を川瀬元九郎や井 口あ くりら
族の動乱か ら武術稽古 に も疑惑 が もたれ, 東京府 で は
が相次 いで行 ってい く。 この体操の合理化 に武道関係者
「
撃剣 の稽古 をす る者 は国事犯嫌疑 と認 め る」 とい うよ
は,伝統的精神をより所 に しつつ,武道 の体操化を試み
0年 頃を さか いに,
うな布告 も出された5
)
。 しか し明治1
その合理性を文部省 に問いかけ,正課採用を求めてい く。
都市部では急激 な西洋化への見直 しや地方では武芸,武
小沢卯之介 は棒術,剣術,薙刀術,槍術等武道各流派か
術 に対す る親近感への理解が認 め られていった。各種の
ら体育方法 として適切な ものを抜粋 し,歩兵操典,体操
道場 の開設や学校での課外 クラブ活動 さらには随意科 と
教範,剣術教範,陸軍礼式,普通礼式法等を配慮 して体
5
年 には講道館が開設
して武道の指導が行われた。明治1
操 に同化の試みを 「
武術体操法」 として著 し, また 「
薙
され,各地か らの武術正課採用の要請に対応するように,
刀体操」 を実施 しその有効性を示 しなが ら,武術の本 旨
剣術及 び柔術の教育上 の利害適否
翌1
6年 5月文部省 は 「
を失わない新体操であることを強調 してい く。 さ らに中
に関す る調査」を体操伝習所 に諮問 した。
長刀体操」を創作 した8
)
。 これ ら
島賢三 は 「
木剣体操」「
体操伝習所吏員渋川半五郎 のほか陸軍省より富田正直,
の試みは武道が尋常中学校でさえ正課 とされず,わずか
警視庁 よ り久富鉄太郎が伝習所兼務 として調査 に取 り組
に一部 の課外遊戯 としての扱 いに対する妥協策であった。
み,生理学的見地か ら東京大学医学部長三宅秀 と外国人
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学校で もこれ らの 「
武術体操」が実施 され るほ
7年 1
0月
教師 E.ベルツ,J.スク リバが招聴 された。 翌 1
ど武道 に対す る理解や賛同 があ った ことも確かである。
に出された答申では,身心の発育か ら考えて武道の正課
ただ し文部省の武道 に対す る消極的な姿勢 は明治期 に
採用 は不適 当であるとい う結論であ った。 「身体 の発育
とどま らず,数度の正課採用の建議 に もかかわ らず大正
助長,待久力,護身力,気力, などを養 うことがで きる
期 に入 って も法令上 は随意科 にとどめ られていた。
ー6
6-
Akita University
森 田 :明治期秋 田県 における武道の奨励 について
(
3) 体操遊戯取調委員会 と武道
この要 目作成の責任者である永井道明は,武道を要 目
8
年 に体操遊戯取調委員会そ して
日露戦争終了 の明治3
に加えることには賛成 したが,随意科 として中学校 に採
4
0
年 に陸軍文部省共同調査委員会が開催 され,従来の普
用 したにとどめた。 また内容,方法を明記 しなか った こ
通体操 とスエーデ ン体操 さらには国際的な広が りをみせ
とは体操科教授時間外に実施 させ ることを前提 に してい
るスポーツなど多様化 した学校体育 の整理統合が検討 さ
るようにも受 け取れさらにその後 の方向性 などに関 して
れた。体操遊戯取詞委員会 は 「
報告書」 において学校武
も極めて消極的態度であ った。
大正 2年の学校体操教授要 目の制定以後, これに準拠
道 に関 して以下 のよ うな結論を出 している。
6年 に体操伝習所の調査 による正課不適当の決定
明治 1
して全国の学校体操 は実施 されて きたが, その後教練 の
9
年 に学校衛生顧問会議 の調査で も従来通 りで
後,明治2
5
年 5月 に改正公
重視, スポーツの隆盛 などによ り大正 1
,
近年体育奨励の声盛なると共 に之 を学校正科 に
あり 「
布 された。「
撃剣及 び柔術」 の名称が 「剣道及 び柔道」
加へん として建議す るもの多 Lと雄 も今 日に於 いて嚢 に
に改め られたが,体操科 の教材 は 「
慣操,教練,遊戯及
調査せ る結果を覆 し之 を正科 に加へ ざるべか らず とす る
競技 とす但 し男子の師範学校,中学校 に在 りて は剣道及
5
の理 由を発見す ること能わず仇て従来 の方針 に依 り満1
柔道を加ふ るころを得」 と示 され随意科 のままで,具体
才以上 の強壮 なる生徒 に限 り任意正科外 に行 は しむるを
的な教材配当 も示 されず 「
剣道及柔道 に関 して は一定 の
)
」。 この報告書 では,委員会 は従来
以て正当な りと信ず8
方法を示 さざるも適当なる方法を定めて之 を授 くべ し」
の答申を繰 り返 しただけで,武道の正課採用を検討 して
と改訂前 とほぼ同文のままで,指導上 の注意 は 「
特 に礼
いるよ うに も思われない。
節を重 し徒に勝敗 に捉 はるるか如 きことあれへか らす」
会議での武道正課採用の建
その後明治39年 3月の第22
とだけ掲 げ られた1
2
)
。学校での正課 として武道 が取 り扱
議 に対 して,積極的な発言 に押 され,委員会修正案 「中
われてい くのは,昭和 6年の満州事変以後であ り,教材
学程度の諸学校 に体育正課 として剣術若 しくは剣術形の
の配当などは昭和1
1
年 の第 2次学校体操教授要 目の改正
体操 (
練胆操術)又 は柔術若 しくは柔術形の体操 の何れ
か らであった。
か調査の上其 の-を教習せすむべ し9
)
」 が可決 された。
この時点で中学校施行規則の改正 までは至 らなかったが,
3.秋田県での武道実施状況
各地 の中学や師範学校で武道は随意科的に採用されていっ
(
1) 明治期中期 における実施状況
4
年中学校令施行規則が 「
体操 は教練及
た。 そ して明治4
2
年 には教育令が公布 さ
体操伝習所が設立 され,明治1
0
)
」 と改正
体操 を授 くべ し又撃剣及柔道 を加ふ ること得1
れ,西欧流 の近代的学校制度 における学校体育展開 され
された。高等中学校規定,師範学校規定 も改正 され,正
始めた頃,徐々に儒教的思想の復活や修身重視 の傾向が
課必修で はな く 「
随意科」扱 いであ ったが,法令上の初
3年 12月の元老
在来の武道の採用を求めていった。明治1
の改正 とな った。
院の教育令改正布告案の議論では,文部省 の 「
体操」 と
い う原案 に対 して 「
武技体操」 とい う教科名の修正案が
(
4) 学校体操教授要 目と武道
出された。 そこでは 「
体操だけで は少年 たちの心胆を練
大正 2年 1月に陸軍 と文部省の共同調査委員会の比較
り護国の強兵をっ くることはで きない。徴兵年限を短縮
的協調的な協議 を経て,学校体操教授要目が発布された。
3
)
」 とい う富国強
す るためにも武技を加える必要がある1
ここで初めて普通体操,兵式体操が 「
体操」 として統一
兵主義か ら体操科 において武道を用いて精神的鍛錬 と軍
」「教
事的基礎訓練 を実施 してい くことが論議 されていった。
された。そ して体操科 の教材が,小学校 で 「体操
遊戯」,中学校,師範学校 の男子 には 「
撃剣 ・柔術」
練」「
対 7とい う採決で原案が承認 された
激 しい論争 の末,11
が加 え られた。「
体操」 は教科 の名称 と して広義 に使用
が,その結果 は後の兵式体操 の強化,重視 とな ってい っ
され ると共 に教材のひとつ として狭義 にも用い られるよ
た。
うにな った。
明治1
6年1
2月秋 田中学関藤校長 は,体育 の重要性 を説
「
撃剣及 び柔術」 の武道 は正科 に 「
加ふ ることを得」
「尚一層の活発強剛の心身を養せんが為体操科 中 に
き,
と記載 されたが,具体的な教材内容 の配当表 は示 されな
撃剣の-科を加え随意科1
4
)
」 として,担当者を配置 し希
か った。随意科 として 「
別 に一定の方式を示 さず従来の
望学生 に指導 してい くとして時間割案 を添 えて県令 に申
方法 により適宜之を授 くべ し」 とい う段階 にとどめ られ
し出ている。同 じく秋 田県師範学校で も 「
体操科補翼」
た。指導上 の注意 として,勝敗を競 うよ りも,「特 に精
として師範科生 に撃剣を練習 させ ることに して い る15)。
神的訓練 に重 きを置 き」
,用具 の改善 , 危険防止 に留意
2
年 1月には秋 田中学第 3年級生徒 に兵式体操 (
漢
明治2
して 「
教授 の方法 を工夫 して常 に用具を清潔」 にす るこ
練)が導入 され,軍隊式の団体組織での行動が指導 され
。
とを掲 げている11)
てい く。翌年の教育勅語の公布 により,体育,武術への
-6
7
Akita University
秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第5
8集
関心が高 まり,清国 との関係の不安か らますます武道熱
鍛錬会
ら6時間に増加 させ,寄宿生,通学生 を問わず 「
3
年 に寄宿舎が設
が高 まっていった。秋 田中学では明治2
の趣 旨を貫徹せんが為め一週 6日の間 6時 よ り 7時迄生
5
年か ら寄宿生2
8名 に日曜,祭 日の早朝,雨天
け られ,2
2時迄他学科 の学習す る」 と
徒全体体操を行ひ 8時より1
体操場で撃剣の稽古が実施 されてい く。撃剣 と柔道の教
いう時間割を組んだ。そ して撃剣,柔術 は校内試合 とし
師が雇われ,竹刀,防具等を学校 よ り支給 して指導す る
てさかんに実施 されていった。翌年 の 「
父兄への書翰」
6
年 には県知事等を招 いての撃剣,柔道大会を
と共 に,2
には,朝 6時 より体操や撃剣等の運動を続けた効果がはっ
7
年 に新寄宿舎が増設 されると,
開催す るまでにな った。2
きりと現れ,初夏を迎えるこれか らは朝 5時か ら運動 を
いちだん と熱が入 り人数 の関係で二班 に分かれて毎朝隔
)
。西館 は と り
す ることも考えていることを伝えている21
)
。師範学校では明治2
6
年か ら柔術師
日の練習 とな った16
わけ徳育を重視 し学校家族主義 と言 え る理念 を もとに
範を招鰐 して撃剣,柔道,漕櫓,湛泳を課 してい く。
0
名程度で構成 し,部長 には先生 がつ く。 生徒 は
「
生徒2
8
年
全国的な武道復興の高 まりに応え るように,明治2
部友 として, おたがいどうLは兄弟のよ うに,部長 には
大 日本武徳会が設立 された。武道,武徳を保護奨励 し国
一家の家長のように して教 えを受 けるとい う形態」 いわ
民 の士気 の滴毒を目的に,全国 に武徳殿を設立 し道府県
ば家族のような部属制を取 り入れ,各部 を競わせなが ら
知事が支部長 を兼ねた。 このことは在来の武道 に全国的
生徒心得の遵守,遠足,修学旅行 などの活動 を展開 して
な中核がで きただけで はな く,精神的訓練 には武道が最
いった2
2
)
。その主要な手段が体操,武道,教練 であ った
適であ り,武徳,尚武の気象の養成 などが戦時体制 とと
といえる。
5
年の秋田中学,師範学校では 「
従来撃剣柔術等
明治3
もに教育,体育 に浸透 していった。
の武術を以て体育方法の一 に加へ居た りしが近来武術界
(
2
) 明治期後期 における武道実施状況
の趨勢 につれ一層の奨励を加へたれば従て生徒 の熱心 の
1
年 に後 の大館中学,横手中学 (
明治3
4
年 にこの
明治3
漸 く度を増 し寄宿生 の如 きは早起 きして所謂朝稽古 を試
校名 に改称)が創設 され,3
4
年 には高等女学校 も設立 さ
む るなど甚だ盛 な り」 とい う状況であ り,新年 の稽古 は
れた。中等教育 の普及 と充実が進む と同時 にこれまで校
じめには,両校長 を は じめ知事, 視学 官 の参観 の もと
内での練習や大会であ った武道が対校戦へと移 っていく。
「
2
0
数名の小学生 も加 はり市内知名剣客指摘 の下 に数十
2
年 9月に函館中学校生徒1
9
名が修学
秋田中学で は明治3
番の銃剣術を試み其挙措動作の活発なる従来の所謂学生
0
旅行 として来秋 し,撃剣 の試合を行 っている1
7
)
O 同年 1
に似ず頗 る人意強ふせ しむ るのあ りき」 と評価 されてい
月には大 日本武徳会渡辺会長一行が来校 し,各文武高等
6
年 には秋 田中学, 大館 中学, 横手 中
る2
3
)
。そ して明治3
官の見守 るなか撃剣試合を開催 した。それに応えて 「
武
学 による撃剣の対校戦が開催 されてい く。
徳会大演武会」が催 され,一行の参観す る前で柔術,撃
4
年 に校友会が結成 され器械体操,
横手中学では明治3
)
。翌3
3
年京都武徳
刺,槍術,銃槍の演習が披露 された18
撃剣,相撲,柔術,野球など 7つの運動部が組織 された。
殿で開催 された全国青年武徳大会 に 「
寄宿舎生徒第四学
8か ら 「準正課」 とされたので 1, 2年生 は
撃剣 は明治3
年小西貞助」が 自費で参加 し,撃剣試合で勝利 し賞与を
毎週 1時間必修, 3年生以上 は志望 として実施 されてい
授与 された。 これに刺激を受 けると同時 に修学旅行費を
た2
4
)
。創部当初か ら校内での試合のほか, 1級 か ら 3級
県が支給す ることにな り,旅行をかねて全国青年武徳大
8
年 には 「
横手町付近
までの 「
級位検定」 も実施 され,3
7
年 には県か らの補助が打
会等 に参加す ることになる。3
の剣客を会 して大試合をな し,併せて部員の等級を定め」
ち切 られ参加を見送 らざるをえなか ったが,撃剣, ボー
ている。 さらに大館中学 の来校時に行われた撃剣試合で
0
年頃までは撃 剣 に比 べ
トが大会参加 を してい った19)。3
完敗 したことを うけ,横手警察署撃剣部 との問 に 「
連合
柔道 は 「旧式 にて一向興味な く生徒 は柔道の教授 を受 く
撃剣会規的」が結ばれ,毎月 1回練習試合を開催す るこ
1
るもの甚 な し2
0
)
」 とい う状況で,生徒の要望 もあ り,3
とが決め られた2
5
)
。柔術部 も創部当初か ら活動 が行 われ
年に 「
講道館出身」 の白石康助を招聴 し,柔道 の普及が
8
ていたが,専門の指導者 もな く活動 は停滞 していた。3
はか られた。
年 に生徒有志が自費で講道館柔道 の専門家を招蒋 して本
質実 剛健 の気風」 を教
大館中学 の初代西館校長 は,「
格的な活動が再開 されていった。 その後,地域の小学生,
2
年 に担当者 3名をお く 「
鍛錬会」
育方針 に掲 げ,明治3
警察官,有志 を交えての撃剣柔道大会が開催されてい く。
を組織 した。鍛錬会 は 「
本会 は神気を養ひ胆力を練 り併
9
年 に秋田市 に武徳殿が設立 され るとさ らに全県
明治3
せて身を強健 にす るを以て目的 とす る」 として全員加入
0
年代末
の武道への関心が高 まっていった。すでに明治2
が義務づけ られ,課 目として普通体操及 び兵式体操,響
か らの武道への関心 の高 ま りは,各地 に武道場を開設 さ
刺,柔術,胞格調練,遠足,行軍,学術旅行,徹夜,夜
せていき,中等学校 の生徒 も通 うほどにな っていた。特
行,水練が実施 された。正課の体操 を規定の週 3時間か
9
年開設 した楢山 「
揚武館」 をは じめ 「
練武館」
に明治1
-6
8
-
Akita University
森 田 :明治期秋 田県 における武道 の奨励 について
「尚武館」 などで秋 田中学,師範学校生 が武道 を 自主的
之 を不問に附す る能 はず」 とい う状況 も生 じ,演武場 の
0
年代 に入 ると道場での稽
に行 ってい った。 しか し明治3
稽古 は 「
学校教育 の下 に従属」すべ きであるとい う見解
古や軍隊の歓迎などの演武場の都合で児童生徒 に学校を
5
年 の秋 田県 内 の
を秋 田県教育会が示 してい く2
6
)
。明治3
休校 させ ることが しば しば起 きた。 「演武場 と学校 との
武道団体 と大 日本武徳会会員数 は次 の表 のようである2
7
)
0
問に往 々に して衝突 を釆 たす ことに於 いては看す看す,
8
年の秋 田県教育会総会で 「
修業年限 4ヶ年 の高
明治3
5
年)
秋田県内の学校外武道団体 (
明治3
称
名
武術種別
位
役
置
員
会員数
揚
武
館
撃剣 .柔術
秋田市楢山
館長大久保泰臓
6
0
0
名
報
国 館
撃剣 .柔術
秋 田市西根小屋町
幹事須田秀夫
3
0
0
名
尚 武
館
撃剣 .柔術
秋 田市保戸野
館長萩津助言
4
0
0
名
練
館
撃剣 .柔術
秋田市手形
館長貝塚清直
1
5
0
名
楢山射的場
射的
南秋田郡広山田
長谷川勝太郎
八幡大弓場
大弓
秋 田市八幡社境内
御代弦 羽生氏熟 長山武治
志
武
遠田貞誠
3
0
余名
1
0
0
余
3
0
名
大弓
秋田市 田中町
会長西宮継
山本大弓場
大弓
秋 田市鉄砲町
(
営業矢場)
土崎尚武会
撃剣 .柔術
土崎
会長七候平六
1
5
0
名
養 神
会
大弓
土崎池鯉亭
石井忠尚
2
0
余名
大弓
能代下川反
会長蝿千代記
1
6
名
大弓
大館作楽矢場
高橋末坪 演松新七
3
0
名
小田嶋道場
撃剣 .柔術
花輪町
小田嶋治右衛門 小田嶋昌臓
2
0
余名
花輪大 弓場
大弓
花輪町
小田嶋由義
1
0
余名
殻
会
志
殻
会
輿
武
会
正
巳 会
大弓
本荘町
会長高橋健
1
6
名
健
射
会
大弓
本荘町
熊本亀三郎
7
名
揚
武
会
撃剣
本荘町
高橋健
6
0
名
横手尚武会
撃剣 .大弓
横手町
小室忠蔵
大
弓 会
大弓
大曲町
遠藤政敏
武
談
撃剣
銃剣術
射的 .柔術
槍術 .
秋 田市
武田安之助
大
弓 会
大弓
湯揮町
佐藤治門
会
2
5
名
榊田清兵衛 小西良書
岐部熊雄
波速新一
特別会員
正 会 員
賛助会員
計
秋 田 市
ll
1,
1
5
8
1
8
8
1
,
3
5
7
南秋 田郡
1
7
1
,
3
9
3
4
6
1
,
4
5
6
北秋 田郡
山 本 郡
川 辺 郡
1
8
1
9
8
9
6
55
1
,
2
8
52
7
1
8
8
5
6
1
9
1
,
0
6
8
1
,
3
1
0
7
4
5
由 利 郡
4
1
2
,
4
9
1
8
6
2
,
6
1
8
仙 北 郡
5
3
1
,
6
4
8
6
4
1
,
7
6
5
雄 勝 郡
2
1
1
,
0
8
7
1
8
1
,
1
2
6
平 鹿 郡
4
2
1
2
1
,
2
2
9
5
6
6
8
7
2
3
1
,
3
5
8
6
0
1
鹿 角 郡
ー6
9-
7
0
名
1
0
余名
秋田県内の大 日本武徳会会員数 (
明治3
5
年)
郡市名
2
5
名
Akita University
教育科学部門 第5
8
集
秋田大学教育文化学部研究紀要
等小学校 に撃剣,銃鎗,柔術の-科若 くは数科 を加ふ る
味あり,其の意志 を以て教育上 に武術を加へ られん こと
こと」が論議 された2
8
)
。提案理 由 は
を望む而 して中学校 は 1年 より撃剣を教授す るが年齢 よ
成す る途がないか らであ らうと恩ふ,之れを養成す るに
り云へば其の 1年 の 3年生 は高等小学校 の児童 と桐均 し
,「尚武 の気衆 を養
は小学校時代か ら武術 を仕込 まんけれはな らない武術を
ければ体育上 にも別段 の影響なか るべ し」 と して,「
仕込む と自然 に堪忍力を養 うと同時 に健康を保つに至る,
科 目」 としてではな く体操 として教授す ることを提案 し
世間能 く武術 を仕込 む と人が荒 くなる疎暴 になると云ふ
小学校 にて体操科 に加 へ る と云
ている。反対意見 は 「
て居 るが,之れ は大 いなる誤解で,無教育者 には往々疎
ふの生理上 より研究 され し体操 のあるあ り又解剖上 よ り
,
」「小学校児童 に
暴 に流 るるか知れんが,決 して左様の ことがない」 とい
云へば撃剣 は児童 に適す るものに非ず
うものである。提案者か らは 「
全国では幾 らも武術を教
課す るに付 き医師の説 を聞かざりしか」 とい った医学,
科 の- として課 して居 る所がある,当分の内に遊戯の一
生理学上の点を問題 とす るにとどまり,採決 の結果 は反
部 を して体操の時間をさいて,遣 らせ るより致方がない
対少数で可決 され遊戯 の一部 として指導 されてい くこと
が,往々は正科 と」 し 「
本会で可決 になれは会長 より文
になった。
部大臣に建議 して実行を期す る」考えが出された。 これ
1
年1
0月に県知事 に赴任 し教育会会長 に も就任 し
明治4
への賛成意見 として 「
此問題 は至極同意な り, 日露戦役
た森正隆は,教育 と勧業 に対 して極 めて積極的な政策を
に於て撃剣の心得 ある者 は総ての点 に於て他に異 なる所
数多 く行 った。 とりわけ日露戦争後 の社会風紀 の乱れに
があ り頗 る成績が良好 な りと聞 く,軍事教育を補助す る
対 して武術の奨励を熱心 に取 り組んだ。 とりわけ訓育 に
上 に於て,是非此-科 を加ふ ることを望む」 とい うもの
関 して は 「
近来社会風紀の顎敗 より勤勉力行の美風頼れ
であるのに対 し,次のよ うな反対意見 が出 され た。 「児
て遊惰潤逸 に流れ進取協同の気象表へて徒 に固幡濁所の
童体力 に及 ぼす関係其他研究 を要す る点が多いので軽忽
弊 に陥 り正義節制の観念薄 らきて廉恥礼譲 の良習漸 く将
に決定すへ き問題でないゆえ,宿題 として来年の総会 ま
」
に消磨せん とす る等遺憾 の点甚 た少か らす是れ社界風紀
児童 の年齢身体 の発育上 よ
で会員 に預 けて貰 ひたい 「
の顎敗 に依 るとは云へ華美訓練其の宜 しきを得 さるの致
り見て果た して害 なきや否 は未だ研究を欠いて居 るので,
す所 と云 はさるへか らす特 に我国徳育の根本義 たる 『
忠
遊戯 として体操科 の一部 として便宜之れを遣 ることは兎
孝』の事如 きす ら時 として児童 の心 に確全然樹立す るや
も角 も法令を改正 して正科 に加ふ ることは軽忽に失す る
否や頗 る疑問あるものを見 るに至 りて転 た心 に堰へ さる
「
撃剣の身体 に利益を輿 ふ るは認 めて居 る
の嫌 ひあ り」
「
武を以て鳴れる我国 も近来漸 く文弱 に流 れ
ものあ り」
が,中学以上 には無論であるが,小学 に之を課す るは如
尚武の心 日に薄 く悠柔 の風年 と共 に最先せん とす是れ教
何かの疑 な きにあ らず
育か一般 に文 に流れた る結果 に して之 を救ふ には武術 を
」「只今の戦争 は智誠 の戦争 で あ
るか ら剣術 の心得があるもなきに勝 るか も知れんが,正
以てせ さるへか らす況んや風紀額敗の今日に於いてをや」
科 に加ふ る程の必要 を見す,況んや志気を養成す るには
そのためには,学校外で も 「
文事 と共 に武術 (
撃剣,莱
他 に幾 らも途 あ りと思 う」。その後 の提案者 の補足 に も
術,弓術,長刀,水泳 など)を奨励」 し 「
文武不殊」 の
かかわ らず, この総会 の議論では採決 の結果大差で 「
宿
実現 のために 「
演武場 の設立」 を し学校 にも付設 し 「
武
題 とす る説」 に決定 している。
術を正科の内に加え」 さらに学校外で も 「
青年 は勿論其
正課 とす ることでは提案者 も認めているように指導者
の以外の もの と雛 も廉 く武術の講究を奨励」 され るべ き
や経済的な問題の解決 は容易で はないが, ほとん どの会
である, と訓示を示 した3
0
)
。 この後秋 田で は,「忠孝惟
員 は武術の価値や必要性を認 めているので この議題が廃
-」「文武不殊」 そ して 「教育産業一致」 が教育 の三大
案ではな く継続審議 とされ,全国的な武術正課採用への
方針 とな ってい く。 さ らに森 は愛,勇,敬の三綱 と忠勤,
運動 と文部省,議会 の対応 さ らには 「
体操遊戯取調委員
実勉,進節,取制,共正,同義 を 6日として教育訓練細
会」 の報告 などを注視 しなが ら時期を待つ とい うもので
目として示 している。
9
年 の体操遊戯取詞委員会での武道の 「
正課
ある。明治3
3
年の教育会総会で 「
小学校 に撃剣を普及せ しむ
明治4
採用」 に関す る委員会修正案 の可決を受 けて,秋田中学
る方法」 として 「
撃剣教授 に適当なるものを代用教員 と
9
年,師範学校,大館中学 は4
1
年,横手中学 は4
4
は明治3
して任用す るの道 を開 くこと」が提案 されているが多 く
年 に撃剣,柔術 を随意科か ら正科 に変更 してい く。 これ
の反対意見 に もかかわ らず森会長 は 「
法規の上 に之 を許
により校内の武術大会や他校 との対校戦がます ます盛ん
さざる問題なるも其の精神 はよ く了解せ りに預か りとす
にや ってい く。
)
。 このよ うに秋 田県 で は
べ し」 と保留扱 いとしている31
1
年 の教育会総会で 「
高等小学校 に撃剣を加ふ る
明治4
事」が提案 されている2
9
)
。提案者 は 「
小学校の児童 を集
学校 に限 らず地域 において も武術,武道 の奨励が県 の施
政方針 として進め られてい った。
め撃剣をなさ しむるは気質 の鍛錬上云ふべか らざる面 白
-7
0-
Akita University
森田 :明治期秋 田県 における武道 の奨励 について
第 3回大会成績
4.全県中等学校武術大会の推移
1
年1
0
全県の武道 に対す る関心の高 まりを受 け,明治4
剣
県内の中等学校 はこの大会を最大の目標 として,校内の
武術大会,他校 との交流試合を行 ってい く。各学校の選
5
階級 に分 け,各階級
手 を力量 に応 じて,撃剣,柔道各 1
ごとに競技が行われた。参加校および結果は表の通 りで,
勝利か ら敗戦を差 し引いた得点方式で,撃剣は師範学校,
柔道 は大館中学が優勝 している。「来賓参観人多針 の具
勝
負
柔
道
師範学校
4
4 1 秋 田中学
横手中学
3
4 0 師範学校
秋 田中学
1
7 5 大館中学
大館中学
1
71
5 横手中学
本荘中学
62
2 工業学校
工業学校
43
4
農業学校
04
5
勝
負 引分
8 8 9 9 4
教育会主催で秋 田市 の武徳殿で開催 された3
2
)
。 これ以後
道
4
3 5 8 1
1 、リ
」
7
1H8 0
H
HH 5
H
HH
月1
7日,撃剣,柔道 の第 1回県立学校武術大会が秋 田県
体化数 に して会場 は立錐 の余地 な く競技者 も平素鍛錬 の
精神 と体力技術 を以て勇壮活発 に試合をな し観 るものを
明治4
4
年 7月,中学校令施行規則が改正 され第1
3
条で
して大 に志気を興奮せ しめた り」 と大会 は盛会な もの と
「
体操 は教練及体操を授 くべ し又撃 剣及 柔術 を加 ふ るこ
な っている。
とを得」 とされ,法令上 は随意科であ って も正課 として
実施 されることが可能 にな り,前述 したよ うにほとんど
第 1回参加校 と参加選手数
学 校 名
撃
剣
5
5 3 =
5 0
日
H=
5 1
5 8 1
5 1
5
1
師範学校
秋 口中学
横手中学
大館中学
工業学校
の中学校が正課 に加えた。
柔 道
4
年1
0
月1
7日に開催 され,
大雨 の中午前
第 4回大会 は4
5時には参観者が集 まり始 め 6時 にはすでに満席の状態
とな った。秋田市武徳殿 に知事,内務部長,事務官,各
県立学校長,市中学校長 の観戦す るなか午前 7時半 よ り
1
2
組,柔道 は1
5
0
組の取 り組みが行なわれた3
5
)
。
剣道 は2
第 4回大会成績
第 1回大会成績
剣
勝
負
柔
道
4
0 7 大館中学
秋 田中学
2
82
2 秋 田中学
横手中学
2
72
1 師範学校
大館中学
52
5 横手中学
工業学校
1
1 0
・I 7
l 7
1
1
ハ
ソ
J8
l 1
1
15
師範学校
1
23
7
道
勝
負
柔
道
横手中学
4
4 8 師範学校
師範学校
4
21
6 秋 田中学
秋田中学
3
12
2 横手中学
本荘中学
1
93
3 大館中学
工業学校
1
63
8 工業学校
大館中学
1
43
6 本荘中学
農業学校
1
02
2
勝
負
1 6 9 1
7 1
9 2
6
1 8 2
2 2
0 1
5 1
2
撃
剣
(
なお農業学校の選手は他校の半分)
第 2回大会 は,明治4
2
年1
0
月1
6日か ら弥高神社創建 の
7日の武徳会秋
ための秋 田県教育会臨時総会が開催 され1
第 5回大会 は大正元年 1
9
月2
0日,会場を秋 田県公会堂
8日に撃剣 と柔道の試合が行われ
田支部 の演武大会の後 1
に移 し開催 される。晴天 に も恵 まれ,午前 3時 には参観
た。参加校 は第 1回 と同 じで,撃剣,柔道 とも秋 田中学
者が集 まり始 め,各小学校の参観者だけで数百名にのぼ
が優勝 している。試合 の詳細な結果 は不明であるが,秩
り,知事,内務部長,警務長,事務官,各学校長,軍隊
田市以外の学校 に補助金が交付 されている3
3
)
。
将校,市中学校長 らが観戦す るなか午前 7時半 より開始
3
年1
0
月1
6日に秋 田市武徳殿 におい
第 3回大会 は,翌4
された。今大会では 「
賞奨の為両道 の優勝旗 を得たる選
て内務部長,警察部,第二大隊,憲兵分隊のほか各県立
手一同には銀牌,両道一番組中の優勝一名つつ に銀牌其
学校長,市中学校長 らの来賓 を迎え柔道,剣道の試合が
他の各番組中優勝者一名っっには鋼牌を授輿」 され るこ
行われ,番外 として女子師範学校,女子技芸学校の選手
とにな りさらに剣道 の 「
最優勝者 に賞輿 の希望 を以て刀
の薙刀試合が行われている。後述す る森知事 の 「
武術奨
5
2
組,柔道 は1
4
7
組の
一本」が与え られている。剣道 は2
5
0組, 柔道
励規定」が制定 された こともあ り,剣道 は1
対戦が行われ,柔剣道共 に師範学校の優勝が決 まってい
0
組 の対戦が行われ る盛況をみせている3
4
)
0
は7
る3
6
)
0
- 71-
Akita University
秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第5
8
集
第 5回大会成績
剣
道
勝
負
柔
の向上,武道理念の具現化をめざ した ものだ と言え る。
道
勝
負
師範学校
5
1 1
3 師範学校
2
9 3
横手中学
4
4 1
3 秋田中学
2
11
3
秋 田中学
3
9 2
1 大館中学
1
8 1
0
大館中学
3
4 2
6 横手中学
1
6 8
本荘中学
2
3 3
8 工業学校
1
22
0
6.おわ りに
明治,大正期の文部省の武道への対応 と明治期の秋田
県 における武道の普及,奨励の経過を概観 して以下 のよ
うにまとめることがで きる。
7
年 に体操伝習所が答申 した武道 の学校体育
1.明治 1
教材否定論 はその後,明治,大正期 におおむね支持 され,
武道 は教科外での実施を余儀な くされてい く。兵式体操
へ は積極的な文部省の武道への消極的意向 は,初代文相
森有礼 の西欧式軍制への強い傾倒 と武道,武術指導 の不
武術大会 は森知事兼教育会会長 の 「
文武不殊」の教育
合理性への不信であろう。
2.陸軍 も武道の精神的な価値を評価 しなが らも,正
方針 と武術 の積極的な奨励策そ して文部省の法規上 の改
正 さらには時流 にのって大正期 には隆盛を極めることに
課採用よりも兵式体操,教練 のなかでの活用を優先 させ,
なる。大正期 にはいると各中等学校が主催す る武道大会
社会全般での幅広い普及を期待 しているように思われる。
3
年秋田県
も開催 されてい く。 この全県武術大会 は大正1
3.秋 田県 の師範学校,秋田中学で は体操伝習所へ諮
教育会の解散 にともない,大 日本武徳会秋田支部が主催
6
年以前 よ り随意科 として撃剣,柔術
問される前,明治1
8
年 まで続 けられた。
とな り,昭和 1
0
年代以降 に創設 され る学校
など武道の指導 を し,明治3
では設立当初か ら指導 されてい っている。
4.秋 田県の中等学校で は,専任 による課外指導 によ
5.武術奨励規程の制定
3
年1
0月,秋 田県訓示第3
0
5
号 と して森知事 よ り
明治4
り校内の武道大会のみな らず他校 との交流戦,対校戦 さ
)
。 その 目的 は第 1条 に
「
武術奨励規程」が公布 された37
らには地域を含んでの活動が行われていった。そのため
ある 「
武術奨励の為等級 を設 け免許状を附興す其 の成績
中等学校の校友会の設立 の際には, どの学校 も武道関連
6
条
優秀 の者 には特 に賞 を輿ふ」 とい うものである。全 1
の部が設 け られた。秋 田県各地 の武道場の種 目,会員数
か らなるこの規程 は森知事が積極的に展開 して きた,武
にも武道が武術,武芸 として身近で関心の高いものであっ
術奨励 による 「
社会風幕
己の乱れ」 の是正 と 「
忠孝惟-」
た ことが現れている。
5.明治4
1
年か ら実施 された県立学校武術大会 は,秩
「
文武不殊」 とい う教育方針を広 く社会全般 に普及 させ
4
年 には武
よ うとした施策 の一端である。 その後,明治4
田県,秋田教育会が時勢 に応 じて取 り組んだ行事であり,
術 に比べ価値が低 いとして 「ベースボールとテニスの対
明治期か らの県内での武道奨励 の大 きな原動力 とな った
5
年 には 「スキーと相撲
外試合禁止」の通達を出 し,翌4
と見 られる。 さらに森知事の 「
武術奨励規程」を初 め と
の奨励」 の県令を公布 してい った。
す る,積極的な一連 の武道奨励策 は学校のみな らず,地
剣術,柔術,弓術,長刀,槍及銃槍のそれぞれを等級
に区分 し3
8
)
, その等級 を表示す るために 「
剣術 および長
刀,檎,銃槍 は胴及面紐
」「柔術 は帯」「弓術 は弓」を色
域社会への大 きな刺激 となって武道の普及を促進 していっ
た。
」
技術優秀なること」
分 け指定 した。「
操行善良 なること 「
註および引用
が認 め られ ると師範格,師範代格の免許が与え られ,競
8
年 大修館 2
6
2
7
頁
1
)井上一男 :学校体育制度史 昭和4
技会 の審判 さらに警察官署,県立,公立,私立学校の師
2
) 岸野雄三,竹之下休蔵 :
近代日本学校体育史 昭和5
8
年
頁
日本図書センター 11
範 となることがで きた。等級 の免許状 は審査会で技術,
操行 の審査で判定 され る。 さ らに毎年の武術大会の時に
3
)今村嘉雄 :日本体育史 昭和4
5
年 不味堂 3
4
5
貢
進級 の審査が実施 され る。学校の生徒 には,武術奨励の
4
)戸田金一 :秋田県教育史 近代学校設立編 1
9
7
6
年 みし
3
9
頁
ま書房 1
ために学校長 による内許 が認 めれた。そ して武術 に関 し
て功労があ った者 は表彰 を受 け,成績優秀な者 は氏名,
5)岸野雄三,竹之下休蔵 :
前掲書
等級 を武徳殿 に掲示 され表彰 され ることになる。
6
)今村嘉雄 :前掲書 3
4
7
亘
詳純 な等級区分 と色別表示,各種の表彰 さらには師範
としての実益 を も含めた この規程 は,競技性を全面 に出
1
6
頁
7
)岸野雄三,竹之下休蔵 :前掲書 1
6
貢
8
)小沢卯之助 :武術体操法 明治3
0
年 (
岸野雄三監修 :近代
しなが らも伝統的な階級家元制 に基づいて,各武道の奨
励 による技能 の向上のみな らず,武道 に伴 う精神的資質
-7
21
3
巻)
体育文献集成 第1
小沢卯之助 :薙刀体操法 明治3
6
年 (
岸野雄三監修 :近代
Akita University
森田 :明治期秋田県における武道の奨励について
2
5
)横手高校百周年記念史編纂委員会編 :前掲書 6
4
貢
第1
4
巻)
体育文献集成
明治4
2
年 (
岸野雄三監修 :近代体
中島賢三 :木剣体操法
育文献集成
2
6
)秋田県教育会 :秋田市における演武場 秋田県教育雑誌
第7
5
号
4
巻)
第1
9) 井口あ くり他 :髄育之理論 と実際付録
鰻操遊戯取調報告
明治3
9
年 3
9
頁 (
岸野雄三監修 :近代体育文献集成
明治3
1
年
1
1
頁
2
7)秋田県教育会編 :本県管内武術団体および管内武徳会員数
第5
詞
秋田県教育雑誌 第1
1
5
号
明治3
5
年
6
9
7
0
頁
2
8
)秋田県教育全編 .
・前掲誌 第1
6
3
号 明治3
8
年 2
5
2
7
頁
巻)
2
9
)秋田県教育会編 :前掲誌 第2
0
2
号 明治4
1
年 4
4
4
5
貢
1
0
)井上一男 :前掲書 7
7
貢
2
9
2
頁
l
l
)井上一男 :前掲書
3
0
)秋田県教育全編 :教育 に関す る森知事 の訓示
明治4
2
年
1
2
)井上一男 :前掲書 3
3
9
頁
第2
1
5
号
1
7
貢
1
3
)今村嘉雄 :前掲書 3
6
2
3
6
4
頁
3
1
)秋田県教育会編 :前掲誌 第2
2
7
号 明治4
3
年 7
8
貢
1
4
)秋田高校剣道部百年史編纂委員全編 :剣道百年史 昭和6
0
3
2
)秋田県教育全編 :前掲誌
5
0
頁
年
第2
01号
明治 4
1
年
1頁, 第
2
0
6
号 同年 5
1
5
3
頁
『
秋高百年史』編纂委員会編 :秋高百年史 昭和4
8
年
1
1
3
3
)各学校 に支給 された補助金 は以下のようである。
第 2回大会
頁
第 3回大会
(また詳細 は不明であるが,明治 1
6
年 5月文部省が 「
撃剣
大館中学
2
0円
1
9円
柔術の教育上 に於 ける利害適否」の調査を伝習所に諮問 した
横手中学
1
5円
1
4円
件 につ き,文部省が同年 6月 5日秋田病院への照会がなされ
本荘中学
1
5
円
1
0円
ている。秋田県剣道連盟編 :秋田県剣道史
平成 5年
1
2
2
頁)
(
秋田県教育会編 :前掲誌
1
6
)武道の練習が強制的にな り,理由な く練習を休んだ者には,
治4
3
年
5
0
-
治4
4
年
1
7)撃剣の試合で県外 との対抗試合 として, これが最初である。
第2
3
0
号
明
第2
4
2
号
明
3
8
4
0
頁
3
6
) 「剣道の優勝旗を受たる選手 1
2
名には銀牌- けつつ柔道の
1
4
頁)
優勝旗を受たる選手7
名にも銀牌-けつつ両道 の一番組 の優
1
8
)秋田高校剣道部百年史編纂委員全編 :前掲書 5
1
5
2
頁
『
秋高百年史』編纂委員会編 :前掲書
1
0
貢,莱
5
3
5
5
頁
3
5
)秋田県教育会 :武術大会挙行状況 前掲誌
貢)
5
1
(
百年史編纂委員会編 :前掲書
明治4
2
年
3
4
)秋田県教育会 :武術大会挙行状況 前掲誌
制裁 として放課後の外出禁止の罰則が課せ られた。 (
秋 田高
昭和 6
0年
第2
1
9
号
2
3
0
号 同年 2
亘)
1
5
)秋田師範学校編 :創立6
0
年 昭和 8年 7
5
7
頁
校剣道部百年史編纂委員全編 :剣道百年史
7円
農業学校
勝者一名宛に銀牌- け苑地の番組中は優勝者剣道11
名柔道 7
7
7
頁
名 (
柔道 7番組 には同等 なる優勝者 2名あ り故に 7名 となる)
1
9
)ボー トの選手 は大 日本武徳会主催の琵琶湖 (
美保 ケ崎)ボー
に銅牌- けつつ」がそれぞれ授与 された。 (
秋 田県教育 会 :
ト競漕大会に参加 している。明治3
6
年 (
第 2回大会)には秋
武術大会挙行状況 前掲誌
第2
5
4
号
大正元年
4
2
4
5
頁)
3
7)秋田県教育委員会編 :秋田県教育史 第 2巻 昭和5
7
年
田県師範学校 も参加 して い る (
秋 田師範学校編 :前掲書
1
6
3
1
6
6
亘
5
6
6
5
6
7
貢)
。 なお秋田中学の年度別の参加選手 は以下のよ う
3
8
)剣術,長刀,銃槍の階級 は 7階級で 1級か ら 6級 はさらに
である。
明治3
4
年 撃剣 3名
上中下の 3階級 に分け られる。初心者 は等級外 として 7級か
引率 1名
明治3
5
年
撃剣 7名
ボー ト8名
引率 1名
明治3
6
年
撃剣 5名
ポー ト2組 1
6
名
ら 1級に進む。1
5
歳未満の少年 は 5級 とし, 1級 はさらに甲
引率 1名
乙丙に区分す る。少年初心者 は等級外 として 5級 よ り 1級 に
2
0
)百年史編纂委員会編 :前掲書 5
0
頁
進む。1
5
歳 に遷 したときにはその成績 により,全校 の相当階
21
)大館鳳鳴九十年史編纂委員会編 :大館鳳鳴九十年史 昭和
級 に編集 させる。
6
3
年 2
2
2
3
頁
柔術は初段より1
0段 とし,段の下に 5級を設 け,初心者 は
2
2
)大館鳳鳴九十年史編纂委員全編 :前掲書 2
4
2
5
頁
等級外 として 5級 より始 める。1
7
歳未満の少年 は別 に 5級を
2
3
)秋田県教育会編 :中師両校の武術現況 秋田県教育雑誌
設 け,初心者 は等級外 として 5級か ら 1級に進む。1
7
歳 に遷
第1
1
5
号
明治3
5
年
71
頁
したときには,剣術 と同 じ扱いとす る。
2
4
)横手高校百周年記念史編纂委員全編 :横手高等学校百年史
平成 1
0
年
6
2
6
3
頁
弓術 は 7級 に分 け,初心者 は等級外 として 7級 よ り1級 に
すすむ。(
秋田県教育委員会編 :前掲書
-7
3-
1
6
3
頁)